2007年05月03日

◆篭脱け詐欺に怒れ

                       渡部亮次郎

金品を預かった上、表口に人を待たせて建物の中に入り、裏口から抜け
出して跡をくらます詐欺のことを「篭脱け詐欺」と言う(広辞苑)。温
家宝中国首相の国会演説の手口はこの籠抜け詐欺の手口そのものなのに
国会議員は口をあんぐりさせたまま、外務省は抗議したとの報道もない。

あまつさえ温首相は天皇への表敬の席で予定に無かった北京五輪への招
待を突如持ち出して「後ろ足で砂をかけた」というか最後っ屁を放って
去った。あまりにも我々を愚弄している。

両国全土にテレビ中継された国会演説で温首相は演説原稿にはあった
「戦後、日本の平和発展の道を中国人民が支持する」と言う部分を読み
飛ばした。これはハプニングなんかではなく意図的に飛ばしたのである。

安倍総理がよく使うフレーズだから人民には聞かせたくなかったのであ
る。しかも靖国参拝を念頭において「実際の行動で示せ」とは実に又失
礼である。それなのに満堂大拍手なのだから日本の国会議員はどうかし
ている。一部にはさすが渋面をした議員もいたが。

だいたい温首相如き軽輩を天皇に合わせた外務省がどうかしている。こ
ちらが先に総理大臣訪中をして敬意を最大級に表したのに総書記でなく
首相を訪日させるとは失礼この上ないのに、あまつさえ天皇表敬を許す
とは舐められすぎている。

産経新聞の山本秀也記者がワシントンから暴いたところ(4月22日付紙面)によると、中国共産党は温首相の訪日に先立って1月に北京で出版・報道管制に関する党・政府連絡会議を開き、対日報道について「中日関係の大局を妨げてはならない」と情報操作を指示していたことが明らかになった。

これは対日関係の改善を決断した外交路線に国内外のメディアを従わせ
る一方、報道関係者が当局のガイドラインを超えて独自に安倍政権など
を論評することを規制したものだと山本記者は言っている。

これを証明するように中国国内では温訪日に向けて公式メディアの対日
論調が極めて軟化していた。つまり中国共産党は対日世論を自らの都合
の良いように操作しているわけで、演説を聴いた加藤紘一氏が「練りに
練った演説」と言ったように、日本は練りに練って翻弄されているのだ。

それなのに沈黙している。!)(とう)小平が隠し通したように日中友好が必要なのは日本ではなく中国なのだ。確りしろ。

(4月28日付け「夕刊フジ」掲載を再掲)


2007年05月02日

◆鳩を寄せる悲しみ

                          渡部亮次郎

鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階の我が家のベランダにも番(つがい)が産卵しに来る始末。

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2007年05月01日

◆ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ

                         渡部亮次郎

生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなったころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にカカラナイガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以って示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。
でも八代亜紀や大川栄作はでるがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」
は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

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2007年04月28日

◆アフリカを蚕食する中国


                         渡部亮次郎

蚕食とは蚕(かいこ)が桑の葉を食うように片端から次第に他国または他人の領域を侵略すること(広辞苑)。

中国人労働者9人とエチオピア人65人がエチオピア東部で殺害されたのは2007年4月24日早朝。中国人が何しに東アフリカまで? その認識の甘いところが日本人。中国資本がここでも石油開発を行っており、これに反発する武装グループ200人が開発中の油田を襲ったものだった。

ケ(とう)小平が決めていった経済の改革・開放政策。特に開放とは外国資本に中国を開放すること。1989年6月4日の天安門広場虐殺事件で下火になった時期はあったが、既に中国経済は外国資本無しではやっていけなくなっている。

その外国資本も大量に食うのが石油、天然ガスからなる電気等のエネルギーである。これに不足をきたせば4つの現代化はストップする。共産党幹部の懐に転がり込むワイロもまたストップする。とあっては中国が石油、天然ガス等の資源獲得に狂奔するのは当然である。

