渡部亮次郎
コント55で名を馳せた坂上二郎さんは元々歌手志望で上京したのに、さっぱり売れない為、紆余曲折を経てコメディアンになり、とてつもない人気者になった。
私もNHKのど自慢に出場したが、歌手にはならず、記者になったが、NHKという風に馴染めず失敗。若い頃、コント55には笑い転げた。齢を経て、2008年11月、脳梗塞にかすられたが、気付くのが早かった為、念のための入院も10日で済んだ。
退院以後、長嶋さんの主治医である、大学教授の診断を毎月受けながら、血液が血管を詰まらせないよう、さらさらにする「ワーファリン」を服用しているが、お陰で生来、嫌いな納豆を食べずに済んでいる。
ところが、坂上二郎は、私より5年前にゴルフのラウンド中に脳梗塞で倒れていた。たまたま、その体験記をネットで拾ったので紹介する。
坂上二郎、1934(昭和9)年生まれ。鹿児島県鹿児島市出身。血液型A型
元々は中学校卒業後、鹿児島市内の百貨店に勤務。1953(昭28)年、NHKのど自慢コンクールで鹿児島県代表に選ばれ優勝したのを機に、歌手を目指し上京。さっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま萩本欽一に電話をかけたのが55号に繋がった。
キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場等で人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。
コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。
コント55号として活動中の1972年―1973年頃より、俳優としても活動することになり、1976年のコンビとしての活動中断以降は本格的にテレビドラマ、映画、舞台などで活躍。
平行して念願の歌手としても活動。1974年に『学校の先生』を出してヒット。美声と独特の節回しで知られる。声が『柿の木坂の家』で有名な青木光一に似ているとも言われる。もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。
<『心に太陽を!脳梗塞からの奇跡的な復活を支えた舞台への執念』
2003年9月に脳梗塞で倒れた坂上二郎さんは、苦しいリハビリの末、翌年6月の舞台で見事復活を果たしました。医師からも「よくここまで回復しましたね」と言わせたそのがんばりを支えた原動力とは、一体何だったのでしょうか?
■予想もしなかった出来事が…
坂上二郎さんが脳梗塞で倒れたのは、2003年の9月のこと。健康には自信があった坂上さんにとって、それは全く予想もしなかった出来事でした。
坂上さんは、健康のため20年もの間1日1時間以上歩き、太りすぎないよう食事にも気をつけてきました。また、定期的に健康診断を受け、血糖値が多少高いということ以外は問題がありませんでした。
「ただ、太るのがイヤであまり水を飲まなかった。それがよくなかったのかもしれません。コント55号の時代から、舞台で汗びっしょりになっても水はほとんど飲みませんでしたから。水分補給が大切という意識はあまりありませんでしたね」
最近「血液がドロドロになると健康に悪い」と言われるようになりました。脳梗塞は、脳に血液を運んでいる血管がつまって、脳に血液が届けられなくなってしまう病気です。坂上さんの場合、水分を十分にとらなかったことが、血液の流れを悪くする原因の一つになってしまったのかもしれません。
坂上さんの脳梗塞の症状が現れたのは、ゴルフ場でプレーをしている最中でした。アドレスに入ってボールを打とうとしているのに、坂上さんの左手はクラブから離れて、たれ下がっていました。
その日、たまたま一緒にコースを回っていた主治医の寺尾先生が様子のおかしいことに気づき「二郎さん大丈夫?」と声をかけました。その時、すでに坂上さんはろれつが回らない状態でした。
これは脳梗塞だと直感した寺尾先生は、その場から動かないように声をかけ、坂上さんを芝生の上に横たえました。このように、万が一脳梗塞の発作が起きてしまった時には、身体を動かさないようにした上で、一刻も早く救急車を呼ぶことが大切なのです。
キャディーさんが携帯電話で呼んでくれた救急車は、ゴルフ場担当者の判断でコースの近くまで入ることができました。そのため、脳へのダメージを最低限に抑えることができたのです。こうして、坂上さんは寺尾先生の病院で治療を受けることになりました。
