2007年01月31日

◆色をつける生き方


        渡部亮次郎

アメリカ人は知らない人に挨拶するが、われわれ日本人がそうしたら変人といわれる。知っている人にしか挨拶しない。だが同じアパートでエレベーターに乗り合わせたのは隣人だから挨拶する。だが若い人で挨拶を返す人は殆どいない。びっくりしているのだ。

中国の公衆トイレの汚さ。この世のものとは思えない。折角の水洗なのに使用者は流していかない。次に入ったひとは「なんで私が流さなけりゃいけないのよ」と流さない。次つぎにそうだからどうにもならなくなる。自己主張ばかりで、他人を思い遣るということの無い社会である。

そのくせ中国人の挨拶は「朝ごはん、食べましたか」である。食べていなければ食べさしてくれるのかといえば、そうではない。京都の「ぶぶ」と同じ。恰好付けの思いやり。何のことはない。

「色を付ける」に意味は広辞苑に出ている。「物事の扱いに情を加える。売値を安くする、祝儀を出す、景品をそろえるなどという」。昔は日常のすべてに「色を付けて」いた。中国人にはこれが元から無い。

経済の規制緩和とは「色を付ける」ことを止めることである。すべて自由に運営するが、その代わり余裕を削る。タクシーの規制緩和をやれば、台数は無限の如くに増えるが、客の奪い合いによる経営悪化に政府は責任を持たない。

色を付ける時代はストライキにも色が着いていた。職場放棄をするとき、復帰の時に困らないよう、周囲に気配りをしてから放棄したものだ。今の時代はそんなことはない。権利、権利でボウフラが沸く。

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2007年01月28日

◆ハンケチはどこへ行った

                         渡部亮次郎

昭和29(1954)年の流行歌に岡本敦郎(あつお)の歌う「高原列車は行く」
というのがあるが、ここで歌はいきなり「汽車の窓からハンケチ振れば
・・・」と歌っているもんだから、いまどきの人から「なんでハンカチ
をハンケチと歌うんだ」という疑問が呈せられている。

私は、これは日本人にいかに英語が影響しているかの社会現象だと思う。
戦前生まれの日本人はハンカチなんか知らないし、仮に知っている人で
も、これがハンカチーフという英語の略だとは知らなかった。

ただ高原列車の歌より4年も前の昭和24年に二葉あき子が歌ったのは
「水色のハンカチ」となっている。藤浦は長崎県平戸、丘は福島県の生
まれ。「ケ」か「カ」か、出身地の違いからではなさそうだ。

なるほど、なんでも取り上げて解説してみせるフリー百科事典『ウイキ
ペディア』は「ハンカチ」を取り上げ、ハンカチ王子も取り上げている。

<ハンカチとは、ハンカチーフの省略形。ハンケチと称されることもあ
る。手を拭く、汗を拭う等に使う、通常は四辺を一にする正方形の布。
欧米では鼻をかむことに使われている>。

これではなぜ「ケ」ができたかがわからない。広辞苑は「ハンカチに同
じのそっけない。ただ、1936年生まれの私は少年時代はハンカチを持と
うにも戦争中の物資不足のため生産されておらず、言葉すら知らないで
育った。

野球をやるときはベンチのタオルで拭いたし、高校に入ってからは日本
手拭を小さく畳んで腰にぶら下げているのが普通だった。その昔、旧制
の高等学校の生徒は、その手拭が常に汚く「醤油で煮染めたような」と
表現された、とものの本で読んだ。

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2007年01月26日

◆中国でテロ未遂事件

                           渡部亮次郎

航空自衛隊OBの軍事評論家佐藤守さんのブログによると、昨年5月、中国海軍が過った振りを装って胡錦濤国家主席の乗ったミサイル駆逐艦に砲弾を撃ち込んだ、という。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070124

