2007年12月02日

◆終わる対中借款

                  渡部亮次郎

<日中外相会談で対中円借款終了を確認 交流促進で一致 「第1回日中ハイレベル経済対話」出席のため訪中している高村外相は1日午前、北京の中国外務省で楊外相と会談した。

年末にも予定されている福田首相の訪中や、胡錦濤(フー・チン・タオ)国家主席の来日など首脳間交流をさらに進めることで一致する。主席は来春、来日する方向だ。

両外相は中国に対する07年度の円借款供与について書簡を交換。対中円借款の新規の供与はこれで打ち切られることが正式に決まった。

07年度の供与は総額約463億円。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた。> Asahi Com2007年12月01日13時12分

対中円借款は中国の改革・開放政策を支援するとして、1979年に訪中した大平正芳首相(当時)が供与を約束。

ただ中国の急速な経済発展や、他の途上国へ中国が支援している状況などを踏まえ、01年の「対中国経済協力計画」で対象を環境保全や人材育成、内陸部の貧困克服などに絞り込む方針を決定。

04年度の供与額は859億円で、前年度より約11%減少している。
(東奥日報「ニュース百科2006年6月3日)

国交正常化のため初めて訪中した田中首相らは初めは中国が戦争倍賞を3兆円ぐらい要求するものと思っていらが、予め周恩来総理は要求しないと言ってきたため正常化に乗ったのだった。

その6年後、国交正常化に伴う細々とした約束を重ねるための基礎となる日中平和友好条約が締結されたが、その時は借款とかODAの話は出なかった。

おそらく78年10月に日本を初めて見たトウ小平が言い出したのが借款だったと思われる。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた対中借款が漸く終わる。感慨一入だ。

この問題について、基になった日中平和友好条約の締結の前後、北京の日本大使館で行使を務めていた伴 正一さんが条約締結10周年の記念講演デウラの事情を紹介している。

講演はちょうど10年目の昭和63年8月13日、会場は高知阪急ホテル。伴氏は外交官を退官後、この年の5月に(財)日中友好会館の理事長に就任、祝賀会代わりに条約締結とその後の裏話を公表したもの。条約締結には私も参加したが、伴さんの話は初めてだ
http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

<この条約というのは、田中角栄、周恩来両首脳が実現させた六年前の共同声明、日本と中国の運命を決するもの、また台湾の運命を決するものでもあった歴史的な共同声明に比べますと、ただそれを整理しただけといえばいえなくもないものがございます。

しかし妙なもので、それから日中両国の政府間の往来や交渉ごとはそれまでの数倍の頻度で盛んになってまいりました。

条約ができたとたんにまるで堰を切ったようにいろんな交流、というより橋の構築が始まるわけです。

その中で一番印象に残るのは留学生問題でした。私が行った当初の留学生というのは日本が8人で中国が7人とか、あるいは10人にしょうかとか11人とか、こんなケタの話で向こうの教育部と交渉していた。

それがある日教育部から呼ばれ、一挙に500人引き受けてくれんかという。500人というと、今ならなんだそのくらいと思われるかもしれませんけど、その当時、中国留学生500人というのは腰を抜かすような数だったんです。

その上、条件がふるっている。学部留学生も実は送りたいという。「大丈夫ですか」と余程出かかった。もう1つは下宿は1人でもよろしい。集団でなくてもよろしいという。

これも今考えれば何でもないことですが、その時点までの中国はどんな
だったかといいますと、留学生は街へ出るのも1人ではいかん、2人で歩け、です。相互監視です。

日本へ来ている中国留学生が訪ねていい家庭というのはリストがあって10人か20人しかない。それ以外の日本人のところへ訪問してはまかりならんというきついお達しがあった。それくらい1人ひとりに資本主義のバイ菌がつかんように厳重な監視体制を敷いていたわけです。

「学部留学生なんて、高校出てまだ頭の柔らかい。4年もおったら日本人になってしまいますよ。大丈夫ですか。1人で下宿なんかしよったら何が起こるかしれませんよ、大丈夫ですか」。こちらが心配になってそういう言葉が出かかったわけでございます。

驚天動地の留学生大量派遣というのがこれから始まるわけです。今、6,000人ですか。

もう1つは条約が結ばれて1年経ってから出てくることですけれども、「金を貸してくれ」といい出した。これもこっちは「あっと驚く為五郎」。

ということは、その1、2年前まで、中国の要人はいろんな宴会の挨拶などで、我が中国はよその国の政府から金を借るようなことは絶対にしない。これは中国の国是であるといって威張ってたんです。

中国が日本政府の金を貸せなんていってくるなど誰一人思っていなかった。驚きでしたね。

その時言ってきた額は、円に直しますと7,000億円ぐらい。7,000億円貸したら、インドネシアもタイもフィリピンもどこへも1銭も貸せなくなる。財布全部はたいても中国の要望に応えられん。当時はですよ。

ところが向こうから見れば、「何言ってやがるんだ、日本はもうお金持ちになってるじゃないか、賠償いくら負けてあげたと思ってるか、7,000億円なんてそれからしたらはした金じゃないか。15兆円になるか20兆円になるかわからん」と口にこそ出さないけれど、向こうから見りゃ7,000億円なんてはした金に見えるわけでしょう。

中国との交渉はいつもよくあるんですけど、高知学芸高校の場合もそうですが、こちらと主張が開き過ぎて、難しいことが随分あるんです。

(主宰者註:和63年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故である。一行193人を乗せた列車は別の列車と衝突、引率の教諭と生徒27人が死亡した)。

話を借款に戻して、結局第1回、話を収めたのが500億円でした。それから何回かで合計では7,000億円の円借款が出ることになるわけです

が、私は最初のその500億円の賠償交渉を北京で担当した訳であります。今度竹下さんが持っていく第3次借款の額は8,000億円。1990年から95年の6年間に8,000億円貸しましょうということで、最初の500億円からの分を全部足してその上に今度の8,000億円を加えますと、1兆6,000億円になる。感慨一入です>。


2007年12月01日

◆民主が断念、これは事件だ

                  渡部亮次郎

猪突猛進の民主党・突貫小僧、額賀氏の証人喚問をやはり断念。「言わないこっちゃない」になってしまった。民主党としては大変なイメージ・ダウンだが、おそらく党内での責任追及はなし。うやむやにするだろう。

