2010年07月06日

◆母国で無名の「昆虫記」

渡部亮次郎

先日、ラジオ深夜便でフランス文学者にして昆虫研究家の奥本大三郎さん(1944年3月6日 ―埼玉大学名誉教授、ファーブル昆虫館館長)が、フランス生まれの世界的昆虫学者ファーブルについて2夜に亘って語った。「虫と遊び虫に学ぶ」。

奥本さんは幼少の頃から虫好きだったが、学者としては昆虫学者にはならず、東大でフランス語を究め、「昆虫記」を翻訳して日本に紹介することに務めている。

ところが、田圃の中で育った私は昆虫と言ってもオニヤンマとイナゴぐらいしか知らないし、当然ながら「昆虫記」は読んだことが無い。少年時代、小遣いは0だったからである。

そこでフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でファーブルを索引してみたところ、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らないことを知った。

アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。

だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らない。

また、ファーブルの生地であるサン・レオンにはファーブルの功績を称えて銅像が立てられているが、この銅像は第2次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたことがある。

しかし、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。

日本、韓国、中国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。

しかし、母国フランスをはじめ、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほど知られていない。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 に生まれ1915年10月11日に死んだ。私の生まれる20年前である。

昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。

父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。

ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。

また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。

1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。

その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣デュリュイへの宗教界からの意趣返しの側面もあった。

教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した(彼の生家に現在も置かれている)。その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。

たまたまアヴィニオンに滞在していたイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルに、ファーブルの生涯でただ一度の借金を申し込んだのもこの頃である。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。

セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。

ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。

この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに惹かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。

このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。

1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。10・7・3


2010年07月04日

◆偉い人のスキャンダル

渡部 亮次郎

マスコミだけでなく、短期間ながら外交の世界にも身をおいた若い頃があったので、おおっぴらにはできない、偉い人のスキャンダルを多く耳にした。

戦前の外交官で、ほれた彼女を外交行嚢のトランクに詰めて持ち出そうとして、空港でばれて、大騒ぎになった人がいた。戦後、なんと東南アジア某国の大使になった、と言う。

余談ながら赴任する大使は必ず料理人を伴って行くが、資格申請をする時、料理人をサーヴァント(従者)としていた時期がある。現在は知らない。

ところで特に秘密警察が辣腕を振るったソビエト時代のロシアでは日本人もターゲットにされた。目的は様々。KGB手回しの女に新聞記者を誘惑させ、同衾中を撮影。家族や関係者に見せたくなければ当方の言うことをきけ。

本国帰国後、スパイになれと言って脅かされたケース。女との写真があるといわれたら、焼き増しして、皆に渡してくれと言えばよいそうだ。しかしそれは余程、度胸のある例で、大抵の人は震え上がる。ただ、男が男との写真は命取りだという話がある。欧米の人間は男と寝ている写真でゆすられて落ちたと聞く。

M内閣の顧問格だった元外交官。内閣は知らずに彼を内閣の特使として、アメリカに出そうとしたら、アメリカ側に馬鹿にされた。何かの機会にポーランド女性とセックスしているところをKGBに撮影されて脅かされていることをCIAは知っていたのだ。

日本の外務省は知らなかったが、以後はお役ご免にした。この人の甥が私の友人で、NHKで取材部局の部長を勤めて先に逝去したが、伯父さんのスキャンダルは知らなかった。

Z新聞の特派員だったQ氏。モスクワ市内で、すごく細めの女子大生とだったと伝えられている。Q氏は帰国後、本社の専務に就任した。例の件は不問とされてのか。いや、知らぬは本社ばかりなりだったのではないか。

Qさんはコワレンコの指揮下にその後もあり続けたと理解している人は多い。「Qさんを専務にまでしたZ新聞は愚劣だと思います」と言うのは某社の元モスクワ特派員。

Qさんの息子は放送局に入り、PDをやっていたが、外国でで、車ががけから落ちて、死亡した。

M内閣顧問格氏は元は外務省で枢軸派の白鳥などの子分だったので、Y項(吉田)パージになり、英字新聞に転身させられた。テレビのニュース解説に出演する時は、まえにいつも、水割りを数杯飲んでから出演したそうだ。

東北の寒村の出身ながら、あれほど、能弁な人は珍しい、と未だに高く
評価する人がいる。毀誉褒貶さまざま、である。2010・7・2

2010年07月03日

◆牛蒡(ごぼう)の伝説

渡部 亮次郎

「ごぼうの根の部分を野菜として利用するのは日本と朝鮮半島だけの特徴であり、葉の部分を野菜として、根や種の部分は漢方薬として使用されることが多い」(「ウィキペディア」)。

だから「戦時中、西洋人の捕虜に、きんぴら牛蒡を食わせた収容所長が、戦後、戦争裁判で『捕虜虐待』の罪に問われ、絞首刑になった」と言う話を、何かで読んで、信じていた。

だが「ウィキペディア」によると、話は確定的な証拠がなく、どうも不確かな『伝説』に過ぎないようだ。

牛蒡にまつわる食文化の違いがもたらした悲劇的な逸話として、「戦時中、外国人捕虜にゴボウを与えたところ、木の根を食べさせたと誤解され、戦後にBC級戦犯として虐待の罪で処罰された」というものがある。

小中学校でよく読まれる「はだしのゲン」でも言及されているため(はだしのゲンでは山牛蒡と記述されている)、この逸話は小中学生の間でも比較的知られている。

しかし実際には、この逸話には曖昧な点が多い。「らしい」「と読んだ」などと伝聞調に語られることが多く、話す人によって、内容(場所、捕虜の国籍、量刑、処罰された人数など)が食い違っていることが珍しくない。

また、牛蒡を食べさせたことそのものを直接の原因として処罰されたとする裁判記録などは見つかっていない。

この逸話は、特に東京裁判に批判的な立場から、一方的な復讐裁判の好例としてしばしば取り上げられている。

この逸話についての最も古い記録の1つが、1952(昭和27)年12月10日に行われた第15回国会参議院法務委員会での、当時の法務省保護局長の齋藤三郎の答弁である。

