2008年02月26日

◆錦織君の下品な英語

                  渡部亮次郎

プロテニス界の星錦織君の英語については前田正晶さんが、先に『頂門
の一針』1101号(2008・02・24)で慨嘆したとおりだが、私も「前田様 こ
れは下品。言葉じゃない。しかし、もはや治らないでしょう。日本人と
して恥かしい。誰が教えたのだろう」と同調した。

<彼は質問に答えて「当初は英語が解らず多いに苦労したが今は大丈夫」
と言いたくて
「Now is OK.」と言ったと聞こえた。

さらに2回戦の相手が世界ランキング6位のアンディ・ロデイック(Andy
Roddick)であるが、その抱負を聞かれて
「I want to play Roddick. That’s  why I win today.」
と答えていた>。

<Now is OK.では厳密に言えばここでは”now”が主語で「今が良い」と
なり、「今」と「良い」が同じものになってしまうのであるから。より
詳しく言えば「(私は)今は英語で会話をすることはOKなのだ」と言い
たいのだから、上の話し方のように”now”は主語ではないのである。

正しくは最低でも「It is OK now.」くらいは言わねばならず、主語とい
うか「自分にとっては問題ない」のだから「I have no problem with
English now.」等と言う方が、自分が言いたいことが言えて良いのであ
る。

次の文章だが「I want to play Roddick.」では「ロデイックを演じたい」
になってしまう。少なくとも「I wanted to play against Roddick.」で
なければならず、wantを過去形にしないと「ロデイックと対戦したかっ
た」ことにはならない。さらに「対戦する」のであればagainstを入れな
ければならない>。

<文法を誤ることは無教養の証であることを忘れてはならない。それで
も通じる、いや通じたという実績で当人は安堵して、この文法無視の世
界に安住してしまうのだ。私はそういう例を何人も見てきた。

しかもこの手の人の多くは非常に滑らかに英語を話されるのである。そ
の話し方の中に文法的誤りがあっても「貴方間違えていますよ」などと
お節介なことを言う人などいない。故に一度この道に入った人は先ず文
法遵守の道に戻ってくることはないのである>。

英語を喋る事は簡単でも、英語を母国語とする人たちとビジネスをする
事と同じではない。そのためには英語の文法を若いうちに身につけてお
かなければ、大恥をかくことになる、という大変親切な注意なのである。

そういう私もいきなり外務大臣秘書官にされて英語では苦労したが、高
校時代に厭々やった英文法で助けられた。会話は退官後改めて少しだが
修得した。だから前田さんの仰る事はいちいち尤もなのだ。

以下は前田さんの「追記」であるが、大変示唆に富んだ体験なので敢え
て紹介したい。

<私がアメリカの会社に転身したのが1972年、39歳でした。英語で話す
ことに関しては、高校在学中にはすでにアメリカ人の中で暮らしても不
自由ないくらいになっていましたが、本当の意味で「英語を使う、使え
る」ようになったのはそれ以降でした。

換言すれば、そこから英語を仕事に使うという真の勉強が始まりました。
ここから課題となったのが「思考体系の違い」で何度も何度も繰り返し
て問題が発生しました。それは言葉が話せるだけでは解決しないことば
かりでした。

2001年頃だったか某有名私立大学の先生に研究留学に先立って烏滸がま
しくも個人教授をしたことがありました。その先生が言われたことは
「何で始めから(前田さんが言うように)そう教えてくれなかったのか」
でした。

ある意味でそれは無い物ねだりですが、先生を悩ましたことは「有無相
通じない、腹芸がない、言わなくとも相手が解ってくれるだろう等が通
じないことを何故教えてくれなかったのか」なのです。思考体系の違い
です。私は彼らのそれを「二進法的思考」と呼んでいます。

すなわち、錦織君の「トップ100(後で50に言い直していましたが)が目
標」と言ったように、日本語では誰でもが「入ることだな」と解釈して
くれますが、彼らは「それがどうした」と言いかねません。こういう点
を学校教育で教えるわけがないのです。

先生はそう言いたかったのです。錦織君の頭の中は現時点では日本語の
思考体系なのでしょう。早くその違いに気が付かねば、何れは「そんな
つもりで言っていない」か「何故解ってくれない」という問題に撞着す
るでしょう。英語はそういうギスギスした厭らしい言語なのです。

私が数多く犯した「言わなかったために発生した」ミスの中で初期にこ
ういう例がありました。日本で品質の大問題が起きて、得意先と綿密に
打ち合わせた上で他にも緊急な問題があり急遽本社に出張しました。

本社では副社長、各担当マネージャー、中央研究所主任研究員、工場か
らは工場長と技術サービス部長も参加の大品質会議となりました。

私は全員に得意先の要望である「改造品が生産され次第そのテスト用の
見本紙をX枚航空便で送るとこと」を伝えて会議を終わって次の目的地に。
そして約1週間後に工場に出張した際に確認してみました。

技術サービス部長に「見本は予定通りに送ってくれたか」を確認すると、
その答えが何と「それは君が製造計画担当に本社で指示しておくべきこ
とで、我々の問題ではない。何の手配もされていない。直ちにここから
本社に連絡してその後に工場の事務部門に依頼に走れ」でした。

一言もありませんでした。見本の手配は私の仕事ですが、副社長以下全
員が出ていた会議で言えば、誰かが必ず(日本の組織で経験したように)
手配してくれただろうと思い込み、何ら確認もしないで終わっていたの
でした。

一言「担当に連絡する時間がないので宜しくお願いします」と言ってか
ら次の目的地に行くべきでした。このように彼らは「言わなかったこと
を相手の胸中を察して動く人種ではない」のです。

敢えて自分の失敗を例に挙げましたが、ここには言葉だけの問題ではな
い思考体系の違いまで読んでいないと「通じない」ことがあると知らね
ばならないということを言いたくて、長々と書いた次第です。

だが、失敗しないと解らないのも苦しいものです。誰かに教えて上げた
くても、実感を伴わないでしょう。しかし、あの場合は間に合いました
が、間に合わないか、取り返しがつかないことは多いのです。

であればこそ、私は「英語の勉強は余程必要がない限り、それほど必要
ではない。目的を良く考えて取り組め。問題は思考体系の違いまで認識
するかしないかにもある」と言うのです。

さらに、リタイヤー以後は「日米企業社会における文化の違い」と「思
考体系の違い」を語り、且つ書いてきました。この難しい点は「経験し、
また失敗がないと実感がないこと」です。

この上記の先生には「事前に良く聞いてからアメリカに行きましたから、
さして違和感を覚えませんでした」と言って頂けました。

先生がこうして初めて渡米されたのが42歳で、思考体系の違いなどを十
分即座に解って頂ける学者でした。であればこそ理解されたのかも知れ
ませんが、良かったなと思いました。>2008・02・23


