2007年04月27日

◆内務省の時代


渡部亮次郎

日本にも内務省があった。明治時代から大東亜戦争の敗戦直後まで設置されていた省。GHQ(は戦後に来た占領軍)に解体された。
内務官僚出身の著名人(五十音順)。日本史に重大な功績を残した人々だ。

相川勝六 安倍源基 有松英義 粟屋仙吉 生悦住求馬 石破二朗 大麻唯男 奥野誠亮 海原治 萱場軍蔵 唐沢俊樹 北村隆 菅太郎(第二次池田内閣経済企画政務次官) 後藤田正晴 後藤文夫 小林與三次
鈴木俊一 竹内藤男館林三喜男 床次竹二郎 中曽根康弘 灘尾弘吉(内務次官) 秦野章 原文兵衛(特高警察課長、警視総監、参議院議長) 平岡定太郎(福島県知事、樺太庁長官 三島由紀夫の祖父)

船田中  町村金五 松本学(内務省警保局長 / いわゆる「革新官僚」) 村田五郎(内閣情報局、大政翼賛会、群馬県知事) 安井英二(勅選議員、文部大臣、厚生大臣、近畿地方総監) 横溝光暉 吉國一郎 吉田茂 (内務省出身、総理とは別人) 加々美武夫

内務省は.多くの国家に設置されている、警察・土木・衛生・地方自治など国内の行政を担当する中央官庁である。一般的に、内務大臣もしくは内務長官によって指揮監督される。

日本では、1873(明治6)年の設置から1947(昭和22)年12月31日にGHQの指令によって解体されるまで設置されていた内政・民政の中心省であり、内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った役職とみなされていた。

戦後、GHQは特別高等警察や検閲、国家神道の廃止を指示、更に内務省のもとでの中央集権的な警察制度の全面的な変革を求めた。また、警察関係を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。

アメリカには内務官僚と呼べる制度が存在しないことから、日本の封建体制打破に、内務省解体は不可欠とアメリカ占領軍のトップたちは結論付け、執拗な抵抗を排除して解体を実現した。

1947年に公布された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた(ただし、公職追放との絡みもあり、1945(昭和20)年の段階から内務官僚以外からの知事の政治任命が進んでいた)。

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2007年04月26日

◆デュポンの始めは爆弾屋


渡部亮次郎

1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニ
ューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を
訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピ
ューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天した
が、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョ
コ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行って
みよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州
のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品
で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

[「邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

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2007年04月25日

◆のど自慢の日


渡部亮次郎

ものの本によると、日本では1年365日、毎日何かの日である。たとえば
2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、

(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出
た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年
のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過したのは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想輪ざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年にはは
やくも全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオとテレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手と
してその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったのだろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手
になった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄った
がNHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードやCDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄うのは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るものだそうだ。

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2007年04月23日

◆岩手?の偉人東條英機


                       渡部亮次郎

岩手のNHKに記者として在勤中(1960-64年)、ほぼ県政を担当したが、県の幹部も県議会の幹部級も「東條英機は岩手県人」と言って譲らなかった。

原 敬(歴代19代)、斉藤實(30代)、米内光政(37代)。それに東條(40代)も岩手だと言うのだった。しかし父親は岩手人だが、本人は東京生まれの東京育ちだ。今になってみれば、その後、鈴木善幸が総理になった。岩手出身の総理はやはり4人だからいいじゃないか。

東條はアメリカとの戦争を始めた総理大臣で、敗戦後その責任を戦勝国に問われて極東軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられた。

その後何年もしてから靖国神社に合祀されていることが分って、さらに何年もしてから中国、韓国が「戦犯を祀っている靖国神社に総理大臣が参拝する事は許されない」と騒いで、若い人でも耳にするようになった名前である。

インターネットで「大日本帝国陸海軍資料館長」と言う方が「東條英機陸軍大将について」として東條の事績を詳細に記録しておられる。
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/toujou-memo.htm

これによると東條は、明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第1期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の3男(2人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生した。

因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條の三男である東條俊夫元空将補によると、次のような事情があったためだ。

本籍は既に東京に移していたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、英機も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していた。

このため、「東條は岩手出身」であると言われていたそうだ。いわば周囲の勘違い、といったらそれまでだが、「偉い人」を身びいきするのはどこにもあることで、岩手の人たちも東條が偉かったうちは身びいきし、戦犯になったら、無情な人たちはあれは本籍は岩手に無かったといいたいのだろう。

