2006年11月15日

◆悲喜交々各位殿

渡部亮次郎

昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交交は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。各位殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した人であった。2006.11.15

2006年11月13日

◆高慢ちきの哀れ





       渡部亮次郎

友人に聞いた話である。
「俺がエリートだ。お前らは定年になって社会貢献が出来なくなったけど、俺を支援すれば社会貢献できる。だから俺を支援するのが筋というものだ」。元大使閣下が高校の同期会に来て高言したのだと言う。

また大手商社で役員になれなかった東大出は言ったそうだ。
「定年で最早、社会的に何の力も無くなったお前らがこうやって集まって何の意味があるのだ」と。

そんなら来なけりゃいいのに、悪口が気になるのか、毎回、遅れてしかも泥酔して来るのだそうだ。同期会なんて、意味を求めるのが可笑しいだろう。懐かしいといういわばくだらないことの詰め合わせ。無意味に意味があるだろう、と友人は嘆いていた。

同じ東大出でも農学部で役所の長官にまでなった男は、同期会に欠かさず来て、受付を手伝い、威張るところが一つもないそうだ。なんでこんなに違うのだろう、育ちかな、性格かなと友人。私は「勘違いだろう」と断じた。

世の中、東大を出て官吏や商社マンになることだけがエリートではない。厭な仕事でも買って出て、他人の面倒をよく見ることがエリートなのだ。米国人で、日本文学研究者のサイデン・ステッカー氏は嘗て私に「威張る人は馬鹿なのです」と教えて下さった。

なるほど、馬鹿じゃないと威張れないわけでもある、と考えた。友情に損得があるわけがない。それこそ同期という何の理由もなしのグループに損得や意義を求めるのは馬鹿なのだ。

そう思って話を忘れていたら、友人はまた言ってきた。「商社マンに来年の同期会で挨拶させてやろう、という人が出てきて困っているんだ」と。

言い出したのは商社マンになぜか頭の上がらぬ私大出の元技術者だそうで、どうしたもんだろうという相談だった。そんなこと簡単じゃないの。「お前らがこうやって集まって何の意味があるの」との発言をばらせばみんなが反対と叫ぶでしょう。或いはスジが通らないと来年は特に欠席するという人も出かねないね。

幾日かしたら、予想通り沙汰やみになったと聞いた。当然だろう。意味のない会合にわざわざ出てきて、かつ挨拶とは矛盾しているから当然の帰結である。

学校の成績だけじゃ生きて行けないのが世の中というものだ。
加えて独りで生きてもいけないのが人生だ。そのことを如実に物語ったのが友人の周りで起きた同期会挨拶事件だったのではないか。

学校で、役所で、会社で成績を競い、勝者になる。しかしそれが人生の勝利と思ったら大間違い。結婚に失敗、子育てに失敗したら人生の勝利者とはいえない。まして同期会で陰で馬鹿と陰口を利かれるようなら大失敗と言うべきだろう。

そうしたことを考え合わせると、人生の勝者とは常に他人を思いやっている奴と分る。

人生とは不定のゴール即ち死に向かって懸命に走るレースである。だから生きることとは死ぬことなり。有限の生命を無限に生きる事は出来ないのか。出来る。幅広く友人を得ることである。

縦が経験とすれば、友人は横幅。命の長さが長さという立方体が人生。縦と長さに限りはあっても、友情と言う幅に限りはない。他人を思い遣ることを無限にすれば、人生の楽しみは無限となる。2006,11.13

2006年11月11日

◆ヒラリー・クリントン

渡部亮次郎
予て次期米大統領候補の呼び声の高いヒラリー・クリントン氏が今回の上院議員選挙で、ニューヨーク州から軽々と再選されたが、政治資金を選挙区以外にも多額を投入し、大統領選出馬への意欲を見せた。2年後に向けて如何なる展開を見せるのか。

ヒラリー・ダイアン・ローダム(Hillary Diane Rodham)・・・1947(昭
和22)年、イリノイ州シカゴに衣料品店を営む両親のもとに生まれた。日本で言えば団塊の世代だ。一家はメソジスト宗派であり、彼女はイリノイ州パークリッジで成長する。

父親のヒュー・ローダムは保守主義者であり、繊維業界の大物であった。母親のドロシーは専業主婦であり、ヒラリーには2人の兄弟、ヒューとトニーがいる。

彼女は幼少時からスポーツに興味を持ち、テニスやスケート、バレーなどを楽しんだ。メイン西高校を卒業後1965年にマサチューセッツ州の名門校であるウェルズリー大学に入学。

同校を優秀な成績で卒業し、1969年にイェール大学ロースクールに進んだ。ロースクール時代に知り合ったビル・クリントンと結婚。夫婦揃って弁護士として活躍した。(ウイキベデイア参照)

