2008年03月11日

◆マルクスに染まらず

渡部亮次郎

1954(昭和29)年4月に法政大学へ入ったら、大内兵衛総長が「新聞は朝日、雑誌は世界を読むように」と訓示があった。これは入るべき大学を間違えたと思った。

なるほど次の日からの講義のすべてがマルクスに終始した。これは駄目だと秋田に帰った。しかし、両親は社会党員だから話が通じない。とにかく隣近所への見栄えもある、来年、違う大学を受けなおすと言っても経済的余裕が無い、と言われて泣く泣く戻った。

田舎では犬は自分の食う分の重さを背負えない、と爺さんに教え込まれたが、マルクスは人間は自分が食う以上のものを稼ぐ。雇った資本家はその稼ぎの余剰分を搾取する、と教える。

しかし人間は欲に駆られて生きて行く動物である。稼ぎに追いつく貧乏無しと言うじゃないか。生きている限り働くのが人間の務めと教えられて育った。オレはマルクスは止めた。

だから法政大学の4年間は参考書らしきものを図書館か下宿で読んで過ごした。小説はあまり読まなかった。夜になると焼酎を飲んだ。私鉄駅のガード下で。

マルクスの「資本論」は政治や経済の教科書ではない。あれはお経だ。信ずる奴は騙されるが、信じない奴にとっては端(はな)から聞く耳を持たない。だからソビエトのように1度は騙されても70年ぐらいしか保(も)たない。予想通りだった。

社会党に在って小作人の僻み根性の代表だった佐々木更三から仇敵のように疎まれた江田三郎。彼は「構造改革論」の主張者として歴史に残る。参院議長江田五月の父親である。記者時代、1年だけ担当した。

1960年総選挙のころから、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようという穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程があいまいであった平和革命論を補強しようというものであった。

しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田と彼を取り巻く、若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱えるようになった。

1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として

アメリカの平均した生活水準の高さ
ソ連の徹底した生活保障
イギリスの議会制民主主義
日本国憲法の平和主義

をあげ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした。いわゆる江田ビジョンである。これが新聞報道されると、話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの話をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。

しかし、社会党内では、従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判され、江田は書記長を辞任して、組織局長に転じた。

この中で江田ビジョンですら「徹底した生活保障」としてソ連を目標の一つとしたが、ソ連は1991年12月25日に大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は解体され消滅した。

ソ連による「壮大な実験」が失敗した事により日本社会党もほぼ消滅したではないか。

私の父は秋田県で若いときから小作争議の先頭に立ち、戦前から社会主義者だったらしい。従って戦後は率先して日本社会党員として奔走していた。母も同調していた。

しかし私は社会党が農民の暮らしを楽にする政党と言うなら村中が党員になるはずなのに、投票すらしない。社会党の主張は何時まで立っても実現しない、これは宗教団体に過ぎないと反発した。

それでも大学では労働運動史や賃金論を一所懸命学んだが、ついに運動に走らずに済んだ。卒業が1958年だったので「60年安保」に巻き込まれることも無く済んだ。既にNHK仙台で働いていた。

しかし、人生の終盤に至って考えれば、要するに私は人に説得されない性格のようであって、先輩や周辺も初めから匙を投げていたのかもしれない。

併せて父母や法政大学が反面教師になってくれて助かったのかもしれない。2008・03・09

2008年03月10日

◆東京大空襲がきょう

渡部亮次郎

「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20
年)3月 10日に行われた空襲を指す。大東亜戦争に行われた空襲の中でも
とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。

当時はTVが無い。新聞も極小さかった。小学校(国民学校)4年生。東京
なんて知らないから、そこで何万人も死んだなんて全く知らないで育っ
た。やがて空襲は秋田にもやってきて敗戦となった。

空襲を行ったB-29戦略爆撃機3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需
産業の生産拠点となっているとして、市街地と市民そのものを攻撃対象
に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第
313、第314の3個航空団が投入された。

1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29
爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川
地区へ初弾が投下された。

深川の三業地と芸者衆が全滅した。その後、城東(江東区)地区にも爆
撃が開始された。午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。
火災の煙は高度7000mまで達し、秒速20mと台風並みの烈風が吹き荒れた。

東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、殆どの機銃と弾薬
を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。

投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46を
中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、
投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。

当夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いており、この強風が以下
の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉出来ず空
襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の3月10日午前
0時15分)。

「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先
行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して
閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して
発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。

狙い撃ちの攻撃で、着弾は高高度爆撃よりはるかに精密になった。後続
編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲
を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下
予定地域ではない荒川周辺まで広げた。このため、火災範囲は更に拡が
った。

折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。

東京近郊の飛行場に配備されていた夜間戦闘機隊が迎撃に向かったが、
猛火による猛烈な上昇気流と煙により迎撃は困難を極めた。やがて火災
の煙と灰で各飛行場は離陸が困難になった。

これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人以上とも言わ
れる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上
の面積(約40平方キロメートル)が焼失した。

焦土と化した東京の下町。この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的に
した物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収され
た物を参考に開発された。

当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発ま
たは0.02〜0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを
破壊力の主軸にしている。

しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。
そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、こ
れが木造を主とする日本家屋を直撃した。

火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の
学校などに避難した人もいたが、火災の規模があまりにも大きいため、
火災旋風が至る所で発生し、建物に炎が滝のように流れ込み、焼死する
人や、炎に酸素を奪われ窒息死する人も多かった。

また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅
田川は凍死・溺死者で川面が溢れていた。逆に、東武伊勢崎線沿いに内
陸の春日部・草加方面へ脱出し生存した例が散見される。

3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本
の戦争継続の気力を削ぐため、あえてこの記念日が選ばれたと言われて
いる。

3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。

3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に次いで被害の
大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていな
かった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万
戸の被害となった。

3月―5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の
立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各
地方都市に向けられていく。

1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によりはじめられ
た本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイ
ント攻撃であったが、思わしい効果が上がらなかったため、翌年の1945
年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。

「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的
だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けたルメイは、大規
模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりの
リスクを背負っていた。それは、

(1)燃料節約のためB29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コー
スを外れる危険性があった。

(2)低高度(高度7千〜8千フィート)からの焼夷弾を投下する。日本上空
の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的
になりやすい。

(3)爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾の搭載量を
増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というもので、猛将とよばれたルメイも一睡もせずに攻撃隊の返事を待
っていたという。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想
できぬ。」「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのであ
る」とルメイ自身証言している。

