2007年10月19日

◆忍び寄る耐性菌

                       渡部亮次郎

<耐性菌で死者1万8千人超 05年に、米保健当局推計

代表的な抗生物質が効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に全米で2005年に感染したのは約9万4000人で、そのうち約1万8600人が死亡したとの推計を米疾病対策センター(CDC)がまとめ、米医師会雑誌(電子版)に16日発表した。

日本を含め先進国で感染拡大が問題になっている薬剤耐性菌での推計は全米で初めて。医療関係者は「05年の米国内のエイズ感染による死者数約1万7000人を上回る」と警戒を強めている。>(ワシントン=共同)2007.10.17

感染は人口10万人当たり31・8人、死者は同6・3人となった。院内感染を含め、医療施設での感染が約85%を占め、病院外で広がる「市中型」も約15%あった、という発表である。街を歩いていて感染する事もあるということだ。

85%が院内感染とは当然だろう。なぜなら病院こそは病気のデパート。様々な病気、知らないうちに知らない黴菌に感染している人々が集まっている場所なのだから。

CDCの担当者は「MRSAの蔓延(まんえん)は予想以上であり、病院など医療施設は感染防止をより重視すべきだ」と指摘している。

他人事(人事)ではない。このため永年の親友を亡くしたのである。
山崎康正君。2007年6月1日に死去。NHK記者を都合で途中退職。何の伝手も無いのにニューヨークへ渡ったにも拘らず、フリーのジャーナリストとして成功。

NHKのラジオ深夜便にも時折、現地から電話出演。その功績でNHKから会長賞を受けて笑っていた。真面目に働いていた時は何の沙汰も無かったのに、辞めて何年も経ってから出演者として表彰を受けるとは、と笑っていた。

ニューヨーク滞在20年。JALの旅客乗務員だった夫人とは2人の子供をもうけながら離婚。その後にNYに渡ったのだった。マンハッタンの中心の高級アパートで自炊生活。私は何回も泊めて貰った。

突然、2007年1月、急性白血病で倒れてNYの病院に入院。長くなるからという病院の奨めで急遽、帰国。母方の祖父が教授だったという縁で東京・信濃町の慶応大学病院に移ったのは4月。

抗癌剤の投与で容貌が変わり、誰にも見られたくないと私にさえ知らせなかった。実はNYの病院で耐性菌に院内感染していたのがわかった。しかし耐性菌とあっては施す術なし。死を待つだけとなり、
遂に6月1日、多臓器不全となって死去した。まだ67歳だった。

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2007年10月18日

◆初の行政主席選挙

                      渡部亮次郎

沖縄がアメリカに占領されていた末期の1968年11月10日に第1回行政主席通常選挙が行われNHK政治部から田辺昌雄先輩記者と共に取材に派遣された。

アメリカの領土だったからパスポートとビザの発給を受けた。円は通用せず、1日あたり38ドル(1ドル=360円)を支給され、もちろん日航機で赴任した。

岩手県の盛岡放送局から政治部に着任して未だ4年目の若造がなぜ指名されたかの説明は聞かなかったが、地方時代に様々な票読みで実績があったからかもしれない。

琉球政府の行政主席。アメリカ占領中の沖縄を統括するアメリカ側の役所は「高等弁務官」。その下に沖縄人による役所として「行政府」が置かれ、そのトップが行政首席であった。

また管轄するする日本政府の役所は総理府(当時)。政治記者の初期の頃、同和事業などと一緒に担当させられたので、沖縄情勢をズブの素人よりは知っていた。

その頃の内閣は佐藤栄作氏で「沖縄の返還」を最大の「公約」に掲げており、まず「教育権」の返還を掲げ、その次に行政主席の選挙による選出をアメリカに要求していた。

その結果、住民の直接選挙による選出が許可されたわけである。39年も前の出来事。作った資料はとっくに廃棄したし、写真もどっかへ行ってしまった。いつも利用している「ウィキペディア」には記録があるかも知れない。

案の定あった。それによると、公示日1968年10月21日、投票日1968年11月10日とある。有権者数515,246人 (男性:235,299人、女性:279,947人)

琉球空港に降り立ってみると猛烈に眩しい。タラップの先に立っている女学生にスネ毛が長く生えていて、風になびいているではないか。まずサングラスを買った。

沖縄支局にいる駐在員の世話で下宿探し。ついては本土に引き揚げていったナントカ製薬駐在員の世話を焼いていた女性の世話になったらどうかという色っぽい話もあったが、遠慮。1日2食ドル5ドルの6畳間に落ち着いた。

毎朝、味噌汁が出るが、大豆の味ではない。蘇鉄の実だという。変った味だった。魚が殆ど食卓に上らなかった。鶏か豚ばかり。

高等弁務官事務所を訪れて米軍基地へのパスを申請。身長、体重、髪の色に加えて「瞳の色」は黒と申請したらミスター・ワラナベ、ユーアー ナット ブラック。ブラックは沖縄人。日本人はブラウンとの御託宣。知らなかった。沖縄人は大和民族では無いとは。

