2016年09月21日

◆蘖(ひこばえ)知ってる?

渡部 亮次郎



少年の頃、実家はまだ囲炉裏だったし、炊事はすべて薪に頼っていた。だ
から春になったら里山での柴刈りに動員されたものだ。何年も前に刈った
柴の根元から生えた新しい芽を鉈で切り取る作業である。

やがて上京して大学に入った。その頃から実家でも燃料はプロパンガスに
なり暖房は石油に代わったから、山での柴刈りのことはすっかり忘れていた。

最近、散歩する都立猿江恩賜公園では、昨年秋、直系30cmぐらいに育っ
た植木を何本も伐採した。ところが新しい春とともに切られた株のねもと
から横へ新しい芽が吹き出した。これを蘖(ひこばえ)と呼ぶ。

子供のころに里山で刈っていた柴もあれはじつは蘖だったのだ。

蘖(ひこばえ)とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
(以下「ウィキペディア」による)。

太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。
春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。

森林伐採の後、切り株からの蘖によって新たな森林ができるようにするこ
とを萌芽更新という。かつての里山はこれによって維持された。カシ類な
どは種子からの株は単独の茎をまっすぐに立てるが、切り株からでた場合
はやや斜め、切り株から外向きにでることが多い。

芽が大きな木にまで成長する頃には切り株自体は枯れて腐って消失する
が、わずかに間を開けて複数の幹が、それぞれやや外向きに伸びていれ
ば、その内側に切り株があったのだと分かることもある。

幹を切らなくても、環境悪化などによって主茎が弱った場合などには蘖が
多数でることがある。

2016年09月19日

◆好きな作詞家星野哲郎

渡部 亮次郎



流しから歌手になった北島三郎は今や歌謡界の大御所だがプロになって初
めて出したレコードは発売早々「放送禁止」になった。「「ブンガチャ
節」で合いの手が卑猥とされたためだった。作詞星野哲郎、作曲船村徹。

ならばと出したのが同じコンビによる「なみだ船」これが大ヒットとなっ
て大歌手北島三郎が誕生した。北島は一滴も呑めない。サイダーが大好きだ。

水前寺清子を売り出したのも星野。「涙を抱いた渡り鳥」「三百六十五歩
のマーチ」など。「恋は神代の昔から」でデビューした畠山みどりも星野
作詞。

かと思うと「黄色いさくらんぼ」という色っぽい作品も星野が書いた。ク
ラブのホステスからかかってきた誘いの電話をヒントに書いた「昔の名前
ででています」小林旭の歌も星野。

美空ひばりの遺作となった「みだれ髪」は塩屋岬へ出かけて書いた。

そういう星野だが運命は数奇。腎臓結核のため下船した船乗り。腎臓摘出
で療養中、作詞したものを投稿したところを作曲家の船村徹に見出されて
作詞家になった。腎臓1つで85まで長生きした。

<星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 –―2010年
11月15日)。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身で、東京都小金
井市に在住していた。各所で「星野哲朗」という表記がされることがある
が、「哲郎」が正しい表記。

妻(1994年没)との間に一男一女がおり、長男はシンガーソングライター
の有近真澄。

1925(大正14)年9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐
に生まれる。1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大
学)を途中結核で休学しながらも卒業。

翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社、遠洋漁業
の乗組員となる。しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざる
を得なくなり、腎臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余
儀なくされる。

闘病期間中に作詞を学び、1952(昭和27)年に雑誌「平凡」の懸賞に応募
した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石本美由紀の勧めで、翌
1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発
表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしなどがいたが、中でも
八反ふじをとは特に親交が深く、後にクラウンレコードで共に専属作詞家
として活躍することになる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マ
ドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査
員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属
契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村
徹の作品を数多く世に輩出することになる。

1964(昭和39)年にクラウンレコードの創設に関わり、同レコードに移
籍、1983(昭和58)年にフリー作家となる。コロムビア時代からを通じて
手がけた歌詞は演歌を中心に4000曲に及び[、数々のヒット作を生み出した。

