2007年06月16日

◆敗戦の既定路線化


                        渡部亮次郎

いよいよ迫った参院選挙。何とか過半数割れを避けて安倍政権の長期化を狙う自民党だが、条件があまりに悪すぎる。加えて当事者たちは肌で感じていないようだが、特別地方税の2−3倍増は年金生活層の物凄い反発を買っている。

とうとう刃傷沙汰まで起きた。似たようなことが全国各地で起きるような気がする。

<増税に怒り、市職員に刃物=「死ねというのか」−63歳男を逮捕・新潟

住民税増税について説明に訪れた市職員にナイフを突き付けたなどとして、新潟県警五泉署は14日、公務執行妨害の疑いで、五泉市二ツ柳、無職貝沼寿教容疑者(63)を逮捕した。

調べによると、貝沼容疑者は同日午前10時前、定率減税廃止で今月から引き上げられた個人住民税について、説明に訪れた市税務課の男性職員2人に対し、「おれに死ねというのか」とナイフを突き付けた上で、説明書類を切り裂くなどして、職務を妨害した疑い。職員にけがはなかった。>6月14日21時31分配信 時事通信

さらには官房副長官当時の安倍総理が問題のコムスン会長と会食していた問題。法的に追及される問題では無いとしても老人にとっては裏切られた印象を与えて、これも不利。

そこで総理周辺ではもはや打つ手無しの諦観が先に立ち、敗戦を早くも既定事実に据えての政権維持工作に乗り出したように見える。しかし、党内が果たしてそれを許すほどガタが来ているだろうか。

<民主党は政府批判を強めている。鳩山幹事長は13日、党本部で記者団に「政府・与党の年金記録漏れ問題への対策は後手後手となり、安倍首相に対する(国民の)信頼は完全に失われた」と強調した。

民主党は13日発表した参院選公約の重点となる「政策10本柱」の筆頭に、年金問題の抜本対策を据えた。目玉は保険料の納付履歴を記載した「年金通帳」制度の導入だ。同制度では、約1億人の年金加入者・受給者全員に交付し、納付額や受給までの年数、見込み受給額などのデータを本人がいつでも確認でき、記録漏れ再発を防げるという。

また、すべての年金を一元化し、基礎部分と所得比例部分の2階建てにする案を明記、基礎部分を税でまかない、保険料未納などの問題が起こらないなどと強調した。

これに対し自民党は「民主党は『消費税は上げない』とも言っており、理解できない」(中川政調会長)と批判し、民主党側が「自民党は2009年度までに基礎年金の国庫負担を2分の1に引き上げるための財源確保について、明確な道筋を示していない」と切り返すなど、双方の応酬は激しさを増している。>(2007年6月14日11時57分 読売新聞)

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2007年06月14日

◆朝鮮総連の札束

                             渡部亮次郎

<在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が中央本部(東京都千代田区)の土地と建物を、緒方重威元公安調査庁長官が代表取締役の投資顧問会社に売却する契約を締結した問題で、同社の資金調達難から、契約が白紙撤回される見通しであることが13日、関係者の話で分かった。

朝鮮総連は破たんした朝銀信用組合の不良債権問題で、整理回収機構から約630億円の返還を求める訴訟を起こされており、今回の売却契約は敗訴した場合に仮執行によって中央本部の明け渡しを求められるのを防ぐ目的だったという。

関係者によると、今回の契約は中央本部の土地、建物を投資顧問会社「ハーベスト投資顧問」(目黒区)に30数億円で売却する内容で、5月末に締結され、既に所有権の移転登記も完了している。

しかし売却代金の決済はしていなかった。同社は複数の投資家から資金を調達、今週中にも決済する予定だったが、売却契約が表面化(産経新聞13日付)。このため投資家が資金提供に難色を示し、調達できる見通しが立たなくなったもようだ。2007/06/13 14:17【共同通信】>

朝鮮総連ビルには外務大臣秘書官当時、たった1回だが訪ねたことがある。現金100万円(1,000万ではない)を返しに行ったのである。第35回衆院議員総選挙(1979年10月7日)の陣中見舞いとして朝鮮人参に下に入れて園田直外務大臣届けられたのである。

