2007年04月08日

◆墓を残さぬ理由


                      渡部亮次郎

中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」!)(トウ)小平(し
ょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、
遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家
主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。

その11年前の1976年1月に総理(当時)の周恩来が死んだ時も、遺言により火葬され、遺灰は空から撒かれた。したがって2人とも墓は無い。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。

毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の
記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠
り続けることは難しかった。周恩来の死は毛より先だから、予ねて考え
て居たことを実行したまで。

日本とちがって中国は「死者にムチ打ち、墓を暴く」文化を持っている。

異民族の金に屈して和平を結び、英雄岳飛を獄死させて姦阻の烙印を押
された南宋の秦檜(しんかい)を今なお許さず、その像に対してツバを吐
き続ける中国人。

「過去を水に流す」淡自な日本人からは理解できない。それよりも周恩
来も!)小平も将来、中国が変化すれば自分たちも墓を暴いて糾弾される
ことを察知していたのではないか。

産経新聞北京総局長の伊藤正局長によれば!)(トウ)氏は死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」の書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。

毛沢東の権威を必要とした後継グループ(4人組みら)の決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。私も見てきた。彼の権威を必要としていた4人組が歴史から退場した今、死体をさらされている毛は孤独で哀れである。

毛に従いながら実務家として生涯を貫き、あの文化大革命にも失脚しな
かった周恩来。不倒翁と称された周恩来。ところが2007年3月に日本語版が刊行された『周恩来秘録』によると、周恩来こそは終生、毛沢東に能力を嫉妬され続けた生涯だったと言う。

だからせめて死後は毛と一緒にされたくないとして忽然と空気になった
のである。3度も失脚させられた!)(トウ)も同様だったのだ。そうだと
すれば天安門広場の記念堂に遺体を薬品漬けで安置、参観者に公開され
ている毛こそさらに哀れである。

私が日中平和友好条約の締結交渉で秘書官として園田直外相(故人)に随
行した時、時折、北京市内で一般市民と接触する機会があったが、其処
からは明らかに毛は好きではないが周は大好きと言う吐露が得られた。
こんなこと言って大丈夫?とこっちが心配するぐらいだった。

先の伊藤総局長によれば、家族や関係者の証言から!)(トウ)は、家族
を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高
の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。

トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、
「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにす
る理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求
めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。

共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死
者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農
民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名
な言葉はその時のものだ。

改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会
主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢
東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみ
る活気を回復した。

豊かさと自由−だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だ
った。

「富をどう分配するかは大問題だ」「この問題の解決は発展を図るより
困難だ」「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いず
れ問題が起こるだろう」。

トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊か
になる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもた
らした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先
富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。

墓を残さなかった周恩来と!)(トウ)小平。中でも!)(トウ)小平は経
済の改革開放をやれば富は豊かになるが、政治面で共産主義体制を維持
する事は決定的な矛盾であり、その矛盾がやがて中華人民共和国そのも
のを転覆させるかもしれない、その時に墓があれば、オレは暴かれると
読む。

革命児は墓を残すべきでない。!)(トウ)小平、周恩来の方が普通人だ
ったようだ。2007.04・07





2007年04月07日

◆EU完全統合への道遠し


                       渡部亮次郎

今のEUのことを日本で初めて取り上げた政治家は故・河野一郎であった。1960年代の中ごろ、ヨーロッパ視察旅行から帰って、今にヨーロッパは経済的に大団結すると喝破し、その対応を各界に求めた。

しかし反応は全く無かった。当時フランスを訪問した池田勇人首相がド
ゴール大統領からトランジスターのセールスマンと揶揄されても国民は
誰も怒らなかった。国際感覚も外交感覚からもズレていたのである。

初めは緩い経済的連帯とでも言うべきECだった。その基をなすのがロー
マ条約であり、2007年3月で締結50周年を迎えたが、加盟国が増大する一方で各国間の温度差も広がっているようである。

<ローマ条約とは、欧州経済共同体 (EEC) 設立に関する、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ及びルクセンブルグの6カ国が1957年3月25日に調印した条約である。もとの正式名称は、欧州経済共同体設立条約 (Treaty establishing the European Economic Community) であった。

