2006年11月03日

◆岸の安倍狂い

渡部亮次郎

国家の進路には命を張った岸信介だったが、娘婿安倍晋太郎の出世のことになると、なりふり構わなかった。

それを評して世間は「岸の安倍狂い、福田の自分狂い」と言った。総理大臣を辞任した時の岸はまだ63歳。当初は復活の野心がなかったわけじゃないが、実弟の佐藤栄作が総理になったあたりから女婿の安倍晋太郎を「総理にする」ことばかりに奔走した。

引き換えて子分の福田赳夫氏は自分の出世しか考えなかったので「福田に自分狂い」と言う不名誉な評が残った。

古手の政治記者なら知っていることだそうだが、福田の周りにいた私には却って聞こえて来なかった。同僚だった前田一郎さん(元NHK解説委員)に最近、教わった。

なるほど、例のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも出ている。

<(岸は)晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。>

私が外相時代に秘書官を勤めた園田直について岸は自民党にいる2人の秘密共産党員の1人と決めつけ、国対委員長、官房長官、外務大臣と進む都度、追放を仕掛け、その後を安倍晋太郎に襲わせることに成功した。

実は知り合いのノンフィクション作家塩田潮の取材にに協力をした故を以て、ご労作『昭和の怪物 岸信介の真実』ワック滑ァを送っていただいた。

岸については、その晩年の何年か、東京・内幸町の日石本社(現新日本石油)の3階にあった岸事務所を定期的に訪ねて、時々の政局に対する「見識」を拝聴したものだが、詳しくは「研究」しないまま今日に至った。

だから、この本によって初めて知る事は多かった。以下、ウィキペディアも参照。
 
1)元士族(武士)の家柄。信介は山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第5児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。3歳のころ一家は田布施に帰郷し造り酒屋を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。

実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、特に曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。

また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。」「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった」と述べている。

長兄市郎は海軍中将。岸より6歳年下の栄作は親戚佐藤寛子(ひろこ)家に入り婿。佐藤家から佐藤家に行ったので実家を継いだものと誤解されるが、岸も佐藤も養子だ。

 2)旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、
第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。
 
3)高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。

岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

 4)多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」と綽名され、総理辞任後の晩年は、なお政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。

 5)1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、既に岡田啓介元総理らと気脈を通じていた現職閣僚(国務大臣。代議士は辞任)の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職に追い込んだ。

東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れなかった。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。

 6)戦争犯罪容疑で逮捕拘留されたが、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日(1948年12月24日)に釈放された。東條への抵抗を評価されたとの説、アメリカ自身の占領政策の変更説あり、確定的な説はない。
 
7)1953年(昭和28年)に自由党公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)吉田茂により自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。

かねて2大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。

 8)1956年(昭和31年)12月、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

頭脳の良さは記憶力、判断力の良さに止まらず、事務的処理能力においても飛びぬけていた。加えて度胸の据わったところ。派閥が自然に常に出来た。

娘洋子の婿には官僚ではなく新聞記者を希望。友人の紹介で毎日新聞記者の安倍晋太郎を知ったが、安倍は旧友の息子でもあったので話は急展開した。この夫婦に出来た3人の男の子のうちの次男が安倍総理である。三男信夫が岸家の養嗣子となった。岸の長男信和に子がないため。

 9)1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官・赤城宗徳がこれを拒否した。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考える所まで追いつめられたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。

「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。

 10)「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と言うのが岸の口癖、何度か聞かされた」。(元共同通信社常務理事古澤襄)

岸は妖怪なんかではないが、怪物ではあった。以後、これほどの政治家を大和民族は持てなかった。安保騒動で総辞職を余儀なくされたのは返す返すも残念であった。河野一郎とは初めは良かったが政権の途中から不倶戴天(ともに天を戴かず)の敵となった。

岸は安倍に夢を託したまま1987年8月7日に逝去。しかし安倍晋太郎も4年後には無冠のまま逝去。2006年になって孫が政権の座に着いた。岸も新太郎も予想していただろうか。

(文中敬称略)2006・11・03

2006年11月02日

◆東條を倒した男

渡部亮次郎

アメリカへ1941年12月8日に攻めて行ったのは東條英機内閣である。開戦の詔勅(天皇が意思を示す文書)に副署(天皇の名に副えてする署名)したのは東條内閣の閣僚。その中に商工大臣岸信介(きし・のぶすけ)の名があったのは当然である。

しかし岸は途中で「東條を打倒しなければ日本は滅亡する」と考えが変わり、色々と手段に工夫を凝らした上で、自分1人で東條内閣の総辞職に持ち込むことに成功した。昭和19(1944)年7月18日のことだった。

