2016年12月24日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎



国歌「君が代」は1999(平成11)年に国旗及び国歌に関する法律で公認さ
れる以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になって
イギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌
「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の
林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)
年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」
完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)
により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれ
て、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範
に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説
を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおと
なりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の
春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』
と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知ら
ず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治
21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻
と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきな
く常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりな
き御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという
考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった
『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が
代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀
歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた
(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の
歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それ
まで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させる
べく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なよ
うに、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日
本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか
天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替え
て、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような
状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時
の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉
唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自
由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張し
た。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺
し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板
挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関
する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はした
ものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉
唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄
(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚
げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、
強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われてい
る。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがな
いわけではない。08・10.25
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年12月22日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本
能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り、人権
尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改
革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特に
アメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5



2016年12月21日

◆デュポンの始めは爆弾屋

渡部 亮次郎



1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンと
ニューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を訪
ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コン
ピューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので、当時は
仰天したが、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョ
コヒョコ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行ってみ
よう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州の
Brandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・
ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さ
だ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅
で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品で
知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕
組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖
炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているの
を見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だっ
た。柱時計を売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみ
ついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日が
かりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持
ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できな
いから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界
第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

米国法人である E. I. du Pont de Nemours and Company (イー・アイ・
デュポン・ドゥ・ヌムール・アンド・カンパニー)はデラウェア州ウィル
ミントン市にある。創業は1802年。

資本金は7,935,000,000ドル。創業者はフランス出身のエルテール・イレ
ネー・デュポン。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの3大
財閥と称される。

フランス革命を避けて一家で移住したエルテールは、アントワーヌ・ラ
ヴォアジエに師事した後、黒色火薬工場としてデュポン社を設立。

徹底的な品質管理と安全対策、高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取
り、やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するように
なった。

南北戦争期や西部開拓時代に成長し、アメリカ最大の火薬メーカーとなる。

第1次世界大戦・第2次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マン
ハッタン計画(原爆開発)に参加し、テネシー州のオークリッジ国立研究所
でウラニウムやプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

また草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンは
1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に
就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一
の自動車会社へと成長した。

また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製
作も行った。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。

しかしシャーマン・アンチトラスト法によって1912年には火薬市場の独占
が、1950年代にはGM株の保有が問題視され、火薬事業の分割やGM株放出な
どを強いられている。

1912(大正元)反トラスト判決によって3社に分割。1915(大正 4)デュポ
ン・ド・ヌムール社、設立。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研
究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロ
ンなどを発明した。

1931(昭和 6)ネオプレン(合成ゴム)、1935(昭和10)ナイロン、1944(昭和
19)テフロン(フッ素樹脂)などを開発。

さらにテフロンRなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開
発し取り扱うようになった。2世紀にわたる歴史の中で、M&Aを繰りかえす
典型的なアメリカのコングロマリット企業といえる。

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その
研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし過去には火薬やナイロン製品などを大量に軍へ納入しているほか、
化学兵器や核兵器開発に関与するなど、戦争ビジネスで財を築いた死の商
人としての側面もある。

また環境問題でもデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテ
フロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への
危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで
合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。

また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、
CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。

オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンは
CFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を
続けていた。

その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロ
カーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリー
ダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問
題視されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア』2007.04.18


            

2016年12月20日

◆中国で糖尿病患者が急増

渡部 亮次郎



30年で10倍、医療費が重い負担に―英メディア


3月31日、英メディアは「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく病』が深刻
化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え続ける糖尿
病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。

2012年3月31日、英ロイター通信は「中国でいわゆる『金持ちのぜいたく
病』が深刻化、医療システムが厳しい課題に直面」と題した記事で、増え
続ける糖尿病患者に頭を抱える中国の現状を報じた。3日付で環球時報
(電子版)が伝えた。

この30年で中国人の生活は空腹に耐え忍ぶ毎日から、ウエスト周りのぜい
肉を気にするまでに急変した。これに伴い、「金持ちのぜいたく病」と呼
ばれる糖尿病などの病気も急増しているが、現状の医療制度では対応しき
れていないというのが現状だ。

こうした慢性疾患の治療費急増が、14億の国民に最低限の医療保険を保障
しようとしている中国政府の重い負担となっている。医学雑誌「ランセッ
ト」によると、中国で高額医療費に苦しんでいる世帯は2011年時点で、8
世帯中1世帯の割合に上ることが分かっている。