2008年02月24日

◆祝「トウ小平秘録」完遂

                  渡部亮次郎

約1年に及んだ「トウ小平秘録」シリーズは2008年2月22日付、「153」回でついに終了、産経新聞を読む意欲が半減した。

伊藤 正 (イトウ タダシ)。産経新聞中国総局長兼論説委員。
1940年埼玉県生まれ、東京外国語大学中国語科卒。65年共同通信社に入り、72〜74年香港支局長、74〜77年北京支局員、83〜86年ワシントン支局員を経て、87〜91年北京支局長。編集局次長、論説委員長など歴任。

2000年7月産経新聞社に移り、同年12月から現職。76年と89年の2度の天安門事件を現場取材した唯一の西側記者として知られる。

香港、北京で既に足掛け20年の中国駐在経験である。これだけ長く駐在して中国をウオッチした外国人は少ないし日本人記者としては初めてでは無いか。

他の異国と違って、共産中国には報道の自由は無い。日本との国交がまだ回復する以前に結ばれた日中記者交換協定が回復後もそのまま延長されているためである。

中国を政治的に批判する事は許されないし、中国側の機嫌を損ねれば、直ちに国外退去を命じられる。実際に過去何回もあったし、逮捕監禁された例もある。

その言動は二六時中監視され、牽制され、記事が真実と当局のご機嫌の間で当惑、逡巡を禁じえないのが実態だ。それでもインターネットと携帯電話の普及で、事情は大分変わってきた。

<それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。>と伊藤さんは暴露している。

共産国から資本主義経済へ劇的に変化させたトウ小平。3度の失脚と3度の復活。その生涯はまた謎に満ちたものであるが、丹念な資料の分析と多彩な人脈を駆使した取材で、未知の事実を多々明らかにした。歴史的な著作となった。



【トウ小平秘録】(153 最終回)第6部「先富論」の遺産(2008.2.22)を抜粋・紹介して、連載の完結を惜しみつつ大いなる祝意を表する次第である。

<■命の恩人だが神ではない

「海 その愛」の楽譜が欲しいと、複数の知人から頼まれた。まだテレビを持つ家庭は少なかったが、少なくとも数百万の中国人がその演奏を聴き、何がしかのショックを受けたに違いない。

音楽ほど同時に、かつ大勢の人の感性に訴える表現形態はない。それは電波に乗って国境を越えていく。新制作座の演奏は、青年層ら中国人の心に響き、外国文化への欲求をかき立てた最初のシーンだったと思う。

その欲望を満たす物質的条件が大半の中国人にはなかった。本連載では、文革で失脚したトウ小平(しょうへい)氏が69年に下放した江西省の工場で、80人の従業員家庭のどこにもラジオがないと知ったときの失意を書いた。それが改革・開放への執念を生んだ、とも。

今年の春節中、友人Aの家庭に招かれた。200平方メートルほどの部屋には、大型プラズマテレビなど電子製品が並ぶ。ほかにマンションを3戸所有、車もある。離婚して女手一つで育てた息子は米国に留学させた。

50歳代のAは、文革中に農村に下放、辛酸をなめ尽くした。それでも希望を失わず、大学に推薦入学するチャンスをつかみ、改革・開放の波に乗って商売に成功、今日の豊かさを手にした。

Aはトウ小平氏について「命の恩人」と呼びながら、「毛沢東と違って神ではない」と言った。現在の生活は自分で勝ち取ったものとの自負心がかいま見えた。

北京でたまに行くスナックがある。興に乗ると革命歌を歌う。毛沢東賛歌の「大海を行くには舵(かじ)取りがいる」などだ。20歳前後のホステスはけげんな表情をする。なぜ毛沢東が「紅い太陽」なのか理解できないらしい。

革命歌をもっぱら流す店もあるが、政治的背景はなく、毛沢東を商売のタネにしているだけだ。

ホステスのほとんどは地方の農村出身者だ。夜7時に出勤、宿舎に帰るのは午前3時ごろという。長時間労働の報酬は、月1500元(1元は約15円=22,500円)前後。生活費を切りつめ実家に送金している女性が多い。出稼ぎ農民工と同じだ。

それでも地方に比べれば格段の高収入だ。安徽省出身の19歳の女性は、地元の食堂で朝8時から翌午前1時まで皿洗いなどの下働きで月200元)3000円)余だった。

黒竜江省出身の21歳の女性は、地元病院で看護師をしていた時代の賃金は350元(4500円)だったが、3カ月以上未払いだった、という。

 彼女たちの出身地の状況を聞く。ほとんどの共通点は党幹部の腐敗と金持ち階層の横暴への怒りだ。彼女たちの情報量は多い。その中には決して報道されない指導者のスキャンダルや暴動事件などの情報もある。

情報入手の主な手段は携帯電話だ。最近はパソコンを持つホステスも増えた。

中国の携帯電話は既に6億台に近づき、ネットユーザーも2億人を突破した。貧しい農民の間でも携帯電話の普及が著しい。それもまた経済発展の成果である。

本連載では何度か、専制政治の支柱はペンと鉄砲だと書いたが、こうした情報伝達手段の発達の結果、ペンの規制は無力化しつつある。

それでも中国国内の中国語サイトで、検索できない項目が多数ある。「天安門事件」はその一つだが、本連載「トウ小平(しょうへい)秘録」も検索できなくなった。

トウ小平氏は20年前、実事求是(事実に基づき真理を追究する)に立ち、世界と中国の現実を直視、毛沢東信仰を破り、改革・開放を断行した。現実主義の徹底がトウ氏の改革路線の神髄だ。

いま、トウ小平氏の時代には想像もできなかった変化が進む。トウ氏の定めた改革・開放と社会主義原則堅持の路線は、現実から乖離(かいり)し、多くの矛盾が噴出している。

トウ小平路線は不可侵というタブーを打破し、現実に即した改革の実行こそ、トウ氏の遺産を生かす道と思われるのだが。>(伊藤正)
2008・02・22

2008年02月23日

◆餓死者は3755万人

                 渡部亮次郎

中華人民共和国が1949(昭和24)年10月1日、毛沢東によって建国宣言された国である事は知っていた。またその同じ毛沢東によって強行された大躍進政策が悉く失敗し、厖大な餓死者を出した事も知っていた。

だが餓死者の具体的な数字については、愛用の「ウィキペディア」
では「2000万から5000万と言われているがはっきりした数字は解っていない」とし、「岩波現代中国事典」(1999年刊)も「1500万~4000万人」としか表現していない。

ところが共同通信社以来、北京に10年以上駐在している産経新聞社中国総局長の伊藤正氏が2008年2月21日付産経紙に掲載した「トウ小平秘録」第152回で「餓死者は3755万人」と具体的数字を報じた。おそらく世界初である。

これを明らかにしたのは中国、国防大学の元研究員辛子陵氏で2007年7月に刊行した著書「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)の中であった。そこには飢餓の末、子供や死体を食した例などを暴露していた。

