2007年08月23日

◆ニイノ・アキノの死


                     渡部亮次郎

8月21日はフィリピンの政治家、通称ニノイ・アキノがマニラ国際空港で暗殺された記念のひだった。事実上の独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノはマルコス政権の最大の脅威にして大統領の最強のライバルであった。

当然、独裁政権を誇るマルコスに疎まれてアメリカにのがれてた。それでも帰国したところをマニラ国際空港で暗殺されたのだった。祖国の土は踏めなかった。

あれは1983{昭和58)年の5月21日のこと。日本の内閣は中曽根内閣だった。祖国の土を踏ませなかったのは誰だ。

だからこそ、ニイノの死は、僅か3年後、人民革命によりマルコス政権が崩壊の起爆剤と化し、ニイノの妻コラソン・アキノ(コリー)が一気に大統領就任へつながって行ったのである。

既に悪名の方が高かったフィリピン大統領フェルナンド・アルコスとその夫人イメルダ・マルコスにマラカニアン宮殿でお会いしたことがある。1979年5月9日、大統領公式晩餐会に、指定された白のタキシード着用で出席した。園田直外務大臣秘書官としてだった。

(Imelda Marcos、1929年7月2日―はフィリピン共和国第10代大統領フェルディナンド・マルコス夫人というより自らも政治的実権を振う人として世界に轟いていたが、香水のあまりのきつさには閉口した。

Ferdinand Edralin Marcosは1917年9月11日弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員だった父親と教師の母との間に4人兄弟の2番目として生まれた。祖先はフィリピン人・中国人・日本人の混血とされる。

司法試験はトップで合格。戦時中、フィリピンはマッカーサーの下にあったが、1942年1月、日本軍がマニラを無血占領した際、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出している。

こうした、マルコス主張の抗日ゲリラ活動での活躍は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし、後に明らかになった米国公文書館の記録によれば戦時中の活動は極僅かもしくは全く無かったとされている。

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2007年08月22日

◆改革開放30年後の成果?


                     渡部亮次郎

中国の輸出総額はアメリカを抜いて世界第2位に浮上したが、その殆どは外資のもので、中国企業のブランド品は10%にも満たないという。こういう国を主要国と表現していいのだろうか。

このことを明らかにしたのは中国商務省の于広州次官。2007年8月21日19日までに明らかにしたと産経北京の矢板明夫特派員が20付けの紙面で報じた。

最初は勇ましい。「中国の輸出総額は今年、米国を抜いてドイツに次ぐ世界第2位に浮上する」といい改革開放を実施してから約30年、貿易大国の地位を固めつつあると誇らしげだ。

ところが中身が問題だ。輸出の大半は日本やアメリカなど外資企業に頼っている。中国系蚕業は世界に通用する技術もブランドも殆ど持っていない。それどころか品質低劣な製品は世界中のあちこちでトラブルを起こしている始末。

国営新華社通信などによると、于次官は18日、北京で開かれた中国経済発展フォーラムでの講演で、今年上半期の中国の輸出額は5467億ドルとなり、昨年同期と比べて27・6%増えたといい、「このペースで推移すれば今年の輸出額は米国を約500億ドル上回る」と予想した。

同時に于次官は輸出の拡大は外資系企業による貢献が大きく、中国企業のブランド品は10%にも満たず、結局は輸出額と貿易黒字の拡大はあっても「中国の貿易上の地位が高いことを意味しない」と認めた。

矢板記者によれば、中国製品の輸出は繊維製品、玩具など付加価値の低い労働集約型製品に偏っている。

これに反して欧米や日本などは自動車のように高い技術集約型製品を中心に輸出している。早い話、技術を売って儲けている。したがって輸出の約60%を外資系企業が占める。

これに対して中国メーカーは利息、配当金、技術、ブランド使用料などを外資に払わなければならず、いくら輸出が増えたといっても、中国に入るのは賃金だけというのが実態だ、と矢板記者。

