2010年05月30日

◆日本初の戸籍は壬申戸籍

渡部 亮次郎

何かの本を読んでいたら、僧籍にある者の買春が露見したら、裸体のまま「江戸払い」の処分と言うのが江戸時代だった。寺は幕府に代わって「戸籍」を預かっていたので、それ相応の保護を幕府から受けていたから、戒律も厳しくされていたのだという。

そんなことを考えながら江東区毛利にある「都立猿江恩賜公園」を散歩していたら、公園の東端を流れている横十間川(運河)こそが「江戸」の境目だったのを知った。

吉原で「私は医者」と偽っての遊女あそびがばれた修業僧は、例えば猿江公園になる前の「木場」の堀の東側から江戸を追放になったわけだ。

<幕府は、明和2(1765)年に江戸の範囲を「江戸城を中心にして4里四方を江戸のうち」と定めた。さらに23年後、「江戸払い」の範囲として、品川・四谷・板橋・千住・深川から内側の区域を江戸とした。

それでも拡大する江戸は収まらなくなったので、町奉行が治安を担当する範囲を朱色の線で囲んで「朱引内」と呼びました。西は山手線内・北は板橋、千住・東は亀戸、小名木まで。

町奉行が行政を担当する範囲を黒線で囲んで「墨引内」と呼びました。高輪・白金・目黒・渋谷・高田・巣鴨・谷中・三ノ輪・本所・深川の内側です。

朱引きは明治以降も存続し、数度の改正を経て最終的には旧墨引に近い形となり、郡区町村編制法施行時に旧東京15区となったのだ。(フリー百科辞典)

明治政府は、発足後の明治4(1871)年に戸籍法を制定、これに基づいて、翌明治5(1872)年に始めて官製の戸籍を編製した。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」(じんしんこせき)と呼び慣わされた。

江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民までを戸(家)を単位に集計した。また、江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。この戸籍により、当時の日本の総人口は、3311万人と集計された。

明治6(1873)年から大正8(1919)年までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出したものである。

しかし転出、転入の届けなしの移動が相当数に及ぶため、地域別人口のずれが年々拡大した。また、壬申戸籍自体が、役所の戸籍簿の集計であり、直接の人口調査によるものではなかったため、無視できないほどの脱漏があった。

後の統計は集計値の他に推計値を載せるようになり、大正9(1920)年の国勢調査まで、この誤差問題は次第に大きくなっていった。明治5(1872)年の総人口も3480万人に修正した推計がなされているが、この推計値についてもなお議論がある。

そもそも、明治4年(1871)の戸籍法は不備が多く、多くの機能(印鑑証明、地券等)を持たせたことにより、複雑となった。

また必要限度の要件さえ整っていれば記載様式も特に設けられなかったことから、地方によって書式の詳細に格差が生まれた。

また以後6年に一度改編するという規定も大区小区制施行と併せて行われた1回程度で、多くの問題点があった戸籍であったとも言われている。基本的に明治11(1878)年以前はこの戸籍を戸長が管理し、郡村制施行後は役場が管理した。

壬申戸籍では、皇族、華族、士族、卒族、郷士、旧神官、僧、尼、平民等を別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づき、平民として編入されたが、一部地域の戸籍には新平民や、元穢多、元非人等と記載されるなど、差別は色濃く残った(一部は明治19年式戸籍や身分登記簿にも登載された)。

その他、職業も記載様式に含まれており、華族、士族では主に禄高を、平民では農工商雑と記され、業種も記載された。

また、この戸籍では宗門人別の性質を残すため、寺、氏神の記載があった(明治18(1885)年廃止)。また、妾も二等親族として戸籍の登載を認められた(明治15(1882)年廃止)。

ほか、使用人、家来等は他人であっても養育している者は附籍として、その養育する者の戸籍に登載されていた(明治15年登載禁止。明治31年廃止)。

明治19(1886)年、壬申式から統一書式を用いた戸籍へと変更が行われ、同年11月より徐々に移行され、明治31(1898)年戸籍法によりこの様式は改正原戸籍として取扱われた。

昭和43(1968)年、被差別部落民かどうかを探り出すためにこの戸籍が用いられようとした事件が発覚し、閲覧が禁止され、同年、公開さえも禁じられ、以後、封印保管された。

現在は各地方の法務局に厳重に保管されており、戸籍簿自体の閲覧は不可能である。学術研究目的での閲覧を許可するように求める声はある。

現在でも、壬申戸籍の情報公開請求をした事例が平成13(2001)年、および平成16(2004)年に見受けられるが、いずれも却下されている。

壬申戸籍の記載様式例 (実際は縦書き)
  ○○番屋敷居住(借店)
平民 魚屋渡世
先代 父太助亡
戸主 二心 太郎
壬申年 五十
旧幕臣      妻 はな
中村主水三女   壬申年 四十八
武蔵国北豊島郡  妾    さき 
金杉村農茂助妹  壬申年 廿一
旧幕臣     附籍 椿 三十郎
大塩平八郎弟   壬申年 六十五
氏神 八幡社
寺  浄土宗 ○○寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月29日

◆水が飲めない21世紀

渡部 亮次郎

「中国到着後、生水は絶対に飲まないで下さい。湯冷まししか呑んではいけません」。日中国交回復の田中角栄総理に同行取材(1972年)したとき、外務省の係官に厳しく申し渡された。

「中国全土、硬水のためです。パリでも水道水は硬水のため、植木に水道水をやると枯れてしまう」といわれた。「水の代りにワインを飲むから、アル中が多い」(未確認情報)。

確かに水道水を飲めないところは多い。田中同行の時は絶対飲まなかった。ところが25年後の2002年3月、上海を訪れて高層ビル街に幻惑された。水道も発展しただろう。

腹下しは直ちに始まった。猛烈。トイレにつぐトイレ。寝るヒマなし。生水はさすがに飲まなかったが、水割りの氷が生水から作られていたのだ。3泊4日の旅行中回復せず。

栄養のたまらない体に血糖値降下剤を飲み続けたものだから低血糖昏睡に陥ること3度。死の寸前まで行って来た。当に水はことと次第によっては命取りとなる。

<上海在住の「半日半華人さんから」

おお〜、これって噂に聞く○○水でしょう。(=塩辛い砂糖水)幼い頃ボーイスカウトのキャンプで便秘の際「塩水飲んで100ダッシュ!」を思い出しました。

異国に来て「水」の不自由さから「飲料」の摂取が多くなりました。幸いにも日系企業さんが各種現地生産されており便利ですね。ポ○リにアミ○サプ○メントに○水に・・・勿論ウーロン茶。ーーーでも、やっぱり1番は日本の水だな。>

