2009年01月13日

◆離党・脱党の利害得失

                 渡部亮次郎

斯界再編成は焦眉の急になっているが、それよりも先に自民党をみずから離党しようとパフォーマンスを繰り返しているのが、渡辺喜美代議士である。

河野洋平は総理大臣になれなかった唯一の自民党総裁の経歴を残して引退するが、この原因は離党の傷である。田中角栄内閣に砂を掛けて新自由クラブを結成。田中を窮地に追い込みはしたが、政界浄化も何も達成できないまま恥ずかしいことに復党した。

脱党された時の田中の恨みは田中の子分全員に残った。河野はその恨みを纏った為、以後、能力の無さもあったが、どんな地位を与えられても政治史に残るべき実績は何も挙げられなかった。

ましたその仲間たち。どこに消えたかよほど大きな天眼鏡でも捜せない

私が大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)も若い頃、日米安全保障条約の批准案に反対票を投ずるため敢えて国民民主党(当時)を離党したことが、後々まで跡を曳き、苦労した。喜美も「後がたいへんだろうな」と心配してしまう。

性格の激しさで似ていた父親美智雄(ミッチー)ですら、生前、総理大臣の椅子を餌に小沢一郎から誘われても踏み切れなかったのが「脱党」だった。離党や脱党とはそれくらい政治家の信用を左右する一大事なのである

ミッチーが加わる前の河野一郎(洋平の父)も派閥ごと岸信介首相反対の新党結成を企図したことがあったが、派閥要員たちがその後の政界孤立を恐れて震え上がり成就できなかった。

後に自民党内閣(福田赳、大平、鈴木)の外務大臣を務め「日米安保条約こそは日本外交の基軸」との答弁を繰り返さざるを得なかった園田だが、時折は昔の傷をマスコミにえぐられた。

しかも安保条約反対の理由は「再軍備の不可能」だったにもかかわらず、日米軍事同盟への反対者と決め付けられたこともあった。反対票投入に先立って理由鮮明の記者会見などパフォーマンスをしなかったため「証拠」が残らず反対理由を勝手に解釈されることとなったのだ。

手許に『実録 政界二十五年』宮崎吉政著(読売新聞社刊)という1冊がある。読売新聞政治記者だった宮崎氏がまとめたものだが、当時、毒舌評論で名を馳せた大宅壮一が序文をよせているという「お墨つき」だ。

これによると日米安保条約に対して国民民主党(野党)の中には反対者が17人いると言われた。「青年将校」中曽根康弘は総務会でぶちあげた
「このような屈辱的条約に、われわれは責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で、日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれはアメリカに賠償をようきゅうすべきだ」

園田によるとその中曽根に従いて行ったのだが気がついたら先頭がいなくなっていた。中曽根を説得するのに三木武夫幹事長は「将来、きみが総理大臣になるときにキズになる」と口説いたそうだ。

このとき離党したのは園田のほか石田一松、小林信一。小林は社会党入り。石田、園田の2人は翌年結成された改進党に参加して復党した形とはなった。

しかし、園田にとって、それは苦難の始まりに過ぎなかった。なぜならその後結成された自由民主党は、日米軍事同盟の牙城の如き存在だったから、園田は日米安保に「反対した」分子と札が貼られ入閣が酷く遅れた。厚生大臣として初入閣した時は当選「9年生」だった。

しかも自民党政権の恥部であった水俣や新潟の水銀病をはじめて公害病と認定し、財界の総反発を招いた。これは離党や脱党の不利益ではなかったが、以後十年は再入閣がなかった。

園田に能力があったか無かったかはわからないが、日米安保条約批准に際して早くも「風見鶏」を発揮した中曽根は総理大臣にのぼりつめ大勲位に叙されて未だ健在である。

こうして振り返ってみても離党、脱党による政治家のプラスとは殆ど考えられない。むしろ中曽根をみれば脱党しなかったことが政権獲得のカギであったといえる。園田の息子は新党魁に走ったから未だに入閣できていない。ヘンなDNAである。文中敬称略。
2009・01・11


2009年01月08日

◆遺体展示の毛沢東

渡部亮次郎

モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けではガ無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されてる。

私が毛の遺体に初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。

そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。

帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現したケ(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。

毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。
http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php

その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。

観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。

さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。

田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。

それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる4人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。

それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もないケ(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。

1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ正平による改革開放路線の展開となる。

それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。

だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来とケ小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。2009・01・06

2009年01月07日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味するからだ。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。「共産党より恩人守れ」だった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は、連夜会を開いたが、まず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を林彪と決めて憲法に書いた。民主主義国家では考えられない事だし、同じ共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件が朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。実は当時の朝日新聞は林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいたことによるものである。

1969年の九全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、毛に野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否しミサイルで撃墜したとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初、林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。いずれにせよ、林彪事件には
今なお謎が多い。

林彪を消した毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたのを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。参考「ウィキペディア」
2007・07・27

2009年01月05日

◆議会制民主主義の乞食

渡部 亮次郎

こじき=食物や生活に必要な金品を他人に乞うて暮しをたてている者の総称。

日本では乞食は地方によりコジキ,モライ,カタイ,ホイト,カンジン,ヘンドなどをはじめ実にさまざまの呼び名がある。

ただしコジキの呼び名がもともとは仏教僧の托鉢(たくはつ)を意味する乞食(こつじき)からきているように,その多くは本来の意味からの転用である。したがって,こじきの範囲は今日一般に考えられているよりもはるかに広く,そのさかいめもあいまいであった。

たとえば近世以前の社会では,乞食とはどのような人々と考えられていたのだろうか。江戸時代の随筆類や風俗調査などにあらわれたところを大きく分類すれば,この時代の乞食に,(1)純然たる物もらいのためのこじき,(2)托鉢勧進する宗教者,(3)門付(かどづけ)芸人,(4)旅をする行商人,などをあげることができる。

このうち第1のタイプのものはおそらくどの時代にも普遍的に存在した。それは冷厳な経済の構造が多くの人々を社会の外へと切り捨てていった結果にほかならないが、風あたりはことに病人に対してきびしかった。

カタイというこじきの呼び名が,近年まで業病とおそれられた癩の異名であるとした土地が少なくないことにも,それはよくあらわれている。彼ら病人たちはこじきとなって故郷を捨て,しばしば治外法権的な性格をもった神社仏閣の庭にたむろして余命をつないだのである。

2番めのタイプの乞食には勧進僧,六十六部,巡礼など,いずれも旅をむねとする宗教者が含まれる。仏典によれば比丘(びく)の生活には十二頭陀(ずだ)行と呼ばれる12の戒律があり,乞食(こつじき)行はその一つとされる。

托鉢というのもこれと同じで,修行僧が煩悩のあかをおとし衣食住にむさぼりの心をおこさないため,門ごとに食物を乞い歩くことをいう。したがって午前中に行うこと,生命をささえるにたるだけにとどめることなど,いくつもの厳格な制約があった。

しかし一方では働かずに食物を手に入れられるところから旅僧まがいの世間師や故郷で食いつめた巡礼など,ほとんど乞食としかいいようのないものも少なくなかったのである。

第3の門付芸人には,節季候(せきぞろ),万歳(まんざい),春駒のように一年中の定まった季節にやって来るものと,説経,祭文,歌比丘尼などのように時を定めぬ者とがいた。

