2007年07月27日

◆田中角栄逮捕の日


                        渡部亮次郎

今日7月27日は元総理大臣田中角栄が逮捕された日である。1976(昭和51)年、今から31年前。私は彼に飛ばされて、まだ大阪NHKにいた。

田中は政権を三木武夫に渡していたが、在任中、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みにからむ収賄事件である「ロッキード事件」で東京地検に逮捕されたのである。直ちに自民党を離党した。

総理大臣という最高位にあった者を官憲に逮捕させるとは、三木総理の恣意的な意図によるとの見解から、党内反主流を結集させ、結果的に三木は引きずり降ろされる。

その陰に田中がいた事は当然。三木の次は嘗てのライバル福田赳夫とするという大平正芳の「密約」を容認する。その福田内閣に大阪から帰っていた私が外務大臣園田直の秘書官として加わったことは皮肉だった。

賄賂として5億円。事件は関係者が多岐に亘り、複雑に見えたが、実際は簡単。ロッキード社が右翼児玉誉士夫の指導で政界のみならず各方面に隈なく賄賂を渡して工作していた、というだけ。

1983年10月 - ロッキード事件の一審判決。 東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。

1985年2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。 言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。

1987年7月ロッキード事件の二審判決。 東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。

1992年8月 - 中国訪問。 中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、長女眞紀子らが同行。

1993年7月 第40回総選挙。 眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。

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2007年07月26日

◆取材力の低下が示すもの


                        渡部亮次郎

職業紹介事情に詳しい先輩の話によると、最近の若者が最も厭がる仕事は、相手を説得する仕事だそうである。新聞の勧誘、NHK聴取料の集金などは特に嫌われるという。それでいて大学生のジャーナリスト志望は何時でもトップクラスというのだから矛盾している。

敗戦で国家のアイデンテティーを失った悲しみが60年を経て現実のものとなったのである。日教組教育の結果、自己の利益追求には急だが、相手の関心事や本心や悲しみを知ろうとする人間が出来なくなったのである。

最も酷いのが「モンスターペアレント」。先生を脅す両親。恐れた先生たちは脅された時の用意のために急いで保険を掛け始めているという。だがモンスターを育てたのが誰あろう、先生たちなのであって、天にした唾が今落ちてきたのである。

その先生の育てたもう一つの作品が主体的な取材が出来ず、自己主張の出来ない論説を書く記者たちである。モンスター記者といわれて怒ることも出来ない記者を育てたのは日教組以外に誰かいるか。

最近(2007年7月)、昔、大新聞で政治記者をしながら若くして途中退社した人と懇談する機会があった。彼が嘆くのである。「取材が苦手なものだから、スクラップ・ブック(切り抜き)を丹念に作り、それを適当に組み合わせて、それらしき記事に仕立てる記者ばかりだ」。

記者というのは沢山の人と面会するのが仕事のはずだが、最近の記者は記者を志望したくせに人に会って話を聞く事が苦手と来ては、切抜きを組み合わせて自分の意見のように見せかけるしかないわけだ。

よく論説委員が他紙の論説を丸ごと盗む事件が一再ならずあるのはこのせいだ。なるほど、昔は無かったインターネット。便利な器械で「検索」すればどの社の記事も論説も瞬時にして目前に現れる。国内の全部の新聞の社説やら論説を読もうと思えば、数時間で可能だ。

その中から気に入ったところだけを寄せ集めて「プリント」すれば、似非(えせ)論説はたちどころに完成する。中央紙同士ならすぐ露見するが、地方紙から拾う限り、露見はなかなかしないから、盗作はしばらく続く事になる。

私をNHK記者に仕立ててくれたのは秋田魁新報で社会部記者をしていた実兄だが「記者というのは、人からモノを教わる商売だ。一日に初対面の人を最低限3人作れ。出来ないだろうがな」といわれた。難行苦行だった。

また、後に会った自民党の実力者河野一郎氏は「政治記者は人生の大学院だ。名刺1枚でどんな偉い人にも会える。その人の誰にも無い貴重な体験を只で教えて貰う、人生の大学院だ」といった。

