2007年09月30日

◆再植民地化の阻止

                       渡部亮次郎

アウンサンスーチー(1945年6月19日―)はミャンマー(ビルマ)の旧首都ヤンゴン(ラングーン)に生まれたミャンマーの非暴力民主化運動指導者である。1991年ノーベル平和賞受賞。

イギリスからの独立を主導したアウンサン将軍の娘。1948年のビルマ独立を目前とした1947年7月に暗殺された同将軍は、「ビルマ建国の父」として今も敬愛を集めているとされる。

ところがウィキペディアによる「経歴」に「1988年4月、ビルマをイギリスの植民地にするために戻る」とある。するとアウンサンスーチーはビルマと言う独立国をイギリスの植民地に戻すと言うとんでもない事をするために国内の混乱を狙う運動の指導者なのだ。

それなのに2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声を「ニュースステーション」(テレビ朝日)で放送した。このとき久米宏はミャンマーの軍事政権を嫌い国名をビルマと伝えていたともある、とウィキペディアは書いている。

久米宏は軍事政権が嫌いだからと言うが、アウンサンスーチーの自宅軟禁などに同情するあまり、ビルマであえて軍事政権が成立した原因を作ったのが彼女である事を隠してしまった。

報道によればビルマをミャンマーと呼びかえた軍事政権の独裁者たる国家発展評議会(SPDC)のタン・シュエ議長の独裁振りは物凄いらしい。2007年9月29日の産経新聞によれば、地元紙の記者は「ミャンマーでは法律は重要ではない。何でも議長の考え次第だ」という。

最近2~3年で、議長の逆鱗に触れ、汚職などの罪を着せられて収監された軍人や政府職員は1,000人を下らない。それでもタンシュエ議長の支配体制は磐石だとヤンゴンの外交筋は見ている。

軍政内部で比較的穏健派と目されていた当時のキン・ニュン首相は2004年10月、議長の怒りを買い汚職罪などで懲役44年の刑を受けた。キン・ニュンにつながる穏健派は徹底的に潰され、軍政指導部は強硬派で固められている。

民衆の暴動が起き、取材中の日本人カメラマンが軍に射殺されたと言っても27日夜、町村官房長官は「官房長官が出てゆくほどのことではない」と官邸に出邸しなかった。

肝腎の福田総理大臣も翌28日「いきなり(欧米主張に同調して)制裁すればいいということではない」と冷静すぎる発言をした。日本政府はミャンマーの軍事政権に一定の評価を下し、対話を継続、主要な経済援助国であり続けているのだ。

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2007年09月29日

◆35年目の日中友好

                       渡部亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人として総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたらに高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言えない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばかり。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとってきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムードに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。
しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上げられません」。それ以外の科白はなかった。

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2007年09月27日

◆納豆は70過ぎから


渡部亮次郎

納豆菌は通常、極めて耐熱性の高い芽胞となって藁に付着しているから、
昔は藁苞(わらづと)に入っているだけだった。ところが科学が進んで、
発泡スチロール容器の普及は納豆の消費拡大に大きく貢献した。

ただし、藁に比べると通気性が悪く、また納豆の臭い成分を吸着しにく
いために、納豆独特の臭いがこもって強くなる傾向がある。

こうした風味の違いや、「自然食品」的なイメージから、一部の高級品
や自然志向の商品、土産物では現在でも藁や経木を使う場合がある。そ
こで現在の納豆には、カラシと納豆用のタレが付属することが多い。藁
苞だと漏れるから無かった。

私が東京で学生生活を始めた昭和29(1954)年春にはまだ早朝の納豆売り
がいた。流行歌手曽根史郎の歌でヒットした井田誠一作詞、利根一郎作
曲の「若いお巡りさん」の3番は「もしもし景気はどうだい納豆屋さん」
という出だし。

「卒業するまでへばらずやんな」と励ましているところを見るとアルバ
イト学生が早朝、納豆を売り歩いていたことが分る。歌は昭和31(1956)
年に大流行した。その苦学生は4年後には卒業していたが、納豆を売らな
くてもいい学生が安保闘争をやり、国会に突入、犠牲者を出した。

