2007年07月09日

◆トウ(ケ)は賢明で狡猾


                      渡部亮次郎

トウ(ケ)小平は革命成就3年後の1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(ケ)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたのでケ国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(ケ)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(ケ)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(ケ)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(ケ)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

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2007年07月08日

◆華国鋒は何処に


                       渡部亮次郎

日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。

最近、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。

華国鋒(か こくほう。1921年2月16日―)は、山西省交城県出身で、中国の元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。

条約の調印式には出てきたが、すぐに姿を消し、2度と再び公の席に姿を現さなくなった。死んだという知らせには接していない。

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2007年07月07日

◆七夕に倒れた河野


渡部亮次郎

「明日は平塚で七夕だからね、キミも必ず来なさい」が自民党の実力者河野一郎が私に掛けた最後の声であった。七夕の朝に自宅で倒れ、翌8日には死んでしまったからである。1965年のこと。

私がNHK盛岡(岩手県)放送局から東京本部の政経部(まもなく政治部)に発令されたのが1964年(昭和39年)の7月10日。文京公会堂で池田勇人(はやと)総理が自民党総裁に3選された日だった。特急「はつかり」で上京した。

東京は大学卒業以来6年ぶりだった。秋田県大館市で秋田放送局の通信員。翌年のNHK採用試験に合格して仙台放送局に転じて1年。チリ地震津波の直後に盛岡放送局に転勤して4年。将来がなさそうだからコカコーラに転職しようと画策していたら辞令が来たのだった。

折から日本では初の東京オリンピック。オリンピック担当大臣は河野一郎。キミ、担当したまえ、と部長に言われて追っかけていたが
「河野さん、あなたの目は義眼だそうですが本当ですか」と質問したことでえらく気にいられ、「河野派」も担当することになってしまった。

「キミはいい記者だ。ボクの目は義眼なんかじゃない。それなのに誰も質問もせずに義眼だと書く。キミが初めてだよ。いい質問をしてくれた」。

「若い頃、弟(謙三=後年参院議長)にトラホームを伝染された。そこで小田原の目医者で手術を受けた晩に夜遊びに行ってしまったので拗れた。それで右目は殆ど視力か無くなってしまった。それで眇目で見るから義眼と間違われるのだよ」と嬉しそうだった。

付き合ってみると、これほど優しく、気遣いの至る人はなかった。やることが阿漕だとか新聞記者の服装に五月蝿いとか、マスコミは敬遠していたが、実際はそんな事は全く無かった。

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◆糸で縄を買った


                       渡部亮次郎

第2次世界大戦終結後、世界経済はアメリカのリーダーシップの下で、貿易と為替の自由化を強力に進めていた。敗戦国日本も、アメリカの庇護(ひご)の下で戦後復興と国際社会への復帰をめざしていた。

このような状況下で日本のアメリカ向け輸出は急増し、繊維、雑貨類、金属製洋食器などで最初に対米輸出自主規制をおこなわなければならなかった。

とくに繊維については、1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品により、アメリカ繊維産業が大きな被害をうけたため、日本は1956年(昭和31)1月から輸出自主規制を行った。

62年1月には綿製品の国際貿易に関する短期的取り決め(STA)、ついで63年1月には長期的取り決め(LTA)が結ばれた。しかし、この頃はまだ貿易摩擦という程ではなかった。

その後、1960年代後半には日本の貿易収支の黒字基調が定着し、繊維の対米輸出は次第に最初の日米貿易問題として顕在化してきた。貿易摩擦の対象品目は綿製品から毛製品、化学繊維製品に移り、これら3品目の日米間取り決めの1本化がはかられた。

当時の佐藤栄作内閣には戦後のどの内閣も成しえなかった悲願があった。沖縄返還である。敗戦によりアメリカに占領されたままの沖縄を外交交渉により返還させることは佐藤内閣の公約であった。

一方、アメリカ(ニクソン大統領)にも悲願があった。1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品の輸入阻止である。

