2007年12月23日

◆所得倍増政策の頃

                    渡部亮次郎

産経ソウルの久保田るり子記者は「経済大統領」をアピールした李明博氏は、20代から30代の若者層の支持を集めた。特に20代の保守化現象は今回選挙の特徴だった、という。2007.12.19 22:46。

韓国青年たちの「政治理念よりも就職を」という主張を耳にするたびに思い出す事は、安保改訂反対で一時は自民党岸内閣を倒した大学、高校生たちが次に登場した池田勇人首相の「所得倍増論」でシュンとなった日本の1960年代である。

あれから50年近く経って韓国で学生たちは「88万ウォン世代」と呼ばれている。88万ウォン(約10万円)とは大卒にも拘らず非正規職にしか就けない大卒の平均給与額だ。

盧武鉉政権の経済運営の失敗は若年失業者を増加させ、大卒就職率は48%まで低下、若者層は革新政権に見切りを付けたのだ。「李明博氏圧勝の背景には88万ウォン世代の逆襲」があったのだ」との久保田記者の指摘には説得力があった。

10年前、金大中氏が大統領に当選したのは、朴正煕大統領以来の政治的締め付けに反発する若者の心が、共産主義体制への恐怖心を超越しても民主化に憧れる20代の心を捉えた。

ところが「韓国の20代はこれまで歴史的には過激で政治的だった。革命を求めて連帯してきた。ところがいまは脱政治で保守的で父母にも従順だ。

昔はアルバイトで生活できたが、いまは学費もデートも結婚も、父母に頼らないと生活できなくなったからだ」と禹●(=析の下に日)熏氏はいう。

韓国の非正規職従事者は約800万人、20代で公務員を含む希望の就職先に就けるのは約6%に過ぎないとの調査もある。

韓国経済は10年前の金融危機(IMF管理下)で構造調整を余儀なくされ、盧武鉉政権の大企業優先と公権力拡大の政策は企業の雇用創出能力を激減させた。その結果、経済成長率は約5%だが、大卒は就職難という構造的問題に直面しているのだ。

これについて半島問題に詳しい西岡力氏(東京基督教大学教授)は産経新聞(2007・12・21)の寄稿の中で「(青年の)保守化の流れを作り出した要員は第一に慮政権の無能力と失政だ」と断定している。

この政権が重用した人材は専門知識と実務経験の不足な左翼革命運動家出身だった。ために政策(の誤りから来る)朝令暮改、不正・腐敗蔓延などが繰り返されたという。

思い起こせばわが国の1960年、今考えてみれば岸信介首相の日米安保条約改訂は、歴史の流れに沿った真っ当な流れだった。それにも拘わらず、当時の日本社会党や日本共産党や総評は、安保破棄乃至廃棄に結びつけた大衆運動に繋げようとしてマスコミや学生を操った。

金大中や慮もまた膝を屈してでも北朝鮮と歩みを共にしようとして20代の青年を民族運動の観点から煽った。狙いは当初は当った。しかし戦略的には友好国日本や米国を仮想的視した結果、外資の投資が枯渇し経済が疲弊し、若者の就職先がなくなった。

投票年齢19〜39歳までの若年層の全投票者に占める割合は43・9%。この層が「就職問題を解決する」「経済を生き返らせる」と公約して、経済人としての実績のある李明博氏を支持したのは当然だ。

40代(22・5%)も李明博氏への支持が強かった。40代は盧武鉉政権誕生の原動力となった386世代(当時30代、80年代に民主化運動に参加、60年代生まれ)だ。5年前に進歩政権を選んだ、当時の盧武鉉支持層がそのまま李明博氏支持に回ったことになる。

世代論に詳しい高麗大の李名鎮副教授(41)は「若年層の保守化は同時に新しいものへの志向でもある。李明博氏のような政治家は、韓国の既存の政治家にはいなかった。

盧政権の選択は反エリートだったが、李明博氏は過去の政治へのアンチテーゼで、経済回復と発展への選択ともいえる」と分析している。

安保闘争のときの1960年6月も高度経済成長など想像もできない貧しい時代だった。政治のスローガンに「経済成長」を掲げる首相はどこにもいなかった。

しかし倒れた岸の後に登場した池田が「所得」を話題にするや否や国民、若者もまた雪崩を打つように「倍増」に群がったのだった。

それを考えれば韓国は怒るかも知れないが、これから「理念」よりも「実利」「所得」の歩みを始めるのではなかろうか。いうなれば韓国は「金大中」に漸く別れを告げたのである。文中敬称略。2007・12・21

2007年12月22日

◆薬害肝炎訴訟団の不条理

                  渡部亮次郎


薬害肝炎弁護団HP
http://www.hcv.jp/1126opinion.html
 
全国原告代表
『わずかな原告しか登れない登山道を350万人が登り、頂きにたどり着けるはずがありません。

薬害肝炎全面解決のために、一般肝炎対策実現のために、今後も
闘っていきます。切り捨ては許しません。』
 
大阪原告代表
『この訴訟はウイルス性肝炎患者350万人の恒久対策を獲ち取るための闘いであるといいわれ、原告はその代表であると、私も肝に銘じて闘ってきました。』
 
九州原告
『責任をもって350万人のウイルス性肝炎患者救済のための道筋を作ることが、私たち薬害肝炎原告団の役割だと思っています。』
 
薬害肝炎九州弁護団 弁護士
「この薬害肝炎訴訟の中で、1人でも切り捨てを許すことは、実は、加害に加害を重ねることだ。

国や製薬会社に1人でも切り捨てをゆるすこと、あるいは、裁判所に1人でも切り捨てを許すような線引きをしようとすることは、犯罪であるということを、私たちは多くの国民の皆さんに訴える」。

そこで問題発生を時系列に整理するとこうなる。

(1) 当該血液製剤開発〜1985年
1977年アメリカでB型肝炎ウィルスが原因でフィブリノゲンの販売禁止。

だが日本ではB型肝炎は不活性化されていたため販売継続。(ここを知らない、または意図的に混同している人が多い。)