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2007年08月21日

◆防衛省をめぐる謀略放送


                         渡部亮次郎

先に小池百合子防衛大臣が突如「防衛省の天皇」守屋武昌事務次官(62)のクビを斬ろうとしたとき、夕刊紙「日刊ゲンダイ」は訳知りに「真相」を報じた。

2007年8月12日に「その裏には東京地検特捜部が近々防衛利権にメスを入れるとの情報があり、名簿には守屋氏の名前も取りざたされていて、小池大臣はこれを嫌ったのだ」と。

これに並行して名の通った弁護士がことさらにシーメンス事件を仄めかしたりするものだから、ロッキード・マーティン社が製造しながら、米議会から機密保持のために海外販売を禁止された最新鋭のF22(レーダに捕捉されない)の解禁と結びつけた情報さえ流れている。

結論から言って私は弱り始めた安倍政権に対して引きずり降ろしを図る左翼陣営乃至反主流派の謀略「放送」ではないかという気がしてならない。検察が事件摘発前に予告情報を流す事などあり得ないからである。

日刊ゲンダイが挙げている(検察事情通)とは大手の新聞記者だろう。「検察が重大な関心を寄せているのは、航空自衛隊の次期輸送機CXの搭載エンジンの納入利権のようです」という。

それによれば、この利権は総額1000億円にものぼり、老舗防衛商社の山田洋行と、同社の経営陣が分裂して設立した新会社の間で熾烈な利権争いが勃発。

一度は山田洋行に決った販売代理店契約が突如、新会社に変更になった。大昔のグラマン戦闘機をめぐる商社間の暗闘を思い出させる話では無いか。

「その裏側で防衛省の背広組や政治家が跋扈(ばっこ)したのではないかと噂され、(司法関係者)とは弁護士だろう「検察のターゲットには守屋氏の名前も取りざたされている」と日刊ゲンダイに教えているのである。

守屋氏とは何かのパーティーで見かけた事はあるが、話をした事は無い。東北大出の生え抜き防衛事務次官、在任既に5年目に入っていた。容貌とは裏腹に相当の切れ者だったらしい。津島派所属者の多い歴代長官や大臣を自家薬籠中のものとしてきた。

歴代防衛庁長官や防衛大臣はあまり表面は出てこないが実は「安全保障議員協議会」という任意団体で堅く結束しており、彼らは守屋次官続投を支持していたはずである。それがあったればこそ、守屋氏の大胆ともいえる「反抗」があったのである。

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2007年08月19日

◆パチンコのままの安倍


                       渡部亮次郎

私が外務大臣秘書官を辞して浪人の頃だったから昭和58(1983)年の秋ごろのことだったように思う。東京都下の立川市で大々的な決起集会が開かれた。

ある政治記者が自民党安倍晋太郎派で立川を中心とする地盤から衆院議員に出馬する、ついては立川市で決起集会をぶち上げてムードの盛り上げを図ろうという事になった。

隣の国立市で燻っていたから、会場を覗きに行った。安倍派幹部に混じって今の安倍さんもヘリコプターでやって来た。聞けば親父安倍晋太郎外務大臣の秘書官だという。

数年前まで座っていた私の椅子に今は座っているのだという。なるほど、晋太郎と岸信介の娘洋子の間に出来た次男だという。長身の晋太郎と鼻だけは低くなかった岸の顔を足して2で割ったような顔。

連れて行ってくれた友人の話によると、晋三氏は幼少の頃から頭は父や祖父に全く似なかった。家庭教師をつけて貰って、せめて慶応義塾を狙ったが果たせず、吉祥寺郊外にある三菱系の私立学園成蹊の小学校に入った。

アーチェリーをやったとか言っているが、要するに吉祥寺駅前のパチンコ屋に入り浸り。とうとう大学まで成蹊を抜け出せなくて終わったという意地悪な解説だった。

ところが「解説」は意地悪ではなかった。真実だった。しかも、あれから二十数年、安倍晋三は進歩していない。だからやはり参院選挙に大敗してレームダックになるという予測の道を滑り落ちている。