折からベトナム戦争。嘉手納基地から爆撃機が大量の爆弾を抱えて北ベトナム爆撃にひっきりなしに飛び立つ。そのたびに国道が交通止め。タクシーの頭上すれすれに離陸して行く。爆音が腹に響くのを知った。

立候補者は届け出順

(1)西銘順治にしめ じゅんじ 沖縄自由民主党総裁
琉球 島尻郡知念村(現・南城市)出身。

(2)屋良朝苗(やら ちょうびょう)無所属 沖縄教職員会会長
琉球 中頭郡読谷村出身

ほかに公認会計士が立ったが「本土復帰反対、独立」を主張し泡沫扱い。事実は西銘・屋良の一騎打ちであった。

主な争点

行政主席の直接選挙制が導入されて初の選挙であり、本土の政治家も多く駆けつけて選挙戦が展開された。そして、近い将来に実現されるであろう本土復帰が最大の争点になった。

西銘順治候補は「本土との一体化」を掲げて日米協調路線の下での復帰を訴えた。一方、屋良朝苗候補は「即時無条件全面返還」を掲げた。野底武彦候補は復帰そのものに反対し、琉球の独立を訴えた。

タクシー雇い上げが1日10ドル。本島をぐるぐる廻ろうにも目当てが無い。立会演説会に顔を出すと途端に地元弁で喋りだすから全くわからない。

選挙管理員会に顔を出したら離島での繰り上げ投票や開票はやらない、という。記者さん、投票が済めば、いつ開票しようが結果は決っているのだから急ぐ必要はありません。

本土ではTVやラジオを通じて一刻も早く結果を知りたがっていると説得してやっと了解してもらったものだ。どっちが役所かわからない。

飲み屋の主人やなんかを相手に話を聞くと西銘は問題にならないという。「日の丸掲揚運動を主張する屋良先生の勝利間違いなし」の話ばかり。遂に田辺さんには「4万差で屋良勝利」と申告。

翌朝、高等弁務官事務所に顔を出したら「NHKは4万差で屋良勝利と放送したが根拠は何か」と聴かれた。予測をNHKが放送するわけが無い。本社への電話を盗聴したのだ。

そういえば毎朝、タクシーの後をナショナル電気洗濯機と書いたワゴンが尾行してくる。沖縄人ダ。アメリカ軍に雇われて尾行しているのだという。

弁務官事務所に抗議したら「新聞の反米記事は空港で新聞の全部を没収して済むがNHKの電波は阻止できない。だから発信元を警戒するしかないのだ」とあっけらかんなものだ。

選挙結果
屋良朝苗 237,643票(当選)
西銘順治 206,209票
野底武彦 279票
(投票率 - 89.11%)

その差 31,434.予想の4万よりは少なかったが「合格」と部長に言われて琉球を後にした。11月10日、まだ半袖のポロシャツだった。

屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年12月13日 - 1997年2月14日)

明治35年(1902年)12月13日生まれ。昭和5年(1930年)に広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業する。

その後沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第1高等女学校、台南州立台南第2中学校、台北第1師範学校などで教職をつとめた。

沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。

主席在任中は、復帰を円滑に進めるために日米両政府の折衝などを進めていったが、その道のりは険しく、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか「縦じわの屋良」と呼ばれるようになった。

復帰後も昭和51年(1976年)まで、沖縄県知事として在任した。同年の選挙にも出馬を要請されたが、固辞し退任した。

知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。実直な人柄であった。

沖縄教職員会はその後教職員組合と名称を変えたが、内実は屋良氏の頃とは様変わりし13,307人を110,000の集会と偽って発表して恥じない団体になった。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
2007・10・17

2007年10月17日

◆胡錦濤と江沢民の握手

                          渡部亮次郎

<【北京=伊藤正】胡錦濤総書記が2時間半に及ぶ演説(政治報告)を終え、ひな壇最前列の中央の席に戻ると、左隣の江沢民前総書記が立ち上がり、握手を求めた。>産経ニュース2007.10.16 00:43

15日、北京の人民大会堂で開幕した第17回中国共産党大会。伊藤総局長は「その握手で、江氏は胡氏の報告に賛意を示したように見えたが、真意は分からない」としながらも「胡報告は経済は自由、政治は保守というケ(トウ)小平、江沢民氏の路線と基本的に変わらない。江氏が胡氏に握手を求めた理由かもしれない」と結んでいる。

5年前、江沢民氏の後を継ぎ総書記になった胡錦濤氏。彼にとって、今回が初の自前の党大会だが、この5年間、中国が年平均10%超の成長を遂げ経済大国化、国際的地位も大きく向上したのは江氏の決めた路線と指導体制によるものだった。

胡総書記の初めての報告は、改革・開放を切り開いたケ(トウ)小平理論と、それを発展させた江沢民氏の「3つの代表」思想を高く評価し、その継承を強調しながら、科学的発展観という胡氏自身の理念を打ち出した。

