2006年10月22日

◆ふるさと会での腹立ち


       渡部亮次郎

ふるさと会での腹立ちが未だに収まらない。2006年10月21日午後2時から東京・市谷のアルカディア市谷で「第20回ふるさと飯田川会」が開かれ、40人が集まった。

この会は秋田県南秋田郡飯田川町から出てきて首都圏に暮している男女が年に1度、地元の酒「太平山」を酌み交わして無事を確かめ合おうと言うもので、20年前、私が言い出して始まった。

町当局から若干の補助はあるが、基本的には会費1人、1万円で運営している。だから無断欠席されると幹事たちの懐が痛むことになる。会館には3日前に確実な参加者を確認され、欠席者があったとしても減額されないことになっているからだ。

発足以来、1度も来たこともない女性が初めて出席通知があったというので期待していたが、乾杯の発声に立った男性が冒頭、おかしなことをいいだしたので首をかしげた。

「私の義姉が急に仕事が出来て、欠席となりました」。其処ままでは良かった。「つきましては会費を私から出させていただきますので、悪しからずお許しくださるよう、お願いいたします」と言うのかと思ったら、飛んでもないことで言葉を次いだ。

「つきましては、義姉が主宰しているミュージカルのパンフレットをお手許に配らせていただきました。当日受付で義姉の名前を出していただければ、割引いたしますので・・・乾杯」。私は乾杯を拒否した。

これは乾杯の発声ではない。また、機会を借りての謝罪でもない。来賓という地位を利用した宣伝でしかない。ふるさと会を馬鹿にし、軽蔑している。小さいことながら、私はこういう無神経を許すことは絶対できない。「」おかしいじゃないか」と、つい叫んでしまった。


町の後輩にこんな馬鹿が居るのか。みんなにお菓子のひとつでも配った上でならともかく、失態を謝罪せず、宣伝だけしてゆく、何という恥ずかしい行為だろうか。

聞けば私が小学校6年の時、私を教壇前に引きずり出し、ビンタを食らわそうとして、私に避けられた女性教師の息子さんだと言う。あの時は、朝礼なのに、先生は教室に残り、だるまストーブの上でスルメを焼いた。児童たちが戻ってみたら、臭くてたまらなかった。

そのことを全校児童会の席で暴露したのだから、ついカットなって殴ろうとしたのだろう。しかし、私も私だが、恥ずべきは先生であろう。いかに悪阻(つわり)のせいにしろ、朝礼を欠席し、教室で独りスルメを焼いてはいけない。

考えてみれば件の男性はあの悪阻のときの子供だ。母親としての先生は子供たる男性に散々私の悪口を聞かせて死んでいったらしいが、
家庭を持って、悪阻の時の女性のとんでもない行動を知るにつけて悪いことをしたもんだなぁと悔やんではいる。

男性は長じて秋田高校を経て東京の私立大学を卒業。タクシー会社に婿入りして社長。このほど合併してできた市の商工会の副会長だ。
合併に先立って町の時代、町長に立候補したこともあるが見事に落選した。

経歴は立派なのに、どうしてだったのかと考えていたが、今回、解答を発見した思いだった。人生、他人を学ぶ以外に薬はないなぁ。
2006・10・21

2006年10月20日

◆「いじめ」対策は親から



           渡部亮次郎

鶏を飼ってみると良く判る。この世に「苛め」は不可避だと。私も今考えれば小学校の時から苛めに遭ったが、気にしなかった。あいつらは多勢、こちらは独りだったが、あいつらは束ねて先生に馬鹿にされていたから。

苛めはなくならない。人間の本能でもある。弱い者を守ろうと言うのは恰好いい人権派理論。アメリカ流だが、実態は逆。弱い者をグループのみんなして苛める。それが実態だ。

京都市環境局の職員が今年既に14人も逮捕された。これは彼らをこれまで差別してきた京都人の「いわれなきプライド」が初めて復讐を受けていることなのである。事件には法則がある。「因果応報」だ。

鶏を飼ってみると良くわかる。発育の良くない1羽をみんなして苛める。考えてみると、鶏は十何羽、同じ母鳥に抱かれて生まれたのだ。それなのに発育の悪い兄弟を突っついて羽根を毟る。

毎日みんなから毟られるから、弱者は益々哀れな姿になってゆく。みんなはその哀れを見て、益々苛める。とうとう力尽きて死んでしまう。鶏たちは次のターゲットを探して苛めを止めない。

学校の先生は教育の情熱に突き動かされて教員になった人ばかりではない。性格は体制順応型が大多数。その中から要領のいい奴が教育委員会の役人になって先生に居直る。

見ている方向には児童・生徒も先生も父兄も無い。有るのは「出世」だけ。口にする答弁は「事勿れ」。事件が起きないように祈っているのではない。表沙汰にならないことを工作しているだけだ。

彼らは鶏の論理は知っているから、学校に苛めが日常茶飯事的に存在することを承知している。だが学校から「報告」が「無い」以上、「苛めは無い、と承知」しているだけだ。

先生は頭脳は普通だから、教室の雰囲気で苛めを察知する。さてどうする。被害者は1人、加害者はクラス全員。クラス全員を敵に回してクラス運営をする度胸の有る人間は居ない。そんな有能な人間は別の職についている。見て見ぬ振りを決め込む。

被害者が自殺でもして、事件が顕在化する。「気がつきませんでした」。
マスコミもいい加減だ。鶏を飼ったことがないのか、苛めをこの世の珍現象と決め付けている。

したがって、苛めはどこにもあるが隠蔽されているだけのこと、という認識がない。鶏を飼ったことがない人ばかりらしい。大学に行くよりも鶏を飼ったほうが早い。

苛めは何時の時代でも何処の学校にも職場にも有る。ないところなんか絶無。また、それを隠したがるのも当然。グループの全員が加害者。先生など指導者も全員の味方。被害者に味方すれば先生は学級経営が不能になる。

マスコミはこれだけの覚悟を以て事件の報道に携わるべきなのに、先生が悪い、校長が無責任、教育委員会が無関心という類型的な報道を繰り返すだけ。馬鹿ではないか。読者、視聴者へのゴマスリもいい加減にしろ。

わが子の生存補助に最大の責任を負うのは両親であって教師でも校長でもない。それなのに、親として養育権を放棄するという人道に悖る大罪を犯しながら、学校を責める親を見ていると、何をかいわんや、という気になってくる。

学校は教育は授けるが人格の形成までを請け負っているわけだはない。子供が何を悩んでいるのかはまず、親が気付くべきだ。先生では絶対ない。日教組はかくのごとく、親をも狂わせてしまった。2006・10・19

◆中ソの自滅は「ノルマ」



             渡部亮次郎

「ノルマ」こそは社会主義革命で生まれたソ連を自滅に追い込んだものだと思っているが、最近の日本では平易なビジネス用語になっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「ノルマ主義は、労働の意欲を高めるのにはよいが、JR西日本の福知山線脱線事故のようにかえって悪い影響が出ることもある」と言った風に使われている。

ノルマ(ロシア語:Норма, norma)とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。

日本には太平洋戦争後、シベリアに抑留されていた日本兵が帰国した際に伝えられ、日本語の語彙として広まったとされる。

もともとはロシア革命(1917年)によって成立したソビエト政権では、古くからの地主的土地所有制度は解体され、土地の国有が宣言された。

スターリン時代の1920年代末期に農業の全面的集団化が強制的に実行され、屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるものの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつくられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた作業日単位でおこなわれていたが、ブレジネフ時代にはいると、職種ごとのノルマと賃金表にもとづく貨幣支給にかわっていった。

