2010年02月11日

◆小作人と朝鮮人に砂糖不要

渡部 亮次郎

先日、東京在住の県立秋田高校同期会の会合があり、懐かしい秋田沖の真鱈の「じゃっぱ」汁と大根の「鉈漬け」が供された。しかし、「鉈漬け」は甘すぎて食べられなかった。

「鉈漬け」とは生の大根を刃の粗い鉈で細かく切り、麹と塩で漬け込む素朴な漬物である鉈での切り口がざらざらして塩のしみ方が早いから鉈で切る。。麹を使うから、気温に高い東京では、漬けても、塩が大根にしみる前に発酵してしまうから「鉈漬け」は東京では出来ない。

それで、地元に残っている友人が態々、秋田市で漬けて東京まで持参してくれた「鉈漬け」だったのだけれど、何故、甘すぎたのだろうか。

態々背負って来てくれた友人には悪いが、甘味を出す為の麹に加えて砂糖を追加したのではないだろうか。麹の甘さと砂糖の甘さは明らかに異質のものだから、粗末な私の味覚でも、分かる。

実を言えば、対米戦争をしていた1941年から1945年までの5年間、砂糖を一切、絶たれて生きた身だから、麹の甘味と砂糖の甘味は本能的に峻別するのである。

日本に「砂糖」を伝えたのは中国人の鑑真であるとされている。その後、明治維新になって沖縄で砂糖キビから砂糖を作るようになった。現在では北海道での砂糖大根(ビート)から作る砂糖も多くなっている。

ところが昭和16(1941)年から20(1945)年までの大東亜戦争中は砂糖が一切、輸入できなかったから、日本中から砂糖が消えた。このころ少年時代を過ごした私は、砂糖を知らずに育った。「おやつ」も知らなかった。

日本との併合中の朝鮮(現在の韓国と北朝鮮)では、1910年の併合と同時に砂糖を味わえなくなった、と言う説がある。韓国に初めて渡った際、朴政権の閣僚が私に語った。

「日本では、朝鮮焼肉は韓国が始まりなどと言っているけど、違うよ。大阪の韓国人で始めた人がいたらしいけど、元々は朝鮮半島にやって来た日本人たちが始めたものですよ。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べるなんて我々は出来なかった。

なにしろ、日本人たちは朝鮮人には砂糖を食べさせるな、を唱えていましたからね」

日本における砂糖の歴史を見ると明らかなように、砂糖は極めて高価な貴重品。だから農民特に低所得の小作人階級は砂糖を知らずに暮らした。「甘しょっぱい」と言う味覚は小作人のものではなかった筈だ。

敗戦直後、日本は想像を絶する食糧危機に陥った。天候不順と肥料不足で稲作が振るわなかったところへ、海外からの引揚者急増が重なったためである。

このため、政府は米作農家の家宅捜索を実施して隠匿米穀を「収奪」した。その時に「エサ」とされたのが白砂糖だった。政府がどういう調達の仕方をしたのかは知らないが、パイナップルの缶詰や「鮭缶」も「エサ」として配られた。

戦後、砂糖は農村でも大量に消費されるようになった。秋田では名物の漬物に砂糖の入っていることがある。聞くと、漬物をお茶請けにしているから、甘い方が好まれるのだという。その延長上で鉈漬けにも砂糖?

また、都内の弁当屋さんに聞くと、砂糖は防腐作用もあるため、市販の弁当には多用されるようになっているという。

私は子供の頃、その砂糖を食べ過ぎて「心臓脚気」で死の寸前まで行ったことがある。

野球の疲れを急速に回復させる為、白砂糖を大量になめたら、ある日、グラウンドで意識を失った。担ぎ込まれた病院での説明。「砂糖を消化するには大量のビタミンB1が必要。度を超して砂糖を舐めるとビタミンB1欠乏症=脚気」になること必定。脚気が進んで心臓を狙うのを「心臓脚気」といった。

日露戦争のとき、兵士は戦う前に心臓脚気で大量死した。彼らのは白米の食べすぎによるビタミンB1欠乏症だったが、陸軍軍医総監森 林太郎(?外)はその知識無く、「栄養不良説」を唱える海軍軍医総監高木兼寛(慈恵医大創設者)を「非難」して明治天皇から嫌われた。2010・2・8

2010年02月09日

◆白河以北一山百文

渡部亮次郎

「しらかわ以北 ひとやま ひゃくもん」。日本人の東北に対する侮蔑意識はここから始まったのではないか。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に勝者となった薩長中心の官軍・新政府勢力が、 朝敵となり敗者となった東北諸藩を嘲弄するためのスローガンだった。

戊辰戦争(慶応4年/明治元年 ―明治2年(1868年 ―1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、親江戸幕府勢力(佐幕派)を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められた。(『ウィキペディア』

「白河以北一山百文」とは、 「東北なんぞは山一つでも百文しか価値がない、という意味。 現に明治政府は東北、新潟を、嘲弄、侮蔑を根底に持った国づくりをした。

東北新幹線で東北へ向かえばはっきりする事だが、福島県の白河で天気ががらりと変わる。それまで関東並みに快晴だった空が、突然曇天になる。さらに進むと雨になったりする。

逆に上りに乗ると、陰鬱な曇天が白河辺りから、快晴になって気持ちまで明るくなる。当に白河は関東と東北の分岐点に違いない。このように東北は気象条件にまで恵まれていない。

平民宰相といわれた日本で最初の政党内閣の首相、原敬(はら たかし)は南部藩の士で盛岡の人だ。

東北戊辰戦争の際、生保内口から始まり、鹿角口、大館、能代など、
秋田藩深くまで斬り込んだ南部軍。それを率いた家老楢山佐渡が
薩長に屈服して盛岡の報恩寺で切腹したとき、14歳の原敬は人目もはばからず寺の塀沿いを「満眼に悲涙をたたえて歩いた」というエピソードが残っている。 このときの原の反骨が東北人なのである。

戊辰後の人生は藩閥への挑戦に貫かれた人生だった。 彼の悲願は東北に対して「白河以北一山百文」などという薩長主体の藩閥政治を打倒し、政党による政治体制をつくること。 その彼の雅号が「一山(ichizan)」である。