所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだひずみを正し、持続的な均衡成長と調和の取れた社会実現が主眼だ。しかし過去5年間、7〜8%の目標値に対し2けた成長が続いたことが示すように、成長主義の構造を打破するのは難しいはずだ。

とめどなく成長しようとし、如何なる政治的規制も排除しようとするのが資本主義の本質である。これに対し共産党は政治の独裁を継続しなければ存在意義を失うのであるから、経済に対する規制を止めるわけにはいかない。そこに汚職が必然的に発生する。

したがって伊藤記者も指摘するように

<例えば、成長率を押し上げる地方政府による不動産開発は、財政資金確保と同時に党官僚たちの闇収入にも欠かせない。胡錦濤政権の土地売買の規制策や汚職への厳罰主義も効果は薄く、地方には、腐敗に寛大だった江沢民時代を懐かしむ声さえあるという。>

つまり所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだ「ひずみ」こそは江体制の遺物であり、中国式共産主義体制の本質そのものなのである。

伊藤記者は「ある学者によると、胡錦濤路線は、ケ(トウ)小平理論から1歩も出ていないという」としているが胡錦濤は仮に手品師だとしても種と仕掛けが変わらない以上、変った事は何もできるはずが無い。

報告で胡氏が「1987年の第13回党大会で打ち出した社会主義初級段階論を踏襲、1つの中心(経済建設)2つの基本点(社会主義堅持の4原則と改革・開放)を堅持する」と述べているのは当然だ。

<経済が資本主義化した今日、一党独裁を廃止し、民主制度に移行すべきとの議論が近年、高まっている>と伊藤記者は指摘するが、先に述べたとおり一党独裁を止めれば共産党は失業するどころか、これまで我慢してきた農民に殺されてしまうだろう。

だから遅れた経済を発展させる手段が改革・開放であり、市場原理など資本主義の手法も是とする半面、一党独裁を中心にした4原則堅持は変えないのは当然というものだ。

<胡錦濤氏は報告で「社会主義だけが中国を救い、民主社会ができる」と主張している。胡氏のいう「民主」とは共産党が与える社会主義民主にすぎない。直接選挙制の拡大など政治改革はなく、党の執政能力の強化、効率化にとどまった。

先の学者よると、共産党が当面している最大の問題は、国民の党不信であり、その要因は腐敗という。党権力が強まるほど、腐敗が巨大化、蔓延(まんえん)していくのが現状だ。その有効な対策は、胡報告には見えない。

89年の天安門事件前、腐敗は今日ほど深刻ではなかったが、当時の趙紫陽総書記は、党と政治、企業との分離を打ち出したほか、司法の党からの独立や報道の自由のための新聞法制定の構想を進めていた>(伊藤記者)。

中国の未来は決して夢でも明るくも無い。趙紫陽総書記がやろうとした事は共産党からすれば反革命に等しかった。だから失脚したのだ。今回、胡と江が握手した事を見れば22日に明らかになる人事も驚くような事は無さそうでは無いか。2007・10・16

2007年10月16日

◆イチョウは鴨脚樹(ヤチャオ)

渡部亮次郎

近くの都立猿江恩賜公園の銀杏は殆ど落ちた(落とされた?)が10月半ばの15日にも、雌の木の下の植え込みを分けてまで探している老人を何人も見かけた。

周囲を水田に囲まれて育った身には、大の大人が何故こんなに都会の人たちが銀杏に夢中になって、さらおうとするのか判らない。確かに葉っぱにはボケを防ぐ何かがあると読んだことがある。

そこからすると、実にはもっと効き目のある薬が含まれていると信じるのも自然である。だがつり竿を持って来てたたいたり、はては猿のように登っていって枝を揺する様は、イチョウの薬は既に効かないとの感を深くする。

イチョウ(銀杏) Ginkgo 中国原産の落葉高木。裸子植物である。中国では銀杏のほか、公孫樹とも書く。

また葉の形がカモの脚に似ていることから鴨脚樹ともいったが、この中国語を日本人がヤーチャオと聞いたことから、やがてイチョウとよぶようになったと、大槻文彦が「大言海」でのべている(後述)。

イチョウの仲間は古生代末に出現し、主として中生代ジュラ紀に世界各地で繁茂した。東京都や東京大学のマークに使われている。

現存する唯一の種であるイチョウは、メタセコイアとともに「生きている化石」として知られている。明治時代、イギリスの植物学者が日本にも繁茂しているのを発見して驚いたという記事を読んだことがある。

中国では古代から聖なる木とされ、寺院の庭で保護されてきた。そのため絶滅しなかったというのが植物学者の定説だったが、近年、中国西部の峡谷で野生のイチョウが発見されている。

日本でもイチョウは信仰と深くむすびついた木として大切にされ、各地の神社や寺に巨樹がみられる。国指定の天然記念物にも20本を超えるイチョウの名木がある。

高さは10〜40mになる。葉は扇形で、葉脈は付け根から先まで二またに分岐をくりかえし広がっている。大きな枝から、短枝というひじょうに生長のおそい小さな枝を出し、そこに毎年、葉をつける。雌雄異株で、雌花と雄花は別の木につく。

