2010年05月07日

◆昭和33年の流行歌手

渡部亮次郎

2010年4月29日未明のラジオが「昭和33(1958)年の流行歌10曲」を放送したが、出た歌手10人のうち3人しか生きていない事に改めてびっくりした。

(1)からたち日記 島倉千代子(存命 現役)
(2)夕焼けとんび 三橋美智也(享年65)
(3)おーい中村君 若原一郎(享年58)
(4)こいさんのラブ・コール フランク永井(享年76)
(5)銀座の蝶 大津美子(存命 現役)
(6)風速四十米 石原裕次郎(享年52)
(7)三味線マドロス 美空ひばり(享年52)
(8)ふるさと列車 青木光一(存命 現役)
(9)好きな人 藤本二三代(享年63)
(10)居酒屋 春日八郎(享年67)

昭和33年は大学を卒業し、郷里の秋田県で放送記者を始めた年。既に居酒屋でかなり(1升は軽かった)日本酒を飲んでいたが、事件に追われて(他社の先輩に騙されたり、からかわれたりもして)忙しく、歌を聴いたり、歌ったりする機会は皆無だった。

当時カラオケ装置はまだ発明されてなかった。唄の伴奏は専ら「流し」の兄ちゃんたちだったが、3曲100円の100円が惜しくて呼べなかった。

間もなく仙台に移って正式にNHKの職員となったが、歌を歌ったり聴いたりする暇はなかった。ただ6年先輩記者の高野悠(ひさし)さんが「からたちの花」をがなっていた。今になってみると島倉千代子の歌だったわけだ。

だから昭和33(1958)年の歌は、あの年ではなく後年、多分、東京政治部へ転勤した東京オリンピック以降に耳にしたものだろう。ただし三橋美智也だけは大学在学中、田舎で公演を見た。彼は後年、糖尿病を発症。合併症が悪化してしんだ。65才は、いまでいえば若死にだ。

春日八郎は本名が私と同姓。福島県会津坂下町出身。ここからはやはり若死にした作曲家猪俣公章が出ている。ただし交流は無かった。理由は知らない。

春日からは参院選に出たいという相談を受けたことがあって、後に首相になる宇野宗佑に繋いだが、話はうやむやになった。

裕次郎、ひばりも若死に。

藤本二三代(ふじもと ふみよ、本名:三谷綾子)。29日の放送では実の母子のように言った。間違い。

1937(昭和12)年生まれ。父親の再婚相手が歌手の藤本二三吉であり、実の母娘ではない。

二三代が歌手を志した際、芸能界の厳しさを知り尽くしている二三吉は反対したが、二三代の熱意に折れ熱心にサポートした。二三吉の力添えもあり、作曲家の吉田正に師事し、1956(昭和31)年にビクターから「花の十九よさようなら」でデビュー。

1957(昭和32)年11月発売の「夢みる乙女」、1958(昭和33年)11月発売の「好きな人」、1960(昭和35)年12月発売の「花の大理石(マーブル)通り」がヒット。この3曲とも、吉田正が作曲している。

NHK紅白歌合戦に4回連続出場という実績を残した。

1961(昭和36)年には岩下志麻主演の映画『あの波の果てまで・3部作』(松竹)の主題歌も担当した。

最後のレコードは、1973(昭和48)年発売の「二人の北新地」。2001(平成13)年3月28日、大動脈解離で急逝。享年65(満63歳没)。娘に歌手の藤本じゅりがいる。(この項のみ「ウィキペディア」)

フランク永井は宮城県の出身。昭和40年ごろは目黒区の元競馬場で隣組だったが、1度も会ったことは無い。夫人と不仲になる出来事があり、首をつり損ねて脳をやられ、不幸な晩年だった。

若原一郎はNHKのど自慢の出身にしては楽譜が読めた。張りの有る美声で一世を風靡したが、やはり若死にした。敬称略 2010・4・30


2010年05月04日

◆暗愚で狡猾な鳩山首相

渡部亮次郎

東大のあと米国の大学で何やらの資格を得てきた人を暗愚で狡猾と決め付けるのは矛盾だと言われるかも知れないが、人間特に政治家は、その資質において、学歴とは全く無関係だ。

それが証拠に、高等小学校しか出ていなかった田中角栄は首相に上り詰めたが、その娘は大学を出ながら外務大臣が務まらなかったし、
この先首相を望まれる場面は皆無だ。

日米関係の何たるかを全く弁えずに「対等な関係」などと言ってアメリカを怒らせて仕舞った鳩山。日米安保条約のよって来る所以も分からない。日米安保条約を破棄し、核を備えた自主防衛に踏み切るよういなどまたく無い。

日米安保体制の実態を学ぼうとすれば1分で分かる。学ぼうとしないのだから暗愚としか言いようが無い。

暗愚の帝王といわれた元祖は故・鈴木善幸だが、棚からボタ餅の首相の座だったものの、外交のことこそ十分じゃなかったが、少なくとも内政に関しては合格だった。後継者の選考など見事なものだった。

それまで長い事党内のとりまとめを任務とする総務会長をしていた所為もあってか「老獪」さは感じさせたが、親から貰った十何億ものカネを知らなかった、などという「狡猾」さは全く無かった。

加えて鳩山は「姑息」でもある。

<「愚か」を「愚直」とすり替えた鳩山首相>と論じたのは産経新聞の総理官邸クラブ・キャップの阿比留瑠比。

<2010年3月21日、鳩山由紀夫首相と自民党の谷垣禎一総裁との党首討論が開かれました。訪問者の皆さんもご存じの通り、鳩山氏はこの中で、米軍普天間飛行場移設問題をめぐる米ワシントン・ポスト紙の酷評を受け入れ、「言われるように、私は愚か(loopy)な総理かもしれません」と認めましたね。

会場の参院第一委員会室が一瞬、どよめいたのがテレビの画面を通じても伝わってきました。

現職の首相が「愚か」であるかどうかが国会で議論され、あまつさえそれを首相自身が「その通りかも」と追認するのは、たぶん前代未聞の珍事だろうと思います。

私はその後のやりとりを聞きながら、一見「無防備」に見える鳩山氏は、実は「姑息」な人だなあとしみじみ感じていたのでした。

というのは、党首討論の議論の中で、鳩山氏が巧みに言葉をすり替えているのがありありと分かったからです。この点については、テレビを見ていた国民のかなりの人も気付いたことと思いますが、改めてこの場で指摘しておきたいと思います。

鳩山氏の言葉の変遷をたどると次のようになります。まず最初に認めた言葉が

「私は愚かな総理かもしれません」ですね。この時点では、ワシントン・ポストの指摘通り、「愚か」という言葉しか使っていません。
それが、次の段階では別の言い方と混在します。

