2009年09月25日

◆スパイは普通のおっさん




                 渡部亮次郎

スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっている。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。

この状況は、米ソ2極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるからである。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件が大きい。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのである。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。

丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必!)(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

1973年8月8日昼頃、東京のホテル・グランドパレス2212号室で金大中は同ホテルに宿泊していた梁一東韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを何者かに襲われ、空部屋だった2210号室に連れ去られる。犯人グループは、エレベータで地下に降りる途中、金大中にクロロホルムを嗅がせて意識を朦朧とさせた後、ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、船で神戸港から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中は「船に乗るとき、足に錘をつけられた」と後日語っている。

しかし事件を察知したアメリカの通報を受けて自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行、解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

警視庁はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金は外交特権を盾に拒否。日本政府は金東雲に対し日本では初となるペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。

この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セグァン)が朴正煕殺害を決行し、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・ジョンギュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭の、警護室長に就任した車智!)(チャ・チチョル)に対する反感から、10・26事件(朴大統領暗殺事件)がおき、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。

後年(2006年2月5日)、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が韓国政府により公開され、日韓両政府が穏便に事を済ませ政治決着を図ろうとしていたことが明らかになった。

第2次世界大戦前には「ゾルゲ事件」が起きたが、国民は敗戦後の極東軍事裁判で明らかにされるまで全容を知らなかった。ドイツ人のジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge,1895年10月4日 -1944年11月7日)が日本を舞台にして繰り広げたスパイ事件のことである。これについては別に執筆したので省略する。

アメリカとの戦争を始めるに先立って日本陸軍はアメリカ本土にスパイを放った。新庄健吉(しんじょう けんきち、明治30年(1897年)9月30日 - 昭和16年(1941年)12月5日)である。

新庄は陸軍経理学校教官・支那派遣軍経理部員・企画院調査官等を歴任し、階級は陸軍主計大佐に至る。情報将校としてアメリカの国力を詳細に調査し、戦争の見通しについて報告書を作るなど情報分析能力が注目された。

新庄の死後、日米開戦当日に行われた葬儀に駐米大使館職員が参加していた事が最後通牒の遅れた原因とする説がある。

明治30年9月農業新庄竹蔵の三男として生まれ、京都府立第三中学校を経て大正4年12月主計(会計・給与などを担当する軍人)候補生となる。

陸軍派遣学生として昭和3年3月東京大学経済学部を卒業、大学院を昭和5年3月に修了するなどインテリに養成される。

昭和12年8月主計中佐に進み、昭和16年1月参謀本部からアメリカ出張を命ぜられた。任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し、来る日米戦争の戦争見通しを立てる事であった。

所謂スパイであるが、4月に到着以後、非合法な活動は伴わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し日本との国力差を数字に示した。

諜報が目的である事から駐在武官府等の在米陸軍機関では活動せず、エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内に事務所を開いた。勿論身分を三井物産社員と偽装してである。

元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明々白々であったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3で、この差を縮める事は不可能とあった。

これらの調査結果を日本の参謀本部に報告書として提出するが、渡米から、3ヶ月働きづめだった新庄は、ワシントン市にあるジョージタウン大学病院で開戦直前の12月4日急性肺炎を併発し没する。45歳だった。

新庄の葬儀が最後通牒の遅れた事に関係するという説が、ノンフィクションライターである斎藤充功の著書に記されている。

12月4日に逝去した新庄の葬儀は12月7日、日本時間では12月8日にあたる。12月8日は日本が海軍の戦力を以って真珠湾を攻撃した日であり、後には開戦記念日と呼ばれる。

この日日本はアメリカに対し最後通牒を行いその通告文をアメリカ国務長官コーデル・ハルに渡す事を予定しており、その日時は12月8日午前3時現地時間で12月7日午後1時を定刻としていた。

攻撃の前に予め開戦の意志を伝えるというのが目的であったが、定刻を過ぎてもその最後通牒は行われず、真珠湾攻撃は午後1時15分(日本時間8日午前3時15分)に始まる。

日本からの文書を翻訳・浄書するのが遅れた為などの言い訳があるが、この事から騙し討ちと呼ばれる。予てからその原因は大使館職員の怠慢であったと言うのが定説であるが、斎藤の調べでは来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使らの葬儀出席が原因と言う。

新庄の葬儀は現地時間で午後に行われ、磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両駐米大使が参加しており、その来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言うのだ。

ハル国務長官に最後通牒を手渡したのは午後2時20分、1時間20分の遅れだった。しかし、こうした事実も国民は戦後になって初めて知らされた。しかも関係者はなにごとも無かったかのように事務次官や大使に出世した。

(参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。文中敬称略)

2009年09月22日

◆小澤幹事長の健康状態



                渡部亮次郎

民主党の小澤幹事長の健康状態は、余りよくなく、総選挙後、できるだけ速い機会にロンドンで心臓の「手入れ」をしなければならない、と選挙中から、さる筋から流れていた。

その結果、9月19日になって「20日から25日までのロンドン訪問」が伝えられたが、労働党や保守党の関係者、政府の幹部との会談を予定し、英国の政治献金や選挙制度にあり方、国会運営などを調査するという触れ込みである。

以前はロンドンへ「手入れ」に行く時はアメリカへ出張し、そこから隠れてロンドンへ渡っていた小澤だが、今回からは立場が重要になったから、報道陣から隠れる事はほぼ不可能と見て、発表したもののようである。

小澤の健康状態は厳重秘密にされ、小澤番の記者は勿論、秘書たちも触れたがらない。秘密のヴェールに包まれているわけだが、艶の無い肌、ふやけたような顔の浮腫み、昼食後義務付けられている午睡などから専門家は、心臓以外にも悪いところがあると判断する。

