2010年08月14日

◆正月から待っていた

部 亮次郎

盆の十三日 正月かた待ってダ。百姓仕事に追われ、趣味も全く無く、98歳で死んだ母が、たった1回、節をつけて呟いた歌(?)がこれだった。田舎の盆は月遅れ,今日13日が盆の入りである。

昔の百姓にとって「百姓泣かせの雨」というのがあった。夜中だけ降って夜明けと共に上がる雨。晴れたら仕方ない、野良に出なければならないから百姓泣かせなのである。

春先の播種(苗代への籾もみ撒き)に始まり、代掻き、田植え、草取りと続き、稲から穂が出るころ、丁度、月遅れで盆となる。この日ばかりは朝から野良仕事のすべてを休んで先祖の供養、墓参り等をするのである。

その週に広場か通りで盆踊りが行われる。裸電球の下、若者たちが全身に汗を滾らせて叩く大太鼓に合わせて数十人の老若男女が輪になって踊る。殆どの人が仮装だ。そこで叫ぶように歌うのだ。「盆の十三日(にち)正月から待ってだ」(秋田訛)。歓喜の雄たけびにも似た歌だ。

田圃の稲は今、花が咲き、あとは秋の取入れを待つばかり。やがて大根も太くなっている。無数を抜いて洗って日干し。たくあんにするのだ。葉もよく干す。野菜の無い冬の貴重なビタミンAの補給源だ。

私も中学、高校へ通いながら田植えから草取り、稲刈りまで、今と違ってすべての手作業を手伝った。それらのすべてを1日で1反(10アール、300坪)を仕上げられれば1人前といわれて達成した。

考えてみれば昔の田圃の仕事はすべて手作業だった。だから百姓の指の先にはいつも泥がつまり、男女とも中年には腰が曲がったものだ。今は田植えも刈り取りも機械、草取りは除草剤になったから、猫背、蟹股、腰曲がりの百姓はいなくなった。

その代わり、田圃から泥鰌(どじょう)が死滅し、朱鷺(トキ)など野鳥の生態に大変化をもたらしている。餌を絶滅させておいて、野鳥だけは生かせというのは人間の勝手すぎる夢では無いか。

泥鰌だけは東京なら養殖ものをどこかで食べられるが、タニシだけは大人になってからは食べた事がない。これも除草剤で絶滅したのだ。

敗戦直後は、戦争中の肥料不足、病虫害の蔓延により米の収穫量は1反歩5俵か6俵だった(300Kgから360Kg)。

しかも田圃を地主から借りている小作農はその半分を地代として物納しなければならなかったから、コメ農家の癖に米を口に出来ない日もあった。

明治37〜38年の日露戦争で出征した農家の次三男が無料・無制限だった白米の飯をたらふく食べて何万人かが脚気にかかってかなりの人が戦う前に死んだのはこの所為である。白米にはビタミンB1が入ってなかったからである。

ちなみに海軍だけは指導者のよろしきを得てパンやライスカレーでB1を補い、事なきを得た。それに倣って今も海上自衛隊は毎週金曜日の昼食はどこでもカレーだ。

横須賀基地のカレーは有名であり、九段靖国神社の売店では「海軍カレー」がレトルトで売っている。

閑話休題。それまで日本の革新的な農林官僚にはできなかった農地解放(地主から土地を取り上げ、小作農に低廉価格で払い下げる事)を進駐してきたマッカーサー元帥があっという間に強行した。

土地を失って失望した大叔父は首を吊って死んだ。しかし小作農は狂喜乱舞。収穫のすべてが自己所有となったのだから自転車を買い、ラジオを買った。生産量も倍増した。中国人も毛沢東よりトウ小平が好まれるのは同じ理由だ。

しかし、やがて娘や息子は大学を出たとは言うものの都会から帰ってこなくなり、長男には来る嫁がいなくなった。辛うじて中国や東南アジアから無理して迎えている始末だ。

結果、いまや盆の十三にちは誰も待たない休日だが、将来への希望もあまり無い夏となったのである。私?家督を継いだはずの妹婿が倒産して田地田畑はおろか、大きな自宅も人手に渡してしまったので盆に帰るところを失って、2年が過ぎた。2007.08.12

2010年08月13日

◆日中やる気無かった福田

渡部亮次郎

8月12日が来ると日航ジャンボ機墜落事故と日中平和友好条約の調印式が脳裡をよぎる。

1985年(昭和60)8月12日、日本航空123便ボーイング747SR100型機 (JA8119) 羽田空港18:00発 伊丹空港行が、離陸12分後から32分間の迷走飛行の末、群馬県多野郡上野村の山中に墜落した。

搭乗員524名中520名が死亡。旅客機の単独事故としては、世界でも最大の犠牲者数を出した事故である。歌手坂本九も犠牲になった。

1978年に伊丹空港で尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理ミス(ボーイングによる修理ミス)による飛行中の圧力隔壁の破損が原因とされている。

しかし飛行中に破損し相模湾に落下した部品が全て回収されていないことや、生存者の証言と調査報告書内容が異なることなどから、他の原因を唱える説もある。

私は後年、都内の病院で同室になった日航社員がいた。彼は尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理に来たボーイング社の連中を接待する係を命ぜられたが、銀座のクラブで皆がホステスに熱を上げ、翌日の仕事には熱が入らなくて困ったものだった、と述懐していた。

まさか、このときの修理ミスが墜落の原因だとすれば、彼の証言は極めて重大な意味を持つが、事故調査委員会に証言したとは言ってなかった。

日航ジャンボ機が伊丹空港で尻もち事故を起こした年、つまり昭和53(1978)年の8月12日夜、北京の人民大会堂では日本の外務大臣
園田直と中国の黄華外交部長による日中平和友好条約の調印式が挙行され、大臣秘書官の私は後列で場面を注視していた。

署名した後立ち上がった両者はシャンペンで乾杯をしたのだが、園田さんはグラスを勢いよく相手にぶつけたものだから、シャンペンが右袖を大きく濡らした。

陸軍特攻隊生き残りの園田さんは剣道7段、居合い道8段の猛者。自刃した作家の三島由紀夫さんに切腹の作法を聞かれるまま教えたことがある。

彼にとって日中平和友好条約の締結交渉は特別なことだったから、
不調に終わった時は「ハラを斬る」といい、洋服の着替えを持たせなかった。だから弱ったな、と思ったが、いかんともできなかった。
とにかく終わった、の感慨ばかりだった。

なにしろ肝腎の総理大臣福田赳夫氏は調印に消極的なのだから、外務大臣一人が独走し、外務事務当局が困惑すると言う場面が何度も展開されて末の調印だったから、格別の感慨に浸ったのである。

それより1年半前に発足した福田赳夫政権は言うなれば園田氏が作った政権と言ってもよかった。

自らの内閣の末期、福田に大蔵大臣を辞めて足を引っ張られてため恨みを忘れない田中闇将軍を説得し、ライバルの大平正芳氏を宥めて「任期2年」の密約を取り付けたのは園田氏だったからだ。