砲弾は胡主席二命中せず、調査の結果は過ちとして処理されたというが、佐藤氏は「過ちに、見せかけた明らかなテロ未遂事件だった」と談じている。

佐藤さんのプロフィール。防衛大航空工学科卒(第7期)。航空自衛隊に入隊。戦闘機パイロット(総飛行時間3800時間)。外務省国連局軍縮室に出向。三沢・松島基地司令、南西航空混成団司令(沖縄)。平成9年退官。軍事評論家。

「軍事評論家佐藤守のブログ」の2007-01-24号は 中国の「テロ未遂事件」として次のように紹介している。

<昨日、私は胡錦濤主席と江沢民前主席間の闘争が激化していて、ついに昨年5月に「暗殺行為」があり失敗したとこのブログに書いたが、夜帰宅すると、FAXが入っていてその根拠になる文が送られてきていた。

さらに不思議なことに、送られてきた「月刊日本」誌にも詳細な記事が出ていた。「謎の死を遂げた海軍司令」と言うタイトルの「月刊中国主幹・鳴霞」氏の文で、ほぼ私と同一の内容だったが、FAXの方は「ニューリーダー」誌の記事で「テロ未遂事件を逆用した胡錦濤主席」と言うタイトルであった。双方の内容は若干異なっていたが、5月1日に「事件」があったことは事実だったと思われる。

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2007年01月22日

◆平沼ショックに考える



                  渡部亮次郎 (2007.01.20)

毎日新聞の岩見隆夫さんが1月20日のコラム「近聞遠見」で「平沼ショックを考える」と題して書いている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/
及び毎日新聞 2007年1月20日 東京朝刊

<終戦の日の早朝、養父、平沼騏一郎元首相の邸が、終戦に不満を抱く一部将校に襲撃され、6歳の平沼は胸元に拳銃を突きつけられた。

「兵士が指にちょっと力を込めていれば、いま私はこの世に存在していない。政治家になっても、あの朝の情景をふと思い出すことがある」と「新国家論」にも書いている。そんな戦争体験を持つリーダーは貴重だ。早々の復帰を願っている。>と結んでいる。

この中で岩見さんはまた、

<とにかく、平沼ショックである。現職議員で病に倒れるのはつらい。引退後ならまだしも、バッジをつけたままの入院だ。戦後、首相在職中に倒れたのは、石橋湛山、池田勇人、大平正芳、小渕恵三の4人、いずれも総辞職せざるをえなかった。

中でも痛々しかったのは大平で、激しい政争のすえ、選挙演説中に不調を訴え、心筋梗塞で入院から2週間後、70歳で死去した(80年6月12日)。解剖の結果、医師団は「動脈は50代か60代前半の若さだった。

想像を超える精神的ストレスがかかったのだろう」と所見を発表した。政治家のストレスが並でないことを思わせる。>とも書いているが、これはちょっと注釈が要る。

大平さんのストレスは政敵で前任者の福田赳夫氏が加えたものではあるが、大平さん自身、実は若い頃から糖尿病を患っていながら、医者の指示を一切守らなかったため、心筋梗塞を自ら招き寄せたようなものだったのだ。たしか小渕さんも同病だったように聞いている。死因は脳梗塞。コレステロールの破片が脳を塞げば脳梗塞、心臓を塞げば心筋梗塞。

実は田中角栄氏は脳梗塞が原因で死亡したが、有名なバセドウ病(心身機能亢進症)のほかに重篤な糖尿病を抱えていた。スキャンダルのため退陣した後、直接聴いたところでは、退陣直前の血糖値は200以上もあった。それにも拘わらず、以後もオールドパーを煽り続けたのだから、医学的には脳梗塞にならない方がおかしかったのだ。

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2007年01月21日

◆失敗の無い成功は怪しい

渡部亮次郎

政界でも産業界でも人々に貫禄が無くなった、と言われる。なぜか。幸せの中で貫禄のある人間は育たないからである。

少なくとも日本では食うに困らなくなった1970年代以降はどの分野でも貫禄をつけようにも付けられなかった。だからといって失望してはいけない。これからも貫禄は覚悟如何によっては付けられる。

