渡部 亮次郎
昨年の秋、70そこそこで亡くなった猪股健太郎(宮城県出身)とは昭和35(1960)年6月、NHK盛岡放送局で出合った。私は仙台から転勤してきた記者、猪股君は先に入局していたフィルム編集者。
カラツとした性格で、すぐに仲良しになった。拙宅へ朝、来て来て、家人の差し出す納豆を巡って、全くかき回すことなく食べるというカメラマンの櫻井勝と、徹底的にかき回して塩で食べるという猪股は、犬ころが、じゃれあうように、やりあっていた。
夜7時のニュース送出が終わると、3人は連れ立って盛岡の繁華街菜園のスナックで「トリス」の水割りを飲んだ。仕上げは南の飲み屋街「八幡」だった。
当時はまだカラオケは無かったが、猪股は小林旭が流行らせた「北帰行(ほっきこう)」をドラ声のアカペラで唄った。
NHKの「ラジオ深夜便」が1月15日の午前3時台に小林旭の特集を組み、北帰行を流したので、猪股と、盛岡で過ごした充実の時代を思い出し、涙しながら聴いた。
1 窓は 夜露にぬれて
みやこすでに 遠のく
北へ帰る 旅人ひとり
なみだ流れて やまず
2 夢は むなしく消えて
今日も 闇をさすらう
遠き想い はかなき希望(のぞみ)
恩愛(おんあい) 我を去りぬ
3 いまは 黙(もく)して行かん
なにを また語るべき
さらば祖国 いとしき人よ
あすは いずこの町か
あすは いずこの町か
作詩 作曲 宇田 博(昭和36年)
当時は、この唄の「北」は札幌辺りを指すものかと思っていたが、後にしらべてみると満洲のことだった。後に異例の出世をしながら脳を病んで死んだ猪股が、それと気付いたか、話をする機会は永遠に消えた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
北帰行は1961年(昭和36年)にヒットした。歌手は小林旭。原歌は、旧制旅順高等学校(旅高)の愛唱歌(広義の寮歌)。歌謡曲版と寮歌版とでは、歌詞・曲ともに若干異なるそうだ。
歌謡曲版の歌詞は3番までだが、寮歌版は5番まで存在する。また、出典により順番が相違しているものがあるが、宇田直筆の歌詞において相違しているという。
作者の宇田博は、満洲の奉天一中で4修で旧制第一高等学校(一高)の受験に失敗、建国大学予科(満州国新京)に入学したが半年で退学となり、 1940年(昭和15年)、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学した。
宇田は同校の第一回寮歌 『薫風通ふ春五月』(村岡楽童 作曲)を作詞している。しかし戦時体制下の新設校だった同校に、宇田の望んだバンカラで自由な校風は存在せず、彼は常々生活指導の教官に目を付けられていた。
もっとも、宇田自身はバンカラタイプではなかった。280ヶ条もあった校則に、常々反発していた旨を述懐している。#書籍 『大連・旅順はいま』 138頁-142頁など)。
1941(昭和16)年5月、宇田はメッチェン(女の子)とデートして戻ったところを教官に見つかり、"性行不良"で退学処分となった。彼が、同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この『北帰行』である。
そのため、同校の正式の寮歌ではないが、広義の寮歌として歌われてきた。宇田はその後内地に渡り、旧制一高を卒業した。彼は東京大学を経て、東京放送に入社し、常務・監査役を歴任している。1995年8月、逝去。73。
旅順高等学校関係者によれば、この歌は自由への解放を歌い上げたものであり、単なる流浪の歌として理解されるべきではないとされるが、これは歌詞を5番まで全て歌った場合のものであるといえる。
省略されることの多い完全版の歌詞では、満州各地の学園で体験した強圧的な体制への憤懣と、決して容れられることのない己の存在を嘆いた宇田個人の心情が率直に歌われているからである。
歌詞に明確な学校当局への反抗がこめられているため、宇田が去った後の旅順高校では『北帰行』を歌うこと自体を禁じようとする動きも見られたが、一部のリベラルな教師たちの擁護によって、禁止曲となることは免れたという。
昭和36年(1961年)、この歌は日本コロムビアのプロデューサーや小林旭に見い出され、同社からレコード化されて大ヒットした。この際 作者捜しが行われ、当時TBS社員だった宇田の名乗り出、旅順高校時代の友人が持っていた宇田直筆の歌詞から、作者が確定した。
歌のヒットにより、小林が主演する映画 『渡り鳥シリーズ』(日活)の昭和37年(1962年)正月封切り版『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』の主題歌となった。
小林のバージョンは現在まで最も流布したものであるが、原曲とは相当に変化した部分がある。もっとも作者の宇田自身は、小林の歌を晩年に至るまでいたく気に入っていたという。2010・1・15