2016年08月22日

◆ハマナスはナシの訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形を
していることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったもの
である。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落
葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花は
お茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお
印でもある。晩夏の季語。


東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南
は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良され
たものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏し
い。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として
市販される。

のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかそ
の場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、
花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培され
る他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれ
る園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立
などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道
市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、
雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町

岩手県 - 野田村
青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町
福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市
新潟県 - 村上市、聖籠町
石川県 - かほく市、内灘町
福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見
ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書
いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」とい
い、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うの
も、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナ
スはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティー
もなかなか美味しいですよ。>(唸声)2011・6・13


2016年08月21日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間を待たなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にあった。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07


2016年08月20日

◆文革40年目の沈黙

渡部 亮次郎



2006年5月16日は中国で数千万人を殺したと言われるあの文化大革命(文
革)の40周年記念日のはずだが、伊藤正産経新聞中国総局長(当時)によ
ると、公 式な記念行事はなんら予定されていない、という(2006・5・13付
け産経新聞)。

革命の父とは言いながら、毛沢東の犯した誤謬を記念することには、いく
らなんでも抵抗があるだろう。しかし毛沢東思想は現在の中国の政治をが
んじがらめに束縛している。「永遠に高く掲げ続けねばならない毛思想」
(胡錦濤国家主席が03年の毛生誕110周年で行った演説)だから、何かやる
だろうと考えたくなるではないか。

中国共産党の文化大革命に関する公式コメントでは、<「わが党が犯した
最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「7分功、3
分過」というケ小平の発言が公式見解のようだ。

一応国定教科書にも取り上げられるが、中国は現在も実質上の言論統制下
にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した。」という記述にとど
まった。>(ウイキペディア)

1966年5月16日、毛沢東から林彪に宛てた「5・16通知」で文化大革命は開
始された。日本で、昭和41年と言えば佐藤「反動」と中国が呼ぶ内閣が成
立して2年目。

佐藤総理の師匠たる吉田茂元総理の指示でもあっただろう、佐藤総理は台
湾に逃げた蒋介石政権を認め、中華人民共和国(昭和24年10月1日成立)を
認めようとはしなかった。

中国とは絶対呼ばず「中共」と言い続けた。その時、中国では成立後に展
開した「大躍進政策」の失敗から、革命を成就させたはずの毛沢東の権力
が衰え、劉少奇ら実権派が権力を握り始めていた。

日本と中国は国交が断絶してはいたが、1964(昭和39)年4月19日、北京で
結ばれた日中記者交換協定(68年に人数を8人から5人に減らした)に
よって新聞・放送記者が北京に駐在していたので、文化大革命とか紅衛兵
(こうえいへい)とか造反有理といった断片的なニュースは伝えられた。

しかし、隣国とはいえ、国交の無い国のこと。韓国との正常化をやっと果
たしたばかりで、中国への一般国民の関心は低かった。専ら日本社会党が
往来し、天津甘栗の輸入利権を獲得しているという噂だった。

自民党では松村謙三、竹山祐太郎、古井喜実、田川誠一、川崎秀二といった
反主流派だけが活躍する「別世界」の感じだった。

<1971年7月のキッシンジャー大統領特別補佐官の中国訪問ほど、世界を
驚かせ、世界を変えた事件も少ない。それは、50年の朝鮮戦争勃発(ぼっ
ぱつ)以来の米中関係を大きく転換させ、アジアの国際関係に根本的な変
更をもたらした>(北岡伸一元東大教授)。

<ニクソンはベトナムからの撤兵を進めるためにも中国との関係を調整
し,国際秩序の協力者にする必要があり,他方中国側も中ソ対立の状況の
もとで対米関係の改善に応じるだろうとの見方をしていた。

米中接近は71年4月中国がアメリカ卓球チームを招いた「ピンポン外交」
とそれに続くニクソンの訪中希望の表明で盛り上がり,キッシンジャーと
周恩来総理との北京における秘密裡の会談をへて,7月にニクソンの訪中
計画が発表されるにいたり,世界にニクソン・ショックともいうべき衝撃
を与えた。>(小用悦子)

佐藤政権はこうした意向をニクソン政権から全く汲み取っていなかった。
アメリカ大使下田武三、牛場信彦氏らは○○○桟敷に置かれていた。キッシ
ンジャー訪中のニュースを聞いて私は確か国会議事堂のどこかで立ち往生
した記憶がある。

これが佐藤政権にとって如何に大きな打撃となったか。国内では事件事故
も相次ぎ、遂に佐藤内閣は沖縄返還を花道に退陣を余儀なくされたので
あった。

次いで登場した田中角栄総理が1972(昭和47)年9月29日、北京の人民大
会堂で共同声明に調印して、日中国交を再開したわけだが、その時同行し
た我々記者団が目にしたものは、天安門広場にいまだ林立する「佐藤反動
内閣打倒」の立看板の数々だった。「街頭では絶対写真撮影をしてはいけ
ません」の理由は或いはこれだったか。

毛沢東が田中総理、大平外相、二階堂官房長官を自宅に招いて引見したの
は9月27日未明のこと。われわれ日本人記者団に知らされたのは明るく
なってカラー写真数枚を配ってからであった。だから私が見た毛沢東はそ
の6年後、天安門広場の記念館で眠っている姿だけである。

まだ、毛沢東の虎の威を借りる4人組は健在で、張春橋は上海で我々にご
馳走してくれて、握手をしてくれた。あれほどの柔らかい男の手を知らない。

4人組の中核だったから文革後、81年の裁判で断罪されたが、文革の真犯
人は毛沢東そのものではないか。だから、胡主席としても沈黙を守るしか
なかろう。

いつでも考えるのだが、あのまま、毛沢東が生き続けたら今日の中国は絶
対にありえない。もちろん貧富の差、地域の差も起こらない、敗戦直後の
日本のような貧しい状態が続いたことであろう。帰国直後に私は「あと50
年はかかる」とどこかに書いた。

それが今日、早くも潜在的GDPは3200億ドル、 とうにイギリス、フラ
ンスを抜いて米日独につぐ「経済大国」になっている(英誌『エコノミス
ト』06年4月29日号)と発展し続けているのは、ケ小平の「改革・開放路
線」の採用が理由に他ならない。

しかし改革開放はいわゆるブルジョワという文革のきっけとなった走資派
を「生産」し続けるものであり、文革の対象となった「原因」を息もつか
ずに作り続ける「矛盾」を犯していることに他ならない。

