2007年07月06日

◆古関裕而は大天才


                          渡部亮次郎

友人宅でTVニュースを見るとも無く見ていたら(2007・07・04)NHKが早稲田大学の校歌「都の西北」の作曲(日本人)に欧米の既存曲模倣が見られると放送していた。今年100年を迎えた曲だそうだ。

ところで早稲田のもう1つ有名な歌が応援歌「紺碧の空」だが、この作曲者と、ライバル校慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲者は同一人物「古関裕而・こせきゆうじ」である。

ついでに阪神タイガースの歌「六甲颪・ろっこうおろし」と好ライバル巨人軍の歌「闘魂込めて」の作曲者も同じく古関裕而。中日「ドラゴンズの歌」も古関である。

NHKに至っては今に残るテーマ曲の実に多くが古関の手になる。
1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「スポーツショー行進曲」
970年 NHK「日曜名作座」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「昼のいこい」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)
NHK「教育テレビ放送終了」テーマ曲
NHKラジオ「今週の明星」

全国の校歌に関しては「福島商業高等学校(古関の母校)校歌」他、300校以上を作曲。

1964年東京オリンピックの行進曲もそうだし全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」も古関の作曲だ。しかも彼は音楽は独学、商業学校しか出ていないとなれば天才以外の何者でもなかったというしかない。否、大天才だったのだ。

1935年(昭和10)、『船頭可愛や』が大ヒット。この歌は音丸のほか世界の舞台でも活躍した三浦環もレコードに吹込んだ。声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。この頃から同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

戦時中は戦時歌謡で数々の名作を残す。決して戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律が大衆の心の奥底に響き、支持された。

戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。

1931年「紺碧の空〜早稲田大学応援歌〜」(作詞:住治男)
    「我ぞ覇者〜慶應義塾大学応援歌〜」(作詞:藤浦洸)が出来るのは1970年だが。

1935年「船頭可愛いや」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1935年「東京農業大学カレッジソング」(作詞:吉田精一)
1936年「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴) 昭和11年である。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中戦争の始まり。歌にも戦時色が濃くなって行く。古関も戦時歌謡と称する軍歌を作らされる。つくれば天才だから名曲が出来た。

1937年「露営の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章)
1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子)この歌は、日本放送協会の依頼で作曲したもの。戦後のラジオ歌謡に当たる国民歌謡として放送された美しい長調のワルツ。

清らかなメロディーは多くの人に愛された。兵士を通じて東南アジアの人々に伝わり、特にインドネシアでは現地の歌詞がつけられ現在でも歌われている。故スカルノ大統領の愛唱歌だった事は有名。

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2007年07月05日

◆福田に派内の人気なし


渡部亮次郎

夕刊フジ紙(2007・7・5付)によると9ヶ月前の自民党総裁選で派内の人気不足を理由に立候補を見送った福田康夫氏が安倍後継に顔を出したが、町村派(旧福田赳夫派)では中堅若手から『絶対に認めない』と声が上がった、という。

それなのに「反安倍勢力」の山崎拓元副総裁や加藤紘一元幹事長らが推す動きがある、と夕刊フジは読んでいる。

<公示を約1週間後(12日)に控えた参院選で、安倍自民党の情勢は非常に厳しい。久間暴言の影響もあり、「38議席から36議席もあり得る」(同)という危機的数字がささやかれ始めた。

(そうなれば)かつて宇野内閣は参院選で36議席、橋本内閣は44議席しか獲得できず退陣に追い込まれており、参院選後の安倍退陣も現実味を帯びてきたのだ。

現時点で「ポスト安倍」の有力候補として名前が浮上しているのは、麻生太郎外相、福田康夫元官房長官、谷垣禎一前財務相、中川昭一政調会長の4人。>といつの間にか福田氏が復活している。

<だが、麻生氏は総裁選立候補に必要な推薦人数(20人)に満たない小派閥(15人)の領袖なうえ、小泉、安倍両政権で党・内閣の要職を務めてきた。「安倍退陣」なら、「共同責任」を問われる可能性もある>。

