2007年05月22日

◆日本における強姦罪


 ◆<これは「頂門の一針」799号に掲載されたものですー編集部>
         
                    渡部亮次郎 

強姦罪 ごうかんざい 暴行または脅迫をもちいて13歳以上の女性を姦
淫(かんいん)する罪(刑法177条前段)。3年以上の有期懲役(2004年改正)
に処せられる。

姦淫とは性交を意味する。この場合の暴行・脅迫は、強盗罪におけるよ
うに相手の反抗を抑圧してしまう程度のものである必要はなく、反抗を
いちじるしく困難にする程度でたりる。

13歳未満の女性を姦淫した場合は、暴行・脅迫をもちいなくても同様に
処罰される(同条後段)。また、女性が心神喪失・抗拒不能の状態にある
のに乗じて、または暴行・脅迫以外の方法によって、上記の状態におと
しいれて姦淫した場合も同様に処罰される(準強姦罪。178条)。

いずれも親告罪であるが、複数の人間が現場で共同して犯行をおこなっ
た場合は親告罪ではない(180条2項)。未遂も罰せられる(179条)。結果と
して女性を死傷させた場合は無期または5年以上の懲役(2004年改正)に処
せられる(181条。非親告罪である)。女も男と共謀して実行行為に加担す
れば、強姦罪の共同正犯になりうる。

さらに2004年の改正では、集団強姦罪が加えられ(178条の2)、2人以上が
共同して強姦または準強姦の罪をおかしたときは4年以上の有期懲役に処
せられる。未遂も罰せられる。死傷させた場合は無期または6年以上の懲
役となる。

強制わいせつ罪 きょうせいわいせつざい 13歳以上の男女に対し、暴
行または脅迫をもちいてわいせつな行為をする罪(刑法176条前段)。心神
喪失や拒否不能にさせたり、その状態に乗じてわいせつな行為をした場
合も同様である(178条1項)。6カ月以上10年以下の懲役(2004年改正)に処
せられる。

13歳未満の男女に対してわいせつな行為をした場合は、暴行・脅迫をも
ちいなくても同様に処罰される(同条後段)。

性交自体は強姦罪の対象になり、本罪にいう「わいせつな行為」は、性
交を含まない。他方、相手は女性にかぎられない点に注意を要する。暴
行・脅迫は相手の反抗を抑圧してしまう程度である必要はなく、反抗を
いちじるしく困難にしてしまう程度でもなりたつ。

親告罪であるが、2人以上が現場で共同して反抗をおこなった場合は親告
罪ではない(180条2項)。未遂も罰せられる(179条)。結果として相手を死
傷させた場合は無期または3年以上の懲役に処せられる(181条。非親告罪)。

参考:Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft
Corporation. All rights reserved.

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2007年05月21日

◆売春防止法の成立


                           渡部亮次郎

日本の国会で売春防止法の成立したのが昭和31(1956)年5月21日である。私は大学3年生だった。内閣は第3次鳩山一郎内閣。この法律は2年後の58年4月1日から施行され、日本から営利売春は無くなったことになった。誰が信じる?

それよりも法律の成立後、法案審議に絡んで多数の国会議員が売春業者から多額の賄賂を受け取って法案の成立を妨害していた売春汚職事件が明るみに出て世間を沸かせた。

売春汚職事件は、政治家と赤線業者(公認売春業者)による贈収賄捜査の裏で、検察内部の派閥抗争が絡み、マスコミまでを巻き込んだ大事件へと発展した。

1957年(昭和32年) 10月1日 新宿カフェー喫茶協同組合理事長・安藤恒に対する業務上横領被疑事件の取調べ中に、全国性病予防自治連合会(赤線業者の業界団体)の業務上横領容疑が発覚。東京地検特捜部が同連合会事務局長・今津一雄を逮捕。

