2008年07月15日

◆飲めない水道水

    渡部亮次郎(全国版電子雑誌{頂門の一針」 主宰)


日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民
共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相につ
いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水に
は飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人
が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量
に含まれている。逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard
water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでい
るため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』
というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けるこ
とができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水
素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。
煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでい
るもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、
現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等
にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合
(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取
すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような
理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれている
ミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているもの
もいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウ
ムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちに
くい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の
保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカ
ルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結び
つくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の
洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏
れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加
熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下
させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保
は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のため
の施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定
期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海
外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸
ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。
ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気
です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を
飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下が
る。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖
分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若
い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使っ
たのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく
汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。2008・07・10

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年07月12日

◆国産泥鰌やーい

                     渡部亮次郎

島根県に伝わる「泥鰌掬い」は水田を動き回る泥鰌をザルで掬い捕る百姓の動作がとてもユーモラスな様に見えたことから生じた民俗舞踊。泥鰌がそれだけ農民に重用されていた事の裏づけでもあろう。

日本でドジョウは以前は各地の水田などから多量に生産,漁獲されたが,第2次大戦後に水銀系農薬の使用が盛んになり,そのため1957(昭和32)年から63(昭和38)年ころまで天然産のドジョウの産額が死滅に近いぐらいに著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねてドジョウの養殖が試みられた。種苗生産の一環としてカエルの脳下垂体ホルモン注射による卵の催熟法が開発されて人工採卵の技術なども進歩した。

一方,稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって,天然ドジョウの生産はやや回復した。しかし,現在では生産が消費に追いつかず,韓国から活魚で輸入している。

だが、韓国ドジョウはなぜか国産ドジョウよりも骨が硬く、市場では安く取り引きされている。だから国産泥鰌やーいなのである。しかし、ほぼ死滅したのだから最早無いもの強請(ねだ)りである。

ドジョウは日本では古くから食べられていたはずだが,室町時代になるまで文献に名を見ることができない。上流階級が食べてなかった証拠だろう。

浅井了意の《東海道名所記》を見ると,牛の皮を切って馬糞とかきまぜ,水に浸しておくとドジョウになるという俗説があったようで,こんなことから食用が卑(いや)しまれていたのかもしれない。

ところが江戸時代になると,《雍州府志》(1682)が〈甚味甘美〉,《本朝食鑑》(1697)が〈味最鮮美〉というように,大変美味なものと認められるようになっていた。

食べ方としては,《料理物語》(1643)が〈鰌 汁,すし〉と記しているように,みそ汁やなれ寿司にしていたようである。

ドジョウのなれ寿司は,狂言《末広がり》などを見ても,当時はごく一般的な食べものだったらしいが,間もなく他のなれ寿司ともども姿を消した。

現在,ドジョウ料理で最も好まれているのは「柳川なべ」で,丸のままのドジョウ汁やドジョウ鍋を嗜む人は少なくなっている。

その柳川なべは骨抜きドジョウを使うが,裂いて頭と内臓と骨を除くという調理法に気がついたのは江戸時代も後期に入ってからのことであった。

なお,江戸時代にはドジョウに強精効果があると信じられていたようで,《好色一代男》などの西鶴の作品その他にその例を見ることができる。

ドジョウは高級魚と縁の無い農民にとって動物性食品として重要なものであった。ドジョウを捕るには,夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いて捕った。

また,竹を細く割って編んだ筌(うけ)を小流にすえてとる漁法も行われた。私の兄はこの方法で捕る名人だったが私は1匹も捕れなかった。

冬は冬眠状態となって餌(えさ)をほとんど食べないのでやせており、旬(しゅん)は7月ごろとなる。今や地方より東京の下町にある「どぜう屋」の方が便利な事態になった。

また、ドジョウはスズキやヒラメなどの釣り餌(え)としても利用されていたが、最近はすぐれたルアーが出まわるようになったために餌としての利用は減ってしまった。(マイクロソフト「エンカルタ」)

ドジョウは中国、台湾、朝鮮半島にも分布する。

多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しい。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

「どぜう」の表記は、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

なお,〈柳の下にいつも鰌はおらぬ〉ということわざは,偶然得た幸運を再び同じ方法で得ることができるとは限らないという意味だが,ドジョウの生息する場所が川柳の育っている湿田地域に多かったことから出たものであろう。(平凡社「世界大百科事典」)
 2008・07・07