麻生氏は同じ九州出身の立場から派閥は違うものの辞めた久間氏を強力な助っ人として視野に入れてきた。事態が急変し、出直しである。

一方<福田氏は約1年前、「ポスト小泉」の有力候補として去就が注目されたが、同じ派閥(現町村派)の安倍首相が手を挙げたこともあり、総裁選出馬を見送った。

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◆老化は熟成でもある



                     渡部亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

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2007年07月02日

◆ネオコンよいずこ

                      渡部亮次郎

ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補の国際連合大使 辞任に次ぐポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、元国防副長官の世界銀行総裁更迭で、いわゆるネオコンのブッシュ政権からの退却にはカタが付いたのではないか。

彼らネオコンは自ら「ウルカヌス」と称するブッシュ側近を自らの思想でいわば染めようと試みたが、結果は悉く失敗し、ブッシュはいまや典型的なレームダックの老醜を曝している。

但しネオコンそのものは消えるわけではない。厳然として存在し続けるはずである。専門家である学習院女子大学教授の畠山圭一氏は
指摘する。

「フセイン政権崩壊の段階で、ラムズフェルド国防長官やネオコン派の役割は事実上終わっていたと見てよい。ネオコンの位置づけははっきりと変わっている。2年前から。

まだ副大統領チェイニー辞任の可能性も残ってはいるが、政権内ではほぼカタが付いたといえる。だがネオコンの消滅と考えるのは早計。ネオコンの立場からは、あくまでも路線変更ということではないか。フランシス・フクヤマの新著が何よりもそのことを示唆している」。

ネオコンとはアメリカ合衆国における新保守主義(しんほしゅしゅぎ、英:neoconservatism:ネオコンサバティズム、略称:ネオコン)は、保守ムーブメントのひとつ。米国において、ブッシュのタカ派外交政策姿勢に非常に影響を与えて来た。

ネオコンとされている有名な思想家・政治家。

エリオット・アダムス (w:Elliott Abrams)
リンダ・チャヴェズ w:Linda Chavez
リチャード・チェイニー (w:Richard Cheney)、米国副大統領、前国防長官、前ハリバートン会長 リン・チェイニー (w:Lynne Cheney)、チェイニー副大統領夫人、反ネオコン学者の評論家 ジョン・コーニン (w:John Cornyn)、共和党上院議員、元テキサス州司法長官 ダグラス・ファイス (w:Douglas Feith)、前国防次官 デーヴィド・フルーム (w:David Frum) カナダ出身の記者、「悪の枢軸」のことばを発言 フランシス・フクヤマ (w:Francis Fukuyama)、

『歴史の終わり』の筆者、大統領の生物倫理委員会の会員 後にイラク戦争の誤りを認め転向 クリストファー・ヒチェンズ (w:Christopher Hitchens), イギリス出身の解説者 サミュエル・ハンチントン (w:Samuel Huntington)、『文明の衝突』の筆者 アーヴィング・クリストル (w:Irving Kristol)
マイケル・レディーン (w:Michael Ledeen)
ルイス・リビ (w:I. Lewis Libby)
フィリップ・メリル (w:Philip Merrill)、輸出入銀行会長
リチャード・パール (w:Richard Perle)、国家防衛政策委員長

ノーマン・ポドレツ (w:Norman Podhoretz)
ロナルド・ロトゥンダ (w:Ronald D. Rotunda)、ジョージ・メーソン大学法学教授 ポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、世界銀行総裁 元国防副長官 ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補、元国際連合大使 マイケル・ノヴァック(Michael Novak)、研究者
ピーター・バーガー(Peter Berger)、研究者

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2007年07月01日

◆さくらんぼで焼酎


       渡部亮次郎

秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたので昨夜、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるかも知れない。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

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2007年06月30日

◆宮沢喜一元首相が死去



          渡部亮次郎


<「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派と
して知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、
老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。

通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から東京都港区南青山2
の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻の庸子(ようこ)さん。自宅は東京
都渋谷区神宮前6の34の1。Asahi Com >2007年 06月28日19時31分

この夜、東京・内幸町の日本記者クラブのレストランでご逝去を知らされ
たが、失礼ながら、何の感慨も浮かばなかった。政治家に転進すること
なく、行政官に徹した方が幸せだったのではなかろうか、と思った。

