2007年02月16日

◆諸国日本食事情

                   渡部亮次郎

昔は、アメリカのニューヨークへ行くにもヨーロッパ各国へ飛ぶにもア
ラスカのアンカレッジで給油した。客はロビーで足をようやく伸ばして、
うどんをすすったり、カレーライスをかっ込んだりした。特に帰りのア
ンカレッジでは、なぜか私はカレーを食べずにはいられなかった。

アメリカでカレーを食することは、今でも殆ど不可能だからである。ニ
ューヨークでカレーを作ったらアパートの理事会の査問にかけられ、追
い出されたという友人の実例があるくらい、アメリカの人たちはカレー
の匂いが嫌いだ。

それがヨーロッパに渡り、ベルギーの首都ブリュッセルで昼になると、
街中にカレーの匂いが立ち込める。あ、カレーライスが食べたいな、と
なるのだが、既にお気づきのようにあれはコーヒーの香りなのである。
ブリュッセルのコーヒーだけがなぜカレーの匂いに似るのかは尋ねる人
も機会もないままだ。

イギリスの食事はあまり美味くない、と言ったら、イギリス生活の長か
った人も同感だと言って、あそこじゃ朝食を3度食べたらいいのにと冗
談みたいに教えられた。

なるほど、空港近くのホテルで食べた午前6時ごろの朝食には魚の塩漬
けが付いて来て、一瞬、コメのメシが欲しいなと思ったものだ。

しかし、今はともかく昔のロンドンでご飯を所望しても、どこにもなか
った。1980年ごろのことである。当時、ロンドン市内では、かの大屋政
子さん(故人)の経営になる寿司店が1軒だけあったが、試してみた穴
子は硬すぎて、シャリがどうだったかの記憶が無い。多分、まずかった
のだろう。

余談だが、政子さんは時折、拙宅を訪問してくれるのはいいのだが、い
つも午前2時ごろで、それも予告なしなので、驚かされた。帝人の経営
者の夫人。亡くなった父上は九州・天草出身の政治家だったとか。とに
かくケタはずれの怪女だったが、ロンドンの鮨はいただけなかった。

食い物の恨みは怖いというが、実感したことがある。

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2007年02月13日

◆NHK毛虱物語

               渡部亮次郎

NHKは41歳の冬まで19年間を記者として過ごした職場だが、最近は不祥事続きで料金を払わない視聴者が増えたそうで、組織としては落ち目である。

学生たちの就職希望ランキングから滑り落ちることおびただしいものがあるそうだ。なんでこんな事にと思い巡らすうちに仲間が毛虱(けじらみ)と呼ぶ人物に思い当たり、あの男こそが真犯人だと気付いた。

30年近くも前に途中退職した身だから、彼に面識は無い。私の目から見て実に全うな人物と思う後輩は彼のことを「毛虱(けじらみ)」と言って軽蔑し、一切、交際しないそうだ。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
<毛虱は吸血昆虫で成虫の大きさは1mm〜2mmで肉眼的には、陰毛の毛根にしがみついている時は「シミ」に、陰毛を移動中には「フケ」にしか見えないため、発見には苦労する。

成虫は陰毛の毛根にフック状の鈎爪で身体を固定して皮膚から吸血する。卵は陰毛に粘着している>。
なるほど云い得て妙である。社内の出世頭の陰部に寄生し、栄養を蓄え、主の力をひけらかして己も出世して行く。出世が始まると虎の威を借る狐宜しく威張り散らして頂上を目指す。

≪虎が狐をとらえて食おうとしたところ、狐が「自分は天帝の使いだから、喰うと天帝に背くことになる。その証拠に自分の後についてきて御覧なさい」という。

一緒に行くと百獣が自分を怖れて逃げるのを知らず、愚かにも狐の言葉通りだと思ったと言う。「戦国策--楚策」にある寓話による≫

彼が何故「狐」でなく「毛虱」かと聞いたところ、出典はその昔のシマゲジ騒動にあった。

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2007年02月12日

◆秋田と岩手の違い

                    渡部亮次郎

太平洋戦争の末期、昭和20年の夏、岩手県の釜石港がアメリカ海軍の艦砲射撃でめちゃめちゃにやられた。その時、私は国民(小)学校4年生。地響きが背中合わせの秋田県側に伝わって来た。