いずれも第2の場合と同じく,もともと乞食だったわけではない。むしろ季節を定めて祝福に訪れてくる神々への信仰に源流をもち,神の姿をした祝福芸人〈ほかい人〉の末裔にほかならなかった。

だから,《万葉集》巻十六に〈ほかひびと〉の歌がおさめられていることからもわかるように,その起源はきわめて古いといってよい。しかしこれら祝福芸がたとえば能や狂言などのように社会の上層に上昇転化するきっかけを失い,また近世に入ってからは,これらの芸をになった人々のほとんどが,差別視された身分におとしめられるにつれ,かつての巡遊芸人たちも乞食と同様にみなされるに至ったのである。

また最後のタイプの乞食にはたとえば,おもに箕(み)なおし,羅(おさ)作りなどにたずさわったといわれる山窩(さんか),オゲと呼ばれる漂泊漁民,野鍛冶などがあたる。

彼らの場合も,中世から近世にかけて都市が発達してゆく過程で,そこに定着することに失敗した職種の商人たちが,のちのちまで乞食として残されてしまったのであろう。

いずれの型のこじきにしろ彼らに共通する特徴として,経済的にも身分的にも社会の最下層に位置していること,社会の一般的な経済システムから排除されていること,そしてきわめて放浪性の高いことがあげられる。

逆に土地に根づく農民を主体に作られてきた日本の文化にあっては,一ヵ所に定住しないことはみずから食物を作り出さないことであったから,旅の境涯にある人々の生活様式は必然的に物乞いであるほかはなかったであろう。

その意味では旅を基盤にした文化あるいは都市でつちかわれてきた文化とは,こじきとそれにまつわるさまざまな習俗を生み出してきた文化であるともいえる。

一方,農民はじめ一般庶民の間にも習俗化された物乞いの行為が入りこんでいることが少なくない。たとえばまぶたに生ずるはれものをモノモライとかメボイト,メコジキなどこじきを意味することばで呼ぶのは,近所の家々をまわって障子の穴から手をさし出し,すこしずつ食物をもらい歩いて食べるとよいなどという民間療法からきている。

そのほか、八月十五夜の月見のだんごを盗んで食うと健康になるというのはよく知られた風であるし,小正月のころ若者や子どもたちがわざと乞食のなりをして家々から金品や食物をもらい歩く,カセドリとかコトコトなどと呼ばれる習俗もかつては全国に分布していた。

これは食物をともにすることにより,多くの人々と力をあわせ,より健康な生活をおくることができると信じた心意にもとづく慣行だと考えられている。

これに対して,一般庶民が,門ごとに訪れるこじきたちに対していだく期待も少なくはなかった。江戸時代の四国諸藩がたびたび乞食遍路の取締りを行いながらも,彼らを弘法大師の化身とみなす庶民信仰にはばまれてついに成功しなかったのは,乞食行脚(こつじきあんぎや)の宗教者に対する民衆の期待や信仰がいかに強かったかを物語っている。

施される金品とひきかえにこじきたちは宗教的な霊威や門付芸による祝福,あるいは生活上必要な物資さえもたらした。つまり都市や農村に住む民衆にとってこじきとは,生活圏の外から訪れてくる,なかばの期待となかばの恐れとをもって迎えるべき神聖な旅人でもあったのである。
(真野俊和)世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。

議会制民主主主義の下では乞食は背広を着て団体や政党らしきものを組む。やっていることには触れたくない。魂が穢れる       2009・01・04

2009年01月02日

◆嘘吐きは読売か山崎か

渡部亮次郎

<衆院選前、「新党考えず」 山崎拓氏、自民中心の再編強調>
(産経ニュース2008.12.30 21:05)

肝腎の「読売」は「否定」の山崎談話を大きくは取り上げていない。つまり「頬かむり」の状態。山崎氏を巻き込んだ加藤紘一氏の新党構想は固まったものでもないのに、あたかも彼らを中心に嵐が自民党内に起きかかっており「麻生大変」と客観ぶりながら脚をひっぱった読売。

政治家が嘘を言うのはいわば常だがツネ王国の読売が嘘を言ってまで麻生の倒閣を狙うというのは穏やかではない。狼が「来るぞ」「来るぞ」と過剰な警戒を呼びかけて結局、人々を怯えさせながら何かの主導権をとろうとする奴のことを昔は「狼少年」と言ったがいまは読売新聞と呼ぶのだろうか。

<山崎拓元自民党副総裁 自民党の山崎拓元副総裁は30日、次期衆院選前の新党結成を視野に入れた新たな勉強会を加藤紘一元幹事長と1月にも発足させるとの一部報道(読売新聞30日)に関し、新党目的との見方を否定した。

山崎氏は福岡市内で記者団の質問に答え「現在は(新党を)考えていない。自民党を選挙で勝たせ、政界再編の軸となる政党とするよう最善を尽くす考えだ」と述べた。

関係者によると、加藤氏が山崎氏に自民党内の新勉強会を提案し検討に入ったが、メンバーも決まっていない状況という。加藤氏は民主党の仙谷由人元政調会長らと「ラーの会」と呼ぶ超党派会合を開いているが、次期通常国会では与野党激突で開催困難になる懸念があることから与党だけの勉強会が浮上した。

山崎、加藤両氏は「衆院選後に政界再編」との認識で一致しており、山崎氏はこの日の福岡市内での街頭演説でも、「ねじれ解消の必要から総選挙後は政界再編が避けられない」と強調した。>

山崎氏もここまで明確に否定するのなら、読売への売り込みも程々にすべきだった。世間は変態性老化現象までは山崎氏を認知していたが、その後は「騒がせ屋」に落ちぶれていたとは知らなかった。

日本の政界が落ち込んだ閉塞感はなにに原因があるわけじゃない。いつにかかって世襲議員だらけになった「無気力」に発している。
しかして議員の世襲は息子、娘たちの望みよりは後援会の勢力維持のための現象だから最早直らない。

新党という新しい器を作って無気力世襲議員を蹴落とす以外にない。とはいっても加藤、山崎といった不使用済み不核燃料が新党の核になることなんかあり得ない。読売の「飛ばし」もいい加減にしてもらいたい。

戦後の読売は政治、経済面を充実させて発行部数日本一の新聞にのし上がったが、得意の政治面を使って倒閣運動をやるようでは、程なく昔の3面記事の読売に戻らざるを得なくなるだろう。のぼせ上がるな。新聞が休刊の元日。僭越ながら新聞に代って本心を言う。2008・1231

2009年01月01日

◆マスコミの麻生降ろし

      渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

<加藤・山崎氏が新党視野、来月にも新たに勉強会
激震・麻生政権>(2008年12月30日03時04分 読売新聞)

新聞は今回から元日が休刊なので、この記事が読売の麻生政権に贈る「お年玉」である。このところ露骨なぐらいに麻生政権の脚引張りを続けてきた読売新聞が遂に公然と麻生降ろしに化けの皮を脱いだのである。

<自民党で年明けから、離党や新党結成などの分裂含みの動きが強まる情勢となった。加藤紘一・元幹事長と山崎拓・前副総裁らは次期衆院選前の新党結成を視野に、1月にも新たな勉強会を発足させる>。そうは言っても勉強会の主だったメンバーが明らかになっていない。

