2010年09月03日

◆スキーの出来ぬ雪男

渡部 亮次郎

秋田生まれといえば、れっきとした雪国男といわれるが、事情があってスキーが全くできない。向島生まれの家人は出来るそうだ。

雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。

夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。

少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。

だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。

ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。

それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。

尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。

冬の八郎潟はなるほど氷結するが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。

父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流されて溺死した。

日露戦争から凱旋した祖父は止むを得ず次男ながら家督を相続、孫に私が生まれてという次第。

そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。
2010・5・24


2010年08月31日

◆これから曲折本番

渡部亮次郎

<民主代表選 鳩山氏 菅首相との会談で小沢氏支持伝える

民主党代表選(9月1日告示、14日投開票)をめぐり、菅直人首相は29日夜、首相公邸で鳩山由紀夫前首相と約40分間会談した。鳩山氏は首相に小沢一郎前幹事長と会談するよう要請、首相もこれを受け入れ、30日にも首相と小沢氏が会談する方向で調整している。

鳩山氏は小沢氏を支持する考えを首相に伝えたが、対立激化を避けるためギリギリの攻防が続いている。


首相と小沢氏の会談には、鳩山氏や輿石東参院議員会長らの同席を求める声もある。代表選を巡り、首相サイドと小沢氏サイドの激突を懸念する党内の声に配慮し、直接会談で対立緩和を印象づける狙いがあるとみられる。

鳩山氏は25日に首相と会談後、26日に小沢氏と会って支持を表明。同日からロシアを訪問していた。帰国した29日、東京都内のホテルで大畠章宏衆院国家基本政策委員長ら鳩山グループの幹部と協議。グループ幹部は「鳩山氏が最終決断すれば一致結束する」ことを確認した。

鳩山氏はグループの会合前に仙谷由人官房長官とも会談した。仙谷氏は同日夕、記者団に「深刻な事態にならないように努力したいが、挙党一致のイメージがそれぞれ違う」と小沢氏側の求める「挙党態勢」への違和感を語る一方、代表選を回避する可能性について「十二分にあるだろう」と鳩山氏の仲介に期待感を示していた。>
8月29日21時17分配信 毎日新聞

「海江田首相・原口幹事長」説も流れるなど、代表選の曲折はこれからが本番である。海江田首相説と言っても海江田万里氏が立候補するのではなく、仮説だが、当選した小沢氏が単なる代表に留まり、首相候補に海江田氏を推す、と言う奇策がある。

海江田氏は鳩山グループ。この構想が小沢サイドから示されれば、鳩山グループの小沢支持が大きく固まるわけだ。そうなれば旧社会党系や民社党系も小沢支持に傾くかもしれない。

それこそ奇策だが「鳩山再登場」も説として流れるかもしれない。

一方、仙谷官房長官の更迭を小沢サイドは強く要求しているほか、枝野幹事長の辞任も同様だ。仙谷官房長官はこれに応じても良いと周辺に語っていると言うし、小沢サイドとの水面下交渉の結果、再選だけに拘る菅氏は「悪魔の取引」に応じないとも限りない。

また幹事長ポストについて菅氏の周辺では、参院選敗北の責任上、枝野氏留任にはいざとなれば拘らない空気も流れ、この際小沢氏に近い原口総務大臣を起用することで、小沢氏と妥協するということも予想される。

30日に表面化しないまでも、結論に至るまで紆余曲折を辿ること、これからが本番と見るべきだ。肉も魚も入ってごった煮のちゃんこ鍋政党のこと、自民党時代以上に何があってもおかしくないのである。案外、政治素人集団のこと、魑魅魍魎の跋扈は自民党以上かもしれないのだ。2010・8・30

2010年08月29日

◆小沢・菅 選挙戦術の巧拙

渡部亮次郎
 
<「このままでは民主党が分裂する」。連合の古賀伸明会長は27日、9月の民主党代表選に立候補する菅直人首相と小沢一郎前幹事長に直接、対決回避を促した。最大の支持母体として党内二分の様相を懸念しての仲裁だが、両氏の歩み寄りはなかった。

古賀氏は菅首相に電話し、「一致結束した体制を築けないか」と要請。首相は「その通りだ」と答えたという。

続いて、連合を訪れた小沢氏にも同じように働きかけたが、小沢氏は「そう思っていたが、(首相に)そういう意思がないということなので」とさらり。古賀氏は首相との電話のやり取りも伝えたが、それ以上の議論にはならなかった。

その後、古賀氏は記者団に「2人がガチンコで戦えば我々の組織も二つに割れかねない。両氏の対決をやめられないか。話し合いの余地は残っている」と語った。> Asahi Com 2010年8月28日0時53分

これはさして重要なニュースでは無い、連合会長の仲裁ならず。だが、ここに選挙戦における小沢と菅の巧拙が現れている。連合に対して小澤は態々足を運んで礼を尽くしたのに、菅は電話で済ませたのではなく、相手に電話をかけさせた。ここに大きな差が出る。

しかも小澤は菅の腹の内を改めて古賀の口から確かめた。小澤はここだけでも一歩も二歩も先んじた。

小澤は喧嘩の仕方と納め方を角栄に習った。角栄の漁業は一本釣り、菅の選挙はムード頼りの大謀網である。大謀網は絞って見なければ魚が入っているか、いないか分からない。しかし一本釣りは成果が確実に分かる。