岩手とか釜石とか盛岡とかを生まれて初めて名前を聞いて、意識したことの初めであった。それにしても太平洋はすぐ、そこ。日本は狭いと初めて思ったのもその時である。

偶然にも、20代の中ごろから5年間、盛岡に勤務した。冬が来て萎れた。布団の襟が凍っているのだ。氷点下10度なんていうのは良い方だった。自分の息で布団が凍るのだ。

その代り、夜が素晴らしかった。浩々と月が出て、銭湯帰りのタオルが凍ってすぐ棒になった。間もなく正月。朝から日が昇る。驚きだった。何しろ小学校1年の時「はつひので」と教わって「元日に出るお日様のこと」というから「先生というのは人に嘘を教えてはいけない」と文句をつけて、親父が校長に呼ばれたそうだ。

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2007年02月11日

◆禁煙はサッチャーのお蔭

                渡部亮次郎

毎日新聞によるとフランスは公共の場では、08年から全面禁煙にするそうだ。

フランスは伝統的に喫煙に寛容で、91年の分煙法制定後もカフェやレストランでの分煙はあいまいだった。しかしアイルランド、スコットランド、北アイルランド、イタリアが相次いで公共施設を禁煙とする法律を施行したため、欧州の流れに沿うことになったもの。

<【パリ福井聡】「紫煙とカフェ」の文化で知られるフランスで1日、職場、学校、病院、店舗など公共の施設での喫煙が禁止となった。カフェ、バー、レストランなどは「喫煙大国」への配慮から11カ月の猶予期間が与えられ、全面禁煙は08年1月1日からとなる。

AP通信によると、違反者には罰金68ユーロ(約1万円)、施設の責任者には同135ユーロ(同2万円)が科せられる。「密閉された喫煙室」を設ける店舗では喫煙できるが、設置可能な店舗は全体の3%に過ぎないとみられる。

ベルトラン保健相は、「1日以降はたばこの副流煙を吸う間接喫煙がなくなる。これを機に、現在は年間70万人が禁煙しているのを倍増させたい」と訴えた。

南部マルセイユでレストランを経営するパンデリさんは「心構えは出来ており、客足も減っていない」と話す。しかし、たばこ愛好家連盟のモンレドン事務局長は「法で断罪され路上に放り出された気分だ」と反発し店主に店内を禁煙にするか喫煙を認めるかの選択権を与えるよう訴えた。>毎日新聞 2007年2月1日 18時08分> 

この記事を読んで読者の一人が異論らしきものを唱えて来た。

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2007年02月10日

◆タンゴの源流に立つ



         渡部亮次郎

兄がタンゴ狂なものだから、子供の頃から聞かされた。あまり上品じゃないと嫌う人もいる。そんなこととは無関係に、私はあのリズムに息が苦しくなってくる。散歩の時もタンゴは聴かない。

ミロンガなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

タンゴは、今から約130年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として酒場で、日頃の不満を歌にし、単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったのがタンゴの始まりと言われる。その後、娼婦を相手に踊られるようになり、男女で踊る形式が確立されたといわれる。

首都ヴェノスアイレスのボカ地区は、古くから港があった地域で、ヨーロッパから来た移民たちは、こ の地で、新しい第1歩を踏みしめた。19世紀終わりごろのラ・ボカは、イタリア、スペイン系を中心とした、ヨーロッパからの移民や、アフリカ系の人々など様々な人種の人々であふれていた。

タンゴは、そういった環境の中、様々な文化の混合によりブエノスアイレス南部(ラ・ボカ、サンテルモ地区)で生また。

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2007年02月09日

◆オイカサラマサ予算

                   渡部亮次郎

自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」と判断できた。他社の連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていた。

打ち続く野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やして伝家の宝刀宜しく、採決強行(強行採決)を断行するぞと予告をしているのであった。記事やニュースには出なかったが、記者クラブでは以後しばらくガッポウテキが流行語となった。それからしばらくして委員長はなんと入閣した。佐藤首相はそれをガッポウテキと判断したのだろう。