さらに捜査の過程で、同連合会から売春防止法の成立阻止のため、国会法務委員及び売春対策審議会委員に工作費がばら撒かれていた容疑が発覚する。

10月12日- 東京地検特捜部が同連合会理事長・鈴木明、副理事長・長谷川康ら幹部を贈賄容疑で逮捕。

10月16日 同連合会専務理事・山口富三郎を贈賄容疑で逮捕。

10月18日 読売新聞が「売春汚職、宇都宮徳馬、福田篤泰両自民党衆議院議員を収賄容疑で召喚必至。近く政界工作の業者を逮捕」と報道。

この情報は、伊藤栄樹(後の検事総長)が、検察内部から情報をリークしていた人物を特定するために流した偽情報であった。

10月22日 東京地検特捜部が鈴木、長谷川、山口を再逮捕。

10月18日から22日 宇都宮、福田両議員が読売新聞および検察関係者を名誉毀損で告訴。

10月24日 東京高検特捜部、立松和博読売新聞社会部記者を名誉毀損で逮捕。

当時、検察内部は民間出身の花井忠検事総長の下、次期検事総長を巡り岸本義広東京高検検事長(後に自民党衆議院議員)を中心とする公安検察派と、馬場義続法務事務次官(後に検事総長)を中心とする特捜検察派が対立していた。

岸本は情報のリーク元が特捜検察派=馬場派と考え、立松を逮捕し情報元を自白させることで、馬場派の一掃を狙っていた。

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2007年05月19日

◆スパイからの領収証


                        渡部亮次郎

<官房機密費の支出情報不開示は「不当」 市民団体が提訴

安倍首相らが内閣官房長官だった05〜06年の内閣官房報償費(官房機密費)の支出情報を公開しないのは不当だとして、大阪の市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーが18日、国を相手に官房機密費の不開示処分取り消しを求める訴えを大阪地裁に起こした。

年間10億円以上にのぼる同機密費の使途公開を求める裁判は全国初という。

訴状によると、同オンブズマン共同代表の上脇博之・神戸学院大大学院教授(憲法学)が昨年10月、細田博之衆院議員と安倍首相が官房長官だった05年4月から昨年9月までの官房機密費の使途を示す文書を開示するよう求めた。

だが、内閣官房は「国政を円滑に遂行するための経費。使途公開は重大な支障を及ぼす」と不開示にした。

上脇教授は、政治家のパーティー代や飲食費で不適切に使われている可能性があると指摘。「多額の公金の使い道を国民に示さない姿勢は許されない」と訴えている。

外務省の報償費(外交機密費)では、東京地裁が昨年3月、支出文書を不開示にした外相の決定を取り消し、大部分の開示を命じている。> Asahi Com  2007年05月18日16時19分

昔、韓国の大統領が言った。「わが国も終わりだ。スパイに私かカネの領収証を出せ、と会計検査院が言うんだ。スパイが領収書を出すわけないだろう?

今回の上脇博之・神戸学院大大学院教授(憲法学)らの要求は、韓国のスパイ代のような話だ。したがって政府が内閣官房報償費(官房機密費)を公開するような事態には決してならないだろう。政府にたかる野党の実態が出てきたりしたらどうなるんだ。

私が秘書官として仕えた園田直氏は外務大臣の前が官房長官だった(福田赳夫内閣)。私は、以前から親しい仲だったから、記者時代も官房長官室に出入りしていた。

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2007年05月18日

◆国家元首への非礼?


                          渡部亮次郎

久々に笑ってしまった。2007/05/12の産経新聞に掲載された韓国大統領
広報首席秘書官の勘違いについてである。

支局長黒田勝弘氏は4月28日付のコラムで、韓国で盧武鉉大統領の記念館
建設の話が出ていることを紹介していた。在任中の記念館計画は「性急
で臆面(おくめん)がない」とし、大統領として歴史的人物である大物
の李承晩や朴正熙の記念館さえないのに「2人に比べると小物(?)」
である最近の金大中、盧武鉉大統領にだけ記念館とは不思議だ、と書い
たので溜飲を下げていたのだ。

そうしたら韓国の大統領官邸(尹勝容広報首席秘書官)から抗議の文書
がきた。確定していない記念館事業を根拠に、遺憾というのだそうだ。

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070512/kra070512002.htm

<しかし、建設計画の事実関係は、大統領官邸自身が4月17日付公式
ホームページで「今後、具体的に(故郷の大学と)協議していくことに
なった」が、現職大統領の影響力を不当に行使したものでないとし、否
定はしていない。