(≪ WEB 熱線 第755号 ≫2006/08/30_Wed  WEB 熱線 ☆ ―― アジアの街角から:亜洲街巷信息 より転載)http://chinachips.fc2web.com/common/31mag.html

以下はインターネットで

「水道水の飲める都市」で検索したら出てきた都市名である。
日本、香港、シンガポール、シドニー、ホノルル、サンフランシスコ、バンクーバー、ニューヨーク、デトロイト、アトランタ、ヘルシンキ、ストックホルム、コペンハーゲン、ウィーン、ロンドン。

・「飲まない方が良い都市」
ソウル(硬水)、北京(硬水)クアラルンプール(マレーシア、殺菌不十分)、デリー(インド、殺菌不十分)、ナイロビ(ケニア、殺菌不十分)、パリ(かなりの硬水)

・「飲めない都市」
マニラ(フィリピン、雑菌)、ジャカルタ(インドネシア、汚水・雑菌)、バンコク(タイ、汚水・雑菌)、カルカッタ(インド、海水混入・雑菌)、バグダッド(イラク、雑菌)、カイロ(エジプト、雑菌、肝炎ウィルス)、メキシコ(雑菌)、サンティアゴ(チリ、雑菌、かなりの硬水)、リマ(ペルー、雑菌、かなりの硬水)、ローマ(イタリア、かなりの硬水)

(註)硬水と軟水
井戸水や水道水などの生活用水は、純粋な水ではなく、いろいろな不純物を含んでいて、それによって洗浄効果に影響する場合もあります。

特に、カルシウムイオン(Ca2+)、マグネシウムイオン(Mg2+)は量的にも多く石けんのはたらきに大きな影響があります。

■ 硬度とは
水の中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量を硬度と言います。単位はdH(ドイツ硬度)またはppm(アメリカ硬度)で表します。アメリカ硬度は、水1L中に含まれるカルシウムとマグネシウムの量を、炭酸カルシウム(CaCO3)の濃度に換算した重量(mg:ミリグラム)です。

ドイツ硬度は、水100mL中の酸化カルシウム(CaO)の重量(mg)に換算したものです。ドイツ硬度とアメリカ硬度の関係は 1dH=17.8ppmで表されます。

硬度の低い水を軟水、高い水を硬水と呼びます。日本では、生活用水の80%が、80ppm以下の軟水ですが、地域によっては硬水を生活用水にしているところもあります。

参考:中西ら、「被服整理学」朝倉書店 1990

ヨーロッパは硬水が多い。これはアルプスの石灰岩が全土に溶けているためではないか。同様に中国にはヒマラヤの石灰分が溶けているのではなかろうか。湯冷ましを作ってみると,ヤカンの中が石灰で真っ白になるところを見て、そう思った。

ソースリッチでこってりした肉料理が多いヨーロッの食習慣。調理の際、硬水は肉の臭みを取るのに適する。テーブルウォーター食事中、口の中をリセットさせるための、必須アイテムとして瓶詰めのエビアン水を飲んでいるが、これはワインより高価と聴いたが本当だろうか。

2003年に京都を中心に行われた世界水フォーラムで公開された資料を見ると、飲料水不足人口は12億人で、衛生的に問題がある水を飲んでいる人口30億人を加えると、世界で42億人もの人(全人口の2/3に相当)が飲料水に困っているという事実を知らされる。

太平洋の島国は、アジアやアフリカ大陸中央部の乾燥地帯と並んで、水不足が最も深刻な地域だ。この地域は雨量が比較的多いところだが、大きな川や湖は少なく、多くの国は水源の大部分を地下水に頼っている。

ところが、近年リゾート開発などにより地下水の汲み上げ量が増えたため、水圧のバランスが崩れて海水が地下水に浸透し、飲料水として使用できなくなる井戸が続出している。

このような危機に対し、海水を淡水化することによって飲料水を確保しようとする国がいくつも出てきた。例えばパラオ共和国では、新しく建設中の首都の電気や水道を、海洋深層水を汲み上げて海洋温度差発電(OTEC)と淡水化を行うことによってまかなおうと計画している。

実は水と安全はただというわが国でも水問題は深刻なのだ。これまでも毎年のように夏場には各地で渇水被害が発生しているが、台風が1回訪れると何事もなかったかのように騒ぎが収まるのは不思議なくらい。

水源となる湖や川の水質悪化の問題も年々増えていて、1996年に埼玉県で起きた病原性原虫クリプトスポリジウムの汚染では8812人が感染し、大きな問題として取上げられた。

この原虫はこれまでの塩素による殺菌では死なないため、オゾン殺菌など新しい殺菌方法を導入してやる必要があるから厄介。

また仮令、浄水場でオゾンや活性炭などの処理を行ったとしても、古い配管が残っているところでは家庭の蛇口までの間で鉛汚染などが起きる場合があり、安心はできなくなっている。

このような問題を知ってか、知らずか、一般の家庭ではボトル飲料水や家庭用浄水器がたいへんな勢いで普及している。そういった家庭では、生の水道水は既にトイレや風呂などで使用する洗浄水(中水)として考えられ、口に入る上水とは完全に別扱いしている。

ボトル飲料水の値段は1リットルあたり200円程度で、家庭用浄水器では減価償却とフィルター交換の費用などを考慮すると1リットルあたり2円程度となる。

上水道料金は場所によって違うが、押しなべて言うと1リットルあたり0.2円程度だから、それぞれ1000倍、10倍のお金を払っていることになる。このことは、わが国も欧米のように上水と中水を区別した水道事業を行う時期に来ていることを示している。

上水の水源をどこに求めればよいのか?先に述べたように、陸水系の水源は世界的にも国内でも限界に近づいている。そうなれば、太平洋の島国が計画しているように海を水源とした水道インフラの整備が不可欠となる。

