2007年03月19日

◆検察官は国士になる


                     渡部亮次郎

国士。最近はトンと聞かれなくなった言葉だが、記者の先輩のメイルで久しぶりに出合った。国士とは「一身をかえりみず、国家のことを心配して行動する人物。憂国の士。」(広辞苑)。

先輩の説によると、

<言えるのは検察官の道に入ると、その一人ひとりが国家を背負う意識に染まる。検察をやめて弁護士になる”ヤメ検”も、その意識をひきずっている。

田中角栄(元総理)に手錠をかけた検察はカネ・モノ万能の汚れた国にしてはならないという使命感に駆られていた。一方、弁護に参じた”ヤメ検”は、アメリカの言いなりにならない角栄の姿に国家の将来を賭けていた。

破格な弁護料に買われたというのは皮相な見方である。検察畑にどっぷり漬かると”国士風”になる特殊な土壌があると言ってよい>

というのである。

先の堀江被告に対する東京地方検察庁の主張を聴いていると、わたしは「これは裁判=司法ではなく、政治そのものだ」と感じていたので、先輩のこの指摘に感じ入った次第である。

私は記者生活を20年ぐらいしたが、警察・検察や裁判を担当した事は全くない。地方に居る時、たった1度、判決公判を取材させられたが、驚いたことに被告は新制中学時代の恩師で、罪名はあろうことか強姦致死だった。

あれから50年近く経つ。しかし、以後、仕事の関係では警察も検察も深い関係を持たずに済んだ。あえて言えば民事裁判の原告側証人として東京地裁での公判に立った事はある。

ライブドアについて言えば、堀江氏の生き方は全く気に入らない。それを亀井静香倒しに使った小泉総理(当時)の手法も納得は行かなかったが、郵政民営化という宿願を果たすためには仕方がないのかな、と考えていた。

多分、国士ぞろいの検察は当時から堀江的なものに嫌悪感を抱き、隙あらばとっ捕まえてやろう、世間への見せしめにしてやろうと手ぐすねを引いていたはずだ。

堀江 貴文(ほりえ たかふみ、1972年10月29日―)福岡県八女市出身。血液型A型。平凡なサラリーマンの家庭に生まれる。昭和で言えば47年。田中角栄総理による日中国交回復の直後に生まれている。

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2007年03月18日

◆軟禁されたエイズ医師


                        渡部亮次郎

<中国のエイズ告発医師が訪米 人権賞受賞式に出席へ
27日の香港TVBテレビによると、中国でエイズ禍の告発を続ける著名医師、高耀潔さん(79)が米国の非政府組織(NGO)による人権賞の授賞式に出席するため北京を出発、米ニュージャージー州の空港に到着した。

ヒラリー・クリントン米上院議員が名誉会長を務めるNGOが3月14日にワシントンで開く授賞式に出席し、人権賞を受ける。高さんは出国手続きをしようとしたところ、地元当局に一時自宅軟禁された。クリントン議員が胡錦濤国家主席らに働き掛けた結果、軟禁を解除され出国した。(共同)>(Sankei Web 2007/02/28 01:15)

その後、高さんは2007年3月14日、ワシントンの女性人権団体から、優れた社会貢献を理由に「世界リーダーシップ賞」を授与された。(3月16日付産経新聞 ワシントンの山本秀也記者)

山本記者によると高医師は、中国での売血ルートによるエイズの集団感染を告発したため、これまで暴露を恐れた中国当局から、海外への渡航を約6年間も差し止められていた。

高医師は2001年にもエイズ問題への取り組みで「ジョナサン・マン健康人権賞」を受賞したが、中国当局の出国差し止めで米国での表彰式出席を見送っていた。

2007年の現状について高医師は「売血による血液バンクの」閉鎖一つとっても、貴州ではまだ25箇所が闇で営業している。

広東でも深夜から午前6時まで血液調達に応じている状況で歯止めがきかない」と指摘。エイズ対策では「中央よりもむしろ地方の役人に問題がある」と語った。(3月16日付産経新聞 ワシントンの山本秀也記者)
<2006年、中国のエイズ感染者30%激増>と言う報道がある。