ちなみにこの不活化処理がたまたま存在が知られてなかったC型にも効いていた。

(2) 1985年8月〜
それまでB型肝炎不活化処理に使っていた物質に発ガン性が発見され使用禁止に。しかも偶然、新しい方法ではC型肝炎を不活化できなくなった。

1987年 血液製剤由来と思われる非A型非B型の未知の肝炎の集団発生を受けて厚生省とミドリ十字が調査開始。

調査中の感染拡大を懸念し原因は不明な段階ながら予備的措置として過熱化を決定。

1987年4月20日 ミドリ十字 非加熱フィブリノゲン自主回収開始。1987年4月30日 厚生省 加熱フィブリノゲンの製造承認。

(3) 1988年5月〜
1988年5月 厚生省 加熱フィブリノゲンの回収等を決定。
1988年6月 ミドリ十字 各医療機関にフィブリノゲンの返品を要請 。

(4) 1989年 アメリカでC型肝炎ウィルス発見。


米国FDAですら規制していなかった以前の肝炎まで全て一律救済しろは、さすがに無理である。
「薬害を批判していながら、未承認薬の認証を早く求めるのは矛盾である。マスゴミはこの事は指摘しない。
 
さらに問題なのは、今回の「FDAの規制以前の患者まで一律救済」
を認めたら、一切、新薬を認証できなくなる恐れがある。
 
他の病気の患者が、最新の薬が使えなくなり、話題の万能細胞
の治療も、将来日本だけ普及できなくなる危険性がある。

政府は、FDA規制以前の患者に休載の金を出さないとは言っていない。和解金としてではないが、基金からきちんと金を支給すると
言っている。
ただ、「FDA規制以前の患者まで国の責任にするな、これから
医療行政が動かなくなるから」ということである。

ハンセン病の補償の時は、政府は裁判所の和解案に従った。今回も政府は裁判所の和解骨子案に従っている。
 
患者団体側の主張「FDA規制以前の患者まで一律救済」は、
話が飛躍している。
 
しかもマスコミは印象操作をして、政府がおかしいと言っているが、
政府は法治国家の三権分立に従っているだけである。批判するなら、そういう和解骨子案を出した裁判所を批判すべきだ。
 
どう駄々こねても、裁判所の和解案から大きく外れた飛躍をするわけにはいかない。首相の一存でそんなことができたら、それこそ法治国家ではなくなる。

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2007年12月21日

◆朝鮮半島非核化へ決意

                渡部亮次郎

<【ソウル西脇真一】韓国大統領選挙で当選した野党ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)前ソウル市長(66)は一夜明けた20日午前、ソウル市内で記者会見した。

「核のない朝鮮半島平和時代を必ず切り開く。南北間で今、最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語り、朝鮮半島の非核化実現に強い決意を示した。李氏は来年2月25日、第17代大統領に就任する。

李氏は「国民は理念ではなく実用(主義)を選んだ。成長の恩恵が庶民と中産階級に届く新たな発展体制を開く」と、改革を断行して経済成長を推進する考えを示した。

「建国、産業化、民主化を経て今や、先進化へと進まなくてはならない」と述べ、新たな国家建設に着手する意向を明らかにした。

中央選管が20日未明発表した選挙結果(開票率100%)は、李氏と次点だった大統合民主新党の鄭東泳(チョン・ドンヨン)元統一相(54)との得票差が531万7708票で得票率差は22・6ポイント。過去8回行われた直接大統領選の中で最大の得票差だった。> 12月20日11時33分配信 毎日新聞

李明博氏は就任まで2ヶ月あまりも待たなければならない。その間政敵は陰に陽に妨害に走るし、狂信的なものは暗殺を企てる危険も否定できない。

韓国では朴正煕大統領が現に側近にとはいえ暗殺されたし、その前に起きた在日韓国人文世光による暗殺未遂事件(夫人が流れ弾で死去)は陰に北朝鮮=朝鮮総連ありと噂されたものだ。

特に今回は10年ぶりの政権交代であり、その分、10年間、得をして来た左翼の連中は利権を一挙に失うわけだし、北は「最大の懸案は北朝鮮に核を廃棄させることだ」と語られては何をするか分からない。身辺を十分、警戒すべきだ。

1968年1月21日未明、朴正煕韓国大統領暗殺未遂があった(青瓦台襲撃未遂事件)。北朝鮮の特殊部隊31名が朴大統領暗殺を企てソウル市内に侵入、銃撃戦により阻止された。

私は1977年6月、訪韓した際、襲撃隊員のたった1人の生き残りと会見したことがある。ソウルは電気もない貧しい街。襲撃は必ず成功すると教え込まれてやってきたが、未明に南山から市街を覗くと輝くばかりの夜景。「しまった、東京へきてしまった」と隊長が呟いた、と言っていた。

ところで「暗殺」はいつの時代にもある。古今東西変わらない。
1979年10月26日 韓国・朴正煕大統領、暗殺される。KCIAの金載圭部長による(10・26事件)。 それ以来現在までこれだけつづいている。何時あってもおかしくないのだ。

1980年9月 ニカラグア前大統領のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ、亡命先で暗殺される。

1980年12月8日 歌手ジョン・レノン暗殺。犯人はマーク・チャップマン。ジョンをNYのダコタ・アパートに訪ね、イタリア街でご馳走になってから2年と経っていなかった。

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2007年12月19日

◆加瀬俊一氏の再登場

                  渡部亮次郎

日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に民主党の小沢一郎代表が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10恃55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

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2007年12月18日

◆久間章生さんの復帰

渡部亮次郎

初代防衛大臣久間章生(きゅうま ふみを 衆院長崎2区 当選9回 勤
続27年 67歳)氏は「解離性大動脈瘤」の大手術を無事終えて、早くも
12月13日夜、千代田区内の会場で開かれた地元出身者中心の会合に元気
な姿を見せた。

出席者の話によるとこの会合は入院前に決まっていた「久間章生君を囲
む会」でルポール麹町ロイヤルクリスタルで開かれた。

この夜はたまたま「関東長崎県人会(赤坂プリンスホテル)」とダブっ
ていたので参加者が少ないのではと心配されたがた、参加者約150人で主
催者をほっとさせた。

少し遅れて久間代議士が到着、挨拶した。出席者によれば久間氏は次の
ような趣旨のことを述べた。

「東京・府中市の榊原記念病院で『解離性大動脈瘤』という難病の大手
術を受けた。午前中から始まり翌未明まで15時間にも及んだ。

心臓をいったん人工心臓に置換え、本物の心臓を3時間の期限以内に処
置するという難手術。しかし石原裕次郎が死んだ頃と段違いの医療技術
の進歩のおかげ」と説明。

防衛省等の「不祥事」については「すべて堂々と受けて立つ。やましい
ことはない」「政治家が『この企業は立派な企業だ』と紹介するのは当
然のこと、その先に(『発注せよ』などという)行くのはいけない。