「一例としては、俘虜収容所の所員が、「終戦真際食糧が非常に不足している。併しこれに対してできるだけいい食物を与えたいというので牛蒡を買つて来て食わした。その当時牛蒡というのは我々はとても食えなかつたのだ。

我々はもう大豆を2日も3日も続けて食うというような時代で、牛蒡なんてものはなかなか貴重品であつた。その牛蒡を食わしたところが、それが乾パン代りに木の根を食わして虐待したというので、5年の刑を受けたという、こういう例もあるのだという話をしましたが、(…)」

しかし、具体的に誰が処罰されたのかなど、詳しい情報の出所はここでは述べられていない。

この翌年の昭和28年7月2日の参議院厚生委員会では、日本社会党の藤原道子が、「牛蒡を食べさしたものを木の根を食べさせたのだということで25年の禁錮を受けておる」と答弁しており、この時点でも既に量刑の内容が異なっている。

上坂冬子(故人)の著書『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』では、新潟県の直江津町(現上越市)にあった東京俘虜収容所第4分所の所長らが、終戦後、収容されていたオーストラリア人捕虜達から「木の根を食べさせられた」という告発を受けた。

うち所長を除く8名が裁判で絞首刑となった、という具体的な記述がある(ただし、牛蒡を食べさせたことが直接の原因かどうかは書かれていない)。

朝日新聞の連載記事『地球・食材の旅』の1996年11月10日掲載分に、長野県下伊那郡天龍村にあった東京俘虜収容所第12分所(満島捕虜収容所)に勤務していた警備員1名が無期懲役の判決となり、その裁判中に牛蒡を食べさせたことが虐待として扱われた、という話が掲載されている。

ただし、この警備員はまもなく釈放されたといい、実際に本人に取材を行ったがこの話については語ってくれなかった、と述べられている。

相馬暁は著書『野菜学入門』の中で「アメリカ人捕虜に牛蒡を食べさせたために、昭和21年に、横浜の戦犯裁判で捕虜収容所の関係者の、2人が死刑、3人が終身刑、2人が15年以上の有期刑の判決を受けた」と述べているが、それ以上の詳細については触れていない。

村山有が、捕虜に牛蒡を差し入れたことを理由に戦犯容疑者としてGHQに逮捕された、という話がある。

清瀬一郎(東京裁判の弁護士で後に衆議院議長)の著作『秘録東京裁判』の中には、「ある捕虜収容所」のケースとして、「牛蒡をオックス・テイル(牛の尾)、豆腐をロツン・ビーンズ(腐った豆)と誤訳したため、捕虜から不満が出た」という話が述べられている。

漫画 『はだしのゲン』では、「捕虜にヤマゴボウを食べさせて25年の重労働を課された」という話が、映画『私は貝になりたい』では、「牛蒡を食べさせて5年の懲役を受けた」という話が出てくる。

ごぼう抜き ―『広辞苑』(第5版)には、「(牛蒡を土中から引き抜くように)一気に抜きあげること」とあるが、これは厳密には間違いである。

というのも、ゴボウはそれ自体が長く、根毛も多い。土との接触面積が大きく摩擦も大きいため、するっと抜くことができないからである。

事実、農家では、ゴボウは「抜く」ものでなく、「掘る」ものと認識されている。この言葉はむしろ、抜きにくいゴボウを一気に抜くことができるほどの力を持っている、という意味で用いるほうが正確であろう。ゴボウの太い根は一株に一本なので、多数抜き去ることの比喩に用いるのは誤用といえる。

なお、「ごぼう抜き」という言葉には、座り込みなどを行う人物を力ずくで排除するという、原義に近い用法もある。

ごんぼ(牛蒡)堀り ―青森県と秋田県の方言に「ごんぼほり」(牛蒡堀り)というのがある。ぐずぐず不平を言って譲らない、酔ってくだを巻く(時に居座る)、強情である、ふてくされる(特に子供)、といった態度(あるいはそのような態度の者)ぐらいの意。なだめたり、お引き取り願うことはゴボウを「掘る」ことと同じくらい難儀であることから、であろう。

太平洋でごぼうを洗う ―男女の性交において、女性の膣の締め付けがゆるいと同時に、男性の陰茎が細いため、男女とも十分な満足感が得られないたとえ>。2010・5・18
出典:「ウィキペディア」

2010年07月02日

◆育むを「いくむ」と読む文化人

渡部 亮次郎

育むは「はぐくむ」と読むのが普通だろうが、学者相手のある会合で、80を過ぎた高名な文化人が「先生、伸ばすといくむはどう違うのですか」と聴かれて、お茶の水大学の副学長、一瞬頭をめぐらして「育む(はぐくむ)ですか」に、今度は文化人が「?」。私はなぜか赤面した。

先の大東亜戦争に召集を受け、敗戦後に大学。パリで文化活動後もモスクワ、中国、台湾などを忙しく回っている自他共に許す文化人であり、著書も多い。それなのに「いくむ」だもの。びっくりした。

しかし、お年のせいか、その場のしらけ鳥に気がつかなかったようだったから、これからも「いくむ」と発音されるだろう。これを面と向って訂正できる人はいないだろう。かくて、文化人はまた笑われるだろう。

そういえばドイツ在住の評論家、作家のクライン・孝子さんのメルマガに「せい巻き」というのがあった。何のことだろうと考えて「席巻(せっけん)」の変換落ちだろうと推察した。そうでなければ悲しい。麻生と同じになる。

今は知らないが、昔の国会議員には酷いのがいた。おいかさらまさ予算?追加更正予算。がっぽうてきてだん=合法的手段。いっきいっかい=一期一会。いちげんいっく=一言一句。いちげんはんく=一言半句。あげればきりがない。

ある大臣は記者会見で「ろんこうぎょうしょう」を連発した。「論功行賞」は「ろんこうこうしょう」と読む。功績の有無(うむ)や大きさを調べ、それに応じて賞を与えること。「ぎょうしょう」では貰った方が赤面する。

わが大臣は旧制中学は出ていたから、常識的な日本語は記憶していただろうが暫時と漸次を取り違えて困った。暫時をぜんじ、漸次をざんじと発音するから、通訳がそのまま間違えて伝えてしまう。