日本での花期は4月。雄株のつける花粉は風にはこばれ、雌株は秋に異臭のする肉質の外種皮におおわれた種子をつける。このため、雌株は観賞用にはこのまれない。中華料理や日本料理では、銀杏(ぎんなん)とよばれる種子が珍重される。

イチョウは公園や庭園によく植えられる。大気汚染、日照不足などの都会の悪条件にも強いため、大都会の街路樹としても植えられる。

このような多角的な利用のため、さまざまな園芸品種がつくりだされてきた。トウガタイチョウ、シダレイチョウ、オハツキイチョウ、チチイチョウ、キレハイチョウ、フイリイチョウなどである。

分類:イチョウ科イチョウ属。イチョウの学名はGinkgo biloba。

『大言海』序文がかたる銀杏の語源探求

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。この辞書の特色は、出典を示し、独特の語源解釈を試みていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。

[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年
大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

<銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明13年80歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。

始めて、一葉の字音なること見えたり。然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。

仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢700年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、30年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。>

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2007・10・15

2007年10月14日

◆政界を動かす「怨念」

                    渡部亮次郎

マスコミがとうに気付いていながら書けないことを書く。

福田政権を作ったのは森喜朗氏とか青木幹雄氏なんかではなく野中広務氏である。それを新聞記者もTV記者も知らなかったようだが、私は知っていた。京都から野中氏が動き出した時、安倍晋三総理が辞意を固めた時だった。

野中氏。既に衆院議員を引退したが、手下古賀誠氏を擁して政界を自由に遊弋している。それなのに野中を全くマークしない日本のマスコミはバカだ。

野中氏は1925(大正14)年10月20日生まれだから2007年の誕生日には82歳になる。京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。父・北郎、母のぶの長男である。

野中家は4反前後とはいえ田んぼをもつ自作農であり、広務氏が生まれたとき、父・北郎氏は25歳の若さで村の副区長をつめていた。

広務氏は旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、大阪鉄道局の職員として採用され大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。大阪鉄道局長だった佐藤榮作(のち首相)と知り合った、という。

著書によればこの大阪鉄道局で差別に曝され自覚を固めた。園部町(現南丹市園部町)の町会議員に当選、さらに町長、京都府府議会議員と飛び、遂には参議院議員を府知事に担ぎ上げ、驚いた事に自分がその副知事となって京都府政を牛耳ったのである。

その頃、私は厚生大臣秘書官だった。京都市の医師がアサヒ・ビールの株を買占め始めて筆頭株主になりかけていた。そこで予て知り合いの住友銀行(当時)頭取が、大臣に「何とか止めさせてくれないか」と陳情してきた。

大臣園田直の命令により幹部を京都に派遣した。ところが厚生省の内情がそっくり医師側に漏れている。驚いて調べると肝腎の副知事が医師側についていた。厚生省の幹部は副知事こそは行政側と勝手に思い込んで内情をすべてバラしていたのである。

1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において、2議席を自民党の谷垣禎一候補、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリストになる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。

開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に伸びが鈍りはじめ、谷垣、有田候補にリードを許し始める。まず、谷垣候補が当確し、残り1議席となる。

一旦は、有田候補が勝利宣言、野中氏は敗北宣言の準備を始めた。しかし、地元である園部町で未開票の投票箱の存在が発覚して、有田候補を逆転するという劇的な初当選を果たす。

永年に及ぶ「被差別」。それに耐えてきた野中氏のド根性は半端じゃない。定めた敵は必ず「仕留める」

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2007年10月13日

◆疑惑のノーベル平和賞

                       渡部亮次郎

<ゴア前米副大統領とIPCCにノーベル平和賞

【ロンドン=木村正人】ノルウェーのノーベル賞委員会は12日、2007年のノーベル平和賞を、1970年代から地球温暖化問題に取り組んでいるアル・ゴア前米副大統領(59)と国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の両者に授与すると発表した。

環境分野に絡む平和賞受賞は2004年のケニア出身の女性環境保護活動家、ワンガリ・マータイさん(67)に次いで2度目だが、同分野単独での受賞は初めて。

同委員会は181の候補からゴア氏を選んだ理由について「彼はおそらく、個人の力で世界中に最も気候変動への理解を広めた人物だろう」と述べ、IPCCについては「地球温暖化と人類の活動の因果関係を広く知らしめた」と評価した>。産経新聞Web 12日

ノーベル平和賞には日本の前首相佐藤栄作氏も選ばれたのだ。記憶している人は少ないかも知れない。

<1974年に、ショーン・マクブライド(アイルランド)と共にノーベル平和賞受賞。非核3原則の制定が評価されてのものであった。

この受賞には国連大使だった加瀬俊一氏のロビー活動が寄与したといわれている(佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表明している)。しかし、2000年代に入ってからノーベル財団はこの受賞について厳しい評価を表明し>。「ウィキペディア」