日本のみならずどこの国でも、国民に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

どこか大国の大統領ですら、最近、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいるくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかいた。

昔のある代議士は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。お気づきだろうか、追加更正予算のことである。今の世は更正の語を使わないから、オイカサラマサと言われて判る人は少なかろう。

いずれにしろ議場は大爆笑に包まれたか否か。そういえば、演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)やった兵(つわもの)がいたそうだ。

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2007年02月07日

◆高慢ちきの哀れ



                      渡部亮次郎

友人に聞いた話である。

「俺がエリートだ。お前らは定年になって社会貢献が出来なくなったけど、俺を支援すれば社会貢献できる。だから俺を支援するのが筋というものだ」。元大使閣下が高校の同期会に来て高言したのだと言う。

また大手商社で役員になれなかった東大出は同期会に出てきて言ったそうだ。「定年で最早、社会的に何の力も無くなったお前らがこうやって集まって何の意味があるのだ」と。

そんなら来なけりゃいいのに、悪口が気になるのか、毎回、遅れてしかも泥酔して来るのだそうだ。同期会なんて、意味を求めるのが可笑しいだろう。懐かしいといういわばくだらないことの詰め合わせ。無意味に意味があるだろう、と友人は嘆いていた。

同じ東大出でも農学部で役所の長官にまでなった男は、同期会に欠かさず来て、受付を手伝い、威張るところが一つもないそうだ。なんでこんなに違うのだろう、育ちかな、性格かなと友人。私は「勘違いだろう」と断じた。

世の中、東大を出て官吏や商社マンになることだけがエリートではない。厭な仕事でも買って出て、他人の面倒をよく見ることがエリートなのだ。米国人で、日本文学研究者のサイデン・ステッカー氏は嘗て私に「威張る人は馬鹿なのです」と教えて下さった。

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◆建国記念「の」日

 <サーバーメンテのため、掲載が遅れました。「頂門の一針主宰・筆  者の渡部亮次郎氏に深くお詫びします。−Netmo編集部>


                   渡部亮次郎

建国記念「の」日がやってくる。この「の」こそが復活のキーワードで
あり、園田直(衆院副議長、外相、厚相、官房長官、故人)と私を結びつ
けた「の」である。

この日はかつて紀元節という祝日であったが、戦後になって紀元節の祝
日化は廃止された。1951(昭和26)年頃から自由民主党タカ派を中心に復
活の動きが見られるようになった。

やがて1957(昭和32)年2月13日、自民党の纐纈弥三(こうけつ やぞう)衆院議員らによる議員立法として国会に登場した。廃止以前のように「2月11日」を紀元節は無理としても「建国記念日」として復活させようというものであった。

ところが当時の野党第1党たる日本社会党はまず復活は保守反動の最たるものとして大反対。しかも、この「2月11日」という日付は「神武天皇元年(紀元前660年)1月1日」を、当時の歴史家が誤ってグレゴリウス暦で算出してしまったために弾き出された日付である。

だが「1582年10月4日以前はユリウス暦で算出する」という正しい方法で計算した場合、神武天皇元年1月1日は「2月18日」となる。つまり、正しい計算による建国記念日は「2月18日」ということになる。このため皇族にも2月11日に反対する人がいた。

当然ながら以降9回の議案提出・廃案を繰り返した。もし自民党がシビレを切らして本会議で成立を図れば血の雨が降るだろうといわれていた。

折しも血の雨は日米安保条約改訂をめぐって1960(昭和35)年、降ったば
かりであった。なんとなく紀元節復活くわばらくわばらというムードが
漂っていた。

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2007年02月02日

◆東京ローズの晩年

                       渡部亮次郎

東京ローズと言っても戦後生まれの人は知らない。70を過ぎた私でも、外務省へ行って大臣秘書官として対処するまではボンヤリとしか知らなかった。大臣(園田直)は前身が官房長官(福田内閣)だったので、関係者とは以前から接触していたらしい。

とにかく評論家の上坂冬子さんを先頭にする一団が大臣室を訪れて、東京ローズ問題の善処を迫った。しかし、いま改めて記録を見ると彼女は既に(1977年)にフォード米大統領の恩赦により市民権を回復したとなっているから、上坂さんの訪問目的はなんだったのだろう。

