渡部亮次郎
総理を目指した田中角栄が身辺の女性問題を女性週刊誌に書かれたくなくて高名な政治評論家に工作費として3000万円を渡した。
それがライターに示された金額は700万円。
ライターは拒否。記事は出た。カネは1銭も田中のもとには還ってこなかった。しかし、田中は評論家に何も言わなかった。だれがどうくすねたのか。以下、大方、推理ではある。
まず評論家が2000万円をくすねた。実はカネをライターに渡す役は高名な小説家兼作詞家だった。相談づくなら半額ずつ分けるところだが、相談はしなかった。
それなら実行役の作詞家に2000万円を渡すか。渡さない。カネを預かったのはオレだものと政治評論家。自分も「彼女」がいてカネに苦労していた。だから、まず自分が2000万円をくすね、残りを作詞家に渡した。
作詞家も評論家の普段を知り尽くしている。あいつがくすねたんだろうからワシもと300万円をくすね、ライターに700万円を提示。
ライターは元々堅物だったので怒って拒否。
ところがライターの所属出版社で労働争議。ライターはデスクで使用者側。何処からとも無く噂。「デスクは田中からカネを貰ってあのネタを潰したんだ」。
あのネタの潰れたのは争議が起きたためだったが、弁明もおかしいので、デスクは気まずくなって退社。フリーのライター(早い話、無職)になった。
1972年2月に同社を退社してフリーとなる。この年の7月に田中は総理大臣になった。フリーの「もの書き」は苦しい。必死にテーマを探し、旅費を自腹で切り、現地取材。アパートにこもって執筆。
運がよければ雑誌に載せてもらえる。少しは名が売れてくれば注文も来るが、必ず来るとは限らない。そうやって次のような原稿を方々の雑誌に掲載して貰った。
「極限の中で、兵は天皇を想ったか」(1972年2月 潮出版社「潮」)
「週刊誌を泣かせる朝日新聞広告部」(1972年7月 噂「噂」)
「角栄、天下平定後の武将地図」(1972年8月 講談社「現代」)
「あるアイヌ青年の二十四年」(1972年11月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)
「巣立ち、稼ぎ、ひとり立ち」(1973年2月 東海大学出版会「望星」)
「津軽の白鳥艦隊司令長官」(1973年3月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)
このころ有名な出版社の有名総合雑誌『文藝春秋』から注文が来た。必死に取材し、書いた。
「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだのか」(1973年6月 文藝春秋「文藝春秋」)。
これををきっかけに「児玉隆也」は名を売り、文芸春秋の常連ライターとなった。
「チッソだけがなぜ?」(1973年10月 文藝春秋「文藝春秋」)
「学徒出陣、三十年目の群像」(1973年12月 文藝春秋「文藝春秋」)
「元祖"ふるさとと人間"宮田輝」(1974年8月 文藝春秋「文藝春秋」)
1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用された。11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究−その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」を執筆し、一躍有名となった。
このテーマこそ田中が3000万円で阻止にかかったネタだった。派閥「越山会」の金庫番たる女性は田中の愛人の一人であり、間に不義密通の娘がいることを暴露するものだった。
この記事がきっかけで「田中金脈事件が」勃発し、最終的に田中は政権を投げ出した。のちに生前の田中に直にきいたところ、「金脈なんて堪えなかったが女王は堪えた。妊娠している真紀子が『辞めないと飛び降りる』と目白の2階のベランダに突っ立つんだもの』と述懐した。
児玉はこの記事で嘗ての同僚らから受けた「疑惑」を雪いだ。だが
その頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。僅か39歳だった。
児玉 隆也(こだま たかや、1937年5月7日―1975年5月22日)兵庫県芦屋市生まれ。
9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。芦屋市立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第2政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。
卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。
1972年2月に同社を退社してフリーとなる。
遺した単行本
「市のある町の旅−人情と風土にふれる朝市行脚」(1973年5月 産経新聞)
「淋しき越山会の女王 他六編」岩波現代文庫で再刊 2001年
「一銭五厘たちの横丁」 写真・桑原甲子雄 岩波現代文庫 2000年
「この三十年の日本人」 新潮文庫で再刊 1983年
「ガン病棟の九十九日」 新潮文庫で再刊 1980年 他数冊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・06・26
追記:<佐藤昭子さん死去:関係者から悼む声 /新潟
柏崎市出身で、田中角栄元首相の秘書を務め「越山会の女王」などと呼ばれた佐藤昭子さん=11日死去、81歳=の訃報(ふほう)に、ゆかりのあった県内の関係者からも悼む声が上がった。
自民党県連会長の星野伊佐夫県議(70)は、かつて越山会の青年部長を務めた。田中派事務所があった東京・平河町の砂防会館に出向くと、佐藤さんは手際よく仕事をこなしており「事務所の中心的人物で派閥を束ねる存在だった」と振り返る。
田中元首相の地元秘書だった長岡市の丸山幸好さん(77)は、年に数回、事務連絡のため砂防会館などに出かけた。「後輩秘書にも優しかった。当時の先輩秘書が次々と亡くなり、寂しい」としみじみと語った。>2010年3月14日11時1分配信 毎日新聞