若い方でも既にご存知のように、岸の孫が総理大臣安倍晋三である。

岸の娘洋子が新聞記者安倍晋太郎と結婚し、その次男が晋三だから孫である。その内閣発足に合わせて、知り合いのノンフィクション作家で評論家の塩田潮が「昭和の怪物 岸信介の真実」(ワック滑ァ)
を出版し、取材に協力した故を以て、1冊を送ってくれた。

岸については、彼が内閣を組織している頃はNHKの記者になり立てで秋田県の大館や仙台にいた。のちに政治部に配属された時は既に岸は代議士を引退していた。

時折会って隠居話を聞いたが、その来歴を系統だって調べる必要のないまま今日に至ったので、今回、塩田本で初めて知ることが多かった。

大変な秀才でありながら、それを鼻にかけるような事は絶対になかった。東大で教授になるべく残れと言われたが断わった。役人になって国家のために働きたいからだった。常に子分が出来たのは度胸もよかったから。

当時、役人と言えば内務省か大蔵省に入るのが普通だった。たとえば内務省に入れば、課長になる前に府県知事になれた。ところが岸が選んだのは「農商務省」。現在の農林水産省と経済産業省が一緒になっていた役所。

入ったところで岸は商工行政で頭角を現し、革新官僚の頭目と目されるようになる。其処に陸軍が目をつけ、折から建国した満洲国政府の幹部として呼び込んだ。

ここで岸は軍部を後ろ盾に統制経済を徹底し、行政官でありながら政治家の操縦まで習得。その功績で商工省となっていた古巣に復帰し、やがて満洲で昵懇になった東條に招かれて商工大臣になってしまう。

大臣という政治家になった以上、衆院議員にならなければおかしいと昭和17(1942)年4月30日の第21回総選挙に郷里山口2区から急遽出馬。初陣にも拘らず、定員5名のところ、2位にダブルスコアの差をつけて当選(得票は30,302)。

開戦当初、日本は破竹の進撃を続けた。フィリピンにいたアメリカのマッカーサー大将(のちに元帥)がオーストラリアに落ち延び、日本軍は開戦6ヵ月後には東南アジア全域を制覇した。

だがミッドウェー海戦で敗れてからの日本軍は各所で玉砕(壊滅)。それに応じて軍需物資の調達もままならず、東條は商工省を軍需省に衣替え。

大臣は首相東條が兼務し、岸は次官に降格。それは拙いと考えた東條は岸を国務大臣兼軍需次官とした。次官は国会議員を兼務できないことになっているから代議士を辞任した。

いよいよ追い詰められて行く戦局を見て「東條を降ろさないと戦争は終わらない」と岡田啓介、米内光政ら首相経験者による「重臣」らが秘密裏に「東條倒閣策」を練り始めた。岸がそれに加わった。

続きを読む≫≫

2006年11月01日

◆共産国の自滅は「ノルマ」

                     渡部亮次郎

「ノルマ」こそは社会主義革命で生まれたソ連を自滅に追い込んだものだと思っているが、最近の日本では平易なビジネス用語になっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「ノルマ主義は、労働の意欲を高めるのにはよいが、JR西日本の福知山線脱線事故のようにかえって悪い影響が出ることもある」と言った風に使われている。

ノルマ(ロシア語:Норма, norma)とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。

日本には太平洋戦争後、シベリアに抑留されていた日本兵が帰国した際に伝えられ、日本語の語彙として広まったとされる。

もともとはロシア革命(1917年)によって成立したソビエト政権では、古くからの地主的土地所有制度は解体され、土地の国有が宣言された。

スターリン時代の1920年代末期に農業の全面的集団化が強制的に実行され、屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるものの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつくられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた作業日単位でおこなわれていたが、ブレジネフ時代にはいると、職種ごとのノルマと賃金表にもとづく貨幣支給にかわっていった。

ところが集団農場では収穫物が自分たちの所有にならないから、労働意欲は起こらない。また、極端に言えばノルマだけを果たしていれば賃金は支給される。となると様々な場面で怠業(サボタージュ)が行われる。

一方、共産化した中国の国有工場では、働いている人も居眠りしている奴も同じ賃金だから、工場全体の成績は下がる事はあっても、上がることはない。そうした実態を見て、とう(�)小平が改革開放経済に踏み切った理由だ。

ソ連では、穀倉地帯のウクライナで、麦の種まきも集団農場のノルマだ。だから昨日撒いた種麦が昨夜の風で飛ばされても、農民たちは「オレらはノルマは果たした」といって、再播種には応じない。こうしたことが74年間も続けば国は立ち行かなくなる。ソ連崩壊だ。

ソ連崩壊(ソれんほうかい)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。

ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったという事。

更に東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると 1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終わりを迎えたという、2つの意味で重要な出来事である。