文革の死者は2000万人、被害者1億人、経済的損失約5000万元といわれて
いるが「社会秩序の崩壊、風紀の混乱、人間関係の破壊など、文革の傷痕
はいまなお癒えてはいない」(岩波 現代中国事典 辻康吾)

しかし、「革命中国の歴史は文革に限らず権力闘争と民衆抑圧の連続であ
る。それを生む要因は非民主的な政治体制だ。中国には自らの歴史に学
び、政治改革を進めるよう望みたい」(産経新聞2005年5月12日「主張」)
とは言ってみても、それをやれば共産党は消滅するということだ。

だから民主化はやるはずが無い。政治的矛盾は革命によってしか解決され
ない。反革命の危険性を常に抱える結果となっている。だから法輪功など
少しでも「群れる」者を敵視するわけだ。2006.05.13


英語とその発音に悩む方々に対して所謂「上から目線」だったか:

私はこれまでに多くの方から「あれほど学校で勉強した(させられた?)
にも拘わらず一向に英語が話せない」という嘆きを聞く度に「それは貴方
の能力の問題ではありません。話せるように教えない学校教育のせいだと
割りきってください」と言ってきた。そして、ずっと以前には実際にお教
えしたこともあった。

また、こと発音の問題になると、我が国独特の学校教育独特のカタカナ的
というかローマ字風の教え方も手厳しく非難してきた。そして、「発音は
綺麗で正確でなくてはならず、その為には日本人にとって親しみやすくア
メリカ国内でも正調とされる西海岸の発音を目指されると良い」などと
言ってきた。言うなれば、これまでは英語が思うままにならない方に向
かって、学校での教え方の批判ばかりしてきただけだった。

だが、今回ブログに頂戴したコメントへの反論というか、私の意見と考え
を纏めて初めて気付いたが、私はこれまで「通じなかった」か「何とか通
じたので嬉しかった」という範疇に入る方々に対して無情だったようだと
思うに至った。そういう立場に立って考える必要もあったと、あらためて
反省したのだった。そのような悩みをお持ちの方にお教えしないまでも、
一緒に悩み、改善の手法を考えて上げるか、もっと優しい助言をすべき
だったと思うのだ。

2016年08月19日

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎



48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく
放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ
人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に
遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したの
だ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症して
いた。その後、2012年6月、肺炎のため81歳で死亡。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すな
お)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70
歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを
所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣
のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能
しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生
きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか
透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めた
が、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた
患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しか
し、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つ
くので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」
と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済
生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだっ
た。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても
私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖
尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが
糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不
全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病
院。現在は慶応義塾大学の支配下にある。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだ
ろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態
度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区
葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も
継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出
血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台
にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサング
ラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして
出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じると
いう。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受け
た。あれから25年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常な
し」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大
事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもこ
こを勧めて5月27日に受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らな
かった)といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてイ
ンシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻
の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなく
なった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失
神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下
がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたす
かったのだった。(友人はそれから間もなく脳梗塞のため急死。糖尿病を
隠していたからだった)。

中国から帰国して10年ぐらいになる。以後、血糖値の管理が簡単だからと
インシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の
注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器
に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛み
は殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから
逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がり
だった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として
田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。
園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それ
を防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管
や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑える
が、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された
「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。
脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以
内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さん
がそれだ。その後の主治医が私と共通。

血管に血栓(血の塊)がつまらないようにと、血液を普通よりさらさらに
する薬「プラザキサ」をのまされている。以前は「ワーファリン」だった
が、此れだと納豆が食えなかったが、プラザキサ」だと納豆OK。

2016年08月18日

◆鈴木善幸内閣誕生の経緯

渡部 亮次郎

2007年6月12日は総理在職中に急死した大平正芳さんの28回目の命日だっ
た。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が最近著した「権力の病室 大平
総理最期の14日間」(文藝春秋)を読んで、その死を改めて回想すると共に
「後継総理 鈴木善幸」と叫んだ田中角栄氏の判断は瞬時だったなぁと思
い出した。

私は当時、既に大平内閣の外務大臣(園田直)の秘書官を退任(1979年11月8
日)、一代議士に戻った園田氏の私設秘書をしていた。1980年5月30日には
第12回の参院選挙が公示されたが、その初日に大平総理は倒れた。

入院先は国家公務員の指定病院としても名を知られた東京虎ノ門病院。発
表された病名は過労が引き金となったと考えられる「狭心症」だったが、
予ねて総理が自分と同じ糖尿病を持病としていることを知っている園田氏
は「いやぁ心筋梗塞の1回目の発作だよ」と主張して譲らなかった。

果たして死後、解剖の結果は当にその通りだったわけだが、心筋梗塞の発
作だとすると、近いうちに2回目の発作があるはずで、絶命するだろう、
と早くから言っていた。

園田氏は30歳代で2型糖尿病を発症している。糖尿病のDNAを遺伝により所
持しており、暴飲暴食、運動不足、肥満によって発症する。酒を嗜まな
かったが、豆大福や焼き芋が大好き。3番目の結婚となった天光光(てんこ
うこう)さんとの結婚直後から大肥満。多分、これが引き金となって発症
したはずだ。

糖尿病患者は最終的にはインスリンというホルモンを毎日、1回から3回、
注射で体内に補給する必要がある、口から入れても胃液(酸)で無効になる
からである。しかし、武道の大家も何が嫌いって注射ぐらい嫌いなものは
無いという人。

この後、生涯2度目の厚生大臣になり、患者が自分で注射できるよう、厚
生省令の改正を決断するが、その恩恵に浴する事は無かった。理由は後述。

問題の12日は、私は都合で都心のホテルに泊っていたが、午前2時ごろ、
園田さんから電話があり「ナベしゃん、総理が亡くなったらしいよ、調べ
てよ」という。なんでも信仰している新興宗教の教祖に霊感があったとい
うのだ。

古巣のNHK政治部に電話してみたが何も入っていない。結局は午前6時41分
になって「5時54分逝去」が発表されてわかったが、やはり大平さんは午
前2時25分に本当は絶命していた。後は蘇生が試みられたが空しかったと
いうことだったのだ。

5:54 総理死去。立ち会ったのは志げ子夫人、伊東官房長官、田中六助副
幹事長、森田一秘書官、次男裕氏夫人、三男明氏夫妻ら。

5:55 鈴木善幸党総務会長
6:15 田中角栄氏
6:35 西村副総裁。桜内幹事長。

園田氏も遺体に対面した。午前7時ごろだったろう。彼は私を伴って「こ
れから目白(田中角栄邸)へ行こう」と言った。予ての大福密約に従って、
首班指名では嘗ての親分福田赳夫氏に背いて大平さんに投票したために福
田派を除名されていた園田氏。政界「はぐれ鴉」なんて揶揄されていた。
目白に行くしかなかった。