仮に近くあきらかになるとしても、既に旬の過ぎた老骨に敢えて群がる酔狂者がいかに落ち目の自民党とは言え、そんなに驚くほど数がいるとは思えない。それなのに「若手にも動き」と報じて脅しをかける。

<また、道路特定財源の一般財源化を巡る政府の対応に反発する中堅・若手議員の一部が関連法案の採決で造反を模索している。民主党側も、自民党内の造反・離党を誘う動きを強める構えで、1月5日召集の通常国会は政界再編につながる緊迫した展開が予想される>。名簿を明らかにしていないところを見ると読売政治部の「希望的観測」ととるべきだろ

<加藤、山崎両氏らの勉強会は「日本の国のかたち、あり方を考える」を主題に、自民党議員と、学者や文化人も交えて5〜10人規模となる見通し。構造改革路線を批判する立場から、「行き過ぎた市場原理主義の是正」を旗印とした勢力の結集を目指すとしている。民主党議員の一部を連携相手に想定しているとされるほか、公明党との協力を探る可能性があると見られている。

一方、道路特定財源の一般財源化では、新たな「地域活力基盤創造交付金」の使途の8割が道路にあてられる予定で、「道路特定財源の一般財源化を抜本的に進める会」の河野太郎、水野賢一、柴山昌彦の各衆院議員ら自民党の中堅・若手が「骨抜き」と反発。政府が1月下旬をめどに作る関連法案に関しても、「新交付金に縛りをかけるなら賛成し難い」と態度を硬化させている議員もいる。

定額給付金事業では、先の衆院解散要求決議案の採決で造反した渡辺喜美・元行政改革相が、同事業を盛り込んだ2008年度第2次補正予算案に反対する可能性を示唆。自民党内で同調者が出る可能性がある。

一連の動きには、麻生内閣の支持率急落などが作用している。参院で主導権を握る民主党は同党会派単独では参院の過半数がなく、自民党の一部との連携を模索する動きが出ている>。

それ見たことか。新党グループの規模は学者や文化人という「膨らし粉」を入れても最大10人規模。そんなものに血道をあげるほどの暇人は居るまい。もともと何もできない2世、3世議員ばかりの自民党。ボンボン議員ばかりだから政党に不可欠の躍動力を失ったのだ。

それだから自民党に決別するといったのでは自己矛盾。自らの尻尾を追いかけてから回りする犬に似ていないか。確かに新党の必要性こそは現下の日本政界に迫られた必然性のある宿題である。しかし加藤、山崎といった売れ残りの半端者が中心になったのでは、纏まるものも纏まらない。

読売は麻生への歓迎されざる「お年玉」を纏めるため誰かをけしかける必要があったのだが、乗ってきたのがこの2人ではのっけから竜頭蛇尾と貶しておこう。

2008年12月31日

◆今じゃ毎日が正月だよ

渡部亮次郎

正月が来る。来れば晩酌が午後2時に繰り上がり、滅多に会わない親戚、家人の姉、弟、甥らがやってきて料理を食べる。料理の値が少し張るだけで昨日と同じ。考えるまでもなく、今は毎日が正月みたいなものだから感激は一つもない

生活が楽になったのだ。雪国秋田での少年時代。隙間風だらけで寒かった。居間では囲炉裏で焚き火。正月だけ座敷で炭火。煙たくないだけ良かったが、良かったのはそれだけ。あ、田圃へ出なくてもいいのも良かったか。

餅と膾(なます)が出たが、餅は今に至るも好きでは無いから喜ばない、膾は酸っぱい上に甘いから嫌い。こんな正月のどこが良くて大人は盆踊りで「盆の十三日、正月から待っていた」なんて唄うのだろうか。とにかく私はこの集落を出てゆこうと早くからハラを決めていた。

当時の米単作地帯では雨が降らない限り田圃に毎日出なければならなかった。田圃では畦道の草刈はじめ何かかにか仕事があった。だから夜中に降る雨を百姓泣かせの雨と嘆いた。雨だ仕事は休みだと喜んだのもつかの間、朝飯が終わった頃には止んでいる。結局、田圃に出ざるを得ないのだから百姓泣かせの雨なわけだ。

当時はすべての農作業は手仕事。米という字が八十八と書くように米作りには88の手間がかかる。苗作りのための籾撒きに始まって代掻き、田植え、草取り、稲刈り,乾燥、運搬、脱穀。指の爪先に泥が詰まり腰が曲がってゆくのがよくわかった。

今では田植えですら機械化されたし、草取りも除草剤のおかげでなくなった。稲刈りも機械だから女たちが田圃に動員されることは殆ど皆無になった。その代わり田圃からは秋田音頭も聞えないしちょっとなまめかしい風景もなくなり用水路からは泥鰌もタニシも姿を消した。

私も秋田の田圃から逃走して55年になった。農作業の手順はすっかり忘れた。学校へ穿いてゆくために独りで編んだ藁沓の編み方も草鞋の編み方も思い出せなくなって久しい。

正月近くなると霜焼が痛いと泣く子供たちの声が近所のあちこちにこだまするように泣いた。あれはビタミンC不足だったという話だ。雪国でみかは無し。津軽から行商にくる林檎売りも大東亜戦争中は皆無。Cを補う食べ物はなかった。だから手の甲と両足の甲に霜焼の跡が歴然と残っている貧しさの象徴というべきか。

正月がくる。来れば間もなく誕生日。何歳になる?脳梗塞をやり損なって以来70歳以上は考えない事にした。高層マンションとやらで隙間風もない暖かさ。田圃の事も考えなくていい暮らし。毎日が正月みたいなものだから既に正月の感激も緊張もない。

秋田でも正月の感激はなかったから同じことか。それにしても私は今年、入院だけで済んだが周囲で多くの友人を失った。忘年の晩酌のグラスに逝った友人、ひとり一人の面影を浮かべながら2008年を送ろうとしている。2008・12・30

2008年12月30日

◆「08憲章」石平氏の見方

渡部 亮次郎

中国の民主化を求める「08憲章」は世界人権宣言採択60周年にあわせ、2008年12月10日、インターネット上で発表された(AP)

中国の学者や弁護士ら303人が公表したものだが、89年の天安門事件で母国と「精神的に決別し」、2007年日本に帰化した石平(せきへい)氏は12日の産経紙上で論評した。

「共産党政権おそらく彼らは、08憲章の発表を中国の発展を阻害しようとする外国勢力の陰謀だと決めつけ08憲章」の連邦共和構想を「祖国を分裂させるたくらみだと断罪した上で、いわば愛国主義の大義名分において民主化運動を潰しにかかってくるのであろう」と分析した。

石平氏はさらに「それでも事態の収拾がつかなくなる場合、国民的なナショナリズム情念をもう1度焚付け、対外的な危機を人為的に作り出すことによって、内部統制を強化して生き延びていくというのは、政権にとっての魅力的な選択肢の一つとなってくるはずである」とし以下のように述べている。

「08憲章」の原文に接したとき、昔の天安門民主化運動にかかわったことのある私は、久しぶりに血が湧くような思いをした。民主化の夢は再び、かの国の大地で蘇ってくるのか。