ところが集団農場では収穫物が自分たちの所有にならないから、労働意欲は起こらない。また、極端に言えばノルマだけを果たしていれば賃金は支給される。となると様々な場面で怠業(サボタージュ)が行われる。

一方、共産化した中国の国有工場では、働いている人も居眠りしている奴も同じ賃金だから、工場全体の成績は下がる事はあっても、上がることはない。そうした実態を見て、とう(�)小平が改革開放経済に踏み切った理由だ。

ソ連では、穀倉地帯のウクライナで、麦の種まきも集団農場のノルマだ。だから昨日撒いた種麦が昨夜の風で飛ばされても、農民たちは「オレらはノルマは果たした」といって、再播種には応じない。こうしたことが74年間も続けば国は立ち行かなくなる。ソ連崩壊だ。

ソ連崩壊(ソれんほうかい)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。

ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったという事。

更に東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると 1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終わりを迎えたという、2つの意味で重要な出来事である。

一方、中国でも人民公社(じんみんこうしゃ)が実施された。毛沢東は中華人民共和国における農業集団化のための組織として施行した。農村での行政と経済組織が一体化(政社合一)された。

1958年に大躍進運動の開始と共に合作社の合併により組織され、生産手段の公社所有制に基づく分配制度が実行された。しかし前述のように働かなくても喰えるのがノルマであってもれば、ノルマが社会主義を縛る。

だから、人民公社を必要とした大躍進政策そのものの失敗、それによる毛沢東の国家主席辞任によって公社は形骸化を余儀なくされ、とう(察望�平による1982年の憲法改定、1978年の生産責任制の導入により、人民公社は実質的には機能しなくなっていた。

ところで、1972年9月の日中国交回復に総理同行取材したが、ある一日、記者団(80人)は見学に誘われ、コンクリートの船を作っている人民公社班と幼稚園教育・製薬会社班に分かれた。

私は北京市内の製薬会社班に振り当てられたが、総合ビタミン剤が時折、思い出したようにしか出来てこない状況を見て驚いた。しかもこれで北京市民全体の需要に応じると言う説明。

言いつくろうというか嘘を平気で吐くと言うのか、質問した方が恥かしくなった。斯くなる状況に鑑みてとう(�)小平は「白でも黒でも鼠を多く捕る猫がいい猫だ」と言い放ったため、毛沢東に睨まれ失脚を繰り返すのである。毛が死んだので改革開放経済導入の大願成就となるわけだ
が。

当時のソ連でも共産中国でも、農民は与えられた猫の額のような自留地での生産率のほうが莫大に高かった。生産はマルクスが言ったように手段の公平化よりは私有欲の方が勝つ。当たり前のことである。

日本では1990年代以降の不況でにわかにノルマという言葉が飛び交った。たとえば保険会社のセールスマンなどの単純営業職従事者などに摘要され、ノルマによって賃金が決められているところがある。

極端な話ではノルマが達成されなければ賃金が極端に減らされるというところがある。また、誰にも達成出来ないような高い基準を設定する、前期比の伸び率に対してノルマを課すなどの方法を用いれば容易に賃金支払い額を抑制出来ることも問題である。

これは調べてみるとソ連から流れた強制労働の理論から出たのではなく19世紀アメリカ資本主義の賃金不払いを論破するための理論だった。

いずれにしろ社会主義体制を支えるためのノルマが結局は縮小再生産社会しか作れず、体制そのものを崩壊させた。この世を支えている真実は、人間の持っている様々な「欲望」でしかない。そのことを一番知っていたのがとう(�)小平、一番それに抵抗しながら死んでいったのがスターリンと毛沢東だった、と言うことになる。

このことから中国の近未来を予測することが出来る。だが別に論じよう。2006・10・19

2006年10月17日

◆患者様とは慇懃無礼

                 渡部亮次郎

20年近く通院している民間病院で、何時ごろからか患者を呼び出すのに「さん」から「様」になった。患者をそんなに持ち上げなくてもいいじゃないか、と思っていたら、これはどうも例のインフォームド・コンセントとやらと関係が有ることに気付いた。

インフォームド・コンセント (informed consent)(以下、IC) とは、
医療行為(投薬・手術・検査など)や治験、人体実験の対象者(患者や被験者)が、治療や実験の内容についてよく説明を受け理解した上で(informed)、治療に同意する(consent)事である。

説明の内容としては、対象となる行為の名称・内容・期待されている結果だけではなく、副作用や成功率、予後までも含んだ正確な情報が与えられることが望まれている。

ICの必要性を勧告したヘルシンキ宣言は、ナチス・ドイツの人体実験への反省から生まれたニュルンベルク綱領をもとにしている。

日本では1997年(平成9年)の医療法改正によって、医療者は適切な説明を行って、医療を受ける者の理解を得るよう努力する義務が明記された。

説明無き治療で害を与えた場合、刑法上での傷害罪や殺人罪に当たるという主張がある。一方で医療行為によって健康を増進させることは善意と根拠に基づいて法律で保護された行為であって傷害罪の対象にならない、という意見があり、対立している。

このような中で、同意のない治療を行った場合に損害賠償が認められた判決は、1980年代から相次いでいる。

このあたりから患者様という呼び方が始まったようだ。急に患者を大事に思いはじめたわけでも、尊重し始めたわけでもないのに、「様」をつければ事が済むという考えは、昔流で言えば「猪口才な!」と言うことになる。

猪口才(ちょこざい)=差し出がましいこと。生意気なこと。小利口。
(広辞苑)。三省堂の新明解国語辞典第4版では「ちょっとした才能しか持っていないことを軽蔑する意味。生意気」とある。

最近は撤去されたが、昭和39年11月、佐藤栄作氏が総理大臣に指名され、昭和天皇から認証されると言うので、車で追いかけた。ところが、皇居内に入ったら「記者団はこちら」と案内された場所(屋外)には「車夫馬丁」溜という看板のかかったところだった。

また、外務省では赴任する大使がつれて行くシェフのことを「従者」と長らく言っていた。随分、人を見下すものである。天皇陛下に仕えるのは庶民より一段上の職業だから、庶民を見下さなければ、自分を偉く見せられないと言うわけだ。

病院では医師が絶対。それを補佐する看護師は従者扱いされるものだから看護師は往々にして患者を見下し、ぞんざいな口を利いて権威を保とうとする。患者は医師はもちろん、看護師の言いなりだ。

それが突然、医療法が改正されたからと言って、患者の呼称だけを様に変えたって、本心が変わってないのだから、慇懃無礼(いんぎんぶれい)そのもの。慇懃無礼=うわべは丁寧なようで、じつは尊大であること。(広辞苑)

厚生大臣や外務大臣を何回も務めた園田直氏は、インフォームド・コンセント時代の前、医者と学校の先生と銀行員は余程注意しないと馬鹿になる。弱い者、無学なものばかりを相手に威張っていられるからだ、と言っていた。