多分、今回、ロンドンでは大きな手術は短期間だから不能。おそらく太ももの付け根の動脈から器具を使って、心臓内のある種の器具を交換するのではないか、と言っている。

考えてみれば、私の政治記者生活は、1964年秋の東京オリムピックの最中、総理大臣池田勇人が喉頭癌に倒れながら、側近たちが、真実を本人に秘匿すべく、国民に「前癌症状」などといい逃れた真相を暴くため、オリムピックそっちのけで医師団の取材に日夜かけめぐったことから始まった。過労で歯が何本も抜けた。

だから、この取材で、癌についてはかなり勉強した。しかも直後、
担当していた前の東京オリムピック担当大臣河野一郎が腹部大動脈瘤破裂で急死。その後、実弟の謙三も同じ病気にかかりながら医学の進歩に救われるという取材もした。

さらに下って1980年6月、時の首相大平正芳が心筋梗塞で倒れた時は、かつて秘書官として仕えた園田直がやはり糖尿病で心筋梗塞を恐れていたので、大平も間もなく死亡する事が分かっていた。果たして12日早朝に死亡。

園田はすぐ目白台の田中角栄を訪問、後継者を鈴木善幸に決定。情報と知識の勝負に勝った。園田は鈴木内閣で厚生大臣と3度目の外務大臣を務めた。

大平の糖尿病は秘匿されていたが、主治医の兄弟が外交官。その人物から事実が漏れていた。「実に医者の注意をきかない悪い患者」。と言う事は合併が進行している。長い事は無い。マスコミには伝えなかった。

田中角栄は自らバセドウ病であることを喧伝していたが、重い糖尿病である事は秘匿した。竹下派が分派して田中を興奮させれば、やがて脳梗塞を起こす事を知って実行したのなら、これは殺人事件なのである。

こうしたことを振り返れば、現職の政治記者は、政治情報と共に、かなり高度な医学知識を持っていなければならないことが納得できるだろう。

大野伴睦の死は、結果的には、宿敵佐藤栄作を政権に押し上げたし、やはり副総裁だった川島正次郎の死は田中角栄政権の短命化に繋がった。こうした事を考えると、小澤の渡英は扱いは小さいにしても、政治記者としては胸に深く記すべき課題であるはずだ。(文中敬称略)2009・09・20


2009年09月20日

◆きりたんぽ鍋怖い




                 渡部 亮次郎

新米が出回ると「鍋料理、鍋料理は秋田、秋田はきりたんぽ鍋」となるらしく、関係ないはずの秋田県南のみやげ物店からの案内状に「きりたんぽ鍋材料一式」が入ってくる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が<きりたんぽ(切蒲英)は、秋田県の郷土料理>と書くからだ。きりたんぽ発祥の地は戊辰戦争以前は南部藩だった北部の「鹿角(かづの)」である。

私の生まれ育った旧八郎潟周辺(県中央部)では、「だまこもち」だ。きりたんぽは、つぶした粳米のご飯を杉の棒に竹輪のように巻き付けて焼き、棒から外して、食べやすく切った物をいう。

鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いて食べたりする。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。

これに対して「だまこもち」は同じく潰したご飯(新米)をピンポン玉ぐらいの大きさに丸め、きりたんぽと同じく鶏だしの鍋で煮込んで食べる。左党はもちを食べるより、鍋の具を肴に酒を呑む方が主だから、もちは翌朝に、味がよくしみた奴を串刺しにして囲炉裏で焼いたのが却って美味いといったものだ。

最近では全国で食べられているきりたんぽときりたんぽ鍋。たんぽを切る前の段階でのきりたんぽのことを指し、ほとんどの人がこれを「きりたんぽ」と思い込むが、切っていないのは只の「たんぽ」。

「たんぽ」とは本来、稽古用の槍につける綿を丸めて布で包んだものを指し、杉(秋田杉)の棒に、半殺し(半分潰すという意味)のご飯を巻き付けたところがたんぽをつけた槍(たんぽ槍)に似ていることからその名が付いた。

秋田県北部(現在の鹿角市周辺)に住むマタギ(猟師)の料理が起源とされる。マタギが山から帰った際、残した飯を潰して棒につけ焼き、獲物のヤマドリや山菜、キノコとともに煮たり、味噌をつけて食べたりしたとされている。

家庭料理であることから、鍋に入れる鶏肉に決まりはなかったが、比内地鶏(ひないじどり)が有名になったことをきっかけに、比内地鶏の産地である大館市でセットで売り出すことに成功し本場の地位を確立し、その後秋田県の郷土料理として広く親しまれるようになった。

この時大館市が発祥の地として売り出そうとしたため、発祥の地を自負する鹿角市と発祥争いとなったが、現在では鹿角市が発祥、大館市が本場を呼称することで落ち着いた。

22歳から23歳にかけて大館市に記者として駐在した。年末の忘年会はどこも会場は北秋クラブ、料理はきりたんぽ鍋。飽きた。爾来、きりたんぽ怖い、鶏怖い、だ。「だまこもち」も食べたくない。

一方で県北部が起源であるため、由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺の県南部では「きりたんぽ」は北部ほどのなじみはない。

きりたんぽ鍋の作り方。

鶏(比内地鶏)のガラでとっただし汁をベースに、こいくち醤油、酒と砂糖(または味醂)で醤油ベースのスープを作る。煮え難い順に、ゴボウ、(しらたき)、(サトイモ)、(卵巣を含む鷄モツ)、マイタケ(金茸、銀茸)、比内地鶏、(つみれ)を並べ中火で煮立てる。きりたんぽとネギを入れ、味が染みる直前でセリを投入する。セリに火が通ったら完成。(カッコ内はオプションとして好まれるもの)

比内地鶏が品種開発される以前は比内鶏のものを用いていた。比内地鶏が手に入らない場合はブロイラーのトリガラ、もも肉、鳥皮、ネクタイ(首の肉)で代用すると良い味が出る。

