2007年10月24日

◆太子党(Prince)の未来

                         渡部亮次郎

2007年10月22日の中国共産党第17期中央委員会第1回総会(1中総会)で発足した政治局で共産主義青年団と上海閥と拮抗して進出する結果となったものに「太子党=たいしとう)がある。

太子党とは中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと。太子は英語のPrinceの意味。

党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合がある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子の方が出世した例もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が挙げる代表例として以下の人物がいる。頭に出てくるのが親。

劉少奇―劉源(子:軍事科学院政治委員、中将)
林彪―林立果(子:元空軍作戦部副部長)
ケ小平―ケ樸方(子:中国障害者協進会主席)・ケ榕(子:中露友好協会会長)・ケ楠(子:中国科学技術協会党書記)

葉剣英―葉選平(子:政治協商会議副主席)
李先念―劉亜洲(娘婿:空軍副政治委員、中将)
陳雲―陳元(子:中国国家開発銀行頭取)

江沢民―江沢慧(妹:中国林業科学院院長)・江綿恆(子:中国科学院副院長)・江綿康(子:人民解放軍総政治部組織部部長,少将)
李鵬―李小鵬(子:中国華能集団公司会長)・李小琳(子:中国電力投資集団公司副会長兼中電国際社長)

朱鎔基―朱雲来(子:中国中金公司CEO)
胡錦濤―胡海清(子:新浪CEO夫人)
温家宝―温雲松(子:北京Unihub公司総裁)
薄一波―薄煕来(子:商務部長-政治局員)
習仲勲―習近平(子:浙江省党委書記→上海党書紀―政治局常務委員)

最後に出てきた習近平は父親の仲勲は元副首相だったが、思惑通りに進めば胡錦濤の後を襲って総書記になる。妻は著名な歌手、彭麗媛だ(産経新聞23日付)。

常務委員ではない政治局員の太子党は16人中5人いる。前からいた兪正声に加えて新人4人。李源潮、瀏延東、王岐山、薄煕来である。

李源潮(56)は江蘇省党委書記、瀏延東(61)は党中央統一戦線工作部長、王岐山(59)は北京市長、薄煕来(58)は商務相。前からいる兪正声(62)湖北省党委書記を含めると政治局全体での勢力は4分の1程度となる。

太子党は現役を引退した長老たちと深いつながりを持ち、経済界とのパイプも太く、影響力が強い。中国筋は1中総会の結果、長老勢力が一定の発言力を有する、と指摘している。

ところで、住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト北村豊(きたむら ゆたか)氏の世界鑑測(観測にあらず)北村豊の「中国・キタムタリポート」(2006年11月17日 金曜日)によると、彼らの獲得するご利益(ごりやく)にはものすごいものがある。

<上海市党委員会書記の陳良宇が更迭される直前の2006年9月20日。香港誌「動向」の記者である羅冰が、上海市官界の腐敗について書いた文章に、「上海市の高級幹部230名余の子女は、その95%が金融、不動産、建設請負等の分野で要職にあり、97%が欧米風の庭付き高級住宅に住んでいる」という記述がある。

進学、就職、昇進高級幹部の子女が特権を享受

高級幹部の子女がその特権を享受していることは、決して上海市に限ったものではなく、程度の差はあれ、共産党中央・中央政府をはじめとして、中国全土の省・自治区・直轄市に及んでいる。

ある人物が、実力、目端、上司の引き、コネ、ゴマスリ、前任者の失脚などの巡り合わせによって、幸運にも高級幹部という権力の座に就いたとすれば、まず手がけるのは妻子に対する昇進、優良企業への就職要請、有名大学・高校への裏口入学、次に親族に対する昇進支援、就職斡旋、口利きによる利益誘導などの各種配慮である。

中国人は伝統的に大家族主義であり、一族の団結により外部からの干渉、侵害、侵略を防ぎ、子々孫々までの一族の繁栄を図ってきた。一族の中に優秀な人材がいれば、一族で資金を出し合って学問を身につけさせる。

この結果が吉と出て、その人物が官途に就いて出世すれば、当然の権利として一族全員でこれにぶら下がる。何の能力の無い者でも出世した人物の一族というだけで、あれよあれよという間に然るべき地位を得るから不思議だが、そんなものだと社会が納得して諦めているので、誰も文句は言わない。「泣く子と地頭には勝てない」ので、ひたすら「驕る平家」の凋落を待つことになる。

この大家族主義の伝統は、現在も脈々と続いており、中央政府の高級幹部はもとより、地方政府も高位の幹部から末端の郷・鎮・村の上級幹部までが、その権力に物を言わせて、妻子、兄弟、甥、姪といった一族を少しでも権力に近づけさせ、信頼できる自己の支持層をより厚いものとすることで保身を図っている。

高・中級公務員の収入は既に欧米先進国を上回っている

以前、国務院研究室、中央党校研究室、共産党中央宣伝部、中国社会科学院などの関係部門が共同で作成した調査報告書は、中国の高・中級公務員の収入は既に欧米の先進国の公務員や中産階級の収入を上回っていると述べている。

同報告書によれば、2006年3月末時点で、中国国内で私有財産(海外や香港・マカオにある財産を除く)が、5000万元(約7億5000万円)以上の人数は2万7310人であり、1億元(約15億円)以上の人数が3220人であるという。

驚くべきは、この1億元以上の金持ちには、何と90%以上の2932人もの高級幹部の子女が含まれていて、彼らが所有する資産の合計額は、2兆450億元(約30兆6750億円)以上であるというのである。

さらに、報告書は、中国の金融、外国貿易、国土開発、大型建設工事、証券という5大分野で要職に就いている人の80%から90%が、高級幹部の子女によって占められていると述べている。

それは何故か。言わずもがなの話だが、その理由は、高級幹部特権による子女の有名大学への裏口入学から始まって、有名企業への裏口入社、果ては本人の能力とは関係のない、その親である高級幹部への配慮という形でなされる早い昇進である。>
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061115/113768/

北村豊 1949年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。住友商事入社後、アブダビ、ドバイ、北京、広州の駐在を経て、2004年より現職。中央大学政策文化総合研究所客員研究員。中国環境保護産業協会員、中国消防協会員。

