2007年09月12日

◆安倍首相、突然の辞意表明

                        渡部亮次郎

<安倍晋三首相は12日、首相官邸で自民党の大島理森国対委員長と会談し、「首相を辞めるので、代表質問はできない」と述べ、首相を辞任する考えを明らかにした。
大島氏は民主党の山岡賢次国対委員長に電話で、首相の辞意を説明した。>Sankei Web (2007/09/12 13:00)

<首相は7月の参院選で自民党が惨敗した後も続投した。9日には訪問先のシドニーでの記者会見で、11月1日に期限が切れるテロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での給油活動の継続について「国際的な公約となった以上、私には大きな責任がある。職を賭して取り組む」との強い決意を表明。
活動が継続できなければ退陣する意向を示していた。>Asahi Com  2007年09月12日13時07分
<【安倍の自爆テロ】
テロ対策特別措置法に基づいたアフガニスタンにおける海上給油活動は「国際公約」であり、それを継続するために「局面を変えなければならない」と安倍総理は辞任を表明した。
自爆テロのようなもので、これで局面を変えたい、国際テロへの戦いを継続したいという思いだろう。吉と出るか凶と出るか。次期総理は麻生だろうか。>(平井修一)

<安倍さんがかなり痩せられた、という情報を11日夜、日本プレスセンターで聞いた。育ちが良くて正直な人は政治家には向かない。祖父の岸信介に比べれば父親の安倍晋太郎はお人よしといわれた。

いつの世も政治家はあくどい位の個性的が望ましい。しかし戦後教育
(アメリカの陰謀)は悪どい人材を輩出しないようになっているから本当の政治家よ出よといっても果て無き夢だ。>メイルマガジン「頂門の一針」9月12日号「身辺雑記」渡部亮次郎。

<安倍首相辞意:「週刊現代」が「脱税疑惑」追及で取材
突然辞意を表明した安倍首相については、「週刊現代」が首相自身の政治団体を利用した「脱税疑惑」を追及する取材を進めていた。
 同編集部によると、安倍首相は父晋太郎氏の死亡に伴い、相続した財産を政治団体に寄付。相続税を免れた疑いがあるという。晋太郎氏は91年5月に死亡し、遺産総額は25億円に上るとされていた。編集部は安倍首相サイドに質問状を送付し、12日午後2時が回答期限としており、15日発売号で掲載する予定だったという。> 毎日新聞 2007年9月12日 15時00分

< 宮沢喜一元首相の<知性>をそのまま受け継いだような長女啓子は、ざっくばらんに父親を批評した。
 「父は昔よく私に、『知の上に徳がある』って言ってくれていたんですが、『知』ということではとても勉強家で知的だとは思います。でも、大きな意味での『徳』っていうとどうかなあなんて。

 ものを頭で解決するのが好きな人ですから、ハートで情で、となると、とても嫌がります。私なんかが、『娘が頼むのよ』なんて言い方すると一番嫌がりますから」
 啓子はさらに辛らつである。> 「プライベートでは保守的でなく、非常にラジカルで進歩的ですね。それを政治のほうにも出していったら面白いのにと思っていたのですが、保守本流ということで、父の政治姿勢はつまらないくらい保守的です。

 続きを読む≫≫

2007年09月11日

◆多数者革命って何

                         渡部亮次郎

少数が多数を制するから革命であって、世の中の多数を選挙で制すれば、それは民主主義の結果であって革命とは関係がない。それなのに日本共産党は「革命」という2文字を棄てられないらしい。悲しい性(さが)やねん。

NHK政治部では日本共産党も含む野党を1年だけ担当したことがあるが、マルクス・レーニン主義の空しさを大学時代にたっぷり経験していたから、共産党について正面から書いた記事は1本も無い。

当時既に上田兄弟(弟は不破哲三=ペンネームを名乗る)が次世代指導者として浮上していたが、何せ宮本顕治が主導権にしがみついて離さず、彼らはやきもきしていた。

NHKを辞めて外務・厚生の大臣秘書官を務めたりしたが、1982年には永田町と完全訣別、共産党も視野から消えた。その後、宮本が殺したリンチ査問事件の犠牲者は郷里秋田県の出身者である事、その縁で北朝鮮人歌手が小畑実を名乗った事などを知った。