原敬首相が、1921年に凶弾に倒れたときに、地元、盛岡の新聞が「明治維新以来、一山百文と称され屈辱を忍んできた東北が、原の政界雄飛によって名誉を挽回できた」と記した。

日本が1960年代、急激な経済の高度成長を達成したとき、気象条件の良くない、東北の日本海岸には、碌な工場進出は無く、役立ったと見られたのは中学生、高校生の「集団就職」に代表される「若年新鮮労働力」の供給だけだった。

今、東北の農村には過疎と老齢者しか残っていない。老人は集団就職した子供のところへ身を寄せ、なれぬ都会で「群集の孤独」に身を横たえている。

池田勇人内閣の「月給倍増」政策も、東北を素通りして現在に至る。
これに叛旗を翻したのは新潟出身の政治家田中角栄だった。

彼は日本アルプスが阻んで雪を大量に日本海側に置き去りにし、貧困を助長することを考えれば日本アルプスを削除してしまえと、叫んだ。日本列島「改造」の意味だった。

河合ブルドーザーの河合良成もそういった。しかし、東北選出の国会議員が挙って角栄を支持したかというと、そうではなかった。角栄氏の戦略、戦術が、自民党総裁の椅子獲得最優先で、東北開発の戦略が見えなかったのである。

彼に優れた政治哲学があれば、角栄こそは「第二の原 敬」になり得た。角栄の弟子を自称する小澤一郎氏は、角栄にはあった東北への愛情が無い。岩手を東北をゼニゲバの舞台にしている、ただの「利権」代議士に過ぎない。

そういえば原は「去る者は追うべし」といい人材を集める事に腐心したが小澤氏は「去る者は追わず」だからブレインはおらず、ゴマすりばかりである。2010・2・6

2010年02月07日

◆陸山は何処から来たか

渡部亮次郎

◆<本稿は、本日の全国版メルマガ「頂門の一針」(1810号)に掲載されています。同誌には、小澤幹事長に関する著名評論家の卓見が多数掲載されています。購読(無料)御希望の方は、下記のホームページから手続きしてご拝読下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

(渡部亮次郎氏の本文)

小澤さんの政治資金団体の名前が「陸山会」だという。「多分」これ小澤一郎の「雅号」だろう。雅号を「越山」といったのは師匠田中角栄。田中の親分佐藤栄作は「周山」と号した。派閥名が周山会だった。

「素准」は吉田茂の雅号。シゲル・ヨシダの頭文字SYを漢字で書いたというわけ。明治の人、吉田ワンマンらしい洒落だ。

吉田茂とは比ぶべくも無い小澤一郎氏が、雅号を名乗ったのは角栄氏の越山に倣ったものだろうが、選挙区岩手県の三陸(陸前、陸中、陸奥)の山々を陸山と統一呼称し自らの雅号としたのだという説がある。

雅号(がごう)は、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のことである。わが国の場合、政治家は花押と雅号を持って初めて一人前とされる。特に花押は閣議での署名に使用するものだから、花押を持っている事は入閣済みを意味するから大事だ。

雅号の風習は中国から伝わった。特に、俳人であれば俳号、吟詠家であれば吟号などともいう。

江戸時代までは、個人の名前は姓と諱(いみな)、名字と通称、さらには字など、複数の名前を一人が持つことが認められてきた。しかし、明治時代になると氏名が戸籍に記録され、それ以外の名前を持つことは禁じられた。

これに反発する形で、「雅号」が当時の知識人にもてはやされる。明治初期の文人に夏目漱石や森鴎外のような雅号を使用している者が多いのはそのためである。

雅号は知識人以外にももてはやされ、軍人や商人などおよそ文化とは関係ない者まで使用する流行となった。

これが逆に知識人の反発を招き、堺利彦のように「『枯川』といふ号は使用しません」と雅号の使用をやめるものが増え、大正期には雅号の流行は終わり、一部の使用にとどまっている。

字よりも雅号でもっぱら知られる人物

素行:山鹿素行で知られる 山鹿義矩。
白石:新井白石で知られる 新井勘解由君美。
松陰:吉田松陰で知られる 吉田寅次郎矩方。
海舟:勝海舟で知られる 勝安房守義邦 / 勝安芳。
漱石:夏目漱石で知られる 夏目金之助。
鴎外:森鴎外で知られる 森林太郎。
哲山:田村哲山で知られる 田村哲夫。

雅号で呼ばれることもある人物

南洲:西郷隆盛 (南洲神社で有名)
甲東:大久保利通
松菊:木戸孝允
東行:高杉晋作
世外:井上馨
木堂:犬養毅
顎堂:尾崎行雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2010・2・5

■2月7日(日)発刊・1810号「頂門の一針」
<目次>
・陸山は何処から来たか:渡部亮次郎
・勝って小沢のやりたい放題:山堂コラム 304
・政治家がうさん臭い:岩見隆夫
・小沢氏不起訴―幹事長留任の「怪」:花岡信昭
・翻訳者・相原真理子さんの死:馬場伯明

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記
         (以上)

2010年02月06日

◆政治評論家はゼニゲバ

渡部亮次郎

テレビに出てくる「政治評論家」には気をつけたほうがいい。誰とは言えない(名誉毀損で訴えられる恐れがある)が、例えば、小澤塾で講演するたびに、なんと50万円から少なくとも30万円の謝礼を受けているらしい。

庶民なら、これは「月収」であろう。謝礼を受け取った後、出演する翌日のテレビのワイド・ショウで小澤氏の悪口をいうだろうか。言ったら、来月から50万円を失う。誰が小澤の悪口を言うものですか。「これがマスコミの実態ですよ」。

講演1回で50万円。私も受けたことがあります。幸い、テレビに出てゴマをする必要は無かったのですが、あったらやったか否か自信がない。「小澤はカネになる」と分かって小沢氏の悪口を言う人は稀では無いだろうか。

政治記者を退職した後、政治評論家を名乗って仕事をするには(1)取材を続ける(2)雑誌に執筆し、原稿料を得る (3)テレビやラジオに出演してギャラを得る (4)講演会に呼ばれて講演料を得る、などがある。

こうした状況を政治家の側から見ると、政治資金の使途では、派閥や研究会に呼んだ政治評論家には1時間程度で30万円から50万円が支払われている。総務省への届けにある。