「愚かだったから、愚直だったから。あるいはそうかもしれません」

誰も「愚直」なんて言っていないのに、突然こう言い出したのです。
「あれっ」と思って続きを注意して聞いていると、さらに

「少しでもそれ(沖縄の負担)を和らげることができたらと、愚直に思ったのは間違いでしょうか」」

そう、いつのまにか「愚か」が消え、きれいに「愚直」にすり替えられていました。私はああ、こういうところに人の本質が表れるのだろうなと感じましたね。

ちなみに、手元にある小学館の「大辞泉」によると、それぞれの意味はこうあります。

【愚か】(1)頭の働きが鈍いさま。考えが足りないさま(2)ばかげているさま(3)未熟なさま。

【愚直】正直なばかりで臨機応変な行動をとれないこと。また、そのさま。ばか正直。

他の辞書も当たってみましたが、だいたい似たようなことが書いてありました。つまり、「愚か」は文字通り「ばか」であって、「愚直」は、「正直」の程度が甚だしいもの、「正直」を強調したもの、不器用なまでの真っ直ぐさ、というところでしょうか。

愚直は一般的に一定の好意、評価を持って使われる言葉であり、どう考えても両者の意味は全く異なりますね。もちろん、「loopy」に愚直なんてニュアンスは全くありません。

鳩山氏は結局、他者の批判を受け入れる謙虚さを装いながら、自分の都合のいいようにその意味するところをねじ曲げたということでしょう。

実際、その後の記者団のぶらさがりインタビューの際にも、「愚直さを今こそ生かさなきゃならないときだ」などと自己正当化し、
「愚直」という言葉を4回も使用していました。自分はばかなのではなく愚直なだけだと言いたいわけです。>阿比留瑠比のブログ
「国を憂い、我とわが身を甘やかすの記」

どうして、こういう無意味な人間が仕上がるのだろうか。結局は東大に入りさえすれば、最高の大人に育つという親の誤解だろう。世間の荒波は、有り余るほど抱えるブリジストンのカネで守る。

アメリカに留学させれば、私立大学の教授ぐらいにはなれるから安心と親は踏んだのだろう。しかし、本人は、その科学関係の能力の無さを悟り、転職を決意。

転職先に国会議員を選んだのは、弟ですら勤まっているからと安易に考えたのではないか。世渡りの知識も経験も積んでおらず、出来たのは他人の妻を横取りする事だけ。

かくて親は仕方ない、鳩山家の過去の中から北海道の地盤を探し出し、母親の子供手当てで議員を続けていたら、なんとなく首相に就任する「めぐり合わせ」。ご本人は結構「満足」しているのでは無いか。

鳩山と会話を交わした人間は10人が10人とも「いい人」だと思って出てくる。詰まり鳩山は相手の言い分のすべてOKを与えるのだ。したがって1人目と10人目の受けた印象を付き合わせれば、完全に逆の結論になっている。

胡錦濤にはうなづき、オバマにもうなづく。沖縄県民にもいい顔をしたい、国民にも勿論よく思われた。そこに共通する名回答なぞ
あろうわけも無い。待っているのは政治的な地獄だが、理由を理解できない暗愚だ。「愚直がいけなかったとは知らなかった」と幸せに微笑むのではなかろうか。文中敬称略。2010・5・3

■本稿掲載の5月4日刊・全国誌「頂門の一針」1905号のご案内
<目次>
・金総書記が4年ぶりに訪中とロイター:古澤 襄
・暗愚で姑息な鳩山首相:渡部亮次郎
・机の引き出しはなぜ右側か?:馬場伯明
・春宵、ひと時、人生を想う:平井修一
・目指す365日誕生日友達:門 佳之
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年05月03日

◆昔もいた暗愚の帝王

渡部亮次郎

鈴木善幸(すずき ぜんこう=岩手県選出)は郵政大臣、官房長官、農林大臣を務めたから、政治家としてはそこそこの経歴といえた。しかし、自民党内では長い事、総務会長として、もめる党内をまあまあと纏める役として重宝がられた。

自民党総務会長は、政府の鉄道建設審議会の会長を兼務していたので、新潟新幹線、東北新幹線のルート決定に際し、盟友田中角栄に便宜を図ったのではないかと噂されたりした。

そんなこと、表立った問題にはならなかったが、いきなり総理大臣になったので「ZENKO WHOU ?」となり、やがて「暗愚の帝王」と私の友人が雑誌に寄稿したので、そうなってしまった。鳩山が始まりではないのだ。

鈴木氏は自民党内で、所謂党人派の大物として、「公家」タイプの政治家の多い大平正芳派の番頭を務めていたとき、会長で総理大臣だった大平が総選挙中、心筋梗塞で急死したので、立場が急変した。

昭和55(1980)年6月12日未明のこと。大平内閣でも外務大臣を務めた園田直は虎ノ門病院での弔問を終えるや、秘書官の私をつれて目白の田中邸に直行。角栄との会談で、後継総理は鈴木善幸とすることで一致、直ちに党内工作に着手。

福田赳夫の「大平いじめ」が死を招いたとの反省があったため、鈴木内閣はすんなり誕生した。

ところが翌年のゴールデン・ウイークに行なわれた日米首脳会談に伴う共同声明を巡って閣内不統一の事態となって、「首相なのに外交が一切分からないとは、こりゃ暗愚の帝王だ」ということになってしまった。

鳩山は政治とは何かの全く分からないまま総理大臣になってしまったが、鈴木はただ「外交」が分からなかったばかりに「暗愚」とされた。

鳩山のほうは、内政も分からない分、鈴木に輪をかけた暗愚と言うほか無い。なによりも日本外交の基軸である日米関係を損なったことは「国賊」に値する。

事件直後、若い頃から知り合いだった私に鈴木は言った。「オレは外交にはズブの素人だよ。踊りは終いまで教えてくれなきゃ踊れいよ」

外務事務次官が私にいった。「あれだけの大物に、モノを教えるのは失礼かと、遠慮した」。

産経を代表する敏腕政治記者阿比留 瑠比は鳩山について1日<「脱力、倦怠、諦観、虚無感、無関心、無感動…。鳩山氏を見ていると、さまざまなマイナスの感情に囚われそうになります。

今回の沖縄訪問(5月4日)についても、ある民主党議員は、「鳩山は県庁までいきつけないで、立ち往生するのではないか」と予想していました。

そして、「辞めるよ」と。まあ、この予想通りになるかどうかは分かりませんし、参院選まで居座るかもしれませんが、「史上最低の総理」の名声は歴史に、そして日本人の脳裏に深く刻まれることだろうと思います。>と自らのブログに書いた。

「史上最低」では鳩山は鈴木の「暗愚」を超えてしまった。しかし初代の暗愚は再選を辞退し、跡を中曽根に譲って濁さなかった。文中敬称略 2010・5・2

■本稿掲載5月3日刊全国誌「頂門の一針」1904号のご紹介
<目次>
・昔もいた暗愚の帝王:渡部亮次郎
・小沢氏、政治生命を賭けた「最終決戦」へ:花岡信昭
・S学会の選挙戦スタート:平井修一
・新党の存在が問われる5月:古澤 襄
・親学のすすめ(上):伊勢雅臣
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年05月02日

◆テレビは政治の真髄に迫れない

渡部 亮次郎

私はテレビ局(NHK)で政治記者を20年務めたが、テレビは政治の真髄には迫れない、それを見て政治を見たと思っている国民は政治を理解したと思うだろうが、真実は誤解しているだけだ、とつくづく思った。