「08憲章」の示した民主化の理念と構想は、私たちの時代の単純な「理想論」と比べれば、実によく成熟して高次元なものとなった。

それは、中国の現状に対する冷徹な分析と、民主化の障害となる諸問題に対する深い洞察の上、政治・経済・教育・司法・宗教などの多方面における変革の構想と問題解決の道筋を提示し、中国民主化のための総合的なガイドラインを打ち出したものである。

その中で、たとえば「軍の国家化」の主張はまさに現体制の核心部分を突いた鋭い切り口であり、「連邦共和制」の構想はまた、「中国のような巨大国で民主化が実現可能なのか」という長年の難題の解消に方向性を示した歴史的な突破である。

発起人の多くが天安門民主化運動の中心人物の生き残りであることからすれば、今の成熟は過去の運動の挫折に対する反省の結果であると思うが、完成度の高い「08憲章」の発表自体は、民主化運動の一歩前進を示した画期的な出来事である。

何よりも注目すべきなのは、天安門事件から19年目の2008年に、この「08憲章」が発表されたタイミングの重大な意味である。

天安門事件以来の19年間、中国の民主化運動が低潮期に入ったことは事実だが、その最大の原因はやはり、1990年代から始まった市場経済への本格的な移行と、その結果としての高度経済成長にある。

つまり、時代のパラダイム(思考の枠組み)が「政治」から「経済」へと変えられていく中、この国のエリートと民衆が富と豊かさを求めて市場経済の波に呑(の)み込まれていくと、民主化の理想と欲求が徐々に忘れ去られる。そして高度成長のもたらす経済の繁栄はまた、共産党の一党独裁に新たな正当化の根拠を与えて政権安定の基盤を作った。

その結果、党と政府の思惑通りに、十数年にわたる「繁栄と安定」の時代が「めでたく」出現したわけである。

しかしその半面、政治的一党独裁と経済的市場化との矛盾が棚上げにされたままの経済成長は、やがて腐敗の蔓延(まんえん)や貧富の差の拡大や農村の疲弊などの問題を生み出し、経済が繁栄しながらも年間に数万件の暴動が起きるようないびつな社会を作り出すに至った。

かくて運命の2008年から、肝腎の経済繁栄も陰りを見せ始め、特に08年後半に入ってからは、「急落」、「減速」、「減産」、「リストラ」、「倒産」などの不吉な単語が毎日の新聞記事に登場してくる中、十数年間の高度経済成長はその終焉(しゅうえん)を告げようとしている。

これまで経済の繁栄によって覆い隠されていた社会的諸矛盾が一気に噴出してきて、経済の後退がもたらす失業の拡大が社会的不安をさらに増大させる事態の発生が必至だ。つまり今度は、「繁栄と安定」の時代に取って代わって、衰退と混乱の時代が再びやってくるのである。

そうすると、中国はどこへ向かうべきか、という忘れ去られていた根本問題が再び浮上してきて、変化と改革を求める声は再び時代のパラダイムとなってくる。

したがって、このような歴史的な節目に堂々と登場してきた「08憲章」は、まさに中国の直面る難局を打開し、国づくりの新しい道を切り開こうとする民主化運動の「再出発宣言」となるのである。

インターネットが発達し、市場経済の広がりが党の直接支配の及ばない自由空間を作り出したこの時代、彼ら民主派知識人や人権活動家を中軸に、いびつな経済繁栄から取り残された農民工や都市部労働者、経済衰退の中で生活破綻(はたん)をきたしていく中産階層、

卒業しても職にありつけない大学生、そして「中華帝国」の支配に反発するウイグル人やチベット人などが、自由・人権・民主の普遍的価値を掲げた「08憲章」の旗印の元に結集してくるのであれば、それが間違いなく、中国の行方を決定する大きな流れを作り出していくのであろう。

日本がどう対応すべきかこそはわれわれにとっての大問題であるが、とにかく、08年12月から、巨大隣国・中国の変革と激動の時代がいよいよその幕を開けようとしていることを、まず認識しておくべきであろう。



■天安門事件 1989年6月、中国政府が軍隊を出動させ、民主化を求める学生らを弾圧した事件。4月15日に急死した中国共産党の改革派指導者、胡耀邦氏の追悼を契機に、学生らが北京の天安門広場でデモを繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。トウ()小平氏ら指導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて、軍を動員して広場を制圧し、少なくとも数百人の死者が出た。


■せき・へい 1984年北京大哲学科卒。88年に来日。89年の天安門事件で母国と「精神的に決別」。95年神戸大大学院で博士課程修了。2007年日本に帰化し08年拓殖大客員教授。「私は『毛主席の小戦士』だった」(飛鳥新社)など著書多数。四川省出身。46歳。産経ニュース
2008.12.23 18:18


2008年12月28日

◆トウ小平に贈られた高級車

渡部亮次郎

<12月5日発行の共産党中央宣伝部の機関誌「半月談」は「1978年にケ(トウ)小平氏は日本から何を学んだのか」と題する記事を掲載した。同年10月の訪日で新幹線に初めて乗り、松下電器産業や新日本製鉄などを見学したケ小平氏が日本の発展ぶりに大きな刺激を受けたことを詳しく紹介、「この経験は後の中国の近代化構想の中で大いに参考となったに違いない」と論評した。

また、23日付の中国紙「中国青年報」は「日本がなければ、改革・開放は大きく異なっていた」とするコラムの中で「1979年以来、日本は中国の最大の援助国となり、総額2000億元(約2兆6000億円)以上を提供し、中国が受け取った援助額全体の67%を占める」と紹介。

「2002年までに日本は1万2000人の専門家を中国に派遣し、農村開発などの分野で大きな役割を果たした」と指摘した。北京紙「新京報」なども最近、同様の内容の記事を掲載している。

これまでの中国メディアの日本報道といえば、歴史認識や領土問題などで日本を批判し、旧日本兵の残虐行為を強調するものが目立ち、戦後の日本を客観的に伝える記事は少なかった。このため多くの中国人は中国の近代化に日本が資金面や技術面で大きな役割を果たしたことをまったく知らない。

偏った日本報道や愛国主義教育の結果、胡政権が推進する日本重視路線は国内世論から強い抵抗を受けているのが実情だ。

今回の日本報道の変化について、中国の日中問題専門家は「戦後の日中関係史に光を当てることで日本の良いところを伝え、若者の反日感情をやわらげる世論対策の意味がある」と指摘する。

また、「中国が政府開発援助(ODA)に感謝していないことが日本世論の対中感情悪化の原因の一つになっているので、今回の一連の報道は日本の国民感情に対する配慮も込められている」と分析している。>産経ニュース2008.12.25 21:17

1978年10月、ケ(トウ)小平氏が、初来日した時、肩書きは中国政府の「副首相」に過ぎなかった。3度目の失脚から奇跡の復活を遂げてまだ1年未満だった。しかし実力は既に華国鋒主席を凌ぎ実力No.1だった。

当時、日本は福田赳夫内閣。福田首相は2年前、幹事長大平正芳氏に対し「2年後には大平にバトンタッチする」との蜜約書を渡していたが、これを勝手に「反故」にし、大平氏と力で争う事を決意していた。

