2007年05月30日

◆あぁ事件は潰れた


                      渡部亮次郎

私は事件記者も検察記者もしたことは無いが、松岡農水相に続いて緑資源機構の「陰のドン」も命を絶った。29日、機構の前身、旧森林開発公団の山崎進一・元理事(76)が自殺したことで「あぁ、これで事件は潰れた」という東京地検特捜部の嘆きが聞えてくる。

私の配信しているメルマガ「頂門の一針」817号(2007・05・28)に松岡利勝はなぜ死を選んだか、という月刊FACTAの直前記事が載った。最新号(6月号、5月20日発売)の記事である。

松岡利勝農水相が5月28日、首吊り自殺した。緑資源機構の談合捜査に絡んで、東京地検特捜部の標的となっていたというのが、大方の想像する自殺の理由だが、特捜部の捜査はどこまで松岡氏を追い詰めていたのか。

調査報道の月刊総合誌「FACTA」(6月号、5月20日発売)の記事(「現職閣僚めがけ東京地検が臨戦態勢」)は、直前の切迫した状況を克明に追っているので、ここに公開する。彼はなぜ死を選んだのか……。

<連休明け応援検事を招集して態勢を拡充。緑資源機構の官製談合事件はいよいよ風雲急だ。YAHOOニュース5月28日より転載。

独立行政法人緑資源機構の林道工事をめぐる官製談合事件と、松岡利勝農水相周辺の捜査は、着々と進んでいる。東京地検特捜部は応援検事を全国から集め全力を傾けている。

これまで捜査に横槍を入れてきた法務省側にも変化があり、政権中枢にいる現職閣僚周辺のウミを出す日が近づいているようだ。特捜部が時の権力に真っ向から立ち向かうのは、1998年の大蔵汚職以来となる。

「頑張ります。熊崎さんのときのように闘いたい」。東京地検特捜部長の八木宏幸氏は1月16日の就任直後、元特捜部長の熊崎勝彦弁護士らとの会合で決意表明した>。

緑資源機構の「陰のドン」。機構の前身、旧森林開発公団の山崎進一・元理事(76)がなぜ自殺したのか。連日、任意取調べに当った東京地検特捜部の検事はその理由を知っている唯一の人。だが公には絶対、口を開かない。

しかし、週刊誌記者崩れのいわゆるフリーライターか現役記者がアルバイトに書いた調査報道の月刊総合誌「FACTA」最新号(6月号、5月20日発売)の記事はおそらくすべてを証言している。

私が大臣秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)は松岡大臣と同じ熊本県人だった。私は北国・秋田県人。語られる熊本についてのすべてが珍しかったが、土建屋とやくざを一緒にして「よごれ」と言い捨てるのが珍しかった。「汚れ」である。

松岡氏が熊本県阿蘇町の農家に生まれながら旧熊本藩の藩校熊本県立済々黌高等学校を卒業したというのは大変な秀才と尊敬される。しかも鳥取大学農学部林学科を卒業したとはいえ、1969年に農林水産省に入省し、ノンキャリアながら、大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁山村豪雪地帯振興課課長補佐から林野庁広報官という経歴は尊敬を高めた筈である。

だが、ここに落とし穴があった。ノンキャリアにしては着実すぎる出世の裏である。現役当時から多分、裏金作りに長けていた筈である。それを有効に使ったからこそ他人に優る栄達があったのである。それだからこそ代議士になる夢も現実になり、農林水産大臣、ひいては総理総裁の夢も抱いてなかったとは言えない。熊本では斯くの如き人物も「汚れ」という。

<「またも自殺者が出るとは」。検察関係者は29日朝、キーマンの自殺を知り絶句した。

山崎元理事は公団発足(1956年)当時からの職員。業務部長などを経て88年10月〜90年10月、理事を務めた。担当は今回事件の舞台となった林道部門など。

発注権限を一手に握った山崎元理事は90年ごろ、天下りを多く受け入れた企業や公益法人に優先的に業務を回すため、出先機関から配分案を吸い上げ公団本部で決定する現行システムの原型を作り上げた。

「自分は山崎さんから直接引き継いだ。最近も割り振り済みの業務に介入してきて、受注先を差し替えたことがあった」。24日に独占禁止法違反容疑で逮捕された高木宗男前理事(59)=解任=は逮捕前、周辺にこう語り、関係者は山崎元理事を「陰のドン」と呼んだ。