インテリは得てして選挙は下手だ。角栄とオレを比べればオレのほうが頭がいいから、オレのほうが勝つのは当然と威張ってばかりいて、当然の如く敗れた福田赳夫。1972年の「角福戦争」。

福田は大平正芳との総裁選挙でも手胡坐を組んだまま運動をせず敗れた。オレは現職の総理総裁、大平よりオレのほうが人気があると動かなかった。

対する大平も余り動かなかった。元々福田は任期2年を終えたらワシに総理の椅子を譲ると紙に書いて誓約したから、立候補すら約束違反だとの「理屈」があった。

しかし盟友角栄はそんなものを信じるほどヤワな男ではなかった。後藤田カミソリを参謀長に据え、抱える田中派の全秘書を都内に放つローラー作戦を展開。あっという間に大平勝利をものにした。

福田は「天の声にもたまには変な声がある」と迷文句を吐いて舞台を去った。私はこのとき福田内閣で園田直外務大臣の秘書官。福田・大平の密約を知っていたから、大平と同じ心境だった。

小澤は「選挙はすべてドブ板選挙」と決めている。一本釣りもやればローラー作戦もやる。菅のように魚を待つように票を待たない。捕りに行くのだ。カネの使い方も最も効果的な方法を角栄から伝授され、自ら磨いて今日がある。

対するに菅は東京でムード選挙ばかりやってきたから、積み重ねるような票の取り方を知らない。経験が無い。大謀網を張って待っているだけだ。網の目の大小にも気を配らない。

嘗ての角福戦争を取材したり、大福40日抗争を目の当たりにした経験を振り返ると菅の選挙下手が目立って仕方が無い。文中敬称略。
2010・8・28大曲花火の日。

■本稿掲載8月29日(日)刊「頂門の一針」2024号。
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■<目次>
・小沢・菅 選挙戦術の巧拙:渡部亮次郎
・角福も呆れる38年逆戻り:山堂コラム 333
・火噴くか、「小沢VS世論」:岩見隆夫
・収奪されたのは日本人だった:松木國俊
・円高還元セールの虚しさ:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月28日

◆8月15日に思ったこと

真鍋 峰松
    
人間、65を超す年齢ともなると、あと何年生きられるかを真剣に考える。考えざるを得なくなる。その延長線上に死を自覚する。

その考えは、次の二つの点に絞られる。死後の世界があるのかどうか。神は存在するか、人間に仏性はあるのか。人類始まって以来の永久の問である。

急に妙なことを言い出したなと思われたかも知れないが、これこそが、誰しも持つ窮極の疑問であり、おのれ自身のこれまでの生き様の中で、各人それぞれが持つ信条、体験や見聞の中で判断する外のない問題であろう。

まぁ、言ってしまえば、霊的な体験や見聞を信じるかどうかの問題、とでも言え替えられようか。 そして、これを今次大戦で帰らぬ人となった幾多の英霊・戦没者への、真正面から向き合うせめてもの契機としたいと思ったのである。

8月15日の終戦記念日の直前のある日、何気なしにつけたテレビで黒柳徹子さんの「徹子の部屋」を見た。この日の客人は裏千家の前家元 千玄室氏(先代の宗室氏)。この方はいわゆる特攻隊帰りの元海軍中尉。 

同志社大学2年生で徳島海軍航空隊に入隊、訓練後同期210数名が全て特攻隊へ。その中にはテレビの水戸黄門役で知られた西村晃氏が居られた由。鹿児島県鹿屋特攻基地からの、同氏は沖縄戦での米艦船への特攻出撃前の偵察機乗りのため、西村氏は出撃したものの機体不良で不時着のため、お二人とも無事終戦を迎えられたそうである。

今でも数多の同期生が戦死した中で、内心では死に損なったという忸怩たる想いで一杯、特に84歳を迎えた今日、寝床に入ると当時の戦死した仲間の顔が浮かび、グルグルと回って見える、という。

また、戦後度々沖縄へ赴き、記念碑の前や海辺で献茶されてきたそうだが、その度に記念碑前では献茶される同氏の周りに、それまで風も無かったのに、必ず一閃の風が同氏を取り巻くように吹き、海辺では海に注いだお茶が渦を巻き、何処からかお母さんという声が聴こえてきます、とのこと。ただ、この種の体験を、身近な所で私自身も味わったことがある。

パスカルの「瞑想録」の中の有名な言葉として、神さまを信じない人に向かって「あなたは神さまを信じていない。信じてはいないけれど今幸せだ。しかし、神さまを信じる方に賭けたらもっと幸せになるだろう。だからあなたは神さまを信じる方に賭けなさい。もし神さまがいなくても、もともとである。もし神さまがいたら、もっと幸せになれる」というのがある。

確かに、この言葉には欧米風の功利主義的思想がプンプンと匂ってあまり好きではないのだが、ある一面の真理を表している言葉だ、とは思う。

この類の話は、人により受け止め方も千差万別。信じる人、全く信じない人、半信半疑の人。繰り返しなるが、前に述べた通り、おのれ自身のこれまでの生き様の中で、各人それぞれが持つ信条であり、体験や見聞の中で判断する外のない問題だろうし、個人的な霊的体験・見聞を信じるかどうかの問題、とでも言え替えられる。

