2007年04月06日

◆イラン情報の裏側


                       渡部亮次郎

再掲(一部訂正)
【カイロ4日共同】イランのアハマディネジャド大統領は4日、首都テ
ヘランで開いた記者会見で、イランが先月23日にペルシャ湾で拘束し
た英海軍兵士15人に恩赦を与え、釈放すると発表した。

これに先立つテヘラン(CNN)情報。

イランが3月23日に英海軍兵士15人を拘束した事件で、英国は英兵
らの釈放に向け、外交ルートを通じて引き続きイランに接触している。
ブレア英首相の報道官は4月3日、英国がイランに直接交渉を提案し、
交渉開始時期についてイランの回答を待っていることを明らかにした。

これに関連して次のような情報が事前に世界を駆け巡った。イランに対
するアメリカの「脅し」がロシアから漏れてCNNに流れたのだ。

<2007年3月26日。モスクワ、3月19日。RIA ノヴォスティ。 ロシア軍の専門家が推定するところによれば、アメリカ軍のイラン攻撃計画は、2月20日の時点で後戻り出来ない確実なものとなった。その理由は2月20日の時点でIAEAの事務局長であるモハンマド・エル・エルバラディが彼の報告書と見積書の中で、「イランの核兵器計画の平和的な性質を確認する」ことがIEEAの能力では出来ないという認識を示したからだ。

ロシアの週刊誌アーゴメンティ・ネデリによれば、軍事行動は4月の第1週の間に実施されるようだ。その時期はカトリックと正教会のイースター祭の前にあたり、西洋の論客達や議論が沈静化する時期だからである。
(今年は、イースター祭は4月8日に祝福される).


あるいはイランは6日(金)に攻撃されるかもしれない。6日はイスラム
教圏の国々では祝日だからだ。米国筋に拠れば、攻撃は一日のみで0400
時から1600時までの12時間までである。この軍事作戦の暗号名は、現在
のところ English CockまたはBiteとされている。>。

これについて、あるジャーナリストの分析。

<テヘランのCNN情報は優れている。アフマディネジャドはアングロ
サクソンの脅しに屈したようだ。

アメリカのCNNが、テヘランやモスクワから極秘情報を取れる背景に
は、この事件が米英ロとイランの間で裏取引が行われてことを窺わせま
る。そのパイプのどこかに有力なデイープスロートを持ったのだろう。

情報戦となると、単純なアフマディネジャドでは勝負にならない。裏取
引も英兵15人は単なる表材料で、イギリスの石油権益の確保が主要問題
だという。国際的な孤立感を深めているイランにとっても悪い話ではな
い。

ロシアは複雑だそうだ。英兵15人拘束で、ブレア首相は交渉はしない、
無条件の釈放を求めると表ではいいながら、裏ではイランとの独占的な
交渉をやってきた。

それはいいとしても、アフマディネジャドが妥協し、さらにイギリスが
イランの国際舞台復帰の手助けをすれば、イラン情勢は沈静化する。そ
うなれば、原油価格が下落してしまう。石油資源国であるロシアにとっ
ては、高値の原油価格が望ましいのに>。2007.04.05

2007年04月04日

◆おらゴム長と織田信長


                     渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。
その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこ
か田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太
もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われてい
る。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、
バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・
ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受け
た淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードの
ある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や
演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブ
ルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブル
ーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがあ
る。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用している
という共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭
和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルー
ス」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」
は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしてい
る。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼
ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の
「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、
B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of leepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバル
は第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジ
ュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂
歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが
形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア及び誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
2007・4・02


2007年04月03日

◆浅草は慌てなくていい


                       渡部亮次郎

浅草(あさくさ)の交通を支配してきた東武鉄道が、隣の墨田区押上と業平の間に新東京タワー610メートルを建てて新名所にしようとしている、浅草が見捨てられるのでは無いかと慌てている。

しかし、テレビから見捨てられてもしぶとく外国人を取り込んでいる浅草を見捨てることのできないのが江戸っ子であり、日本人なのでは無いか。生まれて初めて背広上下を父に買ってもらったのは浅草だった。浅草よ永遠なれ!だ。

