2007年04月17日

◆米国防総省外国語学校

                         渡部亮次郎

米国防総省外国語学校(DLI)の前身は陸軍情報部日本語学校である。元アメリカ陸軍中尉だった加藤喬さんが詳しく書いておられる。加藤さんは曲折を経て現在、ここの日本語部長である。

陸軍情報部日本語学校については、長く親しくしていただいたコロンビア大学教授で文化人類学学者のハーバート・パッシンさん(故人)から「母校」と聞かされていたので興味を抱いていた。特に戦争を前に英語を禁止した日本、慌てて日本語教育を始めたアメリカの対比としても。

以下、加藤部長の話である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/

DLI。日本人にとっては、因縁のある生い立ちです。また、DLI学生の任務を知ることで、ぼくが用いる、独特の教育方法も浮き彫りになると思います。

太平洋戦争前夜の1941年11月1日、陸軍情報部日本語学校(MilitaryIntelligence Service Language School)が、サンフランシスコのとある古びた格納庫で秘密裏に開校されました。

「まず敵を知る」当時から情報を重視する米軍の姿勢の現れでした。
(12月8日に日米間の戦端が開かれた。真珠湾攻撃)。

最初はジョン・アイソ、シゲヤ・キハラ、アキラ・オオシダ、テツオ・イマガワの4人の二世教授が52人の日系軍人と2人の白人軍人を教えるつつましい船出でした。

開校から数ヵ月後、フランクリン・ルーズベルト大統領が、行政命令(Executive Order)9066号を発令しました。

民主国家アメリカで、なんらの法的手続きも経ず、日系米国市民や在米日本人が強制収容所への移住を余儀なくされた、あの法令です。

多くの二世を抱える陸軍日本語学校も例外ではなく、山深いミネソタ州サベージ基地に移転しなければなりませんでした。

いわれない敵性市民(hostile citizens)の汚名を着せられていた彼らが「名誉挽回」(Redeeming of Honor)にかける気概は悲壮で、寝る時間が惜しい午後10時の消灯後も、毛布のなかで懐中電灯の光を頼りに勉強したと言います。

(パッシン教授の話では、あまりの強行訓練に耐えかねて自殺した人も居たとか)。

配属後、卒業生たちは南方の島々に赴き、玉砕覚悟の日本兵に投降を訴えたり、捕虜となった日本兵の尋問(interrogation)や捕獲書の翻訳、暗号解読に活躍しました。

見通しの悪いジャングルでの任務には日本兵と間違えられ、誤射される危険が付きまといましたが、彼らは怯(ひる)みませんでした。その勇敢さから「ヤンキー サムライ」と呼ばれるようになったのです。

約6000人に達した二世卒業生の活躍は、太平洋戦争終結を2年早め、米軍将兵100万人の命を救ったとも言われています。

戦後、日本に進駐した語学兵のなかには、極東裁判(The International Military Tribunal for the Far East)で通訳を務めた者もいました。

冷戦中は情報機関のエージェントとなって日米の中継ぎをした人物もでたそうです。

(著名な日本研究家、日本文化の紹介者であるドナルド キーン氏やエドワード サイデンステッカー氏を思い浮かべる読者がいるかもしれませんが、彼らは海軍の日本語学校出身です)

以来、この学校は移転と名称変更、教育言語の追加を繰り返し、70年代、国防総省外国語学校(Defense Language Institute Foreign Language Center: DLI)として現在のカリフォルニア州モントレーに落ち着きました。

今日、ここには発足当時のつつましい面影はありません。アメリカの国益に影響する24カ国語を教え、学生総数2500人、教官
750名に達する全米一の語学学校です。しかも同時多発テロを境に、成長の速度を増しています。

DLIは太平洋を見下ろす小高い岡の斜面にあり、全米屈指のゴルフ場や高級住宅街に隣接していますが、それが少しも不自然ではありません。軍の基地というよりは、瀟洒な大学キャンパスか史跡のような趣なのです。

ある意味で、それはどちらとも正しいのです。軍組織ですが、DLIはカリフォルニア州立短大として認められており、高卒の若い兵士はここで修めた語学単位を将来の大学教育に活かすことができる仕組みになっています。また、敷地自体もスペイン統治時代に築かれた要塞(Presidio)で、州の文化遺産に指定されています。

ぼくがここで教鞭をとり始めたのは「砂漠の嵐作戦」(Operation Desert Storm)から帰還後の1991年。陸軍中尉でした。

日本に居所を見出せず渡米したぼくは、移民がアメリカ社会で認められる最短距離のひとつ、つまり、米軍将校になることに活路を見出したのです。

大学に併設された陸軍予備役士官訓練部隊(Reserve Officers' Training Corp: ROTC)に入隊。在学中は一般科目のほか歩兵訓練、指揮官訓練に明け暮れ、卒業時に陸軍少尉(Army Second Lieutenant)に任官(Commission)しました。

中東駐留中にDLI任務のオファーがあったのです。渡米初期から英語が苦手だった者が、皮肉にも米軍で日本語を教えるとは想定外の成り行きでしたが、砂漠生活に辟易としていた自分は即諾しました。

DLIで教えられる言語の盛衰は、アメリカの国益と密接に結びついています。

1941年には日本語だったように、冷戦中はワルシャワ条約機構軍(Warsaw Pact)との衝突が懸念されたため、ロシア語やドイツ語が幅を利かせました。トンキン湾事件を境に伸びたのはベトナム語でした。

いま基地内を見回すとアラビア語、ペルシャ語、中国語、韓国語が主流です。アメリカにとって、厄介が予測される地域の言語が伸びるといっても良いでしょう。

したがって教える側にとっては二律背反の心境です。79年のイラン革命で米国に亡命したイラン人教授に体育館などで顔を合わせると、母国と米国との間で身動きならない苦しい胸のうちを聞かされることもあります。