園田氏は前職・内閣官房長官当時から朝鮮総連の幹部とは顔見知りであったようだ。幹部の北朝鮮訪問とその再入国問題を引きずっており、いきなり秘書官になった私は、事情をよく弁えないまま、対処を余儀なくされること一再ならず。赤坂の有名でない料亭にも呼び出されて、総連の某氏から説得されてこともあった。

そうした場面の後、某氏が外務省の秘書官室を訪れ「選挙のお見舞いです、大臣に精力をつけやって下さい」と朝鮮人参の包みを置いて行った。ところが大臣が中を開けてみたところ、茶封筒にいれた現金100万円が出てきて仰天。国交を断っている北朝鮮から現金を受け取っていたとなったら犯罪だ。

ナベしゃん、という命令もそこそこ、千代田区九段上の朝鮮総連ビルに車を走らせ、問題の某氏に無事、手渡して返却すことが出来たのであった。「こいつら、目的のためなら手段を選ばない連中なのだな」と思った。

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2007年06月11日

◆命惜しむなら嫌中?

            渡部亮次郎(頂門の一針・主宰)

<ペットフードで4000匹の犬と猫が米国で死んだ。餌が中国製だった。咳止め風邪薬で360人以上がパナマで死んだ。シロップに毒素の強い材料が使われていた。

パナマ政府は米国のFDOに調査を依頼した結果、中国製の風邪薬だった。標示と異なる毒性の強い材料が入っていた。

今度は毒入り歯磨きチューブ。毒入りアンコウ(フグのアンコウと偽って輸出)。

当初、中国は「ラベルを誰かが貼り替えた」とか何とか。そのうち言い訳で事態が誤魔化せなくなると、突如、責任者に死刑判決。お得意のすり替えである。

つまりは食品や製薬の許認可にも中国では白昼堂々の賄賂が行き交い、輸出検査も賄賂でいかようにもなり、相手国の通関はラベル誤魔化していた手口が満天下に明らかになったわけだ。

米国は中国からの加工食品、薬、歯磨き、医薬部外品そのほか、全ての港の倉庫に山と積み上げ、検品検疫を強化した。

さて謝罪をしない中国は、なんと一転して米国やフランスからの加工食品、および「健康食品」、とりわけビタミン・サプリメントや健康飲料に「バクテリアが混入していた」、「中国の衛生基準を満たさない不合格品がある」などと難癖をつけ、

寧波港、深セン港などで通関を遅らせたり、返送を命じたり、廃棄処分などの嫌がらせ行為にでてきた(ヘラルドトリビューン、07年6月9日付)。>「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成19年(2007年) 6月9日(土曜日)  通巻第1829号 

これでは、命惜しけりゃ中国産品を敬遠したほうが良い、とならないか。ところが宮崎さんも述べているように、中国は謝罪は一言も無く中国家食品薬品監督管理局の前局長に収賄罪で死刑を宣告した。

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2007年06月09日

◆丹頂からフラミンゴ

                         渡部亮次郎

丹頂とは頂の赤いこと、丹頂鶴が有名である。トップの指導者がマルクス(赤色思想)主義に染まっているところから「丹頂鶴」と揶揄されてきた日教組(日本教職員組合)が2007年6月8日で結成から60周年を迎えた。

日教組はGHQ(連合国軍総司令部)の指導で結成された。小学校から高校の教職員まで、最高時の1958年には全教職員の86%にあたる57万6000人というマンモス組織だった。

GHQそのものがアメリカ民主党リベラル急進派で占められていたことから国の教育政策に悉く反対し、下からの改革を目指すよう宿命付けられていたように政治闘争に明け暮れるようになる。従って政府の文部大臣は日教組に対抗できる人物が優先された。

私から見ていると、戦争中は「早く大きくなってお国のために戦って死ね」と戦争に狩り立てる教育を徹底していたものだから、敗戦となった途端、自己批判が過ぎて反政府を主張することで保身になったように見えた。

