2009年04月02日

◆社説は空しいから読まない

     渡部亮次郎「頂門の一針」主宰

一連の地方におけるいわゆる官製談合事件は、摘発はあっても消滅策はありえないから、頼むから新聞の社説よ、論説よ、取り上げるなと祈っていたのに、産経新聞(2006/12/05 05:01)が「主張」(社説)で取り上げてしまった。

3年前のことだが、各社の姿勢は「綺麗ごと」である事、不変だから今でも似たような論説を読まされているはず。私は新聞そのものをなるべく読まないし、論説は特に読まない。

3年前のは、先ごろ判決の出た宮崎県知事(当時)による汚職に関するもの【主張】宮崎県知事辞職 不正の構造に決別はかれ と題した。

<官製談合による自治体トップの逮捕、辞職が相次いでいる。福島、和歌山県に続いて、宮崎県の安藤忠恕(ただひろ)知事が辞職した。まさに“談合列島”といえる異常事態を招いている>。

<それにしても、安藤知事の辞職表明は遅きに失した。先月29日に県ナンバー3の出納長が逮捕された時点で、県民の大半は安藤知事が「道義的責任」をとり、辞職するものと予想していたのではないか>。

ここまでは駆け出しの記者でも書ける「経過」。問題は結論である。

<福島、和歌山、宮崎県の官製談合事件の検察・警察当局による摘発で、地方自治体の談合体質が同じ土壌にあることが浮き彫りになった>。

地方自治体でなぜ首長を頂点とした汚職事件が起きるのか、談合体質が同じ土壌となっているのかの事実解明が記述されていない。

<知事と個人的に親しいフィクサーが県政に暗躍する。和歌山の場合は元ゴルフ場経営者であり、宮崎は元国会議員秘書だった。これらの人物は選挙の時に知事に業者を紹介、恩を売って、その見返りに公共工事の入札に業者を参加させるという仕組みのようだ>。

<このような談合構造は、他の自治体でも似たり寄ったりであろう。いまこそ、政官業が巧みに癒着した談合体質からの脱却を図る必要がある>。

そんなことは論説委員殿に指摘されなくても分っている。当事者の首長こそ談合体質から脱却したいのは山々だからだ。他に選挙資金を調達する方法があれば、絶対的なこの泥沼から這い上がりたいはずだ。だが方便がない。

無いからこうして捕縄につながる汚辱の危険を冒してまで調達したのだ

<知事は予算と人事権を握る絶大な権限を握っている。業者との関係には自らを厳しく律しなければならない>。

なにを目出度いことを言ってるのだ。自らを厳しく律してなおかつ選挙資金の入る方法があるというのなら教えて貰おうじゃないか。空虚な論は休みやすみにしたまえ。

<公共事業の入札には特定業者が入り込まないような透明性のあるシステム作りが求められる。全国の自治体の首長は、一連の事件を“対岸の火事”とせず、早急に入札制度を改善し、不正根絶に邁進(まいしん)してもらいたい>。(2006/12/05 05:01)

そんなことは簡単だ。しかし選挙資金はどうやって調達するかも教えてくれ。それが無いならこの「主張」は空理空論だ。読むんじゃなかった。
                                     2006.12.05

(追記)安藤忠恕被告には2009年3月、懲役3年半の判決があった。

◆本稿掲載の全国誌・「頂門の一針」平成21年4月1日(水)1498号
<目次>
・社説は空しいから読まない:渡部亮次郎
・農業は国の基・豊かな国土を生む:加瀬英明
・「親北勢力」を見極めよう:花岡信昭
・IMFで中国が態度を豹変:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

■全国誌「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
 下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    



2009年03月31日

◆北国の遅い春

渡部亮次郎

高校の時、作文で95点を貰ったことがある。雪国の秋田で遅い春の到来を忍耐強く待つ辛さと楽しさを綴ったものだった。秋田の春は温暖化で多少早まったろうが、桜の開花はそれでも東京よりは一月遅れである。角館の枝垂れ櫻はもっと遅い。

何しろ、子供のころは、秋10月から鉛色の曇天が続き、11月と共に霙(みぞれ)の季節となる。農家の軒先は吊るした干し大根で真
白。干し柿は無い。水稲単作地帯だから柿の木は存在しなかった。