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各
地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。

建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間
人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強
い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を
放棄している。

戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別
爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、航空自衛隊の育成に貢献
したとの理由で勲一等旭日章を授与した。

近年では、戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと言う批判の
声もあるが、真珠湾空襲に大きく関わった源田実は当時この勲章授与を
賞賛した。

しかしルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁
かれていた」と述べている。ルメイの前任者ヘイウッド・ハンセル少将
は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。

無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であっ
たと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・ニミッ
ツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている。

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わ
せて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10
日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大
震災及び東京大空襲についての展示がある。

東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的
として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連
の空襲による正確な犠牲者数は不明である。

東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念
する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名
簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。

東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受けたが、空襲
を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命
館や明治生命館などがあった為と言う。

築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国
際病院があったからだとも言われる。

中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋
が残っている。3月10日の下町空襲で甚大な被害を受けた旧・深川区(現
在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。

ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近
も空襲は受けていない。

神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定か
ではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあ
るが、米軍はドレスデン爆撃など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで)
行っていることから信憑性は高くない。

皇居は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿
(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄
宮内大臣が責任を取って辞任している。

3月10日、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。

<後の戦犯裁判で、B29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資(たす
く)中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が、
今月1日から全国で公開されている。

リーダーのあり方や無差別爆撃の非人道性を問うた作品だ。戦争体験者
らにまじって若い観客も目立ち、関心の高さをうかがわせる。米国の国
際映画祭でも上映され、拍手が鳴りやまなかったという。

日本と米国の特に若い人たちに、無差別爆撃の戦争責任について、改め
て問い直し、検証してほしい。>産経新聞「主張」2008・3・9」

太田仲三郎    実業家。3月の空襲で死去。
立花家扇遊    芸人。3月の空襲で死去。
豊嶌雅男     力士。3月の空襲で死去。
古屋慶隆     政治家。3月の空襲で死去。
枩浦潟達也    力士。3月の空襲で行方不明。
吉村操      映画監督・脚本家。3月の空襲で死去。

石井菊次郎    元外交官・外務大臣。5月の空襲で行方不明。
織田萬      法学者。5月の空襲で死去。
4代目柳家枝太郎 落語家。5月の空襲で死去。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・03・09


2008年03月09日

◆翌檜とは残酷な

                  渡部亮次郎

ある総理大臣が不能になった衆院議長を「マシュマロ君」と呼んだのは
冗談にしても失礼だが、江東区が精神薄弱者の作業所に翌檜(あすなろ)
と名づけたのは残酷すぎないか。

明日は檜になろうとしても絶対なれないのが翌檜(あすなろ)の意味。さ
も希望があるように見せるのはどうか。我々は根拠も無く明日に希望を
見出そうとするが、翌檜に明日は絶対無いのだ。だから残酷だと言うの
だ。

広辞苑によると「翌檜 (「明日は檜になろう」の意)ヒノキ科の常緑
高木。5月ごろ花を開く。果実は楕円形の球果。材は建築材、船材、枕木
など。木曾の五木の一つ。別名ひば、しろび、あて、あすひ、あすはひ
のき。

翌檜は実は東北地方の木である。つまり東北には檜は生えない。檜より
価値において低い翌檜しかない。正確ではないが能登半島以北には翌檜(
ヒバ)しか生えないと聞いたことがある。

<アスナロ(明日檜:翌檜) False Arborvitae ヒノキ科の常緑高木の1
種。山地の尾根筋などの乾燥地や、湿地の周辺などに生え、乾湿両極端
の環境に適応し、日陰にも強い。

アスヒ、オニヒノキ、オニヒバともよばれる。和名のアスナロは、「枕
草子」にもみられるように「明日はヒノキになろう」という意味だと俗
にいわれるが、その名の由来は、ヒノキに比較して葉が厚いという意味
で、アツバヒノキとよばれ、それが「明日はヒノキ」→「明日はヒノキ
になろう」→「明日なろ」と転じたものともいわれる。

日本の固有種で、本州および四国、九州に分布する。

木材は水湿に強く、腐りにくい。木目は美しいが、特有の精油成分によ
る異臭が一般には好まれない。建築や土木、家具、船舶、車両、桶(おけ)
などに用いられる。木曽地方では、ヒノキやサワラ、クロベ、コウヤマ
キなどと共に「木曽の五木」のひとつに数えられる。

アスナロの変種であるヒノキアスナロは、ヒバともよばれ、球果がやや
まるく、北海道の渡島半島以南、本州北部に分布する。青森県の下北半
島、津軽半島にはヒノキアスナロの純林があり、秋田のスギ林、木曽の
ヒノキ林とともに日本三大美林の一つに数えられる。>

1936年生まれの私が「あすなろ」という名に初めて接したのは井上靖の
小説「あすなろ物語」であるが、それが「ひば」のことだとは知らなかっ
た。

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2008年03月07日

◆展望なき小沢戦略

渡部亮次郎

前から言っているように、少なくとも戦後政治史上、国会で審議を拒否した野党が、次の場面で政権を取った例は皆無である。

<審議拒否継続、民主党内から異論も

民主党の簗瀬参院国会対策委員長は、鴻池予算委員長が5日も職権で委員会を開会しようとしたことを批判し、与党側の謝罪がなければ審議拒否を続ける考えを示しましたが、党内からは、異論も出始めています。

3月5日に行われた民主、共産、社民の野党3党の参院国対委員長会談で、共産党の井上国対委員長は、民主党に対し「参議院では民主党が過半数を持っているのだから、早期の審議入りに対する努力をするべきではないか」と注文をつけました。

午前に開かれた民主党の参議院議員総会でも、出席者から「審議拒否を続けるのは世論に支持されない」「議論の場で政府・与党を追及するのが筋ではないか」といった意見が出されるなど、審議拒否を続ける民主党執行部の方針に、党内から異論も出始めています>TBSニュース(05日15:30)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に披露された野党の審議拒否批判。以下の通り。

<近年では審議拒否は反対論が多くなってきている。昔は審議拒否をすることで、メディアから注目され重要議題という世間の注目が集まる効果もあった。

だが、近年では重要議題は審議拒否如何に拘わらずメディアで注目されていることから、審議拒否の意味が低下している。「怠け得」という批判も多い。

国会を1日開くのに2億円かかるといわれてるため1週間も拒否をし続けると10億を超える税金の損害を発生させるため、近年では与党よりも野党に矛先が向くことがある>。

政治の素人が大分部分の有権者にとって、審議拒否は職務怠慢という理屈が最も分かりやすいから、民主党の審議拒否継続に合わせて民主党に対する批判は日増しに高まる。これは自明の理だ。