テレビの出演料は1時間でもその半分か3分の1だが、いわゆる「顔」を知ってもらって、講演会などに呼んでもらうにはテレビに出るのが最高の「宣伝」。そこでどうしても、放送局に何回も呼んでもらえるよう、司会者の意向に沿った受け答えをするようになるのは当然である。

雑誌に原稿を書くのも宣伝だが、原稿を執筆する手間の割合には原稿料は安い。どうしてもテレビが手っ取り早いし、労力の割合にはギャラは高い。これを「公正」「公平」と思わされる庶民こそ迷惑ではないか」。

まして各党の派閥研修会や研究会に呼ばれるようになると、再度招いてもらうには耳障りな事は言えない。ゴマをすると馬鹿にされるが、ついお追従めいた事しか言えない、という。これが「人情」だろう。

政治記者もやったし、大臣秘書官も経験しても、政治評論でメシを食うことをついぞ考えなかったのには、こうした裏側を知りすぎていたからでもある。

特に政治記者(国会記者)バッジを失った人間が、国会や役所にフリーパスで出入りする事はできなくなるから大変だ。勿論、記者クラブにも所属できぬ身とあっては記者会見も聞けない。

自然、様々な伝手を求めて現役の若い記者たちにすがって断片的な情報を得ようとする。後輩は陰で軽蔑する。

外務大臣や厚生大臣の秘書官時代は、こうした政治記者から大臣への単独取材の捌きに時間と労力を少なからず費やしたものだ。

断るのは簡単で、大臣は喜ぶが、間に立つ身にしてみれば、すげなく断れば大臣の評判にかかわる。またつい以前まで取材する側にいた立場とすれば相手に同情もしてしまうのだった。

評論家にしてみれば、大臣に会わなければ噺にならないから、時によっては、料亭に一席を設けて大臣を接待するという時もある。大臣の交際費が豊かなときは、逆に大臣が接待する時もある。

そうした舞台裏のすべてを知った私の特徴は、政治評論家の出てくるテレビ番組を一切見ないことである。2010・2・4


2010年02月04日

◆鼻濁音を唄えぬ歌手

渡部 亮次郎

歌謡界の泰斗 谷村 新司(たにむら しんじ)は、東北人の私にとっては、異邦人である。鼻濁音が出ない歌い手なのだ。京都育ちの都はるみもそう。東京弁は基本的に鼻濁音で成り立っている。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。表記の上では濁音同様濁点を以て示されるのが普通であるが、専門分野では鼻濁音であることを強調する。

NHKの「アクセント事典」では「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書いてある。

標準の日本語(仮にNHKアナウンサーが訓練を受ける発音をそれとする)では、が行(か行の濁音)、すなわち、が、ぎ、ぐ、げ、ごに見られる(そのためが行鼻音とも呼ばれる)。

基本的には、助詞の「が」すべてと、が行音が文節の頭以外に来たときに鼻濁音化する。例外とし例えば「日本銀行」なでは濁音となる。

谷村新司 作詞/作曲「いい日旅立ち」。

雪どけ真近の 北の空に向かい
過ぎ去りし日々の夢を さけぶとき(過ぎ去りしの「ぎ」に違和感。
かえらぬひとたち 熱い胸をよぎる(よぎるの「ぎ」
せめて今日からひとりきり 旅にでる

ああ 日本のどこかに
わたしを 待ってる人がいるの「が」に違和感。

いい日旅立ち 夕焼けをさがしに(さ「が」しにに違和感。

北の宿から
作詞:阿久 悠 作曲:小林亜星

1、あなた 変わりはないですか
 日ごと寒さ「が」 つのります
 着てはもらえぬセーターを
 寒さこらえて編んでます
 女心(おんな「ご」ころの未練でしょうか
 あなた恋しい北の宿

寒さ「が」が鼻濁音でない。さらに「おんな「ご」ころが3番まで繰り返される。

江戸弁は鼻濁音だが、京都、大阪育ちは出せないようだ。渡 哲也(淡路島)も出ない。

同じ大阪出身でも大月みやこや天童よしみは鼻濁音が出ている。なぜだ。

八代亜紀は九州は熊本県八代市出身だが鼻濁音は出る。福岡県大川市出身の大川栄策も出る。四国、中国でもノー鼻濁音で歌う歌手は知らない。

鼻濁音問題は京都、大阪の問題ということになるだろうか。NHKでも最近は鼻濁音を発音できない人物をアナウンサーとして採用している。採用される方が問題なのか、あるいは採用者が鼻濁音ができなかったりして。

国民(小)学校4年生のとき、親戚を頼って大阪から秋田に疎開してきた、綺麗な女の子が、教科書を読まされて鼻濁音じゃなかった。これが逆に鼻濁音を問題視する始まりだった。

長じて大学でフランス語を習い始めると、フランス語は鼻濁音だらけ。不思議な事に私が教科書を朗読すると、ベトナム帰りの教授はなんだか嬉しそうに私の発音を褒めた。教授は秋田市生まれで、中学生の時にパリに留学、植民地ベトナムで暮らし、引き揚げてきた人だった。

だが、発音を褒められた私は英語よりもフランス語が好きになり、NHKはフランス語で合格した。50年経って忘れてしまったが。
2010・2・1出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

2010年02月01日

◆用語自粛もいい加減にしろ

渡部亮次郎

<最近の新聞記事、ラジオ、TVでのことですが、殺人事件の場合「殺した」ではなく、「死なせた」と報じられるようになってきたような気がするのですが、

「殺した」ではなにか不都合なことがあるのでしょうか。ご多忙のこととは存じますが、教えて頂ければ幸甚です。>

私のメール・マガジンの読者からの意見である。

放送局と新聞社が使用を自主規制している用語を調べてみると、ざっと1000語に達する。「殺し」は言い換えて「殺人」になっているから「殺した」はきついので「死なせた」の方がソフトに聞えるとして言い換えているようだ。

しかし「殺した」には殺意があるが「死なせた」では傷害致死で、本質的に差があり、言い換えは無理だ。

同様に、強姦を乱暴というのも違うだろう。ほっぺたを殴られたのと、強姦を一緒にする事は、被害者を侮辱するものでは無いか。言い換えは被害者を庇った心算だろうが、加害者を庇っている事に気がつかないか。

