2010年03月06日

◆長谷川平蔵と遠山金四郎

渡部 亮次郎

鬼平こと長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が隅田川岸に程近い墨田区菊川にある。散歩の途中、何気なく通り過ぎていたが、良く見ると東京都墨田区教育委員会の指定とあるから冗談ではないのだろう。
 
今時、鬼平とか鬼平犯科帳、桜花の刺青・遠山の金さんと言っても時代劇を読んだり見たりしない人には何のことだか判らない。そういう私も池波正太郎(故人)の傑作「必殺仕掛人」を、たまたま読むまでは何の興味も知識もなかった。
 
池波描く仕掛人の舞台は下町(浅草、下谷、神田、京橋、日本橋)と山の手の一部だが、鬼平こと長谷川平蔵も遠山も住んでいたのは隅田川を挟んで「川向こう」と呼ばれていた墨田区である。

しかも2人は時代を超えて同じ場所に居を構えていたと教育委員会は言っている。
 
2人とも平凡社の世界大百科事典に載っている。平蔵の死ぬ2年前に遠山が生まれている。
 
長谷川平蔵1745-95。遠山金四郎1793-1855。平蔵は後に京都町奉行になる人の子供に生まれ、若くして火付け盗賊改加役に任ぜられる。警察官だ。

続いて無宿人(失業者)対策の一環として徳川幕府の計画した人足寄場取り扱いを命じられた。44歳だった。これはいまでいう職業安定署兼作業所みたいなものだろうか。

平蔵は「3ヶ月弱で施設を完成、収容者に生活を賄うに足る収入の得られる作業を与え、更生に務めた。しかし奇計の人とも言われた彼の人柄は老中松平定信と必ずしも相容れず、わずか2年半後の1792年に任を解かれ、以後は火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の職務に専念した。

犯罪人逮捕および裁判の面でも、敏腕を歌われている。林 由紀子」とかの事典にはある。
 
これだけのことから池波はどうやってあれだけのストーリーを紡いだのだろうか。鬼平犯科帳、剣客商売、必殺仕掛人。特に仕掛人といえば暗殺者である。江戸時代に暗殺商売があったか、なかったか。

なかったという証拠がないのだから有ったと言えるのかも知れないが、その証拠が残っていれば商売を上がったりである。そこが池波の目のつけどころである。
 
しかも現代にこれだけ愛読者がおり、若者にも広がっていると言う事は暗殺そのもののタネがそれだけ多いと言う事であろう。死刑廃止論の盛んな現代だが、その反面、裁判を長くすることが弁護士の務めだなどと論じる弁護士の出てくる時代。仕掛は今こそ必要だとの主張を聞く。
 
そこへ行くと花吹雪の刺青遠山の金さん好きは、まだ穏健派かもしれない。同じところで暮らしたが、平蔵よりは約50年遅く生まれた。名は景元(かげもと)号は帰雲。金四郎は通称。

武士の子に生まれ1840年、47歳で北町奉行となった。警視庁兼検察庁兼裁判所長というのだから恐ろしい権力のかたまり。後世、芝居や映画になるのだから封建体制のワクをはみ出す人だったのだろう。

事典でも上司の命令を握りつぶして処分を受けたことがあった。もともと老中(首相)水野忠邦や南町奉行とはそりが合わなかったようだ、とある。左遷されたが、水野の失脚後、再任された。

「名奉行として市井に知られ、奉行所内でも大岡忠相以来の裁判上手との評判であった」と事典にある。職を辞したノのは59歳。3年後に死んだ。
 
東京の銀座から日本橋を経て隅田川を渡ると江東区。橋は新大橋という。新しい橋かというとそうではなく江戸時代からかかっていた。赤穂浪士が吉良上野の首を担いで渡ったとある。

もともとの大橋に対して新大橋となっていたが、大橋が両国橋となったので、名前が孤立した。渡って江東区がすぐ墨田区に変わる。地形が入り組んでいるのだ。そこに長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が新大橋通りに面してある。いまは歯科医院である。(03.10.12)

2010年03月04日

◆わたなべりやうじらう

渡部亮次郎

幼稚園。生まれ育った秋田県旧八郎潟沿岸に、昭和10年代は無かった。昭和17(194)年3月、小学校(当時は国民学校)に入学するに先立って、同居していた父方の祖父が、私の名前の書き方を教えるという。日露戦争のラッパ手だ。

驚いた。私の名前は「わたなべ りやうじらう」だと祖父は言うのだ。あとで考えれば「旧仮名づかい」だったから、祖父は正しい。だが、「りやうじらう」だなんて。「りょうじろう」って呼ばれてるじゃないか、可笑しいよ、と抵抗したが駄目だった。

仕方なく祖父は、いきなり漢字での名前を教えてくれた。渡部亮次郎。お前の前に生まれた男の子があったが、生まれてすぐ死んだ。琢次郎といったという。私は実際は三男だと知った。

学校では、1年生なのに、名前をいきなり漢字で書いたので珍しがられた。だが、それで終わらなかった。3年生の時、女の先生が「お前たちは開戦の詔勅を知らないだろう」と言う趣旨のことを言って、「百姓の子せがれ」は馬鹿にされたと思った。

私は4つ上の兄に頼んで、「開戦の詔勅」を暗誦。翌日、先生の鼻を明かしてやった。百姓の子倅」は意地っ張り。これを秋田弁では「意地くされ」と言った。

中学3年のとき、大学を出たばかりの女性が国語教師として赴任してきた。始めに黒板に真自目と書いた。私は「まじめとは真面目と書くのでは」と主張。先生は翌日から来なくなった。

NHKの記者に合格したが、故有って、新人研修は受けなくとも良い、すぐ
地方の現場で働きたまえ、と大館から仙台中央放送局に発令された。だからNHKの誰からも文章の書きかたを習っていない。文章がズバズバと直明に切り込むような調子に偏ったのは、NHK式を習っ
ていないからだと思う。

NHKの国会原稿を聞いていると「あでもない、こうでもなくて 成り行きは不透明だ」となる。大奥みたいで不愉快になる。責任のない原稿。恰好をつけているだけのNHK方式。

百姓の子倅の「意地くされ」は今では相当くたびれては来たが、治ってはいない。

ケチをつけられると、いちいちハラがたつ。メルマガの記事に著名な新聞記者各位の記事が載るのをさして「有名人記事を掲載して体裁を整えている」という「反応」があった。

私は有名人だから載せているのではない。友人たちが、その後有名人になっただけの話である。後輩でも優れた感覚の所有者だと見れば優先するだけ。

他人にケチをつけることを趣味にしている人がいるそうだから、無視したいがハラが立つ。「意地くされ」は治らない。2010・3・2

2010年03月02日

◆林彪事件の朝日新聞(再掲)

渡部 亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているというのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。

なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからなぁ。

NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。

その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島 桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。

1971年秋のことである。何しろ林彪は、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたのに、1971年10月1日の国慶節パレードが突然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなった。