浅草は、東京都台東区で、戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。

高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

最大の失敗が大学の誘致を考えなかったことだ。若者が或る時から居なくなった。

「吾妻鏡」の1181年(養和1年)の条に浅草の名が見える。江戸時代から境内地が広く認められ、明暦の大火(明暦3年=1657年3月2から4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)。

その後、遊郭や芝居町が広く移転してきて仲見世が発展し、見世物小屋などが進出して大娯楽街となる。明治後も映画館や演劇場が繁栄し、昭和初期の浅草オペラをはじめとした大衆文化の中心となっている。

古くから浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えていた。徳川家康が江戸を根拠地として大規模な城下町に改造していくと浅草もその一角を担うようになる。

2007年03月31日

◆雄大な種族保存絵巻


                      渡部亮次郎

昭和の初めごろ、東北の農家で使役の馬といえば南部(岩手)駒が最高とされた。しかし、南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種は絶滅してしまった。

うちの親父は農業のほかに八郎潟干拓運動などで多忙な人だったし、長男は農業大嫌い。次男の私は幼すぎる。かと言って作男を雇おうにも働ける男はすべて戦争に狩り出されておりゃしない。

手入れの悪い馬は「伝貧(でんぴん)」と呼ぶ病気、人間の肺結核みたいなのにかかって死ぬ。運が悪ければ陸軍に「軍馬」として徴用される。そこで親父は断固として馬飼いを止め、牛に切り替えた。牛は病気をしないばかりか、夜道に強い能力があった。

尤も、ある牛は私の右足の親指を踏みつけて、生爪を剥いだが・・・あれは痛かった。どうやって帰宅したか未だに思い出せない。とにかく馬は貧しい農家に敬遠された。

戦後は農業の機械化、農薬の普及、トラックの普及で、農村から馬は1頭たりと居なくなった。南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種の絶滅の背景はこれなのだ。同様に牛も居なくなった。

24歳の夏、NHKの仙台から岩手県の県庁所在地盛岡放送局に転勤になった。まだ高速道路はおろか新幹線もない時代。県議会で知事が観光に力を入れると表明しても、何の意味か誰も理解できなかった。誰もいないこと、昔のままの自然が観光資源?そんな馬鹿な、と言った時代。

今では移転したか無くなってしまったかもしれないが、盛岡市郊外に岩手県の施設として県種畜牧場というのがあって、南部駒は絶滅したとはいえ、牛馬の種の保存事業を続けていた。

一方、岩手県政記者クラブは毎年春に総会(宴会)を開くが、ある年、会場は種畜牧場、料理は飼育している羊1頭をつぶしてのジンギスカン鍋、アトラクションは競走馬の種付け見学ということにした。県庁は木造2階建て。のどかな時代だったのである。記者は十余人。

続きを読む≫≫

2007年03月29日

◆極秘水脈「直角ライン」


                    渡部亮次郎

日本の政治のことを考えるのはそろそろ止めよう、と考えている。つまらないからだ。スケールがどんどん小さくなってゆく政治家たち。とりもなおさず肝(きも)を鍛える戦争を体験していないからだ。

幸か不幸かNHK政治記者だった41歳のとき、請われて外務大臣の秘書官となり、政治家の喜怒哀楽、毀誉褒貶を約4年垣間見た。それはのちに社団法人日米分化振興会から出版してもらった『園田外務・厚生大臣日程表』に付属メモとしてかなり書いてある。

但し、この本は販売されなかったので、世間の目に触れなかったと言ってもいいだろう。又、当時の新潮社出版部長(のちに専務)新田敞
(にった ひろし)氏から薦められて書き続けた「」秘書官日記)は我が引出しの底に眠ったままである。

これを日本政界裏面史として遺すべき人物も居ないし、これらはこのまま歴史の裏で塵、芥として棄てられること確実であろう。多少残念でもあるから、わがメイルマガジン「頂門の一針」を執筆しているうちに幾つかを遺して行く。

私がその秘書官を勤めた園田直(そのだ すなお)と元総理大臣田中角栄。仲は徹底的に悪いと世間では思っていたし、既にこの世に無い2人。このことについては遺言も無いはずである。

ところが実際は朝も暗い時に何度もサシの会談を重ね、大平内閣はおろか鈴木善幸政権と言う誰も想像だにしなかった政権をも実現したのもこの2人が組んでの仕事なのである。

大正7(1918)年5月4日、新潟県生まれの角栄。直は大正2(1913)年12月11日、熊本県天草島生まれ。どちらも大学は出ていない。しかし角は「俺は秘書が東大出だ」と言ったし直は密かに資格を取ろうとした。