しかしマーストリヒト条約により、他の事項とともに共同体と条約両方
の名称から"経済"を除去する修正を受けた。この結果、本条約は欧州共
同体設立条約又はEC条約と呼ばれている>。

欧州共同体 (EC) から発展、1993年11月1日、マーストリヒト条約によりヨーロッパ各国によるEU国家連合体欧州連合(おうしゅうれんごう)となった。

ヨーロッパ各国において経済、政治、軍事など社会的なあらゆる分野で
の統合を目指している。本部はベルギーのブリュッセル。現在の加盟国
は27か国である。

産経新聞ベルリン=黒沢潤記者によれば欧州連合(EU)は2004年以来、東欧など12カ国にも「統合の翼」を広げたことで、その性格を変えつつあるという。

「(15カ国時代に比べて文化、宗教、経済面で)『異質』な者同士の集
まりとなり、アイデンティティーの危機にすら直面している」(ドイツ
のシンクタンクCAPのベティーナ・タールマイヤー研究員)のが実情
だというのだ。

EUが冷戦終結後、ソ連のくびきから解き放たれた東欧諸国を組み入れ
たことは、欧州の政治的安定や経済発展といった観点から意味があった。

しかしポーランドが04年に欧州憲法条約に「キリスト教の伝統」を謳う
よう唱えて政教分離の国々と対立したことでも明らかなように、価値観
をめぐる“温度差”が徐々に表面化している。

経済面でも、新・旧加盟国の違いは歴然としている。EUの経済成長率
に占める新規加盟国の貢献度はわずか5%に過ぎず、巨額の補助金がこ
れらの国に流れることへの不満もくすぶっている。

1月に加盟したルーマニアとブルガリアは国内の機構改革に追われ、E
Uに今後の戦略を提示できる状況にはない。外から見れば強力な組織に
見えるEUもこうした国々を抱え、「内部は弱体化しつつある」(政治
専門家)との見方もある。

加盟当時、東欧諸国の側は約40年ぶりの「欧州回帰」に沸いたが今や不
満が募る。域内での自由労働が認められないなど、加盟の恩恵を十分、
感じることができないためだ。

冷戦後、やっとソ連の下から独り立ちした東欧諸国は、内政への「ブリ
ュッセル」からの横やりに困惑気味だという。

独ブランデンブルク応用科学大のウルリヒ・ブラッシェ政治学教授は、
「東欧では『モスクワからブリュッセルの独裁主義に変わっただけだ』
との声も出ている」と話す。

「これ以上の拡大は、『EUの顔』の問題にかかわる」(ミヒャエル・
クライレ独フンボルト大教授)との指摘もあるように、EUは「拡大」
よりも「深化」に重きを置いていく可能性が高い。 (Sankei Web 
2007/03/2401:54)

加盟候補国としてクロアチア、トルコ、マケドニア、セルビアの4カ国が控えている。トルコの加盟のハードルが最も高いようだ。

加盟27か国の公用語がEUでは等しく扱われる。そのためEUの公式文章は22の言語に翻訳される。言語は五十音順。

イタリア語 英語 エストニア語 オランダ語 ギリシャ語 スウェー
デン語 スペイン語 スロヴァキア語 スロヴェニア語 チェコ語 デ
ンマーク語 ドイツ語 ハンガリー語 フィンランド語 フランス語 ブルガリア語 ポーランド語 ポルトガル語 マルタ語 ラトビア語 リトアニア語 ルーマニア語

黒沢潤記者によればEUの公式言語は22でなく23だそうだが、とにかく臨
時を含めて通訳者が5500人も居て通訳に要する予算も年間10億ユーロ、
日本円では約1570億円だそうだ。

加盟候補国 のクロアチア、トルコ、マケドニア、セルビア のうちクロ
アチアの加盟が3年後には見込まれているため、EUは新たに建築する庁舎の通訳ブースを21から30に増やす。それでも悲鳴は上がる。

たとえばオランダ・ギリシャ語間の通訳は英語を仲介するリレー通訳。
即時性が求められる各種会議や記者会見は修羅場と化すそうだ。加えて
小国の言語は小さな会議では通訳されないことも多く、議論が迷走する
ことになる。

