2007年07月20日

◆光化学スモッグ移入


                       渡部亮次郎

日本では戦後も西暦を使わなかったが、私の感覚からすると、1970年を境に使い出したような気がする。昭和35年の安保騒動を回顧して「60年安保闘争」といったり「来年は70年だ」と言ったりした。佐藤栄作内閣の頃だ。

昭和44年。自民党の幹事長は田中角栄、国会対策委員長は園田直(すなお)。マスコミは「直角強行ライン」と名づけた。「来年は70年安保闘争が展開されるっていうじゃないか」というわけで2人は衆参両院で法案の採決強行を連発した。

翌1970年に予想される学生らの日米安保反対闘争に対し、政府、自民党は「身軽になっておこう」との思惑から、折から起こっていた大学紛争に対しては大学運営臨時措置法を採決強行を衆参両院で断行するなど、彼らは「体制」「反体制」などと使った事もない言葉を交わしながら突き進んでいた。

かくてこの年の暮に行われた衆院選挙では自民党が無所属当選者を含めると300の大台に乗せるという大躍進。対して抵抗した社会党は90に激減「大敗」となった。「反体制」は70年安保の出鼻をくじかれたのだった。

国際収支黒字化の定着が示すように、当に経済の右肩あがりが定着、老人医療費の無料化が実現していて、来年は大阪で万国博、これをEXPO70と呼んで、「70年代と到来」が掛け声となっていた。

しかし牛乳に残留農薬が問題化したり、国際反戦デー、新左翼統一行動、荒れる高校卒業式が話題になるなど、新時代の到来は、経済高度成長の歪みと同居していた。フーテンの寅の「男はつらいよ」の封切りもこの年であった。

かくて実際の1970年がきて大阪万博は華やかに開幕したが、よど号乗っ取り事件に続いてガソリンの鉛公害、田子ノ浦のヘドロと並んで光化学スモッグなる新語を告げられて国民は初めて公害なるものを認識させられていった。

光化学スモッグは、日照時間が2・5時間以上で、最高気温が25°Cをこえる夏日の、風が弱い日に発生しやすい。光化学スモッグが発生すると、多くの場合、子供たちに健康被害が発生する。

続きを読む≫≫

2007年07月19日

◆歌手小畑実と宮本顕治


                       渡部亮次郎

宮本顕治氏が死んだが、政治記者時代も含めて、1度も面会したことの無い政治家だった。

<日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。7月18日15時46分配信 毎日新聞>

1958(昭和33)年には慶応出の野坂参三が日本共産党の議長となり、東大出の宮本顕治が書記長となったが、2人とも山口県出身と知り、山口県というところは総理(保守系)を何人も輩出するところだが、共産党首魁も出すのかと、妙に感心したことを覚えている。NHK通信員として秋田県大館市に駐在している頃だ。

それに先立って在学した大学では昭和30年ごろ「ロクゼンキョウ」という言葉が盛んに学内に飛び、左翼の学生たちが「女子学生たちが口紅をつけやがった」と騒ぎながら「ミヤケン」を連発していた。

このあたりを宮本の履歴で辿ると
<1950(昭和25)年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。

数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅につながる。1955[(昭和30)年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命>とあり、彼女らの口紅には共産党の消長がかかっていた事を知る。

歌手の小畑実(1923-1979)の経歴を読んでいると「小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である」と出てきて小畑と宮本顕治との意外なつながりにびっくりする。

<小畑は朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である>。(誰か昭和を思わざる)筆者名不明。

<小畑実(おばたみのる、1923年4月30日-1979年4月24日)は朝鮮平壌出身の歌手である。本名康永普iカン・ヨン・チョル)
 1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎に憧れて日本に渡り、東京で日本音楽学校に入学。

続きを読む≫≫

◆明の十三陵にて

                       渡部亮次郎

明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)は、中国の北京昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。

このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。ここを日本人として初めて見学したのは田中角栄総理である。中国との国交再開に出かけた昭和47(1972)年9月末のことである。同行記者だった私も後を追っかけて見学した。