「納豆売り」の苦学生は「なっと〜〜、なっと〜〜ィ(語尾をあげる)」
と路地を徒歩で回った。

現在では主にスーパーマーケットの食料品売り場などで販売されている。
また、茨城県や埼玉県川越市などでは土産物として販売している場合も
ある。

納豆の本場は水戸という人が多いが、秋田県仙北郡美郷町には「納豆発
祥の地」の碑がある。ヤマダフーズの本社工場があり、東北随一の出荷
量を誇る。

茨城県水戸市では明治以降、産地としてもっとも知られている。毎年3月
10日に「納豆早食い大会」が開催されている。

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2007年09月25日

◆マロニエの餅

                           渡部亮次郎

9月半ばを過ぎて、東京湾岸の都立猿江恩賜公園の栃の実はすべて落ちてしまった。しかし1つも存在しない。誰かが、何人かが持ち去ったのである。食べる方法を知っているのかな。

親友一家が一昨年の秋、パリに遊んだ。通りのあちこちに大きな栗に似た実が落ちていた。聞くとこれが歌に歌われるマロニエの実だが食べる事はできないといわれて棄ててきた。

マロニエこそは栃(とち)なのである。栃木県の県花。栃をフランス語ではマロニエというのである。英語ではhorse chestnut
馬栗という。歌手松島詩子さん(故人)がよく歌っていた。「わたしにとっては"恩"のある歌」と生前語っておられた。

松島詩子(1905-1996)
<山口の柳井出身。地元の音楽教師から歌手に転身。作曲家の佐々木すぐるの勧めで昭和7年、レコードデビュー。柳井はるみの芸名も持つが、松島詩子は山田耕筰が命名。

多くの芸名を持っていたが、東北の巡業先で、以前と別の名前で公演を行ったところ「偽者」と騒ぎになり、それ以降は松島詩子で通す。

10年に「夕べ仄かに」がヒット。12年には自らのピアノの弾き語りによる「マロニエの木陰」が大ヒット。13年に歌劇団パヴォーを創設し、「ボッカチオ」の公演なども行った。小学校歌唱指導の旅で「月の砂漠」を全国に広める。

21年には強盗に遭遇。27年1月には第2回紅白歌合戦に向かう途中、タクシーが事故に遭いドタキャン。30年には「喫茶店の片隅で」がヒット。53年、勲四等瑞宝章受章。59年に傘寿記念の新曲「今は忘れて」を出すが、晩年は声が出なくなるとテレビ出演を断り、公の場で歌う事はなくなった。

平成8年11/19午後10時21分、心不全で死去。本名は内海シマ。住まいは小平市小平学園西町だった。故郷の柳井には松島詩子記念館があり、松島詩子を記念した音楽コンクールも行われている。夫も歌手の内海一郎。>(「誰か昭和を想わざる」)

広辞苑でマロニエを引くと、地中海沿岸の原産。イタリア、フランスなどで街路樹として栽培。セイヨウトチノキとあるから、西洋のは日本産と品種が若干違って、どうやっても食べられないのかも知れない。

いずれ日本には昔から「栃餅」というのがあった。広辞苑にも「光沢ある褐色の種子からアク抜きして澱粉や栃餅・栃粥などを作る」と出ている。

そこはインターネットの便利さ。アク抜きは大変面倒なものである。石川県白山市白山名物「栃餅」の志んさ が出てきた。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C6%CA%CC%DF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=27&y=6


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2007年09月24日

◆福田康夫全人像

渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」主宰)

次期v総理大臣福田康夫は71歳(古稀)を迎えた(2007年7月16日)。誕生
年は昭和11(1936)年。当時は大蔵省のキャリア官僚だった、群馬県群馬
郡金古町足門(現在の高崎市足門町)出身福田赳夫の長男として生まれた。
姉は元代議士越智通雄夫人。

福田家は江戸時代には庄屋(村長)をつとめた地元の名門であった。赳
夫は小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、
第一高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に一番の成績で入
省した。その第2子として生まれたのが康夫である。
 