「姦通」は「不倫行為」と言えと。不倫てなんだ。

「気違い」は「原則として使わない」から「「気違い沙汰」も「気違いに刃物」も使えなくなっている。「狂気」も「狂気の沙汰」も駄目。

「群盲象をなでる」は「盲」が入っているから「不使用」。今に意味の分からない譬えになるだろう。

「虚仮=虚仮」は駄目。精神障害者と言えという。「虚仮にする」は死語になる。

「士農工商」が駄目。身分社会、階級制度と言えという。江戸時代が十分、説明できなくなるだろう。

まったく人を馬鹿にした言い換えもある。「百姓」はいけなくて「お百姓」なら言いと言う。意味がわからない。「お」をつければ本質が変わるのか。「いざり」はいけないというが「おいざり」ならどうなんだ。

因みに「どん百姓」は農民、農家の人、お百姓さんだそうです。なんだか人を馬鹿にしてういるように感じませんか。

お巡り、は良くないから、お巡り「さん」か、警察官といえというのも傑作だ。「お」を付ければ百姓もいいのと同じ。

按摩がいけなくてあんま「師」ならいいという。どこが違うのか。板前が悪くて板前さんといえという。どう違うのか。

ブスは使ってはいけない言葉。ぶおとこ(醜男)はいけない。言い換え言葉は無い。顔の不自由な男女とでもいうか。

処女がいけないという。余り居なくなったから、処女作と言っても意味がつうじなくなったのか「第一作」と言え。処女峰は「未踏峰」といいかえるのだという。未踏峰なんて読めない総理大臣も出てくるよ。

「将棋倒しになる」は将棋連盟からの申し入れで不使用。将棋盤の上では使者が出ないのに、将棋の印象を悪くするというのかね。心が貧しいね。

「せむし」は「猫背」だと。本質的に異なる。せむしはビタミン欠乏の病気だが、猫背は本人の不注意による悪姿勢。カイロプラクティックで完治できる。世間に誤解を与える言い換えだ。

掃除「婦」も掃除「夫」も男女別なく「清掃作業員」としたのは正しい。

こうして当っているうちに発見もあった。「タケノコ医者」とは「藪」にも満たない医者のこと。私には新語だった。チャリンコを最近は自転車の意味で若者は使うが、古くは「掏り」のことだった。

「エチゼンクラゲ」について地元の福井県水産課がマスコミに対して不使用を要請したのは理解できる。あれは中国沿岸産で、初めて捕獲されっ地点が福井県沿岸だったために、学会が地元に断らずの「越前」クラゲと命名してしまったもの。学会も無神経だ。大型クラゲと言い換えるのは当然である。

いろいろな経緯があっての言いかえだろうし、読者、視聴者の抗議などを受けての苦心の表れだろう。しかし、1000近い「言い換え集」の中には、人を小馬鹿にしたような「言い逃れ」が多すぎる。
マンコは悪いがチンコは良い、など。2010・1・30




2010年01月31日

◆「バカヤロー」はつぶやき

渡部亮次郎

産経新聞(2010.1.3)の【産経抄】に

 <昭和28(1953)年2月28日、衆院予算委の席だった。右派社会党の西村栄一氏が国際情勢について吉田茂首相に質(ただ)していると、首相は次第に興奮してきた。西村氏が「興奮しない方がいい」などといさめるうちに、とうとう「バカヤロー」と叫んでしまった。>とあるが、あれは叫んだのではなかった。「つぶやき」だった。

あの頃私は、高校3年生、まだテレビは無かった時代。それでも国会紛糾の図が脳裡に残っているという事は、映画の「ニュース」を見たのだろう。

西村氏への答弁の最後に「バカヤロー」と呟き、それがろくおんsれてしまったのだ。産経抄の筆者は戦後生まれか。いずれ、現場は現認してなくて知識としての「バカヤロー」だから、つい「叫んだ」と覚えたのだろう。筆者の若輩さを感じる。若さと未熟さ。調べればすぐ分かることなのに調べていない。

「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と暴言を吐いたことがきっかけとなって衆議院が解散された。

「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、映像資料で見れば分かるように、吉田は非常に小さな声で席に着きつつ「ばかやろう」とつぶやいたのみで、それを偶然マイクが拾った為に騒ぎが大きくなったというのが実態である。

問題となった、吉田茂と西村栄一の質疑応答の内容。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」

吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります(中略)」

西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、

(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」

吉田「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります。私は確信するのであります」

西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか」

吉田「無礼なことを言うな!」

西村「何が無礼だ!」

吉田「無礼じゃないか!」

西村「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……」

吉田「ばかやろう……」
西村「何がバカヤローだ!国民の代表に対してバカヤローとは何事だ!!(以下略)」

直後に吉田は発言を取り消し、西村栄一もそれを了承したものの、この失言を議会軽視の表れとした右派社会党は、吉田首相を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出(この背景には鳩山一郎・三木武吉ら自由党非主流派の画策があったといわれる)。

3月2日に行われた採決に際しては自由党非主流派ばかりか主流派と見られていた広川弘禅農相らの一派も欠席し(この欠席を理由に広川は農相を罷免された)、懲罰委員会への付託動議は可決された。

さらに追い討ちをかけるように内閣不信任決議案が提出され、先の懲罰事犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派三十余名が脱党し不信任案に賛成したために3月14日にこれも可決。これを受けて吉田は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われることになった。

さすがの吉田茂も発言当初は「つい言ってしまったのがマイクに入った」としょげ返っていたが、数日後には元気を取り戻し、会合で「これからもちょいちょい失言するかもしれないので、よろしく」と余裕しゃくしゃくのスピーチを行っている。

吉田と西村栄一の関係は以前からしっくりいっていなかった。第2次世界大戦中、吉田は親英派として軍部に睨まれ、一時憲兵に身柄を拘束される憂き目にも遭っていた。

逆に西村は軍人との繋がりがあり、戦時中かなり力が強かった。その様なやっかみも手伝って、吉田は西村に好感情を抱いていなかった。これが「バカヤロー発言」の一因とする見方がある。