また、論語の述 而 第七には「子、怪・力・乱・神を語らず」とある。

孔子は奇怪なこと・勇力のこと・逆乱のこと・鬼神のことは、人と語らなかった、というのであり、通説では論語にいう怪・力・乱・神を語らずとは、否定するべきものではないが、語るべきものではない、というのである。それは、なお鬼神の存在を認めて、それをはばかる信条が、理性とは別のこととして、残されていることを意味している。

それではお前はどうなんだと問われたら、やはり、私には、身近な所で感じた体験からして、到底否定し難い世界の話、こうした未知の世界は残されると信じる。

その世界は、ただ人間の経験の積み重ねによってのみ自然に解明される事柄である、としか言えない。かの有名な養老孟司氏もどこかでお書きになったように、「当人にとって、これ以上本当の事はないというほど本当のことだって、他人が信用するとは限らない。私は神を見るという宗教体験があることを疑わない。

でもそれを私が見るかどうか、その保証はないのである。だから、私は科学の分野なら立ち入るが、宗教の分野には立ち入らない。別な表現をするなら、感覚の世界には入り込むが、他人の心の内部には入り込みたくない。

それは個々人の世界であって、他人があれこれ言うべきことではない。そんな気がするのである」ということであろうか。 

親が子を殺し、子が親を殺し、挙句の果てには、己が死にたいから誰でもよいから道づれに、というような殺伐たる世の中。このような世の中だからこそ、このような話を語り継ぐことが必要だと改めて思う。 

今次大戦で尊い命を失われた幾多の英霊・戦没者のご冥福を心からお祈りしながら・・・ 合掌。



2010年08月27日

◆民主党終焉のはじまり

渡部亮次郎

<要職起用に菅首相が難色、小沢氏の闘争心に火?

民主党の小沢一郎前幹事長が26日、党代表選への出馬を決断したのは、党内で3分の1を超える小沢グループ約150人の中堅・若手議員から強い要請を受け、「グループで結束して戦うことができる」(小沢氏側近議員)と判断したためだ。

菅首相が、小沢氏の要職起用も含めた挙党態勢に慎重な姿勢を示したことが決断の引き金になったとの見方も出ている。

小沢氏は過去、野党の新進党、自由党、民主党で党首の経験があるが、与党第1党で、首相となる党首選に臨むのは今回が初めてとなる。

鳩山前首相のグループ幹部は26日、菅首相が25日に鳩山氏と会談した際、小沢氏の要職起用を求める鳩山氏に、党顧問などの「名誉職」での処遇を示唆したことが小沢氏の決断の決め手となったとの見方を示した。

これが、副総理か幹事長が希望だった小沢氏の闘争心に火を付けたのではないか――というわけだ。>
8月26日17時21分配信 読売新聞

「副総理か幹事長が希望だった小沢氏」の一行は東京地検の動きを恐れる小沢氏が「隠れ家」を求めていたこと、必ずしも勝利に自信を持てる票読みができていなかったことを証明している。

したがって「党内で3分の1を超える小沢グループ約150人の中堅・若手議員から強い要請を受け、「グループで結束して戦うことができる」(小沢氏側近議員)との判断には「?」が付く。小沢氏が菅に敗れる危険性も十分、残っている。

世評「小沢は負ける戦いをしたことがない」とされている。したがって苦悩したギリギリの時点での出馬決断だったのだから、勝利を確信できる票読みがあったのだろうと判断し勝ちだが、どうだろう。確証は何処にも無い。

若輩は自民党や日本社会党の総裁、委員長選挙を何度も取材した。その経験からすれば、小沢G150人の中には「面従腹背」の輩も相当潜り込んでいるはずだ。「小沢不人気」という世論に晒されている以上、次の自分の選挙を考えれば当然だ。

一方、衰えているとはいえ「現職総理大臣」としての菅氏の吸引力を侮る事は危険だ。菅氏呼びかけの新人懇談会に断乎として欠席した議員が70人ぐらいしかいなかった事は、これを物語る。

乱暴な話だが、結果は僅差では無いか。小沢もそこを覚悟の「乾坤一擲」の勝負に出たのであろう。失敗すれば離党勧告を受けた末、党外追放だ。少数の手勢を引き連れて新党設立に走らざるを得なくなる。

一方、菅氏が敗れたら、これまた菅、仙谷、前原、岡田氏らは小沢から徹底的に干し上げられる以上、針の筵に坐り続ける屈辱には耐えられない。斯くなる上は民主党の分裂しかなくなる。

風が吹けば桶屋が儲かる式に譬えれば、小沢を入党させた鳩山が一番悪い。その小沢を決断させた菅も悪いと言う人は言うだろう。何にしても小沢の決断で民主党が終焉を迎えた事は確実だ。
(文中敬称略)2010・8・26

■本稿は8月27日刊「頂門の一針」2022号に掲載されました。
 著名寄稿者の卓見を拝読下さい。手続きは下記から。

■<目次>
・民主党終焉のはじまり:渡部亮次郎
・小沢一郎及び民主党政権の終焉: 東郷勇策
・議員会館から見下ろせる首相官邸と鳩山氏:阿比留瑠比
・非同盟運動とは何だったのか:古森義久
・国家の全盛期は160年:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月26日

