渡部 亮次郎
先日、東京在住の県立秋田高校同期会の会合があり、懐かしい秋田沖の真鱈の「じゃっぱ」汁と大根の「鉈漬け」が供された。しかし、「鉈漬け」は甘すぎて食べられなかった。
「鉈漬け」とは生の大根を刃の粗い鉈で細かく切り、麹と塩で漬け込む素朴な漬物である鉈での切り口がざらざらして塩のしみ方が早いから鉈で切る。。麹を使うから、気温に高い東京では、漬けても、塩が大根にしみる前に発酵してしまうから「鉈漬け」は東京では出来ない。
それで、地元に残っている友人が態々、秋田市で漬けて東京まで持参してくれた「鉈漬け」だったのだけれど、何故、甘すぎたのだろうか。
態々背負って来てくれた友人には悪いが、甘味を出す為の麹に加えて砂糖を追加したのではないだろうか。麹の甘さと砂糖の甘さは明らかに異質のものだから、粗末な私の味覚でも、分かる。
実を言えば、対米戦争をしていた1941年から1945年までの5年間、砂糖を一切、絶たれて生きた身だから、麹の甘味と砂糖の甘味は本能的に峻別するのである。
日本に「砂糖」を伝えたのは中国人の鑑真であるとされている。その後、明治維新になって沖縄で砂糖キビから砂糖を作るようになった。現在では北海道での砂糖大根(ビート)から作る砂糖も多くなっている。
ところが昭和16(1941)年から20(1945)年までの大東亜戦争中は砂糖が一切、輸入できなかったから、日本中から砂糖が消えた。このころ少年時代を過ごした私は、砂糖を知らずに育った。「おやつ」も知らなかった。
日本との併合中の朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)では、1910年の併合と同時に砂糖を味わえなくなった、と言う説がある。韓国に初めて渡った際、朴政権の閣僚が私に語った。
「日本では、朝鮮焼肉は韓国が始まりなどと言っているけど、違うよ。大阪の韓国人で始めた人がいたらしいけど、元々は朝鮮半島にやって来た日本人たちが始めたものですよ。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べるなんて我々は出来なかった。
なにしろ、日本人たちは朝鮮人には砂糖を食べさせるな、を唱えていましたからね」
日本における砂糖の歴史を見ると明らかなように、砂糖は極めて高価な貴重品。だから農民特に低所得の小作人階級は砂糖を知らずに暮らした。「甘しょっぱい」と言う味覚は小作人のものではなかった筈だ。
敗戦直後、日本は想像を絶する食糧危機に陥った。天候不順と肥料不足で稲作が振るわなかったところへ、海外からの引揚者急増が重なったためである。
このため、政府は米作農家の家宅捜索を実施して隠匿米穀を「収奪」した。その時に「エサ」とされたのが白砂糖だった。政府がどういう調達の仕方をしたのかは知らないが、パイナップルの缶詰や「鮭缶」も「エサ」として配られた。
戦後、砂糖は農村でも大量に消費されるようになった。秋田では名物の漬物に砂糖の入っていることがある。聞くと、漬物をお茶請けにしているから、甘い方が好まれるのだという。その延長上で鉈漬けにも砂糖?
また、都内の弁当屋さんに聞くと、砂糖は防腐作用もあるため、市販の弁当には多用されるようになっているという。
私は子供の頃、その砂糖を食べ過ぎて「心臓脚気」で死の寸前まで行ったことがある。
野球の疲れを急速に回復させる為、白砂糖を大量になめたら、ある日、グラウンドで意識を失った。担ぎ込まれた病院での説明。「砂糖を消化するには大量のビタミンB1が必要。度を超して砂糖を舐めるとビタミンB1欠乏症=脚気」になること必定。脚気が進んで心臓を狙うのを「心臓脚気」といった。
日露戦争のとき、兵士は戦う前に心臓脚気で大量死した。彼らのは白米の食べすぎによるビタミンB1欠乏症だったが、陸軍軍医総監森 林太郎(?外)はその知識無く、「栄養不良説」を唱える海軍軍医総監高木兼寛(慈恵医大創設者)を「非難」して明治天皇から嫌われた。2010・2・8