生活レベルの向上に加え、平均寿命が延びたことにより、慢性疾患に苦し
む人が増えている。例えば、糖尿病の罹患(りかん)率は1980年の1%か
ら、現在は10%近くにまで増加した。これは米国人の罹患率とほぼ同じだ。

シンガポール国立大学の公衆衛生大学院とハーバード公衆衛生大学院が発
表した白書によれば、中国の2011年の糖尿病関連の医療費は年間約170億
ドル(約1兆3900億円)。全世界の総額4650億ドル(約38兆2000億円)と
比べれば微々たるものだが、これは中国の医療費全体の約5%を占め、さ
らにその割合は今後13%にまで上昇するとも予測されている。

米国で糖尿病関連の医療費が全体に占める割合は約10%。もはや米国をし
のぐ勢いといえるだろう。中国には現在、約9200万人の患者がいるとされ
ているが、これが2030年には1億3000万人にまで増加するとみられてい
る。(翻訳・編集/NN)


2016年12月19日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えて80になった。。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報
(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時
の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だった
のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン
スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を
打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面
に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ
なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)
 このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン
自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月
を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイ
ンスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容
は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという
ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血
糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証
へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24

2016年12月18日

◆日本のかつお・まぐろ漁

渡部 亮次郎



日本のかつお・まぐろ漁、なぜ衰退が続くのか

世界のかつお・まぐろ類の消費量の伸びは著しい。漁獲量も1982年の
190.1万トンから2012年には488.9万トンと、約2.6倍にも拡大している。
とりわけ、かつお類の漁獲量の伸びは大きく、世界のかつお・まぐろ類の
漁獲量の57%を占めて279.5万トン。30年間で約3.5倍の伸びになる。

漁獲枠「半減」では不十分、マグロが消える日

その一方で、かつては世界一の漁業国であった日本の地位が低下してい
る。総漁業量は1982年時には1282万トンだったが、2012年には484万トン
と3分の1に激減。中国などに後れをとり、いまは世界第8位に甘んじてい
る。かつお・まぐろ類の漁獲量に関しても、日本は45.8万トンで世界第2
位を維持しているものの、第1位のインドネシアの66.6万トンに大きく引
き離されている状態だ。

このように苦戦する日本の漁業だが、その理由は何なのだろうか。

■ 深刻な高齢化問題

自民党本部で5 月26日、かつお・まぐろ漁業推進議員連盟第7回総会が開
かれた。総会には新代表に就任した鈴木俊一元環境相や副会長の小野寺五
典元防衛相など議連のメンバーの他、「日本かつお・まぐろ漁業協同組
合」、「一般社団法人全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」と「一般社団
全国近海かつお・まぐろ漁業協会」が参加した。

 さらに管轄官庁である水産庁に加え、国土交通省や厚生労働省、さらに
外務省や法務省、財務省からも関係法規の担当者が出席し、日本のかつ
お・まぐろ漁業が直面する諸問題について話し合った。

 今直面している課題・・・そのひとつは高齢化問題だ。

 「全国遠洋かつお・まぐろ漁業者協会」によると、2012年時の同会所属
船の年齢構成は平均56歳で、60歳以上が37%を占める。さらに新規就業者
は5名にすぎず、同協会は船員確保と育成が喫緊の課題だと訴えた。
 実際に高齢化問題は深刻で、水産庁のデータでは漁業就業者は約18万人
で、過去10年間で3割減少した。遠洋まぐろはえ縄漁では60歳以上の就業
者が42%を占めており、50代をも含めると、全体の83.3%にも上る。

政府は漁業の存続のため、毎年度2000人の新規就業者を確保すべく、「新
規漁業就業者総合対策支援事業」として本年度予算に6億1400万円を計上
した。また「沿岸漁業リーダー・女性育成支援事業」に3300万円、「安全
な漁業労働環境保全確保事業」に1900万円を充てている。