不満は「臆面ない」と書いたことと、盧武鉉大統領を李承晩、朴正熙に
比べ「小物(?)」と評価したところにあるようで、「韓国の国家元首
に対する侮辱的表現」「失礼な表現」だから今後は「韓国の国家元首に
丁重な表現」を期待するという。

「小物(?)」と疑問符を付けて配慮したつもりだったが、理解してい
ただけなかったようだ。大統領官邸の心情に配慮が足りなかったかもし
れない。今後、気をつけたいと思うが、それでも韓国で大統領記念館な
らまず李承晩、朴正熙だろう」>と黒田さん。

李承晩と朴正熙。この2人の事績がなければ今日の韓国は無い。特に朴大
統領による革命と日韓関係正常化、反共産主義体制強化が無ければ今日
の発展は無い。それに対して金大中と盧武鉉大統領は結局韓国に何をも
たらしたか。反共の褌外しに狂奔しただけだ。

それなのに「在任中の記念館計画は性急で臆面(おくめん)がない」と
思うところは、心ある日本人なら、みなそう思っている筈だ。

秘書官となれば親分の面子は守らなければならない。しかしうちの親分
は小物では無いから以後、気をつけて記事を書けなど、私ですらできな
かった。

まして臆面もないことをおめおめとするところを批判されて反発する事
はむしろ恥ずかしいことで、恐れ入るべきだ。

大統領が大統領だから秘書官も秘書官だ。おそらく大統領の命じた「抗
議」だったと思うと、なおさら笑える。2007・05・12

http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



2007年05月17日

◆ウィキペディアの穴


                         渡部亮次郎

<元特攻隊員の有名人は2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる。>フリー百科「ウィキペディア」。

ここに外務大臣園田直が居ないのは「ウィキペディア」の穴であり、信頼度を甚だ傷つけるものだ。

園田は陸軍志願兵から日本陸軍最初の落下傘部隊のメンバーとなり、転じて陸軍航空隊の操縦士、更に転じて敗戦間際の1945年8月13日、「天雷特別攻撃隊」の隊長として出動を命じられていた。

全身に爆雷を巻き、千歳基地から太平洋上の米戦艦に体当たりすることになっていたが、悪天候のため、17日に延期。ところが15日に敗戦で一命を取り留めた。しかし本人は「一旦は覚悟した死がなくなって腰が抜けた」とよく語っていた。

8月25日、召集解除となった時、既に園田は31歳になっていた。仕方なし郷里熊本県天草の島に帰り、地元一町田町役場の助役にさせられたが、直後に行われた(1946年4月10日)の衆院選挙に立候補。次点の次で落選。その年の9月には町長に当選。

しかし47年4月25日の総選挙では民主党公認で再挑戦、見事当選。以後、死ぬまで当選を続けた(15回)。野党の衆院議員を妊娠させ、離婚に至ったという事件(白亜の恋事件)でも落選しなかった。

どんなことがあっても慌てるということがなかった。「特攻から生き返った後の人生はお釣みたいなもんだ。恐ろしいことなんてなくなったよ」。

特攻とは、爆弾を抱えた軍用機に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。

太平洋大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたが、当然のことながら、攻撃が成功して乗員が生還する可能性は皆無に等しいと言える。

突入失敗で海面に激突したものの奇跡的に助かったり、機体故障による不時着等の理由で乗員が生還した例もあるものの極めて稀であり、出撃すなわち死を意味するといっても過言ではなかった。

この攻撃が行われるようになった理由は、VT信管を代表とするアメリカ軍の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機性能の開きが圧倒的になったこと、

この戦いに先立って行なわれた台湾沖航空戦により、フィリピンでの稼動航空機数が激減した上にミッドウェー海戦以降ニューギニア戦線などで多くの熟練搭乗員が戦死してしまい、その補充が利かなかったこともあり、通常の航空洋上攻撃では敵空母に対して充分な戦果を期待することができなくなったためである。