しかも誰かに奨められて痩せるためと称して利尿剤を多用。急激に体重を
落としたため、人相が変わるほどやせて久しぶりTVの前に姿を現したた
め、マスコミは悪い噂を立てた。

田中氏とのサシの会談は1時間に及んだ。園田さんは明るい顔に変わって
出て来た。後継総理には大平派の番頭鈴木善幸氏を推進することで意見の
一致を見たと言うのである。

「政界闇将軍」と「政界はぐれ鴉」で一致した「鈴木善幸総理」案は政界
で誰一人予想しない奇想天外。もちろん鈴木さんご本人も岩手の漁師が総
理大臣になんて想像したこともなかった。衆議院議長は目指していたが。

しかし乃公出でずんば(だいこう いでずんば)=この俺様が出ないで、
他の者に何ができるもんか=と言ってきた福田氏も、今回は大平急死の下
手人呼ばわりされる中では、田中闇将軍の仕掛けに抗する術はなかった。
あれよあれよと言う中で鈴木内閣は平穏のうちに発足した。郵政、農林の
閣僚経験しかなく、長く自民党総務会長としての地味な活動しかして来な
かった政治家だけに、外国人記者は口をそろえて言った。Zenko Who?

園田氏は鈴木内閣には入閣しなかった。しかし3ヵ月後の9月に入って、女
性の子宮や卵巣の摘出手術を乱発していた埼玉県の富士見病院事件が起
き、ここから齋藤邦吉厚生大臣が千数百万円もの献金を受けていた事が発
覚して辞任。

むかし厚生大臣の経験があり、すぐにも国会答弁で野党に対処できるとの
鈴木派の栗原祐幸氏らの推薦で園田氏が後任に決まった。大平内閣の外務
大臣を退いてから10ヶ月ぶりだった。私はまた秘書官に引っ張り出された。

さらにその8ヵ月後、今度は伊東正義外務大臣が途中退任、後任に園田厚
生大臣が横滑りを命ぜられた。1981年5月18日、杉並区富士見が丘のNHKグ
ランドで記者クラブとソフトボールの親善試合をしている最中だった。

この頃から園田さんの身体に糖尿病の合併症が顕れるようになった。
腎臓の機能が極端に弱り、浮腫みが酷くなりだした。終いには顔も浮腫む
ようになって閣議で驚かれたりした。

インスリンの患者自己注射を許可すれば、衛生材料メーカーは競って注射
器を携帯用に小さくしたり、針を細くして痛みが軽くなるように研究する。

実際、あれから30年、針の細さは0・2ミリと世界一。毛の細さだから殆ど
痛くない。だが許可が遅れたために大平さんも園田さんもその恩恵には浴
せ無いまま、共に70歳にして糖尿病のためこの世を去った。2007・06・17

2016年08月17日

◆私の「身辺雑記」(374)

平井 修一



■8月13日(土)、朝6:00は室温27度、涼しい、快晴、日射しは強いから
今日も猛暑になるのだろう。昨日夕方のお施餓鬼、墓参りはいささか熱中
症気味で、ふらふらした。室温30度ならクーラーをかけるべし、「だって
老人なんだもの」。みつお、キモ!

老人の自覚がない老人は多い、どころか99%はそうだ。老化とはどういう
ことか。

母を観察するに、直近の記憶力がゼロになる、無意識でアザをつくる(感
覚の衰え)、やたらと転倒する、食が極端に細る、季節や年月日にまった
く興味がなくなる、テレビも見ない、ほとんど寝ている、ときどき介護
サービス、時に入院、歩行困難で這いつくばる、トイレが不自由、やがて
寝たきりのおむつ、食は麦茶とスープぐらい、そして昇天。

これが老化の王道で、「元気、長生き、ポックリ」「ピンピンコロリ」は
まずない。母は95歳で大往生したが、最晩年の5年は意味があったのかど
うか。「母の抜け殻だなあ」(今ならゾンビ)と思っていたが、甲斐甲斐
しく、精いっぱい世話をした。夜の11時に体位を変える際、冷たい麦茶を
飲ませたら、「ああ、おいしい」、これが最後の言葉だった。

老人の自覚がない老人はやっかいだ。何回か転倒して初めて老人を自覚す
る。中には車で人を殺める老人もいる(70代が多い)。

このところカミサンの言動が急速に劣化してきた。情況観察力、想像力、
記憶力がかなり怪しい。彼女は来年秋に65歳でリタイアするつもりだが、
人の命を預かる看護師としてちょっと心配だし、車の運転が好きなのでか
なり心配だし、今朝、「今年の秋にリタイアした方がいい」とアドバイス
した。

ここ1週間ほどで、スマホを忘れる、今会話したのに同じことを聞く、小
生にメモで指示したことを忘れる、新聞を1Fに取りにいくついでにゴミを
出すのだが、普通ゴミしか持っていかず、さらに新聞を持ってくるのを忘
れた。

夏彦翁曰く「人はついぞ我が身は見えない」、カミサンは老化、劣化の自
覚がないから事件事故に遭うまでは「私は元気、正常、修一はアル中のバ
カ、分裂病予備軍」と思うだけだろう。

気づきが軽い代償ですめばいいが、孫を保育園に迎えに行くことが多いの
でとても心配だ。彼女は文字を読むのはメガネに頼るが、遠くを見るのは
不自由どころか全く平気で、その分、車のスピードを上げる。

リタイアさせて車の運転も卒業させ、彼女の希望通りに油絵創作と美術館
巡りの日々を送らせ、彼女の希望通りに小生が介護し看取る。そういう方
向へもっていくには娘二人の協力が欠かせないが、娘はカミサンとべった
りだからゴリゴリ野党である。カツヤ、シイ、ミズホの野合共闘、闇鍋の
ようなミックスジュース、多分「丁寧な議論」は無駄に終わりそうだ。

こういう時は一点突破で、革命、クーデター、騒乱、反乱、暴動、戦争の
出番である。プーチン、エルドアン流だ。習近平もそうしたいが、軍部は
言うことを聞かないから、かなり鬱積していそうだ。