旗幟鮮明をきしょくと読んじゃうし、殺陣(たて)をさつじんと読んだ。満座の前で注意するわけにも行かず、下をむいて赤面した。

通訳と言えば「海千山千」をsea thousand mountain thousandとやった外交官がいた。海・山・河にそれぞれ千年棲んだ蛇は龍になるという中国の俗信からできた言葉で、「やり手」とか「したたか者」と使われる。エリ−トはこれを知らなかった。そういう例は多い。

脱線ついでに。昔、財界人永野重雄氏がソ連首脳との会談で「朝飯まえ」と言ったら通訳はそのまま訳した。また「臍で茶を沸かす」とは可笑しいという意味だが、エリート氏は知らないからそのまま訳したからたまらない。ブレジネフから「どうやって沸かすのか」と訊かれてしまった。ご本人から直接聞いた話だ。

さて、日本のみならずどこの国でも、国会議員に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

最近の米大統領ですら、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいたくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかくことになる。

津軽(青森県の西側半分)出身の作家・石坂洋次郎の小説「青い山脈」で女学生宛てのラブレターを先生が取り上げていきなり「へんしい、へんしい」と誤字どおり読んで笑わせる場面がある。

もちろん恋しい、恋しいなのであるが、文字とか言葉というものは、子どものうちこそ注意してくれる人があって直せるが、大人になってからでは、誰も失礼と思うから下を向いて笑いを堪(こらえ)たまま。本人がどでかい恥を掻く事になる。まさに聞くは一時(いっとき)の恥、訊かぬは末代の恥である。

「夫妻」を「ふうさい」といって直らない会長がいる。「夫婦」は「ふうふ」だから「ふうさい」と覚えてしまったのである。そういえば朝日新聞ですら「まだ」未成年だ、などと本気で書く。漢文教育を少なくしたからこうなった。

代議士ではないが「お土産」を「おどさん」としか読めないタレントがいた。さすがにディレクターがそっと呼んで事なきを得たそうだ。NHKのアナウンサーですら「愛娘」を「まなむすめ」ではなく「あいろう」と読んだり、「春日」委員長を「はるひ」と読む。

こうしたことはその人の学識と無関係なことだから、「珍語」と打ってパソコンが「鎮護」としか出せないように、これからもいろいろあって恥をかいたり笑わせたりするだろう。(参照:岩手県立大学徳久教室ホームページ渡部亮次郎エッセイ集「オイカサラマサ」)2006.06.23

2010年07月01日

◆規制されている中国報道

渡部亮次郎

中国に関する報道、特に中国特派員の報道について私のメメールマガジンにも苦情が寄せられる。政治問題を取り上げないとか、情報が遅いなどと言ったことである。

しかし、結論を言えば、中国とは共産党政権であって、基本的には報道の自由の無い国であることを忘れての「苦情」が多い。しかも1974(昭和49)年1月5日に交わされた「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)に「拘束」されていることを一般の人は知らない。

この覚書をたてにこれまで何人もの特派員が強制退去を命じられている。1968(昭和43)年6月には日本経済新聞の鮫島敬治記者がスパイ容疑で逮捕され、1年半に亘って拘留された(鮫島事件)。

1980年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

1990年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例がある。

このように、「中国共産党に都合の悪い記事」を書くことは、事実上不可能となっている。読売新聞社は、「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している」としている。

こうして追放されたり、睨まれた記者には中国は2度と入国ビザを発給しない。つまり「中国語」を売り物に入社したこの記者は、中国に睨まれたことが致命傷となって社内でも失業状態に追い込まれる。こんな危険を冒す者は変わり者以外に無い。

しかしこの覚書は日本側のいわばフライングが招いた「身から出た錆」なのである。国交正常化以前に中国特派員送り込み競争を演じる日本マスコミ界の足元を見た中国が、取材制限のハードルを高くした。それなのにマスコミ各社はそれを唯々諾々と呑んだのだ。

<紆余曲折を経て、1962(昭和37)年には、日本と中華人民共和国との間で「日中総合貿易に関する覚書」が交わされ、経済交流(いわゆるLT貿易)が行われるようになった。

1964(昭和39)年9月には、このLT貿易の枠組みの中で記者交換協定が結ばれ、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・西日本新聞・共同通信・日本放送協会(NHK)・TBS(現:TBSテレビ、当時の東京放送)の9つの日本の報道機関が、北京に記者を常駐できることとなった>。「ウィキペディア」)

ところが、この協定には重大な「毒」が入っていた。

(1) 日本政府は中国を敵視してはならないこと。

(2)米国追随して「二つの中国」をつくる陰謀を弄しないこと。

(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げないこと。

中華人民共和国政府の外務省報道局は、各社の報道内容をチェックして、「政治三原則」に牴触すると判断した場合には抗議を行い、さらには記者追放の処置もとった。

記者交換協定の改定に先立つ1967年(昭和42年)には、毎日新聞・産経新聞・西日本新聞の3社の記者が追放され、読売新聞と東京放送の記者は常駐資格を取り消されている。

この「協定」から現行の「覚書」まで約束の細かいところ、たとえば滞在記者の人数などはこれまで何回も改訂されているが、三項目は絶対条件になっている。

その後、外務大臣秘書官となった私は、それ以前は政治記者だったこともあって協定に格別な関心を持って中国側に対応したが、中国は基本的にマスコミを「敵」とみなしており、外国人記者は反革命分子としか認めておらず、取材の自由を与える事は国家的な危険を冒すことだと考えている。

余談だが、1972(昭和47)年9月、日中国交正常化交渉の為、日本の総理大臣として始めた北京を訪問した田中角栄首相。私も記者として同行したが、中国は日本人記者団を近距離記者と遠距離記者に分断。カメラマンは望遠レンズの使用を禁止された。中に銃を隠せるからが理由だった。

こうした中国の態度に日本のマスコミ各社は手を焼いているが、だからと言って妙手があるわけじゃなく、泣き寝入りが現状だ。中国報道が中途半端だったり、隔靴掻痒の感がする理由の一端を紹介した。マスコミはいちいち、こんな説明をしないだけ。