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2007年05月15日

◆林彪事件の朝日新聞


渡部亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているというのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。

なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからな。

NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島 桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。

1971年秋のことである。何しろ、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、1971年10月1日の国慶節パレードが当然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなったのだ。

「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。

10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。

10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがある。

やがて11月頃からは失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。

しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。

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2007年05月13日

◆「母あればこそ」

                        渡部亮次郎

おそらく生涯を通して忘れることの無い歌は伊藤久男の歌ったNHKラジオ歌謡「母あればこそ」だろう。昭和29年、雪の降り続く秋田から大学受験のため、東京に向けて列車に乗った。朝だった。蒸気機関車が重く汽笛を鳴らして動き出した。

ふと田圃の向こうの家に目をやると、小さな母が畑のこちらに出てきて手を振っているではないか。汽車は混んでいて窓を開けるもならず、思わずこみ上げる涙を回りに見られるのを隠すのにいっぱいだった。

家は米単作農家で豊かではない。それなのに私を東京の大学へやると言うのは、4年前、県内一の進学校を1番で卒業した兄を大学にやれなかった後悔を繰り返したくないの一心から。

集落中の農家の主婦たちが織る藁筵(わらむしろ)を買い集めて魚粕を入れるかますに仕立てて農協に売ると言う仕事を父ではなく自分でやることで、次男坊は大学にやると言う母。

大胆な決意を抱いて手を振る母。厭でも感傷的になる朝に初めて息子に手を振る母を見て、涙が止まらなかった。

そのまま大学生活が始まった。まだ食糧難の続く東京。あっという間に10キロも痩せた。母の頑張りで月1万円の仕送りは絶えることが無かった。そうやって1年が過ぎようとした冬の夕暮れ、下宿のラジオで伊藤久男が歌った。

「ひとりみやこへ 発つ朝も 泣いて結んだ 靴のひも ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くひそかに 想うもの」

旅立ちのあの朝の心境に通じる歌。決意を胸に抱いて汽車に乗った息子、雪の中から手を振る母。まるでそっくり、いやこれは私たち母子を謳った歌ではないのか。

後に調べると、歌は「母あればこそ」と題してNHKラジオ歌謡として放送されたものだった。寺尾智沙作詞・田村しげる作曲。お2人は夫婦で他に「白い花の咲く頃」など多くの名作を世に送り出したヒット・メーカー。私の心を深く打ったあの歌は昭和30年1月24日から放送されたものだったのだ。

「祭り帰りの 丘のみち 声を合わせた わらべ唄 ああふるさとは ふるさとは 母あればこそ いつも優しく 浮ぶもの」

やがて私も中年になり都会で家庭を営むようになり、農村の母とは永年、別れて暮らすようになった。それでも、いや、それだからこそ「母あればこそ」は郷愁の歌としていつも心に流れていた。何とかしてこのレコードを手に入れたいものと思って探したが見つからなかった。

そこでNHKがラジオ第1放送で毎週日曜日の午前10時からはじまる「歌の日曜散歩」にリクエストしたら、すぐ採用された。

何十年ぶりに聞く「母あればこそ」だったが、その番組を聴いた広島の未知の人がテープを送ってきて下さって二重の感激に浸った。やがてレコードも「ラジオの時代」に組まれて発売され入手した。母は2005年の正月、98歳、忽然と逝った。しかし、この経緯は知らずに。

「山ふところの たそがれは 胸に染み入る 雲のいろ ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くはるかに 想うもの」。母はこの歌と共にいつまでも私の胸に生きている。(了)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2007年05月11日

◆得意技は捏造?