◆参院議長西岡武夫人物月旦

渡部亮次郎

各党は申し合わせにより、衆参両院の正副議長は就任とともに所属党派を離脱することにしている。院の運営の公平を期する狙いがある。従って正副議長は院を構成する各会派の運営については関知しないのが当然であり、あえて記者会見などを行なって特定会派の代表選挙について容喙することを慎むのは当然の「常識」だ。

しかし、<参院の西岡議長は23日、国会内で臨時の記者会見を開き、9月の民主党代表選に関し、「(首相に)対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。首相を蹴(け)落とそうとするのだから、敗れた場合、党を去ることも選択肢に入る」と述べた。

また「敗者に党の要職や閣僚ポストが与えられる仕掛けは茶番劇だ。政権政党が、甘っちょろい党内の陳腐な就職運動劇をしている余裕は断じてない」と指摘した。

政府・民主党役員人事での処遇を期待した候補擁立の動きをけん制したものと見られるが、政党会派を離脱中の議長が政党の党首選に言及するのは極めて異例だ。

西岡氏は民主党所属国会議員として代表選の投票権は持っているが、自身は代表選で「投票する考えはない」とも述べた。>8月23日19時42分配信 読売新聞

現職政治記者活動中、この人とは全く接触がなかった。昭和38年の総選挙で衆議院議員に初当選以来、11回当選。知事選に出て落選、参議院に回って政界復帰。小沢氏よりも先輩である故をもって、江田議長の下で議運委員長。その故をもって今年、28代目の参院議長に就任。

衆議院での若い時代から動きは派手で頑固なところを見せていたから、政治記者たちも麻痺してしまったのか、議長による特定政党の運営批判という飛んでもない言動を批判することさえ忘れている。

衆議院議員(11期)、文部大臣、新自由クラブ幹事長、自民党総務会長、新進党幹事長、自由党参議院議員会長、参議院議院運営委員長などを歴任。

1936年(昭和11年)、長崎県長崎市に父・西岡竹次郎と、母・ハルの子として生まれる。海星中学校では同期に美輪明宏がいた。長崎県立長崎東高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部に入学。雄弁会入会。

長崎新聞社では、常務取締役社長室長、論説委員などを歴任し、長崎青年会議所広報委員長、長崎県青年団連合会会長(初代)なども務め、長崎の若手経済人として活動。

1963(昭和38)年11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、吉田茂が率いる自由党で初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として第30回衆議院議員総選挙に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。自民党青年局長、文教部会長をつとめていた。

ロッキード事件を期に、河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳各衆議院議員、有田一寿参議院議員と共に自民党を離党。1976年6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成、西岡は幹事長に就任した。田中角栄に歯向かった。

政策、党の路線をめぐり、亀裂が生じ、1979年7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。1980年12月に自民党に復党したが、1983年12月の総選挙では落選する。このころ九段下の街中を歩いているところで出合ったが、それだけ。


1986年の総選挙で当選した後は宮澤派に所属。文教族としてキャリアを積み、1988年に発足した竹下改造内閣で文部大臣として初入閣。続く宇野内閣でも文相に留任した。

1989年、海部内閣で自民党総務会長に就任し、党三役入り。同年12月、党三役に加藤紘一を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名された。

西岡は1993年12月に自民党を再び離党。改革の会代表、自由改革連合事務局長を経て、翌1994年に新進党結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、1997年に新進党は解党した。

1998年1月、小沢、海部、加藤六月らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、高田勇知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の金子原二郎に敗れ落選する。

国政復帰を目指し、2000年の第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬するが、落選。

2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。

党参議院議員会長、参院会派「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」代表をつとめる。2003年、民主党との合流が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。党内では渡部恒三と共に保守派の重鎮であり、党内の保守系議員で構成される永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会にも参加し、外国人参政権反対を表明している。

2007年8月、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院議院運営委員長に就任した。

同月9日、西岡は「次の国会からクールビズの申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際してはネクタイ着用を義務化したい」と提案した。

すでにクールビズが3年目になり広く浸透していること、参議院先例集にクールビズ以前の1951年8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外していい」という申し合わせが確認されていることなどから、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。

この突然の提案については、クールビズの旗振り役が小池百合子防衛大臣(当時、元環境大臣)であったことから、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動をともにしながら、自民党に移った小池への意趣返し」ではないかといった見解も報道された。

2009年10月23日、国会開会式での天皇の「お言葉」が問題になった際「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と岡田外相を批判した。

2010年6月16日、国会最終日で野党が提出していた江田五月議長不信任案、菅直人内閣総理大臣問責決議案、荒井国務大臣問責決議案について、与党民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態を作った。

2010年7月の第22回参議院議員通常選挙で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかし西岡を江田五月の後任の参議院議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立。西岡は21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。

しかし、通例では全会一致で決まる議長選挙では西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果で、参議院議長に就任した。

「保守」を標榜しながら「波乱」も好きな性格らしい。今後も何か起こしそうだ。初登院の際、母親同伴の始まりの人。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年08月24日