ついでだからICの問題点などを捜そう。従来の医師・歯科医師の絶対的権威に基づいた医療を改め、患者の選択権・自由意志を最大限尊重するという前提に基づいている。こんな事は患者も医師も同じ人間。対等なのだ。むしろ患者あっての医師なぐらいなのだから大昔から当然の話だったはず。

説明する側は検査や治験の利点のみならず、効用の原理を平易な言葉で説明し、副作用や合併症などの予期される危険度や、他の方法
(alternatives)についても十分な説明を行い、同意を得る必要がある。

また、同意をいつでも撤回できることが条件として重要である。こうすることで初めて、自由意志で治療または実験を受けられることになる。

癌の告知の際、日本では、家族に病名を告げるが本人には告げない、というのが長く続く慣例であった。これはICの概念に反する。実際ICの普及とともに癌の告知率は大きく上昇した。

一方で、癌の場合に病名を告知して欲しくないと考える人はやはり存在し、実際に告知したことで訴訟になった事例もあるため、ここでもICの適正な運用について議論が出ている。

患者に十分な理解力・判断力がある場合でも、数分や、長くても数時間のICでは伝わりきらない情報はあるし、患者は最終的に、少ない知識を基にして判断・同意を行わざるを得ない。

また、非常に稀な事象や軽微な事象を敢えて説明することが治療の本質をぼかし、患者の満足度低下や不安の増大をきたし、治療の機会を逸する可能性も指摘されている。

判例を見ると、10%を超える死亡率が予測された手術に対して事前に死亡率を伝えなかった過失が認定された例(東京高裁平成13年7月13日)がある。

一方、「死」という言葉を直接使わずに説明したことに対して「重大な心理的影響を与えかねない」として過失が否定された例(東京地裁平成15年6月27日)もある。

患者と医療従事者の双方の立場を守るために存在し、十分な認知を得たICであるが、日常の運用は両者の良心によって為されているに過ぎない実情がある。これらの事例において争われる事件は増加すると考えられるため、法整備やガイドライン(指針)作成が望まれている。

インフォームド・コンセント」という外来語は一般に分かりづらいため、様々な日本語訳が考えられている。1990年に日本医師会が公表した報告では「説明と同意」という語が使われている。医師や看護師の本心が変われば言葉なんかどうでもよい。

ほかに、国立国語研究所の外来語委員会は2003年4月に、「説明と同意」に加えて「納得診療」という言い換えを提案している。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。   2006・10・17


2006年10月16日

◆生き抜いた王光美



          渡部亮次郎

王光美は文化大革命の中で失脚、非業の死をとげた中華人民共和国の国家主席劉 少奇の妻である。2006年10月13日に肺炎のため亡くなった。享年85。夫の憤死後、37年間を生き抜いた。

ノンフィクション作家の譚ろ美さん(東京生まれ、米国在住)が嘗て4回のインタビューをしたことから、16日付産経新聞に回想記を寄稿されたのを読んで初めてその死を知った。

譚さんの指摘どおり、「王さんの逝去により中国ではこれで革命第1世代の要人はすべて消え去ったことになる。革命中国の歴史を語り継ぐ人を失ったことで、20世紀がまた1歩、人々の記憶から遠のく」わけだ。

劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898(明治31)年11月24日〜1969(昭和44)年11月12日は、中華人民共和国の国家主席。文化大革命の中で失脚、非業の死をとげた。日本が中国と国交を始めたのは1972(昭和47)年だから、既に歴史上の悪人とされていた。

湖南省の寧郷で生まれた。1913年に長沙に行き鉅省中学に入学し、その後1920年にソ連へ留学、翌1921年に中国共産党に入党した。主に労働運動で活躍した。

第1次国共合作の崩壊後は様々な地下活動に従事し、1935年の十二・九運動などを指導した。 第2次世界大戦及び日中戦争の日本の敗戦後に行われた1945年の第7回大会で毛沢東に次ぐ党内ナンバー2となった。

1949年の中華人民共和国成立後は、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席を歴任した。1956年9月以降は政治局常務委員もつとめる。

1955(昭和30年)、毛沢東が「農業17ヶ条」を作り、以後12間で農業生産を3倍にしようという「大躍進」政策をとなえ、1958年から始めたが、失敗におわる。

政策は初めから達成は無理だとして批判する声は封じられる一方、最初の数年間はどこの地区からも「目標を達成しました」という報告が上がってきたが、殆どが嘘だった。

多くの村で書類上の数字が水増しされ、検査の時はワラを積み上げた上に生産物を並べたり、どうしても足りない分を隣同士の村で貸し借りしたりして、上げ底で目標があたかも達成されたかのように見せたのだ。

こんなことが12年ももつわけがない。数年後、あちこちで餓死者が出る騒ぎになった。「大躍進」の失敗は明らかだった。餓死者2,000万人と言われる。これだから中国の「統計」はいまでも信じられないと亡くなった元上海総領事杉本信行さんも言っていた。

毛沢東は政策の誤りを認めて1959年4月、国家主席の地位を降りた。後を受けたのは劉少奇国家主席ととう(�)小平総書記である。劉は毛沢東に代わり国家主席、中央軍事委員会主席となり、形式上は毛沢東を超えるポストとなった。

1960年代初期には市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。のちにとう(�)小平が打ち出す改革開放経済の核ともいえるものだった。

しかしいったん野に降りた毛沢東は学生らを組織して1962年頃から下からの思想改革運動を始めた。『文化大革命』の始まりである。

彼らが初め批判したのは当時のフルシチョフらソ連の指導部の考え方だったが、やがて運動はエスカレートして劉少奇ら、国内の国家指導部に向けられて行ったのは当然だった。

この運動で指導的な役割を果たした林彪と「四人組」と呼ばれた江青・王洪文・張春橋・姚文元らの狙いが初めから劉少奇ととう(察望�平だったからである。

劉少奇は文化大革命の中で、 “実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に曝された。

この結果、国民の声に押されるようにして毛沢東は実権を回復。劉少奇ととう(�)小平は失脚した。特に劉少奇は公衆の面前で毛語録を暗唱させられるなど屈辱的な扱いを受けた末、さらに収まらない運動家たちの執拗な攻撃に曝され続け1969年の獄死はまさに憤死だった。

文革時、王さんも大批判大会に引き出された。かつて「ファーストレディー」としてインドネシア訪問の時に身につけたチャイナドレスを無理やり着せられ辱められながらも紅衛兵からの罵声に、泣き喚くことなく冷静に反論」(譚さん)した。

この文革では、都市のホワイトカラーなどが強引に農村に連れていかれ強制労働(下放)させられたり、暴徒化した紅衛兵が「反共的」とみなした文化人やスポーツ選手を惨殺したりした。

1972年9月の田中訪中の際に聞いた中国人の話では嘗ての王宮「紫禁城」も壊されそうになった。止めたのは周恩来総理だったそうだ。

更に後には、紅衛兵として文革に燃えていた若者たち自身が「反共的」と言われて強制労働に送られることになる。

やがて最初の段階では文革の旗手として毛沢東の後継者ともみなされていた林彪副書記まで、追い込まれてクーデターを計画したとされるが失敗。逃亡中飛行機が墜落して「謎の死」を遂げた。1969年だった。それでも朝日の特派員は林彪は生きていると打電して読者を騙し続けた。