<自民、民主、公明3党の参院議員会長は30日午後、江田五月参院議長立ち会いの下で国会内で会談、参院財政金融委員会で野党が単独議決した額賀福志郎財務相らの証人喚問について、来月3日の実施を見送ることで合意した。

これに先立ち江田議長は、自民党などの中止要請を受けてあっせんに乗り出し、与党と民主党の双方に再協議を指示。民主党内でも「わが党出身の議長だから再考しないわけにはいかない」(参院幹部)と消極論が広がり、執行部も喚問見送りを受け入れた。

自民党の山崎正昭、公明党の木庭健太郎両参院幹事長らは30日午前、江田氏と国会内で会談し「(証人喚問の議決は)全会一致という歴史を破る暴挙で認められない。議長として何らかの対応をしてほしい」と喚問を中止するようあっせんを要請。江田氏は「民主党からも話を聞きたい」と述べた。

一方、共産党の小池晃参院幹事長も江田氏と会い「証人喚問は全会一致で行うべきだ。議長として指導力を発揮してほしい」と求めた。>2007/11/30 14:39【共同通信】

ほぼ2年前、2006年2月16日の衆議院予算委員会では民主党の永田寿康議員が、証券取引法違反で起訴されたライブドア元社長の堀江貴文被告が、2005年8月26日付の社内電子メールで、自らの衆院選出馬に関して、「武部勤自民党幹事長の次男に対し、コンサルタント費用として3000万円の振込みを指示した」などと指摘。

しかし結局は、このメールが嘘と分かったため永田議員ばかりか3月31日、前原誠司が民主党代表を辞任を表明。辞任理由は「永田寿康を議員辞職させられなかったから」と説明した。先立って野田佳彦民主党国対委員長も責任を取り国対委員長を辞任している。

これを受け、議員辞職を否定した永田もライブドア送金指示メール騒動の責任を取り、議員辞職した(その結果を受けてNHK出身の池田元久が繰り上げ当選となった)。これを受けて、懲罰動議審議が途中で打ち切りとなり、仲介者の証人喚問も中止となった。

民主党はこの騒動により支持率を低下させる結果となり、与党を追及するはずだった多数の問題を後回しせざるを得ない状況になってしまった。

また前原辞任に伴い、同じく民主党の小沢一郎と菅直人が4月7日に党所属国会議員の投票を行い、小沢が菅を破り新代表として挙党態勢を固めた。(この項「ウィキペヂア」参照)。

嘗て自民党の実力者(と自分で命名)河野一郎は競馬の馬主らしく、出来のよくない記者を捕まえて「馬でいえば調教不足」とからかったものだが、民主党も参院で権力を逆転したとはいえ、馬で言えば中央競馬にはまだ達してない、との馬脚を顕した。

ブログで鋭く政局を斬っている大先輩の記者は「民主党の中にある小沢自由党系の問答無用の強権的体質、片や社会主義者の権力主義的傾向に読者が危険なものを感じているのではないか」とむしろ民主党の体質を憂いている。

「そこには安倍政権が内包していた右翼的体質に対する嫌悪感と同質なものがある。

それなのに朝日新聞だけは、参院民主党に対する批判が甘い。安倍政権に厳しくて、参院民主党の暴走に甘い朝日という新聞は、民主主義の本質が理解できていないのかもしれない」と大記者は断罪している。

そういえば共同通信の常務理事だった古澤襄(のぼる)さんによればあさひが大特ダネの如く1面で大々的に報じた然防衛事務次官守屋武昌の日記は何ヶ月も前に「焼却」したと本人が言っていたそうだ。

出ていない者を出ていたと突っ張った民主党、無い日記を「あって、地検が押収」と匂わせた朝日新聞。中国と食品業界で大流行の「偽装」を自分たちもやっているのだ。反省しなさい。守屋夫妻も拘置所で「反省している」ではないか。

肝腎の小沢代表は「幹事長一任」と責任を鳩山幹事長に押し付けて知らん振り。これでは「事件」の責任追及は成されまい。したがって民主党の「いい加減」体質は変わらず「事件」は3度、4度と怒るであろう。文中敬称略。2007・11・30

2007年11月28日

◆馬鹿につける薬

                   渡部亮次郎

よく「馬鹿につける薬は無い」と言う。馬鹿を治す方法は無いという意味だ。口の悪い政治記者は今の馬鹿は民主党国会対策委員長山岡賢次だという。

旧姓藤野。慶応を出て、大作家山岡荘八の入り婿になった。それでも既に64歳。近々政権を取って大臣に成らない事には、何のために政治家を20年もやってきたか意味を見出せずに老人になるところだ。

国会を賑わしている山田洋行問題。民主党は、賄賂性のある日本橋人形町の料亭「濱田屋」の宴会に財務大臣額賀福志郎氏が同席したかどうかで対立しているが、この問題は適当なところで手を引かないと、火の粉が小沢民主党代表に飛ぶ。

<民主党は15日の証人喚問で、守屋氏が額賀氏の宴席同席を証言して以降、額賀氏が同席を否定し続けたため、2人の証人喚問を要求。27日の役員会で改めて喚問を求める方針を確認した。

夕方には山岡賢次・国対委員長らが国会内で会見し、党が守屋氏から直接電話で聴取した話として、額賀氏が同席した際のより具体的な模様を紹介した。山岡氏は「守屋氏と額賀氏のどちらが偽証なのか、国民にはっきり示す段取りを整えるのが国会の責任だ」と述べた。

これに対し、額賀財務相は22日の参院財政金融委員会で、民主党が宴席があったと指摘した06年12月4日夜は、家族らと会食した後、都内で開かれた防衛関係の「勉強会」に出席したと、具体的な日程を示して、同席を改めて強く否定した。

27日午前の閣議後の記者会見では「『勉強会』は会議録もあるし、テープもとっている」と述べた。午後には、自民党の大島理森国対委員長が記者会見、家族らとの会食写真や当日の詳細な日程、勉強会でのやりとりとされるものの一部を公表。自民、民主両党が「証拠」を提示しあう異例の展開となっている。>Asahi Com 2007年11月27日21時29分