流石のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも殆ど、情報がない。

文化大革命(1966年―1977)中に発見された。北京郊外の小高い山を散策していた男性が道で石にけ躓いた。何の石か見たら、何か字が彫られている。

「俺は明日、殺される。このたび皇帝が逝去され、明日、ここに葬られる。同時に陵墓造営に一生携わった我々は皆殺しされる。陵墓の構造を知っていて、盗掘の方法を知っているからである」

「だが、悔しい。なんで墓作りに一生を奉げた末に、殺されなければいけないのか。悔しい。だからここに陵墓への入り方を刻んでおく」と刻んであり、正確に入り方と距離を指示してあったそうだ。

共産党政府は指示に基づいて発掘した。地下4階ぐらいの深さに墓があった。入り口の扉は半開きになっていたが、盗掘はされてなかった。副葬品は地上の会館に展示されていたが、私の目をひいたのは2点。

それは玉の飾り物と金むくの金盥だった。これは厚さ2センチはあった。皇帝はこれに湯を注いで顔を洗い、庶民は一生、皇帝の陵墓建造に携わった末、皇帝薨去と共に殺される。こんな国があってよいものか。毛沢東の共産革命の動機が分ったような気がした。

続きを読む≫≫

2007年07月18日

◆胃癌死は医者のせい


渡部亮次郎

こういう時代になったんですね。少々古い話で恐縮だが、時代が変わって来た。医者が訴えられて当然、しかも敗訴もあるという「先生」にとっては恐怖の時代に突入した。

<胃癌発見遅れ患者死亡、4130万賠償命令…名古屋地裁

胃癌で2002年に死亡した名古屋市内の男性(当時51歳)の娘2人が、医師の診断ミスでがんの発見が遅れたとして、「サクラクリニック」(名古屋市天白区)の医師(45)に対し、計約8990万円の賠償を求めた訴訟の判決が2007年7月4日、名古屋地裁であった。

永野圧彦裁判長は、「胃がんの疑いがあったのに、精密検査を受けさせなかった過失がある」と述べ、計約4130万円の賠償を命じた。

判決によると、男性は01年1月、胃の不快感を訴え、同クリニックで診察を受けた。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導せず、胃潰瘍と診断。同年9月、別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した>。 2007年7月4日14時48分配信 読売新聞

こういう時代が来たのである。似たようなことがどしどし出てくる。医者は大変なことになった。

医者は「先生」と尊敬され、そのご託宣は神聖にして犯すべからざるものであった。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導しなかった。胃潰瘍と診断して放置。

しかし患者はまごうかたなき癌だったため悪化。別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した。遺族としては1年3ヶ月前のあの時、あの先生が「癌」を発見してくれていたらお父さんは早期発見、早期治療で、死ななくても良かったと考えるのは当然である。

しかし、医者とすれば判断がつかなかった。精密検査を受けさせても胃癌でなかったら必要以上のことをさせた、と怒られるかもしれないでは無いか、と考えたとしても可笑しくは無い。

我が義母は平成8年8月26日、胃癌のため80歳の生涯を閉じたが、その1年前の胃穿孔は癌によるものであったことをあとで知った。だからあの時、救急治療医が、癌摘出をしたうえで縫合してくれていたらもっと長生きできただろうと考える。だが訴えなかった。

わが兄は6月に99・9%大腸癌だといわれて秋田市の大きな病院で開腹手術を受けたが、生体検査の結果、癌ではなかったと判明。冒頭の裁判とは逆の例となった。

その兄は二十数年前、肝内結石で開腹。ビー玉大の結石を摘出。それでも入院1ヶ月。よし明日の退院を前に念のため検査。アレ石がもう1つ残っている、で再開腹。腹には×印の傷跡が残った。それでも訴えなかった。

結局、医者を対等なものと考えられない旧世代だからであろう。あるいは勝てる見込みが確実ではないものに莫大な裁判費用をかけても、という考えもある。

しかし、名古屋の例を見れば、確かに時代と考えは変わってきている。先生は神聖でも不可侵でもなくなっている。訴訟社会といわれるアメリカでの医療訴訟の話はよく聞いていたが、日本でも、このように患者側勝訴の判決が出るとあっては、医療訴訟は増えるだろう。

