2007年09月04日

◆伊藤律の帰国事件

                         渡部亮次郎

伊藤律(りつ)とは日本共産党初期の大物。戦後、マッカーサーに睨まれて地下に潜ったまま行方不明となった。ところが実は中国に密入国で渡り暮していたが1980年9月3日に突然帰国して世間を驚かせた。彼にとって「帰国」は事件だったのである。

ところが頼りにしているフリー百科「ウィキペディア」では伊藤律に関しては何方も手を下していない。三省堂の「コンサイス人名辞典 日本編」第1刷(1976年3月20日発行)により生まれは1913(大正2)年、岐阜県出身とわかったが、今のところ没年月日は不明である。

一高中退とあるのは、在学中、共産党運動に参加し放校処分となったため。1933年検挙され、出獄後、39年、満鉄東京支社調査部に入る。

この間、小林陽之助らの「人民戦線グループ」に参加し、40年には満鉄共産党事件で検挙。41{昭和16)年再び検挙され、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなった。

事件の発覚は、日本の特別高等警察(特高)資料などをもとにまとめたアメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件の真相」(1949年に公表)によれば、共産党再建容疑で取り調べ中の伊藤律の自供により、1941年9月、元アメリカ共産党員の北林トモが検挙されたことにはじまる。

伊藤自身は、死後の93年に出版された回想録で、自分は陰謀の被害者で、後の議長野坂参三こそがゾルゲの諜報網を「売った」と主張している。野坂も100歳で死ぬ直前、スパイ容疑で除名された。

ゾルゲ事件 ゾルゲじけん 1941年(昭和16)10月におきたリヒャルト・ゾルゲらの諜報(ちょうほう)活動と尾崎秀実らの反戦活動に対する検挙事件。

41年9月〜42年6月にゾルゲや尾崎ら35名がスパイ容疑で逮捕され、18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法の各法違反などで起訴された。逮捕者の中には、機密情報提供の容疑者として近衛文麿首相のブレーンだった犬養健(たける)や西園寺公一(きんかず)らもふくまれていた。

検挙は極秘にされ、事件が「国際諜報団事件」として司法省から公表されたのは1942年5月だった。

43年の裁判の結果、ゾルゲと尾崎は死刑判決、2名が無期懲役のほか全員が有罪判決をうけた。

西園寺は執行猶予、犬養は上告審で無罪となった。44年にゾルゲと尾崎は上告が棄却され、同年11月7日(ロシアの革命記念日)に死刑が執行された。ブーケリッチや宮城ら5人は獄死した。

伊藤律は、敗戦後、日本農民組合結成に参加しながら日本共産党再建に従事。徳田球一の下で政治局員、書記局員を歴任、農民部長として極左的な農業綱領を作成した。

1950年、コミンフォルム批判後、徳田と行動を共にし、地下活動に入るが宮本顕治に追われ、55年、スパイ活動を理由に除名された。コンサイス人名辞典はここまでで「その後、消息不明。」で切れている。

後に明らかになるが伊藤は早くに建国間もない中華人民共和国に密航、中国共産党に幽閉されていたらしい。それなのに1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

これが真っ赤な嘘。記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」 と弁明。「戦後生まれ変わった朝日新聞の輝かしいねつ造の扉を開いた金字塔」
とは「頂門の一針」798号(07・05・11日)で私が朝日新聞を得意技は捏造?と揶揄した文章である。

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2007年09月03日

◆総理学の勉強時間って

                          渡部亮次郎

2007年8月31日付の産経新聞「単刀直言」と題するインタビューの冒頭で中曽根康弘元総理大臣は、(安倍総理は)「最初の内閣である第1期は総理学を勉強する時代だったと思う」と言っている。

「これからの第2期で一番大事な事は、摩擦を恐れずに自分の政策、信念を断行していく"陣頭指揮力"が大事だ」との助言を与えている。若い安倍さんに孫の悪戯を笑うような愛情がこもっている。

自分を国会から追放した小泉純一郎の子分と見ることなく、自身の初入閣が安倍さんの祖父岸信介内閣の科学技術庁長官であったこと、そこで日本を原子力発電の火をともした事などが後の政権獲得に繋がったことを思い出しているのだろう。