ところが、陸や大気からの影響で海の環境もどんどん悪化しているので、特に汚染がひどいと思われる都市に近い沿岸の海は、安心して水源とすることができない。

そこで注目されるのが海洋深層水だ。海洋深層水は陸や大気からの汚染を受けない深度にあるたいへんきれいな海水だし、温度が低いという特徴を活かせば、先に出てきたOTEC海洋温度差発電などにも使える。

また、植物の栄養になる窒素やリンなども多く含まれることから、海の生き物を支える植物プランクトンや海藻を増やすこともできる。

海洋深層水は、世界中どこの海でもある程度の深度以下から汲み上げれば、同じような性質のものを取ることができるので、安全で安定した水源として今後ますます注目を集めることだろう。(山田恵氏の論文などを参照)

2010年05月27日

◆バルチック艦隊の敗因

渡部亮次郎

5月27日は日露戦争の日本海海戦で東郷平八郎司令長官の元、日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅し、勝利した日である。
昔、対米戦争で敗戦するまでは「海軍記念日」で「祝日」だった。
1945年に敗戦とともに廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。 主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。

長途の航海
バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。

カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。

このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。

長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。

また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまった。

編制・装備
当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。

水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。

ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。

航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。

バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。

当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった。鹵獲されたものの沈没は免れた戦艦「オリョール」では乗員達が自主的に木製家具の処分などを行った。

撃沈された戦艦「アレクサンドル3世」などでは「居心地が悪くなる」などの理由で木製品の処分が行われずそれが明暗を分けた。

指揮統率
バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。

結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい。

後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、

力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。

気象
海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。

喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった。「ウィキペディア」
2010・5・26

2010年05月26日

◆老化は熟成でもある

渡部 亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違う。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

皺を延ばす人でも、世の中に尊敬される人がいないとは考えないが、動物の肉や脂肪を多食する人種と比べたら、日本人の皺など皺とは呼べないものだ。欧米に貴婦人の深い皺に比べれば縮緬のようなものだ。

日本の老人は翁(おきな)とも媼(おうな)とも呼ばれて尊敬されていた。身体は流石に老化は隠せないかもしれないが、その分、経てきた多彩な人生経験に裏打ちされた冷静な判断力があったからである。

それなのに最近は身体の部分を引っ張ったり縫ったり、或いは塗ったりして若く見せようと腐心する人が多い。いくら抵抗しても来るものは来ないわけではない。確実に来る。

引っ張ったり縫ったりの思想の線上に来たのが臓器移植であろう。中国では、そのために死刑の執行を役人が急ぎ、臓器を破格の値段で払い下げるそうだ。受ける中には日本人もあると聞く。

美容整形と臓器移植。他人の臓器と関係の無いこととあることとは無関係なようにも思えるが、死に向かう運命とか寿命とかに反抗し、抵抗する点では全く同じでは無いか。

私も目の老化は如何ともし難く白内障の手術を受けたが、禿を隠そうとは思わない。鬘を被れば却って目立つから考えたことも無い。もちろん被る事は自由だ。被らないことも自由だ。

若いころ、外国に出張すると、酒を嗜まない園田直(すなお)外務大臣はホテルとか迎賓館で夜は独りになる。外務官僚はそろって外出してしまうからだ。私も酒飲みで出かけてしまったら寂しいから、大臣が自分でウィスキーの水割りを作ってくれて私を引き止める。

贅沢な水割りだ。こちらは酔いながら昔話に耳を傾ける。園田は軍人の最後は「天雷特別攻撃隊」の隊長としてアメリカの軍艦に体当たりしての死を命ぜられたが、天候不良で延期。次の出撃の直前、敗戦となって生き延びた人だった。

「ナベしゃん、人間は死ぬのが何時か分らないから生きておられるとバイ。特攻隊では明日出撃と命令が出ると、今夜、首つりして自殺するものが何人もおらしたとバイ」

今夜床に就く時、人は明日も必ず目覚めると思えばこそ安眠できる。目覚めないこともあると分れば、とても眠られないだろう。何時死ぬか分らないが、取り敢えず今晩は絶対大丈夫と思えばこそ眠れる。

しかし、何時かの朝は絶対目覚めないのだ。だとすれば人生は充実して生きるしかない。充実を心がけるしかない。今更慌てても手遅れだが、せめて「老化は酒でいえば熟成」であるとでも考えて眠ろう。再掲


2010年05月25日

◆1960年チリ地震津波

渡部亮次郎

昭和35(1960)年5月24日未明、突然、契約タクシーにたたき起こされた。津波がきて大被害が出ている、至急、局へ」というNHKからの伝言。地震も無いのに、津波とは、何事かい。

NHKに記者として採用され、仙台中央放送局に着任して間もなく1年。そろそろ東北管内のどこかのローカル局への転勤が噂に上っていた。局から歩いても5分ぐらいの民家の6畳間に下宿していた。

五月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡したのだった。岩手県大船渡市では53名、宮城県では志津川町(現・南三陸町)では41名が死んだが、それらがはっきりするのは数日経ってからのこと。

私は単身、録音機を持って女川町(おながわまち)に派遣されることになり局の車で向かった。途中、国鉄塩釜駅の前を通りかかったら、跨線橋の上に漁船が載っていた。津波はこんな高さにまで
達したのか。

後で聞けば、前夜、塩釜には同僚のカメラマンが別の取材に訪れて
1泊。だが、津波と聞いても暗くて何も分からず、全く撮影しなかった。この男は、これが祟って出世できないまま、60前に死んだ。

女川に着いたが、時折、津波がまた、やってきたという声がして人々は海を横目に高台に逃げる。

そのどよめきを録音しながら私も逃げる。その繰り返し。録音機は空回りして、何も録音されてなかった。2,3日経って赤痢が集団発生。その原稿を電話で送る私も発症していた。大館通信員時代についで半生、2度目の赤痢だった。


チリ地震は表面波マグニチュード(Ms)8.5、モーメントマグニチュード(Mw)9・5と有史以来観測された中で最大規模の巨大地震である。最大震度は気象庁震度階級では震度6相当とされている。

1960年5月22日15時11分20秒(現地時間。日本時間では5月23日4時11分20秒)、チリのヴァルディヴィア近海を震源として発生した地震である。地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害をもたらした。