基本的に鷄ベースのキリっとした醤油スープ。具材については邪道とされるものがいくつかあり、甘味と水分が多く出る白菜、風味が変わってしまう魚肉(竹輪などの練りもの)、匂いが変わるニンジン、風味が変わるシイタケは入れない。基本はゴボウ、鷄肉、マイタケ、ネギ、たんぽ、セリの6種である。

みそつけたんぽ

焼いたたんぽに味噌を塗って食べるもの。みそたんぽとも呼ばれる。出典:『ウィキペディア』2008・11・11(再掲)

2009年09月19日

◆福井県に罪は無い



                  渡部 亮次郎

エチゼンクラゲの漁業被害が報じられるたびに越前=福井県を連想するのは当然だが、実は福井県に全く罪は無い。

1921(大正10)年の12月に福井県水産試験場から当時の農商務省の岸上鎌吉博士の許へ届けられた標本が、初めて他とは違う種類のクラゲであることがわかったことからこの名がつけられたに過ぎない。

国産の食用クラゲは産出地域の旧国名ごとに和名がつけられており、ビゼンクラゲ(岡山県:備前国)、ヒゼンクラゲ(佐賀県:肥前国)と命名されている。

当時の福井県水産試験場長の野村貫一氏の姓が学名のnomuraに採用された。

福井県では「エチゼンクラゲ」の名称が報道される度に福井県産の海産物のイメージダウンになることを危惧して「大型クラゲ」などと言い換えをするように報道各社に要望しているが、既に和名として一般に定着していることもあって要望は実現していない。

エチゼンクラゲそのものは大型の食用クラゲの1種で、傘の直径が2メートル重さ150キログラムになるものもある。日本では人が刺されたという報告は殆どされていない。体の90%以上が水分である。

渤海・黄海では漁獲され、食用に加工されている。ビゼンクラゲに比べて歯ごたえ等が悪く、価格が安い。傘の部分は表面がざらざらしている上に肉が薄い。口腕の部分はほとんど利用されることはない。

近年、日本に輸入されるクラゲのかなりの部分をエチゼンクラゲが占めるようになった。これは、クラゲの質の善し悪しを知らない日本人が多いために、安いクラゲを仕入れて今までと同じ値段で客に出す中華料理店が増えているためとも考えられる。舐められているのだ。

本来の繁殖地は黄海および渤海であると考えられており、ここから個体群の一部が海流に乗って日本海に流入する。 対馬海流に乗り津軽海峡から太平洋に流入したり、豊後水道付近でも確認された例がある。

1958(昭和33)年、エチゼンクラゲが津軽海峡まで漂い、時節柄浮遊機雷と誤認されて青函連絡船が運行停止になったことがあった。

近年、日本沿岸でエチゼンクラゲは大発生を繰り返しており、巨大な群が漁網に充満するなど、底曵き網や定置網といった漁業を著しく妨害している。

またエチゼンクラゲの毒により、このクラゲと一緒に捕らえられた魚介類の商品価値を下げてしまう被害も出ている。古くからクラゲ漁を行っていない地域では苦慮している。

大量発生の原因として、産卵地である黄海沿岸の開発進行による富栄養化、海水温上昇などの説が挙げられている。

特に三峡ダムなどの開発が原因ではないかという仮説が立てられており、国立環境研究所などが検証を始めている。

面白い事がある。最近の研究でエチゼンクラゲの天敵がアジやカワハギである事がわかった。

特にカワハギは集団でエチゼンクラゲを襲うことが分かり、石川県のカワハギ漁の漁師がエチゼンクラゲをカワハギ漁の餌として実験して効果が確認されている。出典:『ウィキペディア』

2009年09月16日

◆連立は参院割れのため


                  渡部 亮次郎

鳩山内閣(2009年9月16日発足予定)は民主党、社会民主党、国民新党による連立政権だが、参議院対策のための連立政権である

自民党を初めて斃したと喜んだ民主党支持者は勿論、負けた自民党支持者も共に戸惑っているのは、大勝したはずの民主党が、社民党と連立を組もうとして、社民党に振り回される現実を見せられたことである。

日本では、戦前や戦後の混乱期、1955年の保守合同で自由民主党が成立するまでは連立政権が多く見られた。以後、長期にわたって自民党の単独政権が続いた。

しかし、中曽根康弘首相による第37回総選挙(1983年12月18日)の時に過半数を割った。しかし保守系無所属を追加公認して過半数を辛うじて確保。安定多数を確保するため、衆議院議員8人の新自由クラブと連立政権を組んだ。

それでも、参議院では、自民党は圧倒的多数を制していた。不思議な現象だった。いわゆる「55年体制」といわれる保守合同と左右社会党の統一の実現した昭和30年以降、参議院は自民党の天下だった。

だから重宗雄三による議長4選争いなどという「内ゲバ」が起きても、自民党は揺るがなかった。だからこれをバックに「角福戦争」(田中角栄と福田赳夫によるポスト佐藤栄作を巡る総裁争い)や大平正芳、福田による「政権密約」謀議も「遊べた」のである。

中曽根内閣の後、竹下内閣、宇野、海部内閣とよたよた自民党政権がつづいたが、生前の田中角栄が「あいつにだけは総理大臣をヤラしちゃいかん」と遺言した宮澤喜一が内閣を組織したところで精が尽きた。

非自民・非共産連立政権・細川護煕(もりひろ)内閣の登場。自民党離党以来、汚濁の底で蠢いていた小澤一郎がこれをハンドリングして表面に出た。

細川内閣は日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立続く羽田孜(つとむ)内閣は新生党、公明党、日本新党、自由党、民社党、民主改革連合、改革の会の連立。

突如として自社さ連立政権。あおうことか自民党が日本社会党と連立して政権を奪還。そのかわり社会党は破壊した。

村山内閣は、日本社会党、自由民主党、新党さきがけ、(政務次官のみ、自由連合)の連立。

第1次橋本内閣 - 自由民主党、社会民主党、新党さきがけの連立。

1989年の第15回参議院議員通常選挙(橋本内閣)で、自由民主党が非改選議席を合わせても過半数に届かず大敗を喫した以後は、連立を組まざるを得ない状況が慢性化している。