2008年07月11日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

          渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正でもない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みんなして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃からは女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょう)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生して大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止めたものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測していたが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられている。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもちなど稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しかしせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコクビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス 2008・07・07




2008年07月10日

◆「鮮人に砂糖食わすな」

渡部亮次郎

小便が甘くなる糖尿病だが、砂糖を食いすぎたからなる病気ではない。口から入れた栄養素を血肉に変化させるためのホルモン「インスリン」が膵臓の「ランゲルハンス島」から十分に出なくなる病気である。

インスリンに見向きされなかった栄養(ブドウ糖)が小便に混じって廃棄されるから糖尿病と名づけられた。

往々にして糖尿病は甘い物の摂り過ぎと誤解している人がいる。だがそのために糖尿病になる人は稀だ。私は少年の頃、砂糖を食べすぎたら脚気になった。ビタミンB1欠乏症である。日露戦争当時何万の将兵がこれで死んだ。

つまり砂糖や糖分を消化するにはビタミンB1が不可欠。砂糖を食ってビタミンB1を補充しないと脚気になる理屈である。脚気は昔の病気だろ、この世から消えたと思っている向きに警告。清涼飲料水は砂糖過剰。それで最近、脚気になっている人(若者)が多いそうです。

先にどこかに書いたが、併合時代、統治する日本人は朝鮮人に砂糖を全く与えなかった。高価だったからである。砂糖醤油にまぶした牛肉(やまと焼き)をどれほど食べたかったことか。1973年に訪韓した際、朴正権の閣僚が述懐していた。

だから1945年8月15日、日本から解放されるや、韓国の国民1人当りの砂糖消費量は一時的に世界一になったそうだ。「焼肉」は日本人が韓国で始めたものなのだ。

ところで砂糖 さとう Sugarは蔗糖を主成分とする代表的な甘味料。原料は蔗糖を含む植物で、砂糖黍(さとうきび)からは甘蔗糖、テンサイ(砂糖大根)からは甜菜(てんさい)糖またはビート糖が造られる。

また、砂糖楓サトウカエデ(楓)からはカエデ糖(メープルシロップ)、サトウヤシ(椰子)からはヤシ糖、サトウモロコシからはソルガムシュガー(バイオマス)がつくられている。

紀元前327年アレクサンドロス大王の西インド遠征の折、すでにインドではサトウキビの茎から蜜を造っていた。サトウキビは、原産地と考えられるニューギニアから7世紀ごろ地中海東部に伝わったが、砂糖は薬として扱われ珍重されていた。

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2008年07月09日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎 (全国版電子雑誌「頂門の一針・主宰」)

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河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、
広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らだ「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、
NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野一郎河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日は、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05

2008年07月08日

◆作文に不可欠なリズム

 渡部亮次郎   (全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

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私が記者生活を本格的に始めたのは秋田県大館市での通信員生活、1958年の春だった。放送の文章は誰にも教わらなかった。地方ではラジオだけのNHkだった。

毎日4時に起き、近くの大館警察署を訪れる。火事と交通事故の報告書を見せてもらって、大きいニュースは秋田放送局経由で仙台中央放送局に送ってもらった。

NHK広しといえども朝4時から起きている地方記者は居ない。私だけだ。だから私の原稿は次第に全国に有名になった。なぜなら宿直の「デスク」は、早朝、「昨日」のニュースにうんざりしている。

早朝に入ってくる「今日の」ニュースに飢えているから優先的に扱われる。

次第に「大館のワタナベ」が有名になり、翌年の記者採用試験に合格した。その更に5年後、政治部記者に発令された。そこでは誰もが毛嫌いした実力者河野一郎さんに気にいられて毎日曜日、競馬に連れて行かれた。

そんなわけで私の文章は行儀ばかりいいNHK的では無い。はじめから売れるか売れないか、売れない文章は書かない、という文章になってしまった。今から35年ぐらい前は1字10円で雑誌に売れたし、最近は25円だった。

私の文章には一つとして無いものがある。それは「そして」だ。そして程、邪魔になるものは無い。私の文章にはリズムがある。聞いている人にわかりやすいよう、書きながら心の中で歌っているからだ。