日本は1970(昭和45)年ごろまではどの分野にも貫禄のある人がいた。明治生まれで戦争を体験していた。大正生まれか昭和の初め生まれは、実際に銃で敵を撃った代議士や社長がごろごろいた。

昔の戦争は銃撃戦である。ミサイルを暗闇に撃つのではない。敵の姿を肉眼で捉え、敵意をこめて狙い撃ちしたのである。だから敵からも狙い撃ちされる恐怖に晒された。それを生き延びた人たちが各分野で先頭に立っていた。

何回も死というものを覚悟して戦って来た人たちだったから、ちっとやそっとのことではビクつかなかった。田中角栄などは加えて監獄も体験済みだったから、なお更だった。

私が秘書官として仕えた園田直と言う人なんか、まず陸軍に志願して入る。長男なのに長男は採用しない(事故死の危険大だから)という日本陸軍第一期落下傘部隊に志願、最後は特別攻撃隊(特攻隊)に志願。

しかし出動待ちのまま敗戦となって生き延びた。「以後の人生はお釣り」といって恐怖を感じるものはない風だった。落選を恐れなかったが落選は初めの一回きりだった。食道癌と宣告された帰りも車の中でグーグーだった(すぐ誤診とわかったが)。

銃を持たない人、例えば中曽根康弘、後藤田正晴といった人たちも軍艦に乗り主計将校として命を的に晒した経験がある。竹下も国内ながら戦火を体験した。

軍隊経験の無い総理大臣は宮沢喜一からである。細川、羽田、橋本、小渕、森、小泉、安倍もちろん軍隊経験はない。

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2007年01月19日

◆友と語らん鈴懸の径


                渡部亮次郎<メルマガ(頂門の一針 主宰)>

標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

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2007年01月17日

◆ゼネコンは中東を目指す

                     渡部亮次郎

中東に初めて足を踏み入れたのは1978(昭和53)年の1月だった。前年の11月に福田赳夫内閣の外務大臣秘書官に任命され、園田直外務大臣の初外遊、厳寒モスクワでの日ソ外相定期協議に随行。帰国翌日に今度は灼熱の中東へ飛び立ったのだった。

イラン、クエートのあとアラブ首長国連邦。冬でありながら摂氏40度近い。青空が澄みすぎて目を開けてはいられない。止むを得ず下を向くのだが、砂ですら眩しいのだ。車のボンネットにタマゴを割ったら目玉焼きのできること確実だった。

そういう中、日本から石油を掘りに来ているアブダビ石油の現場を訪問して社員たちの悩みを聞いた。酒の呑めない国だから時々パリに出かけるのが待ち遠しいとのことだった。

とにかく眩しい。移動中、警備兵が護衛してくれるのだが、兵士の全員が近隣国からの傭兵。「連中が謀反を起こしたら、こっちはひとたまりもないな」と大臣が呟いたので、一瞬、身の毛がよだったことを思い出した。

そのアラブ首長国連邦(UAE)へ公共事業から締め出された日本の大手ゼネコンが大挙して押しかけている、というニュースを読売新聞で読んだ(2007.01.15)。アブダビ石油の苦しみを今やゼネコンが被っているのだ。

産業としては石油産出しかなかったアラブ首長国は、最近、観光に力を入れ始め、鉄道、高級住宅、超高層オフィスビルの建設を日本のゼネコンが請け負っている。

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2007年01月16日

◆日本の歌百選 決定

                          渡部亮次郎

文化庁は世代を超えて歌い継ぎたい歌として「日本の歌百選」を募集していたが、その選考結果を1月14日発表した(2007.01.15付け読売新聞)。選ばれたのは101曲。