「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。

10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。

10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがあった。

やがて11月頃からは林彪失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。

しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。

さらに秋岡記者の書いた、毛沢東と林彪が並ぶ大きな写真が税関に掲げられていたことを根拠に林彪失脚に疑問を投げかける記事(1971年11月25日「流説とは食違い」)や、

「しかし、これだけの事実をもって党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」という記事(1971年12月4日「なおナゾ解けぬ中国政変説」)など、「中国共産党内部における政変は無い」と印象付けるような記事が掲載された。

そもそもこれより1年前の1970年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、広岡知男朝日新聞社社長は次のように答えており、中華人民共和国(中国共産党政府)の意向に沿わない記事を書くべきでないことを公言している。

「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)

「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」 (同『新聞研究』より)。広岡社長は甲子園球児で、経済記者出身。

この発言が象徴するように、当時の朝日新聞には、親中華人民共和国及び親中国共産党的な報道が多く存在していた。

さらに、広岡知男社長は自ら顔写真つきで1面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載しているが、文化大革命に肯定的とも捉えられる内容である(1970年4月)。

同様の記事は、1971年4月から5月にかけて計6回連載された「中国を訪ねて」というコラムでも見られた。著者は毛沢東とも親しい、著作「中国の赤い星」で知られ、中国共産党シンパとして著名なエドガー・スノーである。

さらに、「百人斬り」や「万人抗」を始めとして、中国共産党政府の意向に沿って無批判に日本軍の残虐振りを印象付ける記事を掲載したと批判される本多勝一のルポ「中国の旅」がある。

多くの朝日新聞批判本がこの点を指摘し、秋岡記者を名指しで批判している。これに対し秋岡記者は、11月中旬に、ある筋から事件の実際を教えられたが、「絶対に口外しない」という約束をさせられたため、いっさい記事を書こうともせず、本社にすらこの情報を送らなかったとも指摘されている。

確かに秋岡記者は、林彪失脚に疑問を投げかける記事を継続して配信しており、朝日新聞は紙面上でこれを中心とした記事作りを行っていたが、同時に外国の通信社などから配信された林彪失脚を匂わせる記事もこの前後に掲載していたのも事実である。ずるいやり方である。

例えば、「林氏ら軍人退場 モスクワ放送 中国“政変”で解説」(11月17日 ラヂオプレス)や、「林副主席の名前は見えず アルバニアに三首脳祝電」(11月28日 ラジオプレス)がある。

中華人民共和国関連の記事は、林彪失脚に懐疑的な記事ばかりでなかったのであり、この点は朝日新聞批判本が指摘していないところであるが、朝日新聞が紙面で外電の林彪失脚を示唆する記事は目立たぬように小さく報じ、自社の秋岡特派員の書いた林彪失脚に疑問を投げかける記事のみ大きく取り上げたことにより、朝日新聞は林彪失脚に懐疑的であったという印象を与えたことは確かである。

年が明けた1972年1月3日、「林氏の肖像画消える」という秋岡記者の書いた記事がようやく朝日新聞に掲載されるが、それが何を意味するかについては記事上、見出し上では一切触れていない。

さらに2月10日付の1面トップには「林氏 失脚後も健在 仏議員団に中国高官談」と題されたAFP電が掲載されている。「これらの一連の記事は『林彪健在』や中国共産党上層部内の平静をあえて大きくアピールして、読者をミスリードしているように見える」と指摘する声が多い。

しかしこれ以降、ようやく朝日新聞の紙面からは林彪の死亡はともかく、失脚を訝しがる記事は消え、2月23日には「中ソ改善を図り失脚 林彪 訪中の米記者報道」(1972年2月22日 時事通信)という記事が掲載される。

一方で他紙を見てみると、読売新聞は「林彪の失脚を確認」、毎日新聞は「林彪は生きている」と、扱いは朝日新聞ほど大きくはないものの前述した2月10日のAFP電を報じている。

1972年7月28日(すでに田中政権発足後)、他社が林彪の死亡を報じた後で、秋岡記者が配信した林彪死亡記事がようやく掲載される。これは、広岡知男朝日新聞社社長が中国共産党政府の意向通りの記事を書くことを公言していることから、朝日新聞社の方針に沿ったものであると考え
ることができる。

そもそも林彪は1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、劉少奇国家主席の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から彼とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。

1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否した為ミサイルで撃墜された説がある。

なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。

1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになったが、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。

一方、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張したという。いずれにせよ、林彪事件には今なお謎が多い。

1981年の林彪・四人組裁判では「反革命集団の頭目」とされ、彼が抗日戦争であげた戦功は歴史から抹殺されることになったが、近年、研究者の間では革命期における軍人・林彪の功績を客観的に再評価しようという機運も起きており、北京の革命博物館の展示でも林彪の名が見られるようになった。

また、林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書のなかで、「毛沢東はマルクス主義でも何でもない」「現代の始皇帝である」「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述が、文化大革命に厳しい批判的な見方を示す研究者からも注目されている。

1971年9月の墜落事件の後、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル国内に墜落したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。

国内戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという。

中国人政治学者の厳家祺およびその妻の高皋による『文化大革命十年史』によれば、1950年に林彪が体調不良を訴え朝鮮戦争への出征を拒んだ際、診断した党幹部の御用達医師である傅連!)によって体の主だった器官に疾患はなく、神経系の異常あるいはモルヒネ中毒と診断され、これが毛沢東に報告された。

毛沢東は以前から林彪の中毒を知っており、まもなく、林彪に曹操の詩『亀雖寿』をしたためて送ったとの逸話が載っている。参考:フリー百科『ウィキペディア』(文中敬称略)。2007・05・13
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


秋岡氏のその後。

<人民日報社社長、海外版日本代理人の秋岡氏と会見

人民日報社の王晨社長は12日午前、「人民日報」海外版の日本代理人である秋岡家栄さん、娘の栄子さんと会見した。双方の会見時の主な発言は次の通り。

▼王晨・人民日報社社長

われわれは、中国で起きた日本人の関心の高い出来事を、海外版を通じて多く報道することで、歴史によって現実の中日友好を促進することができる。6月に私が日本を訪問した時、小泉首相と会見した。彼は「中国脅威論」には反対で、日中関係は積極的に未来へ向うべきだと話した。

私は彼の見解を称賛する。中日関係の発展は「歴史を鑑(かがみ)とし、未来に向かう」必要がある。中国のわれわれ一同も、やはり両国の関係が安定的かつ前向きに発展することを願っており、中日友好の推進者でありたいと考えている。

▼秋岡家栄さん

現在、日本はほんの一部分の人に問題があるだけで、日中友好を願う人がやはり多数だ。日本の人々は中国の歴史と伝統文化を知りたいと強く考えており、両国の交流にはさらに関心が高い。日中友好のために引き続き努力して行く。(編集YH)

「人民網日本語版」2004年10月13日 >
http://spysee.jp/%E7%A7%8B%E5%B2%A1%E5%AE%B6%E6%A0%84/1035960/