このため佐藤首相は担当する通産大臣に大平正芳、宮沢喜一と自らは強力と信ずる有力者を配したが一向に解決しなかった。時あたかも自身の後継をめぐって福田赳夫と田中角栄が熾烈な戦いを水面下で展開していた。
佐藤としては田中は派閥を任せてきた側近ではあるが「なにせ小学校卒、教養が無い。そこへ行くと福田は東大での切れ者。後継者は福田」とハラに決めていた。

そこで昭和46(1971)年7月5日の第3次改造内閣では福田には貫禄付けを狙って外相を与えたが、田中には難問中の難問が控えている通産大臣を与えた。私は田中に恥をかかせて後継を一旦は諦めさせようとしたのだと思った。私は勝ち馬(の筈の)福田の担当だった。

ところが福田には運が無かった。党内支持の頼りとした参議院議長重宗雄三が議長4選工作をしている頃、胆石手術のため入院。重宗は手も無く4選断念に追い込まれた。田中は参院自民党の多数派工作を堂々と進めることができた。

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2007年07月06日

◆古関裕而は大天才


                          渡部亮次郎

友人宅でTVニュースを見るとも無く見ていたら(2007・07・04)NHKが早稲田大学の校歌「都の西北」の作曲(日本人)に欧米の既存曲模倣が見られると放送していた。今年100年を迎えた曲だそうだ。

ところで早稲田のもう1つ有名な歌が応援歌「紺碧の空」だが、この作曲者と、ライバル校慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲者は同一人物「古関裕而・こせきゆうじ」である。

ついでに阪神タイガースの歌「六甲颪・ろっこうおろし」と好ライバル巨人軍の歌「闘魂込めて」の作曲者も同じく古関裕而。中日「ドラゴンズの歌」も古関である。

NHKに至っては今に残るテーマ曲の実に多くが古関の手になる。
1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「スポーツショー行進曲」
970年 NHK「日曜名作座」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「昼のいこい」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)
NHK「教育テレビ放送終了」テーマ曲
NHKラジオ「今週の明星」

全国の校歌に関しては「福島商業高等学校(古関の母校)校歌」他、300校以上を作曲。

1964年東京オリンピックの行進曲もそうだし全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」も古関の作曲だ。しかも彼は音楽は独学、商業学校しか出ていないとなれば天才以外の何者でもなかったというしかない。否、大天才だったのだ。

1935年(昭和10)、『船頭可愛や』が大ヒット。この歌は音丸のほか世界の舞台でも活躍した三浦環もレコードに吹込んだ。声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。この頃から同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

戦時中は戦時歌謡で数々の名作を残す。決して戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律が大衆の心の奥底に響き、支持された。

戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。

1931年「紺碧の空〜早稲田大学応援歌〜」(作詞:住治男)
    「我ぞ覇者〜慶應義塾大学応援歌〜」(作詞:藤浦洸)が出来るのは1970年だが。

1935年「船頭可愛いや」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1935年「東京農業大学カレッジソング」(作詞:吉田精一)
1936年「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴) 昭和11年である。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中戦争の始まり。歌にも戦時色が濃くなって行く。古関も戦時歌謡と称する軍歌を作らされる。つくれば天才だから名曲が出来た。

1937年「露営の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章)
1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子)この歌は、日本放送協会の依頼で作曲したもの。戦後のラジオ歌謡に当たる国民歌謡として放送された美しい長調のワルツ。

清らかなメロディーは多くの人に愛された。兵士を通じて東南アジアの人々に伝わり、特にインドネシアでは現地の歌詞がつけられ現在でも歌われている。故スカルノ大統領の愛唱歌だった事は有名。

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2007年07月05日

◆福田に派内の人気なし


渡部亮次郎

夕刊フジ紙(2007・7・5付)によると9ヶ月前の自民党総裁選で派内の人気不足を理由に立候補を見送った福田康夫氏が安倍後継に顔を出したが、町村派(旧福田赳夫派)では中堅若手から『絶対に認めない』と声が上がった、という。