まず前震がM7.5で始まりM7クラスの地震が5〜6回続いた後、本震がMs8クラスで発生した。また余震もM7クラスであったために首都のサンティアゴ始め、全土が壊滅状態になった。

地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667名。

この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7m沈み込むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が半径約1,000kmという広範囲にわたって観測された。

史上初の地球自由振動の観測に成功し、アメリカでの観測で発生した地震波は地球を3周した事が確認された。

尚、本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、約15時間後にはハワイ諸島を襲った。ハワイ島のヒロ湾では10.5mの津波を観測し、61名が死亡した。

各地の津波到達時間日本では地震による津波の被害が大きかった。地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6メートルの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、142名が死亡した。

津波による被害が大きかった岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町(現・南三陸町)では41名、北海道浜中町霧多布では11名が死亡。

この浜中町では8年前の1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度目の市街地壊滅。街の中心でもある霧多布村がこのチリ地震津波により土砂が流出し北海道本島より切り離され島と化した。

現在は陸継きだった所に2つ橋が架けられており、北海道本島と行き来が出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確保するためである。

また、同じく度重なる津波被害を受けた田老町(現・宮古市)では高さ10メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

この田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設される。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震でも津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され以後、気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。

あれから丁度50年後、チリ中部沖で2010年2月27日3時34分(現地夏時間; 6時34分 UTC)に地震が発生した。1900年以降、チリでは1960年5月のチリ地震に次ぐ規模、世界でも5番目の規模の地震となった。

日本では、2月28日午前8時30分に気象庁が会見を開き、かつてのチリ地震で最大6mもの大津波を受けて甚大な被害を受けた歴史的経緯もあり、大津波警報を三陸沖に発表するといった内容を伝えた。

時間は、「午前9時を過ぎればいつでも発表できるようにする」として、当初の予定を大幅に前倒しすることも示唆した。しかし人的被害は全く無かった。海苔ひびや牡蠣いかだの被害は大きかった。

気象庁は同日の会見で、津波の予測が過大であったとし、警報・注意報が長引いたことを謝罪した。ただし最悪のケースを想定したもので、判断ミスはなかったとした。2010・5・24

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月19日

◆中華+共産+資本主義

渡部 亮次郎

中華人民共和国は見出しに掲げた3つをごっちゃにしたものを戦術に、とりあえずアジアの盟主になることを目指し、先進国日本を障害物と考えている。「とにかく日本!中国の言いなりになれ」と最初に「靖国」を踏み絵に出した。

昭和29年の法政大学は東大を追われた大内兵衛が総長を務めていたことでも分るようにマルクス学派の巣窟だった。そこでは社会主義は正義と教えた。そんな馬鹿なことがあるかと反発した私は不真面目な学生になった。

長じてソビエトや中華人民共和国を訪れると、それらがやはり、全く嘘であることを確認した。特に酷かったのがソ連である。1973年1月にクレムリンを訪れた。折から小雪が舞い、氷点下20度。

小雪の向こうに人々の何百人という行列が見える。近付いて見ると老若男女、皆、目を真赤に腫らし、破れた靴、擦り切れたオーバー。世界2大国というソ連の、しかも首都でこれはなんだ。

トルストイ描く、これが農奴かと尋ねたら、日本大使館員曰く「これがすべて標準的なモスクワ市民。生まれてはじめてクレムリンを見学に来たんです。制限1000万人のモスクワ市民の実像です」。

大内さんもこれを知らずにマルクス万歳を教えていたのだな。こりゃ間もなく崩壊するぞ。的中した。

社会主義は社会正義と誤解するから、バカが社会主義者になる。古来、ロシア人は領土拡張主義者とか、版図主義者と陰口を叩かれる。しかし社会主義者という正義者になったら版図主義者は返上したかと思いがちだが、それは返上していない。北方4島は絶対、返さない。

シナ人は中華思想に浸って威張っていたが、毛沢東によって共産主義=社会主義=社会正義の国になったから、そんな馬鹿な思想はボツになったと思いがちだが、靖国批判を受けるたびに、それは日本人の勘違いに過ぎないことを痛感する。

中国という饅頭は薄皮は資本主義、その下は共産主義、しかして餡子は中華思想なのである。

そういう3つの要素が時に応じて同じ「友好」の穴から、別の顔をして現れるから、我々単細胞は戸惑うのだが、彼らにしてみれば本当は論理なんかどうでも良いのだから、戸惑っているほうがおかしいと見えてるはずだ。

<中華思想 ちゅうかしそう 漢民族の伝統的な自己優越思想。中国の国土や文化を理想とし、世界でもっともすぐれたものと考え、それと異なる文化、習慣の国や地域を卑しむ。

近隣諸国の君主は、冊封されると次のような義務をおった。(1)中国皇帝に対して臣下の礼をとり、定期的に朝貢(ちょうこう)する、(2)中国皇帝から要請があった場合は兵を派遣する、(3)中国へ派遣されるいかなる国の使者をも、途中で妨害してはならない、などである。

高句麗や百済、新羅、南越(なんえつ)といった諸国が冊封体制にくみこまれたほか、邪馬台国の女王卑弥呼が、三国時代の魏より「親魏倭王」という称号のはいった金印をあたえられて冊封され、また、室町時代に足利義満は明の永楽帝から「日本国王」に冊封されている>Microsoft

それでしかしシナは内戦により貧しくなり、列強に蚕食された。これはならじと頑張ってみたがどうにもならないところへ日本軍に侵入された。蒋介石良く耐えたが、後ろから八路軍(毛沢東)なる共産党との内戦も余儀なくされた。

幸い日本はアメリカはじめ連合軍に降伏したため、中国から引き揚げた。その後、蒋介石は台湾に逃げた。八路軍は蒋介石に勝っただけなのに、今では日本軍に勝ったのは共産軍だと言う教えを国民に垂れている。

歴史を正確に検証する気があるなら、中国の今日が1972年9月の日本との国交回復にあり、特にその後の日中平和友好条約に基づく日本の資金、技術援助にある事(改革・開放)は決定的な事実であることを知るはずである。