EUの本部はブリュッセルだが、欧州議会は仏のストラスブール、欧州中
央銀行は独のフランクフルトと機能は分散したまま。整理統合は容易で
はない。

こんな状況を捉えて黒澤記者は「域内人口が5億人に膨張したEUは、統合の成果を強調するが、使用言語や庁舎の乱立振りを見る限り、完全統合への道程はなお遠そうだ」としている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007・04・05





2007年04月06日

◆イラン情報の裏側


                       渡部亮次郎

再掲(一部訂正)
【カイロ4日共同】イランのアハマディネジャド大統領は4日、首都テ
ヘランで開いた記者会見で、イランが先月23日にペルシャ湾で拘束し
た英海軍兵士15人に恩赦を与え、釈放すると発表した。

これに先立つテヘラン(CNN)情報。

イランが3月23日に英海軍兵士15人を拘束した事件で、英国は英兵
らの釈放に向け、外交ルートを通じて引き続きイランに接触している。
ブレア英首相の報道官は4月3日、英国がイランに直接交渉を提案し、
交渉開始時期についてイランの回答を待っていることを明らかにした。

これに関連して次のような情報が事前に世界を駆け巡った。イランに対
するアメリカの「脅し」がロシアから漏れてCNNに流れたのだ。

<2007年3月26日。モスクワ、3月19日。RIA ノヴォスティ。 ロシア軍の専門家が推定するところによれば、アメリカ軍のイラン攻撃計画は、2月20日の時点で後戻り出来ない確実なものとなった。その理由は2月20日の時点でIAEAの事務局長であるモハンマド・エル・エルバラディが彼の報告書と見積書の中で、「イランの核兵器計画の平和的な性質を確認する」ことがIEEAの能力では出来ないという認識を示したからだ。

ロシアの週刊誌アーゴメンティ・ネデリによれば、軍事行動は4月の第1週の間に実施されるようだ。その時期はカトリックと正教会のイースター祭の前にあたり、西洋の論客達や議論が沈静化する時期だからである。
(今年は、イースター祭は4月8日に祝福される).


あるいはイランは6日(金)に攻撃されるかもしれない。6日はイスラム
教圏の国々では祝日だからだ。米国筋に拠れば、攻撃は一日のみで0400
時から1600時までの12時間までである。この軍事作戦の暗号名は、現在
のところ English CockまたはBiteとされている。>。

これについて、あるジャーナリストの分析。

<テヘランのCNN情報は優れている。アフマディネジャドはアングロ
サクソンの脅しに屈したようだ。

アメリカのCNNが、テヘランやモスクワから極秘情報を取れる背景に
は、この事件が米英ロとイランの間で裏取引が行われてことを窺わせま
る。そのパイプのどこかに有力なデイープスロートを持ったのだろう。

情報戦となると、単純なアフマディネジャドでは勝負にならない。裏取
引も英兵15人は単なる表材料で、イギリスの石油権益の確保が主要問題
だという。国際的な孤立感を深めているイランにとっても悪い話ではな
い。

ロシアは複雑だそうだ。英兵15人拘束で、ブレア首相は交渉はしない、
無条件の釈放を求めると表ではいいながら、裏ではイランとの独占的な
交渉をやってきた。

それはいいとしても、アフマディネジャドが妥協し、さらにイギリスが
イランの国際舞台復帰の手助けをすれば、イラン情勢は沈静化する。そ
うなれば、原油価格が下落してしまう。石油資源国であるロシアにとっ
ては、高値の原油価格が望ましいのに>。2007.04.05

2007年04月04日

◆おらゴム長と織田信長


                     渡部亮次郎

「おらゴム長と織田信長」は親戚の秋田芸人大潟八郎の間違え節の1節。
その伝で行けば敗戦直後に歌手(故人)の淡谷(あわや)のり子はどこ
か田舎で「ズロースの女王」と宣伝ビラに書かれたのは間違い節だ。

ズロース drawers 「広辞苑」女性用の下ばき。股間部をおおい、太
もも丈のゆったりしたもの。

ブルース(blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式。19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われてい
る。

アコースティック・ギターの弾き語りを基本としたデルタ・ブルース、
バンド形式に発展したシカゴ・ブルース、ロックと融合したブルース・
ロックなど、時を経て多様な展開をしている。