このときの新聞記事では、2人の興奮したやり取りの後、場内は鎮まり返り、そんな中、岡崎勝男外相に何事かを囁かれた吉田は「ニヤリと笑って立ち上がり丁重に取り消すとある。このことから、吉田の心中は「緊張のための照れ笑いといい過ぎたとの思いが交錯した複雑な心境であったことがうかがわれる。

解散後の総選挙では吉田の率いる自由党は大敗、かろうじて政権を維持したものの少数与党に転落し吉田の影響力は急速に衰えていった。これが吉田退陣につながる。

晩年吉田はその回想録の中で「取るに足らない言葉尻をとらえて」不信任案に同調した与党の仲間を「裏切り」と糾弾し、「当時起こった多くの奇怪事」で最大のもので「忘れる事が出来ない」と述べている。

上記のように、吉田が発言を取り消したため、議事録の中の、西村と吉田が発言した「無礼」と「バカヤロー」という部分は削除されており、現在の議事録で全てを確認する事はできない。

西村氏は西村真悟氏(落選中)の父であり、鳩山首相は、当時、吉田の足を引っ張った鳩山一郎の孫である。

産経抄も冒頭でチョンボはしたが、材料にして突いた点はただしい。
▼そこらの夫婦げんかではない。国会での首相の発言だった。歴史家の半藤一利氏は著書『21世紀への伝言』で、映画の寅さんの「それをいっちゃおしめえよ」のそれだったと書く。その通りこの暴言は、首相懲罰動議や内閣不信任案の可決へと展開していった。

▼こんな古い話を持ち出すのは鳩山内閣の閣僚の言動がちょっと気になるからである。先日の参院予算委の質疑で答弁中に野党からヤジが飛ぶと「うるさい!」と怒鳴る。質問者が「全大臣にお聞きしたい」と言うと「私は全という名前ではない」と答弁を拒否する。

▼野党を小馬鹿にしたようなこの「高圧病」は鳩山由紀夫首相にも伝染したようだ。米軍普天間飛行場の移設先を5月までに決められなかった場合の責任を何度も問われると、すぐけんか腰になる。「その質問自体がありえない」と答えるのを拒否してしまった。

▼民主党などが野党であれば、ある程度許されるかもしれない。だが権力を握る与党になった以上、常に謙虚に自らを律しなければならない。民主主義の要諦(ようてい)である。「それをいっちゃおしめえよ」がわからないようでは「政権交代をしたのだから」と胸を張る資格はない。

▼もっとも民主党などのイラダチもわからなくはない。小沢一郎幹事長への疑惑などで、守勢一方に立たされているからである。そういえば「バカヤロー」も、吉田の「ワンマン政治」に対する与野党の批判が強まっているころに飛び出した。2010・1・30



2010年01月29日

◆鳩山首相宛の銃弾

渡部亮次郎

私がNHK記者で、まだ仙台で農業記者をしていた1960(昭和35)年10月12日午後3時頃、日本・東京都千代田区にある日比谷公会堂において、演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺された事件が起きた。

政治家を暴力的に襲う事件は、その後もしばしば起きたが、総理官邸の総理大臣宛に銃弾が郵送される事件は、鳩山首相宛の今回が初めてである。

<首相官邸に届いた銃弾は鳩山首相あて 官房副長官が会見で説明。
松野頼久官房副長官は28日午後の記者会見で、同日午前、東京・永田町の首相官邸に銃弾の入った郵便物が届けられ、警視庁麹町署に届け出たことを明らかにした。

郵便物は28日午前10時すぎ、首相官邸に届き、X線画像で銃弾らしきものを確認したという。12時半すぎに麹町署に未開封のまま引き渡し、14時すぎに銃弾であることが確認されたという。

郵便物のあて先は「内閣総理大臣 鳩山由紀夫」となっており、差出人の記名はなかった。縦13・5センチ横22・5センチの茶色の封筒に入っていた。

松野氏は、「今のところ対応は考えていない。こういう暴力的なことに対しては断固として戦っていかなければならないし、まことに遺憾だ」と述べた。>(1月28日16時58分配信 産経新聞)

咄嗟にこれは民主党の自作自演では無いかと思ったが、まさか。民主党にはそれほどの智恵者は居ないと気づいて、やはり暴力団とつながりの有る政治団体の犯行かと思ったが、推測でしかない。

いずれ、これで鳩山首相が震え上がって総辞職なんて事はあり得ないし、おそらく犯人は永遠に挙がるまい。ただ、無知な鳩山ファンは同情する事になるだろうし、ひょっとして、支持率にも影響するかも知れない。

万が一にも「銃弾」に便乗して、そうだ、そうだ、総辞職しろと言う声が纏まる事は無いだろう。事の推移を見守ろう。

この機会に浅沼社会党委員長暗殺事件を振り返っておこう。

<この日、日比谷公会堂では、近く解散・総選挙が行われる情勢で、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていた。

会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出た。

司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると…」と発言した午後3時5分頃、突然17歳の少年・山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの短刀(のちに銃剣と判明)で浅沼の胸を2度突き刺した。

浅沼は、刺された後によろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。

秘書が浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断され、巨漢の脂肪で外出血はせず内出血による出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。

山口二矢はその場で現行犯逮捕、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後、首吊り自殺した。

また、この事件で警視庁は、山口二矢のほかに、「全アジア反共青年連盟」責任者である吉松法俊(当時32歳)を恐喝、右翼団体「防共挺身隊」隊長である福田進(当時32歳)を公正証書原本不実記載および強要、また大日本愛国党総裁である赤尾敏(当時61歳)を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕した。

公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められることになった。

この立会演説会にはNHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1で中継されていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に日本全国へ放送された。

また日本シリーズ(大洋対大毎戦)中継のため15時45分からの録画中継を予定していたNHK総合テレビも、15時13分に野球中継を急遽中断してテロップ速報を出し、15時21分には事件の生々しい様子を収めた映像を放送した。さらに日本シリーズ試合終了後の15時43分には、臨時ニュースで浅沼の死亡が報道された。

その後も犯行の瞬間を捉えた映像が何度も放送された。犯行場面の放送については賛否両論が相次いだが、当時のNHK報道局長であった佐野弘吉は、報道映像としての意味を重視して放送に踏み切ったことを語った。