劉は1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死したわけだが、1980年に名誉回復を果たした。毛沢東との路線の違いの他、大躍進の失敗で招いた毛沢東の威信の低下が文革の発動要因だった。(以上「ウイキペディア」など参照)

<10年に亘った文革は中国の政治、経済、社会、文化のすべてにわたって重大な打撃を与えた。特別法廷起訴状によれば、林彪・江青反革命集団の弾圧による犠牲者は72万7000人、死者3万4000人とされているが、これには武闘や大量虐殺事件の犠牲者、自殺者は含まれて居ない。

おそらくその正確な数を捕捉することは不可能であろうが、一般には死者1,000万人、被害者1億人と言われている。(中略)中ソ対立以来の社会主義陣営の分裂は文革によって決定的なものとなり、社会主義陣営は崩壊に至った>(「岩波現代中国事典」辻 康吾)

文革の真の検証が成されないうちに王さんが逝ってしまった事は中国にとって大きな損失だが、王さん自身は12年の投獄ののち、名誉を回復し、静かな家庭生活を得ての死は、僅かながらの幸せだったろう。

中国の歴史は革命後も内部抗争の歴史であり、現在の胡錦濤・江沢民抗争が終わったにしても、さらに奄々と続くものと思わなければならない。文革後に始まった再開日中関係は永遠に難しい所以だ。2006・10・16
 


◆山紫水明は貧しい


       渡部亮次郎

秋田県の角館から鷹角(ようかく)線に乗ると約50キロ、渓流と併せて紅葉も美しい。 日本一だと思う。今年は11月初旬までだそうだ。

私は1960年から盛岡に満4年在勤してNHKの県政記者をやったが、岩手県内に渓流の美しさを見るたびに貧困を感じて暗くなった。

山紫水明と言えば、京都の人たちが京都を自慢する言葉のように言う。山紫水明處という観光名所すらある。

江戸後期の儒学者、頼山陽が晩年、自宅の庭に建てた書斎。京都の鴨川沿いにあり、有名な『日本外史』はここで執筆されたといわれている。

草堂風の建物で、小さな床の間のついた4畳半の座敷と2畳の書斎、約1畳の水屋と板の間、廊下。

鴨川と東山の眺望は抜群で、「山紫水明」という言葉は、彼がこの書斎に使って以後、一般に使われるようになったとか。

<山紫水明さんしすいめい=日に映えて、山は紫に、水は澄んではっきりと見えること。山水の清らかで美しい様。自然の風景を愛でる語として、日本では最もなじみの有る表現になっている。

山が紫に見える事は実際に有るが、それよりも、紫は昔から尊い色、目出度い色とされており、「山紫」にもそのような褒め言葉の意味が含まれている。(「岩波四字熟語辞典」)。

確かに東北地方のブナ林は秋には真黄色になったあと落葉すると枝が太陽をあびて紫色に見える。直後に雪を被るが。

京都の貴族や文人墨客は「生産」と無縁だから、川の水の濁らぬことと東山の眺望の抜群であることを楽しむだけで良いわけだが、農林水産業で生きて行くしかない岩手県ではそんなに悠長なことは言っていられない。

山が紫とはブナ林のことだろうし渓流が濁っていないのは山肌が石で出来ており、そこには雑木しか生えないことを示している。このままでは貧乏と縁切りできないと宣言されているようなものだ。ブナは建築用材にも木炭にもならない。林野庁がブナ林を杉に植え替えにかかる所以だ。

京都はともかく、岩手県は岩の県といわれる県だから、雑木は木炭や薪にしかならない。カネになる松、杉,檜(ヒバ)などは生えない。これらの木は地下に根を張れないからだ。山紫水明は貧しい山の代名詞のようにさえ思えた。

県都盛岡郊外、小岩井牧場周辺など岩手山周辺の土地にはせいぜいキャベツなどの野菜しか植わっていない時代が長く続いた。岩手山という火山から降った火山灰による酸性土壌だから作物の種類に限りがあった。カネになる稲を植えようにも田圃の水持ちがいけない。せいぜいソバを植えるしかなかった。

ところが戦後、ビニールというものが出来て革命がおきた。岩手山麓でも水田の底にビニールを敷けば水は漏らないことになったから畑から水田への転換が大いに行われた。滝沢(今も村)では特に盛んだった。岩手はそうやってアワ、ヒエとの縁を切って行った。

その頃の北上川はひどかった。水が真っ赤だったからだ。それは上流にある松尾村の硫黄鉱山から流出する排水をそのまま北上川が受けていたためで、柔らかに柳青める、と啄木が宣伝してくれても、北上夜曲が唄われても、水清き流れが実在しないものだから来た客はがっかりして帰ったものだ。

またリアス式の三陸海岸も肝腎の道路が未開通ではどうにもならなかった。従って観光資源は無に等しかった。松尾の開拓農民が逃散した跡地を県が坪10円でどうだと東京から赴任してきた記者たちに誘いかけても誰も買わなかった。

まだ、東北自動車道や東北新幹線の話は具体化しておらず、知事の演説に「観光」と言う言葉は登場しなかった、と記憶している。

その北上川の清流がもどっている。下流花巻のイギリス海岸も無事だろう。宮沢賢治のことも、疎開していた高村光太郎のことも鮮やかによみがえる。高速道路も新幹線も出来た。岩手と秋田は出来秋の美味と紅葉の秋を迎える。

鷹角(ようかく)線・・・現在の秋田内陸縦貫鉄道(角館−鷹ノ巣)

註:<頼山陽 1780‐1832(安永9‐天保3)らいさんよう

江戸後期の儒学者,詩人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎,
山陽は号。別号三十六峰外史。朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれた。

京都文人社会でしだいに地歩を占め,1822年には三本木の水西荘に移居,ここに書斎〈山紫水明処〉を営んで,門弟教育のかたわら多くの文人墨客と交わり,各地を遊歴し,詩文・書画をつくり愛好する自由な境涯を楽しみとした。

1826年《日本外史》を完成,翌年松平定信に献上。続いて《通議》《日本政記》の執筆にとりかかり,前者を完成,後者をほぼ脱稿して病没した。

《日本外史》《日本政記》は簡潔な名文で多くの読者を得,その史観は幕末・維新期の思想界に大きな影響を及ぼしたといわれる。

著述は以上のほか門弟たちがまとめた《山陽先生書後題跋》《山陽遺稿》などがあり,《頼山陽全書》に伝記とともに集大成されている。頼 祺一>
世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。
2006/10/15



2006年10月15日

◆松茸がスカンク?


           渡部亮次郎
幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本1万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。
ところでマツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。2006年10月13日の毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。
ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち昨年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。
(毎日新聞「余録」 2006年10月13日 0時04分)

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなどの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場所に生育する。

古くから日本人にこのまれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。
これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所をこのむので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さんは「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>
とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。
中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。2006・10・15

参考資料:Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft
Corporation. All rights reserved.