実際に戦火を交えているイラクやアフガニスタン出身教授の場合はもっと過酷なことでしょう。中国語や韓国語の教官だって、明日は我が身の心境かもしれません。

創設の歴史から見ると意外ですが、この点で日本語学部は際立って違っています。学生には佐官将校(Field Grade Officer)やベテラン下士官(Seasoned NCO)が目立ちます。卒業後も大使館付き武官(Military Attache)を務めたり、自衛隊の幹部学校に留学したり、連絡任務(Liaison Duty)についたりする者が大半です。

現在幅を利かせる4言語と異なり、日本語は「味方の言語」だからです。したがって、学生の大半が通信傍受員(Radio Interceptor)や尋問官(Interrogator)である他の学部とは、おのずと学生の年齢層も違っています。

他学部の学生は多くが高校卒業と同時に入隊した新兵ですが、日本語学部では30代後半の職業軍人(Carrier Officers & Soldiers)も少なくありません。

学歴はないが記憶力に勝る若者と、博士号まで持つ空軍パイロット、陸軍の精鋭「グリーンベレー」、そして陸海空を舞台とする海軍特殊戦隊員(SEAL)などの中高年が机を並べるわけです。

つまり、日本語学部の教官には、この両極端のグループをいかに平等に効率よく教えるかという難題が問われているのです。

実を言えば、生え抜きの職業軍人の方が学生としては扱いにくいこともままあります。彼らの多くが、これまでの人生で大きな失敗を体験したことのないエリートだからです。

これらの完ぺき主義者(Perfectionist)は、まだあどけなさの残る2等兵、1等兵が膨大な漢字や単語を嬉々として消化し、奇怪な文法を操る様に驚愕するのです。

生まれて初めて挫折の苦さを味わい、ストレスと自責に苛(さいな)まれます。生真面目で自分を笑うことのできない者ほど危ないと言えます。

放っておくと、ストレスが昂じて爆発してしまうからです。佐官クラスが激昂したら、一兵卒はその場で萎縮してやる気を喪失してしまいます。だから教官は、それぞれの学生が耐えられる限界を常々感じ取り「力の抜きどころ」を押さえておかなければならないのです。生やさしいことではありません。

大学院や研修会で学べることでもありません。長年、海千山千の学生と接触することで培われる、一種の職人芸だといえるでしょう。どれほど教室環境がデジタル化され、紙の辞書が電子辞書やノートパソコンに取って代わられても、機械が生身の学生に言葉を教えるわけにはいかない所以(ゆえん)です。

DLIでの授業風景を写した写真を下記にアップしました。
http://www.namiki-shobo.co.jp/gntaisiki/guntaiphoto.html

引用転載許可2007・04・16

◎元米陸軍大尉が教える!![軍隊式英会話術]
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http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/
2007・04・13


2007年04月16日

◆これほどの大物が居た

                        渡部亮次郎

名古屋市には、その中心に、100m道路がある。道幅100mの道路が東西南北に走っている。もちろんその100mの道幅そのものが、自動車の走行の為の道幅ではない。道幅100mの間には、公園もあれば、テレビ塔もある。

名古屋も戦後直後は、空襲でこの辺りも焼野原となった。戦後の混乱の時期に、市の幹部は、まず道路を設定した。その時に、未来に備えての道幅100mの道路を設定したのである。

さて、なぜ道幅100mの道路を名古屋の中心に東西南北に走らせたか?である。

戦後の焼野原を見ながら、どんな火災が起きても、延焼を食い止め、名古屋全域が焦土と化さないように名古屋の中心のタテヨコに幅100mの空間(道路)を作ったのである。

一方、将来来るはずの自動車社会を見越して東京中心部の設計をしたのが岩手県人後藤新平(ごとう しんぺい)綽名大風呂敷である。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小をされながらも実際に建設した。

当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の当時の時代では受け入れられなかったのも無理はない。

現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。上野と新橋を結ぶ昭和通りもそうである。日比谷公園は計画は現在の何倍もあったそうだ。

また、文京区内の植物園前 、播磨坂桜並木、小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。

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2007年04月14日

◆安倍総理大臣「閣下」と

                        渡部亮次郎

昔、映画に「拝啓天皇陛下様」というのがあった。極貧の家庭に育った青年。
徴兵された日本陸軍の衣食住が立派なので除隊になりたくない、
と天皇陛下に「おねがい」の手紙を書くという筋であった。

天皇陛下に対して陳情するのが可笑しいから笑える映画になったのだろ
うが、陛下に様を付けるのも可笑しかった。無学を笑う話でもある。実際は起こりえない話だろう。

ところがちゃんとした教育をうけた大人でも敬称のことを習う機会は無いのが昨今のようだ。メイルで「安倍総理大臣殿」という公開質問状が来た。総理大臣の殿とは失礼だとは思わぬご仁らしい。

そこで「大使ですら閣下なのに総理大臣に殿では失礼では無いですか」
と言ってあげたらだいぶ経ってから礼のメイルがあった。ご自分なりに調べて納得がいったらしい。

様とか殿以上の人に手紙を書くことの無いまま過ぎると、総理大臣に付ける敬称など知らぬまま、或いは恥をかいていることを知らぬまま死ぬことになる。そういう私は、人生の畑違い、外務省で大臣秘書官をさせられてあらためて知った。

大臣以上は「閣下」であり、大統領も閣下である。外交官では大使は閣下、総領事は「殿」を用いる。大臣は勅任官ではないが認証はされるから閣下でいいだろう。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
で「敬称」について書き込みがあったから引用、紹介する。