赤とんぼ、しゃぼん玉、荒城の月、春の小川などの童謡、唱歌などのほか美空ひばりの「川の流れのように」、山口百恵の「秋桜(コスモス)」、SMAPの「世界に一つだけの花」、夏川リみらの歌う「涙(なだ)そうそう」など最近の曲も選ばれた。

日本の歌百選の発案者は河合隼雄文化庁長官(休職中)。少年犯罪の報道を見るたびに、世代間の断絶や人間関係の希薄化などを心配してのことという。

文化庁は楽譜付の冊子に纏め、学校現場などに配るらしい。以下に101曲を並べる(五十音順)。

仰げば尊し 赤い靴 赤とんぼ 朝はどこから あの町この町 あめふり 雨降りお月さん あめふりくまのこ

いい日旅立ち いつでも夢を 犬のおまわりさん 

上を向いて歩こう 海 うれしいひなまつり

江戸子守り歌

おうま 大きな栗の木の下で 大きな古時計 おかあさん お正月 おはなしゆびさん 朧(おぼろ)月夜 思い出のアルバム おもゃのチャチャチャ

かあさんの歌 風 肩たたき かもめの水兵さん からたちの花 川の流れのように 

汽車 汽車ポッポ 今日の日はさようなら

靴が鳴る 

こいのぼり 高校三年生 荒城の月 秋桜(コスモス) この道 こんにちは赤ちゃん 

さくら貝の歌 さくらさくら サッちゃん 里の秋

幸せなら手をたたこう 叱られて 四季の歌 時代 しゃぼん玉

ずいずいずっころばし スキー 

背くらべ 世界に一つだけの花

ぞうさん 早春賦

たきび

ちいさい秋みつけた 茶摘み チューリップ

月の沙漠(さばく) 翼をください 

手のひらを太陽に

通りゃんせ どこかで春が ドレミの歌 どんぐりころころ とんぼのめがね

ないしょ話 涙(なだ)そうそう 夏の思い出 夏は来ぬ 七つの子 

花(滝廉太郎作曲) 花(喜納昌吉作曲) 花の街 埴生(はにゅう)の宿 浜千鳥 浜辺の歌 春が来た 春の小川

ふじの山 冬景色 冬の星座 故郷(ふるさと) 

蛍の光

牧場の朝

見上げてごらん夜の星を みかんの花咲く丘 

虫のこえ むすんでひらいて 村祭 

めだかの学校 

もみじ

椰子(やし)の実 

夕日 夕やけこやけ 雪 揺篭(ゆりかご)の歌

旅愁 りんごの唄

われは海の子(以上)2007.01.15

2007年01月15日

◆ホスピスとモルヒネ

                          渡部亮次郎

必要があって、急にホスピスとモルヒネが、残念ながら急に身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということかも知れない。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

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2007年01月14日

◆故郷風味の継承者

                   渡部亮次郎

幼い頃の故郷の味がどんどん無くなって行く。秋田弁がテレビの普及でなくなっていっているように秋田で無ければ食べられなかった鉈漬(なたづけ)も砂糖漬けのようになってしまった。

TVの悪口をついでに言えば、TVの普及が真正「秋田音頭」をこの世から追放してしまった。時折、TVに登場する秋田音頭は替え歌に過ぎない。放送コードとやらが性を大らかに歌った真正秋田音頭を追放したのだ。いまや歌える人は殆ど居なくなった。

秋田といえば昔は美人の国。「山本富士子が田植えをしている」のが角館(かくのだて)だ」といわれて、なんだか照れくさくなったが、少子高齢化の先頭を走る秋田県には希望というものが感じられない。

固有の文化に気付かず、先祖から伝えられたものを守ろうとしない。そんなこととはつゆ知らず、秋田空港で鰰鮓(はたはたすし)を買って食べたところで仰天した。ほんのりとした飯鮓の甘味でなく、砂糖そのものの味になっているのである。