2006年10月13日

◆ソ連外相にすき焼き



         渡部亮次郎

1978年1月、福田内閣の園田直外務大臣は、就任後初の外遊先をモスクワに決め、 1月8日午前11時、JAL443便に乗り込んだ。私は真冬でもあり、現地では野菜不足の時期だと報道課長古川清さんに教えられていたから、機内の倉庫に現地日本人への土産として白菜何十キロかを積んで出発した。

それとは別に大臣と打ち合わせに来ていた駐ソビエト(元ロシア)大使重光晶大使(重光葵外相の甥)が神戸牛1頭分を予めモスクワに運びこんでいた。1月8日夜9時、雪の張り付いたモスクワのシェレメチェボ空港に到着。翌日から「日ソ定期外相協議」がソ連側の外務省別館を会場に開始され
た。

1月だから氷点下20度ぐらい。首筋がチクチクと痛かった。「帽子を被って凍傷を防げ、春になったら頭が融けるぞ」と誰かから注意された。慌てて用意してきた毛皮の帽子を被った。3日目は既に3回目の外相会談。向こうが無理難題を含む日ソ平和条約原案を突きつけてきたから、すかさずこちらも兼ねて用意の対案を突きつけて「ちゃら」。息づまる駆け引きだった。

しかし30分後には日本大使公邸で園田大臣主催の昼食会が開かれ、其処に日本のすき焼きが初めて登場したのである。牛肉に砂糖を絡めて葱と豆腐や春菊を醤油で煮た料理にソ連人、如何なる反応を示すか興味津々だった。非礼も忘れてせっせと撮影した。

国連大使時代は常に拒否権を行使して「ミスターニエット(反対)」と綽名されていたグルムイコ外相。おとなしい顔で、すき焼きを左利きの箸を上手に使ってパクついていたので感心した。西欧においては決して美味であるはずのない砂糖まぶしの牛肉でも平気な表情で飲み下す、これは一種の気迫だろう。

すき焼きの語源・由来
すき焼きは江戸時代から見られる名で、鍋の代わりに農具の鋤(すき)の金属部分の上を火にかけ、魚や豆腐を焼いて食べたことから、「鋤焼(スキヤキ)」と呼ばれるようになった。確かこのことを佐藤事務秘書官は大臣に「挨拶」で言わせた。

その他、すき焼きの語源には、肉を薄く切るため「剥身(すきみ)」から「剥き焼き」となったとする説や、古くからある日本料理「杉焼(すぎやき)」からとする説、好きなものを焼くからといった説もある。しかし、1832年の「鯨肉調味方」に「鋤焼とは、鋤のよく擦れて鮮明なるを、熾火の上に置きわたし、それに切肉をのせて焼くをいふ。鋤に限らず、鉄器のよくすれて鮮明なるを用ふべし。」とあるため、鋤の上で焼いた説が有力とされている。

江戸時代のすき焼きは、牛肉が禁止されていたため、鴨肉や猪、鹿などの肉が使われ、現在の焼肉や鉄板焼きのようなもので、関西風すき焼きにその名残をとどめる。

文明開化後、牛肉が庶民の食べ物として普及してからは、東京を中心に割り下を使うすき焼きが広まり、「牛肉鍋」や「牛鍋(うしなべ)」と言われ、やがて「牛鍋(ぎゅうなべ)」が関東では一般的な呼び名となった。全国的にすき焼きと呼ばれるようになった時期は、それほど古くないようである。

また、牛肉を用いるすき焼きが一般的となったため、「すき」に鍋物の意味を持たせ、牛肉以外の材料を用いる時は「魚すき」「鳥すき」「うどんすき」などと呼ぶようになった。

すき焼き(スキヤキ)とは、肉を浅い鉄鍋で焼いた、あるいは煮た料理。割下を用いた甘辛い味つけの料理の総称として「すき焼き風」という呼称も用いられる。牛鍋ともいう。

すき焼き(関東風)

一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、葱、春菊、椎茸、豆腐などの具材(ザクと呼ぶ)が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵をからめて食べる。

しゃぶしゃぶの薄切り肉は熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚いことが多い。

日本では幕末になるまで、仏教の戒律などのため牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していた。

古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理である。

さらに享和元年(1801年)の料理書『料理早指南』では、「鋤やき」は「鋤の上に右の鳥類をやく也、色かはるほどにてしょくしてよし」と記述されている。

また文化元年(1804年)の『料理談合集』や文政12年(1829年)の『鯨肉調味方』にも具体的な記述が見られ、使い古した田畑を耕す農具の鋤(すき)を火にかざして鴨などの鶏肉や、あるいは鯨肉などを加熱する一種の焼肉であったことが判る。

この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という2種類の料理が、牛肉の鍋物としての「すき焼き」の起源と言われている(なお「すき身」の肉を使うことから「すき焼き」と呼ばれるようになったという説もある)。

安政6年(1859年)に横浜が開港すると居留地の外国人が牛肉を欲しがり、地方から牛肉が運ばれるようになった(神戸からと言われている)。

このような状況で文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた伊勢熊(いせくま)が牛鍋屋を開業する。明治元年(1868年)、外国人向けに東京・芝に屠牛場ができた。

以降、東京でも牛鍋屋が流行し、以後牛食は文明開化の象徴となる。仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』(1871年)に描き出している。この関東の「牛鍋」に対し、関西では先に焼いた牛肉の上から割下を張る「すき焼き」が行われおり、次第に関東でもこちらの「すき焼き」という呼称が定着していったようである。

横浜にはぶつ切り牛肉を使い、適宜、割り下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る牛鍋を供する名店がある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。

イノシシのボタン鍋の転用で、味噌煮込みであったらしい。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋もこうした味噌鍋が主流であったと思われる。先述のぶつ切り牛肉の味噌鍋の店もこうした牛鍋のプロトタイプの名残りと見る事ができよう。

調理法の違い

関東と関西ではその調理法に違いが見られる。関東のすき焼きは明治に流行した牛鍋がベースになっており、だし汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた「割下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮る。

関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに砂糖をまぶし醤油を直接加えて味付けをし、割下は用いない。

東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあるといわれる。現在では割下を万能調味料として売り出していることもあり、境は明確ではなくなってきている。

肉と水のでる野菜を同時に焼かない点、こんにゃくなど肉を硬くする作用をもつものをいっしょに焼かないことなど、関西風はこだわりがあるのも特徴である。

北海道や新潟県ではその昔、牛肉ではなく豚肉を使うことが一般的であった。これはかつての北海道や新潟県では牛肉が高価だったせいもあり、牛肉を食べる習慣が余りなかったためである。しかし比較的安価に牛肉が提供されるようになった現在では、牛肉を使う場合が多い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。


2006年10月10日

◆声明・条約・宣言・ 空文



         渡部亮次郎

【北京8日新華網】 胡錦濤・国家主席は8日午後、人民大会堂で安倍
晋三・総理大臣と会談した。(中国政府の公式発表)
http://www.xinhua.jp/newsdetails.aspx?newsid=P100002970

<胡錦濤主席は、中日国交正常化以来の中日関係の発展を評価。前総理
の靖国神社参拝問題などで悪化した中日関係を修復し、双方の努力で、
長期的に健全かつ安定した関係を築いていきたい、と語った。

胡錦濤主席は今後の両国関係の方向性として、歴史問題や台湾問題を適
切に解決し両国関係の政治的基盤を固めること、投資や技術面での経済
交流を拡大すること、政府および民間の人的交流を強化して双方の理解
を深めること、地域的・国際的な立場からより高度な関係を築いていく
こと、などを挙げた。

就任後初の訪問先に中国を選んだ安倍総理は、中日関係を高く重視して
いることを強調。過去の戦争で中国国民に多大な損害と苦痛を与えたこ
とを深く反省し、平和の道を歩むことを表明した。