特に田中角栄元総理が、早くから宮沢のこととなると、火が付いたよう
に「宮沢だけは総理大臣にしてはいかん」と叫んだことを思い出す。そ
れは子分の竹下登を総理にしたくない感情とは全く別で、心底、思って
いるのがよく分かった。

私は宮沢に1度、インタビューしたことがある。面白くも可笑しくも無か
ったが、質問には実に正確に答え、破目の外れる事は1度もなかった。し
かし、それ故にハプニングは1度も無く,面白味の全く無いインタビュー
だった。

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2007年06月28日

◆連結器外された安倍外交


                 渡部亮次郎

言わないこっちゃない。米国通の共同通信OB松尾文夫産後指摘の通り、北朝鮮の核問題デ、アメリカは苦しさのあまり、安倍政権とは連結器を繋がないまま独走しようとしている。置いてけ堀。

6月27日14時24分配信 読売新聞によれば、
<安倍首相が米中韓朝会合に強い不快感を表明した。これは安倍首相が27日昼、都内のニッポン放送で行われたラジオ番組の収録で、演出家のテリー伊藤さんと対談した際に述べたもの。

北朝鮮の核問題について、「日本が外れた6か国協議はありえない。(北朝鮮は)いろいろな策謀をめぐらして、日米、日中の分断を図ってくるが、彼らの策謀にはまってはいけない」と厳しく指摘した。

6か国協議参加国のうち米国、中国、韓国、北朝鮮の4か国が、朝鮮戦争の休戦協定に代わる朝鮮半島の恒久的和平体制を協議する会合を開こうとしていることに強い不快感を表明したものだ。

会合開催の検討は、6か国協議の米首席代表クリストファー・ヒル国務次官補が表明した>。

この点について渡部亮次郎のメイルマガジン「頂門の一針」848号
(07・06・26)は元共同通信社常務理事古澤襄(のぼる)氏の「米国の『敵前逃亡』?」を掲げて厳しく警告した。その結果がこれである。

古澤氏によれば、松尾氏は次のように指摘して、ブッシュ政権の変わり身を早くから指摘していた。それなのに日本外務省は何の疑問も抱かずに唯々諾々とアメリカを盲信してきた。もはや遅いかも知れない。

「アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失った。

ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった・・・と松尾氏は言いきった。

1月の時点で、米外交の転換をここまではっきり指摘した分析は出ていない。しかも拉致問題についても安倍首相は、アメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない、と松尾氏は厳しい指摘をした。(古澤氏)

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2007年06月27日

◆朝鮮戦争を知らぬ世代

<お詫びー本稿は、6月25日に著者・渡部亮次郎氏から送稿されたものですが、私毛馬一三の都合で掲載が今日まで遅れました。渡部氏に対し深くお詫びいたします。>・主宰 毛馬一三

                         

    渡部亮次郎

今から57年前の1950(昭和25)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。

当時、日本にはまだテレビがなく、私(中学3年生)たち子供は開戦の事実を知らないまま年月は去った。

あれからもう57年が経った。団塊の世代を含む以後の世代は朝鮮戦争を殆ど知らない。だが、あの戦争こそはアジアを舞台にした米ソ対立惨禍であり、依然、北朝鮮がアジアの火薬庫にしておく源淵である。

あの日は日曜だった。しかも韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間たってからであった。

しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、米との協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。北朝鮮軍は3日後の28日には韓国の首都ソウルを占領した。

こうした事態に対して国連は、侵攻2週間後の7月7日に招集した安保理で「米国による国連軍指揮」を認め、日本統治に当っているマッカーサー元帥が国連軍司令官に任命された。

一旦、南に追い詰められた国連軍は9月15日、仁川上陸作戦に成功、以後、反撃に転じた。

日本の国内では臨戦態勢が敷かれ、共産党首脳部の公職追放、警察予備隊の設置(自衛隊の前身)、軍事基地の強化などが実施され、米軍の前進基地としての役割が実証された。この事実はのちの日米安保条約の下敷きになった。

当然、日本は敗戦からまだ独立していない時期だったが、朝鮮戦争特需が起こり経済再建が急速に推進された。韓国要人に会うと「韓国の犠牲の下、日本は発展した」と真面目に揶揄されたものだ。

当初の韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かった。

これに対し韓国軍は建国(1948年8月13日)後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。

また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったものの軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。