1996年(平成8年)7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家
協会の会長を務め(2008年(平成20年)6月16日まで)。2001年(平成13
年)10月1日には社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) の会長を務めて
いる(2004年(平成16年)9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日
には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の
名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地であ
る小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与
されている。

1985年(昭和60年)2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」の歌碑が建立
される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の「星野哲郎記
念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない奨学金制度
「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の
病院でで死去。85歳没。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀
所で営まれた。

喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村
徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつ
らいよ」の曲に乗せて出棺された。その後、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に
付された。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

ちなみに旧暦・新暦での違いはあるが、11月15日と言えば坂本龍馬の命日
である。大政奉還を見届けて約1か月後に京都・近江屋で暗殺された英傑
にちなみ、星野哲郎も生涯かけて作詞の金字塔を建てた偉人であるとファ
ンから述懐されている。

星野哲郎の死去に当たり、NHK(日本放送協会)が追悼番組『追悼 作
詞家 星野哲郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンに
て放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ
作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、
そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人
がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにあり
て歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称してい
た。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いた
ことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手
も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想し
て星野が名付けたものである。>ウィキペディア

2016年09月18日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)

血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。

日本医事新報(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性に
ついて、当時の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経
口血糖降下剤の使用があるではないか」と回答している。

これが1970年代の実態だったのである。このような状況に対して、当時の
「日本糖尿病協会」は、インスリン発見50年を迎えて、なおインスリン自
己注射が認められない現状を打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚
生大臣をはじめ関係各方面に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳
情したが全く受け入れられなかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)

このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン自
己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月を
要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。

この年ようやくインスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得
られた。その内容は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200
点加算するというものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影
響をもたらし、血糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要
性と有用性の実証へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略) 2007・05・24


2016年09月17日

◆中国で糖尿病患者が急増

渡部 亮次郎



3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻
化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿
病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。写真は中国の病院。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく
病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え
続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。3日付で環球時報
(電子版)が伝えた。


この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい
肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼
ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しき
れていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障
しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセッ
ト」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8
世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦し
む人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%か
ら、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発
表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億
ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と
比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さ
らにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をし
のぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされ
ているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられてい
る。(翻訳・編集/NN)


2016年09月16日

◆日本の脚気史

渡部 亮次郎



脚気(かっけ)と言っても何のことか分からない人が多い。ビタミンB1
欠乏症で最悪は死に至る病。筆者は子どものころ、疲労回復を急ぐ為,砂
糖を大量にたべたところ炎天下で昏倒。脚気が悪化して心臓が犯されてい
る。良く死ななかったものだ、と診断された。

砂糖でなぜ脚気になるのか。それは体内で砂糖が消化されるためには大量
のビタミンB1が消費されるからである。砂糖を多く食べれば脚気になる理
屈である。

日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない。しかし、
『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されてお
り、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。

江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階
級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に
一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に
町人にも脚気が流行した。

江戸を離れると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経
験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気
が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。

明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京な
ど都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階
級に多発し、死亡率が高かった。

『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年
(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最
小6,500人(1900年)〜最大15,085人(1909年)であった。

ただし当時は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」
が大幅に見落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測され
ている。

大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及
するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚
気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの
患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ2大国民病といわれた。

ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年の26,796人がピークであり、
1915年から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する
1938年まで年間1万人〜2万人で推移した。

ようやく1千人を割ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する
1950年代後半のことであった(1950年3,968人、1955年1,126人、1960年
350人、1965年。

しかし、1975年頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してき
た。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた
今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されて
いる。

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部
の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。

脚気の原因がわからなかった理由として、いろいろな症状があるうえに病
気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者
など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい
食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこ
と、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可
欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。

明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の
遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒
説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。

ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど
西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で
受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。

海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人
医師のウィリアム・アンダーソン(1873年10月−1880年1月に在日)も伝
染病説を信じていた。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤り
であり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原
因と判明したのは後。

先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギ
リス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また
患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。

さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはた
んぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。

その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱ
く質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折
をへて1884年1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の
節約による粗食をまねいていた)が一部みなおされ、洋食への切りかえが
はかられた。

同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予
防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港
した。

乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、
高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医
療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍
の脚気発生率が1883年23.1%、1884年12.7%、1885年以降1%未満と激減し
た。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌年3月1日か
らパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

1885年3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。し
かし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範とし
ていたため、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦
が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死
病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあた
えた。

そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月
25日には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、と
くに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化
吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優
秀の理論は、机上の空論であるとされた。

また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかか
りやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問
をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。

そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回
にわたって公表したものの、1886年2月の公表を最後に学理的に反証しな
いまま沈黙した。

のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する
人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁
(はんばく)の声であった」と述懐したように、高木の説は、海軍軍医部
を除き、国内で賛同を得られなかった。

高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べ
ると脚気が減少する」という有益なエビデンスは得られていた。その後も
海軍軍医部は、日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、
石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判した。

しかし麦飯優秀説について学問上の疑問点をあげて反論されると両軍医と
も沈黙したなど、学問上の疑問点を解消できずにいた(ビタミンを知らな
い当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。

麦食縮小以降、脚気が増加する海軍 。高木の思いに反して兵員には、
「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、1890
年2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され
(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ない
し麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2
割5分まで低下した[11]。

学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の
脚気患者が発生しただけであり、陸軍の脚気惨害と対照的であった。

当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患
者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海
軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっているとさ
れるような状況であった。

ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者
数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚
気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気
の入院率は数%)。

その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医では
なく、栃木県出身で東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局
長になった1915年12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年に「兵食研究調査委員会」を
設置し、1930年まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない
麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、
苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。

1927年から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は
1933年9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし、胚芽米をつ
くる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が
多発する夏に供給するのが困難であった。

このため、現場で研究の成果が十分にあらわれず、脚気患者数は、1928年
1,153人、日中戦争が勃発した1937年から1941年まで1,000人を割ることが
なく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)で
あった。

また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に
下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコー」と呼
ばれた)ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛
けた。

戦前、海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型
まで統計に上るようになった事」(それ以前、神経疾患に混入していた可
能性がある)と指摘されていた。

また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン
欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足
説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、た
んぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」
という信仰がくずれたこととの指摘もある。

海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で
「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米
900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用
した(1894年7月31日)。

ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍省医務局
長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、し
ばしば兵站がとどこおった。とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達
と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口
にする状況であった。

黄海海戦後、1894年10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気
患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮し
た土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年2月15日)。

しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運す
こぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に
至らさりしは、最も遺憾とする所なり」と、結局のところ麦飯は給与され
なかった。

その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したと
される(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、
また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務
令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶
ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた[23])。

下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温とい
う脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食
が貧弱であったため、脚気が流行した。

しかも、1895年9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に
掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難であ
る」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤
有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。

両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しか
し、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒の意
見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を
変えてはならないとした。

そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し
(1896年1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮ま
る兆候がなかった。

ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序
列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入
された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任
と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。

陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人(72.3%)
が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍
夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。

ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人
(79.8%)であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事
蹟』)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人
(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)[など、さまざまな数字
がある。

多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病が
はやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症
したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も
安全とは言えなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年
40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の
戦没者数を大幅に上まわった)。

とくに台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、伝染病がまん
えんし、1895年10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣
没し、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった。なお、台湾で
の惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中
枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っているなか、隠蔽(いんぺい)した
い出来事であった。

上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、
日清戦争とその後の台湾平定をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患
者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮
142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[32])であった。このよう
に陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、
長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと
懇意で、明確な形で責任をとることがなく[33]、陸軍軍医の人事権をもつ
トップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後
年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

義和団の乱での派遣部隊脚気流行 [編集]トップの陸軍省医務局長が小池
正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃発
し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が
派遣された[34]。そのときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支障
が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の給
与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の
脚気患者がでた[35]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。

1901年5月31日、凱旋した第5師団にかわって清国駐屯軍がおかれたとき
(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長にあたえた訓示は、上記
の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した
麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった。

なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』につづけて投稿(1901年5月と7月
に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因
という認識をしめした。

しかし、翌1902年4月の『明治33年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』に
は、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣
をつとめ、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11
師団に異動した。