先生はそれ用の「保険」を高くしなければならない時代の到来である。昔のように患者を見下し、威張っていられた時代はとうの昔に去っていた。2007・07・17

2007年07月17日

◆健康にいいもの


渡部亮次郎

作家の渡辺淳一さんが最近の週刊誌に健康法は「睡眠力」と書いておら
れる。何処でもいつでも居眠りできるように訓練し、実施してきたこと
が73歳にして「お元気そうですね」と声をかけられる秘訣だというので
ある。

「寝つきの悪い人はベッドに入ってから2時間は眠れない。そういう人と
私では有効な時間が1日3時間違う。1年で1080時間、30年で32,400時間。
それだけ得をしていることになる」。

渡辺さんは、すぐ眠れてすぐ起きられる能力を医師になりたての学位論
文作成のための動物実験中に訓練して覚えたそうだ。私も記者時代は似
たような訓練をして何時でも何処でも眠れるようにしたが、時間に追わ
れなくなった最近は却って眠れなくなってしまった。

酒を呑んでは体に障る持病があるから導眠剤を処方してもらっているが、
どうも寝覚めが良くない。頭痛がかすかにするのである。1時間もすれば
すっきりするが、やはり飲みたくない。ついつい焼酎に手が出て顰蹙を
周りから買う結果になっている。

私は1936年、2・26事件の起きる直前に生まれた。第2子として生まれた兄
の後、続いて男児が生まれたそうだが、役場に届けてのち間もなく死亡。
その後私が生まれたから父親は私を3男でありながら次郎と付けて「3男
亮次郎」の出現となった。

どうしてそうなったかは知らないが生まれつき腎臓が弱かったらしい。
4〜5歳の頃、ひまし油を飲まされ、自室の枕許で町医者が「学校に上が
るまで保(も)つかどうか」と両親に言っているのを記憶している。味
噌汁を厳禁されていた。

とにかく虚弱児童。大東亜戦争中は国民学校(小学校)の集団写真でも弱
々しく写っている。それが急に丈夫になったのは、禁を破って味噌汁を
飲んだ頃からである。折から進駐軍推奨の野球に興ずるようにもなり、
急速に丈夫になって行った。

小学生の頃は縦に並ぶと前から3番目ぐらいだったが中学になると野球部
で投手、4番、主将。おまけに生徒会長だったから、最早、虚弱返上だっ
た。

親は特に丈夫でも虚弱でもなかった。同居していた父方の祖父母のうち
祖母は女の双子を産んだ時に脳溢血を患い、死去。そのことがあって母
は未成年で嫁に来たらしい。それでも98まで生きた。父も祖父も80歳で
死んだ。

日露戦争にラッパ手として従軍した祖父が80とは長生きだったといえる
が、全く酒を呑まなかった父の80は長生きとは言えない。風邪を引いて3
日目に長女に抱かれ砂糖水を吸い差しで飲ませてもらいながら息を引き
取った。

この吸差しは祖父が死ぬ時、日本酒を飲んで死んだ器だった。祖父は私
が大学在学中の夏、脳溢血に倒れ、1週間鼾をかいて眠り続けた。その朝、
嫁たる母が吸差しに日本酒を入れて口に差し込んだところ俄然口に咥え
て飲んだ。直後、死んだ。

続きを読む≫≫

2007年07月13日

◆段ボールを喰わすか



         渡部亮次郎

中国人の発想は奇想天外だ。又、何でも食べる。4本足は机以外、2本足は梯子(ハシゴ)以外、飛んでいる物は飛行機以外は何でも食べる、と自称している。しかし21世紀に入ったら遂に段ボールを騙して食わそうとする奴が出てきた。

<ニセ肉まん:段ボールを煮込んで詰め露店で違法販売 北京

11日までの中国中央テレビなどの報道によると、使用済み段ボール紙を煮込んで詰めた偽の肉まんが北京市で違法に販売されていたことが分かった。

報道によると、段ボール紙入りの肉まんを販売していたのは、同市朝陽区の複数の露店。段ボール紙を劇物のカセイソーダ(水酸化ナトリウム)の溶液に浸して黒っぽく変色させ、さらに煮込んで軟らかくしたうえで豚肉と混ぜ合わせ、肉まんの中身にしていた。

市当局者が関係者を取り調べている。販売数、健康被害の有無は不明。

露店関係者は同テレビに「段ボール紙と豚肉の比率は約6対4。住民、出勤途中の勤め人らが買っていた」と説明した。

北京市内には多くの露店が建ち並び、肉まんやギョーザ、肉のくし焼きなどを販売。安価で、市民に親しまれている。(北京・共同)>毎日新聞 2007年7月11日 23時15分