しかし日本の場合「ブルース」というと、前記のブルースに影響を受け
た淡谷のり子、青江三奈らに流れを発する、「哀しい雰囲気でムードの
ある歌謡曲」をさす場合の方が多い。

「別れのブルース」「伊勢佐木町ブルース」といったように、歌謡曲や
演歌などでタイトルに「ブルース」がつく曲はおおむね、音楽的にはブ
ルースとは別物である。

マイナーブルースに近い構成のものもあるが、メロディーの音階がブル
ーノートスケールではなく演歌ペンタトニックスケールなどの違いがあ
る。

これらには歌詞が物悲しいことと、アレンジにサックスを多用している
という共通点しかない。

淡谷のり子が本邦初めてブルースと付く名の「流行歌」を歌ったのは昭
和12年の春、ソプラノの声をわざと煙草で潰して唄った「別れのブルー
ス」である。作詞藤浦洸で、作曲の服部良一に無理に頼まれて唄った。

窓を明ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ

胸にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても 恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ

この「別れのブルース」が中国戦線からヒットした。「別れのブルース」
は横浜本牧のチャブ屋街をモチーフにし、バンドホテルを舞台にしてい
る。チャブ屋とはいわゆる売春窟である。

淡谷のり子は以後、ブルースと付く何曲も唄い「ブルースの女王」と呼
ばれた。

雨のブルース(1938年)
想い出のブルース(1938年)
東京ブルース(1939年)
満州ブルース(1940年)

戦後は

嘆きのブルース(1948年)
君忘れじのブルース(1948年)
遠い日のブルース(1963年)

ところがブルースをブルーズと濁って(正式に)発音したのは1回目の
「別れの・・・」時だけで、なぜか以後はすべて濁らずに唄っている。

ブルースの本来の発音はブルーズで、作為的にbluezと綴られる事もある、と解説書にはあるのだから、日本のブルースはブルースでは無いというのは本当だろう。

本当のブルーズが日本では、1970年代にブームが起こった。 1971年、
B.B.キングが初来日を果たす。 1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of leepyJohn Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。

1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバル
は第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジ
ュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。

日本でも京都、大阪を中心にウェスト・ロード・ブルース・バンド、憂
歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが
形成されて行く。

日本のはブルースではないブルース。間違え節の落ちである。参考:ウィキペディア及び誰か昭和を思わざる 
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singera01.html
2007・4・02


2007年04月03日

◆浅草は慌てなくていい


                       渡部亮次郎

浅草(あさくさ)の交通を支配してきた東武鉄道が、隣の墨田区押上と業平の間に新東京タワー610メートルを建てて新名所にしようとしている、浅草が見捨てられるのでは無いかと慌てている。

しかし、テレビから見捨てられてもしぶとく外国人を取り込んでいる浅草を見捨てることのできないのが江戸っ子であり、日本人なのでは無いか。生まれて初めて背広上下を父に買ってもらったのは浅草だった。浅草よ永遠なれ!だ。

浅草は、東京都台東区で、戦前は東京随一の繁華街として栄えた。関東大震災と戦災で壊滅的な被害を受けたが、そのたびに目覚ましい復興をとげてきた。

高度経済成長期以降は山手線沿線の新宿、池袋、渋谷などの発展により、東京を代表する繁華街としての地位はこれらの地区に譲ったが、現在も江戸情緒を感じさせる観光地として賑わっている。

最大の失敗が大学の誘致を考えなかったことだ。若者が或る時から居なくなった。

「吾妻鏡」の1181年(養和1年)の条に浅草の名が見える。江戸時代から境内地が広く認められ、明暦の大火(明暦3年=1657年3月2から4日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる)。

その後、遊郭や芝居町が広く移転してきて仲見世が発展し、見世物小屋などが進出して大娯楽街となる。明治後も映画館や演劇場が繁栄し、昭和初期の浅草オペラをはじめとした大衆文化の中心となっている。

古くから浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えていた。徳川家康が江戸を根拠地として大規模な城下町に改造していくと浅草もその一角を担うようになる。