父赳夫が大蔵省で官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)
を経ている頃である。康夫はその公式サイトによれば、昭和24年3月 
学芸大学附属小学校卒となっているが、この前年の昭和23(1948)年9月
13日、主計局長の父は、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕されている。
小学校5年生だったろう。

康夫の公式サイトでは「戦争中の疎開のため群馬県群馬町金古小学校、
大宮市南小学校、高等師範附属小学校、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ 」
となっているが、既に学芸大学附属小学校に移っていたはずだ。父親の
逮捕がトラウマになっているかどうかは分からない。

昭和27年3月 麻布学園中学校卒。昭和30年3月、麻布学園高等学校卒と、
中学、高校を通じての有名校狙いのコースだったが、入学したのは早稲
田。弟2人も早稲田卒。昭和34年3月 早稲田大学政治経済学部経済学
科を卒業石油会社(丸善石油)入社。

昭和37年3月から米国駐在(2年間)という経験もあり、英会話はかな
り堪能だ。あるいはこの経験が外交好きの素地になっているかもしれな
い。帰国後は課長になっていた。

昭和47(1972)年の「角福戦争」で父が総理・総裁の椅子を賭けて田中角栄
と死闘を展開しても、表には絶対、出てこなかった。「うちの康夫はな
なんだって、あんなに官僚的(無愛想)なのかなぁ」と父がこのとき嘆
いた。

それから4年。田中政権は金権と女性のスキャンダルですぐ倒れ、続く
三木政権は、田中・大平正芳・福田聯合による「三木降し」によって倒れ、
「大福密約」により、昭和51年11月、父が待ちに待った第67代の総理大
臣に就任した。それを機会に石油会社を退社し、衆議院議員福田赳夫秘
書となった。

この点に関してフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は

<1976年 - 1978年 父親の首相就任に伴い、議員秘書、首相秘書官をつ
とめる。しかし父である福田赳夫は「康夫は政治に向かない。」として、
福田康夫に秘書を勤めさせる前は次男を秘書にしており、いずれは次男
に自分の跡を継がせようと考えていた。

ところが次男が若くして急死した為に苦肉の策として、長男の康夫に会
社を辞めてもらい、自分の後継者として一から育てて行く事を決めた>
と書いているが、違う。

次男征夫(いくお)はこのころはピンピンしていた。伊香保温泉旅館に
養子に行って「横手」姓になってなお東京で父の秘書をしていたが、福
田政権1年目は2人で秘書を続け、首席秘書官は運転手だった市村とい
う人が勤めた。2年目からは総理大臣首席秘書官のポストをあっさり兄
に譲ったのだった。

征夫が癌で逝去するのは福田政権も終わってかなりあとからである。ウィ
キペディアの記述は若い人が誤解に基づいて書いたもののようである。

康夫は昭和52年12月、内閣総理大臣秘書官。しかし僅か1年で失職。何し
ろ、福田総理の任期は大平幹事長との密約で「任期2年」のはずだった。
それを押して敢えて大平と争った父親だったが、あえなく敗戦、下野と
なったのだ。

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2007年09月22日

◆田中角栄再評価の嘘

                         渡部 亮次郎  

田中角栄の失脚について、ロッキード事件は田中を失脚させるためにアメ
リカが仕組んだ謀略だとの説が流れ、いつまでも消えていない。ところが
2004年12月20日に元ロイター通信の記者徳本栄一郎(1963年佐賀県生まれ)
という人が「角栄失脚 歪められた真実」という本(光文社)を出して完全
に打ち砕いた。

なにしろ田原聡一朗も立花隆も為し得なかったアメリカ政府の関係内部文書の入手
を果たすと共に英語に堪能なところを生かして当時の関係者に悉くインタ
ビューして「角栄失脚後30年トラウマ(心的外傷)」を解き明かすことに成
功したのである。

徳本が挙げる田中失脚陰謀説とは次のようなものである。
 1.石油を初めとする田中角栄の独自の資源外交が米国政府を刺激し
  た
 2.ユダヤ系多国籍企業(ロックフェラー)の怒りを買った。
 3.親中国・反米政策が米国を刺激した。