2010年02月28日

◆「夜と朝の間に」

渡部亮次郎

このタイトルの歌を唄ったのは女装で有名になったピーターである。作詞のなかにし礼は男なのか女なのか判然としないピーターを
夜と朝の境目の判然としない時間に譬えて作詞した。

「夜と朝の間に」

唄 ピーター
作詞 なかにし礼
作曲 村井邦彦

<夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌を聴いている死人のように
夜と朝の間に ひとりの私 指を折っては繰り返す 数はつきない

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の花びらみたい
夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さに耐えかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち
お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ>

ピーター 本名:池畑 慎之介 いけはた しんのすけ
1952年8月8日(57歳) 大阪府堺市西区 生まれ。
血液型 A型 俳優、タレント、歌手

慎之介は、上方舞吉村流四世家元で、人間国宝にもなった吉村雄輝 の長男として生まれた。3歳で初舞台を踏み、お家芸の跡継ぎとして父から厳しく仕込まれた。5歳の時に両親が離婚。母・池畑清子と暮らすことを選択、鹿児島市で少年時代を過ごした。慎之介が母方の池畑姓を名乗るのはこれ以降である。

池畑の性的指向は長らく公表されていなかったが、最近になってバイセクシュアルであることを明言し、男女共に恋愛経験があることを公にした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そう言えば私はラジオとテレビの記者として育ったので、「きょう」とか「きのう」「おととい」「今月」「先月」「今年」「去年」というテンスの原稿を書き続けた。だが、これは新聞や雑誌では通用しない言葉であった。

たとえば、きょうに「きょう」とラジオやテレビで放送するのはとうぜんだが、新聞で「今日」と書いても、配達されるのは「あす」だから、きょうは昨日になってしまっている。だから日付を書くしかない。

TVの記者の古手になったら、盛んに雑誌から原稿を依頼されるようになって、このことを厳しく実感した。原稿は例えば、2月に「今月」と書いても発売される頃は「先月」になってしまっているから
原稿はもともと「今月」ではなく「2月」と書かなくてはならない。

このことはインターネットの世界でも同様である。今日はすぐ明日になってしまい、4,5日経ったらいつの今日かわからなくなってしまうではないか。

投稿してくる人はTVを見ながら「今夜の番組で」と打ち込んでくるが、明後日になってメルマガやブログに掲載しようとしても、「今夜」とはいつの今夜か分からなくて困る。今夜とか昨夜ではなくて初めから日付で語っていただかないと、主宰者泣かせの原稿になっている。

これきりのことを書くのに、ピーターのことから書きはじめた。
「夜と朝の間に」と言えばピーターだから、こうなった。私はNHKで政治記者を約20年やったが、正式なNHK教育を受けていない。

非正式職員に採用されて、大舘市駐在の記者(単身)になり、放送用(耳から聞かせる)文章を独りで考えて送った。1年後、試験に合格して正式記者に採用されたが、もはや教えるところは無いのか研修所(東京・砧)へは入れられず仙台の現場に突っ込まれた。ネタや文章がNHK的でないのは、その所為だろう。2010・2・27


2010年02月27日

◆脳梗塞から復活した坂上二郎さん

渡部亮次郎

コント55で名を馳せた坂上二郎さんは元々歌手志望で上京したのに、さっぱり売れない為、紆余曲折を経てコメディアンになり、とてつもない人気者になった。

私もNHKのど自慢に出場したが、歌手にはならず、記者になったが、NHKという風に馴染めず失敗。若い頃、コント55には笑い転げた。齢を経て、2008年11月、脳梗塞にかすられたが、気付くのが早かった為、念のための入院も10日で済んだ。

退院以後、長嶋さんの主治医である、大学教授の診断を毎月受けながら、血液が血管を詰まらせないよう、さらさらにする「ワーファリン」を服用しているが、お陰で生来、嫌いな納豆を食べずに済んでいる。

ところが、坂上二郎は、私より5年前にゴルフのラウンド中に脳梗塞で倒れていた。たまたま、その体験記をネットで拾ったので紹介する。

坂上二郎、1934(昭和9)年生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。血液型A型

元々は中学校卒業後、鹿児島市内の百貨店に勤務。1953(昭28)年、NHKのど自慢コンクールで鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。さっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま萩本欽一に電話をかけたのが55号に繋がった。

キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場等で人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。

コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。

コント55号として活動中の1972年―1973年頃より、俳優としても活動することになり、1976年のコンビとしての活動中断以降は本格的にテレビドラマ、映画、舞台などで活躍。

平行して念願の歌手としても活動。1974年に『学校の先生』を出してヒット。美声と独特の節回しで知られる。声が『柿の木坂の家』で有名な青木光一に似ているとも言われる。もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。

<『心に太陽を!脳梗塞からの奇跡的な復活を支えた舞台への執念』

2003年9月に脳梗塞で倒れた坂上二郎さんは、苦しいリハビリの末、翌年6月の舞台で見事復活を果たしました。医師からも「よくここまで回復しましたね」と言わせたそのがんばりを支えた原動力とは、一体何だったのでしょうか?

■予想もしなかった出来事が…

坂上二郎さんが脳梗塞で倒れたのは、2003年の9月のこと。健康には自信があった坂上さんにとって、それは全く予想もしなかった出来事でした。

坂上さんは、健康のため20年もの間1日1時間以上歩き、太りすぎないよう食事にも気をつけてきました。また、定期的に健康診断を受け、血糖値が多少高いということ以外は問題がありませんでした。

「ただ、太るのがイヤであまり水を飲まなかった。それがよくなかったのかもしれません。コント55号の時代から、舞台で汗びっしょりになっても水はほとんど飲みませんでしたから。水分補給が大切という意識はあまりありませんでしたね」

 最近「血液がドロドロになると健康に悪い」と言われるようになりました。脳梗塞は、脳に血液を運んでいる血管がつまって、脳に血液が届けられなくなってしまう病気です。坂上さんの場合、水分を十分にとらなかったことが、血液の流れを悪くする原因の一つになってしまったのかもしれません。

坂上さんの脳梗塞の症状が現れたのは、ゴルフ場でプレーをしている最中でした。アドレスに入ってボールを打とうとしているのに、坂上さんの左手はクラブから離れて、たれ下がっていました。

その日、たまたま一緒にコースを回っていた主治医の寺尾先生が様子のおかしいことに気づき「二郎さん大丈夫?」と声をかけました。その時、すでに坂上さんはろれつが回らない状態でした。

これは脳梗塞だと直感した寺尾先生は、その場から動かないように声をかけ、坂上さんを芝生の上に横たえました。このように、万が一脳梗塞の発作が起きてしまった時には、身体を動かさないようにした上で、一刻も早く救急車を呼ぶことが大切なのです。

 キャディーさんが携帯電話で呼んでくれた救急車は、ゴルフ場担当者の判断でコースの近くまで入ることができました。そのため、脳へのダメージを最低限に抑えることができたのです。こうして、坂上さんは寺尾先生の病院で治療を受けることになりました。