                            渡部亮次郎

伊藤律 架空会見記事捏造事件【朝日】

1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見
記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の
幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

伊藤律氏はレッド・パ−ジ(1949-50年に行われた共産党員の公職追放)で
地下に潜行中だったが、その記事の見出しは「姿を現した伊藤律氏 本
社記者宝塚山中で問答」

「徳田氏は知らない 月光の下 やつれた顔」となっていた。この記事
は、3日後の9月30日付け夕刊で「ねつ造記事と判明した」として、
陳謝と全文取り消しの社告で抹消され、縮刷版のこの日の社会面の中央
は白紙になっている。

『朝日新聞社史』昭和戦後編125ページに「伊藤律架空会見記」の項があ
る。

記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕
組んだ全くの狂言でした」 と弁明。戦後生まれ変わった朝日新聞の輝か
しいねつ造の扉を開いた金字塔。

のちに分ることだが伊藤律は共産中国に匿われていた。

サンゴ事件。

平成元年の4月20日に起きた朝日新聞による自作自演事件。朝日新聞記
者が沖縄にある珊瑚礁にK・Yという落書きを発見、夕刊1面で報じた。

ところが、その後の調査の結果、朝日新聞記者が傷をつけて記事として
書いた自作自演報道であることが発覚した。

当初は傷をなぞって深くしただけ釈明していたがのちに全て記者の仕業
と判明。一柳社長が引責辞任した。辞任した一柳元社長も会見で伊藤律
架空会見記事捏造事件引き合いに出して謝罪した。

第2次NHK番組改変問題

2001年1月30日に放送されたNHK「ETV2001『問われる戦時性犯罪』」の番
組改変問題は国会と裁判所において一応の結論が示され収束していたが、
2005年1月12日に朝日新聞が朝刊1面に突然記事を出し「第2次NHK番組改
変問題」が勃発。未解決である。

http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200501251539.html
↑参照。

渡部亮次郎のメイルマガジン『頂門の一針』797号(2007・5・10)で報じら
れた「日本軍が朝鮮人女性をさらって慰安婦にしていた、という話は実
を言うと朝日新聞記者の創作だった」。元産経新聞記者で先ごろまで大
学教授だった高山正之氏が週刊新潮のコラム「変見自在」(2007年5月17
日号)で紹介している。――これがこの通りだとなると明らかな捏造とい
うことになる。

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2007年05月10日

◆朝日新聞記者の創作


                          渡部亮次郎

「日本軍が朝鮮人女性をさらって慰安婦にしていた、という話は実を言うと朝日新聞記者の創作だった」。元産経新聞記者で先ごろまで大学教授だった高山正之氏が週刊新潮のコラム「変見自在」(2007年5月17日号)で紹介している。

「記者の名は植村隆。妻は朝鮮人で、その母は反日団体の幹部だった。彼が書いたのが『金学順』の物語だった。金学順は14歳で妓生(キーセン)の置屋に売られ、17歳の時に養父に中国奥地の慰安所に売り飛ばされた。

それを植村は女子挺身隊の名で戦場に連行され日本軍人相手に売春行為を強いられた、と書いた。女子挺身隊とは何かも知らないお粗末な原稿だが、朝日新聞は疑いもしないでそれを載せた。

さらには嘘を厭わない学者や河野洋平のようなおつむにやや難のある政治家も動員して植村の嘘を飾り立て、遂には『20万人の女を性の奴隷にした20世紀最大の人身売買事件』に仕立てた」。

いまや中国、韓国に留まらず、日本外交の基軸たる日米関係をも危うくしようとしている慰安婦問題の真相がこれなのである。なんとも酷い記者を抱えたものだ。

1958(昭和33)年高知県生まれというからまだ50前。日本で売春が犯罪と決まった年の生まれだから女子挺身隊も女郎も知るわけない。早稲田大学政経学部卒。1982年朝日新聞入社。

千葉支局、韓国特派員を経て、現在朝日新聞中国特派員。韓国語の学習のため朝日新聞社員になってから延世大学に留学もしている。彼の妻は、日本政府に対してアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件を起こした韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の常任理事、粱順任の娘である。

韓国特派員時代の1991年8月11日の朝日新聞に(10日ソウル発)として初めて慰安婦に関する記事を掲載。これが韓国のさまざまな新聞に転載され、慰安婦問題がクローズアップされた。

取材対象であった金学順の証言とされる記事内容と、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件における金学順の陳述に相当異なる点がある。

特に女子挺身隊なる用語と慰安婦を結びつけた『日中戦争や第2次世界大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、』という記述は事実に反するものであるが、これまで記事内容の訂正はされていない。