その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなったのだった。

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◆戦没先輩を偲んだ・・・


渡部亮次郎

学校の創立記念事業にはいろいろある。私の県立秋田高校は前身秋田中学校の始まりが1873(明治6)年9月1日だからこの秋で創立134年を迎える。

私たちが卒業した時は80周年だったので、秋田県記念館で日本舞踊家五條珠実の舞踊披露が記念行事の1つだった。

先輩の大流行歌手東海林太郎(しょうじ たろう)が存命中だったから、彼の公演を希望したが、届かなかった。尤も地元では彼はアカ(共産主義者)と思われていたので、それでかもしれない。

話は九州に飛ぶ。その昔、福岡県立中学修猷館(しゅうゆうかん)の寄宿舎の一部を仮校舎として開校した県立福岡高等学校が、平成19年6月9日に創立90周年記念式典を挙行した。ここまではどこにでもある話。

福岡高校の男女生徒たちは昭和20年4月、海軍航空隊攻撃機の機長として散った大先輩の遺徳を詩や短歌に詠み、それをもう1人の先輩の声楽家に歌っていただき、CD4000枚と歌曲集(楽譜)3000部を
先輩や関係者に配布したのだ。

「誰よりも 愛すべき人よりも なお 国を愛して 逝きし人かな」

「願わくは 時空をこえて 語りたい 白き心は くちなしの花」

74歳の現役バリトン歌手山本健二さんが朗々としかし、しんみりと歌った。

歌われた話題の主は大東亜戦争で学徒出陣し24歳で散った故宅島徳光さん。福岡高校(当時はまだ福岡中学校)から慶応大学に進んだが、戦況の悪化に伴って断行された学徒出陣で海軍航空隊に入り、終戦直前の昭和20年4月9日、宮城県の松島基地から出撃したまま、金華山沖上空で不帰の人となった。

生前に残していた「青春の記録」は一部は既に戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」に収録されているが、遺族は「記録」の全部を昭和36(1961)年に「くちなしの花」として自費出版した。

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2007年06月26日

◆スーパースパイの末路


                    渡部亮次郎

1985(昭和60)年、中国国家安全部対米国情報工作の当時の総責任者、北米情報司の司長、外事局の主任だった兪強生は、米国に政治亡命した。兪強生が政治亡命した動機は不明だが、両親が受けた迫害と関連していると見られる。

兪強生の父親は、中国共産党の最高指導部のメンバーで、共産党の政権確立後、天津市の初代市長を務めた黄敬(本名、兪啓威)。その母親範瑾も、北京市副市長や共産党機関紙「北京日報」の社長などを務めていた。

ところが1960年代に始まった「文化大革命」で、両親がともに「粛清」の対象となり、迫害を受け、父親が死亡、母親も危うく命を落とすところだった。

この中共の北米情報司司長が米国政府に亡命した際、金無怠という「1981年に定年退職するまでに、CIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた人物」。その金無怠が実は対米スパイだという証拠を兪強生は手土産として米当局に提供した。

その直後に、FBI(米国連邦調査局)が金無怠を逮捕、中国当局のスパイとして起訴した。

金無怠は1922(大正11)年北京生まれで、燕京大学新聞学部を卒業、1938(昭和13)年に駐上海米国領事館の通訳となったが、一方で1944(昭和19)年に当時の周恩来首相に認められ、中共のスパイとなった。もちろん米国側には極秘である。

1949(昭和24)年、駐香港の米国総領事館に転勤、1952(昭和27)年に米国中央情報局(CIA)に配属され沖縄でCIAの対外国ラジオ情報機構に在籍していた。

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2007年06月24日

◆3度の失脚と復活


                        渡部亮次郎

ご承知の如く私は中国については国交回復のとき、記者として田中総理に同行し、6年後は福田内閣の外務大臣園田直の秘書官として日中平和友好条約の締結に関与した。

振り返って日中関係の主人公は中国では毛沢東主席であり周恩来総理だったが、隠れたる主役がトウ(ケ)小平だったと思う。だから産経新聞連載中の「トウ小平秘録」を夢中で読みながら、彼に生涯初めて厭がる鮪の刺身を食べさせたことなどを思い出している。