しかし根本的な問題を解決せずして、漁業の問題は解消されない。日本の
漁業にとって乗り越えなくてはいけないのは、コストの増大と年々厳しく
なる国際環境だ。

■ 高騰する入漁料

コストに関しては昨今の急激な円安による燃料費の高騰もあるが、より深
刻に関係者を悩ませているのは高騰する入漁料など国際環境の変化に基づ
くものだろう。

2014年6月にナウル協定加盟国(PNA:パプアニューギニア、ソロモン諸島、
パラオ、ミクロネシア、キリバス、ナウル、ツバル、マーシャル諸島で構
成)が2015年1月から1日あたりの入漁料(VDS)を8000ドルに引き上げたこと
は、日本の遠洋漁業に大きな衝撃を与えた。PNAのEEZ(排他的経済水域)は
日本にとって海外まき網漁獲量の9割を占めているからだ。

そもそもPNAがVDSを導入した2005年以前では、南洋海域での入漁料は漁船
1隻あたり年間約2000万円で、操業日数に制限はなかったのだ。さらに
2012年に最低価格制度が導入されてから、入漁料はいっそう高騰。水産庁
は日本が払うべきこうした入漁料は2015年には55億5600万円に達すると見
込んでおり、漁船1隻あたり必要とされる入漁経費は年間1億7000万円を超
えると予想されている。

「VDSが導入されて、外国は1日あたりの漁獲量が増えるように漁船を大型
化した。一方で日本は国内の利害調整ができなくて、水産庁が漁船の大型
化を許さなかった」

日本漁船の建造が法律で制限を受けていた間に外国に引き離されたと述べ
るのは、かつお・まぐろ議連で事務局長を務める自民党の井林辰憲衆院議
員だ。井林氏の地元は焼津港を擁する静岡2区。焼津港は全国トップクラ
スの水揚げ量や水揚げ金額を誇り、かつお漁やまぐろ漁の大拠点地でもある。

東洋経済オンライン 5月28日(木)8時50分配信を参照。
 

2016年12月17日

◆廃娼運動の歴史

渡部 亮次郎



日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していたが、明治5年に、明治
政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと
試みた。しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年に至り公娼制度
を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。1908年には非
公認の売淫を取り締まることにした。

大東亜戦争後の占領下、当時のGHQ司令官から公娼制度廃止が要求された
ことに伴い、1946年に娼妓取締規則が廃止され、1947年に、いわゆるポツ
ダム命令として、婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令(昭和22年
勅令第9号)が出された。

公娼制度は名目的には廃止されたが、赤線地帯は取り締まりの対象から除
外されたため、事実上の公娼制度は以降も存続した。なお、一部の自治体
は同時期に売春それ自体を処罰する条例を制定している。

昭和23(1948)年の第2回国会に、売春等処罰法案が提出された。しか
し、処罰の範囲等に関する合意の形成が不十分であったため、厳格すぎる
として審議未了、廃案となった。

しばらく間を置いた後の1953年から1955年にかけて、第15回、第19回、第
21回、第22回国会において、神近市子ら女性議員によって、議員立法とし
て同旨の法案が繰り返し提出された。しかしこれらは反対多数に遭い、い
ずれも廃案となった。

第22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は
法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。

1956年、第4回参議院議員通常選挙を控える中で、第24回国会が召集され
た。自由民主党は選挙に向けて女性票を維持および獲得しようとの狙いか
ら、売春対策審議会の答申を容れて、一転して売春防止法の成立に賛同した。

法案は5月2日に国会へ提出され、同月21日に可決された。売春防止法は翌
年の1957年4月1日から施行されることになったが、刑事処分については1
年間の猶予期間が設けられ、1958(昭和33)年4月1日から適用するものとさ
れた。

法律が成立して以降も赤線業者は自由民主党の国会議員に接近し、同法を
撤回すべしとの説得を試みた。これに応える形で、自由民主党は1957年5
月に風紀衛生対策特別委員会(略称:風対委)を設置し、審議の場とした。

赤線業者は、転廃業のための満足な猶予期間および国家補償が必要である
として、猶予期間の延長を求め、即時の施行に反対する姿勢を示した。ま
た、自由民主党に対しては、全国で63の市町村長、1の県議会議長、37の
市町村議会議長、25の自由民主党支部長、151の商工会議所から、法の完
全な実施を延期すべきであるとの陳情書が提出された。

1958年4月1日、売春防止法は施行における猶予期間を経過し、以降も売春
の業を営む者に対しては刑事処分が課せられることになった。摘発事例は
少ない。

だから、現在公認の娼婦街は無いが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅
館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の下に、
1958年以前と変わらない営業を継続している地域がいくつもある。