山崎元理事には「政界とのパイプ役」というもう一つの顔があった。副会長を務めた機構の受注業者でつくる特森協は、表裏一体の政治団体「特森懇話会」=解散=を設立。

03〜05年、この懇話会から21人の国会議員に計822万円の献金があり、うち計120万円が松岡氏に渡った。

支援企業と特森協は、談合事件の裏で極秘裏に進めてきた政界捜査の焦点で、山崎元理事は真相を語ることができる重要人物だった。松岡氏の後を追うかのような自殺。「林野の闇」の実態解明が遠のこうとしている。>5月29日15時15分 毎日新聞


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2007年05月29日

◆総理の無知無駄死に

                            渡部亮次郎

大平正芳さんが総理在職中に急死(1980年6月12日)してから27年経つそうだ。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が今度著した「権力の病室 大平総理最期の14日間」(文藝春秋)を読み終えた。

結論を言えば大平さんが糖尿病の注射を受けていれば、ああいう早死にはしなかったし、記者たちに糖尿病のことが少しでも分っていれば、こういう本は出来なかったろう。

私は大平内閣の外務大臣秘書官として発令はされたが、大平さんと言葉を交わした事は1度も無い。昭和53年12月7日に第68代の総理大臣に就任できたのは田中角栄のお蔭だった。

派閥の鈴木善幸氏も宮沢喜一氏も何もしていない。宮沢氏は大平氏を馬鹿にしていたし、善幸氏は大平氏に馬鹿にされていたから。大平氏の好きなのは伊東正義、佐々木義武、大来佐武郎の各氏。興亜院仲間である。

昭和51(1986)年秋に、大平さんはライバルの福田赳夫と密約を交わした。立会人は鈴木善幸氏と園田直氏である。もう1人いた保利茂氏は署名を拒否した。「福田を2年間、総裁にし、大平は幹事長をする」というもの。

ところが2年経ったところで福田が密約の反古を目論む。「世界が福田を求めているので、この後も総裁選に立候補する」と言い放つ。大平氏、憤慨して立候補。

結果は親友田中角栄の底知れぬ梃入れで大勝利。第68代の総理大臣に就任できたのは田中角栄のお蔭だったという所以である。密約にしろ公約にしろ「2年間でいいから総理をやらせてください」と言って成らせてもらった男の約束、守るのが男というものだ。

それなのに福田氏は男の約束を踏みにじったばかりか、大平や田中氏を怨み、嫌味つらみのさんざんを大平にぶつけ、1度目は組閣を40日も邪魔した。

2度目は野党の出した不信任案に賛成して衆院を解散させ、衆参同時選挙をやらせた。結果、大平は極度の過労が引き金となって狭心症で倒れ、14日後、死去。解剖したら心筋梗塞とわかった。

実は太平さんは大の糖尿病患者であることを私は外務省で事前に知っていた。ある幹部の弟さんが大平を糖尿病と診断した医者であるが、大平はこの医者の指示を全く聞かない最低の患者であると嘆いていることから知った。

その時、わが外務大臣園田直は既に糖尿病の末期であり、ある医者から「何しろ『腎虚』ですからもはや助けようがありません」といわれショックを受けていたので、入院と聞いて「大平さんもやがて・・・」と思っていたのである。

のちに園田の死後、私もあろうことか糖尿病を発症、この病気に詳しくなったが、専門用語で「合併症」とされる糖尿病の余病の最たるものが心臓では心筋梗塞、頭では脳梗塞、目では網膜症、腎臓では腎不全、足では壊疽なのである。

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2007年05月27日

◆啄木と琢次郎

                       渡部亮次郎

尊敬する古澤襄(ふるさわ のぼる)さんのブログで、噴出してしまった。http://blog.kajika.net/

<古澤さんの著書『沢内農民の興亡』に古澤家菩提寺である玉泉寺の第十九世琢神道器(たくしんどうき)という和尚さんの名が二度出てきます。20頁・46頁です。

これは啄禅道器(たくぜんどうき)が正しいので,本をお持ちの方は,ぜひ訂正をお願いするとともに,深くお詫びいたします。>とある。よく見ると「琢」なのか「啄」なのか分らなくなってしまった。