防衛専門商社「山田洋行」をめぐる事件で、防衛省の守屋武昌前事務次官(63)が、接待以外の個人的な飲食費も、元同社専務宮崎元伸容疑者(69)側に負担させていたことが27日、関係者の話で分かった。

世間はこればっかり知らされているが、真実は違う。元山田洋行専務宮崎元伸容疑者(69)が守屋次官以前に狙ったのが空将田村秀昭であり、そのための小沢一郎であり、金丸信だったのだ。深入りすると山岡は墓穴を掘るというのはそういうことなのだ。

宮崎は田村を参院議員にしようとしたが、自民党首脳にコネは全く無かった。そこである人物を介して小沢自民党幹事長に接近、さらに副総裁金丸に面談。結果、全国区の当選順位が飛躍的に格上げ。詳しい人は格上げは「10位」と言う。

そのためにスポンサー宮崎が使った金は2億円と言われている。山岡はこのことを全く知らない。東京地検は時効の関係で今回はこのことには触らないで捜査を進めるが、山岡が余り調子に乗りすぎると自民党はマスコミにはこのことを流して民主党の足を掬おうとするはずである。

それに気付かないで追究を煽っているのが山岡委員長。だから「馬鹿につける薬が無い」との声が内外からあがるのだ。

田村追及の声が自民党から出ないのは、次の総選挙を睨んで国民新党との提携を睨んだ配慮があるという。さらに本音をいえば小沢も追い詰めたくない。今度は自民党に何が刎ねかえってくるかか分かったものじゃないからだ。

それを知らない山岡は1人で粋がっている。他の野党や民主党内でも「大丈夫か」と懸念する声があがっている。バカにつける薬はないというわけだ。

報道各社の記者は事件の主役を防衛庁長官経験者や防衛大臣経験者だと思っているが、東京地検は守屋前事務次官と宮崎の贈収賄に絞っているのでは無いか。今話題にされている額賀財務大臣も久間初代防衛大臣も防衛利権には神経質になっていたから事件には出来まい。

まして民主党にまで飛び火すると成れば日本国はひっくり返ってしまう。東京地検は角を矯めて牛を殺す権限は無いはずではないか。
(文中:敬称略)2007・11.27

2007年11月26日

◆金大中講演は1000万円

渡部亮次郎

1954年国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポ
ークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿
勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。

1961年に国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターによ
り無効となっている。これで朴正煕大統領への怨嗟の念を深くした。朴正煕による10月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り
組んだ。

1972年から73年にかけて、主として日本で反朴正煕政権反対の言論活動
を展開、朝日新聞が後押ししていた。

その頃私は在日韓国大使館の公使を名乗る金在権と接触する機会があっ
た。「金大中の反政府活動をこのまま放置するのですか」と聞いたのに
対して、彼は薄笑いを浮かべながら呟くように答えた。

「そのうち、なんとかなりますよ」1973年8月8日、東京に滞在中、ホテ
ルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部によって拉致され、
ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。

相手が誰であれ、日本から滞在者を外国勢力が拉致するというのは完全
な日本の主権侵害事件である。ところが当時、首相だった田中角栄氏に
は残念ながら主権侵害などという小難しい事はわからなかった。

日本担当大臣が目白の私邸に両手に下げてきた現金を受け取って事件を
「解決」してしまった。李秉嬉というのが日本担当大臣。

私は何度も会い酒を呑んだ事もある。晩年は癌を患いさびしく死んだ。

金は1976年3月には尹ふ善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲
役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権
を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。

これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流
血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判
決を受ける。

このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使
と会談し「日韓親善からみて,金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を
抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要
請した。

この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉
である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が
強まり、1982年1月23日に閣議検定により無期懲役に減刑される事が決定
し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、
1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で盧泰愚に挑むものの、金泳
三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。

1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これ
をもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を
書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まって
いた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。

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2007年11月25日

◆北京の「ちょろぎ」

                   渡部亮次郎

秋田の田舎もの。「ちょろぎ」を知らなかった。1972年の国交正常化のと
き、粥の添え物として提供されて初めて見た。連日の脂っこい中国料理
に辟易、つい、こうなりゃ「かゆ」が食べたいなと壁に向かって呟いた
ら、翌朝、粥が出た。

壁に耳あり、障子に目あり。盗聴器もあるのだ。共産国には新聞記者や
カメラマンの中に暗殺者が紛れ込んでいるはず、というのが常識だと言
うから、国交の無い国からの連中は監視、盗聴は当然なのだろう。

未だに国交が無い上に無辜の民を拉致して行く国がある。政治家に同行
して記者団が訪問。日本への送稿電話の盗聴を予想して隣の部屋をガラ
リと開けたら、数人が耳にレシーバーを当てて盗聴中。「あなたが聴い
ている声の主は私だよ」と言う意味で自分の胸を指で指したら、目を白
黒させていたそうだ。

北京では石家荘出身というおばさん通訳がついたが、珍しくひらがなを
書けた。つい、日本人じゃないかと疑ったりした。ある日ホテルの中の
会議室みたいな部屋を間違って開けたら通訳たちが我々の動向を上司に
報告しているところであった。

中国語がきっぱり分かるわけではなかったが、周恩来総理が我々の動向
をあまりにもよく知っている事を知って、そう勘繰った次第。その上の
粥事件である。

粥の添え物として巻貝を真っ赤に染めたような漬物が出たのである。私
が「ちょろぎ」と対面したのはそれが初めて。他の連中は「なんだこの
田舎もん、ちょろぎを知らないとは、あきれたな」と思っただろう。

シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀
用に使うとあるのだが、秋田の農村では普及していなかったのだ。

チョロギ
Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下に出来る塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地
を好み,日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に
最初の記載がある。和名は朝鮮を経て入ってきたため,朝鮮語のジロイ(
ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに,20世紀になってアメリカに入ったといわ
れる。

他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。中国から
ヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリ
ーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、
なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。稀に、ちょろぎは魚との
食いあわせが悪いと言われることがある(ウィキペディア)。

草丈は30〜60cm程度で,茎は直立し断面は四角い。葉は対生で長円形で
厚く,周縁には鋸歯があり,茎葉には毛がある。花は淡紫色で茎の頂端
部に穂状につき,7〜9月に咲く。