これは違う話だ。何でも工夫してハラを満たすというのではない。客を騙してニセ物を売りつけ、カネを取ったら後は野となれ山となれ、すたこらサッサという話、詐欺のみならず傷害にあたる。

私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)という人は剣道7段、合気道8段、空手3段という武道の猛者。軍隊に11もいて、最後は特攻隊の生き残り。豪胆の人のように思うが、香港で提供された飲茶(やむちゃ)の中に蛇料理が入っていたといったら、ナベしゃん、そげな話は消化してから言ってくれ、と言われた。

段ボール肉まんは消化するだろうか。山羊は紙を消化するらしいから人間は段ボールを消化するだろうか。冗談言ってる場合じゃないだろう。

蛇がいなくなったから、蠍(さそり)がいなくなったからではない、
豚肉を節約してボロ儲けをしようとしただけ。それで客がハラを壊そうが、どうかなろうが知ったこっちゃ無いのだ。怖い連中だ。

しかし、人民大会堂の貴賓席に痰壷を置いて会談中も痰を吐く連中である。口中に溜まった黄砂は直ちに口外に出さなければ気が済まない。工場もまた操業の結果出たゴミ、汚水は直ちに河に棄てる。

汚染された水で沿岸や川下の人々が病気になろうが死のうが知ったこっちゃ無い。段ボール肉まんを彼らは笑わないだろう。長江(揚子江)も黄河も毒だらけ。東シナ海もすっかり汚染されて、毒物が既に日本海沿岸に漂着している。

人間が唾を吐くように工場が、はては中国という国家そのものが唾を吐くように地球を汚染している。トウ小平の改革開放経済は公害の拡散経済だったわけだ。中国共産党は計画経済を棄てた結果、世界を敵に回そうとしている。気付かないフリをして。

2007年07月10日

◆犀星は啄木から盗作

                       渡部亮次郎

産経新聞の文化欄を開いて愕然とした。「犀星は啄木におんぶした」故郷は遠きにありて思ふもの、は盗作だというのである。(2007・07・09石井英夫「蛙の遠めがね」)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、<室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生照道(てるみち)、男性、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた>となっている(07・7・9現在)が、これも違うという。

石井さんによると、これらを明らかにしたのは金沢在住の犀星研究家の安宅夏夫さん。安宅さんは犀星と同じ金沢の出身で室生家とは家族ぐるみの交際。作品収集や全集出版にも尽力した。

しかし犀星の出自や作品誕生の経緯に封印する事は、日本の文学史を捏造・偽造する事だとの考えから平成19年6月刊行の『人物研究』第19号(近代人物研究会)に発表した。

安宅さんは犀生の本当の父は加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種ではなく、その子で小学校校長の生種、母は21歳の芸者「ちか」だったことを既に突き止めている。

室生犀星の事は詳しく知らなくても「ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 仮令異土のかたえ(こじき)になるとても 帰るところにあるまじや」の冒頭ぐらいは知っている人の多いほど、有名である。

続きを読む≫≫

2007年07月09日

◆トウ(ケ)は賢明で狡猾


                      渡部亮次郎

トウ(ケ)小平は革命成就3年後の1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(ケ)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたのでケ国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(ケ)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(ケ)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(ケ)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(ケ)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

続きを読む≫≫

2007年07月08日

◆華国鋒は何処に


                       渡部亮次郎

日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。

最近、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。

華国鋒(か こくほう。1921年2月16日―)は、山西省交城県出身で、中国の元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。

条約の調印式には出てきたが、すぐに姿を消し、2度と再び公の席に姿を現さなくなった。死んだという知らせには接していない。

続きを読む≫≫

2007年07月07日

◆七夕に倒れた河野


渡部亮次郎

「明日は平塚で七夕だからね、キミも必ず来なさい」が自民党の実力者河野一郎が私に掛けた最後の声であった。七夕の朝に自宅で倒れ、翌8日には死んでしまったからである。1965年のこと。