私は脇が甘いと言われているらしいが、そこのところの節度はきちんと
している。そのつもりで、今後ともよろしくお願いしたい。明日から活
動は開始するが、年内静養しながら、来年は本格的にがんばりたい」と
報告。

報道陣は(代議士と親しい)2人だけ。カメラを回ししっかりインタビ
ューをしていたそうだ。2007・12・14

(上記関連原稿)

◆「裕次郎の死因は肝臓癌」
                石岡 荘十(ジャーナリスト)
上記1028号で本メルマガ主宰の渡部亮次郎氏が、「初代防衛大臣久間章生(67)氏は「解離性大動脈瘤の大手術を無事終えて、13日夜、会合に元気な姿を見せた」と伝えているが、この夜の久間氏の言葉には幾つか誤解を与える文言がある。

この記事の中で書かれているように、病名、解離性大動脈瘤が話題にな
るたびに、石原裕次郎のケースが関連して話題となり、久間氏も「石原
裕次郎が死んだ頃と段違いの医療技術の進歩のおかげ」と説明したそう
だ。

結果、裕次郎の死因が解離性大動脈瘤だったという印象を与えるが、裕
次郎の死因については誤解がある。久間氏だけでなく、このことが話題
となったとき、私の友人に訊いてみると、そう思っている人が少なくな
いようだった。

誤解はそれだけではない。

久間氏は解離性大動脈瘤を「難病」だったと思っているようだが、正確
に言うと難病とはいえない。

難病については、昭和47年の難病対策要綱に、「原因不明、治療方針未確
定であり、かつ、後遺症を残す恐れが少なくない疾病(後略)」と定義さ
れている。解離性大動脈瘤は原因不明の病気ではない。

ただ手術は、人工心肺装置を用いた体外循環を行い、心臓を停止させた
り、脳への血流を一時的に遮断したりして、破裂している血管、或いは
破裂しそうな血管を人工血管に置き換える大がかりなものだ。

離性大動脈瘤のタイプ、緊急かどうか、破裂しているかどうかによって
危険性も違ってくる。ほとんどが緊急であり、血管の壁も弱くなってお
り、手術の危険性も高くなる。

心臓血管外科専門医を認定する認定機構がA,B,Cの3段階に分類している
心臓手術の難易度でも、「C」つまり「最も難しい手術のひとつ」とはさ
れているが、難病の定義でいう「治療方針が未確定」の病気ではない。

先に京都大学医学部心臓血管外科部長を退官した「ゴッドハンド」を持
つといわれる米田正始医師も、「この病気は手術しないと発症2日間で
約半分が死亡し、1週間で8−9割が死亡 する恐ろしい病気ですが、手
術すれば、経験豊かなチームなら95%以上の確率で救命できます。

ただし手術前に心臓がすでに止まっていたとか、全身が厳しくやられて
いたなどの場合は救命できないことがあり、速やかな治療がそれほど重
要 なわけです。もし久間氏がまずまず良い状態で手術に間に合っておら
れれば、榊原記念病院(東京・府中市)の チームならおそらく大丈夫で
はないかと思います。もし現時点でとくに問題なければ予後はまずまず
良好です」とコメントしている。

私の友人の奥さんも、最近、大和成和病院(神奈川・大和市)で手術を
受けたが、術後の経過は良好だ。

なお、病名は「大動脈解離が正しいものと思われる」と元教授は言って
いる。

もうひとつ、久間氏は「心臓をいったん人工心臓に置換え----」と言っ
ているようだが、多分、「人工心肺装置」の間違いではないかと思われ
る。人工心臓はまったく別の心臓病治療のため、心臓を切除して体内に
埋め込まれる人工臓器である。人工心肺は、弁膜症で弁置換手術のとき
にも使われる体外循環のための医療機器で、私もその経験がある。

さて石原裕次郎の死因である。

12月16日(金)放送されたNHKの「プレミアム10」で、まき子夫人(北原三枝)は山根基代さん(前NHKアナウンサー室長)のインタビューに応えて、「解離性大動脈瘤の手術は成功したが、その後、肝臓癌であること
が分かった。死因は肝臓がんだった」という趣旨の話をしている。ただ、
「本人には告知しなかった」とはっきりと答えている。

ほとんどの心臓疾患はいまや、治療法があり患者は助かる。ただし大動
脈解離のような手術の危険性の高い病気の手術は“名医”でなければ手
に負えない。しかし、癌治療法は名医であってもいまだそのレベルには
達していない。

なお兄の石原慎太郎東京都知事は著書『弟』の中で、「若い時の深酒が
早世の遠因になった」と書いている。その深酒の季節が、そこまで来て
いる。2007.12・16


2007年12月14日

◆徒ならぬ福田・小沢関係

                    渡部亮次郎

事情通に言わせると、民主党小沢一郎代表氏。中国ゴマスリ遠足から帰ってから元気がないという。

また週刊新潮は13日発売の2007年12月20日号でこてんぱん。「中国の“皇帝”に卑屈な態度で拝謁した小沢氏。が、開会中の国会を無視して強行した訪中に見るに耐えないと党内からも批判が噴出」と厳しく4ページに亘って笑われている。

これでは従(つ)いていった国会議員連中ですら、選挙のことを考えれば行かないほうが良かった?