小生の得意技は発狂を装うことで、普段から小生は発狂寸前と見られてい
るから、皆、わっと逃げ出す。父の3回忌の時は見事に効いて、十年間ほ
どは親戚は寄り付かなくなったっけ。この禁じ手で「カミサン命」の介護
道に邁進しよう。

【今朝の産経から】1面「慰安婦財団 10億円月内拠出へ 象撤去前提と
せず 『拙速』世論の反発必至」。産経が露骨に煽っている、大いに結構。

1面産経抄「『人(ひと)以(もっ)て恥なかるべからず』。中国・戦国
時代に活躍した孟子は、人は恥を知らなければならないと説いた。

「肝心な時に公船はどこに行った」「日本の実効支配を証明したことにな
る」。中国のインターネット上では、批判の書き込みが相次いだ。中国の
ネット利用者たちも、示威行動はとっても自国民の保護には役立たずだっ
た公船のあり方が恥ずかしかったのか。

孟子は「力を以て仁を仮(か)る者は覇たり」とも言っている。国際法に
のっとらず、力による現状変更を目指す中国のやり方は、王道ではなく覇
道である」。

覇道かつ邪道だな。みっともない。

2面「(月末の)金曜午後3時終業→さあ旅行だ買い物だ 消費喚起へプレ
ミアムフライデー 政府・経済界検討」。飲み屋に行く人が旅行に行くだ
けで、パイは増えないような・・・企業がポチ袋をくれたらいい。

2面「中国、G20『南シナ海隠し』経済のみ討議 各国に要請」。みっとも
ない。

3面、渡部昇一氏「典範改正は危険 摂政が最善」、曰く「ご高齢になら
れた天皇陛下のお体のご負担軽減の問題、皇太子さまへのご公務の継承の
問題は、皇室典範を改正しなくとも、摂政を置けばすべてうまくいく。あ
えて問題を複雑にする必要はないのだ」。正論だ。

6面「英原発建設参加の中国企業 過去に米でスパイ容疑 英紙報道」。
みっともない。

22面「小池知事 五輪組織委にメス 改革本部来月稼働「透明化へ、不正
調査」。大山鳴動してネズミは何匹か・・・

■8月14日(日)、朝6:00は室温27度、涼しい、快晴、昼前には猛暑にな
り、小生はフラフラしながらN母子とカミサンの昼食ために和風焼うどん
を作り、クーラーのPC部屋へ避難した。散歩は無理だ。布団に寝っ転がり
ながら新聞を読む(上から吊るして読めるようにしてある)。

【今朝の産経から】1面「韓国議員団 あす竹島へ 慰安婦10億円拠出の
合意直後」。破談にすべし。

2面「RIO 2016 襲撃・盗難やまず」。ドゥテルテ流でやるしかなさそう
な・・・

5面「クリントン夫妻 昨年の年収11億円『腐敗した秘密主義者』元選挙
参謀モリス氏が批判」、曰く「将来の選挙活動のために資金集めをしてき
たのが、金をもうけるために大統領を目指すようになってしまった。夫婦
は講演会などで2億2000万ドルを稼いだが、夫婦の口利きを期待されてい
る点で賄賂といえる。私が変ったのでなく、彼らが変ったのだ」。キツー
イ一発。

5面、古森記者「尖閣事態 日本の国家危機」、曰く「8月に入っての尖閣
諸島(沖縄県石垣市)海域での中国の威圧行動の急拡大は、日本の安全保
障や日米同盟の今後になにを意味するのか。米国側で中国の海洋戦略を一
貫して研究する官民4人の専門家に尋ねてみた・・・

その(中共の)攻撃方法は人民解放軍指揮下の「漁船」民兵を利用し、ヘ
リコプターや潜水艦を使っての尖閣奇襲上陸の見通しが高い。中国軍が最
近、ウクライナなどから調達した大型ホーバークラフトの使用もありうる
という。

「中国は今回の拡大作戦で尖閣奪取の軍事能力を高め、日本の防衛の能力
や意思を探っている。日本の抑止が弱いとなれば、必ず攻撃をかけてく
る」フィッシャー氏はその上で中国の攻撃を抑止するための日本側の先島
諸島のミサイル強化や沖縄などのオスプレイの増強を訴えるのだった。

これら4人に共通するのは現在の尖閣の事態を日本の国家危機だとみる認
識だともいえた。当の日本の反応はなんと異なることかと痛感した」。

平和呆けはまだしも中共の狗が多すぎる。

8−9面鼎談「ソ連崩壊25年 世界はどう変わったか」。米国は絶対的な
スーパーパワーではなくなった、タガが緩んで、中共、ロシア、ISなどの
秩序破壊者が増えている、云々。冷戦という秩序が壊れ、ますます世界は
揺れていくだろう。油断大敵、備えよ、警戒せよ。

22面読書ヒトラー「彼の演説と交渉の才にドイツ国民は魅入られ、チェン
バレンはだまされた」。騙す奴、騙される奴、世界は腹黒い。

夕方には体調が回復して、8人で賑やかにお盆の晩餐会。小生はお澄まし
と豚ヒレのシャリアピンソース。カミサンはカボチャなどの煮物、鶏むね
肉とズッキーニの味噌マヨ炒め、ナス煮の冷やし、サラダ、浅漬けなど。
それと「銀の皿」の握り。大好評。

たまたま心技体が整ったので一気に後片付けをして、「米研ぎ棒」を作っ
た。水仕事で右手の親指と人差し指が傷んで、あれこれ治療したが、全然
ダメ。それなら米を研ぎながら右手も研ぐことになる米研ぎから解放され
なくてはならない、という情況分析によるオペレーションだ。(大袈裟!)

完成品は中華料理でフライパンを洗う「竹ささら」の大型版のよう。翌朝
の米2合を研いでみたが、すこぶるGOODだった。カミサンも大いに面白
がった(敬服したのではなくて、単に「オモシロイ奴、ま銅メダル」と。
1週間前にクーラー部屋LDK20畳のドア(孫が開けっ放しにする)が自然に
閉まる工作をしたときは、「なんと器用な奴、金メダル」と大いに敬服し
ていたが)。

家族を楽しませるのは男の義務だ。旨いものを作り、ときどき「オモシロ
イ奴」、ごくたまに発狂・・・発狂はまずいが、噴火しないと身がもたな
いこともあるので、堪忍してくれと心では謝っているのだ、男の鬱屈、鬱
懐、積年の忸怩たる思い、思うように動かなくなった体の哀しさ・・・
まったく「男はつらいよ」。