それまでの日本では学校の先生といえば「聖職」として尊敬された。しかし日教組が出来てからは先生は単なる労働者に墜ちた。そのためか先生たちは法律で禁止されているストライキをして軽蔑される場面もしばしば。

昭和30年代以降、勤務評定反対闘争や全国学力調査反対闘争を次々に展開。昭和35年に岩手県の盛岡放送局(NHK)に赴任したら、岩手県教祖は頑強な学テ反対闘争。委員長らが県警本部に逮捕、起訴された。

その委員長が岩手1区から社会党の衆院議員に当選する時代が何年も続いた。平和教育に名を借りた反日教育、徒競走に順位を否定する極端な平等主義。学級崩壊、学力低下。

その実態を昭和45年ごろ身にしみて感じて、息子をあわてて私立に転校させたし、娘も公立には入れなかった。

8日の産経新聞(26面)によれば、昨年12月、教育基本法が改正され「教育は法律に基づいて行われるべき」との一文が追加され、伊吹文科大臣は「法律に基づく教育行政は不当な支配に当らない」と言明、日教組の後ろ盾を吹っ飛ばした。

それは旧教育基本法10条にあった「教育は不当な支配に服することなく」の「不当な支配」を「国の支配」と同義語に日教組が曲解していたところを明確に否定したものだったからである。

それでも現場レベルでは反日教育や過激な性教育が一部とはいえ未だに行われているのが実情。だから昔は組織のトップが赤いから日教組のことを自民党文教族は「丹頂鶴」と揶揄したものだが、今では下部が赤いので「フラミンゴ」日教組である。

文科省によると平成18年10月現在の日教組加入者数は26万6345人。加入率ハ28・4%である。前年同期より0・7ポイント減少し、過去最低を更新した。全国学力調査は復活したが、もはや昔のような全国的な反対闘争を展開する力は無いようだ。

日教組の年齢層はベテランのほうが圧倒的に多い。だから、いわゆる団塊世代の大量退職時代を迎え、加入率は急激に低下し、間もなく20%の大台維持も難しくなるという見方がある。それでも日教組は消えない。それが悩みだ。2007・06・08

2007年06月07日

◆中国人の思考と行動

                         渡部亮次郎

インターネットを逍遥していたら「恋する中国」というサイトに出合った。「中国人の性格 〜中国人の思考と行動〜」と題し、様々な分析を試みておられる。筆者は分らない。
http://www.togenkyo.net/chinese+index.htm

失敗は必ず他人の責任。
彼ら中国人は失敗してもめげることはない。何故なら、彼らの失敗は決して彼ら自身の責任ではなく、必ず他人の責任となるからだ。もしも責任を押し付ける相手がいなくても、必ず何かに責任転嫁する。

それは時に天気のせいだったり運のせいだったり飼ってるロバのせいだったりもする。己の非を決して認めず、たやすく責任転嫁が出来てこそ、立派な中国人なのである。中国には自己責任という言葉がないのか・・・?

恐らく「責任をとって辞任」なんてこともないんだろう。

中国人は赤の他人には冷たい。
日本なら子供やお年寄りには優しく接するが、日本以上にお年寄りを敬うと言われている中国人でも、赤の他人なら老人にだって容赦なく冷たい。

電車やバスの中で、赤の他人の老人に席を譲るなんてことはまず有り得ない。お年寄りがどうこういう以前に、赤の他人など、はなっから眼中にないのだ。中国人にとって知らない他人はいないも同然・・・

中国人は基本的に「何も足さない…何も引かない」という、どっかのウイスキーのコピーのような人種である。

ただし、足すときは何でも足す、引くときは何でも引いちゃうから見事である。要するに極端なんだ。程々ということを知らない。ちゃんと考えてるのか、あるいは何も考えてないのか・・・失敗したときの言い訳だけは世界有数の能力を持っているのだが・・・

微妙なサジ加減というものを覚えてない。芸術とまで言える見事なまでの料理を作り上げる国民のくせに、なぜ普段は程良いということができないのか?単にやる気の問題か?何をやっても極端な国民である。