そうやって発足した福田氏は昭和52(1977)年1月4日、自宅に園田官房長官とある人物を招いて、田中、三木内閣が実行できなかった日中平和友好条約の締結に踏み切ることを決断、同席したある人物を視察目的に直ちに北京に出発させた。

この人物は幼少の頃から中国で暮らし、戦後かなり経ってから引き揚げてきた。北京語を完全に話す。剣道を通じて園田氏と知り合った。

「黒衣」氏は北京ではかねて園田氏と交流のあった廖承志らと会い、中国共産党の内部事情を探った。彼のこうした北京訪問は以後、14回続けられる。

その都度「黒衣」から報告を受けていた園田氏は「締結」にかなり自信を深めるが、この情報を鳩山威一郎外相には教えなかったようだ。

そうしている間に、福田首相の親分筋の岸信介元首相は、福田首相に内閣改造をして、女婿の安倍晋太郎国対委員長を官房長官に就任させるよう執拗に要求。

福田首相としては園田氏が「密約」の主役であることに鑑み、躊躇したが、昭和52年暮れ、内閣改造を決断、園田氏の離反を恐れ、彼だけを外務大臣に横すべりさせて残留、後任の官房長官には安倍を据えた。

園田氏はこの頃、大平幹事長に対して「密約」の福田の任期「2年」
の1年延長を交渉中だったこともあって外相就任を喜んでいなかった。秘書官に招かれた私にはそれが手に取るように分かった。

しかし日中条約については行き掛かり上、熱心に取り組んだ。日中関係の強化を嫌うソビエト(当時)が障害になると考え、初外遊に
モスクワを選んだりした。

こうした中で「黒衣」からの報告は「園田さんが来てくれさえすれば調印に応じる」に進展した。今考えれば経済の改革開放を企図するトウ小平の復活で党の方針が変更されかかっていたのだ。

これを北京の日本大使館は掌握できず、「黒衣」だけがいち早く掌握していたわけだ。廖承志はトウ氏に直結していたからだ。大使館は最後まで「取材」できなかった。

したがって元外相として、園田よりは自分の方が外務省を掌握していると自任する福田首相のほうが情報に後れを取る結果となっていた。

昭和53(1978)年8月8日の園田訪中はほぼ園田外相の独断で決定された。日航特別機の予約も然り。秘書官の私はこうした動きを元いたマスコミ界の仲間を通じて福田周辺に流した。

だから、訪中の決断を求めて園田氏が箱根で静養中の福田首相を訪れた際、首相が開口一番「何日、出発するんだい」と言ったのはこうした裏があったからなのである。

後に明らかになるように、福田氏は「密約」を破棄するハラヲ固めていた。だからなまじ「日中」が上手く行って、それが「引退の花道」にされることを警戒していたのである。

密約を厳守した園田氏は総裁選挙では大平氏を支持。福田派を除名された。しかし大平氏は福田氏の意趣返しに遭い、総理在任中に急死。その4年後に園田氏も同じ70歳で死亡。福田氏は90歳まで長生きした。2010・8・12




2010年08月11日

◆李承晩ラインを想起

渡部亮次郎

<一方的に設定された排他的経済水域での拿捕 古沢襄
北朝鮮警備艇による韓国漁船の拿捕は、国際的な関心を呼んでいる。英ロイター通信は拿捕海域は北朝鮮によって一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)だと指摘し、中国の新華社は、拿捕された漁船には韓国人4人と中国人3人が乗船していた、と伝えている。
今後も拿捕行為が続けば、北朝鮮に対する国際的な非難が高まろう。>
2010.08.09 Monday name : kajikablog

一方的に設定された排他的経済水域(EEZ)というなら、嘗て韓国が獨島(日本の漢字では「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するために設定した「李承晩ライン)を思い出す。

これは、1952(昭和27年)1月18日、韓国大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

表向きは海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したもの。これに違反したとされた漁船(主として日本国籍)は韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第一大邦丸事件など)。

当時、私は秋田で高校生だったが、連日の報道に憤怒したものだ。

日本側は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが聞き入れられず、ライン廃止までの13年間に、日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

韓国は第2次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)に勝戦国として参加することを希望していたが、連合国が韓国臨時政府を承認した事実がなく、イギリスやアメリカによって拒否された。

また、対馬、波浪島、竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であることは明白であったし、波浪島は実在しなかった。

韓国は日本国との平和条約での日本の放棄領土に波浪島、竹島を追加すること及びマッカーサー・ラインを継続することを要望したが、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」で、韓国の要求を拒否した。

「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっていた。

韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効によりマッカーサーラインの消滅と日本国の主権回復がなされる3ヶ月前の1952年1月18日に、突如として李承晩ラインの宣言を行った。

冷戦初期の中、日本国と韓国は共にアメリカの庇護下で反共主義(自由主義)を旨とする西側諸国に属したが、李承晩は1910年の日韓併合以来一貫した反日・民族独立運動家であり、1948年に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日外交を行った。

李承晩ライン発表の直後、1952年2月から日本の保守政権と韓国の李承晩政権は国交樹立を目指した交渉を開始したが、両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。

両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じたが、李承晩ライン自体は存続させ、1960年の李承晩失脚後もこの状態が続いた。

問題は解決に長い年月を要した。その原因は、日韓両国に正式な国交がなかったこと、 国交正常化交渉は賠償請求権を巡り紛糾し、遅々として進まなかったこと、アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入してこなかったため である。そうして徒に時間が流れていった。

1963年、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した朴正煕が大統領に就任した。彼は工業化を進めることで国を富ませ、民族の悲願である南北統一を促進することを考えた。

そのためには資本と技術を必要とした。しかし、大韓帝国時代と同様、朝鮮戦争後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこから調達するのかが悩みの種であった。

朴大統領が目をつけたのが日本である。そのために日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結を急いだ。

一方、日本国政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。

竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで基本条約の締結がなしえると判断したところで漁業協定を締結し、1965年に李承晩ラインは廃止された。

しかし、問題解決にあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。

また、韓国政府は日本人抑留者の返還と引き換えに、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還を拒否するとともに日本国内に解放するよう要求した。

池田勇人内閣にあってこの問題の処理に当ったのは無任所大臣の河野一郎氏。私はNHKで河野番の記者だったのでその取材に当った。後に首相になる代議士の宇野宗佑氏が韓国側との連絡役としてソウル訪問を繰り返した。

当時、NHKで外務省キャップは後に会長になる島桂次氏。責任上彼と私はしばしば連絡を取りあう間柄になり、先輩記者として数々のことを学んだ。

かくて日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約が締結された直後、河野氏が急死し、条約の批准国会は安保国会以来初の乱闘国会となり、私はその取材にも当った。だから今、韓国への謝罪談話問題で、菅内閣を誤った方向に主導する仙谷官房長官の行為は歴史の流れに反するものだと思う。2010・8・10
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■ 本稿は8月11日(水)刊全国版メルマガ「頂門の一針」2006号に
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<目次>
・日韓併合100年の真実:平井修一
・李承晩ラインを想起:渡部亮次郎
・上海バブルはまもなく失速:宮崎正弘
・65年目の敗戦の日:古澤 襄
・椎木川の産土の浜:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月09日

◆オムライスは大阪?東京?