また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風
俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所が
ある。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・11・24

2016年12月16日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年12月15日

◆カツ丼で勝てるか

渡部 亮次郎



受験生や試合に臨むスポーツ選手の「勝つ」という験担ぎのために、前日や当日にカツ丼が食べられる事がある。ただし、カツは消化に時間を要するため、食べるタイミングによっては、逆効果となる事がある。

同様に公営競技関係の施設では、ギャンブルで「勝つ」という験担ぎと洒落を込めて、場内の食堂などでカツ丼を「勝丼」と称す事もある。

福田赳夫さん(第67代総理大臣)は、旧制高校の受験に来て上野駅前の旅館で食べた刺身が一番美味しかったと答えたが、田中角栄さん(第64・5代総理大臣)も初上京して着いたところはやはり上野駅だったが、美味しかったのは「天丼」だったと答えてくれた。

角さんには彼の幹事長時代、銀座ですき焼きをご馳走になったことがあるが、砂糖抜きで塩辛くて参った。

私は総理大臣経験者では無いが、初めて上京して美味しかったのは天丼や刺身ではなく「カツ丼」だった。ところが、選挙取材で訪れた岡山市では、カツ丼にかかっていたのはデミグラス・ソースだったので、ちょっと、戸惑った。

岡山市の名物料理。デミカツ丼とも。ドミグラスソースをカツの上にかける。キャベツを敷き、グリーンピースを載せるのが特徴。生卵をのせて出す店もある。ソースのベースはフォン・ド・ヴォーや中華スープ、煮干しの出汁など様々である。

東京都でも確認された事例があり、こちらは池袋の洋食店が発端となり弟子筋が広めたとのことである。なお、東京での事例は、丼飯の上に揚げたてのトンカツを置き、その上からドミグラスソースをかけるという様式であった。

大阪市ではドミカツ丼とは呼ばないが、ビーフカツ丼がドミグラスソース味である場合がある。

卵とじカツ丼は、現在、日本で最も一般的なカツ丼である。一部地域を除いて単に「カツ丼」と呼んだ場合は、この卵とじカツ丼を指す。

卵とじカツ丼の具は、玉ねぎとトンカツを割り下(出汁と砂糖と醤油で作る日本料理の基本的な調味料)で煮て、溶き卵でとじたものである。

上にミツバやグリーンピースなどを散らしたり、それらを具とともに軽く煮る場合もある。1921年に早稲田大学の学生・中西敬二郎が考案したという説や新宿区馬場下町の蕎麦屋三朝庵の店主が考案した説がある。玉子丼や親子丼と似た料理法。地域によりカツと卵の上下が逆転する。

通常、単にカツ丼と呼んだ場合には、豚カツが用いられるが、その他ビーフカツ・チキンカツ・メンチカツ・ハムカツ・エビフライ・カキフライ・魚のフライなどで同種の料理を作る場合もあり、2種類以上のカツを組み合わせる場合もある。トンカツ以外のカツを用いる場合にはそれを呼称する場合もある。

卵とじカツ丼の具を丼飯にトッピングせず、別に盛って出す様式もあり、「カツ皿」(カツさら)や「カツ煮」(カツに)、「別れ」、「アタマ」等と称される。(大阪では、カツを煮ず、丼飯の上にカツを乗せ、その上から溶き玉子で閉じる様式もある)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年12月14日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を
殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身し
たみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。 2007.01.18


2016年12月13日

◆鰻は冬が美味なのだ

渡部 亮次郎



土用の丑の日や夏バテ予防に食べられるが実際はウナギの旬は冬で、秋か
ら春に比べても夏のものは味が落ちる。「夏バテ防止の為に土用の丑の日
に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平
賀源内が考案した広告コピーが基との説がある。

しかし夏バテを防ぐためにウナギを食べる習慣は、日本では大変古く、万
葉集にまでその痕跡をさかのぼる。すると源内が言い出すまで、夏バテ
云々は廃れていたのかもしれない。