共に軍歴を経たのち、昭和22(1947)年4月25日の第23回総選挙(戦後2度目)で代議士当選(共に民主党公認)。曲折を経て昭和44(1969)
年、佐藤栄作政権の下、田中幹事長、園田国会対策委員長というコンビを組む。

コンビを組むと言っても田中が任命したものではなく事実上は佐藤首相の指示。既に佐藤後の政権について後継を目指している田中に対して、福田赳夫支持を明確にしている園田を国対委員長にするとは、佐藤が田中を支持していないことを匂わせるものだった。

2人はことさらに対立することも無かったが、マスコミは「直角ライン」と呼んで対立を際立たせようとした。

そんなこともあって直が参謀となった福田派と角栄派の総理争いは「角福戦争」と呼ばれるほど激しく競り合うものとなった。しかし資金力に優る角栄があっけなく勝利。敗れた福田が角への恨みを募らせる。怨みはこのあと10年ぐらいの政局に噴出することになる。

続きを読む≫≫

2007年03月28日

◆日本海が表だった時代


                    渡部亮次郎

秋田はやはり美人が多い。2007年3月24日の千秋会。互いに71歳の高校時代を東京で懐かしむ会。花見が目的だが花は1分咲き。それよりも70を過ぎてなお美人の中に北前船を連想させる姓の方が居て、少し詳しく調べる気になった。北前船(きたまえぶね)はうっすらとしか知らない。

北前船の水夫が女に腰を抜かしたのは越前でも能登でも越中でも越後でもなく秋田だった。各地の地名が「姓」で残っている。播磨谷=兵庫県、越前谷=福井県、三国屋(谷)=同、若狭屋=同、小浜屋、=同、敦賀屋=同、能登谷=石川県、加賀屋(谷)=同、越中屋=富山、越後屋(谷=新潟県)。

秋田まで来るとどこかが緩んだのかも知れない。酒田(山形県)には留まっていない。逆に秋田男が加賀女に腰を抜かした記録はない。?

ところで北前船は江戸中期から明治時代にかけて,北海道と大坂、のちには江戸までを結んで西回り海路を往来した買積船。その船型は通称千石船で,弁財船,どんぐり船とも呼ばれた。

当初は200石(30トン)積みから500石(75トン)積みまであったが,明治時代になると2000石(300トン)積みクラスのものも現れた。

積荷は上り荷として北海道産の胴ニシン・羽ニシン・身欠きニシン・サケ・昆布などの海産物,下り荷は米・塩・木綿・古着・酒などであった。船主が荷主を兼ねた買積みであった。柚木 学(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

例年70,000石(10、500トン)以上の米を大坂で換金していた加賀藩が寛永16年(1639年)に、この航路で100石(15トン)の米を大坂へ送る事に成功。一方幕府も寛文12年(1672年)出羽国の米を河村瑞賢に大坂へ回漕させたのが、この航路の起りである。

初めは近江商人(滋賀県)が加賀、能登の水夫たちを雇って、北海道を日本海、瀬戸内海を挟んで大坂との物資交易で大儲けした。1航海1千両と言われた。

続きを読む≫≫

2007年03月25日

◆岩手県立大生に贈る言葉


                       渡部亮次郎

これを長い間読んで下さったあなたと、やはりお別れする日がやってき
ました。徳久教授の退職に伴ってこのHPも閉鎖されるからです。老人の
繰言(くりごと=くどくどと言うこと。愚痴)を長いこと読んで下さって有難う御座いました。

私の大学生活は、遥か50年以上前。霞んでしまって思い出すのもやっと
です。少しは授業を聞きましたが、大学新聞作りにばかり熱を上げてい
ました。学生の政治運動の最も盛んな時代で、日本共産党に楯をついた
ことから、サークルを除名されました。

卒業後、NHKの記者になり、大館、仙台、盛岡と勤務し、いい加減厭になって転職をその社長と約束し、大酔して帰宅したら東京・政治部への転勤が告げられました。そうやっても結局、記者生活は20年に達せずに辞めました。NHKの体質に染まれないことを知ったからです。