これでも共産主義国家といえるだろうか。封建主義にこそ似ているではないか。中国が時代を遡っているのだとすると、封建主義の次に来るのは再革命が自明のこととなるが。「驕る平家」の凋落を待つものが多数になって江戸幕府はつぶれた。2007・10・23

2007年10月22日

◆百花斉放・百家争鳴

                       渡部亮次郎

毛沢東は生涯、しばしば嘘をついて大衆を油断させ、気を許して近寄ってきたところをふんじばって処刑した。ソ連に見捨てられた時の「自力更生」、文化大革命の「造反有理」もそうだが「百花斉放百家争鳴」は最も悪どい。

「百花斉放」広辞苑にも出てくる。種々の花が一斉に咲きそろう意。科学・文化・芸術活動が自由・活発に行われること。「百家争鳴」は「多くの学者が自由に自説を発表し論争すること」とした上で「1956年に中国政府が百花斉放と併せて提唱したが、その結果、共産党批判が起こったため、反右派闘争に転じた」と解説している。

「ウィキペディア」によれば、1956(昭和31)年、毛沢東は百花斉放・百家争鳴を打ち出し、党批判を奨励した。 「我々は批判を恐れない。なぜなら我々はマルクス主義者であり、真理は我々の側にあるからである」と胸を張った。

しかしいったん批判を許したら、党に対して建設的な意見を具申するのではなく、党を裁判にかける行為が目に付くようになった。

このため、毛沢東は翌年百花斉放・百家争鳴を撤回。党に対して対等な批判を行った者(その多くは知識人)に、党の公式見解に沿った自己批判をさせた。また少なくとも全国で50万人以上を失脚、下放させ、投獄した。

この闘争で国民個々の思想まで国が監督しはじめ、後の大躍進、文化大革命へと突き進んでいく。逆に言えば、反右派闘争までは公務員、資本家を除き社会には比較的自由な空気が存在した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

友人は自らのブログのタイトルを「百家争鳴」としているが、私はこれを見るたびに百花斉放百家争鳴といって不満分子に自由に発言させ、その途端に「反右派闘争」と称して50万人以上を失脚や投獄した毛沢東の「いんちき」を連想して憂鬱になる。

広辞苑と同じ岩波書店の「現代中国事典」(1999年5月20日)によると、毛沢東が唱えた(撒いた餌)「百花斉放百家争鳴」のことは「双百」というそうだ。

それはともかく毛に近い学者の解説によれば、毛は1956年の時点つまり建国僅か6年にして商工業の社会主義的改造が基本的に完成して経済建設が中共の基本中心となった。そこで、この先は知識人の協力が必要となった。

そこで毛はそれまでの知識人の思想改造政策を転換すると明らかにし「民主諸党派との長期共存、相互監督」と「百花斉放・百家争鳴」を党の基本方針とすると発表(1956年4月の政治局拡大会議)。

5月26日には陸定一中央宣伝部長に講演を行わせ「文学芸術活動と科学研究活動において独立思考の自由を持ち言論の自由を持つべきこと」を提唱した。知識人の弱いところを突いたもので、客観的に考えて「罠」である。

文学芸術活動と科学研究活動において独立思考の自由を持ち、というところまでは分かるが、言論の自由を持つべきことを許すというのは行き過ぎである。これでは共産党は生きられない。独裁でなければ生存不可能である。

流石に党副主席の劉少奇は戒めたが毛は調子づいたように翌57年2月「整風運動についての指示」まで出し、党外人士が共産党の官僚主義を批判するよう要請した。

そこまで言うならと知識人は発言しだした。章伯釣民主同盟副主席が「民主諸党派の政治参加を要求して政治設計院」の設置を提唱。儲安平「光明日報」総編集長は共産党の「党の天下」思想を攻撃した。

毛は途端に危機感を募らせ6月には共産党の指導権を攻撃する勢力をブルジョア「右派」と名づけ、徹底的な弾圧を指令。留まらず
「反右派闘争」が開始された。

先の章伯釣なぞは羅隆基と共に章羅同盟の名の下に糾弾され、すべての職務を失った(1年後に一部の職務を回復、64年には第4期全国政務委員)。

毛の百花斉放百家争鳴が反右派闘争に転換した結果、毛の人民内部矛盾論に基づく民主化政策の限界と人民内部矛盾論が持つ欠陥を明らかにした。早い話、人民は手を緩めれば付け上がり、共産党がやっていけなくなる、ことを身にしみて感じたということだ。

だから中国では1960年代から70年代に掛けての文化大革命以降も、民主化・自由化の声が表面化するたびに「双百」が発出される。
トウ小平による1989年6月4日の天安門事件はそれを象徴している。

トウ小平としては自ら下した経済の改革開放路線の結果起きた政治の改革開放要求に応えれば共産党独裁という政治体制そのものが崩壊すると判断したから、平然として人民に銃を向けたのである。

そうした見地からすると今回の17回党大会で政治局のメンバーに多少の異動はあるにせよ政治的民主化の気配は微塵も無いはずである。あれば何かの間違いに過ぎない。2007・10・21

2007年10月20日

◆キャリア廃止は「没」

                       渡部亮次郎

<福田首相がキャリア制度廃止に後ろ向き答弁連発

福田康夫首相と町村信孝官房長官は17日の参院予算委員会で、国家公務員のキャリア制度廃止を柱とした公務員制度改革の流れに後ろ向きの発言を連発した。

「ねじれ国会」という厳しい状況の中で首相は野党への低姿勢に徹しているが、行政改革に抵抗する霞が関(官庁)に対しても配慮をにじませた格好だ。>産経ニュース 2007.10.17 19:32

先代・福田赳夫内閣で共に大臣秘書官として働いた経験からすると康夫総理大臣はキャリア官僚大好き人間。しかも自身、官僚上がりだった父親が呆れるくらい官僚的な性格だ。

康夫氏は男兄弟3人。3人とも早稲田卒業。女の姉妹は2人ともキャリア官僚に嫁いだ。そんな事から判断すると康夫総理大臣はキャリア官僚を無くすことには反対が本心だ。

産経新聞によれば、公務員制度改革をめぐっては政府の懇談会ではキャリア制度は、これまで中央省庁の弊害とされてきたから、これを廃止し、能力重視の採用、人事管理にする方向で一致している。