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2007年04月13日

◆笑顔で人を殺す国


                     渡部亮次郎

「中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。しかし、来日した温家宝首相のニコニコ顔に惑わされてはいけない。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ」と12日の産経抄は過去の経験を踏まえて戒めている。

そうなのだ、ケ(とう)小平は私の前に、にこやかに現れた。北京の人民大会堂。1978年8月10日、の本時間午後4時。6年越しの懸案だった日中平和友好条約にやっと目途をつけた我々交渉団は同行記者団と北京ダックの昼食をして一息入れたあとだった。

人民大会堂の玄関からテレビのライトに照らされながら1人の小男がゆったりと歩いてきた。それが「あの」ケ(とう小平)だった。合計3度の失脚から甦り、いまや最高実力者になろうとする副主席。

丸顔。既に74歳だが老人のシミはひとつも無い。失脚と復活を繰り返した自信からか余裕綽の雰囲気が出ていた。これが貫禄と言うものなのだ。

会談の冒頭、カーツ、ペッと痰壷にツバを吐き、下から園田直日本外相を見上げた。園田は睨(ね)めつけられた、気おされちゃいかんからオレもやろうとしたんだけどタンが出てこない。やったのは大分経ってからだった。

その2日後に会談する華国鋒国家主席や前日まで会談した黄華外相はメモを読みながら言葉を発するが、トウ氏はメモ一切なし。園田外相が「監獄に入っているときはどうでした?」と失礼なことを聞いても「俺は毛沢東にかばわれて軟禁だった、1日2時間の重労働はしたがね」と平然たるものだった。

老練。外相が思わず突っ込んでゆくと「ときにあんたは歳はいくつかね」ときて「あ、それならオレより十何歳も下だ、下だ」なんて言ってはぐらかしたりした。

尖閣列島をテーマにした時もにこやかに「今までどおり、20年デモ30年でも放っておけ」と言ったから、日本側は実効支配が認められたと解釈してしまった。尤もあそこで更に詰めようと言う雰囲気が双方に無かった。

日中平和友好条約とはケ(トウ)小平による中国4つの近代化と経済の改革、解放化を実質的に梃入れする担保であった。あの年から中国経済が飛躍的に伸びた事は誰も否定できない事実である。

にも拘らず、トウは日本から受けた莫大な経済援助について人民に一言も言っていない、ひた隠しして死んだ。死ぬ前に1989年6月4日、北京の天安門広場に集まっていた市民、学生に対して、人民解放軍に一斉射撃させ、何百人も殺したのもケ(トウ)小平だったのだ。

尤も、あの時に市民、学生の自由化要求を認めていたならば、中国共産党は滅亡に追い込まれた事は確実である。つまり中国共産党は自己を守り貫くためには、時に応じて笑いもするし殺しもする、断乎として。にこやかに殺すのである。騙されてはいけない。

<中国首脳の来日には、相手を懐柔するトウ小平型と、激しく威嚇する江沢民型がある。30年ほど前に来日したトウさんは、新幹線に乗って科学技術の水準の高さを褒めあげ、トウブームを起こした。コワモテの江さんは歴史認識で説教をたれ、尖閣諸島はおれたちのものだと欲張った。

 ▼きのう来日した温家宝首相は、表面的にはトウさんタイプかもしれない。国会で演説し、西京極球場では立命館大野球部員とキャッチボールに興じる予定だ。テレビは「これは絵になる」と大挙して押しかけ、彼に翻弄(ほんろう)されることだろう。

 ▼しかし、ニコニコ顔に惑わされてはいけない。日本のコメ輸入で合意したところで、恭しく調印したのはわずか25トンだ。大型トラック2台分で大きな顔はされたくない。東シナ海の資源開発で譲歩したわけでも、巨大軍事力を減らすといったわけでもない。

 ▼なぜか、温さんは記者会見を予定していない。大国の指導者らしからぬ。その理由は明かさないから、こちらで勝手に推測する。日中の「氷をとかす旅」なので、余計なボロは出したくないのがホンネだ。自虐的な日本人記者から、慰安婦問題や首相の靖国参拝の質問が出れば批判をせざるをえない。

 ▼すると中国内に跳ね返って、大衆の反日気分に火を付ける。中国経済のひずみを是正するのに、日本経済が役立つと考えているから、いまは困るのだ。

▼ 自著が発禁処分をうけた何清漣さんによると、小紙連載の「トウ小平秘録」を抄訳掲載したブログがネット上から削除されている。天安門事件はいまも「教えたくない歴史」なのだろう。

歴史を鑑(かがみ)とするとは彼の国の主張だが、自国には適用されないようだ。来日に水をさすようだが、微笑外交は腹に一物ありなのだ。>(産経抄 Sankei Web 2007/04/12 05:01)
2007・04・12


2007年04月12日

◆南部と津軽の不仲


                        渡部亮次郎

NHK記者の初めのころ、秋田県北部にある大館市に駐在したことがある。旧津軽藩と旧南部藩、秋田藩の中間点のような位置にある。キャバレーホステスは、旧津軽藩の城下町弘前(ひろさき)市方面出身者が殆どだった。

ここには1年しか居なかったが、何かにつけて「相馬大作事件」という言葉を耳にした。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
によれば、文政4年(1821年)に参勤交代を終え、江戸から帰国の途についていた、弘前藩主の津軽寧親を狙った暗殺未遂事件である。

犯人は、盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)。偽名として「相馬大作」と名乗っていた事に事件名が由来する。津軽藩主を殺そうと待っていた場所が大舘市郊外の矢立峠とされている。

裏切った仲間の密告により、寧親の暗殺に失敗した秀之進は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受ける、とある。