「中日経済は相互に影響しあっており、中国の発展が日本の経済回復を
後押ししている。今後は経済だけでなく、文化・教育・人的交流など幅
広い分野での連携を強化し、中日関係を高度な次元に高めていきたい」
と語った。

中日首脳は会談の成果を「日中共同プレス発表」と題した合意文書にま
とめた>。

その第3項が気に入らない。

<3.双方は「日中共同声明」(田中内閣)「日中平和友好条約」(福
田内閣)「日中共同宣言」(小渕内閣)の原則を順守し、歴史を教訓に
しながら共に平和な未来を築いていくことで合意した。>とある。

私はこのうちの日中共同声明と日中平和友好条約については直接関係し
たのだが、声明・条約・宣言いずれも空文化したのが日中関係の現状。
いくらそんなものをまとめても意味がない。極端に言えば、双方の役人
たちがその時々の思惑を形式という包み紙で包んだ空約束の羅列に過ぎ
ないのではないか。

共同声明1972年、平和友好条約1978年、共同宣言1998年。何の変化も改
善も進歩もなかった。まさに賽の河原。それなのに、それを守ることを
今回(2006年)誓い合った、だから訪中成功?冗談も程ほどにしろ。

「日本の進路」(日本戦略の研究会)で佐藤ライザ xkl@104.neさんと
いう方が「北京共産党政権と一般のChinese とを区別して付き合え」と
次のように指摘している。http://www.geocities.jp/npnxr/

<◇ 日本の外交・経済交流(貿易・China 国内への投融資等)に関し
て、相当多くの日本人は、北京共産党政権と一般のChinese とを、ごち
ゃ混ぜ(混同)しているように思われます。

◇ China は1949年来、北京共産党政権が、蒋介石の国府軍等を制圧
(駆逐)して、自分達がChina の主(ぬし)の如く振る舞っています。
彼等は建国後十数年と叫んでおり、過去のChina とは無関係を自ら宣言
しています。

◇ つまり、北京共産党政権のChina は、太平洋戦争(第2次世界大戦)
勝者では、決してありません。理由は、(日本が敗けた)1945年当時、
北京共産党政権のChina は、未だ誕生していないからでありま。かかる
政権が、United Nations(戦勝国連合)の場で、拒否権を有するのは完
全に矛盾しております。

◇ 「現代版封建領主」と言える北京共産党政権は、その権力が強大な
ため、これに反発(反対)している非常に多数のChinese が、「没法子」
(メイファーズ、仕方がない)と当面我慢しているに過ぎません。

◇ Chinese は本質的には「商」の民です。「モノ造り」ではなく「交
易」で財を為(な)すのです。その源流は「史記」の「貨殖列伝」にあ
ります。「カネ」を愛好し本来「共産主義」とは全く相容れません。い
つの日か隙あれば、刷新(革命)をして北京共産党政権を打倒する「切
々たる意欲」に燃えています。

(注) 貨殖列伝: 史記の最後「第69」にあります。Chinese 金銭哲学
の基盤をなす宝庫です。この中に、「農は工に及ばず、工は商に及ばな
い」とあります。しかし日本民族なら、農をバイオ・遺伝子・種子産業
で進展させ、工をハイテク科学技術によって、商を凌駕することが可能
であります。

◇ 日本民族は、かかるChinese と北京共産党政権との水面下の暗闘を
熟知して交流する必要があります。当面、北京共産党政権は中長期に強
いと思われている反面、あっと言う間に崩壊する危険性を孕(はら)ん
でおります。極めて強大であった「秦帝国」は、始皇帝の没後わずか4年
にして崩壊(BC206年)した事実を肝に銘じて置くべきであります。

◇ 同じ「金銭集団」と言われているユダヤ人との最終的な勝負が、そ
れ程遠くないと予測しております。日本民族は、China 国内に踏み込ん
で、投融資・製造販売の拠点を中国に移してはなりません。大損害の危
険が迫っています。シーパワー日本の活路は、海浜(港湾・沿岸)止ま
りの交流に留めるべきであります。>2006/10/10


改めて両国が交わしてきたその文書を読み直すと、約束とくに主権及び
領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び
互恵並びに平和共存の諸原則をいつも破ってきたのは中国であったこと
を改めて知る。

安倍総理の訪中実現で、外務省や政府関係者にはやや楽観的な空気が流
れているやに聞くが、反日をやらなければならない理由が中国側にあり、
それが解消していない以上、警戒をゆるめてはならない。

胡総書記は上海派の排除など、江沢民勢力の追放に成功しつつある。し
かし内部の権力争いは共産党政権の特質であ利、永遠である。「喧嘩は
済みましたか、喧嘩をしなければ互いを理解する事はできません」とか
つて毛沢東は田中角栄首相に言ったではないか。

櫻井よしこさんが「週刊新潮」の連載コラム「日本ルネッサンス」
第234回(2006年10月12日号)で述べている。

<胡錦濤政権は、江沢民前政権より柔軟かつ前向きの対日姿勢をとるだ
ろう。中国はそれでも、国際社会で展開してきた反日情報工作を止める
ことはない点を忘れてはならない>。2006・10・10


2006年10月09日

◆悪たれ坊主の悪たれ

                渡部亮次郎

2006年10月9日、日本は国民の祝日、体育の日で新聞各社は夕刊を休み、
翌日も朝刊の休刊日であるところを狙ったのか。

<北朝鮮が「地下核実験」 朝鮮半島に重大局面>という紙面が読者に
届くのは事件から丸1日経った11日午後である。なんとも念の入った計算
ではないか。

尤も谷内(やち)外務次官はワシントンで「早ければ日曜(9日)にも」と予
想していたから、驚かなかった。それにしても悪たれた悪たれはこれか
らどうしようと言うのだろうか。

続きを読む≫≫

2006年10月08日

◆増加!子供の糖尿病



              渡部亮次郎 

<1型糖尿病

1型糖尿病(いちがたとうにょうびょう)(ICD-10:E10)は、インスリン
の供給異常による糖尿病。血糖を下げるホルモンであるインスリンの分
泌が低下するか、ほとんど分泌されなくなるため血中の糖が異常に増加
する病気である。

20世紀前半にインスリンが治療応用されるまでは、極度の食事制限を要
する致死的疾患の1つであった。膵臓のランゲルハンス島でインスリン
を分泌している細胞が死滅する事によって起こる。

根本の原因は現在解明されていないが、膵組織にはリンパ球の浸潤が見
られ、炎症性のメカニズムが想定されている。血中に自らの膵細胞を攻
撃する自己抗体が認められるものを1A型(自己免疫性)、ないものを1B
型(特発性)とする。

飲み薬は無効で、患者はかならず注射薬であるインスリンを常に携帯し、
毎日自分で注射しなくてはならない。インスリンを注射しなければ、容
易に生命の危険に陥る。また、1型糖尿病のなかでも、「劇症1型糖尿病」
という数日間でインスリンが枯渇するさらに危険な病もある。

2型糖尿病

2型糖尿病(にがたとうにょうびょう)(ICD-10:E11)は、インスリンの消
費の異常による糖尿病。欧米ではインスリン抵抗性が高まる事が原因の
ほとんどを占めるが、日本では膵臓のインスリン分泌能低下も重要な原
因である。