しかし、17日の参院予算委で福田首相は、キャリア制度の存廃について「決めていません。決めかねる問題だ。民間の場合は業績評価をしやすいが、公務員はできないという根本的な違いがある」と述べ、キャリア制度廃止に慎重な立場をみせた、というのだ。

引退を噂されていた康夫氏を引き戻した最も強力な力は、差別主義者麻生太郎政権誕生をなんとしても阻止したかった元幹事長野中広務氏である。彼が陰に陽に派閥の領袖や森喜朗元首相らを纏めて福田氏を引き戻した。そのキーワードは「元の自民党」であり「反小泉・安倍路線」である。

だとすれば渡辺喜美大臣の作り上げた「キャリア制度の廃止」は小泉・安倍のやった「改革路線」の最たるものであり、「廃止の廃止」こそは新福田政権の嚆矢(はじまり)なのである。

産経新聞によれば、福田首相はまた、内閣府に来年設置される国家公務員の天下り斡旋を一元的に行う「官民人材交流センター」(人材バンク)のあり方に関しても「公務員制度全体を検討している中でどう位置づけるか、しっかりみていく必要がある」と述べ、今後見直しもありうるとの考えを改めて示して私の分析を裏付けた。

<さらに首相は、キャリア官僚の独立行政法人への天下り者数がここ数年で減少している“実績”を強調し「丁寧に(退職官僚の)人生設計をしてあげる必要があるのではないか」とも語った。

一方、町村長官は、政府の公務員制度改革に関する懇談会の最終報告書のとりまとめ時期が、当初の11月から年明けまで2カ月先送りされたことについて「判断の難しい問題。1カ月か2カ月ずれ込んでも大きな問題ではない」「公務員バッシング的な発想でなく、バランスのいい議論をすべきだ」と官僚寄りとも受け取れる答弁をした。

公務員制度見直しなど一連の行革は小泉、安倍内閣で進められてきたが、「福田内閣は摩擦を避けようと霞が関にも低姿勢路線に転換したのではないか」(閣僚経験者)との声も漏れる。>産経ニュース 2007.10.17 19:32

すでに公務員制度見直しなど一連の行革は「没」になったと見るべきだろう。福田内閣が続けば続くほど政治改革は遠くなって行く。小泉氏が理想を本当に持っているなら、やがて「福田打倒」を掲げて再登場しなければならないが、無理だろう。2007・10・18


2007年10月19日

◆忍び寄る耐性菌

                       渡部亮次郎

<耐性菌で死者1万8千人超 05年に、米保健当局推計

代表的な抗生物質が効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に全米で2005年に感染したのは約9万4000人で、そのうち約1万8600人が死亡したとの推計を米疾病対策センター(CDC)がまとめ、米医師会雑誌(電子版)に16日発表した。

日本を含め先進国で感染拡大が問題になっている薬剤耐性菌での推計は全米で初めて。医療関係者は「05年の米国内のエイズ感染による死者数約1万7000人を上回る」と警戒を強めている。>(ワシントン=共同)2007.10.17

感染は人口10万人当たり31・8人、死者は同6・3人となった。院内感染を含め、医療施設での感染が約85%を占め、病院外で広がる「市中型」も約15%あった、という発表である。街を歩いていて感染する事もあるということだ。

85%が院内感染とは当然だろう。なぜなら病院こそは病気のデパート。様々な病気、知らないうちに知らない黴菌に感染している人々が集まっている場所なのだから。

CDCの担当者は「MRSAの蔓延(まんえん)は予想以上であり、病院など医療施設は感染防止をより重視すべきだ」と指摘している。

他人事(人事)ではない。このため永年の親友を亡くしたのである。
山崎康正君。2007年6月1日に死去。NHK記者を都合で途中退職。何の伝手も無いのにニューヨークへ渡ったにも拘らず、フリーのジャーナリストとして成功。

NHKのラジオ深夜便にも時折、現地から電話出演。その功績でNHKから会長賞を受けて笑っていた。真面目に働いていた時は何の沙汰も無かったのに、辞めて何年も経ってから出演者として表彰を受けるとは、と笑っていた。

ニューヨーク滞在20年。JALの旅客乗務員だった夫人とは2人の子供をもうけながら離婚。その後にNYに渡ったのだった。マンハッタンの中心の高級アパートで自炊生活。私は何回も泊めて貰った。

突然、2007年1月、急性白血病で倒れてNYの病院に入院。長くなるからという病院の奨めで急遽、帰国。母方の祖父が教授だったという縁で東京・信濃町の慶応大学病院に移ったのは4月。

抗癌剤の投与で容貌が変わり、誰にも見られたくないと私にさえ知らせなかった。実はNYの病院で耐性菌に院内感染していたのがわかった。しかし耐性菌とあっては施す術なし。死を待つだけとなり、
遂に6月1日、多臓器不全となって死去した。まだ67歳だった。

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2007年10月18日

◆初の行政主席選挙

                      渡部亮次郎

沖縄がアメリカに占領されていた末期の1968年11月10日に第1回行政主席通常選挙が行われNHK政治部から田辺昌雄先輩記者と共に取材に派遣された。

アメリカの領土だったからパスポートとビザの発給を受けた。円は通用せず、1日あたり38ドル(1ドル=360円)を支給され、もちろん日航機で赴任した。

岩手県の盛岡放送局から政治部に着任して未だ4年目の若造がなぜ指名されたかの説明は聞かなかったが、地方時代に様々な票読みで実績があったからかもしれない。

琉球政府の行政主席。アメリカ占領中の沖縄を統括するアメリカ側の役所は「高等弁務官」。その下に沖縄人による役所として「行政府」が置かれ、そのトップが行政首席であった。

また管轄するする日本政府の役所は総理府(当時)。政治記者の初期の頃、同和事業などと一緒に担当させられたので、沖縄情勢をズブの素人よりは知っていた。

その頃の内閣は佐藤栄作氏で「沖縄の返還」を最大の「公約」に掲げており、まず「教育権」の返還を掲げ、その次に行政主席の選挙による選出をアメリカに要求していた。

その結果、住民の直接選挙による選出が許可されたわけである。39年も前の出来事。作った資料はとっくに廃棄したし、写真もどっかへ行ってしまった。いつも利用している「ウィキペディア」には記録があるかも知れない。