実に恥ずかしいことだが、1年後に盛岡藩(南部藩)の城下町たる盛岡市に転任し4年も滞在したのに、多忙も多忙だったが、相馬大作のことなど、すっかり忘れて今日に至ってしまった。

明治の廃藩置県で津軽と南部の一部が一緒になって「青森県」が出来たが、その後も同県内でありながら対立感情は解消せず、嫁のやり取りさえ皆無と聞かされた。現在はどうかは知らないが。

元々津軽氏(大浦氏)は南部氏の家臣(一族)であったが、初代津軽為信(大浦為信)は南部の後継者選定騒動の最中に1571年独立し、津軽と外ヶ浜地方を支配した。

さらに、津軽為信は小田原征伐の時に豊臣秀吉に認められ所領を安堵された。このような経緯から津軽氏と南部氏は元々犬猿の仲であった。

また、野辺地(のへじ)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺の帰属問題で両者がもめた際に、弘前藩は既得権益を積み重ね書類などを整備して幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はそれができなかったため、この地域は津軽藩のものとなった。

八甲田山山系を境界とするなら、この地区は盛岡藩の地区になるため、この処置は盛岡藩に不満をもたらした。これを檜山騒動という。
岩手県民は、これにより厖大なヒバ(翌檜)林を掠め取られた恨みも相馬大作事件に繋がったと信じられている。(ただ、この騒動は実際には相馬大作事件の107年前の出来事である)。

さらに、1820年南部利敬が39歳の若さで死亡(弘前藩への積年の恨みで死亡したとされる)。南部利用が14歳で藩主となるが、若さゆえに無位無冠であった。

対する津軽寧親はロシアの南下に対応するために北方警備を命じられ、従四位下に叙任された。盛岡藩としては家臣筋と思っていた弘前藩が上の地位にいることが納得できなかった。

秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現大館市白沢の国道7号線沿い。

物語では矢立峠とされることが多く、物語の記述には沿うが、誤っている地点に立て札もある)付近で花輪の関良助ら門弟4人と大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていたが、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。

(物語の多くでは木砲1発を打ち込んだことになっているが、実際には大名行列は現場を通らなかったし、小銃しか秋田藩に持ち込めなかった。また、密告した人は後に津軽藩に仕官することになる)

暗殺の失敗により秀之進は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、江戸に隠れ住んだ。しかし、幕吏(実は津軽藩用人笠原八郎兵衛)に捕らえられ1822年8月千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられる。享年は34歳であった。

一方、津軽寧親は藩に帰還後体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められた。これらを疎ましく思った寧親は数年後、隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごした。

事件から隠居までの期間、南部藩では当主替玉相続作戦などを行っていて、津軽どころではなかった。しかし寧親の隠居により、結果的に秀之進の目的は達成された。

当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、この事件は「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになる。

民衆は秀之進の暗殺は実は成功していて、津軽藩はそれを隠そうと、隠居ということにしたのではないかと噂した。

この事件は藤田東湖らに強い影響を与えた。当時15〜16歳で江戸にいた東湖は相馬大作事件の刺激から、後に『下斗米将真伝』を著した。この本の影響を受けて儒学者の芳野金陵は『相馬大作伝』著した。

これらはさらに吉田松陰に影響を与える。彼は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ暗殺が成功したか地元住民にたずね、また長歌を詠じて秀之進をたたえた。

吉川弘文館『国史大辞典』の相馬大作に関する評伝は、「武術を学ぶ一方で世界情勢にも精通した人物。単なる忠義立てではなく、真意は国防が急であることから、南部、津軽両家の和親について自覚を促すことにあったらしい」というものであった。ただ、松浦静山は「児戯に類すとも云べし」とこの一件を酷評している。

南部藩の御用人であった黒川主馬等が提唱した忠義の士相馬大作を顕彰事業により、南部家菩提所である金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。

この供養碑には頭脳明せきとなる力があるとの俗信が宣伝され、かつては御利益に預かろうと石塔を砕いてお守りにする人が後を絶たなかったという。

黒川家によれば、同家による補修・建て替えは数度におよび、現在の石塔は何代目かのものである。

妙縁寺(正栄山 妙縁寺=しょうえいざん みょうえんじ=東京都墨田区吾妻橋に所在する日蓮正宗の寺院)には秀之進の首塚がある。また、谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎の初代市川右団次が、相馬大作を演じて評判を取ったので1882年2月左団次によって建立された。

江戸時代の講談に取りあげられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在は発見されていない。明治17年の改新新聞に連載された『檜垣山名誉碑文』が明治18年に刊行された。

明治21年には講談「檜山麒麟の一声」が講釈師柴田南玉によって演じられ、相馬大作の勇武を持ち上げ人気を博した。『檜山実記・相馬大作』などの演題も、田辺南竜・邑井一・邑井貞吉などの講釈師が演じたという。

福岡(現岩手県二戸市にのへし)の南部藩士の二男に生まれた秀之進だったことを裏付けるように岩手県北部出身者には下斗米(しもとまい)姓が多く、一族意識を誇っている。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・04・11

2007年04月11日

◆身を捨てられぬ菅直人

                         渡部亮次郎

逃げる菅直人を捕えて「捕らぬ狸の皮算用」と皮肉ったのは07・03・02の『頂門の一針』728号の渡部亮次郎。闘い終わって産経政治部長経験の評論家花岡信昭氏は07・04.10の産経紙で「民主 痛恨の判断ミス」と斬り捨てた。

花岡さんは言う。「ここは菅直人代表代行の出馬しかなかった。・・・勝てなくてもいいのである。菅氏は民主党の窮地を救うための<殉教者>となり、党内の信望を一手に集め得たはずだ。次の局面に繋げる何かが生まれたはずだ。(しかし)こういう負け方では何も残らない」