「ご紹介戴きました安倍晋三です。外務大臣安倍晋太郎の代理で参りました。五十嵐君は時事通信社の安倍番です。ある日、親父のところに来て、代議士に立候補したいので、応援して欲しい、といいました。そこで安倍派として五十嵐君を応援する事に致しました。皆さんよろしくお願いいたします」。
あぁ、これで五十嵐君は落選確実になった、と私は確信した。

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2007年08月17日

◆米国の原発建設再開


                         渡部亮次郎

東京電力が、米国の原子力発電運転管理会社STPニュークリア・オペレーティング・カンパニー(STPNOC)との間で、原発の建設・運転管理に関する技術コンサルティング契約を締結したと発表したのは2007年3月13日。

STPNOCはNRGエナジー社のサウステキサスプロジェクト原子力発電所の3・4号機増設計画で、建設と運転管理を受託している。

この増設計画が実現すれば、米国では1979年以来、初めての新規原発建設となる。増設原発は米国で初めて改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)を採用する予定だ。

ABWRは東京電力が新潟県柏崎刈羽原発で2機を10年間運転して来た方式で、今回2007年7月16日の中越沖地震でも周辺装置は被害を受けた。

しかし国際原子力機関(IAEA)が8月14日に発表した調査結果では、耐震設計上の想定を上回る揺れにもかかわらず、運転中の原子炉が安全に停止したほか、予想より損傷が少なかったと結論を下し、「お墨付」を与えた。

2005年8月に制定された米国の「2005年エネルギー政策法」(EnergyPolicy Act of 2005)は、原子力発電をエネルギー供給の重要な柱としている。

また、07年1月に日本の甘利経済産業相と米国エネルギー省ボドマン長官によって合意された「エネルギー安全保障に向けた日米エネルギー協力」の中にも、日米両政府が協力して新規原子力プラントの建設を支援していくことが盛り込まれていた。

最近の情報によると、原子力発電所の建設について米国政府は8月から建設許可への「審査」を開始した。建設が許可されれば1979年3月28日のスリーマイル島原子力発電所事故以来、ほぼ30年ぶりの新規原発となる。
スリーマイル島原子力発電所事故はアメリカ合衆国東北部ペンシルバニア州で起こった「想定された事故の規模を上回る」過酷事故である。

メトロポリタン・エジソン社(所有はGPUニュクリア社)のスリーマイル島原子力発電所は州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川のスリーマイル島(Three Mile Island)と呼ばれる中州にある。島の周囲約3マイル。

21世紀初頭現在もなお原子炉内には広島型原爆数百個分のストロンチウム、セシウム、ヨウ素が残っている。

スリーマイル島の原子力発電所は2つの原子炉があり、そのうち2号炉(TMI-2)はバブコック&ウィルコックス社(B&W社)が設計した加圧水型原子炉(PWR)で電気出力は96万kWであった。

事故当日、このTMI-2は営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中だった。事故は1979年3月28日午前4時すぎから起こった。

初め2次冷却水の給水ポンプが故障で停まり蒸気発生器への2次冷却水の供給が滞ったため除熱が出来ないことになり、1次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し加圧器逃し安全弁が開いた。

このとき弁が開いたまま固着し圧力が下がってもなお弁が開いたままとなり、蒸気の形で大量の原子炉冷却材が失われていった。

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2007年08月16日

◆敗戦直後にされたこと


                      渡部亮次郎

敗戦直後にされた事は敵による「軍事的占領」であった。2600年の栄えある歴史を誇ってきた大日本帝国が史上初めて舐める屈辱であった。

1945年8月15日に日本は連合軍に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

占領軍は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)といった。連合軍とはいえ、実質的には殆どがアメリカ軍だった。進駐軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。

マッカーサー元帥は8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場にコーンパイプを咥えながら到着、以後1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

日本に到着して1ヶ月も経たない9月27日には新聞にに掲載させるため昭和天皇と会見写真を撮影させた。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーが腰に手を当てて突っ立っているのに対し、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写されていた。当時の国民にとっては屈辱的でショックであった。

日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。

「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。

連合軍とはいっても、ほとんどの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。

参謀部
1. 第1部(G1 人事担当)
2. 第2部(G2 情報担当)プレスコードの実施を担当
3. 第3部(G3 作戦担当)
4. 第4部(G4 後方担当)