渡部亮次郎

オムライス は、日本で生まれた米飯料理である。ケチャップで味付けしたチキンライス(またはバターライス)を卵焼きでオムレツのように包んだ料理である。

日本料理のうち洋食に分類される。オムライスという名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である。

フライパンに割りほぐした卵を入れて焼き、半熟になったところでチキンライスをのせる。卵を折りたたむように裏返してチキンライスを包みこみ、木の葉型に整形して皿に盛る。ケチャップをかけて供されることが多いが、デミグラスソースを用いる店も少なくない。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、中でも有名であり有力とされるのは大阪心斎橋の「北極星」、東京銀座の「煉瓦亭」である。

「煉瓦亭のオムライス」は白飯に卵や具を混ぜ炒めたもので、どちらかというとチャーハンに近い。賄い食として食べていたものを、客が食べたいと所望したため供されるようになったもので、現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供。他に一般的なオムレツも別に提供している。

「北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものであり、現在の主流のオムライスのルーツである。白飯とオムレツを別々に頼んでいた胃の弱い常連客を見て「いつも同じものでは可哀そうだから」という主人の思いから生まれた。

東西という違いや品物の違いなど、どちらが元祖かという判断は非常に難しいが、煉瓦亭が元祖オムライスを世に送り出したのが明治34年、北極星がケチャップライスを使ったオムライスを作り出したのが大正15年であるという点、創業年代(煉瓦亭が明治28年、北極星が大正11年)などからか、雑誌や本など一般的には煉瓦亭が元祖とされることが多い。

時期はそうであるにしろ、北極星のは煉瓦亭のを真似たものでは無いのだから、それぞれを元祖だと私は思う。

映画「タンポポ」で有名になった作り方として、皿に盛ったチキンライスの上に中が半熟のプレーンオムレツをのせ、食卓でオムレツに切れ目を入れて全体を包み込むように開くという方法がある。

これは伊丹十三がアイディアを出し、東京・日本橋にある洋食屋の老舗「たいめいけん」がつくりだしたもので、現在「タンポポオムライス(伊丹十三風)」という名前で供され、店の名物の一つである。

チキンライスではなく白飯を玉子焼きで包み、カレーやデミグラスソース、ハヤシライスのソースなどをかけた料理は、オムライスとは区別され、「オムカレー」や「オムハヤシ」のように「オム○○○」と呼称されることが多い。

チキンライスの代わりにソース焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。このオムそばは関西地域のお好み焼き屋では定番メニューとなっている。

ラーメン店では、チャーハンを卵で包んだものを「オムチャーハン」として供している場合がある。オムチャーハンでは、焼いた面を裏、半熟の面を表と、通常とは表裏逆に包むことが多い。

また、ケチャップなどは用いず、チャーシューのエンドカット部分を細切れにしたもの(チャンコマ)を乗せ、チャーシューの煮汁をかける。チリソースなどをかけて中華風にすることもある(甘酢あんかけにすると天津飯になってしまう)。

有名どころとしては、東京都中央区の「チャイナクック龍華」、大阪市北区の「まんねん」など。

昔、大阪心斎橋の「北極星」に勤めていた元「唐金」のママと電話で昔話をしているうちに、オムライスの話になった。10・7・9

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2010年08月07日

◆勝つ丼で勝てるか

渡部 亮次郎

受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。


福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはドミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

ソースカツ丼
福井県ヨーロッパ軒のソースカツ丼。キャベツを下に敷かない。おおよそのスタイルとして、ウスターソース系のソース(トマトケチャップ・酒などを加えたソース)にとんかつをくぐらせてから丼飯の上に盛ったものである。

北海道の訓子府町では、ご飯の上に海苔を敷いて揚げたてのカツを乗せ、それにタレをかける。

カレー風味カツ丼
山形県西村山郡河北町の料理。醤油やソースをベースに数種類のスパイスを加えてカレー風味にしたタレをかける。

かつ皿
静岡県富士市の料理。ご飯の上にゆでキャベツとカツをのせた後、卵をそばつゆで伸ばしたタレをかける。

タルタルカツ丼
群馬県安中市の料理。醤油だれがかかったトンカツの上にタルタルソースが載せられている。

味噌カツ丼
名古屋市の料理。味噌カツを丼にしたもの。味噌だれの卵とじが本来の形であるが、愛知万博に合わせた名古屋ブームを創るにあたって、ソースかつ丼風で付け合わせとしてキャベツの千切りも乗った形のものが開発された。

あんかけカツ丼
岐阜県瑞浪市の料理。鰹節やムロアジでとった和風だしと醤油、砂糖などをベースとしている。戦後、卵が貴重だった時代に考案されたとされ、卵加えて、とろみをつけた餡をかけている。

てりカツ丼
岐阜県土岐市の料理。ドミグラスソースにソース、ケチャップ、和風だしを加え、ワインなどで味を調えたタレをかけた洋風のカツ丼。


カツ丼は戦後しばらく日本が貧しかった時代に庶民にとってはご馳走であった。その頃の刑事ドラマの取調室のシーンでは、刑務所に行ったら二度と食べられないだろうと、刑事が自分の安月給から店屋物のカツ丼をとってやり、被疑者に食べさせると、被疑者はその情にほだされ、泣きながら「私がやりました」と、犯行を自供をするというシーンがあっ
た。

だが、それがモチーフとなってパロディ化されたものが広まったことから、「本来やってはいけない事を被疑者を信じて特別にした人情刑事」というエピソードのはずが「取調中の食事はカツ丼が出る」「自白するとカツ丼を食べさせてもらえる」などと誤解されるようになってしまっ
た。

ビートたけしがフライデー襲撃事件を起こした際、取調中に捜査員から食事を促されたときに「取調べで食事といえばあれしか無いだろう」とカツ丼を注文したが食後に代金を請求されたため(捜査員から「600円オールね」と言われたらしい)、「金取られる位なら注文するんじゃなかった」と毒舌交じりに語っている。(1987年6月25日、『たけし軍団のオールナイトニッポン』にて)

現在では通常、留置中の被疑者については専用の弁当が用意されており、留置所での食事時間が必ず取られている。また、投げつけるなどして警察官がひるんだ隙をついて逃走される可能性もある事から、取調室で食事が出されることはなく、仮にあったとしてもその費用は被疑者の自己負担であり、警察官が費用負担した場合は利益誘導として裁判の際に供述の任意性が否定される場合がある。

ここで出される店屋物がカツ丼である根拠としては、店屋物の発注先として歴史的に最もポピュラーな店舗は蕎麦屋であり、蕎麦屋に注文可能なもので取り調べのスケジュールを阻害せず、時間が経っても伸びずに、冷めても魅惑的なメニューがカツ丼であったからとする見解がある。

2006年9月6日、埼玉県警所沢署の警部が、取調室で被疑者にカツ丼を食べさせるなどしたとして、減給100分の10(3か月)の懲戒処分を受けた(この警部は同日に依願退職)。

このカツ丼は被疑者の両親の知人が持ち込んだものだが、県警の規定では食事は留置場内で取ることとなっており、これに違反していた(ただし、上記のドラマとは異なり、被疑者が暴力団関係者だったために接見室ではなく取調室で家族と接見させるなど、今後の捜査で利用できないかと思い便宜を図ったことが重い懲戒処分に至った原因であり、単に取調室でカツ丼を食べさせたことだけが原因ではない)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・7・18

2010年08月06日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎

まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん
歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信
昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。

そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。

それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないだろう。

春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。2010・7・11

2010年08月05日

◆岩手県連に帰った小沢

◆本稿は全国版メルマガ8月5日刊「頂門の一針」2000号に掲載されました。
 祝!2000号達成!