尤も、後にNHKで会長に上り詰める政治記者島 桂次は教えてくれた。「政治家は嘘を吐く。不特定多数の者を相手にする記者会見では誰がどこで何をバラすか知れないのだから真相は絶対語らない。従って単独会見以外の記事は嘘に決っている」と。彼は総理池田勇人の蚊帳の中まで行って本心を聞いてきた。

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2007年07月24日

◆負けるが勝ち



         渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」・主宰)

伊藤正の畢生の力作「トウ小平秘録」の第3部「文化大革命」が2007年7月22日、遂に終わった。第4部はどのようなタイトルで何時始まるのだろうか。

伊藤正は言うまでも無く産経新聞中国総局長として北京に滞在中。中国の専門家であり、はじめは共同通信社の駐在記者だったが、2000年産経に転じて12月に総局長となった。経歴からしても中国ウォッチャーの第一人者である。

産経にはやはり共同通信社から迎えた黒田勝弘ソウル支局長と毎日新聞社から迎えたワシントン駐在の古森義久記者がそれぞれ居て、他紙では読めない、そこの深い分析記事で、それこそ紙価を高からしめている。

その中で北京の伊藤は早くから「トウ小平秘録」の準備に取り掛かっていたらしく、少なくとも公刊された書物のすべてを読み込んでいるようだ。

流石に面と向かってのインタビューに応じた人がいたか、いなかったか。相手の安全を考えれば、今の中国特派員としては、それすら明らかにはできない。当局の逆鱗に触れたら直ちに国外退去となり、2度と再び中国の地は踏めないのが現状だからである。

事情を知らぬ人は「日本の中国報道は生ぬるい」と批判するが、あそこは民主主義国家ではない。言論の自由はもちろん無く、三権も分立していない共産党楽園国家。取材の自由なんか絶対無い。

そうした中で伊藤は「トウ小平秘録」の連載を2007年2月14日から、
開始。私は朝になるのが待ち遠しかった。誰も書かない、否書きえなかった中国最大の実力者の実像を知りたかったからである。

トウは生涯に失脚3度、復活3度を経験した、世界の政治家としても稀有な存在だった。しかし、失脚されても帝王毛沢東に徹底的に怒られてはいなかった。周恩来は「不倒翁」だったが、毛への不満は抱えたまま死んだ。

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2007年07月23日

◆野坂参三の不思議



                        渡部亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。

とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったのである。

除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弐と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。

帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。

この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。

また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。

2007年07月21日

◆小雪舞うクレムリン


                         渡部亮次郎

「ロシアのプーチン大統領がイーゴリ・イワノフ安全保障会議書記(61)を解任したのは、気になるニュース」という先輩・古澤 襄さんの論を読みながら、嘗て訪問したモスクワのクレムリンに頭が行った。

アメリカとの戦争に敗けた後、しばらく同じ夢を見て汗をかいた。秋田の実家のゴボウ畑の陰からロシア兵が鉄砲を向けて走って来る夢だった。兵隊は時々、ナチに変わった。

これは本人なりに分析すれば、敗戦の結果、北海道と東北はロシア(当時はソ連)に分割占領されるらしい、恐ろしい事になる、と大人たちが囁きあっているのを耳に挟んだ事による。

私の祖父は日露戦争でラッパ手だった。戦争の辛かった事は遂に一言も語らずに死んだもののロシアの怖さをなんとなく語っていた。或いはスパイ小説でロシア人の剛直さを知った。

長じて記者になっても外国特派員になる心配はなかったが、ひょんなことから41歳の時、外務大臣の秘書官に発令されて、最初に訪問したところがソ連の首都モスクワのクレムリンだったので、内心、動転したものである。

それは1978(昭和53)年1月11日[(水)午前10時(現地時間)のことだった。モスクワ郊外レーニンが丘の第1号迎賓館から何台かの車で出発したのだが、途中、車道の雪かきをしているのが、皆、女性なので驚いた。

物凄く広い通りがあった。日本大使館員の解説では、ブレジネフ議長が通る専用道路。大変なスピード気違いとのこと。それにしてもエレベーターなら聞いた事があるが、独裁者は道路まで専用とは。

クレムリンの門をくぐった。スパイ小説の読みすぎ。「おれは果たしてこの後、無事に帰れるだろうか」。小雪が舞っている。その向こうに男女の長い列。靴はボロボロ、オーバーは擦り切れている。

