2007年03月10日

◆陸軍記念日があった

渡部亮次郎

「陸軍記念日」というものがあったことを知っていますか。3月10日。これを知っているのは少なくとも70歳以上の人です。

<陸軍記念日 (りくぐんきねんび) は、日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。

明治38年同月同日、日本とロシアが戦った日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領、奉天城に入場したのがこの日であった。そこで翌年からこれを記念して国民の休日としたもの。1945年の敗戦(第2次世界大戦)に伴い廃止された。>

私は1945年は小学校(国民学校)4年生だったから、よく知らない。そうやって大人になったが、NHK記者として大阪に勤務し始めた時に「陸軍記念日」というものを強烈に意識することとなった。例の小野田寛郎(おのだ ひろお)出現の日だったからである。

日本の敗戦を知らずに、そのままフィリピンのルバング島に残地蝶者として残っていた日本陸軍少尉小野田寛郎が昭和49(1974)年3月10日、ようやく日本からの捜索隊の前に姿を現し、帰国の意思を明らかにした日である。

小野田さんは和歌山県海南市の出身だった。戦後既に29年。捜索隊がルバング島で捜索を開始。姿を現すのを今か今かと日本中が息を呑んでいた。

特に海南市で朗報を待つ両親のその瞬間を捉えようと関西のTV各社が自宅に押しかけた。しかし何日経っても現れない。各社は大阪へ帰った。

その時、私が何気なくかけた電話に後の外務大臣園田直さんが問題の一言を洩らした。「ナベしゃん、明日は陸軍記念日ばい。明日、出てくるとバイ」。陸軍記念日って? 「それが3月10日バイ。小野田さんは生粋の軍人だから明日出てくるとばい」

「東郷さん、民放は皆帰ったけれど、私らは明日までもう1日、居ります」と大阪の報道部長の許可を貰った。中継の一行20人の出張延期は大枚の支出であった。

期待通り、小野田さんは10日に姿を現した。感涙に咽ぶご両親の映像はNHKの特種となって全世界に放送された。だから私の生涯で陸軍記念日は忘れようとして忘れることの出来ない記念日なのである。

続きを読む≫≫

2007年03月09日

◆中国独裁はあと50年?

                       渡部亮次郎

米国の専門家の予測の一つだが、経済自由化が進んでも中国の独裁体制は変わらず、少なくともあと50年続くと見るべきだという本が出版された。

「頂門の一針」734号(2007・3・8)に転載したが、産経新聞の ワシントン特派員古森義久記者が同日の紙面で伝えたもの。中国の将来は経済の自由が広がっても政治面での独裁や弾圧は長期にも変わらないというのだ。

これを著したのは米国の著名な中国研究者ジェームズ・マン氏。マン氏はロサンゼルス・タイムズの中国特派員や外交記者などを務め、「北京のジープ」など中国についてのベストセラーの書3冊ほどをすでに出版してきた。

現在はジョンズホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)の中国問題研究員で、「中国への夢想」、副題「米国の指導者たちは中国での弾圧についていかに言い逃れをしてきたか」と題して米国大手出版社の「バイキング」から2月下旬に刊行された。

米国の対中観としては「経済の自由化によりやがては政治面でも民
主化される」という予測と、反対に「内部の諸問題のためにやがては激変し、現政治体制は崩壊する」というものだが、マン氏はどちらも否定している。

尤も両方とも民主化の時期を「やがて」とし、具体的な予測を避けている。中華人民共和国は1949(昭和24)年10月1日に共産党革命によって成立した。

人々は革命は初体験だったが、漢、明、清などと体制の変換は常に体験した歴史を持っており、あまり動じなかった。しかし信頼もしていない事は当然であろう。

引き換えて中国の20分の1の歴史しか持たないアメリカ人は革命を体験せず、期するところは常に改革、改良である。したがって中国についても「経済の自由化によりやがては政治面でも民主化される」
という楽観論が先に立つ。

反対に「内部の諸問題のためにやがては激変し、現政治体制は崩壊する」と言う見方は共和党系のシンクタンク(研究所)などに見られるがどちらかと言えば小数意見である。

続きを読む≫≫

2007年03月08日

◆共産中国の変質進むか

                        渡部亮次郎

5日から北京で始まった第10期全国人民代表大会(全人代=国会に相当)第5回会議に上程、審議を経て採択される見通しの物権法で、農地の土地請負経営権(土地使用権)を物権として流通させられると明記されている。果たして共産中国の変質は進むのか。