<佐藤総理は沖縄の核抜き返還を決めた1969年11月19日の日米首脳会談で「核抜き」に関する共同声明に合意した後、「カリフォルニア州サンクレメンテにある私邸の写真を見ないか」という大統領の案内で別室に消えた。通訳もつれず。したがって首脳会談に関する外交公式記録はここまで。

ところが若泉氏の著書に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した。

だが若泉氏は「あれしか策は無かったのだ」と言って死んだ>。渡部亮次郎「頂門の一針」2007年10月13日 962号

<日本政府が最初にこの原則を提示したのは、1967年12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳氏が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という3原則を示したときである。

佐藤栄作は、翌1968年1月の施政方針演説でも、この3原則を示した。
その後、返還後の沖縄においても同原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折もあった。

佐藤栄作は、最終的に沖縄にも適用させるべきという決断を下している。これを受けた沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされた。

法律ではないため、この3原則自体に法的な拘束力はないが「核兵器を持たず、作らず」の日本独自の核保有に関する2項目については、1955年に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている>。「ウィキペディア」

佐藤首相はこの非核3原則を示したことによって1974年12月にノーベル平和賞を受賞した。退任2年後1974年12月に受章し、翌年の6月3日に築地の料亭で死去する。

「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の刊行ガ1994年ではなく平和賞の以前だったら違った結果になったのではなかろうか。2007・10・12
ところで沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされたわけだが、実際は、
<若泉氏の著書(1994年5月刊)に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した>
わけだからノーベル平和賞の権威に疑問が呈せられたのは当然だったろう。2007・10・12

2007年10月12日

◆笹川会長の瀬島龍三論

                   渡部亮次郎

ソ連との停戦交渉時、ソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については一切否定していた瀬島龍三氏(元大本営参謀で元伊藤忠商事会長)が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内府中市の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

伊藤忠商事と亜細亜学園合同葬は10月17日午後1時から東京・築地本願寺本堂で。喪主は長女緒方繁代さん。

ところで日本財団会長笹川陽平氏は自らのブログで「瀬島さんはシベリア抑留中、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発した」という旧ソビエト共産党工作員の証言を紹介すると共に勲1等にも「異議」を唱えている。
http://blog.canpan.info/sasakawa

私は瀬島氏とは政治記者或いは外相秘書官として何どと無く酒を酌み交わした仲。随分際どい事も聞いたが、抑留時代の事については遂に話をかわされて真相を聞き出す事はできなかった。逝去を報ずる新聞雑誌も「墓場に持って行かれた真相」と表現した。

笹川氏は『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀を賜る。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲1等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第2次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した』との「ウィキペディア」の記事を紹介した後、強烈な批判を展開。これほど率直な瀬島論は読んだことも聞いた事もない。

<ウィキペディアで興味を引くのは、(瀬島氏が)『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より

「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。>
と紹介したあと次のように述べている。

<私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連検察側証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後、瀬島氏は、その天皇から勲1等瑞宝章を親授された。

日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。

賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。

かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。>

笹川氏のブログはさらに瀬島氏が多分、生き延びるために共産党に一時的にしろ「転んだ」ことを明らかにしている。

これを明らかにしたのはモスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏。旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。

<(モスクワで)自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。
日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。
「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。

ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた」

「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の1軒家に、女中もつけて、(東京裁判の)ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。

関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。>

瀬島氏は陸軍大学を首席で卒業した秀才。話は情熱的ではなくいつも箇条書きに整理して話す人だった。だから誰にでも分かりやすかった。金沢連隊の連隊旗手を命ぜられた。

連隊旗手は童貞でなければならなかった。その代わり1年の任期が終わったところで花街で筆下しをされた。「どうにも不潔で、月明かりの犀川で下半身を洗った」堅物振りを聞かせてもらった。だから生き延びるためには共産党万歳と叫ぶ事なんか平気だったろう。

だが純情なところも見えた。香港攻略に先立ってスパイの真似事をさせられた。偽の妻を娶り民間人を装ってイギリス軍を偵察した。

シベリヤから帰還後、彼女の郷里・津軽に尋ねた。しかし「既に石の下だった」。後に「津軽海峡・雪景色」を歌手石川さゆりさんから直に指導を受けた。

「瀬島評価」が分かれるのは、大本営参謀とソ連抑留の瀬島氏を知る者と、伊藤忠商事以降の瀬島氏しか知らない者の違いだろう。関東軍参謀に出されたのでしょう。

切れ者だが事務屋の域を出ないということだという批評が私のメルマガには多く寄せられた。しかし「ソ連による北海道占領と引き換えの抑留。生涯口に出せずに残念だったはずだ」という理解の投書も1通だけあった。『自由』2007年11月号「政界馬耳東風」再掲。2007・09・09

2007年10月11日

◆江東ゼロメートル地帯

渡部亮次郎

東京・江東区は隅田川と荒川に挟まれた地域だから地盤は軟弱に決っている。毛利という町内で再開発された旧同潤会アパート(20階
2棟}の一隅に住んでいるが、古老の話では岩盤まで打った杭は地下60メートルに達したそうだ。