前者では太った糖尿病、後者ではやせた糖尿病となる。遺伝的因子と生
活習慣がからみあって発症する生活習慣病。糖尿病全体の9割を占める。
>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本では糖尿病といえば中年のかかる2型が大部分。しかもこれは、遺伝
的因子があるとはいえ、殆どのきっかけは運動不足と肥満であるから
「生活習慣がからみあって発症する生活習慣病」と言われ、中年だけの
病気と考えられてきた。

ところが1990年代に入って子供の肥満による糖尿病が数千人に1人の割合
で見つかるようになってきた。飽食の時代が始まって何年だろう。戦中
戦後の貧食?の時代は糖尿病なんて聞かなかったし、まして子供の2型糖
尿病なんて、聞いたことがなかった。

これは発見のきっかけがあったからでもある。つまり子供の身体検査で
尿糖検査なんてしなかったものだが゙、1990年代からするようになったか
らである。

産経新聞(2006・10・02)によれば、肥満度50%以上と言う高度肥満の子供
が最近増えた。中3男子生徒の例。母子家庭で母親が留守がちのためイン
スタントや冷凍食品中心の食生活。運動らしい運動は殆どしなかった。

その結果、中学入学前後に一気に20-30キロも太り体重は100キロを超え
て、検査の結果「2型糖尿病」と診断された。

糖尿病は発症しても自覚症状がない。自覚症状が出るまで10年以上かか
ることが多いそうだ。しかも自覚症状が出たときには深刻な状況となっ
ている。この生徒も太ったとはいえ検査しなければ糖尿病は発見できなかった。

血液の中の糖分の過剰な状態が続くと、ガソリン車に砂糖をぶち込むと、エンジンが駄目になるのと同じで、毛細血管が内部から破れたり詰まったりする。脳卒中、心臓病、腎不全、目の網膜症(盲目)、足の壊疽などが起きる。

世間では「子供は2型糖尿病にはかからない」との「迷信」が流布されているし、太った子ども自身も自覚症状がない以上、インスタントやレトルトの食品を食べ過ぎるな、運動をやれと言われても、守る事は難しかろう。

この病気は今の医学では一生、治癒はしないが、医師の適切な指示を守れば、若死にすることはない。何もしなければ他人より10年は早く死ぬとされている。

私の周囲の例では60に満たない女性が、最近のある日、突然、目が見え
なくなり、病院に行ったところ糖尿病による網膜症と分った。しかも全
身の浮腫みは腎機能の不全からと分り、いきなり週3回の人工透析開始と宣
告されてしまった。

女性は若いときに遺伝的因子から糖尿病と診断されていた。しかしこれ
といった自覚症状のないまま油断していた。その間、高すぎる血中高糖
度は毛細を含む血管を内部から蝕み続けていて、気がついた時は既に手
遅れだったのである。

本人の落ち度であることは尤もだが、仮に夫たる人に糖尿病の知識があ
れば、こうはならなかっただろう。本人が厭がっても通院させ、適正な
対処療法が施され、いきなり人工透析という悲劇にはならなかったはず
だ。

だから、身内の子供が最近、太りすぎと言うことなら、積極的に診察を
奨めたほうがよい。本人は厭がっても周囲が気をつければ何も怖いこと
にはならない。説得をしり込みする大人が悪いのである。子供の健康に
は大人が責任を負っているのだから。2006・10・08

2006年10月07日

◆得手勝手



             渡部亮次郎

得手勝手。他人のことはかまわず、自分の都合だけで考えること。また
そのように振舞うこと。(岩波書店刊「四字熟語辞典」2002・03)

1991年のソ連崩壊に伴う冷戦終結後は、唯一の『超大国』、『覇権国家』
となり、「世界の警察」を自任した。その後も日本や韓国、サウジアラ
ビアやドイツなど国外に多くの基地を持ち続け、パナマ侵攻や湾岸戦争
など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵した。アメリカのことだ。

特に中東地域においては露骨にイスラエル寄りの姿勢を保つため、中東
のアラブ系、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。

それなのに民主主義体制で我々は成功したのだから、地球上すべてが民
主主義で行くべきだとでも言ってるように振舞っているのがアメリカ合
衆国ではないか。得手勝手という四文字熟語が頭に浮かぶ所以(ゆえん)
である。

殆どの国民が移民もしくは奴隷として外国から来た人とその子孫であり、
世界史的に見て比較的新しい国の1つで、その母体になった国々や、その
他多くの国家の特徴を経済的、政治的、軍事的、そして文化的にも合わ
せ持っている。

今の大統領の父ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George
Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - )もアメリカ合衆国の第43代副大統領および第41代大統領(1989年-1993年)という名門。そのブッシュ家は、女系で辿っていくとイギリス王室の子孫だとはいえ、移民は移民である。(喰い詰め者)。

何カ国、どれだけの民族の交じり合ったのがアメリカ合衆国だろうか。
どれだけの得手勝手が集まったことだったろうか。しかし、ぶつかり合
う得手勝手の中から発明したのが民主主義という制度だった。

最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意
見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当
とする点で異なると主張される。日本では反体制思想と決め付けられ、
研究さえまま成らない思想だった。

それが昭和20(1945)年8月15日の敗戦と共にやって来た戦勝連合軍(事実
上はアメリカ)のマッカーサー元帥(げんすい)によって押し付けられ、
教え込まれ、「真実」と思い込まされたのがミンシュシュギだった。

この第2次世界大戦の終結後、アメリカは戦勝国となった上に国土に殆ど
被害を受けなかったこともあり、1950年代にかけて未曾有の好景気を享
受することとなった。

とはいうものの同じく戦勝国だったソビエトは共産主義国として対立す
ることとなり、いわゆる冷戦による共産主義への脅威を受けた。そのためア
メリカは一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らによってヒステリッ
ク的に赤狩り旋風が巻き起きた他、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺事
件が起こるなど政治的な混乱も続いた。

冷戦においては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する資
本主義陣営の盟主として、自由、民主主義の保護の名の下、朝鮮戦争や
ベトナム戦争など世界各地の紛争に積極的に介入する。これを私はアメ
リカの得手勝手第2弾だったと思っている。

だからベトナム戦争への介入は世界的に大きな非難を呼び、国内世論の
分裂を招いたのは当然だったが、アメリカは分らなかったらしく、無視
した。

単に「反共産主義的」であるという理由だけで、アジアや南アメリカ諸国
をはじめとする世界各国の軍事独裁政府を支援し、その結果、それらの
国の国民に対して政治的不安定と貧困を与える結果となった。

また、長引く冷戦時代を通して軍部と経済界が結びつき軍産複合体を形
成しアメリカの政治・経済・軍事政策に深く関わる構図も生まれた。こ
うしたアメリカの戦争を止められない性質を揶揄して「戦争中毒」と呼
ぶ「左翼」も存在する。

また、「自由と民主主義の橋頭堡」を自称するものの、第2次世界大戦
後に至っても法の上での白人種による人種差別が認められていたようだ。
私は1973年まで行った事がないから知らなかった。

1960年代にはこの様な状態に抗議するアフリカ系アメリカ人を中心に、
法の上での差別撤廃を訴える公民権運動が行なわれ、1964年7月に、リン
ドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国によ
る差別禁止)が制定された。