一方、中国でも人民公社(じんみんこうしゃ)が実施された。毛沢東は中華人民共和国における農業集団化のための組織として施行した。農村での行政と経済組織が一体化(政社合一)された。

1958年に大躍進運動の開始と共に合作社の合併により組織され、生産手段の公社所有制に基づく分配制度が実行された。しかし前述のように働かなくても喰えるのがノルマであってもれば、ノルマが社会主義を縛る。

続きを読む≫≫

◆子分をまた斬った小沢

                  渡部亮次郎
10月31日の各紙ではベタ記事にしかならなかったが、民主党の小沢一郎代表はまた子分たる地元岩手県知事を斬って捨てた。

増田寛也(54)。東京生まれの東京育ちだが、父親が岩手県出身の参院議員だったことから、今から11年前の春、建設省でキャリアを積んでいたところを、当時、新進党を束ねていた小沢が新橋の料亭に呼び出して口説いた。

実は増田の父親盛(さかり)も参院議員になる前は、自民党岩手県連に口説かれて農林省の局長を辞めて知事選挙に出たことがある。急なことだったので敢え無く落選したが、自民党に一泡吹かせたい小沢にしてみれば、その息子寛也こそは反自民党知事の最適任者。

当時としては43歳と全国最年少の知事はこうして誕生した。かくて小沢は副知事上がりの自民党候補を破り、岩手の小沢王国の始まりを決定づけたのだった。小沢は隣の秋田県も抑えている。知事が小沢の子分の元土建屋だからである。

しかし当選した増田は、次第に小沢離れを策する。それは1兆円以上の債務を抱える岩手県財政を再建するための措置としては止むを得ないものがあった。

特に県立大学の設立、東北新幹線の八戸延長工事の負担、公共事業の連発が赤字の主な原因だったから、これらを削減して行こうとする方針は、当然、小沢路線にタテつく県政となった。

またそれまで約5000人いた県職員もこれまでに300人減らし、給与カットも断行した。これでは県民の人気は出ても県庁内や土建業界の人気が落ちるのは当然である。

3年前の選挙では対立候補(共産党)に58万票の差をつけて3選されたのだが、小沢は昨年夏、増田を呼びつけ「いま、黙って辞めるなら大学教授の席を用意する」と脅したが、増田は断わった、といわれる。

そこで小沢は昨年8月、増田の4選出馬を阻むべく民主党岩手1区の腹心代議士達増拓也を来年の知事選挙に擁立することを早々に決定した。

あれほど甘言を弄して口説いた先輩の息子でも気に容ら無くなればさっさと斬って捨てるという小沢戦法がこうして地元でも発揮されたわけだ。

捨てられる増田を見て自民党が何度も声をかけたが、増田は既に負けを見越したのか、断わり続けた。10月30日の記者会見では国会議員への転出も否定し、東京で職を探すらしい。

父親の知事選敗北と参院時代の寂しさを個人的に知っている私は、増田は二代続けて岩手に馴染めなかったのか、いささかの感慨を禁じ得ない。それと小沢のこの先に思いを馳せる。(文中敬称略)

2006年10月31日

◆増田は2世も岩手撤退

                      渡部亮次郎

岩手県の増田寛也知事が10月30日の記者会見で、来年4月日時選挙には出馬しない意向を表明した(31日付読売新聞)。現在3期目だから多選批判を意識した、などと新聞は本当のことを書かない。真実は小沢一郎に嫌われ、岩手を逃げたくて堪らなかっただけである。

私は1970年から4年間、岩手県政担当の記者だった。その頃、増田の父・盛(さかり)が自民党県連に担がれて、郷里の知事選挙に挑戦、敢え無く落選。その後は諦めて参議院議員になったが、院内で顔を合わせると、実に寂しそうだった。

それから幾星霜、岩手の知事に増田という人が登場したので、盛と関係あるのか、と訊いたら、息子だと言う。東京生まれの東京育ち。高校も戸山高校卒である。良く決意したものだと感心したが、初めは岩手で威張っている小沢一郎に引き出されたのだと言う。建設省の高級官僚からの転身だった。

親父さんは既にこの世を去っていたが、増田家は2代かかってやっと念願を果たした、と喜んでいたが、聞こえてくる話は悪いことばかり。そのうちに小沢は増田に見切りをつけ、地元代議士の達増拓也(42)を送ると発表した。増田の人気に翳りを見て、見限ったのだ。

衆議院の議席の4分の3を小沢に制せられている岩手の自民党。世の中の流れに逆行している。だから増田の担ぎ出しを策したようだが、増田は早くに岩手に見切りをつけていたようで、予定を2ヶ月も繰り上げて岩手からの撤退を発表してしまった。