尖閣列島はじめアジアにツバをつける事は終了。近隣諸国とくにモンゴルは継続中。旧ソ連も目途が付きつつある、となれば残るはアフリカ大陸の各国しかないでは無いか。

わが日本は大使館も置いてないところがあるアフリカだが中国は早くから資源獲得のために外交的な手立ては十分してきたのである。経済は資本主義だが政治は独裁の専制政治だから計画政治とでも言おうか、早くて着実だ。

26日の産経新聞矢板明夫記者によると中国政府が石油、天然ガスと市場を求めてアフリカに雪崩を打つように進出していることにアフリカ各国民が強く反発している。

アフリカでの中国の主な進出状況(4月26日付産経新聞紙面から)

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2007年04月27日

◆内務省の時代


渡部亮次郎

日本にも内務省があった。明治時代から大東亜戦争の敗戦直後まで設置されていた省。GHQ(は戦後に来た占領軍)に解体された。
内務官僚出身の著名人(五十音順)。日本史に重大な功績を残した人々だ。

相川勝六 安倍源基 有松英義 粟屋仙吉 生悦住求馬 石破二朗 大麻唯男 奥野誠亮 海原治 萱場軍蔵 唐沢俊樹 北村隆 菅太郎(第二次池田内閣経済企画政務次官) 後藤田正晴 後藤文夫 小林與三次
鈴木俊一 竹内藤男館林三喜男 床次竹二郎 中曽根康弘 灘尾弘吉(内務次官) 秦野章 原文兵衛(特高警察課長、警視総監、参議院議長) 平岡定太郎(福島県知事、樺太庁長官 三島由紀夫の祖父)

船田中  町村金五 松本学(内務省警保局長 / いわゆる「革新官僚」) 村田五郎(内閣情報局、大政翼賛会、群馬県知事) 安井英二(勅選議員、文部大臣、厚生大臣、近畿地方総監) 横溝光暉 吉國一郎 吉田茂 (内務省出身、総理とは別人) 加々美武夫

内務省は.多くの国家に設置されている、警察・土木・衛生・地方自治など国内の行政を担当する中央官庁である。一般的に、内務大臣もしくは内務長官によって指揮監督される。

日本では、1873(明治6)年の設置から1947(昭和22)年12月31日にGHQの指令によって解体されるまで設置されていた内政・民政の中心省であり、内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った役職とみなされていた。

戦後、GHQは特別高等警察や検閲、国家神道の廃止を指示、更に内務省のもとでの中央集権的な警察制度の全面的な変革を求めた。また、警察関係を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。

アメリカには内務官僚と呼べる制度が存在しないことから、日本の封建体制打破に、内務省解体は不可欠とアメリカ占領軍のトップたちは結論付け、執拗な抵抗を排除して解体を実現した。

1947年に公布された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた(ただし、公職追放との絡みもあり、1945(昭和20)年の段階から内務官僚以外からの知事の政治任命が進んでいた)。

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2007年04月26日

◆デュポンの始めは爆弾屋


渡部亮次郎

1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニ
ューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を
訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピ
ューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天した
が、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョ
コ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行って
みよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州
のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品
で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

[「邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

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2007年04月25日

◆のど自慢の日


渡部亮次郎

ものの本によると、日本では1年365日、毎日何かの日である。たとえば
2007年に地方選挙の後半戦の投票日だった4月22日は、

(1)地球の日(アースデー)
(2)清掃の日(清掃法制定記念日)
(3)霊山神社例大祭(福島県)
(4)多賀祭(滋賀県)だった。

いい加減に1月19日と入れたら、パソコンは1月19日はのど自慢の日と出
た。

<NHKラジオの視聴者参加番組「のど自慢素人音楽会」が1946(昭和21)年
のこの日にスタートしたことに由来。

スタート当初の参加応募者は900人にものぼり、そのうち予選を通過したのは30人。応募者が歌った曲で多かったのは、当時の人気歌手・霧島昇が歌う『リンゴの唄』『旅の夜風』『誰か故郷を想輪ざる』などだったそうだ。

「のど自慢」は「明るく楽しく元気よく」をモットーに、1948年にはは
やくも全国コンク−ルが実施されるほどの人気を博し、NHKにおける戦後最初のヒット番組となり1953(昭和28)年にはテレビ放送が開始され、ラジオとテレビで同時放送されるほどに成長していった。