この日NHKと民放各局は、通常の番組を変更して報道特別番組を編成した。特別番組ではいずれも民主主義と議会制度を否定する暴力が非難され、暴力の排除が強く訴えられた。

事件はまた、放送そのものにも影響をもたらした。事件以前から指摘されており方針が決まっていたテレビ番組からの暴力場面の追放の動きについても、この事件がきっかけとなって大きく加速していった。

毎日新聞カメラマン長尾靖は、少年が浅沼にとどめを刺そうとする瞬間を撮影し、日本人初のピューリッツァー賞を受けた

この事件の犯人は少年だったこともあり、この事件をきっかけに「子供に刃物を持たせない運動」が始まった。それにより、それまでは鉛筆削りや工作に使用していた肥後守をはじめとする刃物が子供から取り上げられ、以後続く刃物規制の始まりの一つとなった。

野党第1党の党首が殺された事件だったが、自民党政権は、選挙への影響を最小限に抑えた。事件前、総選挙は安保闘争の盛り上がりから一転、所得倍増計画などの経済政策で、自民党の安泰ムードとなっていた。

浅沼の死でかげりは見えたが、池田首相は10月18日の衆議院本会議で、伊藤昌哉秘書の手による追悼演説を行い、人々を感動させた。

10月24日、衆議院解散。11月20日投開票された第29回衆議院議員総選挙では、自民党は追加公認込みで300議席と圧勝した。社会党は18議席増の145議席だったが、民社党離反の痛手は埋められず、民社党は惨敗した。その後、社会党は、浅沼の追悼ムードが薄れると、構造改革をめぐる党内抗争に突入していった。
(「ウィキペディア」)2010・1・28




2010年01月28日

◆日本を知らないのが米国人

渡部亮次郎

「アメリカ人は日本を負かしたのだから、日本人より偉い」それが間違いだ。彼らは相当「程度が低い」。しかし首相鳩山の政治感覚は史上最低。それを晒したのが24日行われた沖縄。名護市長選挙だった。日米安保不要論が米側から出てくる。

41歳の時、NHK政治記者から外務大臣秘書官になった。日本外務大臣の主要な仕事は世界情勢の判断しながら国益を守ることだけれども、軍事的に同盟関係にあるアメリカとの関係強化が主要な仕事になる。

アメリカへ出張するたびに思い込まされたことは、アメリカの広大さと国際情勢への一般国民の認識の低さだった。同盟国日本なんて意識に無い。特に南部へ行くと、日本なんて中国のどの辺なんて聞かれた。

真夏のワシントンDCに毛皮のコートを纏った女性が出現する。ワシントンが多分初めて。まだ薄ら寒い北の洲から来たのだ。地元での生活感覚そのままで毛皮を纏ってきただけ。ワシントンってやたら暑いわね。

やはりワシントンで、カウボーイ姿そのままの青年とタクシーの相乗りをする羽目になったことがある。「首都」に「上京」したという感覚がまるでない。牧場から思い立って用足しに来たという風だった。テキサスから来た田舎者。

アメリカは広くて、国内の事を理解するのが精一杯。他国のことなんか考えなくても、アメリカだけで十分生きていけるのだから、他国のことを心配したり、国際情勢がどうだなんて事は政治家に任せておいたほうが安心だと考えるようになっている。

カリフォルニアのサンタモニカとか、サンタバーバラを走っていると石油がふんだんに涌くし、食糧は豊富だし、太平洋のこの先に日本があるなんてことは忘れてしまう。

一番驚いたのは、ニューヨーク。生の牡蠣(かき)が一年中手に入る。日本では「R」の付かない月は有毒だから食べてはいけないとされているのに、NYではセントラル駅の地下階のすべてを使った「オイスター・バー」なるレストランが年中無休で営業している。

考えてみればアメリカ大陸は四辺を海に囲まれていて、毎月、どこかの海の生牡蠣が食べて安全だということなのである。NYの男性諸氏は淑女をオイスター・バーに誘い、相手にも精力をつけてもらって口説くのだとか。

われわれは1941(昭和16)年12月8日にハワイ真珠湾を奇襲することによって、大国アメリカに戦いを挑み、4年後に無条件降伏をした。

昭和26年に講和条約を結ぶ時、世界はすでに米ソ対立の冷戦状態にあったが、時の首相吉田茂は、敢えてアメリカを同盟国に選び、軍事、防衛を同国に依存すべく、日米安全保障条約を締結し、その核の傘の下に入った。

その結果、わが国は、経済面では異常な発展を遂げ、世界2番目の経済大国となった。他方、政治、文化の面では退廃を余儀なくされているのが現実である。

事実上、日本国土を基地とするアメリカの防衛体制は、戦勝国として沖縄を占有したアメリカの恣意的な計画によって軍事基地化が進められ、それがそのまま、日本に返還された状態である。

私が政治記者として那覇に滞在した時代は、ヴェトナム戦争真っ只中に在って、爆弾満載の爆撃機が昼夜を分かたず飛び立つ一方、戦死者のバラバラ死体が沖縄基地に運び込まれ、縫合して棺に納められた後、本国に送られていた。

つまり沖縄は領土としては返還されたが、実態は完璧なアメリカ軍基地として整備された後、政治家同士の判断で、政治的に日本に返還されたために、基地のあり方に関しては軍の意向が優先するのが実態である。

普天間飛行場の移設問題は移設先である名護市の市民の意向を聞くと鳩山首相は言ったが、アメリカ政府としては、移設反対の軍首脳を20年がかり、説得に次ぐ説得で呑ませたのが名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設案受諾だったのだ。

だから、市長選挙で移設反対派が勝利したからと言っても、アメリカ政府は聞く耳持たずだ。しかもこうなる事は私でも始めから分かっていた話だ。沖縄へ行って基地反対といえば殆どが反対という。それなのに鳩山はわざと「寝た子を起こし、自らの首を絞めた」。

まして行き場を失った本土の左翼分子が大挙して名護に押しかけ、反対運動を煽る事は目に見えていた。それにも拘わらず、オバマ大統領に向かって「おれを信頼しろ」といった鳩山はとんだ恥さらしを演じたものだ。