辛子陵氏は中国人民大学元副学長の謝韜氏とのコンビで「中国共産党は中国社会民主党と改称しスウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張。

そこで毛沢東が大躍進政策や文化大革命でいかに大きな誤りを犯したかを具体的に暴露する必要があり、その一環として大躍進政策の失敗による餓死者数を明らかにしたものである。激しい批判に曝されているのは当然だから数字の根拠には自信が有るのだろう。

1957(昭和32)年11月6日、ソ連共産党第1書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

毛沢東はこれに触発され、政権樹立後9年目の1958年の第2次5ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという壮大(無茶)な計画を立案した。

しかし、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の下で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。

1958年10月から、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中、
素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、1117万トン生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。

それでも増産計画に従って生産を続けたため資源を大量に浪費する結果となった。

しかも農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

1958年2月から、4害(伝染病を媒介するハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメ)の大量捕獲作戦が展開され、スズメを大量に駆除した。

北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除したが、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発生を招き、農業生産は大打撃を被った。

スズメは、農作物を食べると同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。

人民公社の設立などによって農村のコミューン化を強力に推し進めた。これは生産意欲の減退に繋がった。

また、今は完全に間違いだとされているルイセンコ(ソビエト)の学説に基づいた稲の密植など農業開発は全く効果を上げず、凄まじいまでの凶作になった。秋田県でも親戚の若者が親たちの止めるのも聞かずに密植をやり大失敗したのを見た。

地方政府が誇大な成果を党中央に申告した結果、中央政府は申告に従って地方に農産物の供出を命じ、地方政府は農村から洗いざらい食料を徴発したため、広範囲の農村で餓死者続出の惨状が起きたというのである。

飢饉の最悪期にも都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている。

1959年毛沢東はこの政策失敗を認めて国家主席を辞任した。毛沢東はこれによって実質的な権力を失い、代わってケ小平・劉少奇などが修正主義的路線に基いて経済を再建していくことになる。

しかしこの後も中国共産党指導部における権力闘争は続き、林彪と四人組は毛沢東が失った権力を取り戻すために文化大革命を引き起こし空白の10年を作った。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




2008年02月22日

◆新タワーに年500万人

                  渡部亮次郎

東京都墨田区で今夏着工し、関東一円に地上デジタル放送の電波を送り出す高さ610メートルの新タワーの胸算用が試算され首都圏から「新東京タワー」にやってくる人は年間500万と出た人。

これは産経新聞が2008年2月20日の『東京』蘭で報じたもので、
それによれば建設による経済効果は3000億円を超える。首都圏からも大勢が足を運ぶとみられる新しい観光スポット誕生を前に、地元では街並み整備など再開発に取り組み始めている。

新タワーは東武鉄道が100%出資する「新東京タワー株式会社」(墨田区)が建設する巨大な電波塔。平成23年度に完成予定で、今ある東京タワー(高さ333メートル)の2倍近い高さになる。

すんなり建っては「立ち枯れ」になる現在の東京タワー側が高さを事実上足すなどの策を打ち出して地元を心配させる場面もあったがNHKも民放もこれには乗らなかったので新タワー建設は本決まりとなった。

建設にかかる総事業費は500億円。2007年 9月28日、「新東京タワー」の本体施工者を数社による競争入札の上、大林組に決め、請負契約を締結した。

大林組の請負金額は非公表。着工は2008年夏で、工期は3年6カ月を見込む。

2007年10月6日、建設予定地でサーチライト9台を使い、新タワーの脚に見立てた光の束を上空に向けて放出させた。

最初に東京タワー(333メートル)の高さで光を交差させ、その後光を伸ばして610メートルの上空で「新東京タワー」の高さを表現した。これは前年秋に地元住民らが企画、住民や団体から寄付を募って実現したもの。

10月26日、「新東京タワー」の名称案の公募開始、11月25日公募締切り。17,429 件の応募あり。2008年4月に名称検討委員会により数案に絞り込まれた上、一般投票を経て6月に決定の予定。

着工を前に地元、墨田区は大手広告代理店に委託し、新タワーが誕生したときの来場者数や、経済波及効果などを割り出した。

その結果、新タワーへの来場者は年間552万人にのぼると予測。首都圏からがほとんどで、496万人と見込んだ。

飲食やショッピングなどを周辺エリアで楽しむ来場者も入れると、年間で延べ2096万人が訪れると予想。首都圏からは1人当たり年3・3回、延べ1798万人が来場すると算出した。

新タワーの建設に伴う経済効果は3346億円と試算。完成後、来場者の消費活動などに伴う経済効果は毎年1700億円にのぼり、このうち東京都では1300億円、墨田区だけでも880億円の効果があるとの結果が出た。

また、新タワーの建設で、全国では約1万7000人、このうち東京都では約1万2000人の雇用が生まれるとの数字がはじき出されたが、あくまで皮算用である。

下町文化の拠点へ整備

<新タワー建設予定地の墨田区では約3・7ヘクタールにわたって「タワーのある街」の再開発が進められる。

タワーの東側は地上32階、西側は地上7階建ての一体型のビルができ、タワーとつながる。ビルにはレストランなどの商業施設のほか、オフィスや学校といった教育施設を誘致。

水族館や下町らしく「和」をイメージした宿泊施設なども入る。入居するテナントはまだ決まっていないが、「下町文化の雰囲気のある街をつくりたい」(新東京タワー株式会社)。

墨田区では「新タワーを起爆剤に街の活性化を図りたい」(山崎昇区長)考えで、20年度から27年度にかけ、周辺を「下町文化創世拠点」として整備するのに、総額105億7800万円をかける。

20年度の区予算には計6億円を計上。墨田区生まれの浮世絵師、葛飾北斎の偉業を伝える観光拠点として「北斎館」の建設準備に取りかかる。

タワー周辺の道路の電線を地中化し、歩道をバリアフリー化するなどインフラ整備も本格化させる。

山崎区長は「新タワーで街は一変する。住民にも知恵を絞ってもらい誰もが1度は訪れてみたい街を実現したい」と期待している。>
(産経新聞 2月20日8時0分配信)

自宅の近所だから月に何回も側を通るが、早い話、近隣はあまり綺麗とはいえない街。果たしてこんなところにホテルなんかも出来て
観光客が来るだろう、とは想像できない。

だから関係者は一所懸命に胸算用を大手広告代理店に依頼して決して皮算用なんかでないと区民に訴えているのであろう。何しろ再開発が進まず、人口が5年かかって1万しか増えない区だ。タワーが再開発の起爆剤になるよう願っている人は多いだろう。2008.02.20

2008年02月21日

◆中国を社会民主党に?(21日夕刊)

                 渡部亮次郎

産経新聞中国総局長伊藤正氏による長期連載「トウ小平秘録」は一頭地を抜く傑作である。

2008年2月21日の第152回では「社会民主党」ではどうかと言う副題がついていて、トウ氏の敷いた改革開放路線を経済だけでは矛盾が進行するから、これを政治にも広げて議会主義にしたらどうかという論争まで起きている事を指摘している。