自分を犠牲にする事は野球のバントにも似ているが、菅直人は野球すら知らないらしい。まして、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という諺も知らなかったか。

「一身を犠牲にするだけの覚悟があって、はじめて活路も見出し物事に成功することが出来るということ」小学館「故事俗信ことわざ大辞典」。

いや菅だけでなく小沢代表も鳩山幹事長の反対した、という声。そうか、そうならば彼らも野球も諺も政治も知らない点で同罪よ。

728号を再録して振り返る。

<菅直人民主党代表代行の東京都知事候補からの逃げ方を見ていると「捕らぬ狸の皮算用」という諺を思い出す。狸を捕まえるとか、毛皮を剥いで売るとか言うことが無くなったので、死んだような諺だが、菅にはぴったりである。

簡単に「広辞苑」(岩波書店)から。「(まだ捕らえないうちから、狸の
皮の売買を考えることから)不確実な事柄に期待をかけて、それを基にした計画をあれこれ考えること」。政権が来たら俺が総理大臣だから都知事になっていてはチャンスを失う。

同じ岩波の「ことわざ辞典」(時田昌瑞著)では。「先行きが不確実なことに期待して、あれやこれやと計画することのたとえ」。算用は計算したり、勘定をすること。猟で、狸を捕える前から、皮をいくらで売ってそのあとは・・・と計画やら計算やらをすること。

大正時代以降の言い回しらしい。江戸時代は「穴の狢(むじな)を値段する)「飛ぶ鳥の献立」「儲けぬ前の胸算用」と言ったらしいが今では専ら「捕らぬ狸・・・」だ。

4月に行われる都知事選挙をめぐっては、現職保守系の石原慎太郎の3戦にまともに刃向かえる民主党候補は、東京を地盤としている菅が知名度から言っても歳適任者だと党内外で囃し立てられて来た。

しかし「頂門の一針」719号(2007.2.22)で触れたように菅は必死で逃げた。<菅氏について小沢代表は「(私と鳩山氏との)3人の役割分担がうまく機能してきたので、今後もそういうことでやっていきたい」と、都知事選には擁立しない考えを重ねて示した。Asahi Com 2007年02月17日22時20分

しかし、このままでは石原慎太郎都知事に戦わずして3選を許す危惧も出てきたため、民主党東京都連は遂に21日、「最強の候補」として菅氏に出馬再考を申し入れた。菅氏は当然、即答を避けた。必死の逃亡である>。

前宮城県知事の浅野史郎が出馬に前向きになった2月末には「太陽が西から昇っても出ません」と峻拒した。どうもこの裏で菅は三井物産系の日本総合研究所会長寺島実郎を使って浅野に出馬を口説いていたらしい。

そのあたりを3月1日付の産経新聞で田北真樹子、石元悠生両記者が解説している。党内で菅待望論が強まると菅側近議員は「菅さんを国政から追い出すための擁立論」と警戒。

「民主党が政権を獲った時に、体力的に不安のある小沢氏に代り菅氏か鳩山氏が首相になれる可能性が高い」と党幹部が言っているという。流石に菅自身はこんな事は口にはしないが図星だろう。当に捕らぬ狸の皮算用では無いか。

世の中とは、決して捕らえる前から皮算用をする猟師(代議士)を尊敬はしない。笑うのである。大正時代以来、しかし、それだけ、笑える猟師が多かったから、諺として定着したわけでもある。

率先垂範、人の厭がることを厭わずに行えば世間は味方し、参院選も勝たせるだろう、その後か同時かは分らないが衆院選も勝たせるかもしれない。利益の計算だけして、不利に立ち向かわないのでは無党派層の支持はどうだろうか。

浅野前宮城県知事の出馬を見越して、民主党本部は推薦ではなく「支援」という緩やかな縛りにとどめるようだが、緩やかな縛りで党員は浅野支援に撃って一丸となるものだろうか。楽をするだけだろう。

現に東京都連の田中良都議団幹事長は「民主党の看板は要らないが、実質的な支援が欲しいというのは、只の偽装」と早くも浅野批判(産経新聞3月1日付)を始めたではないか。加えて売名目的に蠢動する向きもある。

それでも狸を捕まえても居ないのに、皮算用に耽っているようでは「虻蜂取らず」と言う諺もある。説明を要すまいが「あれもこれもと狙って、一物も得られない、欲を深くして失敗するのに言う。(「広辞苑」) (文中敬称略)2007.03.01

<率先垂範、人の厭がることを厭わずに行えば世間は味方し、参院選も勝たせるだろう、その後か同時かは分らないが衆院選も勝たせるかもしれない。利益の計算だけして、不利に立ち向かわないのでは無党派層の支持はどうだろうか。>だとすると民主党の未来は暗い。2007・04・10


2007年04月10日

◆総理大臣の慰安婦


                       渡部亮次郎

従軍経験のある日本の総理大臣から、直(じか)に聞いた従軍慰安婦論である。

そんなもの、おりゃせんかったよ。朝鮮ピーとか女郎ならいたがな。日本人は将校相手、朝鮮ピーが兵隊相手さ。変な日本語使ってたよ。はやくかくこきめなさい とかね。

彼女らは郷里で既に親に売られて女郎になっていた女たち。その筋の業者が募集に行って連れてきたのさ。もちろん納得づくだよ。拉致? そんなことありゃせんよ。戦地に行けばいい金になると誘われたのさ。

性病予防のため衛生サック(コンドーム)が支給されていた。戦争には死が付き物だけど、それよりも処理に困るのが将兵の性欲の処理。満洲に進出した部隊の近くには必ず待合、女郎屋がついてきた。