知事を3期やったと言ってもまだ54と言う若さ。彼と会ったことのある人の話では、小沢の苛めにはほとほと懲りたようで、できるだけ早く東京に引き揚げたい風だったとか。政界を去る気だろう。

岩手の貧しさは昔とあまり変わっていないようだ。県の名が示すように岩の県だ。だからあれだけの山を抱えながら針葉樹が無く、殆どが広葉樹。建築用材にならず、木炭や薪にしかならない。岩手の山は時代から取り残されたようなものだ。

他にこれと言った産業も無いから、公共事業が頼り。しかし支配者の小沢は野党の党首とあっては、それもままならず。逼塞感から何とか民主党の天下になってくれればと願っている人が多いようだから、増田の後の知事は決まったようなものだろう。とは言いながら岩手の展望は開けない。

先代の増田が参院議員の終わりに、築地で私が激励の宴を張ったことがある。しかしそれも空しく、増田は寂しく亡くなった。2代目で、今度こそと応援していたが、また撤退とは。残念だ。(文中敬称略)
2006・10・31

2006年10月29日

◆ヒラリーになるのか

                渡部亮次郎

共同通信社の常務理事だった古澤襄(のぼる)さんが2006年10月25日の自
らのブログで指摘しておられる。
http://blog.kajika.net/

<米ブッシュ政権のイラク政策は失敗している。泥沼化した状態の中で
四苦八苦している。米国民は明らかにイラクからの撤兵を求める政策変
更を求めているが、同時にブッシュ政権の下では劇的な変化が望めない
とみているようだ。

このままの状態で大統領選挙を迎えて、民主党がヒラリー・クリント
ン上院議員を擁立すれば、雪崩現象が起こる可能性も否定できない。

ワシントンからの共同報道は、ブッシュ政権のチェイニー米副大統領が、
その見方を肯定して危機感を表明したと伝えてきた。

チェイニー米副大統領は24日、米FOXテレビのインタビューで、2008
年の次期大統領選で民主党のヒラリー・クリントン上院議員が勝利する
可能性は十分あると明言したという。

副大統領はヒラリー氏を「手ごわい候補になる」と評価。「私はほぼす
べての論点で彼女に同意できないので勝ってほしくはないが、彼女を過
小評価すべきではない」と述べ、ヒラリー氏が出馬し予備選を勝ち抜け
ば、共和党にとって相当厳しい戦いになるとの認識を示している。>

多分、ヒラリーが大統領になれば、中国への傾斜が激しくなり、日本の
存在はほぼ忘れられるだろう。夫のクリントンが大統領だった時以上だ
ろう。内政優先の施策に走る可能性大だかれである。

ブッシュは明らかに間違いを犯した。民主主義がこの世で唯一無二の政
治制度だと勘違いしてしまったのである。だが、いかに大国の成功した
政治制度であろうとも、アメリカ建国の特異性を考えれば民主主義こそ
は特異な制度なのである。少なくともイラクに向かない。

欧米人は自然を征服してこそ人間だと考える。我々日本人は自然と同棲
してこそ「美」があると考える。なぜなら人間は気候風土によって生か
される動物である以上、気候には逆らえないと考える民族なのである。

続きを読む≫≫

2006年10月28日

◆生きた法輪功から臓器摘出!


          渡部亮次郎

『週刊新潮』2006年11月2日号が、中国共産党から生きたまま臓器を摘出され続ける集団「法輪功(ほうりんこう)」学習者たちの惨状を初めて報じた。

<中国が、いま最も血道をあげているのが気功集団「法輪功」に対する弾圧だろう。今年の4月20日、ホワイトハウスで行われた胡主席の歓迎式典で、スピーチを遮ってブッシュ大統領に叫んだ女性がいた。

「胡錦濤に殺人を止めさせてください!」
「中共は法輪功学習者の生体から臓器を摘出している!」

声の主は、中国共産党を徹底批判してきたことで知られる『大紀元時報』の記者だが、この言葉に、それまでにこやかだった胡主席の顔が一気にこわばった>

法輪功。東京・秋葉原で活躍する中国人が散見されるが、日本人の信者は少ないせいか、一般には馴染みがない。莫邦富という人がマイクロソフトの百科事典「エンカルタ 百科事典 イヤーブック 」の1999年8月号に執筆したものを、長いが引用、紹介する。

続きを読む≫≫

2006年10月27日

◆自衛隊の速度違反

渡部亮次郎

まだ20代で記者をしていた頃、陸上自衛隊の車両がスピード違反で警察に捕まったのを目撃した。おかしいじゃないか、非常事態のときもキミはこうするのかと問い詰めたら、警官は何も言わないで行ってしまった。かくのごとく自衛隊は法で守られていない。