中国の裏情報に接する方法としては「大紀元」があるが、例えばこれを新聞社が転載しても何らかの報復措置を覚悟しなければならない。宮崎正弘さんのように、観光客として訪問した見聞とか、英字紙から中国情報を拾い出すのが安全といえるだろう。2010・6・30

■本稿は7月1日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1965号に
掲載されました。

<目次>
・規制されている中国報道:渡部亮次郎
・割れる民主、公約混乱:古澤 襄
・「議会制民主主義とは期限を切った独裁」: 阿比留瑠比
・梅の季節、水戸の憂鬱:平井修一
・喫茶店で寛ぎたい!:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
 







2010年06月30日

◆巴里だより・オレンジ応援団

     岩本宏紀(在仏)

オランダ人に混じってオランダ対カメルーン戦を大画面で観戦した。

男も女も、老いも若きもみんなオレンジ色のいでたち。 のような帽子の頭にサッカーボールを乗っけたものと、
緑のヘルメットにオレンジ色の小型ブブゼラを付けたものが、 応援用品の主流だ。

椅子はもちろんなくて、全員立って観戦する。 飲み物はオランダのハイネケンだ。

オランダがゴールを決めると画面には 「GOAL」の大きな文字が 現れ、観客は両腕を突き上げて吠える。
まるでオレンジの大波だ。 天井からは紙吹雪が舞い、同時に水しぶきが飛んでくる。 ところがなんとなくべとつく。どうやらビールのようだ。

終盤になると、目がとろんとした若者同士のど突き合いも始まった。 ほろ酔い気分の女の子の一団は、黄色い喚声で上機嫌だ。

禿げ頭の選手が登場すると怒涛のような声援が湧き起った。 きっと往年の名選手なのだろう。

試合は2対1でオランダが征し、オレンジ応援団は 喜びの表情で帰途についたのだった。 (完)
1.jpg

2.jpg

3.jpg

2010年06月27日

◆マスコミは金儲け

渡部亮次郎

最近のインターネット界では、マスコミのことを憎んでマス「ゴミ」と言う。大変なマスコミ不信を現していると思うが、私に言わせれば、もともと信じてはいけなかったマスコミを一旦は信じてしまった自分の不明を恥じるべきだと思う。

この世の中で、満腔の信頼を寄せられるメディアなぞは存在しない。まして「社会の木鐸」足り得るメディアなぞ存在するわけが無い。初めから「営利」を目的に設立された「民間放送」をマスメディアの一種と認定する浅はかな「良心」には、呆れてものが言えない。

例に出して悪いけれども「読売新聞」。「読売」とは新聞のことである。カネを取って読ませるから「新聞」なのである。「買われない」読売は「新聞」ではないことを商標にしている。つまり、この新聞は「木鐸」なんかではなく「金儲けの材料」に過ぎないことを自供しているようなものだ。

左様、「新聞」は「朝日」だろうが「毎日」だろうが「産経」だろうが、売れなければ倒産以外にない「商店」に過ぎないのだ。正義や趣味のために発行されているのでは無い。

だとすれば、如何にしたら大量に売れる商品足り得るか。それは読者への「迎合」に落ち着くこと、当然ではないか。朝日が日教組に迎合した紙面を作ることを非難する新聞があるが、言葉は悪いが「目くそ鼻くそ」である。新聞は本質的に己の利益のために恣意的であり「公平」は装う「衣」に過ぎない。産経とて同様である。

NHKに20年間、記者として在籍した経験から言うと、新聞社は朝7時のNHKニュースのオーダーを参考にして夕刊を編集する。その夕刊を参考にしてNHKは夜7時のニュースの配列を決める。

新聞社はそのNHK午後7時のオーダーを参考にして翌日朝刊の見出しを組む。これが真相だ。テレビと新聞は独立しているようで、全く渾然一体になっているのだ。それが判って私はNHKを去った。マスコミと絶縁した。何千万円かの退職金を捨てた。42歳。74歳まで生活苦に喘いできたが、気分は爽快だ。

テレビに移ろう。視聴率。本当はNHKも気にしているが、民放が最も気にしているのが、これだ。低い番組を作ればスポンサーがはなれて収入が激減するから、大衆迎合番組ばかりになる。これは民放の宿命である。

宿命はスポンサーの広告を放送して広告料を集めることにあるから、畏友の評論家加瀬英明によれば、民放の本意はコマーシャルだけ流せれば一番よいが、エサが無ければ魚は釣れないから餌として、ドラマなどを流さざるを得ない。民法の番組はコマーシャルの合間に流れる餌。良心も啓蒙も無い。餌代は安いほうが良いから「外注」になる。

したがって餌は視聴者の気に容るよう、いわば大衆迎合一点張りのものにせざるを得ない。低俗と非難される番組は低俗な大衆に迎合したものであるから、非難者は天に唾している愚者である。

政治番組が視聴者を誘導しているという批判も聞くが、政治番組はマスコミが行なう世論調査の傾向にあわせた迎合番組なのだから、それを見た世論が変われば、それがまた次の世論調査の結果となって表れるから、視聴者は己の尻尾を噛もうとしてグルグル周りをしている犬に似ている。そこに真実は無い。

放送局は経費節減のために、番組を丸ごと制作会社に「外注」する。NHKもやっているが、外注とは名ばかり。退職した元社員の会社が多い。勢い本社の意向に沿った番組にしかならないのは当然。経費削減場からりの番組だから見るに耐えないのは当然である。

政治評論家にも精彩の無いのが多いと人々はいうが、これは無理と言うもの。「世論」に沿ったディレクターの「意」に沿った発言をし続けなければ、次週の出演依頼は来なくなるから、縦横無尽、快適刀乱麻の解説など危なくて披露できたものじゃない。

これでも昔は政治記者をしていたから、いま活躍中の政治評論家の裏側を知り抜いている。その後、大臣秘書官として内閣の機密費を撒くことも担当して、裏の事情を知っているから、彼らの解説なんぞ、聴く気になれない。

余談だが、佐藤栄作政権当時、幹事長田中角栄が配る毎月10万円(いまから40年ぐらい前の!)の「チップ」を拒否したのは、はばかりながら私ぐらい。秘書官となって大臣からの土産購買補助金を受け取らなかった記者は1人だった。