捜査が政界ルートに向かって進展中とされる防衛省過剰接待事件。十何年前、自民党当時、田村秀昭空将を参院議員に仕立てるために山田洋行の宮崎専務(当時)との間に金銭の授受が噂されたものの「時効」で救われた言われたものだ。

ところが、経緯を熟知する人物に言わせると、「時効になっていない部分がある」と言い、小沢氏が自民党を抜け、さらに民主党に加わってからも防衛庁(当時)の事務官をめぐって田村氏の時と同じような事をして、東京地検が嗅ぎまわっているようなことを言う。

つまり今度の事件で或いは地検に呼び出されるのではないかとマスコミが追い回しているこの人物に言わせると、小沢氏は民主党へ行ってからも防衛利権と繋がっていた証拠だというわけである。

このことに関しては2007年11月上旬ごろ変な情報がインターネット上を流れた。

<ああいう利権から得たカネというのは、日本国内で保管するから表沙汰になって地検に把握される。山田洋行の1億を当時専務だった宮崎(日本ミライズ社長)が使い込んだとかいう話は、アメリカにあっても日本企業だから出た話。

そもそも湾岸戦争時に1兆円もの特別会計が組まれたが、ああいう防衛利権は海外で”食う”から、日本ではまず表に出ない。過去の報道をくまなく分析・調査すると、○○が海外に隠し資産を持っていることはもはや暗黙の了解、政界の常識と言っていい>というものであった。

この情報を流した人物は「従って福田首相と小沢代表の会談は連立や政策協議もさることながら、本筋は防衛利権捜査の行方をめぐるきわどい取引が主テーマと断じていた。憶測ではないとは言うが、あまりにも大きな話ではある。

ところで2人の党首会談をめぐる自民、民主の「大連立」話。どうもあれで終わったとは思えない。そんな単純なものではなかったはずだからである。

それは小沢のハラが元々政界再編成による大保守政党の編成にあると見るからである。小沢の魂は、菅や横路との心中にあるのではない。公明抜き保守の再編成にあると見るからである。

田中角栄に引き立てられて育った小沢一郎。旧田中派で金丸信をめぐる野中広務との対立から派内に居られなくなり、遂には脱党した。その結果新党を立ち上げて細川内閣を作って自民党を公明党に売り渡すこととなった。

しかし、これは小沢の本意では絶対無いはずである。小沢こそは保守政治の真髄に迫って行く政治家であるはずだ。だから角栄が本物に育て上げようとしたのである。金丸が目を掛けたのである。

多くの人は福田・小沢会談は過去のものと思っているが、私は小沢が最終的な大保守合同への野望を棄てるはずは断乎として無い、と思うものだから回線は繋がったままだと思う。2007・12・13

2007年12月13日

◆韓国中興の祖 朴大統領

                   渡部亮次郎

朴正煕パク・チョンヒ 大韓民国第5〜9代大統領(963年10月15日―1979
年10月26日 )盧武鉉現大統領はじめ誰がなんと言おうと近代韓国の基礎
を築いた最大の功労者である。

1963年、大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開
発院を設立した事を手始めに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベト
ナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。

園田直さんによると、青瓦台(大統領官邸)の地下1階のトイレのドアが
閉まってなかったといって衛兵にビンタを食らわしたそうだ。

国家主導で産業育成によって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵
所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は
石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。

この結果、日本との国交が無かった1961(昭和36)年には国民1人あたり
の所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620
ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるとい
う「漢江の奇跡」を成し遂げた。

工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、そ
れを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の
近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。

中央情報部長・金載圭は朴正煕大統領の古い友人だったが、学生運動の
弾圧が生ぬるいとして無能をしばしば叱責され、ライバル関係にある車
智!)警護室長からも攻撃を受けていた。

このため、金載圭は両人の殺害を計画するようになった。1979年10月26
日、ソウル市宮井洞の中央情報部所属の秘密宴会場で大統領らと晩餐を
共にした。

その際、反政府学生らが釜山の米国文化館を占拠した事件について大統
領が責任を追及し、車智!)室長が批判を加えて来ると、金載圭は晩餐会
場から出て直属部下の朴興柱・朴善浩に銃声がすれば控え室の警護員を
射殺するよう指示した。

晩餐会場に戻った金載圭は朴正煕と車智!)にそれぞれ2発撃ち、銃声を聞
いた朴善浩らは大統領府警護員らを射殺した。晩餐会場には大統領府秘
書室長金桂元や女性ホステス(有名歌手と女子大生)もいたが、無事だっ
た。

間もなく金載圭らは現場を脱出したが、緊急国務会議で逮捕令が出され、
27日午前0時40分に大統領殺害犯として逮捕された。

その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、陸軍参謀総長鄭昇和大将が戒厳
司令官に就任した。捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した保安司
令官全斗煥少将によって進められ、金載圭とその部下らに死刑が宣告さ
れた。

ちなみに、次期大統領となる崔圭夏は事件の一報を耳にしたとき、「金
日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという。

この事件により、韓国では第四共和国体制が終了し、第五共和国体制へ
移行していく。

2007年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり評価は各人の立場
においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為
には不当な手段のも厭わないものの、私人としては清廉であると評価さ
れつつある。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開
発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判されつづけていたが、民主
化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになっ
たと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」
と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正
煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという
声が高くなっている。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であり、ネポティ
ズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世
を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともい
われる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身
の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕
を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民
主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因とな
った。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済
格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東
アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむし
ろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず
人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配に
おける対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委
員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下
反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍
士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終
的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとな
る)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝國
の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは
歴史家によって意見がまちまちである。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあった
アジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

出生:1917年11月14日 なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があ
るがこれは旧暦での表記であり実際には上記の日にちが正しい。死去
:1979年10月26日

朴 正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)日本語読
みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(-1945年)。ハンナラ党代表
の朴槿恵は長女。

植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ)(現在の亀尾市)で生ま
れた。貧しい農村部家庭の5男2女の末子であった。

父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓
守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は
苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」
と語っていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2007年12月09日

◆宮澤ダメ、角栄OK

                  渡部亮次郎

1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。先に突然、政権を投げ出した安陪晋三の大叔父に当る。

ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。

これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。

7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。

ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。

政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。

71年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。

2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。

<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・・(中略)・・

実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)

このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。

<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)

この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。

宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省の持っていたが、宮澤には何も無かった。

角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すればいいんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。

糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。

ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。

先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。

ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまで下。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。

よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。

「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日康夫内閣を苦しめている独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。旧田中派のお陰で政権を握った康夫だが、角栄に苦労しているとは、皮肉の限りだ。文中敬称略。2007・12.08

2007年12月07日

◆友と語らん篠懸の径

                  渡部亮次郎

散歩する恩賜公園は落葉樹の殆どが裸になって冬支度を急いでいるが、鈴懸(すずかけ・プラタナス)だけは落葉が遅れて、汚い様を見せている。

スズカケノキ(木) (common) plane‖Platanus orientalis 日本には明治初めに渡来し,小石川植物園に植えられた。秋に多数の小堅果からなる直径3〜4cmの球形の集合果が山伏の着る篠懸の衣に付いている房の形に似ているところから,鈴懸という和名がついた。