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2007年04月22日

◆国務次官補の田中均化


          渡部亮次郎
日本の外務省筋では、アメリカで北朝鮮外交を担当しているヒル国務次官補が「米国の田中均」と囁かれているという。対北朝鮮融和派と見られたからだろう。

イラク・イラン・北朝鮮外交で手詰まり観があるブッシュ政権が、ヒル国務次官補を試しに使っているというのが、大方の見方である、と友人が教えてくれた。

そういえば中川昭一(当時経済産業大臣)に向かって「大臣、北朝鮮のような小さな問題ではなく、もっと大きな事に関心をもってくださいよ」などと発言したことに対し「北朝鮮による拉致で、子どもや家族が26年間も帰ってこない人たちがいる。それでも小さい問題なのか。 あなたみたいに北朝鮮のスパイみたいなようなことをしていては駄目なのだ」と中川大臣からどやされた。田中はどこへ行ったのだろう。

古い記録を調べた。05年03月31日付の読売新聞に
<田中均外務審議官(58)が、今夏に予定される外務省の定期人事異動を機に退官する方向となった。

外務省筋によると、同期の谷内正太郎氏が05年1月に外務次官に就任したことから、今夏の人事での大使転出を非公式に打診されたが、本人は固辞したという。

田中氏は北朝鮮高官と秘密交渉を重ね、2002年に小泉首相の電撃的訪朝を実現させた。一方、自民党などから「北朝鮮に融和的すぎる」との批判も招いた>とあり、退官後、日本国際交流センターシニア・フェロー。2006年春より東京大学公共政策大学院客員教授になっていた。拒否しなければ彼のプライドが許さなかった。

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2007年04月21日

◆米国は日本の番犬サマ


                         渡部亮次郎

興味があって椎名悦三郎(故人)と言う政治家の事績を調べているのだが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が指摘している事の一部は確認できなかった。

<外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁したことや、

日米安保条約上のアメリカ軍の存在意義を問われて「米軍は日本の番犬です」と答弁し、驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、

平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことで知られる。これだけ聞くと問題発言のようにも聞こえるが、全体を通して聞けばそれほど問題発言ではない(第51回国会(1966年3月)の議事録)>。

特に、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたとにはなっていないのである。第51回国会(1966年3月)の議事録とは昭和41(1966)年3月18日(金)午前10時すぎから開かれた衆議院外務委員会でのことである。

○ 椎名国務大臣(外務大臣) 核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。

ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、

そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。

ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。

そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。

○岡良一委員(日本社会党) しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。

○椎名国務大臣 遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。

<驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁>したというから議事録を最後まで再三通読したが、遂に発見できなかった。いずれにせよ伝説は作られて行くもののようだ。

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2007年04月18日

◆とう小平秘録・核心


                         渡部亮次郎

待望の第2部が2007年4月17日から始まった。言わずと知れた伊藤正記者による産経新聞の連載「ケ(とう)小平秘録」である。自分が言い出した経済の改革・開放路線を徹底させるための保守派との死力の実態が明らかにされる。

伊藤さんに面識は無いが、先輩古澤襄(のぼる)さんによると、初め共同通信の優れた中国ウオッチャーとして鳴らしたが、産経新聞社に移り、現在、中国総局長(在北京)の地位にある。中国当局の厳しい監視下に置かれながら、中華人民共和国の隠された実態に迫っている。

中国に関する取材、分析においてわが国第一人者と評価している。情報によれば2月14日から3月18日まで32回に亘った第1部は中国のあらゆるインターネットのブログから当局によって削除されたという。

これは伊藤記者の分析と透視がそれだけ問題の核心を突き、当局の恥部をえぐったと言うことである。隠しておきたい真実を暴いたと言うことである。

ケ(とう)小平は3度目の復活を遂げた時、すでにNo.1の実力者だった。共に共産主義革命成就のために戦った毛沢東、周恩来既になく、毛の後継者に祭り上げられた華国鋒は毛を騙し続けた4人組逮捕により影が薄かった。

1978年8月、園田直外相を団長とするわれわれ日中平和友好条約の締結交渉団が北京入りしたのは8日夕刻。私にとっては2度目の北京入り。1回目はNHK記者として日中国交回復交渉の田中角栄総理に同行取材。6年後の今回は外相秘書官としてのものだった。

交渉は2日で事実上妥結、と言うよりも中国の態度が一変し、全面的に日本案を受け入れてきたのだ。それはケ(とう)復活の結果だったのだが、我々はまだそれに気付いていなかった。我が方大使館の情報収集レベルはその程度だった。

それはともかく、3日目の10日午後4時、人民大会堂でケ(とう)副首相と園田外相との会談が約1時間行われた。その翌日、華国鋒との会談。しかし中国側の態度の変化は露骨だった。会談のメンバーに事前登録されていなかった園田外相の個人秘書が会談の部屋に残っても出て行けとは言わなかったのである。