12月に入ると初雪が舞い、やがて根雪になる。10歳未満の児童は一斉に霜焼にかかる。主に手足の平が軽い凍傷にかかり皮膚が破れる。夕方、気温が下がると痛みが酷くなる。泣いた。よく覚えている。傷跡が両手足にケロイド状に残っている。今ならビタミンEを補給すれば簡単に治るそうだが、あの頃はビタミンEすら未発見ではなかったか。

国民学校では「初日の出」と言う言葉を習った。元日の日の出と言うが、秋田で元日に日の出る事はあり得ない。「先生は嘘を教えちゃいけない」と文句を言ったら親父が先生に呼びつけられ、理屈のきつい子だと怒られた。親父は喜んでいた。

秋田の冬は寒いと言っても氷点下5度ぐらいが限度。長じて暮した背中合わせの岩手県の盛岡市ではマイナス10度はざら。目覚めると掛け布団の襟が凍っていたっけ。

しかし秋田がそれより暖かと言っても油断はならない。盆地の盛岡市は夜、月が出て風も吹かないが、秋田ではシベリヤからの強烈な北風が吹き続けた。小学校(戦争当時は国民学校)3年までは下校時、吹飛ばされて小川によく転げ落ちた。

戦争当時は輸入と言うものが全く途絶えたから、東南アジアからの
ゴムの輸入が無くなった。雪道を学校まで4キロを通うのにゴム長が無い。再生ゴム長は3日で破れた。

仕方が無いから日露戦争でラッパ手だった爺さんが編んでくれた藁靴で通った。暖かくなったら雨の日は裸足で通学した。足の底が飴色のゴムのように固くなったっけ。

藁沓を編む爺さんの手許を見つめているうちに、子供ながらに編み方を覚えてしまった。親父は編めなかったので私が兄弟たちの分を編んだものだが、東京に出てきたら綺麗に忘れた。

当時はテレビは勿論、ラジオでも天気予報と言う情報はなかった。天気こそは国家の最高機密だから予報は公開されなかった。まして戦争末期,大都市へのアメリカの空襲が始まると、益々、予報は秘密にされた。

私の生まれた農家は葦葺の家。近くの八郎潟を渡って吹雪が叩きつける。薪ストーブを真っ赤になるまで薪を燃やして冬の過ぎるのを待つしかない。戦争中とて、つける薬も皆無だから霜焼はふさがれないまま、耐えるしかなかった。

予報がないから、春の音は霜焼の痛さで感じ取る以外になかった。

それが3月に入ると雪が止んで、太陽が大げさにいうと半年振りに顔を出す。何十センチもあった根雪が見る見る融けていく。道路のが融けて、田圃ふぇも融け始める。道路はやがて乾き藁草履で歩けるようになる。心が歓喜で躍る。これを待つために雪に耐えてきたのだ。霜焼は完治していた。

当時、秋田の田圃までマスコミは届かない。だから4月末になって櫻が咲くと、日本中がやっと春になったと思ったが、長じて東京では既に一月以上前に花見が終わっていたと知って、自分の生まれ育ったところが、飛んでもない片田舎である事を思い知らされた。

東京へ来てみると、太陽は冬ほど多く照る。テレビが「秋田沖に低気圧があって日本海岸は雪」と言っているとき、東京は快晴である。
少年時代、曇天、霙、吹雪の半年。霜焼、皸(あかぎれ)で痛めつけられた少年時代は大変な損害だった事を思い知った。

高校の同級生の一人が秋田から冬晴れの東京にやってきて、子供たちの帰りたがらない謎が、この晴天にあると納得できたと呟いた。

いで はくは千 昌夫に「北国の春」で白樺 あおぞら 南風と唄わせ、お袋から届いた小さな包みが山菜であることを示唆している。
誠に躍動する北国の春を謳いあげているが、あれはどうも「いで」の郷里の長野県の春で東北の春では無い。

95点をくれても秋田の冬には帰りたくない。73歳。掌に残る霜焼に目をやりながら「北国の遅すぎる春」に思いを馳せている。
2009・03・29





2009年03月29日

◆スパイは普通のおっさん

渡部 亮次郎

スパイがスパイらしく見えたら、それは失敗だ。平和ボケ日本人は「あんなに子供たちにも優しかったおじさんがスパイだなんて信じられない」というが、そう信じさせるのがスパイの初歩なのだ。