しかし恩師公園に植えられた8本の大木には、今年は実が1つも付いていないのに6日気づいた。今まで葉が多すぎて分からなかった。

近くで並木になっている公孫樹(いちょう)の雌樹には隔年性というか、銀杏の成り方が1年置きに多くなるように見えるので、鈴懸にもそんな事が有るのだろうか。

不思議に思って、こうしてPCの百科事典を開けたのだが、この点に触れた記述を捜す事はできなかった。公園を歩くだけでは、どうしてもリンゴの落下から引力を発見したニュートンには近づけないなぁ。

バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し,紀元前からすでにイタリアに入り,16〜17世紀にはフランス,イギリスでも街路樹に用いられたという。

日本で栽植されているものは,スズカケノキのほかに2種ある。

アメリカスズカケノキ P.occidentalis L.(英名 buttonwood)は高さ30m,とくに大きなものでは50mになり,樹皮は乳白色で小さくはがれる。葉は浅く切れ込み,集合果は1個が柄で垂れる。北アメリカ東部に分布し,日本には1900年に入ったが,あまり広められていない。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ(一名カエデバスズカケノキ) (英名 Londonplane)で,スズカケノキとアメリカスズカケノキの雑種といわれ,樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。集合果は1〜2個ずつ垂れる。

スズカケノキの仲間は,やせ地や低湿地でもよく生長し,公害に強く,刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。

日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め,今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。

スズカケノキ科 Platanaceae は1属だけからなり,ヨーロッパ南東部からインドまで,インドシナ半島,北アメリカからメキシコに6〜8種が隔離的に分布する。
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

「友と語らん 鈴懸の径(みち) 通いなれたる 学舎(学びや)の街   

やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」と灰田勝彦が唄ったのは昭和17(1942)年。

兄の灰田晴彦が作曲、それに新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめた。大東亜戦争に命令されて出陣する学生たちは、万感の思いを込めてこの歌を唄ったという。

あの戦争中はまず学徒動員が日中戦争が始まって間もない1938年(昭和13)ころから、食糧、軍需品生産の人手不足を補うために行われた。学生、生徒の勤労動員。学徒勤労動員ともいう。

大東亜争中の44(昭和19)年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全員、軍需工場などに動員され、45年8月の敗戦まで、学校教育は事実上、停止した。

学徒出陣はそれに続く措置。戦争下で、徴兵猶予制度の廃止により理工科系・教員養成系をのぞく大学生・高専生を入営させた措置。それまで大学生、高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。

しかし満州事変につづく日中戦争で兵員の不足に悩のでいた政府は、1941年(昭和16)10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で兵員を補った。

戦局の悪化でさらに兵員の不足が深刻になると、1943年10月に「在学徴集延期臨時特例」を公布して、20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定。「徴兵猶予」とう特典を消して徴兵をかけたわけだ。

10月21日、冷雨のなか明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で、文部省主催の出陣学徒の壮行会出が挙行された。東京とその近県から集まった出陣学徒は、東条英機首相の閲兵と激励を受け、場内を行進。

スタンドを埋め尽くした6万5000人の家族・級友・女子学生などがこれを見送った。出陣学徒は、13万人とも20万人とも推定されている。

中国大陸や南方戦線、南太平洋へ送られ多くの戦死者を出した。1949年には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」が出版され、大きな反響をよんだ。

参考:マイクロソフト「エンカルタ」2007・12・06

2007年12月06日

◆ケ小平に学ぶ「強かさ」

                   渡部亮次郎

したたかを漢字で書くと「強か」となる。

産経新聞を購読する理由はいろいろあるが、米、韓、中の情報が格別に興味を引く事が大きな理由。特に最近第4部に入った「ケ(とう)小平秘録」は世界的に優れた連載である。

ケ小平に関する文献はいろいろ出版されているが、中国総局長伊藤正氏は北京駐在が長く、共同通信社から産経に移籍してからでも既に7年目である。他の社でこれだけ長い北京駐在歴を持っている人を知らない。

相当な人脈を築いている筈だが、本人に迷惑の掛かることを慮って名前を殆ど伏せている。それだけに記述に逆に信憑性があるというものだ。

それにしても毛沢東「独裁」の共産主義国家を、少なくとも経済は改革・開放という名の資本主義国に転換させた手腕を連載から読み取る時、3度の失脚と復活、さらにその後も陳雲ら保守派との闘い方には我々も学ぶべき「強かさ」があったのだ。

まず毛沢東に対する姿勢だ。3度も失脚しながら毛沢東に対する恨み節は絶対、吐かなかった。「毛沢東同志はその生涯、実事求是(事実に基づき心理を追究する)と誤りは正す原則を堅持、冤罪などの名誉回復に長期闘争してきた」「毛沢東思想の旗をさらに高く掲げ、偉大な勝利に前進しよう」と書かせている。

これは1980年2月の5中総会のコミニュケの一節。元の国家主席劉少奇氏の名誉回復のためのものだが、3ヵ月後の5月17日の劉氏追悼大会で読んだ弔辞でも、ケ氏は毛沢東の名前さえ出さなかった。

いうなれば毛は劉を殺した人物と言っても過言で無い存在なのだ。元々問題の文化大革命は劉国家主席を引きずり降ろすための毛の私怨から出たことと言っても、これまた過言ではない。

文化大革命の中で劉氏は「毛沢東に対抗してブルジョア司令部を作り、資本主義路線を実行した」として激しい迫害を受け、68(昭和43)年には「裏切り者」の汚名を着せられて党を除名処分。移送先の河南省開封で病死した。

それでもケ氏は弔辞の中で毛沢東の名は一切出さず「文革中、林彪、4人組一味は党の権力を奪取する反革命目的から、わが党の欠点と誤りを利用、劉少奇同志を陥れ、残酷な迫害を行った」と述べて毛沢東を庇った。

これはと惚けたのである。最終的な目的である経済の改革・開放には陳雲ら強烈な反対派がいて、毛路線を堅持しろとケ氏を脅しているから、オレはこの通り、毛主義者だと居直ったのだ。

1978年8月、当時の外務大臣園田直(故人)に秘書官として従いて人民大会堂での会談に臨んだとき華国鋒氏は毛沢東後継の国家主席として君臨。華氏より貫禄のあったケ氏はただの副首相に過ぎなかった。