ソ連のスターリン執政期や中国の毛沢東執政期に至っては、自分の政策に反対する勢力や同僚を、政治的にまたは物理的に抹殺するに止まらず、政策に反発する市民や全く無関係・無関心な人民までをも大量に虐殺、餓死させる等、歴史的におぞましい全体主義体制を創り出した。

スターリンや毛沢東の独裁は、マルクスやレーニンが描いた「共産主義」からは大きくかけ離れているが、この歴史的事実は、共産主義に対する認識を大きく歪ませてしまった。

20世紀の共産主義を標榜した国家の多くは、「共産主義によって、皆が等しく自由に、豊かになる」と唱えながら「全体主義によって、皆が等しく束縛、貧しくなる」という最悪の結果をもたらした。

これらの事実は、共産主義を目指す国々が、歴史に刻む「負の遺産」である。これらの「負の遺産」を乗り越える事が、これからの共産主義を目指すという思想の要になってくるであろう。

この考えに挑戦したのが中国の、毛沢東亡き後の指導者ケ(とう)小平だった。毛沢東とともに共産主義革命に従事しながら毛沢東に殆ど疎んじられ、3度も失脚した。それでも「白い猫でも黒い猫でも鼠を多く捕る猫がいい猫だ」と言いぬけた。

私は1978年8月10日午後5時半(現地時間)、北京の人民大会堂で初めて彼を、見た。これから日本から来た外務大臣園田直と会談するためである。部屋の入り口で待っているところへ来たとう氏はその名の通り、150センチもない短身。汽車の切符は間違いなく子供だった。黒い人民服をまとっていたように思う。

続きを読む≫≫

2007年03月07日

◆とう小平の刺身以後


                      渡部亮次郎

中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、とう小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓されて水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず食べたところ、大いにおいしかった。それが大トロというものだった。それまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓にジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べることによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のような生き物が突き出てきた。びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で食った。

続きを読む≫≫

2007年03月06日

◆1億総白痴化は成った



          渡部亮次郎

<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

続きを読む≫≫

2007年03月05日

◆アマデウスとは誰


              渡部亮次郎

東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。20年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。

モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。

作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。

作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。

モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

続きを読む≫≫

2007年03月04日

◆桃の節句って?


渡部亮次郎

当節、3月3日は桃の節句だ。だが、東北の貧しい農家に生まれ育った人
間には、そんなもの知りもしなかった。端午の節句も知らなかった。鯉
幟なんて見たことがなかったもの。

小学校へ上がる直前にアメリカと戦争になった。大東亜戦争といった。
後で知ったが、閣議でこの呼び名を決定した。だが4年後の夏、あえなく
敗戦。占領に来たマッカーサーが大東亜戦争と呼ぶことを禁じた。

マックアーサーは太平洋戦争と以後呼べと命じたのだ。それを知ってか
ら第2次大戦はおろか太平洋戦争なんて使いたくも無い。あくまで大東亜戦争だ。

敗戦の昭和20年8月15日は小学校(国民学校)4年。食べるものも、着るも
のも、履物も不足。29(1954)年2月、大学入学のため上京したときは、政府の許可を貰って、1年分の米として60キロを持参した。そういう時代だった。

だから節句も桃の節句も端午の節句も知らなかったというのは、悪たれ
て言っているのでなくて、貧しかったから知らなかったと言うのが真相
なのだ。

節句(せっく)は、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日のこと。節供(せっく)とも。特に中国大陸から伝わった暦の上の風習のものをいう。

古くは節日(せちにち)といい、節日には朝廷では節会(せちえ)と呼ば
れる宴会が開かれた。日本の生活に合わせてアレンジされていくつもの
節日が伝わっていたが、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めたのが節供である。

(1)人日(じんじつ) 1月7日、七草
(2)上巳(じょうし/じょうみ) 3月3日、桃の節句、雛祭り
(3)端午(たんご) 5月5日、菖蒲の節句
(4)七夕(しちせき/たなばた) 7月7日、たなばた、星祭り、竹・
(5)重陽(ちょうよう) 9月9日、菊の節句