アーカンソー州知事だったビル・クリントンが大統領になって、ヒラリー・クリントンは米国のファーストレディーとして一躍、脚光を浴びた。

ビルは大統領を任期満了で6年前に退任したがヒラリーはその2年後、上院議員選にニューヨーク州から立候補して当選、政界入りを果たした。その時からアメリカ初の女性大統領との呼び声が高まった。

かくて今回の再選となったわけだが、もし大統領に当選すれば上院議員の任期途中ということになるため、今回は「話題にしてくれるのはありがたいが、まだ決めていない」と明言を避けた。当然であろう。

しかし産経新聞ニューヨークの長戸雅子記者がNYタイムズの報道として伝えたところによれば(9日)、ヒラリー氏が今回の選挙につぎ込んだ選挙資金は約2950万ドルの多額に上った。

この金額は接戦だった各選挙区候補の2倍以上で、しかも支払先がネバダやコロラド州に及んでいるところから、将来の大統領選での全米向けキャンペーンを視野に入れているとの見方を裏付けていると言う。

彼女の資金問題については『週刊文春』11月16号が国際ジャーナリストの話として報ずるところによれば、10月26日にNY郊外で開いた59歳の誕生日パーティーで約2億円を集めたと言う。

夫のビルも10月27日から3日間に亘ってNYで開いた還暦パーティーで目標とした2億ドル(240億円)を軽く突破する資金を集めたと言う。この方はクリントン財団の運営資金となるそうだが、ヒラリーにとって夫は頼りになる後ろ盾と言うところだろう。

特に来年中に必要とされる選挙資金5000万ドルはおろか、1億ドルは集められると見られ、資金の心配は全くない。だが。

民主党内ではケニア人の父とアメリカ人を母とするイリノイ州選出の上院議員バラク・オバマ氏(45)がライバルとして急浮上している。

読売新聞ワシントンの五十嵐文記者によれば「ジョン・F・ケネディー大統領のようなカリスマ性」と中道、超党派の姿勢が評価され、最近出した著書はNYタイムズのノンフィクション部門1位のベストセラーだという。

また11月7日の民間世論調査ではヒラリー氏31%に対し19%で2位に浮上した。

こうした状況の中、ヒラリー氏は大統領夫人時代のリベラルすぎる印象が祟っており、今度の中間選挙では、テネシー州など保守的な地域では応援演説に行けなかった。また大統領選の際カギとなるオハイオ州などにも入れなかった。

これに共和党はどう出るか。先輩の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)は先ごろ、御自分のブログ『杜父魚文庫ブログ』(10月25日)で予想している。 http://blog.kajika.net/

「ヒラリー・クリントンに対抗できる共和党の大統領候補は誰か? 2年後の予測は難しいが私はコンドリーザ・ライスしかいないような気がする。これも米政治史上、初の女性対決になるのだが、コンドリーザ・ライスが右派だけでなく黒人層やヒスパニック層などの支持を集めれば、共和党にも勝機が十分にある。

そのためにはブッシュ政権がイラク政策を大胆に転換する必要があるのだが、2年後までもたくつことがあれば、コンドリーザ・ライスでも勝てない。

北朝鮮の核実験をめぐって世界を駈けめぐったライス国務長官を見ながらブッシュ政権はライス国務長官の露出度を高める戦略をとるとみた」。2006.11.11

2006年11月09日

◆国防長官の更迭

                   渡部亮次郎

2006年11月9日の午前3時過ぎ、アメリカから大きなニュースが入ってきた。予想されたとはいえ、ブッシュ大統領がラムズフェルド国防長官を更迭したのだ。中間選挙での敗北をうけ、イラク政策の軌道修正に取り掛かることを具体的に示したものだ。

<【ワシントン=山本秀也】ブッシュ米大統領は8日午後(日本時間9日未明)、ホワイトハウスで記者会見し、ラムズフェルド国防長官(74)が辞任したと発表した。

イラク政策が争点となった中間選挙での共和党が敗北し、民主党からの批判が強まることを踏まえた事実上の更迭だ。後任にはブッシュ前政権で中央情報局(CIA)長官を務めたロバート・ゲーツ氏(63)が指名された。

ブッシュ大統領は、選挙戦の争点だったイラク政策について「素早く、うまくいってはいない」と認めた。イラクを含むテロとの戦いで、米軍最高指揮官としての職責を果たすため、国防総省の首脳人事を決断したと語った。

ゲーツ氏の新長官就任は、上院公聴会の同意を得て発効する。根回しのため、大統領は同日、上下両院の民主、共和両党首脳に同氏の指名を伝えた。

イラク政策で批判の高まるラムズフェルド氏について、大統領は今月1日、ロイター通信などに対し、政権2期目が終わる2009年1月まで留任させると語っていた。この報道を受け、民主党からは同氏への更迭要求がさらに強まっていた。