夏から秋に地下茎が伸び,その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐
質の細長い塊茎をつける。塊茎には数個の輪状のくびれがあり,デンプ
ンを含まないがスタキオース stachyose を含有する。

塊茎を食用にするが,シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて
正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

また広辞苑によると「ちょろぎ」は草石蚕とあり「しほらしき物づくし
ちょろぎ貝割菜」(芭蕉文集)とある。

北京から還ってから1度、どこかで食べたような気がするが草丈は30〜
60cmと言う実物はいまだ見たことが無い。北京で初めて出合った「ちょ
ろぎ」。今年は日中国交正常化35周年だ。2007・11・20



2007年11月23日

◆冬を告げる鮟鱇鍋

                   渡部亮次郎

2007年11月21日の夜、今冬初めての鮟鱇(あんこう)鍋で麦焼酎をやり、いい機嫌になったところへ郷里の古参代議士野呂田芳成さんから突然、電話があって、ちょっと驚いた。

友人加瀬英明氏と大森で飲んで、電話しようかとなったらしいが、秋田県2区での自民党の後任問題を尋ねたところ「納まるところに納まる」と当選への自信はたっぷりだった。

ところで、「鍋料理の秋田」でも鮟鱇鍋は無い。茨城県北部の海岸地方の郷土料理というのだから無理も無い。国立(くにたち)時代は食べた事は無かったが、向島生まれの家人と一緒になって初めて食べた。

今年も日本橋高島屋では2人前、1500円前後。1鍋を煮ると3日分ぐらいあるから安い鍋といえる。しかし、何年か前、本場水戸の有名店のはアンモニア臭くて一切れも食べずに出てきた。

アンコウ鍋(鮟鱇鍋) アンコウなべ 。アンコウの身や内臓、皮を野菜や豆腐と煮た鍋料理で、醤油をベースにし、味噌をかくし味につかう。拙宅では味噌を主体に、醤油を隠し味にする。

汁に肝を刷り込んで溶かさないと野趣豊かな味の鍋にはならない。

アンコウは骨以外全部食べられ、俗にアンコウの可食部分を「アンコウの7つ道具」とよぶ。とくに冬は身がしまっておいしい。

身より美味といわれる肝臓は「あん肝(きも)」とよばれて珍重される。

肝を炒ってペースト状にすりつぶし、味噌や酢で調味して身をあえた「ともあえ」は、酒の肴(さかな)に向く。但し尿酸が多くなるので、通風を恐れる人は食べない方がいい。

アンコウは骨が非常に硬く、体が柔らかすぎて、おろしにくいので、鉤(かぎ)につるしながらさばく。これを「アンコウのつるし切り」という。

もともとは、福島県境に近い平潟や大津などの、「どぶ汁」とよばれる漁師料理がもとだといわれる。この料理はアンコウを味噌と醤油で煮てアツアツを浜で食べる。

このどぶ汁を一般向けにやや上品に改造したものが、今日のアンコウ鍋である。アンコウの漁獲量が減って高級料理になってしまったが、昔は庶民の日常の食べ物だった。

参考Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation.All rights reserved.。

アンコウの美味が認められたのは,江戸時代に入ってからのことのようである。

《料理物語》は初めて調理法を記載し,《古今料理集》は〈上魚賞専也〉と身分の高い人にも供しうるご馳走だとしている。《本朝食鑑》は,ほとんど捨てるところなく食べられること,肝がとく美味いことなどを述べ,アンコウ独特の〈つるし切り〉についても詳細適切な解説を行っている。

江戸時代でもアンコウの肝は極めて脂が強いので,たっぷり塩をあてて竹などの簀(す)で巻き,1時間ほど蒸してから冷水にさらす。これを薄切りにしてワサビじょうゆで食べる、とある。

酢みそにすりこんで身をあえる〈とも酢あえ〉もよい。ちりなべ風に水煮してポンスしょうゆで食べるのもよい。

アンコウ(鮟鱇)

アンコウ goosefish‖anglerfish

アンコウ目アンコウ科 Lophiidae に属する海水魚の総称。温帯から熱帯にかけて広く分布し,沿岸域のやや深い海底に棲む。

体色は黒褐色で,頭部は円盤状をなし上から押しつぶされたように著しく縦扁している。皮膚はうろこがなく滑らかで,多くの皮質突起を生じている。

貪食(どんしよく)で知られ,〈アンコウの待ち食い〉ということわざもあるが,実際には海底に静止したまま品動物の近づくのを待つだけではなく,しばしば中層ないし表層まで泳ぎ上がって回遊性の魚や海鳥を食う。

産卵期は春から夏にわたる。卵は凝集浮性卵で,カエルの卵のようにゼラチン状の卵帯の中に多数の卵が埋まった状態で産み出され海面下を浮漂する。


アンコウ類は底引網,手繰網で漁獲される。〈アンコウは梅が咲くまで〉といわれ,旬は冬。味はアンコウよりキアンコウの方がすぐれている。

アンコウなべ,あえ物などとして賞味されるが,筋肉よりむしろ〈とも〉(肝臓),〈水袋〉(胃),〈ぬの〉(卵巣)などの内臓や〈かわ〉(皮膚),ひれなどの方が珍味とされる。

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
2007・11・21

2007年11月22日

◆小沢氏、未練たらたら

                  渡部亮次郎

<小沢氏、改めて「大連立」に言及…民主党内に疑念の声>と。
小沢氏が、1度は党内で否定された自民党との大連立構想に未練を持っていることを示した。以下< >内はいずれも2007年11月20日23時10分 読売新聞。

<民主党の小沢代表は20日、党本部で記者会見し、自民党との連立政権構想について、「(自民党との連立で)国民との約束が実行できるなら、国民に対する責任を果たすことになる。今もそう思っている」と述べ、「大連立」が望ましいとの考えを改めて強調した。

その上で、民主党内の反対を理由に、与党との政策協議や、次期衆院選後の連立に否定的な考えを示した。小沢氏の発言に対し、「党内の理解が得られれば、大連立を再び目指す意向を示したものだ」(党幹部)とする声が民主党内から出ている。

小沢氏の発言について、同氏周辺は「連立の意義を説明し続ければ、徐々に浸透する。次の衆院選で野党で過半数を獲得できなければ、党内から連立構想が持ち上がってくる可能性がある」として、大連立に向けた環境整備を図る狙いがあると解説する。>