鋭い記者感覚を持った外交官なら、こういうところに問題展開の本質を見るところだが、どうも日本の外交官は発言とか文書を追うことにばかり神経が行って、問題の本質を見逃す。仕草から本心を見抜けぬようでは女性の口説も無理だね。

脱線するが、日本がアセアン(東南アジア諸国連合)の外相会議に初めて招かれた時、会談のテーブルの配置は、アセアン側5カ国(当時)がずらり横に並び、反対側に日本がぽつんと独りという配置になっていた。

これじゃ「口頭試問だ」と私は喚き、結局、園田提案で予め6角形に配置しなおされた。さすが園田外相は海に千年、山に千年住んだ龍にたとえられる海千山千の猛者。「日本の外務大臣、口頭試問を受けに参りました」とアセアン側の冷たさを逆手にとり、満場、爆笑して気分が一挙に和やかになった。

私は記者としては内政、それも自民党担当一筋だったし、外務大臣秘書官と言っても外交は素人。それでも華国鋒に先のないこと、当に(まさに)ケ(とう)時代の到来を実感した。

帰国前日の夜、日本大使館前庭の薄明かりの下、何十人と言う人の蠢きがあったので、大使、これは何ですか、と聞いたら大使は「何でもありません」と答えた。これがやがて国を揺るがす中国残留日本人孤児たちだった。それを何でもありませんとは。園田さんに連れて帰ってもらおうと駆けつけたのだった。

ケ(とう)小平は秋になって生まれて初めて日本を訪れ条約の批准書の交換に立会った。生まれた初めて鮪の刺身も一口食べさせられた。想像もつかない超高速で走る新幹線に乗せられ「後ろから叩かれるようだと」洩らし、4つの現代化の実現の決意を固めた。

4つの現代化。四化と略す。工業、農業、国防、科学技術の近代化。初めは周恩来が唱えたが進まず、ケ(とう)時代になってやっと具体化した。日本から帰ったケ(とう)が翌79年12月に3段階論を打ち出した。

即ち第1段階では国民総生産(GNP)を1980年の2倍にし、第2段階では20世紀末までにGNPを更に2倍にして、人民生活を小康(まずまずの生活)水準に持って行き、第3段階即ち21世紀の中葉までに1人あたりのGNPをさらに4倍にして中進国水準に到達すると言うもの。

その途中で起きたのが1989年6月4日の第2次天安門事件だった。あろうことか人民解放軍が人民に銃を向け伊藤記者の表現では少なくとも数百人のインテリ、学生が殺された。それを命じたのはケ(とう)小平だった。

始まった第2部は引退後、保守派の蠢動で経済の改革・開放が勢いを失いかけているのを見て苛立つケ(とウ)小平が、のちに「南巡講話」と呼ばれる、改革梃入れの旅に出るところから始まった。興味津々(しんしん)である。文中敬称略。2007.04.17

2007年04月17日

◆米国防総省外国語学校

                         渡部亮次郎

米国防総省外国語学校(DLI)の前身は陸軍情報部日本語学校である。元アメリカ陸軍中尉だった加藤喬さんが詳しく書いておられる。加藤さんは曲折を経て現在、ここの日本語部長である。

陸軍情報部日本語学校については、長く親しくしていただいたコロンビア大学教授で文化人類学学者のハーバート・パッシンさん(故人)から「母校」と聞かされていたので興味を抱いていた。特に戦争を前に英語を禁止した日本、慌てて日本語教育を始めたアメリカの対比としても。

以下、加藤部長の話である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/

DLI。日本人にとっては、因縁のある生い立ちです。また、DLI学生の任務を知ることで、ぼくが用いる、独特の教育方法も浮き彫りになると思います。

太平洋戦争前夜の1941年11月1日、陸軍情報部日本語学校(MilitaryIntelligence Service Language School)が、サンフランシスコのとある古びた格納庫で秘密裏に開校されました。

「まず敵を知る」当時から情報を重視する米軍の姿勢の現れでした。
(12月8日に日米間の戦端が開かれた。真珠湾攻撃)。

最初はジョン・アイソ、シゲヤ・キハラ、アキラ・オオシダ、テツオ・イマガワの4人の二世教授が52人の日系軍人と2人の白人軍人を教えるつつましい船出でした。

開校から数ヵ月後、フランクリン・ルーズベルト大統領が、行政命令(Executive Order)9066号を発令しました。

民主国家アメリカで、なんらの法的手続きも経ず、日系米国市民や在米日本人が強制収容所への移住を余儀なくされた、あの法令です。

多くの二世を抱える陸軍日本語学校も例外ではなく、山深いミネソタ州サベージ基地に移転しなければなりませんでした。

いわれない敵性市民(hostile citizens)の汚名を着せられていた彼らが「名誉挽回」(Redeeming of Honor)にかける気概は悲壮で、寝る時間が惜しい午後10時の消灯後も、毛布のなかで懐中電灯の光を頼りに勉強したと言います。