<自民、公明の与党側は「焦りを強めている」といった報道もあるが、なに、焦ってなんかいない。民主党の「自滅」を待っているだけだ。

むしろ困っているのは民主党の方だろう。「起きる」ための仕掛けを今や自ら考えなくてはならないからだ。

与党側に「強行」採決を謝罪させ、道路特定財源問題で集中審議を約束させる、といったあたりで起きてくるのではないか。謝ってすむことなら、与党側はなんだってやる。謝罪文のひとつやふたつ、わけのないことだ。

まあ、この1週間がせいぜいだろう。いずれ、世論は野党側にきつく出てくる。いつまでも審議拒否を続けられるはずがない。>

これは「頂門の一針」(2008・3・6)に載った元産経新聞政治部長花岡信明氏の指摘。確か花岡氏は小沢氏とも親しいはずだが、残念ながら小沢氏の戦術に批判的といわざるを得ない。

それにしても小沢氏。野党に下っても、政権ぐらい、すぐ手中に出来ると踏んでの自民党脱党だったのだろうか。或いは竹下派内の野中広務氏らとの確執が堪えられないぐらい深刻だったのだろうか。

政策においても、国会対策においても、自民党のそれは1955年の発足以来、日に日に磨きを掛けてほぼ完成されたものだった。それを一夕にして弊履の如く棄てさせるほど新党結成の魅力があったとでも言うのだろうか。

しかも国会での無様振りには国会議員同士でさえ、飽き飽きしているようで、現在の政局から小沢的なもの、旧社会党的なもの、何よりも創価学会公明党的なものを徹底的に排除した超党派勢力結集の機運がこれで益々高まっている。

そうとあっては、一体小沢氏の戦略は何だったかと問われるだろう。
日米安保体制を身体を張って守ろうとした故小沢佐重喜氏。その遺志を継いで日本社会党と戦うために政治家になったはずの一郎氏が最近は日本社会党そっくりになったので、岩手在勤4年の経歴を持つわたしはがっかりしている。 2008・03・06

2008年03月06日

◆花粉症に戦(おのの)く

                  渡部亮次郎

数年前から花粉症になった。シーズンになると外出しようものなら鼻水
と涙が止まらない。目は痒くて堪らない。今年(2008)も3月入り。そろそ
ろかと戦いている。

花粉症は体内から寄生虫を撲滅しすぎたためとする説を唱え、自ら腸内
にサナダ虫を入れた教授がいる事は耳にしていたが、4日朝、ラジオ深夜
便に登場した。「皆さん」の放送局もアジなことをするじゃないか。

<藤田 紘一郎(ふじた こういちろう)、1939年生まれ医学博士。東京
医科歯科大学名誉教授。花粉症の原因を寄生虫を撲滅しすぎたためとす
る説を広めたことでも知られる。

自身の研究の一環として、自らの腸内で“きよみちゃん”と名付けた寄
生虫と共生している。人間総合科学大学教授。専門は、寄生虫学、感染
免疫学、熱帯医学。

中国東北部(旧満州)生まれ。感染免疫学・寄生虫学の視点から公衆衛
生についての執筆多数。特に寄生虫関連の一般書で広く知られるように
なった。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インターネットで追跡したら2004年4月18日に福井県職員会館101号室で
のご講演速記録に出合った。第22回「ちょっといって講座」での「人と回
虫とウイルスの深い仲」。ご好意に甘えて部分引用をさせて頂こう。

<アトピー、ぜんそく、花粉症は40年前にはなかった病気ですが、なぜ
今日こんなに増えてきたかです。

スギ花粉症になる日本人は5人に1人です。日本で初めてのスギ花粉症
の症例は1963(昭和38)年に出ました。日光のスギ並木は17世紀に植えら
れましたから、17世紀からスギ花粉は飛んでいるということです。

17世紀の日本人は回虫にかかり、いろんな細菌がいましたから、それが
アレルギーを抑えていたのです。ぜんそく、花粉症、アトピーは1950(昭
和25)年には全くなかった。それが1965(昭和40)年以降急激に増え出した。
1950年の回虫感染率は62%でした。回虫の感染率が5%を切った1965年
から増えだしたわけです。

35年前には奄美大島の住民の5%〜10%がフィラリア病にかかっていま
したが、われわれの研究で1978年フィラリア病は日本から完全になくな
ってしまいました。回虫などの寄生虫も同じように減ってきました。

その後インドネシア・カリマンタン島に調査に行きました。カリマンタ
ン島の子供たちは、うんこが流れている川で元気に水遊びをしているわ
けです。

私が、こんな汚いところで遊んでいると病気になるよというと、子供た
ちはうんこ・おしっこがなぜ汚いのかと聞き返すのです。

ところが、この子供たちの肌はつるつるしておりアトピーがない、ぜん
そくがない、花粉症がないのです。なぜアレルギー病がないのかという
のが私の生涯の研究テーマになりました。

50年前、私が小学生の頃はほとんど全員が回虫を持っていました。駆虫
のために、用務員室で海人草をグツグツと煮たものを飲まされました。
ものすごく苦いのです。

夜になると、肛門から回虫が出てくるのですがそれを引っ張り出して、
洗って学校へ持って行くのです。一番長いのは1等賞、数が多いのは最
多賞です。翌日は先生の机の上には回虫が山盛りになっていました。

しかし、誰も変には思っていませんでした。寄生虫は全員いるものだと
思っていました。そのころ杉鉄砲という遊びをしていました。竹筒に杉
の実を入れてパチンと打つわけです。

その実を取るときには全身花粉まみれになっていましたが、誰も花粉症
になっていませんでした。私は子供の頃の経験とインドネシアの調査か
ら回虫がアレルギーを抑えている!と思いました。

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2008年03月05日

◆「107」人が目指すもの

                  渡部亮次郎

「せんたく議連」超党派の107人で発足

<北川正恭・前三重県知事らが結成した「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(せんたく)と、これと連携する超党派の議員連盟「せんたく議員連合」の合同発足総会が3日、都内のホテルで開かれた。