■苦しいリハビリの毎日
坂上さんは、入院して数日はほとんど意識がない状態でした。脳梗塞の発作で脳が受けたダメージもかなりひどく、後でリハビリの専門医にCTの画像を見てもらった時に「この状態で、よくここまで回復しましたね」と言われたほどでした。
幸い命には別状がありませんでしたが、後遺症のため顔の左半分と左手がまひして、言葉もうまくろれつが回らない状態でした。
坂上さんは、入院1週間後からリハビリを開始しました。最初は、タオルの上に置いた大豆を箱の中に移すことさえうまくできない状態でした。
「何で自分がこうなってしまったのか。脳の病気だけに『オー、ノー』ですよ(笑)。でも、リハビリをやらない限り良くならないでしょう。少しずつ克服していきました。
そのうちに、左手でドアを閉められるようになったり、シャツのボタンをとめられるようになったりね。普段だったら当たり前のことだけど、『あっ、できた!』という感じで、うれしかったね」
しかしそこまでの道筋は、決して楽なものではありませんでした。思い通りにならない自分の身体にイライラして、献身的に看護してくれた奥さんに不満をぶつけたり、2度と舞台には立てないのではと不安になったりすることが何度もあったといいます。
さらに坂上さんを苦しめたのは、病気で倒れたことをマスコミに発表せず「オフレコ」にしていたことでした。そのため入院中は、他の患者さんの目に触れて噂が立つことを防ぐため、病室にこもりきりの毎日でした。
「特にママ(坂上さんの奥さん)には、本当に苦労をかけました。家には、仕事の依頼の電話がかかってくるんだけれど『主人は、今仕事で地方にでかけています』などと言っていた。でも、だんだんそんな言い訳が通用しなくなって、電話が鳴らないように線を抜いてしまっていたようです」
■大きな目標があったから
思い通りにならない自分の身体にイライラしながらも、それでも、坂上さんがねばり強くリハビリを続けたのは、もう一度舞台に立ちたい、テレビに出たいという強い願望をもっていたからでした。
特に、脳梗塞で倒れた翌年の6月に予定されていた、明治座でのコント55号がメインの1ヶ月公演になんとしても出演することが、大きな目標になったのです。
「自宅に戻ってしばらくしてから、リハビリの先生に来てもらうことになりました。その先生が『坂上さんにとって舞台が最高のリハビリ。絶対6月の舞台に出て下さいね』と言ってくれました。
この言葉は、ありがたかったですね。たしかに、舞台に出るという目標がなかったら、きっとここまで回復するのは難しかったでしょうね」
坂上さんは、先生の「身体を動かすだけでなく発声の練習もした方がいい」というアドバイス通りに、発声練習も始めました。病気で倒れる前は、自慢の歌声を舞台で披露していた坂上さんが、ピアノの伴奏に合わせて「あいうえおあお」「かきくけこかこ」といった基本的な発声練習を繰り返しました。その他にも「生麦、生米、生卵」などの早口言葉も練習しました。
取材当日も、練習を重ねてきた早口言葉を実際に披露してくれましたが、真似できないほどのスピードで、その上なめらかな発声には、後遺症は全く感じられませんでした。
それでも、「今でも左側が少ししびれた感じで、歌っていてもなんとなく気持が悪い。まだ納得していません」と話してくれた坂上さん。これだけのこだわりがあるからこそ、専門家が驚いたほどの回復が可能になったのでしょう。
「6月の舞台について、欽ちゃん(萩本欽一さん)から『車いすでもいいから出てほしい』と言われました。この一言は効きましたね。だって、それじゃあ喜劇が悲劇になっちゃうでしょう。『よーし、絶対治してやる!』ってね(笑)。今から思うと、あれは欽ちゃん流の励ましだったんですね。もしも、あの時『二郎さん、無理しなくてもいいよ』なんて言われていたら、その言葉に甘えて、本当に舞台に復帰できなかったかもしれません」
その他にも、昭和9年会の仲間の一人、牧伸二さんからの励ましも、坂上さんの心を奮い立たせてくれました。それは、牧さん直筆の「心に太陽を」という書でした。
「病室で最初に見たときに、『そうだ、心に太陽だよな』と。『心をサンサンと輝かせて、がんばらなきゃ』と思いました。何か、病が身体からスッと消えていくような感じがしましたね。それからは、辛いことがあるとその書を見ながら『がんばれよ。くじけるなよ』と自分自身を励ましてきました」
■舞台がリハビリの場になった!