政治家が突き出したマイクやレンズに語るのは建前の恰好づけだけ。本音は密室での1対1になった時にしか語らない。不特定多数の取材者のいる「記者会見」で本音を明かす政治家はいない。

私の上司 島ゲジは記者会見を「嘘つき大会」と貶した。不特定多数の会見では建前しか語らないというのは人間の本質だから、「記者会見」が真髄を語っていないのは時代を超えた事実である。

政治報道に関して、新聞やラジオにとって写真は不可欠ではないが、
テレビは映像と音声で繋いでゆかなければならないから記者会見や「ぶら下がり」が頼みの綱である。政治家の「建前」だけを拾い、
深い胸中に隠された本音を突き止められないまま次に進まざるを得ない。

重ねて言うが、テレビは政治に関する限り「記者会見」と「ぶら下がり」を多用し、たまに「特番」で補い「ハイ、これが今日の政界です」とすましている。本音を欠いた、極言すれば嘘を流しっぱなしだ。

テレビだけを見ている視聴者は、この「嘘」を「真実」と思い込み判断材料にして政権の選択をするから、端(はな)から政治家失格だったボンボンを総理に選ぶ愚を冒すことになる。

つまり、政治家が突きつけられたマイクとレンズを前にした時、
本音を語る事はあり得ない。これは後に大臣秘書官になって、取材される立場に変わった時に痛感した。当たり障りの無い「建前」を語ることが「安全」であり、安心なのである。

アメリカの政治家はテレビ・カメラに本心を言う。カメラのマイクを差し出すと大抵の政治家は立ち止まり、語りだす。「ぶら下がり」になれていて、すらすらと喋り始める。答えを「抽象的」にして逃げる事が多いが「嘘」をつく例は極めて少ない。

そこを悪用して国務省玄関に陣取り、出てきた大物にマイクを突き出す。カメラにフィルム(テープ)ははいっていない。インタビュうしているところを別のカメラマンに一枚写真に撮らせる。これを後に著書の宣伝に使ったワルがいた。某ワシントン特派員の空(カラ・フィルム)事件は有名だ。

政治家が日本では「嘘」や「建前」で逃げ、アメリカでは嘘に逃げないのはなぜか。経験が少ないから確答できないが、「神に誓っているから嘘はつけないのだ」と解説した特派員がいた。

「お前なあ、政治家は記者会見で嘘を言う、実験をするから見ていろ」と島ゲジ(桂次= 後のNHK会長)が言った。ある日、自民党幹事長の会見。カメラが回る。何事かを真実らしく語り終えた。

国会内の男用トイレに入った。すぐその脇にならび「ツレション」をしながら「幹事長、本当はどうなの」と訊く。相手が私独りなのを確認してから「うん、実はね・・・」と本音を吐いた。テレビはこれを録音も撮影もできない。

その夜のNHKニュースは民放とは逆の結論を流した。島さんが言った。「嘘を吐くと緊張する。緊張すると小便がしたくなる。小便で開放感に落ちる。ツレションで質問すると本音がつい出るんだ」。

政治家は多忙だし、マスコミは利用したい時と避けたい時と両方ある。独りの記者だけと、カメラ、マイク抜きで取材(サシ)の応ずる例は極端に少なくなっている。「オフレコ」の会見ですら多数が一緒である。

オフレコが外へ洩れたと気付き、政治家としては多数が相手だから「犯人」を絞る事は殆ど不可能だ。だからオフレコでも建前しか喋らないのが政治家だ。

時代は超えても、政治家の本質はかわっていない。昔、河野一郎
(河野太郎の祖父)は自宅へ上げた夜回りの記者に顔見知り出でない新顔がいると、面談拒否をしたものだ。

政治家が本音を絶対明かさない「記者会見」「ぶらさがり」。これらでは「建前」しか明かさない。そんなテープを繋げて何を訴えてもテレビの政治ニュースは真実からは遠くなる。

視聴者は毎度、そういう目に遭うから、政治不信とともにテレビ不信に陥る事になる。特に鳩山の真の姿を、総理就任後半年かかって突き止めたテレビ視聴者のショックは大きかった。「政治の真髄に迫れないテレビ」で政治を判断する事は危険ですらある。
(文中敬称略)2010・5・01

■本稿掲載5月2日刊「頂門の一針」1903号のご案内
<目次>
・テレビは政治の真髄に迫れない:渡部 亮次郎
・腐った林檎(りんご):山堂コラム 316
・朝日はノドン発射の動き、韓国は否定:古澤 襄
・首相「鳩まね」に共産党「どの面下げて沖縄に」:阿比留 瑠比
・100万県民でハトを包囲せよ:平井修一
・我 敵空母ニ突入ス 17・21:西村眞悟
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■御意見・御感想は:
ryochan@polka.plala.or.jp

■購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2010年04月30日

<夕刊>◆園田直の二十七回忌

渡部 亮次郎

晩年になって福田、大平、鈴木の三内閣で外務大臣を務めて死んだ故園田直の二十七回忌が3月27日に東京の増上寺で営まれ、秘書官だった私も参列した。

僅か70歳の死だった。糖尿病でありながらインシュリンを打たなかったための「若死に」であった。

皮肉な事に、彼が厚生大臣(当時)の時、日本ではじめて糖尿病患者の「自己注射」を許可。結果、医療業者の競争を促し、注射針は世界一細くなり、注射は殆ど無痛になっている。

彼が残した業績として、水俣病など公害病の初認定が残るが、外務大臣としてやり遂げた日中平和友好条約の締結は32年も以前のことだから、語られる事も少なくなった。

私はNHK政治記者から彼の秘書官に発令された者だけに、その舞台裏を記者の目で見つめていた。

中国について、実は田中角栄氏が首相として国交正常化交渉をした際、NHK政治部から記者として北京に同行していた。

その時発せられた共同声明で日中平和友好条約の締結が公約されていたのだが、田中氏はスキャンダルの為退陣し、次の三木内閣も交渉に行き詰まって退陣し六年が空費されていた。

福田内閣を打ち立てた園田は官房長官として鳩山外務大臣よりも積極的な条約推進論者であった。そのため剣道の弟子で中国育ちの人物をしばしば北京に派遣、廖承志氏ら共産党政権の有力者と接触させていた。

それがモノを言った。偶然にも園田は福田首相に煙たがられ、外務大臣に横滑り。当に日中平和友好条約の担当者になった。更に偶然にも中国側でも条約の推進勢力たるトウ小平氏が復活。

トウ氏の動静は大使館からの公式情報としては全く入ってこないが、例の剣道の弟子からは詳細に入ってきた。「園田が来れば調印する」という!)氏の発言すら入ってきた。

しかし大使館情報しか知らない福田首相と外相の仲は、首相の自民党総裁再選問題と絡んで、悪化していった。

締結を渋りだした首相に無断で北京行きの特別機を手配したのは有田事務次官。園田情報に賭けたのである。

動きは記者たちから首相に洩れた。だから箱根で静養中の首相に決断を求めに園田が厳しい顔で会ったとき、首相がいきなり「直(ちょく)さん、いつ行くや」といって園田をびっくりさせた。