渡部 亮次郎

[民主党岩手県連は2日、代表に小沢一郎前幹事長(衆院岩手4区)を充てる人事を正式に決めた。任期は来年春に予定される県連大会まで。

小沢氏が民主党の県連代表に就任するのは初めて。先の参院選比例代表で、県連代表の工藤堅太郎氏が落選したのを受け、県連が小沢氏に後任の代表就任を要請、小沢氏も受諾した。

県連は小沢氏をトップに据えることで、来春の統一地方選に向けて組織の引き締めを図りたい考えだ]。2010.8.2 18:44産経ニュース。

心は東京での民主党代表選挙にしかない。角栄と金丸の寵愛を肥やしにここまで来たが、鳩山にまとわりつかれて幹事長を辞任。しかし、折角辞めてやって、菅に任せたのに、菅はチョンボをやって。参院選挙惨敗。衆院は制しても参院は野党に握られるという「捩れ]状態になってしまっ
た。

そうした展望の暗い中にあって、民主党代表の任期が切れるので、9月14日に代表選挙を行わなければならない。周辺でゴマをする連中は、この際、自身の立候補を求めているが、小澤は主に健康上の理由から躊躇している。そのさなかに岩手県連代表への就任だ。

私は政治記者の「練習」を岩手で30前の4年間やった。当時、岩手の2区には社会党から北山愛郎、ほかはすべて自民党で、小沢のちちおや佐重喜(さえき)、椎名悦三郎、志賀健次郎がしのぎを削っていた。

知事選挙、衆議院総選挙、参院選挙などすべてを取り仕切った。保守的と思われていた岩手の参院選挙で、社会党が勝利すると言う珍しい予測をして面白がられた。それで政治部へ呼ばれたらしい。

NHK東京・政治部へ転出したのは昭和39(1964)年7月。その後に佐重喜が死んで一郎の時代になった。しかも私の政治記者時代、一郎はペイペイだったから、これまで一度も顔を合わせたことが無い。

さきに鳩山に「抱き合い心中」で幹事長を辞めたとき、小澤は鳩と菅それぞれに敵意を持った。鳩に言われる前に辞意は固めていたので、前日、鳩に「私と一緒にやめていただくことにしました、と発表していいですか]と言われた時、軽い気持ちでOKした。

ところが鳩の科白は陰で菅と打ち合わせ済みの「謀事」とわかった。

菅が首相に就任早々「小沢さんには暫く温和しくしていただく」と小沢を舐めたような科白を吐いたのには鳩とのそうした打ち合わせがあったのだ。

だから、その後、菅から面会要請があっても無視したのである。温和しくしている一党員が首相の訪問を受けるいわれは無い、と言う大義名分も立ち、菅の権威が相対的に低下すると言う効果もある。

さすが「攻め」の菅もようやく「守り」を覚えて面会要請を取り下げた。小沢の力を借りずに代表再選を果たすには、不得意の「戦略」を練る必要に気がついて「8月外遊」は中止を決めた。

対する小沢はまだ何の意思も示していない。小沢自身の立候補を周辺が求めてざわざわしているが、小澤は表立っては何もしていない。しかし総理をやって身体を酷使すれば死ぬ、と主治医に言われて首相になった政治家はいまだ嘗て無かったことに鑑みれば、小沢の代表立候補は無い、と見るのが順当だろう。

立つとも、立たないとも一切沈黙を守ったまま、事態収拾に乗り出さないという「戦略」も小沢が手にする有力なカードだ。小沢の力の大きさを菅に示してさんざん苦しめた末、菅の再選を暗黙のうちに認めるのだ。

そうなれば小沢の菅に与える影は一層大きくなる。その結果、改造内閣は嘗ての中曽根内閣が田中曽根内閣になったようなことになる。

とはいえ、小沢とい人は面子は重んずるが名誉は欲しがらない人のようだ。決断の最終的なカギは「損得」である。だから結論はまだ分からない。小沢の沈黙は「真夏の夜の夢」か。(文中敬称略)2010・8・4

■「頂門の一針」<2000号目次>
・岩手県連に帰った小沢:渡部亮次郎
・ふざけるな「朝鮮学校への適用」!:東郷勇策
・政治は国民の土壌から生まれる:加瀬英明
・児童虐待と女の本音:須藤文弘
・南串山展示館の開館:馬場伯明
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年08月04日

◆文章の勢いを削ぐ「そして」

渡部亮次郎

22の時から文章を綴って糊口を濡らしてきた。学校で習った以外に文の書き方を他人に習ったことは無い。NHKでの新人研修も事情があって受けていない。だから却って良かったと思っている。

NHKでは原稿をいくら多く書いても月給以上のものは出ない。だが頼まれて、雑誌に寄稿するときは字数や枚数に応じて原稿料が支給された。

文芸春秋では、売れっ子の松本清張が400字1枚7000のとき、こちらは4000円だった。それでも1字10円の計算。相当呑めた。銀座のクラブで焼酎を呑んだ初めての男となった。

そのときも絶対使わなかった言葉が「そして」であった。「そして」を使うと文章の流れを止める作用がある。昔からの癖で歌うようにして文を綴っているから、「そして」を入れると思考が停まってしまうのだ。

のちに訊くとNHKの新人研修では当時はラジオ・ニュースの書き方を教えた。所謂5W1Hの綴り方であるが、講師の好みから、昭和33年の研修では「そして」をふんだんに使って書く文章を教えたらしい。

私がこの研修を受けずに清んだのは、先立つ1年前から通信員として秋田県大館市に単身駐在し、自己流に原稿を作成し、秋田放送局へ電話送稿していたからである。

脱線するが、当時の電話事情は最低。ダイヤル式になっていなかったから秋田市内の通話を申し込んでも繋がるのは1時間後。そこで
確か警察官からだったと思うが「NHK秋田放送局には秋田県警の内線がはいっている」という。

そこで下宿から大館警察署に電話。「県警本部をお願い」「はいこちら秋田県警察本部です」「「NHKを御願します」。すると宿直のアナウンサーが出てきて原稿を書きとめてくれる。早くて電話代は大館警察署への10円だけで済んだ。