特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。

幕僚部
1. 民政局(GS:Government Section 政治行政)
2 .経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
3. 民間情報教育局(CIES:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
4. 天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)

特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。

上記は中枢部分で、1946年1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。また、GSとG2が日本の運営を巡って対立。GSが片山・芦田両内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や贈収賄の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。

総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。

彼はまた後に、当初は日本を工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったと述べている。

連合軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により処罰され、東條以下7名を処刑、多数を禁固刑などに処した。

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2007年08月15日

◆国力を失う世紀

                       渡部亮次郎

以下は07年3月4日に書いたものだからご記憶下さっている方もあろう。
日本で1億国民の総白痴化が完成し、すべてはTVを初めマスコミの意のま
まに動く事になって国家は空回りすると書いたのだ。

<シオンの議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレ
ビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていた
のだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほか無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の
空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから約半世紀、
いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の
「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間に
とって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前が
有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半、瞬時に解決できる。
まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度
は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想
しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国
会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されてい
ることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維
持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。後継安倍晋三氏は、当然そ
のためのスタッフを回りに置いたが、チームワークが取れなくてまだ成
果を挙げていない。

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2007年08月14日

◆農地解放があった


                          渡部亮次郎

日本が1945(昭和20)年8月15日に大東亜戦争に敗れた後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)、およびその圧力の下で日本の国会や政府によって行なわれた一連の民主化・自由化の改革があった。

1945年、連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーは当時の首相、幣原喜重郎に対して、五大改革指令を命ずる。その内容は
1.秘密警察の廃止
2.労働組合の結成奨励
3.婦人の解放
4.教育の自由化
5.経済の民主化
であった。

1946年、GHQは日本国憲法を成立させた。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念を盛り込んだ。

また改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などが含まれる。農地改革で自作農が飛躍的に増えたことは農村部の保守化につながったといわれる。長こと農村は保守政党の地盤だった。

このうち農地改革(のうちかいかく)は、農地の所有者の変更や法制度の変更など、農地を巡る改革運動の1つ。一般的には1947年、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。

地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものに換わった。

日本の農家はこれによって基本的に自作農となった。自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。

それまでも「米どころ」とされていた東北の秋田県でも1反歩(10アール、300坪)あたりの収穫量は300〜360Kgに過ぎなかったが、農民の生産意欲の向上、肥料と農薬の進歩、早植え、早刈りいれなど栽培技術の進歩などにより収穫量は倍増した。

但し、今日の農村の疲弊は農地解放とは別問題である。

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2007年08月13日

◆正月から待っていた



                       渡部亮次郎

盆の十三にち 正月かた待ってダ。百姓仕事に追われ、趣味も全く無く、98歳で死んだ母が、たった1回、節をつけて呟いた歌(?)
がこれだった。田舎の盆は月遅れ,今日13日が盆の入りである。

昔の百姓にとって「百姓泣かせの雨」というのがあった。夜中だけ降って夜明けと共に上がる雨。晴れたら仕方ない、野良に出なければならないから百姓泣かせなのである。

春先の播種(苗代への籾もみ撒き)に始まり、代掻き、田植え、草取りと続き、稲から穂が出るころ、丁度、月遅れで盆となる。この日ばかりは朝から野良仕事のすべてを休んで先祖の供養、墓参り等をするのである。

その週に広場か通りで盆踊りが行われる。裸電球の下、若者たちが前身に汗を滾らせて叩く大太鼓に合わせて数十人の老若男女が輪になって踊る。殆どの人が仮装だ。そこで叫ぶように歌うのだ。「盆の十三日(にち)正月から待ってだ」(秋田訛)。歓喜の雄たけびにも似た歌だ。

田圃の稲は今、花が咲き、あとは秋の取入れを待つばかり。やがて大根も太くなっている。無数を抜いて洗って日干し。たくあんにするのだ。葉もよく干す。野菜の無い冬の貴重なビタミンAの補給源だ。

私も中学、高校へ通いながら田植えから草取り、稲刈りまで、今と違ってすべての手作業を手伝った。それらのすべてを1日で1反(10アール、300坪)を仕上げられれば1人前といわれて達成した。