うなぎは高タンパクで消化もよく、日本料理の食材としても重要で、鰻屋
と呼ばれるウナギ料理の専門店も多い。

皮に生息地の水の臭いやエサの臭いが残っているため、天然、養殖を問わ
ずきれいな水に1日〜2日いれて、臭みを抜いたものを料理する(泥抜き・
臭み抜きと呼ばれる)。

1970年代、NHK大阪勤務の頃は昼飯時、上二(上本町2丁目)にあった小
さなうなぎ屋に入り、割いて焼く筋を見ながら堪能した。東京のように蒸
さないので脂が多く、美味しかった。

近畿地方ではウナギのことを「マムシ」と呼ぶが、これはヘビのマムシと
は関係なく、鰻飯(まんめし)が『まむし』と訛り、それが材料のウナギ
に転用されたものである。

他に、関西での調理法(正確には浜松以西)の特色である、蒸さずに蒲焼
にして、飯の上に乗せた上に更に飯を乗せて蒸らす「飯蒸し」(ままむ
し)から来たという説、飯の上にウナギやたれをまぶすものとして「まぶ
し」が転じたとの説もある。

また、ウナギという名前については鵜飼の時に、鵜が飲み込むのに難儀す
ることから鵜難儀(ウナギ)となったという江戸の小噺がある。

徳川家康の時代に江戸を開発した際、干拓によって多くの泥炭湿地が出
来、そこに鰻が棲み着くようになったため鰻は労働者の食べ物となった
が、当時は蒲焼の文字通り、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺し
て焼いただけ、という食べ方で、雑魚扱いだった。

鰻が現在のような形で一般に食べられるようになったのは江戸後期から
で、特に蒲焼は江戸発祥の料理であることから、江戸の代表的食物とされる。

蕎麦ほど徹底した美学はないものの、「鰻屋でせかすのは野暮」(注文が
あってから一つひとつ裂いて焼くために時間がかかる)、「蒲焼が出てく
るまでは新香で酒を飲む」(白焼きなどを取って間をつなぐのは邪道。し
たがって鰻屋は新香に気をつかうものとされた)など、江戸っ子にとって
は一家言ある食べものである。

うなぎは日本全国に分布するが、日本以外にも朝鮮半島からベトナムまで
東アジアに広く分布する。成魚が生息するのは川の中流から下流、河口、
湖などだが、内湾にも生息している。

濡れていれば切り立った絶壁でも体をくねらせて這い登るため、「うなぎ
のぼり」という比喩の語源となっている。

細長い体を隠すことができる砂の中や岩の割れ目などを好み、日中はそこ
に潜んでじっとしている。夜行性で、夜になると餌を求めて活発に動き出
し、甲殻類や水生昆虫、カエル、小魚などいろいろな小動物を捕食する。

従来ウナギの産卵場所はフィリピン海溝付近の海域とされたが、外洋域の
深海ということもあり長年にわたる謎であった。

火野葦平の小説に産卵場所を求めて主人公と恋人が南海に泳いで行く作品
があった。昭和20年代に、確か毎日新聞に連載された。その当時は産卵場
所は分からなかった。

しかし2006年2月、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授が、ニホンウナギ
の産卵場所がグアム島沖のスルガ海山付近であることをほぼ突き止めた。

冬に産卵するという従来の説も誤りで、現在は6〜7月の新月の日に一斉に
産卵するという説が有力である。

うなぎの人工孵化は1973年に北海道大学において初めて成功し、2003年に
は三重県の水産総合研究センター養殖研究所が完全養殖に世界で初めて成
功したと発表した。

しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用がかかり成功率も
低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚に
なるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。

自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接つながっており、養殖
産業自身も打撃を受けつつある。

2007年EUがヨーロッパウナギの絶滅が危惧(きぐ)されシラスウナギの輸
出規制する方針を発表しワシントン条約締約国会議でEU案が可決、規制が
確定した。

これにより中国経由の輸出規制が始まる。また、台湾も日本への過大な輸
出に対して現地の養殖業者などが輸出規制を要望している。

日本側も国産シラスウナギで成り立っている業者と輸入物に頼る業者の対
立があり一致した意見表明ができない状況になっている。その為、全般的
にうなぎ価格の高騰は避けられないとされる。

2007年6月29日、アメリカのFDAは中国産のうなぎ、えび、なまずの1/4に
発ガン物質が検出されたとして輸入方法を変更した。今までは検査なく輸
入可能であったが、第三者機関の証明書の添付を義務付けた。