とんでもない、軍が女郎を拉致してきたり募集したりと言う事はありゃせんよ。業者がどこからか情報を掴んで、抱えている女郎たちを連れて部隊を追って来るんだよ。

敗戦後、進駐に先立ってアメリカ軍が慰安所の設置を日本政府に要請した? それで政府が女性を集めた? ワシはタッチしていなかったから知らないが、ありそうな話だね。米軍に性欲が無いわけないもの。

戦後、何かの機会に沖縄戦従軍者に聞いたんだが、彼らは上陸に先立って上官から、沖縄の女のあそこは横に裂けているから心せよと訓示されたそうだ。強姦を戒める為さね。

スターリンが満洲に投入した兵隊は殆どが囚人だった。それだけに日本人を狙った強姦が多発した。引き揚げ船の上で懐妊に気付き、上陸後、手術を受ける婦人が実に多く居たと聞いたがね。手術は麻酔薬が無かったため麻酔抜きだったそうだ。

戦争とはこういうものさ。戦争を始めた以上、こうなる。勝てば官軍、負ければ賊軍、と昔から言うじゃないか。しかし、誇り高き日本軍人が戦場に女郎を帯同などと言うことが出来るはずが無い。業者の追従を黙認した事は確かだがな。

戦前のことを戦後のアメリカ自由感覚で論じる事はタブーだよ。無意味。だって当時は売春は公認だった。それを売春防止法(1958年施行)後の感覚で歴史を論じれば必ず失敗するね。

残念ながらこの総理大臣経験者はすでにこの世に居ない。2007・04・09


2007年04月08日

◆墓を残さぬ理由


                      渡部亮次郎

中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」!)(トウ)小平(し
ょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、
遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家
主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。

その11年前の1976年1月に総理(当時)の周恩来が死んだ時も、遺言により火葬され、遺灰は空から撒かれた。したがって2人とも墓は無い。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。

毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の
記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠
り続けることは難しかった。周恩来の死は毛より先だから、予ねて考え
て居たことを実行したまで。

日本とちがって中国は「死者にムチ打ち、墓を暴く」文化を持っている。

異民族の金に屈して和平を結び、英雄岳飛を獄死させて姦阻の烙印を押
された南宋の秦檜(しんかい)を今なお許さず、その像に対してツバを吐
き続ける中国人。

「過去を水に流す」淡自な日本人からは理解できない。それよりも周恩
来も!)小平も将来、中国が変化すれば自分たちも墓を暴いて糾弾される
ことを察知していたのではないか。

産経新聞北京総局長の伊藤正局長によれば!)(トウ)氏は死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」の書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。

毛沢東の権威を必要とした後継グループ(4人組みら)の決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。私も見てきた。彼の権威を必要としていた4人組が歴史から退場した今、死体をさらされている毛は孤独で哀れである。

毛に従いながら実務家として生涯を貫き、あの文化大革命にも失脚しな
かった周恩来。不倒翁と称された周恩来。ところが2007年3月に日本語版が刊行された『周恩来秘録』によると、周恩来こそは終生、毛沢東に能力を嫉妬され続けた生涯だったと言う。

だからせめて死後は毛と一緒にされたくないとして忽然と空気になった
のである。3度も失脚させられた!)(トウ)も同様だったのだ。そうだと
すれば天安門広場の記念堂に遺体を薬品漬けで安置、参観者に公開され
ている毛こそさらに哀れである。

私が日中平和友好条約の締結交渉で秘書官として園田直外相(故人)に随
行した時、時折、北京市内で一般市民と接触する機会があったが、其処
からは明らかに毛は好きではないが周は大好きと言う吐露が得られた。
こんなこと言って大丈夫?とこっちが心配するぐらいだった。

先の伊藤総局長によれば、家族や関係者の証言から!)(トウ)は、家族
を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高
の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。

トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、
「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにす
る理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求
めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。

共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死
者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農
民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名
な言葉はその時のものだ。

改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会
主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢
東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみ
る活気を回復した。

豊かさと自由−だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だ
った。

「富をどう分配するかは大問題だ」「この問題の解決は発展を図るより
困難だ」「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いず
れ問題が起こるだろう」。

トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊か
になる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもた
らした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先
富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。

墓を残さなかった周恩来と!)(トウ)小平。中でも!)(トウ)小平は経
済の改革開放をやれば富は豊かになるが、政治面で共産主義体制を維持
する事は決定的な矛盾であり、その矛盾がやがて中華人民共和国そのも
のを転覆させるかもしれない、その時に墓があれば、オレは暴かれると
読む。

革命児は墓を残すべきでない。!)(トウ)小平、周恩来の方が普通人だ
ったようだ。2007.04・07





2007年04月07日

◆EU完全統合への道遠し


                       渡部亮次郎

今のEUのことを日本で初めて取り上げた政治家は故・河野一郎であった。1960年代の中ごろ、ヨーロッパ視察旅行から帰って、今にヨーロッパは経済的に大団結すると喝破し、その対応を各界に求めた。

しかし反応は全く無かった。当時フランスを訪問した池田勇人首相がド
ゴール大統領からトランジスターのセールスマンと揶揄されても国民は
誰も怒らなかった。国際感覚も外交感覚からもズレていたのである。

初めは緩い経済的連帯とでも言うべきECだった。その基をなすのがロー
マ条約であり、2007年3月で締結50周年を迎えたが、加盟国が増大する一方で各国間の温度差も広がっているようである。

<ローマ条約とは、欧州経済共同体 (EEC) 設立に関する、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ及びルクセンブルグの6カ国が1957年3月25日に調印した条約である。もとの正式名称は、欧州経済共同体設立条約 (Treaty establishing the European Economic Community) であった。

