渡部 亮次郎
淡谷のり子、藤山一郎、霧島昇ら戦前・戦中・戦後を代表する大物歌手の殆どが世を去る中、彼女は大物歌手の数少ない生き残りと言えるだろう。現在は広島に帰郷して余生を送っている。94歳。
終戦間際、広島原爆投下時に、間一髪、乗っていた汽車がトンネルに入ったので被爆を免れるという強運の持ち主でもある。
芸名「ふたば あきこ」は広島の大須賀町二葉出身で二葉の里で安芸の国と、地元からとった。父は陸軍技師の厳格な家庭に育った。
本名は加藤芳江。歌が好きというよりも何よりも美声が歌手の運命に決めた。
広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)で美声が評判となって、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)進学を奨められた。
短期間の猛勉強が功を奏して合格。師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手で名をなしていた。
後年、出演したラジオ番組で、終生、藤山一郎が「憧れの人」だったと「告白」しているが藤山は「知らないふり」だったらしい。
卒業後、地元の広島の三次(みよし)高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとるも上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
続いて昭和11(1936)年、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。
「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。
この曲でブルースを歌う自信をつけ、以後多くのブルースをヒットさせるようになった。14年の「古き花園」以外のヒットは他の歌手とのデュエット作が多かった。
当時はデュエットとは言わず、掛け合いと言われた。同年の「父よあなたは強かった」や伊藤久男との「白蘭の歌」、同じく15年の「お島千太郎旅唄」、藤山一郎との「なつかしの歌声」、霧島昇との「新妻鏡」、高橋祐子との「めんこい仔馬」がヒット。戦時中は歌手として慰問活動をする。
戦時下の昭和18(1943)年、結婚し一男をもうけるがすぐに離婚。その後は自立する女として生きた。
1945年8月6日、久しぶりに帰郷する為、広島から芸備線の汽車に乗り、トンネルをくぐっているときに原子爆弾が投下され、トンネルを出たら、きのこ雲と落下傘を見たという。
戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。昭和25年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いを与えた。
日劇では同じコロムビアの淡谷のり子、笠置シヅ子、渡辺はま子らとよくステージに立ったというが、筆者は秋田の田舎で子どもだったから1度も観たことがない。当時はまだ、テレビも無かった。
NHK紅白歌合戦にも1951年の第1回(ラジオ)から1959年の第10(テレビ)回まで10回連続出場した。そのうち、第6回から第10回までは二葉の歌のラジオの音声が現存する、という。
第6回では代表曲の一つである「バラのルムバ」で紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並ぶ創世記の紅白を代表する女性スターでもあった。
第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM『今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で、二葉の歌を含め全編が再放送された(音声はモノーラル)。
昭和30(1955)年前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。自ら低音発声法を作った。
昭和57(1982)年に紫綬褒章、平成2年(1990年)には勲四等瑞宝章を受章。
懐メロ歌手として21世紀を超えてもなお活躍したが、2003年夏にファンのつどいにて引退宣言。難聴が進行した影響でバンドの演奏の音が聞き取りづらくなっており、それが引退の理由であったと伝えられている。
絵画と書道の腕前は一流という。
出典:『誰か昭和を想わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html
及び『ウィキペディア』2009・8・17