これについては、
<新左派系のサイトは、論文を罵倒(ばとう)する文章や書き込みであふれ、毛沢東を修正主義者と侮辱した謝氏を党規約と憲法に違反しているとして逮捕、「炎黄春秋」は廃刊すべしとの意見も出た>(伊藤氏)。

しかし、事態は決してそうはならず、論争は続いている。中でも驚かされたのは「大躍進運動(58年)での餓死者数が3755万人」とあからさまに表現して毛沢東批判が展開されていることである。

この文章を書いたのは、国防大学の元研究員、辛子陵(しんしりょう)氏で「千秋功罪毛沢東」上下巻(書作坊出版)。昨年7月に出版された。

毛沢東により強行された大躍進。辛子陵氏は飢え死にする人が3755万人も出る中、子供や死体を食した例などを暴露し、毛沢東時代の抑圧と貧困を詳述。空想主義に陥った毛沢東の極左主義を徹底的に批判した。

この論文に刺激されて、昨年2月、北京の月刊誌「炎黄春秋」に発表された論文が大きな話題を呼んだ。

筆者は名門、中国人民大学元副学長の謝韜(しゃとう)氏。「民主社会主義モデルと中国の前途」と題し、民主社会主義へ移行、民主政治を実現してこそ「中国を救える」と主張した。

謝氏は、中国共産党は「中国社会民主党」と改称し、欧州共産主義と同じく民主社会主義に転換、スウェーデン型の政治体制(議院内閣制)に移行すべきだと主張している。毛沢東思想の全面否定を論じても殺されないのだ。

伊藤氏によればトウ小平による改革・開放をめぐる論争は、4年前から始まった。2004年に香港中文大学の郎咸平(ろうかんへい)教授が大手国有企業の国有資産の外資への売却などを批判、新左派が郎氏を支援し、市場経済派の主流派学者を攻撃してからだった。

謝韜(しゃとう)、辛子陵(しんしりょう)両氏は議会制民主主義を提唱、事実上一党独裁を否定していたから衝撃は大きかった。この年秋に第17回党大会を控え、政権側がどう反応するかが注目された。

謝氏らへの反論は2006年4月24日付「光明日報」が開始。党機関紙「人民日報」は5月10日、読者の質問に答える形で、「中国の特色のある社会主義」こそ唯一の道として民主社会主義論を批判したが、論争に区切りをつけたのは、胡錦濤総書記だった。

一党独裁を堅持し、経済建設を重点にしながら党内民主の促進などの改革を進めるという趣旨で、党大会の活動報告の基調にもなった。

謝韜氏らはこの後、胡氏に「(社会主義の)旗を降ろし、民主社会主義の道を行ってはどうか」と伝えたのに対し、胡氏は06年6月25日、中央党学校での演説で、初めて「私は古い旗を掲げ、古い道を行く」と答えたという(黄達公(こうたつこう)編「大論戦」香港・天地図書)。

国内矛盾に飽き足らず毛沢東路線に回帰使用とする左派。「国民経済が発展し人民の生活水準が向上して人民が満足するなら、どんな主義でも構わない」トウ小平氏が87年にこう語ったことに縋る改革派、なんとしてでも『中間点』を探そうとする現実派。3派入り乱れての論争。

広東省の汪洋(おうよう)書記は昨年末以来、思想解放を強調、深センを「政治特区」にして政治改革の実験をする構想を進めている。実験の正体は不明だが、こうした構想が出ること自体、政治改革が不可欠との認識が政権内部に強まっている表れだ、と伊藤氏は見る。

<問題はあるにせよ、中国は資本主義化によって経済発展を遂げ、国民の生活水準も確実に向上した。しかし国民は、党権力と富裕階級が手を結び利益を共有する「権貴政治」への疑問、不満を募らせ、社会は不安定化している。

国民の意思が反映する政治体制の確立を胡錦濤政権は迫られている。謝韜氏らは民主社会主義の要は「民主」にありとし、「党主」の放棄を求めるが、それにはトウ小平氏の「四つの基本原則」の呪縛(じゅばく)を解かねばならない。トウ氏の「遺産」は、なお大きく重い。>(伊藤正)2008・02・21

2008年02月20日

◆昔は安全世界一の日本

                  渡部亮次郎

「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安
全に旅行できる国はない」と著書に書いたのはイギリスの女性旅行家イ
ザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831年10月31―1904年10月7日)
である。

日本では明治時代の東北地方や北海道、関西などを旅行し、『日本奥地
紀行』『バード 日本紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ
抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人
男性1人だけ)。

山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東
洋のアルカディア」(牧歌的な楽園)と評した。

1878年に金山を訪れたイザベラ・バードは、ここで長旅から足の容態が
悪化し、この先雄勝峠(秋田県)を超えるということもあって、しばら
く逗留して足の治療と養生を行った。

新庄からやってきた医師による、西洋医学ではない、東洋医学による治
療であった。

彼女は東洋医学に対して懐疑的であったが、それでも足が回復したこと
で認識を改め、さらに医師の人となりや、首長を始めとする人々の知識
欲の旺盛さ、これまでの宿では虻蚊に悩まされていたが、ここで虻蚊を
避ける方法を発見したことなどを好意的に記している。

金山町(かねやままち)は、山形県北東部にある人口約7千人の町。最上郡
に属する。

町域の4分の3を占める森林からの金山杉と、白壁を用いた「美しく古び
る」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦
鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクー
ルにおいて受賞実績がある。

<久保田(今の秋田市)や大館、白沢からの手紙もあり、青森県の碇ヶ
関、黒石からも手紙を書いている。

久保田では「他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである。」と書
いている。

津軽・黒石では七夕祭りの幻想的な透かし絵の提灯行列を見て、その美
しさに1時間も立ち尽くした、と書いている。今の「ねぶた祭り」の原
型だと思われる。>(青森県大鰐町 須藤尚人氏)

イザベラ・バードはまた10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。
これらの体験を 1880年"Unbeaten Tracks in Japan"2巻にまとめた。第1
巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。

その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版され
る。『日本奥地紀行』は、この普及版の翻訳である。明治期の外来人の
視点を通した日本を知る貴重な文献である。

特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本
格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文
献である。

1885年版で省略された部分は『バード 日本紀行』として翻訳されている。

日本奥地紀行で当時の日本をこう書いている。

「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく
安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法
な目にも遭わず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」

また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、『朝
鮮紀行』を書いている。最初の朝鮮訪問は1894年、バード62歳の時のこ
と。

以降3年のうちに4度にわたり朝鮮各地を旅する。時おりしも東学党の
反乱、閔妃暗殺事件が起こるころ。国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不
穏な政情、伝統的封建的伝統、文化。バードがじかに見聞きした、朝鮮
の情勢を忠実に伝える。

1831年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。幼少時に
病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅
に憧れるようになる。

アメリカやカナダを旅し、1856年『The Englishwoman in America』を書
いた。その後、当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅し
た。1893年英国地理学会特別会員となる。享年72.