中国においてテーブルマナーはノーマナーである。

なんでもありである。食事中にタバコを吸うのは全然OKだし、宴会でもないのに大騒ぎしたってOKなのだ。

食べ物の殻なんかはテーブルの上に直、あるいは店の床に直に「ペッ!」ってしても大丈夫。

茶碗に入ったお湯なんかだって、平気で店の床に捨てちゃう。でもこの中国人の行為、本当はノーマナーなんじゃなくて、食べ散らかすのが中国の食事のマナーなのだ。

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2007年06月05日

◆東郷平八郎?知らない


                    渡部亮次郎

古い話である。外務大臣当時の園田直が真面目に怒っていた。「とうごう ひらはちろう って誰かな、と海上自衛隊員が話しているんだ。世も末だね」と嘆くのだが、園田さん、それは無理、歴史で教えなくなっているんだもの、とは反論できなかった。

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日)―昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。

明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争における日本海海戦でロシア海軍を破り世界の注目を集め「東洋のネルソン」と賞賛された。

日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。 日露戦争の際に連合艦隊を率いて行った急速旋回「東郷ターン」を行った。

ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズと並ぶ世界3大提督の1人でもあり世界の海軍将校からAdmiral Togoとしてその名を知られている。

これは例によってフリー百科「ウィキペディア」からの引用であって、歴史教育では1936年生まれの私でも受けていない。自分でいろいろ読んで知っていただけである。5月6日は国葬が執り行われた日である。

大国ロシアとの戦争でまさかの勝利を収めてからすでに102年経っている。アメリカに教育まで指図される敗戦からでも62年経っているのである。東京・市谷の東郷神社を見せて、はいと言える人は極少数になった。時の流れ、当然である。

私の父方の祖父は日露戦争にラッパ手として出陣したそうだ。少年時代の私には「ラッパを吹くと胸をやられる」と禁じた。10歳下の弟が中学でブラスバンド入りを父親に禁じられて目を白黒させていた。祖父は既に死んでおり、日露戦争を感得していなかったからである。

日露戦争は、極東における南下政策を押し進めるロシア帝国と、朝鮮半島を国土防衛上の生命線と位置づける新生明治日本との戦いだった。明治37,8年戦役(めいじさんじゅうしちはちねん せんえき)とも言う。英語では"Russo-Japanese War"(ロシアと日本の戦争)と言う。

日本軍はロシアの強力な陸海軍の前に苦しい戦いを強いられたが、旅順攻囲戦、奉天会戦、日本海海戦などの戦いで勝利を重ね、1905年10月に締結されたポーツマス条約により講和した。

講和条約により、日本は朝鮮半島における勢力を確固たるものとして国防上の課題を解決し、また関東州の租借権や南樺太を獲得した。一方ロシアは敗北を期に極東での南下政策を断念し、進出の矛先を再びバルカン半島へ向ける。そしてこれは第1次世界大戦の遠因ともなった。

もともと不凍港を求めていたロシアは、ドイツの宰相ビスマルク主催のベルリン会議により、バルカン半島への南下を断念、進出の矛先を極東に向けることになる。

一方日本は、自国の安全保障のためには、朝鮮半島が敵対勢力の影響下に入る事態を防ぐ必要があった。清朝に対しては日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、ロシア、フランス、ドイツの、いわゆる3国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島を返還せざるを得なくなった。

世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見が強かったが、当時の日本に列強諸国と戦えるだけの力は到底無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占め、これを受け入れた。

ところがロシアは、日本が手放した遼東半島を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置した。これによりロシアは日本にとって安全保障上の重大な脅威となり、民衆は臥薪嘗胆というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。

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2007年06月02日

◆脚気の克服者


                         渡部亮次郎

その人こそ日本最初の医学博士高木兼寛(たかき・かねひろ)宮崎の生んだ偉人である。反対に何万人もの陸軍兵士を見殺しにしたのが文豪森鴎外、陸軍医総監森林太郎である。医者としては藪だったわけだ。

日清戦争の際に陸軍で脚気患者は数万人発症し、病死者は4000人と伝えられている。戦死者は300人で戦死者より脚気で病死した兵士の方が多かった(なお史料により人数は異なる)。