 4.陰謀を発案したのはヘンリー・キッシンジャー国務長官らである。
 5.陰謀を実行したのはCIAである。
 6.陰謀の第一歩は、田中角栄を辞任に追い込んだ雑誌「文藝春秋」
 の田中金追及の記事である。

徳本の取材では「結論から言えば、こうした陰謀説すべてが虚構だった」そ
うだ。また、かねてからすべてについて反論、否定していた金脈追及主役
の立花隆には、それを裏付けるアメリカ側からの資料なりインタビューが
なかったので迫力を欠いていた。

しかし徳本は日本人記者としては初めてアメリカ人たちへの切り込みに成功
した。「ロッキード事件は田中角栄を失権させるためにアメリカが仕組ん
だ謀略だ」と初めて書いたのは、評論家の田原総一朗である。「アメリカ
の虎の尾を踏んだ田中角栄」(「中央公論1976年7月号)だった。田
中真紀子をはじめ、多くの人が田原のこの論文を読んで、謀略説を信じて
いる。

田原が言う謀略説の根拠は、チャーチ委員会に届けられたロッキード関係
の内部資料が「誤配」によるものだからだが、そんな馬鹿な話はなくて、
これは何者かが意図的に仕組んだに違いないということだった。

ところが徳本が今度、事件を摘発した上院チャーチ委員会の調査責任者だ
ったジャック・プラム弁護士に尋ねた。そうしたところ、彼は「あれは委
員会に資料が渡らぬようロッキード社やキシンジャー国務長官らからの圧
力と委員会の強い要求との板ばさみに参ったロ社の監査法人事務所がロッ
キード社に“誤配”と嘘をついて当座の責任を逃れたもの。実際に持って
きたのは法律事務所の人間で、箱を渡して黙って出て行った」と答えた。

2007年09月21日

◆麻生を阻んだ一言

渡部亮次郎

自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任した野中廣務氏は2003年10月政界を引退した。しかし今回2007年9月のポスト安倍の政局を仕切ったのは野中氏であった。

引退後も各種メディアを利用しての反小泉の活動を行っていたものの、このところマスコミに身を曝す事はなかったのに、今回の麻生攻略で作、演出、総監督を務めた。

一説では今度の政変劇の裏では宏池会(旧池田派)の権力闘争があった。策士・古賀誠氏に麻生氏はしてやられたドラマだったという解説は正鵠を射ている。

そもそもポスト安倍は麻生と喧伝された裏では、麻生殺しのシナリオがひそかに練られていた。多分、古賀氏がシナリオ作りをしたといわれたが、その実、裏にいた軍師野中広務氏が作並びに演出、総監督だったはずだ。

2000年秋、森内閣に対する与党からの不信任案をめぐる「加藤の乱」では、野中幹事長は加藤派の古賀誠(国会対策委員長)らと連携し、加藤派の多くを切り崩した。乱は無事終結したが野中氏は幹事長を辞任した。

その時が野中氏の真骨頂だった。堂々と後任に森総理をして無名に近かった古賀誠氏を充てさせたからである。誰にも有無を言わせぬ凄さが野中氏にはあるのだ。

野中氏は、かねて自身が被差別部落出身者であることを公言しており、その人生は徹底した差別との闘いでもあったと本人は語っている。

1925(大正14)年10月20日、京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)生まれの野中氏だが、旧制中学卒業後、当時の国鉄で叩き上げ、地元の町議、府会議員の後が凄い。

共産党の蜷川知事に対抗馬を立てて勝利するや、自らが副知事となって京都府政を牛耳ったのだ。私はその頃、厚生大臣秘書官としてある案件をめぐって役人を介して野中副知事と交渉し、その凄さを知った。

中央政界への進出がそれだけ遅くなったが、世襲議員が要職の多数を占める自民党内で叩き上げの野中氏は特別な存在となり、あっという間に政局を動かし始めたのだった。

その野中氏に派閥を超えて親炙する古賀氏は加藤紘一氏の側近とも見られていたが、「加藤の乱」に際しては、当時幹事長職にあった野中氏の意向に沿って反加藤として動き、加藤氏と訣別して堀内派の結成に奔走した。

