2007年01月14日

◆故郷風味の継承者

                   渡部亮次郎

幼い頃の故郷の味がどんどん無くなって行く。秋田弁がテレビの普及でなくなっていっているように秋田で無ければ食べられなかった鉈漬(なたづけ)も砂糖漬けのようになってしまった。

TVの悪口をついでに言えば、TVの普及が真正「秋田音頭」をこの世から追放してしまった。時折、TVに登場する秋田音頭は替え歌に過ぎない。放送コードとやらが性を大らかに歌った真正秋田音頭を追放したのだ。いまや歌える人は殆ど居なくなった。

秋田といえば昔は美人の国。「山本富士子が田植えをしている」のが角館(かくのだて)だ」といわれて、なんだか照れくさくなったが、少子高齢化の先頭を走る秋田県には希望というものが感じられない。

固有の文化に気付かず、先祖から伝えられたものを守ろうとしない。そんなこととはつゆ知らず、秋田空港で鰰鮓(はたはたすし)を買って食べたところで仰天した。ほんのりとした飯鮓の甘味でなく、砂糖そのものの味になっているのである。

続きを読む≫≫

2007年01月11日

◆出てきた三島対談録


                 渡部亮次郎

資料を整理していたら昔、珍しいことをしていたことを今更ながら発見した。園田直元外務大臣(故人)が自民党国対委員長当時、文豪三島由紀夫さん(故人)と対談していた。三島さんが自決する年の正月のことだった。

記事は園田さんの後援会の機関紙『インテルサット』(月刊)の昭和45(1970)年2月15日号に見開き2ページで載っている。これを企画したのはNHK政治記者当時の私。社会部の先輩記者伊達宗克(だてむねかつ)さんを通じて三島さんに依頼した。

伊達さんは既に三島さんとは面識はあったが、仲介してくれた新潮社出版部長の新田敞(にったひろし)さんの面子を考え、新田さんに改めて依頼した。

三島さんからは早速快諾を戴いたが、急に衆議院解散・総選挙となったため、園田氏が「文豪を選挙に利用したようなことになるから悪いが、延期してくれナベしゃん」となり、実現したのは昭和45年の正月明け早々。赤坂の料亭「岡田」の一室。岡田も今はない。

大東亜戦争で例の特攻隊生き残りの園田さんと、楯の会を結成し盛んに天皇を中心とする文化防衛論を展開している三島さんを会わせたらどんな話になるだろうかとの興味から発したことだったが、狙いは当ったのだった。

続きを読む≫≫

2007年01月09日

◆書かないということ

                          渡部亮次郎

私が原稿を書くのは自身のメイルマガジン『頂門の一針』といくつかの月刊誌だけである。だから別に苦痛を感じることはないが、ネタが無くなったらどうしようと考えることはある。

ネタが無くなったら書くのを止めればいいだけの話、悩むことは無い。しかし幸いにもネタの涸れたことは1度も無い。涸れたかなと思えるときでも、何かが浮かんでくる。

しかし、先輩の一人が「筆が荒れるよ」と忠告してくれた。既に荒れているからだろう。そこで2007年に入ると同時にメルマガの配信を隔日にして見た。納得。

なるほど、せかされているわけじゃないから、物事をじっくり考える余裕が出てくる。ならば「荒れ」が治るまでメルマガの配信は不定期にしよう、気の向いたときに出すようにしよう、と考えている。

続きを読む≫≫

2007年01月07日

◆楽聖ベートーヴェン

                   渡部亮次郎

日本で一番好まれているクラシック音楽の作曲家は誰か。モーツアルト
かと思ったらベートーヴェンだそうだ。西ドイツ時代の首都ボンにある
彼の生家を訪ねたことがあるが、折悪しく休館日だった。

2006年の歳末近く、NHKの大先輩が87歳で逝去された。東大を出て徴兵さ
れ、敗戦時には南方でアメリカ軍の捕虜となった。復員後NHKに事務員と
して入り、間もなく記者第1期生としてニュースの自主取材を開始した。