◆参院議長発言は越権行為

渡部亮次郎

<首相に対抗、敗れたら離党も…代表選で異例発言
西岡参院議長は23日、国会内で臨時の記者会見を開き、9月の民主党代表選に関し、「(首相に)対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。首相を蹴(け)落とそうとするのだから、敗れた場合、党を去ることも選択肢に入る」と述べた。

また「敗者に党の要職や閣僚ポストが与えられる仕掛けは茶番劇だ。政権政党が、甘っちょろい党内の陳腐な就職運動劇をしている余裕は断じてない」と指摘した。

政府・民主党役員人事での処遇を期待した候補擁立の動きをけん制したものと見られるが、政党会派を離脱中の議長が政党の党首選に言及するのは極めて異例だ。西岡氏は民主党所属国会議員として代表選の投票権は持っているが、自身は代表選で「投票する考えはない」とも述べた。>8月23日19時42分配信 読売新聞

立法府の長が、三権分立の建前を乗り越えて政府や政党の運営について発言するのは、異例に留まらず、明らかな越権行為に他ならない。

産経の報道によれば、<西岡議長は民主党会派を離脱中だが、党所属国会議員として代表選での投票権は持っている。議長の立場で言及した理由については「日本の政治には、もう『余白』が無くなっているからだ」と述べた。また、代表選に投票しない考えも明らかにした。>という。

確かに日本の政治には「余白」がなくなっている。しかし、だからと言って則を越えたこの異例発言は許されるものではない。いやしくも西岡氏は、民主党に推戴されたがゆえに参院議長に当選した。民主党の運営に対して発言すれが、一定の影響を与える。

だから特に発言したくなることは感情的には理解できるが、人間にはして良いことと悪いことがあり、今回の発言はしてはいけない越権行為であり、憲法無視の行為は、辞職に値する。2010・8・24

■本稿が掲載された8月24日(火)刊「頂門の一針」2019号です。
他の卓見もご拝読下さい。

■<目次>
・参院議長発言は越権行為:渡部亮次郎
・菅首相に制服はない:梅岡 弘
・虚偽と妄想を放置した代表選び:西村眞悟
・鴨緑江が決壊した・・・:宮崎正弘
・オックスフォードの改訂版:前田正晶
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月21日

◆巴里だより 歩きはじめたみよちゃんが

          岩本宏紀(在仏)

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去年の10月にジョギングを始めて8か月。
当初は5分走るのがやっとだったが、今では1時間でも問題ない。

走れない日は、「おんもに出たい。」と言っているみよちゃんの心境だ。

はじめの半年は体重も体脂肪率もほとんど変化なし。
ところがその後急激に減りだして、今では72 Kg が 68Kgに、
22% が 20%になった。

オランダには至るところに自転車専用道がつくってあり、
ジョギングにはもってこいの環境だ。
空気もきれいだ。
ときどき牛舎の匂いに攻撃されるけれど。

2010年08月20日

◆ハムレット?小沢一郎

渡部亮次郎

民主党代表選挙への小沢一郎前幹事長の去就に関して、19日の読売は本人がかなり積極的な態度に変わってきたような印象を与えた。

<民主党の小沢一郎前幹事長は18日、9月の党代表選について、小沢グループ以外からの幅広い支持が得られることを条件に出馬を検討する考えを周辺に伝えた。

小沢氏は党内の動向を慎重に見極め、来週にも最終判断する見通しだ。

出馬の条件として、小沢氏は具体的に、党内最大の約150人を擁する小沢グループを固めたうえで、「(鳩山前首相グループや)旧民社党系や旧社会党系の支持が得られるなら考えてもいい」と周辺に説明した。

周辺は、小沢、鳩山両グループ、旧民社党系、旧社会党系などとの連携により、国会議員の過半数の支持を固められると判断。

政策としては、自ら策定に携わった昨年の衆院選政権公約の実現を訴えるほか、参院選で大敗した菅執行部では次期衆院選で勝利できないと主張するとみられる。>読売新聞 8月19日3時5分配信。

これについて筆者が19日、小沢氏の健康状態に深く関心を寄せる医学関係者に取材したところ、小沢氏の顔色は尋常なものではなく「医学的な手段で生かされている状態」との証言を得た。

当然ながらこのような事は主治医から本人にも伝えられているはず。「総理の激務は務まらない」との説明に納得しているはずである。昼食後必ず1時間は休養しなければならない総理大臣など、憲政史上、存在したことは無い。

それにも拘らず、読売紙が小沢氏の積極姿勢をあえて報じた事は、側近から確証を得たからであろう。また別の筋からの情報では、小沢氏自らが決意表明の日時を「8月25(水)」に設定した以上、この際、出馬表明があるものと期待しているという。

読売が「菅首相はすでに出馬の意向を明らかにしており、小沢氏は党内の動向を慎重に見極め、来週にも最終判断する見通しだ」というのはこの点を指すのかもしれない。

しかし小沢氏には依然、大きな障害が立ちはだかる。例の検察審査会だ。4月に11人の審査員の全員一致で「小沢に起訴相当の議決」を下した東京第5検察審査会が、再度同じ議決を下せば、小澤氏は強制起訴で刑事被告人になる。

それを回避する便法が憲法75条だ。「閣僚は内閣総理大臣の同意がなければ訴追されない」とある。まかり間違って代表選に敗れたあとに起訴されでもしたら離党勧告で民主党を追放されかねない。