この文章を寄せた人は校正を専門としている方。「誤植の饗宴」と題する、誤植と校正にかかわる話を面白くしてくれているのだが、ご自分のことを謝罪するのに、また誤植をしてしまったのである。

正しくは「琢禅道器」だそうです。多分、この後に「誤植に泣いた啄木」という文章が続いているので、神経がそちらに行っていたのだろう、とやさしい古澤さんは苦笑い。

この方が紹介している話に、朝日新聞の校正係りとして死んだ啄木を朝日は詩人として遇し、死亡記事を載せたのはよかったが、大変な誤植があった、というのがあった。

<その啄木も誤植には最後の最後まで泣かされた。太田愛人『石川啄木と朝日新聞―― 編集長佐藤北江をめぐる人々』という本のなかでもこのエピソードは紹介されている。

『東京朝日新聞』が掲載した1912年(明45)4月14日の死亡記事のなかに,啄木の小説『鳥影』の名が出てくる。チョウエイと読む。その『鳥影』が“島影”と誤植されたうえ,“しまかげ”と誤ったルビが振られた。

これは形の紛らわしい漢字の見落としなのか,あるいは記者が“島影”と思い込んで書いたのを校正係も見落としたのか。

ルビは活字を組むさいに現場の文選・植字工が振ったのかもしれないが,まず“島影”ともっともらしく誰かが誤ったところに,この誤植が残った第1因があった。つぎに校閲で事実を精確に調べなかったのが第2因である。

“みすぼらしき郷里の新聞”だけでなく,東京の一流紙もこんな誤植を犯す。あの世で記事を目にした啄木の“今朝の悲しみ”は深まっただろうか。それとも苦笑するだけだったろうか。

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2007年05月25日

◆患者自己注射物語


                         渡部亮次郎

日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから23年、私は毎朝と夕方の2回、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・23mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



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2007年05月24日

◆地球の裏側から来た津波


                      渡部亮次郎

地球の裏側から来た津波とは「チリ地震津波」のこと。今から47年前の今日(5月24日)だった。1960年のこと。三陸一帯で142人が死んだ。私はNHK仙台中央放送局報道課所属3級放送記者だった。

津波襲来は文字通り、寝耳に水であった。地震が来たら津波を疑えとは教えられていたが、地震は無かったはず。起こされて放送局へ駆けつけると当直だった先輩の高野悠(ひさし)記者が叫んでいた。

地球の裏側のチリという国で大地震があり、それによって起きた津波が1昼夜かけて三陸沿岸を襲ったのである、と。

私は録音機を携帯して単身、宮城県北部沿岸の女川(おながわ)港に派遣された。途中、塩釜駅を見上げたら、跨線橋の上に漁船が乗っていたので目が覚めた。

このチリ地震は 1960年5月22日午後7時19分(日本時間同年5月23日午前4時11分)、チリの太平洋沖を震源として発生した地震だが、日本を含め環太平洋全域に津波が襲来したもの。

地震発生から22時間後に最大で6メートルの津波が三陸(東北地方北東部)海岸沿岸を中心に襲来し、142人が亡くなったり行方不明になった。被害がとくに大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が亡くなった。

47年前のこととあって記憶も怪しいが、宮城県内のある町では、海に水が無くなったと叫ぶものがあって、バーの客たちとママが慌てて見に行ったら、そこへ来た津波に攫われてそれっきりという悲話もあった。

岩手日報(07.05.17)によれば、チリ地震襲来直後を写した写真が岩手県陸前高田市で発見された。2003年に77歳で亡くなった大和田秀雄さんが写したもの。

同時に残っていた「自分史」のよると・・・

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2007年05月23日

◆刎頚の友じゃない



        渡部亮次郎

刎頚(ふんけい)の友。刎頚の交わりとは「その友人のためなら、仮令、首を斬られても後悔しないほどの真実の交友。生死を共にする親しい交際」と説明するのは広辞苑(岩波書店)。

ロッキード事件のとき登場した国際興業の小佐野賢治が元首相田中角栄の刎頚の友と呼ばれたことから人口に膾炙した。とは言っても時の流れは早く、ロッキード事件を知らない人も多くなった。

<ロッキード事件とは、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件。

「総理の犯罪」の異名を持つこの事件は、国内航空大手の全日空の新型旅客機導入選定に絡み、自由民主党衆議院議員で前内閣総理大臣、「今太閤」、「コンピューター付ブルドーザー」と評された田中角栄。