定年後、夫人に先立たれ、再婚。北軽井沢に隠棲するように暮されてい
たが一昨年、脳梗塞を発症。リハビリの途中、昨年(2006年)再発、とう
とう11月に新宿の病院で逝去となった。

亡くなる1か月ぐらい前、自宅に電話を戴いた。昭和33〜34年ごろ、NHK
仙台放送局報道課長当時の部下が懐かしがって集まる会に、今年も来れ
ないという電話だったようだが、残念ながら口の縺れは聞き取れなかっ
た。

東京・杉並区で営まれた葬儀は無宗教。沢山の花に飾られた祭壇にカラー
の遺影が置かれた以外、何もなし。30分ぐらい故人の好きだったベートー
ヴェンの曲で故人をしのんでください、とのことだったが、私にははじ
めての曲で、曲名の説明まではなかった。

私は老人になるまでベートーヴェンは聴かなかったが、昔の青年たちは
競って聴いたものらしい。右の大先輩は1分間78回転のSP(無ステレオ)で、
せわしなく交換しながらベートーヴェンを聴いたことだろう。

続きを読む≫≫

2007年01月06日

◆秋田名物の恐怖

                        渡部亮次郎

『秋田名物 八森鰰 男鹿(おが)で男鹿ぶりこ 能代春慶 檜山納豆
 大館曲(まげ)わっぱ』というのが「秋田音頭」の出だしである。

その秋田名物に恐怖とは穏やかではないが、他郷の人にも美味と賞賛さ
れる名物「鰰鮓(はたはたずし)」に昔は「ボツリヌス菌食中毒」事件が
つき物だった時代があった。

昭和30(1955)年代 にまだあった。5月に田植えをしていた一団が野良で
昼食を済ませた夜、それぞれの家で倒れ、目を剥きながら戸板で次々に
担がれて行くが、病院までの途中で悶絶。確実に死んだ。

前の年の師走に捕れた秋田名物の鰰を飯鮓にして保存。約半年後の田植
えの時のご馳走に駆けつけた近所の老若男女に昼食に副えてふるまった
わけだが、飯鮓は目に見えないボツリヌス菌で全面的に汚染されていた
のだ。

続きを読む≫≫

2007年01月04日

◆カネを喰うのは有権者


渡部亮次郎

<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告を
していた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。

国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨
額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは
当然だ。

安倍政権にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであ
り、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。
>産経新聞{主張}(2006/12/28 05:10)

産経の主張は最後に

<安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案
をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体
質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。>

と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

続きを読む≫≫

2007年01月02日

◆痛くない注射の出現



        渡部亮次郎

日本で記録上初の糖尿病患者は藤原道長とされている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

<藤原道長(ふじわらの みちなが、康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代の貴族、廷臣。

道長の邸宅で開かれた宴会の席上、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだということでも有名だ(『小右記』、原文漢文)。

晩年は壮大な法成寺を建立してそこに居住していたが、多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。

病名ははっきりとは分かっていないが、記録から癌又は糖尿病ではないかといわれている。また一説にはハンセン病であったという説もある。>

この点について日本の糖尿病学界では記録上、日本における患者第1号が道長だとしている。享年62となっているから、当時としては大変な長寿者であった。しかもインスリンの未発見の時代に、よくも、とぞ思う。

続きを読む≫≫

2007年01月01日

◆謹賀新年 



●「頂門の一針・主宰」渡部亮次郎氏 寄稿
                  「結婚行進曲」

     
私が結婚式を挙げたのは1959年3月26日。敗戦から日本経済がようやく立ち直り、経済白書が「最早、戦後ではない」と謳いあげた時期だった。

だから結婚行進曲の演奏など無い地味婚だった。メンデルスゾーンの結婚行進曲を聴くのはそれから何年も後のことである。それ以前に「イタリア」を聴いた。

メンデルスゾーン「交響曲第4番・イタリア」 ドイツの初期ロマン派の作曲家メンデルスゾーンは、天才ピアニスト、指揮者でもあり、すぐれた音風景を創造したことで知られる。作品は叙情的で、色彩的な和声進行はヨーロッパの田園風景をえがいた幻想絵画のようである。