その宮本が2007年7月18日、98歳、老衰で死に、評論家立花隆が文藝春秋9月号に「日共のドン 宮本顕治の闇」を執筆した。彼は田中角栄研究で論壇にデビューしたが、傍ら日本共産党の研究では立派な著書で実績を挙げている。

立花の今回の論文によると、例のリンチ査問事件は宮本による傷害致死事件と断定した1976年1月号の文藝春秋「日本共産党の研究」を発表した時、共産党は反証をかき集めるために、特別チームを編成した。

しかし、出てきた証拠は宮本の犯行を裏付けるものばかり。京都大学の法医学関係者は「当時よりもっと簡単明瞭に傷害致死だと鑑定できる」と断言した。とうとう反証を断念した。

続きを読む≫≫

2007年09月10日

◆死体永久曝しの毛沢東

                        渡部亮次郎

9月9日は毛沢東逝去の記念日だった。1976年9月9日午前0時10分に、北京で側近と主治医に見守られるなか毛沢東は82歳で逝去した。

遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている

毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命が完全に終了した。
私は1972年9月の田中角栄総理による日中国交回復交渉にNHK記者として同行したが、毛沢東は記者団の前には姿を見せず、間もなく死亡した。

毛沢東が世界に注目された最後の事件は、1972年2月18日北京における毛沢東・ニクソン会談である。

この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していた。それにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに米中国交正常化を成し遂げた。全世界の驚愕を呼び起こしたのだった。

1972年アメリカの同盟国である日本は中華人民共和国との国交を正常化させたが、米中国交正常化はニクソン訪中では現実のものとはならず、成ったのは日本に遅れること7年後の1979年1月1日だった。アメリカは日本と違って中中華民国(台湾)との関係に余裕を残せた。

毛沢東はニクソンの会見後に筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛沢東の体力を奪っていった。

私は周恩来総理に続いて毛沢東も死んだ後の1973年の8月8日、懸案の日中平和友好条約を締結するため、外務大臣園田直に随行して北京を訪れた。

その時、街の声を拾ったが、会う人のすべてが悪口を言うのが毛沢東であり、おしなべて評価するのが周恩来であった。市内の公園にひそひそ話をすると、湾曲した向うに声が伝わるという装置があり、声に驚いて相手を確認しようとすると既に相手は立ち去った後、という装置で彼らの本心を知ったのだった。

大躍進政策の失敗や文化大革命などで数千万人の犠牲者を出すなど、国を破滅の一歩手前に追い込んだ失策も数多いものの、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として市場経済化が進む現在も国父として崇拝されている。しかしそれは表向きだけだある。

続きを読む≫≫

2007年09月08日

◆父子2代「2年首相」

                         渡部亮次郎

福田康夫を担ぎ上げて安倍を斬ってしまおうという"陰謀“は消滅していない。だが、肝腎の康夫が「迷惑千万!」といったっきり頑として「聞く耳持たない」そうだ。

先輩の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)によると、よく分かる。

<与党の関係者と話をすると福田康夫元官房長官の待望論が根強い。その裏には安倍首相では小沢攻勢を凌ぎ切れないという危機感がある。あと2年間は福田政権で繋ぎ、その後は思い切った布陣で総選挙を戦うのだという。

だが安倍首相で凌ぎ切れないものが、福田首相で凌げるものだろうか。仮に凌いだとしても、総選挙は誰を担いで戦うのであろうか。極めてプリミテイブな疑問だが、誰も答えてくれない。

こんなことでは、当の福田氏が「迷惑千万!」と言って一笑に付すのではないか。2年間のリリーフ投手なんて軽く見られたものだと不快感を持つに違いない。もともとが誇高き男である>。

康夫は私と同じ歳。既に71歳。父親赳夫の総理就任と同じ歳になった。あの時康夫は、しばらくしておっとり刀で丸善石油の課長を棄てて総理首席秘書官になった。既にNHK国際局副部長から園田直外務大臣の秘書官になっていた私は初めて彼と顔を合わせた。