実は北島三郎、島倉千代子、美空ひばりはこの番組の常連。大物歌手と
してその名を知られる3人だが、彼らも当時は鐘の数を気にしつつ歌ったのだろうか>。

若原一郎、三船浩は合格によってレコード会社からスカウトされて歌手
になった。荒井恵子もそうだった。荒井は「森の水車」を初めて唄った
がNHK専属で、レコード会社には属してなかったから販売されたレコードやCDは残っていない。

「のど自慢」はいまではNHKの看板番組である。この世に歌がある限り続くのではないかと思われるぐらいだが、この世に歌がいくらあっても唄うのは大嫌いと言う人が居る。音痴である。だが音痴は訓練によって治るものだそうだ。

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2007年04月23日

◆岩手?の偉人東條英機


                       渡部亮次郎

岩手のNHKに記者として在勤中(1960-64年)、ほぼ県政を担当したが、県の幹部も県議会の幹部級も「東條英機は岩手県人」と言って譲らなかった。

原 敬(歴代19代)、斉藤實(30代)、米内光政(37代)。それに東條(40代)も岩手だと言うのだった。しかし父親は岩手人だが、本人は東京生まれの東京育ちだ。今になってみれば、その後、鈴木善幸が総理になった。岩手出身の総理はやはり4人だからいいじゃないか。

東條はアメリカとの戦争を始めた総理大臣で、敗戦後その責任を戦勝国に問われて極東軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられた。

その後何年もしてから靖国神社に合祀されていることが分って、さらに何年もしてから中国、韓国が「戦犯を祀っている靖国神社に総理大臣が参拝する事は許されない」と騒いで、若い人でも耳にするようになった名前である。

インターネットで「大日本帝国陸海軍資料館長」と言う方が「東條英機陸軍大将について」として東條の事績を詳細に記録しておられる。
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/toujou-memo.htm

これによると東條は、明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第1期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の3男(2人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生した。

因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條の三男である東條俊夫元空将補によると、次のような事情があったためだ。

本籍は既に東京に移していたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、英機も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していた。

このため、「東條は岩手出身」であると言われていたそうだ。いわば周囲の勘違い、といったらそれまでだが、「偉い人」を身びいきするのはどこにもあることで、岩手の人たちも東條が偉かったうちは身びいきし、戦犯になったら、無情な人たちはあれは本籍は岩手に無かったといいたいのだろう。

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2007年04月22日

◆国務次官補の田中均化


          渡部亮次郎
日本の外務省筋では、アメリカで北朝鮮外交を担当しているヒル国務次官補が「米国の田中均」と囁かれているという。対北朝鮮融和派と見られたからだろう。

イラク・イラン・北朝鮮外交で手詰まり観があるブッシュ政権が、ヒル国務次官補を試しに使っているというのが、大方の見方である、と友人が教えてくれた。

そういえば中川昭一(当時経済産業大臣)に向かって「大臣、北朝鮮のような小さな問題ではなく、もっと大きな事に関心をもってくださいよ」などと発言したことに対し「北朝鮮による拉致で、子どもや家族が26年間も帰ってこない人たちがいる。それでも小さい問題なのか。 あなたみたいに北朝鮮のスパイみたいなようなことをしていては駄目なのだ」と中川大臣からどやされた。田中はどこへ行ったのだろう。

古い記録を調べた。05年03月31日付の読売新聞に
<田中均外務審議官(58)が、今夏に予定される外務省の定期人事異動を機に退官する方向となった。

外務省筋によると、同期の谷内正太郎氏が05年1月に外務次官に就任したことから、今夏の人事での大使転出を非公式に打診されたが、本人は固辞したという。

田中氏は北朝鮮高官と秘密交渉を重ね、2002年に小泉首相の電撃的訪朝を実現させた。一方、自民党などから「北朝鮮に融和的すぎる」との批判も招いた>とあり、退官後、日本国際交流センターシニア・フェロー。2006年春より東京大学公共政策大学院客員教授になっていた。拒否しなければ彼のプライドが許さなかった。