記者会見での説明によると、大統領は選挙戦終盤の5日にテキサス州でゲーツ氏と会談。さらに7日にラムズフェルド氏と会い、今回の人事で合意していた。

大統領執務室での指名会見で、ゲーツ氏はテロとの戦いで米国の安全を確保する使命を強調し、「公務復帰に関する大統領の要請受諾をためらわなかった」と語った。

ラムズフェルド氏はフォード政権で国防長官を経験し、現政権の発足で再び同じポストに就いていた。ゲーツ氏はCIA要員として情報畑を歩み、大統領の父の政権で1991年から93年までCIA長官を務めた。>(Sankei Web 11/09 03:50)

今回の共和党敗北は予想されていたことであった。いや、イラク戦争云々だけではなく、いわば「恒例」でもあるからである。この点を、信頼すべき古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在記者)は9日の朝刊で次のように指摘している。

「再選された大統領(ブッシュ)の2期目の中間選挙(今回)は与党(共和党)の後退が激しいと言うサイクル的な軌跡がある。保守の強さを発揮したレーガン大統領の時代でさえ2期目の中間選挙では民主党に上下両院の過半数を奪われた。>

日本のTVや新聞を見ていると、いよいよ民主党の時代か、と思わされるが、そうではない。大統領はそのまま、つまり政権交代ではないし、議会では日本と違って法案に対する党議拘束は殆どないから、ブッシュ政権としては、今後議会工作に手間がかかるけれども、何もかにも行き詰まりと言うわけではない。

日本で社会党党首村山氏を首班にした政権ができた時、欧米のメディアはそろって「日本に社会主義政権誕生」と報じた。「しかしこれは自民党に支配された政権だから社会主義政権の誕生なんかではない」と私はニューヨーク・タイムズに投書して掲載されたものだ。

同様に日本人特派員はワシントンで、日本の政界を見るような目でアメリカ政界を見る癖が抜けない。ある記者は「米外交、袋小路の危機」と打ってきたが、ブッシュが大胆な戦略転換をすれば袋小路云々は空文化する。日本と違って新しい国だから転換が出来るのだ。

中国への通商政策の変化に注目する必要はあるが、日本として慌てるべき事は何も起こってはいない。

読売新聞の貞広貴志ワシントン特派員も指摘している。

「レーガン大統領は1986年の中間選挙で上院の過半数を失いながら"悪の帝国"視したソ連に圧力を掛けながら交渉に臨み、冷戦を終結に導いた」。ブッシュはあと2年で何をやるか。民主党は2年後の大統領選挙を目指して纏まれるか、だ。

変化はある。しかしやってくるのは緩やかに、という受け止め方をしておいたらよかろうと思う。2006.11.09

2006年11月08日

◆駝鳥になれということか

 
          渡部亮次郎

自民党の中川昭一政調会長が提起し麻生外相が「論議まで止めるのは言論封殺と言われる」と支持した核論議について、産経新聞に遅れること1日ながらも読売新聞が社説で「支持」した。当然である。朝日、毎日はいつ取り上げるのだろうか。

<北朝鮮の核実験に直面して、「核を持たずに北朝鮮に、どんな対抗措置が取れるのか」と問題提起するのは、責任ある政治の誠実な態度ではないか。

民主党はじめ野党は、核論議を厳しく批判し、外相罷免を求める声もある。だが、小渕政権下の1999年、西村真悟防衛政務次官が「核武装」発言で更迭された際、当時、民主党代表だった鳩山幹事長は、こう語っていた。

「核武装をしてもいいかどうか、と言った瞬間にクビを切られるとなると、国会の中で議論ができなくなる。議題に乗せることすらいけないという発想もいかがなものか」鳩山氏も、自らの発言を思い起こすべきではないか。>(8日付読売社説)

ワシントンからの報道によれば、米議会調査局は11月6日までに、北朝鮮の核実験に関する報告書をまとめ、(1)日本が保有するプルトニウムを使って核兵器を製造する事はすぐできる。(2)韓国や台湾は時間がかかる。(3)しかし日本国民の大多数が核兵器保有への抵抗感が強いため、日本が急激に核兵器開発に走ることはない。

結局「日本が、中国や韓国に北朝鮮問題で圧力をかけるため、核論議を意図的に行っている」との見方を伝えた。(8日付産経新聞)。要するに議論をしていることで一種の抑止力を十分に発揮していることが裏付けられた。

実際に日本にとって核を保有すると結論付けても、国際的規制を考慮すれば、核保有は実際にはまず、不可能だ。だからこそ議論して、中国、北朝鮮、韓国を抑止できるだけ抑止し、せめて非核3原則の修正ぐらいに着地、というのが現実的ではないか。