しかし、2006年9月26日の政権発足以来、1年も経たないうちに閣僚が何人も交代し、農林水産大臣は自殺した。その結果だろう、参議院は野党に多数を制せられるという大変なことになった。これが安倍さんの勉強だったとすれば大変な勉強だったものだ。

要するに総理になってからやるべきことの事前の勉強は何もしてなかったのですな、と中曽根さんに喝破されてしまったのである。
中曽根さんは総理になるための努力(風見鶏になる)も大変だったが、なってからやるべきことの勉強は更に大変なもので、大学ノートを何十冊にもなったそうだ。

社長学は社長の側近でいればある程度、盗み見できるかもしれないが、総理の傍に次期総理がついている事はできない相談だ。精々小泉総理の下で官房長官をしたことで小泉流の何かを垣間見ただけだった。

岸信介の孫だから、安倍晋太郎が果たせなかったからといって安倍さんが総理になる必然性は無い。近代日本を作る中心になったのは確かに長州だが、21世紀の今、長州に日本の総理大臣のDNAがあるわけでもない。

前任の小泉総理にしてみれば自分の周囲にほかに適任者が無かったから、後継者に安倍を思い定めたに過ぎない。幸いライバル勢力になるべきだった旧田中派はぶっ壊され、旧池田派は粉々に分裂。安倍さんはすんなり、総裁・総理になれはしたのだった。

「美しい日本」だの「戦後レジュウムの破壊」は側近の誰かに考えさせれば良い。自分が言い出したのは祖父の遺言「自主憲法制定」だけ。

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2007年09月02日

◆明晰過ぎた宮澤喜一


                         渡部亮次郎

2007年6月28日、老衰のため東京の自宅で87歳で永眠した元総理大臣宮澤喜一氏。東大法学部出身以外の記者は、記者と認めてくれないという噂だった。幸い、担当を命じられる事はなかったが、私が浪人になってから1度だけ会った事がある。

八郎潟を干拓して出来た秋田県大潟村の宮田村長がインタビューをしたいというので、親しい人を介して約束を取り付け、番町のマンションの一室にあった事務所に案内した。

宮田村長との話を聞いていただけだが、秋田県の田舎者とか村長如きが、といった態度は毛ぶりも見せず、丁寧に答えていたので、人というのは実際に会って見なければ真実はわからないな、という感を深くした。

たまたま「文藝春秋」の2007年9月号をめくっていたら長女のラフルアー・宮澤啓子さんが「風変わりな父・宮澤喜一」と題して内輪話を寄せておられたので、懐かしく読んだ。啓子さんの夫君はマレーシア駐在のアメリカ大使だそうである。

<一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かどうかの真偽は不明)。

『芸備人権新報』(1999年9月10日号)によると 「…(小森)ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

(記者)宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

(小森)宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の 代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと 残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだっ たでしょうね。

彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、 消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

(小森)自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、 リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」>フリー百科「ウィキペディア」

<父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)

末弟の泰さんは外交官だった。私が大臣秘書官として外務省にお世話になった1978年ごろは欧亜局長。園田直大臣の初外遊に同行してもらった。

それは日ソ定期外相協議。ベレンコソ連空軍中尉の函館空港強行着陸事件で極端に冷え込んだ日ソ関係を回復するきっかけとすべきチャンスだった。

しかしグロムイコ外相は北方4島返還交渉に応じようとせず、共同声明も出せないという始末で、予想通りの失敗であった。

迎賓館を退去する時、大臣は記念に備え付けの便箋を貰っていくようにと命じたが、それを聞いた宮澤局長「大臣、ラジオは如何ですか」とからかった。流石に瞬間、しらけ鳥が飛んだ。

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2007年09月01日

◆湖畔の宿の大東亜会議

                         渡部亮次郎

小学校入学の5か月前に「大東亜戦争」(のちにアメリカの命令により
「太平洋戦争」と呼ばされるようになった)が始まったが、実際は、生
後1年目の1937年に日本軍はすでに中国で蒋介石の軍と戦っていた。子供
だから知らなかったのは当然だが。