彼が同年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで東京地検に逮捕されたという前代未聞の事件である。

田中の他にも佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。

ロッキード社のアーチボルド・コーチャン副会長とクラッター元東京駐在事務所代表が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた右翼の大物、児玉誉士夫に「コンサルタント料」として21億円あまりを流し、

さらに児玉から、児玉の友人で国際興業社主で「政商」と呼ばれる小佐野賢治や、ロッキードの日本における販売代理店である総合商社の丸紅などを通じ、当時の内閣総理大臣である田中に対し5億円が密かに渡されたことを証言した。>

田中と小佐野はともに極貧の身から地位と財産を築いた共通点を持つことから、「2人は刎頚の友」と政界では言われた。どうも田中が自民党総裁をライバル福田赳夫と争った「角福戦争」(1971−72年)の際、田中の選挙資金を小佐野が出したという噂が立ったあたりからだったように思う。

しかし、後年、直接田中に確かめたところ「小佐野は刎頚の友ではない」と断乎として否定し「刎頚の友とは、同じ6畳間で共に女を抱ける友のことだ。小佐野とはそんなことをしたことが無い。小佐野は俺に選挙資金なんか提供していない」と断言した。

<小佐野賢治は1917年(大正6年)、山梨県東山梨郡山村(現甲州市勝沼町山地区)の小作人であった小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。生家は貧しく幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活だったといわれる。>

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2007年05月22日

◆日本における強姦罪


 ◆<これは「頂門の一針」799号に掲載されたものですー編集部>
         
                    渡部亮次郎 

強姦罪 ごうかんざい 暴行または脅迫をもちいて13歳以上の女性を姦
淫(かんいん)する罪(刑法177条前段)。3年以上の有期懲役(2004年改正)
に処せられる。

姦淫とは性交を意味する。この場合の暴行・脅迫は、強盗罪におけるよ
うに相手の反抗を抑圧してしまう程度のものである必要はなく、反抗を
いちじるしく困難にする程度でたりる。

13歳未満の女性を姦淫した場合は、暴行・脅迫をもちいなくても同様に
処罰される(同条後段)。また、女性が心神喪失・抗拒不能の状態にある
のに乗じて、または暴行・脅迫以外の方法によって、上記の状態におと
しいれて姦淫した場合も同様に処罰される(準強姦罪。178条)。

いずれも親告罪であるが、複数の人間が現場で共同して犯行をおこなっ
た場合は親告罪ではない(180条2項)。未遂も罰せられる(179条)。結果と
して女性を死傷させた場合は無期または5年以上の懲役(2004年改正)に処
せられる(181条。非親告罪である)。女も男と共謀して実行行為に加担す
れば、強姦罪の共同正犯になりうる。

さらに2004年の改正では、集団強姦罪が加えられ(178条の2)、2人以上が
共同して強姦または準強姦の罪をおかしたときは4年以上の有期懲役に処
せられる。未遂も罰せられる。死傷させた場合は無期または6年以上の懲
役となる。

強制わいせつ罪 きょうせいわいせつざい 13歳以上の男女に対し、暴
行または脅迫をもちいてわいせつな行為をする罪(刑法176条前段)。心神
喪失や拒否不能にさせたり、その状態に乗じてわいせつな行為をした場
合も同様である(178条1項)。6カ月以上10年以下の懲役(2004年改正)に処
せられる。

13歳未満の男女に対してわいせつな行為をした場合は、暴行・脅迫をも
ちいなくても同様に処罰される(同条後段)。

性交自体は強姦罪の対象になり、本罪にいう「わいせつな行為」は、性
交を含まない。他方、相手は女性にかぎられない点に注意を要する。暴
行・脅迫は相手の反抗を抑圧してしまう程度である必要はなく、反抗を
いちじるしく困難にしてしまう程度でもなりたつ。

親告罪であるが、2人以上が現場で共同して反抗をおこなった場合は親告
罪ではない(180条2項)。未遂も罰せられる(179条)。結果として相手を死
傷させた場合は無期または3年以上の懲役に処せられる(181条。非親告罪)。

参考:Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft
Corporation. All rights reserved.

