2007年08月14日

◆農地解放があった


                          渡部亮次郎

日本が1945(昭和20)年8月15日に大東亜戦争に敗れた後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)、およびその圧力の下で日本の国会や政府によって行なわれた一連の民主化・自由化の改革があった。

1945年、連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーは当時の首相、幣原喜重郎に対して、五大改革指令を命ずる。その内容は
1.秘密警察の廃止
2.労働組合の結成奨励
3.婦人の解放
4.教育の自由化
5.経済の民主化
であった。

1946年、GHQは日本国憲法を成立させた。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念を盛り込んだ。

また改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などが含まれる。農地改革で自作農が飛躍的に増えたことは農村部の保守化につながったといわれる。長こと農村は保守政党の地盤だった。

このうち農地改革(のうちかいかく)は、農地の所有者の変更や法制度の変更など、農地を巡る改革運動の1つ。一般的には1947年、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。

地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものに換わった。

日本の農家はこれによって基本的に自作農となった。自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。

それまでも「米どころ」とされていた東北の秋田県でも1反歩(10アール、300坪)あたりの収穫量は300〜360Kgに過ぎなかったが、農民の生産意欲の向上、肥料と農薬の進歩、早植え、早刈りいれなど栽培技術の進歩などにより収穫量は倍増した。

但し、今日の農村の疲弊は農地解放とは別問題である。

続きを読む≫≫

2007年08月13日

◆正月から待っていた



                       渡部亮次郎

盆の十三にち 正月かた待ってダ。百姓仕事に追われ、趣味も全く無く、98歳で死んだ母が、たった1回、節をつけて呟いた歌(?)
がこれだった。田舎の盆は月遅れ,今日13日が盆の入りである。

昔の百姓にとって「百姓泣かせの雨」というのがあった。夜中だけ降って夜明けと共に上がる雨。晴れたら仕方ない、野良に出なければならないから百姓泣かせなのである。

春先の播種(苗代への籾もみ撒き)に始まり、代掻き、田植え、草取りと続き、稲から穂が出るころ、丁度、月遅れで盆となる。この日ばかりは朝から野良仕事のすべてを休んで先祖の供養、墓参り等をするのである。

その週に広場か通りで盆踊りが行われる。裸電球の下、若者たちが前身に汗を滾らせて叩く大太鼓に合わせて数十人の老若男女が輪になって踊る。殆どの人が仮装だ。そこで叫ぶように歌うのだ。「盆の十三日(にち)正月から待ってだ」(秋田訛)。歓喜の雄たけびにも似た歌だ。

田圃の稲は今、花が咲き、あとは秋の取入れを待つばかり。やがて大根も太くなっている。無数を抜いて洗って日干し。たくあんにするのだ。葉もよく干す。野菜の無い冬の貴重なビタミンAの補給源だ。

私も中学、高校へ通いながら田植えから草取り、稲刈りまで、今と違ってすべての手作業を手伝った。それらのすべてを1日で1反(10アール、300坪)を仕上げられれば1人前といわれて達成した。

考えてみれば昔の田圃の仕事はすべて手作業だった。だから百姓の指の先にはいつも泥がつまり、男女とも中年には腰が曲がったものだ。今は田植えも刈り取りも機械、草取りは除草剤になったから、猫背、蟹股、腰曲がりの百姓はいなくなった。

その代わり、田圃から泥鰌(どじょう)が死滅し、朱鷺(トキ)など野鳥の生態に大変化をもたらしている。餌を絶滅させておいて、野鳥だけは生かせというのは人間の勝手すぎる夢では無いか。

続きを読む≫≫

2007年08月10日

◆原発危険報道のからくり


                         渡部亮次郎

2007年7月16日(国民の休日=海の日)に起きた中越沖地震の東京電力柏崎刈羽原子力発電所の被害をめぐる報道を見るにつけ、つくづく思う。「駄目だこりゃ」。

東京電力の広報が間違っている。被害をなるべく小さく見せて、運転再開を出来るだけ早くしようとの使命を考えるものだから、結果、被害を小出しにする。

元々人々は原子力発電と原子爆弾の正確な区別を知らないからマスコミも原発=悪と決め付けて、隙あらば煽り、攻撃し、この地上から消したいと考えている。日本みたいに狭い国土では原子力発電は必要不可欠なんて考えない。

同じ社会部記者でも環境省担当記者は内心、Co2を削減して京都議定書を遵守するには原子力発電は認めざるを得ないと考えている。だが、今回の地震被害に対して「安全は確保されている」とは絶対書かない。『社是』が「原発反対」だからである。