ここから100メートルぐらいのところにあった繊維工場が操業を止めて跡地をマンション業者に売った。一昨年秋のことである。敷地は70坪、そこに予定されたマンションは13階建て。

・・・の筈だった。板囲いの掲示では完工予定平成19年7月15日となっているが、工事そのものが一向に始まる気配が無い。実は昨年の夏ごろ、地盤調査みたいな事が行われたが、それっきりなのだ。

公園への散歩の行きかえり、囲いの隙間から見ると、土地に隣接して建っている4階建ての古いビルが左に大きく傾いているではないか。地盤調査で掘り返したら、隣のビルが傾いた。中止、中止!

多分、これが真相である。マンション業者、隣で傾いたビル、元の繊維工場、関係者、団子になってもめている事だろう。

江戸の歴史を読むと、江東地帯は、徳川家康が着任した当時は水浸しの湿地帯だった。

田中角栄氏の先祖みたいに土建の才能豊かだった家康は、この湿地帯を一目見てひらめいた。ここを立派な住宅地に「開発する」。

早速縦横に運河を掘った。掘ればそこへ土中の水が排水されて湿地は乾く。乾いた土地に土盛りをすれば立派な宅地に変貌するではないか。竪川(たてかわ)、横川の地名が残っている。竪川は今は立川と書いて「たてかわ」と読ませている。落語の一派がここから出たのではないか。

私の住まいする地名「毛利」を三省堂の「コンサイス地名辞典」1975年1月30日初版で調べると「区内最古の埋立地。竪川の上に都心と千葉を結ぶ首都高速道路7号線がある。紀州の毛利藤左衛門{伊勢屋藤左衛門}が埋め立てたと伝えられる、とある。

但し「総武本線錦糸町駅南500Kmは酷い誤植。ただの500m。又ここには江戸時代には幕府の材木蔵があったとあるが、今は都立猿江恩賜公園になって、私の散歩場所になっている。

そういうわけで江東区も墨田区も江戸川区も地盤が悪い。総称して「江東ゼロメートル地帯」といわれていたが、最近はあまり騒がれなくなった。

江東区環境清掃部 環境対策課 が最終更新日:2005年09月16日に出した資料によると、ゼロメートル地帯は湿地帯だったからゼロになったのではなく地下水汲み上げ過ぎによるものだった。

地下水を大量に汲み上げることによって、地下水位(水圧)が下がり、それが地層の収縮をもたらし、地表面が徐々に沈んでいく現象。一度沈んだ地表が再び隆起することはなく、しかも広範囲にわたるなどの特徴がる。

地盤沈下により建物や地下埋設物に被害を及す。江東区南砂では、大正7年以来、実に4・5メートルも沈下している。染色工場は厖大な水を使うが、汲揚げを止められ、操業を止めた例もある。

地盤が著しく沈下した地域では、台風による高潮や地震が起きた時に堤防決壊による洪水等の危険がある。ひとたび被災した場合には、人の生命や財産の被害は極めて大きなものになる。

もともと江東地区では大正時代の初期、大阪市西部では昭和に入ってから地盤沈下がみられるようになった。その後、急速に沈下が進み、建物の崩壊あるいは高潮による被害が生じ、地盤沈下が大きな社会問題になった。

昭和20年3月10日の米軍大空襲でこれらの地域にあった工場が壊滅してからは、地下水の採取量が減少したので地盤沈下は一時的に停止したが、昭和25年の朝鮮戦争を契機に産業活動も復興し、地下水の採取量も増え、そのため再び地盤沈下が激しくなった。

また、沈下地域も東京や大阪の下町地域だけでなく、内陸部や隣接する埼玉県や千葉県にも拡大し、新潟平野、濃尾平野、筑紫平野といった全国各地でみられるようになった。

東京地域では、昭和36年以降の地下水採取の規制によって昭和40年と41年には一時沈下が鈍化したものの、昭和42年頃から再び沈下が急速に進んだ。経済の高度成長期だったからだ。

しかし、昭和47年以降、地下水採取規制の強化や水溶性天然ガスの採取を停止するなどの対策によって、地盤沈下はようやく鎮静化しつつある。バブル崩壊後は工場が閉鎖されてマンションに生まれ変わっているので地盤沈下に歯止めがかかっているはずだ。

それでもゼロメートル地帯は荒川下流地域や城北地域に出現し、その面積は、満潮時で区部の21・7%にあたる124・3平方キロメートルにも及んでいる。

大正7年以来、実に4・5メートルも沈下した江東区南砂では昭和40年代の末頃からは、沈下が鎮静化しマンションが盛んに建っている。

江東区内の地下水採取は、「工業用水法」および「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」、「東京都環境確保条例」により行われており、井戸の深さや口径等について規制されている。この基準に適合しない井戸は廃止しなくてはならず、また新設することもできない。2007・09・02