かくて1978年8月8日、特別機は羽田を飛び立った。人民大会堂での交渉はたった二回目で中国側が日本案を全面受諾した。

それから六年後、園田は死んだ。それまでに大平、鈴木内閣で外相と厚生大臣を務めた。

■本稿掲載4月30日刊「頂門の一針」1901号のご案内
<目次>
・首相が辞めないと支持率回復は望めない:古澤 襄
・リニア新幹線は壮大なるムダ:平井修一
・怖い!ゴルフのイップス病:馬場伯明
・園田直の二十七回忌:渡部亮次郎
・掴めぬインド毛主義者らの真意:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■御意見・御感想は:
ryochan@polka.plala.or.jp

■購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

◆辞めない小沢のトラウマ

渡部亮次郎

小沢一郎の政治生命は、カネを巡る検察審査会の「起訴相当」により風前の灯となっている。幸いにも形式的に過ぎない民主党代表の鳩山由紀夫である以上、党内で、表立って幹事長辞任を要求する者はいない。

そこで検察審査会が「起訴相当」の決議を発表した27日、時を置かず「続投」を表明、強引なところを見せた。強引に動かなければ
政治生命を失うという危機感に迫られているからである。マスメディアはそこを解説しない。

「政治家はポストこそが権力。そのポストを手放せば東京地検は必ずや逮捕しに来る」と信じて疑わないのだ。裏付けるように、親分田中角栄も金丸信もともにポストを手放した途端に逮捕され、やがて死を迎えた。

特に金丸の出処進退にすべてかかわった小沢である。トラウマ(心の傷)になっている。「初めは罰金20万円で済んだものが、自民党副総裁を辞めた途端、地検が逮捕に来た。

オレも幹事長を辞めたら地検が何を仕掛けてくるか分かったもんじゃない。辞められない。辞めないと鳩山が総辞職に追い込まれる。民主党が参院選で負ける。だが、そんなこと知るか、いまや己を守る専一だ」。

小沢のトラウマとなっている「金丸信逮捕」は1993年、今から17年前。現役の政治記者で、これを取材した体験者は無いだろう。ウィキペディアに頼ろう。

<1992年8月、朝日新聞の報道により金丸信は東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚。同年8月27日に自由民主党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明し、事態の収拾を図った。

しかしこの記者会見は綿貫民輔幹事長の外遊中に行われただけでなく、竹下派経世会の佐藤守良事務総長が独断で仕切って行われたものであった。

当時、自由民主党総務局長を務めていた野中広務はこの日、たまたま党本部に出勤していて金丸の緊急記者会見が行われることを知り、驚いて副総裁室に駆け込み、金丸と佐藤に「(綿貫)幹事長不在で、(副総裁の進退に関わる)記者会見をやるのはおかしいではないか。中止してもらいたい」と迫ったという。

しかし記者会見は行われ、宮澤喜一政権に大きな衝撃を与えることになった。

佐川問題を巡る竹下派内の対応は裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張するなど二分する形となった。

小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。

しかし、結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。信じられないことだが金丸本人は上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。後に担当することになる弁護士は金丸辞任会見をテレビで他人事(ひとごと)のように見ていたと語っている。

当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果、時効がかかっていた時期を見誤った。浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが客観的ではない。

結局、対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。

東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。

結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992年9月に同法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。

逮捕もなく事情聴取すらしないというこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の看板にペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。

刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。こうした世論の反発の強さから、金丸は10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任することとなる。

一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。

1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。

”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)

このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。

これが止めとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。

逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。

逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。

しかし、金丸のあまりの体調の悪化に心配する家族の申し出により1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した。満81歳没>(敬称略)2010・4・28

2010年04月29日

◆小沢は端から見捨てていた

渡部亮次郎

数々の窮地を潜り抜けてきた小澤一郎。首相になっている鳩山由紀夫の事は、早くから見くびっていたが、首相をやらしてわずか40日にして、もう見限った。ダッチロールしたからだ。

鳩山は常軌を逸している。閣議でメシを食った。国会開会を4日後に控えた09年10月22日、総理官邸で午前11時43分から臨時閣議を開いた。なるほど、メシ時といえばメシどきだが、鳩山は、この席にサンドイッチを出した。

日本憲政史上、閣僚たちが食事をしながら閣議を行なったという例はない。これを聞いた幹事長小沢一郎は沈黙。呆れてモノが言えなかったのである。

外交交渉では「ワーキング・ランチ」というのがある。だがこれは
食事を共にしながら、仕事の話をしてもいいよ程度のことであり、
交渉時間の節約策に過ぎない。

閣議こそは、政府最高の議決機関であり、最も厳粛な行事である。
時間が足りなければ、暫時、空腹に耐えるべきもの。何をどう勘違いしたのか、鳩山は食事をしながら閣議を主宰した。

鳩山から「報告」を直接受けた小澤は絶句したまま、鳩山の沖縄米軍基地を巡る苦境にも全く発言しない。政府はあんた、私は党を決め込むばかり。「お手並み拝見」の姿勢を崩さなかった。既に鳩山を見限っていたのだ。

尤も、ここで口を開けば、懸案解決に小澤も責任を負うような不利を蒙りかねない、と警戒していた。その事はつまりは小澤が既に鳩山を見くびって見限った事を示している。

鳩山が何時倒れるかは誰もわからないが、小澤は「下手すれば年内」と見ていた。よくここまで我慢した者だと、自身、思っていることだろう。同時に「鳩山の後任は菅直人」と決めているらしい。

<民主党の小沢一郎幹事長は2010年4月27日26日の記者会見で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題が5月末に決着しなかった場合の鳩山由紀夫首相の進退について問われ、「そのような質問に答える立場にない。どのような結果になろうとも国会運営をスムーズにし、参院選で勝利する役割を全力でこなしていくのが私の役目だ」と述べた。

普天間問題で窮地に陥る鳩山首相を突き放したような発言は、政界でうわさされる鳩山首相の5月退陣説とも関連するだけに、憶測を呼びそうだ。

小沢氏はまた、「普天間という日米外交案件の問題に私は一切関与していない。説明も相談も受けていないし、私の役目柄ではない」とも語った。

普天間問題では、政府が検討を進める「浅瀬案」で決着しても与党内の混乱が予想される半面、5月決着がずれ込めば鳩山首相の責任問題が浮上する。

いずれにしても普天間問題は鳩山政権の急所であることは間違いなく、小沢氏がこの問題と距離を置いたことについて、民主党内では「(小沢氏は)首相を見放すのか」(中堅)と発言の真意をいぶかしむ声が出ている。

一方、小沢氏は自らが高速道路の新たな上限料金制の見直しを唱えたことに対し、前原誠司国土交通相が猛反発したことについて「前原君がどういうことを言ったか、どう行動したか私は別に全く何の関心もない。興味もない。最終的には内閣総理大臣が決定することだ」と述べた。