2007年03月31日

◆雄大な種族保存絵巻


                      渡部亮次郎

昭和の初めごろ、東北の農家で使役の馬といえば南部(岩手)駒が最高とされた。しかし、南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種は絶滅してしまった。

うちの親父は農業のほかに八郎潟干拓運動などで多忙な人だったし、長男は農業大嫌い。次男の私は幼すぎる。かと言って作男を雇おうにも働ける男はすべて戦争に狩り出されておりゃしない。

手入れの悪い馬は「伝貧(でんぴん)」と呼ぶ病気、人間の肺結核みたいなのにかかって死ぬ。運が悪ければ陸軍に「軍馬」として徴用される。そこで親父は断固として馬飼いを止め、牛に切り替えた。牛は病気をしないばかりか、夜道に強い能力があった。

尤も、ある牛は私の右足の親指を踏みつけて、生爪を剥いだが・・・あれは痛かった。どうやって帰宅したか未だに思い出せない。とにかく馬は貧しい農家に敬遠された。

戦後は農業の機械化、農薬の普及、トラックの普及で、農村から馬は1頭たりと居なくなった。南部馬はじめ三春駒・三河馬・能登馬・土佐馬・日向馬・薩摩馬・甲斐駒など、地域によって沢山いた亜種の絶滅の背景はこれなのだ。同様に牛も居なくなった。

24歳の夏、NHKの仙台から岩手県の県庁所在地盛岡放送局に転勤になった。まだ高速道路はおろか新幹線もない時代。県議会で知事が観光に力を入れると表明しても、何の意味か誰も理解できなかった。誰もいないこと、昔のままの自然が観光資源?そんな馬鹿な、と言った時代。

今では移転したか無くなってしまったかもしれないが、盛岡市郊外に岩手県の施設として県種畜牧場というのがあって、南部駒は絶滅したとはいえ、牛馬の種の保存事業を続けていた。

一方、岩手県政記者クラブは毎年春に総会(宴会)を開くが、ある年、会場は種畜牧場、料理は飼育している羊1頭をつぶしてのジンギスカン鍋、アトラクションは競走馬の種付け見学ということにした。県庁は木造2階建て。のどかな時代だったのである。記者は十余人。

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2007年03月29日

◆極秘水脈「直角ライン」


                    渡部亮次郎

日本の政治のことを考えるのはそろそろ止めよう、と考えている。つまらないからだ。スケールがどんどん小さくなってゆく政治家たち。とりもなおさず肝(きも)を鍛える戦争を体験していないからだ。

幸か不幸かNHK政治記者だった41歳のとき、請われて外務大臣の秘書官となり、政治家の喜怒哀楽、毀誉褒貶を約4年垣間見た。それはのちに社団法人日米分化振興会から出版してもらった『園田外務・厚生大臣日程表』に付属メモとしてかなり書いてある。

但し、この本は販売されなかったので、世間の目に触れなかったと言ってもいいだろう。又、当時の新潮社出版部長(のちに専務)新田敞
(にった ひろし)氏から薦められて書き続けた「」秘書官日記)は我が引出しの底に眠ったままである。

これを日本政界裏面史として遺すべき人物も居ないし、これらはこのまま歴史の裏で塵、芥として棄てられること確実であろう。多少残念でもあるから、わがメイルマガジン「頂門の一針」を執筆しているうちに幾つかを遺して行く。

私がその秘書官を勤めた園田直(そのだ すなお)と元総理大臣田中角栄。仲は徹底的に悪いと世間では思っていたし、既にこの世に無い2人。このことについては遺言も無いはずである。

ところが実際は朝も暗い時に何度もサシの会談を重ね、大平内閣はおろか鈴木善幸政権と言う誰も想像だにしなかった政権をも実現したのもこの2人が組んでの仕事なのである。

大正7(1918)年5月4日、新潟県生まれの角栄。直は大正2(1913)年12月11日、熊本県天草島生まれ。どちらも大学は出ていない。しかし角は「俺は秘書が東大出だ」と言ったし直は密かに資格を取ろうとした。

共に軍歴を経たのち、昭和22(1947)年4月25日の第23回総選挙(戦後2度目)で代議士当選(共に民主党公認)。曲折を経て昭和44(1969)
年、佐藤栄作政権の下、田中幹事長、園田国会対策委員長というコンビを組む。