『バード 日本紀行』楠家重敏他訳、雄松堂出版、2002年8月20日、
ISBN4-8419-0295-3  583p 15cm(A6)

「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」時岡敬子訳、講談社学術文庫、
ISBN:9784061593404 (4061593404) 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・02・18



2008年02月19日

◆難しい中華料理原稿

                  渡部亮次郎

中国料理を口にしたのは20歳を過ぎてから、中国の地を踏んだのは1972
年、36歳の時だった。人民大会堂で周恩来首相から接待を受け、ニクソン
大統領は予め断ったという海鼠(なまこ)の醤油煮を生まれて初めて食
べた。

何度も書くようだが、元の八郎潟沿岸で育った私は、魚を生で食べる事
を禁じられていた。肝臓ジストマという恐しい「虫」が居るから、淡水
魚はすべて火を通さなければいけない、と教えられて育った。

しかも八郎潟の鮒や鯰(なまず)は網や釣り針で、只で捕れるから、日
本海の魚を買う必要は無い。つい、刺身や寿司を知らないで育ったわけ
である。

田中角栄首相に同行して北京を訪れた時、沿岸部のごく一部を除いて中
国人も魚の生は食べない事を知った。揚子江(長江)などから捕れる淡
水魚には肝臓ジストマが棲み付いて危険な事を四千年の歴史で学んだの
である。

後年、外務大臣の秘書官になり、トウ小平副首相が日本政府による和食
の晩餐会でいわばメインデッシュたる鮪(まぐろ)の刺身を1切れだけ目
を瞑って食べるのを見た。四川省の山中で育った氏としては、死ぬ思い
だったろう。

しかし、日中間の人的交流が進んだ事もあって、最近では「海の魚は安
全、美味」が知れ渡り、中国人が鮪その他生魚をどしどし食べるように
なった。鮪は日中間で奪い合いになっているらしい。

ところで60歳までは刺身を食べなかったから専ら中国料理を食べたわけ
だが、このことを字にすると大変だ。日本のパソコンには入っていない
字が沢山出て来るからである。最近も北京ダックのことで読者からお叱
りを受けたばかりである。

北京からの報道によると、北京ダックを大量製造するために、ある老舗
が電気オーブンを採用しようとしたところ、大いなる反発を食らってい
るという話だ。

<電気焼き北京ダックに反対76%

北京ダックは老舗の味を守ってー。日刊紙・中国青年報などが市民を対象
に行ったアンケート調査によると、76・8%が北京ダックの伝統的な製法
を改めて電気オーブンで焼く事に反対と回答した。14日付の同紙が報じ
た。調査対象は3066人。

北京ダックの調理法をめぐっては、老舗「全聚徳」が昨年11月の株式上
場に際し、オーブン導入など生産を自動化する計画を発表、論議を呼ん
でいた。

全聚徳の北京ダックは、ナツメなど果物の木で火をおこし、特殊な窯の
中に吊るして焼き上げる製法で有名。調査では、62・8%が電気オーブンの
使用による北京ダックのファストフード化を懸念している。>北京=時
事 産経新聞 2008年1月15日付。

電気オーブンの採用は言わずと知れた北京オリンピックで押し寄せる厖
大な数の客に対応するには致し方ないというところだろうが、市民の反
応はなかなか厳しい。

ところで日本における中国料理店は明治中期、華僑が神戸に開いたもの
が第1号といわれ、その後、横浜でもいわゆる中華街として発展してきた。

横浜中華街は、横浜開港後の幕末から明治初期にかけて、外国人居留地
の一角に中国人が居住したのが始まり。明治4年に日清修好条約が結ばれ
ると、移住者が増加した。現在、中区山下町にあり、200軒以上の中華料
理店が軒を連ね、中国各地の味を提供している。

中国料理は日本の食べ物にも大きな影響を与えた。味噌、豆腐、羊羹、
饅頭、麺類、茶など多くの食品が長い年月の間に日本にもたらされた。
料理自体としては長崎の卓袱(しっぽく)料理やチャンポン、普茶料理な
どが知られる。

第2次世界大戦後満洲からの引揚者が持帰った餃子(ギョウザ)や焼売(シ
ュウマイ)その他の食べ物が人気を呼び、各地に専門の店も生まれて定着
している。出典:「エンカルタ」(マイクロソフト)2008・01・15



2008年02月16日

◆注射を恐れる人々

                  渡部亮次郎

月刊 糖尿病ライフ「さかえ」2008年2月号によると、糖尿病でありながら、まだインスリン療法(自己注射)をしていない患者の多くは注射開始に抵抗感や不安を持っていることが分かった。

これは医薬品製造会社「日本イーライリリー」(神戸市)が2007年11月中旬までに行ったインターネット調査でわかったものだが、逆に既に注射をしている人の3割は「もっと早く始めていればよかった」と答えている。

調査は30〜60歳代以上までの男女各50人、計400人の糖尿病患者が対象。このうちインスリン治療を受けている人は93人、受けていない人は307人。

未治療の患者に注射開始への懸念を尋ねたところ75・6%が「とても心配」「かなり心配」と答えた。主治医から勧められた場合の対応では「気にせずに始める」と答えた患者はわずか4・7%。

「他に選択肢が無いから始める」は37・2%。「メリット、デメリットをじっくり検討」「経口治療薬の増量などを主治医と相談」がいずれも24・1%と慎重派が多く、「断る」も9・9%いた。

ところが既に注射治療中の患者は、開始時期について67・7%が「適切」、29・0%が「もっと早く開始すればよかった」と答えた。これはやってみると複雑でも痛くも無い事が分かるからだろう。

インスリン治療に対する考え(複数回答)では、未治療患者では、
「注射は複雑で面倒」が51・8%でトップ。「始めると一生止められない」36・5%、「インスリン注射するようになったら末期だ」26・7%など否定的な回答が上位を占めた。

これに対し、治療患者は「将来の合併症予防に役立つ」「血糖コントロールがしやすくなる」がそれぞれ63.4%、「他の治療法より効果が高い」が52・7%だった。

気付くように、注射に関する設問に「痛い」が無い。糖尿病の注射に関する限り「痛い」はなくなっているのである。

カナダの整形外科医フレデリック・バンティング(Frederick Banting)と医学生チャールズ・ベスト(Charles Best)が研究室でインスリンの抽出に成功したのが1921年。

1922年の春が過ぎ、ベストは大量の需要にも応えられるように抽出技術を工夫したが、精製は未熟であった。

別途1921年の発表の直後、イーライリリー社から、彼らは支援の申し出を受けており、4月にこの申し出を受けた。11月にリリー社は技術の革新に成功し、非常に純粋なインスリンの生産に成功した。このインスリンは、アイレチンという名ですぐ市場に出された。