だからこそ、中国政府(共産党)はこれだけは国民に一言も教えない。共産党への関心が日本への感謝に替わっては困るからである。

さて国力も向上してきた。そこでもたげてきた頭が中華思想である。まずアジアの盟主になる。ライバルは先進国日本。これの頭を押さえつけておかないと、アジアの盟主にはなれない。そこで靖国を持ち出して、言うことを聞かなければ首脳会談にも応じない、ときた。

だから日本外務省が国連安保理の常任理事国になろうとした理屈が分からない。なられたら中華の国が面子を失うではないか。中国は絶対に日本阻止に走る。私でも分かることを頭のいいはずの人たちはどうして分からないのだろう。

馬鹿なマスコミと財界は靖国で言うことを聞けば、日中友好が来ると勘違いして、首相よ靖国へ行くなコールである。富田メモを持ち出して、てめえは昭和天皇を無視していたことなぞ棚に上げして、天皇も行かなかったところへ首相は行くな、だ。いつから天皇崇拝者にはや変りしたのか。

媚中野郎ばかりの外務省にさえ「止めたら面子を失うぞ」と警告を発した人が居る。極めて残念なことに2006年8月3日、肺癌のため57歳の若さで物故してしまったが、元上海総領事の杉本信行氏である。遺著「大地の咆哮」(PHP)で警告している。

「もし総理が中国側の非難に応じ、中国の在留邦人の安全あるいは日本企業の経済活動の確保を理由に靖国神社参拝を中止すれば、中国側、特に一部の対日強硬派は『日本という国は経済利益のためには国の面子も捨てる』と受け取るだろう」。

即ち中国共産党にとって靖国問題は目的のある戦略ではなく、日本という国を押さえつける手段の一つ、戦術に過ぎないのである。だから靖国が解決しても日中友好は絶対、かえって来ない。次の難題を探して内政干渉をしてくる。内政干渉者に話し合いなど不可能だ。

学科試験をパスして入社したであろうマスコミ人や財界人に、この簡単な理屈がなぜ分らないのか不思議でならない。

1949年に建国された中華人民共和国。奇しくも杉本さんと同じ年。私の見るところ、中国もいまや末期癌に侵されている。中華は中華で目標なのだろうが、肝腎の人民は解決不能の格差に落命しそうになっている。

媚中新聞の代表朝日新聞でさえ報じないわけに行かなかった国内暴動の多発。暴動は増えこそすれ減る事はない。国内でこんなに暴動の増える国に将来があるとは思えない。

<中国で暴動多発 昨年は8万7千件

中国で昨年、官民衝突などの暴動が8万7000件発生したことが分かった。前年よりも約1万3000件も増加し、全国各地で党幹部・官僚の腐敗や土地収用などへの庶民の憤りが強まっていることが浮き彫りになった。

華僑向け通信社・中国新聞社によると、国政の助言機関、全国政治協商会議の任玉嶺・常務委員が、シンポジウムの席上で明らかにした。任委員によると、暴動の99%が庶民の権利が侵害されたことが原因で発生。93年から03年まで毎年平均17%の割合で暴動が増え続けているという。

任委員は、暴動が増加する背景として貧富の格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)が年々深刻になっていることを指摘。

独占企業の制限や官僚の「灰色収入」防止とともに、「厳格な規制があるのに、腐敗した人間の権力が大きくて、庶民がものを言えない」状況を改革する必要があると訴えた。>(Ashi Com 2006年08月05日19時20分)

私のつたない情報によれば、資本主義を拡大するために共産党は工場など生産設備建設のための用地を確保しなければならないが、空いている土地なぞ何処にもない。

農民から強引に土地を取り上げて知らぬ半兵衛を決め込むから農民は暴動を起こすしかない。共産党は結構、殺している。事実を新華社が報じない以上、日本には知らされない。インターネット「大紀元日本」が連日、報ずるのみだ。http://www.epochtimes.jp/

2006年8月6日にも暴動の報道が次のように出ているが、これが日本の新聞やテレビに出る事はありえない。国営通信新華社が報じないものを日本のマスコミが報じてはいけないからである。中国共産党が己の恥を発表するわけがない。

<中国湖南省:武装警察、直訴する住民100人あまりを銃殺か

【大紀元日本8月6日】湖南省で2日、強制移転を余儀なくされた住民たちは、補償金問題をめぐり、現地公安当局と武力衝突し、大勢の住民が射殺されたという。

湖北省赤壁市の人権活動家・洪運周氏が提供した情報によると、2日湖南省湘陰県に移住を余儀なくされた住民は、本来支給されるべき補償金が現地地方政権の幹部に不正流用されたとして、上級の政府部門である湘陰県政府を訪れ集団直訴したが、政府側は住民たちの直訴を受理せず、公安警察を現場に動員し、住民たちを弾圧しようとした。

その際、公安と住民が激しく衝突し、数人の公安警察が死傷したもよう。そのため、湘陰県政府はさらに武装警察を現地に派遣、住民100人以上が射殺されたとの説が流れている。

現在、湘陰県は緊急警戒状態となり、情報が厳密に封鎖された。中央指導部の特別チームが現地入りしたもよう。内情を知るものは皆脅迫を受け、外部にこの弾圧の情報を漏らした人を厳しく懲罰すると警告された。

情報を海外に流した洪運周氏は、4日午後、公安当局からこの一件に関与しないよう警告する電話があったという。>(06/08/06 14:47)
(再掲)

2010年05月17日

◆大阪「都」の理由

渡部亮次郎

大阪府の橋下知事が、最近、盛んに大阪「都」になりたいと発言している。「都」とはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、都とは「宮処(みやどころ、みやこ)」から転じた言語。

天皇の宮殿のあるところをいう言葉である。古代の難波京(大阪)、平城京(奈良)、平安京(京都)など。現在では京都および東京とされている。大阪が「都」を名乗る資格は無い。

上記の意味が転じて、政治や行政の中枢機関が置かれた都市のこと。統治システムの階層ごとにその中枢が設置される都市があるため、国家レベルの中枢都市は「首都」と言い、広域自治体(米国では州、日本では都道府県)レベルの中枢都市は「州都」、「道都」、「県都」などと言う。→都道府県庁所在地

橋下知事の発言を忖度して調べてみると、なるほど、大阪市などと大阪府が合併して大阪「都」になりたい根拠が東京「都」にあった。

東京は明治維新以前の東京都都心部の旧称は江戸であり、江戸時代には江戸幕府の所在地として栄えた。第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に「東京都制」が施行され 、東京府と東京市を統合した形で東京都が設置」された。