ははぁ、これはトルストイ描くところの「農奴」だ。とんでもない事を仰らないで下さい、これが模範的なモスクワ市民です。一世一代、クレムリンを見学に来たのです。日本人は皇居に行くときはおしゃれをして行くがなぁ。

要するに貧しいのだね。何のための共産主義なのか。これが欲しくて日本でも共産党や社会党をやっているのか。この一事を見ただけでやめると言い出すのではないか。

彼らは男女とも何故か目の縁が赤く爛れている。この理由は聞けないまま首相(コスイギン)の執務室のある宮殿へ。どうしたわけか裏口から急ごしらえの木造の階段を登って2階へ。

クレムリン(露:Кремль、Kreml正しくはクレムリ)とは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。

ソ連時代には、ソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。

ロシア語では「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。

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2007年07月20日

◆光化学スモッグ移入


                       渡部亮次郎

日本では戦後も西暦を使わなかったが、私の感覚からすると、1970年を境に使い出したような気がする。昭和35年の安保騒動を回顧して「60年安保闘争」といったり「来年は70年だ」と言ったりした。佐藤栄作内閣の頃だ。

昭和44年。自民党の幹事長は田中角栄、国会対策委員長は園田直(すなお)。マスコミは「直角強行ライン」と名づけた。「来年は70年安保闘争が展開されるっていうじゃないか」というわけで2人は衆参両院で法案の採決強行を連発した。

翌1970年に予想される学生らの日米安保反対闘争に対し、政府、自民党は「身軽になっておこう」との思惑から、折から起こっていた大学紛争に対しては大学運営臨時措置法を採決強行を衆参両院で断行するなど、彼らは「体制」「反体制」などと使った事もない言葉を交わしながら突き進んでいた。

かくてこの年の暮に行われた衆院選挙では自民党が無所属当選者を含めると300の大台に乗せるという大躍進。対して抵抗した社会党は90に激減「大敗」となった。「反体制」は70年安保の出鼻をくじかれたのだった。

国際収支黒字化の定着が示すように、当に経済の右肩あがりが定着、老人医療費の無料化が実現していて、来年は大阪で万国博、これをEXPO70と呼んで、「70年代と到来」が掛け声となっていた。

しかし牛乳に残留農薬が問題化したり、国際反戦デー、新左翼統一行動、荒れる高校卒業式が話題になるなど、新時代の到来は、経済高度成長の歪みと同居していた。フーテンの寅の「男はつらいよ」の封切りもこの年であった。

かくて実際の1970年がきて大阪万博は華やかに開幕したが、よど号乗っ取り事件に続いてガソリンの鉛公害、田子ノ浦のヘドロと並んで光化学スモッグなる新語を告げられて国民は初めて公害なるものを認識させられていった。

光化学スモッグは、日照時間が2・5時間以上で、最高気温が25°Cをこえる夏日の、風が弱い日に発生しやすい。光化学スモッグが発生すると、多くの場合、子供たちに健康被害が発生する。

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2007年07月19日

◆歌手小畑実と宮本顕治


                       渡部亮次郎

宮本顕治氏が死んだが、政治記者時代も含めて、1度も面会したことの無い政治家だった。

<日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。7月18日15時46分配信 毎日新聞>

1958(昭和33)年には慶応出の野坂参三が日本共産党の議長となり、東大出の宮本顕治が書記長となったが、2人とも山口県出身と知り、山口県というところは総理(保守系)を何人も輩出するところだが、共産党首魁も出すのかと、妙に感心したことを覚えている。NHK通信員として秋田県大館市に駐在している頃だ。

それに先立って在学した大学では昭和30年ごろ「ロクゼンキョウ」という言葉が盛んに学内に飛び、左翼の学生たちが「女子学生たちが口紅をつけやがった」と騒ぎながら「ミヤケン」を連発していた。

このあたりを宮本の履歴で辿ると
<1950(昭和25)年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。

数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅につながる。1955[(昭和30)年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命>とあり、彼女らの口紅には共産党の消長がかかっていた事を知る。

歌手の小畑実(1923-1979)の経歴を読んでいると「小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である」と出てきて小畑と宮本顕治との意外なつながりにびっくりする。