インスリンは口から服用しても胃酸で無効になるため、現在も皮下注射以外に体内に取り込む方法がない。ところが欧米では間なしに患者自身による注射が可能になったらしいが、日本では1980年まで禁止された。患者は60年間、厚生省に見放された。

それを許可したのが園田直さん(故人)である。厚生大臣としては2度目の就任(鈴木善幸内閣)。日本医師会の反対を押し切っての決断だった。

日本でも患者自身による自己注射が可能となったので医療器具メーカーは注射器の工夫、針を極細にして痛みを減ずることに社運を賭けて競争を展開。

いまや日本における注射針の細さは0・2ミリ。世界一の細さ。髪の毛ぐらいで殆ど痛みを感じないレベルとなった。インスリン治療を開始してない患者大多数はこの「極細競争」の物語を知らないから恐れるのだ。

園田さん自身、30代からの糖尿病患者だったが、武道の猛者の癖に注射の痛みを怖がってインスリンを拒否し続けた。大臣在任中は極細針は間に合わなく、1984年4月2日、人工透析の末、腎不全で死んだ。享年70

秘書官としてこの事実を確認し、奇しくも自身、患者となったが極細針の恩恵により「この分ではお袋の歳(98}まで生きられると豪語している私の「注射推奨の弁」を聞いて注射を受け入れて戴きたい。

私は園田さんが死んだ84年の夏に2型を発症した。遺伝と運動不足、暴飲がきっかけだった。その後経口薬投与で頑張ったが、眼底出血を体験。5年前からインスリン自己注射を朝夕の2回。

その結果、いま(72歳)ではかかりつけの医師から「わたなべさんは糖尿病である以外、どこも悪くない」と言われるまでになった。焼酎も楽しんでいる事、当然。すべて注射のお陰である。2008・02・13

2008年02月15日

◆中国が国家的に吐く唾

                  渡部亮次郎

<沖縄の海岸に流れ着く漂着ゴミの数がこの10年間で8・6倍に増え、中でも中国からのゴミをみると13倍にも急増していることが、13日までに明らかになった。

防衛大学校の山口晴幸教授の調査によるもので、どこから漂着したか判別できたゴミのうち、中国製は平成10年には138個だったが、19年には13・3倍の1839個に急増。台湾製2・8倍、韓国製3・0倍よりも増加ぶりが際立つ。>産経ニュース 2008.2.14 00:37

この記事を読んで、今から36年前、日中国交再開に伴ってやってきた中国からの外交団が東京のホテルで絨毯の上に盛んに唾を吐くので関係者が顔をしかめていたのを思い出した。日本に流れ着くゴミは中国が吐く国家的な唾である。


外交団と言えば礼儀正しく綺麗好きと思われ勝ち。彼らは国交再開の伴い都内に大使館を開くためにやってきて、ホテル・ニューオータニに投宿した。

ところが部屋ではベットのスプリングが効き過ぎて安眠できないと騒いで一斉にマットを外させた。なんとなく理解できたが、部屋を出ると絨毯の上に「カーツ、ペツ」と唾を吐く。外交官出身の社長は困り果てていた。

それから6年経って、日中平和友好条約の締結交渉団に外相秘書官として参加。人民大会堂での会談でのあらゆる中国側の足元においてある壷。なんだろうと聞いたら痰壷だという。外交の会談中に中国要人は痰を吐くのか。

中国人の説明によると中国上空には年中、黄砂が飛んでいて人間の口に飛び込んでくる。それを吐き出すためにカーツ、ペツとやらざるを得ないのだという。

黄砂・黄沙とは広辞苑によれば「中国大陸北西部で黄色の砂塵が天空を覆い、下降する現象。3〜5月頃に多い、とある。それを吐き出しているうちに唾を吐く、処構わず吐くことが中国人の癖になったのでは無いか。

何にしたって邪魔なもの、始末に困るものは何時でも何処でも処構わず吐き出すというのが中国人の特徴になっている。それが産業廃棄物であり排水であり公害であり、それがどこの国に流れて誰を汚そうが痛めつけようが知ったことではない、と言う事ではないか。

<中国の平成19年のGDP(国内総生産)は11・4%増と年率2ケタ成長を続ける。沿岸部を中心に消費も拡大しているが、ゴミの廃棄についての整備が追いつかず、そのまま海に捨てられているのが現実のようだ。

調査結果をまとめた山口教授は「中国では大半の人が漂流、漂着ゴミの実態を知らないはず。日本からこうした実態を情報発信していくとともに、政府レベルで海への不法投棄などの取り締まりを働きかける必要がある」と指摘している。>産経ニュース 2008.2.14



2008年02月13日

◆ケ(トウ)小平の沈黙

                  渡部亮次郎

<中国共産党中央規律検査委第一書記の陳雲氏ら保守派は1985年6月、項南福建省書記(肩書は当時)が、金もうけのために国民の健康を危険にさらす偽薬まで作る郷鎮企業を野放しにした−と攻撃した。真の標的はトウ小平氏であり、改革・開放だった。

陳雲氏は、「資本主義の道を歩む自由派」項南氏の解任を要求したが、胡耀邦(こようほう)総書記は「項南書記に直接の責任はない」とかばった。党中央の現地調査でも、偽薬による健康被害はないとしていた。

しかし、項南氏は間もなく解任されてしまう。項氏はこれに不服で、トウ小平氏に直訴状を送ったが、トウ氏からの返事はなかった。トウ氏は保守派の意図を察知し、項南氏を犠牲にせざるを得なかったとみられている。

(だから)「項南伝」によると、86年9月、項南氏は、「晋江偽薬事件」に関する中央規律検査委の「判決」が公表された直後、トウ小平氏の長男、トウ樸方(ぼくほう)氏の訪問を受ける。トウ小平氏の指示で、慰問に行ったのだ。

この数カ月後の87年1月、胡耀邦総書記も解任された。>「トウ小平秘録」(産経新聞2008・02・09)

これも同じ理由からである。保守派から自分の身を守るためには、自分の分身を平気で斬る、これが資本共産主義中国最高実力者の最終哲学であった。

胡耀邦が辞任を強要されたのは1月16日の政治局拡大会議である。罪状は集団指導原則に対する違反と政治原則問題での誤り、つまり「ブルジョア自由化」に寛容だったため、さらには1983年11月に訪日、中曽根康弘首相と会談で独断で日本の青年3千人を招待したことも挙げられた。

11月には胡耀邦の後任として趙紫陽が総書記に選出された。失脚後の胡耀邦は会議等でもほとんど発言しなかったといわれる。11月、胡耀邦の後任総書記になったのは趙紫陽だった。

山崎豊子の代表作の一つである、「大地の子」執筆の際に胡耀邦が全面協力を行い、閉鎖的な中国政府各方面に取材に応じるよう指示を行ったエピソードもある。(出典 文春文庫「大地の子と私」)