■苦しいリハビリの毎日

坂上さんは、入院して数日はほとんど意識がない状態でした。脳梗塞の発作で脳が受けたダメージもかなりひどく、後でリハビリの専門医にCTの画像を見てもらった時に「この状態で、よくここまで回復しましたね」と言われたほどでした。

幸い命には別状がありませんでしたが、後遺症のため顔の左半分と左手がまひして、言葉もうまくろれつが回らない状態でした。

坂上さんは、入院1週間後からリハビリを開始しました。最初は、タオルの上に置いた大豆を箱の中に移すことさえうまくできない状態でした。

「何で自分がこうなってしまったのか。脳の病気だけに『オー、ノー』ですよ(笑)。でも、リハビリをやらない限り良くならないでしょう。少しずつ克服していきました。

そのうちに、左手でドアを閉められるようになったり、シャツのボタンをとめられるようになったりね。普段だったら当たり前のことだけど、『あっ、できた!』という感じで、うれしかったね」

しかしそこまでの道筋は、決して楽なものではありませんでした。思い通りにならない自分の身体にイライラして、献身的に看護してくれた奥さんに不満をぶつけたり、2度と舞台には立てないのではと不安になったりすることが何度もあったといいます。

さらに坂上さんを苦しめたのは、病気で倒れたことをマスコミに発表せず「オフレコ」にしていたことでした。そのため入院中は、他の患者さんの目に触れて噂が立つことを防ぐため、病室にこもりきりの毎日でした。

「特にママ(坂上さんの奥さん)には、本当に苦労をかけました。家には、仕事の依頼の電話がかかってくるんだけれど『主人は、今仕事で地方にでかけています』などと言っていた。でも、だんだんそんな言い訳が通用しなくなって、電話が鳴らないように線を抜いてしまっていたようです」

■大きな目標があったから

思い通りにならない自分の身体にイライラしながらも、それでも、坂上さんがねばり強くリハビリを続けたのは、もう一度舞台に立ちたい、テレビに出たいという強い願望をもっていたからでした。

特に、脳梗塞で倒れた翌年の6月に予定されていた、明治座でのコント55号がメインの1ヶ月公演になんとしても出演することが、大きな目標になったのです。

「自宅に戻ってしばらくしてから、リハビリの先生に来てもらうことになりました。その先生が『坂上さんにとって舞台が最高のリハビリ。絶対6月の舞台に出て下さいね』と言ってくれました。

この言葉は、ありがたかったですね。たしかに、舞台に出るという目標がなかったら、きっとここまで回復するのは難しかったでしょうね」

坂上さんは、先生の「身体を動かすだけでなく発声の練習もした方がいい」というアドバイス通りに、発声練習も始めました。病気で倒れる前は、自慢の歌声を舞台で披露していた坂上さんが、ピアノの伴奏に合わせて「あいうえおあお」「かきくけこかこ」といった基本的な発声練習を繰り返しました。その他にも「生麦、生米、生卵」などの早口言葉も練習しました。

取材当日も、練習を重ねてきた早口言葉を実際に披露してくれましたが、真似できないほどのスピードで、その上なめらかな発声には、後遺症は全く感じられませんでした。

それでも、「今でも左側が少ししびれた感じで、歌っていてもなんとなく気持が悪い。まだ納得していません」と話してくれた坂上さん。これだけのこだわりがあるからこそ、専門家が驚いたほどの回復が可能になったのでしょう。

「6月の舞台について、欽ちゃん(萩本欽一さん)から『車いすでもいいから出てほしい』と言われました。この一言は効きましたね。だって、それじゃあ喜劇が悲劇になっちゃうでしょう。『よーし、絶対治してやる!』ってね(笑)。今から思うと、あれは欽ちゃん流の励ましだったんですね。もしも、あの時『二郎さん、無理しなくてもいいよ』なんて言われていたら、その言葉に甘えて、本当に舞台に復帰できなかったかもしれません」

 その他にも、昭和9年会の仲間の一人、牧伸二さんからの励ましも、坂上さんの心を奮い立たせてくれました。それは、牧さん直筆の「心に太陽を」という書でした。

「病室で最初に見たときに、『そうだ、心に太陽だよな』と。『心をサンサンと輝かせて、がんばらなきゃ』と思いました。何か、病が身体からスッと消えていくような感じがしましたね。それからは、辛いことがあるとその書を見ながら『がんばれよ。くじけるなよ』と自分自身を励ましてきました」

■舞台がリハビリの場になった!

6月の舞台に立つという目標に向かって努力を続けた坂上さん。そのかいもあって、身体や声の状態はどんどん回復していきました。

しかし日常生活と違い、舞台の上ではかなりの体力や集中力が必要です。実際、舞台のリハーサルでは、せりふを忘れてしまう、ろれつがうまく回らない、動きが悪いといった状態が本番前日まで続きました。

不安を抱えたまま舞台初日を迎えた坂上さんは、自分の出番を待ちながら、舞台の上で本当に声が出るのか、ろれつが回るのか、気が気でなかったといいます。

「ついに自分の出番になりました。持っていた扇子で顔を隠しながら、欽ちゃんがいる舞台の中央に出て行きました。扇子をはずしたとたん客席がどよめいて、『二郎さんがんばって!』と声がかかった。

そこですかさず、『みなさんご心配をかけました。この通り元気になりました。最後まで、よろしくお願いします』とあいさつしたんです。『ちゃんとしゃべれた!』『昔の自分に戻れた!』という感動で、それまでの緊張がとれて、うそのように身体が軽くなりました」

舞台に立った坂上さんは、せりふを口にしながら、舞台上を動き回りながら、歌いながら以前の感覚を取り戻していきました。まさに、舞台が最高のリハビリの場となったのです。こうして無事迎えた千秋楽の舞台終了後のあいさつでは、

「熱いものがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれました。欽ちゃんはぼくの肩を抱いて『二郎さんが泣くなんてめずらしいね。誰かハンカチ持ってないの?』と声をかけてくれて…。共演者のみなさんも、お客様も一緒に泣いてくれました。

欽ちゃんには、ずいぶん迷惑をかけたけど、本当に我慢強くつきあってくれました。いくら感謝しても、感謝しきれない気持でした。同時に、1ヶ月間よくがんばったなぁという思いと、これで終わったという安堵の気持がこみ上げてきて、あの時ばかりは涙を止めることができませんでした」

■「ありがとう」に秘められた思い

「ぼくは本当にラッキーでした。脳梗塞で倒れたときも、その場に友人のお医者さんがいたし、家族や友人の励ましのおかげで奇跡的に舞台に戻ってこられました。また、実際に舞台に立って、お客様からエネルギーをもらったからこそ、ここまで回復できたのだと思っています」

現在、坂上さんのマネージャを務めている長男の大樹(だいき)さんは、「病気になってから、父は家族に対して優しくなりましたね。何かにつけて『ありがとう』と口にするようになったし、涙もろくなりました」と話してくれました。

「涙もろくなったのは、人生が終わりに近づいたせいかもしれませんねぇ(笑)。『ありがとう』という言葉も、あんまり使いすぎると『もう、長くないんじゃないかな』なんて思うことがあるんですよ」