この筋書きからすると、この際小沢氏は自分の値段を出来るだけ釣り上げ、菅氏に売りつける必要がある。それが立候補への積極姿勢なのではないかという観測なのである。

いろいろと菅氏を悩ませた上で「この際は挙党体制を維持する為に立候補をあえて断念する」と25日に表明すれば菅氏は大喜びで入閣させるであろう。仙谷官房長官は反対するだろうが。

だからタイトルをハムレットとしたものの小沢氏は心中、せせら笑っているかもしれないのだ。入閣にさえ条件をつけ、例えば仙谷や枝野幹事長を放擲させる秘策すら練っているかもしれない。             2010.8・19

■本稿掲載8月20日(金)刊 全国版メルマガ「頂門の一針」2015号を
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■<8月20日刊・目次>
・ハムレット?小沢一郎: 渡部亮次郎
・もうひとつ沖縄でのネジレ:梅岡 弘
・脱北!露へ亡命途中だった:宮崎正弘
・デフレスパイラルの足音:平井修一
・アルピニスト野口健が聞いた声:伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記


2010年08月19日

◆滿洲想えば・・・

渡部 亮次郎

芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった音丸(おとまる=1906-1976)。芸者歌手は地方巡業に際して、時間拘束の費用として莫大な花代がかかる事から、苦肉の策として芸者と同じに小唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をレコード会社で探していた。

その結果、麻布の末広神社近くの下駄屋の内儀であった永井満津に白羽の矢が立ったのだった。

昭和9(1934)年にレコードデビュー。芸名は音は丸いレコードから、という意味。翌年に古関裕而作曲の「船頭可愛や」がヒット。同曲を沖縄民謡の普久原恒勇が日本最高の歌謡曲と絶賛している。

散歩しながら音丸のMDで聴いていたら「満洲想えば」が聞えてきた。昭和11年生まれの私だが、よく覚えていた。幼くしてレコードで聴かされたのであろう。

「満洲想えば」は同年に敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満州に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの、という。

作詞=高橋掬太郎、作曲=大村能章。

1.ハア― またも雪空 夜風の寒さ
  遠い満洲が エー満洲が気にかかる
(以下省略)

国民学校(小学校)4年の時「敗戦」。それっきり 満洲の事は学校で習わぬまま老人になってしまった。

満州国(満洲国、まんしゅうこく、英語: Manchukuo)は、1932年から1945年までの12年間間、満州(現在の中国東北部)にれっきとして存在した国家。

日本領有下の朝鮮および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。

面積  1,133,437km2  人口1937年 36,933,206人
 
満洲 現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931年(昭和6年)、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発。

関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚
羅溥儀が就いた。

愛新覚羅溥儀満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

このことが、1933(昭和8)年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満洲国を承認し、外交関係を持つこととなった。

第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月9日、ソビエト連邦(赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。

その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である。一方で「傀儡国家」ではなかったとする説もある。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある。

若い頃、官僚として満洲に出向したことのある岸信介は、後にA級戦犯に問われながら無罪となり、首相に就任した。  2010・8・9

      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年08月17日

◆地上の蝉の寿命は1ヶ月

渡部亮次郎

私が幼少時を過ごしたのは秋田県の旧八郎潟沿岸に広がるコメ単作地帯。要するに水田の真ん中に数十軒の農家が集まった小さな集落。ただしすぐそばに国鉄(JR)の奥羽本線の駅が建っていた。

そんな集落だから花鳥風月とは無縁。夏に蝉の鳴く声を聞いたかどうか、記憶が定かでない。誰から教えられたか「蝉は地中に7年も暮らし、地上には僅かしかいない、可哀想だから捕るな」。

蝉のことはこうして知らずに74歳になったが、必要上、毎日散歩する都立猿江恩賜公園では耳をつんざく蝉の声。平凡社「世界大百科事典」を見たが、生態は良く分からない。

ウィキペディアを検索すると、ようやく「生態」の記述があった。

それでも「セミの幼虫は地中生活で人目に触れず、成虫は飼育が難しいので、その生態について十分に調べられているとは言えない。したがって、ここに書かれていることも含めて、検証が不十分な事項がある」とある。

<交尾が終わったメスは「枯れ木」に産卵管をさし込んで産卵する。枯れ木の上を移動しながら次々と産卵するため、セミが産卵した枯れ木は表面が線状にささくれ立つ>。

要するに地上に出てくる目的は、交接、産卵のためである。地上で喧しく鳴いているのは交接相手を求めての「婚活」そのもの。鮭と同じで子孫を残せば死ぬわけ。このところ毎朝目にする死骸は種族保存の役目を終えた尊厳あふるる「尊体」なのである。

<ニイニイゼミなど早めに出現するセミの卵はその年の秋に孵化するが、多くのセミは翌年の梅雨の頃に孵化する。

孵化した幼虫は半透明の白色で、薄い皮をかぶっている。枯れ木の表面まで出た後に最初の脱皮をおこなった幼虫は土の中にもぐりこみ、長い地下生活に入る。>

これから先は何年か経って地上に現れるまで人間とは絶交渉となる。

<幼虫は太く鎌状に発達した前脚で木の根に沿って穴を掘り、長い口吻を木の根にさしこみ、道管より樹液を吸って成長する。長い地下生活のうちに数回(アブラゼミは4回)の脱皮をおこなう。