6月の舞台に立つという目標に向かって努力を続けた坂上さん。そのかいもあって、身体や声の状態はどんどん回復していきました。
しかし日常生活と違い、舞台の上ではかなりの体力や集中力が必要です。実際、舞台のリハーサルでは、せりふを忘れてしまう、ろれつがうまく回らない、動きが悪いといった状態が本番前日まで続きました。
不安を抱えたまま舞台初日を迎えた坂上さんは、自分の出番を待ちながら、舞台の上で本当に声が出るのか、ろれつが回るのか、気が気でなかったといいます。
「ついに自分の出番になりました。持っていた扇子で顔を隠しながら、欽ちゃんがいる舞台の中央に出て行きました。扇子をはずしたとたん客席がどよめいて、『二郎さんがんばって!』と声がかかった。
そこですかさず、『みなさんご心配をかけました。この通り元気になりました。最後まで、よろしくお願いします』とあいさつしたんです。『ちゃんとしゃべれた!』『昔の自分に戻れた!』という感動で、それまでの緊張がとれて、うそのように身体が軽くなりました」
舞台に立った坂上さんは、せりふを口にしながら、舞台上を動き回りながら、歌いながら以前の感覚を取り戻していきました。まさに、舞台が最高のリハビリの場となったのです。こうして無事迎えた千秋楽の舞台終了後のあいさつでは、
「熱いものがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれました。欽ちゃんはぼくの肩を抱いて『二郎さんが泣くなんてめずらしいね。誰かハンカチ持ってないの?』と声をかけてくれて…。共演者のみなさんも、お客様も一緒に泣いてくれました。
欽ちゃんには、ずいぶん迷惑をかけたけど、本当に我慢強くつきあってくれました。いくら感謝しても、感謝しきれない気持でした。同時に、1ヶ月間よくがんばったなぁという思いと、これで終わったという安堵の気持がこみ上げてきて、あの時ばかりは涙を止めることができませんでした」
■「ありがとう」に秘められた思い
「ぼくは本当にラッキーでした。脳梗塞で倒れたときも、その場に友人のお医者さんがいたし、家族や友人の励ましのおかげで奇跡的に舞台に戻ってこられました。また、実際に舞台に立って、お客様からエネルギーをもらったからこそ、ここまで回復できたのだと思っています」
現在、坂上さんのマネージャを務めている長男の大樹(だいき)さんは、「病気になってから、父は家族に対して優しくなりましたね。何かにつけて『ありがとう』と口にするようになったし、涙もろくなりました」と話してくれました。
「涙もろくなったのは、人生が終わりに近づいたせいかもしれませんねぇ(笑)。『ありがとう』という言葉も、あんまり使いすぎると『もう、長くないんじゃないかな』なんて思うことがあるんですよ」
笑いながら、そう話してくれた坂上さんは、リハビリ中は、どんなに苦しいことがあっても「男のくせに泣いたらダメだ」と自分自身に言い聞かせ、決して涙を流さなかったといいます。
もちろん、その強さが辛いリハビリを乗り越える原動力になったのでしょうが、家族に『ありがとう』と声をかけ、涙を見せる坂上さんも魅力的だと感じました。
今後、坂上さんが芸能界でも新たな一面を発揮され、これまでとはひと味違った活躍をされるのではないか。そんなことを感じました。(「私のおばあちゃんの智恵袋」>より。
http://www.chiebukuro-net.com/obchi/interv/interview11.htm 2010・2・25