トウ副首相はそんな事情を知る由もない。私は当時、外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、トウ一行接遇を横目に、自民党総裁選の行方に最大の関心を払っていた。首相交代ともなれば園田の政治的立場が変わるからだ。福田総理は『密約』反故で総裁再選後は園田氏を外相留任か通産大臣への横滑りをエサに密約反故への加担を誘ってきていた。中には幹事長就任を言ってくる側近もいた。

海千山千といわれた園田氏だったが、密約立会人としては、約束遵守の決意は固かった。さすが元特攻隊員だった。

トウ氏は歓迎の晩餐会や天皇陛下の謁見を滞りなくこなしながら、敗戦日本の経済復興の実態の見学を早くしたがった。実際、昭和天皇の謁見の時は胸を張って入って行ったったが、謁見の後はうなだれて小さくなって出てきた。会談中、日本の工業発展に伴う大気汚染など公害問題ばかりを話題にしようとしたらしい。

そうした中、某大手自動車メーカーが通産省(当時)ルートを通じてツ氏に最高級乗用車1台を贈りたいと私に打診を依頼してきた。

毛時代はホテルのボーイでさえチップを拒否するように言われている国。さてどうかなと思ったが、あにはからんや二つ返事で「是非いただきます」さっさと船での持ち帰りを早々に手配する始末。

福田首相からの土産はたった85万円の陶器だったが、1000万円の乗用車をこともなげに受け取る共産主義者。私はそれまで見聞してきた中国幹部と全く異質なものをトウ氏から感じ取った。「とんでもない事を平然とやってのけられる太い神経を持っている」。

トウ氏はやがて一行と共に新日鉄や松下電器の視察を終え、東海道新幹線に乗車、大阪に向かった。日本側記者団に感想求められ、たった一言「鞭で首を打たれ続けるようだった」。その意味を追求した記者はいなかったようだが。敗戦国ですらこれだけの経済発展を可能にしたもの、それが資本主義体制による自由競争にあることを痛感したのだと私は受け取った。

果たせるかなトウ氏は、帰国直後から経済の改革・開放の必要性を強調、遂に暮までには党全体の了承を取り付けたのだった。経済の改革とはすなわち資本主義と自由競争体制の取り入れであり、開放とは外国資本受け入れの事である。ここから中国は「トウ小平」時代の幕をあけたのである。

自民党の総裁選挙は大方の予想に反して福田氏が惨敗、下野。大平内閣に園田外相は再任となり、中国への政府開発援助(ODA)供与開始に踏み切った。しかし、その事実を中国は国民に対して絶対明らかにしなかった。経済建設が宿敵日本の「お蔭」とは口が裂けても言いたくなかったのだ。

だが、生前のトウ小平は口では一言も言わなかったが、日本人あるいは技術を極めて高く評価してていた。というのは、日本から帰って暫くしてある秘密ルートを通じて園田外相の下に1枚のレントゲン写真が届けられた。「可能性を医学界に打診して欲しい」の一言だけだったが、脊髄のぷっつりと切断されたその写真が、文革中、北京大学の4階から転落して身体障害者になったトウ氏長男のそれである事は明らかだった。

切れた脊髄が日本でなら繋がるかも知れないと「父トウ小平」は考えたのだ。勿論日本の医学界とて下す手立てはなかったわけだが、あれから丁度30年。「日本なくして新中国は無い」とトウ氏は思っていたはずだと回想することしきりなのである。

じつはこれに先立って田中角栄首相に同行して北京で日中国交正常化に立ち会った1972年。「日本の敗戦直後よりも50年は遅れている」と感じた中国が、たった30年で今や日本に経済面で牙をむくようになった。

ここで改革・開放体制から日本を否定する事は絶対に不可能なのだ。それを弁えない限り中国の正しい発展はあり得ない。中国メディアにも日本との関係を科学的に考えられる御仁がようやく出てきたようである。2008・12・27


2008年12月27日

◆脳梗塞は2分20秒に1人

渡部 亮次郎

軽度とはいえ、脳梗塞で10日間の入院生活をして、改めて人生について考えさせられた。「人間、独りでは生きて行けない」のである。

洗面器に湯を張って、手を入れてふと考える。湯にすれば突然入ってきた異物の手である。手を抜けば、手なんかなかった元に還る。私の入院していたあのベッドには、既に次の患者が入り、西病棟4階は渡部亮次郎なんか忘れた日常に還っているだろう。

久しぶりに帰ってきた自宅のベッド。深夜、レシーバーを耳に当てるとラジオ深夜便がいつものオーダーで、私と無関係に番組をすすめている。私がいてもいなくても世のなかは粛々と営まれているのだ。

翻って私は世の中に対して粛々、唯々諾々としていられるか。決してそうではない。家庭には家族、外では友人。知人、先輩、同僚、後輩に手を引っ張られて浮いているに過ぎない。決して独りでは生きてゆけないのだ。病気になってみて改めて痛感した。

2008年11月17日(月)の朝7時に起きて、いつものようにパソコンを開けた。いつものように愛読者4千人にメイル・マガジン「頂門の一針」最新号を配信すべく編集に取り掛かったが、どうも違和感がある。左手小指の先が痺れる。

おかしいな、脳梗塞かなと思いつつ配信を終えた。8時半、掛かりつけ東京高輪病院の内科医に電話。「このところ続いた高血糖による異変では無いでしょうか」「そんな事はありませんよ、ご心配なら脳神経科にいらしてみたら」であった。

そうだ、糖尿病患者は脳梗塞や脳内出血を普通の人の何倍も起こしやすいと教わっていたではないか。そうだ「権威」友人石岡荘十に聞いてみよう。彼は自身、心臓手術を体験して以来、勉強の成果を文藝春秋から上梓したばかり。

「それは間違いなく脳梗塞だ、急いで病院へ行きMRIを撮ってもらいなさい!」叫ぶような声。アパートの真向かいが小さな総合病院だが嫌いだから30分以上かかる港区高輪台にある掛かりつけ「せんぽ東京高輪病院」に駆け込む。

MRIの結果は右耳の脇あたりにご飯粒ぐらいの梗塞(血栓のつまり)が発見されて、即時入院、20日間の点滴治療が宣告されたのだった。

詰まったまま時間が経つと先の脳神経が死んで不具者になってしまうが、早く血流を再開すれば元に戻る。急がなければ無意味なのだ。

院内エレベーターの「痺れ研修会」案内ポスターによると、「痺れ」の原因は4つあるそうだ。
(1)手根管症候群
(2)肘部管症候群
(3)頚椎症
(4)脳梗塞

脳梗塞にもいろいろあって、私のように極小さい梗塞はCTなんかでは発見できないから「微小脳梗塞」と言ってMRIが発明されるまでは見逃されていたらしい。MRIは最近の臨床では、主に脳と中枢神経系の病気を診断するの使われている。やわらかい組織をうつしだす点ですぐれているため、X線ではみえない部分も画像としてとらえることができる。