私が新聞やテレビを漫然と絶対に接しないのは以上の理由による。まして番組を元に評論するなどは絶対にしない。時間の無駄というものだ。2010・6・26

■本稿は6月27日刊全国メルマガ「頂門の一針」1961号に
掲載されました。毛馬一三の記事もご拝読下さい。

<目次>
・マスコミは金儲け:渡部亮次郎
・10%で、どうなる「消費税選挙」:花岡信昭
・陸パンに食われた政党政治:山堂コラム 324
・変身した日本代表ティーム:前田正晶
・蕪村生誕地を定めた1通の「書簡」:毛馬一三
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■御意見・御感想は:
ryochan@polka.plala.or.jp

■購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm




2010年06月26日

◆啄木と琢次郎

渡部 亮次郎

(再掲)尊敬する古澤襄(ふるさわ のぼる)さんのブログで、噴出してしまった。http://blog.kajika.net/

<古澤さんの著書『沢内農民の興亡』に古澤家菩提寺である玉泉寺の第十九世琢神道器(たくしんどうき)という和尚さんの名が二度出てきます。20頁・46頁です。

これは啄禅道器(たくぜんどうき)が正しいので,本をお持ちの方は,ぜひ訂正をお願いするとともに,深くお詫びいたします。>とある。よく見ると「琢」なのか「啄」なのか分らなくなってしまった。

この文章を寄せた人は校正を専門としている方。「誤植の饗宴」と題する、誤植と校正にかかわる話を面白くしてくれているのだが、ご自分のことを謝罪するのに、また誤植をしてしまったのである。

正しくは「琢禅道器」だそうです。多分、この後に「誤植に泣いた啄木」という文章が続いているので、神経がそちらに行っていたのだろう、とやさしい古澤さんは苦笑い。

この方が紹介している話に、朝日新聞の校正係として死んだ啄木を朝日は詩人として遇し、死亡記事を載せたのはよかったが、大変な誤植があった、というのがあった。

<その啄木も誤植には最後の最後まで泣かされた。太田愛人『石川啄木と朝日新聞―― 編集長佐藤北江をめぐる人々』という本のなかでもこのエピソードは紹介されている。

『東京朝日新聞』が掲載した1912年(明45)4月14日の死亡記事のなかに,啄木の小説『鳥影』の名が出てくる。チョウエイと読む。その『鳥影』が“島影”と誤植されたうえ,“しまかげ”と誤ったルビが振られた。

これは形の紛らわしい漢字の見落としなのか,あるいは記者が“島影”と思い込んで書いたのを校正係も見落としたのか。ルビは活字を組むさいに現場の文選・植字工が振ったのかもしれないが,まず“島影”ともっともらしく誰かが誤ったところに,この誤植が残った第1因があった。つぎに校閲で事実を精確に調べなかったのが第2因である。

“みすぼらしき郷里の新聞”だけでなく,東京の一流紙もこんな誤植を犯す。あの世で記事を目にした啄木の“今朝の悲しみ”は深まっただろうか。それとも苦笑するだけだったろうか。

蛇足を付け加えるなら,啄木の死亡記事は朝日文庫『朝日新聞の記事にみる追悼録〔明治〕』に採録されているので,興味のある方は簡単に見ることができる。“紙面の明らかな誤植は編集部で改めました。”と断わってある言葉に偽りなく,“島影” は正されている。ルビはない。>

琢次郎というのは幼くして死んだ私の実兄。だから次に生まれた私は三男である。それなのに亮次郎だから、なんだかピンチヒッターみたいで厭だった。

高校に入って小説らしきものを書いた文藝部の機関誌の名は「琢磨」(たくま)というものだった。互いに励ましあって学徳をみがくことの意味らしい。みがくという意味が「琢」。

石川啄木(本名一)の「啄」は突っつくという意味で、啄木とはそのまま「きつつき」のことである。渋民に生まれ、東京で27歳で死んだ啄木。私が盛岡に在任した頃は4月13日の啄木忌(季語 春)しかなかったが、今では国際学会がある。

<ようこそ国際啄木学会のHPへ!

国際啄木学会は1989年12月、岩城之徳・遊座昭吾・上田博・太田登氏らを中心として設立されました。日本と外国における石川啄木の研究・普及を目的とする学会です。会員たちは創立以来多くのすぐれた研究成果を発表し、普及のための良書も数多く出版してきました。

韓国・台湾・インドネシアには創立当初から支部が結成され、すぐれた研究成果が挙げられています(今は海外の支部は「韓国啄木学会」のように呼称されます)。すでに台湾で2回、韓国で2回当学会の大会が開かれています。ドイツ・スイス・オーストリア・ロシア・フィンランド等にも会員を擁し、2005年にはインド啄木学会が成立しました。

今後わが学会は日本の内外において石川啄木の研究・普及をますます精力的に推し進めるとともに、若い会員をたくさん迎え、いっそう溌剌とした学会にして行きたいと思っています。>

また財団法人 石川啄木記念館もある。〒028-4132 岩手県盛岡市玉山
区渋民字渋民9  TEL.(019)683-2315/FAX.(019)683-3119
http://www.echna.ne.jp/~takuboku/

琢次郎とはどこへ行けば戸籍と逢えるのだろうか。それとも除籍されて
既に久しいのだろうか。2007・05・26

2010年06月25日

◆薩摩揚に思い出す

渡部 亮次郎

先輩から恒例の薩摩揚げが薩摩から届けられた。令夫人のご郷里が薩摩・鹿児島だからである。戦前、戦中に貧しい家庭に育った私に、少年時代、薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんを食した記憶はない。

ごく幼い頃、鮭の缶詰とかバナナを食べた記憶はあり、大東亜戦争の敗戦後、何年もしてから食べたが、魚肉のすり身を成型して作ると言う薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんの類は敗戦後9年の春、上京して初めて食べた。

それよりも薩摩揚げが沖縄で異常に高値で、それは琉球王朝が隣の薩摩藩の無法な支配を受けたことの遺恨からであると説明され、改めて驚いたものだ。

このときの用事は琉球における主席(知事にかわる)をアメリカ政府の認知により初めて住民の選挙(公選)によって行われので、それを取材、報道するためだった。

アメリカ軍に占領された沖縄は当時まだアメリカの施政権下にあり、高等弁務官が島のすべてを握っていた。折からベトナム戦争が激化し、嘉手納空港はB52爆撃機の発着が慌しかった。