議連には、自民(51人)、民主(47人)、公明(8人)、国民新(1人)各党の計107人が参加した。

議連の共同代表は、自民党の河村建夫・元文部科学相、民主党の野田佳彦・元国会対策委員長が務めるほか、自民党から園田博之政調会長代理、菅義偉選挙対策副委員長、民主党から岡田克也、前原誠司両副代表ら党幹部も加わった。

議連は、国会改革、地方分権、「霞が関」改革、地球環境問題の各テーマで分科会を設けて議論し、次期衆院選の各党政権公約(マニフェスト)に反映させていく考えだ。河村氏らは当面、国会改革を重点として、会期制の見直しなどを検討課題に位置づけた>。3月3日19時32分配信 読売新聞

顔ぶれを見ると、改革小泉支持者と小沢忌避者ばかりである。公明から入ったのは忍者であろう。果たしてこれが「新党」まで進むだろうか。新党が出来れば大変な人気を博するだろうが、身を捨てて奔走する「竜馬」が居ない。誰か立て!竜馬

自民党支持者では、票欲しさに創価学会・公明党の「たかり」に唯々諾々と応ずる自民党に相当強い不満が高まっている。特に連立重視の立場から国会対策上、公明党への譲歩続きだから福田首相への支持率低下はそれを裏付ける何物でもない。

一方、民主党の党運営について小沢路線への党内不満も高じている事は隠せない。小沢のピノキオが山岡国対委員長だが、硬直した自民党対決が、果たして来るべき衆院選挙での民主党勝利に結びつくとは限らない、との批判が燻っている。

判官贔屓というものがある。源義経を薄命な英雄として愛惜し、同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情と贔屓。日銀総裁人事への不同意をあからさまにする民主党に対しては財界だけでなくビジネスマン幹部からも自民党への「判官贔屓」が出ている。

去年の参院選挙。あれを民主党の勝利と見るか自民党の敗北と規定するか。私は自民党安倍坊ちゃん政治に対する地方住民、農村の拒否反応と見る。決して民主党歓迎ではない。二者択一だから民主党に入れただけである。

そう分析しない菅直人代表代行や鳩山幹事長は「反自民」の姿勢を強めることで次期衆院選挙でも勝利できると考え審議拒否という強行策をとっているが、これは大失敗に終わるはずだ。審議拒否をした野党が果実を手にした事は憲政史上あり得ない。

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2008年03月04日

◆黄砂、東日本まで飛散

                  渡部亮次郎

<砂漠域からの黄砂が、今年初めて九州を中心に観測され始め
た。3日には東日本にまで広がる見込みだ。気象庁は「西日本や沖縄・奄美地方では視程が5キロ未満になる所があり、交通への障害が発生する恐れがある」と注意を呼びかけている。

今年初めての黄砂は2日に長崎県内で観測され、3日には、熊本、福岡、鹿児島県内で観測された。見通しが5キロ未満になる
と車の運転や飛行機の運航に影響が出る恐れがあるという。

同庁は黄砂は3日には東北南部〜関東、北陸地方まで飛散するとみている。>アサヒ・コム 2008年03月03日10時17分

黄砂(こうさ)とは、東アジアや中央アジア内陸部の砂漠または乾燥地域の砂が、強風を伴う砂嵐などによって上空に巻き上げられ、主に春を中心に東アジアの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象のことである。降り注ぐ砂のことも「黄砂」と呼ぶ。

日本では江戸時代頃から、書物に「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの黄砂に関する記述が見られるようになった。

古くは、日本では少なくとも7万年前以降の最終氷期には黄砂が飛来していたと考えられている。このころ(7万年前〜6万年前)の黄砂の堆積量は、完新世(1万年前〜現在まで)の3〜4倍と、かなり多かったと推定されている。

主な発生地としては、西からタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠、黄土高原がある。国で言えば中国、モンゴルにあたる。このほか、カザフスタン東部など中央アジア諸国の砂漠・乾燥地域も発生源ではないかと見られている。

ただし、砂が舞い上がる条件が整えばどこでも発生しうると考えられており、必ずしも前述の場所が発生地とは限らない。実際に、アジアの広い地域で黄砂のような砂の舞い上がりが発生している。

これらの発生地域はおおむね年間降水量が500mmを割り、所によっては100mm以下という乾燥地帯となっている。そのため、地表が砂で覆われている地域では、風により簡単に砂が舞い上がってしまう。

強い風の場合、砂が地上付近から上空高くまで巻き上げられ、沙塵暴と呼ばれる激しい砂嵐となる。砂が巻き上げられる高さとして、上空7〜8kmという観測結果がある。

黄砂の年間発生量は2億〜3億tで、降下量は日本で1年間に1平方キロメートルあたり1〜5t、北京で1ヵ月間に1平方キロメートルあたり15t程度と推定されている。

時期としては、春に最も多く発生する。春になって高気圧の勢力が弱まるとともに、偏西風が強まり、低気圧が発達しながら通過するなどして風が強い日が増え、黄砂の発生も増えるためと考えられている。春の中盤に入り暖かくなってくると植物が増え、夏になると雨が多くなるため、次第に黄砂の量は減り、秋に最少となる。

黄砂の濃度が高い中国や韓国では、乗用車の速度規制が行われたり、マスク等の着用を奨励したり外出を控えるよう促す情報が出される。気候によっては冬場でも発生し、これが雪に混じると積雪が黄色く見えることもある。

大規模な黄砂が発生したときは、気象衛星などの画像に写り込むことがある。

これまでで最も大きな被害は、1993年5月5日に中国北西部(寧夏回族自治区、内モンゴルアラシャン盟、甘粛省)で発生した沙塵暴。

死者・行方不明者112人、負傷者386人、家畜・牛馬の死亡・行方不明約48万3千頭、4,600本の電柱が倒壊、被害を受けた耕地21万ha、森林被害18万ha、経済損失66億円のほか、多くの道路や鉄道が埋没するという大きな被害を出した。

中国の森林管理局によれば、黄砂の影響を受けている中国人は約4億人で、直接的な被害だけでも540億元(約840億円)に及ぶと言う。

韓国では2006年4月には2015μg/m3が観測され、空の便も韓国国内便6便が欠航している。

韓国政府の推定によれば、黄砂の諸影響による同国での経済損失は、年間およそ3兆〜5兆ウォンにも達するという。

日本では、気象庁により、黄砂とは大陸性の土壌粒子によって視程が10km以下になる現象と定義されている。夏以外に観測されるが、特に春先(3月から5月)によく観測される。