中国政府は自国の検査証明書で通関可能とするよう交渉中である。検出さ
れた物質のうちニトロフランとマラカイトグリーンは動物実験で発ガン性
が確認され、中国でも魚介類への使用が禁止されている物質であった。

マラカイトグリーンは以前に中国産のうなぎから日本でも検出されたこと
がある。うなぎの日本国内消費量10万トンのうち6万トンは中国産であ
り、これをきっかけに日本国内でのうなぎの売れ行きは激減した。

2016年12月08日

◆大阪八軒家浜船着場から熊野街道へ

毛馬 一三



大阪「淀川」から毛馬閘門を通り、1級河川「大川」(旧淀川)を少し下って、大阪三大橋の「天神橋」を抜けると、「八軒家浜船着場」に辿り着く。

この「八軒家浜」は、古代から京都と結ぶ水上交通の拠点だった。江戸時代ではこの浜の船着場周辺に、八軒の船宿があったことから「八軒家浜」と呼ばれたらしい。その「記念碑」が、阪神電鉄天神橋駅前の老舗・昆布屋門前に立っている。

この「碑」の先の坂を上ると、江戸時代の西洋医学者・緒方洪庵の塾屋敷跡がある。ここに集まる弟子たちも、この「八軒家浜船着場」を常時利用した。坂本竜馬も、西郷隆盛も、ここの船着き場から近郊にある「薩摩屋敷」に通っている。

この「八軒家浜船着場」は、京都から屋形船でやって来た人々が、この船着場から「熊野詣」に赴く道筋として利用していた。今になって、ここ「八軒家浜船着場」が、世界遺産となった「熊野街道」の起点となっているのだが、意外にもそれが知られていない。

さて、その「熊野街道」に触れておこう。

<この「八軒家浜」を起点に、四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、堺、和歌山などを通り、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路によって熊野三山へと向かう道筋。

この熊野街道を経て参台する「熊野詣」は、平安時代中期ごろ、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになったのに伴い、法皇・上皇などの皇族、女院らや貴族の参詣が、相次ぐようになったのが始まりだった。

室町時代以降は、武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列に例えて、「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったそうだ。江戸時代になると伊勢詣とも重なり、庶民も数多く詣でたため、賑わいは浪速で最高だったといわれる。ただ明治以降は、鉄道や道路の整備により参拝者は少なくなる>。
参考―フリー百科事典『ウィキペディア

このように霊場熊野三山まで橋渡しする歴史的街道の起点の「八軒家浜船着場」は、これを賑わいのある水都大阪再生拠点にしようと、民官協働で、京阪電車天満橋駅の北側の大川沿いに幅約10メートル、長さ約50メートルの3層からなる鋼鉄製の巨大な「船着場」が建設された。

同船着場では、ゆったりとしたスペースがある水上バス(アクアライナー)や大型遊覧船が、ここから発進し水都大阪の川辺に広がる眺望とクルージングを楽しむことができる。

遊覧船に乗って身を乗り出して、目上に広がる大阪のまちの姿を眺めると、立体的な水都の形が顕れ、両岸のまちなみが覆い被さるような3次元都市を実感させてくれる。実にマジックな風景の出現であり、感動そのものだ。これは体験してみないと絶対に分からない。

大阪大手企業本社の東京一局集中や、大手企業工場の他府県や外国への移籍が目立つなど、大阪の経済基盤の沈下に歯止めが掛からない中で、この「八軒家浜」を観光名所として再起させることが出来れば、集客効果は抜群だろう。

しかも「緒方洪庵の塾屋敷跡」、皇族をはじめ秀吉も通った「八軒家浜」から「熊野詣」への新観光ルートを創りだし、歴史の歩きの楽しみを味合わせる事業が始まれば、大阪への集客に繋がることは間違いない。

「八軒家浜」祭りだけで終わって仕舞う行事だけではあまりにも単純な気がして、実に勿体ない。しかも、「熊野街道」の起点となっている「八軒家浜船着場」の歴史的価値をなえがしにしてきた大阪市文化行政の手抜かりも情けない。

今からでも遅くない。「八軒家浜船着場」から世界遺産となった「熊野詣で」を複活させるイベントや実際の「歩き会」を実施すべきだ

そう思うだけでも「八軒家浜船着場」碑が、老舗「昆布屋)門前にポッンと立っているだけで、寂しく見えて仕方がない。(了)


2016年12月06日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10