笑いながら、そう話してくれた坂上さんは、リハビリ中は、どんなに苦しいことがあっても「男のくせに泣いたらダメだ」と自分自身に言い聞かせ、決して涙を流さなかったといいます。

もちろん、その強さが辛いリハビリを乗り越える原動力になったのでしょうが、家族に『ありがとう』と声をかけ、涙を見せる坂上さんも魅力的だと感じました。

今後、坂上さんが芸能界でも新たな一面を発揮され、これまでとはひと味違った活躍をされるのではないか。そんなことを感じました。(「私のおばあちゃんの智恵袋」>より。 http://www.chiebukuro-net.com/obchi/interv/interview11.htm
2010・2・25


2010年02月26日

◆鯰(なまず)が食いたい

渡部亮次郎

現在は知らないが、大東亜戦争中と敗戦直後の農村では、田植えと稲刈りの「農繁期」は、それこそ猫の手も借りたいぐらい忙しいから、学校を休んで手伝った。私は高校時代も稲刈りを手伝った。

県立秋田高校在学中も田植えと稲刈りを手伝った。1954年卒業の同期生520人余の中で、鎌で稲刈りをした者は私ぐらいだと、密かに思っている。

<本校は、明治6(1873)年に洋学校として創設され、以来135年にわたり充実発展の歴史を積み重ねてまいりました。これまで、ここで学んだ3万5千有余名の先輩たちは、高い次元の「文武両道」の道に邁進し、清新溌剌たる素晴らしい「自主自律」の校風を創り上げてくれました。

「敬天愛人理想を高く おのれを修めて世のためつくす」べく、国内外における様々な分野で自らの理想の追求に全力を傾注してきたのです。

この良き伝統と校風を継承発展させ、これからもグローバルな社会において全国・世界に通用する人材を輩出するため、叡智を結集して教育にあたっていきたいと考えております。
2008年4月  第42代校長 菊谷 一>

ところで、田圃と住居は何キロの離れているので、昼食に往復する時間が勿体無い。そこで飯の御櫃(おひつ)とおかずを煮た鍋を携行して行く。鍋の中の殆どは、当時の八郎潟で釣り上げた「鯰(なまず)」の味噌煮に決っていた。

東京で鯰を食べたというと、特に女性は気持ち悪がるが、それは経験が無いからであって、あれほど美味い淡水魚は珍しい。淡白な白身の肉だが、クセが全く無く、味噌煮は実に美味しかった。


しかし、長ずるに及んで郷里からも田圃からも離れたので、鯰の事はすっかり忘れていたが、外務大臣の秘書官に発令されて、或る時、アメリカ南部に出張したところ、女性たちがダイエットのために鯰のフライを食べているというので、改めて興味を惹かれた。

当時はカーター政権の頃。動物性脂肪の過剰摂取が肥満と心臓病を招くというので、大統領自らダイエットを呼びかけていて、女性たちは脂肪が少なくて蛋白質の豊富な鯰に飛びついたという次第だった。

そもそもナマズは英名で「キャットフィッシュ」とよぶ。これは、顎の両側からのびているひげがネコを連想させるため。南アメリカのいくつかの科のナマズは骨質板でおおわれ、鎧(よろい)をまとっているようにみえる。ヨーロッパナマズは最大型のナマズで、重さ290kg、全長がほぼ4mにおよぶことがあると報告されている。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、なかには体重が70kgにおよぶものもある。
とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスとならんで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

現在、アメリカ合衆国の水産養殖の生産量の約2分の1をナマズが占めている。ミシシッピ、アラバマ、アーカンソー、カリフォルニア、ルイジアナの各州には大規模なナマズ養殖場がある。ほかの州のものをあわせると約6万haのナマズ養殖場がある。

養殖によるナマズの生産高は1985年では9万t以下だったが、92年には20万t以上になり、取引量も93年で約20万tにのぼると推定される。遺伝子操作、水流循環システム、病気の管理などの新たな生産技術をもちいることによって、この産業の今後の成長がみこまれる。

ナマズは北海道をのぞく日本全土の他、アジア東部にひろく分布する。いずれでも体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右におしつぶしたようにひらたい。

全長60cmに達する。湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いひげには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌をさぐるのに使われる。また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、ほかの動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない、という。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがおり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である。かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、鍋物やかば焼きに適している。刺身用に寄生虫がつかないように養殖されたナマズは、洗いにして賞味される。Microsoft(R) Encarta(R) 平成22・2・22

2010年02月25日

◆マルコス大統領からのタガログ

渡部亮次郎

マルコス元フィリピン大統領閣下に恐れ多くもシャツのタガログ1枚を下賜されたことがあるが小さくて着られないまま、どこかで失くしてしまった。その3年後、園田氏は逝去、大統領は亡命を余儀なくされた。「歴史」を思う。

バナナ繊維かパイナップル繊維でできたバロンタガログだ。フィリピンではこれを着用すれば、「正装」なのだそうだ。高温多湿な土地での凌夏服装で都合が良かろう。

1981(昭和56)年、鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、イタリア、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。秘書官として随行していた私はイタリアから胸やけ続き。マニラにいた知人に貰った太田胃酸で霧消、万歳。

園田外相は19日はフィリピンのマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートで待機中のアメリカ国務長官ヘイグ氏と相対した。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると申しいれ、ただし服装は白のタキシード或いはタガログ・シャツに限るとのお達し。タガログを送ってくれていたが、小さくて着られなかった。

そこで主従ともに急遽、白のタキシードを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなどこの時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

晩餐会で何をご馳走になったかも忘れたが、イメルダ夫人の香水がきつくて参った。それに、きつい「冗談」にも。「日本人の大人たちは買春も団体でやるから目だって反感を買う。

そこへ行くと、積み立て貯金をして買春に来るドイツ人は凄い。女性の大事なところに怪我を負わせて帰るけど、決して団体でやらないからニュースにはならないのよ」。高貴なお方から、こんなお話を伺うとは予想してなかった。

これから3年後の4月2日の朝、糖尿病に伴う腎不全により、園田氏は70歳と言う若すぎる死を遂げてしまうが、園田氏の死に先立ってマニラでは1984年2月25日、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。

「ウィキペディア」によれば、マルコス政権下のフィリピンで、国内の経済開発では海外からの借款が多用された。また、1973年より開始された観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段であった。

1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。

続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6・30%から1985年には12・55%まで増大した。

さらに政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。

アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。

1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。

同盟国からの圧力の結果、マルコス氏は大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命したのだった。
2010・2・23

2010年02月23日

◆園田をたじろがせたヘイグ

渡部亮次郎

<唯一、園田外務大臣をたじろがせた男の死が21日、ひっそりと産経新聞の国際蘭で寂しく報じられた。レーガン米政権で国務長官を務めたアレグザンダー・ヘイグ氏。20日、感染症による合併症のため、米メリーランド州ボルチモアの病院で死去した。85歳だった。