リズムの無い文章は読んでいて疲れる。読者を疲れさせる文章を悪文という。

いかに論理が通っていても、リズムが無くて、素直に読み進めない文章は悪文だ。悪文は書いていないのと同様だ。注釈の多い文章,言い訳の目立つ文章は悪文の最たるものだ。

正しいことを主張していながら、反駁を予期して注釈、言い訳の多い文章を見ると吐き気がする。反駁など、この世に生きている限り茶飯事である。恐るに足るものではない。

「そして」を多用するのは切るべきでないところで文章を切るからである。歌っていないから、息を吸うべきところで吐き、吐くべきところで吸うから、どうしても、「そして」でつながざるを得ない事になる。

読む方もリズムが乱されるから、息が苦しくなってしまって読むのを止めてしまう。新聞や雑誌と違って、目ではなく耳で聞く文章を書き続けているうちにできた習慣である。

「そして」は使わないが「かくて」とか「然(しか)るに」とか文語文の用語が時々使われる。自然に出てくる。高校で唯一満点が漢文だったからだろう。

欠点は論理的でないこと。或いは箇条書きをしないことだ。NHK政治部の先輩に上級国家公務員試験(当時)を2番で通りながら敢て入社してきた秀才がいた。厚生省(当時)を担当していた。

健康保険の改正法案の説明原稿。あるデスクがこぼしていた。彼の原稿はレンガ積みみたいになっているから、長くても削れない。削ると全体が崩れてしまって収拾がつかなくなる。

しかし、そういう文章を耳だけで聞かせる文章としては悪文というべきだろう。デスクは納得させられるが聞いている人たちに理解できるわけが無い。

高級官僚のポストを敢て棄ててきた彼だったが、労組にクビを突っ込んで、いわゆる出世はせずに終わった。

メルマガの文章はエッセイだから起承転結も論理性も統一されている必要は無い。読者に訴えて一定の結論を得ようというものではないはずだからだ。

いくら書いても文章が上手くならないと嘆く人が居るが、そんな事は絶対にない。書けば書くほど進歩している。自分で気がつかないだけだ。進歩している。

だから書け、書け。2008・06・29


2008年07月07日

◆人間の皮を被った猿

                     渡部亮次郎

<「食べる」ということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は「秘め事」であるべきものだ。>と親しい評論家の加瀬英明さんが指摘している(「頂門の一針」1238号 2008・7・5)

だから加瀬さんは日本のテレビでの料理番組の多さこそは異常だと指摘し、嘆いている。

<チャンネルを回すと、何が美味しいかという食べ物番組を、朝から晩まで流している。これほどテレビで食べ物番組が多い国は、世界に他にない。

タレントとか、セレブといわれる人たちは、何十万人という人々の前で食べることが、恥しくないのか。

経営者の中にも、どの店の何が旨いとか、おいしいとか、好んで話題にする者が少なくないのに辟易させられる。

食べるということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は秘め事であるべきものだ。だから、よほど親しい相手でなければ、話すべきことではない。

男であれば、何が美味しいとか、不味いとか、口にしてはなるまい。

食べることに執着することは、精神病理学ではオーラル・フィクゼーション(口腔執着)といって、幼児がオシャブリを啣(くわ)えて離さないような、幼児的なことである。どうも社会が幼児化しているようで、日本の前途が暗い。>

恥をいえば私は1978年1月、モスクワの日本大使館で開かれた日本外務大臣(園田直)の「すき焼午餐会」でグロムイコ外相が左ぎっちょで箸を使い、すき焼を食べたので珍しい光景だと思わずシャッターを切った。後で大臣から猛烈に怒られた。

「口を開けてものを喰う事はセックスと同じ行為なんだよ、知らんのか。口を開いて食事を共にする事は、恥を共にすることだから親しくなる契機(きっかけ)になるんだよ」。

国を代表する者同士が国の予算で高価な料理や高級ワインを飲むのは、従って外交交渉の一環であるわけだ。個人的には親しくなり国家的には国の名誉をかけて失礼の無いレベルの酒肴を出すというわけだ。

日本に国家の賓客が到着すると、国を代表して天皇、皇后両陛下が歓迎式を催され、帰国時は見送りをされる。その間、晩餐会か午餐会が催されるのが仕来りだが、これを中継するテレビが放送できるのは主客のご挨拶に続く乾杯まで。食事場面はご法度である。