西日本や日本海側で観測されることが多い。山脈を隔てて東側となる東日本や太平洋側、内陸部では観測数は少ないが、時々観測されるようになった。

2000年から2002年の黄砂観測日数が50日前後となり、20日程度だった平年値を大幅に上回った。

日本で観測される黄砂は大気がかすみ、微量の砂が積もる程度で、大きな被害はほとんど報告されないが、健康被害は数多く報告されている。

遠くで観測された例では、アメリカ合衆国のハワイ州やカリフォルニア州などがある。黄砂の成分が、ハワイの森林や海洋のプランクトンの生育に関わっているのと研究結果もある。

北朝鮮やロシアの沿海州・樺太なども黄砂の通過ルートとなっていると考えられている。

中国では、BC1150年頃に「塵雨」と呼ばれていたことがわかっている。史料においてはこのほか、「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などの呼称があった。また、BC300年以後の黄砂の記録が残された書物もある。2008・03・03
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2008年03月02日

◆馬も食わない鈴蘭

                  渡部亮次郎

北国の春を彩る花は鈴蘭(すずらん)である。晩春、白色6弁の壷のよう小さな花。芳香を放ち香水の原料にもなるが、どっこい、この花は毒も強く、東北地方でも、放牧されて馬は巧みにこれを避ける。要するに「馬も食わない花」が鈴蘭。

東京都福祉保健局健康安全室によると、鈴蘭に入っている毒はコンバラトキシンなどで「鈴蘭を差した花ビンの水を飲んでも、中毒を起こすことがあります」とのこと。コンバラトキシンでは死ぬことがあるそうだ。

「ウイキペディア」によると、鈴蘭は強心配糖体のコンバラトキシンなどを含む有毒植物。有毒物質は全草に持つが、特に花や根に多く含まれる。

摂取した場合、嘔吐、頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などの中毒症状を起こし、重症の場合は死に至る。鈴蘭を活けた水を飲んでも中毒を起こすことがあり、これらを誤飲して死亡した例もある。

鈴蘭(ユリ科)。北海道や東北地方の高山に自生する多年草だが、各地の庭などに園芸用として栽培されている。東京・江東区内を散歩していても玄関前で鉢に植えて栽培している家庭を見る。

晩春から初夏にかけて花茎を出して穂状に花をつける。果実は球形の赤い液果だそうだが見たことは無い。

君影草(きみかげそう)の別名もある。花言葉は「幸福が訪れる」、「純潔」「純粋」。そこでいろいろな歌手が鈴蘭を歌にして歌っている。

岡本敦郎の歌を聞きながら散歩していたものだから、若い頃盛岡
(岩手県)郊外で見た牧場の風景を思い出したのである。調べてみたら以上の結果だった。

いくつかの自治体の花になっている。
北海道では 札幌市、恵庭市(1973年4月2日制定) 、美瑛町、幕別町、音更町。

長野県の富士見町と 南牧村。飲んだり食べたりしなければ馬に馬鹿にされることもない。2008・03・01

2008年02月29日

◆「三猿」中国特派員

                  渡部亮次郎

中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特派員だけれども記者ではない?

実は日中記者交換協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介し1967年追放処分を受けた 。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去となれば2度と再び中国へは行けなくなる。国内で翻訳係りで一生を終わる事になりかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシの食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親日派をせっついて結んでしまった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
  すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放される。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわけだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記者、カメラマンを常駐させてハナを開かせたいとの競争を展開した結果、中国側に足元を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまったのである。しかも政府は関与していない。国交が無いから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているにも拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中によって頭越しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化
した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しかし日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナスクール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きなど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。2008・02・28

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2008年02月28日

◆福田・野中・小泉・麻生

                 渡部亮次郎

唐突に思われるだろうが、福田康夫政権誕生のカギは麻生太郎氏による「部落差別発言」にあり、麻生政権がすんなりとは実現しない原因でもある。

魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、麻生太郎は過去に野中に対する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において、野中に以下のとおり批判された。

(魚住昭 『野中広務 差別と権力』講談社 2004年06月29日 ISBN 4062753901)

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会(所属派閥)の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。

君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

野中の激しい言葉に対して麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったと同書には記されている。

1998年、第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕恵三内閣で野中氏が官房長官を務めた。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した予て創価学会、公明党には好意的であった。

2000年に小渕首相が倒れると前官房長官(自民党幹事長代理)として小渕側近だった有利な立場から、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。これで森氏は野中氏に頭が上がらなくなった。

この協議は、首相を「5人組」によって密室で選出させたものとして、野党からも国民からも大きく批判された。だが野中氏は、森氏の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。

同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩した。その直後、野中氏は幹事長を辞任、後任に古賀氏が就任した。古賀氏は早くから「野中の子分」だったのだ。

このように小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたることもあった。

森首相退任に伴う2001年自民党総裁選挙では、当初、側近の古賀、鈴木宗男氏やら公明党から野中政権待望論が挙がるも、橋本龍太郎、村岡兼造氏ら派幹部からその突出振りを疎まれていたため支持が集まらなかった。この時期、先の麻生発言が飛び出したものである。

結局、野中氏は橋本氏を担ぐことになるが、小泉純一郎氏に一般党員の支持が集まり、田中派結成以来、総裁選で初の敗北を喫した。

2003年自民党総裁選では、主戦論を唱え、青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、新藤義孝外務政務官、村岡兼造元官房長官、大村秀章内閣政務官らと激しく対立。

派内一部議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した。野中氏は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸相を擁立して総裁選に望んだが、首相・自民党総裁の小泉純一郎に大敗、自らは政界を引退を余儀なくされた(2003年10月)。

2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、密かに引退の噂を立てられていた福田康夫氏がにわかに総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。

実はこのとき、安倍引退を逸早く聞きつけた野中氏が麻生政権誕生を危惧して、急遽、京都から上京。子分古賀誠氏の要請で麻生太郎包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新5人組)の
最強の1人なのだ。

古賀氏が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中氏の影響力に変化が生じている。福田不人気にも責任が生じている。

先立ってまず最大派閥を操る森氏から「福田支持」を取り付ける一方、嘗て売った「恩義」(手形)決裁を一気に実行、あっという間に「福田圧勝」のムード醸成に成功した。

15日、自由民主党総裁選挙に対立候補として麻生太郎氏が立候補した。

しかし町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が野中氏によって福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた(ただし、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった)。また、小泉純一郎氏も事実上福田支持となった。