私がNHK盛岡(岩手県)放送局から東京本部の政経部(まもなく政治部)に発令されたのが1964年(昭和39年)の7月10日。文京公会堂で池田勇人(はやと)総理が自民党総裁に3選された日だった。特急「はつかり」で上京した。

東京は大学卒業以来6年ぶりだった。秋田県大館市で秋田放送局の通信員。翌年のNHK採用試験に合格して仙台放送局に転じて1年。チリ地震津波の直後に盛岡放送局に転勤して4年。将来がなさそうだからコカコーラに転職しようと画策していたら辞令が来たのだった。

折から日本では初の東京オリンピック。オリンピック担当大臣は河野一郎。キミ、担当したまえ、と部長に言われて追っかけていたが
「河野さん、あなたの目は義眼だそうですが本当ですか」と質問したことでえらく気にいられ、「河野派」も担当することになってしまった。

「キミはいい記者だ。ボクの目は義眼なんかじゃない。それなのに誰も質問もせずに義眼だと書く。キミが初めてだよ。いい質問をしてくれた」。

「若い頃、弟(謙三=後年参院議長)にトラホームを伝染された。そこで小田原の目医者で手術を受けた晩に夜遊びに行ってしまったので拗れた。それで右目は殆ど視力か無くなってしまった。それで眇目で見るから義眼と間違われるのだよ」と嬉しそうだった。

付き合ってみると、これほど優しく、気遣いの至る人はなかった。やることが阿漕だとか新聞記者の服装に五月蝿いとか、マスコミは敬遠していたが、実際はそんな事は全く無かった。

続きを読む≫≫

◆糸で縄を買った


                       渡部亮次郎

第2次世界大戦終結後、世界経済はアメリカのリーダーシップの下で、貿易と為替の自由化を強力に進めていた。敗戦国日本も、アメリカの庇護(ひご)の下で戦後復興と国際社会への復帰をめざしていた。

このような状況下で日本のアメリカ向け輸出は急増し、繊維、雑貨類、金属製洋食器などで最初に対米輸出自主規制をおこなわなければならなかった。

とくに繊維については、1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品により、アメリカ繊維産業が大きな被害をうけたため、日本は1956年(昭和31)1月から輸出自主規制を行った。

62年1月には綿製品の国際貿易に関する短期的取り決め(STA)、ついで63年1月には長期的取り決め(LTA)が結ばれた。しかし、この頃はまだ貿易摩擦という程ではなかった。

その後、1960年代後半には日本の貿易収支の黒字基調が定着し、繊維の対米輸出は次第に最初の日米貿易問題として顕在化してきた。貿易摩擦の対象品目は綿製品から毛製品、化学繊維製品に移り、これら3品目の日米間取り決めの1本化がはかられた。

当時の佐藤栄作内閣には戦後のどの内閣も成しえなかった悲願があった。沖縄返還である。敗戦によりアメリカに占領されたままの沖縄を外交交渉により返還させることは佐藤内閣の公約であった。

一方、アメリカ(ニクソン大統領)にも悲願があった。1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品の輸入阻止である。

このため佐藤首相は担当する通産大臣に大平正芳、宮沢喜一と自らは強力と信ずる有力者を配したが一向に解決しなかった。時あたかも自身の後継をめぐって福田赳夫と田中角栄が熾烈な戦いを水面下で展開していた。
佐藤としては田中は派閥を任せてきた側近ではあるが「なにせ小学校卒、教養が無い。そこへ行くと福田は東大での切れ者。後継者は福田」とハラに決めていた。

そこで昭和46(1971)年7月5日の第3次改造内閣では福田には貫禄付けを狙って外相を与えたが、田中には難問中の難問が控えている通産大臣を与えた。私は田中に恥をかかせて後継を一旦は諦めさせようとしたのだと思った。私は勝ち馬(の筈の)福田の担当だった。

ところが福田には運が無かった。党内支持の頼りとした参議院議長重宗雄三が議長4選工作をしている頃、胆石手術のため入院。重宗は手も無く4選断念に追い込まれた。田中は参院自民党の多数派工作を堂々と進めることができた。

続きを読む≫≫

2007年07月06日

◆古関裕而は大天才


                          渡部亮次郎

友人宅でTVニュースを見るとも無く見ていたら(2007・07・04)NHKが早稲田大学の校歌「都の西北」の作曲(日本人)に欧米の既存曲模倣が見られると放送していた。今年100年を迎えた曲だそうだ。