かつて外務省で大臣秘書官をしたとき、パリで開かれた国際原子力機関(IAEA)の会議に政府代表団の一員として出席したことがある。この組織に関する追加議定書なるものを、わが国は批准しているからだ。

従ってわが国は核拡散防止条約(NPT)の加盟国として、あらゆる原子力関連施設に関してIAEAの厳重な査察を受けている。原子力発電所などあらゆる原子力関連施設にはIAEAの監視カメラが設置され、査察官が定期的に出入りしている。

わが国は1956(昭和31年1月施行(鳩山内閣)の原子力基本法により原子力の研究、開発と利用は平和の目的に限るとし、核兵器の製造や保有を禁じた。また11年後の1967年2月には佐藤栄作総理が非核3原則を打ち出して歴代内閣がこれを踏襲。

衆院も1971(昭和46)年11月には非核3原則の遵守を求める決議を行っている。こうした時代には私も担当記者(NHK)だったのでよく、当時の気を記憶している。沖縄の核抜き本土並み返還という佐藤総理の悲願達成の担保としてのものだった。これが佐藤氏のノーベル平和賞受賞に繋がる。

さて我々は平成17年末現在で原子力発電用としてプルトニウムを国内に5・9トン、英仏の再処理施設に37・9トン計43・8トンを保有している。これらは8キロで原子爆弾1個が作れるのだから驚く勿れ740発を作れるはずだ。

しかしIAEAの監視下とあって「能力はあれど製造研究も不可能」と言うのが実態だ。仮に製造に踏み切るとなればNPT(核拡散防止条約)を脱退してからでなくてはならず、北朝鮮と同じ国際環境におかれることになる。耐える胆力を日本人は有していまい。

更に、当然のことながらNPTを脱退すれば、日米原子力協定に従って日本の核燃料サイクルは停止させられる。原子力発電が停止する。また現実に核兵器を自前で保有し管理するための面積と資金、要因を考えれば、今の日本では核兵器の保有は殆ど不可能である。

これについて畏友の元外交官岡本行夫氏は11月8日、産経新聞におこなった寄稿の中で「冷厳な国際環境の中で行う核兵器導入議論は通常の独立国なら至極当然。それすら行ってはならないというのは、砂に頭を突っ込み周囲を見ない駝鳥になれというに等しい」と嗤っている。

「あれも言うな、これも言うな。発言を控えるだけで日本の安全が保障されるのであれば、こんなラクな事はない。必要な議論なら一時的な対内・対外摩擦があっても、封印せずに尽くすことが、次の世代に対する我々の責務だろう」と。

議論の結果、現状のままと言うことになったとしても、中国、北朝鮮、韓国への気遣いや、国会運営の都合だけでいま、議論は封印すべきでは断じてない。2006.11.08

2006年11月07日

◆本質を見抜けぬ人々

                     渡部亮次郎

50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれである。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。読売新聞は11月限りで購読を断った。主筆渡邉氏の対中国姿勢の転換が気に入らないからである。

それはそうとして、日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づかない。なんと言うことだろうか。

それでも「はい50・8%で安心」という意見もある。7日付の「産経抄」である。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言には仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。このギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止した。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはずなのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくとするこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまいか」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、いか核保有国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者のしりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査によれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えている。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成18(2006)年11月7日[火]>

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2006年11月06日

◆言語道断は野党の方


         渡部亮次郎

先輩は20代後半、独身だったが、呑み屋の超美人かあさんの、今で言えばセフレ。真昼間からかあさんの部屋に蚊帳を吊って展開。先輩のものは通常兵器ではあったが連発が利いた。

なんと蚊帳の周りをおとうさんが唸り声を上げながらぐるぐる回っている。唸ってはいるが蚊帳の中へ襲ってはこれない。おとうさんはチャタレイだったのである。

自民党の中川昭一政調会長が核保有議論の必要性を重ねて発言していることについて自民党の二階俊博国会対策委員長は5日のNHKの番組で「非核三原則を歴代内閣が言い続け、ようやく日本は好戦的な国ではないと理解された。これは大変な積み重ねだ」と強調した。(Asahi Com 2006年11月02日21時51分)

憲法第9条で戦争放棄を謳い、非核3原則を国是などと言う訳の分らない文句で縛っているうちに、自分自身が分らなくなったのか、これでは日本と言う国家がもはや「不能おとうさん」になっていると宣言しているようなものだ。

嘗て夏目雅子が映画で「舐めるんじゃねえぜ」とのたまわったように、日本だって常にそういってなければ、冒頭のおとうさんのようになってしまう。日本は温和しいが、不能ではない、一旦ことがあれば剥く牙はあるんだ、舐めるんじゃねえぜ、と常に見せておかなければならない。科白の背後には匕首という武力があったから吐けた。