おかしな出合だった。赳夫が田中角栄と総裁のポストを争った「角福戦争」の1971−72年ごろ、私は赳夫番記者だったが、1度も康夫の顔は見ていない。政界に入る事は無いと思っていた。

赳夫の面倒を見ていたのは横手家へ養子に出た次男征夫(いくを)であり、彼が親父の後継者だろうと周囲は見ていた。それが、実際、親父が総理大臣になったら、突然、康夫が首席秘書官として割り込んできたからみんな驚いた。

実際のところ、弟の横手征夫は慨嘆したと聞いた。それでは赳夫の跡継ぎは康夫、征夫は参院議員を務めている叔父さんの後継者か、と噂しているうちに征夫は癌で急死してしまった。

続きを読む≫≫

◆共産党万歳の瀬島龍三

                            渡部亮次郎

<日本財団より会長笹川陽平ブログです。
戦前、戦中、戦後を通じて政、財界の「参謀」として隠然とした
影響力を持った伊藤忠商事元会長の瀬島龍三さんが4日死去されました。

本日は、瀬島さんのことについて書いております。題名は「瀬島龍三氏 死去」です。

お忙しいとは存知ますが、お時間のある時にでもブログをちょっと覗いていただければ幸いです。
http://blog.canpan.info/sasakawa >

瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。

以下はウィキペディアからの引用である。

『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』

更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。

ウィキペディアで興味を引くのは、『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。

このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。

私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲1等瑞宝章を親授された。

続きを読む≫≫

2007年09月07日

◆安倍退陣は無いのか

                         渡部亮次郎

改造後の安倍さんの顔が冴えない。多分、眠れないし、腸の具合も良くないのだろう。下痢が激しいのではないかと推測している。

改造の時は事務の官房副長官と首席秘書官を差し替えないとまたまた次に酷い目に遭いますよ、と「夕刊フジ」で忠告したのに聞いてくれなかった。

案の定、遠藤農林水産大臣の「身体検査」の不徹底がわかり、安倍首相は取り返しのつかない失態を演じる事になった。身体検査は官房副長官と首席秘書官の責任なのである。

官房副長官は旧内務省系官庁を抑えていなければならないが的場氏は旧大蔵小出身でありながら、旧大蔵省の推薦ではなく財務省の反感を買っている。首席秘書官は旧国鉄OBで官界にもマスコミ界にも人脈が皆無。身体検査には手も足も出ない。

かくして果たせるかな自民、公明両与党内から、農相人事の直後「ひょっとして安倍退陣」という情報が流れた。もはやこの弱体内閣を頼っていたのでは、「我々に明日は無い」と実力者たちが「首相とりかえ」を考えたのである。

だから安倍さんの顔が冴えない。党内のざわめきを感じ取って眠れないのである。

前々から言われていた幻の福田康夫首相で当面を繋ぎ、麻生太郎首相に持っていく動きが出ていた。安倍首相の人事の不手際は限界にきていたからである。

さりとて解散・総選挙をするわけにはいかない。今やれば大惨敗。実力者といえども落選の危機に曝されるからである。そこで、党・内閣人事は安倍改造人事をそのまま受け継ぎ、農相には派閥領袖の1人を当てるという構想も検討された。

東京オリンピックのあった1964年、喉頭癌に倒れた池田内閣から佐藤内閣にバトン・タッチした時に用いられたのと同じ手法である。

思い出せば池田政権の幹事長三木武夫氏も、そのまま佐藤政権の幹事長として留任している。あれから既に43年。当時を知る政治家は残っていないが、危機となれば考える事は同じだ。

「安倍退陣説」には安倍さんも側近も抵抗している。また反安倍勢力が頼みとする福田康夫氏は火中の栗を拾うつもりはないというから、この構想がそのまま実現するとは思わないが、突然表面化する可能性は否定できない。

農相の後任は決まったが、問題は民主党が参院で、安倍首相の任命責任を問い、問責決議案を出す可能性があることである。参院の問責決議そのものは、衆院の内閣不信任案と違って法的な拘束力を持たないが、問責された総理が参院本会議や各委員会に出席すれば審議拒否の根拠を与えてしまう。