記事本文-『日中戦争や第2次大戦の際、戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。

同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、やっと開き始めた。

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2007年05月08日

◆悩ましいウィキペディア


渡部亮次郎

昔は平凡社の世界大百科事典があって便利だったが、流石に昔のもので、大半、使い物にならない。そこでアメリカのコンピュータ会社マイクロソフトがネットで捜せる百科事典を売り出した。CD1枚だから場所をとらないが、日本語が怪しくていまひとつ満足がいかない。

そこで、ついついインターネット上で、無料で便利な「フリー百科ウィキペディア」を使うことになるが、とんでもない穴が開いていて危ない。

元特攻隊員の有名人を調べると「2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる」と出ている。

しかし衆院副議長、外務大臣3回、厚生大臣2回、官房長官を務めた園田直はかなりの有名人の筈だが欠落している。

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\特別攻撃隊 - Wikipedia.htm

そこで、そもそも「フリー百科ウィキペディア」を「フリー百科ウィキペディア」で検索すると「フリー百科ウィキペディア」の欠点が指摘されている。

ウィキペディア (Wikipedia) はインターネット上で作成、公開されているオープンコンテント方式の多言語百科事典。ウィキメディア財団の展開する最初の多言語プロジェクトである。

日本版の利用者数は2005年2月には221万人。2006年3月には700万人に成長している。日本版のユーザーの3%は英語版へ頻繁に訪問している。英語版は1416万人である。

Wikipedia(ウィキペディア)という名前はウィキペディアが使用しているソフトウェアである「Wiki (ウィキ)」と、百科事典を意味する英語「encyclopedia(エンサイクロペディア)」から合成されたものである。

執筆・編集は、主に参加者の共同作業によっておこなわれており、自由参加型である点に特徴がある。

しかし誰もが自由に参加できるため、情報の精度・信憑性は必ずしも保証されるものではない。特に政治や宗教、価値観のように意見対立が起きやすいテーマでは編集合戦がしばしば起きている。

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2007年05月07日

◆ケ(とう)小平に逆った人々


渡部亮次郎

中国経済の改革開放を主張するケ(とう)小平。その彼自身を含む八大
元老こそが彼の敵だったのである。

八大元老(はちだいげんろう)とは八老とも呼ばれ、1980年代から1990
年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団で
ある。

非公式の集団ではあるが、中共中央政治局常務委員会(1987年11月は趙
紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林の5人)をしのぐ権威を持っており、重要な決定は彼らにゆだねられる事もあった。

第2次天安門事件の武力行使【6・4事件】、趙紫陽の総書記解任(解任理由の1つに、訪中したゴルバチョフに「最終決定はケ(とう)小平にある」と明かしたためとされる)や、後任を江沢民に据える決定は彼らの意思で行われたとされる。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。

メンバーのうち7人は以下の通り。

(1)ケ(とう)小平 中央軍事委員会主席(1980年-1989年)、中央顧問委員会主任(1982年-1987年)

(2)陳雲 中央顧問委員会主任(1987年-1992年) 。彼がとうの最大の敵
だった。つまり毛沢東路線の継承第一人者だった。

(3)彭真 全国人民代表大会主席(1983年-1988年)

(4)楊尚昆 中華人民共和国主席(1988年-1993年) 。彼はとう支持者。

(5)薄一波 中央顧問委員会副主任

(6)李先念 中華人民共和国主席(1983年-1988年)、その後全国政協会議主席

(7)王震 中央顧問委員会副主任

人目が誰になるかについては諸説あるが、一般的にはケ頴超(中国人民
政治協商会議議長(1983年-1988年)、周恩来未亡人)とされる。

後に李先念より下の3人と入れ替わる形で、宋任窮 中央顧問委員会副議
長、全国人民代表大会主席(1988年-1993年)を勤めた万里、習仲勲が入った。

この中で2007年現在存命しているのは万里だけである。

とう反対派の実行部隊はケ(とう)力群元中央宣伝部長、宋平政治局常務委員、李錫銘北京市党委書記らで、とう氏はいたるところで彼らを名指しで批判した。

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2007年05月06日

◆口舌の徒、旧聞

                           渡部亮次郎

新聞のことを江戸時代は「読売」と言った。
<よみ‐うり【読売り・読み売り】
江戸時代、世間の出来事を速報した瓦版1枚または数枚刷りの印刷物を、内容を読み聞かせながら売り歩いたこと。また、その人>(YAHOO辞書)