酔っ払いの中川さんだが頭脳は素晴らしくいい。何も核武装を決議しようというのじゃない、持つことがいいか、無理か、不都合か、議論をすることが即ち周囲に対する抑止力になる。1銭もかからない核抑止力。近来これほど鋭い頭脳を知らない。

只の酔っ払いではなかった。親父を超えた政治家第2号だ。だからさすがの石原慎太郎都知事も産経新聞の連載コラム「日本よ」で中川発言を高く評価した。

「さらに強盗国家の北朝鮮までが核兵器の開発を提言着手している現実に、日本が自力で何処までどう対処すべきかを論じることそのものを非難すると言う神経は亡国的売国的とすらいえるだろう」

「中川の発言は当然のこととして、中国の北朝鮮の核保有に関しての姿勢を大きく規制した、今後も深い影響を与えるだろう」

「発言は平和と言う1つの現実を形成していくために、現に強いインパクト(衝撃)をもたらしているということを、平和を願う者たちこそ知るべきなのだ」(11月6日付)。

私から見ると、以下のようなざわめきは、実に情けない阿呆の呟きにしか聞こえない。北朝鮮よ、中国よ、韓国よ、日本を舐めてくださいと土下座しているようなものだ。

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2006年11月05日

◆死因は産経の特ダネ

              渡部亮次郎

<「恋はみずいろ」…指揮者ポール・モーリアさん死去

【パリ=島崎雅夫】「恋はみずいろ」「エーゲ海の真珠」などのヒット曲で知られるフランスの指揮者で作曲家ポール・モーリアさんが3日、仏南部のペルピニャンで死去した。 81歳だった。死因は不明。4日、関係者が明らかにした。>(読売新聞 5日)

あの軽快さが好きで、日本で発売されたレコードやCDは殆どを買った。81歳か。ま、歳に不足はないという人も居るだろうけれど、死因が不明と言うのは腑に落ちない。欧米では死因はプライバシーとして秘匿する例は多いのだが、

朝日新聞のAsahi Comはどうだろうかと見た。
<「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」などの編曲で知られるフランスのオーケストラ主宰者(指揮者)ポール・モーリアさんが3日、南仏ペルピニャンで死去した。81歳だった。近親者の情報としてAFP通信が4日伝えた。>2006年11月04日22時07分と素っ気無い。あとは生前のことを付け足してあるだけ。

毎日はどうだろう。
<日本の親しい関係者に入った情報によると、「血液の病気」を理由に夏ごろから通院。先月28日に入院し、今月2日に容体が急変した。6日に葬儀が営まれる方向で、妻は近親者のみでの密葬を望んでいる。詳細は葬儀後に公表するという。>5日「スポーツ・ニッポン」とある。

ところが、やはり産経新聞パリ支局の山口さんだ。長く駐在しているのは伊達ではない。抑えるべき人脈はちゃんと抑えてあった。急性白血病で、検査で分った時は手がつけられなかった、ところまで突き止めている。以下に全文を引用する。

< 【パリ=山口昌子】世界的にヒットした「恋はみずいろ」で知られるフランスのイージーリスニングの第一人者、ポール・モーリアさんが3日、仏南部ペルピニアンの病院で急性白血病で死去した。近親者が4日、明らかにした。81歳だった。

近親者の話によると、モーリアさんは先週、ペルピニアンの別荘に滞在中、体調不良を訴え、近くの病院に検査入院したところ、急性白血病であることが判明したが、手の施しようがなかったという。

6日に近くの火葬場で荼毘(だび)に付す。葬儀はイレーヌ夫人の意向で近親者だけで営まれる。

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2006年11月04日

◆ボールペンとの出合い

 渡部亮次郎

私にとって最初のアメリカは父が東京から買ってきたボールペンであった。昭和27(1952)年の秋だったのではないか。それまで見たことも聞いたことも無い筆記用具の出現だった。

ボールペンは先端に金属又はセラミックスの極小の球(ボール)が填め込まれており、このボールが筆記される面で回転することにより、ボールの裏側にある細い管に収められたインクが送られて、線を描くことができるペンの一種。この一連の機構がユニット化されたものをペン軸の内部に収めて使用する。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に言われてみればこの通りなのだが、鉛筆と万年筆しか見たことのない田舎の少年にとっては、革命的な出合いであったのだ。当時の日本の筆記用具は鉛筆か万年筆しかなかった。

1884年にアメリカ人のジョン・ラウドが着想しているが、インク漏れを防止できず実用にならなかった。

1943年にハンガリー人のラディスラオ・ピロの手で、一応の完成を見る。すぐにレイノルズ社とエバーシャープ社が量産化、戦後アメリカでブームとなったが、インク漏れをほぼ完全に防止でき、安定した製品が市場に出されるのは、1950年代に至ってからだったそうだ。