(パッシン教授の話では、あまりの強行訓練に耐えかねて自殺した人も居たとか)。

配属後、卒業生たちは南方の島々に赴き、玉砕覚悟の日本兵に投降を訴えたり、捕虜となった日本兵の尋問(interrogation)や捕獲書の翻訳、暗号解読に活躍しました。

見通しの悪いジャングルでの任務には日本兵と間違えられ、誤射される危険が付きまといましたが、彼らは怯(ひる)みませんでした。その勇敢さから「ヤンキー サムライ」と呼ばれるようになったのです。

約6000人に達した二世卒業生の活躍は、太平洋戦争終結を2年早め、米軍将兵100万人の命を救ったとも言われています。

戦後、日本に進駐した語学兵のなかには、極東裁判(The International Military Tribunal for the Far East)で通訳を務めた者もいました。

冷戦中は情報機関のエージェントとなって日米の中継ぎをした人物もでたそうです。

(著名な日本研究家、日本文化の紹介者であるドナルド キーン氏やエドワード サイデンステッカー氏を思い浮かべる読者がいるかもしれませんが、彼らは海軍の日本語学校出身です)

以来、この学校は移転と名称変更、教育言語の追加を繰り返し、70年代、国防総省外国語学校(Defense Language Institute Foreign Language Center: DLI)として現在のカリフォルニア州モントレーに落ち着きました。

今日、ここには発足当時のつつましい面影はありません。アメリカの国益に影響する24カ国語を教え、学生総数2500人、教官
750名に達する全米一の語学学校です。しかも同時多発テロを境に、成長の速度を増しています。

DLIは太平洋を見下ろす小高い岡の斜面にあり、全米屈指のゴルフ場や高級住宅街に隣接していますが、それが少しも不自然ではありません。軍の基地というよりは、瀟洒な大学キャンパスか史跡のような趣なのです。

ある意味で、それはどちらとも正しいのです。軍組織ですが、DLIはカリフォルニア州立短大として認められており、高卒の若い兵士はここで修めた語学単位を将来の大学教育に活かすことができる仕組みになっています。また、敷地自体もスペイン統治時代に築かれた要塞(Presidio)で、州の文化遺産に指定されています。

ぼくがここで教鞭をとり始めたのは「砂漠の嵐作戦」(Operation Desert Storm)から帰還後の1991年。陸軍中尉でした。

日本に居所を見出せず渡米したぼくは、移民がアメリカ社会で認められる最短距離のひとつ、つまり、米軍将校になることに活路を見出したのです。

大学に併設された陸軍予備役士官訓練部隊(Reserve Officers' Training Corp: ROTC)に入隊。在学中は一般科目のほか歩兵訓練、指揮官訓練に明け暮れ、卒業時に陸軍少尉(Army Second Lieutenant)に任官(Commission)しました。

中東駐留中にDLI任務のオファーがあったのです。渡米初期から英語が苦手だった者が、皮肉にも米軍で日本語を教えるとは想定外の成り行きでしたが、砂漠生活に辟易としていた自分は即諾しました。

DLIで教えられる言語の盛衰は、アメリカの国益と密接に結びついています。

1941年には日本語だったように、冷戦中はワルシャワ条約機構軍(Warsaw Pact)との衝突が懸念されたため、ロシア語やドイツ語が幅を利かせました。トンキン湾事件を境に伸びたのはベトナム語でした。

いま基地内を見回すとアラビア語、ペルシャ語、中国語、韓国語が主流です。アメリカにとって、厄介が予測される地域の言語が伸びるといっても良いでしょう。

したがって教える側にとっては二律背反の心境です。79年のイラン革命で米国に亡命したイラン人教授に体育館などで顔を合わせると、母国と米国との間で身動きならない苦しい胸のうちを聞かされることもあります。

実際に戦火を交えているイラクやアフガニスタン出身教授の場合はもっと過酷なことでしょう。中国語や韓国語の教官だって、明日は我が身の心境かもしれません。

創設の歴史から見ると意外ですが、この点で日本語学部は際立って違っています。学生には佐官将校(Field Grade Officer)やベテラン下士官(Seasoned NCO)が目立ちます。卒業後も大使館付き武官(Military Attache)を務めたり、自衛隊の幹部学校に留学したり、連絡任務(Liaison Duty)についたりする者が大半です。