その派閥がいまや古賀派となったのだから野中氏の分析能力には舌を巻く。。

その野中氏が強烈な反麻生太郎になる事件があった。「麻生太郎による部落差別発言」事件である。

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2007年09月20日

◆古賀幹事長でいいのか

                      渡部亮次郎

福田総裁の下の自民党幹事長は元幹事長古賀誠さんだと夕刊フジが9月20日付で報じた。ことの行きがかり上、妥当な線だとは思うが、中国のために靖国を見限るという靖国神社総代・日本遺族会会長を先頭に自民党はどこへ向かうのだろうか。

2歳の時に父がフィリピン・レイテ島で戦死。女手一つで苦労する母親の姿を見て、政治家を志す。鬼丸勝之参議院議員の秘書を経て、1980年に衆議院議員に初当選。以来、連続9回当選。

私は鬼丸勝行さんは知っているが、当時から秘書だったという古賀さんとは面識がない。

古賀さんは野中広務さんとは派閥は違うが師弟関係にあるそうで、2000年には野中さんの「指名」で自民党幹事長に就任。本来、幹事長は総裁指名だが、当時、野中さんはそれだけの力があったということだ。総裁森喜朗氏は野中さんに頭が挙がらない事情があった。

ところで、野中さんかねてはご自身が被差別部落出身者であることを公言しており、野中さんの人生は徹底した差別との闘いでもあったと本人は語っている。

世襲議員が要職の多数を占める自民党内で野中さんは特殊な存在で、政治的には部落解放同盟との折衝や似非同和行為を取り締まる上で自身の出自を武器として利用した。

古賀さんは加藤紘一氏の側近とも見られていたが、「加藤の乱」に際しては、当時幹事長職にあった野中さんの意向に沿って反加藤として動き、加藤と訣別して堀内派の結成に奔走した。

「加藤の乱」とは2000年11月に第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の政治行動のこと。別名は加藤政変・YK革命。

党幹事長の野中広務氏による党内引き締めにより、加藤氏の意図は失敗したが、翌年春の自民党総裁選での小泉当選への布石となった。

古賀さんは小泉純一郎政権下では道路公団民営化反対派の中核となるなど、野中、亀井静香氏らと並んで「抵抗勢力」側の代表的な政治家の1人とみなされるようになる。

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2007年09月17日

◆三段論法の2人だが

                        渡部亮次郎

三段論法(さんだんろんぽう ギリシア語 syllogismos)は、「大前提」「小前提」「結論」の三つの命題から成る推論規則である。アリストテレスによって整備された。

「大前提」に法則的に導き出される一般的な原理を置き、「小前提」に目前の具体的な事実を置き、「結論」を導き出す。

以下に三段論法の例を示す。

大前提:すべての人間は死すべきものである。

小前提:ソクラテスは人間である。

結論: ゆえにソクラテスは死すべきものである。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

田中角栄と話していると、彼は「一段論法者」だったと今思う。「余は正義也」。己の信ずるところがすべて正しいのである。それを通すためにあらゆる小技を使ったが、小技を全く使わずに一段論法を通そうとするのが娘真紀子である。

ついでに言えば真紀子の子供たちは三段論法の信奉者らしいので、みんな真紀子の言う事は聞かない。田中ファミリーはアリストテレスによってバラバラになった。

三段論法。これこそは西欧である。明治の元勲はそろって三段論法を学ぼうとした。それこそが「先進国」の哲学と信じたからである。

東京大学はそれを教える場所として作られたものであり、そこで育成された官僚は国に起きるすべての事象を三段論法で処理した。

麻生太郎は学習院大学 ロンドン大学大学院(中退)、福田康夫は早稲田大学政治経済学部経済学科卒の経済学士だが、教えられた事は三段論法がベースになっていた。

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2007年09月15日

◆額賀福志郎の立場

渡部亮次郎

<出馬表明をしていた額賀福志郎財務相(63)=津島派=は14日、福田
氏と会い、出馬断念を伝えた。

額賀氏は所属する津島派の総会で出馬表明していたが、派閥実力者の青
木幹雄前参院議員会長は同日、額賀氏に出馬を思いとどまるよう電話で
説得していた。

(各派は14日の総会などで、福田氏支持になだれを打っている)。

町村派(80人)をはじめ、
古賀派(46人)
山崎派(38人)
伊吹派(25人)
谷垣派(15人)
二階派(15人)