■8月15日(月)、終戦記念日、近年は「終戦の日」と言うようになった。
皇居、靖国遥拝、弥栄を願い、英霊に謝意を伝えた。朝6:00は室温27
度、涼しい、晴/曇。

今朝の体調はまあいい。PET、缶、ビンのゴミ出し、さらに自転車で段
ボール回収所へ。粗大ごみのルールを知らないか、無視しているのは支那
人か半島人だろう。異民族との共生は難しい・・・

米国はWASPがやがてはマイノリティになる。白黒の殺し合い、英語が分か
らないヒスパニック、クスリ、自殺、肥満、一国平和主義の引きこも
り・・・米国はどこへ行くのか。モラル、ルール、伝統が消えていけば、
天国ではなく地獄、カオス、ソドム&ゴモラへの道だろう。50年後には老
大国になっているかもしれない。

日本は・・・悠仁(ひさひと)様が天子になられている、これはまず確か
だろう。「国体は確かだろう」と、先が読めるのはいいことである。

4年前に亡くなった母宛に「角川全国俳句大賞作品募集」の案内が届い
た。応募には2000〜3000円かかる。角川文化振興財団の大事な米櫃なのだ
ろう。

【今朝の産経から】1面「歴史戦 1937年、河北省で司教殺害『正定事
件』『慰安婦拒否したため』(との)史料なし 戦後『日本軍が200人要
求』など報道」。プロパガンダは「証拠より論」、声の大きい方が勝ち
だ。害務省では勝てやしない。

1面産経抄は硫黄島からの手紙の件。硫黄島の戦い(いおうとうのたたか
い、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima)、日本はいおうとう、
米国はいおうじまと呼んだ。

<硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍
の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。米国で
はこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島
は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。

国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行
する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている>(ウィキ)

現在は海上自衛隊が管理する硫黄島航空基地(いおうとうこうくうきち)
があるが、米軍との訓練もあるためか、基地ではいおうとう、いおうじま
の二つが使われている。敵意と憎悪の象徴だった大激戦地が、今では友好
と同盟の象徴になっている。

米国は日本を叩く必要はなかったのに・・・叩かなかったらアジアは日本
が覇権を握ると危惧したのだろうか。

<「ルーズベルトは狂気の男」フーバー元大統領が批判

【産経2011.12.7ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米
大統領(1874〜1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾
を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、
1882〜1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争
に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメ
モなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らか
にした>

アカのキ○ガイのために世界中がひどい目に遭った。硫黄島の遺骨収容は
遅々として進まず、戦後71年となった今も約1万1000人分が見つかってい
ないという。情ないことだ。

2面主張「終戦の日 先人への礼欠かぬ和解を『譲れぬ価値』再確認する
時だ」、小見出しは「胸張り御霊に語れるか」「歴史戦の攻撃はやまぬ」。

5面「テロ容疑者は『匿名』? 欧州メディアで議論広がる」、曰く
「(フランスでは)昨秋のパリ同時多発テロなど過去1年半に大規模テロ
が3件発生。7月には教会襲撃も起きた。実名や写真入りで容疑者を報じる
ことで「広く知られたい」(専門家)との容疑者の欲求が満たされ、模倣
を促すとの見方は根強い」。

研究課題だ。

6面、千野境子氏「父の功罪重くケイコ氏の挑戦は続く」。応援団だな。

7面正論、曽野綾子氏「日本人の美徳の崩れが恐ろしい」、曰く「(企業
の相次ぐ不祥事などの当事者は)日本という国を詐欺の容疑で売った新し
い『売国奴』にひとしいのである」。このところみっともない不祥事が多
すぎる。

23面「熊本地震 遺体は不明大学生 両親ら独自に捜査続け 母『温かく
迎えてあげたい』」。まったくご両親の執念が実った。大学生の魂が安か
らんことを。父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深し。感動する。
(2016/8/15)

◆14歳までの訛は抜けない

渡部 亮次郎



記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は、私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れするが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。ここでは東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。 「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。

2016年08月16日

◆ゴールデンウィークへの誤解

渡部 亮次郎 


町医者の看板なんかに、休診日は「祝祭日」と書いてあるのが目立つのだ
が、「祭日」とは戦前の話であり、今は国民と祭日は無関係になったの
だ。「国民の祝日」しかない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、祝祭日(しゅくさいじつ)
とは、第2次世界大戦(大東亜戦争)以前の日本において行われていた祝
日と大祭日の総称で、正式には祝日大祭日と言った。

明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344
号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)
によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)に
よって定められていた。

1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祭日は
全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。現行の国民の祝日のことを
「祝祭日」と呼ぶのは誤用である。つまり「国民の祝日」はあるが「祭
日」は存在しない。

むかしの祝祭日一覧。
1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。
「祝日」
四方拝(新年) - 1月1日
紀元節 - 2月11日
天長節 - 4月29日
明治節(明治時代には天長節) - 11月3日
新年宴会 - 1月5日
このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)という。
「大祭日」にはどんなものがあったのか。
元始祭 -   1月3日
春季皇霊祭 - 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 - 4月3日
秋季皇霊祭 - 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 -   10月17日
新嘗祭 -   11月23日
大正天皇祭 - 12月25日
今の法律では春分の日と秋分の日しか残っていない。昭和11年1月生まれ
の私には春季皇霊祭と秋季皇霊祭の言葉が耳に残っている。こうした記憶
を基に考えると、祝日をずいぶん増やしたものだなぁと思う。
NHKのアナウンサーは、いわゆる団塊の世代がぼちぼち定年退職して
「ラジオ深夜便」に移行しているが、彼らとて「ゴールデンウィーク」が
昔からあったようなことをのたまうからやりきれない。

調べてみると憲法記念日(5月3日)もこどもの日(5日)も昭和24年(1949
年}から始まった。当時の天皇誕生日(4月29)にメーデー(5月1日)を
休日扱いに無理にしてみてもゴールデンにはならなかった。まだ土曜日は
「半ドン」で休日では無かったからだ。

その後、5月4日を無理無理、「国民の休日」なんて、休みたいための国民
の祝日にしたり、昭和天皇誕生日を昭和の日としてのこしたりしてとうと
うゴールデンウィークに仕立て上げたのは平成に入ってからだ。

その後の経過と現状。

祝日法改正「ハッピーマンデー」〜平成12年から3連休増加〜

成人の日(1月15日)と体育の日(10月10日)をそれぞれ各月の第2月曜
日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(通称・ハッピー
マンデー法)が、平成10年10月21日に公布され、平成12年(2,000年)1
月1日から施行されました。