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2007年01月11日

◆出てきた三島対談録


                 渡部亮次郎

資料を整理していたら昔、珍しいことをしていたことを今更ながら発見した。園田直元外務大臣(故人)が自民党国対委員長当時、文豪三島由紀夫さん(故人)と対談していた。三島さんが自決する年の正月のことだった。

記事は園田さんの後援会の機関紙『インテルサット』(月刊)の昭和45(1970)年2月15日号に見開き2ページで載っている。これを企画したのはNHK政治記者当時の私。社会部の先輩記者伊達宗克(だてむねかつ)さんを通じて三島さんに依頼した。

伊達さんは既に三島さんとは面識はあったが、仲介してくれた新潮社出版部長の新田敞(にったひろし)さんの面子を考え、新田さんに改めて依頼した。

三島さんからは早速快諾を戴いたが、急に衆議院解散・総選挙となったため、園田氏が「文豪を選挙に利用したようなことになるから悪いが、延期してくれナベしゃん」となり、実現したのは昭和45年の正月明け早々。赤坂の料亭「岡田」の一室。岡田も今はない。

大東亜戦争で例の特攻隊生き残りの園田さんと、楯の会を結成し盛んに天皇を中心とする文化防衛論を展開している三島さんを会わせたらどんな話になるだろうかとの興味から発したことだったが、狙いは当ったのだった。

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2007年01月09日

◆書かないということ

                          渡部亮次郎

私が原稿を書くのは自身のメイルマガジン『頂門の一針』といくつかの月刊誌だけである。だから別に苦痛を感じることはないが、ネタが無くなったらどうしようと考えることはある。

ネタが無くなったら書くのを止めればいいだけの話、悩むことは無い。しかし幸いにもネタの涸れたことは1度も無い。涸れたかなと思えるときでも、何かが浮かんでくる。

しかし、先輩の一人が「筆が荒れるよ」と忠告してくれた。既に荒れているからだろう。そこで2007年に入ると同時にメルマガの配信を隔日にして見た。納得。

なるほど、せかされているわけじゃないから、物事をじっくり考える余裕が出てくる。ならば「荒れ」が治るまでメルマガの配信は不定期にしよう、気の向いたときに出すようにしよう、と考えている。

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2007年01月07日

◆楽聖ベートーヴェン

                   渡部亮次郎

日本で一番好まれているクラシック音楽の作曲家は誰か。モーツアルト
かと思ったらベートーヴェンだそうだ。西ドイツ時代の首都ボンにある
彼の生家を訪ねたことがあるが、折悪しく休館日だった。

2006年の歳末近く、NHKの大先輩が87歳で逝去された。東大を出て徴兵さ
れ、敗戦時には南方でアメリカ軍の捕虜となった。復員後NHKに事務員と
して入り、間もなく記者第1期生としてニュースの自主取材を開始した。

定年後、夫人に先立たれ、再婚。北軽井沢に隠棲するように暮されてい
たが一昨年、脳梗塞を発症。リハビリの途中、昨年(2006年)再発、とう
とう11月に新宿の病院で逝去となった。

亡くなる1か月ぐらい前、自宅に電話を戴いた。昭和33〜34年ごろ、NHK
仙台放送局報道課長当時の部下が懐かしがって集まる会に、今年も来れ
ないという電話だったようだが、残念ながら口の縺れは聞き取れなかっ
た。

東京・杉並区で営まれた葬儀は無宗教。沢山の花に飾られた祭壇にカラー
の遺影が置かれた以外、何もなし。30分ぐらい故人の好きだったベートー
ヴェンの曲で故人をしのんでください、とのことだったが、私にははじ
めての曲で、曲名の説明まではなかった。

私は老人になるまでベートーヴェンは聴かなかったが、昔の青年たちは
競って聴いたものらしい。右の大先輩は1分間78回転のSP(無ステレオ)で、
せわしなく交換しながらベートーヴェンを聴いたことだろう。

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