日露戦争での陸軍脚気惨害

日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸
軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部
長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵
食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。

その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送
るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった
(近代地上戦での想定補給量の一例)。さらに「麦は虫がつきやすい、変
敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、その上、脚
気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこ
がれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世
情を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせた
いという心情があった。

しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温
の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦
飯が給与された。

翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、
精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の
大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さ
らに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直
(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医
トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづ
いた。

陸軍省編『明治37,8年戦役陸軍衛生史』第2巻統計、陸軍一等軍医正・西
村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数
999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦
地入院251,185人(25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異な
る])。

戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患
者140,931人(概数)をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生し
た(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、歩兵1.88%、騎兵
0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒
5.32%であり、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高
い(1904年2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人につい
で30,559人と多く、過酷な条件のもと任務についていた)。

入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡し
たと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。

陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置

森林太郎

小説家としての森鴎外で著名陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦
争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。

世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法
案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げつづけて孤軍
奮闘するなか(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおっ
た)、1908年、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された
(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日
陸軍大臣官邸で発足式)。

当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局
長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長
官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。

その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題
を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、
多額の陸軍費がつぎこまれた。


北里柴三郎発足当初の調査会は、委員長(森・医務局長)と幹事(大西亀
次郎医務局衛生課長)、委員18名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学
医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計22名で構成された。

委員18名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍
医が参加したほか、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大2名、東京
帝大3名、不明2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)で
あった。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)
で、定期的に発表された。

ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査

ロベルト・コッホ調査会の発足式が開かれる直前の1908年6月22日、森
(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学
者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテル
で会っていた。

脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリ
ベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、さっそくバタ
ビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試
験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。

1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝
染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日〜11月28日まで滞
在)、現地では白米をやめて熟米と緑豆などを食べるようになっており、
また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者
がほとんどいなかった。

それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが
明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)がみつからず、食物
原因説に傾くこともなく、歯切れの悪いあいまいな原因論を報告した。

ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)と
ともに伝染病説を支持しつづけ、都築が栄養欠乏説に転換した。

未知栄養素の抽出

都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発

クリスティアーン・エイクマン「動物実験とヒトの食餌試験」という新手
法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった。都築は、動物
脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年3月の調査会と4月の
日本医学会で発表した。

動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいる
ことを公表したのである。また1911年、都築と志賀潔(1910年8月委員と
なる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効
否試験を行った。

その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値
ではなかったものの、試験をかさねる価値は十分あった。しかし、都築が
12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったた
め、米糠の効否試験は1年で終わった。

都築は、翌1911年4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」
を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮によって調査会でも
発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのよ
うにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり
理解をしめしていたとの見解もある)。

その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するととも
に、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した
卓越した業績であった。

さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定
し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の
発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通
用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないも
のだった。

「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究にはげみ、ついに
その製剤を治療薬として販売した(1911年4月アンチベリベリン粉末・丸
などを販売。同年9月、注射液を販売)。

有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)の
アンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期
のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。

鈴木梅太郎のオリザニン発見

農学者の鈴木梅太郎は、1910年6月14日の東京化学会で、「白米の食品と
しての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。ニワトリと
ハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には
脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏
していることを認めた。

糠の有効成分につよい興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめ
ざして努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年
1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。

とくに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどま
らず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビ
タミンの概念をはっきり提示していた。

ただし、糠の有効成分を濃縮して樹脂状の塊(粗製オリザニン)を得たも
のの、結晶にはいたらなかった。1912年(明治45年)、ドイツの『生物化
学雑誌』に掲載された論文で、ピクリン酸を使用して粗製オリザニンから
有効成分を分離製出、つまりオリザニンを結晶として抽出したこと、その
方法などを発表した。

しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、
都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられな
かった(8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリ
ザニンを使った脚気治療報告を行った)。

なお、上記のオリザニン結晶もニコチン酸をふくむ不純化合物で、純粋単
離に成功するのが1931年(昭和6年)であった。その純粋単離の成功はオ
リザニンが販売されて20年後のことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気
病研究会で香川昇三が「オリザニンの純粋結晶」は脚気に特効のあること
を報告した。