戦後政治では想定していなかった事態が起こりそうである。これを凌ぐには安倍首相の退陣しかないという見方が与党内で生まれているのは不可避であろう。安倍首相が、この急場を乗り切ることが
出来るか、耐えられるか見ものである。

(1)貫禄が無いから言説に力が無い。力の無い言説は説得力に欠ける。人生を50年ちょっとしかやっておらず、失敗の経験に欠けるから、政治の先見性に決定的に欠ける。

(2)悪事をなす必要のない人生(御坊ちゃん)だったから政治家の裏を洞察する能力が元々欠けている。この点は森喜朗氏は格別にあるが、森には別のものが全く欠けているが。

 (3)回転が悪い。記者に突っ込まれた事を咄嗟に理解できない。当然。咄嗟の切返しが全く出来ない。これを「ぶら下がり」で毎日2回も見せられるだけで国民の方がイラつく。これだけは森と全く同レベル。

宮澤喜一氏は類稀な切れ者といわれたが、政治家としては只者だったから「自民党の徳川慶徳」と揶揄されたが、ご本人は理解を拒否した。己の賢しいことが政治家としては欠点だったと理解できなかった。

安倍さんは己の学識の無さが与党内のみならず国民から嘲られている事に気付いていない。自分では岸信介のDNAを唯一のアイデンテフィと主張するが、DNAなんて目には誰にも見えないのだ。
文中敬称略  2007・09・05

2007年09月06日

◆志位和夫の謎

                          渡部亮次郎

志位和夫(しい かずお、1954年7月29日―)は、衆議院議員(5期)。日本共産党中央委員会幹部会委員長。血液型O型。千葉県印旛郡四街道町(現・四街道市)生まれ、現在千葉県船橋市在住。

出身校 東京大学工学部物理工学科 前職 政党職員。

衆院での所属委員会 内閣 役職 衆・国家基本政策委員会委員

選出選挙区 比例南関東ブロック
当選回数 5回  所属党派 日本共産党
党役職 中央委員会幹部会委員長
会館部屋番号 衆・第1議員会館735号室

両親とも、教員で日本共産党員であった。父・志位明義(1929年―2005年)は、日本共産党の船橋市議会議員であったこともある。

伯父に終戦時の第3方面軍参謀志位正二(陸軍少佐)がいる。1954年2月5日に「自分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭した。

ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、日本におけるソ連のエージェントとして志位ら36人の存在が明らかになったからである。

志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なものである」。

「日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係を結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。

ソ連から帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりいる。祖父は陸軍中将志位正人。

和夫は千葉大学教育学部附属小学校、千葉大学教育学部附属中学校、千葉県立千葉高等学校卒業。同じ高校出身の神崎武法(公明党前代表)は先輩に当たる。

東京大学工学部物理工学科を卒業。大学の1年生の時から小選挙区制反対運動をきっかけに日本共産党に入党。当時の委員長宮本顕治の家の家庭教師として長男宮本太郎らに勉強を教えていた。

大学卒業後、党東京都委員会に就職、青年学生運動を担当。1982年から党中央委員会勤務。

1985年、事件がおきて一躍出世のカギを握る。

続きを読む≫≫

2007年09月05日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

                       渡部亮次郎

<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。

2007/09/04 02:52 【共同通信】>

瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。
この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(現衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室ではじめて会った。
いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

続きを読む≫≫

2007年09月04日

◆伊藤律の帰国事件

                         渡部亮次郎

伊藤律(りつ)とは日本共産党初期の大物。戦後、マッカーサーに睨まれて地下に潜ったまま行方不明となった。ところが実は中国に密入国で渡り暮していたが1980年9月3日に突然帰国して世間を驚かせた。彼にとって「帰国」は事件だったのである。

ところが頼りにしているフリー百科「ウィキペディア」では伊藤律に関しては何方も手を下していない。三省堂の「コンサイス人名辞典 日本編」第1刷(1976年3月20日発行)により生まれは1913(大正2)年、岐阜県出身とわかったが、今のところ没年月日は不明である。