<小畑は朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である>。(誰か昭和を思わざる)筆者名不明。

<小畑実(おばたみのる、1923年4月30日-1979年4月24日)は朝鮮平壌出身の歌手である。本名康永普iカン・ヨン・チョル)
 1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎に憧れて日本に渡り、東京で日本音楽学校に入学。

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◆明の十三陵にて

                       渡部亮次郎

明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)は、中国の北京昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。

このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。ここを日本人として初めて見学したのは田中角栄総理である。中国との国交再開に出かけた昭和47(1972)年9月末のことである。同行記者だった私も後を追っかけて見学した。

流石のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも殆ど、情報がない。

文化大革命(1966年―1977)中に発見された。北京郊外の小高い山を散策していた男性が道で石にけ躓いた。何の石か見たら、何か字が彫られている。

「俺は明日、殺される。このたび皇帝が逝去され、明日、ここに葬られる。同時に陵墓造営に一生携わった我々は皆殺しされる。陵墓の構造を知っていて、盗掘の方法を知っているからである」

「だが、悔しい。なんで墓作りに一生を奉げた末に、殺されなければいけないのか。悔しい。だからここに陵墓への入り方を刻んでおく」と刻んであり、正確に入り方と距離を指示してあったそうだ。

共産党政府は指示に基づいて発掘した。地下4階ぐらいの深さに墓があった。入り口の扉は半開きになっていたが、盗掘はされてなかった。副葬品は地上の会館に展示されていたが、私の目をひいたのは2点。

それは玉の飾り物と金むくの金盥だった。これは厚さ2センチはあった。皇帝はこれに湯を注いで顔を洗い、庶民は一生、皇帝の陵墓建造に携わった末、皇帝薨去と共に殺される。こんな国があってよいものか。毛沢東の共産革命の動機が分ったような気がした。

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2007年07月18日

◆胃癌死は医者のせい


渡部亮次郎

こういう時代になったんですね。少々古い話で恐縮だが、時代が変わって来た。医者が訴えられて当然、しかも敗訴もあるという「先生」にとっては恐怖の時代に突入した。

<胃癌発見遅れ患者死亡、4130万賠償命令…名古屋地裁

胃癌で2002年に死亡した名古屋市内の男性(当時51歳)の娘2人が、医師の診断ミスでがんの発見が遅れたとして、「サクラクリニック」(名古屋市天白区)の医師(45)に対し、計約8990万円の賠償を求めた訴訟の判決が2007年7月4日、名古屋地裁であった。

永野圧彦裁判長は、「胃がんの疑いがあったのに、精密検査を受けさせなかった過失がある」と述べ、計約4130万円の賠償を命じた。

判決によると、男性は01年1月、胃の不快感を訴え、同クリニックで診察を受けた。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導せず、胃潰瘍と診断。同年9月、別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した>。 2007年7月4日14時48分配信 読売新聞

こういう時代が来たのである。似たようなことがどしどし出てくる。医者は大変なことになった。

医者は「先生」と尊敬され、そのご託宣は神聖にして犯すべからざるものであった。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導しなかった。胃潰瘍と診断して放置。

しかし患者はまごうかたなき癌だったため悪化。別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した。遺族としては1年3ヶ月前のあの時、あの先生が「癌」を発見してくれていたらお父さんは早期発見、早期治療で、死ななくても良かったと考えるのは当然である。

しかし、医者とすれば判断がつかなかった。精密検査を受けさせても胃癌でなかったら必要以上のことをさせた、と怒られるかもしれないでは無いか、と考えたとしても可笑しくは無い。

我が義母は平成8年8月26日、胃癌のため80歳の生涯を閉じたが、その1年前の胃穿孔は癌によるものであったことをあとで知った。だからあの時、救急治療医が、癌摘出をしたうえで縫合してくれていたらもっと長生きできただろうと考える。だが訴えなかった。

わが兄は6月に99・9%大腸癌だといわれて秋田市の大きな病院で開腹手術を受けたが、生体検査の結果、癌ではなかったと判明。冒頭の裁判とは逆の例となった。

その兄は二十数年前、肝内結石で開腹。ビー玉大の結石を摘出。それでも入院1ヶ月。よし明日の退院を前に念のため検査。アレ石がもう1つ残っている、で再開腹。腹には×印の傷跡が残った。それでも訴えなかった。

