「中国の人たちはチップとしての金品は絶対受け取りませんからくれぐれも注意してください)と日本外務省報道課の担当官からの注意。
だが、北京に着いたら某社の記者がバスの運転手に金メッキのライターを見せた。運転手、きょろきょろ、辺りを見回した後、すばやくポケットに入れた。冗談だった、あんたを試したんだよ、返してくれ、とはいえない。数万円の損害だった。1972年9月末、田中訪中同行記者団の失敗談である。
あれが「日中友好」の始まりであり、我々が徹底的な内政干渉を受けることになる「屈辱」の始まりであった。
当時、私は36歳。所謂「角福戦争」で福田赳夫陣営の取材を担当した後、総理官邸入りした角栄番として官邸記者クラブに所属替えになった。妙な人事だった。
角福戦争は、今では莫大な金銭の絡んだ自民党総裁選挙として記録されているが、本質的には共産中国との国交の是非を問う争いで、同時に立候補した三木武夫、大平正芳氏と中曽根康弘は国交再開促進で角栄と協定していた。だから田中は勝利した途端、北京行きの準備にとりかかった。
私は積極派に組みしたくない心境だったが、NHKの官邸サブキャップであってみれば、当然の如く総理同行となった。しかも記者団機ではなく、テレビ代表に資格で総理機への同乗を許可された。
かくて九月二十五日、北京に着いたところで起きたのがライター事件。「こりゃ建前と本音は違うぞ」との認識は芽生えたものの、彼らを統率する共産党が自ら「友好」を掲げながら、これ程嘘を言い、これ程内政干渉をしてくるとは思わなかった。
上海空港まで見送りにきた周恩来総理が「天皇に宜しく」とまで田中に言ったのだもの、単純な日本人は「日中友好」に酔ってしまったのがいけなかった。
六年後、今度は外務大臣秘書官に発令されて日中平和友好条約の締結交渉に当った。今から考えれば、毛沢東の死後、権力奪回に成功したケ小平は、早くから経済の改革開放を構想し、そのためには日本の資金と技術に依存する以外に途は無いと覚悟していた。
日本は急ぐことは無かったのだ。それなのに条約の締結がソ連(当時)の妨害工作で遷延していたものだから、福田総理が助平心を起こして早期締結に走る外相園田を敢えて止めなかった。すべては後の祭りだが、園田こそは「黒衣」を早くに放ってケ周辺の動きを掌握していたのだから、情報を独占せず、格別慎重に対処すべきだった。
但し、日中平和友好条約の締結は、日中国交回復のための日中共同宣言で田中首相が確約したもので、福田内閣は、それを引き継いだもの。田中内閣が倒れた後を引き継いだ三木内閣では、外務大臣宮澤喜一の努力空しく締結できなかった。
なんとなく政界では「日中平和友好条約の締結」が至上命題の雰囲気だった。例によって新聞、テレビがそれを煽っていたことも手伝った。
そこへ登場した園田外務大臣は、内閣改造に当って福田首相により官房長官を更迭されての横滑りだった。福田の親分筋たる岸元首相が自らの女婿である安倍晋太郎を官房長官に据えろ途の強引な要求をもだし難かった。
しかし、園田こそは福田政権成立の功労者。怒らせてはいけない。福田としては窮余の一策で、外交では素人であるはずの園田に外相という「破格」のポストを与えて「慰留」した心算だった。
ところが園田は外交については「素人」ではなかった。鳩山一郎内閣で重光外相の下で政務次官を勤めたことがあった。外務省の新庁舎建設の推進を殆ど大臣を煩わせずに完成した。人脈も残っていた。それなりに自負は持っていた。
その最大のものは復活したトウ小平に関する個人情報だった。外務省の出先たる在北京大使館はこの情報を全く得ていなかった。それを園田は旧知のリョウ・ショウシ周辺から得ていた。
中国側に大変化あり。条約締結を中国側が急いでいる。それを知っていたのはあの時点では園田だけだった。だから東京のマスメディアは的外れに「外相突出」と揶揄したのである。こうした事はいずれ詳しく書き残したい。
(文中敬称略)2010・10・20