医学界の混乱 [編集] 臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査 [編
集]都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年
(明治44年)6月〜翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた。

しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差があり、
また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気発生の
関係について明確な結論をえられなかった。

他方、外国など各所の脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調
査していた。とくに東南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の
欠乏による欠乏性疾患」と結論される段階にまで進んでいた。

しかし国内では、依然として伝染病説と中毒説の勢いがつよく、「未知栄
養欠乏説」はなかなか受けいれられず、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤
がつづいた。

混乱した要因 [編集]国内の脚気医学が混乱していた要因として、3つの
ことが挙げられる。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試によ
り、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をもたら
したことである。

端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気が同じなのか違うの
か」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」が争点になったので
ある。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚気(多様な症状と流
動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類似点と相違点のどち
らを重要視するかのという選択の問題でもあった。

その意味で、そもそも脚気患者をみたことがないヨーロッパの研究者と異
なり、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤り
といえない[58]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行
に便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究
グループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気の
ギャップをうめる研究が必要であった。

後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分か
れた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時
は、糠の不純物をとりのぞいて有効成分を純化するため、アルコールがつ
かわれていた。

しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出
されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を
上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をし
なくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かった)。

したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが
難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」と
も解釈できるような状態であった。

第2の混乱要因は、脚気伝染病説が根づよく信じられていたにもかかわら
ず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否
定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が
『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林
春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張
した。もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たち
まち医界で受け入れられ、その後も根づよい支持があった。

当時の東京帝大では、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長
与又郎・緒方知三郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏
説」に反対していた。

第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。
アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス
(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべて
が不純化合物であった。

たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが上記のとおり1931年(昭
和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オリザニン「純粋結晶」は
脚気に特効のあることが報告された。

ビタミン欠乏説の確定 [編集] 欧米のビタミン学の影響

カジュミシェ・フンク国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミ
ン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミ
ン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)
に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介
され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本で
フンクの新概念が世界の医界で定着した。

結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。1917
年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・
内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変
説[59]。1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)が
ビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三
委員が10月16日に代理報告)。1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9
月、臨時委員となる)が日本食に脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証
明し、脚気ビタミン欠乏説を唱導。

1921年(大正10年)、大森憲太(慶應大)と田口勝太(慶應大)が別々に
ヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違いない
と主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した
(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。

臨時脚気病調査会による確定 [編集]1922年(大正11年)10月28日、秋の
調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミンに
関するものであった。

翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、脚気の原因が「ビタミン
B欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加わったもの」なのかに絞ら
れていた。そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、
調査会の予算2万円のうち8千円が使われることになった。

1924年(大正13年)4月8日の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚
気の原因は、ビタミンB欠乏である」ことが99%確定した。99%というの
は、実験手法の誤差の範囲について島薗が厳密すぎて研究を深めることを
主張したためである。翌1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミ
ン欠乏説が完全に確定した[60]。

1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が
廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由
とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であること
から、翌1925年(大正14年)6月3日、いつものとおり陸軍省第一会議室で
報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があった。

その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時からの最
古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる(元
委員がすべて参加)。

なお、16年間に委員として39名、臨時委員として13名が参加した調査会で
は、上述のとおり第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の
研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。

その中には、個人の業績として公表されたものも含まれる。また、脚気ビ
タミン欠乏説を確定した調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員
のすべてが参加)となるなど、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の
基礎をきずいたと位置づける見解がある一方、成果を挙げられなかったと
する見解もある。

治療・予防法の確立へ [編集] 脚気病研究会の創設と中絶 [編集]1925年
(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止をうけて創設
された[63]。翌1926年(昭和元年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研究
報告がなされた。

とくに東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭和7年)に鈴木梅太
郎の「オリザニン純粋結晶」[64]が脚気に特効があることを報告した。

さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927
年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが
脚気の原因であるのかが問われていた)。

また、胚芽米の奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状
態者がいることを認め、1934年(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」
と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでな
く、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気
医学に新生面をひらいた。

そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療薬と
しての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてきた。

しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12年)4
月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、
地味な学術研究よりも時流の戦時医学にむけられた。脚気病研究会は、以
後、中絶された。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった
(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタ
ミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこ
と、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分
の摂取が困難であったことが挙げられる。

ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発 太平洋戦争末期の1944年(昭
和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然「ビタ
ミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した。

会員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸
軍大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似てい
た。ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を
命じられることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年
(昭和29年)以降)としてつづく。

1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、
ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質がで
きると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究をす
すめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリ
シンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリ
チアミン」と命名)。

そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸管からの吸収がきわめ
てよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミン
B1にはない特性があることを報告した。B1誘導体アリチアミンの特性に
は、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、その新物質の本体を解
明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品工業は、アリチアミンの製
剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発
を依頼されたこと)。

多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する製品開発につとめた結
果、ついに成功したのである。1954年(昭和29年)3月、アリチアミンの
内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発
売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。

その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会に
もひろく歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。1968年(昭和43
年)までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。

アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性
脚気が退治されることとなった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25
年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、
1965年(昭和40年)92人と減少したのである。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し、原因には砂糖の多い飲食
品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンク
フードがあることが分かった。

脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による食事療法を希望した
とき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学そのものへの不信を
いだき、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたため、侍医団は天皇の糖
尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったのではないか、ともいわれ
ている。

明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医
等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学
の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を
投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取りいれはじめた。これが
効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある。

 
 

2016年09月15日

◆インスリンに思う

渡部 亮次郎



日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。


田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。


1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中には日
に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。


仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。


わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。


だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。


糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。


「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。


当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。


昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。


突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。


その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。
膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。


そこからインスリン発見の物語は更に後である。


人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。


Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。


ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。


それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。


膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。


早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。


彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。


しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。


1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。


2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。


アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。


21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。


これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。



19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。


1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。


2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。


日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。


一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。


それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。


日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。


日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。


だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。


出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」


       

2016年09月13日

◆習近平は中共最後の国家主席

渡部 亮次郎



「習近平は中共最後の国家主席」と国際政治学者の藤井厳喜氏が11月15日
付けの新聞「青年運動」に執筆している。「ウィキペディア」によれば、
藤井厳喜(ふじい げんき、本名:藤井昇、1952年8月5日―)は、日本の国
際問題アナリスト、未来学者、評論家。保守派言論人として知られている。

東京学芸大学附属高校卒。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、クレアモ
ント大学大学院修士課程、ハーバード大学大学院博士課程修了。専門は国
際政治。

現在、拓殖大学日本文化研究所客員教授、警察大学校専門講師、株式会社
ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ・オブ・ジャパン代表取締役。

論文の要旨を紹介するが、国家主席就任に先立って「最後の主席」と論じ
「共産中国の終焉」を指摘したのは藤井論文が初めてである。
「秦帝国は万里の長城建設のために崩壊した。「中共 は海洋国家を目指
した為に滅亡する」と言っている。

「中共体制の崩壊を物語る兆候は、あらゆる分野で噴出している。貧富の
差の拡大による暴動の多発、富裕層の海外への逃避、止むことのない共産
党幹部の腐敗、闇雲な軍事的膨張主義、国内の環境汚染の深刻化、等々、数
え上げればきりがない」

「最も強烈に中共体制の命運が尽きたことを思わせるのは、遂に胡金錦濤
指導部が第18回共産党大会で、建国の父・毛沢東の思想を党の規約から外
す動きを見せていることだ」

「経済発展を重視するトウ小平理論が党の基本方針となって来た。
その結果、貧富の格差が広まってしまった現在では、毛沢東の革命思想は
極めて危険な反体制の思想となりうるからである。毛沢東の作った党が毛
沢東思想を否定し、共産党が共産主義思想を否定するのである。これ程
明々白々且つ巨大な矛盾は存在しない」

「今日のシナにもし若き毛沢東がいたならば、彼は間違いなく共産党を打
倒しようとするに違いない」

「過日の反日デモでは、毛沢東の写真を掲げて“打倒共産党”というプラ
カードが出現するまでに至った。毛の写真を掲げながら
“薄煕来を人民に返せ”と叫ぶデモ参加者も目撃されている。共産党幹部は
薄煕来を失脚させた上、遂に大衆の毛沢東思想まで禁止せざるを得なく
なったのである。