第2次大戦後の1947(昭和22)年に地方自治法が施行されたために東京都制は廃止されたが、東京都の名称と行政区域は変更されず現在に至っている。

このため東京都庁は、23区を包括する市役所としての機能と県庁として広域行政体としての機能とを併せ持っている。

橋下知事はこれを狙って「大阪都」で府民の歓心をくすぐり、大阪「市」と「府」の合併を呼びかけているのである。しかし、東京都への歴史を語らずに、矢鱈「大阪都」を連呼するものだから、現在、天皇陛下をお守りしている東京都民は、橋下知事好かんと言っている。

2010年05月16日

◆藁(わら)が消えて行く

渡部亮次郎

古来から稲の生産が盛んであった日本では、藁は大量に出る副産物であり、これをいかに利用していくかが生活そのものであった。

例えば、『万葉集』の中でも見られる住宅に藁を敷いて寝るというスタイルは古代から地域によっては江戸時代まで続き、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙や筵のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

ところが、いまや何処の農村でも藁は無くなり、注連縄(しめなわ)も藁で無い材料を使わざるを得ない状態になっているらしい。

当メルマガ「頂門の一針」の読者からの指摘に依ればコメ(秋田小町)5Kg=2000円なのに、東京・小岩の藁専門店では藁5Kgの方が高くて2100円だそうである。
http://www.waranawa.com/wara.html?gclid=CKOrjO-BzKECFRVAbwodYHVVdw

1960年代以後の農業の省力化と藁製品そのものの需要の減少によって藁仕事は殆ど見られなくなったからである。今や稲刈りを手でするところはまず無い。コンバインだ。

すると藁は細かく粉砕されて田圃に撒かれる。だから藁を藁として取り出す為には稲刈りを手でやらねばならず、人件費の分、コメより割高になってしまうのである。

黄色のビニールで作った注連縄は丈夫で長持ちするが、そうではなくて藁が手に入らなかったための苦肉の策ではなかったか。


かつて、農業地域の収穫期には大量の藁が発生するため、業者が大型トラックでその買い付けにやって来るという光景がごく当り前に見られた。

だが、コンバインが収穫作業の中心となってからは、刈り取られたイネがその場で直ぐに裁断され圃場一面に排出されるため、かつてのような買い付けの光景を見ることはまず無い。

かえって、今日では藁が貴重なものとして取扱われる傾向にある。最近の研究で本田技術研究所からバイオエタノールの製造実験が発表されている。

戦後、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙(ゴザ)や筵(むしろ)のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。

また衣服としては笠や蓑、草鞋、藁手袋、雪国における深沓など、食生活では鍋敷や鍋掴、束子や容器類など、その他箒や俵、畚、縄跳用の縄なども藁製品の代表例である。

子供の頃は、日露戦争帰りの祖父に藁靴や草履の編み方を教わり、それを履いて通学したものだ。あれから60年以上経った今ではすっかり忘れてしまったが。

また、注連縄や藁馬、藁人形など宗教的な側面や、燃料・肥料・飼料などのエネルギーとしての側面もあった。不要な藁製品は堆肥化することで有用なまま処理することが可能であった。

藁細工を行うにはハカマと呼ばれる下葉を取り去るワラスグリをはじめワラ切り、ワラ打ちなどの加工、更に腐熟を防止するために囲炉裏で乾燥させるとともに煙の微粒子を付ける作業も重要であった。

とはいえ、これらの作業以外は基本的には撚り・束ね・組み・編み・巻上げ・織りといった比較的習熟しやすい作業が多く、農作業が出来ない冬などに老若男女を問わずに現金収入を得るための藁仕事が行われた。

たとえば筵(むしろ)を2つに畳んで左右を縄で縫えば叺(かます)という袋状の入れ物になり、化学肥料の入れ物として、大量に消費されたが、ビニールの普及とともに使われなくなった。

俵(たわら)も似たような変遷を辿った。戦後も長い間、玄米を詰めて都会に送られたが、現在では俵は都会では目にする事はなくなった。玄米の入れ物は紙の袋になっている。

昔の農村では、原料代が不要でかつ多くの村々で藁仕事が行われたことは結果的には藁製品が大量かつ安価で流通することになり、藁を無駄なく利用しようとする農村部とは違う意識を単なる消費者に過ぎない都市部に植え付ける結果となった。

「米は藁作り」「藁を焼いたら笑われる」と言われた農村部に対して「溺れる者は藁をも掴む」「藁包に黄金」など藁を安価なもの、粗末なものとして捉える都市部の言葉の違いとなって現れた。

18世紀に蝦夷地のアイヌの元を訪れた日本人が「アイヌは鮭を主食としているのにその皮を足に履いて踏みつけにしている」ことを非難したらアイヌから逆に「和人(日本人)は米を主食としていながらその藁を足に履いて踏みつけにしているではないか」と反論されたという話が伝えられている。2020・5・13

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年05月13日

◆これほどの大物が居た

渡部 亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名「大風呂敷」である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とするマグニチュード7・9による大災害。

南関東で震度6 被害は死者99,000人、行方不明43,000人、負傷者10万人を超え、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃を受けた。(以下略)(この項のみ広辞苑)

新平は関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)。

ために財界などからの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった。議会に承認された予算は、3億4000万円。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。11%!に削られながら。

三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。

東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥(義理)に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。椎名は新平の姉の婚家先に養子に入った。

母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。この間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を治療している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。

1882(明治15)年2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

1890(明治23)年、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892(明治25)年12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

1898(明治31)年3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。

それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急に禁止する方法はとらなかった。

まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。

総督府によると、1900(明治33)年には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917(大正6)年には6万2千人となり、1928(昭和3)年には2万6千人となった。

なお、台湾は1945(昭和20)年にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである(阿片漸禁策)。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きい。

1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。

また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。東京の都市計画を指導するのはこの後である。

その後、第13代第2次桂内閣の許で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の許で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)。

しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。

1941 (昭和16) 年7月10日、本土(下関市彦島)と九州(当時、門司市小森江)をむすぶ、念願の日本ではじめての海底トンネルが貫通した。この日貫通したのは本坑道で、それより先39年4月19日には試掘坑が貫通している。