周恩来は日本に留学するがトウは16歳でフランスにわたる。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。

1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。
しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うケ小平を失脚させる。これが生涯3度の失脚の1回目。

ケ小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗(数千万人の餓死者)以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、共産党総書記となっていたケ小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。これが2度目の失脚。

そこでは政治とはまったく無関係なトラクター工場や農場での労働に従事した。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、ケ小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、一命を取りとめた。トウ氏はせっせと毛沢東に助命嘆願の手紙を書き続けた。

1972(昭和47)年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉に同行取材したとき、トウ小平の名は誰の口からも出なかった。出せば毛沢東の怒りに触れ、命を失うかもしれないから当然だった。

漸く1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰する。73年4月、カンボジアのシアヌーク訪中レセプションで副総理の肩書きで出席して2度目の復活がわかった。

しかし1976年4月には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚。毛沢東夫人江青らの陰謀だったことがのちに分る。

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2007年06月23日

◆張春橋の軟らかな手


                      渡部亮次郎
1972(昭和47)年9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)調印。日中国交回復。その足で田中角栄首相は周恩来首相と共に中国側の特別機で上海を訪問した。今でもそうであるように上海は中国の権勢のもう一つの拠点。敬意を表したのである。

その時、上海を代表して出迎えたのは張春橋であった。経歴を改めてみると1969年〜1973年 中共中央政治局委員となっているが、われわれ同行記者団には「上海市長」と紹介された。握手してくれた手はまことに柔らかく乾いていた。未だにあんな手を握ったことは無い。

そう、張春橋こそは、のちに悪名高い「4人組」の1人だった。毛沢東の指示により張春橋は翌日、上海空港からの見送り客を北京の2倍に増やしたのだった。そこで周恩来は別れ際、田中首相に言った、「天皇陛下によろしく」。私は離れたと頃に置かれたから聞いてないが。

張春橋(ちょうしゅんきょう 1917年〜2005年4月21日)は中国元副首相、4人組の1人。山東省出身。1930年代までは、上海の作家だった。1938年中国共産党に入党。『晋察冀日報』と『新石門日報』の編集長を歴任。
1949年10月の中華人民共和国成立後、『解放日報』の編集長、上海市常任委員、宣伝部部長、上海市書記候補などの役職に就く。

1958年、『破除資産階級法権』を発表、毛沢東に絶賛された。上海で江青と合流し、文化大革命の発動に関わる。そのおかげで出世はヘリコプターのたとえられる。
1966年〜1969年 中共中央文化革命グループ副リーダー
1969年〜1973年 中共中央政治局委員
1973年〜1976年 中共中央政治局常任委員
1975年〜1976年 国務院副首相
1975年〜1976年 中国人民解放軍総政治部主任

<この文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長、毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の4人とそのグループを「4人組」と言った。
文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

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2007年06月19日

◆上海帰りのリル

            渡部亮次郎

第4回 津村謙ふるさと歌謡大会が郷里の富山県入善町で開かれることになり、6月21日締め切りで町役場が出場者を募集している。

<透明感のある美声が“ビロードの歌声”と称賛され、「上海帰りのリル」などのヒット曲で一世を風靡した故津村謙さん。富山県入善町が生んだ戦後歌謡界の大スター、津村さんをしのぶ「第4回津村謙ふるさと歌謡大会」が8月4日、入善コスモホールで開催されます。

大会は、一般参加者が津村さんの曲で歌声を競うのど自慢と、プロによる歌謡ショーの2部形式で行われます。
■ 日時 8月4日A13:00開演
■ 場所 入善コスモホール
■ 料金 2,000円全席指定 6月9日(日)発売

・・・・・出場者を募集します・・・・・

■ 応募方法
申込用紙と津村謙の曲(2題目まで)を録音したテープを下記まで郵送・提出してください。
※テープ審査を通過した20組程度が本大会出場となります。
■ 締め切り
6月21日(金)必着

■ 申し込み・問い合わせ
〒939-0626 入善町入膳3200
入善コスモホール内
「津村謙ふるさと歌謡大会」出場係
TEL. 0765−72−1105
以上は入善町公式サイトから転載。
http://www.town.nyuzen.toyama.jp/welcome/index.htm

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