案の定あった。それによると、公示日1968年10月21日、投票日1968年11月10日とある。有権者数515,246人 (男性:235,299人、女性:279,947人)

琉球空港に降り立ってみると猛烈に眩しい。タラップの先に立っている女学生にスネ毛が長く生えていて、風になびいているではないか。まずサングラスを買った。

沖縄支局にいる駐在員の世話で下宿探し。ついては本土に引き揚げていったナントカ製薬駐在員の世話を焼いていた女性の世話になったらどうかという色っぽい話もあったが、遠慮。1日2食ドル5ドルの6畳間に落ち着いた。

毎朝、味噌汁が出るが、大豆の味ではない。蘇鉄の実だという。変った味だった。魚が殆ど食卓に上らなかった。鶏か豚ばかり。

高等弁務官事務所を訪れて米軍基地へのパスを申請。身長、体重、髪の色に加えて「瞳の色」は黒と申請したらミスター・ワラナベ、ユーアー ナット ブラック。ブラックは沖縄人。日本人はブラウンとの御託宣。知らなかった。沖縄人は大和民族では無いとは。

折からベトナム戦争。嘉手納基地から爆撃機が大量の爆弾を抱えて北ベトナム爆撃にひっきりなしに飛び立つ。そのたびに国道が交通止め。タクシーの頭上すれすれに離陸して行く。爆音が腹に響くのを知った。

立候補者は届け出順

(1)西銘順治にしめ じゅんじ 沖縄自由民主党総裁
琉球 島尻郡知念村(現・南城市)出身。

(2)屋良朝苗(やら ちょうびょう)無所属 沖縄教職員会会長
琉球 中頭郡読谷村出身

ほかに公認会計士が立ったが「本土復帰反対、独立」を主張し泡沫扱い。事実は西銘・屋良の一騎打ちであった。

主な争点

行政主席の直接選挙制が導入されて初の選挙であり、本土の政治家も多く駆けつけて選挙戦が展開された。そして、近い将来に実現されるであろう本土復帰が最大の争点になった。

西銘順治候補は「本土との一体化」を掲げて日米協調路線の下での復帰を訴えた。一方、屋良朝苗候補は「即時無条件全面返還」を掲げた。野底武彦候補は復帰そのものに反対し、琉球の独立を訴えた。

タクシー雇い上げが1日10ドル。本島をぐるぐる廻ろうにも目当てが無い。立会演説会に顔を出すと途端に地元弁で喋りだすから全くわからない。

選挙管理員会に顔を出したら離島での繰り上げ投票や開票はやらない、という。記者さん、投票が済めば、いつ開票しようが結果は決っているのだから急ぐ必要はありません。

本土ではTVやラジオを通じて一刻も早く結果を知りたがっていると説得してやっと了解してもらったものだ。どっちが役所かわからない。

飲み屋の主人やなんかを相手に話を聞くと西銘は問題にならないという。「日の丸掲揚運動を主張する屋良先生の勝利間違いなし」の話ばかり。遂に田辺さんには「4万差で屋良勝利」と申告。

翌朝、高等弁務官事務所に顔を出したら「NHKは4万差で屋良勝利と放送したが根拠は何か」と聴かれた。予測をNHKが放送するわけが無い。本社への電話を盗聴したのだ。

そういえば毎朝、タクシーの後をナショナル電気洗濯機と書いたワゴンが尾行してくる。沖縄人ダ。アメリカ軍に雇われて尾行しているのだという。

弁務官事務所に抗議したら「新聞の反米記事は空港で新聞の全部を没収して済むがNHKの電波は阻止できない。だから発信元を警戒するしかないのだ」とあっけらかんなものだ。

選挙結果
屋良朝苗 237,643票(当選)
西銘順治 206,209票
野底武彦 279票
(投票率 - 89.11%)

その差 31,434.予想の4万よりは少なかったが「合格」と部長に言われて琉球を後にした。11月10日、まだ半袖のポロシャツだった。

屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年12月13日 - 1997年2月14日)

明治35年(1902年)12月13日生まれ。昭和5年(1930年)に広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業する。

その後沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第1高等女学校、台南州立台南第2中学校、台北第1師範学校などで教職をつとめた。

沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。

主席在任中は、復帰を円滑に進めるために日米両政府の折衝などを進めていったが、その道のりは険しく、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか「縦じわの屋良」と呼ばれるようになった。

復帰後も昭和51年(1976年)まで、沖縄県知事として在任した。同年の選挙にも出馬を要請されたが、固辞し退任した。

知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。実直な人柄であった。

沖縄教職員会はその後教職員組合と名称を変えたが、内実は屋良氏の頃とは様変わりし13,307人を110,000の集会と偽って発表して恥じない団体になった。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
2007・10・17

2007年10月17日

◆胡錦濤と江沢民の握手

                          渡部亮次郎

<【北京=伊藤正】胡錦濤総書記が2時間半に及ぶ演説(政治報告)を終え、ひな壇最前列の中央の席に戻ると、左隣の江沢民前総書記が立ち上がり、握手を求めた。>産経ニュース2007.10.16 00:43

15日、北京の人民大会堂で開幕した第17回中国共産党大会。伊藤総局長は「その握手で、江氏は胡氏の報告に賛意を示したように見えたが、真意は分からない」としながらも「胡報告は経済は自由、政治は保守というケ(トウ)小平、江沢民氏の路線と基本的に変わらない。江氏が胡氏に握手を求めた理由かもしれない」と結んでいる。

5年前、江沢民氏の後を継ぎ総書記になった胡錦濤氏。彼にとって、今回が初の自前の党大会だが、この5年間、中国が年平均10%超の成長を遂げ経済大国化、国際的地位も大きく向上したのは江氏の決めた路線と指導体制によるものだった。

胡総書記の初めての報告は、改革・開放を切り開いたケ(トウ)小平理論と、それを発展させた江沢民氏の「3つの代表」思想を高く評価し、その継承を強調しながら、科学的発展観という胡氏自身の理念を打ち出した。

所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだひずみを正し、持続的な均衡成長と調和の取れた社会実現が主眼だ。しかし過去5年間、7〜8%の目標値に対し2けた成長が続いたことが示すように、成長主義の構造を打破するのは難しいはずだ。