しかしケ氏は胸の中では華国鋒氏を保守派の代表として追放しない事には済まないと決意していたはずだ。連載を読んでそれが漸く分かった。

そのための策略の詳細は省略するが、じわじわと追い詰められた華国鋒氏は80年9月に開かれた全人代第3回会議で、兼任していた首相を辞任、ケ小平子飼いの趙紫陽氏が後任になった。

しかし党中央で屈指の計画経済主義者であり党中央政治局常務委員たる陳雲氏らが改革・開放政策に猛烈な反論を展開する。これらを如何に手名づけるか、或いは排除するか。

初め両氏は改革・開放路線に対して、華国鋒氏ら「毛沢東路線全面継承」を主張する「すべて派」を共通の敵として手を結んでいた。その後陳氏が批判派に廻るや、陳氏の主張に賛意を表しながら実質的には陳氏を無視して突っ走った。

特に凄いのは「毛の言葉で毛路線に反対」を展開した頭脳の鋭さである。

ケ氏が3度目の復活を遂げた僅か1ヵ月後、中国共産党は77年8月に4年ぶりの第11回党大会を開くが、ここでは華国鋒主席を「英明な領袖」と呼びながら華国鋒報告演説とは違う内容を加えて足を掬うようなタネを仕掛けた。

「大衆の声に耳を傾け、大衆の苦しみに関心を寄せ、大衆から遊離してはならない」「実事求是の伝統を回復、真実を語り、発言に罪は無い」などすべてに「毛主席が築いた」という枕詞をつけていた。
華国鋒もこれではどうしようもなかった。

元新華社記者楊継縄氏はケ氏の毛沢東すべて派(華国鋒氏ら)との闘いは「政治芸術」だと表現しているそうだ。毛沢東の言葉で毛路線に反対し、華国鋒氏と協調しながら華氏を倒していった手法は当に政治芸術とは謂い得て妙では無いか。

先輩古澤襄さん流に解析すればケ小平氏の血液型は何だったろうか。常に希望を棄てなかったということも尊敬に値する。2007・12・05

2007年12月04日

◆平和運動「家」がいる

渡部亮次郎

まさかあるまいと思いながら引いたたら、あった、「平和運動」(広辞苑
=岩波書店)。「戦争に反対し平和を擁護することを目標とした組織的大衆
運動」とある。

子供の頃から、これを不思議に思っていた。戦争になることに反対しな
い人がいるだろうか、擁護すれば平和は守られるのだろうか。

武器や軍需物資を製造・販売しているごく一部の人は別にして、なんとか
戦争にならないように願う事は人類共通だろう。

1954年に大学みたいなものに入って驚いた。教授の中に「平和運動家」
と呼ばれて嬉々としている人物がいた事である。平和は運動すれば求め
られて、しかも「家」とつく職業になるのか。

戦争が無ければ平和、とは限るまい。現在、日中間に戦争は無いが、中
国の日本に対する内政干渉の甚々だしさはとても平和状態とはいえない
だろう。核を所持していればとっくに戦争になっていること間違いない。

核のない自衛隊では、まず軍ではないし、無能力男性に等しいから頭か
ら馬鹿にされていても切歯扼腕するだけ。こういう状態を広辞苑ですら
「舐められる」「みくびられる」状態と教えている。

それでも怒るな、我慢せよ、戦争を考えるなと運動する事が平和運動と
言うなら、それは平和運動ではなく、我慢比べ修養団に過ぎない。

1945年8月15日に「大東亜戦争」が日本の無条件降伏に終わって停電や「灯
火管制」が無くなり、戦争放棄の新しい憲法が制定された。日本のイン
・ポテンツ化が図られた。戦争をしようにもできない国民と国を作ろう
とする米国の陰謀だった。

このことは西 鋭夫著『国破れてマッカーサー』(中公文庫)に詳しい。
本当はアメリカに2度と歯向かわない日本を作っただけだが、その後60年
も経済的に繁栄したので、マッカーサー憲法さえあれば繁栄すると勘違
いしてしまった日本人。

日本共産党や社民党は「憲法を守れば平和が守れる」と倒錯した主張を
するようになった。憲法を守れば平和になるのではなく、平和だから憲
法を守れるのだと言う事に気が付いてない。

日本では核兵器の廃絶を訴える平和運動である反核運動がある。初めは
安井郁(かおる)法政大学教授の指導で統一されていたが、運動を支援し
ていた複数の政党・団体(主体は日本社会党(当時)と日本共産党)の
政治的対立から、運動そのものが分裂してしまって、現在に至っている。

苦い経験だと指摘する向きがあるが、これこそ平和がイデオロギーによ
って目標も手段も異なる事を物語る。とすれば平和追求とは実に多面的
なものであり、或る時は無意味に見えるときがあっても致し方ない。

「ウィキペディア」の「平和運動」についての筆者はそこのところをちゃ
んと書いている。

<平和運動は反共産主義運動の一部でもあり得るし、階級闘争の一環で
もあり得る。ただ、現実には後者であるケースが歴史的に多い。

このように平和運動の概念自体が曖昧である為、完全に公正中立な平和
運動はなかなか存在しにくいものである。

平和運動への批判あるいは懐疑

戦争とはさまざまな政治的、経済的、民族的な要因などが複雑に関係す
るので、軍事力の行使に反対するだけの現状維持的な主張の平和運動で
は本質的な紛争の原因(政治的対立、軍閥の台頭、飢餓、社会的差別、
領土問題、民族的対立など)の解決にはならないという考えもある。

また戦争はその目的、内容は極めて多様であるので、その全てを単純に
非難することは政治的な戦略や安全保障という面から考えても一方的で
あると言える。

また後述のように政治的に利用される可能性も心理戦という側面におい
て多大にあり、軍事戦略の一環としても行われうることがあるため、平
和運動には博愛主義的な精神論だけではなく、その運動の本質的な効果
を考えた社会学的な見地が求められる。

平和運動に対する典型的な批判として、「平和運動の従事者は、軍事・
戦争に疎い者が多い」という指摘がある。

これに対する典型的な反論として、「軍事(軍隊)とは我々平和主義者
の敵であり、従って我々が軍事に精通する必要はない。従って、われわ
れ平和運動家には軍事知識など不要であり、平和運動に従事するものは
軍事に疎くて構わない。」との主張がみられる。