したがって両陛下が食事のためにお口を開けたところは一般には公開されたことは無い。これからも無い。食事は生理活動。本来「秘事」という原則が厳しく守られているからである。

この事は下賎階級でも敗戦までは守られていた。歩きながら食べ物を口にする事は恥かしい事と、農家の母親から口を酸っぱくして教え込まれたものだ。

それを破り且つ「良い事」のように振舞って見せたのがアメリカを中心とする占領軍である。大して教養の無いアメリカの田舎の兵隊が人前でガムを噛んだりハンバーガーを歩きながら口に押し込んで見せたから堪らない。日本の馬鹿がそれを真似して粋がって見せた。

汚い兵隊たちを歌手の岡晴夫が「粋なジャンバーのアメリカ兵」と歌った。深刻な敗戦から早く逃げようとすべてをすり替え、アメリカ的な軽薄を受け入れる事が平和に繋がることと誤解してしまった。

今では若い女性も歩きながらパンやおにぎりを食べる。あまつさえ、電車の中で化粧をする事さえ恥かしげも無い。字のとおり化粧とは化けて装うための、いわば「手品」なのだからネタを知られてしまった下手な手品師と同じ。

こういう人種を東京ではでは「おしゃれ しゃれても 惚れ手がないよ」と貶したものだが、もう駄目だ。貶せる「大人」が存在しなくなったもの。いてもこちらが恥かしくなって目を逸らすだけ。

もともと「進駐軍」に化けた占領軍は憲法を始めとする日本の政治体制を徹底的に破壊すると共に世界に冠たる文化社会を腐敗させ2度とアメリカに立ち向かえない無力国家にすることを占領政策の眼目としていた。それが60年余で完成した。

狙いを知らずに占領政策を無批判に受け入れて真っ先に日本人で無くなったのが、労働組合を結成して「聖職」から「労働者」に転落して恥じない日教組である。

その日教組の「製品」が歩きながら物を食ったり電車の中で化粧を公開して恥じない「猿」なのである。いまに車内で性交を公開するのも出てくるだろう。人間の皮を被った猿だから。2008・7・4

2008年07月06日

◆日本人にとっての砂糖

渡部亮次郎 (全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

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日本に初めて砂糖が伝えられたのは,754年(天平勝宝6)に来朝した鑑真(がんじん)によってであるとされることが多い。それは鑑真の第1次渡航のさいの積荷の中に〈石蜜〉〈蔗糖〉の名が見えるためで,この石蜜を氷砂糖とする説も多い。


鎌倉時代に発した狂言《附子(ぶす)》で毒物と称して主人が壺に秘蔵していた〈黒うどんみりとして,うまさうなもの〉を砂糖だと知って,太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう滑稽さには,当時の日本人と砂糖との関係が見事に描き出されている。

近世初期の日本の砂糖は,中国・オランダ船が舶載するいわゆる唐砂糖だけで,幕府は初め350万斤(きん)に制限していたが,1715年(正徳5)には430万斤に改定された。

国産糖の初めは琉球(沖縄)で,1623年儀間真常(ぎましんじよう)が家人を福建(中国)に遣わして伝習させたのに始まるというが,事実は1392年福建からいわゆる36姓の唐人が帰化したときにもたらしたものらしい。

日本の製糖業は,国内の原料作物から砂糖を作る砂糖製造業と,外国から粗糖を輸入してそれを精製する砂糖精製業に分けられる。

現在では北海道でテンサイ(砂糖大根)が,沖縄,鹿児島でサトウキビが作られている。国産糖の生産量は73万t(1981砂糖年度,1981年10月〜82年9月)で総需要量269万tの27・1%を占めている。

砂糖自給率は1975砂糖年度の15・6%から大幅に上昇している。これには,テンサイが北海道の,サトウキビがとくに沖縄の農業の基幹作物であるため,政府がこれらの生産を振興していることがある。

国産糖保護のため,輸入される粗糖には高い関税や調整金が課されている。

国民1人当りの砂糖消費量は,1981砂糖年度で約23kgで,1970年代後半から減少ないし横ばい状態となっている。これには消費者の砂糖離れと競合商品の異性化糖の急増がその背景にある。