国際認識ゼロ、政治感覚ゼロ。日本人としてこんな人物を総理大臣に戴いているのは世界的な恥である、恥辱である。こんな民主党を第一党にでっちあげたのだから、小澤の剛腕とは目くらましの手品だったのだ。

アメリカ人は1年経って、オバマを大統領にしたことを悔やんではいるが、その大統領が日本の首相から騙されたり、侮辱されたりした事を知ったなら、オバマの肩を持ち、日本への怒りを露にする。
米日安保解消論だって出てくる。文中敬称略 2010・1・25




2010年01月27日

◆鳩山忌避を始めた米政権

渡部亮次郎

鳩山政権に対する米政府の不信感が遂に具体的な言動となってあらわれて来た。

<安保50周年 共同声明 米が格下げ要請 「普天間」の影響避ける

【ワシントン=佐々木類】日米安保条約改定署名50周年で両国が発表した共同声明をめぐり、米政府が事前に、首脳同士ではなく外務・防衛両閣僚の連名に「格下げ」するよう日本側に打診していたことが分かった。

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題で、県外への移設を模索する鳩山由紀夫首相が代替施設をキャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市)に建設するという現行案を破棄した場合、オバマ大統領の政権運営に影響が出ると判断したためだ。

鳩山政権に対する米政府の不信感が重要文書の作成に影響を与えた形だ。>(1月26日7時56分配信 産経新聞)

昨年春以降、1月中の共同声明発表について米政府は日米両首脳の連名を想定していたが、鳩山政権発足後、普天間飛行場移設問題で、鳩山首相が解決の先送りを繰り返したことは、ホワイトハウスを刺激した。

そこでホワイトハウス関係者は昨年12月、国務省の対日関係者に「大統領を巻き込まないでほしい」、と共同声明を閣僚レベルで処理するよう要請。国務省を通じて日本側に伝えられた。日本外務省はこれをひた隠しに隠した。ハワイで急遽行なわれたクリントン・岡田会談の真意も隠した。

発表された共同声明には想定されていた日米首脳の連名は無く外務・防衛閣僚による共同声明に差し替えられたし、普天間問題の記載も見送られた。

産経報道では、日米関係筋の一人は、米国が「格下げ」を要請したのは「普天間のゴタゴタをホワイトハウスに持ち込まないようにするためだろう」と話している。

ただ、北朝鮮が核・ミサイル開発を進め、中国が軍拡を加速させる中で日米安保体制は極めて重要であるとの認識は、いまのところ米側も変わっていない。

アジア・太平洋地域の平和と安定のために両国が強固な同盟関係を内外にアピールする必要があると判断している。そこで今回は両首脳がそれぞれ談話を発表し、普天間問題の解決を待たずに同盟深化の協議を進めることにしたのだ。

声明の作成は普天間移設問題がこじれたことから、日米両当局の担当者が具体的な協議に入れず、14日に国務省内で行われた策定作業は徹夜という慌ただしさだったという。

鳩山首相は6月下旬にカナダで開かれる主要国首脳会議(サミット)でオバマ大統領との会談を希望しているが、鳩山首相が現行案を白紙に戻せば「首脳会談どころではない」(日米関係筋)との懸念も出ている。それよりも、その前に鳩山政権瓦解の心配がある。
2010・1・26

■ 筆者主宰の1月27日刊1799号・「頂門の一針の目次」を
下記に掲載します。お手続きの上、ご高覧ください。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm(購読無料)

<1799号・目次>
・小沢派はミニ政党へ:宮崎正弘
・鳩山忌避を始めた米政権:渡部亮次郎
・無かった筈の小沢氏の「遺産」の実態 :阿比留瑠比
・阿比留瑠比記者の講演の要旨:井上政典
・急募!保守新党:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記





2010年01月24日

◆唐招提寺建立の中国僧

渡部 亮次郎

日本から、昔、遣唐使と言って、中国へ留学した者は多かったが、逆に日本に布教に来て骨を埋めたのは鑑真(がんじん)ただ一人だ。

奈良時代の話。私は若い頃、大阪に3年も勤務したが、仏教など宗教のことは全く勉強しなかったので知らなかった。。

その後、NHK政治記者を辞め、外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結に携わった際、奈良の友人から詳しく聞いて初めて知った。

688年(持統天皇2年)―763年6月25日(天平宝字7年5月6日)日本における律宗の開祖となった。俗姓は淳于。

揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡と普照の訪問を受け、授戒のできる僧を是非とも日本へ派遣してくれるように懇願された。

要請を聞いた鑑真は、最終的に自らが日本へ行くことを決意し、日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗した。

当時、唐の皇帝は、高名な僧である鑑真を国の宝として扱い、唐からの出国を固く禁じていたためでもあった。日本への渡航については密航という手段を取らざるを得なかった。

最初の渡海企図は743年夏のことで、この時は、渡海を嫌った弟子が港の役人に「日本僧は実は海賊である」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。

2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真の出国を阻止しようとする者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。

753年に遣唐使が帰日する際、副使の大伴古麻呂が密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流した。

だが、船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着、実に10年余の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は、宿願の渡日を果たすことができた。

来日早々の753年(天平勝宝5年)12月26日、鑑真は太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受けた。

孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400人に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢であ
る。

同時に、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に
取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)。

これが日本最古の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
2010・1・12

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2010年01月22日

◆苺は平和の象徴

渡部 亮次郎

苺を話題にするなんて、何を今更と言われそうだが、戦争中は苺は栽培もされておらず、戦後も相当経ってから食べられるようになった、貴重な果物だった。今では冬の果物である。

私は食後、必ず果物を食べる習慣があり、冬から春にかけては苺とデコポンが安いので助かる。戦争中、なぜ栽培されなかったかって?イモや豆を植えるのに忙しかったのだ。

戦後、ビニールが農業に提供されて『温床』が「ハウス」になって野菜や果物が通年栽培されるようになった。温床の時代に太陽光の採取と保温に使われたのは「油紙」カガラスだったが高価すぎた。

程なくビニールが安価で普及し、苺もまた何処でもいつでも都会に出荷されるようになった。余談だがビニールは水稲耕作にも役立ち、稲の苗が肌寒い早春にハウスで育てることが可能になったので、東北の寒冷地では作柄が大いに向上した。