日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それま
で日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が日本政府の意
向を無視した軍事行動で満州全土を占領。既成事実を突きつけられた政
府(若槻礼次郎内閣)は事後承認の形をとった。

それが翌昭和7年の満州国建国につながる。同じ年(1月)には上海の日
本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領する
が、停戦協定によりすぐに撤退している。

昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中
国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の
時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介
石側が徹底抗戦策を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えな
い戦争になし崩しに突入する。

日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条
溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っ
ていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7
/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期
間となる。

このところ、インターネットで、歌謡曲の昔を探し歩いているが、知って
いると思い込んでいたことでも、知らないことが多すぎる。

日本が戦争に初めて敗ける昭和20 (1945) 年を挟んで少年時代を送った
者だから、当時の歴史を系統だって自分の中で整理しないままだからで
ある。

東京・渋谷の古賀政男邸跡地に建った古賀政男音楽記念博物館で何年か前、
2年間に亘って昭和の流行歌を振り返る会が毎週開かれて出席を続けた
ことがある。

その頃、物資も窮屈になった昭和15、6年ごろ、すこぶる付きの美人女優
で歌手の「高峰三枝子さんのお宅に新人歌手の伊藤久男さんから、大量
の洋服地が送られてきて、高峰さんを驚かせた」、という話題があった。

それは高峰さんの「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一)が大
ヒットしかけたため、B面の伊藤久男さんの「高原の旅愁」の印税ががっ
ぽり入りかけたことのお礼だった、という話だった。

いまのCDやMDと違って、昔のレコードにはAとBの両面があり、ヒット確
実がA面、それほどでもないのがB面にプレスされた。とはいってもB面が
なければA面は発売されないわけだが。

「湖畔の宿」

作詞:佐藤惣之助
作曲:服部良一
唄:高峰三枝子

1 山の淋しい 湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり

2 水にたそがれ せまる頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる

(台詞)

 「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
 静かに静かに黄昏れて行く……。
 この静けさ、この寂しさを抱きしめて
 私は一人旅を行く。

 誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
 幼な児のような清らかな心を持ちたい。
 そして、そして、
 静かにこの美しい自然を眺めていると、
 ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せ ふるさとへ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(MIDI制作:二木紘三)

「湖」は群馬県の榛名湖と、佐々木惣之助は書き残している。

日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭
和15年(1940)に発表され、大ヒットした。ところが感傷的で淋しい詩
とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にした。

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2007年08月31日

◆「余命3ヶ月」の意味

              渡部亮次郎・メルマガ「頂門の一針」主宰

「安倍総理は内閣改造で再浮上を図ろうとして、一応、成功したように見えるが、すっかり水に浸かったドロ舟、もって3ヶ月」、という見方がどこからとも無く流れている。

記者の先輩に教えを乞うたら、これを流したのは、今回も入閣者0だった谷垣派で、反安倍の派閥横断勉強会を立ち上げた園田博之氏も谷垣派所属で、この動きの先頭に立ったらしい。

博之氏は、筆者が若い頃、大臣秘書官として仕えた故園田直の息子さんだ。2人目の妻の長男。3人目の妻天光光(てんこうこう)の長男は政界に無関係。

それはひとまず置いて、谷垣派は加藤紘一の抜けた後の派閥。昔は「宏池会(こうちかい)」といい池田勇人が作って総理大臣になった。名門派閥といわれた。

2代目の前尾繁三郎を飛ばして大平正芳、鈴木善幸と総理を出したが最後に宮沢喜一を総理にして力尽きたか、派閥は4分裂。そこに宏池会の悲劇がある。加藤紘一が森総理降ろしに動いた時が悲劇の始まりだった。

元々は田中派(現津島派)と組んで、吉田茂の流れを汲む「保守本流」を自負したものだが、今やいけません。「どうせ今回も安倍は我々を入閣させないよ」と悪たれ、組閣当日はゴルフコンペをやるんだと強がる向きもあったと、週刊誌のタネになっている。

その彼らの流したのが「余命3ヶ月」だが、どうも別に根拠は無いらしい。「長くはない」の先に滑った舌が3ヶ月とつけたようだ。
いわゆる身体検査もした上での組閣。舛添社会労働相など、頭脳の通りの政治力なら結構面白い事をやりそうだし、何ぼなんでも越年は間違いないようだ。