それなのに「反安倍勢力」の山崎拓元副総裁や加藤紘一元幹事長らが推す動きがある、と夕刊フジは読んでいる。

<公示を約1週間後(12日)に控えた参院選で、安倍自民党の情勢は非常に厳しい。久間暴言の影響もあり、「38議席から36議席もあり得る」(同)という危機的数字がささやかれ始めた。

(そうなれば)かつて宇野内閣は参院選で36議席、橋本内閣は44議席しか獲得できず退陣に追い込まれており、参院選後の安倍退陣も現実味を帯びてきたのだ。

現時点で「ポスト安倍」の有力候補として名前が浮上しているのは、麻生太郎外相、福田康夫元官房長官、谷垣禎一前財務相、中川昭一政調会長の4人。>といつの間にか福田氏が復活している。

<だが、麻生氏は総裁選立候補に必要な推薦人数(20人)に満たない小派閥(15人)の領袖なうえ、小泉、安倍両政権で党・内閣の要職を務めてきた。「安倍退陣」なら、「共同責任」を問われる可能性もある>。

麻生氏は同じ九州出身の立場から派閥は違うものの辞めた久間氏を強力な助っ人として視野に入れてきた。事態が急変し、出直しである。

一方<福田氏は約1年前、「ポスト小泉」の有力候補として去就が注目されたが、同じ派閥(現町村派)の安倍首相が手を挙げたこともあり、総裁選出馬を見送った。

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◆老化は熟成でもある



                     渡部亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

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2007年07月02日

◆ネオコンよいずこ

                      渡部亮次郎

ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補の国際連合大使 辞任に次ぐポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、元国防副長官の世界銀行総裁更迭で、いわゆるネオコンのブッシュ政権からの退却にはカタが付いたのではないか。

彼らネオコンは自ら「ウルカヌス」と称するブッシュ側近を自らの思想でいわば染めようと試みたが、結果は悉く失敗し、ブッシュはいまや典型的なレームダックの老醜を曝している。

但しネオコンそのものは消えるわけではない。厳然として存在し続けるはずである。専門家である学習院女子大学教授の畠山圭一氏は
指摘する。

「フセイン政権崩壊の段階で、ラムズフェルド国防長官やネオコン派の役割は事実上終わっていたと見てよい。ネオコンの位置づけははっきりと変わっている。2年前から。

まだ副大統領チェイニー辞任の可能性も残ってはいるが、政権内ではほぼカタが付いたといえる。だがネオコンの消滅と考えるのは早計。ネオコンの立場からは、あくまでも路線変更ということではないか。フランシス・フクヤマの新著が何よりもそのことを示唆している」。

ネオコンとはアメリカ合衆国における新保守主義(しんほしゅしゅぎ、英:neoconservatism:ネオコンサバティズム、略称:ネオコン)は、保守ムーブメントのひとつ。米国において、ブッシュのタカ派外交政策姿勢に非常に影響を与えて来た。

ネオコンとされている有名な思想家・政治家。

エリオット・アダムス (w:Elliott Abrams)
リンダ・チャヴェズ w:Linda Chavez
リチャード・チェイニー (w:Richard Cheney)、米国副大統領、前国防長官、前ハリバートン会長 リン・チェイニー (w:Lynne Cheney)、チェイニー副大統領夫人、反ネオコン学者の評論家 ジョン・コーニン (w:John Cornyn)、共和党上院議員、元テキサス州司法長官 ダグラス・ファイス (w:Douglas Feith)、前国防次官 デーヴィド・フルーム (w:David Frum) カナダ出身の記者、「悪の枢軸」のことばを発言 フランシス・フクヤマ (w:Francis Fukuyama)、