噂話の真相に近付いて「ニュース」として書き、刊行して売るのが読売。読売新聞の深淵がここにあった。新しく聴いた話。新しい知らせ。新しい見聞というのが広辞苑の説く「新聞」の一義的な定義である。

それなのに朝日新聞は一日に論説21本を纏めて掲載したと聞いて「口舌の徒」と思わず呟いてしまった。内容はともかく、自己主張を読者に纏めて押し付けるとは穏やかではない。広辞苑が誤りでなければ、この新聞社はおかしくなること請け合いだ。

口舌の徒。こうぜつのと。弁舌に優れて、実行力の無い者。新聞:社会の出来事の報道、解説、論評を、すばやく、且つ広く伝えるための定期刊行物。(以上いずれも広辞苑)。

取材が下手な記者が多くなって、特種が取れなくなった。それでもページを作って広告を載せなければ収入にならないから、こねくり回した屁理屈を『論説』ヅラして印刷するか。

これについて元朝日新聞記者の友人が、当「頂門の一針」790号(5月
4日付)で嘆いて次のように書いた。

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2007年05月03日

◆篭脱け詐欺に怒れ

                       渡部亮次郎

金品を預かった上、表口に人を待たせて建物の中に入り、裏口から抜け
出して跡をくらます詐欺のことを「篭脱け詐欺」と言う(広辞苑)。温
家宝中国首相の国会演説の手口はこの籠抜け詐欺の手口そのものなのに
国会議員は口をあんぐりさせたまま、外務省は抗議したとの報道もない。

あまつさえ温首相は天皇への表敬の席で予定に無かった北京五輪への招
待を突如持ち出して「後ろ足で砂をかけた」というか最後っ屁を放って
去った。あまりにも我々を愚弄している。

両国全土にテレビ中継された国会演説で温首相は演説原稿にはあった
「戦後、日本の平和発展の道を中国人民が支持する」と言う部分を読み
飛ばした。これはハプニングなんかではなく意図的に飛ばしたのである。

安倍総理がよく使うフレーズだから人民には聞かせたくなかったのであ
る。しかも靖国参拝を念頭において「実際の行動で示せ」とは実に又失
礼である。それなのに満堂大拍手なのだから日本の国会議員はどうかし
ている。一部にはさすが渋面をした議員もいたが。

だいたい温首相如き軽輩を天皇に合わせた外務省がどうかしている。こ
ちらが先に総理大臣訪中をして敬意を最大級に表したのに総書記でなく
首相を訪日させるとは失礼この上ないのに、あまつさえ天皇表敬を許す
とは舐められすぎている。

産経新聞の山本秀也記者がワシントンから暴いたところ(4月22日付紙面)によると、中国共産党は温首相の訪日に先立って1月に北京で出版・報道管制に関する党・政府連絡会議を開き、対日報道について「中日関係の大局を妨げてはならない」と情報操作を指示していたことが明らかになった。

これは対日関係の改善を決断した外交路線に国内外のメディアを従わせ
る一方、報道関係者が当局のガイドラインを超えて独自に安倍政権など
を論評することを規制したものだと山本記者は言っている。

これを証明するように中国国内では温訪日に向けて公式メディアの対日
論調が極めて軟化していた。つまり中国共産党は対日世論を自らの都合
の良いように操作しているわけで、演説を聴いた加藤紘一氏が「練りに
練った演説」と言ったように、日本は練りに練って翻弄されているのだ。

それなのに沈黙している。!)(とう)小平が隠し通したように日中友好が必要なのは日本ではなく中国なのだ。確りしろ。

(4月28日付け「夕刊フジ」掲載を再掲)