一高中退とあるのは、在学中、共産党運動に参加し放校処分となったため。1933年検挙され、出獄後、39年、満鉄東京支社調査部に入る。

この間、小林陽之助らの「人民戦線グループ」に参加し、40年には満鉄共産党事件で検挙。41{昭和16)年再び検挙され、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなった。

事件の発覚は、日本の特別高等警察(特高)資料などをもとにまとめたアメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件の真相」(1949年に公表)によれば、共産党再建容疑で取り調べ中の伊藤律の自供により、1941年9月、元アメリカ共産党員の北林トモが検挙されたことにはじまる。

伊藤自身は、死後の93年に出版された回想録で、自分は陰謀の被害者で、後の議長野坂参三こそがゾルゲの諜報網を「売った」と主張している。野坂も100歳で死ぬ直前、スパイ容疑で除名された。

ゾルゲ事件 ゾルゲじけん 1941年(昭和16)10月におきたリヒャルト・ゾルゲらの諜報(ちょうほう)活動と尾崎秀実らの反戦活動に対する検挙事件。

41年9月〜42年6月にゾルゲや尾崎ら35名がスパイ容疑で逮捕され、18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法の各法違反などで起訴された。逮捕者の中には、機密情報提供の容疑者として近衛文麿首相のブレーンだった犬養健(たける)や西園寺公一(きんかず)らもふくまれていた。

検挙は極秘にされ、事件が「国際諜報団事件」として司法省から公表されたのは1942年5月だった。

43年の裁判の結果、ゾルゲと尾崎は死刑判決、2名が無期懲役のほか全員が有罪判決をうけた。

西園寺は執行猶予、犬養は上告審で無罪となった。44年にゾルゲと尾崎は上告が棄却され、同年11月7日(ロシアの革命記念日)に死刑が執行された。ブーケリッチや宮城ら5人は獄死した。

伊藤律は、敗戦後、日本農民組合結成に参加しながら日本共産党再建に従事。徳田球一の下で政治局員、書記局員を歴任、農民部長として極左的な農業綱領を作成した。

1950年、コミンフォルム批判後、徳田と行動を共にし、地下活動に入るが宮本顕治に追われ、55年、スパイ活動を理由に除名された。コンサイス人名辞典はここまでで「その後、消息不明。」で切れている。

後に明らかになるが伊藤は早くに建国間もない中華人民共和国に密航、中国共産党に幽閉されていたらしい。それなのに1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

これが真っ赤な嘘。記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」 と弁明。「戦後生まれ変わった朝日新聞の輝かしいねつ造の扉を開いた金字塔」
とは「頂門の一針」798号(07・05・11日)で私が朝日新聞を得意技は捏造?と揶揄した文章である。

続きを読む≫≫

2007年09月03日

◆総理学の勉強時間って

                          渡部亮次郎

2007年8月31日付の産経新聞「単刀直言」と題するインタビューの冒頭で中曽根康弘元総理大臣は、(安倍総理は)「最初の内閣である第1期は総理学を勉強する時代だったと思う」と言っている。

「これからの第2期で一番大事な事は、摩擦を恐れずに自分の政策、信念を断行していく"陣頭指揮力"が大事だ」との助言を与えている。若い安倍さんに孫の悪戯を笑うような愛情がこもっている。

自分を国会から追放した小泉純一郎の子分と見ることなく、自身の初入閣が安倍さんの祖父岸信介内閣の科学技術庁長官であったこと、そこで日本を原子力発電の火をともした事などが後の政権獲得に繋がったことを思い出しているのだろう。

しかし、2006年9月26日の政権発足以来、1年も経たないうちに閣僚が何人も交代し、農林水産大臣は自殺した。その結果だろう、参議院は野党に多数を制せられるという大変なことになった。これが安倍さんの勉強だったとすれば大変な勉強だったものだ。

要するに総理になってからやるべきことの事前の勉強は何もしてなかったのですな、と中曽根さんに喝破されてしまったのである。
中曽根さんは総理になるための努力(風見鶏になる)も大変だったが、なってからやるべきことの勉強は更に大変なもので、大学ノートを何十冊にもなったそうだ。