ところで早稲田のもう1つ有名な歌が応援歌「紺碧の空」だが、この作曲者と、ライバル校慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲者は同一人物「古関裕而・こせきゆうじ」である。

ついでに阪神タイガースの歌「六甲颪・ろっこうおろし」と好ライバル巨人軍の歌「闘魂込めて」の作曲者も同じく古関裕而。中日「ドラゴンズの歌」も古関である。

NHKに至っては今に残るテーマ曲の実に多くが古関の手になる。
1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「スポーツショー行進曲」
970年 NHK「日曜名作座」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「昼のいこい」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)
NHK「教育テレビ放送終了」テーマ曲
NHKラジオ「今週の明星」

全国の校歌に関しては「福島商業高等学校(古関の母校)校歌」他、300校以上を作曲。

1964年東京オリンピックの行進曲もそうだし全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」も古関の作曲だ。しかも彼は音楽は独学、商業学校しか出ていないとなれば天才以外の何者でもなかったというしかない。否、大天才だったのだ。

1935年(昭和10)、『船頭可愛や』が大ヒット。この歌は音丸のほか世界の舞台でも活躍した三浦環もレコードに吹込んだ。声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。この頃から同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

戦時中は戦時歌謡で数々の名作を残す。決して戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律が大衆の心の奥底に響き、支持された。

戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。

1931年「紺碧の空〜早稲田大学応援歌〜」(作詞:住治男)
    「我ぞ覇者〜慶應義塾大学応援歌〜」(作詞:藤浦洸)が出来るのは1970年だが。

1935年「船頭可愛いや」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1935年「東京農業大学カレッジソング」(作詞:吉田精一)
1936年「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴) 昭和11年である。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中戦争の始まり。歌にも戦時色が濃くなって行く。古関も戦時歌謡と称する軍歌を作らされる。つくれば天才だから名曲が出来た。

1937年「露営の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章)
1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子)この歌は、日本放送協会の依頼で作曲したもの。戦後のラジオ歌謡に当たる国民歌謡として放送された美しい長調のワルツ。

清らかなメロディーは多くの人に愛された。兵士を通じて東南アジアの人々に伝わり、特にインドネシアでは現地の歌詞がつけられ現在でも歌われている。故スカルノ大統領の愛唱歌だった事は有名。

続きを読む≫≫

2007年07月05日

◆福田に派内の人気なし


渡部亮次郎

夕刊フジ紙(2007・7・5付)によると9ヶ月前の自民党総裁選で派内の人気不足を理由に立候補を見送った福田康夫氏が安倍後継に顔を出したが、町村派(旧福田赳夫派)では中堅若手から『絶対に認めない』と声が上がった、という。

それなのに「反安倍勢力」の山崎拓元副総裁や加藤紘一元幹事長らが推す動きがある、と夕刊フジは読んでいる。

<公示を約1週間後(12日)に控えた参院選で、安倍自民党の情勢は非常に厳しい。久間暴言の影響もあり、「38議席から36議席もあり得る」(同)という危機的数字がささやかれ始めた。

(そうなれば)かつて宇野内閣は参院選で36議席、橋本内閣は44議席しか獲得できず退陣に追い込まれており、参院選後の安倍退陣も現実味を帯びてきたのだ。

現時点で「ポスト安倍」の有力候補として名前が浮上しているのは、麻生太郎外相、福田康夫元官房長官、谷垣禎一前財務相、中川昭一政調会長の4人。>といつの間にか福田氏が復活している。

<だが、麻生氏は総裁選立候補に必要な推薦人数(20人)に満たない小派閥(15人)の領袖なうえ、小泉、安倍両政権で党・内閣の要職を務めてきた。「安倍退陣」なら、「共同責任」を問われる可能性もある>。

麻生氏は同じ九州出身の立場から派閥は違うものの辞めた久間氏を強力な助っ人として視野に入れてきた。事態が急変し、出直しである。

一方<福田氏は約1年前、「ポスト小泉」の有力候補として去就が注目されたが、同じ派閥(現町村派)の安倍首相が手を挙げたこともあり、総裁選出馬を見送った。

続きを読む≫≫