鈴木善幸政権時、レーガン政権の国務長官に就任、日本の防衛費の飛躍的増額要求を表明。マニラでの初会談を前に、あの強気で通った園田氏をたじろがせた。

園田氏死して既に26年だが、園田氏はあの世でもヘイグ氏にたじろぐだろうか。いや、会談してみたら、戦闘士としては自分がはるかに上だったことを確認できたのだったから、もはや、絶対たじろぐような事は無いはずだ。>(「頂門の一針」2月22日號)

ヘイグ死は1924年生まれ。園田氏は1913年生まれだから、園田が一回りも年上だったのに、たじろいだのは就任したばかりのレーガン政権を背景に、日本に対する防衛予算の莫大な増額要求の圧力の為だった。

園田氏は既に外務大臣を福田、大平の両政権で務めた後、鈴木政権では、厚生大臣のピンチヒッターとして入閣した後、日米首脳会談に伴う共同声明を巡って引責辞職した伊東正義外務大臣の後任として3度目の外務大臣に横滑りしたばかりであった。

鈴木・園田の交流は河野一郎時代は全く無かったが、「三木降し」で急速に接近、ポスト三木で「福田・大平2年後に政権譲渡」の密約交渉で深い関係が成り立った。

一方のヘイグ氏。陸軍軍人として朝鮮動乱、ヴェトナム戦争に従軍。ニクソン、フォード両政権で首席補佐官、北大西洋条約機構(NATO)の最高司令官を務めた。

そうした経歴を背景に、この年(1981)発足したレーガン政権に国務長官(外務大臣に相当)として入閣、日米安保体制のもと、日本の国防予算の格段の増額を要求するレーガン大統領の尖兵として初の日米外相会談を行なうべく、フィリピンの首都マニラで待ち受けていた。

鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。19日はマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートでヘイグ氏と相対した。

会談前はやや緊張気味だった園田氏だが、ヘイグ氏の要求する、韓国防衛に関する防衛費の負担については、筋論を展開、結論を急ぐヘイグ氏を押さえ込んだ恰好で、1時間は過ぎた。ヘイグ氏に言質を与えなかったのである。

結論を先に言えば、鈴木総理は翌年、突如、退陣。この問題は次の中曽根政権の宿題として持ち越され、中曽根氏が、瀬島龍三氏を韓国に派遣するなどして解決した。

それ以前に園田氏は11月の内閣改造で下野、急速に健康を害し、人工透析を余儀なくされ3年後の1981年4月2日に、僅か70で死んだ。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると飲申しいれ、ただし服装は白のタキシードに限るとのお達し。

主従ともにそれを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなど
この時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

園田氏の死に先立ってマニラでは2月25日、コラソン・アキノ女史が大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。(「ウィキペディア」)

ヘイグ氏の訃報に接し、こうして29年前を思い出した。お退屈様。
2010・2・21

2010年02月22日

◆ライシャワー発言の頃

渡部亮次郎

「米軍艦艇は核兵器搭載のまま日本の領海を通過し、日本の港に寄港してきた」とするいわゆる「ライシャワー発言」は古森義久氏(元毎日新聞記者、現在は産経新聞ワシントン駐在記者)の大特ダネであり、勲章である。

それにも拘らず朝日新聞は何をとち狂ったか、「共同記者会見で初めて明らかにされたものだ」とする捏造記事を掲載したので、古森氏は「こんな虚偽の報道をするとは、責任者のコメントをいただきたいところです」と自らのブログで怒っている。(19日、「頂門の一針」2月21日号でも紹介)  http://komoriy.iza.ne.jp/

古森氏は言う。
<朝日新聞2月17日朝刊に「インタビュー 日米同盟の見方」という長い記事が載りました。ニューヨーク駐在の朝日新聞の山中季広記者がライシャワー大使の補佐官だったジョージ・パッカード氏にインタビューした記事です。

パッカード氏の近著『ライシャワー氏の昭和史』の内容に沿った記事でもあります。

ちなみに私もパッカード氏とは長年の知己であり、今回の書の執筆
の最終段階で同氏にランチに招かれて、「ライシャワー発言」の取材などについていろいろ質問されました。

パッカード氏の著書にも明記されているように、ライシャワー氏は1981年5月9日、当時、毎日新聞記者だった私のインタビューでの質疑応答で、私の質問に答えて、

「日本政府の『核持ち込ませず』という宣言にもかかわらず、米軍艦艇は核兵器搭載のまま日本の領海を通過し、日本の港に寄港してきた」と明かし、「日米政府間には『持ち込み(イントロダクション)』という言葉の解釈の違いをそのままにする秘密の合意があった」と述べました。

日米密約の暴露であり、非核三原則の虚構の公表でした。毎日新聞はこの「ライシャワー核持ち込み発言」を81年5月18日朝刊で大々的に報道しました。

この報道はスクープとなり、その年の日本新聞協会のニュース部門賞を受けました。

当時、毎日新聞のこの報道を受けた日本の他のメディアはさっそくライシャワー氏にその件での取材を申し込み、同氏はそれを受けてアメリカでの5月18日にハーバード大学で記者会見を開きました。

その会見の場で、私に語ったこと、つまり毎日新聞の当初の報道と同じことを繰り返しました。つまり核持ち込みの虚構を確認したのです。

ところが今回の朝日新聞の報道はこのライシャワー氏が古森とのインタビューで虚構を暴露した事実や、毎日新聞がその暴露を大々的に報道した事実、さらにはその毎日の報道を受けてこそライシャワー氏が記者会見を開いた事実など、すべて無視しているのです。

無視というより、故意の隠蔽というほうが正確です。

この朝日新聞の報道はライシャワー氏が日本の各メディアとの共
同記者会見の場で、初めて核持ち込みの虚構を暴露した、と報じているのです。これはどうみても虚偽、虚構の報道です。>

老いたりとはいえ、「日米関係」の現場にいた身だから、脳のどこかが刺激を受けた。「ライシャワー」は私には悪い記憶として残っている。当時、外務省で大臣秘書官として、善後策に奔走させられた記憶しかないからである。

古森スクープの載った5月18日は月曜日で、総理大臣官邸で午前10時から園田氏が鈴木首相から外務大臣の辞令を受け取った。あとで私も「外務大臣秘書官を命ず」という鈴木首相からの辞令を受け取った。

省内では、あちこちで古森スクープというか「ラシシャワー発言」を巡ってひそひそ話が交わされていたが、この日は記者クラブである「霞クラブ」との記者会見は予定されていなかった。

何しろ霞クラブ、毎日新聞の特ダネにわざと関心を示さなかった。「非核三原則の虚構」については外務省内は勿論、記者たちも古手は既に「常識」と見ていて、余り関心を示さなかった。

米側はマンスフィールド大使が20日になってやってきて、「これまで通り」の「ほっかむり」をきめこむ事をうちあわせて帰った。

一方、園田氏は福田、大平内閣に続いて3度目の外務大臣。それなりの「実績」に自負を持っているので、就任4日目になってセットされた、マスコミ各社のインタビューでは「否定」を貫いた。