もともと憲法で守られていない。日本国憲法は日本の物ではない。アメリカが大東亜戦争でやっつけたのを機会に、日本を徹底的に無力化するために自分たちで作文し、我々に押し付けてきた物だ。

昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日まで「大きくなって戦場へ行き、お国のために命を捧げろ」と教えていた先生が、翌日から、自らの過去を消すべく、やたら反戦主義をとなえ、労働組合を作って無意味な平和主義を叫び続けている。

お陰で戦後60年、憲法改正を率先、叫び続けた岸 信介は死に、中曽根康弘は政界引退を余儀なくされてしまった。似非自民党員の宮沢喜一を道連れにしてくれた事はせめてもの慰めだったが。

かくて世紀が変わり、岸の孫・安倍晋三がなんかやってくれそうな気がかすかにするが、民主党の腰が定まらないどころか、与党公明党が土壇場でどう出るか、信用ならない。

国防関係国会議員と何回も訪米して国防総省、国務省、軍首脳とシンポジュームなどを開いて、世界情勢、日米安保体制の問題点を討論してきた。だが、どうも引っかかるものがある。それが憲法だ。

米側は、いつの間にか日本を普通の国と考えて論を進めようとそるが、こちとらは、きみたちの押し付けた憲法でがんじがらめにされ、きみたちの要請で持った自衛隊も、本当は「戦力なき軍隊」が実態なのだ。判るかね。

すると「憲法を改正したらいい、アメリカは何回もやっている」と威張る。君たちが結成を奨励した日教組のお陰で日本人の大半が骨を抜かれ、最早、不可能に近いのだ。

しかも仮に改正するとすれば、軍備を持つことを明文化することになる。軍備を持っても最強の武器は持たないと言うわけには行かない、核兵器所有の問題は認めてくれるのかね。米側は沈黙だ。

横須賀でイージス艦を見学したことがある。イージス艦とは、イージスシステムを搭載した艦艇の総称である。正確に言えばイージス艦は「イージスシステム搭載の艦艇」となる。

非常に対空戦闘能力が優れており艦隊防空の要となっている。現在ではミサイル防衛(BMD) においての使用も計画されている。ちなみにイージスとは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが、娘アテナに与えたというあらゆる邪悪を払う盾(胸当)アイギス(イージス)の名を冠する。

日本においては、海上自衛隊がイージスシステムを搭載した「こんごう型護衛艦」4隻を「ミサイル護衛艦」として運用しており、1護衛隊群に1隻ずつ配備されている。

「こんごう型護衛艦」は、1993年に「こんごう」、1995年に「きりしま」1997年に「みょうこう」、1998年に「ちょうかい」が竣工した。

現在では、ヘリコプター搭載能力とミサイル防衛を考慮した「あたご型護衛艦」2隻が艤装中で、一番艦「あたご」が2007年3月、二番艦「あしがら」は2008年3月の竣工を予定している。

また、現在配備されている「こんごう型護衛艦」1隻をミサイル防衛に対応させる為の予算が2004年(平成16年)度予算で認められた。

誇れる「兵器」はこれぐらい。航空母艦も原子力潜水艦も無い。しかし「専守防衛」政策から、イージス艦も機能を十分に発揮できないのが現状。いわば宝の持ち腐れ状態に閉じ込められている。

また自衛隊は情報収集能力に於いても「普通の国家」には程遠いのが現状だ。スパイを何処にも放っていない。監視衛星も本当のところはアメリカに首根っこを押さえられていて、普通の国家ではない。

先に北朝鮮が地下核実験を行った際の政府の対応のうちでも防衛庁長官の東京不在を批判する声がある。緊張感の不足は非難してしかるべきだが、防衛庁長官は寸時も役所を離れてはいけないと言う論は問題だろう。

問題はそれよりも大きく、根本的なことで日本人は国家としての体制整備を怠ったまま、戦後60年を漫然と過ごしてしまったことを反省すべきである。それをさせなかった社会党や共産党をまず非難すべきだろう。

自衛隊を縛るだけ縛っておいて「大丈夫か」とは国民として矛盾している。(文中敬称略)2006・10・25


◆恋しや「おでん」

渡部亮次郎

<“ご当地おでん”姫路も名乗り 市民グループ、マップ作製
しょうが醤油おでんを名物に−。兵庫県姫路市で、からしの代わりにしょうが醤油を使う「姫路おでん」を広めようと、市民グループが活動を始めた。行政も「名物料理に乏しい」といわれるイメージを変えるチャンスと活動を後押し。

最近は名古屋や静岡など、地域特有の味付けの“ご当地おでん”がブームになりつつある中、姫路も名乗りを上げる。

姫路を中心とする播磨地域(兵庫県南西部)では、昔からおでんのお供にはしょうが醤油が常識。全国チェーンのコンビニエンスストアの店頭にもおでん用のしょうが醤油が並んでいる。