とめどなく成長しようとし、如何なる政治的規制も排除しようとするのが資本主義の本質である。これに対し共産党は政治の独裁を継続しなければ存在意義を失うのであるから、経済に対する規制を止めるわけにはいかない。そこに汚職が必然的に発生する。

したがって伊藤記者も指摘するように

<例えば、成長率を押し上げる地方政府による不動産開発は、財政資金確保と同時に党官僚たちの闇収入にも欠かせない。胡錦濤政権の土地売買の規制策や汚職への厳罰主義も効果は薄く、地方には、腐敗に寛大だった江沢民時代を懐かしむ声さえあるという。>

つまり所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだ「ひずみ」こそは江体制の遺物であり、中国式共産主義体制の本質そのものなのである。

伊藤記者は「ある学者によると、胡錦濤路線は、ケ(トウ)小平理論から1歩も出ていないという」としているが胡錦濤は仮に手品師だとしても種と仕掛けが変わらない以上、変った事は何もできるはずが無い。

報告で胡氏が「1987年の第13回党大会で打ち出した社会主義初級段階論を踏襲、1つの中心(経済建設)2つの基本点(社会主義堅持の4原則と改革・開放)を堅持する」と述べているのは当然だ。

<経済が資本主義化した今日、一党独裁を廃止し、民主制度に移行すべきとの議論が近年、高まっている>と伊藤記者は指摘するが、先に述べたとおり一党独裁を止めれば共産党は失業するどころか、これまで我慢してきた農民に殺されてしまうだろう。

だから遅れた経済を発展させる手段が改革・開放であり、市場原理など資本主義の手法も是とする半面、一党独裁を中心にした4原則堅持は変えないのは当然というものだ。

<胡錦濤氏は報告で「社会主義だけが中国を救い、民主社会ができる」と主張している。胡氏のいう「民主」とは共産党が与える社会主義民主にすぎない。直接選挙制の拡大など政治改革はなく、党の執政能力の強化、効率化にとどまった。

先の学者よると、共産党が当面している最大の問題は、国民の党不信であり、その要因は腐敗という。党権力が強まるほど、腐敗が巨大化、蔓延(まんえん)していくのが現状だ。その有効な対策は、胡報告には見えない。

89年の天安門事件前、腐敗は今日ほど深刻ではなかったが、当時の趙紫陽総書記は、党と政治、企業との分離を打ち出したほか、司法の党からの独立や報道の自由のための新聞法制定の構想を進めていた>(伊藤記者)。

中国の未来は決して夢でも明るくも無い。趙紫陽総書記がやろうとした事は共産党からすれば反革命に等しかった。だから失脚したのだ。今回、胡と江が握手した事を見れば22日に明らかになる人事も驚くような事は無さそうでは無いか。2007・10・16

2007年10月16日

◆イチョウは鴨脚樹(ヤチャオ)

渡部亮次郎

近くの都立猿江恩賜公園の銀杏は殆ど落ちた(落とされた?)が10月半ばの15日にも、雌の木の下の植え込みを分けてまで探している老人を何人も見かけた。

周囲を水田に囲まれて育った身には、大の大人が何故こんなに都会の人たちが銀杏に夢中になって、さらおうとするのか判らない。確かに葉っぱにはボケを防ぐ何かがあると読んだことがある。

そこからすると、実にはもっと効き目のある薬が含まれていると信じるのも自然である。だがつり竿を持って来てたたいたり、はては猿のように登っていって枝を揺する様は、イチョウの薬は既に効かないとの感を深くする。

イチョウ(銀杏) Ginkgo 中国原産の落葉高木。裸子植物である。中国では銀杏のほか、公孫樹とも書く。

また葉の形がカモの脚に似ていることから鴨脚樹ともいったが、この中国語を日本人がヤーチャオと聞いたことから、やがてイチョウとよぶようになったと、大槻文彦が「大言海」でのべている(後述)。

イチョウの仲間は古生代末に出現し、主として中生代ジュラ紀に世界各地で繁茂した。東京都や東京大学のマークに使われている。

現存する唯一の種であるイチョウは、メタセコイアとともに「生きている化石」として知られている。明治時代、イギリスの植物学者が日本にも繁茂しているのを発見して驚いたという記事を読んだことがある。

中国では古代から聖なる木とされ、寺院の庭で保護されてきた。そのため絶滅しなかったというのが植物学者の定説だったが、近年、中国西部の峡谷で野生のイチョウが発見されている。

日本でもイチョウは信仰と深くむすびついた木として大切にされ、各地の神社や寺に巨樹がみられる。国指定の天然記念物にも20本を超えるイチョウの名木がある。

高さは10〜40mになる。葉は扇形で、葉脈は付け根から先まで二またに分岐をくりかえし広がっている。大きな枝から、短枝というひじょうに生長のおそい小さな枝を出し、そこに毎年、葉をつける。雌雄異株で、雌花と雄花は別の木につく。

日本での花期は4月。雄株のつける花粉は風にはこばれ、雌株は秋に異臭のする肉質の外種皮におおわれた種子をつける。このため、雌株は観賞用にはこのまれない。中華料理や日本料理では、銀杏(ぎんなん)とよばれる種子が珍重される。

イチョウは公園や庭園によく植えられる。大気汚染、日照不足などの都会の悪条件にも強いため、大都会の街路樹としても植えられる。

このような多角的な利用のため、さまざまな園芸品種がつくりだされてきた。トウガタイチョウ、シダレイチョウ、オハツキイチョウ、チチイチョウ、キレハイチョウ、フイリイチョウなどである。

分類:イチョウ科イチョウ属。イチョウの学名はGinkgo biloba。

『大言海』序文がかたる銀杏の語源探求

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。この辞書の特色は、出典を示し、独特の語源解釈を試みていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。

[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年
大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

<銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明13年80歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。

始めて、一葉の字音なること見えたり。然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。

仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢700年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、30年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。>

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2007・10・15

2007年10月14日

◆政界を動かす「怨念」

                    渡部亮次郎

マスコミがとうに気付いていながら書けないことを書く。

福田政権を作ったのは森喜朗氏とか青木幹雄氏なんかではなく野中広務氏である。それを新聞記者もTV記者も知らなかったようだが、私は知っていた。京都から野中氏が動き出した時、安倍晋三総理が辞意を固めた時だった。