改正祝日法(祝日3連休化法)と改正老人福祉法〜平成15年から3連休増加〜

海の日(7月20日)と敬老の日(9月15日)をそれぞれ各月の第3月曜日に
する国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律が、平成13年6月15日
に可決成立、同6月22日官報で発表されました。

4月29日の「みどりの日」を「昭和の日」に、5月4日の「国民の休日」
を「みどりの日」の祝日に変更。平成17年5月13日に可決成立。同5月20日
官報で発表されました。平成19(2007)年から施行。

祝日
 1月 1日 元日  
 1月 第2月曜日 成人の日 満20才になった青年男女を励まし祝福する日
 2月11日 建国記念の日 国を記念する日 紀元節(1966年制定)
 3月232日頃 春分の日 注)暦により変動する。
 4月29日 みどりの日
  ↓
昭和の日(2007年から。昭和天皇の誕生日)
 5月3日 憲法記念日 日本国憲法が施行記念日(1947年)
 5月 4日  みどりの日2007年から。 この日は祝日でなく休日で、日
曜日の場合振替はされませんでしたが。2007年から。祝日
 となりました。
 5月 5日 こどもの日  
 7月 第3月曜日 海の日 海や自然に感謝する日(1996年制定)
平成15年より第3月曜日になりました
 9月 第3月曜日 敬老の日 老人を敬う祝日(1966年制定)
  平成15年より第3月曜日になりました
 9月23日頃 秋分の日 注)暦により変動する。
 10月 第2月曜日 体育の日 東京オリンピック(1964)開会の記念日
(1966年制定)
 11月 3日 文化の日 新憲法公布を記念し、日本の平和と文化の  
          発展を祝う日
  11月23日 勤労感謝の日 勤労を尊び、生産を祝い、国民が互に感謝
しあう日
12月23日 天皇誕生日 現在の天皇、今上天皇(きんじょうてんのう) の誕
生日 (了)2006.04.01

2016年08月15日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10

2016年08月14日

◆小畑実 (歌手)は北朝鮮出身

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集したえい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。

のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。

特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチック
な旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、
彼の歌唱の特徴が生かされた傑作である。

NHK紅白歌合戦に3回出場している。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。


2016年08月13日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を
殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身し
たみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 
2007.01.18

2016年08月11日

◆将来の近きライバルと予想

渡部 亮次郎



以下は初の訪中から帰国直後、あるミニコミ紙(発行:昭和47年10月28日)
に執筆したものである。書棚の中から30余年ぶりに取り出してみて「中国
は将来の"近きライバル“」と既に分析していたのを発見した。今月29日が
日中国交正常化への共同声明の調印日である。わたしは当時NHKを代表し
て同行した。以下、同行記である。

『百聞は一見に如かず』と言うが、『群盲、象を撫でる』ともいう。
「中国見たまま」といったところで滞在期間がわずか6日間。目的が田中
首相の「同行」であってみれば私の「一見」が「百聞」以上のものだとは
いえない。

まして、同行記者80人の一員として、ぞろぞろ田中首相に従って歩いただ
けであってみれば「象を撫でない盲」にも劣る「訪中記」である。

しかも共産国ならどこでもそうであるように、猛烈な取材規制を受けなが
らの取材だったのであるから、お恥しい次第ではある。

端的にいって、田中訪中同行記者について中国側が初め言ってきたのは60
人。このうち首脳に3メートルまで近づける「近距離」の記者、カメラ記
者、 TVカメラマン、政府公式カメラマン、TV中継カメラマンは各2人で
計10人。それ以外(大部分)は会談場の玄関口でシャットアウトされる
「遠距離組」と言うものだった。

時として、いま西山事件【注】にもある如き方法さえ用いて、嘗て大平外
相をして「人の腹の中に手を突っ込む奴ら」と言わしめたほどの「マスコ
ミ・アニマル」である当方としては大いなる不満を表明し、外務省情報文
化局を通じて規制緩和を要求した。

その結果、「推測記事がある程度、書かれるのは仕方がない。同行記者数
は20人増の80人とする」という最終回答があっただけで、“規制“は緩ま
なかった。

パズルを解く記者たち

共産国のことだから、さらに「公共建造物の撮影、人民へのインタ
ビュー、家庭訪問、指定区域以外への外出について事前許可なくして行っ
てはならない」のは当然であった。

帰国後、週刊誌が「林彪事件や台湾問題について人民の反応も取材でき
なくて、何が同行記者か」と叩かれたが、事情も知らずして、80人の怠け
者が北京や上海をブラブラしただけと言う論評にはハラが立った。

正直な話「テメエ、やってみろよ」と言いたい。尤も例によって中国礼賛
が先に立って、規制を受けた取材であることなど、少しも書かなかった方
にも罪がある。

このように、田中訪中同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の3重苦
に悩まされての取材だったが、中国の現状を見れば、こうした規制も止む
を得ざる措置だった、と言えなくもない。

テレビは白黒方式!のが全土に10万台(公式)しかない。7,500人に1台の
割合。1人民公社に1台あるかないか、というのが現状である。しかも放
送時間は夜7時から3時間だけ。

今日の事象は翌日の夜でなければ放送されない。中国側も「歴史の新しい
始まり」と高く評価した日中共同声明の調印式という「大ニュース」でさ
え、たしか翌日の夜まで放送されなかったはずだ。

中国人にとって、日本で言えば天皇以上である毛沢東主席と田中首相との
”世紀の会見“でさえ翌28日の夜7時にならなければ放送されなかったの
だから。

ラジオはかなりある。だが日本のように実況放送されてない。今日のニュ
ースを今日中に伝える事はない。新聞はどうか。まず各戸配達は無い。昼
ごろスタンドに買いに行けば朝刊(人民日報)が手に入る。(だが面白い
記事などどこにも無い)

革命(建国)以来23年経ってこの有様であるから,以前はもっと低水準だっ
たと思われる。その間に人民と言う名の大衆は「ニュースとは翌日になら
なければ分からぬもの」と思い込むようになった。

だからニュースに餓えるということも無くなったのではなかろうか。そう
いうふうにまた指導者たちも思い込んでいるから、日本から80人もの記者
が来ることさえ驚きなら、相手のハラに手を突っ込むほど、手を変え品を
かえて接近取材をするなんて、思いもよらないことなのである。

万里の長城で、この規制を乱し「総理!そこで止まって、こっちを向いて
笑って」とカメラマンたちが田中首相に注文をつけるのを見ていた中国人
たちは「日本のマスコミというのは政治家を"指導“するのか」と驚く、
というよりもあきれていた。