「あらゆる帝国の崩壊に共通したパターンが存在する。それは帝国の版図
が最大限に達した時に、帝国の崩壊が始まるという法則である。拡大しす
ぎた帝国を維持するためには膨大なメンテナンスコストが必要となるが、
このコストに押しつぶされるかたちで帝国は滅亡への道を歩み始める」

「本来は大陸国家(ランドパワー)の中国が南シナ海に進出し、更に尖閣
列島を含む東シナ海を侵略しようとしている。航空母艦を中心とする海軍
機動隊まで編成して海洋国家(シーパワー)になる為に必死の努力を続け
ている。」

「冷徹なる地政学の法則に従えば、ランドパワーがシーパワーに変身する
事はあり得ない」

「中共にとっての空母機動部隊は、秦帝国にとっての万里の長城となるで
あろう。万里の長城は完成したが、建築に国力を使い尽くしたため帝国は
たちまちのうちに崩壊した」

「中共は経済的にあらゆる無理を押し通して軍拡に邁進しているが、その
負担が支配体制を蝕む深刻な病弊と化してゆくだろう。ソ連邦はアフガニ
スタンに侵攻し、その版図を最も拡げた時から崩壊のプロセスが始まっ
た。尖閣侵略や台湾併合は、シナ共産党の終わりの始まりを告げる予兆で
ある」

習近平の任期は向こう10年。それまでに中華人民共和国はおかしくなって
いるという「予言」である。2012・11・13






2016年09月12日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06


2016年09月09日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎
 
  

北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと
怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も
言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っている
のだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と
思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まった
く的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいの
である。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らす
だけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与
えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が
五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは
当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために
注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるとい
う言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうか
い)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知ら
ないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃ
になったことがある。

お茶の水女子大学教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新
潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝
心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。
共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろ
う。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければま
ずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意
がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」
だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様
は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に
日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。
保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角
さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福
田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな
政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内
閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相
が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの
各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが
人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは
実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみ
に立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領
様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分
たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人の
いけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締
結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけて
きて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。
こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書
として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃ
ないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北
としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分
のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条
件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだか
ら、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫
氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が
日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほど
の損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技
術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど
が日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわ
けがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でい
い、東京では「馬鹿」と嗤う。(了)        再掲

2016年09月08日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎



1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始
され、それを記念してNHKが制定したのが「のど自慢の日」。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関
だった。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHK
ラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHK
が制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関で
した。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験戦争ムードに
反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」

   作詞:和田隆夫
   作曲:八州秀章
1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る
この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。で
もあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは
何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日
本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、
教会の所有ではない礼拝堂を指している。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場が
チャペルだ。
でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無い
が・・・)
白いチャペルか・・・
フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。
ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを
一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中
でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあっ
た。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌と
はあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を
聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属になってある夜、新宿のスナックで唄っていたら、見知らぬ男
に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺に
は「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転
身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。

あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴
くものと心得ている。

2016年09月07日

◆北米諸国 売春の現状

渡部 亮次郎



北アメリカにおける売春の合法性アメリカ合衆国では国家レベルでの
全面禁止はされず、州の裁量に任されているが、ネバダ州以外では禁
じられている。

ネバダ州でも一部の許可地域以外では禁じられている[とは言うものの、
レンタカーを借用して輪姦事件を起こした兵士に対して、「レンタカー
を借りる金があれば売春婦を買えば良い」と発言した軍の高官が更迭
されたのが国家の姿勢である。

近年は、韓国女性が米国まで「遠征売春」をしており、米中部内陸まで
広がっていることが伝えられている。ロサンゼルス警察局の関係者によ
ると、毎月逮捕される売春女性のうち、9割が韓国人であるとしている。

また、サンフランシスコでは、売春取締りにかかる費用が莫大な額に上
ることから、費用節約の観点から、女性の意思に基づく売春であれば事
実上黙認するとの運用が検討されている。