小沢氏は「私が全国を一番回っていると思うが、どこへ行っても『(高速)無料で選挙を勝ったのに、実質値上げというバカなことがあるか』との声が充満している。政府以上に日ごろ国民に接しているからそういう声が非常に多いと要望を申し上げた」と強調した。(産経)>

普天間も高速道路も内閣が決めること。それができないなら「仕方ないな、どうするんか、俺は知らん、権力を持っているのは鳩山とか言う人なんだろう、自分で対処しろよ」が小沢の本音である。(文中敬称略)
2010・4・27

■本稿掲載4月29日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1900号のご案内
「昭和の日」<目次>
・小沢は端から見捨てていた:渡部亮次郎
・無党派層に嫌われてしまった鳩山政権:阿比留瑠比
・半身不随になった2人の友人:石岡荘十
・「魔女狩り」今は「たばこ狩り」:平井修一
・実相の隠蔽・・言葉の言い換え:須藤文弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年04月28日

◆鳩山軽蔑を始めたマスメディア

渡部亮次郎

「中国から見ればカモに見え、米国から見ればチキンに見える」で始まった「日本にいる謎の鳥」のアネクドート(小噺)。27日友人かの連絡に依れば、あの鳥は遂に「雁(ガン=癌)」だという事になったらしい。

<与謝野氏「首相は東大出のはずだが頭相当悪い」

たちあがれ日本の与謝野馨共同代表は27日、自民党から除名処分を食らったが、先立って26日、衛星放送「BS11」の番組収録で、鳩山首相について、「東大出身のはずだが、頭が相当悪い。

首相の資質と言われたが、麻生(前首相)さんの方が100倍も1000倍も頭が良かった」と酷評した。> (4月26日19時49分配信 読売新聞)

LOOPY(バカ)を通り越して「頭が悪い」ことになってしまった。それよりも酷いのは、連載「新 民主党 解剖」(第2回=27日)で石原慎太郎都知事の言葉を引用しながら<身に迫る「国民の軽蔑」>を投げつけた産経新聞である。

日本のマスメディアで鳩山首相に「軽蔑」という言葉を投げつけたのは今回の産経新聞が初めてである。自らの世論調査で内閣支持率が22%に落ちたのを確認して、つい出た表現であろう。

その前に、冒頭に出した「謎の鳥」のアネクドート。ネットを見ている人なら臭いほど知っているものではある。

<日本には謎の鳥がいる。正体はよく分からない。

中国から見れば「カモ」に見える。

米国から見れば「チキン=鶏」に見える。

欧州から見れば「アホウドリ」に見える。

日本の有権者には「サギ」だと思われている。

オザワから見れば「オウム」のような存在。

でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え

身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒。

釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、

実際は単なる鵜飼の「ウ」。

私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。>

というもの。誰かが初め、ネットに掲載したら、読者が投書して鳥の名が増えた。とうとうガン(癌)になっても死なないから、ハトは国民に軽蔑されながら、死ぬまでもっと多くの鳥になるだろう。

さて産経新聞である。問題の連載は初回からかなり厳しい表現を用いて民主党への失望と内部の同様を伝えてきたが、2回目の27日は遂に「軽蔑」を投げつけた。

<「首相が国民の軽蔑を買った。軽蔑が一番、怖いんだよ」。民主党が圧勝し政権を奪取した09年8月の衆院選直前、東京都の石原慎太郎知事が麻生太郎前首相を評した言葉だ。石原の指摘は今や勝利者だったはずの鳩山に突きつけられている。>というもの。

普天間問題の処理の不手際に、国民は今や呆れている。しかも本人もそれを承知で「私はバカだ」といったかと思うと暗愚と摩り替えて威張ってみせる。それこそ「つける薬の無い馬鹿」である。

与謝野氏が言う如く、東京大学初め立派な大学は出てきたらしいが、
学力とは無関係な事態の洞察力とか指導力とか決断力がまったく無い。田中角栄と全く反対の人物である、可笑しさ。

角栄は貧乏で中学にも行けなかったが、あれほど頭の良さを感じさせた人物のナンバー・1だった。だから首相が務まったが、鳩山は大学は幾つ出ても、元々世渡りの頭は全く無い。こういう者を江戸の庶民は「使い物にならない」と軽蔑し、挨拶もしなかった。

<産経の世論調査で首相の指導力を「評価する」ハ5・6%にとどまり、逆に「評価しない」が9割に達した。

政権補足時の昨年9月の調査では、首相の指導力を54・5%の人が評価していた。7ヶ月で約10分の1にしぼんだ計算だが、国民の5%しか指導力を認めない国家の最高指導者とは何だ」>(産経)

さりながら鳩山は簡単には辞めない。カネの有る奴 学歴の高い奴、頭の悪い奴、女房の尻に敷かれている奴ほど、辞めない。秋田弁では、こういう奴を決め付けて軽蔑する言葉がある。「ドブデキャシ」(文中敬称略) 2010・4・27

■本稿掲載の4月28日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1899号のご紹介
<目次>
・鳩山軽蔑を始めたマスメディア:渡部亮次郎
・小沢氏、首相を見放した?:古澤 襄
・子宮頸がんワクチン適齢期:石岡荘十
・習近平が王楽泉の更迭を宣言:宮崎正弘
・ハトに餌をやってはいけない:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2010年04月27日

<夕刊>◆ASEANへ初参加のころ

渡部亮次郎

1976年8月、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの東南アジア5カ国が結成した地域協力機構たる東南アジア諸国連合(ASEAN)。84年1月からはブルネイも加盟国となった。

76年2月にバリ島で開いた第1回首脳会議では、「一体化宣言」と「友好協力条約」を調印した。域外先進国との経済関係強化のため、78年以降、日本、米国、EU、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、韓国の外相を含めた拡大外相会議も開いている。

92年1月、シンガポールで開催した首脳会議ではASEAN自由貿易地域(AFTA)構想を採択した。その後95年7月にベトナム、97年7月にミャンマー、ラオスが加盟し、99年4月のカンボジア加盟で域内のすべての国からなる「ASEAN10」を実現した。

07年1月にフィリピン・セブで開いた首脳会議では2015年の「ASEAN共同体」実現を目指した宣言を採択した。

さてASEANに対して日本は結成当初から外相会議への参加を要望していたが、主としてフィリピンの強い反対で拒否されていた。
しかし1978(昭和53)年になってようやく参加を認められ園田直外務大臣が6月16日(金)、会場となるタイの景勝地パタヤに到着した。

32年も前のことだから記憶はおぼろげだが、ホテルはASEAN外相会議が開催される「ロイヤル・クリフ・ビーチ・ホテル」だった。タイ警備隊ノメンバーのくゆらす煙草が甘い香りを発していた。ホテル内のいたるところに飾られた花は強い原色なのに、香りがまったく無いのに気付いた。

それにしてもASEANが日本の参加を永らく拒否したのは大東亜戦争の加害者に対する拒否感からして当然だろうが、「大きな声じゃ言えないが、マッカーサー米元帥のフィリピン駐在当時、その副官を務めていたロムロがいまやフィリピンの外相。ロムロがキーマンという情報を得た。