続きを読む≫≫

2006年12月29日

◆変なニホンジン



 
           渡部亮次郎

刺身を60歳まで食べられなかった。汽水の八郎潟(秋田県)沿岸で生ま
れ育ったから「魚は生で食うと腹痛を起こす」といわれていた。

もちろん、日本海の魚は入手出来たろうが、貧しい農家だったから、現
金がない。やむを得ず、八郎潟から只で捕れる鮒、鯰、鯉、白魚、川海
老などを、すべて煮るか焼いて食べた。当然、鮨も食べたことが無かっ
た。

現金があったとしても、戦前の農村には保冷車も冷蔵庫もないから、海
の魚を生で運べる距離は極めて短かった。群馬や長野の山中で育った明
治人は海魚とは塩鮭のことだと思っていたと聞かされたことがあるくら
い。

一般的な日本人は大昔から刺身や鮨を食べて、「食」を楽しんでいた。
しかも世界一の長寿者が日本人と分った時、その理由は生魚にあると決
めたアメリカ人は争って刺身や鮨を食べ始めた。

とはいえ、ロンドンで鮨屋が大流行したのは最近のことらしい。1980年ご
ろは大屋政子さん経営の1軒しかなかった。アナゴ煮が固くて食べられな
かったことを思い出す。

ところで日本の湖沼畔の住人が、おしなべて淡水魚の生食をしないよう
にして来たについては、遠い祖先から受け継いだ貴重な体験があるのだ。
趣味、嗜好の話では実はない。

肝吸虫症(肝臓ジストマ症) カンキュウチュウ(肝吸虫)
カンキュウチュウ Clonorchis sinensisの存在である。

肝臓ジストマともいう。成虫の虫体は柳葉状で、体長10〜25mm、体幅3〜
5mm。第1中間宿主はマメタニシ、第2中間宿主はコイ、フナ、モツゴなど
の淡水魚で、これらに寄生した幼虫のメタセルカリアを経口摂取するこ
とによって感染する。

成虫の寄生により、胆管上皮の影離(はくり)、増殖など胆管に炎症を起
こし、胆管の拡張、腺腫様増殖をきたし、周囲の結合組織増生から肝硬
変へと進むことがある。軽症では食欲不振、倦怠感、下痢などが現れる。

重症では重大な肝機能障害がおきる。現在もアジア地域に分布し、中国、
韓国、台湾、タイ、ベトナムカンボジア、ラオスに多い。フナ、コイ等
の淡水魚が感染源になるので刺身で食べないこと。潜伏期数ヶ月から数
年。

18歳で秋田を離れるまで、専ら淡水魚を焼いたり、煮たりでしか食べな
かった少年が総じて魚のすべてを生では食べられなくなったのは分かっ
てもらえるだろう。

40歳を過ぎてからアメリカへよく通うようになり、丁度その頃のアメリ
カでは鮨ブームなのに、私が鮨好きでないのを知ると「ヘンナニホンジ
ン」とからかわれた。

それでも欧州や中東など良く理解されないところでは「日本では魚など
を生のままで食べている」という理解になっている場合がある。かなり
気持ち悪い、という感覚であった。

他方、生で食べる事は、既に述べたように寄生虫に感染する危険がある。
もちろん、伝統的に食されているものにはそのような危険がない事を確
かめているから食べている。

刺身に慣れた日本人が他国で刺身を求める場合もある。地元の料理人が、
伝統にない材料を刺身として提供した場合には、そのような危険が生じ
る。顎口虫(がっこうちゅう)などはその例である。特にほとんどの中
国人が生魚を食べないようにしているのはそのためだ。