この主張は一見もっとものように聞こえるが、これはすなわち、中途半
端な知識に基づいた批判しか行わないということであり、そのような批
判は説得力が無いのは明らかである。

譬えて言うならば受験において、自分の受験校の過去問演習や問題傾向
の分析などをせずに入試本番に挑むようなものである。

平和運動の従事者、特に左翼過激派には理論的な話が通じない(平和主義
はもちろん大事な考え方だが、平和運動従事者たちは盲目的に平和を主
張していることが多いため)・主張に矛盾があることが多い。

自衛隊が起こす行動に過敏に反応し、すぐに「戦争につながる」とデモ
行進・運動を起こす。

批判の槍玉に上がるのは大抵、自衛隊とアメリカ軍、空対空ミサイルな
どを製造する三菱重工で、中国軍や韓国軍、およびそれらによる日本の
領土の侵犯はほとんど批判しない。

平和という思想は前述のように非常に幅広い考えを包括する表現なので、
さまざまな宣伝スローガンや商業活動にも利用されているが、戦後以降
の反戦運動は特定団体・政党の勢力拡大のための隠れ蓑に成り下がって
いるという批判がある。

けだし市民を対象にした反戦の拡大が国の正当な外交手段としての安全
保障活動を制約するために、ともすれば政権を窮地に追い込み利敵行為
をもたらす口実に利用されているという懸念である。

とりわけ冷戦崩壊後の旧ソビエト共産党公文書公開で国際的なベトナム
反戦運動にソ連の資金援助及び人的援助が投入されていた内実が判明し
たため、かつての共産主義思想の人脈を受け継いだ反米・反日的な政党
・団体の反戦活動を注視すべきだとしている。

1950〜60年代のアメリカ中央情報局も同様に世界各地で日本の自由民主
党をはじめとする親米政権や反共組織の活動を支援してはいるが、平和
運動という概念上いわゆる「工作」と同列に論じるべきものではない。

また、「平和運動」を統率する団体の多くは左翼過激派に関っている場
合が少なくない。また沖縄県において米軍基地の使用阻止のために呼び
かけられた反戦一坪地主に本土から参加した活動家が多くいることも指
摘されたことがある。>2007・11・29


2007年12月02日

◆終わる対中借款

                  渡部亮次郎

<日中外相会談で対中円借款終了を確認 交流促進で一致 「第1回日中ハイレベル経済対話」出席のため訪中している高村外相は1日午前、北京の中国外務省で楊外相と会談した。

年末にも予定されている福田首相の訪中や、胡錦濤(フー・チン・タオ)国家主席の来日など首脳間交流をさらに進めることで一致する。主席は来春、来日する方向だ。

両外相は中国に対する07年度の円借款供与について書簡を交換。対中円借款の新規の供与はこれで打ち切られることが正式に決まった。

07年度の供与は総額約463億円。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた。> Asahi Com2007年12月01日13時12分

対中円借款は中国の改革・開放政策を支援するとして、1979年に訪中した大平正芳首相(当時)が供与を約束。

ただ中国の急速な経済発展や、他の途上国へ中国が支援している状況などを踏まえ、01年の「対中国経済協力計画」で対象を環境保全や人材育成、内陸部の貧困克服などに絞り込む方針を決定。

04年度の供与額は859億円で、前年度より約11%減少している。
(東奥日報「ニュース百科2006年6月3日)

国交正常化のため初めて訪中した田中首相らは初めは中国が戦争倍賞を3兆円ぐらい要求するものと思っていらが、予め周恩来総理は要求しないと言ってきたため正常化に乗ったのだった。

その6年後、国交正常化に伴う細々とした約束を重ねるための基礎となる日中平和友好条約が締結されたが、その時は借款とかODAの話は出なかった。

おそらく78年10月に日本を初めて見たトウ小平が言い出したのが借款だったと思われる。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた対中借款が漸く終わる。感慨一入だ。

この問題について、基になった日中平和友好条約の締結の前後、北京の日本大使館で行使を務めていた伴 正一さんが条約締結10周年の記念講演デウラの事情を紹介している。

講演はちょうど10年目の昭和63年8月13日、会場は高知阪急ホテル。伴氏は外交官を退官後、この年の5月に(財)日中友好会館の理事長に就任、祝賀会代わりに条約締結とその後の裏話を公表したもの。条約締結には私も参加したが、伴さんの話は初めてだ
http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

<この条約というのは、田中角栄、周恩来両首脳が実現させた六年前の共同声明、日本と中国の運命を決するもの、また台湾の運命を決するものでもあった歴史的な共同声明に比べますと、ただそれを整理しただけといえばいえなくもないものがございます。

しかし妙なもので、それから日中両国の政府間の往来や交渉ごとはそれまでの数倍の頻度で盛んになってまいりました。

条約ができたとたんにまるで堰を切ったようにいろんな交流、というより橋の構築が始まるわけです。

その中で一番印象に残るのは留学生問題でした。私が行った当初の留学生というのは日本が8人で中国が7人とか、あるいは10人にしょうかとか11人とか、こんなケタの話で向こうの教育部と交渉していた。

それがある日教育部から呼ばれ、一挙に500人引き受けてくれんかという。500人というと、今ならなんだそのくらいと思われるかもしれませんけど、その当時、中国留学生500人というのは腰を抜かすような数だったんです。

その上、条件がふるっている。学部留学生も実は送りたいという。「大丈夫ですか」と余程出かかった。もう1つは下宿は1人でもよろしい。集団でなくてもよろしいという。

これも今考えれば何でもないことですが、その時点までの中国はどんな
だったかといいますと、留学生は街へ出るのも1人ではいかん、2人で歩け、です。相互監視です。

日本へ来ている中国留学生が訪ねていい家庭というのはリストがあって10人か20人しかない。それ以外の日本人のところへ訪問してはまかりならんというきついお達しがあった。それくらい1人ひとりに資本主義のバイ菌がつかんように厳重な監視体制を敷いていたわけです。

「学部留学生なんて、高校出てまだ頭の柔らかい。4年もおったら日本人になってしまいますよ。大丈夫ですか。1人で下宿なんかしよったら何が起こるかしれませんよ、大丈夫ですか」。こちらが心配になってそういう言葉が出かかったわけでございます。