考えてみれば昔の田圃の仕事はすべて手作業だった。だから百姓の指の先にはいつも泥がつまり、男女とも中年には腰が曲がったものだ。今は田植えも刈り取りも機械、草取りは除草剤になったから、猫背、蟹股、腰曲がりの百姓はいなくなった。

その代わり、田圃から泥鰌(どじょう)が死滅し、朱鷺(トキ)など野鳥の生態に大変化をもたらしている。餌を絶滅させておいて、野鳥だけは生かせというのは人間の勝手すぎる夢では無いか。

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2007年08月10日

◆原発危険報道のからくり


                         渡部亮次郎

2007年7月16日(国民の休日=海の日)に起きた中越沖地震の東京電力柏崎刈羽原子力発電所の被害をめぐる報道を見るにつけ、つくづく思う。「駄目だこりゃ」。

東京電力の広報が間違っている。被害をなるべく小さく見せて、運転再開を出来るだけ早くしようとの使命を考えるものだから、結果、被害を小出しにする。

元々人々は原子力発電と原子爆弾の正確な区別を知らないからマスコミも原発=悪と決め付けて、隙あらば煽り、攻撃し、この地上から消したいと考えている。日本みたいに狭い国土では原子力発電は必要不可欠なんて考えない。

同じ社会部記者でも環境省担当記者は内心、Co2を削減して京都議定書を遵守するには原子力発電は認めざるを得ないと考えている。だが、今回の地震被害に対して「安全は確保されている」とは絶対書かない。『社是』が「原発反対」だからである。

新潟県中越沖地震を報ずる第1報(朝日新聞 7月17日)を見ると、『新潟・長野 震度6強 M6・8 300棟全壊、1万人非難』に続いて「柏崎刈羽原発 放射能含む水漏れ 海に流出 揺れは国内最大」と出ている。

その後27日になって放射能に汚染された水が海に流出したり、空中に放射能が漏れたなどが「次々に」分かって報道された。

たとえば隣県で同じように原発を抱える福井県の福井新聞は特別取材班を現地に派遣し「原発の街恐怖連鎖 放射性物質流出に怒り」という恐怖を「煽る」様な記事を大々的に掲載した。

また8月7日付の朝日新聞は「複数の作業員が放射能水を被る」と4段見出しで報じたが、ウソだった。入院した職員は地震で倒れたキャビネットの下敷きになって怪我したためだった。

更に漏れた放射能についても政府の原子力安全・保安院が7月27日に都内の日本外国特派員協会で説明したところでは「東京―ニューヨークを飛行機で往復する間に宇宙から浴びる放射線の1,000万~100万分の1の量」と説明した。

東京―NY往復で宇宙から浴びる放射能は0・2ミリシーベルト。今回漏れ出したのは、海水に10億分の2ミリシーベルト、大気に1,000万分の2ミリシーベルトだと原子力安全・保安院は説明。要するに桁違いに低い値で、人や環境には影響が全く無いのだ。

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2007年08月09日

◆日本は衰退している


渡部亮次郎

民主党に統治能力は無い。細川政権で実証済みだ。それなのに今度(23007・07・29)の参院選挙で国民は民主党に多数を与えた。私はこれを日本衰退の証拠と見る。

大体、国会議員に日本人はいない。日本を愛し、そのために命を投げ出せる国会議員は1人もいない。国民の上に立つ人なら咄嗟の時に自己を国民に捧げられる人の筈だが、今や1人もいない。

日教組は命を大切に、と教えるが、それは己の命であって他人の命ではない。そうやって教育されたのが65歳以下の日本人なのだからいまやまともなのは65歳以上の老人だけになった。まともな日本人は間もなく日本に1人もいなくなる。

だからある新聞社に頼まれて安倍改造内閣の自己流組閣予想をやってみて愕然とした。適任者として官房長官、外務大臣、防衛大臣、経済産業大臣の適任者が1人もいない。

1960年代から日本政界の取材をしてきたが、国会議員全員が大東亜戦争を体験していた。田中角栄、竹下登、宇野宗佑までは戦場を知っている総理大臣であった。敵に襲撃される恐怖からの生還者だった。