コンビを組むと言っても田中が任命したものではなく事実上は佐藤首相の指示。既に佐藤後の政権について後継を目指している田中に対して、福田赳夫支持を明確にしている園田を国対委員長にするとは、佐藤が田中を支持していないことを匂わせるものだった。

2人はことさらに対立することも無かったが、マスコミは「直角ライン」と呼んで対立を際立たせようとした。

そんなこともあって直が参謀となった福田派と角栄派の総理争いは「角福戦争」と呼ばれるほど激しく競り合うものとなった。しかし資金力に優る角栄があっけなく勝利。敗れた福田が角への恨みを募らせる。怨みはこのあと10年ぐらいの政局に噴出することになる。

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2007年03月28日

◆日本海が表だった時代


                    渡部亮次郎

秋田はやはり美人が多い。2007年3月24日の千秋会。互いに71歳の高校時代を東京で懐かしむ会。花見が目的だが花は1分咲き。それよりも70を過ぎてなお美人の中に北前船を連想させる姓の方が居て、少し詳しく調べる気になった。北前船(きたまえぶね)はうっすらとしか知らない。

北前船の水夫が女に腰を抜かしたのは越前でも能登でも越中でも越後でもなく秋田だった。各地の地名が「姓」で残っている。播磨谷=兵庫県、越前谷=福井県、三国屋(谷)=同、若狭屋=同、小浜屋、=同、敦賀屋=同、能登谷=石川県、加賀屋(谷)=同、越中屋=富山、越後屋(谷=新潟県)。

秋田まで来るとどこかが緩んだのかも知れない。酒田(山形県)には留まっていない。逆に秋田男が加賀女に腰を抜かした記録はない。?

ところで北前船は江戸中期から明治時代にかけて,北海道と大坂、のちには江戸までを結んで西回り海路を往来した買積船。その船型は通称千石船で,弁財船,どんぐり船とも呼ばれた。

当初は200石(30トン)積みから500石(75トン)積みまであったが,明治時代になると2000石(300トン)積みクラスのものも現れた。

積荷は上り荷として北海道産の胴ニシン・羽ニシン・身欠きニシン・サケ・昆布などの海産物,下り荷は米・塩・木綿・古着・酒などであった。船主が荷主を兼ねた買積みであった。柚木 学(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

例年70,000石(10、500トン)以上の米を大坂で換金していた加賀藩が寛永16年(1639年)に、この航路で100石(15トン)の米を大坂へ送る事に成功。一方幕府も寛文12年(1672年)出羽国の米を河村瑞賢に大坂へ回漕させたのが、この航路の起りである。

初めは近江商人(滋賀県)が加賀、能登の水夫たちを雇って、北海道を日本海、瀬戸内海を挟んで大坂との物資交易で大儲けした。1航海1千両と言われた。

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2007年03月25日

◆岩手県立大生に贈る言葉


                       渡部亮次郎

これを長い間読んで下さったあなたと、やはりお別れする日がやってき
ました。徳久教授の退職に伴ってこのHPも閉鎖されるからです。老人の
繰言(くりごと=くどくどと言うこと。愚痴)を長いこと読んで下さって有難う御座いました。

私の大学生活は、遥か50年以上前。霞んでしまって思い出すのもやっと
です。少しは授業を聞きましたが、大学新聞作りにばかり熱を上げてい
ました。学生の政治運動の最も盛んな時代で、日本共産党に楯をついた
ことから、サークルを除名されました。

卒業後、NHKの記者になり、大館、仙台、盛岡と勤務し、いい加減厭になって転職をその社長と約束し、大酔して帰宅したら東京・政治部への転勤が告げられました。そうやっても結局、記者生活は20年に達せずに辞めました。NHKの体質に染まれないことを知ったからです。

41歳の暮でした。外務大臣の秘書官をしたり、日米間の文化交流を推進
する社団法人に身をおいたりと、随分、変化のある人生を送ってきまし
たが、大学で習ったことが仕事に役立ったと言う事は1度もありません。むしろ下宿の畳に寝転がって読んだ小説のほうが役立ったように思います。