自自政権
小渕内閣―自由民主党、自由党

自自公政権
小渕内閣―自由民主党、自由党、公明党、(政務次官のみ、改革クラブ)。ここから小澤の自由党が脱退したことがショックとなったか小渕が急死した。

自公保政権
森内閣―自由民主党、公明党、保守党、(政務次官のみ、改革クラブ。第42回総選挙まで)

第1次小泉内閣―自由民主党、公明党、保守新党

自公連立政権
小泉内閣(第2次以降)―自由民主党、公明党
安倍内閣―自由民主党、公明党

福田康夫内閣・福田康夫改造内閣―自由民主党、公明党

麻生内閣―自由民主党、公明党

2007年11月には民主党と自民党により、政策協議が開かれたが物別れに終わった。(大連立構想)の挫折。

かくて2009年8月30日、衆院選で野党民主党が308議席と大躍進、自民は3分の1のわずか119議席。しかし政権を初めて奪回しても参議院では過半数に達していない。

先の自公のように参議院では過半数に達していなくても衆議院で3分の2を制していれば再議決で問題はなかったが、さすがにそれは無理。どんなに厭でも社民党と国民新党に頭を下げるしかないのだ。

だから民主党が来年の選挙で、参院の過半数を制すれば、少なくとも社民党との連立を解消しようとするだろう。小澤としては「それまで待っていられない」と自民や公明に「手」を突っ込むか。(文中敬称略)                 2009・09・15


◆本日刊「頂門の一針」1671号の<目次>は下記の通り。ご拝読を。

<目次>
・連立は参院割れのため:渡部亮次郎
・価値観がバラバラの民主党の危うさ:櫻井よしこ
・政権交代ではなく、精神の後退:宮崎正弘
・断末魔のJAL悪あがき:林 凛明
・ノースウエストからの教訓:前田正晶

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
  http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


2009年09月11日

◆海軍記念日があった




         渡部 亮次郎

日本では、大東亜戦争以前に5月27日を海軍記念日としており、休日であった。1905年(明治38年)5月27日に行われた日本海海戦を記念して制定された。1945年に敗戦とともに廃止された。

日露戦争は、アジアの小国日本が欧州の大国ロシアに勝利を収めた。その中でも、遠路ヨーロッパ・バルト海から回航された強力なバルチック艦隊(ロシア名:第2・第3太平洋艦隊)を迎え撃ち、これを撃滅した日本海海戦(ロシア名:ツシマ海戦)は、陸上での奉天会戦の勝利(陸軍記念日)と並んで日本国民が記念すべき日とされ、海軍記念日として祝われた。

現在の海上自衛隊も、この日の前後に基地祭などの祝祭イベントを設けている。 主なものに、例年金刀比羅宮で行われる掃海殉職者慰霊祭がある。

陸上自衛隊がアメリカ陸軍式に編成・教育され、旧陸軍との関係を断絶しているの比べ海上自衛隊は旧海軍77年の歴史と伝統を重視しており、旧海軍の末裔を自認している。

現在でも、スマートネイビーを標榜する日本海軍の伝統を重んじている組織である。伝統的な気質としては、純粋な軍人育成を嫌い、シーマンシップ(スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂といった船乗りの心得)に基づいたリーダーシップ(指導、統率力)を持ち、クリューコーディネート(協調、統制能力)も可能な人材育成を前面に掲げることなどがあげられる。

これは、陸軍が基本的に国内にとどまって国土を防衛する任務を担うのに対して、海軍(特にBlue Water Navy)は外国を訪問することが多く、海軍士官は相互親善を深める外交官的な役割をも担ってきたことに由来する。

そのこともあり、陸海空の中で海上自衛隊のみ初任幹部ほぼ全員を海外に出して見聞を広めさせている。

海上自衛隊は、伝統墨守といわれるほど旧日本海軍の伝統を汲んでいる。

観艦式などには日本海軍伝統の軍艦行進曲(軍艦マーチ)が演奏され、海軍の軍艦旗をそのまま自衛艦旗として居る。

海上自衛隊で使われる信号喇叭の喇叭譜も一部を除いて旧海軍のものをそのまま使用しており、君が代の喇叭譜が陸海それぞれ別にあるという変則なことになっている。金曜にカレーを食べる習慣(海軍カレー)も旧海軍の伝統である。

なお、陸空では使用されない「士官」の語も「幹部自衛官」のほかに法令上も用いられている。

一方、陸軍記念日は、日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。

明治38年3月10日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領、奉天城に入場したのがこの日であった。翌年からこれを記念して休日としたもの。1945年の敗戦(大東亜戦争)に伴い廃止された。

1945年の東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってさも事実であるかのように出回ったものである。

日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認できない。ちなみに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。

海軍、陸軍の記念日という戦勝記念日は強制的に忘れ、敗戦の日だけを覚えている。情けないではないか。2007・05・27      (再掲)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年09月09日

◆ジャガイモ不作で値上がり




               渡部 亮次郎

2009年、日本の夏は日照不足だったため、各地からジャガイモの不作が伝えられ、3割以上の値上がりが報じられている。この芋はすでに麦、トウモロコシ、コメについで世界4番目の「主食」の地位を確保している。

日本人が敗戦直後の食糧難に頼った芋はジャガイモではなく、薩摩芋だった。生産の都合でああなったのだろうか。いまでも薩摩芋は好物ではない。ジャガイモが好物だ。

ジャガイモは南米ペルー南部に位置するチチカカ湖の畔が発祥とされ、現在、世界中で広く普及するに至った。

国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計資料 (FAOSTAT)によると、2005年の全世界におけるジャガイモの生産量は3億2310万トンであり、主食となるイモ類では最も生産量が多い。