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2008年07月04日

◆悲喜交々各位殿

渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針・主宰」)

「頂門の一針」のホームページには下記から手続きしてください。(無料)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm


昭和35(1960)年前後にNHK仙台で記者生活を送った仲間が2006年11月14日夕、九段会館の地下レストランに集まり、懐旧談義に時を忘れた。

中華7品にアルコール呑み放題。会費5000円を集めたが、終わってから500円のお釣を返却。珍しいことだ、お前、永久幹事だと大笑いした。

丁度南米のチリ沖で起きた津波が三陸海岸を襲って死者119人を出した「チリ地震津波」の取材の思い出で話は始まったが、あの時、名文を評価された先輩が「俺は著名な国文学者から直接、電話を貰って用語の誤りを指摘されたことがある」と敢えて恥を披露した。

それは大学入試の合否発表のニュース。合格を小躍りして喜ぶ顔、がっかりする顔、悲喜交々(ひきこもごも)でした、と放送したところ、直後に電話がかかって来たのだと言う。

「悲喜交々とは、一人の顔に喜びと悲しみが交互に表れることであって、あのような場面に使う言葉ではありません」と教え、窘められたというのである。

岩波の四字熟語辞典でも「悲しみと喜びが入混じること」とあり「悲喜交交至る」の略。交々は、入混じり、あるいは代る代る訪れる意とある。名文家にも間違って覚えた若輩時代があったのだ。名文家はスペイン語の名手でもあって南米特派員を経て外信部長になった。

NHKには今はどうか知らないが昔は研修所があって、何年かごと、1週間ぐらい泊まりこみで、文章の錆を落とされた。いい大人に言葉を教える事は世間では憚られるだろう、とそっと教えてくれるのである。

各位のあとに様や殿を付けてはいけない。各位というのは、皆様がた、皆様と言う意味で既に様が含まれているのだ、と。皮切りとは包茎と関係があるから使ってはいけない。本腰を入れるもいけない。性行為と関係があるからだ、といった具合。しかし、各位様殿は至る所で見る。

しかし、最近は新聞が自由に使っている。まだ未熟も出てくる。未熟とは未(いまだ)熟さずの意味だから「まだ」は不要。これらは高校で漢文を不履修する時代だからだろう。

漢字そのものを漢の国(中国)に拠っているのに漢文を履修しないとあっては漢字の使用方法を習わないに等しいから、こういうことが起きる。そのうちに馬から落馬なども読まされるかも知れない、ちょと覚悟が要る。

偉い政治家でも、若い頃に間違って覚えた言葉は世間が直してくれないから、陰で笑われることになる。

芝居や映画の立ち回りを殺陣(たて)というが「さつじん」と読んだり、旗幟鮮明(きしせんめい)を「きしょくせんめい」と読む。偉い人だから聴いている人はまさか注意も出来ず、心の中で馬鹿にしている。

この人は憎悪(ぞうお)を「ぞうあ」と国連で演説した。幸い通訳は予め演説原文を持っていたからhatredと訳したから、本人は笑われずに済んだ。消え入りたい思いをしたのは日本語原文を草した私であった。2006.11.15



2008年07月03日

◆濁酒作りの名人

渡部亮次郎

濁酒(だくしゅ=ドブロク)作りの名人とはわが母だった。先年98歳で夕食が美味しかったと言った直後に死んだ。元気で長生きぽっくりでGNP。大方の理想とする死に方である。

勿論、個人でアルコールを製造する事は日本の場合、法律で禁じられており、母も1度は摘発されて罰金刑に処せられた。しかし舅たる我が祖父、日露戦争の喇叭手は嫁の作った濁酒以外の酒は呑まないのだから仕方ない。

酒を仕込むためには麹が要る.その種麹を買いに行かされるのが次男たる私の役目。対米戦争中から町内の麹屋に通った。つまり小学生時代から脱法行為に加担していたのである。大袈裟?