ところで、新聞、雑誌はともかく放送の文章には括弧( )が無い。書いても読みようが無い。だが、文中に括弧があっては文章の流れをこれまた止めてしまう。カッコつきの文章を書かなかったことが良かったと思っている。

文章はいくら大切と己が思っていることをいくら思いを込めて大量に書いても無意味である。相手が読んでくれないなら書かなかったことと同じである。

受け取る寄稿には括弧を多用した文を良くある。ご本人は誤解を招かないようにと言う心算で括弧を多用してくる。読んでいて括弧があると文章のリズムが失われるから、理解も止まってしまう。

なまじ売文や著作を多少経験した人がそういう文を書く。括弧や「そして」を多用した文章は、リズムが失われているから読み返しを強要されるから厭だ。2010・8・2


2010年08月02日

◆両院で与野党逆転も

渡部亮次郎

ワシントンから1日の時事通信が「11月の中間選挙に向けてオバマ大統領の支持率は下降を続け、与党・民主党の退潮は必至の情勢だ。上下両院とも与野党逆転の可能性があるとの見方も出てきた」
と伝えてきた。

このことについては先に、投稿常連前田正晶さんの在米の友人の方が「口先人のオバマに騙されたと感じるアメリカ人は、この先100年は黒人大統領の出現を許さないだろう)と言っておられた。

民主党と共和党がいわば交互に政権を担当するアメリカ。ブッシュ共和党の次はどうせ民主党と誰もがおもっていたが、そこにまさかの黒人オバマが出てきたので驚きは大きかった。あっと言う間に人気をヒラリー・ローダム・クリントンから奪ってあっという間に初の黒人大統領と言う(歴史的)勝利を成し遂げた。

その勝利の源泉は「弁舌」だった。どうせ実現していないからいちいち列挙はしないが、オバマ時代になれば戦争の無い平和で好景気のアメリカが実現しないわけは無い、と思わせた。

しかし、公約は何一つ実現していない。オバマが唱えた夢は空夢だったのである。演説で国民を酔わせる事はできたが、夢が何一つ実現しないと分かれば支持者はいきなり民主から共和に鞍替えするのがアメリカである。

わが国の民主党は「政権奪取以来の10ヵ月間の政治に疑念を抱い
たから」(櫻井よしこ)参院選に敗れ、菅政権は衆参両院における捩れ現象を前に「漂流」しようとしている。

<民主党には党の綱領さえないのである。どのような価値観を大切に守っていくのか。次の世代のためにどのような社会や国を作っていくのか。さらなる次の世代のためにどのような未来を目指すのか。

つまり、大事な事柄になればなるほど、党内の意見はまとまらず、党綱領を作れずにいるのが民主党である。>

これが日本民主党。空念仏のオバマ民主党。共通しているのは「空」

<下降続く大統領支持率―米中間選挙まで3カ月
【ワシントン時事】11月2日の米中間選挙まで3カ月。オバマ大統領の支持率は下降を続け、与党・民主党の退潮は必至の情勢だ。上下両院とも与野党逆転の可能性があるとの見方も出てきた。

米議会の現有勢力は、上院(定数100)が民主党系59、共和党41。下院(同435)は民主255、共和178(欠員2)となっている。
 上院の改選37議席の内訳は民主19、共和18。共和党が過半数を握るには全現有議席を守った上で10議席奪回しなければならない計算で、与野党逆転はないと予想されていた。

ところが、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は最近、カリフォルニア、ウィスコンシンなど現在は民主党が議席を持つ11州で共和党が追い上げ、接戦に持ち込んだと指摘。

「民主党指導部は、共和党に順風が吹き続ければ過半数を失うと初めて認識した」と解説した。
 
同紙は共和党の過半数奪還の可能性は十分あるとの専門家の予測も紹介。あるインターネット選挙専門サイトは世論調査に基づき、同党が48議席まで迫ったと分析する。

全議席が改選される下院は、与党過半数割れの可能性がさらに高いとみられている。ギブズ大統領報道官は7月中旬、テレビ番組で「共和党が多数を占めるかも」とうっかり口を滑らせた。

2008年の大統領選と同時に行われた前回、風に乗って当選した民主党の「オバマ・チルドレン」は、地盤が固まっていないケースが多いとされる。先月のキニピアック大学の調査では、下院選の投票先は共和党との回答が43%だったのに対し、民主党は38%にとどまった。> 8月1日14時34分配信 時事通信

2010年08月01日

◆野次り屋は戦略を組めぬ

渡部亮次郎

武道の合気道の極意と菅首相の政治行動がよく似ている。予め、戦略を立てているのではなく、相手の出方、相手の攻めてくる力己のものとして、相手を倒すと言うやり方である。

柔道では逆手を取ったりするので相手を怪我させることがしばしばあるが、合気道には無い。合気道8段だった故園田直に良く教えられた。

<菅氏は1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する市民派の論客として知られるようになっていった。

1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。

1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介・議員運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した>。(「ウィキペディア」)

相手を厳しく追及してゆくことで人気を呼び、それを次の攻撃の糧にしてゆくのが菅流。何をおいても自らの主張を掲げ、その実現のために邪魔するものを排除して理想を実現するのではないのだ。

まず、攻撃に耐えてくれる強烈な敵(嘗ての自民党)がいないと仕事にならない。これを繰り返しながら人気を得てゆく戦略しか立てられないから初当選まで3度も落選する必要があった。

なにせ「追及」が仕事。市井の「当たり屋」か「いちゃもん屋」か「野次り屋」みたいなものだから必要なのはタイミング、当意即妙の野次である。

今度の参院選で民主党敗北の原因とされる消費税率引き上論のやりかたがこれを良く物語っている。

自ら10%と言ったわけではない。財務省の役人に「第二のギリシャにならぬ為には消費税の引き上げしかない」とおそわったものだから、谷垣発言にそれツとばかり乗った心算で発言したが、戦略が確りしていなかったので落馬してしまった。

識者は「菅政権には戦略が無く、その場限りのパフォーマンスばかりだ」と批判して恰好をつけるが、「野次り屋」はすべてパフォーマンスだから、すべてはその場限りなのだ。パフォーマンス以外に出来ることは無いのだ。

どこかでも主張したが、昔の「全共闘」(左翼学生)は弁護士、医者、松下政経塾に潜り込み、いま民主党と名乗る「体制」派になったのが現実。彼らは戦略を持っているが、官房長官が時々みせるように衣の下に鎧を隠している。

戦略的に考えれば、小沢を徹底的な悪者に仕立て、小沢に菅が徹底的に虐められる戦略を練れば、小澤は世論に嫌われ、逆に菅は同情を惹き、堂々と代表選挙で再選されることになる。

しかし、度胸が据わってないから、このような作戦は取れないだろう。作戦に戦略が無い以上、やることなすこと、その場限りなものになるから民主党は、結成以来、最大の危機を招くだろう。