実は私の刺身嫌いは嗜好の問題と思っていたが、1972年9月に田中訪中に
同行した際、人民大会堂で開かれた周恩来総理の歓迎宴会に招待され
「このしろ」という魚のボイルしたものを食べた。

大型の鰊のような骨組みで、味は海の鮭に似ていた。揚子江(長江)に
生息しているが、肝臓ジストマを持っているから、絶対ナマで食べては
いけないものだと教えられた。(現在、水質汚濁により絶滅の危機にある
と伝えられている)。

続きを読む≫≫

2006年12月26日

◆クラシックは新しい


                   渡部 亮次郎 

「べートーヴェンは何かを語っているし、モーツアルトははしゃいでいる」
と私は思う。

今の人は知らないだろうが、SP(standard play)版のレコードとは1枚
に3分半しか録音されてない。もちろん裏面にも3分半録音されているが、
その都度ひっくり返さなければならないから面倒だ。

クラシックの長い作品だと10枚で1曲なんていうのがあった。そのころか
らわずらわしさを感ぜずにクラシックを聞いていたというのは昭和1桁
生まれの人たち。

SPがLP(long play)に変わるのは敗戦後しばらく経ってからだった。私は
1950年を過ぎて高校に入った頃、ショパンの軍隊ポロネーズをLPで、生
まれた初めて聴いた。

友人が「隠れて兄貴のレコードを持ち出してきた」と言った。ピアノの
音にこれほど身を乗り出して聴く自分を発見して驚いた。高校で「音楽」
は選択科目だったが選択しなかった。よく音楽教室からレコードで音楽
が聞こえてきて授業が耳に入らなくなったものだ。

50年経って聴きなおすとあれはモーツアルトのセレナード「アイネ・ク
ライネ・ナハトムジーク」だったのだ。永年、刺身や寿司を食べずに大
損をしたように、私は音楽でも読書でも他人に引けをとり実に貧しい半
生を送ってきた、と臍を噛んでいる。

私の幼少期は「流行歌」という名の演歌と共にあって、クラシックとは
全く無縁だった。家の周囲は見渡す限りが田圃。東の遠くに出羽丘陵が
連なっていた。西側には男鹿半島の山2つ。だから学校で「写生」の時
間に困ったものだ。描くものがどこにも無いのだから。

家の向かいに1歳上の少年がいて蓄音器と「種板」つまりレコードを持っ
ていた。もちろん兄たちの持ち物。それを2人で鳴らして遊んだ。蓄音
器はぜんまい式だった。

東海林太郎、霧島昇、伊藤久男、藤山一郎,渡邊はま子、ディック・ミ
ネといった人たちのものばかり。今で言う元祖演歌の主たちである。擦
り切れるまで聴いた。

やがてHNKのラジオ歌謡が流れ始めてそれに馴染んで行った。のど自慢の
県大会に出て「チャペルの鐘」を歌ったが、チャペルってなんだか知ら
なかった。東海林太郎が秋田中学(旧制)の大先輩、上原敏が同じ秋田
の人とは子供の頃は知らなかった。

いかなる因縁かラジオ会社のNHKに入り、やがてそれはTV会社になったが
配属された部門はニュースそれも政治関係だったから音楽には縁が無く
て過ぎた。

30を過ぎた頃、新宿の飲み屋で演歌師のアコーデオン伴奏で歌ったら客
の1人に「あなた、歌手になりませんか」と言われた。著名なコーラス
・グループのマネージャーだった。政治記者が演歌歌手デビュー、面白
いが冗談でしょう。

50を過ぎてCDというものが流行りだした。1枚3、000円で60分とか70分録
音されている。これはいいというのでCDのコレクションができた。2,000
枚ぐらいはある。だが気がついてみればそれらはみな演歌だ。