【大紀元日本2006年12月3日】中国衛生部の発表によると、10月までに政府側の統計データーでは中国のエイズ・キャリアは18万3,733人、2005年末の14万4,089人と比較して28%上昇した。そのうち、4万667人が発症、主要な感染経路は薬物常用の静脈注射によるものだという。

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2007年03月17日

◆国立公園指定記念日


         渡部亮次郎

日本に環境省の出来るきっかけを作ったのは厚生大臣園田直(そのだ すなお)(故人)である。

水俣病の患者を診察してきた熊本大学医学部が、原因は新日本窒素肥料(のちのチッソ)水俣工場(熊本県水俣市)の排水中のメチル水銀と発表したのが1959年(昭和34)だった。岸信介内閣である。

だが以後も歴代内閣は企業寄りの姿勢をとり続け問題の解決を先のばしにし続けた。これを処断したのが園田厚生大臣である。閣内の空気は認定躊躇だったが、水俣の地元を選挙区に抱えながら、あえて認定に踏み切った。1968(昭和43)年のことだった「水俣の評判を落とした」として地元の反発を食い、選挙の票を減らされた。

この問題がきっかけになって、政府関係者の間にも「環境」と言う観念が広まり、1971年に環境庁が出来、厚生省の扱ってきた公園行政が環境庁に移った。皇居前広場の管轄も環境庁となった。

ところで、世界最初の国立公園は、アメリカのモンタナ、ワイオミング、アイダホ各州にまたがるイエローストーン国立公園で、1872年に連邦議会の指定を受けた。

ただし、「国立公園」という名称が初めて用いられたのは、79年にオーストラリアのニューサウスウェールズ州にもうけられた王立国立公園(ロイヤル・ナショナル・パーク)である。

1880年代になると、国立公園という概念がニュージーランドやカナダにもつたわり、これら4カ国でさらにいくつかの地域が国立公園に指定された。

ヨーロッパ初の国立公園がスウェーデンに設置されたのは1909年。30年代には日本、メキシコ、旧ソ連、複数のイギリス植民地に、さらに50年代にはイギリス、フランス、その他のヨーロッパ諸国にも生まれた。

その後、インド、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドを中心に、多数の国立公園およびそれに準じた地域がもうけられている。

今日、「国立公園」という言葉は、自然保護のために設けられた小さな区域についても使われ、これらの指定地域では保護基準がさほど厳格でない場合も多い。

スコットランド、アイルランドの森林公園、アメリカ国立公園局の運営する国立野生保護区、国立記念物、カナダ、アメリカ、オーストラリアの州立公園などがこれに該当する。

日本で国立公園誕生のきっかけとなったのは、富士山一帯を国立公園にしようとする運動からであった。1911 (明治44)年、この案が第27回帝国議会に「国設大公園設置ニ関スル建議案」として提出された。

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2007年03月16日

◆作詞家の罪の数々


                      渡部亮次郎

楡(にれ)の木に鳥が鳴く アルプスの牧場よ と灰田勝彦が良く歌っていたが、楡の木を見たことが無かった。高校の先輩、東海林太郎も「楡の花咲く時計台」と言う歌を歌っている。よほど詩心を揺すられる木なのだろうか。

私の生まれた環境は四方が水田ばかり。写生する風景がどこにも無かった。ところが老年になって東京湾岸、江東区に住むようになって、都立猿江恩賜公園で楡の木を見つけた。なんとも穢い樹皮をまとった木では無いか。

公園事務所がわざわざ「にれ」と言う札を付けてくれなければ見向きもしなかっただろう。とにかく、樹皮は黒くひび割れて、ばらばらと今にも剥げ落ちてきそうである。

にれ(楡)はニレ科ニレ属の落葉樹と半落葉樹の総称である。シベリアからインドネシア、メキシコ、日本まで北半球の広範囲で見られる。にれの実は丸い翼果である。にれの全ての種は土壌pHに耐性がある。