続きを読む≫≫

2007年03月03日

◆ウィルス性肝炎


                     渡部亮次郎

2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

続きを読む≫≫

2007年03月02日

◆捕らぬ狸の皮算用

渡部亮次郎

菅直人民主党代表代行の東京都知事候補からの逃げ方を見ていると「捕らぬ狸の皮算用」という諺を思い出す。狸を捕まえるとか、毛皮を剥いで売るとか言うことが無くなったので、死んだような諺だが、菅にはぴったりである。

簡単に「広辞苑」(岩波書店)から。「(まだ捕らえないうちから、狸の皮の売買を考えることから)不確実な事柄に期待をかけて、それを基にした計画をあれこれ考えること」。政権が来たら俺が総理大臣だから都知事になっていてはチャンスを失う。

同じ岩波の「ことわざ辞典」(時田昌瑞著)では。「先行きが不確実なことに期待して、あれやこれやと計画することのたとえ」。算用は計算したり、勘定をすること。猟で、狸を捕らえる前から、皮をいくらで売ってそのあとは・・・と計画やら計算やらをすること。

大正時代以降の言い回しらしい。江戸時代は「穴の狢(むじな)を値段する)「飛ぶ鳥の献立」「儲けぬ前の胸算用」と言ったらしいが今では専ら「捕らぬ狸・・・」だ。

4月に行われる都知事選挙をめぐっては、現職保守系の石原慎太郎の3戦にまともに刃向かえる民主党候補は、東京を地盤としている菅が知名度から言っても歳適任者だと党内外で囃し立てられて来た。

続きを読む≫≫

2007年02月28日

◆集りで殺された記者


渡部亮次郎

集り〔たかり〕と読む。脅したり泣きついたりして金品を巻き上げたり、おごらせる(「広辞苑」)。第2次大戦前の日本でも新聞記者が世間から嫌われたものだと若い頃教えられた。戦後はそうでもなくなった。

産経新聞の北京特派員福島香織記者は、報道統制下ながらいつも特異な記事を読ませてくれる頼もしい記者。その福島さんが2007年2月27日付6面「新せかい百科 アジア発」に報道統制下の悲哀 殺害された記者 と題して「集り記者」の現実を知らせている。

それによると2007年1月10日に山西省大同市郊外のヤミ炭坑で取材中の中国貿易報山西省分社所属の蘭成長記者が作業員らにツルハシなどで撲殺されたのは、炭坑主に「集っていたからだった」と言うのである。

事件を詳報した時事週刊誌「中国新聞週刊」2月5日号によると、地元記者たちは取材と称してハイエナのように群がり炭坑主の儲け1日約105万円の半分を分捕っていた。蘭記者もそのうちの1人であった。

炭坑に「ヤミ」と付いているのはなぜか。安全無視で只管生産に邁進する民間小規模炭坑である。安全無視だから落盤などの事故は凄まじく多発する。

<中国:炭鉱事故による死亡者数 世界の79%を占める

【大紀元日本6月30日】日中国国家安全生産監督管理総局(安監総局)の李毅中・局長は24日、中国の炭鉱工業は安全面において深刻な問題を抱えていることを認めた。

中国炭鉱の100万トン生産量あたりの死亡者数は3人、米国は0.03人、ポーランドや南アフリカは0.3人であり、中国の炭鉱労働者の死亡率は南アフリカの30倍、米国の100倍であることが明らかになった。2005年6月25日の「明報」が伝えた。

中国は世界最大の炭鉱工業を有し、中国政府の発表によると2004年の石炭生産量は世界の35%を占める。しかし、炭鉱事故による死亡率は世界の約80%を占めており、これは中国の炭鉱で少なくとも毎日15人の労働者を犠牲にしないと、経済発展を支えるのに十分な石炭生産量に追いつかないことを表している。

李局長はまた、炭鉱事故による死亡者数は、以前政府が発表した数字より若干減少はしているものの、依然として世界炭鉱事故死亡者総数の79%を占めていることを認め、今年の1月から5月までに中国全土で発生した各種の事故をあわせると32万件あまりに達し、その死亡数は49,000人を超えたと漏らした。

続きを読む≫≫

2007年02月27日

◆今年は昭和82年

                      渡部亮次郎

2007年は昭和に仮にすると何年になるか。2007−1925=82即ち「昭和82年」なのである。昭和を西暦に換算するとき昭和に1925を足した数字が西暦になっていたから。昭和20年足す1925イコール1945年とした。