戦後間もないころ、地元の闇市で、煮込みすぎて味が濃くなったおでんをさっぱりと食べるために考え出されたといい、以来、地元の味として親しまれている。

3年前、姫路出身のアイドル歌手、松浦亜弥さん(20)がテレビ番組で、出演者たちにこのおでんを振る舞ったことから、全国的にも注目されるようになった。

市民グループ「姫路食文化協会」副会長の前川裕司さん(51)と、播州ハム工業所社長、堀田周郎さん(48)らが、全国に誇る地元の名物料理にしようと立ち上がり、この活動に賛同したおでん店や居酒屋など33店を紹介するマップを作製した。

また「姫路観光コンベンションビューロー」もPRの支援を決定。今後、観光キャンペーンで姫路おでんを宣伝。「『姫路といえばおでん』といえるような存在になればありがたい」と期待する。

ご当地おでんの火付け役は、「静岡おでん」と名古屋の「みそおでん」。静岡は、特産の黒はんぺんなどのタネを串に刺し、だし粉と青のりをかけて食べるのが特徴。静岡市観光協会は6月下旬からマップを配布するなど、宣伝にも本腰を入れており、「首都圏に向けてPRを展開していきたい」と話す。

また、名古屋は、八丁みそをベースにしたつゆで煮込んだ「みそおでん」が定番だ。

本格的なおでんのシーズンを迎え、姫路食文化協会は「将来は、博多ラーメンや明石焼きのような全国区の知名度を目指す」と意気込んでいる。>

(産経新聞)2006年10月24日16時24分更新

今は知らないが、「おでん」は昔の秋田には無かった。鶏や魚の鍋料理に忙しく、魚の練り物など面倒くさがられたのかもしれない。東京へ出てきて初めて知った。

40近くなって大阪に単身赴任したら、会社の食堂では年がら年中の定番料理。それも塩味はともかく東京のように濃い色は附いてないから、3年間、殆ど食べなかった。

しかし、ものの本によると、これは関東で始まりながら一旦は廃れ、関西から逆移入された料理のようだ。秋田での「おでん」はその後どうだろうか。

続きを読む≫≫

2006年10月24日

◆小沢神話をでっち上げた男

                渡部亮次郎

政治記者の大先輩によると、自民党や公明党には、小沢期待論が生まれているそうだ。できるだけ長く民主党の代表をやって貰いたいと・・・。

小沢は衆院補選の神奈川、大阪で勝てないと分かったら、いち早く北海道に遁走、何と鈴木宗男氏と会って選挙協力の話をしている。係争中の鈴木に有罪判決が出たら、どうするのだろう?

猫の手も借りたいという言葉があるが、柴犬まで駆り出して応援して貰う知恵の無さ、こんな小沢一郎の体たらくだから、できるだけ長く民主党の代表をやって貰えれば、安倍首相の若さと清潔さが光ってくる、と大先輩は言っている。

自民党や公明党から期待される様では、小沢神話も地に墜ちたのだ。もともと小沢は選挙には強くない。自民党の幹事長当時に都知事選を指揮して見事に失敗している。NHKの磯村キャスターが落ちた選挙。小沢神話なんて無かったのに、わざわざデッチあげたのは早坂茂三である。

政治記者から大臣秘書官までは私と似ているが、大きく離されているのはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に早坂は載っていることである。

<早坂茂三(はやさか しげぞう、1930(昭和5)年6月25日 ―2004(平成16)年6月20日)は、政治評論家。 北海道函館中部高等学校を経て、学生運動にのめりこみ浪人留年を繰り返した後に1953(昭和28)年に早稲田大学政治経済学部を卒業。東京タイムズ社に入社し『東京タイムズ』の政治部記者として田中角栄と知り合った。

1962(昭和37)年、大蔵大臣を務める田中の秘書官になり、田中の内閣総理大臣在任中を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書を務めた。 その後、田中の長女・真紀子と対立し、政治評論家に転身した。

田中角栄の政治的足跡や生き方をテーマにした著書を複数出す一方、人生論を若者向け雑誌に連載するなど、活動を広げていた。テレビでは報道番組のほかクイズ番組やドラマにも出演した。死因は肺癌。享年73。

真紀子が初当選したときに選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃんおめでとう」とねぎらいの言葉をかけたがピンマイクが外れて聞こえないふりをされた。

続きを読む≫≫

2006年10月23日

◆水に落ちた小沢

                渡部亮次郎

水に落ちた犬は打て、とばかり、2006年10月22日に行われた衆院補選で2つとも負けた民主党。選挙頼みから敢えて病身を隠すように登場した党首小沢一郎ではあったが、敢え無く敗戦。