驚天動地の留学生大量派遣というのがこれから始まるわけです。今、6,000人ですか。

もう1つは条約が結ばれて1年経ってから出てくることですけれども、「金を貸してくれ」といい出した。これもこっちは「あっと驚く為五郎」。

ということは、その1、2年前まで、中国の要人はいろんな宴会の挨拶などで、我が中国はよその国の政府から金を借るようなことは絶対にしない。これは中国の国是であるといって威張ってたんです。

中国が日本政府の金を貸せなんていってくるなど誰一人思っていなかった。驚きでしたね。

その時言ってきた額は、円に直しますと7,000億円ぐらい。7,000億円貸したら、インドネシアもタイもフィリピンもどこへも1銭も貸せなくなる。財布全部はたいても中国の要望に応えられん。当時はですよ。

ところが向こうから見れば、「何言ってやがるんだ、日本はもうお金持ちになってるじゃないか、賠償いくら負けてあげたと思ってるか、7,000億円なんてそれからしたらはした金じゃないか。15兆円になるか20兆円になるかわからん」と口にこそ出さないけれど、向こうから見りゃ7,000億円なんてはした金に見えるわけでしょう。

中国との交渉はいつもよくあるんですけど、高知学芸高校の場合もそうですが、こちらと主張が開き過ぎて、難しいことが随分あるんです。

(主宰者註:和63年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故である。一行193人を乗せた列車は別の列車と衝突、引率の教諭と生徒27人が死亡した)。

話を借款に戻して、結局第1回、話を収めたのが500億円でした。それから何回かで合計では7,000億円の円借款が出ることになるわけです

が、私は最初のその500億円の賠償交渉を北京で担当した訳であります。今度竹下さんが持っていく第3次借款の額は8,000億円。1990年から95年の6年間に8,000億円貸しましょうということで、最初の500億円からの分を全部足してその上に今度の8,000億円を加えますと、1兆6,000億円になる。感慨一入です>。


2007年12月01日

◆民主が断念、これは事件だ

                  渡部亮次郎

猪突猛進の民主党・突貫小僧、額賀氏の証人喚問をやはり断念。「言わないこっちゃない」になってしまった。民主党としては大変なイメージ・ダウンだが、おそらく党内での責任追及はなし。うやむやにするだろう。

<自民、民主、公明3党の参院議員会長は30日午後、江田五月参院議長立ち会いの下で国会内で会談、参院財政金融委員会で野党が単独議決した額賀福志郎財務相らの証人喚問について、来月3日の実施を見送ることで合意した。

これに先立ち江田議長は、自民党などの中止要請を受けてあっせんに乗り出し、与党と民主党の双方に再協議を指示。民主党内でも「わが党出身の議長だから再考しないわけにはいかない」(参院幹部)と消極論が広がり、執行部も喚問見送りを受け入れた。

自民党の山崎正昭、公明党の木庭健太郎両参院幹事長らは30日午前、江田氏と国会内で会談し「(証人喚問の議決は)全会一致という歴史を破る暴挙で認められない。議長として何らかの対応をしてほしい」と喚問を中止するようあっせんを要請。江田氏は「民主党からも話を聞きたい」と述べた。

一方、共産党の小池晃参院幹事長も江田氏と会い「証人喚問は全会一致で行うべきだ。議長として指導力を発揮してほしい」と求めた。>2007/11/30 14:39【共同通信】

ほぼ2年前、2006年2月16日の衆議院予算委員会では民主党の永田寿康議員が、証券取引法違反で起訴されたライブドア元社長の堀江貴文被告が、2005年8月26日付の社内電子メールで、自らの衆院選出馬に関して、「武部勤自民党幹事長の次男に対し、コンサルタント費用として3000万円の振込みを指示した」などと指摘。

しかし結局は、このメールが嘘と分かったため永田議員ばかりか3月31日、前原誠司が民主党代表を辞任を表明。辞任理由は「永田寿康を議員辞職させられなかったから」と説明した。先立って野田佳彦民主党国対委員長も責任を取り国対委員長を辞任している。

これを受け、議員辞職を否定した永田もライブドア送金指示メール騒動の責任を取り、議員辞職した(その結果を受けてNHK出身の池田元久が繰り上げ当選となった)。これを受けて、懲罰動議審議が途中で打ち切りとなり、仲介者の証人喚問も中止となった。

民主党はこの騒動により支持率を低下させる結果となり、与党を追及するはずだった多数の問題を後回しせざるを得ない状況になってしまった。

また前原辞任に伴い、同じく民主党の小沢一郎と菅直人が4月7日に党所属国会議員の投票を行い、小沢が菅を破り新代表として挙党態勢を固めた。(この項「ウィキペヂア」参照)。

嘗て自民党の実力者(と自分で命名)河野一郎は競馬の馬主らしく、出来のよくない記者を捕まえて「馬でいえば調教不足」とからかったものだが、民主党も参院で権力を逆転したとはいえ、馬で言えば中央競馬にはまだ達してない、との馬脚を顕した。

ブログで鋭く政局を斬っている大先輩の記者は「民主党の中にある小沢自由党系の問答無用の強権的体質、片や社会主義者の権力主義的傾向に読者が危険なものを感じているのではないか」とむしろ民主党の体質を憂いている。

「そこには安倍政権が内包していた右翼的体質に対する嫌悪感と同質なものがある。

それなのに朝日新聞だけは、参院民主党に対する批判が甘い。安倍政権に厳しくて、参院民主党の暴走に甘い朝日という新聞は、民主主義の本質が理解できていないのかもしれない」と大記者は断罪している。

そういえば共同通信の常務理事だった古澤襄(のぼる)さんによればあさひが大特ダネの如く1面で大々的に報じた然防衛事務次官守屋武昌の日記は何ヶ月も前に「焼却」したと本人が言っていたそうだ。

出ていない者を出ていたと突っ張った民主党、無い日記を「あって、地検が押収」と匂わせた朝日新聞。中国と食品業界で大流行の「偽装」を自分たちもやっているのだ。反省しなさい。守屋夫妻も拘置所で「反省している」ではないか。

肝腎の小沢代表は「幹事長一任」と責任を鳩山幹事長に押し付けて知らん振り。これでは「事件」の責任追及は成されまい。したがって民主党の「いい加減」体質は変わらず「事件」は3度、4度と怒るであろう。文中敬称略。2007・11・30