にれには20から45の種類がある。数の曖昧さは種の範囲設定についての困難さに起因する。にれの木材は木目が絡み合っていて、結果的に分割に抵抗がある。主に車輪、椅子のシート、棺に使われる。
この木材は腐食にも強い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ニレ(楡)  ニレ elm‖Ulmus

すべて落葉ないし半常緑の高木で葉の基部が左右不整である。日本でニレというとふつうハルニレ(イラスト)をさすが,ほかにアキニレとオヒョウがある。

英語のエルム elm はヨーロッパニレ U. minor Mill.(=U.campestris L.)やセイヨウニレ U. glabra Hudsonをさし,街路樹として植えられる。

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2007年03月15日

◆共産党が神信心なのか



                     渡部亮次郎

数年前、用あって上海と杭州を訪れた。上海は田中角栄総理に同行訪問して以来の訪問だったが、知人の案内で訪れたところが城隍廟
(じょうこうびょう)という寺だった。共産党が寺を認めているのか?

共産主義、社会主義を体系付けたカール・マルクスは「宗教は民衆にとっての阿片」と断じ、断じて排除しなければならないとした。だから1917年に社会主義革命の起きた旧ソビエトでは葱坊主のロシア正教会がすべて閉鎖された。

それが中国では閉鎖されなかったのか、否、いま中国では復活を遂げつつあるのだそうだ。産経新聞上海特派員の前田徹記者が2007年3月7日の紙面で「阿片」が有益になるとき・・・と題して伝えている。

ソビエト崩壊後のロシアでは当然ながら復活している。レーニンの死後スターリンは「マルクス・レーニン主義」を提唱する中で「宗教は民衆の阿片である」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定したのだった。

階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が虐殺された。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)抜粋。

ところで中国である。前田さんによれば、中国共産党が建国した1949(昭和24)年以来、共産党は、福の神を含めたいわゆる民間(伝承)信仰は、公式には「阿片のようなもの」として禁じてきた。

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2007年03月14日

◆サンドウイッチの日


         渡部亮次郎
3月13日は(多分日本だけの)「サンドウイッチの日」だそうだ。「366日の話題事典」(加藤迪男編 東京堂出版1999年12月10日再版発行)に出ている。「3」「13」は「サン」が「1」「イッチ」を挟んでいるところから語呂合わせして制定された。

下手な駄洒落にしか聞えないが、70年以上生きてきた私が知らなかったのだから知らない人が大部分では無いか。とはいえ、根っからの田舎ものだから、知らないのは私だけ、ということもありうる。

東京へ出てきたのが昭和29年、まだ18歳だった。食糧難の時代。今のような飽食の時代が来るなんて想像もしていなかった。又、飽食の事態を招くべく働いたという気も無い。賞味期限とやらで、コンビニが大量の食物を捨てる時代は見たくなかった。

そういう貧乏な青春に育ったから、サンドウイッチなるものを初めて口にしたのは多分記者になってからだったろう。記者になったとはいえ、初めは田吾作記者と蔑まれた。農政担当を仙台ではそう呼んだ。コメ担当だったからサンドウイッチは視野に無かった。

待てよ、仙台の次は盛岡(岩手県)の4年。雑穀県だったから、ここでもサンドウイッチなんて物は少なくとも売ってなかった。すると東京へ戻って政治記者になってからだろうか、食べたのは。

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2007年03月11日

◆周恩来は毛沢東に殺された

渡部亮次郎

2007年3月9日に届いた月刊誌『文藝春秋』4月特別号の目玉は昭和天皇の昭和14年から20年までの言動を改めて明らかにした当時の侍従小倉倉次氏の日記だが、私にとっては「周恩来は毛沢東に殺された」という10ページに及ぶ記事がショックだった。

私は1972年9月、田中角栄首相と同じ特別機で北京を訪問し、日中国交正常化をつぶさに取材した記者(NHK)として、当時、人民大会堂で中国の首相だった周恩来氏に面会し、一緒に記念写真に納まった。

あの時、既に周恩総理は腎臓癌の痛みに堪えていたとは。周恩来氏のすぐ後ろの段に立った私のすぐ下に彼の毛髪が見えた。周恩来は酷いちじれっ毛と知った。着ていたのはグレイの人民服だったが、生地は上等に見えた。