水に落ちた犬は助けないで打て、とはかの毛沢東が多用していたように思うが、調べても出典は良くわからない。魯迅の残した格言との説があるが、とにかく小沢はしばらく水に落ちた犬同然、四方から叩かれるだろう。

朝日新聞が一番同情的なはずが結構厳しい。

■「小沢流」選挙に限界も

「まだまだ民主党として力も不十分だった」。民主党の菅直人代表代行は22日夜、神奈川県厚木市内の後藤祐一氏の事務所で敗戦の弁を述べると取材は受け付けず、外に姿を消した。

小沢氏はこの日、別の選挙の応援で北海道に入り、夜に東京に戻ったが、党本部に姿は現さなかった。

「2敗でも大きな影響はない」と党幹部は早くから予防線を張ってきたが、惨敗に衝撃は隠せない。「選挙に強い」ことが小沢氏の求心力の源泉だからだ。自民党幹部は22日、「小沢神話が崩れた」と得意げに語った。

不利な状況はそろっていた。両選挙区とも自民党の議席だったうえ、新首相誕生の「ご祝儀」と北朝鮮問題が加わった。ただ、それを差し引いても攻め手を欠いた。

民主党は、北朝鮮問題について「政府との違いを際立たせるつもりはない」と積極的には取り上げなかった。唯一、中川昭一自民党政調会長や麻生外相の核保有議論をめぐる発言を批判したが、流れを変えられない。

「(核保有発言に)世論や報道が反応しなくなっている」。小沢氏は10月18日、こうぼやいた。

代わりに格差や社会保障などに重点を置いたが、鳩山由紀夫幹事長は22日、「十分な争点にならなかった。医療問題や障害で苦しむ方々の課題に対し前半は功を奏したが、核実験以降、力不足だった」と悔しさをにじませた。

ほころびの芽も見え始めた。核実験を受け、小沢、菅、鳩山3氏は「周辺事態ではない」と結論づけたが、渡辺秀央元郵政相や前原誠司前代表ら15人が19日に会合を開き、「周辺事態にあたる」との異論が出た。 (主宰者註:渡辺は元小沢側近)
続きを読む(無料)≫≫

◆森氏のアプリケ

                 渡部亮次郎

<自民・森氏、新会長に町村氏指名…森派総会で自民党森派会長の森喜朗・元首相(69)は19日昼、東京・紀尾井町のホテルで開かれた同派総会で、会長辞任を正式に表明し、後任として同派事務総長の町村信孝・前外相(62)を指名した。町村氏は受諾し、森派は町村派に衣替えすることが決まった。>
(2006年10月19日15時53分 読売新聞)

派閥会長は首相を目指す人、と森さんがこの席で言った。だから町村さんは突然、総理総裁を目指す人ということになるが、世間は町村さんをどのように認知するのだろうか。ただただ派閥を維持するための便法ではないのか。

ご本人の言うことには「一生懸命働く。もっと研鑽を積み、総裁候補となれるよう努力する」だと。派閥と言うものは、総裁候補を自任する人間が飼う手兵の集団だったが、いまや縞馬のような集団になった。固まっているように見えるだけ。

嘗て共に福田赳夫氏を担当した屋山太郎氏(現政治評論家)がいう如く@金権政治批判が強くなり派閥の領袖はカネで国会議員をひきつけられなくなったA選挙の公認や閣僚推薦権を領袖は失ってしまった。復活の見通しはない。

だとすれば町村派は何を目的として存続して行くのか。森氏が挨拶で述べた(産経新聞 2006年10月20日)ように「ある種のオアシス」だから堤一族を頼って赤坂プリンスホテルの事務所を維持するのか。

各紙はそろって森派を町村派と呼びかえることになったが、町村氏は森氏に名誉会長就任を要請する考えだという。これで森氏が事務所に毎日顔でも出すことになれば「隠棲」どころか「院政」になること確実である。

しかも森氏は「町村派の当面の仕事は何処までも安陪首相を支えることだ」と言い切り「町村総裁候補の擁立」とは言っていない。なんだか町村氏が「当て馬」に見えて可哀想だ。

私が福田派を担当したのは昭和46(1971)年夏、いよいよ「角福戦争」勃発の時だった。もともと岸派にいた福田赳夫氏は党風刷新連盟を結成して独立。僚友の椎名素三郎、赤城宗徳、川島正次郎氏らは福田氏とソリが合わず別派を作った。

事実上の福田派の結成が昭和37(1962)年だから「兵を養って既に10年」だったが、幹事長、大蔵大臣、外務大臣とエスカレーターで上って来た自信から、佐藤栄作総理からの政権譲渡のみを信じて座したままだった。

これに対して田中角栄氏は同じ佐藤陣営ながら、学歴、門閥なし故に這い上がり人生を送ってきたから「政権は毟りとるもの」との決意。得意の気配りと現ナマ作戦による人心収攬に務めて長かった。

福田氏が全く手当てしない参議院自民党対策にも抜かりなく、本来、福田支持と見られていた重宗雄三議長にも「手当てしてあった」と後に豪語したぐらい。

ある実力者によれば田中氏の手当ては本丸の佐藤総理にも達して居たといわれ、そのせいか、佐藤氏は土壇場で選挙区山口に帰ったまま政権譲渡の件には口をつぐんだままだった。福田側近の田中龍夫氏の電話にどうしても出てこなかった。目撃した。

以後、福田氏は1976(昭和51)年暮れ、総理の座を71歳にして手中にするも、それは闇湘軍となった田中氏の認知に基づく密約内閣だったため、「天の声にも変な声がある」と2年で退陣。

森氏の総理就任は小渕総理急病中のどさくさ内閣。要は森氏の永年に亘る旧田中派への接近作戦(ゴマスリ)の成果だった。続いた小泉純一郎氏は福田派を全く頼っていない。安倍政権は小泉政権のお陰。森派のお陰ではない。

むしろ森氏が小泉、安陪氏のお陰で派閥を太らせてきたのが実態だ。とすると、町村派なるものの存在は森喜朗氏のアプリケ(飾り)というべきではないか。派閥不要論を聞きながら「派閥はある種のオアシス」論を聞くと、益々そう思う。2006.10.23

2006年10月22日

◆ふるさと会での腹立ち


       渡部亮次郎

ふるさと会での腹立ちが未だに収まらない。2006年10月21日午後2時から東京・市谷のアルカディア市谷で「第20回ふるさと飯田川会」が開かれ、40人が集まった。

この会は秋田県南秋田郡飯田川町から出てきて首都圏に暮している男女が年に1度、地元の酒「太平山」を酌み交わして無事を確かめ合おうと言うもので、20年前、私が言い出して始まった。

町当局から若干の補助はあるが、基本的には会費1人、1万円で運営している。だから無断欠席されると幹事たちの懐が痛むことになる。会館には3日前に確実な参加者を確認され、欠席者があったとしても減額されないことになっているからだ。

発足以来、1度も来たこともない女性が初めて出席通知があったというので期待していたが、乾杯の発声に立った男性が冒頭、おかしなことをいいだしたので首をかしげた。

「私の義姉が急に仕事が出来て、欠席となりました」。其処ままでは良かった。「つきましては会費を私から出させていただきますので、悪しからずお許しくださるよう、お願いいたします」と言うのかと思ったら、飛んでもないことで言葉を次いだ。

「つきましては、義姉が主宰しているミュージカルのパンフレットをお手許に配らせていただきました。当日受付で義姉の名前を出していただければ、割引いたしますので・・・乾杯」。私は乾杯を拒否した。

これは乾杯の発声ではない。また、機会を借りての謝罪でもない。来賓という地位を利用した宣伝でしかない。ふるさと会を馬鹿にし、軽蔑している。小さいことながら、私はこういう無神経を許すことは絶対できない。「」おかしいじゃないか」と、つい叫んでしまった。


町の後輩にこんな馬鹿が居るのか。みんなにお菓子のひとつでも配った上でならともかく、失態を謝罪せず、宣伝だけしてゆく、何という恥ずかしい行為だろうか。

聞けば私が小学校6年の時、私を教壇前に引きずり出し、ビンタを食らわそうとして、私に避けられた女性教師の息子さんだと言う。あの時は、朝礼なのに、先生は教室に残り、だるまストーブの上でスルメを焼いた。児童たちが戻ってみたら、臭くてたまらなかった。

そのことを全校児童会の席で暴露したのだから、ついカットなって殴ろうとしたのだろう。しかし、私も私だが、恥ずべきは先生であろう。いかに悪阻(つわり)のせいにしろ、朝礼を欠席し、教室で独りスルメを焼いてはいけない。

考えてみれば件の男性はあの悪阻のときの子供だ。母親としての先生は子供たる男性に散々私の悪口を聞かせて死んでいったらしいが、
家庭を持って、悪阻の時の女性のとんでもない行動を知るにつけて悪いことをしたもんだなぁと悔やんではいる。

男性は長じて秋田高校を経て東京の私立大学を卒業。タクシー会社に婿入りして社長。このほど合併してできた市の商工会の副会長だ。
合併に先立って町の時代、町長に立候補したこともあるが見事に落選した。

経歴は立派なのに、どうしてだったのかと考えていたが、今回、解答を発見した思いだった。人生、他人を学ぶ以外に薬はないなぁ。
2006・10・21