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2007年05月21日

◆売春防止法の成立


                           渡部亮次郎

日本の国会で売春防止法の成立したのが昭和31(1956)年5月21日である。私は大学3年生だった。内閣は第3次鳩山一郎内閣。この法律は2年後の58年4月1日から施行され、日本から営利売春は無くなったことになった。誰が信じる?

それよりも法律の成立後、法案審議に絡んで多数の国会議員が売春業者から多額の賄賂を受け取って法案の成立を妨害していた売春汚職事件が明るみに出て世間を沸かせた。

売春汚職事件は、政治家と赤線業者(公認売春業者)による贈収賄捜査の裏で、検察内部の派閥抗争が絡み、マスコミまでを巻き込んだ大事件へと発展した。

1957年(昭和32年) 10月1日 新宿カフェー喫茶協同組合理事長・安藤恒に対する業務上横領被疑事件の取調べ中に、全国性病予防自治連合会(赤線業者の業界団体)の業務上横領容疑が発覚。東京地検特捜部が同連合会事務局長・今津一雄を逮捕。

さらに捜査の過程で、同連合会から売春防止法の成立阻止のため、国会法務委員及び売春対策審議会委員に工作費がばら撒かれていた容疑が発覚する。

10月12日- 東京地検特捜部が同連合会理事長・鈴木明、副理事長・長谷川康ら幹部を贈賄容疑で逮捕。

10月16日 同連合会専務理事・山口富三郎を贈賄容疑で逮捕。

10月18日 読売新聞が「売春汚職、宇都宮徳馬、福田篤泰両自民党衆議院議員を収賄容疑で召喚必至。近く政界工作の業者を逮捕」と報道。

この情報は、伊藤栄樹(後の検事総長)が、検察内部から情報をリークしていた人物を特定するために流した偽情報であった。

10月22日 東京地検特捜部が鈴木、長谷川、山口を再逮捕。

10月18日から22日 宇都宮、福田両議員が読売新聞および検察関係者を名誉毀損で告訴。

10月24日 東京高検特捜部、立松和博読売新聞社会部記者を名誉毀損で逮捕。

当時、検察内部は民間出身の花井忠検事総長の下、次期検事総長を巡り岸本義広東京高検検事長(後に自民党衆議院議員)を中心とする公安検察派と、馬場義続法務事務次官(後に検事総長)を中心とする特捜検察派が対立していた。

岸本は情報のリーク元が特捜検察派=馬場派と考え、立松を逮捕し情報元を自白させることで、馬場派の一掃を狙っていた。

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2007年05月19日

◆スパイからの領収証


                        渡部亮次郎

<官房機密費の支出情報不開示は「不当」 市民団体が提訴

安倍首相らが内閣官房長官だった05〜06年の内閣官房報償費(官房機密費)の支出情報を公開しないのは不当だとして、大阪の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーが18日、国を相手に官房機密費の不開示処分取り消しを求める訴えを大阪地裁に起こした。

年間10億円以上にのぼる同機密費の使途公開を求める裁判は全国初という。

訴状によると、同オンブズマン共同代表の上脇博之・神戸学院大大学院教授(憲法学)が昨年10月、細田博之衆院議員と安倍首相が官房長官だった05年4月から昨年9月までの官房機密費の使途を示す文書を開示するよう求めた。

だが、内閣官房は「国政を円滑に遂行するための経費。使途公開は重大な支障を及ぼす」と不開示にした。

上脇教授は、政治家のパーティー代や飲食費で不適切に使われている可能性があると指摘。「多額の公金の使い道を国民に示さない姿勢は許されない」と訴えている。

外務省の報償費(外交機密費)では、東京地裁が昨年3月、支出文書を不開示にした外相の決定を取り消し、大部分の開示を命じている。> Asahi Com  2007年05月18日16時19分

昔、韓国の大統領が言った。「わが国も終わりだ。スパイに私かカネの領収証を出せ、と会計検査院が言うんだ。スパイが領収書を出すわけないだろう?

今回の上脇博之・神戸学院大大学院教授(憲法学)らの要求は、韓国のスパイ代のような話だ。したがって政府が内閣官房報償費(官房機密費)を公開するような事態には決してならないだろう。政府にたかる野党の実態が出てきたりしたらどうなるんだ。

私が秘書官として仕えた園田直氏は外務大臣の前が官房長官だった(福田赳夫内閣)。私は、以前から親しい仲だったから、記者時代も官房長官室に出入りしていた。

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2007年05月18日

◆国家元首への非礼?