だが、その後も現在に至るまで先住民や非白人系移民とその子孫(アフ
リカ系アメリカ人、ヒスパニック、日系アメリカ人など)などの少数民
族に対する人種差別問題は解決されておらず、大きな社会問題として残
っている。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は第3の得手勝手ではないだろうか。「テロ支援国家」としてイラン、イラク、北朝鮮を名指しで非難しアフガニスタン侵攻、イラク戦争へとつながったが、イラク戦争には「石油を狙った侵略行為」であると批判する声があがるのを留める方法はない。

上記テロ事件を境として、アメリカを取り巻く環境ないしはアメリカの
世界への対応は劇的に変化し、国際情勢や各国間の関係にも大きな変化
がおこっている。

現在もアメリカは「アメリカの死活的利益擁護のためには武力行使を含
むあらゆる手段を選択」と宣言しているが、同時多発テロ後のアメリカの
やり方に対して「全体主義の傾向が強まりつつある」と言われている。

2005年以降、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき具体的
な法令的根拠・令状なしに、国内で盗聴・検閲等の監視活動を行ってい
ることについては批判の声が上がるのは当然だ。

イラク戦争の強引な姿勢は世界中で反米感情を引き起こし、アメリカの
国際的な影響力の低下を招い手いるのではないだろうか。砂漠の砂嵐の
中で民主主義をやっていたのでは、投票中にみんなが吹き飛ばされて死
んでしまうと思うのだが、アメリカ人には判れない。世界的な得手勝手。

私は決して反米主義者ではない。ただ他民族社会なるが故に単細胞的な
政治制度を採って来たアメリカが、地球の中華を目指す中国と2020年ご
ろ本格的に対峙する事態を迎えた時、きちんと対抗できるか、極めて心
配なのだ。

日本の安全保障をこんな単純性脳膜炎におんぶしていて大丈夫なのか、と。

参照:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2006・10・06

2006年10月06日

◆青年は地方を目指さない



         渡部亮次郎

「青年は荒野を目指す」という小説だか唄だかがあったが、あれをもじって言えば「青年は地方を目指さない」という冷厳な実態に突き当たる。

以下、朝日新聞の報道である。

<新人弁護士、東京一極集中 合格者増した効果出ず

今秋、司法修習を終えて弁護士登録した1144人の半数が東京に集中していることが、日本弁護士連合会(日弁連)のまとめで分かった。

一方で山梨、函館、釧路、鳥取の弁護士会への登録はゼロだった。

身近に相談できる弁護士がいない「司法過疎」を解消しようと、政府は司法試験合格者数を大幅に増やしてきたが、東京一点集中は進む一方で、日弁連は地方で働くよさを知ってもらう計画に初めて取り組む。

新たに弁護士登録したのは04年の司法試験合格者で、今月、司法研修所を修了した1386人の一部。その他は裁判官、検事の道に進む。

全国50の地裁所在地別にみると、新人の登録は東京が579人。大阪128人、愛知55人、横浜48人が続く。

一方、ゼロの4カ所のほか岩手、秋田、徳島、高知には1人、栃木、福井、富山、山形、旭川には2人しか新人は来なかった。

すでに全国に約2万人の弁護士がいるが、5割弱は東京に集中。司法改革で、政府は司法試験合格者を90年の500人規模から増やし続け、昨年は約1500人が合格した。

しかし勤務地を選ぶのは本人の自由。高給と言われる渉外事務所や企業関連の仕事が多い東京の新人登録率は03年以降昨年まで57%、53%、56%で推移し、人気は根強い。

来年には新司法試験の合格者も加わり、修習修了者の数は今年より約1000人増える見通し。「大都市だけでは就職難は必至」という危機感から、日弁連は各地の弁護士会の情報提供などを通して、地方の弁護士を増やす活動を進める。

地方の司法の活性化などを目指し、今年6月にできた日弁連弁護士業務総合推進センター副本部長の秋山清人弁護士は「1人でもできるのが弁護士の仕事の魅力だが、最近の若手は大都市・大規模事務所志向が強い。地方で活動するやりがい、生活の充実度を知ってもらえば状況は変わると思う」と話している。Asahi Com 2006年10月05日14時14分)

「日弁連は地方で働く良さを知ってもらう計画に初めて取り組む」というが、地方で働く良さを知っても行かないのが真実ではないだろうか。

私は東北地方の個人病院の後継院長探しを依頼されて数年頑張ったが、遂に捜せなかった。

その原因は待遇とか生活条件とかではなかった。「地方にはいい学校が少ないから、子供の進学がブレーキになる。最新の医療技術もみがけない。いい病院が無いから、健康維持に問題が起きる」というのが真実だった。弁護士も同じではないだろうか。

「最近の若手は大都市・大規模事務所志向が強い」と今年6月にできた日弁連弁護士業務総合推進センター副本部長の秋山清人弁護士は仰るが、それは若者の罪でも我がままでもない。人生を効率良く生きようとしているからだ。

61年前、史上初めて敗戦するまでの日本は、親の面倒を長男が見るのは当然とされていた。だから長男は親はもちろん兄弟からも一目置かれていた。

ところが敗戦と共にマッカーサーが押し付けた文化は「効率的」
「合理的」だった。憲法も民法もその方向に変えられ、早い話が日本社会は崩壊した。

その上に経済の高度成長路線と高学歴社会を構築したために、人口の都市集中、というよりも東京圏への過度な集中となった。社会を効率的、合理的に運用すれば、当然の帰結である。

外に出て手を上げただけでタクシーが来る。劇場は近い、音楽会もしょっちゅう開かれる。買い物も便利、飲み屋も近い。有名大学も集中し手居る。子供の進学を考えれば、地方で暮らそうと言う親は、ちょっと変わり者と言われるわけである。

1970年代の田中ブルドーザー内閣以来、地方を守るためにいわゆる公共事業を通じて国家予算をばら撒いてきたが、とうとう息切れ。国家財政は悲劇的な状態になっている。

そこで小泉内閣がようやく大鉈を振るい、公共事業を減らして政治の「効率化」と「合理化」を断行した。その結果が、地方都市メインストリートの連続シャッター街となって現れたわけで、これも当然の帰結なのである。

若者はそうした地方を逃れて都会生活を満喫した。しかも大変な努力を合理的、効率的に展開した結果、司法試験合格という滅多にないエリトコースを獲得した。それなのに、また悪条件の待っている不合理で非効率的な地方へ行く、という決断ができないのは当然である。

「地方で活動するやりがい、生活の充実度を知ってもらえば状況は変わると思う」という日弁連の見通しは法律の3段論法に反している。只の苦し紛れの見解ではなかろうか。少なくとも戦後80年の日本歴史の流れには逆らった見解である。

司法試験合格者を90年の500人規模から増やし続ける政府の司法改革なるものがそもそも地方を馬鹿にしている。「増やせば溢れて地方に落ち延びる奴も出てくる!」。こういう馬鹿なことを考える奴を『試験に強い馬鹿』という。

地方には医者も足りない、弁護士は来ない。都会では今に弁護士だらけ。アメリカのように弁護士は終いに訴訟を起こすよう奨めに歩くようなことにならないか。都会では既にそうだが。

「分ったようなことを言うな」と叱られそうだが、我々が味わっているのは、「国家100年の計」ならぬ80年ぶり「敗戦の悲しみ」なのではなかろうか。しかし、困ったなぁ。2006・10・05