地下といえどもモグラ、ケラ、ゴミムシなどの天敵がおり、中には菌類(いわゆる「冬虫夏草」)に冒されて死ぬ幼虫もいる。

若い幼虫は全身が白く、目も退化しているが、終齢幼虫になると体が褐色になり、大きな白い複眼ができる。羽化を控えた幼虫は皮下に成虫の体が出来て複眼が成虫と同じ色になる。この頃には地表近くまで竪穴を掘って地上の様子を窺うようになる>。

猿江公園では抜け殻が一番多く残っているのは槙の木の枝だが、羽化を現認した事は無い。

<終齢幼虫の羽化の様子晴れた日の夕方、目の黒い終齢幼虫は羽化をおこなうべく地上に出てきて周囲の樹などに登ってゆく。羽化のときは無防備で、この時にスズメバチやアリなどに襲われる個体もいるため、周囲が明るいうちは羽化を始めない。

このため、室内でセミの羽化を観察する場合は電気を消して暗くする必要がある。夕方地上に現れて日没後に羽化を始めるのは、夜の間に羽を伸ばし、敵の現れる朝までには飛翔できる状態にするためである。

木の幹や葉の上に爪を立てたあと、背が割れて白い成虫が顔を出す。成虫はまず上体が殻から出て、足を全部抜き出し多くは腹で逆さ吊り状態にまでなる。その後、足が固まると体を起こして腹部を抜き出し、足でぶら下がって翅を伸ばす。

翌朝には外骨格が固まり体色がついた成虫となるが、羽化後の成虫の性成熟には雄雌共に日数を必要とする。オスはすぐに鳴けるわけではなく、数日間は小さな音しか出すことができない。

ミンミンゼミの雌は、交尾直前になると、雄の鳴き声に合わせて腹部を伸縮させるようになるので、その時期を知ることができる。

成虫も幼虫と同じように木に口吻を刺して樹液を吸う。幼虫は道管液を吸うが、成虫が樹液を摂食した痕には糖分が多く含まれる液が出てきてアリなどが寄ってくることから、成虫の餌は師管液と考えられる。

ほとんど動かず成長に必要なアミノ酸などを摂取すればよい幼虫と異なり、飛び回ったり生殖に伴う発声を行う成虫の生活にはエネルギー源として大量の糖分を含む師管液が適すると推測される。

また逆に、土中の閉鎖環境で幼虫が師管液を主食とした場合、大量の糖分を含んだ甘露を排泄せざるを得なくなり、幼虫の居住場所の衛生が保てなくなるという問題もあり、幼虫が栄養価の乏しい道管液を栄養源とする性質にも合理性が指摘できる。

成虫にはクモ、カマキリ、鳥類などの天敵がいる。スズメバチの中でもモンスズメバチは幼虫を育てる獲物にセミの成虫を主要な獲物としていることで知られ、個体群の存続に地域のセミの多様性の高さを必要とする。

成虫期間は1-2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説で、野外では1か月ほどとも言われている。

さらに、幼虫として地下生活する期間は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ。>(「ウィキペディア」)

<セミ成虫はふつう木に止まって樹液を吸い,幼虫は根から吸汁
する。雄は雌を呼ぶために盛んに鳴き,鳴く時間帯(日周期性)は種によって異なることが多い。

早朝と夕方に鳴くヒグラシ,午前中鳴くクマゼミ,午後7時15分から30分間しか鳴かないクロイワゼミなど,さまざまである。

セミの生活史についてはまだ詳しく調べられてなく,幼虫期間さえ大部分の種で不明である。アブラゼミでは,卵期間が約300日,幼虫期間が5年である。すなわち6年かかって成虫になる。

ミンミンゼミやクマゼミでも同じくらいの年数を要するらしい。

ニイニイゼミでは,卵期間は約40日で,成虫まで約4年だという。沖縄の
イワサキクサゼミは,サトウキビで飼育すると,産卵後1〜3年で成虫となり,平均期間が2年である。

北アメリカには幼虫期が13年または17年と非常に長い周期ゼミ(ジュウシチネンゼミ)が知られ,これは昆虫の中でも最長寿といえるだろう。一般に,長い幼虫期に対して,成虫期は短く,せいぜい2〜3週間である。(世界大百科事典)。しかし、この点に関しては「ウィキ」は「1ヶ月」と言っている。

温暖化が進む近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。2010・8・15


2010年08月16日

◆ペットも危ない「熱中症」

毛馬一三

台風4号が通過した途端、再び猛暑日がぶり返してきた。お盆の15日も近畿全域で日中最高気温が35〜36度に達した。

15日朝の午前5時半過ぎ、小型愛犬を連れてお決まりの「朝の散歩」に出かけた。夏場の朝は、地面の温度が上がらない土の「公園内」を何周か回って、途中で切り上げ早々に帰ることにしている。

この日の朝愛犬仲間の男性と出会った。朝の挨拶を交わしたあと、「同じマンションの10歳の老犬が熱中症に患って亡くなった」という話を聞かされた。

真昼の猛暑の時に散歩に連れ出したところ、途中で荒く喘ぐような息使いをし、大量のよだれを吐き出しながら倒れ込み、意識を失ったまま死亡したそうだ。間違いなく 「犬の熱中症」だ。