党と党の合同ではない。次の総選挙まで、自民党政府の庇(ひさし)を借りて政権運営のウォーミングアップをしながら民主党の政権担当能力を国民に示す。

その結果、民主党に対する信頼感は増幅するはずだし、これならば次の政権を民主党に任せても良いとする期待感が出るに違いない、したがって次期衆院選挙での民主党勝利を担保するのが大連立だと小沢氏は考えている。

20日の記者会見で小沢氏は具体的に説明している。この具体的説明を第1幕ですべきだったが、しなかった。「これぐらいのこと、説明しなくたって代議士なら分かっているだろう」と敢えてしなかった。

ところが、岡田はもちろん鳩山、菅も理解できなかった。理解できたとしても旧社会党系議員のあまりに強い反発に驚き、沈黙したか。

<22日に福田首相と野党各党党首が会談することから、民主党内には「小沢氏と福田首相は、連立政権構想についても話し合うのではないか」と見る向きもある。

大連立構想や小沢氏の辞意騒動で民主党は混乱しただけに、党内は「落ち着いてきたのだから、大連立の話を蒸し返さない方がいい」(党幹部)との見方が大勢を占めている。

これに対し、民主党幹部からは警戒の声が上がっている。

岡田克也副代表は19日の講演で「(連立で)政府に入った後、民主党は手を突っ込まれ、ガタガタになるだろう。大連立すれば自民党にとって都合のいい形で最終的な落ち着きどころが出来てしまう」とけん制。

鳩山幹事長も「小沢氏の主張は党全体の考え方とは明確に異なる。党として異なる選択をした以上、小沢氏もそれに従うという約束をした」と強調した。>

小沢氏の「説明」はこうだ。

<我々が(自民党との連立で)政権の一端を担う事によって国民との約束が実行できるなら、国民に対する責任を果たすことになる。
結果として、より多くの国民がわが党に支持を与えてくれるだろう。

例えば農業の問題でも、私どもの(主張する)戸別所得補償制度を導入できるなら、農家は怒るだろうか、喜ぶだろうか、と言う単純な判断だ。

年金でもそうだ。子育てもそうだ。高速道路の無料化を実行で切るなら、国民は連立がけしからんと言うだろうか。自民党政権では絶対にできないことが実現できるなら、国民は喜ぶのでは無いか。

さらに、我々自身の政権になれば、もっと国民のためにいいことをします、と言う事なら、私は支援が寄り集まると思っていたし、今もそう思っている。

しかし、(民主党の)皆が駄目だと言うから、今後はない。ないのだから(党内で)議論する必要は無い。皆さんが議論したいと言えば結構だが。

私は政策協議ぐらいはやった方がいいと思ったが、皆が駄目だと言うから、やらない。

(次期衆院選挙後に改めて大連立構想を話し合う事は)無い。皆が駄目だというのだから駄目だ>

ホント、ハラの中では棄て科白があったことだろう。「今頃分かっても遅いんだよ、馬鹿。つける薬は無いね」。

当に選挙までの間、大連立という庇を借りて母屋を取る大仕掛けの手品。分かってしまった自民はもう乗ってこないだろう。2007・11・21

2007年11月21日

◆玉砕とは将兵全滅のこと

                    渡部亮次郎

<「拉孟(ラモウ)に散った花 平井修一」(「頂門の一針」998 2007・11・16)をぜひ読んで頂きたい。平井氏はこの物語を聞いて涙腺が弛んだと
書いているが、私も同じ思いだ。

この話とは別だが、満州の新京でソ連軍の捕虜となった従軍看護婦の壮烈な最期を読んだことがある。ソ連軍は赤十字のマークがついた野戦病院にやってきて、ソ連軍の負傷兵の傷の手当てのために看護婦の応援を欲しいと言ってきた。

婦長が何人か選抜して応援隊を出したのだが、1ヶ月たっても帰らない。
そこでソ連側の野戦病院に行ったら、日本人看護婦はソ連の慰安婦にさ
れていた。

その人たちに会って帰るように説得したら「私たちは全員が性病をうつ
されている。ここにとどまって、1人でも多くのソ連兵に性病をうつす
のが最期のご奉公」と悲壮な覚悟を示したという。結局、全員が帰国せ
ず、中には自決した看護婦もいた。

説得に当たった婦長は泣く泣く最後の帰国船で舞鶴に上陸したが、死ぬ
まで殉国看護婦のことを講演で語って回り、慰霊碑を建てたという悲話
がある。

シベリアに抑留された関東軍にまつわる悲話は数多くある。だが新京の
野戦病院の悲話ほど心を打った話はない。

樺太(サハリン)でも電話交換手たちの悲壮な最期が伝えられている。
こういう話はGHQによる占領下では、好戦的軍国主義としてMPによ
る検閲で報道することが許されなかった。

沖縄戦では内地から防衛に赴いた日本軍が数多く玉砕している。この遺
族たちの悲しみは、沖縄県民の犠牲の蔭に隠れてほとんど伝えられてい
ない。むしろ攻撃した側の米軍は救世主の扱いを受けた時期がある。

沖縄占領の間に刷り込まれた反内地感情が為せる技といえよう。戦争を
憎む気持は同じだが、沖縄戦で戦死した内地人の気持ちも思いやる県民
の心が育つのは永遠にこない気がする。 古沢 襄>(「頂門の一針」
999号 2007.11.17)

玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争(大東亜戦争、第2次世界大戦)に
おいて、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用
いられた語である。近代戦において、外国軍に玉砕は無い。

大東亜戦争の中で最初に使われたのは、1943(昭和18)5月29日、アリュー
シャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。

「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに
清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された、い
わゆる言い換えである。誤魔化しである。

「大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に
寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部
隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて
壮烈なる攻撃を敢行せり。

爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参
加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。」

主な玉砕戦 1943年5月29日アッツ島守備隊玉砕 日本軍 戦死者 2638
名、生還者27名。米軍 上陸11,00名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200


1943年11月22日 ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 1944年2
月5日 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕 1944年2月23日 マー
シャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕 1944年7月3日 ビアク島守備隊玉砕