その1945年に我々日本人はアメリカ始め連合軍に敗戦し、占領された。秋田県にもアメリカ軍がやって来た。出迎えた蓮池知事が指揮者に握手を求めたら、拒否され、強く払われた、と旧制県立秋田中学に通っていた兄から聞かされた。

「握手というのはお前、目上の人が先に目下の者に出すものなんだそうだ、蓮池さんは帝国大学を出ても握手の礼儀を知らなかったんだろうな」。

さらに2年後、中学に入り、民主主義と英語の勉強が始まったが、英語を教えられる先生が居ない。昭和16(1941)年のアメリカ侵攻とともに英語を敵国語として使用を禁止してきたのだから当然である。

苦し紛れに「花の3月マーチましょう」「辞典はジヒクショナリー」なんかを連発しても授業にはなりはしない。当然、高校入試に英語は無かったが、すでに県庁所在地では英語スピーチ・コンクールが行われていて、その優勝者の女性が同級生になって顔色を失った。

アメリカ軍は1941年の開戦をきっかけに陸軍、海軍ともに日本語学校を充実させた。ノーベル賞作家川端康成の作品を英語に翻訳して
授賞式にも同席したメリカ人サイデン・ステッカーさんは海軍日本語学校の卒業生である。

<エドワード・サイデンステッカー(Edward G. Seidensticker, 1921年2月11日- )は、日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ人。より正確には「サイデンスティッカー」だが、親しみをこめて「サイデンさん」などと呼ばれる。

第2次世界大戦後、日本に滞在して外交の仕事に携わる傍ら、東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学を勉強した。その時の友人が直木賞作家の高橋治。

続きを読む≫≫

2007年02月25日

◆薄れ行く東京大空襲


                      渡部亮次郎

私が住まいしている隅田川左岸の東京都「江東区」は昭和18年に都制が導入され、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれた。さらに同年、新しい地方自治制度によって、今の23区制となった。特に深川は昭和20年3月10日未明の米軍大空襲の第1弾が投下されたところである。

東京大空襲と言われるこの爆撃では8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

昭和29(1954)年早春に上京した時、東京大学近くの街には、空襲被害の瓦礫の山がまだ、そこここに残っていた。あちこちに門柱がころがっていた。田舎少年に東京大空襲の記憶は無かった。

ところで深川には三業地があった。堅物ぶる広辞苑で引いても三業地とは三業の営業を許可された一定の地域としか出ていないが要するに料亭、待合、芸者置屋が纏まって営業する「粋な」処である。しかしこの爆撃で深川は消滅した。

深川の歴史を語る上で、花街と芸者は切っても切れない。辰巳(巽)芸者は、「広辞苑」でさえ拒否できなかった由緒ある盛り場だった。「江戸深川の遊里の芸者。きっぷが良く、張りがあるとされていた」と解説しているぐらいだ。

続きを読む≫≫

2007年02月24日

◆監査役は有名歌手

渡部亮次郎

日本の演歌をドイツ唱法やベルカント唱法で歌うのは悪趣味であり、「分類すればゲテモノ」だと2006年11月10日の我がメイルマガジン「頂門の一針」に書き、月刊誌「カレント」にも書いた。

それを、どこかで読んで下った74歳のバリトン歌手山本健二さんから「同感だ」と言うメッセイジを副えて、2006年収録の、ご自身のCDを送ってきて下さった。「落葉松2」と題して「浜辺の歌」「椰子の実」「城ヶ島の雨」「初恋」など日本の唱歌、童謡16曲をピアノ伴奏で謳いあげたものだ。

既に74歳。自身の経験からすれば、声帯はかなり衰えているだろう、大会社の監査役まで上り詰めた男の「物好き」だろうとタカを括って聴いたら、大変!突然、居住まいを正す破目になった。素晴らしいの一語に尽きる。

CDをすでに22枚も出しておられて斯界での活躍も多岐に亘っている。NHKの深夜便にも登場されていると言う。会社に隠れて音楽活動を続け、やっと勤めを終えたので歌手、音楽家として表に出てこられたのである。知らないのは私だけだったろうか。

ご自身のホームページから引用する。http://bariken.com

山本健二 1933年(昭和8年1月) 釜山府(韓国)に生まれる 1945年(昭和20年) 釜山中学1年のとき終戦により福岡に引き揚げ同年旧制の県立福岡中学へ編入、そのまま新制福岡高校へと進学。

昭和26 (1951)年卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

自身のコンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

続きを読む≫≫