2007年10月09日

◆拘りは投票日の大安

渡部亮次郎

衆議院の解散は2年以内に行われるが、急に産経新聞が「年内解散」を取り上げた。

<ならば、善は急げとばかりに、12月16日が縁起のいい「大安」にあたることから、「12月4日告示、16日投開票」のシナリオが浮かんできた>と今堀守通記者が書いている(2007・10・08付)。

しかし昔から保守の政治家がこだわったのは「開票日・大安」であって解散の大安ではなかった。世の移り変わりをつくづく感じる昨今である。

あれは昭和44(1969)年。沖縄返還交渉を審議するための第62臨時国会のさなか、佐藤栄作総理が衆議院をいつ解散し、投票日をいつとするかが注目される中、NHKは投票日は12月の何日とかと放送したが、これは私の反対を押さえ込んでの結論だった。

この時の自民党役員は幹事長田中角栄、園田直国会対策委員長と言う布陣。ポスト佐藤をめざして党内多数派工作に腐心している「角さん」に対して、園田は福田赳夫推進の立場。マスコミは角福代理戦争と揶揄した。

角栄は佐藤派大幹部。しかし園田の観るところ、佐藤に対しては相当、距離のある関係、とのことだった。

<たとえば佐藤の前で角栄は椅子に深く腰を下ろせない。浅く半分しか座れない、全くの主従関係だ、というのだ。そこで解散日はともかく、投票日はいつになるか。角栄の主張など佐藤が聞くわけない。

佐藤が決める大安のいつかが投票日となり、そこから逆算して解散日が決まる。佐藤さんはなんたって大安が好きだ。大学立法の採決強行を焦る総理に角さんが何度言っても納得しない。

そこで私が行って言ったんだ。「総理!今日は仏滅、明日が大安」
そしたら「そうか」で納得したことがあったもの>(園田談)。

角栄幹事長を取材した方は政局運営上、幹事長の都合を優先して日にちを言う。ところが園田の言うのは、もっぱら佐藤総理の「大安」への拘りだけ。「あの人は角さんと違って大安に拘る。だから投票日は大安の12月27日。そこから逆算して解散は11月29日に間違いないッ」

しかし党運営の最高責任者たる幹事長、佐藤派大幹部の角栄に対して園田は国会対策委員長に過ぎない。その発言は軽んじられて没となった。

実際は園田の読みどおりになった。政治部長にこっそり呼ばれて
訂正記事を書かされた。それが報道局長賞となった。貰った晩、誰も付き合ってくれなかった。自棄酒を呷り、目黒駅から雪道を歩いて帰宅途中、涙が出てきた事を思い出す。

さて福田総理は何に拘るだろうか。或いは拘らないだろうか。大安ではなさそうに思う。2007・10・08

2007年10月08日

◆ミャンマーの「真相」

                     渡部亮次郎

1995年から3年間、日本のミャンマー大使を務めた、知り合いの山口洋一氏が2007年10月11日号の「週刊新潮」に特別手記を寄せている。「スーチー女史が希望の星というミャンマー報道は間違っている」というもの。

山口氏は本籍佐賀県70歳。私が外務大臣秘書官の頃は本省の海外広報課長から昭和天皇の御用係に出向していた。その後、インドネシア大使館の参事官などを経てミャンマー大使を務めた。

週刊新潮の手記は4ページに及んでいるが、「勲章ジャラジャラの軍服を着た為政者と、民主化を目指す軟禁中の女性・・・。誰が見ても悪役は前者である。デモの取材中、日本人ジャーナリストが射殺された事件は、ますますミャンマー政府の悪逆非道を印象付けた。

が、元ミャンマー大使の山口洋一氏は、新聞、テレビの偏向した報道を指摘する。もはや、スーチー女史は希望の星ではないのだと」

以下<  >で括って内容を紹介する。

<欧米の殆どすべてのメディアと日本の新聞、テレビはミャンマーで起きた僧侶中心のデモを、軍事政権の圧政に対し民主化を求める民衆が蜂起したという構図で報じてきた。あまりに単純すぎる>

<今回のデモの規模10万とは誇大な数字だ。メディアは反政府運動の規模を5~6倍、酷い時には10倍にする。在任中アウンサンスーチー女史の自宅前の集会が連日3―4000人と報道されていたが、部下に数えさせたら5―600人しかいなかった>

<今回のデモでもスーチー女史の率いる政党NLDが市民にカネを払って参加させている事実、デモ隊が投石し、武器を奪おうとしたので治安部隊が止む無く発砲した事実を殆ど伝えていない>

<ある地方では治安部隊を僧侶が僧院に押し込め、その車に火を放つといったおよそ「平和的な抗議活動」とは思えない振る舞いを見せたそうだが、日本では報道されていない>

<かつて日本人記者は「本社が期待しているのは、ミャンマーの首都が、反政府運動の闘士たちの血の海になっているような記事です」言っていた>

<日本のマスコミは、「軍政は政治犯を釈放すべきだ」と主張するがミャンマーに純粋な意味での政治犯は1人もいない。「道路や公園など公共の場所で5人以上の政治目的の集まりは禁止」「屋内における50名を超える政治集会は許可制」といった古くからの法律に違反したものばかり。法治国家として当然のことを怪しからんというのは(どうか)>