生産地域は大陸別ではアジアとヨーロッパが4割ずつを占め、インドを除くといずれも中緯度から高緯度北部に分布する。上位5カ国で全生産量の54%を占める。日本の生産量は275万トン(世界シェアはわずか0.85%)。

1.中国 7346万トン(22.7%)
2.ロシア 3728万トン(11.5%)
3.インド 2363万トン(7.3%)
4.ウクライナ 1946万トン(6.0%)
5.アメリカ合衆国 1909万トン(5.9%)
6.ドイツ 1162万トン(3.6%)

7.ポーランド 1037万トン(3.2%)
8.ベラルーシ 819万トン(2.5%)
9.オランダ 678万トン(2.1%)
10.フランス 668万トン(2.1%)

このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシだとされていたが、複数の研究の結果、食基盤はジャガイモであったことが分かった。

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っていない。

スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士達によってもたらされたものであろうと推測されている。

さらに1600年頃になるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない。

いずれにせよ16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であり、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが登場するのはさらに時を待たねばならない。

さらにジャガイモは18世紀にはアイルランド移民の手によりアメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となった。

このように、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから鳥害にも影響されないジャガイモは庶民の食料として爆発的な普及を見せた。

アダム・スミスは『国富論』において「小麦の3倍の生産量がある」と評価しており、瞬く間に麦、米、トウモロコシに並ぶ「世界4大作物」としてその地位を確立した。

栽培にはpH6前後の酸性の土地が適している。また冷涼な気候や硬く痩せた土地にも強い。その反面、病害や虫の被害を受けやすく 連作障害も発生しやすい。

ジャガイモの地下茎は水分と栄養が豊富なため雑菌が繁殖しやすく、保存状態の悪い種芋や、収穫から漏れて地中へ残された芋は病害の原因となる。そのため、日本では植物防疫法の指定種苗となっており、種芋の売買が規制されている。

ジャガイモは連作障害が発生しやすい。連作を行うと土壌のバランスが崩れ単純に生育が悪くなるだけでなく、病害や寄生虫が発生しやすくなる。

特にジャガイモに大きな被害を与える原因として、ジャガイモシストセンチュウによる生育阻害がある。このセンチュウは地中で増殖し高密度になるとジャガイモの生育を大きく妨げる。2009・08・28

2009年09月07日

◆政治記者OBたちの嘆き



       渡部亮次郎

「政治記者OB会」という親睦団体が東京・西新橋にある。1979(昭和54)年の設立で今年、創立30周年を迎えた。戦前からの政治記者も含め、東京在住のOB百数十人が登録している。

30周年を祝う記念総会は5月25日、西新橋のビル会議室で開かれ私も出席した。全体で41人しか出席しなかったが、昭和20年代に吉田番を経験した清宮龍さんの「想い出」講演があり、今流行りの白洲次郎氏と相撲をとった話が出た。

これを含む当日の記録が「会報」として郵送されてきて、政治記者OB各氏も昨今の政治に関して「嘆き」を共にしている事を知った。消息を寄せたOBの最高齢者は98歳。

「2度(兵役に)召集を受けましたが、生き残りました。戦争に対して新聞は無力だった事を反省しています」とあった(朝日OB)

「今世紀は内外とも大いに面白くなりそうですね。アメリカの世紀は今や末期的だし、国内は自民党長期政権も末期症状で、どんな政権交代ドラマが展開するのか。一方で日米安保体制も大変わりかも
知れない等々、目を凝らしているところです」(毎日OB)

「この頃の政治がすっかり“お笑い化”している事は大変残念です。マスコミ界の責任もまた大なりというべきでしょう」(朝日OB)

「世襲政治は堕落の一途」(共同OB)

「病院生活で見ると、一体、日本の政治は何をやっているのかと思います」(東京OB)

「ミニ角栄・小澤一郎がのさばる政界。そのような人物を党首に推戴(当時)している民主党。検察批判を合唱する一部勢力。不愉快な現象の多い昨今です」(共同OB)

「満85歳になりますが、混迷する政局を見ては、まだまだ死ねません」(時事OB)

「NHKスペシャルの台湾統治を扱った番組を見て、余りにも偏った歴史観に驚き、怒り、NHKを正す会を結成、番組の作り直し再放送を要求。容れられない場合は集団不払いを掲げ”署名ネット“で賛同者を募っています。

国民の広い怒りとNHK内部で何が起こっていることが段々わかってきました」(NHK OB)

「政治に緊張感も見通しも無く、ただ選挙目当ての大盤振舞いに愕然としています。医療、年金等の制度改革が早急になされる事を強く期待する」(NHK OB)

末尾に訃報9人。田中 理(元共同論説副委員長享年77) 有馬純達(元朝日ヨーロッパ総局長・79) 緒方彰(元NHK解説委員長・87) 山根卓二(元産経編集局長、テレビ埼玉会長・80) 田島良雄(元共同電波対策本部長・76) 天野歓三(元朝日常務、NHK経営委員長・93) 三品 鼎(元読売北海道支社長、小学館専務85) 田川誠一(元朝日労組委員長、自治相・91)細川隆一郎(元毎日政治部長・90)。

2009年09月05日

◆案外孤独な小澤一郎




              渡部 亮次郎

<次期官房長官には平野博文・民主党役員室担当

民主党の鳩山代表は4日午後、16日にも発足する新政権の官房長官に平野博文役員室担当を起用する方針を固めた。鳩山氏が同党幹部に伝えた。

平野氏は今年5月、鳩山氏が代表に就任した際、役員室担当に就くなど、鳩山氏の側近として知られる。衆院大阪11区選出で、当選5回。松下電器労組などを経て、96年に衆院に初当選した。>
(9月4日14時50分配信 読売新聞)

官房長官、外相、財務相など重要閣僚の起用については、小澤一郎に相談してから決めるだろうと私は予想していた。ところが鳩山は4日、いきなり岡田幹事長に漏らすことによって平野官房長官を既成事実にしてしまった。小澤派面白くない。