国民の90%に嫌われている小沢。それを味方につけようとしていること自体誤りだ。小澤は健康上、総理は務まらないから、代表選挙には絶対立たない。さりとて変わるべき役者は育てていないから、
勝てない候補を出し、菅を苦しめるだけ苦しめて再選を許す。

その結果、組閣は徹底的に小沢色に染まったものになり、世論の反発を食らうだろう。これでは、日本がやりきれない。

小沢の起死回生の策は代表選挙などワシャ知らん決め込み「大連合」実現に奮励努力することなのだが。(文中敬称略)2010・7・31

■本稿は8月1日の全国版メルマガ「頂門の一針」1996号に
掲載されました。他の卓見もご拝読を!
 ◆<目次>
・野次り屋は戦略を組めぬ:渡部亮次郎
・自信喪失の菅首相、意気軒昂な小沢前幹事長:花岡信昭
・鳩山が9月訪露予定だった:山堂コラム 329
・仙谷官房長官の個人的思い入れ:阿比留瑠比
・楽しい数字の語呂合わせ:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年07月29日

◆かやき(貝焼き)で育った

渡部亮次郎

「かやき」とは、主に秋田県、青森県など日本海側の東北地方で食べられる鍋料理の一種。「かやき」は、貝焼きが訛った言葉で、現在では貝でなく小型の鍋を用いた1人用の鍋料理を「貝焼き=かやき」という。

元々は鍋は農漁民にとっては高価だったこともあり、大きな貝殻を鍋に代用した。ホタテが多いが、アワビの貝殻が用いられる事もある。

中味は季節の魚(ハタハタ、カワヤツメなど)、野菜、豆腐、茸などを味付けしただし汁で煮込むもので、東京で言う寄せ鍋の調理法と類似している。

昔はこれを七輪に炭をおこして煮るから手間がかかって皆、厭がったものだが、いまは卓上ガス・こん炉だから簡単。

ハタハタの場合、調味にしょっつる(ハタハタから作られた魚醤)を用いる事から、しょっつるかやき(貝焼き)と呼称する事もある。

また、カワヤツメのかやきは、新鮮なカワヤツメをぶつ切りにしてネギやゴボウと共に味噌味のだし汁で煮た鍋である。日本で賞味されることの少ないカワヤツメの鮮魚を用いた秋田の冬の味覚となっている。

「かやき」は、本来は貝殻を用い、貝からの出汁も利用しようとするものであるが、秋田県内陸部などでは貝を利用しない鍋物料理も「かやき」と呼ばれることが多い。

私の場合は目の前が旧八郎潟。そこへ流れ込む川や用水路にも鮒や鯰がうようよいたから、網や釣り針で釣り、ぶつ切りににしたり、鮒は一匹ごと、葱、豆腐と一緒に煮た。美味しかった。

肝腎なのは煮るのは醤油ではいけないこと。淡水魚はみな泥(ごみ)臭い。それを消すのは味噌である。だから私の食べた「かやき」はすべて「味噌かやき」だった。

実を言うと、小学校(戦時中は国民学校)2年までは味噌汁が医者から止められていた。腎臓が弱く、塩気を摂れば死ぬといわれていた。だが、ある日、盗み飲みで味噌汁を飲んでしまった。ところが死ぬどころか、却って元気になり、運動会では常に1等ではないか。

母親は喜んだ。私の前に生まれた次男坊「琢次郎」が夭折しているので、腎臓の弱く生まれてきた補欠次男坊についても覚悟していたらしい。医者が枕元で「学校へ上がれるかどうか」と父母に言ったのを私は記憶していたから。

それが、味噌汁を飲み始めてから急に元気になり、敗戦後は野球を始めたら、学校では投手で4番バッター、主将になった。爾来、私のおかずは鮒の「味噌かやき」が定番になってしまった。

勿論、貧しい、戦中、戦後の農村。肉屋1軒あるわけじゃなし、スーパーも無い時代。同居していた祖父の捕ってくる鮒と鯰しか「具」は無かった。海の魚は高価。現金収入の乏しい農家の口にははいらなかった。

だから上京後も私が刺身を食えなかったのは厳密に言えば貧しすぎる少年時代を過ごしたためであり、よく考えれば悲しい話なのである。

経緯は省略するが、60歳にしてトロの味に目覚めたものの、いまも豚肉と豆腐、葱の「豚かやき」を醤油味で仕立て、家人も食べている。忙しい時は簡単で助かるそうだ。

別に「茄子かやき」もやる。鰹のナマリ節を買い置きしておき、小鍋に茄子と豆腐を加えて、味噌で煮るのだ。最近は茄子が年をつうじて入手できるから、最も安くて簡便な「かやき」である。

なお、貝殻を用いる鍋料理の方法は『料理物語』などで古くから知られており、島根県には鴨肉やセリを用いたすき焼き風の貝焼きがある。こちらは貝焼き(かいやき)と呼ぶそうだ。2010・2・19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年07月28日

◆咲かない百日紅(さるすべり)

渡部 亮次郎

百日紅は、さるすべりと読む。樹皮がはげおちたあと、滑らかな幹をみせるので、木登りが上手なはずの猿も滑り落ちると考えたのだろうか。中国南部原産で、日本には、江戸時代以前に渡来している。

その百日紅の木が都立猿江恩賜公園(北部)には4本植わっているが、年によって咲いたり咲かなかったりするのは何故だろう。

1972年に東京・国立に家を新築したことがあるが、南向きの庭先の崖に1本だけあった百日紅も咲いたり咲かなかったりした。とはいえ、手元の資料ではその原因を突き止める事はできない。

牧野富太郎(植物分類学者。1862-1957.文化勲章追贈)の「原色牧野植物大図鑑」の説明も上記以上ではない。『広辞苑』では猿もすべる云々が確認できただけ。

グーグルで検索したらどなたかのHPに行き着いた。「百日紅」は、なぜ「さるすべり」と読めるのか?

「百日紅」と書いて「さるすべり」と読む。漢字と読み方がまるで対応していない。「栗花落」という苗字の人に3人会ったことがある。うち2人は兄弟なのでともに「つゆり」と読むが、もう1人は「つゆ」といった。なんと漢字よりかなの方が字数が少ない。

この姓は、神戸市内にある地名に由来し、栗の花が散るのが梅雨時であるため「つゆいり」の表記に用いられ、のちに「つゆり」となり、一部は「つゆ」となったものらしい。このような、2文字以上になって読み方が確定する訓読みを「熟字訓」という。

日本ではその幹がつるつるしているので、木登りの上手な猿でさえ登れないということで「さるすべり」と呼んだ。猿が聞いたらなめるなよと思うであろう。

「百日紅」は中国語であり、「さるすべり」は日本語であって、それぞれ目のつけどころの違う名づけ方をしている。しかし、考えてみれば日本における漢字の使われ方はすべてこれと同じであり、「花」は中国語であり、「はな」は日本語である。