こうして野中氏は今や福田政権を手に入れた。古賀氏を通じての選挙対策の実権も手中にしている。

「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。壁を破ってでも食糧援助をすべきだと思って環境整備をしている」(産経新聞、1998年4月7日)

「隣国が困っているのに援助せず、心を通わせないで、拉致疑惑をはじめとする問題が解決するか」(NHK日曜討論、1999年12月5日)

2000年3月、島根県での講演において、北朝鮮へのコメ支援に反対して拉致被害者家族が自民党前に座り込みをした事に対して「日本人の拉致問題を解決しないでコメ支援はけしからんと言うが、日本国内で一生懸命吠えていても横田めぐみさんは返ってこない」

これらのすべてが福田政権に反映していると見るべきだ。福田政権がこのままジリ貧となり、いわば立ち枯れ病で倒れるか、麻生氏が息を吹き返せるか、それらの動きが政界再編製の動きと連動しないか。

私は野中、小泉両氏の動きを賢明に探るのが政治記者だと思っている。2008・02・27

2008年02月27日

◆魂の入っていない仏像

                  渡部亮次郎

現代日本における危機管理の第一人者佐々淳之さん(初代内閣安全保障室
長)が、ご自身のウエブサイト(2008.2.20)で有事の報告は「ショート
・サーキット」でと教示しておられる。

思い起こせば「第10雄洋丸事件」。1974(昭和49)年11月、東京湾で当時
国内最大級の石油タンカー「第10雄洋丸」と貨物船が衝突・炎上した。
死者33人。

しかし10日以上経っても鎮火しなかったため、東京湾外に曳航した上、
海上保安庁の要請で防衛庁(宇野宗佑防衛長官)が、護衛艦4隻と魚雷
を積んだ潜水艦、対戦哨戒機14機を出動させ、まる2日にわたり烈しい
砲雷爆撃を加えて、火災発生から20日後にようやく第10雄洋丸を沈没さ
せた。

ところが宇野長官への報告は防衛庁のルートではなく海上保安庁長官か
ら「ご協力ありがとうございます。ようやく沈みました」との報が先に
入った。

防衛庁は何をして報告が遅れたのか。当時は報告いちいち暗号を組んで
いたからである。沈没を確認した護衛艦長→護衛隊司令官→護衛隊群司
令官→護衛艦隊司令官・・・と段階的に順を追って報告されて行った。

さらに地方総監、潜水群司令官、航空隊司令官などへの報告も加わり、
しかも各報告は暗号化するきまりだったため、その暗号を組んだり解い
たり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながらノロノロと上にあが
っていったのだ。

あれから34年。防衛省に昇格したからと言って、あの時の暗号報告が平
文報告に変わっただろうか。自衛隊にとって、あらゆる活動は「戦闘」
であり、それらはすべて敵に知れてはならない秘匿事項だから、あると
ころでは暗号が使われているのではないか。

今回、自動操舵で直進していたイージス艦の見張り員が、清徳丸の灯光
を目視で確認したのは、2月19日午前3時55分(衝突の12分前)。

しかし、イージス艦は、4時6分までは従来通りの自動操舵を続け、衝突1
分前の時点で、急遽逆推進(後退する体制・ブレーキをかけた状態)に
切り替えたものの、間に合わず衝突したと言われている。

直後からの通知連絡報告の時系列が、次の通りだった。

 4:07 衝突事故発生
 4:23 イージス艦から第3管区海上保安本部へ連絡
 4:48 護衛艦隊司令部が海上幕僚部へ事故報告
 5:頃 防衛省の内部部局へ連絡

 5:36 付近の試験艦・護衛艦が到着
 5:40 石破防衛大臣へ連絡
 5:50 町村官房長官へ連絡
 5:55 官邸に情報連絡室を設置

 6:00 テレビが第1報
 6:05 福田首相へ連絡
 6:18 防衛省に連絡室を設置

事故発生から福田首相に報告が届くまで約2時間を要している。これが昔
の暗号使用のためかどうかは部外者には分からない。仮にそうだとして
も防衛省は内情を明らかにはしないだろう。当然である。

これは民間の事件ではない。北朝鮮や中国の注目は救助能力に集中して
いるのだから、明らかにしてはならない。

一体、マスコミは死者2人に同情して視聴者の涙を絞った方が視聴率が
上がると踏んだものだから、始めからイージス艦悪者説に立脚した。

これについて書こうとしたら別の情報が入ってきた。

<内局職員が速報怠る イージス衝突で防衛相に≫と言うニュースが入
ってきた。 2008/02/25 【共同通信】

<石破茂防衛相へのイージス艦衝突事故の第1報が遅れた問題で、発生
時に統合幕僚監部のオペレーションルームに当直勤務していた内局(背
広組)職員が、同ルーム責任者の制服組(自衛官)幹部から石破氏に速
報するよう指示されたにもかかわらず防衛相秘書官への連絡を怠ってい
たことが24日分かった。防衛省筋が明らかにした。

防衛省には「重大な事故・事件は各幕僚監部が(内局を経由せず)防衛
相秘書官に1時間以内に速報する」とした事務次官通達があり、今回は
統幕か海幕が石破氏に直接速報すべきだった。(暗号でではなかった)。

しかし統幕、海上幕僚監部オペレーションルームいずれの責任者も通達
を認識していなかったことに加え内局職員も対処しなかったことで石破
氏への連絡が発生から約1時間半後になる結果となった。

石破氏は今回の事態を受け、各幕僚長が防衛相に直接速報する仕組みに
通達を改めたが、さらに内局と各幕の情報伝達の在り方を見直す方針だ。


自衛隊は憲法で認められておらず、一見軍隊らしく見えるが、魂の入っ
ていない仏像見たいな者。いくら拝んでもご利益のない仏像同様、国民
が頼りにしても、軍隊のような反応は無いわけだ、事件、事故が発生す
るたびに国民を失望させるのはこのためである。

憲法改正によって自衛隊を正式な軍隊と認知しない限り、同様の事故と
間抜けな連絡体制は何時でも再現される。軍隊ではない。単なる就職機
関である限り、仏像に「憲法に保障された国民の支持」という魂は入っ
てはいない。