直ちにとラジカット30mg100mlとキサンポン40mg 100mlの点滴の点滴が開始された。点滴は午前と夜の2回。10日間続いた。

受けた点滴は微小脳梗塞初期に対しては標準的な治療法だそうで、小指の痺れは翌日には取れた。

その後の検査で右の頚動脈に狭窄が発見されて、ドッキリしたが、幸い手術するまでもないとなって予定より早く10日間で退院となった。死神を遣り過ごしたわけである。予後、血栓予防薬剤として錠剤「プレタール」の服用を一生義務づけられたが、アルコールの飲用が禁止とはならなかったので二重に助かった思いである。後遺症は全くなし。

大阪の安井敏裕氏(脳外科医・産業医)によると、脳梗塞に対して米国では1996年から特別な手技や道具が不要で、ただ静脈内注射するだけで詰まった血管の血栓を溶かしてくれる「アルテプラーゼ」と言う薬の使用が始まり、2002年にはヨーロッパ連合(EU)でもこの薬剤による血栓溶解療法が認可された。

この薬は血管に詰まった血栓を溶かしてくれる血栓溶解剤で、発症後3時間以内に静脈内注射するだけで良好な予後が得られる。わが国では米国から遅れること約10年の2005年10月11日に漸く承認された。

安井氏によると脳卒中とは、脳に酸素やブドウ糖などの栄養を送る血管が「詰まったり、切れたり、破裂して」、にわかに倒れる病気の総称である。

脳卒中には、脳梗塞(詰まる)、脳出血(切れる)、くも膜下出血(破裂)の3種類ある。

この病気の歴史は古く、「医学の父」と言われているヒポクラテスは既に今から2400年前の紀元前400年頃に、この脳卒中の存在を認識し「急に起こる麻痺」という表現で記載している。脳卒中による死亡率は日本では癌、心臓病に次ぎ、第3位で、毎年15万人程度の人が亡くなっている。

しかし、本当に問題となるのは、脳卒中が原因で障害を持ち入院あるいは通院している人たちが、その約10倍の150万人もいることである。

現在、脳卒中の中では、脳梗塞の発生頻度が突出して多い。2分20秒に1人が脳梗塞になっていると言うデータもあり、全脳卒中の70%程度を占めている。

この最も多い脳卒中である「脳梗塞」について、大きな治療上の進歩があった。アメリカで12年前の1996年である。

脳梗塞は、脳の動脈が血栓や塞栓という血の固まりのために詰まることで起こる。この血の固まりで閉塞さえた血管から血流を受けていた部分の脳は、いきなり脳梗塞という不可逆的な状態になってしまうのではなく、3時間の猶予があり、徐々に脳梗塞になる。

この3時間の間に血流を再開してやれば、再度、機能を回復できることになる。いわば、「眠れる森の美女」のような状態で、医学的には、このような状態の部分の脳を「ペナンブラ」と言う。見方を変えると、この部分は、血流が再開しないと3時間後には脳梗塞という不可逆的な状態となってしまう訳である。

このペナンブラの部分に血流を再開する方法として、古くは開頭手術をして、目的の血管を切開し、中に詰まっている血の固まりを取り除く方法を行っていたこともあるが、それでは、多くの場合に時間がかかりすぎ、再開通させた時には、ペナンブラの部分は既に脳梗塞になっている。また、間に合わないばかりか、出血性梗塞というさらに悪い状況になってしまうことさえある。

開頭術の次に登場した再開通法は、カテーテルという長い管を血管の中に通し、その先端を詰まった部分にまで誘導して、血栓を溶かす薬を注入する方法である。

この方法では開頭手術よりも早く、血管を再開通させることができるが、この方法であっても、血管が閉塞してから6時間以内に再開通させないとペナンブラが脳梗塞になってしまうことが防げないし、間に合わずに血流を再開させた場合には、やはり脳出血が起こってしまう。

このようなことから、一時、脳卒中に関わる医師は、口には出さないが、最も理屈にあった治療法である「急性期に閉塞血管を再開通させて脳梗塞になることを防ぐ」と言う治療を諦め、虚無的になっていた時期がある。

再開通させることを諦め、梗塞に陥ってしまった脳自体の治療として、脳保護薬や低体温療法へと興味が移行していた時期もあった。

しかし、米国で1996年から特別な手技や道具が不要で、ただ静脈内注射するだけで詰まった血管の血栓を溶かしてくれるアルテプラーゼと言う薬の使用が始まり、2002年にはヨーロッパ連合(EU)でもこの薬剤による血栓溶解療法が認可された。

わが国でも日本脳卒中学会を中心にこの薬の早期承認を厚生労働省に求めたが、「日本人を対象とした治験で良い結果が出ない限り承認できない」という厚生労働省の方針に答える準備のために時間がかかり(druglag)、米国から遅れること約10年の2005年10月11日に漸く承認された。

この薬は血管に詰まった血栓を溶かしてくれる血栓溶解剤で、発症後3時間以内に静脈内注射するだけで良好な予後が得られる。

しかし、この薬剤は両刃の剣で、39項目に亘る使用基準を尊守しないと、脳出血の危険性が著しく増大することが分かっている。従って、厚生労働省も非常に厳しく市販後調査(2.5年間に3000例以上の全例調査)を課している。現在は、言わば試運転ないしは仮免状態と心得て、慎重に使
用する必要がある。

この薬剤を用いるためには、一定の講習を受ける必要があり、全国で130回以上行われ、8000人以上が受講した。実際に、この薬剤を発症後3時間以内に注射するには、患者さんには、遅くとも発症後2時間以内に病院へ到着してもらう必要がある。

すなわち、病院へ到着しても、患者の診察、一般検査、脳のCT検査、家族への説明など、最低1時間は必要であるためである。そのために、最初にこの薬剤の使用を始めた米国では、脳梗塞を“ブレインアタック(brain attack)”と言い直し、社会全体に向かって、その緊急性を啓発した。

すなわち、“Time is brain. Time loss is brain loss.”などの標語で注意を喚起した。日本においても脳梗塞を“ブレインアタック”という緊急を要する疾患として一般の方々に認識していただくために、学会や医師会などの啓発運動も行なわれるようになっている。

さらに、平成9年3月に創設された日本脳卒中協会においても、毎年5月25日〜5月31日までの1週間を脳卒中週間と定め啓発運動に努めるようになっている。

脳卒中週間をこの時期にしたのは、とかく脳卒中は冬に多いと思われがちであるが、脳卒中の中で最も多い脳梗塞は、最近の研究では6−8月に増えだすため、脳卒中予防は夏から気をつけなければならないことを啓発するためである。

この週間で使用される標語も、昨年(2006年)はアルテプラーゼの使用が認められたことを念頭において「1分が分ける運命、脳卒中」であった。2001年の日本での脳梗塞急性期来院時間調査の結果では36.8%の患者が3時間以内に来院している。この中の一部の方がアルテプラーゼ治療を受けることになるが、この割合をさらに増やして、本薬剤の恩恵を受ける人を増やす必要がある。

この治療では10年の経験を持つ米国では、この治療を受けるためには、
1)患者の知識、
2)救急車要請
3)救急隊システム、
4)救急外来、
5)脳卒中専門チーム、
6)脳卒中専門病棟、とういう6つの連鎖の充実と潤滑な流れを推奨している。
 
一般市民への啓発や行政への働きかけなどが必要である。一方で、来院から治療までの時間も1時間以内にする努力が病院側に求められている。いつでも、3人程度の医師が対応できなければならないし、他職種(レントゲン部門、検査部門、看護部門)の協力も不可欠である。(了)