また国会からは、その更に2日後の22日午後1時から衆議院本会議に呼ばれ、きんきゅう質問で、社会党矢山有作、公明党矢野絢也、民社党塚本三郎、共産党不破哲三、新自由クラブ山口敏夫の各氏の「追及」を受けたが「否定」で切り抜けた。

マスコミは外務省ガライシャワー氏と平仄を合わせた答弁を期待したのは当然だが、長い間続けてきた「頬かむり」から転進するには準備期間が無さすぎた。

それよりも鈴木政権は日米関係が軍事同盟であるとする当然すぎる解釈を巡って「外交素人」の鈴木首相が浮き上がっており、一旦は慰留を受けた高島事務次官の問題処理も難問だった。

昭和39年からの佐藤栄作政権の遺物とも言える「非核三原則の虚構」が、いつ、どのような形でどう処理されるのか。足が地に着かず、腰も定まらない鳩山政権は捌けないだろう。2010・2・20




2010年02月19日

◆トイレットペーパー

渡部 亮次郎

紙は文化のバロメーターといわれるが、もう1つのバロメーターはトイレット・ペーパーの質では無いか。旧ソビエトの迎賓館のトイレに坐りながら、つくづく考えたことだった。

1978年1月、外務大臣秘書官としての初外遊がモスクワでの「日ソ定期外相協議」への随行だった。1月のモスクワは零下20度まで下がるというので、防寒具を整えたが、経験者たる報道課長古川清さんの入れ智恵で、トイレット・ペーパーを多めに携帯した。

なるほど、モスクワの「レーニンが丘」に建っている何棟かの迎賓館のうち泊められた1号館は鉄筋2階建て、警備の警察官が寝ずの警備をして
くれている。

迎賓館の周囲を歩く靴の雪をこする音が夜中中していた。時差ボケでよく眠れないうちに、朝がきて園田大臣が寝室で5時に起きだしたようだが、外はまだ真っ暗。結局、9時にならないと明るくならなかった。

台所には、女性が1人いた。おっぱいがヘッドライトを括りつけたように大きいが、推理小説の読みすぎか、秘密警察の要員かと思って警戒。各部屋には冷蔵庫の備え付けが無かった。ビールも無かった。

トイレに入って驚いた。古川さんの教えてくれた通り。トイレット・ペーパーは、ごわごわと音がする厚さ。多分、ボールペンで字が書けたろう。東京から持っていったものが役立った。

トイレットペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。その当時は皇帝用であった。

便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセフ・カエティによって作られた。カエティの名前はすべての紙に印刷さ
れた。

トイレットペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いるか、ぼろ布、かんなくず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。日本では、ちゅう木(糞べら)という細長い板を用いていた。

中東の砂漠ではでは左手を使うから左手は不浄の手とされているらしい。確かめたわけじゃないが。

帝政ロシアでは、部下が皇帝が用いるトイレットペーパーに皇帝の刻印を押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所担当の廷臣がいた。

安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎日二人っきりになる好機であるため、その影響力を得たいためにこの仕事を望む部下は多かったという。

その名残か、ソビエト革命政府ではトイレット・ペーパーには全く関心が無いようだった。帰国する時に、日本製をすべて彼女にさしだしたら、初めて笑って謝意を示した。金の入れ歯が確認できたわけ。

記者の大先輩、古澤襄(のぼる)さんによれば、最近のロシアはヨーロッパなどから輸入するらしく、「字の書けるトイレットペーパー」は姿を消したらしい。

しかし、私の訪問した13年後、ソビエトは社会主義体制に74年でピリオドを打った。目が爛れ、破れた靴を履いてクレムリンを訪れた市民を見ると、社会主義はとっくに破滅しているのが分かった。

ところで、トイレットペーパーは、日本ではどれもほぼ一定の大きさであって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によってはロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものとなっている。

各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがある。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられている場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。

迎賓館にはそういう指示は無かった。

日本では、従来はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されていたが、水洗式便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途のために次の条件を満たす必要がある。

肌に触れて不快感がないこと。最近では2枚重ねのものが増えてきている。

強度があること。使用中に崩れてしまうと不快であり、また衛生上望ましくない。 吸水性に優れていること。 水に濡れると繊維がほぐれること。下水処理が行いやすくする必要がある。

また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれないようにしなければならない。 安価であること。消耗品であるので、低コストである必要がある。再生紙がよく使われる。

この他にも使用者の利便性のためにミシン目などが入っていたり、香りがつけられていたり、文字が印刷されている物も作られている。

いずれ日本は既に都会では水洗トイレが普及している為に、トイレットペーパーはパニックノタネになり得る。角栄内閣の時、石油ショックに伴う大阪でのトイレット騒ぎは、筆者の記憶には新しい。

ホテルやアミューズメント施設などで顧客サービスの一環としてトイレットペーパーを三角に折ってあることがあるが、一般にも広まったのは帝国ホテルの清掃員が清掃の完了の目印として行ったものらしい。

ペーパーホルダーの制約があるので、トイレットペーパーのサイズは標準化されている。

日本、アメリカでは、114 mm幅が主流である。この半端な数値は4インチ1/2に由来する。日本ではJISで114 mm幅に定められている。芯の内径は38 mm(1インチ1/2)が主流である。

ヨーロッパではメートル法に基づき100 mm幅が主流である。

日本では、長さは60 m(2枚重ねでは30 m)前後が多い。ロールの状態では直径110 mm前後になる。JISでは、直径120 mm以下と定められている。
                        2010・2・17
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年02月15日

◆指揮権発動って何

渡部 亮次郎

昭和29(1954)年4月、大学に合格して上京した。18歳だったが、テレビはまだ周囲に無かったし、携帯ラジオはまだ売ってなかった。下宿料込み「1万円」の仕送りであったから、新聞も買わなかった。

それなのに昭電疑獄事件を知り、自由党幹事長佐藤栄作の逮捕逃れに「法務大臣の指揮権発動」などという大時代的な言葉を頭にとどめたのは、都電の中での大人の会話を聞いたからであろう。当時、東京都内では23区を中心に路上を複線の電車が走っており、マイカーは走ってなかった。

長じて NHKの政治記者になり、総理大臣に上り詰めた佐藤栄作を真近に見る立場になったとき、突然「指揮権発動」と言う言葉が頭に浮かんできて、なんだか佐藤に敵意を感じたものだ。子供心に「卑怯」と言う印象が刻まれていたのだろう。

佐藤に対面してからも既に46年の年月が去り、私は74歳になった。そのとき、久しぶりに「指揮権発動」を耳にした。独裁者小澤一郎を巡ってのことである。

佐藤は小澤の師匠たる田中角栄の親分だったのだから、指揮権発動はこの人たちによくよく縁のある言葉である。

造船疑獄(ぞうせんぎごく)は計画造船における利子軽減のための「外航船建造利子補給法」制定請願をめぐる贈収賄事件。1954年1月に強制捜査が開始された。政界・財界・官僚の被疑者多数が逮捕され、当時の吉田茂内閣が倒れる発端となった事件である。