言葉も良く通じないまま島中を駈けずり周り「4万の差で屋良朝苗(やらちょうびょう)氏が当選するはず、と東京に電話連絡した。

翌日、軍政部の係官が「NHKがそのように放送していた」という。NHKが選挙の予測を放送するわけがないから,私の電話を盗聴していたと告白したようなものだった。

何しろ朝から晩まで、いや、飲み屋でもバーでも尾行されていた。なんで筑紫哲也(朝日新聞)でなく俺を尾行するのだ、と追及したら、朝日新聞は配達前に空港で没収できるが、ミスターワラナベの電波は没収できないから、都合悪い取材を妨害しなければならない」との返答。震えが来た。

尾行されながらの昼食。1ドル360円時代に「おでん茶飯」が4ドルぐらいで法外に高かった。高い理由が福岡からの薩摩揚げの空輸。その理由が嘗ての薩摩による琉球支配への反発だった。450年以上前の怨恨が脈々と受け継がれているのである。

豊臣秀吉の時代、朝鮮に於ける戦いで秀吉が薩摩藩に命じて琉球王尚寧に対し7000人分の食料10ヶ月分を翌年2月末迄に坊津港まで搬入するよう指示したところ、財政窮乏を理由に割り当ての半分を送って来なかった。

しかも尚王その一方の宗主国たる明の朝鮮に対する思いを配慮したことなどに、秀吉、琉球の間で命を受けた薩摩藩主島津義久の立場は深刻であった。

ややあって秀吉が亡くなり徳川家康の時代となった後も尚王の手落ちが重なり、結局薩摩藩は樺山権左衛門久高を総大将として1609(慶長14)年、3000名の兵を出して首里城を攻略してしまうこととなってしまった。450年以上前の怨恨が脈々と受け継がれているのである。

琉球諸島は、廃藩置県により明治12年沖縄県となる。第2次世界大戦後アメリカはその統治の間再び琉球を公称した。面積2388平方キロ、神奈川県よりやや広い。1945年4月からの米軍の艦砲射撃で徹底的に破壊された後占領。自治権を失った。

爾来、米軍基地の島とされ、今日に至っているが、施政権は佐藤栄作首相による対米交渉により1972年5月15日に返還された。

題は沖縄では無い、薩摩揚げだった。由来については諸説があるが、島津藩(通称薩摩藩)による琉球侵攻のさいに、琉球料理のチキアギー(チギアギ)を持ち帰ったものが転じて「薩摩揚げ」になったとされている。鹿児島県でいう「つけ揚げ」は、「チキアギー」が訛ったものである。

今度頂戴した薩摩揚げの原料は南ダラ、エソ、タイカジキのすり身とある。こうした魚肉のすり身に塩・砂糖などで味付けし、形を整えて油で揚げる。

厚さ1-2cmほどの丸形・小判形あるいは角形をしていることが多い。ほかに、ゴボウ、イカ、ゆで卵などの素材を包み込んだものもあり、異なった形状をしている。

鹿児島県産が特に有名なことから、東日本では「薩摩揚げ」と呼ばれるが、西日本では「天ぷら」と呼ぶ人もあり、鹿児島県では「つけ揚げ」と呼ばれる。「揚げ半(ぺん)」など、その他の異称も多い。

そのまま、あるいは軽く焼いてしょうが醤油やからし醤油で食べる。おでんだね、うどんの具、皿うどんの具、煮物の材料にも用いられる。

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆渡部亮次郎氏主宰の全国版メルマガ「頂門の一針」を
購読(無料)申し込み御希望の方は
下記ホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年06月23日

◆都会とは救急車音

渡部亮次郎

東北の片隅、秋田県の旧八郎潟沿岸育ちの身が大都会の東京に住まいするようになって56年になる。だから故郷は秋田と答えたいが、
実家を継いだ妹婿が土建業を倒産して実家を人手に渡したので、私は帰郷できる実家を失ってしまった。

いまや旧深川の一隅の9階が「終の棲家」と覚悟している。高速道路が200m北を走っているが、窓を閉めると、今どきのサッシの優れていること、ほとんど騒音は聞えない。

だが換気の為、窓をちょっと開けると、救急車の音が凄まじい。耳をつんざく。あの大都会、アメリカのニューヨークでも昼夜を分かたず、救急車と消防車が走るが、わが深川がそれに匹敵するとは。

近くに都立墨東病院と私立の「あそか」総合病院があるからだろう。

考えてみると、幼少時、秋田の田舎では救急車などなかった。総合病院もなかった。だから外から聞える音は金輪の馬車の音ぐらい。集落にトラックの来ることなどは皆無だった。のどかだった。

だから救急車こそは都会を象徴する騒音なのだ。

この話をヴェトナムの首都ハノイ在住のPCの師匠にメールしたら返事があった。

<日本の救急車の制度を羨ましく思います。ここでは一応市のものがありますが、どんな重症者でも自力か周りが乗せるまでを受け持たなくてはならない。

アパートなんか、担架で階上まで来てくれません。だから、外国人が利用するクリニックなんかは、専用の救急車を持っています。
そこはちゃんと階上まで来てくれる。

市のものも、庶民には高価なので、あまり利用しない。周りの人間が協力し合って運ぶ、が原則だと思います。だから常にサイレンが鳴るなんてこともないし、外で倒れている誰かのために、他人が救急車を呼ぶこともありません。>凄い。

敗戦直後の田舎を思い出した。田植え時、ハタハタ鮓の中毒にあったった人々を病院に連れてゆくのに、クルマなど無いじだいだから、
自宅の雨戸を外し、それに載せて4人で担いで行ったっけ。

当時は町長の車がなかった。医者も乗っているのはオートバイだった。日本がマイカー時代を迎えるのは敗戦20年後の昭和40(1965)年ごろである。

そういえば数年前、中国の杭州で糖尿病の低血糖昏睡に陥り、友人が救急車を呼んで呉れたが、担架ではなく、風呂敷状の大きな布にくるまれて階談をくだってくれた。些か戸惑った。

更に病院に到着して目をまわした。タクシー宜しく、料金を払わなければ下車させないのだ。命よりカネ。これを知れば東京の救急車のサイレンは優しさの安売りと言ってもいいだろう。

私も、今度こそ、脳梗塞再発の発作に襲われたら、3時間以内に東京女子医大に搬送してもらって特効薬APTを注射していただかないと半身不随とか重大な事態になってしまうというから、いまのうちから救急車の予約をお願いしたいような心境である。2010・6・20

■本日6月23日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1957号を
ご拝読下さい。“おもろい”ですよ!