田中、周恩来による首脳会談が4回、大平、姫鵬飛による外相会談が3回。
特別番組として田中の毛沢東"謁見”があった。しかしこれらの内容は誰
1人新聞記者が見ても聞いてもいたわけじゃない。

例外を除いては「発表することは何もありません」という二階堂官房長官
の"発表"をもとに、ああでもないこうでもないと組み立てた"推理小説“
である。

とはいっても前もって相当に勉強はして行ったから、発表の後交わされる
二階堂氏とのやり取りから、さながらクロスワード・パズルを解くように
会談内容を組み立てて行ったから”小説"とも言えない。

4回に及んだ首脳会談は、その都度、何を議題にしたのかは、もちろんい
まだに明らかにされていない。だから現地にいるときも、しつこく聞き出
すわけだが、首相をして「この人はなんでもしゃべる」と言わせた二階堂
氏も「なんとも申し上げられません」という返事を繰り返すのみ。

二階堂氏の顔色や目つきや、口許を見てのパズル解きであった。東京にい
るときなら、会見の後の夜討ち朝駆けの奇襲取材はお手の物なのだが、北
京では、二階堂氏は会見が終わるや否や雲を霞と迎賓館に閉じこもってし
まう。

仮に迎賓館に追いかけようにもタクシーが無い(制度としてない)し、お
っかけたところで門前の衛兵に阻止されてお終い。それでは電話でと言っ
ても、電話番号は公開されていない。

諦めず、夜の公式宴会で近付こうとしても不可能。テレビでご覧の通り、
丸テーブルに座ったまま誰も動けないからこれまた不可能。仮に立って行
ったって、3メートル以上は近づけない。

日本が得た成果は?

こんな状態であるから、例えば共同声明の調印式が予定より15分も遅れた
理由が帰国まで分からなかった。日本と現場中継のマイクロ回線が繋がっ
ているから、東京から、どうしたんだと、やいのやいのと言ってくるがど
こにも聞きようが無い。

やっと、上海から帰国の途についた機中で田中首相から「中国側が3軍へ
の了解連絡に手間取ったため」と説明されてやっと分かった(政府が軍に
了解をとる、共産主義国家ならではだ)。(再掲)



2016年08月10日

◆知られざる朝鮮半島における日本人の運命

渡部 亮次郎



平成27年6月25日(木)

先日、西村に伝えておきたいことがあると、青森に先祖代々住んでおられ
る方が来られた。

その伝えておきたいこととは、昭和20年8月15日前後に朝鮮半島にいた日
本人の運命である。

この青森の方の奥さんのお母さん(故人)は、

我が国の敗戦後に朝鮮半島から引き上げてきた方で、その状況を次のよう
に語っていた。

敗戦後、満州から歩いて朝鮮に入ると、朝鮮人の兵隊(武器を持った人)
に、婦女子だけ集められて収容所に入れられた。

その収容所には240人がいた。
 
その240人のうち、日本に帰れたのは80人だけで、残りの160人は帰ってい
ない。

朝鮮人1000円を渡せば日本に行く船に乗れると言われて、1000円を渡して
収容所を出ていった人は、1人も帰っていない。

彼女らは、もんぺの中に現金を縫い込んで満州から逃れてきていた。

アメリカ在住のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんは、11歳の時、朝鮮半
島の最北部にある羅南から日本に引き揚げた。
 
その体験を赤裸々に
「日本人少女ヨーコの戦争体験記 竹林はるか遠く」(ハート出版)
という本に著してアメリカで出版した。
 
それは、「大戦末期のある夜、小学生擁子(11歳)は、『ソ連兵がやって
くる』とたたき起こされ、母と姉・好(16歳)との決死の朝鮮半島逃避行
が始まる。

欠乏する食料、同胞が倒れゆく中、抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦の
ない襲撃、民間人の心ない暴行をかいくぐり、祖国日本をめざす。日本人
引き揚げ者が味わった壮絶な体験記である。

この青森の方の話とヨーコ・カワシマさんの著書に接して、私(西村)
は、平成26年5月、ストックフォルムに於ける日朝局長級会談での合意文
書の中に、朝鮮半島からの日本人引き上げ者が体験した知られざる運命に
符合する文言が入っているのに気付いた。
 
それは、「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、
残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む総
ての日本人に関する調査」という文言中の
 
「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本
人」である。

日本側が、日本人引き揚げ者の実体解明に関する明確な意欲を以て、この
文言を使ったのかは不明ながら、北朝鮮側が、この文言を受け入れた動機
は明確である。
 
それは「遺骨ビジネス」だ。
 
即ち、北朝鮮は、
日本人の遺骨一体に対して金○○円を受け取るならば、膨大な額の外貨を日
本から獲得できると判断したのである。

即ち、膨大な人数の日本人が、終戦後の引き上げ途上で殺されて北朝鮮内
に埋められているということだ。
 
北朝鮮は、この事実を日本から金を引くために、ストックフォルムで先行
自白(語るに落ちる)したのだ。

また韓国域内のことであるが、

私の友人のお父さんは、戦前、韓国域内で教員をしており、戦後引き上げ
てきた。

後年、韓国の教え子達が同窓会を開いてくれた。

このような良好な環境のなかにあっても韓国域内から引き上げるときは、
 愛読書の森信三著「修身教授録」しか持参できなかった。

他の総ての財産を放棄して引き上げてきたのである。

また、私は、北朝鮮域内のように抗日パルチザンからの攻撃はなかったと
はいえ、
韓国域内から日本に引き揚げる前に、目の前で父親が金槌で殴り殺される
経験をした人を知っている。

以上のように、朝鮮半島からの日本人引き揚げ者には、苛酷な運命が待ち
受けていた。

しかし、その全容が明らかにされているシベリア抑留者と比べて、何故、
朝鮮半島からの引き揚げ者の運命は蓋をされたように知られていないのだ
ろうか。

この疑問を解明する鍵は、
 
我が国を軍事占領した連合軍総司令部(GHQ)が、戦後直ちに実施した
言論の検閲である。
GHQの検閲事項の第8項は、「朝鮮人への批判」を禁じているのだ。
これが、現在に至るも、朝鮮半島の日本人が如何なる境遇におかれ、

一体何万人が殺されたのか一切蓋をされて伝わらない理由である。

現在の韓国の大統領は、就任以来、朝から晩まで日本を非難してきた。そ
して、「加害者と被害者の関係は、千年経っても変わらない」と化け猫の
怨みのようなことを言っている。