「百日紅」にせよ「花」にせよ、文字表記は中国語であり、読み方は日本語なのだから、文字が一文字か三文字かということに大した違いはな
い。

漢字はよく「表意文字」だといわれる。「表意文字」とは「意味」を示す文字ということになる。しかし、漢字を「表意文字」と呼ぶのは、少なくとも中国語を表記する場合は正しくない。「表意文字」であることは、決して「表音文字」であることを排除するわけではない。

たとえば、「花」という文字は、被子植物の生殖器官という意味とともに、今日の北京語ではhuaという音声をも示しており、「意味」だけを示すのではなく「意味」と「音」が結びついた「語」を示すものとして、「表語文字」と呼ぶのが正しい。

ところが、わが日本人の先祖は、本来は「表語文字」である漢字をいったんは「表意文字」とし、改めてそれに日本語の音を結びつけて再び「表語文字」とするという離れ業を演じてのけた。いわゆる訓読みである。

その際、どの音を結びつけるかは、人によりさまざまであったので、「生」に対して「なま、き、いきる、おう、はえる、うむ」などいくつもの読み方ができた。というより、「生」という同じ字形を持つさまざまな「表語文字」ができたのである。

読み方はさまざまであるが、どんな読み方をしてもよいというわけではなく、世間に通用していない読み方をする場合には、ふりがなをつけなければいけない。

だが、訓読みという方法は、日本人の創案ではなく、すでに朝鮮半島に先例があり、日本の訓読みはその応用であるといった方が正確であるようである。(よい勉強になりました、有難うございました)
homepage1.nifty.com/forty-sixer/jukujikun.htm

ところで牧野図鑑を見ていて、同級生安宅峯夫君が2005年秋、パリでマロニエの実を沢山拾いながら、ホテルのボーイが食べられないと言ったので捨ててきてしまった、という話を思い出していた。

マロニエはフランス語、英語ではhorse chestnut(馬栗)。「実は径5cm位、晩秋に熟し、種子は食用とする。材は楽器や工芸用」とある。どこかで「栃餅」と聞いたことがある。


2010年07月25日

◆歴史の現場に立ちながら

渡部亮次郎

西村眞悟さん(前衆院議員)の指摘(「頂門の一針」1988 2010・7・24」号を読んで「オレは歴史の現場に立ちながら北朝鮮に対する認識が全く進んでなかった」と深く反省した。

青瓦台襲撃事件の残党に面談したし、大阪では文世光の取材にもかかわったのに「武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」である)との認識が無かったばかりに、全く深く考えずにすごしてきた。

<まず、骨肉が争う凄惨な朝鮮戦争は北朝鮮の金日成による武力侵攻から始まった。武力による朝鮮半島統一は、北朝鮮の悲願であり「国是」であり、今も変わっていない。

(もっとも、菅内閣と民主党のなかには、未だに朝鮮戦争は南の韓国がアメリカとともに北朝鮮に侵攻して始めた、と北朝鮮と同じことを言っている左翼がいることに注意)
 
1968年1月、北朝鮮の武装ゲリラの南侵が失敗する。しかし、武装ゲリラ達は、韓国大統領の官邸である青瓦台近くまで迫った。

このゲリラによる直接的な武力侵攻の失敗を受けて、北朝鮮は、対日工作活動を強化して間接的侵攻を模索する。1970年のよど号ハイジャック事件以来、北朝鮮は対日工作を強化し始めた。

その結果が、1974年8月15日の文世光事件、即ち、朴大統領狙撃事件である。また、この時期、我が国内でも、同年同月30日に三菱重工本社ビル爆破事件が起こり、日韓両国とも騒然たる状況になった。
 
そこで、文世光事件であるが、これこそ日本経由の南侵モデルとなったもので、日本人拉致と大韓航空機爆破はこの文世光事件から組み立てられた犯行といえる。

ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。

朝鮮総連生野支部政治部長金浩龍は、文世光に資金を与え射撃訓練を施し日本人の真正なパスポートを用意する。文世光は大阪湾に入った万景峰号の船内で、北朝鮮工作員から、8月15日の韓国の復光節の式場で韓国朴大統領を狙撃せよとの指令をうける。

文世光は、大阪府警の高津派出所から奪われたピストルを持って日本人として韓国に入国し、式典会場で朴大統領を狙撃する。しかし、弾は大統領から外れて大統領夫人に命中する。

文世光は、その場で逮捕され全てを自供して犯行は北朝鮮のテロという事実が判明した。しかし、この文世光によるテロの結果、何が起こったか。

韓国内の世論は、北朝鮮を非難するのではなく、日本を非難し反日暴動が巻き起こった。日韓の国交断絶寸前という状態になった。文世光が在日であること、日本人になりすましていたこと、日本の警察のピストルが犯行に使われたこと等の要因からであろうか、不可解であるが、韓国世論が反日に激高したことは確かである。

そこで、北朝鮮は、この韓国内の現象を眺めて、日本人をテロ犯人に使えば、日韓関係を破綻させ、北朝鮮にとって南侵の絶好の条件が整うと判断した。

ここから生まれてきたのが、日本人拉致と蜂谷真一と蜂谷真由美(金賢姫)の「日本人父娘」による1987年11月29日の大韓航空機爆破テロである。

振り返れば、我が国政府が文世光事件の背景を徹底的に調査し捜索すれば、その後の日本人拉致や大韓航空機爆破は防げたかもしれない。

1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。

しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう。

このように、時の内閣が人気浮揚または功名心から、国家に対する脅威を甘く見れば、相手はどこまでも付け入ってくるのが国際政治である。

この教訓を忘れて、この度も政権の人気浮揚のために、金賢姫をVP扱い有名人扱いしているが、我が国への脅威を忘れた愚かな政治の所業だと言わざるをえない。

我が国政府は、彼女から、日本人になりすました動機そして、大韓航空機を爆破した指令を出した人物の名前、日本人を拉致した犯人の名前と官職などは、明確に聞き取りしておく必要がある。>西村論文から引用。

私が朴政権の招待で韓国を初訪問したのは1973年6月である。そのときは新聞、通信4社の政治記者と一緒だったが、朴「独裁政権」と言う評価が一般的で、マスコミ各社幹部に北朝鮮を民主化勢力と評価する向きさえあった。

そうした中、韓国政府が我々に面会させた男は、青瓦台襲撃未遂事件(せいがだいしゅうげきみすいじけん)で唯一逮捕された事件当時27歳の金新朝(キム・シンジョ)少尉。

それより5年前の1968年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ゲリラにより発生した、大韓民国(韓国)大統領府(大統領官邸)「青瓦台」への襲撃未遂事件である。わたしは迂闊にもこの事件を知らなかった。

1966年1月に韓国漁船が北朝鮮の魚雷艇に襲撃されて以来、11月と1967年4月には、北緯38度線で大規模な戦闘が発生し、南北の緊張は一触即発の状態であった。ソビエト連邦の情報部の分析では、これらの戦闘を扇動しているのは北朝鮮であった。