麹(こうじ)とは、米、麦、大豆などの穀物や精白するときに出来た糠などに、コウジ菌などの食品発酵に有効なカビを中心にした微生物を繁殖させたもの。

日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造するときに用いる。ヒマラヤ地域と東南アジアを含めた東アジア圏特有の発酵技術である。

麹の作り方。別途培養した麹菌胞子である種麹を、蒸した原料に散布して製造する方法と、以前に製造した麹の中から良質なものを保存しておき、新たに麹を製造する際に蒸米に加えて用いる方法がある。後者の方法を共麹(友麹とも)と呼ぶ。

現在の日本では、もっぱら前者の方法が採用されており、麹を製造する際には種麹を専門に製造する業者が供給する種麹を利用する場合が多い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

母は変わった人だった。偏食を絶対、とがめなかった。また、好きな物は子供でも食べて良かった。濁酒も。「体が呼んでいるんだから」が理由だった。当然、私は小学生ながら酒の味を覚えた。

4つ年上の兄は当然、弟より悪で、爺さんが清酒を飲んでいる時代、酒屋に買いに行かされると、帰る途中、2口、3口呑んでしまい、井戸水を足して帰った。祖父は日本酒がこの頃、水臭くなった、戦争の所為だな、と嘆いたそうだ。

お袋の手順を見ているからある日、兄と一緒に隠れて濁酒製造に挑戦した。毎日、発酵具合を見るべく味見をするのだが、発酵が進まず、甘酒のまま呑みおえてしまった。

母のは3日ぐらいで完成する。少し甘味が残り、アルコール分は十分。何度作っても味は一定していたから名人である。祖父は夕方を待ちきれず、それを瓶から土鍋に汲みだし、囲炉裏で暖めて茶碗で飲むのである。

なるほど濁酒は清酒のようなツンとした刺激臭がなく、なんとなく牛乳のように飲める。祖父としてはそれがたまらなく美味しかったのだろうと思う。母は祖父が80歳で死ぬまで濁酒を造り続けた。

当時、農村では税務署といえば密造酒の摘発隊のこと。後年、秘書官としてつかえた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは、特攻隊生き残りで地元の町長を務めていたころ、摘発隊たる税務署員ちに消防ポンプで水をかけて撃退していた。「日の丸共産党を名乗っていたな」と回想していた。

わが祖父は私が大学2年の夏、脳溢血で倒れた。大きな鼾をかいて意識不明。7日目の朝、母が吸いさしに清酒を入れて口にさしたらとくとくと呑んでその直後に息絶えた。

若い頃からの祖父の酔態の醜さを見聞していたから、その息子たる父は酒は呑めたが呑まなかった。祖父が清酒を呑んで逝った吸いさしで砂糖水を飲んで死んだ。80歳。呑んでも80、呑まなくても80。

最早、私と濁酒の縁は薄くなった。僅かに月に1回、錦糸町で懇談する会でNHK時代からの友人大谷英彦氏が朝鮮半島の酒マッコリを呑むのを横目でみているだけである。  2008・06・30

2008年07月01日

◆東京地検特別捜査部

                      渡部亮次郎

若い頃、記者(NHK)を20年ばかりやったが、警察や検察を担当した事は全く無い。大学も法学部とはいえ政治学科だったから刑法や刑事訴訟法は読んだ事も無い。

政治記者だったが、担当する政治家が逮捕されたり起訴されることも無かったから、こういう片輪な人間が出来上がってしまった。

ところが今年(2008年)は以前、17年間も理事長を務めた社団法人の日米文化振興会が最近社団法人日米平和・文化交流協会に名称変更され、専務理事の秋山直紀氏が防衛不祥事の関係者に浮上しているというので、なぜか私がマスコミに追い回された。

秋山氏の素性を知っている人が私しか居ないのでというのが理由だったようだが、私も実はあまり素性を知らないし、事件の背景にいたってはまるで知らない。

そこで秋山氏を一時は捜査対象にしたらしい東京地方検察庁特別捜査部(とくべつそうさぶ)とは、如何なる存在かを改めて勉強した。

ここは日本の検察庁の一部門であって、特別捜査部(通称特捜部)は東京・大阪・名古屋の各地方検察庁に設置されている。

独自の捜査権限を有している検察庁の中でも、大規模事件など、集中的に捜査を行う必要がある案件に取り組む機関として存在している。検事(副検事)のほかに検察事務官により構成されている。

検事や検察事務官は東大ばかりではなく、中央、明治といった私立大学出身者もかなり目立つ。特に検事は司法試験さえ通っていればいいからだ。

戦後、東京・大阪の2特捜部態勢が続いていたが、1996年に名古屋地方検
察庁にも特捜部が置かれ全国で3特捜部の態勢となっている。

政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に調査する。なお、3地検以外の地方検察庁にもこれに準じた部署として特別刑事部が置かれている。