日清戦争とは1894年〜95(明治27〜28年)の日本と清国(現中国)との間の戦争。日本が平壌・黄海・旅順などで勝利し、95年4月、講和条約を締結。


日露戦争の際には陸軍の脚気患者は約25万人が発症し、病死者は約2万7800人とされる。なお日露戦争の戦死者は約4万7000人。ただし戦死者中にも脚気患者が多数いるものと推定される。

(日清戦争時と同様に史料により人数が異なる。なお、高木兼寛の提案を採用して兵員に麦飯を支給していた海軍では軽症患者が少数発生したのみで死者は無しと伝えられている)。

ところで脚気(かっけ、英 beriberi)とは、ビタミンB1欠乏症の1つ。ビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。

心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発する事から、「脚気衝心」と呼ばれることもある。

少なくとも日露戦争に際し日本軍は農漁村の次三男を徴兵した。彼らは雑穀を常食としていたため結果的に脚気を知らなかったが、軍隊特に陸軍では白米を無料、無制限に食べさせた。しかし副食物については現金を支給した。

このため彼らは現金は親元に送金し、粗末なおかずしか食べなかった。あとから考えればビタミンB1欠乏症となった。但しビタミンはまだ発見されていない。ドイツ帰りの陸軍医総監(陸軍医者の最高責任者)森 林太郎(文豪森?外)は黴菌説を譲らなかった。

脚気は日本が国として形を成し始めた江戸時代に始まった。江戸で将軍をはじめ、富商等裕福な階層から患者が多く(江戸時代末期には一般庶民からも大発生)、「江戸患い」「大阪腫れ」と呼ばれた。それまで喰わなかった白米の所為だと考える者はだれも居なかった。

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2007年05月30日

◆あぁ事件は潰れた


                      渡部亮次郎

私は事件記者も検察記者もしたことは無いが、松岡農水相に続いて緑資源機構の「陰のドン」も命を絶った。29日、機構の前身、旧森林開発公団の山崎進一・元理事(76)が自殺したことで「あぁ、これで事件は潰れた」という東京地検特捜部の嘆きが聞えてくる。

私の配信しているメルマガ「頂門の一針」817号(2007・05・28)に松岡利勝はなぜ死を選んだか、という月刊FACTAの直前記事が載った。最新号(6月号、5月20日発売)の記事である。

松岡利勝農水相が5月28日、首吊り自殺した。緑資源機構の談合捜査に絡んで、東京地検特捜部の標的となっていたというのが、大方の想像する自殺の理由だが、特捜部の捜査はどこまで松岡氏を追い詰めていたのか。

調査報道の月刊総合誌「FACTA」(6月号、5月20日発売)の記事(「現職閣僚めがけ東京地検が臨戦態勢」)は、直前の切迫した状況を克明に追っているので、ここに公開する。彼はなぜ死を選んだのか……。

<連休明け応援検事を招集して態勢を拡充。緑資源機構の官製談合事件はいよいよ風雲急だ。YAHOOニュース5月28日より転載。

独立行政法人緑資源機構の林道工事をめぐる官製談合事件と、松岡利勝農水相周辺の捜査は、着々と進んでいる。東京地検特捜部は応援検事を全国から集め全力を傾けている。

これまで捜査に横槍を入れてきた法務省側にも変化があり、政権中枢にいる現職閣僚周辺のウミを出す日が近づいているようだ。特捜部が時の権力に真っ向から立ち向かうのは、1998年の大蔵汚職以来となる。

「頑張ります。熊崎さんのときのように闘いたい」。東京地検特捜部長の八木宏幸氏は1月16日の就任直後、元特捜部長の熊崎勝彦弁護士らとの会合で決意表明した>。

緑資源機構の「陰のドン」。機構の前身、旧森林開発公団の山崎進一・元理事(76)がなぜ自殺したのか。連日、任意取調べに当った東京地検特捜部の検事はその理由を知っている唯一の人。だが公には絶対、口を開かない。

しかし、週刊誌記者崩れのいわゆるフリーライターか現役記者がアルバイトに書いた調査報道の月刊総合誌「FACTA」最新号(6月号、5月20日発売)の記事はおそらくすべてを証言している。