それだけに度胸というものを秘めていた。敵の弾丸がどの方面から飛んでくるかの洞察力が涵養されていた。危機に瀕して咄嗟の判断にも優れていた。組織の統率にも優れていた。

戦争の現場はそのまま政局である。命がけなのだ。しかし、そうした戦争体験者は今の政界には皆無になった。ただ2世だから、だらだらと政治らしき事をしていれば、なんとなく当選を繰り返す事ができる「ぬるま湯」。政治ではなく「政治らしきこと」である。

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2007年08月08日

◆八・八・八の訪中


                       渡部亮次郎

1978年8月8日。8の漢字「八」を昔の人は下が広がっていて、「末広がり」と掛けて「目出度い」と珍重した。「大臣の訪中ご出発は末広がりの8日に致しましょう」と外務事務次官有田圭輔氏(故人)。

「合理主義の外交官が古めかしい事を言うなぁ」と感心する外務大臣園田直氏(故人)。ちょっと離れてやり取りを聞いているのが秘書官の私だ。29年前の8月8日は日航特別機で羽田から北京に向けて飛び立った日だ。

この年1月のモスクワ訪問の時の現地邦人らへの土産は真冬故野菜が欲しいというので白菜をどっさり持っていったが、北京には食パンらしい食パンは無いという。

生ものだから当日製を当日積んでいけばいいのだが、量が大量すぎる。注文を銀座のパン屋に1週間前に出してしまった。8日に出発できなかったら、私がパンだらけになるだけ。

今まで公開してこなかった『外務大臣秘書官日記』が残っているから、部分的に公開しよう。これはある大手出版社の依頼に応じて書き始めたものだが、多忙のため完成できなかったものだ。メモのまま。

物を書くという仕事は実に根暗な仕事なのである。しかし根暗な顔をしていたのでは秘書官は勤まらない。大臣曰く「秘書官は大臣の仕事仲間であり、遊び仲間でもなければならない」というのだ。

それで、とうとう未完成の日記となってしまった。

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2007年08月03日

◆福田康夫最大の誤謬


                       渡部亮次郎

ポスト安倍の有力候補者に上げられながら福田康夫は逃げ回っている。追い回しているのは自民党内媚中派と、おそらく公明党も秋波を送りたいところだ。

媚中派は津島派や山崎派に逸れ(はぐれ)鴉・加藤紘一である。彼らはなんとしても中国共産党政府公認の政府を築きたくてたまらないのだ。引き換えに何らかの利権をもらえると誤解しているようである。

中でも津島派は日中国交回復を成した田中角栄首相を源流とする派閥という事を意識してか媚中がスタンスだ。その点から、公明党も国交回復の政党との自負から媚中を否定しない。

加藤は元外務省で「チャイナスクール」だったから、当然の媚中派である。しかし、政局のたびにチョンボを繰り返すものだから今や手下1人も居ないはぐれ鴉。とあっては、悔しいが誰かを担ぐ以外にない。

山崎拓や二階俊博の媚中派の理由は知らない。しかし、靖国をのけてでも中国共産党のペットであろうとする。そういう奴を中国人は陰で嘲っている事を知らないように。

彼らが福田康夫を担ごうとするのは、康夫がなぜか中国共産党に理解を示すからだ。康夫が秘書官を勤めた父福田赳夫首相が在任中に日中平和友好条約を締結した事も若干、関係しているらしい。

日中平和友好条約こそは田中・周恩来による共同声明で出来た日中関係の仮橋を「鉄の橋」にしたものと福田首相が表現したとおりに、
中国の今日の繁栄を支える最大のものであった事は確かである。

しかしあの条約の締結に福田首相は内心、反対だった事を、一番知っているのは康夫であり、中国側である。当時、日本側で、度々総理や安倍晋太郎官房長官、森喜朗官房副長官、岸信介元首相らに足を引っ張られ、泣く思いをしていたのが外相園田直だったことを秘書官の私は忘れない。

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