日本でも1950(昭和25)年代以降国産化されたが、当初は高価で普及せず、公文書に用いることも認められなかった。しかし、量産効果と改良で品質改善・低価格化が進み、公文書への使用が可能となった。1970年代以降は万
年筆やつけペンに代わる、最もありふれた筆記具となっている。

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◆豹変した和歌山県知事

                   渡部亮次郎

<木村知事が辞職 知事、「県政を混乱させた」
和歌山県の木村良樹知事(54)は10月2日午後、緊急記者会見を開き、県発注のトンネル工事の談合事件で「県政を混乱させた責任を取る」と辞職することを表明した。

談合事件への関与についてはあらためて否定したものの、県議会議長は同夕、辞職願を受理した。6日にも県選挙管理委員会に通知する予定で、通知から50日以内に出直し選挙が行われる。>紀伊民報 3日

この記事を読んで私はある多選知事の突然の引退表明に思いが及んだ。この知事は7選が決定的といわれながら1970年の終わりごろ、次春の引退を突然表明し、予告どおり次の年の4月に引退した。

○○年には勲○等瑞宝章を受章したが、引退表明から3年後に死去。享年○5。叙・従○位。確たる実績。報道によれば彼の故郷では今年、生誕100年祭が催されたという。

しかし以下を証言すべき人物も若くして死去してしまったために、今では私の記憶にしかないが、私はこの談合屋のところへ、ある大手建設会の営業部長が訪ねて密談しているところを目撃してしまった。NHKを途中退職(1977年)して間もなくだった。運悪く営業部長は元国会議員の秘書だったので、彼とも昵懇の仲だった。

ピンと来るものがあったが、気のつかなかったフリを決め込んだ。すると却って談合屋のほうから「○○地検特捜部がある県の空港建設に絡む汚職事件の捜査を開始したので口裏合わせに来たのさ。結局、知事が引退を表明すれば、逮捕は見送ると言っているんだそうだ」。贈収賄の金額も聞いた。

私はもう記者ではなかったし、外務大臣秘書官としては余計なこととして胸にしまいこんだ。そしたら直後に件の知事の引退表明があって、捜査は見送られた。従って県民はあの山の上の空港建設に絡んで大きなヤマがありながら見送られたことなど知らないで終わった。旧制中学卒が遺した遺産は実質300億円と噂が立ったそうだ。

しかも前知事ドノは予告どおり、病のため引退表明から3年後、引退からは2年半後には死去。疑惑は完全に伏せられた。それが証拠に生誕100年祭が挙行されたのだから。正に名知事としての名が残っているわけだ。

和歌山県の木村知事は前日は『這(は)いつくばってやる』と言っていたのだ。ところが翌日になって、そう言った言葉が議会与党から批判されたことを辞職の理由の1つに挙げた。あまりにも軽い理由ではないか。

木村知事は大阪府出身。京都大学法学部卒業後、自治省に入省。和歌山県総務部長や大阪府総務部長、同副知事を歴任。2000年9月、当時最年少で知事に初当選。04年8月に再選されていた。と言う事は検察当局と繋がるパイプを持っていたとしてもおかしくない。

前日の会見では、給与半額や退職金の返上を自らに課した上で、続投を宣言。翌日には談合とのかかわりについては「やましいことはしていない」「事件には全く関係していない」と語気を強めて否定したものの、会見を6分弱で打ち切った、つまり、決意豹変の真相は絶対、触れてもらってはいけないところにある証拠だ。記者は検察との取引を疑うべきだ。

<会見後、木村知事はすぐに退庁し、午後6時ごろ、知事の代理で野添勝知事公室長が向井嘉久蔵県議会議長に12月2日付の辞職願を提出した。

知事は酒をあまり飲まないことを引き合いに、日ごろから自らのクリーンさを強調していた。しかし、トップダウン型政治の裏返しで、庁内で知事に率直に進言できる人間は限られていた。

そんな中で、建設業界に顔が利く前出納長が重用され、元ゴルフ場経営者が「談合のブローカー」として暗躍する余地が生まれた。

気がつけば、県政に古くから根を張っていた官製談合の仕組みが「特権」人脈とともに息を吹き返し、「しがらみ」のないはずの木村県政にシロアリのように食いついていた。>紀伊民報('06/11/04)
執筆:06・11・04

2006年11月03日

◆岸の安倍狂い

渡部亮次郎

国家の進路には命を張った岸信介だったが、娘婿安倍晋太郎の出世のことになると、なりふり構わなかった。

それを評して世間は「岸の安倍狂い、福田の自分狂い」と言った。総理大臣を辞任した時の岸はまだ63歳。当初は復活の野心がなかったわけじゃないが、実弟の佐藤栄作が総理になったあたりから女婿の安倍晋太郎を「総理にする」ことばかりに奔走した。