<同号 目次>
・本当に国家解体を目指す革命政権だ:阿比留瑠比
・“真性”暗愚の宰相だった鳩山氏:櫻井よしこ
・菅政権への提案:平井修一
・評判の悪い男李鵬の回想録突然出版中止:宮崎正弘
・都会とは救急車音:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■御意見・御感想は:ryochan@polka.plala.or.jp

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年06月22日

夕刊 ◆角さんを食った早坂さん

渡部 亮次郎
6月22日は田中角栄事務所が閉められた日。詰まり最後の秘書;早坂茂三さんが締め出しを食わされた日。1985(昭和60)年のことだった。

<2004・6・20 台風6号の雨の中を外出し、日本橋で早坂茂三氏の肺癌死を知った。夕刊紙が大見出しで売っていたからである。73歳では早すぎる死であるが、田中角栄氏を食うだけの晩年だったことを思えば、長いご苦労だったと言えないこともない。

同じ政治記者だったとはいえ、5歳も年長だったし、なにしろ私が盛岡から東京・政治部へ着任したところは既に田中角栄氏の秘書だったので、出合いはなかった。昭和47年7月に田中内閣が発足し、私がNHK政治部で総理官邸担当に発令されたので出合うことになった。

それまで私はライバルの福田赳夫番だった。「作戦参謀を渡部さんが勤めているのじゃないかと、恐ろしかったよ」というのが初対面の挨拶だった。

但し早坂さんは総理官邸と公邸を繋ぐ廊下に机を置いて新聞の切り抜きをやっていた。総理の首席秘書官と呼ばれる総理大臣秘書「官」は後に別れた妻が「蜂の一刺し」で有名になる榎本敏夫氏だった。

榎本氏は東京・北区だかの区会議員から自民党の職員となった変り種であったが、幹事長当時の角さんに気に容られ、総理になると同時に首席秘書官に発令されたのである。

後に発覚するロキード事件は内閣発足直後に始まっている。だから秘書「官」の榎本さんが矢面に立たされたわけだが、早坂さんは角さんの「周辺者」だったから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネを扱わせる首相はいないだろう。

私は総理官邸に通いながら田中政治を批判し続けるものだから嫌われ、NHK上層部も困り果てた末、大阪に飛ばした。だが田中内閣は案の定、物価高騰を招き、「金脈追及」で短期間で瓦解した。

この時月刊「文藝春秋」に立花隆氏と並んで児玉隆也という人が「淋しき越山会の女王」という原稿を載せた。

この児玉さんが伝手をたどって私のところを尋ねてきて、週刊女性自身のデスク時代に「女王」佐藤昭(あき。後に昭子と改名)のことを企画したら、関係者に取りやめ料800万円を提示された。

もちろん断ったが、いかにも揃わない数字だった。断ったのに社内では受け取ったと言う評判が立って困った。なんで800だったんでしょうね、と聞かれた。

それから何年か経って早坂さんと隅田川沿いの浜町で一杯やる機会があった。そうしたら早坂さんが言うことには「あのときに田中が出したカネは3,000万円ですよ。当然還ってきてませんよ」との答えだった。

間に立ったのは当時有名な政治評論家と高名な作詞家だった、という。評論家は若死にしたが、作詞家はまだ生きている(2008年4月6日逝去)。

この席で早坂氏は角さんを「親父」と呼び「とにかく記憶力が凄い。何年の歳暮をどこの新聞の何と言う記者は送り返してきた、なんとかいう記者はお返しをして来た、総てを記憶しているんだ。私らのメモの方が不確実なんだ」と言っていた。贈り物を断る奴は敵、と決めていた角さんの面目躍如を物語っていた。

東京・新橋にヤクルト本社、その隣の徳間書店本社になっているところに東京タイムスという小さな新聞社が昭和40年代まで有った。早坂さんはそこの政治部の記者だった。

函館出身。山形から流れて行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉恒雄氏,日本TVの氏家会長は東大の共産党員だっ
た。 

記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えなかった。そこでかどうか田中角栄氏の所へ飛び込んで秘書になった。しかし真実、角さんは早坂さんを重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまりしなかった。それについて当時を知る人は語る。

困る質問です。でも事実を言うしかありませんね。正確にいうと田中角栄の政務・政策担当秘書。ただ昭和37年に田中蔵相の秘書官をやったかもしれません。「官」が、もしあるとすれば、この時だけ。本人も32歳の時に「大蔵大臣秘書官になった」と何かに書いていました。

東京タイムス時代に親戚筋の大学の先生の奥さんと駆け落ちして、下落合の方で同棲していた筈です。相手は6歳年上、秘書になるに際して、身辺整理しました。麓さんについても「親佐藤で私より3つ上の共同通信政治部記者・麓邦明さんを秘書に加えた」と、自分が先に秘書になっていた様な説明をしています。

しかし当時のことを知る楠田実さん(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の著者)は笑っていましたよ。時事通信にいたMさんも「麓は東大出で官界にも信用があったので、列島改造論は麓の尽力があったからこそ出来た」と書いていたが、

これが早ちゃんの手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総裁選挙前の6月、「日本列島改造論」が大ベストセラーになる。ネーミングは私の発案です」となる。

正直にいって早ちゃんにとって、昔のことを知っている私などは煙たい存在だったかもしれませんよ。死者に鞭打つつもりはないので真相は、すべて封印します。彼の癖からいえば、大蔵大臣秘書官も??なのですが・・早ちゃんの書いたものが、真実として残るのでしょう>。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通行人扱いである。付いて無い奴には予算も机も付かないからである。