1947年(昭和22年):東京地検で特捜部の前身「隠匿退蔵物資事件捜査部」、通称「隠退蔵事件捜査部」が発足。
1957年(昭和32年):大阪地検特捜部が発足。
1996年(平成 8年):名古屋地検特捜部が発足。

東京地方検察庁特別捜査部
通称「東京地検特捜部」は現在総勢 検事38名、副検事3名、検察事務官
84名

特別捜査部長(部長:検察官)
特捜事務課(課長:検察事務官)
特捜資料課(課長:検察事務官)
特殊直告第一・二班(責任者は検察官たる班担当副部長)
財政経済班(責任者は検察官たる班担当副部長)

汚職#主な汚職事件のうち、1947年(隠退蔵事件捜査部発足)以降のものを
掲載。

歴代特捜部長

代 氏名 在任期間 主な手掛けた事件 出身校 後職 隠退蔵事件捜査部長

1 田中萬一 1947年11月 - 1948年1月(心得、兼任渉外部長) 中央大学 最高検刑事部長
2 山内繁雄 1948年1月 - 1948年7月 昭和電工事件 最高検検事

特別捜査部長

1 福島幸雄 1949年5月 - 1950年1月 炭鉱国管疑獄

3 山本清二郎 1953年11月 - 1955年10月 造船疑獄及び造船疑獄指揮権発動、保全経済会事件、陸運汚職事件 中央大学 次長検事、大阪高検検事長

4 天野武一 1955年10月 - 1958年12月 売春汚職事件 東京帝国大学 大阪
高検検事長、最高裁判事

6 河井信太郎 1961年7月 - 1965年9月 武州鉄道汚職事件、吹原・森脇事
件 中央大学 大阪高検検事長 。政治記者かけだしのころ、よく耳にした名前。

7 大江兵馬 1965年10月 - 1967年4月 田中彰治事件、共和精糖事件 京都帝国大学 札幌地検検事正

8 木村喬行 1967年4月 - 1970年3月 日通事件 東京帝国大学 仙台高検検事長

11 大堀誠一 1972年6月 - 1975年1月 協同飼料株価不正操作事件、石油ヤミカルテル事件 東北帝国大学工学部 東京高検検事長

12 川島興 1975年1月 - 1978年3月 ロッキード事件 中央大学 大阪高検検事長

13 吉永祐介 1978年4月 - 1980年6月 ダグラスグラマン事件、KDD事件 岡山大学 検事総長

14 岡村泰孝 1980年6月 - 1981年11月 誠備グループ脱税事件 京都大学 法務事務次官、検事総長

15 藤永幸治 1981年12月 - 1983年1月 三越事件 京都大学 東京高検検事長

16 河上和雄 1983年1月 - 1984年11月 新潟鉄工所ソフトウェア等横領事
件、新薬産業スパイ事件 東京大学 最高検公判部長 。テレビによく出演。

17 山口悠介 1984年11月 - 1987年1月 リッカー事件、撚糸工連事件、平
和相銀不正融資事件、日本共産党幹部宅電話盗聴事件 東京大学 札幌高検検事長

19 松田昇 1987年8月 - 1989年9月 明電工脱税事件、リクルート事件 中
央大学 最高検刑事部長、預金保険機構理事長

20 石川達紘 1989年9月14日 - 1991年1月 国際航業事件、稲村利幸脱税事件 中央大学 名古屋高検検事長

21 五十嵐紀男 1991年1月 - 1993年7月 共和汚職事件、東京佐川急便事件・金丸信巨額脱税事件・ゼネコン汚職事件 北海道大学 横浜地検検事正

22 宗像紀夫 1993年7月 - 1995年7月 ゼネコン汚職事件中村喜四郎元建
設相逮捕、東京協和・安全信用二信組事件 中央大学 名古屋高検検事長

23 上田広一 1995年7月 - 1996年12月 泉井石油商脱税・関空汚職事件 明治大学 次長検事、東京高検検事長

24 熊崎勝彦 1996年12月 - 1998年6月 野村證券・第一勧銀総会屋利益供与事件、防衛庁調達実施本部背任事件 明治大学 最高検公安部長

31 大鶴基成 2005年4月 - 2007年1月 ライブドア事件 東京大学 函館地検検事正

32 八木宏幸 2007年1月―緑資源機構官製談合事件、商社及び防衛関連企業からの収賄容疑による守屋武昌元防衛次官逮捕 中央大学 。

大阪地方検察庁特別捜査部
通称、「大阪地検特捜部」。1957年4月創設。
総勢54名:部長、副部長以下検事13名。副検事3名。事務官38名。

主な事件

大阪タクシー汚職事件 関谷勝利衆院議員逮捕 (1967年4月)
阪大ワープロ汚職事件(1984年7月)
砂利石材船汚職事件(1988年1月)

イトマン事件(1991年7月)