現在幅を利かせる4言語と異なり、日本語は「味方の言語」だからです。したがって、学生の大半が通信傍受員(Radio Interceptor)や尋問官(Interrogator)である他の学部とは、おのずと学生の年齢層も違っています。

他学部の学生は多くが高校卒業と同時に入隊した新兵ですが、日本語学部では30代後半の職業軍人(Carrier Officers & Soldiers)も少なくありません。

学歴はないが記憶力に勝る若者と、博士号まで持つ空軍パイロット、陸軍の精鋭「グリーンベレー」、そして陸海空を舞台とする海軍特殊戦隊員(SEAL)などの中高年が机を並べるわけです。

つまり、日本語学部の教官には、この両極端のグループをいかに平等に効率よく教えるかという難題が問われているのです。

実を言えば、生え抜きの職業軍人の方が学生としては扱いにくいこともままあります。彼らの多くが、これまでの人生で大きな失敗を体験したことのないエリートだからです。

これらの完ぺき主義者(Perfectionist)は、まだあどけなさの残る2等兵、1等兵が膨大な漢字や単語を嬉々として消化し、奇怪な文法を操る様に驚愕するのです。

生まれて初めて挫折の苦さを味わい、ストレスと自責に苛(さいな)まれます。生真面目で自分を笑うことのできない者ほど危ないと言えます。

放っておくと、ストレスが昂じて爆発してしまうからです。佐官クラスが激昂したら、一兵卒はその場で萎縮してやる気を喪失してしまいます。だから教官は、それぞれの学生が耐えられる限界を常々感じ取り「力の抜きどころ」を押さえておかなければならないのです。生やさしいことではありません。

大学院や研修会で学べることでもありません。長年、海千山千の学生と接触することで培われる、一種の職人芸だといえるでしょう。どれほど教室環境がデジタル化され、紙の辞書が電子辞書やノートパソコンに取って代わられても、機械が生身の学生に言葉を教えるわけにはいかない所以(ゆえん)です。

DLIでの授業風景を写した写真を下記にアップしました。
http://www.namiki-shobo.co.jp/gntaisiki/guntaiphoto.html

引用転載許可2007・04・16

◎元米陸軍大尉が教える!![軍隊式英会話術]
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http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/
2007・04・13


2007年04月16日

◆これほどの大物が居た

                        渡部亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

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2007年04月14日

◆安倍総理大臣「閣下」と

                        渡部亮次郎

昔、映画に「拝啓天皇陛下様」というのがあった。極貧の家庭に育った青年。
徴兵された日本陸軍の衣食住が立派なので除隊になりたくない、
と天皇陛下に「おねがい」の手紙を書くという筋であった。

天皇陛下に対して陳情するのが可笑しいから笑える映画になったのだろ
うが、陛下に様を付けるのも可笑しかった。無学を笑う話でもある。実際は起こりえない話だろう。

ところがちゃんとした教育をうけた大人でも敬称のことを習う機会は無いのが昨今のようだ。メイルで「安倍総理大臣殿」という公開質問状が来た。総理大臣の殿とは失礼だとは思わぬご仁らしい。

そこで「大使ですら閣下なのに総理大臣に殿では失礼では無いですか」
と言ってあげたらだいぶ経ってから礼のメイルがあった。ご自分なりに調べて納得がいったらしい。

様とか殿以上の人に手紙を書くことの無いまま過ぎると、総理大臣に付ける敬称など知らぬまま、或いは恥をかいていることを知らぬまま死ぬことになる。そういう私は、人生の畑違い、外務省で大臣秘書官をさせられてあらためて知った。

大臣以上は「閣下」であり、大統領も閣下である。外交官では大使は閣下、総領事は「殿」を用いる。大臣は勅任官ではないが認証はされるから閣下でいいだろう。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
で「敬称」について書き込みがあったから引用、紹介する。

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2007年04月13日

◆笑顔で人を殺す国


                     渡部亮次郎

「中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。しかし、来日した温家宝首相のニコニコ顔に惑わされてはいけない。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ」と12日の産経抄は過去の経験を踏まえて戒めている。

そうなのだ、ケ(とう)小平は私の前に、にこやかに現れた。北京の人民大会堂。1978年8月10日、の本時間午後4時。6年越しの懸案だった日中平和友好条約にやっと目途をつけた我々交渉団は同行記者団と北京ダックの昼食をして一息入れたあとだった。