日本外務省の、主としてOB会といえる霞関会の機関誌『霞ヶ関会会報』平成19年2月号に元マイアミ総領事小平 功さんがシカゴ総領事館勤務の際に出合った東京ローズ(厳密にいえば、そのうちの1人だった)アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノさんの思い出を綴り、晩年のことを書いておられるので、図らずも思い出したのである。彼女は2006年9月26日、脳卒中のためシカゴで亡くなった。90歳だった。

ご承知(最近は知らない人がいる)の如く、日本は昭和16(1941)年12月8日(米時間では7日)、アメリカとの戦争を始めたわけだが、戦争は放送の電波を使っても展開された。米国兵の戦意を砕くため、女性アナウンサーを使って語りかけた。今のNHKから。「リリー・マルレーン」日本版。

今の人たちは「断ればよかったじゃないか」というかもしれないが、軍国主義時代のこと、政府や軍部の命令を断ったりしたら国賊とされ生命が無かっただろう。

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2007年02月01日

◆中国残留孤児を救え今!

                 渡部亮次郎(メルマガ頂門の一針・主宰)

若い方々のために中国残留日本人孤児問題とは何かを解説する。
中国残留日本人孤児の悲劇は今から半世紀以上前の昭和20年(1945年)8月に起こった。

もともとは昭和10年ごろ、中国東北部(元満州)には政府の方策のもと約30万人の日本人が開拓団として入植し、日本人社会が形成された。

昭和20年8月9日、旧ソ連の対日参戦により、日本人社会から男性の多くが召集され、残された女性や子供、高齢者は避難を選択。厳しい戦況に加え飢餓や伝染病のため、子供たちは親兄弟と死別したり中国人に引き取られるケースが多かった。

この子供たちは中国人養父母のもとで育てられ、日本に帰国する機会を失ったまま成人。これが中国残留日本人孤児だ。旧厚生省(現厚生労働省)が中心になって作成した中国大陸からの未帰還者の名簿や聞き取り調査から推定し、残留孤児の総数は約2500人と推定されてきた。

ところが、日中国交回復(1972年)後、残留孤児調査で孤児の数は、はるかに上回っていたことが判明。現在、厚生労働省が把握している残留孤児は2,773人。さらに170人程度の残留孤児の可能性のある人がいるらしい。

これまでに身元判明したのは1,274人。このうち1981年から行われている訪日調査で身元が判明したのは675人だ。訪日調査が始まったころは高い確率で判明したが、ここ数年は数人程度。

厚生労働省は孤児や関係者の高齢化が進み、証言が得られなくなってきたとしているが、少なくてもまだ1,500人近くの人の肉親が不明なままだ。以上が産経の解説。

田中角栄首相の特別機に同乗して、日中国交正常化の推移を見つめていた時、私も多くの国民も、この事実は知らなかった。小泉首相の北朝鮮訪問をきっかけに残留孤児は北朝鮮にもかなりいるはずだという投書を新聞で見たが、田中訪中の時に孤児問題に触れたメディアは一つも無かった。

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2007年01月31日

◆色をつける生き方


        渡部亮次郎

アメリカ人は知らない人に挨拶するが、われわれ日本人がそうしたら変人といわれる。知っている人にしか挨拶しない。だが同じアパートでエレベーターに乗り合わせたのは隣人だから挨拶する。だが若い人で挨拶を返す人は殆どいない。びっくりしているのだ。

中国の公衆トイレの汚さ。この世のものとは思えない。折角の水洗なのに使用者は流していかない。次に入ったひとは「なんで私が流さなけりゃいけないのよ」と流さない。次つぎにそうだからどうにもならなくなる。自己主張ばかりで、他人を思い遣るということの無い社会である。

そのくせ中国人の挨拶は「朝ごはん、食べましたか」である。食べていなければ食べさしてくれるのかといえば、そうではない。京都の「ぶぶ」と同じ。恰好付けの思いやり。何のことはない。