41歳の暮でした。外務大臣の秘書官をしたり、日米間の文化交流を推進
する社団法人に身をおいたりと、随分、変化のある人生を送ってきまし
たが、大学で習ったことが仕事に役立ったと言う事は1度もありません。むしろ下宿の畳に寝転がって読んだ小説のほうが役立ったように思います。

社会に出る、という事は上司に命令されることで始まります。そこから
役立つことと言えば、挨拶がきちんとできること、お辞儀がきちんとで
きること、電話の応対が慌てないで出来ることだけで100点です。

パソコンの時代、メイルの時代と言いますが、手紙が確り書ける人は格
別に目だって信頼されるでしょうね。そういう人は敬語も難なくこなせ
るようになるでしょう。なぜなら敬語とは格別の言葉ではなく、相手を
不愉快にさせないだけの言葉に過ぎないからです。

私は秋田の貧しい農家に生まれ育ったものですから、NHKでは放送記者として秋田訛を直すことと、政治家に敬語で取材するのに苦労したかと聞かれますが、全く苦労しませんでした。

政治家は他人より何十倍も苦労したと自任している人種です。選挙とい
う誠に高いハードルを越えているからです。どんなに品性の劣る国会議
員でも、何万もの有権者を納得させる何らかの術を持っているのですか
ら、尊敬せざるを得ません。そうなればその人に対して使う言葉は敬語
になっていました。

続きを読む≫≫

2007年03月24日

◆武士道否定で「いじめ」


                      渡部亮次郎

浅学にして知らなかった。定年後「名誉教授」を名乗らせないのは怪しからん、と大学を訴えた人がいたとか。産経新聞の教育欄(2007・3・19)で「卑怯を憎む心を育てよう」と武士道精神の復活を呼びかけておられる。

それが東京大学時代は全学連の組織部長だったというから驚きが止まらない。

全日本学生自治会総連合は、1948年(昭和23年)9月に日本全国の国立、公立、私立の145大学の学生によって結成された。初代委員長は後に新日本文学会の指導的な立場に立ち、安保闘争のときに日本共産党を批判する呼びかけを行って党を除名された武井昭夫である。

ついで委員長になったのは、のちに学習院大学の教員となり中曽根康弘のブレーンとなった香山健一であった。

初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。

この時期に全学連で活動した者には、後述する東大の山川暁夫、元西武セゾングループ総帥で作家の堤清二、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、元桃山学院大学学長沖浦和光、東大教授の神代や戸塚秀夫、歴史学者の犬丸義一、早大から新聞記者を経て田中角栄秘書となる早坂茂三らがいた。

彼らは学生時代は全員同じ共産党員であり、早坂を除けば共産党の東大細胞(支部)に所属していた。70年代まで、山川と早坂、堤との交流は長らく続いていたという。このことは全学連運動の当時の人間関係の密度の濃さを表している。

続きを読む≫≫

2007年03月22日

◆患者を脅す医者が悪い


                      渡部亮次郎

<「血糖値を抑える」カイコ粉末に薬効と宣伝して売る カイコの粉末に薬効があると宣伝して健康食品を販売したとして、大阪府警警備部などは22日、薬事法違反(承認前の医薬品広告など)の疑いでボンビックス薬品(大阪市中央区)と社長(48)ら2人を書類送検した。

社長らは容疑を認め、1998年11月ごろから15万個以上、約15億2000万円分を売り上げたと供述しているという。  

調べでは、昨年8―11月、カイコの粉末入り錠剤「ボスリン」など2種類の健康食品を、血糖値を抑えるなどの薬効があるとホームページやチラシで宣伝。山形県酒田市の女性(58)ら8人に270錠入りを計17個(20万3700円)販売した疑い。>ZAKZAK=夕刊フジ 2007/02/23

これが、要するに「糖尿病怖い」に付け込んだ犯罪なのである。今後も似たような事件が多発することが間違いない。なぜならば、糖尿病は今のところ一旦かかったら絶対に治らず、一生付き合わなければならない病気。最後はインシュリンの注射を朝夕打たなければならなくなる。痛い!いやだ!其処を悪が狙う。

<日本国内の糖尿病患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度にまで膨れ上がってきており、230倍以上という異常な数値を示している。予備軍を含めると2000万人に及ぶとも言われる、現代の日本人が抱える難病の一つである。