結局、医者を対等なものと考えられない旧世代だからであろう。あるいは勝てる見込みが確実ではないものに莫大な裁判費用をかけても、という考えもある。

しかし、名古屋の例を見れば、確かに時代と考えは変わってきている。先生は神聖でも不可侵でもなくなっている。訴訟社会といわれるアメリカでの医療訴訟の話はよく聞いていたが、日本でも、このように患者側勝訴の判決が出るとあっては、医療訴訟は増えるだろう。

先生はそれ用の「保険」を高くしなければならない時代の到来である。昔のように患者を見下し、威張っていられた時代はとうの昔に去っていた。2007・07・17

2007年07月17日

◆健康にいいもの


渡部亮次郎

作家の渡辺淳一さんが最近の週刊誌に健康法は「睡眠力」と書いておら
れる。何処でもいつでも居眠りできるように訓練し、実施してきたこと
が73歳にして「お元気そうですね」と声をかけられる秘訣だというので
ある。

「寝つきの悪い人はベッドに入ってから2時間は眠れない。そういう人と
私では有効な時間が1日3時間違う。1年で1080時間、30年で32,400時間。
それだけ得をしていることになる」。

渡辺さんは、すぐ眠れてすぐ起きられる能力を医師になりたての学位論
文作成のための動物実験中に訓練して覚えたそうだ。私も記者時代は似
たような訓練をして何時でも何処でも眠れるようにしたが、時間に追わ
れなくなった最近は却って眠れなくなってしまった。

酒を呑んでは体に障る持病があるから導眠剤を処方してもらっているが、
どうも寝覚めが良くない。頭痛がかすかにするのである。1時間もすれば
すっきりするが、やはり飲みたくない。ついつい焼酎に手が出て顰蹙を
周りから買う結果になっている。

私は1936年、2・26事件の起きる直前に生まれた。第2子として生まれた兄
の後、続いて男児が生まれたそうだが、役場に届けてのち間もなく死亡。
その後私が生まれたから父親は私を3男でありながら次郎と付けて「3男
亮次郎」の出現となった。

どうしてそうなったかは知らないが生まれつき腎臓が弱かったらしい。
4〜5歳の頃、ひまし油を飲まされ、自室の枕許で町医者が「学校に上が
るまで保(も)つかどうか」と両親に言っているのを記憶している。味
噌汁を厳禁されていた。

とにかく虚弱児童。大東亜戦争中は国民学校(小学校)の集団写真でも弱
々しく写っている。それが急に丈夫になったのは、禁を破って味噌汁を
飲んだ頃からである。折から進駐軍推奨の野球に興ずるようにもなり、
急速に丈夫になって行った。

小学生の頃は縦に並ぶと前から3番目ぐらいだったが中学になると野球部
で投手、4番、主将。おまけに生徒会長だったから、最早、虚弱返上だっ
た。

親は特に丈夫でも虚弱でもなかった。同居していた父方の祖父母のうち
祖母は女の双子を産んだ時に脳溢血を患い、死去。そのことがあって母
は未成年で嫁に来たらしい。それでも98まで生きた。父も祖父も80歳で
死んだ。

日露戦争にラッパ手として従軍した祖父が80とは長生きだったといえる
が、全く酒を呑まなかった父の80は長生きとは言えない。風邪を引いて3
日目に長女に抱かれ砂糖水を吸い差しで飲ませてもらいながら息を引き
取った。

この吸差しは祖父が死ぬ時、日本酒を飲んで死んだ器だった。祖父は私
が大学在学中の夏、脳溢血に倒れ、1週間鼾をかいて眠り続けた。その朝、
嫁たる母が吸差しに日本酒を入れて口に差し込んだところ俄然口に咥え
て飲んだ。直後、死んだ。

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2007年07月13日

◆段ボールを喰わすか



         渡部亮次郎

中国人の発想は奇想天外だ。又、何でも食べる。4本足は机以外、2本足は梯子(ハシゴ)以外、飛んでいる物は飛行機以外は何でも食べる、と自称している。しかし21世紀に入ったら遂に段ボールを騙して食わそうとする奴が出てきた。