しかしマーストリヒト条約により、他の事項とともに共同体と条約両方
の名称から"経済"を除去する修正を受けた。この結果、本条約は欧州共
同体設立条約又はEC条約と呼ばれている>。

欧州共同体 (EC) から発展、1993年11月1日、マーストリヒト条約によりヨーロッパ各国によるEU国家連合体欧州連合(おうしゅうれんごう)となった。

ヨーロッパ各国において経済、政治、軍事など社会的なあらゆる分野で
の統合を目指している。本部はベルギーのブリュッセル。現在の加盟国
は27か国である。

産経新聞ベルリン=黒沢潤記者によれば欧州連合(EU)は2004年以来、東欧など12カ国にも「統合の翼」を広げたことで、その性格を変えつつあるという。

「(15カ国時代に比べて文化、宗教、経済面で)『異質』な者同士の集
まりとなり、アイデンティティーの危機にすら直面している」(ドイツ
のシンクタンクCAPのベティーナ・タールマイヤー研究員)のが実情
だというのだ。

EUが冷戦終結後、ソ連のくびきから解き放たれた東欧諸国を組み入れ
たことは、欧州の政治的安定や経済発展といった観点から意味があった。

しかしポーランドが04年に欧州憲法条約に「キリスト教の伝統」を謳う
よう唱えて政教分離の国々と対立したことでも明らかなように、価値観
をめぐる“温度差”が徐々に表面化している。

経済面でも、新・旧加盟国の違いは歴然としている。EUの経済成長率
に占める新規加盟国の貢献度はわずか5%に過ぎず、巨額の補助金がこ
れらの国に流れることへの不満もくすぶっている。

1月に加盟したルーマニアとブルガリアは国内の機構改革に追われ、E
Uに今後の戦略を提示できる状況にはない。外から見れば強力な組織に
見えるEUもこうした国々を抱え、「内部は弱体化しつつある」(政治
専門家)との見方もある。

加盟当時、東欧諸国の側は約40年ぶりの「欧州回帰」に沸いたが今や不
満が募る。域内での自由労働が認められないなど、加盟の恩恵を十分、
感じることができないためだ。

冷戦後、やっとソ連の下から独り立ちした東欧諸国は、内政への「ブリ
ュッセル」からの横やりに困惑気味だという。

独ブランデンブルク応用科学大のウルリヒ・ブラッシェ政治学教授は、
「東欧では『モスクワからブリュッセルの独裁主義に変わっただけだ』
との声も出ている」と話す。

「これ以上の拡大は、『EUの顔』の問題にかかわる」(ミヒャエル・
クライレ独フンボルト大教授)との指摘もあるように、EUは「拡大」
よりも「深化」に重きを置いていく可能性が高い。 (Sankei Web 
2007/03/2401:54)

加盟候補国としてクロアチア、トルコ、マケドニア、セルビアの4カ国が控えている。トルコの加盟のハードルが最も高いようだ。

加盟27か国の公用語がEUでは等しく扱われる。そのためEUの公式文章は22の言語に翻訳される。言語は五十音順。

イタリア語 英語 エストニア語 オランダ語 ギリシャ語 スウェー
デン語 スペイン語 スロヴァキア語 スロヴェニア語 チェコ語 デ
ンマーク語 ドイツ語 ハンガリー語 フィンランド語 フランス語 ブルガリア語 ポーランド語 ポルトガル語 マルタ語 ラトビア語 リトアニア語 ルーマニア語

黒沢潤記者によればEUの公式言語は22でなく23だそうだが、とにかく臨
時を含めて通訳者が5500人も居て通訳に要する予算も年間10億ユーロ、
日本円では約1570億円だそうだ。

加盟候補国 のクロアチア、トルコ、マケドニア、セルビア のうちクロ
アチアの加盟が3年後には見込まれているため、EUは新たに建築する庁舎の通訳ブースを21から30に増やす。それでも悲鳴は上がる。

たとえばオランダ・ギリシャ語間の通訳は英語を仲介するリレー通訳。
即時性が求められる各種会議や記者会見は修羅場と化すそうだ。加えて
小国の言語は小さな会議では通訳されないことも多く、議論が迷走する
ことになる。

EUの本部はブリュッセルだが、欧州議会は仏のストラスブール、欧州中
央銀行は独のフランクフルトと機能は分散したまま。整理統合は容易で
はない。

こんな状況を捉えて黒澤記者は「域内人口が5億人に膨張したEUは、統合の成果を強調するが、使用言語や庁舎の乱立振りを見る限り、完全統合への道程はなお遠そうだ」としている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・04・05





2007年04月06日

◆イラン情報の裏側


                       渡部亮次郎

再掲(一部訂正)
【カイロ4日共同】イランのアハマディネジャド大統領は4日、首都テ
ヘランで開いた記者会見で、イランが先月23日にペルシャ湾で拘束し
た英海軍兵士15人に恩赦を与え、釈放すると発表した。

これに先立つテヘラン(CNN)情報。

イランが3月23日に英海軍兵士15人を拘束した事件で、英国は英兵
らの釈放に向け、外交ルートを通じて引き続きイランに接触している。
ブレア英首相の報道官は4月3日、英国がイランに直接交渉を提案し、
交渉開始時期についてイランの回答を待っていることを明らかにした。

これに関連して次のような情報が事前に世界を駆け巡った。イランに対
するアメリカの「脅し」がロシアから漏れてCNNに流れたのだ。

<2007年3月26日。モスクワ、3月19日。RIA ノヴォスティ。 ロシア軍の専門家が推定するところによれば、アメリカ軍のイラン攻撃計画は、2月20日の時点で後戻り出来ない確実なものとなった。その理由は2月20日の時点でIAEAの事務局長であるモハンマド・エル・エルバラディが彼の報告書と見積書の中で、「イランの核兵器計画の平和的な性質を確認する」ことがIEEAの能力では出来ないという認識を示したからだ。

ロシアの週刊誌アーゴメンティ・ネデリによれば、軍事行動は4月の第1週の間に実施されるようだ。その時期はカトリックと正教会のイースター祭の前にあたり、西洋の論客達や議論が沈静化する時期だからである。
(今年は、イースター祭は4月8日に祝福される).