つまり臨時国会の後の通常国会で来年度予算が年度内に成立するかどうか。民主党との死闘が展開する。その間、閣僚のスキャンダルでも暴露されれば論外だが、どうもその危険性は野党も抱えている。

体力を使い尽くした4月に危機が来るとプロは予測する。予算関連法案は参院で民主党に悉く否決されるから、3分の2を擁する衆院で再可決して成立させる必要があるから関係部署にいる議員はくたくただ。

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2007年08月30日

◆福田政権の蜃気楼


                          渡部亮次郎

私は一度も思ったことは無いが、後輩の記者連中は森喜朗元首相のことを揶揄気味に「蜃気楼」という。名前を音読みすれば読めないことは無い、か。

蜃気楼とは富山湾で春に見られるのが最も有名だが、熱や冷気のために大気中で光が異常に屈折し、海上や地上に何か物があるように見える現象(新明解国語辞典 第4版)。

つまり存在しないものが在るように見える事。能力が無いのに有るように見せかける人物もこう呼ばれるようだ。

体力を買われて大学の運動選手として入学したが、半年で退部したり、総理大臣にまつり上げられたが、能力が無いとわかって退陣に追い込まれ他りすれば、こう言う名前が綽名となる。

その森氏、事情通によれば、憤懣やるかたないものがあるそうだ。
今度の改造人事で長老森氏の推薦は、安倍首相によって、ことごとく退けられたからである。

森氏は官房長官に町村信孝氏、総務会長には古賀誠氏らを推薦していたが、安倍総理は森氏の要望のすべてを無視した。安倍総理にしてみたら、森氏のごり押しに負けたから参医院選挙に負けたのだから当然であろう。

たとえば麻生幹事長というのは安倍内閣発足当初からの構想だったが、森氏は青木参院議員会長(当時)と二人で中川秀直氏を強引に押し込んだ。その結果、中川氏は参院選挙戦を取り仕切れず、大惨敗となった。

参院選の惨敗で森氏の無能は証明されたのに、それでも懲りずに今回また安倍首相の後見人気取りで、改造人事で横車を押そうとしたのだから、安倍首相が言うことを聞かなくなったのは、当然の成り行きだ。

流石に麻生氏の幹事長起用に今回は、異を唱えていない。しかし森氏はこの布陣は安倍内閣が早晩、行き詰まると見て、後継首相に福田康夫氏を持ってくる伏線が隠されている。

なぜなら古賀氏を総務会長に登用させようとしたことはは他派を福田支持でまとめるために必要な人事だからである。

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◆破廉恥警官と憤慨議員の差


                         渡部亮次郎

長いこと取材や関与を通じて内閣改造を見てきたが、安倍内閣改造に当って前代未聞の事態が出来した。自分を売り込んだが断られてピストルで無理心中を遂げたバカ警察官と寸分違わぬ国会議員のいることがわかった。

<矢野氏が安倍首相に抗議=内閣改造

「なぜ駄目なのか」。参院自民党の矢野哲朗前国対委員長が27日夜、安倍晋三首相に電話し、今回の内閣改造で自らの入閣が見送られたことについて抗議する一幕があった。矢野氏によると、首相は理由を説明した上で理解を求めたが、矢野氏自身は納得できなかったという。(時事通信)27日>

総理・総裁の組閣方針について、自らが選ばれなかった事は、自らの恥じるところであって、総理総裁の恥じるところではない。それなのに自分の恥を棚に上げて総理・総裁を詰るとは、当に語るに落ちたものだ。同じ大和民族として恥かしい。

<Yahoo!みんなの政治>から引用。

矢野 哲朗

参議院議員 自民党 矢野 哲朗(ヤノ テツロウ)

国会議員として皆様に支えられて14年。今後も日本の発展、栃木県民の幸せを目指し政治活動を完全燃焼させていきます!