『歴史の終わり』の筆者、大統領の生物倫理委員会の会員 後にイラク戦争の誤りを認め転向 クリストファー・ヒチェンズ (w:Christopher Hitchens), イギリス出身の解説者 サミュエル・ハンチントン (w:Samuel Huntington)、『文明の衝突』の筆者 アーヴィング・クリストル (w:Irving Kristol)
マイケル・レディーン (w:Michael Ledeen)
ルイス・リビ (w:I. Lewis Libby)
フィリップ・メリル (w:Philip Merrill)、輸出入銀行会長
リチャード・パール (w:Richard Perle)、国家防衛政策委員長

ノーマン・ポドレツ (w:Norman Podhoretz)
ロナルド・ロトゥンダ (w:Ronald D. Rotunda)、ジョージ・メーソン大学法学教授 ポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、世界銀行総裁 元国防副長官 ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補、元国際連合大使 マイケル・ノヴァック(Michael Novak)、研究者
ピーター・バーガー(Peter Berger)、研究者

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2007年07月01日

◆さくらんぼで焼酎


       渡部亮次郎

秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたので昨夜、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるかも知れない。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

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2007年06月30日

◆宮沢喜一元首相が死去



          渡部亮次郎


<「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派と
して知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、
老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。

通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から東京都港区南青山2
の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻の庸子(ようこ)さん。自宅は東京
都渋谷区神宮前6の34の1。Asahi Com >2007年 06月28日19時31分

この夜、東京・内幸町の日本記者クラブのレストランでご逝去を知らされ
たが、失礼ながら、何の感慨も浮かばなかった。政治家に転進すること
なく、行政官に徹した方が幸せだったのではなかろうか、と思った。

特に田中角栄元総理が、早くから宮沢のこととなると、火が付いたよう
に「宮沢だけは総理大臣にしてはいかん」と叫んだことを思い出す。そ
れは子分の竹下登を総理にしたくない感情とは全く別で、心底、思って
いるのがよく分かった。

私は宮沢に1度、インタビューしたことがある。面白くも可笑しくも無か
ったが、質問には実に正確に答え、破目の外れる事は1度もなかった。し
かし、それ故にハプニングは1度も無く,面白味の全く無いインタビュー
だった。

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2007年06月28日

◆連結器外された安倍外交


                 渡部亮次郎

言わないこっちゃない。米国通の共同通信OB松尾文夫産後指摘の通り、北朝鮮の核問題デ、アメリカは苦しさのあまり、安倍政権とは連結器を繋がないまま独走しようとしている。置いてけ堀。

6月27日14時24分配信 読売新聞によれば、
<安倍首相が米中韓朝会合に強い不快感を表明した。これは安倍首相が27日昼、都内のニッポン放送で行われたラジオ番組の収録で、演出家のテリー伊藤さんと対談した際に述べたもの。

北朝鮮の核問題について、「日本が外れた6か国協議はありえない。(北朝鮮は)いろいろな策謀をめぐらして、日米、日中の分断を図ってくるが、彼らの策謀にはまってはいけない」と厳しく指摘した。

6か国協議参加国のうち米国、中国、韓国、北朝鮮の4か国が、朝鮮戦争の休戦協定に代わる朝鮮半島の恒久的和平体制を協議する会合を開こうとしていることに強い不快感を表明したものだ。

会合開催の検討は、6か国協議の米首席代表クリストファー・ヒル国務次官補が表明した>。

この点について渡部亮次郎のメイルマガジン「頂門の一針」848号
(07・06・26)は元共同通信社常務理事古澤襄(のぼる)氏の「米国の『敵前逃亡』?」を掲げて厳しく警告した。その結果がこれである。

古澤氏によれば、松尾氏は次のように指摘して、ブッシュ政権の変わり身を早くから指摘していた。それなのに日本外務省は何の疑問も抱かずに唯々諾々とアメリカを盲信してきた。もはや遅いかも知れない。

「アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失った。

ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった・・・と松尾氏は言いきった。

1月の時点で、米外交の転換をここまではっきり指摘した分析は出ていない。しかも拉致問題についても安倍首相は、アメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない、と松尾氏は厳しい指摘をした。(古澤氏)