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2007年04月21日

◆米国は日本の番犬サマ


                         渡部亮次郎

興味があって椎名悦三郎(故人)と言う政治家の事績を調べているのだが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が指摘している事の一部は確認できなかった。

<外相時代は、戦前の朝鮮支配に関して野党から「深く反省しているとはどういう意味か」と問われ「シミジミ反省している、という意味でございます」と答弁したことや、

日米安保条約上のアメリカ軍の存在意義を問われて「米軍は日本の番犬です」と答弁し、驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、

平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたことで知られる。これだけ聞くと問題発言のようにも聞こえるが、全体を通して聞けばそれほど問題発言ではない(第51回国会(1966年3月)の議事録)>。

特に、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁をしたとにはなっていないのである。第51回国会(1966年3月)の議事録とは昭和41(1966)年3月18日(金)午前10時すぎから開かれた衆議院外務委員会でのことである。

○ 椎名国務大臣(外務大臣) 核兵器のおかげで日本が万一にも繁盛しておりますというような、朝晩お灯明をあげて拝むというような気持では私はないと思う。

ただ外部の圧力があった場合にこれを排撃するという、いわば番犬――と言っちゃ少し言い過ぎかもしれぬけれども、

そういうようなものでありまして、日本の生きる道はおのずから崇高なものがあって、そしてみずからは核開発をしない。そして日本の政治の目標としては、人類の良識に訴えて共存共栄の道を歩むという姿勢でございます。

ただ、たまたま不量見の者があって、危害を加えるという場合にはこれを排撃する、こういうための番犬と言ってもいいかもしれません、番犬様ということのほうが。

そういう性質のものであって、何もそれを日本の国民の一つの目標として朝夕拝んで暮らすというような、そんな不量見なことは考えておらないのであります。

○岡良一委員(日本社会党) しかし大臣の先ほど来言われたことは、核兵器を神の座につけると言ったのに対しあなたはお灯明と言われたが、核兵器に日本の安全を依存せざるを得ないということを認められておる。したがって、依存しておる、こういうことだけは間違いはないのでしょう。

○椎名国務大臣 遺憾ながら現実の世界においては依存せざるを得ない、こういうことであります。

<驚いた質問者が「米国を番犬とは何事か」と難詰すると、平気な顔をして「失礼しました。それでは、番犬サマです」ととぼけた答弁>したというから議事録を最後まで再三通読したが、遂に発見できなかった。いずれにせよ伝説は作られて行くもののようだ。

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2007年04月18日

◆とう小平秘録・核心


                         渡部亮次郎

待望の第2部が2007年4月17日から始まった。言わずと知れた伊藤正記者による産経新聞の連載「ケ(とう)小平秘録」である。自分が言い出した経済の改革・開放路線を徹底させるための保守派との死力の実態が明らかにされる。

伊藤さんに面識は無いが、先輩古澤襄(のぼる)さんによると、初め共同通信の優れた中国ウオッチャーとして鳴らしたが、産経新聞社に移り、現在、中国総局長(在北京)の地位にある。中国当局の厳しい監視下に置かれながら、中華人民共和国の隠された実態に迫っている。

中国に関する取材、分析においてわが国第一人者と評価している。情報によれば2月14日から3月18日まで32回に亘った第1部は中国のあらゆるインターネットのブログから当局によって削除されたという。

これは伊藤記者の分析と透視がそれだけ問題の核心を突き、当局の恥部をえぐったと言うことである。隠しておきたい真実を暴いたと言うことである。

ケ(とう)小平は3度目の復活を遂げた時、すでにNo.1の実力者だった。共に共産主義革命成就のために戦った毛沢東、周恩来既になく、毛の後継者に祭り上げられた華国鋒は毛を騙し続けた4人組逮捕により影が薄かった。

1978年8月、園田直外相を団長とするわれわれ日中平和友好条約の締結交渉団が北京入りしたのは8日夕刻。私にとっては2度目の北京入り。1回目はNHK記者として日中国交回復交渉の田中角栄総理に同行取材。6年後の今回は外相秘書官としてのものだった。