糖尿病(とうにょうびょう、Diabetes Mellitus: DM)は、糖代謝の異常によって起こるとされ、血液中のブドウ糖濃度が病的に高まることによって、様々な特徴的な合併症をきたすか、きたす危険性のある病気である。

一定以上の高血糖では尿中にもブドウ糖が漏出し尿が甘くなる(尿糖)ため糖尿病の名が付けられた(Diabetes=尿、Mellitus=甘い)。腎臓の再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2006年12月24日、親戚の主婦(61)が腎不全のため死去した。永年に亘って糖尿病を放置したため、2006年になって突如、人工透析を開始しなければ命にかかわると宣告されてそうしたが、1年も経たないうちに死去となった。糖尿病の知識を本人も家族も持たなかったからである。

続きを読む≫≫

2007年03月21日

◆新東京タワーの波紋


                    渡部亮次郎

東京・江東区の私の住まいから地下鉄で2駅のところに4年後の夏、地上610メートルの新東京タワーが建つ。これを浅草方面(台東区)から見ると、アサヒ・ビール、墨田区役所の左側に、ほぼ隅田川に面して610メートルが聳えることになる。

http://www.yamaguchi.net/archives/000444.html

慌てたのは上野・浅草商店街を抱える台東区商店街連合会。元々商店街や観光連盟など民間主導による「台東ワールドタワー」の誘致活動を展開した。場所は、台東区立隅田公園や区民会館の周辺地区。高さ600mのタワーを建設する計画だったが墨田区計画に敗れた。

上野・浅草地区を訪れる観光客は年間約330万人。しかし拠点駅の東武線浅草駅の存廃の不安がある。ホームも短く、通勤線として不向き。そこへきて東武鉄道は隅田川を跨いだ押上・業平(おしあげ・なりひら)地区に新東京タワーを建設する。

そうなると観光客の流れの重点はそちらへ移り、「やがて浅草駅は廃止されるのではないか」と浅草の住民は疑心暗鬼になっている、という。区長選挙が2007年3月18日に行われたが、具体的な対策は示されなかった。現職が再選。

区としては実は昨年5月、有識者や地元関係者、国や都、隣の墨田区などの委員で構成する「浅草地域まちづくり検討委員会を設置して検討してはいるが、ビジョンの策定はこの夏ごろになると言う。

ところで新東京タワーである。都心部での高層ビルの増加に伴う電波障害を低減すること(特に受信機が小型で影響を受けやすいワンセグ放送に対応すること)、アナログ放送と同規模のエリア確保を目的に、600m級のタワーが必要であるため、東京タワーの代わりに建設される地上デジタル放送用の電波塔である。高さは約610mを予定しており、展望台が450mの高さに建設される。

誘致合戦は激しく、墨田区(すみだタワー) さいたま市(さいたまタワー) 港区(東京タワーの改修) 練馬区(東京ワールドタワー) 豊島区 台東区(台東ワールドタワー) 足立区 千代田区(秋葉原タワー) とあった。

結局2006年3月25日にNHK・在京6社は墨田区に建設することを正式に決定、3月31日に報道発表がなされた。

続きを読む≫≫

2007年03月20日

◆トウ小平秘録が語るもの


                      渡部亮次郎

産経新聞中国総局長伊藤正による大型連載「ケ(とう)小平秘録」の第1部『天安門事件』が2007/03/18に終わった。第2部は近く掲載が再開される。

人民解放軍が人民を銃撃して世界を震撼させた第2次天安門事件(1989年6月4日)について中国当局は事件そのものに「封印」してしまおうとしているため、真相解明は進まない。

<事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。

中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。

「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。>

しかし、それに今回、挑戦したのが伊藤正氏であり、おそらく彼の畢生の作となる大作である。連載の始まったのは2007年2月14日だった。外国人としては初挑戦で、したがって相当な危険を冒したものといえる。

だからすべて公刊された資料により、永年の中国滞在で研ぎ澄ました見識を加えて歴史の真実に肉薄している。おそらく中国人でもここまでは分析できないだろう。

伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。

共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。(紙面での自己紹介より)。

続きを読む≫≫

2007年03月19日

◆検察官は国士になる


                     渡部亮次郎

国士。最近はトンと聞かれなくなった言葉だが、記者の先輩のメイルで久しぶりに出合った。国士とは「一身をかえりみず、国家のことを心配して行動する人物。憂国の士。」(広辞苑)。