社長学は社長の側近でいればある程度、盗み見できるかもしれないが、総理の傍に次期総理がついている事はできない相談だ。精々小泉総理の下で官房長官をしたことで小泉流の何かを垣間見ただけだった。

岸信介の孫だから、安倍晋太郎が果たせなかったからといって安倍さんが総理になる必然性は無い。近代日本を作る中心になったのは確かに長州だが、21世紀の今、長州に日本の総理大臣のDNAがあるわけでもない。

前任の小泉総理にしてみれば自分の周囲にほかに適任者が無かったから、後継者に安倍を思い定めたに過ぎない。幸いライバル勢力になるべきだった旧田中派はぶっ壊され、旧池田派は粉々に分裂。安倍さんはすんなり、総裁・総理になれはしたのだった。

「美しい日本」だの「戦後レジュウムの破壊」は側近の誰かに考えさせれば良い。自分が言い出したのは祖父の遺言「自主憲法制定」だけ。

続きを読む≫≫

2007年09月02日

◆明晰過ぎた宮澤喜一


                         渡部亮次郎

2007年6月28日、老衰のため東京の自宅で87歳で永眠した元総理大臣宮澤喜一氏。東大法学部出身以外の記者は、記者と認めてくれないという噂だった。幸い、担当を命じられる事はなかったが、私が浪人になってから1度だけ会った事がある。

八郎潟を干拓して出来た秋田県大潟村の宮田村長がインタビューをしたいというので、親しい人を介して約束を取り付け、番町のマンションの一室にあった事務所に案内した。

宮田村長との話を聞いていただけだが、秋田県の田舎者とか村長如きが、といった態度は毛ぶりも見せず、丁寧に答えていたので、人というのは実際に会って見なければ真実はわからないな、という感を深くした。

たまたま「文藝春秋」の2007年9月号をめくっていたら長女のラフルアー・宮澤啓子さんが「風変わりな父・宮澤喜一」と題して内輪話を寄せておられたので、懐かしく読んだ。啓子さんの夫君はマレーシア駐在のアメリカ大使だそうである。

<一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かどうかの真偽は不明)。

『芸備人権新報』(1999年9月10日号)によると 「…(小森)ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

(記者)宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

(小森)宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の 代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと 残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだっ たでしょうね。

彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、 消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

(小森)自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、 リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」>フリー百科「ウィキペディア」

<父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)

末弟の泰さんは外交官だった。私が大臣秘書官として外務省にお世話になった1978年ごろは欧亜局長。園田直大臣の初外遊に同行してもらった。

それは日ソ定期外相協議。ベレンコソ連空軍中尉の函館空港強行着陸事件で極端に冷え込んだ日ソ関係を回復するきっかけとすべきチャンスだった。

しかしグロムイコ外相は北方4島返還交渉に応じようとせず、共同声明も出せないという始末で、予想通りの失敗であった。

迎賓館を退去する時、大臣は記念に備え付けの便箋を貰っていくようにと命じたが、それを聞いた宮澤局長「大臣、ラジオは如何ですか」とからかった。流石に瞬間、しらけ鳥が飛んだ。

続きを読む≫≫

2007年09月01日

◆湖畔の宿の大東亜会議

                         渡部亮次郎

小学校入学の5か月前に「大東亜戦争」(のちにアメリカの命令により
「太平洋戦争」と呼ばされるようになった)が始まったが、実際は、生
後1年目の1937年に日本軍はすでに中国で蒋介石の軍と戦っていた。子供
だから知らなかったのは当然だが。

日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それま
で日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が日本政府の意
向を無視した軍事行動で満州全土を占領。既成事実を突きつけられた政
府(若槻礼次郎内閣)は事後承認の形をとった。

それが翌昭和7年の満州国建国につながる。同じ年(1月)には上海の日
本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領する
が、停戦協定によりすぐに撤退している。

昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中
国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の
時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介
石側が徹底抗戦策を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えな
い戦争になし崩しに突入する。

日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条
溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っ
ていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7
/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期
間となる。