交渉は2日で事実上妥結、と言うよりも中国の態度が一変し、全面的に日本案を受け入れてきたのだ。それはケ(とう)復活の結果だったのだが、我々はまだそれに気付いていなかった。我が方大使館の情報収集レベルはその程度だった。

それはともかく、3日目の10日午後4時、人民大会堂でケ(とう)副首相と園田外相との会談が約1時間行われた。その翌日、華国鋒との会談。しかし中国側の態度の変化は露骨だった。会談のメンバーに事前登録されていなかった園田外相の個人秘書が会談の部屋に残っても出て行けとは言わなかったのである。

鋭い記者感覚を持った外交官なら、こういうところに問題展開の本質を見るところだが、どうも日本の外交官は発言とか文書を追うことにばかり神経が行って、問題の本質を見逃す。仕草から本心を見抜けぬようでは女性の口説も無理だね。

脱線するが、日本がアセアン(東南アジア諸国連合)の外相会議に初めて招かれた時、会談のテーブルの配置は、アセアン側5カ国(当時)がずらり横に並び、反対側に日本がぽつんと独りという配置になっていた。

これじゃ「口頭試問だ」と私は喚き、結局、園田提案で予め6角形に配置しなおされた。さすが園田外相は海に千年、山に千年住んだ龍にたとえられる海千山千の猛者。「日本の外務大臣、口頭試問を受けに参りました」とアセアン側の冷たさを逆手にとり、満場、爆笑して気分が一挙に和やかになった。

私は記者としては内政、それも自民党担当一筋だったし、外務大臣秘書官と言っても外交は素人。それでも華国鋒に先のないこと、当に(まさに)ケ(とう)時代の到来を実感した。

帰国前日の夜、日本大使館前庭の薄明かりの下、何十人と言う人の蠢きがあったので、大使、これは何ですか、と聞いたら大使は「何でもありません」と答えた。これがやがて国を揺るがす中国残留日本人孤児たちだった。それを何でもありませんとは。園田さんに連れて帰ってもらおうと駆けつけたのだった。

ケ(とう)小平は秋になって生まれて初めて日本を訪れ条約の批准書の交換に立会った。生まれた初めて鮪の刺身も一口食べさせられた。想像もつかない超高速で走る新幹線に乗せられ「後ろから叩かれるようだと」洩らし、4つの現代化の実現の決意を固めた。

4つの現代化。四化と略す。工業、農業、国防、科学技術の近代化。初めは周恩来が唱えたが進まず、ケ(とう)時代になってやっと具体化した。日本から帰ったケ(とう)が翌79年12月に3段階論を打ち出した。

即ち第1段階では国民総生産(GNP)を1980年の2倍にし、第2段階では20世紀末までにGNPを更に2倍にして、人民生活を小康(まずまずの生活)水準に持って行き、第3段階即ち21世紀の中葉までに1人あたりのGNPをさらに4倍にして中進国水準に到達すると言うもの。

その途中で起きたのが1989年6月4日の第2次天安門事件だった。あろうことか人民解放軍が人民に銃を向け伊藤記者の表現では少なくとも数百人のインテリ、学生が殺された。それを命じたのはケ(とう)小平だった。

始まった第2部は引退後、保守派の蠢動で経済の改革・開放が勢いを失いかけているのを見て苛立つケ(とウ)小平が、のちに「南巡講話」と呼ばれる、改革梃入れの旅に出るところから始まった。興味津々(しんしん)である。文中敬称略。2007.04.17

2007年04月17日

◆米国防総省外国語学校

                         渡部亮次郎

米国防総省外国語学校(DLI)の前身は陸軍情報部日本語学校である。元アメリカ陸軍中尉だった加藤喬さんが詳しく書いておられる。加藤さんは曲折を経て現在、ここの日本語部長である。

陸軍情報部日本語学校については、長く親しくしていただいたコロンビア大学教授で文化人類学学者のハーバート・パッシンさん(故人)から「母校」と聞かされていたので興味を抱いていた。特に戦争を前に英語を禁止した日本、慌てて日本語教育を始めたアメリカの対比としても。