言い換えれば自衛隊は災害出動には人道上、応じるが、命を賭けた戦闘
はしないだろう。憲法が要求していないからである。2008・02・25


2008年02月26日

◆錦織君の下品な英語

                  渡部亮次郎

プロテニス界の星錦織君の英語については前田正晶さんが、先に『頂門
の一針』1101号(2008・02・24)で慨嘆したとおりだが、私も「前田様 こ
れは下品。言葉じゃない。しかし、もはや治らないでしょう。日本人と
して恥かしい。誰が教えたのだろう」と同調した。

<彼は質問に答えて「当初は英語が解らず多いに苦労したが今は大丈夫」
と言いたくて
「Now is OK.」と言ったと聞こえた。

さらに2回戦の相手が世界ランキング6位のアンディ・ロデイック(Andy
Roddick)であるが、その抱負を聞かれて
「I want to play Roddick. That’s  why I win today.」
と答えていた>。

<Now is OK.では厳密に言えばここでは”now”が主語で「今が良い」と
なり、「今」と「良い」が同じものになってしまうのであるから。より
詳しく言えば「(私は)今は英語で会話をすることはOKなのだ」と言い
たいのだから、上の話し方のように”now”は主語ではないのである。

正しくは最低でも「It is OK now.」くらいは言わねばならず、主語とい
うか「自分にとっては問題ない」のだから「I have no problem with
English now.」等と言う方が、自分が言いたいことが言えて良いのであ
る。

次の文章だが「I want to play Roddick.」では「ロデイックを演じたい」
になってしまう。少なくとも「I wanted to play against Roddick.」で
なければならず、wantを過去形にしないと「ロデイックと対戦したかっ
た」ことにはならない。さらに「対戦する」のであればagainstを入れな
ければならない>。

<文法を誤ることは無教養の証であることを忘れてはならない。それで
も通じる、いや通じたという実績で当人は安堵して、この文法無視の世
界に安住してしまうのだ。私はそういう例を何人も見てきた。

しかもこの手の人の多くは非常に滑らかに英語を話されるのである。そ
の話し方の中に文法的誤りがあっても「貴方間違えていますよ」などと
お節介なことを言う人などいない。故に一度この道に入った人は先ず文
法遵守の道に戻ってくることはないのである>。

英語を喋る事は簡単でも、英語を母国語とする人たちとビジネスをする
事と同じではない。そのためには英語の文法を若いうちに身につけてお
かなければ、大恥をかくことになる、という大変親切な注意なのである。

そういう私もいきなり外務大臣秘書官にされて英語では苦労したが、高
校時代に厭々やった英文法で助けられた。会話は退官後改めて少しだが
修得した。だから前田さんの仰る事はいちいち尤もなのだ。

以下は前田さんの「追記」であるが、大変示唆に富んだ体験なので敢え
て紹介したい。

<私がアメリカの会社に転身したのが1972年、39歳でした。英語で話す
ことに関しては、高校在学中にはすでにアメリカ人の中で暮らしても不
自由ないくらいになっていましたが、本当の意味で「英語を使う、使え
る」ようになったのはそれ以降でした。

換言すれば、そこから英語を仕事に使うという真の勉強が始まりました。
ここから課題となったのが「思考体系の違い」で何度も何度も繰り返し
て問題が発生しました。それは言葉が話せるだけでは解決しないことば
かりでした。

2001年頃だったか某有名私立大学の先生に研究留学に先立って烏滸がま
しくも個人教授をしたことがありました。その先生が言われたことは
「何で始めから(前田さんが言うように)そう教えてくれなかったのか」
でした。

ある意味でそれは無い物ねだりですが、先生を悩ましたことは「有無相
通じない、腹芸がない、言わなくとも相手が解ってくれるだろう等が通
じないことを何故教えてくれなかったのか」なのです。思考体系の違い
です。私は彼らのそれを「二進法的思考」と呼んでいます。

すなわち、錦織君の「トップ100(後で50に言い直していましたが)が目
標」と言ったように、日本語では誰でもが「入ることだな」と解釈して
くれますが、彼らは「それがどうした」と言いかねません。こういう点
を学校教育で教えるわけがないのです。

先生はそう言いたかったのです。錦織君の頭の中は現時点では日本語の
思考体系なのでしょう。早くその違いに気が付かねば、何れは「そんな
つもりで言っていない」か「何故解ってくれない」という問題に撞着す
るでしょう。英語はそういうギスギスした厭らしい言語なのです。

私が数多く犯した「言わなかったために発生した」ミスの中で初期にこ
ういう例がありました。日本で品質の大問題が起きて、得意先と綿密に
打ち合わせた上で他にも緊急な問題があり急遽本社に出張しました。

本社では副社長、各担当マネージャー、中央研究所主任研究員、工場か
らは工場長と技術サービス部長も参加の大品質会議となりました。

私は全員に得意先の要望である「改造品が生産され次第そのテスト用の
見本紙をX枚航空便で送るとこと」を伝えて会議を終わって次の目的地に。
そして約1週間後に工場に出張した際に確認してみました。

技術サービス部長に「見本は予定通りに送ってくれたか」を確認すると、
その答えが何と「それは君が製造計画担当に本社で指示しておくべきこ
とで、我々の問題ではない。何の手配もされていない。直ちにここから
本社に連絡してその後に工場の事務部門に依頼に走れ」でした。

一言もありませんでした。見本の手配は私の仕事ですが、副社長以下全
員が出ていた会議で言えば、誰かが必ず(日本の組織で経験したように)
手配してくれただろうと思い込み、何ら確認もしないで終わっていたの
でした。

一言「担当に連絡する時間がないので宜しくお願いします」と言ってか
ら次の目的地に行くべきでした。このように彼らは「言わなかったこと
を相手の胸中を察して動く人種ではない」のです。

敢えて自分の失敗を例に挙げましたが、ここには言葉だけの問題ではな
い思考体系の違いまで読んでいないと「通じない」ことがあると知らね
ばならないということを言いたくて、長々と書いた次第です。

だが、失敗しないと解らないのも苦しいものです。誰かに教えて上げた
くても、実感を伴わないでしょう。しかし、あの場合は間に合いました
が、間に合わないか、取り返しがつかないことは多いのです。

であればこそ、私は「英語の勉強は余程必要がない限り、それほど必要
ではない。目的を良く考えて取り組め。問題は思考体系の違いまで認識
するかしないかにもある」と言うのです。