このところ、インターネットで、歌謡曲の昔を探し歩いているが、知って
いると思い込んでいたことでも、知らないことが多すぎる。

日本が戦争に初めて敗ける昭和20 (1945) 年を挟んで少年時代を送った
者だから、当時の歴史を系統だって自分の中で整理しないままだからで
ある。

東京・渋谷の古賀政男邸跡地に建った古賀政男音楽記念博物館で何年か前、
2年間に亘って昭和の流行歌を振り返る会が毎週開かれて出席を続けた
ことがある。

その頃、物資も窮屈になった昭和15、6年ごろ、すこぶる付きの美人女優
で歌手の「高峰三枝子さんのお宅に新人歌手の伊藤久男さんから、大量
の洋服地が送られてきて、高峰さんを驚かせた」、という話題があった。

それは高峰さんの「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一)が大
ヒットしかけたため、B面の伊藤久男さんの「高原の旅愁」の印税ががっ
ぽり入りかけたことのお礼だった、という話だった。

いまのCDやMDと違って、昔のレコードにはAとBの両面があり、ヒット確
実がA面、それほどでもないのがB面にプレスされた。とはいってもB面が
なければA面は発売されないわけだが。

「湖畔の宿」

作詞:佐藤惣之助
作曲:服部良一
唄:高峰三枝子

1 山の淋しい 湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり

2 水にたそがれ せまる頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる

(台詞)

 「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
 静かに静かに黄昏れて行く……。
 この静けさ、この寂しさを抱きしめて
 私は一人旅を行く。

 誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
 幼な児のような清らかな心を持ちたい。
 そして、そして、
 静かにこの美しい自然を眺めていると、
 ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せ ふるさとへ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(MIDI制作:二木紘三)

「湖」は群馬県の榛名湖と、佐々木惣之助は書き残している。

日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭
和15年(1940)に発表され、大ヒットした。ところが感傷的で淋しい詩
とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にした。

続きを読む≫≫

2007年08月31日

◆「余命3ヶ月」の意味

              渡部亮次郎・メルマガ「頂門の一針」主宰

「安倍総理は内閣改造で再浮上を図ろうとして、一応、成功したように見えるが、すっかり水に浸かったドロ舟、もって3ヶ月」、という見方がどこからとも無く流れている。

記者の先輩に教えを乞うたら、これを流したのは、今回も入閣者0だった谷垣派で、反安倍の派閥横断勉強会を立ち上げた園田博之氏も谷垣派所属で、この動きの先頭に立ったらしい。

博之氏は、筆者が若い頃、大臣秘書官として仕えた故園田直の息子さんだ。2人目の妻の長男。3人目の妻天光光(てんこうこう)の長男は政界に無関係。

それはひとまず置いて、谷垣派は加藤紘一の抜けた後の派閥。昔は「宏池会(こうちかい)」といい池田勇人が作って総理大臣になった。名門派閥といわれた。

2代目の前尾繁三郎を飛ばして大平正芳、鈴木善幸と総理を出したが最後に宮沢喜一を総理にして力尽きたか、派閥は4分裂。そこに宏池会の悲劇がある。加藤紘一が森総理降ろしに動いた時が悲劇の始まりだった。

元々は田中派(現津島派)と組んで、吉田茂の流れを汲む「保守本流」を自負したものだが、今やいけません。「どうせ今回も安倍は我々を入閣させないよ」と悪たれ、組閣当日はゴルフコンペをやるんだと強がる向きもあったと、週刊誌のタネになっている。

その彼らの流したのが「余命3ヶ月」だが、どうも別に根拠は無いらしい。「長くはない」の先に滑った舌が3ヶ月とつけたようだ。
いわゆる身体検査もした上での組閣。舛添社会労働相など、頭脳の通りの政治力なら結構面白い事をやりそうだし、何ぼなんでも越年は間違いないようだ。

つまり臨時国会の後の通常国会で来年度予算が年度内に成立するかどうか。民主党との死闘が展開する。その間、閣僚のスキャンダルでも暴露されれば論外だが、どうもその危険性は野党も抱えている。

体力を使い尽くした4月に危機が来るとプロは予測する。予算関連法案は参院で民主党に悉く否決されるから、3分の2を擁する衆院で再可決して成立させる必要があるから関係部署にいる議員はくたくただ。

続きを読む≫≫