野中氏。既に衆院議員を引退したが、手下古賀誠氏を擁して政界を自由に遊弋している。それなのに野中を全くマークしない日本のマスコミはバカだ。

野中氏は1925(大正14)年10月20日生まれだから2007年の誕生日には82歳になる。京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。父・北郎、母のぶの長男である。

野中家は4反前後とはいえ田んぼをもつ自作農であり、広務氏が生まれたとき、父・北郎氏は25歳の若さで村の副区長をつめていた。

広務氏は旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、大阪鉄道局の職員として採用され大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。大阪鉄道局長だった佐藤榮作(のち首相)と知り合った、という。

著書によればこの大阪鉄道局で差別に曝され自覚を固めた。園部町(現南丹市園部町)の町会議員に当選、さらに町長、京都府府議会議員と飛び、遂には参議院議員を府知事に担ぎ上げ、驚いた事に自分がその副知事となって京都府政を牛耳ったのである。

その頃、私は厚生大臣秘書官だった。京都市の医師がアサヒ・ビールの株を買占め始めて筆頭株主になりかけていた。そこで予て知り合いの住友銀行(当時)頭取が、大臣に「何とか止めさせてくれないか」と陳情してきた。

大臣園田直の命令により幹部を京都に派遣した。ところが厚生省の内情がそっくり医師側に漏れている。驚いて調べると肝腎の副知事が医師側についていた。厚生省の幹部は副知事こそは行政側と勝手に思い込んで内情をすべてバラしていたのである。

1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において、2議席を自民党の谷垣禎一候補、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリストになる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。

開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に伸びが鈍りはじめ、谷垣、有田候補にリードを許し始める。まず、谷垣候補が当確し、残り1議席となる。

一旦は、有田候補が勝利宣言、野中氏は敗北宣言の準備を始めた。しかし、地元である園部町で未開票の投票箱の存在が発覚して、有田候補を逆転するという劇的な初当選を果たす。

永年に及ぶ「被差別」。それに耐えてきた野中氏のド根性は半端じゃない。定めた敵は必ず「仕留める」

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2007年10月13日

◆疑惑のノーベル平和賞

                       渡部亮次郎

<ゴア前米副大統領とIPCCにノーベル平和賞

【ロンドン=木村正人】ノルウェーのノーベル賞委員会は12日、2007年のノーベル平和賞を、1970年代から地球温暖化問題に取り組んでいるアル・ゴア前米副大統領(59)と国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の両者に授与すると発表した。

環境分野に絡む平和賞受賞は2004年のケニア出身の女性環境保護活動家、ワンガリ・マータイさん(67)に次いで2度目だが、同分野単独での受賞は初めて。

同委員会は181の候補からゴア氏を選んだ理由について「彼はおそらく、個人の力で世界中に最も気候変動への理解を広めた人物だろう」と述べ、IPCCについては「地球温暖化と人類の活動の因果関係を広く知らしめた」と評価した>。産経新聞Web 12日

ノーベル平和賞には日本の前首相佐藤栄作氏も選ばれたのだ。記憶している人は少ないかも知れない。

<1974年に、ショーン・マクブライド(アイルランド)と共にノーベル平和賞受賞。非核3原則の制定が評価されてのものであった。

この受賞には国連大使だった加瀬俊一氏のロビー活動が寄与したといわれている(佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表明している)。しかし、2000年代に入ってからノーベル財団はこの受賞について厳しい評価を表明し>。「ウィキペディア」

<佐藤総理は沖縄の核抜き返還を決めた1969年11月19日の日米首脳会談で「核抜き」に関する共同声明に合意した後、「カリフォルニア州サンクレメンテにある私邸の写真を見ないか」という大統領の案内で別室に消えた。通訳もつれず。したがって首脳会談に関する外交公式記録はここまで。

ところが若泉氏の著書に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した。

だが若泉氏は「あれしか策は無かったのだ」と言って死んだ>。渡部亮次郎「頂門の一針」2007年10月13日 962号

<日本政府が最初にこの原則を提示したのは、1967年12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳氏が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という3原則を示したときである。

佐藤栄作は、翌1968年1月の施政方針演説でも、この3原則を示した。
その後、返還後の沖縄においても同原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折もあった。

佐藤栄作は、最終的に沖縄にも適用させるべきという決断を下している。これを受けた沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされた。

法律ではないため、この3原則自体に法的な拘束力はないが「核兵器を持たず、作らず」の日本独自の核保有に関する2項目については、1955年に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている>。「ウィキペディア」

佐藤首相はこの非核3原則を示したことによって1974年12月にノーベル平和賞を受賞した。退任2年後1974年12月に受章し、翌年の6月3日に築地の料亭で死去する。

「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の刊行ガ1994年ではなく平和賞の以前だったら違った結果になったのではなかろうか。2007・10・12
ところで沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされたわけだが、実際は、
<若泉氏の著書(1994年5月刊)に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した>
わけだからノーベル平和賞の権威に疑問が呈せられたのは当然だったろう。2007・10・12

2007年10月12日

◆笹川会長の瀬島龍三論

                   渡部亮次郎

ソ連との停戦交渉時、ソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については一切否定していた瀬島龍三氏(元大本営参謀で元伊藤忠商事会長)が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内府中市の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

伊藤忠商事と亜細亜学園合同葬は10月17日午後1時から東京・築地本願寺本堂で。喪主は長女緒方繁代さん。

ところで日本財団会長笹川陽平氏は自らのブログで「瀬島さんはシベリア抑留中、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発した」という旧ソビエト共産党工作員の証言を紹介すると共に勲1等にも「異議」を唱えている。
http://blog.canpan.info/sasakawa

私は瀬島氏とは政治記者或いは外相秘書官として何どと無く酒を酌み交わした仲。随分際どい事も聞いたが、抑留時代の事については遂に話をかわされて真相を聞き出す事はできなかった。逝去を報ずる新聞雑誌も「墓場に持って行かれた真相」と表現した。

笹川氏は『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀を賜る。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲1等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第2次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した』との「ウィキペディア」の記事を紹介した後、強烈な批判を展開。これほど率直な瀬島論は読んだことも聞いた事もない。