以下、加藤部長の話である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/

DLI。日本人にとっては、因縁のある生い立ちです。また、DLI学生の任務を知ることで、ぼくが用いる、独特の教育方法も浮き彫りになると思います。

太平洋戦争前夜の1941年11月1日、陸軍情報部日本語学校(MilitaryIntelligence Service Language School)が、サンフランシスコのとある古びた格納庫で秘密裏に開校されました。

「まず敵を知る」当時から情報を重視する米軍の姿勢の現れでした。
(12月8日に日米間の戦端が開かれた。真珠湾攻撃)。

最初はジョン・アイソ、シゲヤ・キハラ、アキラ・オオシダ、テツオ・イマガワの4人の二世教授が52人の日系軍人と2人の白人軍人を教えるつつましい船出でした。

開校から数ヵ月後、フランクリン・ルーズベルト大統領が、行政命令(Executive Order)9066号を発令しました。

民主国家アメリカで、なんらの法的手続きも経ず、日系米国市民や在米日本人が強制収容所への移住を余儀なくされた、あの法令です。

多くの二世を抱える陸軍日本語学校も例外ではなく、山深いミネソタ州サベージ基地に移転しなければなりませんでした。

いわれない敵性市民(hostile citizens)の汚名を着せられていた彼らが「名誉挽回」(Redeeming of Honor)にかける気概は悲壮で、寝る時間が惜しい午後10時の消灯後も、毛布のなかで懐中電灯の光を頼りに勉強したと言います。

(パッシン教授の話では、あまりの強行訓練に耐えかねて自殺した人も居たとか)。

配属後、卒業生たちは南方の島々に赴き、玉砕覚悟の日本兵に投降を訴えたり、捕虜となった日本兵の尋問(interrogation)や捕獲書の翻訳、暗号解読に活躍しました。

見通しの悪いジャングルでの任務には日本兵と間違えられ、誤射される危険が付きまといましたが、彼らは怯(ひる)みませんでした。その勇敢さから「ヤンキー サムライ」と呼ばれるようになったのです。

約6000人に達した二世卒業生の活躍は、太平洋戦争終結を2年早め、米軍将兵100万人の命を救ったとも言われています。

戦後、日本に進駐した語学兵のなかには、極東裁判(The International Military Tribunal for the Far East)で通訳を務めた者もいました。

冷戦中は情報機関のエージェントとなって日米の中継ぎをした人物もでたそうです。

(著名な日本研究家、日本文化の紹介者であるドナルド キーン氏やエドワード サイデンステッカー氏を思い浮かべる読者がいるかもしれませんが、彼らは海軍の日本語学校出身です)

以来、この学校は移転と名称変更、教育言語の追加を繰り返し、70年代、国防総省外国語学校(Defense Language Institute Foreign Language Center: DLI)として現在のカリフォルニア州モントレーに落ち着きました。

今日、ここには発足当時のつつましい面影はありません。アメリカの国益に影響する24カ国語を教え、学生総数2500人、教官
750名に達する全米一の語学学校です。しかも同時多発テロを境に、成長の速度を増しています。

DLIは太平洋を見下ろす小高い岡の斜面にあり、全米屈指のゴルフ場や高級住宅街に隣接していますが、それが少しも不自然ではありません。軍の基地というよりは、瀟洒な大学キャンパスか史跡のような趣なのです。

ある意味で、それはどちらとも正しいのです。軍組織ですが、DLIはカリフォルニア州立短大として認められており、高卒の若い兵士はここで修めた語学単位を将来の大学教育に活かすことができる仕組みになっています。また、敷地自体もスペイン統治時代に築かれた要塞(Presidio)で、州の文化遺産に指定されています。

ぼくがここで教鞭をとり始めたのは「砂漠の嵐作戦」(Operation Desert Storm)から帰還後の1991年。陸軍中尉でした。

日本に居所を見出せず渡米したぼくは、移民がアメリカ社会で認められる最短距離のひとつ、つまり、米軍将校になることに活路を見出したのです。

大学に併設された陸軍予備役士官訓練部隊(Reserve Officers' Training Corp: ROTC)に入隊。在学中は一般科目のほか歩兵訓練、指揮官訓練に明け暮れ、卒業時に陸軍少尉(Army Second Lieutenant)に任官(Commission)しました。