続きを読む≫≫

2006年12月24日

◆あすなろとは残酷な



               渡部亮次郎

ある総理大臣が不能になった衆院議長を「マシュマロ君」と言ったのは
冗談にしても失礼だが、江東区が精神薄弱者の作業所に翌檜(あすなろ)
と名づけたのは残酷すぎないか。

明日は檜になろうとしても絶対なれないのが翌檜の意味。さも希望があ
るように見せるのはどうか。我々は根拠も無く明日に希望を見出そうと
するが、翌檜に明日は絶対無いのだ。だから残酷だと言うのだ。

広辞苑によると「翌檜 (「明日は檜になろう」の意)ヒノキ科の常緑
高木。5月ごろ花を開く。果実は楕円形の球果。材は建築材、船材、枕木
など。木曾の五木の一つ。別名ひば、しろび、あて、あすひ、あすはひ
のき。

翌檜は実は東北地方の木である。つまり東北には檜は生えない。檜より
価値において低い翌檜しかない。正確ではないが能登半島以北には翌檜(
ヒバ)しか生えないと聞いたことがある。

<アスナロ(明日檜:翌檜) False Arborvitae ヒノキ科の常緑高木の1
種。山地の尾根筋などの乾燥地や、湿地の周辺などに生え、乾湿両極端
の環境に適応し、日陰にも強い。

アスヒ、オニヒノキ、オニヒバともよばれる。和名のアスナロは、「枕
草子」にもみられるように「明日はヒノキになろう」という意味だと俗
にいわれるが、その名の由来は、ヒノキに比較して葉が厚いという意味
で、アツバヒノキとよばれ、それが「明日はヒノキ」→「明日はヒノキ
になろう」→「明日なろ」と転じたものともいわれる。

日本の固有種で、本州および四国、九州に分布する。

続きを読む≫≫

2006年12月23日

◆潮(しお)目の読み違え



        渡部亮次郎

潮の目とは、2つの異なった潮流の境目。海峡や寒暖2流の交流点などに生ずる。潮境。(広辞苑)。ここでは転じて世論の流れの変化を読むことの意味に使う。安倍さんが北新地ママを官舎問題と読み違えたのも潮の目を読めなかった未熟さである。

野党民主党では偽メイル事件で党首が交代した。あの時もさっさと辞めれば傷の深くなる事は無かったものを、前原誠司党首はまるで右顧左眄したかのように様子見をしているうちに傷が深くなった。

それで党内では「若い者に任せてはいけない」との論が起き、正倉院の御物を引っ張りだしてきた。時機遅れの小沢さんである。ところが安倍さんも本間教授問題の読みを間違えること、民主党若手を笑えない。

総理として税制調査会の会長に任命したばかりの大阪大学大学院教授本間正明さんが東京・神宮前の公務員宿舎に大阪・北新地のクラブのママを囲っている、とすっぱ抜いたのは週刊ポスト。新聞もテレビも抜かれた。

事実関係を確かめたら、週刊誌の指摘どおりだった。それにも拘わらず安倍総理、塩崎官房長官は「職務に専念していただきたい」と庇い続けた。完全に国民感情と逆だったから国民は内閣の支持率をがた落ちさせて鬱憤を晴らした。

私なら然るべき人間をすばやく極秘裏に派遣して本間会長を辞めさせるが、塩崎官房長官は「法的に問題がない」として「いずれ収束する」と見ていた。法的な問題なんかではない。倫理、道徳の問題!

今回の問題の潮目は(1)官舎(2)北新地ママのほかに(3)税調は国民にとって「敵役」という側面のあったことだ。政府首脳はこの点を忘れた。

本間会長が官舎にクラブのママを囲いながら税調会長の職務を全うすることは国民感情が絶対許さない、という読みができなかった。如何に正しいことをしようが、いまどきの税調は絶対、増税に踏み切るのだから、国民ははなから本間さんを敵と決めていたのだ。

その「敵」がこともあろうに「官舎」の「ママ」を囲っていた。官舎が民間アパートの10分の1の安さ。「庶民はそこに嫉妬しているだけだから辞めさせる必要はない」とタカを括っていた。