中国軍は兵も将校も同じ服装、と喧伝されていたが、なるほど色は同じでも生地によって明らかな差をつけるという方法があるのか。中国の「平等」には本質的嘘が隠されていることを、このことから推測した。

「1972(昭和42)年5月の検査で、周恩来が膀胱癌にかかっていることが分りました。ところが報告を受けた毛沢東は4つの指示を出しました。病状を秘密にして本人にも夫人のケ頴超にも知らせるな、検査をするな、手術をするな、かわりに栄養をつけさせろ」

「癌が発見された時点は非常に早期の段階。手術すれば90%以上の確率で治るはずだったのです。9ヶ月後、小用を足したら血尿で便器が真っ赤に染まった。毛もようやく膀胱の本格的な検査を許しましたが、手術は認めなかった」

それでも周恩来は先立ってその年の9月に北京にやって来た田中首相との間で日中国交正常化を果たした。その少し前にはニクソン米大統領の訪中も実現させた。

「周恩来はこの時期、痛みに耐えながら激務を続けていました。やがて腫瘍からの出血で、尿道に血の塊が詰まって排尿が難しくなりました。

トイレに行くたびに身体を傾け、腰を揺すり、飛び跳ねながら血の塊を動かそうとしました。なんとも凄まじい姿です。そうやって長い時間をかけて用を足しながら、あれだけの仕事をこなしたのです」

ショッキングな事実を明らかにしたのは、嘗て中国共産党中央文献研究室で周恩来生涯研究室小組の組長つまり委員長を務めていた高文謙さん。日本には無い制度だが、周恩来研究小組には最盛期で20人ものスタッフがいた。

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2007年03月10日

◆陸軍記念日があった

渡部亮次郎

「陸軍記念日」というものがあったことを知っていますか。3月10日。これを知っているのは少なくとも70歳以上の人です。

<陸軍記念日 (りくぐんきねんび) は、日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。

明治38年同月同日、日本とロシアが戦った日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領、奉天城に入場したのがこの日であった。そこで翌年からこれを記念して国民の休日としたもの。1945年の敗戦(第2次世界大戦)に伴い廃止された。>

私は1945年は小学校(国民学校)4年生だったから、よく知らない。そうやって大人になったが、NHK記者として大阪に勤務し始めた時に「陸軍記念日」というものを強烈に意識することとなった。例の小野田寛郎(おのだ ひろお)出現の日だったからである。

日本の敗戦を知らずに、そのままフィリピンのルバング島に残地蝶者として残っていた日本陸軍少尉小野田寛郎が昭和49(1974)年3月10日、ようやく日本からの捜索隊の前に姿を現し、帰国の意思を明らかにした日である。

小野田さんは和歌山県海南市の出身だった。戦後既に29年。捜索隊がルバング島で捜索を開始。姿を現すのを今か今かと日本中が息を呑んでいた。

特に海南市で朗報を待つ両親のその瞬間を捉えようと関西のTV各社が自宅に押しかけた。しかし何日経っても現れない。各社は大阪へ帰った。

その時、私が何気なくかけた電話に後の外務大臣園田直さんが問題の一言を洩らした。「ナベしゃん、明日は陸軍記念日ばい。明日、出てくるとバイ」。陸軍記念日って? 「それが3月10日バイ。小野田さんは生粋の軍人だから明日出てくるとばい」

「東郷さん、民放は皆帰ったけれど、私らは明日までもう1日、居ります」と大阪の報道部長の許可を貰った。中継の一行20人の出張延期は大枚の支出であった。

期待通り、小野田さんは10日に姿を現した。感涙に咽ぶご両親の映像はNHKの特種となって全世界に放送された。だから私の生涯で陸軍記念日は忘れようとして忘れることの出来ない記念日なのである。

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2007年03月09日

◆中国独裁はあと50年?