あるいはイランは6日(金)に攻撃されるかもしれない。6日はイスラム
教圏の国々では祝日だからだ。米国筋に拠れば、攻撃は一日のみで0400
時から1600時までの12時間までである。この軍事作戦の暗号名は、現在
のところ English CockまたはBiteとされている。>。

これについて、あるジャーナリストの分析。

<テヘランのCNN情報は優れている。アフマディネジャドはアングロ
サクソンの脅しに屈したようだ。

アメリカのCNNが、テヘランやモスクワから極秘情報を取れる背景に
は、この事件が米英ロとイランの間で裏取引が行われてことを窺わせま
る。そのパイプのどこかに有力なデイープスロートを持ったのだろう。

情報戦となると、単純なアフマディネジャドでは勝負にならない。裏取
引も英兵15人は単なる表材料で、イギリスの石油権益の確保が主要問題
だという。国際的な孤立感を深めているイランにとっても悪い話ではな
い。

ロシアは複雑だそうだ。英兵15人拘束で、ブレア首相は交渉はしない、
無条件の釈放を求めると表ではいいながら、裏ではイランとの独占的な
交渉をやってきた。

それはいいとしても、アフマディネジャドが妥協し、さらにイギリスが
イランの国際舞台復帰の手助けをすれば、イラン情勢は沈静化する。そ
うなれば、原油価格が下落してしまう。石油資源国であるロシアにとっ
ては、高値の原油価格が望ましいのに>。2007.04.05

2007年04月04日

◆おらゴム長と織田信長


                     渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。
その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこ
か田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太
もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われてい
る。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、
バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・
ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受け
た淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードの
ある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や
演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブ
ルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブル
ーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがあ
る。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用している
という共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭
和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルー
ス」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」
は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしてい
る。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼
ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の
「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、
B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of leepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバル
は第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジ
ュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂
歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが
形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア及び誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
2007・4・02


2007年04月03日

◆浅草は慌てなくていい


                       渡部亮次郎

浅草(あさくさ)の交通を支配してきた東武鉄道が、隣の墨田区押上と業平の間に新東京タワー610メートルを建てて新名所にしようとしている、浅草が見捨てられるのでは無いかと慌てている。

しかし、テレビから見捨てられてもしぶとく外国人を取り込んでいる浅草を見捨てることのできないのが江戸っ子であり、日本人なのでは無いか。生まれて初めて背広上下を父に買ってもらったのは浅草だった。浅草よ永遠なれ!だ。

浅草は、東京都台東区で、戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。

高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

最大の失敗が大学の誘致を考えなかったことだ。若者が或る時から居なくなった。

「吾妻鏡」の1181年(養和1年)の条に浅草の名が見える。江戸時代から境内地が広く認められ、明暦の大火(明暦3年=1657年3月2から4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)。

その後、遊郭や芝居町が広く移転してきて仲見世が発展し、見世物小屋などが進出して大娯楽街となる。明治後も映画館や演劇場が繁栄し、昭和初期の浅草オペラをはじめとした大衆文化の中心となっている。

古くから浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えていた。徳川家康が江戸を根拠地として大規模な城下町に改造していくと浅草もその一角を担うようになる。

2007年03月31日

◆雄大な種族保存絵巻


                      渡部亮次郎

昭和の初めごろ、東北の農家で使役の馬といえば南部(岩手)駒が最高とされた。しかし、南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種は絶滅してしまった。

うちの親父は農業のほかに八郎潟干拓運動などで多忙な人だったし、長男は農業大嫌い。次男の私は幼すぎる。かと言って作男を雇おうにも働ける男はすべて戦争に狩り出されておりゃしない。

手入れの悪い馬は「伝貧(でんぴん)」と呼ぶ病気、人間の肺結核みたいなのにかかって死ぬ。運が悪ければ陸軍に「軍馬」として徴用される。そこで親父は断固として馬飼いを止め、牛に切り替えた。牛は病気をしないばかりか、夜道に強い能力があった。

尤も、ある牛は私の右足の親指を踏みつけて、生爪を剥いだが・・・あれは痛かった。どうやって帰宅したか未だに思い出せない。とにかく馬は貧しい農家に敬遠された。

戦後は農業の機械化、農薬の普及、トラックの普及で、農村から馬は1頭たりと居なくなった。南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種の絶滅の背景はこれなのだ。同様に牛も居なくなった。

24歳の夏、NHKの仙台から岩手県の県庁所在地盛岡放送局に転勤になった。まだ高速道路はおろか新幹線もない時代。県議会で知事が観光に力を入れると表明しても、何の意味か誰も理解できなかった。誰もいないこと、昔のままの自然が観光資源?そんな馬鹿な、と言った時代。

今では移転したか無くなってしまったかもしれないが、盛岡市郊外に岩手県の施設として県種畜牧場というのがあって、南部駒は絶滅したとはいえ、牛馬の種の保存事業を続けていた。

一方、岩手県政記者クラブは毎年春に総会(宴会)を開くが、ある年、会場は種畜牧場、料理は飼育している羊1頭をつぶしてのジンギスカン鍋、アトラクションは競走馬の種付け見学ということにした。県庁は木造2階建て。のどかな時代だったのである。記者は十余人。

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