そこでロムロは会議で何をやらかすか分かったものじゃないという疑念にとらわれた。翌朝早く起きて、外相会議の会場を独りで見に行ったところ、机の配置に悪意がある。

こうした場合、6カ国は「対等」なのだから6角形にして坐るのが普通なのに、ASEAN側5カ国が横一列に並び。向かい側にポツンと日本が坐る事になっている。「これじゃ口頭試問だ」と怒り、大臣に報告した。

ロムロとマッカーサーとの関係。「ウィキペディア」によれば、1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻ったマッカーサーは、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。

アメリカはフィリピンを1946年に独立させることを決定した為、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはマヌエル・ケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。

マッカーサーはケソンの求めに応じてフィリピンへ赴いた。そこで、未来のフィリピン大統領から「フィリピン軍元帥」の称号を与えられたが、この称号はマッカーサーのために特に設けられたものだった。

この頃マッカーサーの副官を務めたのが、その後大統領となるドワイト・D・アイゼンハワーとロムロであった。

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。

また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。

1937年4月にケソンに伴われて、日本を経て一度帰国した。ここで2度目の結婚をして再度フィリピンを訪れ、それ以後は本土へ戻らなかった。

1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られている。

1941(昭和16)年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰(26日付で少将として召集、翌27日付で中将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、太平洋戦争突入後の12月18日付で大将に昇進した。

ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていたが、当時アメリカにはマッカーサーより東南アジアに詳しく、優秀な人材はいなかった。

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。

オーストラリアに退却したマッカーサー怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込んだ。

2ヶ月に亘って日本陸軍を相手に「善戦」していると、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。

しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ルーズベルト大統領はマッカーサーが戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、マッカーサーとケソン大統領にオーストラリアへ脱出するよう命じた。

マッカーサーはケソンの脱出には反対だったが、ケソンはマッカーサーの長い功績をたたえて、マッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ。実際には脱出させてもらう為のあからさまな賄賂であったが、マッカーサーは仕方なく賛成した。

コレヒドール島からの脱出を余儀なくされた際「アイ・シャル・リターン (I shall return ; 私は戻って来る) 」と言い残して家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに飛び立った。ロムロも一緒だった。日本軍へ恐怖と怒りは頂点に達していた。

この敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。オーストラリアでマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。だが、その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。


レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー南西太平洋方面総司令官時代には、ビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。

そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キングをはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。

ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島のレイテ湾に上陸し、フィリピンゲリラにも助けられたが、結局は終戦まで日本軍の一部はルソン島の山岳地帯で抵抗を続けた。

この間、1944年12月に元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカやイギリス、中華民国やフランスを中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本が加わった初のASEAN外相会議が始まった。机は並べ直されて6角形になっている。冒頭、園田外相が言った。日本から「口頭試問を受けに来たソノダです」。逆手に出たのだ。通訳されると会場は爆笑。会議は成功。

夜のレセプションでは議長役ウパディット・タイ外相の提案で「かくし芸大会」となりミスターソノダは「黒田武士」を歌ったが、音痴なので歌になっていなかった。

それでもすっかり打ち解けた雰囲気になり、翌日はクリアンサック首相の私邸に招かれ、首相がみづからなさる手料理をご馳走になったが、私は天井に張り付いたヤモリが何時落ちてくるかばかりが気になって、何を食べたか記憶が全く無い。

なお、ロムロと園田は「意気投合」し「親友」となった。2010・4・25

■本稿が掲載された4月27日刊全国版「頂門の一針」1898号のご紹介
<目次>
・ASEANへ初参加のころ:渡部亮次郎
・早くも習近平の次を睨む人事レース:宮崎正弘
・やっぱり鳩山首相は危ない人:阿比留瑠比
・兵力の急減に悩む北朝鮮軍:古澤 襄
・幸せは歩いてこない:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きをして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年04月26日

◆沖縄での米軍訓練の実態

渡部亮次郎

私は通常では絶対見ることのできない、米軍基地での訓練の実態を詳しく見た経験が有る。沖縄特派員(NHK)だった時期があるからである。

作家の石原慎太郎が参院選挙に出馬、300万票をとって最高点で当選した(7月7日)昭和43(1968)年。この後の11月10日には沖縄で初の主席(知事)の公選が行なわれ、NHKから特派員として私が旅券を携えて派遣された。

言うまでも無く、昭和43年は沖縄の悲願とされた「祖国復帰」は実現していない。日本にとっては「外国」だったから、私がパスポートを所持した所以である。

したがって出張旅費もドル。私は1日40ドルを支給された。1ドルは360円。360×40=14,400(円)。大名旅行だった。なぜなら下宿代(2食、6畳間)が1日5ドル、タクシー雇い上げ代1日10ドル。
残り25ドルは使い道なし。

とはいえ、選挙情勢を探るのに、何処へ行けばいいか、皆目見当が付かない。何しろ琉球(当時は沖縄県ではなかった)選挙管理委員会で「開票状況の速報体制はどうなっておりますか」とたづねたところ、「速報って何ですか」と言う答え。

投票が済めば、結果は投票箱を何時空けても同じ。慌ててあける必要は何処にも無い、と実に哲学的な答え。繰上げ投票など、何でする必要がありますか。ダメダコリャ。

妙なのだ。雇い上げたタクシーを毎日、ナショナル電気洗濯機とわき腹に書いたワゴンが決って尾行してくる。問いただしたらアメリカ政府の高等弁務官の依頼で私の24時間を監視しているのだ、とアッケラカンと白状する現地人。

昨夜は何処のバーで何の銘柄のウイスキーを何杯呑んだか、ホステスを誘惑したか否かも米軍は把握しているという。なぜならホステスそのものがスパイに仕立てられているからだという。

言論自由のアメリカ、けしからんと弁務官に抗議。「ミスター・ワラナベ 不都合な記事を載せた新聞は那覇空港で検束すれば済むが、NHKの電波は検束できない。だから発信元を監視する意外に手段がないのです」とあっけらかん。

「これも何かのご縁ですから、我々の訓練を視察なさいますか「といってIDカードを呉れた。その時瞳の色を問われて「黒」と答えたら「黒は琉球人、日本人はブラウン(茶褐色)ですと訂正された。

基地の名前を忘れたが、たしかキャンプ・コートニーだったと思う。ジャングルの中を進むと、細い道の向こうに盛り上がったところがある。合理的に考えれば地雷。避けて通ると、よけたところにこそ地雷。頭が早くも混乱。

掘り抜き井戸がある。予め射撃で破壊。安心して通りぬけたら後ろから撃たれた。ベトコンはかねて射撃を予測。井戸に横穴をくりぬいて隠れていたのだ。文明人を端から信用どころか、バカにしているのだ。

先に掘っ立て小屋がある。焚き火して湯を沸かしていたようだ。逃げられた直後らしい。徹底的に射撃したと近付くと薪の山の中に自働射撃の銃が隠されていて撃ってきた。

喉がからから。「戦友」に貰ったコーラで潤し、空き缶をポイと捨てたら、それが火炎ビンとなった返ってきたではないか。これでは文明的な生活に慣れたアメリカ人は価値観の余りな違いに戸惑い、終いにノイローゼになる人が出て当然とのことだった。