カナダでは売春は適法である。しかし売春禁止法により、斡旋行為や売
春宿の経営、売春で生計をたてることは違法とされている。そのため、成
人の女性がバイトで単発的に行う売春のみが合法とされる。

ただ、実際は斡旋行為等は事実上広く行われているとされる。カナダの
HIV/AIDSの法律家ネットワーク Legal Network は2005年12月13日、この
法律がセックスワーカーの健康と生命を脅かしており、廃止するべきだと
する報告書を発表し、下院議員リビー・デーヴィス Libby Daviesを中心
にこの問題についての議論が継続されている。

南アメリカ諸国の事情

南アメリカにおける売春の合法性チリでは売春は合法である。実際には、
目立たない形で広く行われている。性風俗業はいくつかの形態で存在し
ている。一種の高級バー、アパートの1室で売春を行うSAUNAといわ
れるもの、街娼などの形態がある。

売春婦の多くは、売春しか生活の糧を稼ぐ手段がない貧しい層の女性であ
るといわれている。2007年には売春婦であるマリア・カロリナがチャリ
ティーのために「27時間の性行為」をオークションに出品し話題となった。

ブラジルでは売春は合法である。売春の広告を出すことは違法とされる
が、一般新聞の広告欄には堂々と掲載されている。売春婦はプータ(蔑称
であるため放送禁止用語である)と呼ばれ、貧民層出身の女性が生活費を
稼ぐために仕方なく売春を行っているケースが多い。

しかし現実には、予期しない妊娠によって男に捨てられ、子供を育てるた
め売春業に参入する場合がほとんどである。国内ではマフィアによる組織
売春や奴隷売春なく、原則として自由業である。

このことは、ブラジルにおける売春の利益が他国と比べて小さいことによ
る。メキシコでは売春は違法であるが、放置されており、事実上黙認され
ている。

メキシコ国境付近の町ティフアナでは、条例により売春婦に保険証を交付
したり、売春宿の衛生管理に市が介入することを認めた。メキシコではこ
うした例が多いため、事実上売春は合法であると指摘される。

2016年09月05日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎



福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派
担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90
歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草
のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪
左遷からNHK東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直
(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってき
た電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事
か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横
滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるもの
を始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大
臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、
形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨
拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると
言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口
しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談
は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、
「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連
絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。い
わゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う
事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さん
から聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<@首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化
にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

A退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

Bところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤は
その頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポン
サー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

C後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政
権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平
のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くな
る)。

D福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石
大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で
出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに
臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出
馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、
密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になる
からである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福
田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態
勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっ
ていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による経
歴。

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(第20代金
古町長)の次男として生まれた。福田家は江戸時代には庄屋をつとめた地
元の名門であった。

小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一
高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に1番の成績で入省し
た。

だが、1948年に昭電疑獄が起こると、当時大蔵省主計局長だった福
田は収賄罪容疑で逮捕された。結局、無罪にはなったものの、これを機
に大蔵省を退官した。

大蔵省では官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経
て戦後、主計局長。

1948年9月13日、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。その後、大蔵
省を退官。

1952年10月、無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

1958年6月、党政調会長に就任。

1959年1月、党幹事長に就任。

1959年6月、農林水産大臣に就任。

1960年12月、再び党政調会長に就任。

1965年6月、大蔵大臣に就任。

1967年2月、党幹事長に就任。(2度目)

1968年11月、再び大蔵大臣に就任。

1971年7月、外務大臣に就任。

1972年7月、自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。

1973年11月、3度目となる大蔵大臣に就任。

1974年12月、副総理・経済企画庁長官に就任。

1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。
@福田総裁に任期は2年 A幹事長は大平)

1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入
し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな
集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢
から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けること
になる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」
とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天
の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞
任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章

2016年09月04日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎



経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだ
から起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総
書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、
習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話
を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」
と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と
危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げて
いる。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾
で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量
の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して
緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与
えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政
治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴
露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」
に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部
の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているか
ら起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は
決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならな
い。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化す
ると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、
共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。
                        (再掲)