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2007年06月27日

◆朝鮮戦争を知らぬ世代

<お詫びー本稿は、6月25日に著者・渡部亮次郎氏から送稿されたものですが、私毛馬一三の都合で掲載が今日まで遅れました。渡部氏に対し深くお詫びいたします。>・主宰 毛馬一三

                         

    渡部亮次郎

今から57年前の1950(昭和25)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。

当時、日本にはまだテレビがなく、私(中学3年生)たち子供は開戦の事実を知らないまま年月は去った。

あれからもう57年が経った。団塊の世代を含む以後の世代は朝鮮戦争を殆ど知らない。だが、あの戦争こそはアジアを舞台にした米ソ対立惨禍であり、依然、北朝鮮がアジアの火薬庫にしておく源淵である。

あの日は日曜だった。しかも韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間たってからであった。

しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、米との協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。北朝鮮軍は3日後の28日には韓国の首都ソウルを占領した。

こうした事態に対して国連は、侵攻2週間後の7月7日に招集した安保理で「米国による国連軍指揮」を認め、日本統治に当っているマッカーサー元帥が国連軍司令官に任命された。

一旦、南に追い詰められた国連軍は9月15日、仁川上陸作戦に成功、以後、反撃に転じた。

日本の国内では臨戦態勢が敷かれ、共産党首脳部の公職追放、警察予備隊の設置(自衛隊の前身)、軍事基地の強化などが実施され、米軍の前進基地としての役割が実証された。この事実はのちの日米安保条約の下敷きになった。

当然、日本は敗戦からまだ独立していない時期だったが、朝鮮戦争特需が起こり経済再建が急速に推進された。韓国要人に会うと「韓国の犠牲の下、日本は発展した」と真面目に揶揄されたものだ。

当初の韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かった。

これに対し韓国軍は建国(1948年8月13日)後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。

また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったものの軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。

その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなったのだった。

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◆戦没先輩を偲んだ・・・


渡部亮次郎

学校の創立記念事業にはいろいろある。私の県立秋田高校は前身秋田中学校の始まりが1873(明治6)年9月1日だからこの秋で創立134年を迎える。

私たちが卒業した時は80周年だったので、秋田県記念館で日本舞踊家五條珠実の舞踊披露が記念行事の1つだった。

先輩の大流行歌手東海林太郎(しょうじ たろう)が存命中だったから、彼の公演を希望したが、届かなかった。尤も地元では彼はアカ(共産主義者)と思われていたので、それでかもしれない。

話は九州に飛ぶ。その昔、福岡県立中学修猷館(しゅうゆうかん)の寄宿舎の一部を仮校舎として開校した県立福岡高等学校が、平成19年6月9日に創立90周年記念式典を挙行した。ここまではどこにでもある話。

福岡高校の男女生徒たちは昭和20年4月、海軍航空隊攻撃機の機長として散った大先輩の遺徳を詩や短歌に詠み、それをもう1人の先輩の声楽家に歌っていただき、CD4000枚と歌曲集(楽譜)3000部を
先輩や関係者に配布したのだ。

「誰よりも 愛すべき人よりも なお 国を愛して 逝きし人かな」

「願わくは 時空をこえて 語りたい 白き心は くちなしの花」

74歳の現役バリトン歌手山本健二さんが朗々としかし、しんみりと歌った。

歌われた話題の主は大東亜戦争で学徒出陣し24歳で散った故宅島徳光さん。福岡高校(当時はまだ福岡中学校)から慶応大学に進んだが、戦況の悪化に伴って断行された学徒出陣で海軍航空隊に入り、終戦直前の昭和20年4月9日、宮城県の松島基地から出撃したまま、金華山沖上空で不帰の人となった。

生前に残していた「青春の記録」は一部は既に戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」に収録されているが、遺族は「記録」の全部を昭和36(1961)年に「くちなしの花」として自費出版した。

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