愛犬飼い主としては失格だ。おそらく仕事の都合で已む無く昼間に連れ出したのだろうが、それにしても老犬を35度超える日中散歩に連れ出すとは酷過ぎる。人間の熱中症がこれほど問題Iなっている折、飼い主の連れ出しを拒めない犬は、可哀想の一言に尽きる。

この夏、掛かり付けの動物病院の院長から事前に「熱中症対策」の助言を聞いていた。犬はほとんど発汗しないため体温調節が難しく、人間以上に熱中症にかかりやすいそうだ。「数分で危険な状態になることがあるので、夏場は気を付けなさい」とのことだった。

更に、室内ではクーラーを稼動させ、1日中室温28度くらいを保った中で休養させることなどの予防対策の基本だとも教えてもらっていた。

だから夕方の散歩も、7時過ぎに時間帯を変更し、コンクリートの道路も、ヒンヤリしているかどうか、自分の手で確かめたうえ連れて出す。しかしこの時間になっても猛暑の余熱は、草むらや道端のコンクリート壁の間から吹き出してくる。飼い主も汗だくとなる。

この余熱を浴び出すと発汗出来ない愛犬は、ハーハーと喘ぎ出すので、散歩も途中打ち切りで早々に帰宅する。帰宅すると、すぐに風呂場で水道水を足にかけて冷やし、足の裏が冷えたのを確めて、クーラーの効いた居間に連れて行き、夜の食事を与える。

これが私の愛犬を護る「熱中症」対策だ。

獣医師によると「犬の熱中症」とは、周りの高温、高湿度のため、体内に溜まった熱によって、高熱、脱水、虚脱などの症状起こすことだそうだ。屋外小屋での飼育が最も危険。シャンプーしたあと、乾燥目的で庭に放すことも体温を急激に引き揚げることに繋がるため、用心すべきだと指摘する。

家族が買い物や用事で出かけて「留守番」をさせる場合、クーラーを付けずに締め切ったままにしておくと、体温は一挙に上がってリスクは増すという。

特に散歩の場合も、直射日光は絶対避けるべきで、散歩の時間も運動も控えめにして、常に歩く状態を注視して異常の有無をよく観察して欲しいと指摘している。
もし、熱中症にかかったかもしれないと思ったら、小型犬なら風呂場で水をかけたり、バスに体ごと浸すのが効果的という。大型犬ならホースで脇の下や内股部に水をかけて冷やすのが一番だそうだ
その上で、吸水器を使って少しずつ水を飲ませ、安静にさせておくのが最良だそうだが、それでも改善の兆しがなかったら動物病院に急ぎ連絡したほうがいいという。

家族の一員である愛犬が、飼い主の不注意で不幸な憂き目に遭うことほど残酷なことはない。愛犬にも「熱中症」の危機があることを、愛犬家はよく認識すべきだろう(了)    参考―えじま動物病院              2010.08.15

■本稿は全国版メルマガ8月16日刊「頂門の一針」2011号に
掲載されました。
◆<目次>
・拙劣な外交といわれても仕方ない:古澤 襄
・「日韓談話」に示された政権末期症状:花岡信昭
・封印を解かれた「樺太1945年夏 氷雪の門」:泉 幸男
・ペットも罹る「熱中症」:毛馬一三
・地上の蝉の寿命は1ヶ月:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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■ 
1)本稿が、古沢 襄氏主宰(読者2万人)の
furu@tea.ocn.ne.jp
杜父魚ブログに掲載されました。

2)<ご近所の犬友に熱中症注意報するので毛馬一三さんの熱中症対策をコピーして渡したいと思いますが宜しいでしょうか?>と(HAL)様から頂きました。森清美様からもコメントを頂きました。

3)飼い主の意向には些かも逆らわない愛犬が、猛暑の昼間に連れ出されて「熱中症」で倒れ、休み明けの動物病院に搬送されたという悲報が、16日にも飛び込んできました。胸を痛めています。意外に「ペットが熱中症に罹る」という事態が、知れ渡っていないのですね。

4)「一人留守番」をさせていた愛犬が、迂闊にも冷房無しのまま出かけたところ、部屋の中でぐったりとなったという連絡も、16日に愛犬仲間から聞かされました。「熱中症」はペットの間で大流行しているような気がします

愛犬は飼い主にとり「生き甲斐」です。どうか、愛犬は大切にして上げましょう。せめて暑さが収まるまで、「熱中症」から愛犬を護ってあげて下さい。    毛馬一三






2010年08月15日

◆私の8月15日

渡部亮次郎

昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷されたルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったらら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行ったと思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される事は無く3機は去って行った。生まれた初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をうけた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげき)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻により、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだったろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は
愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊のほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であった。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地から飛来した代315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これだけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜になっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していたのである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗ったのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈だった。あれから65年。9歳は74になったか。
2010・8・14

■本稿は8月15日刊全国版メルマガ「頂門の一針」2010号に
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■<同号 目次>
・私の8月15日:渡部亮次郎
・日本の暑い夏:山堂コラム 331
・救国に共に立ちあがろう!:東郷勇策
・無党派層は「知性派層」:須藤文弘
・英語指導法夏季特別研修会ご案内:e-pros
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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