2006年7月初旬に起きた北朝鮮によるテポドンなどの発射事件では、各国スパイの活躍による様々な情報収集が攻防の前提になった事は当然である。

スパイと売春婦は人類史上,最も古典的な職業といわれるくらいだから、人間が、派閥であれ、自治体であれ、国家であれ、集団を維持して行くための必要不可欠の情報人間がスパイなのだ。

20世紀に入るや、科学と技術の進歩により、人工衛星や盗聴器、インターネット等、様々なスパイ機器が前面に出てきたが、所詮、心を読まなければ、相手の抱いている意図の真相を把握できない以上、スパイの需要は益々高まっているといえないだろうか。

スパイ (Spy) とは敵対勢力などの情報を得るため、合法違法を問わずに情報入手や諜報活動などをする者の総称である。工作員(こうさくいん)間諜(かんちょう)、間者(かんじゃ)、密偵(みってい)とも呼ぶ。

“スパイ”と呼ぶのは敵方の者のみで、味方の者はエージェント(代理者)と称する言い方もある。

政治・経済・軍事機密・科学技術などの情報をいち早く入手することは戦時・平時を問わず戦略上重要であり、この種の行為は古代から行われてきた。世界各地の神話や古文書にもしばしば描写される。日本の忍者やお庭番もスパイの範疇に属する。

SPYは、espy(見つける、探し出す)と同じで古期フランス語でespion(見張る者)の意味がある。espionage(諜報活動:現仏語)の語源。印欧語で「見る」を意味する語幹「spek」に由来する。

近代以降、各国はスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げた。特に第2次世界大戦後の東西冷戦期には、世界各地で激しいスパイ活動が行われ、多くのスパイ事件が発覚してもいる。

この状況は、米ソ二極体制が終結した現在でも変わってはいない。一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官・駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。

小説、映画の影響により派手な活動が連想されがちであるが、古典的表現である「外套と短剣」に表されるように、実際のスパイは実に地味な活動をしている事が多く、本来別の存在である。

忍者や007シリーズ等、大衆向けに膾炙したフィクションが先入観の原因と考えられる。このような破壊活動などは実際には軍特殊部隊によって行なわれている。

あるいは、よくありがちな敵組織に潜入して情報を得るというのも特に大国の間では極めて少ない。なぜなら、基本的に情報公開されているため、合法的に調べれば目的の情報というのは意外に簡単に得られるからである。

しかも、そのようなリスクを犯す方法よりも、目的とする情報がある機関の職員に、異性の諜報員が近づき、恋愛感情につけ込んで情報の取得を頼むケースの方が圧倒的に多い。上海総領事館事件は耳新しい。

スパイをテーマとした小説や映画、漫画などは、冷戦期に盛んに送り出されたものの、近年はやや下火になりつつある。

また危険な任務が多いのに基本的に給料が安い(ケースオフィサーは公務員 内通者に至っては報酬が贋金で支払われたりする事も)為、現在の先進国に限って言えば人気がなく進んでやろうとする人間は稀である。

プロ野球のスコアラーが、次の対戦相手の戦力・戦術分析の為に試合を観戦したりする事から、「スパイ」と表現される事もある。企業における産業の技術情報などのスパイ行為については産業スパイと言う。

戦争を放棄した日本はなぜか諜報活動を自ら放棄したのはおろか、他国のスパイを取り締まる法律も放棄した。スパイ天国である。北朝鮮による拉致事件が大手を振って展開された所以である。国民はまだ目が覚めない。

日本を舞台にした戦後のスパイ事件としては、韓国大統領に当選するはるか以前に韓国の政治家金大中氏が韓国の工作員に東京で拉致され、日本海に沈められそうになりながら母国に運ばれて解放されるという事件が大きい。

私は昭和48年6月ごろ、東京で反朴政権活動を展開する金大中について、在日韓国大使館の金在権公使に質問したことがある。そしたら金公使は「そのうち何とかなりますよ」と不気味に笑った。