(安井氏は元大阪市立総合医療センター・脳神経外科部長・現社会福祉法人「聖徳会」岩田記念   診療所 勤務)

私は1時間遅かったが、角さんは死神に遭うのが何年も早すぎたのである。
2008・11・30Microsoft(R) Encarta(R)


2008年12月24日

◆百花斉放 百家争鳴で一網打尽

          渡部亮次郎

2008年12月10日、中国の一党独裁中止を要求する08憲章が発表され、呼びかけ人は直ちに拘束された。それでも同調の署名者は何百人に達したと報じられたが、大した騒動にはなっていない。

現地では当局がニュースサイトの閉鎖に乗り出したと噂されているが、産経新聞中国総局長の伊藤正氏は「中国指導部は、憲章のネット情報をほとんど規制しておらず、一党独裁を揺るがすことはないと踏んでいるようだ」と報じている(19日)。

かつては当局に刃向かった学生たちも今回は温和しいようだ。そこで思い出すのが「百花斉放 百家争鳴」の罠だ。今から半世紀前の1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。

この運動は、文学、芸術、科学技術に従事する者たちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。

ところがインテリたちは罠を感じて反応しなかった。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。

毛沢東や人民日報からは「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」
「言う者に罪無し」「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」
という発言が飛び出し、知識人を大いに刺激した。

民主主義国家では当たり前のことだが、共産党独裁の中国では現在でも容認されない画期的な政策であった。

こうして1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。中共による独裁が批判される一方で、儲安平は全ての分野に党員を配置する党天下を痛烈に批判した。批判の対象は毛沢東と周恩来にまで広がった。

1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。

もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

集団虐殺がなかったとはいっても、右派分子と断罪された人々が名誉を回復するには、改革解放が始まる20年後まで待たなければならなかった。生きて名誉回復ができたのは20数万人に過ぎなかった。残りの約30万人は中国共産党によって生命を奪われたと言ってもいいであろう。また、1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。

毛沢東自身は1958年5月8日の会議で述べている。「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。
08憲章ではしゃいでいると一網打尽が待っている、と感じているインテリは多いだろう。2008・12・23

2008年12月21日

◆外務次官北朝鮮人説の真贋

        渡部亮次郎

「外務事務次官の藪中三十二(やぶなかみとじ)は母親が北朝鮮人だ。だから北朝鮮による日本人拉致事件は彼の次官在任中は解決しない。確かに藪中は大阪出身だが。実にショックな発言だった。

2008年12月12日夜9時過ぎ。都内有名ホテルでの宴席、その日が初対面の元閣僚が、宴会のお開き間際にショックな発言をしたあと、手嶋さん(前NHKワシントン支局長)の著書に詳しいよと述べて去ったのである。

北朝鮮との際どい外交交渉の先頭に立っている外務事務次官がこともあろうに母親が北朝鮮人とは、俄かには信じられない話では無いか。発言者が元閣僚という重さを持った人物とあっては一笑に付すわけには行くまい。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による
薮中三十二。

薮中三十二(やぶなか みとじ、1948年1月23日―)は、日本の外交官。外務事務次官。

大阪府立住吉高等学校卒。大阪大学法学部を昭和44年(1969年)に中退し『中級』公務員として外務省に入省。しかし翌年、外交官試験上級職試験を受け直して、昭和45年(1970年)外務省に再入省。小嶋光昭、西田芳弘(外務省中南米局長)、小野正昭(駐墨大使)らが同期。その後、コーネル大学に留学し、昭和48年(1973年)に卒業している。

昭和58年(1983年)、書記官として在韓大使館勤務。勤務期間中にデモ隊が大使館に乱入、大使のボディガード役を務める。その後在米大使館などで勤務。北米局2課長やシカゴ総領事、官房総務課長を経て、平成14年(2002年)12月、外務省アジア大洋州局長に就任。対北朝鮮外交、対中国外交での拉致被害者の返還交渉と北朝鮮の核問題における交渉担当者。平成19年(2007年)1月に政務担当外務審議官。

平成20年(2008年)1月17日、谷内正太郎の後任として、本命の条約局ルートを歩んできた海老原紳(駐インドネシア大使)を制して外務事務次官に就任。
外務省関係者の評価では後に「上級」で入りなおした人物が事務次官になりえたのは珍しいという。


手嶋龍一(元NHKワシントン支局長が書いたのは「ウルトラ・ダラー」(新潮社)政治スリラー小説。彼を快く思っていない嘗ての彼の同僚たちは手嶋を全く評価しない。私の代りに読んでくれと頼んでも珍しく拒否された。

仕方なし取り寄せて読んだ。

北朝鮮が密かに印刷を進める精巧な偽100ドル札、通称「ウルトラ・ダラー」。その製作には日本から拉致された印刷工や密輸された印刷機器が絡んでいる。BBCの東京特派員スティーブン・ブラッドレーは、日本の外交当局や米国諜報機関と連絡をとりながら、偽米ドル札の背後にある陰謀を追う。

最初からドキュメント・ノベルと銘打ち、香港やシンガポール、ジュネーブやパリなど世界各地に舞台を移しながら、中国やウクライナまで巻き込んだ壮大な諜報合戦が繰り広げられる。
書かれていることの多くにはモデルとなった現実の事件や企業があることが透けて見え、小説とはいえ現代国際政治の妖気ただよう様が描かれている。

北朝鮮はドル紙幣の用紙をアメリカ国内で盗み、印刷機をヨーロッパで調達、印刷職人は日本から拉致して精巧な偽100ドル札を大量に印刷する最終目的はウクライナから核」弾頭ミサイルを購入するため。
一連の工作に日本外務省のアジア大洋州局長「瀧澤勲」が実は北朝鮮側の工作員として登場する。

ことが官憲に暴露される寸前、東南アジアに逃亡。自宅への家宅捜索にはいった東京地検の検事が「告白文」を発見。「大阪の鶴橋に程近い舟橋で生まれた私の本当の母親は北朝鮮の工作員」と説明。

母親は「母たる私への思いを些かでも抱いてくれるなら朝鮮民主主義居和国と野国交を樹立し、日本に過去への償いをさせて欲しい」と頼んで姿を消したのだ。

その言葉を胸に秘めた瀧澤は天王寺の中学・高校で在日朝鮮人の友と過ごした後外務省に入省し、やがて北京のホテルで、今や北朝鮮の工作員となった昔の友人会い、偽100ドル札工作弐引き込まれて行く。

日本外務省の動きをマスコミで多少知る人間からすると、モデルを詮索すれば嘗ての外務審議官田中均氏を連想するが、藪中三十二氏を連想することも不可能ではない。ただ小説は小説で終わっていて藪中氏の母親が北朝鮮人だとは決して断定はしていない。
以下は友人の調査。
住吉高校は在日が多い
『在日韓国人ら日本国籍以外の生徒を多く受け入れていることも住吉高校の特徴です。その数は全校840人のうち約50人を占めます。』
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1202982494/

『弟が入学した住吉高校では最初から体操服にもハングルのネーム入れが当たり前のこととして行われてうれしかったことなどが話された。』
http://www.ne.jp/asahi/m-kyouiku/net/2005bunkakai4.htm