中東駐留中にDLI任務のオファーがあったのです。渡米初期から英語が苦手だった者が、皮肉にも米軍で日本語を教えるとは想定外の成り行きでしたが、砂漠生活に辟易としていた自分は即諾しました。

DLIで教えられる言語の盛衰は、アメリカの国益と密接に結びついています。

1941年には日本語だったように、冷戦中はワルシャワ条約機構軍(Warsaw Pact)との衝突が懸念されたため、ロシア語やドイツ語が幅を利かせました。トンキン湾事件を境に伸びたのはベトナム語でした。

いま基地内を見回すとアラビア語、ペルシャ語、中国語、韓国語が主流です。アメリカにとって、厄介が予測される地域の言語が伸びるといっても良いでしょう。

したがって教える側にとっては二律背反の心境です。79年のイラン革命で米国に亡命したイラン人教授に体育館などで顔を合わせると、母国と米国との間で身動きならない苦しい胸のうちを聞かされることもあります。

実際に戦火を交えているイラクやアフガニスタン出身教授の場合はもっと過酷なことでしょう。中国語や韓国語の教官だって、明日は我が身の心境かもしれません。

創設の歴史から見ると意外ですが、この点で日本語学部は際立って違っています。学生には佐官将校(Field Grade Officer)やベテラン下士官(Seasoned NCO)が目立ちます。卒業後も大使館付き武官(Military Attache)を務めたり、自衛隊の幹部学校に留学したり、連絡任務(Liaison Duty)についたりする者が大半です。

現在幅を利かせる4言語と異なり、日本語は「味方の言語」だからです。したがって、学生の大半が通信傍受員(Radio Interceptor)や尋問官(Interrogator)である他の学部とは、おのずと学生の年齢層も違っています。

他学部の学生は多くが高校卒業と同時に入隊した新兵ですが、日本語学部では30代後半の職業軍人(Carrier Officers & Soldiers)も少なくありません。

学歴はないが記憶力に勝る若者と、博士号まで持つ空軍パイロット、陸軍の精鋭「グリーンベレー」、そして陸海空を舞台とする海軍特殊戦隊員(SEAL)などの中高年が机を並べるわけです。

つまり、日本語学部の教官には、この両極端のグループをいかに平等に効率よく教えるかという難題が問われているのです。

実を言えば、生え抜きの職業軍人の方が学生としては扱いにくいこともままあります。彼らの多くが、これまでの人生で大きな失敗を体験したことのないエリートだからです。

これらの完ぺき主義者(Perfectionist)は、まだあどけなさの残る2等兵、1等兵が膨大な漢字や単語を嬉々として消化し、奇怪な文法を操る様に驚愕するのです。

生まれて初めて挫折の苦さを味わい、ストレスと自責に苛(さいな)まれます。生真面目で自分を笑うことのできない者ほど危ないと言えます。

放っておくと、ストレスが昂じて爆発してしまうからです。佐官クラスが激昂したら、一兵卒はその場で萎縮してやる気を喪失してしまいます。だから教官は、それぞれの学生が耐えられる限界を常々感じ取り「力の抜きどころ」を押さえておかなければならないのです。生やさしいことではありません。

大学院や研修会で学べることでもありません。長年、海千山千の学生と接触することで培われる、一種の職人芸だといえるでしょう。どれほど教室環境がデジタル化され、紙の辞書が電子辞書やノートパソコンに取って代わられても、機械が生身の学生に言葉を教えるわけにはいかない所以(ゆえん)です。

DLIでの授業風景を写した写真を下記にアップしました。
http://www.namiki-shobo.co.jp/gntaisiki/guntaiphoto.html

引用転載許可2007・04・16

◎元米陸軍大尉が教える!![軍隊式英会話術]
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2007・04・13


2007年04月16日

◆これほどの大物が居た

                        渡部亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

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