                          渡部亮次郎

久々に笑ってしまった。2007/05/12の産経新聞に掲載された韓国大統領
広報首席秘書官の勘違いについてである。

支局長黒田勝弘氏は4月28日付のコラムで、韓国で盧武鉉大統領の記念館
建設の話が出ていることを紹介していた。在任中の記念館計画は「性急
で臆面(おくめん)がない」とし、大統領として歴史的人物である大物
の李承晩や朴正熙の記念館さえないのに「2人に比べると小物(?)」
である最近の金大中、盧武鉉大統領にだけ記念館とは不思議だ、と書い
たので溜飲を下げていたのだ。

そうしたら韓国の大統領官邸(尹勝容広報首席秘書官)から抗議の文書
がきた。確定していない記念館事業を根拠に、遺憾というのだそうだ。

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070512/kra070512002.htm

<しかし、建設計画の事実関係は、大統領官邸自身が4月17日付公式
ホームページで「今後、具体的に(故郷の大学と)協議していくことに
なった」が、現職大統領の影響力を不当に行使したものでないとし、否
定はしていない。

不満は「臆面ない」と書いたことと、盧武鉉大統領を李承晩、朴正熙に
比べ「小物(?)」と評価したところにあるようで、「韓国の国家元首
に対する侮辱的表現」「失礼な表現」だから今後は「韓国の国家元首に
丁重な表現」を期待するという。

「小物(?)」と疑問符を付けて配慮したつもりだったが、理解してい
ただけなかったようだ。大統領官邸の心情に配慮が足りなかったかもし
れない。今後、気をつけたいと思うが、それでも韓国で大統領記念館な
らまず李承晩、朴正熙だろう」>と黒田さん。

李承晩と朴正熙。この2人の事績がなければ今日の韓国は無い。特に朴大
統領による革命と日韓関係正常化、反共産主義体制強化が無ければ今日
の発展は無い。それに対して金大中と盧武鉉大統領は結局韓国に何をも
たらしたか。反共の褌外しに狂奔しただけだ。

それなのに「在任中の記念館計画は性急で臆面(おくめん)がない」と
思うところは、心ある日本人なら、みなそう思っている筈だ。

秘書官となれば親分の面子は守らなければならない。しかしうちの親分
は小物では無いから以後、気をつけて記事を書けなど、私ですらできな
かった。

まして臆面もないことをおめおめとするところを批判されて反発する事
はむしろ恥ずかしいことで、恐れ入るべきだ。

大統領が大統領だから秘書官も秘書官だ。おそらく大統領の命じた「抗
議」だったと思うと、なおさら笑える。2007・05・12

http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2007年05月17日

◆ウィキペディアの穴


                         渡部亮次郎

<元特攻隊員の有名人は2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる。>フリー百科「ウィキペディア」。

ここに外務大臣園田直が居ないのは「ウィキペディア」の穴であり、信頼度を甚だ傷つけるものだ。

園田は陸軍志願兵から日本陸軍最初の落下傘部隊のメンバーとなり、転じて陸軍航空隊の操縦士、更に転じて敗戦間際の1945年8月13日、「天雷特別攻撃隊」の隊長として出動を命じられていた。

全身に爆雷を巻き、千歳基地から太平洋上の米戦艦に体当たりすることになっていたが、悪天候のため、17日に延期。ところが15日に敗戦で一命を取り留めた。しかし本人は「一旦は覚悟した死がなくなって腰が抜けた」とよく語っていた。

8月25日、召集解除となった時、既に園田は31歳になっていた。仕方なし郷里熊本県天草の島に帰り、地元一町田町役場の助役にさせられたが、直後に行われた(1946年4月10日)の衆院選挙に立候補。次点の次で落選。その年の9月には町長に当選。

しかし47年4月25日の総選挙では民主党公認で再挑戦、見事当選。以後、死ぬまで当選を続けた(15回)。野党の衆院議員を妊娠させ、離婚に至ったという事件(白亜の恋事件)でも落選しなかった。

どんなことがあっても慌てるということがなかった。「特攻から生き返った後の人生はお釣みたいなもんだ。恐ろしいことなんてなくなったよ」。

特攻とは、爆弾を抱えた軍用機に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。

太平洋大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたが、当然のことながら、攻撃が成功して乗員が生還する可能性は皆無に等しいと言える。