引き換えて子分の福田赳夫氏は自分の出世しか考えなかったので「福田に自分狂い」と言う不名誉な評が残った。

古手の政治記者なら知っていることだそうだが、福田の周りにいた私には却って聞こえて来なかった。同僚だった前田一郎さん(元NHK解説委員)に最近、教わった。

なるほど、例のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも出ている。

<(岸は)晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。>

私が外相時代に秘書官を勤めた園田直について岸は自民党にいる2人の秘密共産党員の1人と決めつけ、国対委員長、官房長官、外務大臣と進む都度、追放を仕掛け、その後を安倍晋太郎に襲わせることに成功した。

実は知り合いのノンフィクション作家塩田潮の取材にに協力をした故を以て、ご労作『昭和の怪物 岸信介の真実』ワック滑ァを送っていただいた。

岸については、その晩年の何年か、東京・内幸町の日石本社(現新日本石油)の3階にあった岸事務所を定期的に訪ねて、時々の政局に対する「見識」を拝聴したものだが、詳しくは「研究」しないまま今日に至った。

だから、この本によって初めて知る事は多かった。以下、ウィキペディアも参照。
 
1)元士族(武士)の家柄。信介は山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第5児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。3歳のころ一家は田布施に帰郷し造り酒屋を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。

実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、特に曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。

また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった」と述べている。

長兄市郎は海軍中将。岸より6歳年下の栄作は親戚佐藤寛子(ひろこ)家に入り婿。佐藤家から佐藤家に行ったので実家を継いだものと誤解されるが、岸も佐藤も養子だ。

 2)旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、
第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。
 
3)高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。

岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

 4)多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」と綽名され、総理辞任後の晩年は、なお政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。

 5)1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、既に岡田啓介元総理らと気脈を通じていた現職閣僚(国務大臣。代議士は辞任)の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職に追い込んだ。

東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れなかった。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。

 6)戦争犯罪容疑で逮捕拘留されたが、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日(1948年12月24日)に釈放された。東條への抵抗を評価されたとの説、アメリカ自身の占領政策の変更説あり、確定的な説はない。
 
7)1953年(昭和28年)に自由党公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)吉田茂により自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。

かねて2大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。

 8)1956年(昭和31年)12月、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

頭脳の良さは記憶力、判断力の良さに止まらず、事務的処理能力においても飛びぬけていた。加えて度胸の据わったところ。派閥が自然に常に出来た。

娘洋子の婿には官僚ではなく新聞記者を希望。友人の紹介で毎日新聞記者の安倍晋太郎を知ったが、安倍は旧友の息子でもあったので話は急展開した。この夫婦に出来た3人の男の子のうちの次男が安倍総理である。三男信夫が岸家の養嗣子となった。岸の長男信和に子がないため。

 9)1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官・赤城宗徳がこれを拒否した。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考える所まで追いつめられたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。

「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。

 10)「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と言うのが岸の口癖、何度か聞かされた」。(元共同通信社常務理事古澤襄)

岸は妖怪なんかではないが、怪物ではあった。以後、これほどの政治家を大和民族は持てなかった。安保騒動で総辞職を余儀なくされたのは返す返すも残念であった。河野一郎とは初めは良かったが政権の途中から不倶戴天(ともに天を戴かず)の敵となった。

岸は安倍に夢を託したまま1987年8月7日に逝去。しかし安倍晋太郎も4年後には無冠のまま逝去。2006年になって孫が政権の座に着いた。岸も新太郎も予想していただろうか。

(文中敬称略)2006・11・03

2006年11月02日

◆東條を倒した男

渡部亮次郎

アメリカへ1941年12月8日に攻めて行ったのは東條英機内閣である。開戦の詔勅(天皇が意思を示す文書)に副署(天皇の名に副えてする署名)したのは東條内閣の閣僚。その中に商工大臣岸信介(きし・のぶすけ)の名があったのは当然である。

しかし岸は途中で「東條を打倒しなければ日本は滅亡する」と考えが変わり、色々と手段に工夫を凝らした上で、自分1人で東條内閣の総辞職に持ち込むことに成功した。昭和19(1944)年7月18日のことだった。

若い方でも既にご存知のように、岸の孫が総理大臣安倍晋三である。

岸の娘洋子が新聞記者安倍晋太郎と結婚し、その次男が晋三だから孫である。その内閣発足に合わせて、知り合いのノンフィクション作家で評論家の塩田潮が「昭和の怪物 岸信介の真実」(ワック滑ァ)
を出版し、取材に協力した故を以て、1冊を送ってくれた。