額賀氏が所属する津島派(67人)も参院側の20人が、福田氏を支持する
立場の青木氏に対応を一任した。>9月14日11時48分配信 毎日新聞

又も不出馬に追い込まれた額賀氏。田中角栄氏はともかく竹下登元首相
に死なれてから政治的不幸に見舞われている。私は日米安全保障問題を
通じて知り合い、訪米も2回、一緒にした仲。周囲に細かい気遣いの出来
る、能力豊かな好漢である。捲土重来を期待する。

昭和53年(1978年)2月1日付けで産経新聞を退職し、同年12月、郷里の
茨城県議会議員選挙に行方郡選挙区から当選する。

選挙に先立ち地元の有力代議士であった橋本登美三郎に会い支援を得た。
当選後は、橋本の系列県議として活躍する。

昭和55年(1980年)の第36回衆議院議員総選挙で落選した橋本登美三郎
の後継者をNHKの海老沢勝ニ氏と争ったが、海老沢氏は実家が倒産という
悪条件のため断念。

昭和58年(1983年)第37回衆議院議員総選挙に旧茨城1区から立候補する。
自民党公認は得られなかったが、茨城県連推薦を得て、4位で当選する。
以後、当選8回。

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2007年09月14日

◆福田圧勝の悲劇

                          渡部亮次郎

以下の世論調査は、我々日本国民の政治レベルの低さを表しており、自民党内がこの「世論」に従うとなれば総裁選挙は福田康夫氏の圧勝であり、それはとりもなおさず「悲劇」である。

<毎日世論調査 安倍政権「評価しない」が74%

毎日新聞が7〜9日に実施した全国世論調査(面接方式)で、過去1年間の安倍政権を「評価しない」と答えた人は74%に上り、「評価する」は22%にとどまった。

首相のやったことのうち、間違っていたと思うものは「政治とカネ問題や閣僚の失言への対応」が44%で最も多く、次いで「参院選後の続投」の20%。内閣支持率が30%台に低迷していることに加え、政権の実績への評価が低い点も早期辞任を促したとみられる。>9月13日17時15分配信 毎日新聞

これを見る限り、安倍後継レースでは福田元官房長官の圧勝間違いなしだ。

毎日新聞の世論調査を詳しく見てみよう。

<「評価しない」と回答した人を支持政党別に見ると、野党支持層は民主91%、共産92%、社民88%などと高率で、「支持政党なし」と答えた無党派層も80%。

一方、与党支持層でも自民が51%、公明が59%に上った。

年代別では20代が80%で最も高く、30〜50代はいずれも78%、60代が69%、70代以上が61%で、若中年層で厳しい評価が目立つ。男女別では男性76%、女性71%だった。

首相のやったことについては「良かったと思うもの」「間違っていたと思うもの」をそれぞれ5つの選択肢を用意して質問。

「良かった」は
(1)「天下り規制など公務員制度改革」24%

(2)「年金記録漏れ問題への対応」23%

(3)「教育基本法改正など教育再生の取り組み」15%

(4)「中国、韓国との関係改善」13%−−の順。首相は憲法改正を政権の目玉に掲げたが、「改正手続きを定めた国民投票法制定」は7%にとどまった。

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◆機能性胃腸障害

渡部亮次郎

<安倍首相胃腸障害で最低3〜4日の入院必要…慶大病院
辞任表明した安倍晋三首相を検査した慶応大学病院(東京都新宿区)は13日午後、記者会見した。

主治医の日比紀文内科学教授は「首相は全身が衰弱している。体重も数カ月で約5キロ減った。機能性胃腸障害で、ひどくなると日常生活に支障をきたす」と説明し、「少なくとも3、4日の入院、安静加療が必要だ」と述べた。