◆おまけ、藪中氏の人柄は?
さらば外務省!私は小泉首相と売国官僚を許さない 天木直人著
『ノンキャリア試験で外務省に同期で潜り込んだ藪中が,キャリア試験(上級職試験)を再受験したら,「天木さん」から「天木君」へと呼び方を変えたというエピソードもあった。』
http://www.bk1.jp/review/0000296804

れにしてもあの閣僚経験者ともあろう人物は、たったこれだけのことでなぜ断定した物言いをしたのだろうか。或いは「酔っていた」か私の空耳と片付けたほうが良いのだろうか。それにしてもあの元閣僚は拉致問題解決のすぐ近くにいるのだ。
いずれにせよ筆者は藪中氏や外務省関係者を中傷したり名誉を毀損する意図は全くないことを断っておく。2008・12・17

2008年12月19日

◆どう出る「08憲章」へ当局

          渡部亮次郎

中国で動き始めた「08憲章」について千里の堤も蟻の一穴から」と見るひともいるが、「死に際の猛虎」の凶暴さを見くびるなとの忠告を送る人もいる。何しろこれをうけいれたら中国で共産党はメシの食い上げだから死にもの狂いで取り締まるというのが常識的な見方だろうが、さて。

当局は強硬姿勢、対話より暴力か

中国当局は「08憲章」についてどういう形で対処するか?
中国問題に関する評論や消息筋情報が満載で中国観察には欠かせない、香港の月刊誌『開放』の編集長にして著名なチャイナ・ウォッチャーである金鐘氏がインタビューに応じた。(2008年12月10日/聞き手:河井森太郎)

金鐘氏は劉暁波氏とも親しく、「08憲章」にもすでに署名している。有数の中国観察家にふさわしく、金鐘氏は「08憲章」の内容に対する充足感と希望を託す心情を吐露しつつも、「08憲章」が直面している厳しい現実を冷静に分析・解説してくれた。

「中共当局は強硬な態度で臨んでくる、というのが私の見方だ。劉暁波氏を『刑事拘留』したのは不吉な前兆といえる。2009年は中国の『政治の年』だ。天安門事件20周年、チベット暴動50周年と、いずれも『多事多難の年』になることを感じさせる」

「治安系統を統括する周永康(党中央政治局常務委員)は江沢民系の保守的な人物で、独裁の威力の信奉者だ。劉暁波氏の逮捕を『2009年の鎮圧を控えたお掃除』だなんて言う者もいる」

「『蘇東波』(ソ連・東欧社会主義政権の相次ぐ崩壊)は中共にとっての悪夢。連中は『08憲章』が『憲章77』になることを決して許さないだろう。ネット上の規制を強化して『08憲章』が広まるのを封殺するだろうね」

「08憲章」とは

◆一党独裁に叛旗!全面的民主化求める異例の檄文である。

中国共産党による一党独裁体制の終結と全面的な民主化を求めた「08憲章」と題する文書で2008年12月10日、中国の学者や作家、弁護士,新聞記者など303名の署名とともにインターネット上で発表されたもの。

知識人らの連署による政策批判や政治犯釈放要求は過去にも行われてきたが、天安門事件以後、全国民がすくむ雰囲気にも拘らず300名以上が実名を明らかにして公然と一党独裁を批判するのは極めて異例だ。今のところ世界は運動の広がりと弾圧を企図する共産党政府の出方を緊張して見守っている。

「08憲章」は著名な反体制評論家・劉暁波氏らが発起人となって起草されたもので、「一党独裁」と明記してはいないものの、「新中国は名義上は『人民共和国』だったが、実質的には『共産党の天下』だった」

「執政党が政治,経済,社会の一切を独占し」

「その結果数千万人の生命が失われ、国民も国家も極めて惨憺たる代価を払うことになった」などと一党独裁体制を真っ向から批判。

その一方で多党制、三権分立、普通選挙制,基本的人権の尊重、共産党色の払拭などといった全面的な制度改革を実現することで中国が健全な民主国家に生まれ変わることができると主張している.。

中国当局はこれを「挑戦」と受け止めて強硬姿勢でこ対処するものとみられ、すでに劉氏ら複数を8日、「国家政権顛覆煽動罪」の容疑で刑事拘束。今後も署名者への監視・拘束が相次ぐのは必至だ。

ただしネット上で各所に転載された「08憲章」は現在でも中国国内から検索することができ、その大半はすでにアクセス不能となっているものの、一部のウェブサイトではいまだに全文を読むことが可能。この点は天安門事件当時と違ういわばネット時代の「反革命」とも言えよう。

これについては署名者が出揃ったところで一斉摘発を行うのではという見方もある。

しかし「08憲章」に賛同した署名者数は海外在住の中国人も含め,12日現在ですでに1000名を突破。国内では知識人だけでなく労働者、農民、企業経営者,プログラマー、大学生などの新規署名が目立ちつつあり、賛同者が従来の枠を超えて庶民の間にも広がる勢いを見せ始めている。

折しも主要先進国の景気後退を受けて、輸出頼みでやってきた中国経済は失速中。広東省だけですでに数万社が倒産したとみられ、突然の工場閉鎖や解雇通告、また経営者の夜逃げで失業者となった出稼ぎ農民たちが騒いで官民衝突に発展するなど事件が頻発している。

不動産と株のバブルもはじけて原野商法や高利を謳った違法な資金集めなどの被害者による暴動も相次いで発生。一方で中国独特の歪んだ経済発展モデルが超格差社会という形で行き詰まった状態でもあり、待遇改善を求めるタクシー運転手が地域を越えて連携し、各地で同時多発的にストライキを決行したのは記憶に新しいところだ。


こうして中国社会に不穏な空気が漂い始めた矢先、基本的に書斎派である知識人を中心に発表された「08憲章」が庶民レベルでも受け入れられることになれば、事態は意外な展開をみせる可能性もある。予測は全くつかない。

署名者には耕地強制収用や再開発事業で生活の場を失った農民や市民など被害者に対する救済活動に奔走している人権派弁護士や、エイズ患者救済活動家なども多数、名を列ねている。すでに半ば組織化されている被害者経由で一般市民などへのつながりが生まれていけばどのようなことになるだろうか。

あるいは、ネットのユーザー数が2億人を突破し、都市部住民の代弁者として政府も無視できない存在感を示すようになったネット世論が、「08憲章」を好意的に受け止めて盛り上がるようであればどうなるか。果たして当局の取り締まりとやらは可能なのか。

生活に行き詰まって蹶起する事件が多発するなか、「民主化」という悠長なテーマを掲げた「08憲章」が一般層に受け入れられるかどうかは甚だ疑問だが、一党独裁体制やその必然的帰結のひとつである党官僚の汚職や特権ビジネスの蔓延を公に批判する、という凛然たるスタンスが共感を呼んで火種となり、反体制的なムーブメントが生まれるという「大化け」の目は無いでも無い。

ともあれ、中共政権に対する「叛旗」、知識人による「宣戦布告」ともいえる、ある意味歴史的な文書が出現しながら、日本のマスコミによる報道は遺憾ながら未だ詳細に欠け不十分だ。

金鐘氏へのインタビューも意義はここにある。

「大化け」はやはり、夢で終わるのだろうか?
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