専門家ではないからよく分からないが、合理主義と物量のアメリカは、間もなくヴェトナムから敗退した。

なお、琉球主席選挙の予測、4万票差で野党統一候補の屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏が当選。その通りとなった。投票前日に東京へ送った私の電話をアメリカ軍はちゃんと録音していた。(文中敬称略)2010・4・23

■本稿掲載の4月25日刊「頂門の一針」1896号のご紹介
・<目次>
・沖縄での米軍訓練の一駒:渡部亮次郎
・自民脱党・誘因は金欠:山堂コラム 315
・<子ども手当>韓国人男性が養子554人分申請:古澤 襄
・「実にけしからん」とののしられ:岩見隆夫
・不仲夫婦が別れない理由:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2010年04月24日

◆口蹄疫牛はすぐ殺処分

渡部亮次郎

<宮崎の1例目、口蹄疫確定=農家支援策も拡充-赤松農水相
赤松広隆農林水産相は23日の閣議後記者会見で、宮崎県都農町の農場から口蹄(こうてい)疫の疑いのある牛が20日に見つかった1例目について、検査の結果、口蹄疫のO型ウイルスが確認されたことを明らかにした。>( 時事通信2010・4・23)

致命的な病気ではないが、偶蹄類が感染する伝染病の中でも最も伝染力が強く、ウィルスは100km以上も飛ぶ。

こうして蔓延すれば畜産業界に経済的な大打撃を与えかねない疾病でもあるため、患畜として確認され次第、家畜伝染病予防法に基づいて全て速やかに殺処分される。治療が選択されることは基本的に無い。

日本では家畜伝染病予防法で家畜伝染病に指定されており、対象動物は牛、水牛、鹿、羊、山羊、豚、猪。OIEリストA疾病。

人には感染しない。また患畜の乳や肉を摂取しても人に影響はない。

1898年、ドイツの医学者フリードリヒ・レフラーとポール・フロッシュにより病原体が突き止められ、細菌より小さいことが確かめられた。これが、初めて確認された濾過性病原体=ウイルスの一つである。

感染すると発熱、元気消失、多量のよだれなどがみられ、舌や口中、蹄の付け根などの皮膚の軟らかい部位に水疱が形成され、それが破裂して傷口になる(但し、水疱が形成されないケースも報告されている)。

患畜がウイルスの感染そのもので死亡する率は低いが、水疱が破裂した際の傷の痛み(細菌によるその後の二次感染も含む)で摂食や歩行が阻害され、体力を消耗する。

それによって乳収量や産肉量が減少するため、畜産業に対して大きな打撃となる。また、家畜の伝染病の中では最も伝染力の強い疾病でもあり、水疱から破裂した際に出た口蹄疫ウイルスが風に乗るなどして、気象条件によっては100km以上移動することもある。

日本でも2000年春、92年ぶりに宮崎県と北海道でO型の口蹄疫の発生が見られており、2010年にも宮崎県で感染の疑い例が生じている。

1908年に、東京、神奈川、兵庫、新潟で522頭が感染が記録されている。

2000年3月25日から4月9日に宮崎県で3戸、5月11日に北海道1戸の感染が確認、6月9日には終息。日本では92年ぶりの発生であった。

2010年4月9日、宮崎県都農町の畜産農家の和牛1頭に口腔びらん等をの症状を確認。疑似患畜として確認

2010年4月16日、2頭が同様の症状
2010年4月19日、さらに1頭が発症
2010年4月20日、宮崎県都農町の畜産農家の和牛3頭が感染の疑いが確認された]。

2010年4月21日、宮崎県川南町の乳肉複合畜産農家に飼養されていた6頭の牛に感染の疑いが確認された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・4・23

2010年04月23日

◆豪州捕鯨反対の真相

渡部 亮次郎

私自身は鯨を食べる事無しに育ったが、聞くところによると、ある時点まで鯨は低収入層にとっては牛や豚肉に替わる貴重な動物蛋白源だった。だから今になってみると鯨をもう一度食べてみたいという人は多い。

貧しく育ちながらアメリカで教える大学教授に上り詰めた知人は、なんとか鯨カツを食べてみたい、と言う。トンカツより安かったから母親は泣く泣く買った鯨カツだったのに。

そんな折、北海道にスキーをしに来たオーストラリア(豪州)人たちが、何十台ものリフトに捕鯨反対の落書きをしていったのでスキー場側を困らせているという記事を目にした。営業妨害では無いか。


<「捕鯨反対」落書き? 旭川のカムイスキーリンクス ゴンドラの半数以上
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/77456.html

【旭川】北海道旭川市神居町西丘の民間スキー場「カムイスキーリンクス」のゴンドラリフト内で、捕鯨反対のメッセージと受け取れる落書きが多数見つかっている。

クジラの絵とローマ字で「TABENAIDE(食べないで)」と書かれ、“被害”は103台あるゴンドラ(4人乗り)のうち、62台に上る。落書きはオーストラリア政府や米国の反捕鯨団体による調査捕鯨への反対の動きが道内でも報道された1月から増加。

黒や緑色のマジックで書かれたらしく、漫画風に描かれたクジラが「食べないで」と訴えている。

道内では近年、オーストラリアなどからの外国人スキー客が急増。「これ以上の迷惑行為はやめてほしい」と困惑顔だ。> 北海道新聞(02/2208:00)

インターネットを逍遥していたら「桜木朱雀」と名乗る方がブログで、

<オーストラリアの反捕鯨運動は、一部の狂信的な民間団体による勝手
な行動ではなく、オーストラリア政府の肝煎りによって行なわれている
>という指摘があった。一読に値すると考えるので紹介する。
http://www.suzaku-s.net/2008/01/aussie-the-economic-animals.html

<その抗議運動の実態は、海域に船を出す妨害活動やデモ運動だけでなく、「テロ」としかいいようのない暴力的・破壊的なものだ。

オーストラリアの市民団体による常軌を逸した抗議や、環境テロ集団による狂気の「襲撃」の背景には、もちろんオーストラリア人が生まれながらに(ある意味“建国の理念”として)持っている差別意識、白豪主義が見え隠れする。

しかし、それを政府が後押ししているとなると、やはりもう一つの当たり前の事情…金の問題が丸見えになります。

オーストラリアでは、約2,800万頭(2006年現在)もの牛が飼育されています。また、生産する牛肉の65%以上を輸出する世界最大級の牛肉輸出国であり、その経験と技術が品質をしっかり支えています。

さらに、オーストラリアにとって最大の牛肉輸出市場は日本。したがって、日本のお客様のさまざまな好みに合わせた牛肉を生産することができ、食文化の多様化に対応している。

日本は、オーストラリアにとって最大のお客。特に米国産牛肉のBSE問題以来、「オージービーフは天然素材で育てていて安心でヘルシー」というプロモーションも奏功し、輸入量はうなぎのぼりのようです。ジェトロのデータによれば、日本一国で、オーストラリアの総輸出量の20%をまかなっているのです。