岸については、彼が内閣を組織している頃はNHKの記者になり立てで秋田県の大館や仙台にいた。のちに政治部に配属された時は既に岸は代議士を引退していた。

時折会って隠居話を聞いたが、その来歴を系統だって調べる必要のないまま今日に至ったので、今回、塩田本で初めて知ることが多かった。

大変な秀才でありながら、それを鼻にかけるような事は絶対になかった。東大で教授になるべく残れと言われたが断わった。役人になって国家のために働きたいからだった。常に子分が出来たのは度胸もよかったから。

当時、役人と言えば内務省か大蔵省に入るのが普通だった。たとえば内務省に入れば、課長になる前に府県知事になれた。ところが岸が選んだのは「農商務省」。現在の農林水産省と経済産業省が一緒になっていた役所。

入ったところで岸は商工行政で頭角を現し、革新官僚の頭目と目されるようになる。其処に陸軍が目をつけ、折から建国した満洲国政府の幹部として呼び込んだ。

ここで岸は軍部を後ろ盾に統制経済を徹底し、行政官でありながら政治家の操縦まで習得。その功績で商工省となっていた古巣に復帰し、やがて満洲で昵懇になった東條に招かれて商工大臣になってしまう。

大臣という政治家になった以上、衆院議員にならなければおかしいと昭和17(1942)年4月30日の第21回総選挙に郷里山口2区から急遽出馬。初陣にも拘らず、定員5名のところ、2位にダブルスコアの差をつけて当選(得票は30,302)。

開戦当初、日本は破竹の進撃を続けた。フィリピンにいたアメリカのマッカーサー大将(のちに元帥)がオーストラリアに落ち延び、日本軍は開戦6ヵ月後には東南アジア全域を制覇した。

だがミッドウェー海戦で敗れてからの日本軍は各所で玉砕(壊滅)。それに応じて軍需物資の調達もままならず、東條は商工省を軍需省に衣替え。

大臣は首相東條が兼務し、岸は次官に降格。それは拙いと考えた東條は岸を国務大臣兼軍需次官とした。次官は国会議員を兼務できないことになっているから代議士を辞任した。

いよいよ追い詰められて行く戦局を見て「東條を降ろさないと戦争は終わらない」と岡田啓介、米内光政ら首相経験者による「重臣」らが秘密裏に「東條倒閣策」を練り始めた。岸がそれに加わった。

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2006年11月01日

◆共産国の自滅は「ノルマ」

                     渡部亮次郎

「ノルマ」こそは社会主義革命で生まれたソ連を自滅に追い込んだものだと思っているが、最近の日本では平易なビジネス用語になっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「ノルマ主義は、労働の意欲を高めるのにはよいが、JR西日本の福知山線脱線事故のようにかえって悪い影響が出ることもある」と言った風に使われている。

ノルマ(ロシア語:Норма, norma)とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。

日本には太平洋戦争後、シベリアに抑留されていた日本兵が帰国した際に伝えられ、日本語の語彙として広まったとされる。

もともとはロシア革命(1917年)によって成立したソビエト政権では、古くからの地主的土地所有制度は解体され、土地の国有が宣言された。

スターリン時代の1920年代末期に農業の全面的集団化が強制的に実行され、屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるものの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつくられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた作業日単位でおこなわれていたが、ブレジネフ時代にはいると、職種ごとのノルマと賃金表にもとづく貨幣支給にかわっていった。

ところが集団農場では収穫物が自分たちの所有にならないから、労働意欲は起こらない。また、極端に言えばノルマだけを果たしていれば賃金は支給される。となると様々な場面で怠業(サボタージュ)が行われる。

一方、共産化した中国の国有工場では、働いている人も居眠りしている奴も同じ賃金だから、工場全体の成績は下がる事はあっても、上がることはない。そうした実態を見て、とう(�)小平が改革開放経済に踏み切った理由だ。

ソ連では、穀倉地帯のウクライナで、麦の種まきも集団農場のノルマだ。だから昨日撒いた種麦が昨夜の風で飛ばされても、農民たちは「オレらはノルマは果たした」といって、再播種には応じない。こうしたことが74年間も続けば国は立ち行かなくなる。ソ連崩壊だ。

ソ連崩壊(ソれんほうかい)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。

ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったという事。

更に東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると 1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終わりを迎えたという、2つの意味で重要な出来事である。

一方、中国でも人民公社(じんみんこうしゃ)が実施された。毛沢東は中華人民共和国における農業集団化のための組織として施行した。農村での行政と経済組織が一体化(政社合一)された。

1958年に大躍進運動の開始と共に合作社の合併により組織され、生産手段の公社所有制に基づく分配制度が実行された。しかし前述のように働かなくても喰えるのがノルマであってもれば、ノルマが社会主義を縛る。

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