私が大臣秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)は松岡大臣と同じ熊本県人だった。私は北国・秋田県人。語られる熊本についてのすべてが珍しかったが、土建屋とやくざを一緒にして「よごれ」と言い捨てるのが珍しかった。「汚れ」である。

松岡氏が熊本県阿蘇町の農家に生まれながら旧熊本藩の藩校熊本県立済々黌高等学校を卒業したというのは大変な秀才と尊敬される。しかも鳥取大学農学部林学科を卒業したとはいえ、1969年に農林水産省に入省し、ノンキャリアながら、大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁山村豪雪地帯振興課課長補佐から林野庁広報官という経歴は尊敬を高めた筈である。

だが、ここに落とし穴があった。ノンキャリアにしては着実すぎる出世の裏である。現役当時から多分、裏金作りに長けていた筈である。それを有効に使ったからこそ他人に優る栄達があったのである。それだからこそ代議士になる夢も現実になり、農林水産大臣、ひいては総理総裁の夢も抱いてなかったとは言えない。熊本では斯くの如き人物も「汚れ」という。

<「またも自殺者が出るとは」。検察関係者は29日朝、キーマンの自殺を知り絶句した。

山崎元理事は公団発足(1956年)当時からの職員。業務部長などを経て88年10月〜90年10月、理事を務めた。担当は今回事件の舞台となった林道部門など。

発注権限を一手に握った山崎元理事は90年ごろ、天下りを多く受け入れた企業や公益法人に優先的に業務を回すため、出先機関から配分案を吸い上げ公団本部で決定する現行システムの原型を作り上げた。

「自分は山崎さんから直接引き継いだ。最近も割り振り済みの業務に介入してきて、受注先を差し替えたことがあった」。24日に独占禁止法違反容疑で逮捕された高木宗男前理事(59)=解任=は逮捕前、周辺にこう語り、関係者は山崎元理事を「陰のドン」と呼んだ。

山崎元理事には「政界とのパイプ役」というもう一つの顔があった。副会長を務めた機構の受注業者でつくる特森協は、表裏一体の政治団体「特森懇話会」=解散=を設立。

03〜05年、この懇話会から21人の国会議員に計822万円の献金があり、うち計120万円が松岡氏に渡った。

支援企業と特森協は、談合事件の裏で極秘裏に進めてきた政界捜査の焦点で、山崎元理事は真相を語ることができる重要人物だった。松岡氏の後を追うかのような自殺。「林野の闇」の実態解明が遠のこうとしている。>5月29日15時15分 毎日新聞


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2007年05月29日

◆総理の無知無駄死に

                            渡部亮次郎

大平正芳さんが総理在職中に急死(1980年6月12日)してから27年経つそうだ。朝日新聞政治記者だった国正武重氏が今度著した「権力の病室 大平総理最期の14日間」(文藝春秋)を読み終えた。

結論を言えば大平さんが糖尿病の注射を受けていれば、ああいう早死にはしなかったし、記者たちに糖尿病のことが少しでも分っていれば、こういう本は出来なかったろう。

私は大平内閣の外務大臣秘書官として発令はされたが、大平さんと言葉を交わした事は1度も無い。昭和53年12月7日に第68代の総理大臣に就任できたのは田中角栄のお蔭だった。

派閥の鈴木善幸氏も宮沢喜一氏も何もしていない。宮沢氏は大平氏を馬鹿にしていたし、善幸氏は大平氏に馬鹿にされていたから。大平氏の好きなのは伊東正義、佐々木義武、大来佐武郎の各氏。興亜院仲間である。

昭和51(1986)年秋に、大平さんはライバルの福田赳夫と密約を交わした。立会人は鈴木善幸氏と園田直氏である。もう1人いた保利茂氏は署名を拒否した。「福田を2年間、総裁にし、大平は幹事長をする」というもの。