さらに、リタイヤー以後は「日米企業社会における文化の違い」と「思
考体系の違い」を語り、且つ書いてきました。この難しい点は「経験し、
また失敗がないと実感がないこと」です。

この上記の先生には「事前に良く聞いてからアメリカに行きましたから、
さして違和感を覚えませんでした」と言って頂けました。

先生がこうして初めて渡米されたのが42歳で、思考体系の違いなどを十
分即座に解って頂ける学者でした。であればこそ理解されたのかも知れ
ませんが、良かったなと思いました。>2008・02・23


2008年02月24日

◆祝「トウ小平秘録」完遂

                  渡部亮次郎

約1年に及んだ「トウ小平秘録」シリーズは2008年2月22日付、「153」回でついに終了、産経新聞を読む意欲が半減した。

伊藤 正 (イトウ タダシ)。産経新聞中国総局長兼論説委員。
1940年埼玉県生まれ、東京外国語大学中国語科卒。65年共同通信社に入り、72〜74年香港支局長、74〜77年北京支局員、83〜86年ワシントン支局員を経て、87〜91年北京支局長。編集局次長、論説委員長など歴任。

2000年7月産経新聞社に移り、同年12月から現職。76年と89年の2度の天安門事件を現場取材した唯一の西側記者として知られる。

香港、北京で既に足掛け20年の中国駐在経験である。これだけ長く駐在して中国をウオッチした外国人は少ないし日本人記者としては初めてでは無いか。

他の異国と違って、共産中国には報道の自由は無い。日本との国交がまだ回復する以前に結ばれた日中記者交換協定が回復後もそのまま延長されているためである。

中国を政治的に批判する事は許されないし、中国側の機嫌を損ねれば、直ちに国外退去を命じられる。実際に過去何回もあったし、逮捕監禁された例もある。

その言動は二六時中監視され、牽制され、記事が真実と当局のご機嫌の間で当惑、逡巡を禁じえないのが実態だ。それでもインターネットと携帯電話の普及で、事情は大分変わってきた。

<それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。>と伊藤さんは暴露している。

共産国から資本主義経済へ劇的に変化させたトウ小平。3度の失脚と3度の復活。その生涯はまた謎に満ちたものであるが、丹念な資料の分析と多彩な人脈を駆使した取材で、未知の事実を多々明らかにした。歴史的な著作となった。



【トウ小平秘録】(153 最終回)第6部「先富論」の遺産(2008.2.22)を抜粋・紹介して、連載の完結を惜しみつつ大いなる祝意を表する次第である。

<■命の恩人だが神ではない

「海 その愛」の楽譜が欲しいと、複数の知人から頼まれた。まだテレビを持つ家庭は少なかったが、少なくとも数百万の中国人がその演奏を聴き、何がしかのショックを受けたに違いない。

音楽ほど同時に、かつ大勢の人の感性に訴える表現形態はない。それは電波に乗って国境を越えていく。新制作座の演奏は、青年層ら中国人の心に響き、外国文化への欲求をかき立てた最初のシーンだったと思う。

その欲望を満たす物質的条件が大半の中国人にはなかった。本連載では、文革で失脚したトウ小平(しょうへい)氏が69年に下放した江西省の工場で、80人の従業員家庭のどこにもラジオがないと知ったときの失意を書いた。それが改革・開放への執念を生んだ、とも。

今年の春節中、友人Aの家庭に招かれた。200平方メートルほどの部屋には、大型プラズマテレビなど電子製品が並ぶ。ほかにマンションを3戸所有、車もある。離婚して女手一つで育てた息子は米国に留学させた。

50歳代のAは、文革中に農村に下放、辛酸をなめ尽くした。それでも希望を失わず、大学に推薦入学するチャンスをつかみ、改革・開放の波に乗って商売に成功、今日の豊かさを手にした。

Aはトウ小平氏について「命の恩人」と呼びながら、「毛沢東と違って神ではない」と言った。現在の生活は自分で勝ち取ったものとの自負心がかいま見えた。

北京でたまに行くスナックがある。興に乗ると革命歌を歌う。毛沢東賛歌の「大海を行くには舵(かじ)取りがいる」などだ。20歳前後のホステスはけげんな表情をする。なぜ毛沢東が「紅い太陽」なのか理解できないらしい。

革命歌をもっぱら流す店もあるが、政治的背景はなく、毛沢東を商売のタネにしているだけだ。

ホステスのほとんどは地方の農村出身者だ。夜7時に出勤、宿舎に帰るのは午前3時ごろという。長時間労働の報酬は、月1500元(1元は約15円=22,500円)前後。生活費を切りつめ実家に送金している女性が多い。出稼ぎ農民工と同じだ。

それでも地方に比べれば格段の高収入だ。安徽省出身の19歳の女性は、地元の食堂で朝8時から翌午前1時まで皿洗いなどの下働きで月200元)3000円)余だった。

黒竜江省出身の21歳の女性は、地元病院で看護師をしていた時代の賃金は350元(4500円)だったが、3カ月以上未払いだった、という。

 彼女たちの出身地の状況を聞く。ほとんどの共通点は党幹部の腐敗と金持ち階層の横暴への怒りだ。彼女たちの情報量は多い。その中には決して報道されない指導者のスキャンダルや暴動事件などの情報もある。

情報入手の主な手段は携帯電話だ。最近はパソコンを持つホステスも増えた。

中国の携帯電話は既に6億台に近づき、ネットユーザーも2億人を突破した。貧しい農民の間でも携帯電話の普及が著しい。それもまた経済発展の成果である。

本連載では何度か、専制政治の支柱はペンと鉄砲だと書いたが、こうした情報伝達手段の発達の結果、ペンの規制は無力化しつつある。

それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。

トウ小平氏は20年前、実事求是(事実に基づき真理を追究する)に立ち、世界と中国の現実を直視、毛沢東信仰を破り、改革・開放を断行した。現実主義の徹底がトウ氏の改革路線の神髄だ。

いま、トウ小平氏の時代には想像もできなかった変化が進む。トウ氏の定めた改革・開放と社会主義原則堅持の路線は、現実から乖離(かいり)し、多くの矛盾が噴出している。

トウ小平路線は不可侵というタブーを打破し、現実に即した改革の実行こそ、トウ氏の遺産を生かす道と思われるのだが。>(伊藤正)
2008・02・22