新潟県中越沖地震を報ずる第1報(朝日新聞 7月17日)を見ると、『新潟・長野 震度6強 M6・8 300棟全壊、1万人非難』に続いて「柏崎刈羽原発 放射能含む水漏れ 海に流出 揺れは国内最大」と出ている。

その後27日になって放射能に汚染された水が海に流出したり、空中に放射能が漏れたなどが「次々に」分かって報道された。

たとえば隣県で同じように原発を抱える福井県の福井新聞は特別取材班を現地に派遣し「原発の街恐怖連鎖 放射性物質流出に怒り」という恐怖を「煽る」様な記事を大々的に掲載した。

また8月7日付の朝日新聞は「複数の作業員が放射能水を被る」と4段見出しで報じたが、ウソだった。入院した職員は地震で倒れたキャビネットの下敷きになって怪我したためだった。

更に漏れた放射能についても政府の原子力安全・保安院が7月27日に都内の日本外国特派員協会で説明したところでは「東京―ニューヨークを飛行機で往復する間に宇宙から浴びる放射線の1,000万~100万分の1の量」と説明した。

東京―NY往復で宇宙から浴びる放射能は0・2ミリシーベルト。今回漏れ出したのは、海水に10億分の2ミリシーベルト、大気に1,000万分の2ミリシーベルトだと原子力安全・保安院は説明。要するに桁違いに低い値で、人や環境には影響が全く無いのだ。

続きを読む≫≫

2007年08月09日

◆日本は衰退している


渡部亮次郎

民主党に統治能力は無い。細川政権で実証済みだ。それなのに今度(23007・07・29)の参院選挙で国民は民主党に多数を与えた。私はこれを日本衰退の証拠と見る。

大体、国会議員に日本人はいない。日本を愛し、そのために命を投げ出せる国会議員は1人もいない。国民の上に立つ人なら咄嗟の時に自己を国民に捧げられる人の筈だが、今や1人もいない。

日教組は命を大切に、と教えるが、それは己の命であって他人の命ではない。そうやって教育されたのが65歳以下の日本人なのだからいまやまともなのは65歳以上の老人だけになった。まともな日本人は間もなく日本に1人もいなくなる。

だからある新聞社に頼まれて安倍改造内閣の自己流組閣予想をやってみて愕然とした。適任者として官房長官、外務大臣、防衛大臣、経済産業大臣の適任者が1人もいない。

1960年代から日本政界の取材をしてきたが、国会議員全員が大東亜戦争を体験していた。田中角栄、竹下登、宇野宗佑までは戦場を知っている総理大臣であった。敵に襲撃される恐怖からの生還者だった。

それだけに度胸というものを秘めていた。敵の弾丸がどの方面から飛んでくるかの洞察力が涵養されていた。危機に瀕して咄嗟の判断にも優れていた。組織の統率にも優れていた。

戦争の現場はそのまま政局である。命がけなのだ。しかし、そうした戦争体験者は今の政界には皆無になった。ただ2世だから、だらだらと政治らしき事をしていれば、なんとなく当選を繰り返す事ができる「ぬるま湯」。政治ではなく「政治らしきこと」である。

続きを読む≫≫

2007年08月08日

◆八・八・八の訪中


                       渡部亮次郎

1978年8月8日。8の漢字「八」を昔の人は下が広がっていて、「末広がり」と掛けて「目出度い」と珍重した。「大臣の訪中ご出発は末広がりの8日に致しましょう」と外務事務次官有田圭輔氏(故人)。

「合理主義の外交官が古めかしい事を言うなぁ」と感心する外務大臣園田直氏(故人)。ちょっと離れてやり取りを聞いているのが秘書官の私だ。29年前の8月8日は日航特別機で羽田から北京に向けて飛び立った日だ。

この年1月のモスクワ訪問の時の現地邦人らへの土産は真冬故野菜が欲しいというので白菜をどっさり持っていったが、北京には食パンらしい食パンは無いという。

生ものだから当日製を当日積んでいけばいいのだが、量が大量すぎる。注文を銀座のパン屋に1週間前に出してしまった。8日に出発できなかったら、私がパンだらけになるだけ。

今まで公開してこなかった『外務大臣秘書官日記』が残っているから、部分的に公開しよう。これはある大手出版社の依頼に応じて書き始めたものだが、多忙のため完成できなかったものだ。メモのまま。

物を書くという仕事は実に根暗な仕事なのである。しかし根暗な顔をしていたのでは秘書官は勤まらない。大臣曰く「秘書官は大臣の仕事仲間であり、遊び仲間でもなければならない」というのだ。