社会に出る、という事は上司に命令されることで始まります。そこから
役立つことと言えば、挨拶がきちんとできること、お辞儀がきちんとで
きること、電話の応対が慌てないで出来ることだけで100点です。

パソコンの時代、メイルの時代と言いますが、手紙が確り書ける人は格
別に目だって信頼されるでしょうね。そういう人は敬語も難なくこなせ
るようになるでしょう。なぜなら敬語とは格別の言葉ではなく、相手を
不愉快にさせないだけの言葉に過ぎないからです。

私は秋田の貧しい農家に生まれ育ったものですから、NHKでは放送記者として秋田訛を直すことと、政治家に敬語で取材するのに苦労したかと聞かれますが、全く苦労しませんでした。

政治家は他人より何十倍も苦労したと自任している人種です。選挙とい
う誠に高いハードルを越えているからです。どんなに品性の劣る国会議
員でも、何万もの有権者を納得させる何らかの術を持っているのですか
ら、尊敬せざるを得ません。そうなればその人に対して使う言葉は敬語
になっていました。

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2007年03月24日

◆武士道否定で「いじめ」


                      渡部亮次郎

浅学にして知らなかった。定年後「名誉教授」を名乗らせないのは怪しからん、と大学を訴えた人がいたとか。産経新聞の教育欄(2007・3・19)で「卑怯を憎む心を育てよう」と武士道精神の復活を呼びかけておられる。

それが東京大学時代は全学連の組織部長だったというから驚きが止まらない。

全日本学生自治会総連合は、1948年(昭和23年)9月に日本全国の国立、公立、私立の145大学の学生によって結成された。初代委員長は後に新日本文学会の指導的な立場に立ち、安保闘争のときに日本共産党を批判する呼びかけを行って党を除名された武井昭夫である。

ついで委員長になったのは、のちに学習院大学の教員となり中曽根康弘のブレーンとなった香山健一であった。

初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。

この時期に全学連で活動した者には、後述する東大の山川暁夫、元西武セゾングループ総帥で作家の堤清二、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、元桃山学院大学学長沖浦和光、東大教授の神代や戸塚秀夫、歴史学者の犬丸義一、早大から新聞記者を経て田中角栄秘書となる早坂茂三らがいた。

彼らは学生時代は全員同じ共産党員であり、早坂を除けば共産党の東大細胞(支部)に所属していた。70年代まで、山川と早坂、堤との交流は長らく続いていたという。このことは全学連運動の当時の人間関係の密度の濃さを表している。

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2007年03月22日

◆患者を脅す医者が悪い


                      渡部亮次郎

<「血糖値を抑える」カイコ粉末に薬効と宣伝して売る カイコの粉末に薬効があると宣伝して健康食品を販売したとして、大阪府警警備部などは22日、薬事法違反(承認前の医薬品広告など)の疑いでボンビックス薬品(大阪市中央区)と社長(48)ら2人を書類送検した。

社長らは容疑を認め、1998年11月ごろから15万個以上、約15億2000万円分を売り上げたと供述しているという。  

調べでは、昨年8―11月、カイコの粉末入り錠剤「ボスリン」など2種類の健康食品を、血糖値を抑えるなどの薬効があるとホームページやチラシで宣伝。山形県酒田市の女性(58)ら8人に270錠入りを計17個(20万3700円)販売した疑い。>ZAKZAK=夕刊フジ 2007/02/23

これが、要するに「糖尿病怖い」に付け込んだ犯罪なのである。今後も似たような事件が多発することが間違いない。なぜならば、糖尿病は今のところ一旦かかったら絶対に治らず、一生付き合わなければならない病気。最後はインシュリンの注射を朝夕打たなければならなくなる。痛い!いやだ!其処を悪が狙う。

<日本国内の糖尿病患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度にまで膨れ上がってきており、230倍以上という異常な数値を示している。予備軍を含めると2000万人に及ぶとも言われる、現代の日本人が抱える難病の一つである。

糖尿病(とうにょうびょう、Diabetes Mellitus: DM)は、糖代謝の異常によって起こるとされ、血液中のブドウ糖濃度が病的に高まることによって、様々な特徴的な合併症をきたすか、きたす危険性のある病気である。