首相は同日午前、同病院で検査を受けていた。首相は同日午後の自民党両院議員総会に出席したい意向を伝えたが、医師団が無理と判断したため、取りやめた。> 9月13日14時36分配信 毎日新聞

「機能性胃腸症」は新しい言葉だ。

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2007年09月13日

◆安倍辞任の真相

                         渡部亮次郎

<安倍晋三首相は12日、辞任する意向を固めた。参院選で惨敗したものの、内閣改造を断行することによって政権浮揚を図ったが、失敗したことが原因とみられる。これに関連し、麻生太郎幹事長は首相の辞意について「ずっと前から聞いていた。自分には求心力がないと言っていた」ことを明らかにした。

同日午後1時から首相の所信表明演説に対する各党代表質問が予定されていたが、自民党幹部は民主党幹部に対し「わたしは代表質問に出るわけにはいかない。健康上の理由だと首相が言っている」と伝えた。>9月12日13時33分配信 時事通信


<自民党の総裁選挙 19日に。

政府・自民党関係者によりますと、自民党は、安倍総理大臣の後継を選ぶ総裁選挙を今月14日に告示し、19日に両院議員総会を開いて、国会議員と自民党の地方組織の代表による総裁選挙を行う方向で調整することになりました。>NHKニュース9月12日 16時20分

真相は追々明らかになってくるだろうが、決定的な事は肉体的にも精神的にも限界点に達していた、という事ではないか。半生、精神力を鍛錬する「苦境」に立った事があったとは考えられない。

「参院選で負けても辞めない」は小泉全総理に刷り込まれた事であって、実際の重圧を予想し、自ら決意した事ではなかったはずだ。

私が総理辞意表明の前夜、財界筋から得た情報では、安倍さんの痩せ方が尋常では無い。最盛期より10Kgも痩せた、とのことだった。真相は不明だが、痩せて生気を失っていた事は事実である。

安倍周辺に通じている人の話によると、原因は腸が普通より短い事にある。すぐに消化不良と下痢を繰り返すため、ストレスが溜まるとたちまち痩せることになる。加えて精神力は元々無い。

麻生以外に相談した政治家は無いはずだ。あったとすれば小泉前首相だが、すれば「辞めるな」といわれるに違いないから相談しない。派閥を牛耳る森元首相や青木幹雄元参院自民党議員会長は参院選敗戦直後に辞任を勧めて断られた仲だから、今回は無関係。

おそらく「神のお告げがあったから安心してほっぽり投げられた」と周辺は言う。神とは母親にして祖父の一人娘洋子のことである。
晋太郎亡き後、晋三を総理にする事だけを夢見てきた人。

精神的苦悩で日に日に痩せて行く息子を見るに忍びなく、ついやさしい声をかけたのではないか。おそらく昭恵夫人も同様だったのではないか。

そこで2日前の10日に麻生幹事長とサシで会って、健康上の理由で辞意を匂わせていたようだ。当日の行動記録を読むと夕方5時26分から20分以上も会談している(院内大臣室)。

その一方で小沢民主党代表との党首会談に一縷の望みを託していたのだから、やはりお坊ちゃんというしかない。

こうして「政局」に突如なったわけだが、自民党の領袖たちの中で古賀誠はツンボ桟敷だった。この古賀はおそらく福田康夫に擁立を働きかけると見る向きは多い。これに対して旧経世会(津島派)がどう動くか。

森本首相と青木も福田擁立で動くだろう。だが福田が立たなければ、空振り。

麻生以外は立たない可能性もあり、と事情通。安倍の腹には麻生後継しかないが、後継を指名できる力は残っていない。文中敬称略。2007・09・12

 
<◆渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第930号>
       平成19(2007)年09月13日(木)
目次
・安倍辞任の真相:渡部亮次郎
・なんとも無念だ・・・:花岡信昭
・中国に撤去を要求:宮崎正弘
・待ったなし中国の汚水処理:平井修一

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