ところが2年経ったところで福田が密約の反古を目論む。「世界が福田を求めているので、この後も総裁選に立候補する」と言い放つ。大平氏、憤慨して立候補。

結果は親友田中角栄の底知れぬ梃入れで大勝利。第68代の総理大臣に就任できたのは田中角栄のお蔭だったという所以である。密約にしろ公約にしろ「2年間でいいから総理をやらせてください」と言って成らせてもらった男の約束、守るのが男というものだ。

それなのに福田氏は男の約束を踏みにじったばかりか、大平や田中氏を怨み、嫌味つらみのさんざんを大平にぶつけ、1度目は組閣を40日も邪魔した。

2度目は野党の出した不信任案に賛成して衆院を解散させ、衆参同時選挙をやらせた。結果、大平は極度の過労が引き金となって狭心症で倒れ、14日後、死去。解剖したら心筋梗塞とわかった。

実は太平さんは大の糖尿病患者であることを私は外務省で事前に知っていた。ある幹部の弟さんが大平を糖尿病と診断した医者であるが、大平はこの医者の指示を全く聞かない最低の患者であると嘆いていることから知った。

その時、わが外務大臣園田直は既に糖尿病の末期であり、ある医者から「何しろ『腎虚』ですからもはや助けようがありません」といわれショックを受けていたので、入院と聞いて「大平さんもやがて・・・」と思っていたのである。

のちに園田の死後、私もあろうことか糖尿病を発症、この病気に詳しくなったが、専門用語で「合併症」とされる糖尿病の余病の最たるものが心臓では心筋梗塞、頭では脳梗塞、目では網膜症、腎臓では腎不全、足では壊疽なのである。

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2007年05月27日

◆啄木と琢次郎

                       渡部亮次郎

尊敬する古澤襄(ふるさわ のぼる)さんのブログで、噴出してしまった。http://blog.kajika.net/

<古澤さんの著書『沢内農民の興亡』に古澤家菩提寺である玉泉寺の第十九世琢神道器(たくしんどうき)という和尚さんの名が二度出てきます。20頁・46頁です。

これは啄禅道器(たくぜんどうき)が正しいので,本をお持ちの方は,ぜひ訂正をお願いするとともに,深くお詫びいたします。>とある。よく見ると「琢」なのか「啄」なのか分らなくなってしまった。

この文章を寄せた人は校正を専門としている方。「誤植の饗宴」と題する、誤植と校正にかかわる話を面白くしてくれているのだが、ご自分のことを謝罪するのに、また誤植をしてしまったのである。

正しくは「琢禅道器」だそうです。多分、この後に「誤植に泣いた啄木」という文章が続いているので、神経がそちらに行っていたのだろう、とやさしい古澤さんは苦笑い。

この方が紹介している話に、朝日新聞の校正係りとして死んだ啄木を朝日は詩人として遇し、死亡記事を載せたのはよかったが、大変な誤植があった、というのがあった。

<その啄木も誤植には最後の最後まで泣かされた。太田愛人『石川啄木と朝日新聞―― 編集長佐藤北江をめぐる人々』という本のなかでもこのエピソードは紹介されている。

『東京朝日新聞』が掲載した1912年(明45)4月14日の死亡記事のなかに,啄木の小説『鳥影』の名が出てくる。チョウエイと読む。その『鳥影』が“島影”と誤植されたうえ,“しまかげ”と誤ったルビが振られた。

これは形の紛らわしい漢字の見落としなのか,あるいは記者が“島影”と思い込んで書いたのを校正係も見落としたのか。

ルビは活字を組むさいに現場の文選・植字工が振ったのかもしれないが,まず“島影”ともっともらしく誰かが誤ったところに,この誤植が残った第1因があった。つぎに校閲で事実を精確に調べなかったのが第2因である。

“みすぼらしき郷里の新聞”だけでなく,東京の一流紙もこんな誤植を犯す。あの世で記事を目にした啄木の“今朝の悲しみ”は深まっただろうか。それとも苦笑するだけだったろうか。

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2007年05月25日

◆患者自己注射物語


                         渡部亮次郎

日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見から既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから23年、私は毎朝と夕方の2回、ペン型をしたインスリン注射を繰り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒められている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・23mm)になって殆ど痛みを感じなくなったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メーカーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるというものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するもので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