1944年7月7日 サイパン島守備隊玉砕 7月6日、第43師団長・斉藤義
次陸軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一海軍中将、海軍第
五特別根拠地隊・辻村海軍少将ほかの司令部は「自決」。

翌7日、約3,000名の日本軍は、最後の「万歳突撃」を敢行して玉砕して
果てた。9日、北部のマッピ岬に避難してきた多数の民間人は、断崖か
ら身を躍らせ自決した。

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2007年11月20日

◆自民党を救った大連立拒否

                     渡部亮次郎

22日に党首会談 。

自民、民主両党は国対委員長会談で22日の党首会談を合意。共産、社民などとも行う見通しだという。

しかし、何の進展も無い事だけは確かである。まさか例の「大連立」の蒸し返しがないことも確かであるが、つくづく民主党は政権奪取の絶好のチャンスをみすみす逃したものだ、と思う。

昭和30(1955)年の保守合同をつぶさに見た記者渡邉恒雄氏(読売会長)だから今回、民主党が大連立に踏み切れば、悪くすると次の総選挙では政権が民主党に渡ってしまうぐらいは読んでいたはずだ。

それでも大連立をやらなければ参院と衆院のねじれ現象下、福田政権は二進も三進も立ち行かない「泥沼」から抜け出す事のできない事は、その後の国会が全く機能してない事を見れば明らかである。

渡邉さんから話を聞かされた小沢氏にしてみれば、当に「渡りに舟」と思い、欣喜雀躍の思いだったに違いない。一見、自民党に取り込まれたように見えるかもしれない。

しかし「政権」の美酒の味を殆ど知らない民主党の若手政治家たちが6人も入閣し、政権を実体験。曲がりなりにも腕を振るうところを見せれば、どうなるか。

実際に細川内閣で菅直人氏が厚生大臣としてエイズ対策などに強力な指導力を発揮、大向こうを唸らせた。あれを小沢副総理ほか6閣僚で示せば、政権運営に対する国民一般のそこはかとない民主党への不安も解消するはずだ。

いうなればヒヨコ民主党の政権運営の模範演技紹介(エキジビション)が大連立の意味だった。やれば次期総選挙での民主党への不安は完全に解消し、勝利を担保する出来事になるはずだった。

その意味を理解しようとしないまま、自民党政権維持に力を貸すことになるとしか理解できないガス頭。またエキジビションと説明してしまえば自民党を警戒させて手品の種明かしになってしまう。

言わなくとも分かるだろう、言ってしまえばお終いよ、なんとか分かってくれ!小沢さんは悲痛な叫びを胸の中で叫んでいた。

しかし3段論法しか分からない秀才君たちは小沢手品を分かれなかった。やはりこの連中とでは芝居はやっていけない、とわかったから、小沢氏は辞任を表明したのだ。

一見、敵に塩を贈るように見えて、実は敵の心臓をえぐり取れるという荒業、いうなれば「負けるが勝ち」という「諺」の意味を理解できない単純性脳膜炎。小沢氏は絶望したはずだ。「これぐらいのことも分からないのか、オレはやってられないよ」

要するに民主党の連中はあまりにも単細胞であり、舞い上がっている、と小沢氏は厭気がさしたのだ。参院選の勝利は小沢の勝利ではなかった。安倍の敵失に救われただけなのだ。

従って時期選挙で衆院の過半数を民主党が制するなんて保証は何一つ無い。せめてエキジビションで模範演技を演じて国民の目をくらますことが出来れば、やっと可能性はあった。

重ねて言う。大連立に乗る事こそが時期総選挙で民主党が勝利するエキジビションの唯一のチャンスだった。菅、鳩山、岡田、赤松らは未だに分かっていない。支持者も単純な頭しか持っていないからこれまた分かっていない。

気力の衰え。こんな党首、さっさと辞めさせるさせるべきだったのだ。民主党は二重に間違いを犯してしまった。間もなく己の馬鹿さ加減を知るだろう。それが衆院選挙だ。2007・11・19

2007年11月18日

◆「わが祖国」を聴きながら

           渡部亮次郎(メルマガ頂門の一針・主宰)

高く済んだ秋空の下(もと)、ひさしぶり、MDでスメタナの「わが祖国」
を聴きながら、落葉で金色に輝く公園の道を散歩した。いつもは「ラジ
オ深夜便」の録音を再生したのにつづいて聴くのはモーツアルトかベー
トーヴェンなのに。

なにか壮大で厳粛な気分に浸ることができるからである。とても演歌や
フォークソングではこうは行かない。祖国、国土、独立、さらに故郷の
風物への愛を強烈に感じる。

連作交響詩『わが祖国』 (わがそこく、Ma Vlast) は、ベドルジハ・ス
メタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交
響詩から成る。スメタナは聾唖者になっていた。

全6作の初演は、1882年11月5日、プラハ国民劇場横のジョフィーン島にあ
る会場で行われた。この曲は、近来、毎年行なわれるプラハの春音楽祭
のオープニング曲として演奏されることが恒例になっている。

 1 ヴィシェフラド  2 ヴルタヴァ  3 シャールカ  4 ボヘミアの牧
場と森から  5 ターボル  6 ブラニークの6曲から成るから、通しで聴
けば1時間20分ぐらいかかる。

音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師
の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を
受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)となるが、作曲活動を続け、こ
の出来事の後に書かれた代表的な作品が『わが祖国』である。

1 ヴィシェフラド

『高い城』とも訳される。かつてボヘミア国王の住んでいた、プラハの
大きな城が描かれた作品。1874年に作曲された。吟遊詩人が古代王国の
栄枯盛衰を歌う、という内容である。

この作品の冒頭に現れ、全曲を通じて繰り返し用いられる旋律の最初の
部分には、スメタナの名前の頭文字B.S.(=B♭−E♭)が音として刻ま
れている。

2 ヴルタヴァ 『モルダウ』の名で知られる。一連の交響詩群の中で最
も知られた作品であり、単独で演奏されたり、録音されることも多い。
ヴルタヴァ川(モルダウ川)の、源流近くからプラハへと流れ込むまで
の様子が描かれている。1874年に作曲された。 スメタナの故郷を思う気
持ちが現れている。

3 シャールカ 1875年に作曲された。シャールカとはチェコの伝説に
登場する勇女の名である。恋人に裏切られたことによって男への復讐を
決意した、という。そのシャールカが男の兵士達を策略にはめて皆殺し
にする、という(男性にとっては首筋が寒くなる)内容である。