1983年11月の中曽根康弘首相と首脳会談、友好関係を築く。この時の日中首脳会談で『日中友好21世紀委員会』の設立に合意。
このとき、背丈の低い胡を都内で見た。それが見納めだった。

これに先立って胡は1978年12月の11期三中全会以後、ケ小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、1980年9月、党主席・首相だった華国鋒は経済政策や文革への姿勢などを批判されて首相を辞任。

その後継に趙紫陽が就任していたが、さらに81年6月に華が党主席も辞任すると、胡耀邦が党主席に就任した。この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」とケ小平が語るほどの信任を受けていた。

1982年9月には党規約改正によって党主席制が廃止されて総書記制が導入されると、党トップの総書記に就任し、改革開放路線と自由化路線を打ち出した。

この頃、胡啓立(政治局常務委員)ら、胡耀邦を中心とした共青団グループが改革派として活躍。(現総書記の胡錦涛も胡耀邦に連なる共青団出身である)。1986年5月には「百花斉放・百家争鳴」(双百)を再提唱して言論の自由化を推進した。

しかし、9月の六中全会では、胡の政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡は保守派、長老グループらの批判の矢面にさらされ辞任に追い込まれて行った。

その2年後、第2次天安門事件が起き、趙紫陽も哀れをとどめる事になる。トウがまたも分身を見捨てるからである。1989年4月15日に胡耀邦が心筋梗塞のため死去。

胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、六四天安門事件へと発展した。

ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言をしたことで、ケ小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚したのだ。

それにしても胡耀邦は国民から愛された開明的指導者だった。長老・保守グループの批判、さらにはケ小平の政治的引き締めの要求にも応じなかったため最後は解任されたが、中華人民共和国はその大きなツケを天安門事件として支払うことになった。


2008年02月11日

◆「の」に賭けた初入閣

渡部亮次郎

建国記念「の」日が初めて施行された昭和42(1967)年2月11日。その時園田直(すなお、故人)は衆院議員当選既に9回なのに未入閣で衆院副議長のまま。しかも4日後に副議長に再選と言う椿事。

だが佐藤栄作首相は、園田の異能ぶりに感服していた。忘れずにこの年の11月25日に行った第2次内閣の第1次改造で厚生大臣に抜擢した。園田は53歳の初入閣だった。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。

紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。

この紀元節は、1948年(昭和23年)(連合国による占領下)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

しかし独立を果たす1951(昭和26)年頃になると紀元節復活の動きが見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

とはいえ、当時野党第1党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。

1957年8月2日、神社本庁、生長の家、郷友会、不二歌道会、修養団、新日本協議会などの右翼団体は紀元節奉祝会(会長:木村篤太郎)を結成して推進を画策した。

しかし、その後9回、法案提出と廃案を繰り返しただけだった。これに目を付けたのが1965(昭和40)年12月20日、第45代衆院副議長に選出された熊本県天草選出の園田直だった。

社会党国対委員長石橋政嗣(まさし=長崎選出}と密かに手を組み、建国記念「の」日にして「2月11日」を国会ではなく政令で定めるなら反対しないと言う妥協案を創り上げた。

名称に「の」を挿入して「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正したのである。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定めた。

建国記念日審議会は、「粋人」菅原通済を会長に学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が同年12月9日に提出された。

同日、「建国記念の日は、2月11日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を公布、即日施行した。当に「の」が自民、社会両党の妥協を成立させた。

また佐藤内閣にとっては実兄の岸信介内閣以来、歴代内閣の成しえなかった事実上の紀元節復活を成し遂げたのであった。この「の」という奇策への「回答」が園田の初入閣だったのである。

私はこうした経緯を当時NHK政治記者としてつぶさに取材。園田の頭の良さにつくづく惚れた。彼が特攻隊生き残りである事も知って尊敬した。そうした事が後に私を外務大臣園田直の秘書官にした理由である。2008・2・10

2008年02月10日

◆江沢民は敬虔な仏教徒

                 渡部亮次郎

2008年1月30日から連載が再開された産経新聞中国総局長伊藤正氏による『ケ(とう)小平秘録』は2月8日付で、毛沢東時代「自力更生」のモデルとされた大寨(だいさい)のその後を報じ、関連して「江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている」と書いた。

<超有名人の郭鳳蓮(かくほうれん)氏は豊富な人脈を活用して内外から資金を集め、大寨ブランドの酒造工場、セメント工場など企業を次々に設立、炭鉱経営にも手を伸ばした。

化学肥料工場などを経営する郭氏の長男、賈小軍(かしょうぐん)氏は昨年、話題を呼んだ。3000万元{4億5000万円9を投じ、かつて「共産主義の桃源郷」と呼ばれた大寨に敷地約1万平方メートルの仏教寺院「普楽寺」を建立したためだ。

賈氏は敬虔(けいけん)な仏教徒で、解放後すべて破壊された寺の再建が夢だったという。これに対し「毛主席にわびろ」といった非難がネット上で浴びせられた。毛沢東は宗教を「精神の麻薬」として徹底的に弾圧した。

しかし、拝金主義を生んだ改革・開放が進み、豊かさが実現するにつれ、各種の宗教が全国で広まった。江沢民(こうたくみん)前国家主席夫妻も敬虔な仏教徒だといわれている。

大寨でも1991年以降、20人余の村民が仏門に帰依したという(中国誌「中国新聞週刊」)。

文革批判が起こった70年代末、「毛沢東」が地に落ち、信仰の危機が訪れた。今はどうか。改革・開放で豊かになったものの、共産党も、党が唱える社会主義も信仰の対象ではなく、人びとは精神のよりどころを失った。

大寨の土産店では観音菩薩(ぼさつ)の絵とともに毛沢東の肖像画が売られていた。それは、中国人の現在の心象を象徴しているように見えた>(伊藤正、矢板明夫)

クレア海外通信(海外事務所だより)北京事務所 「中国の宗教事情」によれば、1954年の憲法でも、公民は宗教信仰の自由を持つと規定されていたが、毛沢東死(1976年)後の1982年の第5期全国人民代表大会第5回会議で憲法が全面的に改正され、次のように「信教の自由を有する」と規定されている。

「(第36条)中華人民共和国の国民は、信教の自由を有する。
いかなる国家機関・社会団体または個人も、国民に宗教の信仰または宗教の不信仰を強制してはならず、宗教を信仰する国民と宗教を信仰しない国民を差別してはならない。

国家は、正常な宗教活動を保護する。いかなる人も、宗教を利用して社会秩序を破壊し、国民の身体・健康を損ない、国家の教育制度を妨害するなどの活動を行うことはできない。 宗教団体と宗教事務は、外国の勢力による支配を受けない」

共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教とみなすがゆえに、他のいかなる精神世界も決定的に否定する。国民を信者と非信者に分け、異端を破門にしたり極刑に処する。伝道者として、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト、チャウセスク他がいる。