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2007年05月24日

◆地球の裏側から来た津波


                      渡部亮次郎

地球の裏側から来た津波とは「チリ地震津波」のこと。今から47年前の今日(5月24日)だった。1960年のこと。三陸一帯で142人が死んだ。私はNHK仙台中央放送局報道課所属3級放送記者だった。

津波襲来は文字通り、寝耳に水であった。地震が来たら津波を疑えとは教えられていたが、地震は無かったはず。起こされて放送局へ駆けつけると当直だった先輩の高野悠(ひさし)記者が叫んでいた。

地球の裏側のチリという国で大地震があり、それによって起きた津波が1昼夜かけて三陸沿岸を襲ったのである、と。

私は録音機を携帯して単身、宮城県北部沿岸の女川(おながわ)港に派遣された。途中、塩釜駅を見上げたら、跨線橋の上に漁船が乗っていたので目が覚めた。

このチリ地震は 1960年5月22日午後7時19分(日本時間同年5月23日午前4時11分)、チリの太平洋沖を震源として発生した地震だが、日本を含め環太平洋全域に津波が襲来したもの。

地震発生から22時間後に最大で6メートルの津波が三陸(東北地方北東部)海岸沿岸を中心に襲来し、142人が亡くなったり行方不明になった。被害がとくに大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が亡くなった。

47年前のこととあって記憶も怪しいが、宮城県内のある町では、海に水が無くなったと叫ぶものがあって、バーの客たちとママが慌てて見に行ったら、そこへ来た津波に攫われてそれっきりという悲話もあった。

岩手日報(07.05.17)によれば、チリ地震襲来直後を写した写真が岩手県陸前高田市で発見された。2003年に77歳で亡くなった大和田秀雄さんが写したもの。

同時に残っていた「自分史」のよると・・・

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2007年05月23日

◆刎頚の友じゃない



        渡部亮次郎

刎頚(ふんけい)の友。刎頚の交わりとは「その友人のためなら、仮令、首を斬られても後悔しないほどの真実の交友。生死を共にする親しい交際」と説明するのは広辞苑(岩波書店)。

ロッキード事件のとき登場した国際興業の小佐野賢治が元首相田中角栄の刎頚の友と呼ばれたことから人口に膾炙した。とは言っても時の流れは早く、ロッキード事件を知らない人も多くなった。

<ロッキード事件とは、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件。

「総理の犯罪」の異名を持つこの事件は、国内航空大手の全日空の新型旅客機導入選定に絡み、自由民主党衆議院議員で前内閣総理大臣、「今太閤」、「コンピューター付ブルドーザー」と評された田中角栄。

彼が同年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで東京地検に逮捕されたという前代未聞の事件である。

田中の他にも佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。

ロッキード社のアーチボルド・コーチャン副会長とクラッター元東京駐在事務所代表が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた右翼の大物、児玉誉士夫に「コンサルタント料」として21億円あまりを流し、

さらに児玉から、児玉の友人で国際興業社主で「政商」と呼ばれる小佐野賢治や、ロッキードの日本における販売代理店である総合商社の丸紅などを通じ、当時の内閣総理大臣である田中に対し5億円が密かに渡されたことを証言した。>

田中と小佐野はともに極貧の身から地位と財産を築いた共通点を持つことから、「2人は刎頚の友」と政界では言われた。どうも田中が自民党総裁をライバル福田赳夫と争った「角福戦争」(1971−72年)の際、田中の選挙資金を小佐野が出したという噂が立ったあたりからだったように思う。

しかし、後年、直接田中に確かめたところ「小佐野は刎頚の友ではない」と断乎として否定し「刎頚の友とは、同じ6畳間で共に女を抱ける友のことだ。小佐野とはそんなことをしたことが無い。小佐野は俺に選挙資金なんか提供していない」と断言した。

<小佐野賢治は1917年(大正6年)、山梨県東山梨郡山村(現甲州市勝沼町山地区)の小作人であった小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。生家は貧しく幼いころは自宅さえもなく村の寺の軒先を借りる生活だったといわれる。>

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