4 ボヘミアの牧場と森から 1875年に作曲された。ボヘミアの美しい
風景を音楽としたもの。途中、ドイツ風の歌やボヘミア風の歌といった
民族的な旋律も現れる。

5 ターボル 1879年に作曲された。ターボルとはボヘミア南部の町の
名である。フス派の人々の拠点であった。フス派の戦士の不屈の戦いを
描いている。彼らの間で歌われたコラール『汝ら神の戦士たち』が用い
られているが、これは『ブラニーク』でも引き続き用いられる。

6 ブラニーク 1879年に作曲された。ブラニークとはボヘミア中部の
山地の名である。その山々の深い森の中にて1000年前のチェコ民族の守
護聖人と勇士達が眠っており、チェコ民族が存続の危機に瀕した時に彼
らがよみがえって救いの手を差し伸べる、という伝説がある。

曲は、邪悪に覆われた祖国をその勇士達が勝利を収めて解放する、とい
う内容である。

ビール(チェコ・ビール)の醸造技師の息子として、ボヘミア北部のリ
トミシュル(Leitomischl)に生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリン
を学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。

父親の反対にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、
ある貴族の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リス
トからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

1874年に梅毒に起因して聾唖(ろうあ)になっても作曲をつづけた。の
ち1884年に正気を失い、プラハの精神病院へ収容され、この地で生涯を
終えた。ヴィシェフラトの有名人墓地に葬られている。

スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家で
あるといわれる。そのため、チェコ国民楽派 の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』
は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズム
を多用している。

また、彼の旋律は民謡を彷彿とさせる。同じ様にチェコの題材をその作
品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大き
な影響を与えた。

「わが祖国」の初演から100年に当たる1982年に、記念演奏会が東京で開
催された。(演奏は、ヴァーツラフ・ノイマンの指揮によるチェコ・フィ
ルハーモニー管弦楽団)同公演はライブ録音され、翌年レコードとして
発売された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・11・14


◆「頂門の一針」第1000号記念号(渡部亮次郎氏 主宰)
               平成19(2007)年11月18日(日)

<記念号・目次>


   ・国連崇拝だめ「西側同盟」だ:泉 幸男

  ・福田アンシャンレジーム:山堂コラム191

  ・ひょうひょうのDNA:岩見隆夫

  ・「わが祖国」を聴きながら:渡部亮次郎

  ・武州多摩郡調布上石原:平井修一

            話 の 福 袋
            反     響
            身 辺 雑 記


第1000号   発行周期 不定期(原則日曜日発行)
      購読(無料)申し込み御希望の方は
      下記のホームページで手続きして下さい。

     http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2007年11月15日

◆山茶花(さざんか)

                    渡部亮次郎

さんさかと書いてさざんかと読むのは中国語でいうサンサクヮの転じたもの(「広辞苑」)。四国、九州の暖地に自生、というから冬の花とはいいながら秋田で見なかったのは当然。東京・江東区の学校の生垣で11月上旬現在、満開である。

Sasanqua 古くから庭木や生け垣に利用されるツバキ科の常緑高木。日本固有種で、山口県、四国の南西部、九州北部から沖縄の西表(いりおもて)島にかけて分布する。

昭和28年のNHKラジオ歌謡に「さざん花の歌」というのがあって、初めてこの花の名を知ったが、実際に花を見たのは中年過ぎだった。

作詞:寺尾智沙(妻) 作曲:田村しげる(夫) 歌唱:鳴海日出夫

(一)
さざん花は
ひそかにも 咲いている
霜白く
庭の垣根に 降りた朝
母のおもかげ しのばせて

(二)
さざん花は
あの時も 咲いていた
幼い日
落ち葉をたいた けむにむせ
泪誘われ 泣いたとき

(三)
さざん花は
音もなく 散っている
たそがれに
落ち葉を焚けば 流れゆく
煙り哀しい 白い花

野生種は白花で一重咲きだが、古くから品種改良がおこなわれ、赤や桃色、大輪で花弁の数が多い品種などが生みだされた。江戸時代の「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)」(1695)には50品種が、「本草花蒔絵(ほんぞうはなまきえ)」(1739)には100品種が記載されている。
また、1869年(明治2)には海外へ持ち出され、欧米やオーストラリア、ニュージーランドでも品種改良が盛んにおこなわれている。
高さ3〜、葉は革質で光沢があり、長さ3〜6cm、幅2〜3cmの長楕円形。花は直径5〜7cmで、10〜12月に咲く。

同じ仲間のヤブツバキ( ツバキ)とは、枝が細く、若い枝に毛があり、花弁と雄蕊(おしべ)がバラバラに散ることで区別できる。サザンカによく似ていて12〜3月に開花するカンツバキは、サザンカとヤブツバキの雑種である。

昔、山茶花究という俳優が居たが、あの方は3X3=9をもじったもので花のことではなかった。

昔、外務省で大臣秘書官をしていた時、日本商工会議所会頭の永野重雄(新日本製鉄会長)さんから大臣に招待があり、その会場に指定してきたのが「山茶花荘」だった。東京・ニューオオタニホテルの別館和室。変哲も無い和室だったが、勘定は相当なものだったようだ。

その時、日程表書き込み係りの女性職員がさりげなく「山茶花」と書き入れたので感心したことを思い出している。今から34年も前のことだ。

少年の頃は名前しか知る術も無かった山茶花。11月に入って散り始めた木もある。今の若い人たちは山茶花なんて知ろうともしないだろう。

昭和51(1976)年の山茶花の演歌は「中山大三郎作詞、猪俣公章作曲の「さざんか」。聴いた事がない。

昭和57年、突如として「さざんかの宿」が大川栄策の歌唱でミリオンセラーになった。作詞吉岡 治 作曲市川昭介。

「くもりガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか 愛しても愛しても あぁ 他人(ひと)の妻 赤く咲いても 冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿」

人によっては2番の歌詞が凄いという。

「ぬいた指輪の 罪のあと かんでください 思い切り 燃えたって燃えたって あぁ他人(ひと)の妻 運命(さだめ)かなしい 冬の花 明日はいらない さざんかの宿」
資料:Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.  2007・11・14