それで、とうとう未完成の日記となってしまった。

続きを読む≫≫

2007年08月03日

◆福田康夫最大の誤謬


                       渡部亮次郎

ポスト安倍の有力候補者に上げられながら福田康夫は逃げ回っている。追い回しているのは自民党内媚中派と、おそらく公明党も秋波を送りたいところだ。

媚中派は津島派や山崎派に逸れ(はぐれ)鴉・加藤紘一である。彼らはなんとしても中国共産党政府公認の政府を築きたくてたまらないのだ。引き換えに何らかの利権をもらえると誤解しているようである。

中でも津島派は日中国交回復を成した田中角栄首相を源流とする派閥という事を意識してか媚中がスタンスだ。その点から、公明党も国交回復の政党との自負から媚中を否定しない。

加藤は元外務省で「チャイナスクール」だったから、当然の媚中派である。しかし、政局のたびにチョンボを繰り返すものだから今や手下1人も居ないはぐれ鴉。とあっては、悔しいが誰かを担ぐ以外にない。

山崎拓や二階俊博の媚中派の理由は知らない。しかし、靖国をのけてでも中国共産党のペットであろうとする。そういう奴を中国人は陰で嘲っている事を知らないように。

彼らが福田康夫を担ごうとするのは、康夫がなぜか中国共産党に理解を示すからだ。康夫が秘書官を勤めた父福田赳夫首相が在任中に日中平和友好条約を締結した事も若干、関係しているらしい。

日中平和友好条約こそは田中・周恩来による共同声明で出来た日中関係の仮橋を「鉄の橋」にしたものと福田首相が表現したとおりに、
中国の今日の繁栄を支える最大のものであった事は確かである。

しかしあの条約の締結に福田首相は内心、反対だった事を、一番知っているのは康夫であり、中国側である。当時、日本側で、度々総理や安倍晋太郎官房長官、森喜朗官房副長官、岸信介元首相らに足を引っ張られ、泣く思いをしていたのが外相園田直だったことを秘書官の私は忘れない。

続きを読む≫≫

2007年08月01日

◆「チョロ」の国家機密



                  渡部亮次郎

日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうことか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話だ。福田赳夫さんが総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前はNHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等とはとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ラインとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかったのだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろうと春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

続きを読む≫≫

2007年07月31日

◆安倍で大丈夫だろうか


渡部亮次郎

<京都府福知山市大江町の農業河合勇さん(76)は「年金問題が影響したと思う。憲法改正や農業など国の根幹にかかわる議論を期待する。中山間地域は後継者が育たず土地がどんどん荒れていく。まずは現状を知り、対応策を講じてほしい」と話した。

滋賀県大津市の主婦大塚永子さん(68)は「年金や医療・福祉政策への国民の意識が影響したと思う。主婦や高齢者は収入が少なく、その多くが医療費や介護費、生活を維持するための費用に消えてしまう。余裕と生きがいを持って生きられる社会にしてほしい」と願いを込めた>京都新聞 2007・07・30

<河北新報社(仙台市)が公示前に青森県内の農家を対象に行ったアンケートでは、回答者の3割が自民支持から別の政党または「支持政党なし」に移った。

青森県むつ市の自民関係者は「最近の農政への不満に加えて年金問題もあり、農家を昔のようにまとめきれない」と嘆いた>河北新報 2007・07・30

私の身辺にいる無党派層(71歳 女性)は「政権交代には繋がらないかもしれないが、今回だけは自民党に入れない」と断言していた。民主党は自民党と違って正しい事をやれる態勢に無いから今回支持しても無駄です、と言っても効かなかった。

こと程左様に、国民の大半が「自民党と公明党にお灸を据える」心算で投票しただけだったが、お灸は大炎上となり、自民公明は大火傷ということになった。予想通りであり、敗因を今更列挙しても始まらない。

<自民「安倍続投」を確認 内閣改造で責任論封印

自民党は30日午前、参院選惨敗を受けて党本部で役員会を開き、安倍晋三首相(党総裁)の続投を確認した。首相は8月下旬にも内閣改造、党役員人事を断行、人事権を盾に党内の首相責任論を「封印」したい考えだ。「政治とカネ」問題が惨敗に直結したことから、政治資金規正法再改正も視野に透明化策の与野党協議を呼び掛ける。

ただ民意の厳しい審判が下ったことで首相の求心力低下は免れない。党内では「謙虚に反省すれば軽々に続投とは言えないはずだ」(舛添要一参院政審会長)との責任論がくすぶっているほか、人事刷新を急ぐよう求める声も上がっている。