従って、日本は、こういう日本非難を聞き流さず、朝鮮半島に於ける知ら
れざる日本人同胞の悲惨な運命についての関心を喚起し、今こそ、その歴
史の実相を解明しなければならない。


◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 510」

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タウンゼントの指摘から、現在の“親中派”と言われる人々からの情報が如
何に偏っているかが判ろうというものである。とりわけ支那大陸に駐在し
ているわが国のメディア情報は、相当偏向していると見て間違いあるまい。

以前、日経新聞記者が中国当局に拘束され、その後反中的?な産経新聞社
が追放されたことがあったが、同様なことが韓国でも先日起きた。セウォ
ル号沈没事故の際に朴大統領の対応を非難した韓国紙情報を引用した加藤
産経支局長拘留事件である。

この時は産経が韓国政府に抗議したのは当然だとしても、わが国のメディ
アが一致団結してこの不法行為に猛抗議したとは寡聞にして聞かない。

タウンゼントが指摘したように、商売優先の新聞社などは、それぞれの利
益を最優先しているのであって、「言論の自由」などと言う大義などはど
こかに吹き飛び、己の利益追求に目がくらんだのだろう。

尤もこれらの“誤情報”というより『捏造記事』で一儲けしたのは朝日新聞
だった。原稿をそろえて提供されて、如何にも自分が取材したかのように
装い、自国?の軍人らを誹謗中傷して恥じなかったが、その後も懲りずに
“妄言老人”の言を信じて?国民をだまし続けた。

このでたらめ記事は、今頃になって真相が暴かれたが、お蔭で我が国の国
際的信用は修復不可能な程大きく傷ついた。その上裏取りもせずに日本国
の文部省が自国の教科書に採用したのだから決定的だともいえた。

情報活動における恐ろしい落とし穴がそこに在る。しかしながらその真実
は、一般人が個別に確認することは不可能に近いから一様に騙される。

その昔「大本営発表」がその典型だとしてメディアによく取り上げられた
ことがあったが、今や“そのメディア”が恥じることなく「大本営発表」を
垂れ流しているのである。

混乱している沖縄問題等はその典型であろう。タウンゼントの指摘に戻ろう。

≪(承前)彼らの情報源は怪しいものがあり、関連情報が故意に削除され
ているから、短期間の滞在では情報の信憑性を確かめる手立てはない。例
えば、誰でもいいが外国のジャーナリストが来ると、すかさず中国政府の
高官と会見の場を設けられる。こういう待遇を受けて舞い上がらない人は
いない。そこですっかり手玉に取られ、高官の言うとおりに、盗賊は根絶
やしにしただの、共産主義は鎮圧しただの、公立学校制度が新しく導入さ
れただの、あと少しで中国の統一が成し遂げられるなど、と手帳に書き込
むのであるが、前から中国にいる人なら、こんな話は「法螺話」としか見
ていない。真顔でこういう法螺を吹いて相手を納得させてしまうのが典型
的な中国人役人である。大都会に多いので注意されたい≫

この手の煽てに乗って「中国にはハエ一匹いない」などとほらを吹いた
“有識者”もいた。タウンゼントのこれらの指摘に従えば、ストレイトの対
日情報が果たして全面的に信用出来るものだったのかどうか?と言う疑問
がわく。タウンゼントは続ける。

≪また、ジャーナリストは中国に来ると、まずアメリカのミッションス
クールなどの慈善団体を巡回訪問し学長インタヴューを行う。こういう施
設は有名だし、喜んでいろいろ話してくれるからである。ところが、こう
いうところで仕入れた情報は、真実ではないとまでは言わないが、誤解を
招く元になりがちである。いずれの団体にもその長たるものはそれなりの
職務というものがある。慈善団体ならばその慈善事業が遅々として進まな
いと取られるようなことは公表できない。地域住民の協力なくしては慈善
事業どころではないから、彼らとのいざこざを暴露するわけにはいかな
い。長とはそうしたものだ。話が弾んだとしても、話すことより隠してい
ることのほうが多いのである≫

この指摘は現在にも適用できる、と言うよりも当時から全く変わっていな
いというべきだろう。いや大戦後、国民党を排除して共産国家になり、専
制独裁主義が徹底している現在の方が、より悪質になっていると考えた方
がいい。更にこう続く。

≪正しい中国情報が伝わらない理由をいくつか述べたが、これだけではま
だまだ危ないと思っている連中が山ほどいる。作家、新聞社、出版社であ
る、こういう連中は寄ってたかって「与太記事」をでっち上げ、いい加減
な本を出し、さも「建設的」であるかのような顔をしている。

つまり、何か都合の悪い事件なり事故なりが起こると「一時的な出来事で
ある」と言い募ったり、「正義の味方が現れ事態を解決する」と抗弁した
りするのであるが、そのようなことは中国に関する限りまずもってありえ
ぬことである。

 新聞や雑誌が経済、政治、道徳などさまざまな話題を提供するのは結構
なことだが、その中で何が有害かといって「進歩的」と称するものほど不
愉快で有害なものはない。

断言するが、本書は決して「進歩的」ではない。本書は真実を知りたい人
のために書いたのであって、面白おかしく生きようとしている人向きに書
いたのではない。ある特定の主義主張のためでもなく、何かを論争するつ
もりもないが、結論めいたことをいえば、「不干渉も悪いものではない」
ということになる。もし、本書に書いてあるさまざまな真実を読まれて、
それでも中国に甘い幻想を抱かれても、それはそれで結構である。

逆に、もしそうならなかったら、それもまた結構なことである。別に本書
は中国の窮状を救うための本ではないのである。

ありのままの中国を紹介するのが本書の主眼である。外国人の多く住む洋
式化した繁華街からはるか離れた僻地の話がほとんどである。こういう話
だからこそ、本当の中国人の様子が浮かび上がってくるのである。

もちろん、上海や天津などの西洋化した港町に中国人は住んではいるか、
彼らは中国人としては例外中の例外である。また外国人が警備する租界が
沿岸にあるが、そういう地区に住んだことのない人の苦労話やら受難の
数々も収めてある≫

タウンゼントに全く同感である。我が国はじめ、欧米諸国が伝える現在の
中国情報も、その殆どが共産党政府による「提供情報」で、登場人物も諸
悪の根源たる“大物”であり、13億人民は政府から情報を拒絶されているか
ら、せいぜいインターネットで知るだけである。その点から見てもタウン
ゼントの指摘は実に鋭いと思う。(元空将)