    2004年    2005年    2006年
    金額(豪弗) 金額      金額   構成比(%)
日本  22,219    28,462     32,456   19.8
中国  11,014    16,127     20,376   12.5
韓国   9,171    10,959     12,321    7.5
米国  9,546     9,264  10,071  6.2
(オーストラリア - 輸出統計(国別) - ジェトロ)

これで日本人が鯨という超効率のいい動物性蛋白質を消費することを思い出したら…。もし、日本が牛肉と完全に袂別し、国家として鯨食を選択したら…。

もちろん、今の日本と日本人が、こんな非現実的な選択に踏み切る、踏み切れるはずもないのですが、オーストラリア人は先の大戦で見た日本人の団結力を未だに恐れているのかもしれない。

それにしても、日本から今後も金を引き出すために、捕鯨船を襲撃し、大使館で日の丸を汚し、日本を恫喝して、肉を売りつけようとする。ヤクザな商売ですね。

しかも、「草だけを食べさせるのでクリーンで健康的」と謳われるオージービーフは日本の消費量が増えると牛肉の値段が上がり、オーストラリアの一般家庭にとってはまったくありがたくない話のようです。牛が排出するメタンガスによる温室効果も、無視できません。

オーストラリアというのはもともと真水の量が少なく、このために牧場では地下水を汲み上げては牛の飼育に使ってしまうために、地中の水分が減少して砂漠化が進行してしまうという。

オーストラリア産の牛肉を食べれば食べるほど地球環境が破壊され、オーストラリア人に憎まれる。鯨を食べれば、オーストラリア人に襲われる。

こうして考えると、私たちが何を食べるべきか、何を食べるべきでないか、どうやら見えてくるような気がします。2008年01月15日 (再掲)

■本日4月23日刊の全国版メルマガ「頂門の一針」1894号のご案内
<目次>
・「愚か」を「愚直」とすり替えた鳩山首相
・米中G2論はもはや幻:古森義久
・サイズはA4で「ええよん!」:馬場伯明
・安以宇衣於と伊呂八、全國學力テストの問題:上西俊雄
・火山灰による飛行禁止騒動総括:クライン孝子
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2010年04月20日

◆官房長官の吉凶

渡部亮次郎

田中角栄が逃げたかった一つのポストが「官房長官」だった。このポストのこなし方は、それくらい難しいし、場合によっては、その政権の命運を左右するし、自身の政治家としての将来を決する。

<新党大地の鈴木宗男代表は18日、神奈川県藤沢市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題について「鳩山由紀夫首相が5月末に決めると言ってるんだから、首相に任せたほうがいい。官房長官が『5月末は難しい』などと暗い顔して言ったらダメだ」と述べ、平野博文官房長官の姿勢を批判した。

社民党の阿部知子政審会長も同じ講演会で、普天間問題をめぐる平野氏の対応について「優しさとか、粉骨砕身して沖縄の問題に答えを出していこうという姿勢が感じられない。沖縄の人と心底ひざを交えて話す勇気と気概がない」と痛烈に批判した。(産経)>

平野長官を斬って延命を図る鳩山首相という場面、無きにしも非ず。
<鳩山内閣の支持率低下は鳩山氏自身の迷走が原因だが、それに輪をかけて側近の平野官房長官の無能ぶりがあるという。「平野A級戦犯説」すら取り沙汰されている。>と2010.04.19 Monday name : kajikablog(古澤 襄)

田中が逃げたのは、親分佐藤栄作が政権を握っている時代。佐藤は田中の手綱を引き締めないと、暴れ馬になり、自分の後継に福田赳夫を据えられなく恐れがあると判断。官房長官にして手許で監視しようと考えた。

既に佐藤の後継者として、福田と戦うことを決意していた田中はあらゆる策略を用いて官房長官構想を潰した。佐藤の逆鱗に触れたわけだから一時は無役にされた。ライバル福田は喝采した。そこがこの政治家の弱点である。

野に放たれた田中は佐藤派は勿論、各派に亘って多数派工作に専念、佐藤の知らぬところで党内の多数を制してしまった。対して福田は
「上善水の如し」と嘯き、なんら工作をしなかった。多数派工作をすれば佐藤の自尊心を傷つけると判断したのである。

結果は田中の圧勝。福田は下野せざるを得なかった。私はNHKで福田番だったが、なぜか田中内閣の官邸クラブにサブ・キャップとして入れられた。

官邸クラブを離れて数年後、「友人」園田直(すなお)から相談をかけられた。「福田内閣がやっと出来る、何大臣をやったらいいか」

「そりゃ内閣官房長官しかないでしょう。内閣を握りながら次期首相の大平と緊密な連絡がとれるポストといったらここしかない」「やはりそうか、じゃ決めた」で別れた。

福田は官房長官には安倍晋太郎を考えていた。晋太郎の岳父岸 信介は福田の親分でもある。その岸から予て「注文」があったのだ。
園田はそれを先刻承知。さっさと塩川正十郎を副長官に連れて官房長官室を「占拠」。

何しろ福田にとって園田は政敵田中角栄と話をつけてきた「恩人」である。やんちゃな園田の態度を認めるしかなかった。昭和51(1976)年12月24日のことだった。

「官房長官を安倍に」と言う岸の要求は激しかった。福田は1年後の11月28日に内閣改造を行なったが、園田を斬るわけには行かず、たった一人残留させ、閣内ナンバー2たる外務大臣に横滑りさせた。

園田は胸中の怒りを抑えながら、「密約」に従い、この一年後に大平政権を樹立する事に精力を傾注しながら、田中政権以来、政府の懸案である日中平和友好条約の締結に全力を傾けた。このとき秘書官は NHK国際局副部長から招かれた不肖私であった。

園田は官房長官として、次期首班を約束されている幹事長大平に対して福田の任期を1年延長する交渉を続け、ほぼ了解を取り付ける寸前まで行っていた。首相にはまだ報告できる状況ではなかったが。

しかし、岸の圧力に抵抗しなかった福田に園田は愛想が尽きていたので、大平との交渉は沙汰止みとなった。その後、福田が密約を破って大平に総裁公選をあえて挑み惨敗。福田の恨みは深く、それに負けて大平が急死。本来なら福田に戻っても可笑しくない首相の座が、あろうことか鈴木善幸に渡った。

渡したのは大平への弔問から帰宅した角栄邸での田中・園田会談だった。官房長官のポストとは、かくのごとく重く内閣の命運を左右し、政治家自身の行方を決める。「鳩山は官房長官の人選を間違えた」と言う批評は当然、平野に言わせれば首相を間違えた事にもなる。(文中敬称略)2010.4.19

■本稿掲載4月20日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1890号の紹介
<目次>
・満座の中で恥をかかされた鳩山首相もはや「ガン」か:花岡信昭
・野武士集団とお公家さんの知恵較べ:古澤 襄
・官房長官の吉凶:渡部亮次郎
・鳩山首相の最後っ屁が心配だ:泉 幸男
・ジェネリック薬品が国を救う:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。