先輩の説によると、

<言えるのは検察官の道に入ると、その一人ひとりが国家を背負う意識に染まる。検察をやめて弁護士になる”ヤメ検”も、その意識をひきずっている。

田中角栄(元総理)に手錠をかけた検察はカネ・モノ万能の汚れた国にしてはならないという使命感に駆られていた。一方、弁護に参じた”ヤメ検”は、アメリカの言いなりにならない角栄の姿に国家の将来を賭けていた。

破格な弁護料に買われたというのは皮相な見方である。検察畑にどっぷり漬かると”国士風”になる特殊な土壌があると言ってよい>

というのである。

先の堀江被告に対する東京地方検察庁の主張を聴いていると、わたしは「これは裁判=司法ではなく、政治そのものだ」と感じていたので、先輩のこの指摘に感じ入った次第である。

私は記者生活を20年ぐらいしたが、警察・検察や裁判を担当した事は全くない。地方に居る時、たった1度、判決公判を取材させられたが、驚いたことに被告は新制中学時代の恩師で、罪名はあろうことか強姦致死だった。

あれから50年近く経つ。しかし、以後、仕事の関係では警察も検察も深い関係を持たずに済んだ。あえて言えば民事裁判の原告側証人として東京地裁での公判に立った事はある。

ライブドアについて言えば、堀江氏の生き方は全く気に入らない。それを亀井静香倒しに使った小泉総理(当時)の手法も納得は行かなかったが、郵政民営化という宿願を果たすためには仕方がないのかな、と考えていた。

多分、国士ぞろいの検察は当時から堀江的なものに嫌悪感を抱き、隙あらばとっ捕まえてやろう、世間への見せしめにしてやろうと手ぐすねを引いていたはずだ。

堀江 貴文(ほりえ たかふみ、1972年10月29日―)福岡県八女市出身。血液型A型。平凡なサラリーマンの家庭に生まれる。昭和で言えば47年。田中角栄総理による日中国交回復の直後に生まれている。

続きを読む≫≫

2007年03月18日

◆軟禁されたエイズ医師


                        渡部亮次郎

<中国のエイズ告発医師が訪米 人権賞受賞式に出席へ
27日の香港TVBテレビによると、中国でエイズ禍の告発を続ける著名医師、高耀潔さん(79)が米国の非政府組織(NGO)による人権賞の授賞式に出席するため北京を出発、米ニュージャージー州の空港に到着した。

ヒラリー・クリントン米上院議員が名誉会長を務めるNGOが3月14日にワシントンで開く授賞式に出席し、人権賞を受ける。高さんは出国手続きをしようとしたところ、地元当局に一時自宅軟禁された。クリントン議員が胡錦濤国家主席らに働き掛けた結果、軟禁を解除され出国した。(共同)>(Sankei Web 2007/02/28 01:15)

その後、高さんは2007年3月14日、ワシントンの女性人権団体から、優れた社会貢献を理由に「世界リーダーシップ賞」を授与された。(3月16日付産経新聞 ワシントンの山本秀也記者)

山本記者によると高医師は、中国での売血ルートによるエイズの集団感染を告発したため、これまで暴露を恐れた中国当局から、海外への渡航を約6年間も差し止められていた。

高医師は2001年にもエイズ問題への取り組みで「ジョナサン・マン健康人権賞」を受賞したが、中国当局の出国差し止めで米国での表彰式出席を見送っていた。

2007年の現状について高医師は「売血による血液バンクの」閉鎖一つとっても、貴州ではまだ25箇所が闇で営業している。

広東でも深夜から午前6時まで血液調達に応じている状況で歯止めがきかない」と指摘。エイズ対策では「中央よりもむしろ地方の役人に問題がある」と語った。(3月16日付産経新聞 ワシントンの山本秀也記者)
<2006年、中国のエイズ感染者30%激増>と言う報道がある。

【大紀元日本2006年12月3日】中国衛生部の発表によると、10月までに政府側の統計データーでは中国のエイズ・キャリアは18万3,733人、2005年末の14万4,089人と比較して28%上昇した。そのうち、4万667人が発症、主要な感染経路は薬物常用の静脈注射によるものだという。

続きを読む≫≫