小澤としては官房長官には菅直人を据えて、鳩山を「監視」する腹構えで様子を窺っていたが、してやられてしまった。内閣の人事権は総理になる鳩山にあるのだから不満でも文句は言えない。

「その代わり」と小沢は側近の石井一を法務大臣に押し込めたい。だが、何かときな臭い石井を鳩山が唯々諾々と受け入れるか。事件を裁く大臣に、ひょっとしたらすぐ裁かれる立場の人物を起用するほどの度胸は鳩山にはないだろう。

事ほど左様に、鳩山は組閣に当って攻撃よりも守りの姿勢に転換したように見える。情報では財務大臣含みといわれている藤井裕久も官邸に持ってきて相談相手にするつもりらしい。鳩山は官邸を鳩山系で固めるつもりなのだ。

引退するつもりでいたのを口説いたのは小澤ではなく鳩山だった。だから藤井を或いは事務の官房副長官にすることもあり得る。

財務に藤井が行かないとなると、そこは多分現幹事長の岡田が回る。岡田は納得するだろうが、岡田を買っていない小沢は面白くない。

菅をどうするか。菅は目立ちたがり屋だから、選挙中から、官房長官説に舞い上がっていたというが、いまや外務大臣といいたい所だが鳩山は寺島実郎を含む民間人を考えているらしいとあって菅には新設の国家戦略局担当相がけんとうされているが、菅はすっかりヘソを曲げているという。

大勝利、いな初の政権獲得の大功労者たる小澤。しかし聞いてみると小沢を頼っているのは最早菅ぐらいで、岡田は勿論、小澤が頼りにしてきた藤井もすでに小澤離れしているようだ。

恰好良く「来る者は拒まず、去る者は追わず」と懐の広いように見せている小澤だが、懐は実に浅く、窮鳥でも懐に入れないような猜疑心の塊らしい。

だから今回の総選挙で小澤派が百何十人に膨らんで、党運営は小澤の得手勝手という観測は当らないようだ。いつの間にか腹心ほど早く離れて行くかもしれないのだ。

<加えて小澤は1991年に狭心症で入院して以来は健康管理に余念がなく、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、アルコールは日本酒を3合までに控えるよう心がけ、約2時間の昼寝を欠かさない。

2008年10月6日から13日まで風邪という触れ込みで入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルしたことがあった。

シン首相との会談は鳩山幹事長が代理を務めたものの健康不安説も再燃した。第171回国会(会期2009年1月5日 ―6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している)。(「ウィキペディア」)

実は小澤の健康状態は、こんな事ではなく心臓に入れた器械を既に入れ替えなければならない状態、と言うのが大問題。それを取り替えるところは国内ではなくイギリスのロンドンなのだ。多忙のためおいそれと行けない。

政権奪取はよかったけれど、小澤の健康が犠牲になっている。加えて友人がひそかに離反というのでは実にさびしい昨今なのである。
(文中敬称略)2009・09・04


◆論ずべき政治が無い



                 渡部亮次郎

政治を論じなくなって久しい。論ずべき政治がなくなったからだ。夢と希望を政治に賭けなくなったからだ、とも言える。

だから、強いて政治を論じれば、政治家の悪口になってしまう。だからなるべく政治を取り上げないように苦心しているわけだ。

特に小選挙区になってから、大局を論ずる政治家が登場しなくなった。否、論ずる必要がなくなったのだ。天下、国家の将来を論ずるよりも、ちんけな「公約」をばら撒けば当選出来るようになったから政治家は楽である。

だから、まるで御用聞きのような物言いをする政治家ばかりになった。思想も政策も必要ない。辻立ちして「政権交代」と世論に一致する声を挙げていれば当選だもの。

時々は国会の論戦に耳目を集中させようとするが、くだらないアラ探しばかり。週刊誌にまかせておくだけでいいようなものばかり。とても聞いていられない。

一昔前は日米安保論で日が暮れたものだが、最近は防衛問題はさっぱり聞かれなくなった。国民に関心が無いから票にならないからだろう。それでも論じなければならないのが、安保、防衛問題なのだが。

教育についてもそうだ。昔は日教組と文部省(当時)は激しく対立して緊張関係にあったが、昨今は役人が日教組と癒着して自分たちの週休2日制さえ確保されれば、後はどうでもいいようだ。

民主党すなわち日教組だから、少しは残っていた教育の中立性はどこかに消し飛んで、教育に関する限り、日本社会党左翼の風、復活という不愉快な事態になるだろう。

私は、日本がだんだん、つまらなくなって行くのは、みんなが塾教育を是認したからではないかと密かに思っている。塾では試験に失敗しない方法ばかりを教える。無駄の集積の結果としての成功などとは絶対に教えない。

しかし、世の中の実際は殆どが失敗の連続と、失敗から導き出された成功への道である。失敗を重ねる事が結果的に人間のスケールを大きくするし、金太郎飴でない、個性的な人材を育成する。

政治の世界も、戦争帰りが国会議員であるうちは、度胸の据わった大物が沢山いて面白かった。しかもなぜか社会党には戦争帰りが少なかった。思想犯としてブタ箱を経験した「闘士」は左翼思想をさらに左に傾けてやまなかった。

彼らは自民党体制のブレーキ役を任じていた。ブレーキが如何に利いてもエンジンにはなれないことに気付かぬまま、社会党は消滅した。

自民党の戦争帰り。役人上がりの後藤田でも主計将校。中曽根もそう。田中角栄は2等兵でノモンハンに行ったが病気で帰還した経験があった。園田直の如きは特攻隊生き残り。竹下も立川にいた。しかし、シベリア抑留を体験した宇野宗佑で戦争体験の首相は終わった。

それ以後の自民党政治家は塾体験の2世ばかりが首相。失敗や敗戦の体験が無いから、人間として余りにもスケールが無い。小さすぎる。貫禄も風格も無い。タダの人だから国民を惹きつける魅力が全く無い。福田康夫で極まった。