                       渡部亮次郎

米国の専門家の予測の一つだが、経済自由化が進んでも中国の独裁体制は変わらず、少なくともあと50年続くと見るべきだという本が出版された。

「頂門の一針」734号(2007・3・8)に転載したが、産経新聞の ワシントン特派員古森義久記者が同日の紙面で伝えたもの。中国の将来は経済の自由が広がっても政治面での独裁や弾圧は長期にも変わらないというのだ。

これを著したのは米国の著名な中国研究者ジェームズ・マン氏。マン氏はロサンゼルス・タイムズの中国特派員や外交記者などを務め、「北京のジープ」など中国についてのベストセラーの書3冊ほどをすでに出版してきた。

現在はジョンズホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)の中国問題研究員で、「中国への夢想」、副題「米国の指導者たちは中国での弾圧についていかに言い逃れをしてきたか」と題して米国大手出版社の「バイキング」から2月下旬に刊行された。

米国の対中観としては「経済の自由化によりやがては政治面でも民
主化される」という予測と、反対に「内部の諸問題のためにやがては激変し、現政治体制は崩壊する」というものだが、マン氏はどちらも否定している。

尤も両方とも民主化の時期を「やがて」とし、具体的な予測を避けている。中華人民共和国は1949(昭和24)年10月1日に共産党革命によって成立した。

人々は革命は初体験だったが、漢、明、清などと体制の変換は常に体験した歴史を持っており、あまり動じなかった。しかし信頼もしていない事は当然であろう。

引き換えて中国の20分の1の歴史しか持たないアメリカ人は革命を体験せず、期するところは常に改革、改良である。したがって中国についても「経済の自由化によりやがては政治面でも民主化される」
という楽観論が先に立つ。

反対に「内部の諸問題のためにやがては激変し、現政治体制は崩壊する」と言う見方は共和党系のシンクタンク(研究所)などに見られるがどちらかと言えば小数意見である。

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2007年03月08日

◆共産中国の変質進むか

                        渡部亮次郎

5日から北京で始まった第10期全国人民代表大会(全人代=国会に相当)第5回会議に上程、審議を経て採択される見通しの物権法で、農地の土地請負経営権(土地使用権)を物権として流通させられると明記されている。果たして共産中国の変質は進むのか。

ソ連のスターリン執政期や中国の毛沢東執政期に至っては、自分の政策に反対する勢力や同僚を、政治的にまたは物理的に抹殺するに止まらず、政策に反発する市民や全く無関係・無関心な人民までをも大量に虐殺、餓死させる等、歴史的におぞましい全体主義体制を創り出した。

スターリンや毛沢東の独裁は、マルクスやレーニンが描いた「共産主義」からは大きくかけ離れているが、この歴史的事実は、共産主義に対する認識を大きく歪ませてしまった。

20世紀の共産主義を標榜した国家の多くは、「共産主義によって、皆が等しく自由に、豊かになる」と唱えながら「全体主義によって、皆が等しく束縛、貧しくなる」という最悪の結果をもたらした。

これらの事実は、共産主義を目指す国々が、歴史に刻む「負の遺産」である。これらの「負の遺産」を乗り越える事が、これからの共産主義を目指すという思想の要になってくるであろう。

この考えに挑戦したのが中国の、毛沢東亡き後の指導者ケ(とう)小平だった。毛沢東とともに共産主義革命に従事しながら毛沢東に殆ど疎んじられ、3度も失脚した。それでも「白い猫でも黒い猫でも鼠を多く捕る猫がいい猫だ」と言いぬけた。

私は1978年8月10日午後5時半(現地時間)、北京の人民大会堂で初めて彼を、見た。これから日本から来た外務大臣園田直と会談するためである。部屋の入り口で待っているところへ来たとう氏はその名の通り、150センチもない短身。汽車の切符は間違いなく子供だった。黒い人民服をまとっていたように思う。

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2007年03月07日

◆とう小平の刺身以後


                      渡部亮次郎

中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、とう小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いにおいしかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

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2007年03月06日

◆1億総白痴化は成った



          渡部亮次郎

<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年03月05日

◆アマデウスとは誰


              渡部亮次郎

東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。20年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

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