北朝鮮は1966年に対南工作を専門とした第283部隊を参謀部偵察局内に設立、内部粛清によって1967年8月12日に第283部隊を朝鮮人民軍第124部隊(現在の第8特殊軍団)に改変して、南進の準備を進めた。

1968年1月、青瓦台の襲撃による朴正煕(パク・チョンヒ)大統領と閣僚の暗殺を狙って、第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名は、韓国軍第26師団の模擬制服で変装して休戦ラインを突破し、韓国領に侵入した。

この際、韓国市民に偶然遭遇しているが、身分証などで住所氏名等を教えさせたうえで「通報すれば一族もろとも消す」等と脅迫して口止めした上で解放した。この韓国市民は、解放された後に警察に通報した。

1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替え、青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入した。しかし、先の市民の通報によるゲリラ情報等により警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。突入は阻止された。

韓国軍と警察部隊の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名が逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。また、射殺は27人で、1名から3名が逃亡したともいわれる。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。

2週間の銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。

唯一逮捕された金新朝の供述により北朝鮮における特殊部隊の存在が明らかになった。また、「軍事独裁を敷く朴大統領が殺害されれば、韓国民衆は必ず労働者革命を起こす」と分析していたという。

また金少尉はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い放ち、韓国国民に衝撃を与えた(現在は、ソウル市内の教会で牧師として働いている)。

金新朝は我々に「本国では南朝鮮は食い物もろくに無い暗黒の国)と教えれてきたから、夜通し照明の点いているソウル市内を見て隊長は「しまった、間違えて東京に来てしまった)と叫んだ、と教えたほか、襲撃の為の訓練の過酷さも語った。

その夜、4閣僚による招宴に招待されたが、戒厳令による夜間外出禁止令発令中とあって、閣僚と言えども遅くまで付き合っていられないと10時ごろ、そそくさと帰宅した。

それでもまだ我々は北との関係が単なる「休戦」状態と言う厳しい上体に置かれていると言う認識が無かった。翌日、板門店を視察。双眼鏡で北側を見ると、向こうもこちらを双眼鏡で監視していたので正直、どぎまぎした。

ゲリラの直接侵攻失敗以来、対日工作を強化した北朝鮮は、在日韓国人文世光(22歳)を北朝鮮の工作員に仕立てることに成功する。

その頃、私はNHK政治部で総理官邸クラブのサブキャップ。管理職目前だったが表向き就業規則違反の韓国旅行を理由に大阪報道部に左遷された。政治部長は「実は田中首相からの転勤要請があった」と白状した。

大阪で政治記者がする仕事は無い。TVニュースのコメントを書きながら床掃除ばかりしていた。そのとき、大阪の文世光(在日韓国人)による朴大統領襲撃未遂事件が起きた。<文世光事件は、1974年8月15日に元大韓民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修など2名が在日韓国人の文世光(ムン・セグァン 日本名:南条世光(なんじょう せいこう)、1951年12月26日 - 1974年12月20日)に射殺された事件である。

この日は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウルの国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。

赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。同年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた。

そして、1973年11月に香港を旅行した際に暗殺実行の為の拳銃の入手に失敗した事から、1974年7月18日に大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所で拳銃2丁を盗んだ。

高校時代の知人である日本人女性を利用して、女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成するなど準備を着々と進めた。

同年8月6日に拳銃をトランジスタラジオの中身を抜いたケースにしのばせ韓国に入国した。文に狙撃を指令し資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練を行ったのは、大阪の在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍だった。

実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、文はソウルパレスホテルのフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。

高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山の国立劇場に潜入した。

国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかった。しかし、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。

当初、文は大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念した。

予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。

因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲した。

しかし大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた大統領夫人の陸の脊髄に命中。

第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。

陸はソウル大学付属病院に搬送されたが、当時のソウル大病院における最高技術をもっての5時間40分におよぶ手術もむなしく、同日午後7時に死去した(49歳)。ちなみに、頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちるシーンは、アメリカCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。

また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生・張峰華(当時17歳)も応戦したSP隊員の撃った流れ弾に当たり、死亡した。

大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯を飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑が宣告された。

宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事や牧師、刑務官など約10人が立ち会いのもと、

「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。

朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。

事件翌日の8月16日に、大阪府警は前述の日本人女性を旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうち1丁と弾丸などの証拠品を発見、押収した。

8月17日に捜査当局は、事件は朝鮮総連の指令、援助によって実行されたもので、逮捕された日本人女性とその夫、並びに金浩龍が共犯者であると発表し、日本政府に対して捜査協力を要請した。

これに対して日本政府は、事件と朝鮮総連の関係は明白ではないとして慎重な姿勢をとっていたものの、国内法の許す範囲で捜査に協力することを決定した。

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも拘わらず、日本側がそれを明確に認めなかった事、文が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれた物であった事による。

謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。

しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、日本政府が遺憾の意を表明する。
かかる事件の再発防止。
捜査についての日本政府の協力。
日本から特使派遣の合意をすること。
という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。

事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴大統領の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相(当時)が出席した。その際、田中の「えらい目に遭われましたね」という言葉に、大統領は非常に憤慨したと言われている。

田中にすれば韓国人同士の事件、朴は韓国人ではなく日本から来た実質日本人による事件と言う実感だから憤慨したわけだ。

加えて、8月29日に木村俊夫外相(当時)が、国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発。

連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群集が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った。

事態を見かねた日本政府は、9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁(当時)を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって、両国間での問題決着がはかられた。

朴大統領は椎名特使との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえない事」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。

なお、日本を「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。

また、この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で、2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる。

2002年朴正煕・陸英修の長女、朴槿恵(当時ハンナラ党副総裁)が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし「部下がやった事で自分は知らなかった」と述べた>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<1974年に時点で、文世光を工作員にした朝鮮総連生野支部政治部長を逮捕し、文世光が射撃訓練をした東京の病院を家宅捜査し、万景峰号を調査しさらに朝鮮総連を徹底的に調べ上げているべきであった。

しかし、時の田中内閣はそのどれもしなかった。その理由は、推測であるが、日中国交樹立を果たしたその次は、日朝国交樹立で締めたいと功名心を燃やしたからだろう>

西村さんは、このように指摘するが、田中角栄に「国際感覚」を求めるのは酷である。歴史観もなかった。

かく言う私も同様である。青瓦台襲撃未遂事件、文世光事件がつながっておりことを系統的に追跡取材する必要性を感じなかった。マスコミも同様だろう。これらの事件が北による日本人大量拉致事件とつながっていると考える記者は知らなかった。

例えば大阪で南北が覇権を賭けて日々争っていると言う発想をする記者はいなかった。文世光事件をして、北による日本人拉致事件を予想出来る態勢が大阪府警にあったかどうか。その取材を指揮できる記者かデスクがいたか。いなかった。残念ながら私には能力を超えていた。

拉致事件を穿り出し、報道したのは産経新聞だけだった。警察当局は勿論、政界でも誰一人信じる人はいなかった。今回の拉致事件担当相による売名パフォーマンスをマスコミが非難しないのは自らの足許が暗いからである。2010・7・24






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