突入失敗で海面に激突したものの奇跡的に助かったり、機体故障による不時着等の理由で乗員が生還した例もあるものの極めて稀であり、出撃すなわち死を意味するといっても過言ではなかった。

この攻撃が行われるようになった理由は、VT信管を代表とするアメリカ軍の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機性能の開きが圧倒的になったこと、

この戦いに先立って行なわれた台湾沖航空戦により、フィリピンでの稼動航空機数が激減した上にミッドウェー海戦以降ニューギニア戦線などで多くの熟練搭乗員が戦死してしまい、その補充が利かなかったこともあり、通常の航空洋上攻撃では敵空母に対して充分な戦果を期待することができなくなったためである。

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2007年05月15日

◆林彪事件の朝日新聞


渡部亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているというのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。

なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからな。

NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島 桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。

1971年秋のことである。何しろ、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、1971年10月1日の国慶節パレードが当然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなったのだ。

「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。

10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。

10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがある。

やがて11月頃からは失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。

しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。

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2007年05月13日

◆「母あればこそ」

                        渡部亮次郎

おそらく生涯を通して忘れることの無い歌は伊藤久男の歌ったNHKラジオ歌謡「母あればこそ」だろう。昭和29年、雪の降り続く秋田から大学受験のため、東京に向けて列車に乗った。朝だった。蒸気機関車が重く汽笛を鳴らして動き出した。

ふと田圃の向こうの家に目をやると、小さな母が畑のこちらに出てきて手を振っているではないか。汽車は混んでいて窓を開けるもならず、思わずこみ上げる涙を回りに見られるのを隠すのにいっぱいだった。

家は米単作農家で豊かではない。それなのに私を東京の大学へやると言うのは、4年前、県内一の進学校を1番で卒業した兄を大学にやれなかった後悔を繰り返したくないの一心から。

集落中の農家の主婦たちが織る藁筵(わらむしろ)を買い集めて魚粕を入れるかますに仕立てて農協に売ると言う仕事を父ではなく自分でやることで、次男坊は大学にやると言う母。

大胆な決意を抱いて手を振る母。厭でも感傷的になる朝に初めて息子に手を振る母を見て、涙が止まらなかった。

そのまま大学生活が始まった。まだ食糧難の続く東京。あっという間に10キロも痩せた。母の頑張りで月1万円の仕送りは絶えることが無かった。そうやって1年が過ぎようとした冬の夕暮れ、下宿のラジオで伊藤久男が歌った。

「ひとりみやこへ 発つ朝も 泣いて結んだ 靴のひも ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くひそかに 想うもの」

旅立ちのあの朝の心境に通じる歌。決意を胸に抱いて汽車に乗った息子、雪の中から手を振る母。まるでそっくり、いやこれは私たち母子を謳った歌ではないのか。

後に調べると、歌は「母あればこそ」と題してNHKラジオ歌謡として放送されたものだった。寺尾智沙作詞・田村しげる作曲。お2人は夫婦で他に「白い花の咲く頃」など多くの名作を世に送り出したヒット・メーカー。私の心を深く打ったあの歌は昭和30年1月24日から放送されたものだったのだ。

「祭り帰りの 丘のみち 声を合わせた わらべ唄 ああふるさとは ふるさとは 母あればこそ いつも優しく 浮ぶもの」

やがて私も中年になり都会で家庭を営むようになり、農村の母とは永年、別れて暮らすようになった。それでも、いや、それだからこそ「母あればこそ」は郷愁の歌としていつも心に流れていた。何とかしてこのレコードを手に入れたいものと思って探したが見つからなかった。

そこでNHKがラジオ第1放送で毎週日曜日の午前10時からはじまる「歌の日曜散歩」にリクエストしたら、すぐ採用された。

何十年ぶりに聞く「母あればこそ」だったが、その番組を聴いた広島の未知の人がテープを送ってきて下さって二重の感激に浸った。やがてレコードも「ラジオの時代」に組まれて発売され入手した。母は2005年の正月、98歳、忽然と逝った。しかし、この経緯は知らずに。

「山ふところの たそがれは 胸に染み入る 雲のいろ ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くはるかに 想うもの」。母はこの歌と共にいつまでも私の胸に生きている。(了)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm