2009年07月24日

◆ノーベル平和賞の怪しさ


. 渡部亮次郎

ノーベル賞は日本人にとって遠いものだったが、ノーベル賞の受賞者は2009年7月23日現在 1949年の湯川秀樹氏(物理学賞)をはじめとして12人に達している。科学者以外でも佐藤栄作(元首相)、大江健三郎(作家)がいる。

1965年 朝永 振一郎(物理学賞)
1968年 川端 康成(文学賞)
1973年 江崎 玲於奈(物理学賞)
1974年 佐藤 栄作(平和賞)
1981年 福井 謙一(化学賞)
1987年 利根川 進(医学・生理学賞)
1994年 大江 健三郎(文学賞)
2000年 白川 英樹(化学賞)
2001年 野依 良治(化学賞)
2002年 小柴 昌俊(物理学賞)
2002年 田中 耕一(化学賞)

<賞を作ったノーベルはスウェーデンの人で、ダイナマイトの発明などで富を得て、1896年に亡くなりました。彼の遺言で物理、化学、医学、生理学の科学部門3賞と文学賞、平和賞の授与が始まりました。

ほかに経済学賞がありますが、これはノーベルの遺言とは関係なく、スウェーデン銀行(中央銀行)が1969年から授与しています。

ノーベル平和賞だけはちょっと違う。

ほかの賞はスウェーデンの首都ストックホルムで選考され、授与されますが、平和賞だけは選考はノーベル財団ではなくノルウェー国会による委員会が選んでノルウェーの首都オスロで授与されます。ノーベルがなぜ平和賞だけをノルウェーに任せたのかは、はっきりしません。

賞の対象も、平和賞以外が学問研究や文学作品で世界的な成果をあげた人におくられるのに対し、平和賞は、国と国の関係を良くしたり、戦争のための設備を減らしたりといった社会的な業績に贈られてきました。

最近では環境問題への取り組みも選ばれるようになっています。

2007年は地球温暖化の危機を訴えている前の米国の副大統領アル・ゴアさんと、この問題を調べて対策を提案している国際組織に決まりました。

温暖化問題と平和とは何の関係もないように見えます。でも温暖化が進むと、水や食べものが不足したり、土地が水没して住む場所を失う人が大量に出たり、資源の奪い合いが起きたりする危険が大きくなります。

2004年にはアフリカで植林活動をしたケニアのワンガリ・マータイさんが平和賞を受賞しました。マータイさんは「戦争は資源をめぐって起きる。環境保護は平和につながる」と話しています。>
岐阜新聞Web(2007年10月29日)より。
http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/nie/news/news20071029.htm

宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 2009年7月22日(貳)通巻第2672号に依ると、中国で「08憲章」の起草者劉暁波にノーベル平和賞を、という動きを巡って共産党政府との対立が予想され「平和賞」とは裏腹なことになりそうだ。中国政府は猛烈に反対し、まず米国に圧力をかけるだろう、というのだ。

それによると、「中国民主論壇」は米国の人権団体と中国人留学生らが中心のグループで、劉暁波にノーベル平和賞を!のキャンペーンを開始するための委員会を設立する(多維新聞網、7月21日付け)。

劉は「08憲章」起草者として著名な活動家で、現在中国当局に拘束されている。

同憲章は中国の平和的発展と民主化を基軸に中国政治の変革を希求したもので、300人あまりの知識人らが署名した。

「世界の普遍的価値観と中国の特殊状況は乖離し過ぎており、世界最大の人口を抱える国が平和に発展することは世界の平和に繋がる」ので、あり、この価値観を推進する劉暁波に、この時点でノーベル平和賞を与えることは有意義である、と「中国民主論壇」は声明で述べている。

宮崎氏によると中国の反応はまだないが、嘗て魏京生のノーベル平和賞を直前で巧妙に潰し、昨年はカディール女史(「世界ウィグル会議=在ワシントン=代表」の平和賞受賞も政治力を駆使して潰した「実績」があるだけに、ノーベル財団やノルウェー議会に巨大な圧力をかけることが予測される、という。

この際、佐藤元首相の受賞についての論評は避けるが、ノーブベル平和賞を巡る争いは当に戦争である。多分、戦いは共産党が勝つだろう。負けたら共産党政府が立ち行かなくなるから。

最後に「Yahoo智恵袋」から。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119726571

<中国人は基本的にノーベル賞が大っ嫌いです?
ダライラマが受賞したのなんか、やつらからすると、われわれの感覚で言ったら麻原がノーベル賞取ったぐらいの感覚なので。そりゃ嫌いになりますよ。

あくまで「あいつらにとっては」ってことですよ。断っておきますが、私はダライラマ尊敬してます。あと台湾人がとってるのも気に入らないらしいです。

中国人の知り合いがノーベル賞のことぼろっかす言ってました。
あんなものは欧米人の感性ですばらしいということで、われわれ東洋人は関係ない。

「あんなものに迎合していてはいけない。日本人の皆さんは、いっそのことノーベル賞なんか全部お返ししてしまったほうがいいです。そして中国が中心になって、アジアのノーベル賞を作るべきだ」
と主張していました。

中国からは当分ノーベル賞に値する研究は出ないと思います。最近中国は数学オリンピックなんかで頑張っていますが、はっきり言って方向性間違えてます。

特に大学教育はひどいものだと思います。奴ら論文がまともに書けないんですよ。

自分で考えて、理論を組み立てることがまったく出来ません。本を引き写して、最後に「私もそう思います」みたいな、しょうもない論文しかかけません。それが、結構勉強ができる優秀な連中なんですよ。

中国人は勤勉だといわれます。確かに非常に勤勉です、でも「勉強」と「研究」は違います。中国は優秀な奴らに「研究」ではなく「がり勉」させて、ドンドン潰しています。
「公文式」で研究はできません。

国としては都合がいいんでしょうね、従順な奴が増えて。

実際に、中国人での受賞者は例外なく、海外の研究施設で受賞してますよね。おそらく北京大学からも、上海大学からも、当分はノーベル賞は出ないでしょう>。2009・7.22

2009年07月23日

◆団塊が知らない2・1ゼネスト



           渡部亮次郎

1947(昭和22)年2月1日予定の「ゼネラル・ストライキ」がマッカーサーの命令で中止されるという事態になった。今では全く論ぜられない「占領史」の一端である。あれが実施されていたら、その後の自民党長期政権は無かった。

私はまだ秋田で12歳だったが、毎日お昼ごろ届く「毎日新聞」を詳しく読んで「事態」を知っていた。それまでの「東京日日新聞」が戦時中の昭和18年から「毎日新聞」に変わった。

私が生まれた年、1936(昭和11)年に42万人いた労働組合員は、大東亞戦争の勃発で労働運動が禁止、解体されていた。これに対し戦後に進駐したマッカーサーGHQは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。

大東亜戦争(太平洋戦争)後の激しいインフレの中で、日本共産党と戦前の日本労働総同盟の指導で労働運動が高揚し、1946(昭和21)年には国鉄労組が50万名、全逓信労組が40万名、民間の労組は合計70万名に達した。

日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない」と労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。

冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。

吉田もまた共産党との対決を意識し、内部分裂した日本社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。

1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。

「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。」

「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。

非難されたと受け取った労組はいっせいに反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。

公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。

1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」として、ゼネストの中止を指令した。

伊井委員長はGHQによって強制的に連行された。NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された伊井は、午後9時15分に叫んだ。

「敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進」と、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙ながらに発表した。テレビがまだ無かったから、この涙を私は見ていない。

伊井は占領政策に違反したとして逮捕され、懲役2年を宣告された。

2・1ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方針転換を示す事件であった。意図的に労働者の権利意識を向上させつつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じた場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。

その後も労働運動はなお盛んであったため、マッカーサーは吉田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示した。

これに基づき、1948年(昭和23)7月31日に公布された政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。

後に国家公務員法・地方公務員法で正式に公務員のストライキ禁止が明文化された。この公務員のスト禁止は、1970年代の国鉄による「遵法闘争」の要因となる。

1932年テーゼの中で占領軍を解放軍と規定していた日本共産党は、しばらくの間、この事実を受け入れられずに迷走した後、暴力革命路線へ転換することとなる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・07・22

2009年07月20日

◆マスコミは正義に味方せず



                     渡部亮次郎

マスコミ不信がこのところ激しい。逆説を言えば、人々のマスコミ依存がそれだけ激しい、とも言える。だが、マスコミとは所詮儲け仕事。身勝手なんだから信頼なんかしてはいけない。

昔は「社会の木鐸(ぼくたく)」と誉めそやした。広辞苑によれば、「世人を覚醒させ、教え導く人」とある。昔、中国で法令などを人民に知らせる時に鳴らしたのが「木鐸」で、木製の舌のある鉄製の鈴だった。

私が世間に出た昭和30年代までは日本でもマスコミのことをそういって批判したり、反省を求める「識者」がいた。また批判されればマスコミも少しは反省したような顔をした。

だが民放が本格的になっ来るにつれて,もういけません。ニュースにしろ番組にしろ視聴率こそが彼らの収入を左右するのだから、「映像(絵)」にならない物は取材対象でなくなった。

例えば政治である。経験上、政治こそは、夜、密室で決められるから絵にはならない。したがってテレビは政治家の料亭への出入りの撮影にこだわる。映像と音声を同時に捉えるにはカメラとマイクで押しかけることになる。騒動だ。だがここでは真相からは離れている。

真実はつかめない。近いところを手短に喋ってくれる政治家にレンズもマイクも集中する。順序立てて論理的に話してくれても話の長い政治家は敬遠だ。ニュースの枠は短いのだから、見出しだけを並べたような喋りをしてくれる政治家が画面を独り占めにすることになる。小泉が首相として世の中を振り回せたのも「ワンフレーズ」
人間だったからだ

テレビにかじりついているような視聴者はこれで騙されてしまう。
なぜなら、見出しを並べたような喋りは真相の上っ面をなでただけだから、事態はニュースとやや違って動く。だからニュースを一旦はしっじた人は「騙された」という批判をしたくなる。

「解散」を巡る麻生さんの動き。映像を追っていただけでは判断を間違う。彼は「解散」をするために総理の座についたが解散を渋ったような印象を与えてしまったから不人気のままか解散をせざるを得ない珍しい宰相になってしまった。

勿論「百年に1度の経済不況」対策に専念したためでもある。だから財界には人気がある。しかし当面の役には立たない。

どうせ「解散」すれば任期は無くなる(再選不可能)から解散を延ばせるだけ延ばした方が得策、と進言した大幹部がいた。テレビはもちろん新聞もこの情報をつかめないままに過ぎたが。

簡保の宿問題。従業員の解雇を阻止するためには郵政の側に真実があった。だから麻生は鳩山総務相を事実上、罷免して解決するしかなかった。だが麻生自身がこのからくりの説明を怠ったために、マスコミの誤まった報道に世論が走ってしまい、支持を失ってしまった。世論操作のミスは大きかった。

マスコミの中には、何が何でも保守大連立実現のためには、この際、麻生を犠牲にして、まず民主党政権を作る必要があるとの考えから、
新聞紙面を麻生打倒の政略にした大新聞もある。

「社会の木鐸」という矜持を完全に捨ててしまっている。それを知らずに従(つ)いて行った読者こそ、いい面の皮というべきだろう。都議選で民主支持に流れたという3割という自民党支持者は「騙された」と、いつか気付くだろう。

私の主宰するメイル・マガジン「頂門の一針」の読者には宮里藍とか石川遼といった人気若手ゴルファーを煽て挙げ終いに駄目にすると、テレビ局を激しく貶し、投書してくる読者が少なからずいる。

私も同感だから投書は採用するが、じつは空しい気がしている。なぜなら民放にとって高い視聴率の取れる映像を作ることこそが目的であって、偉大なゴルファーを育成することとは全く関係ないことなのである。

それを止めてくれ、選手をスポイルしいでくれといっても、民放としてはゼニになる映像がそこに存在するから撮影するのであり、決して彼らをスポイルする気はない。スポイルされたら、それは本人の責任であってテレビ局は次なる「絵」を捜すだけである。

具体例は挙げれば切りの無いほどある。だが挙げ続けても無意味だろう。本質は共通しているのだから。まぜならマスコミはミーハーを煽って新聞、雑誌を売りつけ、テレビ・ラジオは「1億総白痴化」が達成してこそ「儲け」られる「商売」をしているに過ぎないからだ。

偉そうなことを言うようだが、筆者自身、今日ほど無責任でなかった時代の「公共放送」(?)NHKに政治記者を最後に約20年在籍した経験がある。当時ですら「ここに長居したら人生を失う」と悟って41歳で転身してしまった。後悔はしていない。(文中敬称略)
2009・07・19

2009年07月17日

◆平成の「慶喜」さようなら



                   渡部 亮次郎

麻生太郎の命運が尽きようとしている。麻生首相の下では総選挙で勝つのは難しい。かといって表紙を換えても、自民党の凋落を救うことにはならないのだ。自民党の命脈が尽きたのだ。

鳩山では頼りないが、一度、民主党にやらせてみようというのが、多くの選挙民の気分ではないか。しかし実は小沢・鳩山は成立する民主党政権が脆弱であることを認識しているという。

だから成立後の次の一手は、社民党との連立を早く解消し、保守色の強い民主党政権の構築をすで模索している。

結局は自民党との大連立を、民主党の側から仕掛けることになろう。読売のドン・渡邉恒雄がそれを働きかけているようだ。読売新聞の論調がその方向で動いているのがその証拠。「都議選で自民敗退予告」のミニ世論調査を掲げるなど選挙中に自民・公明の足を引っ張った。

これに対して安倍晋三らタカ派は、大連立に抵抗する構え。同じ町村派ながら森喜朗との亀裂がすでに現れている。

安倍らの読みは、民主党と社民党との政策対立を待ち、来年夏の衆参ダブル選挙で一気に政権奪取を図ることだという。政局はすでに第2幕に向かって動き出した、と見る。

かくて江戸幕府の大政奉還という汚名と共に退場した徳川慶喜になぞらえれば麻生太郎は自民党の慶喜ということになるが、彼の経歴を改め見ると、英悟は流暢に喋れるが、米英慮国の詳しい事はほ殆ど知らず、学位も無い。それでいて漢字の読めないことを知れば、文科省の目指す「発育不全」の日本人に最も相応しいモデルであることに気付く。

文科省が小学生から英悟教育を始めるのは、今まで高校・大学で英悟教育をしても、英会話の出来る人間が殆ど育たない。これではアジア各国にも後れを取る結果になるとして財界や大学教授の意見に従った結果、英語教育を小学生から始めることに踏み切ったものである。

日本の英語教育は受験英語しか教えず会話を教えなかっただけ。その過ちに頬被りして文科省はこれで誤りを繰り返すだろう。

尤も米国にも英国にも留学した麻生太郎氏は英会話や漫画やクレー射撃、それに最近はバーや飲食店事情には詳しいようだが、漢字が全くの不得手。読書も好きとは言い難い。同じ本を2度買う。

哲学は大切だが「哲学は優だった」と東大の成績だけを威張った嘗ての福田赳夫首相よろしく、人心を読み取り説得する点では全く心許ないこと甚だしい。鳩山更迭の理由説明を怠って穴を掘った。

改めてその華麗な系図を見れば「政治力」は全く遺伝しないものである事を知るせめての良い材料だった。「平成の慶喜」ひとまず  さようなら。(文中敬称略)2009・07・10

関連情報:

与謝野財務相、麻生首相の自発的辞任を促す

与謝野財務相は15日、首相官邸に麻生首相を訪ね、約40分間、会談し、東京都議選の敗北を受けて次期衆院選は厳しい戦いになるとの考えを伝えた。首相の自発的な退陣を暗に促したものだ。7月16日3時9分配信 読売新聞

2009年07月13日

◆したたか服部良一



       渡部亮次郎

大阪出身の作曲家服部良一(はっとり りょういち、1907年10月1日―1993年1月30日)は、日本の作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。大阪府大阪市平野区出身。

ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人と「ウィキペディア」。名曲「青い山脈」「東京ブギウギ」を残した大作曲家だが、戦時中、内務省の検閲を欺いた「大物」とは誰も書かない。

「夜のプラットホーム」は戦後の昭和22年に発表され、大ヒットしたが、実はもともとは戦時中、淡谷のり子が吹き込んだものであった。

1939年(昭和14年)公開の映画『東京の女性』(主演:原節子)の
挿入歌として淡谷が吹き込んだ。だが、戦時下の時代情勢にそぐわないと内務省の検閲に引っかかり、同年に発禁処分を受けた。理由は「出征する人物を悲しげに見送る場面を連想させる歌詞がある」だった。

作詩 奥野椰子夫  作曲 服部良一
1 星はままたき 夜ふかく なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ  さよなら さようなら
 君いつ帰る

2 ひとはちりはて ただひとり  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし  さよなら さようなら
  君いつ帰る

3 窓に残した あのことば  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔  さよなら さようなら
  君いつ帰る

昭和13年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿。それに心を打たれた都新聞学芸記者奥野椰子夫。

作詞家としてコロムビアに入社して翌年1月に「夜のプラットホーム」として書きあげ、服部良一が作曲、淡谷(あわや)のり子が吹き込んだのだったが、発売禁止。

だが、曲に愛着をもつ服部が一計を案じた。検閲官を欺こうというのである。レコードが輸入盤なら検閲を潜られる制度だったので、
2年後の1941年(昭和16年)、「I'll Be Waiting」(「待ちわびて」)というタイトルの洋盤で発売した。

作曲と編曲はR.Hatter(R.ハッター)という人物が手がけ、作詞を手がけたVic Maxwell(ヴィック・マックスウェル)が歌ったのだが、この曲は『夜のプラットホーム』の英訳版であった。

R.ハッターこそは良一・服部が苗字をもじって作った変名で、ヴィック・マックスウェルは当時の日本コロムビアの社長秘書をしていたドイツ系のハーフの男性の変名だった。

策略はまんまと当り、この曲は洋楽ファンの間でヒットした。当時を代表するアルゼンチン・タンゴの楽団ミゲル・カロ楽団によってレコーディングされた。

このとき服部は、やはり先に発売禁止になった「鈴蘭物語」(作詞藤浦 洸, 唄淡谷のり子)を「Love‘s Gone(夢去りぬ)」作曲R・
ハッターとしてB面に収録。人々はこれも外国曲として愛好した。
内務省は服部にしてやられたのである。

肝腎「夜のプラットホーム」は検閲の無くなった昭和22年、二葉あき子が歌って大ヒット。それまでの歌手活動の中、ヒットはあったものの大ヒット曲のなかった二葉にとっては待ち望んでいた朗報であった。

「夢去りぬ」の方は霧島昇が歌いなおして、これまた大ヒットした。

服部良一は大阪の本庄で土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊する。

1926年にラジオ放送用に結成された大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに見出され、彼から4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けた。

1936年(昭和11年)にコロムビアの専属作曲家となった。やがて、妖艶なソプラノで昭和モダンの哀愁を歌う淡谷のり子が服部の意向を汲みアルトの音域で歌唱した『別れのブルース』で一流の作曲家の仲間入りを果たす。

その後ジャズのフィーリングをいかした和製ブルース、タンゴなど一連の和製ポピュラー物を提供。淡谷のり子は『雨のブルース』もヒットさせ「ブルースの女王」と呼ばれた。

その後、霧島昇・渡辺はま子が共演し、中国の抒情を見事に表現した
『蘇州夜曲』、モダンの余韻を残す『一杯のコーヒーから』、高峰三枝子が歌った感傷的なブルース調の『湖畔の宿』(発売禁止)など、服部メロディーの黄金時代を迎えた。

だが、大東亞戦争中は不遇。戦後は大活躍した。古賀政男がマンドリン・ギターを基調にした洋楽調の流行歌から邦楽的技巧表現を重視した演歌のスタンスへと変化したのに対し、

服部良一は最後まで音楽スタンスを変えることなくジャズのフィーリングやリズムを生かし、和製ブルースの創作など日本のポップスの創始者としての地位を確立した。

日本のポップス界隆盛の最大の功労者である。曲自体も歴史的価値は別にしても今日でも全く魅力を失っていないものが多く、その意味では海外のクラシックやスタンダード・ポップスの巨人と並べて語るべき存在ともいえる。日本レコード大賞の創設にも尽力した。

1993年1月30日、呼吸不全のため死去。享年85だった。死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与された。なお『青い山脈』を歌った藤山一郎も国民栄誉賞を受賞している。

2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞。

息子は作曲家の服部克久と俳優の服部良次がおり、孫に服部隆之(服部克久の長男)、バレエダンサーの服部有吉(服部良次の息子)がいる。妹は歌手で服部富子。2009・07・10
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2009年07月09日

◆外食産業の祖・北橋茂男



                   渡部亮次郎

石川県 羽咋郡志雄町浪敷5―10に「やわらぎの郷」と言って1000本もの桜(ソメイヨシノ)が咲き誇る、能登有数の桜の名所がある。

聴けばここから出て大阪で「オムライス」を生み出し外食産業の元祖といわれる・故北橋茂男(きたはし しげお)氏が建立したものである。毎年、春の開花時には大勢の人でにぎわう。

聖徳太子を祀る「太子殿」には田中一村画伯の天井画があり、京都三十三間堂をかたどった「やわらぎ堂」には人間国宝・小島与一氏とその門下による「和の姿」を表現した博多人形33体が展示されている。その他に山門、鐘楼などがある。

北橋は、こどものうちに東京に出て洋食の修業を積んだ後。神戸屋パンの前身の神崎屋で働いた。大阪で「洋食の屋台」を考案。市内を流したあと店をやっと持った。洋食屋とパン屋を併設していたから「パンヤの食堂」という屋号だった。

大正11(1922)年の創業。なにわ筋汐見橋停留所前に1号店を出店した。現在の大阪市浪速区である。

「とんかつ」も「カレー」もなんでも10銭!ホテルの朝食の10分の1で洋食が味わえる、今のファミリーレストランのようなものだった。

当時は、素うどんや銭湯が10銭だった。ホテルの朝食は1円。スエヒロのステーキは、80銭だった。

後に昭和48年8月、東京から大阪のNHKに転勤した夜、ミナミの小料理屋「唐金」に案内されたところ、女将が元「北極星」に勤務していたと自己紹介した。

北極星って何?といぶかる私に女将は「オムライスを考案したお人です」と説明した。知らなかった。

創業当時、雨具屋の小高さんという常連の客がいたが、この人、胃の具合の悪く、いつもオムレツと白いご飯を食べていた。

1925(大正14)年のある日、当時20代半ばだったアイデアマンの茂男は、「来る日もくる日も同じものでは可愛想だ」と、マッシュルームと玉ねぎを炒めて、トマトケチャップライスにしたものを、薄焼き卵でくるんだ特製料理を小高さんに出した。

「おいしいやん!なんやこれ?」と大変気に入られ、「オムレツとライスをあわせてオムライスでんな」と、とっさに答えたのが、日本にしか無い「オムライス」の誕生だった。

「唐金」の女将は小学校を終えて、親戚の紹介で「北極星」に就職。大東亜戦争の始まる1年前の昭和15年のことだった。「お蔭様で勤労動員に動員される事もなしに過ごせました」とのことだった。

その後昭和11(1936)年、難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。彼の「生活の道しるべせよ北極の天に輝く明星の如く」という言葉から取られた。以後、「北極星」は、洋食屋の草分けとして大正から昭和、平成の3代に亘り、繁盛している。

ところが,ある日、焼肉の「ホルモン焼き」を調べていたら、大阪で豚や牛の内臓を「ホルモン」として売り出し、あまつさえ商標登録までしたのは北橋茂男と知ってびっくりしたのだ。元「唐金」の女将に電話して確かめた次第。

別の機会に既に書いたが、明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

アイディアマン北橋の面目躍如といったところである。

このときの料理はホルモン(放るもん=捨てるもの)の煮込み。敗戦後他の業者たちがホルモン「焼き」で大儲けを始めた時、北橋は
商標登録のことを持ち出すようなことは「野暮」といって黙認した。

それがホルモン焼き普及のわけになった。だからこそ郷里に1000本のソメイヨシノを残すような偉業を果たしたのだ。

今になって外食産業の祖と崇められる北橋重男。人物を紹介する記事は各種の百科事典は勿論、「ウィキペディア」にもない。電話を掛け捲って突き止めたのは、生年月日=明治33年7月23日、肝臓癌で逝去したのは昭和41年2月14日。享年65(満64)だった。
2009・07・05

2009年07月08日

◆文科省の目指す日本人・麻生



                   渡部亮次郎

麻生太郎の命運が尽きようとしている。静岡県知事選は民主党の勢いを見せつける結果となった。東京都議選は自民・公明が仮に踏みとどまっても、麻生首相の下では総選挙で勝つのは難しい。

といって麻生太郎に代わる総裁をにわか仕立てで擁立しても、勝てる公算はない。表紙を換えても、自民党の凋落を救うことにはならないのだ。自民党の命脈が尽きたのだ。

鳩山では頼りないが、一度、民主党にやらせてみようというのが、多くの選挙民の気分ではないか。

こうした中で、小沢・鳩山は成立する民主党政権が脆弱であることを認識しているという。成立後の次の一手は、社民党との連立を早く解消し、保守色の強い民主党政権の構築を模索している。

結局は自民党との大連立を、民主党の側から仕掛けることになろう。読売のドン・渡邉恒雄がそれを働きかけているようだ。読売新聞の論調がその方向で動いている。6日も「都議選で自民敗退予告」のミニ世論調査を掲げるという前代未聞の事をやった。選挙中に特定政党の足を引っ張った。

これに対して安倍晋三らタカ派は、友人らの情報によると大連立に抵抗する構え。同じ町村派ながら森喜朗との亀裂がすでに現れている。

安倍らの読みは、民主党と社民党との政策対立を待ち、来年夏の衆参ダブル選挙で一気に政権奪取を図ることだという。政局はすでに第2幕に向かって動き出した、と先輩の分析である。

かくて江戸幕府の大政奉還という汚名と共に退場した徳川慶喜になぞらえれば麻生太郎は自民党の慶喜ということになるが、彼の経歴を改めて見ると、英悟は喋れるが漢字の読めない発育不全の日本人に最も相応しい人物であることに気付く。

福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。麻生塾小学校(閉校 後の学校法人麻生塾・麻生専門学校)を経て、小学3年生の頃上京し、学習院初等科に編入。

1963年に学習院大学政経学部を卒業した。大学時代からクレー射撃を始め、22歳の時全日本選手権を当時の日本新記録で優勝。1974年に行われた第2回メキシコ国際射撃大会に優勝。1976年のモントリオールオリンピック代表に選出される。

卒業後は、下記のような海外留学生活を送ったとされている。

1963年9月 - スタンフォード大学大学院に留学するも2年で中退。

米国での留学生活は過剰にアメリカナイズされる事を恐れた実家の意向で中断されたもの。

一旦帰国した後に、再度。ロンドン大学政治経済学院に留学 。 1966年8月ロンドン大学を中退、帰国。

スタンフォード大学・大学院(米国)では政治学、ロンドン大学・大学院(英国)では経営学を学んだと2001年4月の自民党総裁選挙候補者プロフィール中には記載されていたが、現在の本人オフィシャルサイトにこの期間についての一切の記載はない。

華やかな留学歴を持つが、肝腎の学位は取得できないまま帰国しており、「留学中は学業をはおろそかにしていた」と自ら語っている。

身長175cm、体重70Kg、血液型A型。名門一家に育ち、麻生財閥の元社長であるが、「首相の家庭なんて幸せなもんじゃねえ」「両親にほったらかしにされて育った」「生まれはいいが、育ちは悪い」と本人は語っている。

基礎的な漢字をたびたび読み誤り、マスコミを引き連れたパフォーマンスで本屋へ行った際に1ヶ月前に買った本と同じ本(日下公人の「日本はどれほどいい国か」)を再度買ってしまうなど、本を読んでいないと推測された。

大学進学に関しては「東大を受験したい」と父親に言ったが、父親から『官立大学はお金がない人がいくところで、お金持ちのおまえが行くのは税金がムダ。それに東大は役人になるためにいくところだ。おまえ役人になるのか?』と言われたがために、東大へ行けないこともなかったがあえて私立の学習院大学へ進学した、と自著で述べている。

仮に東大を受験しても漢字が読めないから解答できなかったのではないか。海外留学などの経験から、英語力が堪能であるため海外などでのスピーチは通訳なしで英語で行っている。

その一方で、「踏襲」を「ふしゅう」と読んだり、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだり、「詳細」を「ようさい」と読んだりと、日本語の能力に関しては疑問符がついている。

特に漫画好きであり、一部からは漫画文化のよき理解者として非常に人気が高い。自身のウェブサイトに掲載している『ビッグコミックオリジナル増刊』2003年7月2日号のインタビューによれば、自分の車内には常に最新の週刊コミック誌を置いているという。

漫画好きであることは外国の首脳にも知られており、ポーランド外相からは、現地(ポーランド語)版の『犬夜叉』を寄贈されている。

漫画しか読めないのだ。これぞ当に文部科学省が目指す小学生の時から英悟を話せた結果、祖国の文化や、歴史をまるで知らず、漢字も十分読んだり、書いたりができない「半」日本人の典型なのである。

総理大臣に就任以後も高級ホテルや高級料亭などを頻繁に行き来していることが報道されている。政治資金収支報告書によると、2006年度には資金管理団体「素淮会」から高級クラブなどに173回、合計で約3500万円を支出している。

2007年度にも「ミシュランガイド」東京版で最高の3つ星を獲得した寿司店など高級店を「会合」名目で利用している。

2004年9月に、3年10か月の国民年金保険料未払い期間があったことが判明している。民主党代表(当時)の菅直人が「未納三兄弟」と呼称したうちの1人である。

麻生太郎(あそう たろう、1940年〈昭和15年〉9月20日―)は、日本の政治家、実業家。自由民主党総裁(第23代)。内閣総理大臣(第92代)。衆議院議員(9期)。為公会(麻生派)会長。妹は寛仁親王妃信子。クリスチャン(カトリック)である。

経済企画庁長官(第53代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)(第2代)、総務大臣(第3・4・5代)、外務大臣(第137・138代)や、自由民主党政務調査会長、自由民主党幹事長を歴任。

モントリオールオリンピッククレー射撃(クレー・スキート競技)日本代表(41位)。元麻生セメント(現・株式会社麻生[2])代表取締役社長。

高祖父(牧野の父)・大久保利通
高祖父(牧野の妻の父)・三島通庸
曽祖父(麻生太郎【先代】の父)・麻生太吉
曽祖父(麻生太郎【先代】の妻の父)・加納久宜
祖父(父方)・麻生太郎【先代】
曽祖父(母方)・牧野伸顕
祖父(母方)・吉田茂
父・麻生太賀吉(初当選は父の引退から24年後)
岳父・鈴木善幸
義弟・寛仁親王(信子の夫)

2008年10月24日の閣僚資産公開で福岡県の実家や都内一等地の邸宅、軽井沢の別荘など併せて4億395万円の個人資産を所持している事が分かった。国会議員の中でも有数の「セレブ議員」と報道された。

クリスチャン(カトリック)である。靖国神社に参拝することもある(入閣している時はこれまで参拝してない)が、自身が神道ではなくクリスチャンということもあり、靖国神社の非宗教法人化を提唱している。

2008年9月25日の英有力紙フィナンシャル・タイムズでは「貴族的家柄で失言と偏愛的な青年向け漫画愛好家である麻生太郎」と表され、国外でも漫画好きの政治家と認知されている。
2009・07・06

出典:フリー百科「ウィキペディア」

2009年07月06日

◆李承晩ラインがあった



         渡部亮次郎

李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日―1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年―1960年)。われわれは「り・しょうばん」と言い習わしていた。
だから見出しは「りしょうばんライン」である。

1911年(明治44年)、寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される。

1934年(昭和9年)滞米中、オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。1941年『日本の内幕記』を著し日本の対米宣戦を予告。1945年(昭和20年)10月、アメリカより帰国。

1946年2月大韓独立促進国民会を結成、総裁に就任。

1948年(昭和23年)8月13日、アメリカの梃入れにより大韓民国成立、初代大統領に就任。以後、「反共」を掲げるも圧倒的な「独裁」を12年間貫いた。

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。

代表的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本官憲による投獄中、生爪はがしの拷問を受けたため、憎悪の念は激しかった。

李承晩ラインは、1952(昭和27)年1月18日、大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき韓国側が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものとされたがが、本当の狙いは韓国で獨島(「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説がある。

これに違反したとされる日本漁船は以後韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第1大邦丸事件など)。西日本の漁民は塗炭の苦しみを味わった。

国際法上の慣例を無視した措置として日米側は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。

私はこの頃既にNHKの政治記者であり、たまたま衆議院担当だった。問題の日韓漁業協定を含む日韓条約の国会批准にあたって日本社会党と共産党が反対した。北朝鮮びいきだったからだ。

このため、自民党は衆参両院とも本会議で強硬採決を断行した。特に衆議院本会議は1960年の安保改訂国会以来の乱闘となり、野党が議長席占拠のため駆け上がるため起きた地鳴りは44年経った今も耳に残っている。

協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱咤を受けていたほど、日本を占領したいとも発言している。

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。

のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあってしだいに改善されてきている。

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月〜1956年1月、1959年6月〜1960年4月に日本と通商断交している。

また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。

このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。

1960年、李承晩が4選を狙った大統領選挙に際して、3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、反対デモが頻発。8人死亡50人以上が怪我という馬山事件になった。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

国会は、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択した。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。

副大統領の李起鵬は4月28日に一家心中し、大統領の李承晩は1960年5月29日に夫人を引き連れ、アメリカハワイに亡命した。それから5年後の1965年7月19日、その地で90年の生涯に幕を閉じた。

因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。2009・06・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年07月05日

◆ホルモン料理は明治から



                渡部亮次郎

日本で朝鮮料理の普及は中華よりもやや遅く、李人稙が1905(明治38)年に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が間もなく朝鮮に帰国してからは消滅した。

日本併合後には日本に来る朝鮮人が増加し、1938(昭和13)年の東京市には朝鮮料理店が37軒出来ていた。そこで出されたのは戦後の焼肉を中心とするものではなく、伝統的朝鮮料理だった。

「焼肉」が「韓国料理」だと最近の韓国人は力むが、嘘だ。韓国で焼肉を食っていたのは併合時代の日本人だけで、日本人は朝鮮人に焼肉(牛肉)も砂糖は絶対食べさせなかった。このことは私が昭和48(1973)年6月、日本担当相の招きで韓国を訪問した際、同相から聞かされた。

滞在中、実はそろそろ韓国料理に飽きが来た頃を見計ったように「明日は大和焼きにしましょう」という。大和焼きなんて日本では聞いたことがなかったからいずれ日本的な料理だろうと期待した。

ところが、当日行って見ると「焼肉」ではないか。驚く私に大臣が説明したのが「日本併合当時、我々には牛肉も砂糖も食わさなかった日本人。牛肉に砂糖醤油をまぶして食べていた」という。

「だから焼肉は朝鮮料理ではなく大和焼き。恨みのこもった料理ですよ。解放(独立)直後、大韓民国の1人当りの砂糖消費量は世界一になったものです」。

確かに敗戦後、大阪の闇市で残留韓国人の始めたのが焼き肉やホルモン(放るもん)焼きだったから、焼肉は韓国料理説が定着した
感じがあるが、真相の一端は以上の通り。

さて、ホルモン料理の歴史は明治時代に遡る。

明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であった。

1906(明治39)年の「神戸新聞」には屠畜場周辺地域で、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが1皿1銭という格安で出されており、店の前を通っただけで異臭がした。だが、夕方からは千客万来であった。

やがて内臓肉は専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、決して一般的ではなかった。

1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」の店が出来、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店が出来た。

1930年代になると、一般向けにも広まった。例えば大阪難波の店「北極星」を営む北橋茂男は1936年(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、1937(昭和12)年には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。

当時を知る人によると北橋は石川県出身。その縁で大政治家永井柳太郎と親しかった。大阪に出て大衆食堂「パン屋の食堂」で当て,難波にビルを建設、永井の命名で洋食「北極星」を開店、成功を収めた。

「ホルモン」についてはまた、女性向け雑誌『料理の友』には1936(昭和11)年から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。1940(昭和15)年2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。

また、1936(昭和11)年には日本赤十字社主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている[。また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られ始め、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。
出典:『ウィキペディア』2009・07・04


2009年07月03日

◆壊された麻生人形


     渡部亮次郎

麻生首相は1日、自民党役員人事断念したので内外に「迷走」の印象を与え、低下していた求心力のさらなる低下を招いた。有体にいえば麻生総理は壊れてしまった。いや、森喜朗に壊されてしまったのである。

今後は衆院解散に踏み切る時期が焦点となる。首相は東京都議選直後を模索するが、都議選の結果に加え、内閣支持率、「麻生降ろし」の動向などのハードルが立ちはだかる。壊れた人形はもはや動けない。

<「何回も聞けば、俺がぽろっとしゃべると期待してるのかね。『靴は脱いだらそろえなさいよ』と何回も言わないと分からない子供と同じ程度に扱わないで」

首相は1日夜、記者団が「自民党役員人事は行わないのか」と質問すると、いら立ちをあらわにした。「私の口から(党人事を)やると聞いた人はいない」と繰り返した首相だが、周辺によると、実は前日の6月30日の時点で、なお党役員人事の断行にこだわっていたという。>(読売 2日)まるで子どもだね。

壊れ始めたのは日本郵政の西川善文社長続投問題に伴う鳩山邦夫・前総務相の更迭であった。本質は麻生首相に分があったのだが「運び」の拙さから鳩山が正義の英雄、首相が「ゴリ押し」の図式になって支持率が急落。

このあたりの政局運営は、実に素人っぽく、外野からでも見ていられなかった。筆者は「未熟政治家」と評した。政治の才能はDNAとして遺伝しない事を正確に実証して見せたような拙劣さだった。

岸信介の孫、安倍元首相ですら、心もとないと思ったのだろう。6月24日夜、単独で総理公邸を訪ね会談した。これを承けて麻生首相はあわせて菅義偉選挙対策副委員長らの進言を受け、党役員の刷新と閣僚補充人事で態勢立て直しを図る考えを固めた。

だが自民党内派閥領袖の反発を計算していなかったところが「未熟」である証拠。2007年の参院選惨敗を招いた安倍氏への反発や、衆院当選4回ながら首相の側近として影響力を持つ菅氏への反発も多かった。首相にとっては誤算だった。

30日夕方までに盟友の大島理森国会対策委員長が首相に電話して「静岡県知事選や都議選で一生懸命やっている時に、人事でゴタゴタするのは困ります」といさめたが、首相は党三役を交代させても理解を得られるとの考えを示したという。

<だが、安倍氏の公邸入りの様子を民放のカメラが撮影していたのは思わぬ落とし穴があった。

25日、党内はハチの巣を突いたような騒ぎになった。「安倍が内閣改造をそそのかしたに違いない!」。安倍氏が早期解散論者だと知られていたこともあり、「7月2日に電撃解散」とのうわさが駆けめぐった。

この「7・2解散説」に選挙基盤が脆弱な若手・中堅は震撼した。反麻生勢力のリーダーである中川秀直元幹事長が公然と首相退陣を説き、「総裁選前倒し」の動きが加速したのは、実は「解散阻止」が主たる目的だった。>(産経 2日)

ダメ押しに例によって森 喜朗が登場した。元気付けでは無い。「説得」とは名ばかり。これが「引導」渡しに生るとも気づかずに。
町村派の相談役に退いている事も忘れたかのように30日夜ホテル・オークラで約1時間半もの直談判。

「ここまで来て役員人事をやるべきではない。細田幹事長らはこれまで『政局より景気だ』と一生懸命やってきた。衆院選はこのメンバーで国民に訴えるべきだ」と説いた。

森に背けば党内大多数を敵に回すことになる。首相もうなずくしかなかった。森は伊吹文明・元幹事長は1日夜、都内の料理屋で新党大地の鈴木宗男代表を交えて会談し、党役員人事がなくなったことについて「無駄なエネルギーを使わないことで求心力を保った」との見方で一致した。

派閥の幹部は結束しても、そのことが自民党の総裁を壊し、内閣を死に体にしてしまった事に気付いてはいないようだ。森は政局が混乱しかかるとしゃしゃり出て「穏便」に収拾してみせるのだが、収集にはなっていない。結果、毒を盛っただけである。自民党終焉史が書かれれば森は太字で残るだろう。

<役員人事が不発に終わり、首相周辺の一人は「閣僚補充では内閣支持率が1%も上がらず、これでは選挙はできない」と、首相への不満をぶちまけた。

ただ、党役員人事の断念により、求心力の回復効果は薄まり、繰り上げになったようだ。>(読売2日)(文中敬称略)2009・07・02

2009年06月30日

◆ハインツ・キッシンガー



        渡部亮次郎

政治記者の先輩・古澤 襄(ふるさわ のぼる 元共同通信社常務理事)さんが、<キッシンジャーはかつて1971年の米中秘密会談で、周恩来に「日米安保条約は日本に核武装させない便法である」と言明した。

そのキッシンジャーは「日本は2050年までに核武装国家になる」と繰り返し警告を発している。どちらもキッシンジャー得意の外交技術とみていい>と「キッシンジャーの言葉の武器』を自らのブログで書かれたので、キッシンジャー嫌いだったわが師故園田直とともにキッシンジャーに思いが及んだ。
杜父魚ブログ http://blog.kajika.net/

外務大臣3期を通じて秘書官を私が務めた園田直(そのだ すなお)は福田赳夫内閣の官房長官当時から「キッシンジャーは反日だ」ときめつけていた。生涯を通して面談しようとはしなかった。

おそらく、官房長官当時、外務省幹部の誰かから、相当強く吹き込まれたものと思われる。キッシンジャーもまた日本への認識を改めたフシはない。

ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger,1923年5月27日―)は、アメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。

ノーベル平和賞受賞者 (1973年) 受賞理由: ベトナム戦争の和平交渉 。

1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。

父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したため一家はナチスを嫌って1938年にアメリカへ移住。第2次世界大戦中の 1943年に同国に帰化。だからアメリカで大統領は望めない。

ハインツ少年の頭には反ナチが刷り込まれており、そのナチと組んでアメリカに刃向かった日本に対して親密感を持ち得ないのは当然といわざるを得ない。

ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業後、第2次世界大戦にはアメリカ軍情報部の士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。

さらにハーバード大学で学び、教授となる。大統領リチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切る。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置と役割を果たした。

1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に2度訪問、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつける。この「神没鬼没」ぶりで世界に名を売った。

当時、日本は佐藤栄作政権下。対中関係を頭越しで遣られた政権は弱体化した。これが次の田中角栄首相をして日中国交回復の拙速をを招いた。

一方でキッシンジャーは、中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第1次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。但し日本の頭越しを遣ったはずの米中国交正常化は日本に遅れること6年だった。

日本が台湾をそれこそ弊履の如く斬って捨てたのにアメリカは工夫をこらし、台湾を捨てなかった。そのために6年も掛けたのである。

私に言わせれば「外交役者」とも言えた。世界注目の場に美女を伴って現れるなど「たいした役者ぶり」だった。ニクソンの頭越しにノーベル平和賞を受賞スルナド、ニクソンは面白くなかったに違いない。

ニクソンとは、個人的には決して親しい友人ではなかった。ニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「1度として2人きりで食事を摂ったことはなかった」と語っている。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は大きいと評価されている。

最近では、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していた。

日本ではテレビ東京の番組「日高義樹(元NHKアメリカ総局長)のワシントン・リポート 」に年1回出演し1月に放送されるのが恒例。読売新聞への寄稿は屡々。

日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。

特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である。

冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。

2008年1月の「日高義樹のワシントン・レポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の憲法改正や核武装については「日本が決めることだ」と発言している。(文中敬称略)2009・06・28

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2009年06月27日

◆カネのくすねられ方



        渡部亮次郎

総理を目指した田中角栄が身辺の女性問題を女性週刊誌に書かれたくなくて高名な政治評論家に工作費として3000万円を渡した。
それがライターに示された金額は700万円。

ライターは拒否。記事は出た。カネは1銭も田中のもとには還ってこなかった。しかし、田中は評論家に何も言わなかった。だれがどうくすねたのか。以下、大方、推理ではある。

まず評論家が2000万円をくすねた。実はカネをライターに渡す役は高名な小説家兼作詞家だった。相談づくなら半額ずつ分けるところだが、相談はしなかった。

それなら実行役の作詞家に2000万円を渡すか。渡さない。カネを預かったのはオレだものと政治評論家。自分も「彼女」がいてカネに苦労していた。だから、まず自分が2000万円をくすね、残りを作詞家に渡した。

作詞家も評論家の普段を知り尽くしている。あいつがくすねたんだろうからワシもと300万円をくすね、ライターに700万円を提示。
ライターは元々堅物だったので怒って拒否。

ところがライターの所属出版社で労働争議。ライターはデスクで使用者側。何処からとも無く噂。「デスクは田中からカネを貰ってあのネタを潰したんだ」。

あのネタの潰れたのは争議が起きたためだったが、弁明もおかしいので、デスクは気まずくなって退社。フリーのライター(早い話、無職)になった。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。この年の7月に田中は総理大臣になった。フリーの「もの書き」は苦しい。必死にテーマを探し、旅費を自腹で切り、現地取材。アパートにこもって執筆。

運がよければ雑誌に載せてもらえる。少しは名が売れてくれば注文も来るが、必ず来るとは限らない。そうやって次のような原稿を方々の雑誌に掲載して貰った。

「極限の中で、兵は天皇を想ったか」(1972年2月 潮出版社「潮」)

「週刊誌を泣かせる朝日新聞広告部」(1972年7月 噂「噂」)

「角栄、天下平定後の武将地図」(1972年8月 講談社「現代」)

「あるアイヌ青年の二十四年」(1972年11月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

「巣立ち、稼ぎ、ひとり立ち」(1973年2月 東海大学出版会「望星」)

「津軽の白鳥艦隊司令長官」(1973年3月 いんなあとりっぷ社「いんなあとりっぷ」)

このころ有名な出版社の有名総合雑誌『文藝春秋』から注文が来た。必死に取材し、書いた。

「『若き哲学徒』はなぜ救命ボートを拒んだのか」(1973年6月 文藝春秋「文藝春秋」)。

これををきっかけに「児玉隆也」は名を売り、文芸春秋の常連ライターとなった。

「チッソだけがなぜ?」(1973年10月 文藝春秋「文藝春秋」)

「学徒出陣、三十年目の群像」(1973年12月 文藝春秋「文藝春秋」)
「元祖"ふるさとと人間"宮田輝」(1974年8月 文藝春秋「文藝春秋」)

1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用された。11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究−その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」を執筆し、一躍有名となった。

このテーマこそ田中が3000万円で阻止にかかったネタだった。派閥「越山会」の金庫番たる女性は田中の愛人の一人であり、間に不義密通の娘がいることを暴露するものだった。

この記事がきっかけで「田中金脈事件が」勃発し、最終的に田中は政権を投げ出した。のちに生前の田中に直にきいたところ、「金脈なんて堪えなかったが女王は堪えた。妊娠している真紀子が『止めないと飛び降りる』と目白の2階のベランダに突っ立つんだもの』と述懐した。

児玉はこの記事で嘗ての同僚らから受けた「疑惑」を雪いだ。だが
その頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。僅か39歳だった。

児玉 隆也(こだま たかや、1937年5月7日―1975年5月22日)兵庫県芦屋市生まれ。

9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。芦屋市立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第2政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。

卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。

1972年2月に同社を退社してフリーとなる。

遺した単行本

「市のある町の旅−人情と風土にふれる朝市行脚」(1973年5月 産経新聞)
「淋しき越山会の女王 他六編」岩波現代文庫で再刊 2001年
「一銭五厘たちの横丁」 写真・桑原甲子雄 岩波現代文庫 2000年
「この三十年の日本人」 新潮文庫で再刊 1983年
「ガン病棟の九十九日」 新潮文庫で再刊 1980年 他数冊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・06・26

2009年06月26日

◆ふるさとは遠きにありて



                      渡部亮次郎

この言葉で始まる室生犀星(むろお さいせい)の詩は「・・・想うもの そして悲しくうたうもの よしやうらぶれて異土(いど=外国)の傍居(かたい=こじき)となるとても 帰るところにあるまじや」と結ばれていたと思う。今から58年前の高校のときに習った。

つまりこの詩は「ふるさとは帰るところではない」の意味なのに、今の人たちは「遠くにありて、懐かしさのあまり」呟く詩だと思っているようだ。

NHKラジオ第1放送「歌の日曜散歩」で声の綺麗な女性キャスター坪郷さんが「便り」を読み上げて、そのように伝えていた。つまり便りを寄せた聴取者が詩の解釈を間違えたまま投書したのに、坪郷さんがそのまま放送していたのである。

室生犀星は複雑な家庭に生まれた。だから早くに郷里を飛び出したが、都会も田舎者には冷たかった。だからたまにはふるさとを思い出して帰ってみた。だけど郷里は犀星を蔑み、冷遇した。

そこで「悲しく詠うだけの土地。どんなに貧乏して、外国で乞食に落ちぶれたとしても、俺は死んでもあの故郷には帰るまい」と決意したのである。

「ふるさと」を懐かしむあまり軽々しく犀星の詩などを持ち出すとこうして無慈悲な欄に取り上げられ、教養の無さを散々むしられる事になる。それとも50年後の今は高校でも犀星は教えないのかも知れないね。

高校生のころは敗戦から6年しか経っていなかった。まだすきっ腹の日々だった。娯楽といえばラジオしかなったから、やたら歌謡曲、今流にいえば演歌を聞いた。リンゴの歌。あの映画が秋田県増田町で野外撮影された、と知る人はかなりのマニアだが、あの歌の歌詞「あの娘(こ)可
愛いや・・・軽いくしゃみも飛んで出る」というサトー・ハチロウの作詞の意味が大人になるまで分からなかった。

人に他所で噂をされるとくしゃみが出る、というのは東京へ出てくるまで知らなかった。そんなことも知らずに歌っていたのだから訳がわからない。

のど自慢に出て歌ったチャペルの鐘のチャペルが何だかも知らなかった。チャペというのは秋田の田舎では猫のことなので、その何かだろうぐらいに思っていた。

小畑実が秋田県生まれというのも嘘だった。本当は朝鮮半島の人。戦後間もなくは朝鮮人が戦中の虐待の仕返しというのか、全国各地とくに東京・銀座で大暴れして評判が悪かった。それなのに囁くように歌う小畑実が朝鮮人では印象が悪くなるとだれが思ったか、下宿のオバサンの出
身地を名乗ったのが真実。これは40ぐらいの時に知った。

小畑実が「旅のお人とうらまでおくれ」と歌った。「恨まないでおくれ」なのだが知らないから、送るのはどこの「浦」までだろうか、と思っていたものだ。そういえば「唱歌」は文部省(当時)が定めて歌わせたもので、やたら文語が多かった。

「ふるさと」という歌を子供が歌うと「兎おいしい」となる。そこで文部省唱歌に反逆する詩人や作曲者たちが結託して口語で作ったのが「童謡」である。唱歌と童謡は厳然と区別して使わないと怒られる。

しかし日本語の底に流れている文化こそは漢字であるから、漢語=中国語の一種である。そこで敗戦後15年ぐらいまでは高校でも「漢文」を教えていたように思う。間違っているかもしれないが、とにかく今は教えていないようだ。

未曾有(みぞう)の地震といっても判らない人が多い。いまだかつて起こったことが無い事、未曾有の未は「まだ」と「あらず」と2回読む。曾は「かつて」=過去。麻生さんは別。

同様に未成年は従って簡単に「いまだ成年にあらず」と判るはず。そこで「みせいねん」の意味がわかっていれば「まだ未成年だ」とは使えない、未成年は成年にいまだあらず、だから「まだ」をつけることは教養が邪魔をして使えなくなるだろう。

かつてイチローが国民栄誉賞の辞退理由を「まだ未成熟ですから」といったのは彼に漢語の素養が無かった事を裏付けた。バッターに漢語は不要だけれども、あってもおかしくは無い。

先日西條八十(さいじょう やそ)という詩人の評伝を読んだ。演歌「とんこ節」「ゲイシャ・ワルツ」の作詞者であり、早稲田大学でフランス文学の教授であり、詩人ランボウの研究者としても名を極めた人である。そんな人がなぜ演歌の作詞をするのかと問われて答えた。

「関東大震災の夜、避難先の上野の山でハーモニカを吹く少年がいた。何故か人々はあの一曲に力づけられた。人を慰め、力を与える物ならば、演歌でも何でもいいじゃないか」まさにそのとおりだ。

西條の詩は文語が多用されている。それに反して最近の演歌には説明はあっても詩は無い。日本語は継承されていない。演歌の廃れる原因の一つである。(了)



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