<ニセ肉まん:段ボールを煮込んで詰め露店で違法販売 北京

11日までの中国中央テレビなどの報道によると、使用済み段ボール紙を煮込んで詰めた偽の肉まんが北京市で違法に販売されていたことが分かった。

報道によると、段ボール紙入りの肉まんを販売していたのは、同市朝陽区の複数の露店。段ボール紙を劇物のカセイソーダ(水酸化ナトリウム)の溶液に浸して黒っぽく変色させ、さらに煮込んで軟らかくしたうえで豚肉と混ぜ合わせ、肉まんの中身にしていた。

市当局者が関係者を取り調べている。販売数、健康被害の有無は不明。

露店関係者は同テレビに「段ボール紙と豚肉の比率は約6対4。住民、出勤途中の勤め人らが買っていた」と説明した。

北京市内には多くの露店が建ち並び、肉まんやギョーザ、肉のくし焼きなどを販売。安価で、市民に親しまれている。(北京・共同)>毎日新聞 2007年7月11日 23時15分

これは違う話だ。何でも工夫してハラを満たすというのではない。客を騙してニセ物を売りつけ、カネを取ったら後は野となれ山となれ、すたこらサッサという話、詐欺のみならず傷害にあたる。

私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)という人は剣道7段、合気道8段、空手3段という武道の猛者。軍隊に11もいて、最後は特攻隊の生き残り。豪胆の人のように思うが、香港で提供された飲茶(やむちゃ)の中に蛇料理が入っていたといったら、ナベしゃん、そげな話は消化してから言ってくれ、と言われた。

段ボール肉まんは消化するだろうか。山羊は紙を消化するらしいから人間は段ボールを消化するだろうか。冗談言ってる場合じゃないだろう。

蛇がいなくなったから、蠍(さそり)がいなくなったからではない、
豚肉を節約してボロ儲けをしようとしただけ。それで客がハラを壊そうが、どうかなろうが知ったこっちゃ無いのだ。怖い連中だ。

しかし、人民大会堂の貴賓席に痰壷を置いて会談中も痰を吐く連中である。口中に溜まった黄砂は直ちに口外に出さなければ気が済まない。工場もまた操業の結果出たゴミ、汚水は直ちに河に棄てる。

汚染された水で沿岸や川下の人々が病気になろうが死のうが知ったこっちゃ無い。段ボール肉まんを彼らは笑わないだろう。長江(揚子江)も黄河も毒だらけ。東シナ海もすっかり汚染されて、毒物が既に日本海沿岸に漂着している。

人間が唾を吐くように工場が、はては中国という国家そのものが唾を吐くように地球を汚染している。トウ小平の改革開放経済は公害の拡散経済だったわけだ。中国共産党は計画経済を棄てた結果、世界を敵に回そうとしている。気付かないフリをして。

2007年07月10日

◆犀星は啄木から盗作

                       渡部亮次郎

産経新聞の文化欄を開いて愕然とした。「犀星は啄木におんぶした」故郷は遠きにありて思ふもの、は盗作だというのである。(2007・07・09石井英夫「蛙の遠めがね」)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、<室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生照道(てるみち)、男性、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた>となっている(07・7・9現在)が、これも違うという。

石井さんによると、これらを明らかにしたのは金沢在住の犀星研究家の安宅夏夫さん。安宅さんは犀星と同じ金沢の出身で室生家とは家族ぐるみの交際。作品収集や全集出版にも尽力した。

しかし犀星の出自や作品誕生の経緯に封印する事は、日本の文学史を捏造・偽造する事だとの考えから平成19年6月刊行の『人物研究』第19号(近代人物研究会)に発表した。

安宅さんは犀生の本当の父は加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種ではなく、その子で小学校校長の生種、母は21歳の芸者「ちか」だったことを既に突き止めている。

室生犀星の事は詳しく知らなくても「ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 仮令異土のかたえ(こじき)になるとても 帰るところにあるまじや」の冒頭ぐらいは知っている人の多いほど、有名である。

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2007年07月09日

◆トウ(ケ)は賢明で狡猾


                      渡部亮次郎

トウ(ケ)小平は革命成就3年後の1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(ケ)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたのでケ国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(ケ)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(ケ)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(ケ)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(ケ)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

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