ところで苺である。

栽培されたのは比較的新しく,14世紀に入ってフランスやベルギーで始まった。その後北アメリカ原産の野生イチゴ F. virginiana Duch. と南アメリカのチリの野生イチゴ F. chiloensis (L.) Duch. との交雑種から出たアナナスサと呼ばれるものが18世紀中ごろオランダで作出され,これが現在の栽培イチゴの素材になった。

1819年にはイギリスで最初の大果品種が作られ,イギリス,フランスを中心にヨーロッパ各地に広まった。アメリカでも18世紀末ごろからヨーロッパで育成された品種の栽培が始まり,現在ヨーロッパと並んで大産地を形成している。

日本へは江戸時代末期,オランダ人により伝えられたが普及するに至らなかった。明治になって数多くの品種がアメリカ,フランス,イギリスから導入され,各地に土着して広まった。

品種〈福羽〉は1899年ごろ,福羽逸人がフランスから導入したゼネラルシャンジーの実生から選抜育種したもので,1970年ごろまで促成栽培の主要品種であった。

現在の主要品種は宝交早生,はるのか,ダナー,芳玉、麗紅などである。

作付様式として一度植えたら数年栽培する方式と毎年株をかえて栽培する1年方式がある。数年方式は寒冷地の加工用栽培に取り入れられ,一般には1年方式が多い。

育苗はランナーにつく子苗を切り離して移植する。出荷時期はプラスチックフィルムの利用,新品種の育成,技術開発によって盛夏の一時期を除き,ほぼ周年出荷している。

おもな病気と害虫は萎黄病,灰色かび病,うどんこ病,ハダニ,メセンチュウなどである。

日本での主産地は栃木県,福岡県など。石垣栽培は明治の末期ごろ,静岡県久能山の南西傾斜を利用し,玉石を使って始めたのがおこりで,その後栽培面積の増加によって作業に便利なコンクリート板が用いられた。

この方法は冬季低温時に太陽熱を十分取り入れた栽培で,寒い間は障子やむしろをかけて保温した。その後神奈川県,愛知県でも石垣栽培が行われたが,ビニルハウスの普及,労力不足から姿を消し,現在久能地方にわずかに残っている。

イチゴは果実の中で最もビタミン Cの含有量が多く,生イチゴ100g中に50〜100mg含む。糖分はおもにブドウ糖,果糖で4〜7%含み,有機酸はクエン酸,リンゴ酸がおもなもので1〜4%含まれる。

果実の色素はアントシアン系のカリステフィンか品種によってはフラガリンである。生果としてはミルクや砂糖を加えて生食する。ショートケーキの材料や,加工品としてジャム,ジュース,シロップ漬に利用する。

イチゴはキリスト教では〈正義〉をあらわす象徴として使われる。ヨーロッパには昔から,違った植物をいっしょに植えると互いに相手に影響を与えあうという考え方があった。

その場合互いに相手にプラスになる場合もあるが,他を苦しめることの方が多い。

ところでイチゴはイラクサのようないやな植物の下で育てられてもおいしい実をならせることから,周囲の悪や不正に毒されずに自己を全うする正義の士にたとえられたのである。

イチゴはまた聖母マリアを象徴するが,これはゲルマンの母神フリッグが死んだ子どもたちにイチゴを食べさせて天国へ送ったという神話からきたものである。この神話は赤い食べ物は死者のためのものだという古い信仰からきたといえよう。
出典:平凡社『世界大百科事典』 2008・04・17

2010年01月20日

◆小澤氏の遵法感覚

渡部 亮次郎

小澤一郎と言う人は「世間」を恐れない点で、恐ろしい人だ。顔も恐ろしいけれど。これほどのブオトコは鏡の中以外に見たことは無い。問題になっている政治資金規正法というのは、「億」単位の「不正」でも「訂正」申告で「済む」と言う感覚が、もっと恐ろしい。

郷里秋田で、子供の怖がるものは「ナマハゲ」という鬼だが、小澤の面構えは「ナマハゲ」より恐ろしい。民主党支持の淑女のみなさんは「ナマハゲ」が大好き?

<「全面的に闘っていきたい」民主党大会で小沢氏。

16日午後1時過ぎに始まった民主党大会冒頭で石川知裕衆院議員らが逮捕された経過について説明し、「事務所も計算のあやまちや計算のミスはあったと思う。

しかし、こうした間違いはこれまで報告の訂正といったもので許されてきたものだ。今回はなぜか最初から逮捕・強制捜査という経緯をたどった。そのことに納得のできない思いだ」と述べた。

さらに「土地の購入をめぐって不正の資金を取得して購入費にあてたと報道されているが、不正なお金を使ったものではない」と自らの潔白を主張した。>1月16日14時45分配信 読売新聞

産経新聞ワシントンの古森記者も指摘していたように、東京地検特捜部といえども、鳩山首相を頂点とする政府の一翼に過ぎない。小澤が検察庁という権力と闘い続けるという事は、鳩山政権と闘い続ける事に他ならない。

鳩山首相もまた「戦い続けてください」と言って激励したことになっているが、自分の敵を励ますとは、やはり「友愛」は特別な哲学なのだろうか。

報道によれば、東京地検は、その後も小沢氏に対して参考人としての出頭を求めているが、小澤側に出頭に応ずる動きは見られない。

尤も、動きがあるのかないのか、記者たちは恐ろしがって聞くことをしていないようだ。

小沢氏の師匠の一人は田中角栄だったと言うが、角栄はここまで孤高を守れなかった。彼は、人間的魅力でカネを獲得し、そのカネで政治家や役人を篭絡して権力を手中にした人だった。

私自身は彼のためにNHK中途退職する破目になったが、彼の人間的魅力は否定するものではなかった。しかし小澤には人間的魅力を感じる人は何処にもいない。秘書たちも恐れ慄いてひれ伏すだけだ。

衆議院議員に当選以来、彼は様々な人を魅了し、ひきつけ、側近集団を作り、壊してきたが、古い側近の議員たちのすべてが離れて行っている。これまた特異な現象といわなければならない。

しかも、検察庁にこれほど疑われるほどの「蓄財」の合理的な理由が、どうしても分からない。「世間」も理解できないと世論調査は語っている。或いは、角栄よりも不幸な晩年を見るのではないか。文中敬称略
                        2010・1・19

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