だから早坂さんは多くの屈辱を味わったと思う。それだけに、ほかのところで自分を飾って見せたかったのであろう。

角さんの信用を途中から失っていた。当時を知る人の話では待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の言うとおりなら早坂さんこそは総理大臣になった角さんの首席秘書官でなければいけないはずだった。

ところが角さんは官邸の廊下からも退出させ、早坂さんを表には出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

<田中総理番は2年やりましたが、その時の番記者と早坂氏との付き合いはありませんでした。多分、どこの社も同じだと思います。番記者の対応は毎日交替でつく吉本(大蔵)、木内(外務)、小長(通産)、杉原(警察)の役人秘書官がやっていました。あとは山下・後藤田の両副長官です。

榎本首席秘書官とは、彼が募って亀岡・小沢(一郎)・高鳥らの議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂氏とは「飲み会」もありませんでした。多分、早坂氏はチンピラの番記者など近寄せないような雰囲気がありました。そのあたりの呼吸は、同じブンヤ出身で佐藤内閣の楠田氏もそうで、2人はよく似ていると思っていました>

角さんの遇し方を見ていた真紀子さんは早坂さんを見下げていたフシがある。だから角さんが再起不能、というよりも、早坂さんを庇護する者が心身の自由を失ったとたんにクビにしたのである。

しかし、さすがの早坂さん、クビになったとたんに水を得た魚の如く八面六臂の活躍をした。かつては「親父の敵」のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にもなっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになったのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成すことが出来たのである。なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を私は早坂氏以外に知らない。(了)2004・6・20

以下「ウィキペディア」による。

早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。

北海道函館市恵比須町出身。田中角栄元内閣総理大臣の政務秘書を23年間務めた。秘書辞任後は、多くの著書を出した。

1943年東川小学校卒業、北海道庁立函館中学校、弘前高等学校を経て、1950年早稲田大学政治経済学部新聞学科入学。学生運動にのめりこみ、一時日本共産党にも入党した。浪人留年を繰り返した後に、1955年に早稲田大学政治経済学部を卒業。

東京タイムズ社に入社し、『東京タイムズ』の政治部記者として田中角栄と知り合った。1962年に大蔵大臣に就いた田中の秘書官となり、内閣総理大臣在任中とその後の「ロッキード事件」による逮捕の時期を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書を務めた。田中の病気治療方針などをめぐり、長女真紀子と対立し罷免、政治評論家に転身し
た。

田中角栄の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。

テレビ番組では、報道番組の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。

2004年6月20日に肺ガンのため死去。享年73。葬儀は、遺言によりしめやかに行なわれた。

趣味は金魚飼育で、喫煙者(生放送出演時にも喫煙タイムを求める程、自他共に認めるヘビースモーカー)。

1982年に渡辺恒雄と共に、中曽根康弘の首相就任に奔走した。中曽根嫌いの角栄が矛を収めたのは早坂の手腕が大きいという。なお中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で早坂と面会し、中曽根が土下座し角栄や早坂へ賛辞を述べた。


◆水爆に追放された「原爆の父」

渡部 亮次郎

話題の主はロバート・オッペンハイマー。

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日―1967年2月18日)。ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。

理論物理学で国際的な業績をあげ、第2次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。

しかし、戦後の水爆開発に際して核兵器に反対の立場に転じたため、公職追放された。殺戮は手段を進化させるという戦争の原理を知らない単なる爆弾屋だったから当然の結果である。

日本は原爆を作らぬうちに万歳したが、鳩山みたいにいくら立派な大学へ通っても、まともに国家運営のできない政治家を総理にして世界に恥をかいた。「鳩山はオッペンハイマーだ」。

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。

ハーバード大学に入学し、化学を専攻した。1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。

オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入って行く。1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936(昭和11)年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

第2次世界大戦のさなか、1942(昭和17)年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。

彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。

弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所では、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていた。

しかし人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していた。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。

戦後の1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。

核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃となった。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。

1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に亘って抑圧され続けた。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。

戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。2010・6・20

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年06月21日

◆アジサイは葉に毒

渡部 亮次郎

各地で紫陽花が咲き始めたが、これが鈴蘭と並ぶ「毒の花」と知る人は少なく飲食店などが料理に使用してしまい、経口摂取した客が中毒する事故が発生している。

毒部位は蕾、葉、根 (花には無いようだ)。毒症状 めまい、嘔吐、痙攣、昏睡、呼吸麻痺

ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。

日本では、アジサイには青酸配糖体(グリコシド)が含まれており、それが中毒の原因であると考えられている。

ただし、農業・食品産業技術総合研究機構動物衛生研究所によると、原因物質は青酸配糖体ではなく、別の物質の可能性があるとしている。

毒成分 アミグダリン(amygdalin)、アントシアニン(anthocyanin)、ヒドラゲノシドA、グリコシド

アジサイ(紫陽花、英名・学名:Hydrangea)とはアジサイ科アジサイ属の植物の総称である。学名は「水の容器」という意味で、そのまま「ヒドランジア」あるいは「ハイドランジア」ということもある。

いわゆる最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイ(Hydrangea macrophylla)を改良した品種である。

6―7月に紫(赤紫から青紫)の花を咲かせる。一般に花と言われている部分は装飾花で、本来の花は中心部で小さく目立たない。花びらに見えるものは萼(がく)である。セイヨウアジサイではすべてが装飾花に変化している。

花の色は、アントシアニンのほか、その発色に影響する補助色素(助色素)や、土壌のpH(酸性度)、アルミニウムイオン量、さらには開花からの日数によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。

一般に「土壌が酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」と言われているが、土壌のpH(酸性度)は花色を決定する要因の一つに過ぎない。

花弁(正確には装飾花)に含まれる補助色素によっては青になり得ない・なり難いものがあるほか、pHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎないため、仮に酸性土壌であっても地中のアルミニウムの量が少なければ花が青色になることはない。また、初めは青かった花も、咲き終わりに近づくにつれて赤みがかかっていく。

「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。

また漢字表記に用いられる「紫陽花」は唐の詩人・白居易が別の花(ライラックか)に名付けたもので、平安時代の学者・源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010.・6・18

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。