<ウィキペディアで興味を引くのは、(瀬島氏が)『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より

「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。>
と紹介したあと次のように述べている。

<私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連検察側証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後、瀬島氏は、その天皇から勲1等瑞宝章を親授された。

日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。

賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。

かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。>

笹川氏のブログはさらに瀬島氏が多分、生き延びるために共産党に一時的にしろ「転んだ」ことを明らかにしている。

これを明らかにしたのはモスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏。旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。

<(モスクワで)自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。
日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。
「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。

ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた」

「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の1軒家に、女中もつけて、(東京裁判の)ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。

関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。>

瀬島氏は陸軍大学を首席で卒業した秀才。話は情熱的ではなくいつも箇条書きに整理して話す人だった。だから誰にでも分かりやすかった。金沢連隊の連隊旗手を命ぜられた。

連隊旗手は童貞でなければならなかった。その代わり1年の任期が終わったところで花街で筆下しをされた。「どうにも不潔で、月明かりの犀川で下半身を洗った」堅物振りを聞かせてもらった。だから生き延びるためには共産党万歳と叫ぶ事なんか平気だったろう。

だが純情なところも見えた。香港攻略に先立ってスパイの真似事をさせられた。偽の妻を娶り民間人を装ってイギリス軍を偵察した。

シベリヤから帰還後、彼女の郷里・津軽に尋ねた。しかし「既に石の下だった」。後に「津軽海峡・雪景色」を歌手石川さゆりさんから直に指導を受けた。

「瀬島評価」が分かれるのは、大本営参謀とソ連抑留の瀬島氏を知る者と、伊藤忠商事以降の瀬島氏しか知らない者の違いだろう。関東軍参謀に出されたのでしょう。

切れ者だが事務屋の域を出ないということだという批評が私のメルマガには多く寄せられた。しかし「ソ連による北海道占領と引き換えの抑留。生涯口に出せずに残念だったはずだ」という理解の投書も1通だけあった。『自由』2007年11月号「政界馬耳東風」再掲。2007・09・09

2007年10月11日

◆江東ゼロメートル地帯

渡部亮次郎

東京・江東区は隅田川と荒川に挟まれた地域だから地盤は軟弱に決っている。毛利という町内で再開発された旧同潤会アパート(20階
2棟}の一隅に住んでいるが、古老の話では岩盤まで打った杭は地下60メートルに達したそうだ。

ここから100メートルぐらいのところにあった繊維工場が操業を止めて跡地をマンション業者に売った。一昨年秋のことである。敷地は70坪、そこに予定されたマンションは13階建て。

・・・の筈だった。板囲いの掲示では完工予定平成19年7月15日となっているが、工事そのものが一向に始まる気配が無い。実は昨年の夏ごろ、地盤調査みたいな事が行われたが、それっきりなのだ。

公園への散歩の行きかえり、囲いの隙間から見ると、土地に隣接して建っている4階建ての古いビルが左に大きく傾いているではないか。地盤調査で掘り返したら、隣のビルが傾いた。中止、中止!

多分、これが真相である。マンション業者、隣で傾いたビル、元の繊維工場、関係者、団子になってもめている事だろう。

江戸の歴史を読むと、江東地帯は、徳川家康が着任した当時は水浸しの湿地帯だった。

田中角栄氏の先祖みたいに土建の才能豊かだった家康は、この湿地帯を一目見てひらめいた。ここを立派な住宅地に「開発する」。

早速縦横に運河を掘った。掘ればそこへ土中の水が排水されて湿地は乾く。乾いた土地に土盛りをすれば立派な宅地に変貌するではないか。竪川(たてかわ)、横川の地名が残っている。竪川は今は立川と書いて「たてかわ」と読ませている。落語の一派がここから出たのではないか。

私の住まいする地名「毛利」を三省堂の「コンサイス地名辞典」1975年1月30日初版で調べると「区内最古の埋立地。竪川の上に都心と千葉を結ぶ首都高速道路7号線がある。紀州の毛利藤左衛門{伊勢屋藤左衛門}が埋め立てたと伝えられる、とある。

但し「総武本線錦糸町駅南500Kmは酷い誤植。ただの500m。又ここには江戸時代には幕府の材木蔵があったとあるが、今は都立猿江恩賜公園になって、私の散歩場所になっている。

そういうわけで江東区も墨田区も江戸川区も地盤が悪い。総称して「江東ゼロメートル地帯」といわれていたが、最近はあまり騒がれなくなった。

江東区環境清掃部 環境対策課 が最終更新日:2005年09月16日に出した資料によると、ゼロメートル地帯は湿地帯だったからゼロになったのではなく地下水汲み上げ過ぎによるものだった。

地下水を大量に汲み上げることによって、地下水位(水圧)が下がり、それが地層の収縮をもたらし、地表面が徐々に沈んでいく現象。一度沈んだ地表が再び隆起することはなく、しかも広範囲にわたるなどの特徴がる。

地盤沈下により建物や地下埋設物に被害を及す。江東区南砂では、大正7年以来、実に4・5メートルも沈下している。染色工場は厖大な水を使うが、汲揚げを止められ、操業を止めた例もある。

地盤が著しく沈下した地域では、台風による高潮や地震が起きた時に堤防決壊による洪水等の危険がある。ひとたび被災した場合には、人の生命や財産の被害は極めて大きなものになる。

もともと江東地区では大正時代の初期、大阪市西部では昭和に入ってから地盤沈下がみられるようになった。その後、急速に沈下が進み、建物の崩壊あるいは高潮による被害が生じ、地盤沈下が大きな社会問題になった。

昭和20年3月10日の米軍大空襲でこれらの地域にあった工場が壊滅してからは、地下水の採取量が減少したので地盤沈下は一時的に停止したが、昭和25年の朝鮮戦争を契機に産業活動も復興し、地下水の採取量も増え、そのため再び地盤沈下が激しくなった。

また、沈下地域も東京や大阪の下町地域だけでなく、内陸部や隣接する埼玉県や千葉県にも拡大し、新潟平野、濃尾平野、筑紫平野といった全国各地でみられるようになった。

東京地域では、昭和36年以降の地下水採取の規制によって昭和40年と41年には一時沈下が鈍化したものの、昭和42年頃から再び沈下が急速に進んだ。経済の高度成長期だったからだ。