田中角栄首相による日中国交正常化(1972年)当時は毛沢東が存命、トウ小平は失脚中だったから宗教はタブー、麻雀すら禁止だった。

しかし1980年代以降になると、トウ小平による改革開放に伴い、民衆の宗教信仰心が抑圧された過去に反発する形で甦った。それに政府の宗教保護政策もこれらを支えているため、現在、中国の宗教信仰政策は種々の問題を抱えている。

最近の例では、1999年7月、新興気功集団「法輪功」に対し、中国政府は「迷信や邪説を流布して民衆をだまし、騒ぎを起こして社会の安定を破壊した」と断定、違法組織と認定し、一切の活動を事実上禁止した。

(注)気功は、古来から心身両面の養生法とされ、改革開放政策が進んだ1980年代以降、国がスポーツとして奨励したこともあり、都市の中高年層を中心に広まった。

「法輪功」は、仏教的要素を取り入れた新興気功集団で、創始者の李氏が1992年から活動を始め、日本など約20か国に組織がある。会員数は数千万と称しているが、中国政府は200万人と発表している。

中国は多宗教国家で、仏教、道教、イスラム教、キリスト教の4教を主要宗教とし、宗教信者は1億人余り、宗教活動場所85,000か所、宗教団体3,000余りである。

民族的には全国の55の少数民族が中国全体の信徒の大半を占めており、その居住地域の面積は全国の半分を占めている。

その主な信仰宗教は、仏教(朝鮮族)、ラマ教(チベット族、モンゴル族)、南仏教(タイ族)、道教(ヤオ族)、キリスト教(苗族、朝鮮族)、回教(回族、ウイグル族、カザフ族)、シャーマン(満州族、ホチョ族)である。

宗教の長期の存在を認め、社会主義と宗教の協調を探りつつ、宗教を効果的に現代化の建設に貢献させようとする点は、今後の宗教政策の大きな課題である。

特に法輪功は弾圧の強化に比例するように拡大化していると共に共産党員の脱党運動を展開し、2008年2月8日現在の脱党者数を32,007,044と発表している。今後大きな障害になるだろう。2008・02・08

参考:クレア海外通信(海外事務所だより)|北京事務所 |中国の宗教事情
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/jimusyo/123PEKIN/INDEX.HTM#top

2008年02月09日

◆真鱈のざっぱ汁

渡部亮次郎

真鱈マダラ Pacific Cod は、タラ目・タラ科に分類される魚の一種。北
太平洋に広く分布する大型のタラで、重要な漁業資源となっている。日
本では他にタラ、ホンダラなどとも呼ばれる。

成魚は全長1mを超える大型魚である。体色は褐色で、背中側にまだら模
様がある。スケトウダラやコマイと同様、下顎には1本のひげがあり、背
びれが3つ、尻びれが2つに分かれる。

マダラは日本に分布するタラ類3種の中では最大種である。上顎が下顎よ
り前に出ていて、体側にまだら模様がある。また、頭身が小さく、腹部
が大きく膨らむ。

我々秋田県人は真鱈の身は食べない。頭と内臓だけを塩味の鍋にして食
べる。丸太から四角い柱をとった残りを秋田弁ではざっぱ、津軽弁では
じゃっぱというので、この鍋料理を秋田弁ではざっぱ汁、津軽弁ではじ
ゃっぱ汁と言って珍重する。冬、最高の楽しみである。

煮えたぎった大き目の鍋に荒塩を入れ、そこへ真鱈の頭と内臓を小分けし
てぶち込む。葱、豆腐、白菜を加えてお終い。生姜を利かせたほうが生
臭みを消して美味となる。

いうなれば秋田では下層階級の冬の馳走だが、裕福な家庭に育った友人
たちも「身は要らない」とざっぱをしゃぶる事に専念する。大きな椀で
お代わりを6杯もした人もいる。

今年は都合で2月初めになったが、故郷にいる友人が祝いに「鉈漬け」
を送ってくれる。大根を切れの良くない鉈で削って塩と麹で漬け込む秋
田漬。東京で漬けても気温が高くて酸っぱくなるだけ。秋田で無いと美
味くない。お陰で6人で日本酒を4升も呑んだ。

ところで真鱈は黄海、日本海、東北地方以北の太平洋岸、北はベーリン
グ海、東はカリフォルニア州まで北太平洋に広く分布する。

沿岸から大陸棚斜面の底近くに生息する。夏は深場に移り、水深800mく
らいの深海にも生息するが、冬は浅場に移動して来る。食性は肉食性で、
貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する。産卵期
には十分脂が載っているから美味い。

秋田、津軽や北海道周辺海域での産卵期は12月〜3月で、分離沈性卵を産
卵する。産卵前は雄雌共に脂が乗っている。1匹のメスの産卵数は数十万
〜数百万個に及び、これは魚類の中でも多い部類に入るが、成長できる
のはごくわずかである。

稚魚は1年で全長20cmほどに成長するが、この頃までは沿岸の浅場で生活
し、以後体が大きくなるにつれて深場へ移動する。

旬は冬で、底引き網、定置網、延縄、釣りなどで漁獲される。20世紀後
半頃からは輸入ものが多く流通している。

身は柔らかく脂肪の多い白身で、ソテーやムニエル、フライなどの他、
汁物や鍋料理にもよく使用される。身を干物にした「棒鱈」(ぼうだら)
も様々な料理に使われる。生のものを料理する際は傷みが早いことと身
が柔らかいことに注意する必要がある。

また、白子(しらこ)と呼ばれる精巣もこってりとした味で珍重され、
流通する際はメスよりオスの方に高い値がつく。白子は「キク」「キク
コ」などとも呼ばれるが、これは房状になった外見がキクの花に似るた
めである。秋田では「だだみ」と称して高値を呼ぶ。

北海道では「タチ」(マダラは真ダチ、スケソウダラは助ダチ)とも呼
ばれ、新鮮なものが寿司ねたなどで生食されている。

マダラのたらこ(卵巣)はスケトウダラよりも硬いが、未熟なものは柔
らかくスケトウダラよりも大型でボリュームがあるため、煮付けや焼き
物にすると美味である。北陸地方では「真子(まこ)」と呼ばれ良く食
される。

他にも肝臓から取り出した脂肪は肝油に用いられる。

チャンジャマダラやスケトウダラの胃を唐辛子などの香辛料、砂糖、塩
などに漬け込んだものをチャンジャといい、コリコリとした食感を楽し
む。もとは韓国の食材だが日本でも売られるようになった。

真鱈の 陸揚げ漁港(2002年度)
第1位 - 石巻漁港(宮城県)
第2位 - 歯舞漁港(北海道)
第3位 - 羅臼漁港(北海道)
第4位 - 八戸漁港(青森県)
第5位 - 女川漁港(宮城県)

資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』