2007年11月14日

◆訛は抜けない

                   渡部亮次郎

記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、襄さんは東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は民主党に対する説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れしたが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市
隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。
「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、
マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、
サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。 2007・11・13

2007年11月13日

◆法輪功迫害のわけ

                    渡部亮次郎

革命は徒党である。しかし反革命も初めは穏健な徒党だから、体制側は穏健なうちに潰さなければならないとの使命感を持っている筈だ。それが中国共産党が法輪功を弾圧する理由だ。

法輪功は「単なる気功の一種、弾圧は不当だ」と反論しているが、徒党の核であると共産党は見るのだから「暖簾に腕押し」。「土足」で突っ込んでくる。迫害は半永久的に続くとみなければなるまい。

中国共産党が公に法輪功への弾圧を始めたのは1999年7月。以来、法輪功および法輪功の学習者に対して行われている迫害に関する様々な証言が出ている。

1999年に中国共産党が公に弾圧を始めた後、共産党と法輪功は激しい対立関係にあり、そのことから互いに非難の応酬を重ねている。

法輪功は台湾から中国へと渡ったので、中国政府首脳や人民解放軍幹部といった、権力の中枢にある者は中国(中華人民共和国政府)を滅亡させる目的で台湾政府から送られて来たのだという見方もある。

「ウィキペディア」によれば、法輪功(ファルンゴン、ピンイン)は、気功の1つ。日本では「ほうりんこう」と呼ばれているが、日本法輪大法学会は原語の発音に基づいて「ファルンゴン」と読むよう要請している。

気功とは「広辞苑」によれば「中国の保険養生法、気を養い、体内にめぐらせることにより心身の健康を得るための鍛錬法」である。

単なる健康法をなぜ弾圧したり迫害したり殺して臓器を売ったりする必要があるのか。もちろん健康法に留まっているうちはいいが、信者たちは必ず徒党を組み、集団となり、煽り方一つで反体制グループに成長する可能性が理論的にある以上、早めに芽を摘みに来るのだ。

見方によっては共産党の方が臆病であり、早い段階からの弾圧はさながら弱いもの苛めに映る。だから共産党は将来に確とした自信がないとも映る。

現に「大紀元日本」(ブログ)2007年11月12日付の右肩には中国共産党脱党(団、隊)者数:28,256,982人と出て、7800万党員のなかから本当にこれだけの脱党者があるとなれば、弾圧に弾みがつこうと言うものだ。

法輪功の創始者は吉林省出身の李洪志。 彼によると、法輪功とは佛家と道家の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功である。

「真・善・忍」という宇宙の特性に基づいて心性を修め、人間の身体を健康にするとともに根本から改善、向上させる修煉を行う功法であるという。

法輪功の主な指導書は『転法輪』(ヅァンファルン)であり、同書をはじめとする李洪志の著作の中で法輪功はよく法輪大法(ファルンダーファ、ピンイン)とも称されている。

法輪功は次のように宣伝している。

<法輪功は世界60カ国以上に広まっている。法輪功はすべて無料で教えられており、その教えに基づいて修煉を行うことで内面の向上や病気治療に顕著な効果がある。

この功法はもともと秘伝の形をとっていて、一般には今まで公開されていなかったが、1992年より公開され、その教えによる精神的・肉体的効果が口伝えに急速に広まったことで、中国をはじめ全世界で1億人以上に学習者が増え、現在も増え続けている。

中国共産党は1999年に法輪功を邪教(いわゆるカルト)と断定し、中国および外国において法輪功学習者を弾圧し続けている。

また、中国政府は96年にアメリカへ移住した李洪志の行動を摘発回避のための逃走・亡命であろうとコメント(コメント日時不明)>

日本では2004年8月27日、日本法輪大法学会が東京都においてNPO法人格を取得。

法輪功を行う人たち(彼らの間では互いを「学習者」と呼んでいる)が、秋葉原駅前(電気街口より中央通へ出る道、ラジオストア前の歩道上)や東京入国管理局前などにて「大紀元時報」を配布している。

1992年 中国で活動を開始
1996年 創始者・李洪志、ニューヨークへ移住
1998年 李洪志、グリーンカードを取得

1999年7月22  中央人民政府、法輪功を全面禁止、李洪志を国際手配(29日)駐在公館を通じてアメリカに身柄引き渡しを要求

2001年 1月23日 北京・天安門広場での焼身自殺事件の模様を中国中央テレビが報道、自殺を図った者は法輪功学習者で、そのうち1人が死亡と報じた。

また後日放送された番組「焦点訪談」で、焼身自殺で全身に負った重度の火傷を治療中の、全身に包帯をきつく巻かれた負傷者の姿が放映された。

法輪功側は、これら一連の報道の矛盾点、疑問点を指摘し、焼身自殺は中国共産党による捏造報道であると主張。

2002年 “言論統制打破”を名目に放送衛星シノサットへの不法割り込みを度々行い、問題視される

2004年8月27日 日本法輪大法学会、NPOとして認可

2005年4月12日 日本法輪大法学会ほか、法輪功への迫害に対し、江沢民と中国大使館を大阪地裁に提訴、日本は世界で15カ国目の訴え(本号スタブ)

2006年3月9日、瀋陽市近郊の蘇家屯地区に生存している法輪功学習者を殺して臓器を取り出すという不法臓器摘出行為を行う収容所があると大紀元が報道。

7月6日、カナダのキルガー、マタス両氏が中国で不法臓器摘出が実施されている可能性が極めて高いとの独自報告を発表したとAFPが報道。

8月11日、国連は不法臓器摘出行為についての申し立て書を中国政府に送付。

これに対して中国政府は11月28日、蘇家屯地区などをNHKなどの報道機関に取材させたことなどを挙げた上で、国連に対して申し立ては事実無根と反論。

2006年4月20日、米国・ワシントンのホワイトハウスで行われた胡錦濤・中国国家主席のスピーチの席上、報道陣席にいた法輪功メンバーの王文怡が法輪功への迫害停止を求め、胡主席に向かって大声で抗議。

2007年5月1日 シノサットへ再度不法に割り込み

法輪功と中国共産党の死闘は中華人民共和国が倒れるまで続くだろう。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 2007・11・12