「色を付ける」に意味は広辞苑に出ている。「物事の扱いに情を加える。売値を安くする、祝儀を出す、景品をそろえるなどという」。昔は日常のすべてに「色を付けて」いた。中国人にはこれが元から無い。

経済の規制緩和とは「色を付ける」ことを止めることである。すべて自由に運営するが、その代わり余裕を削る。タクシーの規制緩和をやれば、台数は無限の如くに増えるが、客の奪い合いによる経営悪化に政府は責任を持たない。

色を付ける時代はストライキにも色が着いていた。職場放棄をするとき、復帰の時に困らないよう、周囲に気配りをしてから放棄したものだ。今の時代はそんなことはない。権利、権利でボウフラが沸く。

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2007年01月28日

◆ハンケチはどこへ行った

                         渡部亮次郎

昭和29(1954)年の流行歌に岡本敦郎(あつお)の歌う「高原列車は行く」
というのがあるが、ここで歌はいきなり「汽車の窓からハンケチ振れば
・・・」と歌っているもんだから、いまどきの人から「なんでハンカチ
をハンケチと歌うんだ」という疑問が呈せられている。

私は、これは日本人にいかに英語が影響しているかの社会現象だと思う。
戦前生まれの日本人はハンカチなんか知らないし、仮に知っている人で
も、これがハンカチーフという英語の略だとは知らなかった。

ただ高原列車の歌より4年も前の昭和24年に二葉あき子が歌ったのは
「水色のハンカチ」となっている。藤浦は長崎県平戸、丘は福島県の生
まれ。「ケ」か「カ」か、出身地の違いからではなさそうだ。

なるほど、なんでも取り上げて解説してみせるフリー百科事典『ウイキ
ペディア』は「ハンカチ」を取り上げ、ハンカチ王子も取り上げている。

<ハンカチとは、ハンカチーフの省略形。ハンケチと称されることもあ
る。手を拭く、汗を拭う等に使う、通常は四辺を一にする正方形の布。
欧米では鼻をかむことに使われている>。

これではなぜ「ケ」ができたかがわからない。広辞苑は「ハンカチに同
じのそっけない。ただ、1936年生まれの私は少年時代はハンカチを持と
うにも戦争中の物資不足のため生産されておらず、言葉すら知らないで
育った。

野球をやるときはベンチのタオルで拭いたし、高校に入ってからは日本
手拭を小さく畳んで腰にぶら下げているのが普通だった。その昔、旧制
の高等学校の生徒は、その手拭が常に汚く「醤油で煮染めたような」と
表現された、とものの本で読んだ。

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2007年01月26日

◆中国でテロ未遂事件

                           渡部亮次郎

航空自衛隊OBの軍事評論家佐藤守さんのブログによると、昨年5月、中国海軍が過った振りを装って胡錦濤国家主席の乗ったミサイル駆逐艦に砲弾を撃ち込んだ、という。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070124

砲弾は胡主席二命中せず、調査の結果は過ちとして処理されたというが、佐藤氏は「過ちに、見せかけた明らかなテロ未遂事件だった」と談じている。

佐藤さんのプロフィール。防衛大航空工学科卒(第7期)。航空自衛隊に入隊。戦闘機パイロット(総飛行時間3800時間)。外務省国連局軍縮室に出向。三沢・松島基地司令、南西航空混成団司令(沖縄)。平成9年退官。軍事評論家。

「軍事評論家佐藤守のブログ」の2007-01-24号は 中国の「テロ未遂事件」として次のように紹介している。

<昨日、私は胡錦濤主席と江沢民前主席間の闘争が激化していて、ついに昨年5月に「暗殺行為」があり失敗したとこのブログに書いたが、夜帰宅すると、FAXが入っていてその根拠になる文が送られてきていた。

さらに不思議なことに、送られてきた「月刊日本」誌にも詳細な記事が出ていた。「謎の死を遂げた海軍司令」と言うタイトルの「月刊中国主幹・鳴霞」氏の文で、ほぼ私と同一の内容だったが、FAXの方は「ニューリーダー」誌の記事で「テロ未遂事件を逆用した胡錦濤主席」と言うタイトルであった。双方の内容は若干異なっていたが、5月1日に「事件」があったことは事実だったと思われる。

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