牛肉偽装事件(2004年4月)
和歌山県知事談合・収賄容疑(2006年11月)
枚方市第二清掃工場建設工事(仮称) 官製談合 (2007年5月)

特別捜査部は汚職を取り締まるために時の政権の意向に左右されやすい
と言われている。また、有罪にするために強引な捜査手法が目立つとの
批判もある。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2008年06月29日

◆インスリン注射不要の夢

渡部亮次郎

2年前の2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。
iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がっている。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、3年ぐらいで、人工細胞ができるかもしれないと言う。
激しい競争があるからだ

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった
「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28


2008年06月27日

◆ベトナム役人の収賄


渡部亮次郎

東京地検特捜部は東京の大手建設コンサルタント「PCI」が政府開発援助(ODA)事業受注のためベトナム政府当局者に数千万円の贈賄をしていた疑いがあるとして、ベトナムの司法当局に捜査協力を要請した模様だ(産経新聞 6月26日付)。

記事に依ればPCIはこのカネを捻出するため関係する香港法人に約1億8600万円を隠したり、内閣府に水増し請求をしたりしたとして26日までに首脳陣が起訴された。

特捜部はベトナムのODA事業受注をめぐる不正競争防止法違反での立件も視野に,捜査を継続させると見られるそうだ。

関係者によると、PCIは平成15年ごろ、同社の現地社員がベトナム政府当局者にドル建てで数千万円の賄賂を提供した疑いがあるという。

産経新聞記者の観測では、特捜部は今後、ベトナム政府当局者本人への事情聴取などの捜査協力も要請すると見られ、不透明な贈賄資金の流れの解明を進めるそうだ。

そんなに簡単に行くとは思えない。日本企業がベトナムのODA事業受注に絡んで政府の担当者に賄賂を渡すという話はかなり前から「常識」といわれていた。年度予算に計上してある、とも。

だから業界では、PCIだけが特捜の「いじめ」に遭っているのには何かしら政治的な意図が隠されているのじゃないかとの観測が走っているらしいが、検事はそんな常識を知らないから珍しがって興奮しているだけではないのか。

ベトナムはドイモイの国。経済だけは改革開放という中国と似たところがある。役人の贈賄も中国に似て「構造的」になっているのでは無いか。

<ドイモイ(ベトナム語で「刷新」の意)は、1986年のベトナム共産党・第6回大会で提起されたスローガンであり、主に経済(価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上)、社会思想面で新方向への転換を目指すものである。

市場メカニズムや対外開放政策が導入され、経済面では大きな成果をあげてきた。

ただ、共産党一党支配体制は堅持されている。 切り離せないのは、「社会主義指向型発展」の理念である。

ドイモイの思想分野の一部で、民富や強国・民主・文明社会を掲げて発展するという理念。これは中国が目指す「2050年、文明社会主義国」の系譜を辿っているという見解もある。

どちらにしても、社会主義国の官から民へ経済思考がシフトしている>。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

政府(共産党)が体制を堅持しようとすれば経済を規制して権威を示す必要に迫られる。だが、経済は生産性や利益を目指せば限りなく発展を目指し、規制を跳ね除けようとする。

そこで貧しい役人たちは賄賂と引き換えならばと規制緩和や受注の優先を匂わせる。これで成立するのが、中国とベトナムでの「構造的汚職」なのである。

汚職が構造的である以上、彼らにとって賄賂はもはや不可欠のものである。したがって東京地検の捜査協力要請に応じていたのでは大げさにいえばドイモイが潰れる。産経の見通しは楽観的すぎる。
2008・06・26