首相は役員会で「改革を続行する。選挙結果を真摯に受け止め何ができるかを考えながら今後も責任を果たしたい」と強調。>
2007/07/30 13:10 【共同通信】

「改革を続行する」とは言うのはそのとおりだろうがが、安倍態勢の欠点の最大のものを排除してからでなければならない。

今回、年金問題が最大の敗因となったというが、この問題の存在は安倍政権の遥か以前であり、それが選挙前になって急浮上し、あたかも安倍政権の失策のように位置づけられたのはなぜか。火消し係は厚生労働相ではなく、情報管理に当るべき官房長官の罪であり、落ち度であった。

続きを読む≫≫

2007年07月29日

◆林彪はなぜ死んだ


                       渡部亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣は佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうな徒の社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

続きを読む≫≫

2007年07月28日

◆忘れられた建国の日



                    渡部亮次郎

私の主宰するメイルマガジン「頂門の一針」2007年7月26日号(878号)に以下のような大先輩の投書が寄せられた。

<昭和41年4月6日の祝日法改正により、国民の祝日に、「2月11日」が「建国記念の日」として加えられました。以来、40年に亘って祝い続けてきておりますが、その間、政府も、学校も、マスコミも、この「2月11日」がどんな日であるかと言う歴史的な説明を行ったのを見聞きしていないのは、私の不勉強のせいでしょうか。>

このことについて私は「目撃者」なので、改めて記録する必要を感じる。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。だが紀元節は、敗戦に伴い1948年(昭和23年)廃止された。

紀元節復活の動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自民党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

しかし、当時野党第一党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。その後、9回の法案提出と廃案を経る。

その頃、私はNHK政治部記者として衆議院記者クラブに配属された。ここは法案の審議状況を「監視」するポストだ。当然、各委員会の審議状況を毎日監視するほか、衆院議長、副議長、議院運営委員会(議運)の動きを絶えず見守る。

昭和40年暮のある日、副議長に就任したばかりの園田直と雑談していたら「何とか菅原通済に勲1等を取ってやる方法がないものだろうか」といった。

戦前の実業家で戦後は映画俳優と言っていいぐらいに数々の映画に出演。傍ら売春、麻薬など「三悪追放運動」に挺身。しかし「通人」として聞えていた。その人に勲1等とは・・・

園田は当選9回、特攻生き残りの猛者ながら未入閣。副議長で何か1発手柄を立てての入閣を狙っているはず。ア、あれでは無いか、建国記念日法案、社会党が「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対しているあれを「解決」すれば目だった手柄にはなる。佐藤栄作総理はこの法案に拘っている。

翌日、2人っきりになった時「あれじゃないですか、建国法案。あれを粋人菅原がらみで処理すれば勲1等にはなるでしょう」。園田がキッとなった。図星だったのだ。

続きを読む≫≫

2007年07月27日

◆田中角栄逮捕の日


                        渡部亮次郎

今日7月27日は元総理大臣田中角栄が逮捕された日である。1976(昭和51)年、今から31年前。私は彼に飛ばされて、まだ大阪NHKにいた。

田中は政権を三木武夫に渡していたが、在任中、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みにからむ収賄事件である「ロッキード事件」で東京地検に逮捕されたのである。直ちに自民党を離党した。

総理大臣という最高位にあった者を官憲に逮捕させるとは、三木総理の恣意的な意図によるとの見解から、党内反主流を結集させ、結果的に三木は引きずり降ろされる。

その陰に田中がいた事は当然。三木の次は嘗てのライバル福田赳夫とするという大平正芳の「密約」を容認する。その福田内閣に大阪から帰っていた私が外務大臣園田直の秘書官として加わったことは皮肉だった。

賄賂として5億円。事件は関係者が多岐に亘り、複雑に見えたが、実際は簡単。ロッキード社が右翼児玉誉士夫の指導で政界のみならず各方面に隈なく賄賂を渡して工作していた、というだけ。

1983年10月 - ロッキード事件の一審判決。 東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。

1985年2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。 言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。

1987年7月ロッキード事件の二審判決。 東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。

1992年8月 - 中国訪問。 中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、長女眞紀子らが同行。

1993年7月 第40回総選挙。 眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。

続きを読む≫≫

2007年07月26日

◆取材力の低下が示すもの


                        渡部亮次郎

職業紹介事情に詳しい先輩の話によると、最近の若者が最も厭がる仕事は、相手を説得する仕事だそうである。新聞の勧誘、NHK聴取料の集金などは特に嫌われるという。それでいて大学生のジャーナリスト志望は何時でもトップクラスというのだから矛盾している。