新聞はこの貫通を祝っているが、関門海峡の海底をほって海底トンネルをつくる構想ははやくも1896 (明治29) 年ころからあり、当時夢物語のようなこの話を実現化へ向けて進言したのは、鉄道院総裁の後藤新平だったとつたえている。[出典]『中外商業新報』1941 (昭和16) 年7月10日

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。72歳。

虎ノ門事件(摂政宮裕仁親王狙撃事件)の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。

その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。今は 記念館になっているようだ。

後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。

彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕らの好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。

後藤はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。

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2010年05月11日

◆ウスターソース未経験

渡部 亮次郎

日本で使用されているウスターソースは、イギリス産の物とは材料も異なり別物である。日本産は果実と野菜、スパイスが主原料であるのに対し、イギリス産はアンチョビも主原料として使われており、そのため魚醤に似た味がする。

日本産が揚げ物などにかけて食べるのに対し、イギリス産は、シチューやスープなどに数滴落として風味をつけたり隠し味として使用されることが多い。

このような事になった理由は、ウスターソースが、たまたま日本の醤油に似ていた事から西洋風の「新味醤油」などとして一般化したためである。日本ではその後、このウスターソースに派生する形で、とんかつソースや中濃ソースが考案され、広く普及するようになった。

日本でウスターソースは細分化されて各種が存在すると共に調味料としての使用量は多く、飲食店や家庭で使用される。調理中に使用される他、醤油差し(ソース差し)で食卓上に並べられていることも多く、日本の家庭や大衆食堂では、単に「ソース」と言えばウスターソースのことを指すほど日本に定着した調味料となっている。

日本にウスターソース類が登場したのは明治時代である。ヤマサ醤油の7代目濱口儀兵衛が米国遊学時代に独自のソース製造の構想が生まれ、8代目濱口儀兵衛が研究を重ね、1887年、米国で「ミカドソース」の名で販売を開始。

同時に、国内向けには「新味醤油」の名で発売された。しかし、一般の人びとには味が馴染まず、1年ほどで製造は中止された。

また、現存する最古のソースメーカーである神戸の阪神ソースは、創業者である安井敬七郎が1885年に開発販売(一般ルートによる発売は1896年より)したソースを日本最初のものであるとしている。

時をほぼ同じくして、1894年に大阪では「三ツ矢ソース」が発売され、やはり「洋式醤油」(「洋醤」)と呼ばれた。

さらに、1905年には関東地方で「犬印ソース」(現ブルドックソース)が、1908年には中部地方で「カゴメソース」が生まれ、明治後期になると全国的にソース製造業が勃興した。

こうして、「ソースといえばウスターソース」という認識が日本において定着していくことになった。これらの初期のソースは、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度が低いサラサラしたソースのみであった。

戦後まもなく粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)ができ、その中間の中濃ソースが昭和30年代に登場した。この中濃ソースが誕生した頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したのに伴い、消費量が拡大し、多くの家庭に常備されるようになった。

(東日本では中濃ソースが、西日本ではウスターソースが普及した)。家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。

私は秋田県の寒村に生まれ育ったから、ソースなるものを全く知らないで育った。初めて見たのは大学の食堂だった。しかし、味には馴染めなかった。

浅草や向島の洋食屋へ行っても使わない。上野のとんかつ屋では特製のソースを販売しているが、私がとんかつに掛けるのは醤油である。ちょっと恥ずかしい。2010・5・10

■本稿掲載5月11日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1912号のご案内

<目次>
・ポイと先送りの舟に飛び乗る:古澤 襄
・アメリカは北朝鮮崩壊に備える:古森義久
・ネパールに政治的断崖の危機:宮崎正弘
・「人斬り以蔵」と坂本龍馬:平井修一
・ウスターソース未経験:渡部亮次郎
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年05月10日

◆失敗多いほど秀麗

渡部亮次郎

凡人の一生は、ひょっとすると失敗の積み重ねかもしれない。

小中高と試験の連続。面白い事にしくじった問題に関する限り正解は一生、忘れない。落第を恐れるから、なるべく失敗しないように勉強はするが、本質的には失敗を恐れてはならないのだ。

小さい時から家庭教師をつけられ、正解ばかりを教えられ、覚えてとうとう、大学を終えると、失敗した時に、事態への対処の仕方が分からない。教わらないから、回答を知らないのだ。

それなのに、よせばいいのに政治家になり、あまつさえ、いきなり総理大臣になって一つの正解も出せないまま生き恥を晒しているのが鳩山だ。

私が秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)=故人は、晩年こそ華やかだったものの、失敗の連続のような生涯だった。

生まれたのは天草(熊本県の島)の元庄屋。旧制中学を卒業後、父親の希望で大阪に出て歯医者養成専門学校(現在の大阪歯科大学に入ったが、医者はどうしても厭で、京都武道専門学校へ。

そこで恋愛して一子(男児)が生まれる。妻子を実家に預けて中国へ出奔。そのうちに対中戦争。そこで血書志願して陸軍へ。その後、大東亜戦争後に出来た陸軍落下傘部隊に志願。長男は採用しないのを無理に入る。

パレンバンへ日本最初の落下傘部隊として降下するべく、途中までは船で異動したが、アメリカの魚雷に沈められて果たさず。そのご陸軍飛行隊所属のパイロットとなる。

敗戦直前、札幌で天雷特別攻撃隊(特攻隊)の隊長任命され8月13日に飛び立とうとするが、沖縄方面、悪天候の為、17日に延期命令。しかし、15日で敗戦。生き残ってしまった。

ここまででも気付くように、彼は「死」を所望するような青春を送る。それが結果的に「生」を与えられたような「その後」となる。村長から衆議院議員となり連続当選15回。


途中で日米安保条約の批准に反対票を投じて除名。初入閣は他人より相当遅れたが、官房長官、厚生大臣(2回)、外務大臣3回と輝かしく生きた。

失敗からすべてを修得した。だから得た経験は濃密だ。比ぶべくも無いが鳩山の経歴などは「無」に等しい。口先、理屈の人生であって、世にしごかれたことのない半生は、血の通わぬ経験でしかない。