人民大会堂の玄関からテレビのライトに照らされながら1人の小男がゆったりと歩いてきた。それが「あの」ケ(とう小平)だった。合計3度の失脚から甦り、いまや最高実力者になろうとする副主席。

丸顔。既に74歳だが老人のシミはひとつも無い。失脚と復活を繰り返した自信からか余裕綽の雰囲気が出ていた。これが貫禄と言うものなのだ。

会談の冒頭、カーツ、ペッと痰壷にツバを吐き、下から園田直日本外相を見上げた。園田は睨(ね)めつけられた、気おされちゃいかんからオレもやろうとしたんだけどタンが出てこない。やったのは大分経ってからだった。

その2日後に会談する華国鋒国家主席や前日まで会談した黄華外相はメモを読みながら言葉を発するが、トウ氏はメモ一切なし。園田外相が「監獄に入っているときはどうでした?」と失礼なことを聞いても「俺は毛沢東にかばわれて軟禁だった、1日2時間の重労働はしたがね」と平然たるものだった。

老練。外相が思わず突っ込んでゆくと「ときにあんたは歳はいくつかね」ときて「あ、それならオレより十何歳も下だ、下だ」なんて言ってはぐらかしたりした。

尖閣列島をテーマにした時もにこやかに「今までどおり、20年デモ30年でも放っておけ」と言ったから、日本側は実効支配が認められたと解釈してしまった。尤もあそこで更に詰めようと言う雰囲気が双方に無かった。

日中平和友好条約とはケ(トウ)小平による中国4つの近代化と経済の改革、解放化を実質的に梃入れする担保であった。あの年から中国経済が飛躍的に伸びた事は誰も否定できない事実である。

にも拘らず、トウは日本から受けた莫大な経済援助について人民に一言も言っていない、ひた隠しして死んだ。死ぬ前に1989年6月4日、北京の天安門広場に集まっていた市民、学生に対して、人民解放軍に一斉射撃させ、何百人も殺したのもケ(トウ)小平だったのだ。

尤も、あの時に市民、学生の自由化要求を認めていたならば、中国共産党は滅亡に追い込まれた事は確実である。つまり中国共産党は自己を守り貫くためには、時に応じて笑いもするし殺しもする、断乎として。にこやかに殺すのである。騙されてはいけない。

<中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。30年ほど前に来日したトウさんは、新幹線に乗って科学技術の水準の高さを褒めあげ、トウブームを起こした。コワモテの江さんは歴史認識で説教をたれ、尖閣諸島はおれたちのものだと欲張った。

 ▼きのう来日した温家宝首相は、表面的にはトウさんタイプかもしれない。国会で演説し、西京極球場では立命館大野球部員とキャッチボールに興じる予定だ。テレビは「これは絵になる」と大挙して押しかけ、彼に翻弄(ほんろう)されることだろう。

 ▼しかし、ニコニコ顔に惑わされてはいけない。日本のコメ輸入で合意したところで、恭しく調印したのはわずか25トンだ。大型トラック2台分で大きな顔はされたくない。東シナ海の資源開発で譲歩したわけでも、巨大軍事力を減らすといったわけでもない。

 ▼なぜか、温さんは記者会見を予定していない。大国の指導者らしからぬ。その理由は明かさないから、こちらで勝手に推測する。日中の「氷をとかす旅」なので、余計なボロは出したくないのがホンネだ。自虐的な日本人記者から、慰安婦問題や首相の靖国参拝の質問が出れば批判をせざるをえない。

 ▼すると中国内に跳ね返って、大衆の反日気分に火を付ける。中国経済のひずみを是正するのに、日本経済が役立つと考えているから、いまは困るのだ。

▼ 自著が発禁処分をうけた何清漣さんによると、小紙連載の「トウ小平秘録」を抄訳掲載したブログがネット上から削除されている。天安門事件はいまも「教えたくない歴史」なのだろう。

歴史を鑑(かがみ)とするとは彼の国の主張だが、自国には適用されないようだ。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ。>(産経抄 Sankei Web 2007/04/12 05:01)
2007・04・12


2007年04月12日

◆南部と津軽の不仲


                        渡部亮次郎

NHK記者の初めのころ、秋田県北部にある大館市に駐在したことがある。旧津軽藩と旧南部藩、秋田藩の中間点のような位置にある。キャバレーホステスは、旧津軽藩の城下町弘前(ひろさき)市方面出身者が殆どだった。

ここには1年しか居なかったが、何かにつけて「相馬大作事件」という言葉を耳にした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
によれば、文政4年(1821年)に参勤交代を終え、江戸から帰国の途についていた、弘前藩主の津軽寧親を狙った暗殺未遂事件である。