東京地方検察庁特別捜査部による海運、造船業界幹部の逮捕から始まった捜査は政界・官僚におよび、有田二郎ら国会議員4人の逮捕などを経てさらに発展する気配をみせた。

1954年4月20日、検察庁は当時与党自由党幹事長であった佐藤栄作を収賄容疑により逮捕する方針を決定した。

しかし、翌4月21日、犬養健法務大臣が検察庁法第14条による指揮権を発動し、佐藤藤佐(とうすけ)検事総長に逮捕中止と任意捜査を指示した。

この指揮権発動は佐藤栄作の突き上げにより、内閣総理大臣・吉田茂の意向を受けたものである。佐藤栄作はなかなか指揮権発動を行わない犬養を罷免して、新法相に指揮権発動させるよう吉田に要求したことから、結局犬養が指揮権発動を行った。犬養はその翌日辞任した。

4月30日には参議院本会議で指揮権発動に関する内閣警告決議が可決された。衆議院は9月6日に証人喚問をおこない、佐藤検事総長は「指揮権発動で捜査に支障が出た」と証言。

その後、衆議院は吉田を証人喚問議決をするも、吉田は病気を理由に拒否。その後、衆議院は拒否事由が不十分として議院証言法違反で吉田を告発するも、不起訴処分となった。

逮捕者は71名にのぼり、起訴された主要な被告のうち7名が無罪、14名が執行猶予付きの有罪判決を受けた。佐藤栄作は後に政治資金規正法違反で在宅起訴されたが、国連加盟恩赦で免訴となった。

逮捕こそ免れたものの、後の総理大臣の佐藤に逮捕状が出された事で、敗戦後の日本政治史の一大汚点と考える向きもいるが、また、吉田内閣を打倒し鳩山一郎・岸信介らのいわゆる逆コース政治家に再登場の道を開くために仕組まれた、帝人事件同様の検察ファッショの例に過ぎないという見方もある。

そもそも、起訴する権限を独占している検察官を、選挙による民主主義を基盤とする内閣の一員である法務大臣がチェックする仕組みだった指揮権が、佐藤ら一部の政治家を救うための手段に利用されてしまったのだ。

このため、制度の政治的正当性が完全に失われてしまい、日本の民主主義にとって手痛い失敗になったとする意見がある。このことが、現在の、政治が検察に関心を持つことさえもタブー視する状況につながったといわれている。

一方で、当時の検察側の井本臺吉、神谷尚男、栗本六郎の証言から、佐藤を起訴するだけの証拠がなかったので、佐藤の逮捕は無理筋と判断し、「名誉ある撤退」をするためあえて指揮権を発動させた検察側の策略だったという見方もある。

後に犬養は『文藝春秋』1960年5月号に、「指揮権発動により法務・検察幹部を軒並み引責辞任させ、意中の男を検事総長に据えようという某政治家と検察幹部の思惑があった」とする手記を寄せた。

1954年3月26日、社会党の中田吉雄がこの問題の追及時に、「今五つの『五せる』接待方法がある」「飲ませる・食わせる・いばらせる・握らせる・抱かせるであるが…」と発言し、一部で流行語化した。

果たして今回、東京地検が小澤逮捕の方針を決定と言う場面になったら、鳩山首相や、千葉法務大臣は如何なる判断に傾いただろうか。

小澤が助かっても参院選挙で民主党敗北予想となったら、宇宙では誰と心中するだろうか。(文中敬称略)2010・2・13
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年02月14日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎

今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になったが、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」として通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べない。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれている。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らなかった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていない。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当なものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウンサー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが昨夜仕組んでいったニュースはすべて昨日のもの。大館発の交通事故や火事は唯一の「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、毎朝「大館発」だらけ。面白かった。


そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考えている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つとかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

問題は「料亭」だ。1軒しかない。「芸者」もそこにしか出入りするところが無い。スポンサーは変われど、料亭も芸者も毎晩同じ顔ぶれ。しかも料理は決って「きりたんぽ」。

毎日、毎晩「きりたんぽ」だから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。
2010・1・5


2010年02月12日

◆「小澤は過去の人」と立花隆

渡部亮次郎

手許に来た「文芸春秋」は2010年3月号。表紙に「政治家小澤一郎は死んだ」立花隆とあるから、興味を以って読んだが、たいした事は全く無かった。

とくに「そう遠くない時期に小澤は確実に死ぬ。既に67歳。記者会見で自ら述べているように、そう長くはない、のである、心臓に重い持病を抱えている事もあり・・・もう限界だろう」にいたっては立花隆は「小澤のことを調べる根気が無くなったので論評はやめた」と宣言したに等しい。

「文芸春秋」に「田中角栄研究」をひっさげて論壇に華々しく登場し、東京大学の教授にまで上り詰めた立花だが、70の声を聞いてさすがに体力のみならず精神的にも弱ってきたらしい。立花に次ぐ評論家は育ってないから文春も弱ったようだ。

「JAL倒産の影響もある」と言う。「あれほど巨大な企業も、つぶれる時はアッという間だった。小澤ほどの巨大権力者も、つぶれる時は一瞬だろうと思った。今考えるべきは小沢がどうなるかではなく、ポスト小澤の日本がどうなるか、どうするのではないか」と言う。
今更小澤を論ずるなどやめようという原稿になっている。

「小澤の政治資金に関する不適切な事実は、既に山のように出てきている。小澤がこれから百万言を弄して、どのようなもっともらしい理屈を並べようと、小澤は政治腐敗の点において、政治上の師と仰いできた田中角栄、金丸信の直系の弟子であることを既に証明していまっている。

小澤のやって来た事は構造的に、田中角栄、金丸信がやってきたことと、殆ど変わりが無い。

それは、政治家が影響力をふるう事ができる公共事業の巨大な国家資金の流れにあずかる企業から、大っぴらにできない政治献金{法律上、国家資金を受け取る企業は献金できない}を何らかの別チャンネルで受け取って懐にいれるという行為である。

それを贈収賄罪等の罪に問う事が出来るかどうかは、法技術上の難問がいくつかあって簡単ではない。刑法の罪を逃れられたとしても、道義上の問題としては、同質の罪として残る」

要するに、立花隆として、小澤の罪について自ら積極的に調べ上げた事実は一つもなしに「政治家小澤一郎は死んだ」と言うおどろおどろしい見出しの長文を書いてお茶を濁しているのである。小澤が死んだというなら、立花も死んだと言っていいのかな。

しかも評論の大半を東大駒場の立花の最終ゼミに来た学生から取ったアンケートを升目に書き写して「今の平成生まれの若者から見れば、小澤一郎など、過去の遺物に過ぎない」と逃げている。

20歳前後の世間知らずに小澤論のあるわけがない。それなのに長々とアンケートの回答を書き連ね、「もはや小澤なんかどうでもよい」と言うなら、こんな原稿、書かなきゃ良かったではないか。

とにかく立花らしさの全く無い原稿である。まして表紙にタイトルを刷って売るのは当に羊頭狗肉である。(文中敬称略)
2010・2・10

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