沖縄問題を根本的に解決できない事を知らずに「弄る」だけしたものだから、とうとう命取りになるところだ。気付いて逃げ出しても行く先は無い。

しかも2度目の結婚で子供は既に5人もいたが松谷天光光なる野党の女性議員と恋に落ち、懐妊させる。そこで妻子と別れ松谷と結婚。封建的な土地柄と思われがちだが、天草は園田を落選させなかった。

「野戦に出て二股の途がある。左せんか、右せんか。綺麗な方へ進むと必ず敵が待ち伏せしていた。だから迷った時は悪い途を選ぶ。

部下を1人も死なせなかった。天光光のときも、こっそりと人工中絶させるという安易な道を選んだら、後にばれたら、そのほうが命取りだったろう」。

失敗や困難を恐れてはならない。そんな事は家庭教師も大学院も教えない。だから学歴で政治はできない。(敬称略)2010・5・8

2010年05月08日

◆かくて誰も居なくなった

渡部亮次郎

<この島をリーダーのいない極東の孤島にしたいのか。そんなことないですよね。つぎは誰が最適か、ベストではないが誰がベターか、密かな思いはあるはずだ。決まってから、ああでもないこうでもないとケチつけることで口を糊するのは後出しジャンケンのようなものだ。フェアではない。

ここはひとつ、ど素人なのでよく分からないが、プロは当然のこと、追っかけ素人も「辞めろ」というなら、「辞めさせて、菅にしろとか、舛がいいとか」、はっきり個人名を挙げて宣言してもらいたいのである。それがプロの最低限の見識・責任ではないのか。>石岡荘十(「頂門の一針」1906号=5月5日)

私も素人だが、正直言って私には指すべき適材が無い。最大唯一の権力者のなるのが普通だが、この人は日本の将来なんか考えていない。中国と韓国に尾を振ることしか考えていない。

民主党に人材が無いのは、戦後、ほぼ一貫して政権を執りながら、日教組を潰せず、人材育成を怠ってきた自民党の怠慢である。

怠慢に留まらず、政治家各々が、自己の権益固守に終始、有為の人材を自党に取り込めなかった。その罪は末代まで祟る国家百年の大計を過ったのである。

歴史を教えない、世界情勢に目を瞑らせる。国旗、国歌を尊敬しない。自国の尊さを教えず、自らを卑下するばかりを教える。近くの区立毛利小学校には日の丸の旗の翻った事は1度も無い。完全に日教組に支配されているのだ。

中学も、高校も同様。如何にすれば国家が富み、繁栄するかを目指すよ
り、個人の都合ばかりを考える少国民。それが大学に入っても勉強もし
ない、学生らしい、瑞々しい感覚が失われているから、学生運動も起こせない。教わるのが「予備校文化」。最少の努力により最高の得点を挙げるテクニック。夢も理想も無い。

昔の左翼学生は法曹界と医学界に逃れた。その中の弁護士たちが反体制の思想を隠して政界の潜り込んだのが民主党。これをこうしたのが自民党の最大の罪である。

政治に目覚めた有為の青年の目指した松下政経塾の殆どが民主党に偏った。自民党が門戸開放にチャレンジしなかったからである。

そういう彼らは先の大戦の生き残り。荒々しい肉弾戦を潜り抜けてきた人物たちだから、度胸も有ったし、胆力もあった、快刀乱麻の難事処理能力にも優れていた。敵に対して老獪な出処進退も出来た。

戦後の30年ぐらいは自民党も社会党も戦争生き残り派で国家再建に尽力できた。しかし、その時、彼らは後継者の育成を忘れた。そのためには教育の再興、日教組殲滅が不可欠である事を忘れた。

全てをご都合主義で見送った。

かつて中南米の某国大統領を表敬訪問した際、大統領が言った。「お国には自民党という政党があって、優れた経済成長を続けているらしい、何とか自民党を輸出してくださらんか」。

あの頃、経済の右肩上がりのころだ。しかし、これに関して既に後継者養成によって「次代」を考慮すべきだったのに、自民党はただ、酔っていた。自己権益の墨守に専念して居るだけだった。

石岡さんは先輩である。「おまえ、偉そうなこと言うんじゃないよ、
もっと現実論を言えよ」と言うお叱りの声が聞えてくる。

以上の如く、いまやわが国政界に有為な人材は無い。岸の孫、福田の息子失格。それなのに吉田の孫を出して究極の失敗。民主党に渡したら、鳩山の孫だという。やらせてみたら白痴だった。これしかないのは偶然ではなく必然なのである。誰もいなくなった。

とはいえ、もはや自民党という戦後日本に責任を持った政党が誤った「国家百年の大計」をしてしまった以上、この先100年の命運は決ってしまった、と言うしか無い。2010・5・7

■本稿掲載5月8日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1909号のご紹介

<目次>
・かくて誰も居なくなった:渡部亮次郎
・英国総選挙、保守圧勝ともならず:宮崎正
・鳩山首相の主観的「誠意」と国家解体方針:阿比留瑠比
・フォークランド沖合で英国が油田を発見:宮崎正弘
・幸田文の「父の周辺」:平井修一
・不磨の大典----善意に滿ちた迷惑なこと:上西俊雄
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2010年05月07日

<夕刊>◆沖縄県ではなく琉球王国だった

渡部 亮次郎

1429年―1879(明治12)年まで琉球王国(りゅうきゅうおうこく、が存在した。正式国名:琉球國で沖縄本島を中心に存在した王国である。

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国の明(みん)・清(しん)の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結びつきが知られる。

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと高宮広士札幌大学教授が指摘する。

近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。

明、および清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。


1945(昭和20)年、沖縄戦により住民に多数の犠牲者が出る。その後、アメリカの統治下に入る。

1972(昭和47)年5月15日、日本に復帰した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■本稿掲載5月7日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1908号のご案内

<目次>
・徳之島ヘリ部隊移設断念へ:古澤 襄
・「くい打ち桟橋方式」こそ生態系の破壊だ:泉 幸男
・沖縄県ではなく琉球王国だった:渡部亮次郎
・夢遊病者の沖縄訪問と対日工作基地:西村眞悟
・ハトは暗愚を通り越して痴呆者:平井修一
・なぜ「アメリカが日本を捨てるとき」なのか:古森義久
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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