犯人は、盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)。偽名として「相馬大作」と名乗っていた事に事件名が由来する。津軽藩主を殺そうと待っていた場所が大舘市郊外の矢立峠とされている。

裏切った仲間の密告により、寧親の暗殺に失敗した秀之進は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受ける、とある。

実に恥ずかしいことだが、1年後に盛岡藩(南部藩)の城下町たる盛岡市に転任し4年も滞在したのに、多忙も多忙だったが、相馬大作のことなど、すっかり忘れて今日に至ってしまった。

明治の廃藩置県で津軽と南部の一部が一緒になって「青森県」が出来たが、その後も同県内でありながら対立感情は解消せず、嫁のやり取りさえ皆無と聞かされた。現在はどうかは知らないが。

元々津軽氏(大浦氏)は南部氏の家臣(一族)であったが、初代津軽為信(大浦為信)は南部の後継者選定騒動の最中に1571年独立し、津軽と外ヶ浜地方を支配した。

さらに、津軽為信は小田原征伐の時に豊臣秀吉に認められ所領を安堵された。このような経緯から津軽氏と南部氏は元々犬猿の仲であった。

また、野辺地(のへじ)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺の帰属問題で両者がもめた際に、弘前藩は既得権益を積み重ね書類などを整備して幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は津軽藩のものとなった。

八甲田山山系を境界とするなら、この地区は盛岡藩の地区になるため、この処置は盛岡藩に不満をもたらした。これを檜山騒動という。
岩手県民は、これにより厖大なヒバ(翌檜)林を掠め取られた恨みも相馬大作事件に繋がったと信じられている。(ただ、この騒動は実際には相馬大作事件の107年前の出来事である)。

さらに、1820年南部利敬が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで死亡したとされる)。南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえに無位無冠であった。

対する津軽寧親はロシアの南下に対応するために北方警備を命じられ、従四位下に叙任された。盛岡藩としては家臣筋と思っていた弘前藩が上の地位にいることが納得できなかった。

秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現大館市白沢の国道7号線沿い。

物語では矢立峠とされることが多く、物語の記述には沿うが、誤っている地点に立て札もある)付近で花輪の関良助ら門弟4人と大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。

(物語の多くでは木砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らなかったし、小銃しか秋田藩に持ち込めなかった。また、密告した人は後に津軽藩に仕官することになる)

暗殺の失敗により秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。しかし、幕吏(実は津軽藩用人笠原八郎兵衛)に捕らえられ1822年8月千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年は34歳であった。

一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められた。これらを疎ましく思った寧親は数年後、隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。

事件から隠居までの期間、南部藩では当主替玉相続作戦などを行っていて、津軽どころではなかった。しかし寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。

当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。

民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。

この事件は藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15〜16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』著した。

これらはさらに吉田松陰に影響を与える。彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、また長歌を詠じて秀之進をたたえた。

吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、南部、津軽両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。ただ、松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。

南部藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士相馬大作を顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。

この供養碑には頭脳明せきとなる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に預かろうと石塔を砕いてお守りにする人が後を絶たなかったという。

黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。

妙縁寺(正栄山 妙縁寺=しょうえいざん みょうえんじ=東京都墨田区吾妻橋に所在する日蓮正宗の寺院)には秀之進の首塚がある。また、谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎の初代市川右団次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年2月左団次によって建立された。

江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。明治17年の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が明治18年に刊行された。

明治21年には講談「檜山麒麟の一声」が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南竜・邑井一・邑井貞吉などの講釈師が演じたという。

福岡(現岩手県二戸市にのへし)の南部藩士の二男に生まれた秀之進だったことを裏付けるように岩手県北部出身者には下斗米(しもとまい)姓が多く、一族意識を誇っている。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・04・11

2007年04月11日

◆身を捨てられぬ菅直人

                         渡部亮次郎

逃げる菅直人を捕えて「捕らぬ狸の皮算用」と皮肉ったのは07・03・02の『頂門の一針』728号の渡部亮次郎。闘い終わって産経政治部長経験の評論家花岡信昭氏は07・04.10の産経紙で「民主 痛恨の判断ミス」と斬り捨てた。

花岡さんは言う。「ここは菅直人代表代行の出馬しかなかった。・・・勝てなくてもいいのである。菅氏は民主党の窮地を救うための<殉教者>となり、党内の信望を一手に集め得たはずだ。次の局面に繋げる何かが生まれたはずだ。(しかし)こういう負け方では何も残らない」

自分を犠牲にする事は野球のバントにも似ているが、菅直人は野球すら知らないらしい。まして、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という諺も知らなかったか。