生年月日など 1946年11月6日 60歳 さそり座 A型
選挙区 栃木県 政党 自民党
初当選年 1992年
当選回数 3回(参議院3回)

現在の役職

党内 参院自民党国会対策委員会委員長

参議院日本・アンゴラ友好議員連盟会長。
参議院日本・南アフリカ友好議員連盟事務局長。
日本アフリカ連合(AU)友好議員連盟副会長。


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2007年08月29日

◆中国航空母艦隊の編成

                       渡部亮次郎

岡部文雄氏(元海上幕僚長・海将)は10年前に国際経済政策調査会で「う
みのバイブル」第2巻(中国海軍・南シナ海・尖閣、韓国海軍・北東ア
ジアの諸問題に関するに関する基礎的な論文)を発表し、

「歴史的事実は、中国が近隣諸国との問題解決を、平和的な交渉よりも、
軍事的解決に委ねていることを物語っている」と警告していた。

あれから10年、我々が油断している隙に「空母保有を目指す中国軍が、
空母艦載機を海外に発注したことが23日までに分かった」という事態に
発展した。

あの時岡部文雄氏が指摘した点は次のようなことだった。

<記憶に新しい最近の事実は、南シナ海の南沙群島をめぐる紛争(88年)
において、ベトナム及び、フィリッピンが領有を主張する小島を、武力
を用いて支配下においたことである。

また台湾をめぐり中国が実施した軍事演習(96年)である。明らかに「李
登輝の総統選出の阻止」を目的としたものであり、ひいては「台湾の独
立は仮令軍事力を行使しても許さない」と言う中国の強い意志を示した
ものである。

今後、中国が強力な海軍力を保有した場合、「政治的な影響力の行使や
紛争解決の手段に躊躇なく使用する恐れがある」ことを念頭に置いて、
近隣に位置するわが国は、それを顕在化させない対策を立てる必要があ
る。

そのため外交努力及び軍事政策・情報の公開や軍事交流を推進し、相互
の信頼を醸成することが大切であり、同時に日米安保体制の強化を図る
とともに、自ら相応の海上防衛力を保有し、常に練成しておくことであ
る。(平成9.7.31記)>
 
あれから10年が過ぎて現状はどうなり、日本人は如何に油断しているか。
2007年8月24日付の産経新聞によると、「中国、空母保有へ1歩 テスト
用艦載機を発注 」と題して次のように報じている。

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2007年08月26日

◆農村に農家が無くなる



                       渡部亮次郎

毎日新聞 (2007年8月24日)によると、

<農林水産省は、戦後の農地制度の基本理念だった「自作農主義」を放棄する方針を固めた。耕作者自身が農地を所有することを原則とした農地法の規定を修正する方向で、来年の通常国会に同法改正案を提出する見通し>

とのことである。

これは敗戦直後、マッカーサー元帥の命令で行われた農地解放の根本的な見直しを意味する。あれ以来、小作農を苦しめた不在地主はいなくなったが、今度は企業が地主になって農村に君臨する時代が来た。農民がサラリーマン化する時代が来た。

<農林水産省は農業の体質強化のために経営規模拡大を促す改革を進めているが、農地の「所有」よりも賃貸借などによる「利用」を重視した法体系に転換することで、大規模農家や法人に農地が集まりやすいようにする。

戦後の農地改革は、農村を民主化・近代化するため、戦前からの大地主による土地所有を解体。小作農の大半を自作農に変えた。

これを受けて1952年に制定された農地法は、立法目的を定めた第1条で「農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認め」るとした。農地の貸し出しには、小作地の面積制限など厳しい規制がかけられた。>

しかし経済の高度成長が農村を根本的に変化させ、結局は農家が様々な理由で自身を維持できない時代に追い込まれてしまった。

<高度経済成長下で農業人口が減り、規模拡大による効率化が課題に浮上した。しかし、農地を手放すことへの農家の抵抗感は強く、所有権の移転による農地集積は成功しなかった。

このため、農水省は賃貸借による農地の流動化へ徐々に軸足を移し、農地法の特例として借地の制限を緩めるなどした。法体系の根幹にある自作農主義は実情に合わなくなった>。