しかし、昭和47年以降、地下水採取規制の強化や水溶性天然ガスの採取を停止するなどの対策によって、地盤沈下はようやく鎮静化しつつある。バブル崩壊後は工場が閉鎖されてマンションに生まれ変わっているので地盤沈下に歯止めがかかっているはずだ。

それでもゼロメートル地帯は荒川下流地域や城北地域に出現し、その面積は、満潮時で区部の21・7%にあたる124・3平方キロメートルにも及んでいる。

大正7年以来、実に4・5メートルも沈下した江東区南砂では昭和40年代の末頃からは、沈下が鎮静化しマンションが盛んに建っている。

江東区内の地下水採取は、「工業用水法」および「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」、「東京都環境確保条例」により行われており、井戸の深さや口径等について規制されている。この基準に適合しない井戸は廃止しなくてはならず、また新設することもできない。2007・09・02

2007年10月09日

◆拘りは投票日の大安

渡部亮次郎

衆議院の解散は2年以内に行われるが、急に産経新聞が「年内解散」を取り上げた。

<ならば、善は急げとばかりに、12月16日が縁起のいい「大安」にあたることから、「12月4日告示、16日投開票」のシナリオが浮かんできた>と今堀守通記者が書いている(2007・10・08付)。

しかし昔から保守の政治家がこだわったのは「開票日・大安」であって解散の大安ではなかった。世の移り変わりをつくづく感じる昨今である。

あれは昭和44(1969)年。沖縄返還交渉を審議するための第62臨時国会のさなか、佐藤栄作総理が衆議院をいつ解散し、投票日をいつとするかが注目される中、NHKは投票日は12月の何日とかと放送したが、これは私の反対を押さえ込んでの結論だった。

この時の自民党役員は幹事長田中角栄、園田直国会対策委員長と言う布陣。ポスト佐藤をめざして党内多数派工作に腐心している「角さん」に対して、園田は福田赳夫推進の立場。マスコミは角福代理戦争と揶揄した。

角栄は佐藤派大幹部。しかし園田の観るところ、佐藤に対しては相当、距離のある関係、とのことだった。

<たとえば佐藤の前で角栄は椅子に深く腰を下ろせない。浅く半分しか座れない、全くの主従関係だ、というのだ。そこで解散日はともかく、投票日はいつになるか。角栄の主張など佐藤が聞くわけない。

佐藤が決める大安のいつかが投票日となり、そこから逆算して解散日が決まる。佐藤さんはなんたって大安が好きだ。大学立法の採決強行を焦る総理に角さんが何度言っても納得しない。

そこで私が行って言ったんだ。「総理!今日は仏滅、明日が大安」
そしたら「そうか」で納得したことがあったもの>(園田談)。

角栄幹事長を取材した方は政局運営上、幹事長の都合を優先して日にちを言う。ところが園田の言うのは、もっぱら佐藤総理の「大安」への拘りだけ。「あの人は角さんと違って大安に拘る。だから投票日は大安の12月27日。そこから逆算して解散は11月29日に間違いないッ」

しかし党運営の最高責任者たる幹事長、佐藤派大幹部の角栄に対して園田は国会対策委員長に過ぎない。その発言は軽んじられて没となった。

実際は園田の読みどおりになった。政治部長にこっそり呼ばれて
訂正記事を書かされた。それが報道局長賞となった。貰った晩、誰も付き合ってくれなかった。自棄酒を呷り、目黒駅から雪道を歩いて帰宅途中、涙が出てきた事を思い出す。

さて福田総理は何に拘るだろうか。或いは拘らないだろうか。大安ではなさそうに思う。2007・10・08

2007年10月08日

◆ミャンマーの「真相」

                     渡部亮次郎

1995年から3年間、日本のミャンマー大使を務めた、知り合いの山口洋一氏が2007年10月11日号の「週刊新潮」に特別手記を寄せている。「スーチー女史が希望の星というミャンマー報道は間違っている」というもの。

山口氏は本籍佐賀県70歳。私が外務大臣秘書官の頃は本省の海外広報課長から昭和天皇の御用係に出向していた。その後、インドネシア大使館の参事官などを経てミャンマー大使を務めた。

週刊新潮の手記は4ページに及んでいるが、「勲章ジャラジャラの軍服を着た為政者と、民主化を目指す軟禁中の女性・・・。誰が見ても悪役は前者である。デモの取材中、日本人ジャーナリストが射殺された事件は、ますますミャンマー政府の悪逆非道を印象付けた。

が、元ミャンマー大使の山口洋一氏は、新聞、テレビの偏向した報道を指摘する。もはや、スーチー女史は希望の星ではないのだと」

以下<  >で括って内容を紹介する。

<欧米の殆どすべてのメディアと日本の新聞、テレビはミャンマーで起きた僧侶中心のデモを、軍事政権の圧政に対し民主化を求める民衆が蜂起したという構図で報じてきた。あまりに単純すぎる>

<今回のデモの規模10万とは誇大な数字だ。メディアは反政府運動の規模を5~6倍、酷い時には10倍にする。在任中アウンサンスーチー女史の自宅前の集会が連日3―4000人と報道されていたが、部下に数えさせたら5―600人しかいなかった>

<今回のデモでもスーチー女史の率いる政党NLDが市民にカネを払って参加させている事実、デモ隊が投石し、武器を奪おうとしたので治安部隊が止む無く発砲した事実を殆ど伝えていない>

<ある地方では治安部隊を僧侶が僧院に押し込め、その車に火を放つといったおよそ「平和的な抗議活動」とは思えない振る舞いを見せたそうだが、日本では報道されていない>

<かつて日本人記者は「本社が期待しているのは、ミャンマーの首都が、反政府運動の闘士たちの血の海になっているような記事です」言っていた>

<日本のマスコミは、「軍政は政治犯を釈放すべきだ」と主張するがミャンマーに純粋な意味での政治犯は1人もいない。「道路や公園など公共の場所で5人以上の政治目的の集まりは禁止」「屋内における50名を超える政治集会は許可制」といった古くからの法律に違反したものばかり。法治国家として当然のことを怪しからんというのは(どうか)>

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