一定以上の高血糖では尿中にもブドウ糖が漏出し尿が甘くなる(尿糖)ため糖尿病の名が付けられた(Diabetes=尿、Mellitus=甘い)。腎臓の再吸収障害のため尿糖の出る腎性糖尿は別の疾患である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2006年12月24日、親戚の主婦(61)が腎不全のため死去した。永年に亘って糖尿病を放置したため、2006年になって突如、人工透析を開始しなければ命にかかわると宣告されてそうしたが、1年も経たないうちに死去となった。糖尿病の知識を本人も家族も持たなかったからである。

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2007年03月21日

◆新東京タワーの波紋


                    渡部亮次郎

東京・江東区の私の住まいから地下鉄で2駅のところに4年後の夏、地上610メートルの新東京タワーが建つ。これを浅草方面(台東区)から見ると、アサヒ・ビール、墨田区役所の左側に、ほぼ隅田川に面して610メートルが聳えることになる。

http://www.yamaguchi.net/archives/000444.html

慌てたのは上野・浅草商店街を抱える台東区商店街連合会。元々商店街や観光連盟など民間主導による「台東ワールドタワー」の誘致活動を展開した。場所は、台東区立隅田公園や区民会館の周辺地区。高さ600mのタワーを建設する計画だったが墨田区計画に敗れた。

上野・浅草地区を訪れる観光客は年間約330万人。しかし拠点駅の東武線浅草駅の存廃の不安がある。ホームも短く、通勤線として不向き。そこへきて東武鉄道は隅田川を跨いだ押上・業平(おしあげ・なりひら)地区に新東京タワーを建設する。

そうなると観光客の流れの重点はそちらへ移り、「やがて浅草駅は廃止されるのではないか」と浅草の住民は疑心暗鬼になっている、という。区長選挙が2007年3月18日に行われたが、具体的な対策は示されなかった。現職が再選。

区としては実は昨年5月、有識者や地元関係者、国や都、隣の墨田区などの委員で構成する「浅草地域まちづくり検討委員会を設置して検討してはいるが、ビジョンの策定はこの夏ごろになると言う。

ところで新東京タワーである。都心部での高層ビルの増加に伴う電波障害を低減すること(特に受信機が小型で影響を受けやすいワンセグ放送に対応すること)、アナログ放送と同規模のエリア確保を目的に、600m級のタワーが必要であるため、東京タワーの代わりに建設される地上デジタル放送用の電波塔である。高さは約610mを予定しており、展望台が450mの高さに建設される。

誘致合戦は激しく、墨田区(すみだタワー) さいたま市(さいたまタワー) 港区(東京タワーの改修) 練馬区(東京ワールドタワー) 豊島区 台東区(台東ワールドタワー) 足立区 千代田区(秋葉原タワー) とあった。

結局2006年3月25日にNHK・在京6社は墨田区に建設することを正式に決定、3月31日に報道発表がなされた。

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2007年03月20日

◆トウ小平秘録が語るもの


                      渡部亮次郎

産経新聞中国総局長伊藤正による大型連載「ケ(とう)小平秘録」の第1部『天安門事件』が2007/03/18に終わった。第2部は近く掲載が再開される。

人民解放軍が人民を銃撃して世界を震撼させた第2次天安門事件(1989年6月4日)について中国当局は事件そのものに「封印」してしまおうとしているため、真相解明は進まない。

<事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。

中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。

「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。>

しかし、それに今回、挑戦したのが伊藤正氏であり、おそらく彼の畢生の作となる大作である。連載の始まったのは2007年2月14日だった。外国人としては初挑戦で、したがって相当な危険を冒したものといえる。

だからすべて公刊された資料により、永年の中国滞在で研ぎ澄ました見識を加えて歴史の真実に肉薄している。おそらく中国人でもここまでは分析できないだろう。

伊藤正 産経新聞中国総局長兼論説委員。1940年生まれ。東京外語大中国語学科卒。65年共同通信に入り、香港、北京、ワシントンの各特派員の後、87年から91年まで北京支局長。

共同通信論説委員長を経て2000年産経新聞に転じ、同年12月から現職。著書に「トウ小平と中国近代化」などがある。(紙面での自己紹介より)。

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