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2007年08月23日

◆ニイノ・アキノの死


                     渡部亮次郎

8月21日はフィリピンの政治家、通称ニノイ・アキノがマニラ国際空港で暗殺された記念のひだった。事実上の独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノはマルコス政権の最大の脅威にして大統領の最強のライバルであった。

当然、独裁政権を誇るマルコスに疎まれてアメリカにのがれてた。それでも帰国したところをマニラ国際空港で暗殺されたのだった。祖国の土は踏めなかった。

あれは1983{昭和58)年の5月21日のこと。日本の内閣は中曽根内閣だった。祖国の土を踏ませなかったのは誰だ。

だからこそ、ニイノの死は、僅か3年後、人民革命によりマルコス政権が崩壊の起爆剤と化し、ニイノの妻コラソン・アキノ(コリー)が一気に大統領就任へつながって行ったのである。

既に悪名の方が高かったフィリピン大統領フェルナンド・アルコスとその夫人イメルダ・マルコスにマラカニアン宮殿でお会いしたことがある。1979年5月9日、大統領公式晩餐会に、指定された白のタキシード着用で出席した。園田直外務大臣秘書官としてだった。

(Imelda Marcos、1929年7月2日―はフィリピン共和国第10代大統領フェルディナンド・マルコス夫人というより自らも政治的実権を振う人として世界に轟いていたが、香水のあまりのきつさには閉口した。

Ferdinand Edralin Marcosは1917年9月11日弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員だった父親と教師の母との間に4人兄弟の2番目として生まれた。祖先はフィリピン人・中国人・日本人の混血とされる。

司法試験はトップで合格。戦時中、フィリピンはマッカーサーの下にあったが、1942年1月、日本軍がマニラを無血占領した際、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出している。

こうした、マルコス主張の抗日ゲリラ活動での活躍は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし、後に明らかになった米国公文書館の記録によれば戦時中の活動は極僅かもしくは全く無かったとされている。

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2007年08月22日

◆改革開放30年後の成果?


                     渡部亮次郎

中国の輸出総額はアメリカを抜いて世界第2位に浮上したが、その殆どは外資のもので、中国企業のブランド品は10%にも満たないという。こういう国を主要国と表現していいのだろうか。

このことを明らかにしたのは中国商務省の于広州次官。2007年8月21日19日までに明らかにしたと産経北京の矢板明夫特派員が20付けの紙面で報じた。

最初は勇ましい。「中国の輸出総額は今年、米国を抜いてドイツに次ぐ世界第2位に浮上する」といい改革開放を実施してから約30年、貿易大国の地位を固めつつあると誇らしげだ。

ところが中身が問題だ。輸出の大半は日本やアメリカなど外資企業に頼っている。中国系蚕業は世界に通用する技術もブランドも殆ど持っていない。それどころか品質低劣な製品は世界中のあちこちでトラブルを起こしている始末。

国営新華社通信などによると、于次官は18日、北京で開かれた中国経済発展フォーラムでの講演で、今年上半期の中国の輸出額は5467億ドルとなり、昨年同期と比べて27・6%増えたといい、「このペースで推移すれば今年の輸出額は米国を約500億ドル上回る」と予想した。

同時に于次官は輸出の拡大は外資系企業による貢献が大きく、中国企業のブランド品は10%にも満たず、結局は輸出額と貿易黒字の拡大はあっても「中国の貿易上の地位が高いことを意味しない」と認めた。

矢板記者によれば、中国製品の輸出は繊維製品、玩具など付加価値の低い労働集約型製品に偏っている。

これに反して欧米や日本などは自動車のように高い技術集約型製品を中心に輸出している。早い話、技術を売って儲けている。したがって輸出の約60%を外資系企業が占める。

これに対して中国メーカーは利息、配当金、技術、ブランド使用料などを外資に払わなければならず、いくら輸出が増えたといっても、中国に入るのは賃金だけというのが実態だ、と矢板記者。

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2007年08月21日

◆防衛省をめぐる謀略放送


                         渡部亮次郎

先に小池百合子防衛大臣が突如「防衛省の天皇」守屋武昌事務次官(62)のクビを斬ろうとしたとき、夕刊紙「日刊ゲンダイ」は訳知りに「真相」を報じた。

2007年8月12日に「その裏には東京地検特捜部が近々防衛利権にメスを入れるとの情報があり、名簿には守屋氏の名前も取りざたされていて、小池大臣はこれを嫌ったのだ」と。