敗戦で国家のアイデンテティーを失った悲しみが60年を経て現実のものとなったのである。日教組教育の結果、自己の利益追求には急だが、相手の関心事や本心や悲しみを知ろうとする人間が出来なくなったのである。

最も酷いのが「モンスターペアレント」。先生を脅す両親。恐れた先生たちは脅された時の用意のために急いで保険を掛け始めているという。だがモンスターを育てたのが誰あろう、先生たちなのであって、天にした唾が今落ちてきたのである。

その先生の育てたもう一つの作品が主体的な取材が出来ず、自己主張の出来ない論説を書く記者たちである。モンスター記者といわれて怒ることも出来ない記者を育てたのは日教組以外に誰かいるか。

最近(2007年7月)、昔、大新聞で政治記者をしながら若くして途中退社した人と懇談する機会があった。彼が嘆くのである。「取材が苦手なものだから、スクラップ・ブック(切り抜き)を丹念に作り、それを適当に組み合わせて、それらしき記事に仕立てる記者ばかりだ」。

記者というのは沢山の人と面会するのが仕事のはずだが、最近の記者は記者を志望したくせに人に会って話を聞く事が苦手と来ては、切抜きを組み合わせて自分の意見のように見せかけるしかないわけだ。

よく論説委員が他紙の論説を丸ごと盗む事件が一再ならずあるのはこのせいだ。なるほど、昔は無かったインターネット。便利な器械で「検索」すればどの社の記事も論説も瞬時にして目前に現れる。国内の全部の新聞の社説やら論説を読もうと思えば、数時間で可能だ。

その中から気に入ったところだけを寄せ集めて「プリント」すれば、似非(えせ)論説はたちどころに完成する。中央紙同士ならすぐ露見するが、地方紙から拾う限り、露見はなかなかしないから、盗作はしばらく続く事になる。

私をNHK記者に仕立ててくれたのは秋田魁新報で社会部記者をしていた実兄だが「記者というのは、人からモノを教わる商売だ。一日に初対面の人を最低限3人作れ。出来ないだろうがな」といわれた。難行苦行だった。

また、後に会った自民党の実力者河野一郎氏は「政治記者は人生の大学院だ。名刺1枚でどんな偉い人にも会える。その人の誰にも無い貴重な体験を只で教えて貰う、人生の大学院だ」といった。

尤も、後にNHKで会長に上り詰める政治記者島 桂次は教えてくれた。「政治家は嘘を吐く。不特定多数の者を相手にする記者会見では誰がどこで何をバラすか知れないのだから真相は絶対語らない。従って単独会見以外の記事は嘘に決っている」と。彼は総理池田勇人の蚊帳の中まで行って本心を聞いてきた。

続きを読む≫≫

2007年07月24日

◆負けるが勝ち



         渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」・主宰)

伊藤正の畢生の力作「トウ小平秘録」の第3部「文化大革命」が2007年7月22日、遂に終わった。第4部はどのようなタイトルで何時始まるのだろうか。

伊藤正は言うまでも無く産経新聞中国総局長として北京に滞在中。中国の専門家であり、はじめは共同通信社の駐在記者だったが、2000年産経に転じて12月に総局長となった。経歴からしても中国ウォッチャーの第一人者である。

産経にはやはり共同通信社から迎えた黒田勝弘ソウル支局長と毎日新聞社から迎えたワシントン駐在の古森義久記者がそれぞれ居て、他紙では読めない、そこの深い分析記事で、それこそ紙価を高からしめている。

その中で北京の伊藤は早くから「トウ小平秘録」の準備に取り掛かっていたらしく、少なくとも公刊された書物のすべてを読み込んでいるようだ。

流石に面と向かってのインタビューに応じた人がいたか、いなかったか。相手の安全を考えれば、今の中国特派員としては、それすら明らかにはできない。当局の逆鱗に触れたら直ちに国外退去となり、2度と再び中国の地は踏めないのが現状だからである。

事情を知らぬ人は「日本の中国報道は生ぬるい」と批判するが、あそこは民主主義国家ではない。言論の自由はもちろん無く、三権も分立していない共産党楽園国家。取材の自由なんか絶対無い。

そうした中で伊藤は「トウ小平秘録」の連載を2007年2月14日から、
開始。私は朝になるのが待ち遠しかった。誰も書かない、否書きえなかった中国最大の実力者の実像を知りたかったからである。

トウは生涯に失脚3度、復活3度を経験した、世界の政治家としても稀有な存在だった。しかし、失脚されても帝王毛沢東に徹底的に怒られてはいなかった。周恩来は「不倒翁」だったが、毛への不満は抱えたまま死んだ。

続きを読む≫≫