違う。いまどき庶民は大学教授というものをあまり尊敬しなくなっている。ミラーマンの出現などで社会的評価は下がるばかりだ。スキあらば貶してやろうと待ち構えている。だから週刊誌もスクープに血道を上げている。教授の評価を上げているのは件のママだけだろう。

本間氏は夫人と離婚協議が進んでいるとして倫理的立場の正しさを主張もしたが、これを夫人が真っ向から否定した。これで潮目は完全に変わってしまった。1日も早い辞任が必要だったのに、まだ逡巡した。正義に疎いのは日銀総裁と並んで大阪モンだからではないが、ケチではあるのだ。

聞けば大阪大学では来年3月で定年とか。そうなると公職は政府税調会長しかなくなるから、唯一メシのタネを確保しておかなければならない。遅疑逡巡したのはこの点ではなかったか。事件発覚から10日経ってやっと普通の感覚になった。

産経新聞(22日付)によれば、真相を初めに週刊誌にリークしたのは財務省サイドらしい。それは財務省としては税調会長は石前会長の留任を希望していたのを安倍総理に拒否された恨みかららしい。

潮目の読み違い、辞任のタイミングの間違い、役人の反抗。安倍さんの若さゆえの至り無さ。どうも前途遼遠と言わざるを得ないのは残念至極である。2006.12.22

◆世界に冠たる調味料



           渡部亮次郎

それが醤油だと思うのだ。初めてアメリカに渡り、固いステーキを供され
た時、こうした食塩でなく、あの醤油があったなら、どんなに美味しかろうと思った。その直後、キッコーマンがアメリカに進出して現地生産を始めたから、私の勘は当ったのだ。

<すぐれた植物性調味料としての醤油は、欧米型食生活の見直しなども
あり、海外においても普及、ソイ・ソースとしてしたしまれている。>

Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation.
All rights reserved.から引用。

健康食として日本食が世界各地で好まれるようになってから、醤油を世
界各地で手にいれることが出来るようになった。醤油は現在100カ国以上
の国に輸出されており、生産は年14万キロリットルにも達する。大手メー
カーでは現地生産も行われている。

紀元前8世紀頃の「周礼」で、「醤」という漢字が初めて使われた。ただ
しこの時代は、食品を麹と食塩で醗酵させたものがすべて醤と呼ばれて
おり、大豆を原料としたものが特別な名で呼ばれることはあまりなかっ
た。

500年頃の中国の『斉民要術』に、現代の日本の醤油に似た醤の製造法が
記述されている。

日本では701年の「大宝律令」に、醤を扱う「主醤」という官職名があり、
この時代は既に日本に醤があったとされる。

923年公布の「延喜式」には醤製造に関する言及があり、この時代、京都
には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。

伝承によれば、13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で
作っていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州
(和歌山県)の湯浅興国寺の開祖法燈円明國師(ほうとうえんめいこく
し)が伝え、湯浅周辺にも金山寺味噌作りが広まった。

この味噌の溜(たまり)を調味料として使うとおいしいことを発見した
ことから、液体の醤油作りが始まった。この「たまり」が、現代につな
がるたまり醤油の原型とされている。

これに関しては伝承のみで、当時の文献や証拠品による裏付けがないが、
ある程度以上には真実を含んだ伝承だと考えられている。

しょうゆという語は15世紀ごろから用例が現れる。1470年頃の「文明本
節用集」に、漿醤に「シヤウユ」とルビが記載してある。

1597年、「易林本節用集」という辞書で、はじめて「醤油」という語が
使われた。(ただし、『鹿苑日録』1536年の日付の記述の中に既に漿醤
という語が、山科時継の日記『言継卿記』の1559年の記述に「シヤウユ
ウ」という語が、『多聞院日記』1568年10月25日の記述に「醤油」
という語が既に使われているという指摘もある)。

続きを読む≫≫