これに並行して名の通った弁護士がことさらにシーメンス事件を仄めかしたりするものだから、ロッキード・マーティン社が製造しながら、米議会から機密保持のために海外販売を禁止された最新鋭のF22(レーダに捕捉されない)の解禁と結びつけた情報さえ流れている。

結論から言って私は弱り始めた安倍政権に対して引きずり降ろしを図る左翼陣営乃至反主流派の謀略「放送」ではないかという気がしてならない。検察が事件摘発前に予告情報を流す事などあり得ないからである。

日刊ゲンダイが挙げている(検察事情通)とは大手の新聞記者だろう。「検察が重大な関心を寄せているのは、航空自衛隊の次期輸送機CXの搭載エンジンの納入利権のようです」という。

それによれば、この利権は総額1000億円にものぼり、老舗防衛商社の山田洋行と、同社の経営陣が分裂して設立した新会社の間で熾烈な利権争いが勃発。

一度は山田洋行に決った販売代理店契約が突如、新会社に変更になった。大昔のグラマン戦闘機をめぐる商社間の暗闘を思い出させる話では無いか。

「その裏側で防衛省の背広組や政治家が跋扈(ばっこ)したのではないかと噂され、(司法関係者)とは弁護士だろう「検察のターゲットには守屋氏の名前も取りざたされている」と日刊ゲンダイに教えているのである。

守屋氏とは何かのパーティーで見かけた事はあるが、話をした事は無い。東北大出の生え抜き防衛事務次官、在任既に5年目に入っていた。容貌とは裏腹に相当の切れ者だったらしい。津島派所属者の多い歴代長官や大臣を自家薬籠中のものとしてきた。

歴代防衛庁長官や防衛大臣はあまり表面は出てこないが実は「安全保障議員協議会」という任意団体で堅く結束しており、彼らは守屋次官続投を支持していたはずである。それがあったればこそ、守屋氏の大胆ともいえる「反抗」があったのである。

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2007年08月19日

◆パチンコのままの安倍


                       渡部亮次郎

私が外務大臣秘書官を辞して浪人の頃だったから昭和58(1983)年の秋ごろのことだったように思う。東京都下の立川市で大々的な決起集会が開かれた。

ある政治記者が自民党安倍晋太郎派で立川を中心とする地盤から衆院議員に出馬する、ついては立川市で決起集会をぶち上げてムードの盛り上げを図ろうという事になった。

隣の国立市で燻っていたから、会場を覗きに行った。安倍派幹部に混じって今の安倍さんもヘリコプターでやって来た。聞けば親父安倍晋太郎外務大臣の秘書官だという。

数年前まで座っていた私の椅子に今は座っているのだという。なるほど、晋太郎と岸信介の娘洋子の間に出来た次男だという。長身の晋太郎と鼻だけは低くなかった岸の顔を足して2で割ったような顔。

連れて行ってくれた友人の話によると、晋三氏は幼少の頃から頭は父や祖父に全く似なかった。家庭教師をつけて貰って、せめて慶応義塾を狙ったが果たせず、吉祥寺郊外にある三菱系の私立学園成蹊の小学校に入った。

アーチェリーをやったとか言っているが、要するに吉祥寺駅前のパチンコ屋に入り浸り。とうとう大学まで成蹊を抜け出せなくて終わったという意地悪な解説だった。

ところが「解説」は意地悪ではなかった。真実だった。しかも、あれから二十数年、安倍晋三は進歩していない。だからやはり参院選挙に大敗してレームダックになるという予測の道を滑り落ちている。

「ご紹介戴きました安倍晋三です。外務大臣安倍晋太郎の代理で参りました。五十嵐君は時事通信社の安倍番です。ある日、親父のところに来て、代議士に立候補したいので、応援して欲しい、といいました。そこで安倍派として五十嵐君を応援する事に致しました。皆さんよろしくお願いいたします」。
あぁ、これで五十嵐君は落選確実になった、と私は確信した。

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