「一身を犠牲にするだけの覚悟があって、はじめて活路も見出し物事に成功することが出来るということ」小学館「故事俗信ことわざ大辞典」。

いや菅だけでなく小沢代表も鳩山幹事長の反対した、という声。そうか、そうならば彼らも野球も諺も政治も知らない点で同罪よ。

728号を再録して振り返る。

<菅直人民主党代表代行の東京都知事候補からの逃げ方を見ていると「捕らぬ狸の皮算用」という諺を思い出す。狸を捕まえるとか、毛皮を剥いで売るとか言うことが無くなったので、死んだような諺だが、菅にはぴったりである。

簡単に「広辞苑」(岩波書店)から。「(まだ捕らえないうちから、狸の
皮の売買を考えることから)不確実な事柄に期待をかけて、それを基にした計画をあれこれ考えること」。政権が来たら俺が総理大臣だから都知事になっていてはチャンスを失う。

同じ岩波の「ことわざ辞典」(時田昌瑞著)では。「先行きが不確実なことに期待して、あれやこれやと計画することのたとえ」。算用は計算したり、勘定をすること。猟で、狸を捕える前から、皮をいくらで売ってそのあとは・・・と計画やら計算やらをすること。

大正時代以降の言い回しらしい。江戸時代は「穴の狢(むじな)を値段する)「飛ぶ鳥の献立」「儲けぬ前の胸算用」と言ったらしいが今では専ら「捕らぬ狸・・・」だ。

4月に行われる都知事選挙をめぐっては、現職保守系の石原慎太郎の3戦にまともに刃向かえる民主党候補は、東京を地盤としている菅が知名度から言っても歳適任者だと党内外で囃し立てられて来た。

しかし「頂門の一針」719号(2007.2.22)で触れたように菅は必死で逃げた。<菅氏について小沢代表は「(私と鳩山氏との)3人の役割分担がうまく機能してきたので、今後もそういうことでやっていきたい」と、都知事選には擁立しない考えを重ねて示した。Asahi Com 2007年02月17日22時20分

しかし、このままでは石原慎太郎都知事に戦わずして3選を許す危惧も出てきたため、民主党東京都連は遂に21日、「最強の候補」として菅氏に出馬再考を申し入れた。菅氏は当然、即答を避けた。必死の逃亡である>。

前宮城県知事の浅野史郎が出馬に前向きになった2月末には「太陽が西から昇っても出ません」と峻拒した。どうもこの裏で菅は三井物産系の日本総合研究所会長寺島実郎を使って浅野に出馬を口説いていたらしい。

そのあたりを3月1日付の産経新聞で田北真樹子、石元悠生両記者が解説している。党内で菅待望論が強まると菅側近議員は「菅さんを国政から追い出すための擁立論」と警戒。

「民主党が政権を獲った時に、体力的に不安のある小沢氏に代り菅氏か鳩山氏が首相になれる可能性が高い」と党幹部が言っているという。流石に菅自身はこんな事は口にはしないが図星だろう。当に捕らぬ狸の皮算用では無いか。

世の中とは、決して捕らえる前から皮算用をする猟師(代議士)を尊敬はしない。笑うのである。大正時代以来、しかし、それだけ、笑える猟師が多かったから、諺として定着したわけでもある。

率先垂範、人の厭がることを厭わずに行えば世間は味方し、参院選も勝たせるだろう、その後か同時かは分らないが衆院選も勝たせるかもしれない。利益の計算だけして、不利に立ち向かわないのでは無党派層の支持はどうだろうか。

浅野前宮城県知事の出馬を見越して、民主党本部は推薦ではなく「支援」という緩やかな縛りにとどめるようだが、緩やかな縛りで党員は浅野支援に撃って一丸となるものだろうか。楽をするだけだろう。

現に東京都連の田中良都議団幹事長は「民主党の看板は要らないが、実質的な支援が欲しいというのは、只の偽装」と早くも浅野批判(産経新聞3月1日付)を始めたではないか。加えて売名目的に蠢動する向きもある。

それでも狸を捕まえても居ないのに、皮算用に耽っているようでは「虻蜂取らず」と言う諺もある。説明を要すまいが「あれもこれもと狙って、一物も得られない、欲を深くして失敗するのに言う。(「広辞苑」) (文中敬称略)2007.03.01

<率先垂範、人の厭がることを厭わずに行えば世間は味方し、参院選も勝たせるだろう、その後か同時かは分らないが衆院選も勝たせるかもしれない。利益の計算だけして、不利に立ち向かわないのでは無党派層の支持はどうだろうか。>だとすると民主党の未来は暗い。2007・04・10