今度、政権を担う民主党は、自民党に風格や貫禄や魅力のあった時代に、そこから撥ね退けられた人物や、自民党の隙間を探せなかった人物と社会党と民社党の残滓である。

経済の高度成長と共にあった頃の自民党に比肩する実績など挙げられるわけが無い。化けの皮はすぐ剥げるが、4年間、この下に居なければならない。(文中敬称略)2009・09・04


2009年09月03日

◆議会政治全治20年



              渡部亮次郎

今回の惨敗の結果、自民党は最早、政党としての体裁を保てず、政権奪還の力を次第に失っていくだろう。だが、民主党もこのまま上昇を続ける事は不可能。したがって政党再編成を繰り返しながら、日本の政党政治はおそらく向こう20年ぐらいは混乱を繰り返す。

1950年の結党以来、自民党は経済の高度成長と共に歩んできた。その結果、老人医療を無料に出来た時期すらあった。夢のような自民党政治は1960年代後半の「公害問題」でその存在を問われる。

これに対して自民党の取り組み方は消極的だったが、むしろ自民党の問題児とも言えた元特攻隊員の園田直(そのだ すなお)がたまたま厚生大臣だったことから、蛮勇とも言える彼の決断で自民党は
「公害病」を認定して乗り切った。

園田は、日米安保条約は再軍備を不可能にするものだと本会議で反対票を投じて党を除名。厚生大臣として初入閣した時は当選9回生だった、と言う変り種。

これは国民への謝罪である。あらゆる階層を組織化し、それをバックに国民に利害を配分する政治から、世論を取り入れて国民を懐柔する政治に舵を少し切り替えたのである。

国民の総反発を食らって退陣した岸信介総理の実弟佐藤栄作総理が長期政権を維持できた理由である。

田中内閣による日中国交正常化もマスコミと世論に従った政策だったが、何よりも日本列島改造論とロッキード事件による「利権政治」の顕在化は、国民を次第に自民党支持から離れさせた。公明党の進出がそれを裏付けた。

幸い日本社会党が消滅して、一時的に野党勢力が弱体化したために
自民党は根本的な党改革を怠った。怠る余裕が出来た。それが今回惨敗の原因となった。

自民党を追われるように去った小澤一郎はこの間、自民党と連立を組むなどして、自民党の怠慢を助長させた功労者。それが証拠に一時、細川政権の成立があったが、すぐに潰れたために自民党は益々党改革に怠慢になった。

国民は自民党に失望したが、10年前、公明党に膝を屈した実態を見てさらに失望。半数近くが無党派層という存在になった。特に森、小泉、安倍、福田と言う政権は、無党派層にとってはわけのわからない政権だった。この10年間でつくづく愛想が尽きたのである。

したがって総選挙の結果についてマスコミは大衆が民主党のマニフェストを支持したから民主党が大勝利したと結論付けたけれども、様々な調査は民主党のばら撒きマニフェストは、必ずしも支持者の賛成を得ていないことを証明している。

明らかなのは、自民党が信用を失い、飽きられた、呆れられた結果なのである。

この間総裁麻生はばら撒きを批判して回ったが、大衆は聞いてなかった。風は50対50に感じられたかも知れないが、結果は49対51だったらオセロ・ゲーム宜しく惨敗と大勝利となる。おそらく麻生は台風の目に立っていて風を感じられなくなっていたのだろう。漢字を読めないだけじゃなかった。

自民党は貧乏政党に陥った。党本部は維持できるか。派閥はばらばらになる。国会に行っても坐る椅子が無くなる。たまる部屋もとりあげられる。役人も来ない。マスコミも寄り付かない。国会議員を辞めたくなる孤独感にさいなまれる筈だ。

とりあえず、来年の参議院選挙対策に取り組まなければならないが、
秋の臨時国会で代表質問に立つ元気すら沸いてこないだろう。

しかし、民主党の「わが世の春」は長続きしない。かつての自民党
がそうだったようにすぐ起きるのが派閥抗争だ。嘗ての田中派みたいな大派閥になった小沢派。小沢は派閥政治こそが政治の原点と心得ている政治家だ。なりふり構わず、党内でゴリ押しを始める。

とりあえず党役員の構成、内閣の組閣でも陰湿なごり押しを展開して鳩山を困らせ、他の幹部の反発をかうだろうが、権力とは数であり地位であると言うのが師匠角栄、金丸直伝の手法なのだから遠慮はしない。権力の二重構造。しばしば立ち往生する鳩山に手を貸すのは誰になるだろう。

鳩山の故人献金、小澤の不動産買い込みに東京地検の動いている事を自民党は期待しているだろうが、検事も人の子、国家公務員でしかない。いきなり事件にする度胸はあるまい。

とにかく、素人集団の民社党。マスコミにとっては想像もつかないような珍事が展開する事、間違いない。

率直な見通しを言えば、自民党は新総裁や新三役を選んだ後も茫然自失のままで越年するだし、党再建のきっかけをつかめるのはいつか想像もできない。

まして次期総選挙で政権奪回に見通しなんか立たない。生き残ったのは殆どが古狸。反省はできないし新しい発想なぞ、あるわけがない。我利我利亡者の集団だから新人の発掘もおぼつかない。

民主党は連立する社民党に足を引っ張られ、アメリカに脅されながら、その日暮らしの政局運営を続けるしかない。その中で小澤の暴力にどう内閣や執行部が耐えてゆくか。

かくして、わが国の政局は、向こう20年ぐらいは安定しないだろう。小選挙区制再建討論も出てくるだろう。しかし、私はその頃、この世にいない。大きな声では言えないが、私欲のため、民主党圧勝を仕掛けたマスコミの親分も亦。(文中敬称略)2009・09・02



2009年09月02日

◆中国が「糖尿病大国」に



渡部亮次郎

(CNSPHOTO)2008/10/15によると2008年10月11日、上海で米国糖尿病学会主催の第2回アジア太平洋地区育成会議が開催され、中華医学会糖尿病学分会の主任委員である楊文英教授は中国における糖尿病の増加傾向に懸念を表わした。