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2007年10月07日

◆政治は映像で語れない

渡部亮次郎

TVマンは今知らず知らずのうちに日本の国民を飛んでもない方向に誤って誘導してしまっていて、しかもその誤りに気付いていない。
テレビを見れば見るほど政治不信に陥ると言う人の増えていることに気付いてない。

政治は欲望、思惑、懸け引き、寝技などから成立しているが、これらはいずれも舞台裏で展開されるものだから映像にはならない。それなのにテレビは映像だけで伝えようとするから、初めから無理があるのだ。しかも事実のオーバーな部分だけを繋ごうとする。

なるほど記者会見という絵はある。しかし嘗てNHK最高の政治記者島 桂次(のちにNHK会長・故人)が喝破したように「記者会見こそは天下の嘘吐き大会」である。政治家が不特定多数を前に本心を語るわけがない。

本心を語っているように見せてただ大衆を煽っているのは演説であって本心ではない。それなのに記者会見や演説の映像を繋いで、
これが真実と言われて信じる方がどうかしている。

安倍退陣、福田・麻生の戦いになったとき、このことを一番感じた。私はいうなれば日本におけるテレビ政治記者1期生であり、映像だけを繋いで事象を伝えようとすれば、結論は真実とかけ離れたところに落ち着く事をよく知っていたからである。

テレビ政治記者1期生たちはテレビで政局を伝えるべく様々な試みをしたが、さっぱり上手くゆかなかった。特に初期の頃はカメラの光感度が悪かったものだから強烈なライトが不可欠だった。

火傷するぐらいの強烈なライトを当てられて政治家は冷静に対応できるものではない。単独会見に成功したとしてもフィルムはなんだか興奮状態にある政治家の姿を伝えるだけだった。

ライトが弱くなっても政治家がレンズに向かっては嘘を言う事は変わらない。そこで考え出された手法が反対の立場にある政治家による追及である。相手は逃げにくいから嘘は言いにくいだろうと考えたが、簡単には行かなかった。時間の制約である。

そうやって40年近く。テロップでしか語れなかった政治が漸く映像化されたのかと思って覗いてみたら、何の事は無い、冒頭の結論である。

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2007年10月06日

◆インスリンに思う

                        渡部亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オ
ラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間
を縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をも
たらした。欧米ではすぐに患者自身の自己注射が始まった。だが日本で
は「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中に
は日に3度も医者通いを余儀なくされた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略
化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たち
は日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢
然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も
世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不
全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖
尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日
本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と
詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4
日(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10
年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべき
だろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓
がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長
く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、
ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、
高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても
切れない関係があることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全くでないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

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2007年10月05日

◆軍艦マーチの針路

                           渡部亮次郎

1.守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

2.石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかづち)の
声かとばかりどよむなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ

1番と2番の間奏時に海行かばの歌詞が歌われる場合もある。

軍艦行進曲(ぐんかんこうしんきょく)は瀬戸口藤吉作曲の行進曲。一
般に『軍艦マーチ』として広く知られる。

明治30年(1897年)鳥山啓作詞の「此の城(のち、軍艦)」に曲を付け
て軍歌とし、後日これを編曲して行進曲として発表された。日本を代表
する行進曲である。旧日本海軍及び現在の海上自衛隊の公式行進曲で、
進水式などで演奏される。

戦後はミッション系幼稚園の運動会ですら用いられるほど一般にも広く
浸透し、運動会や祭、商店、殊にパチンコ屋の景気付けの音楽として多
用されたため、そのメロディーは非常に多くの日本人に親しまれている。

現在では海上自衛隊の儀礼曲に指定され、通達によって以下の場合に演
奏することが定められている。

1.観閲式における観閲行進の場合
2.自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
3.自衛艦命名式における進水の場合
4.その他必要と認められる場合

当初は変ロ長調であったが、音が高すぎて歌うのが難しかったためト長
調に編曲され、さらに大正時代末期にはヘ長調へと改訂され、現在の曲
となった。

海軍では改訂されるごとに演奏を変えていたというが、陸軍では海軍か
ら供与された古い楽譜を長い間使用していたため、同時期であっても海
軍と陸軍とではやや違った演奏で録音されている。

また、昭和初期の電気録音開始以後の民間軍楽団などによる録音などで
も、依然古い楽譜で演奏しているものも多い。

著作権はポリドール、海軍省と変遷したが、海軍省の廃止によりすでに
消滅している。

最近はあまり使われないが、戦後は長らくパチンコ店の定番BGMであった。
これは、昭和26年(1951年)春に有楽町駅前の「パチンコ・メトロ」で、
海軍の航空機搭乗員だった店主が気晴らしのために掛けたのが始まりと
いう。