楊教授によると、最近行った調査から、生活レベルの向上のため国内の都市部では糖尿病の発病者数が増加しており、特に男性では30歳から60歳の間に発病する確率が急激に高くなっていることが分かった。

現在、中国の糖尿病患者数はインドに次いで世界第2位となっており、2050年には5930万人に上ると予測されている。中国がインドに次いで世界第2位の「糖尿病大国」になったのである。


中華料理を見れば明らかなように、材料は、四足は椅子以外、飛ぶ物は飛行機以外、何でも食べている。香港では蛇も平然と入っている。しかし、牛肉料理は少ない。鶏か、せいぜい豚肉が多い。

ところが、経済の開放、改革路線の結果、懐の豊かな階層が出現し、彼らはこれまで食べたことの無かったステーキ(牛肉)をふんだんに食べるようになった。鶏の何倍もの高カロリーだ。また日本人の常食する生魚も海のものなら安全なことを知り、鮪を競って買うようになった。

有史以来、アジアは長い事飢餓に苦しんできた。このため、栄養過多になると、インスリンがすぐ不足して、余剰なカロリー(ブドウ糖)は消化できず尿と共に排出される。これが、糖尿病である。

中国では共産革命を起こさざるを得ないくらい、冨が偏在していた。
毛沢東による革命(1949年)後も、人民は栄養不良に悩んできたが、
トウ小平による経済の事実上の資本主義化の結果、少なくとも沿岸部では、美味い物を好きなだけ食べられる階層が出現した。

その結果の糖尿病である。以前は聞いたこともない病気であるから患者に予防知識が無い。発病しても痛くも痒くもないため、症状は猛烈な勢いで悪化し、ある日、突然、盲目になったり、腎機能不全に陥ってようやく糖尿病と分かる始末である。

日本人だって総理大臣を務めた田中角栄も大平正芳も糖尿病患者だった。田中はその合併症として脳梗塞を患った末に、身内にひっぱたかれながら死んだ。

大平は酒は嗜まなかったが、甘いもの大好き。主治医に言わせると最低の患者だった。首相在任中、合併症としての心筋梗塞の発作2度目で冥土へ旅立った。

中国では急激な糖尿病患者の大出現に、医者も教育係も追いつかない。だから先進国から専門医を大量に招いている。日本からも相当の数の医者が駆けつけている。

しかし、患者の発生の多さにはとても追いつかない。共産党政権は
経済の高度成長こそが存在の正当性を裏付けるものだから、「食」の高度化をますます進めてゆく以外に無い。即ちそれは糖尿病大国の肥大化の道に他ならない。

実に皮肉なことだが、経済の開放、改革こそは糖尿病への道だったのである。

予防のためには適度な運動と食事制限意外に無いのだが、中国人に食事制限の知識はないし、適度な運動のための時間的な余裕は考えられない。日本人も同様だが。(文中敬称略)2009・08・31

2009年08月30日

◆古関裕而こそ努力の天才



               渡部亮次郎

私が天才作曲家と呼んでやまない古関裕而(こせき ゆうじ)の今年は生誕100年であり、郷里福島県では様々な催しものが展開されている。

ところが彼は戦時中、多数の軍歌を作曲した故を以て作曲界の大御所だった高木東六は死ぬまで古関の悪口を言い続けた。天才ぶりがよほど堪えたのか、さすがに学歴の無さには言及しなかったが、私には実にハラの立つ悪口だった。自身も「空の神兵」を作曲しているくせに。

高木は、演歌や歌謡曲に関しては、終生、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった。

一方の古関裕而 1909(明治42)年8月11日―1989(平成元)年8月18日)は、作曲家だったが、それらしい学歴はなくすべて独学でやり遂げた。本名は古關勇治。従五位勲三等瑞宝章、紫綬褒章受勲受章。

福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事した。金須はリムスキー=コルサコフの弟子。正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んだ。

古関はこの師金須をたいへん尊敬し、自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子になることを誇りとしていた。

1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。

それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。倒産した一族を養うためクラシック畑からポピュラー畑に転進し、多数の軍歌、歌謡曲を作曲」した。

早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」が有名。

全国高等学校野球選手権(甲子園)大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲おろし」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ、和製スーザ(行進曲王)と呼ばれる。

NHKで使われているテーマ曲も多くは古関の作。スポーツ中継の冒頭に流されるスポーツ行進曲は一番親しまれている。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。

福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。

裕而は幼少の頃から、ほとんど独学で作曲の道を志していく。天才の所以だ。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって裕而とともに数々の名曲を世に送り出すこととなる。

戦争の色が濃くなると、音楽関係者らも軍歌・戦時歌謡を作らざるを得なくなった。古関も戦時歌謡で数々の名作を残している。古関メロディのベースであったクラシックと融合した作品は、戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のもの(愛国の花、暁に祈る等)も多かった。

それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が『暁に祈る』や『露営の歌』に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ散花した人への自責の念を持ち続けていた。

戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』。

戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』。

現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』。その他にも『フランチェスカの鐘』、『君の名は』、『高原列車は行く』などの格調高い曲を多く創作した。クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心を捉えた。

テノールの美しい音色と格調のあるリートのベルカントで歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。

劇作家の菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。
1961年に菊田と手がけた森光子主演の放浪記は現在も公演記録を伸ばし続けている。

また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。

半寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日死去。盛大な音楽葬が催された。生前、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲していた古関のために、参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は、左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって、多くの参列者に見送られた。

福島県福島市最初の名誉市民で、同地には1988年11月12日、「古関裕而記念館」も建てられている。本人はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。

2009年8月11日、生誕100年を記念し、モニュメントが地元福島市の駅前に設置された。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用のオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、1時間おきに古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。出典:「ウィキペディア」2009・08・28




広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。