私は直後に大坂へ転勤になって問題から遠ざかったが、同年8月8日に事件は起きた。金大中が何者か(韓国中央情報部=KCIA説が有力)により東京都千代田区のホテル・グランドパレス2212号室から拉致されたのであ
る。

もともと金大中は1971(昭和46)年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補。軍事独裁を強いていた民主共和党(当時)の候補・朴正煕現役大統領(当時)に挑戦。敗れはしたが、わずか97万票差までの肉薄だった。

朴正煕は民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えざるを得なかった。大統領選直後、金大中が交通事故に遭った。あきらかに暗殺工作だった。

股関節の障害を負った。その後、金大中も危機感を覚えたのか日本に逃亡し、日本、アメリカを中心に民主主義運動を行っていたさなかの拉致事件だったのだ。

朴正煕は金大中が国内に居ないことを利用し、国内に戒厳令を発令した。その頃、私はソウルを訪問した。閣僚も高官も夜12時前には帰宅した。スパイは夜動くから、捕まえやすいとのことだった。

丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部(KCIA)長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談した。

逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。

この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

そんな中、首都警備団長尹必!)(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。

しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

2009年03月27日

◆同期生529人の73歳

矢野恵之助

秋田県立秋田高校(創立明治6=1873年=9月1日)の1954年度の卒業生は男女あわせて(女子は第1期生)529人と膨大。すでに100人以上が黄泉の国に旅立った。

旺文社を経て永らく日本英語検定協会の専務理事をしていた大釜茂璋が胆管腫瘍を手術すると言う前の晩、渡部亮次郎から電話がきて、先に亡くなった大映テレビ・プロヂューサー柳田博美に対する小生の追悼文を改めて読み,落涙したといいつつ、大釜の手術に一抹の不安をひしひしと感じさせる電話だった。

大釜は術後初の検診(3月25日)の結果、順調な回復が確認された。外科の処置は、病巣が悪性のものでない限り、傷が治れば「ハイそれまでよ」。何にしても大事でなくて何よりだった。

私の前立腺癌は薬が効いて4週間でほぼ治った。ホルモン抑制によって閉じ込められて癌が縮んでしまった、ということだ。だが両手に奇病が現れて往生している(後述)。

先月,船木克己と一緒に秋田市郊外にある障害者施設に同期F君を訪ねた。まだ若い30代の後半に脳梗塞で倒れ、以後,半身不随となりました。3年の時はE組、卓球の選手だった。

彼は毎年,同期会の案内に「行きたいけど,足も金も無い」と返事してくるので、ずっと気になっていた。

面会を求めて待っていると、車椅子に乗ってきたFが私を見るなり「おぅっ やのぉ」と叫んだ。会うのは55年ぶりなのに私のことをちゃんと覚えていてくれた。

左半身の自由はダメだけれど、頭ははっきりしていて、手紙も書ける、とのこと。

「お前、本当に同期会に行きたいか」
「行きたい、皆に会いたい」
「じゃぁ、決まりだ。迎えに来るし、会費は心配するな」。

彼は少し涙ぐんで4月の会を楽しみにしていると言って別れた。
当日は私の長男が車椅子ごと送迎してくれる事になっている。

それから10日ほどして、自宅近くのスーパーの前に自転車で信号待ちをしていると隣に電柱に寄りかかっている男がいる。よく見ると3年のときおなじB組にいたHでは無いか。

秋田大を出て教員になり最後は秋田市内最大の中学校の校長だった。同期会には全然出てこない。「なんだお前、電柱に掴まらないと立ってられないのか」

「そうなんだ」
数年前から腰と首をやられ、手術で背中に4本も金属が入っている。それが痛みになって歩くのが困難。しかし歩かないとダメといわれて、こうして静かに歩いている、とのこと。

歩きながら突然「オレ、困ったよ、女房が1月に死んでしまって・・・」と絶句した。

昨年の秋には2人でスーパーで買い物をしていた。奥さんからは「そのうちに遊びに来てください」と声を掛けられた。だが直後にどこかは聞き漏らしたが、癌が見つかり入院したがあっという間に亡くなったとのこと。

明日三十五日という土曜日に焼香してきた。郊外に嫁いでいると言う娘さんが孫を連れて来ていた。

「お前、炊事はどうしている?」と聞いてびっくり。奥さんは8歳下だったので、自分が先に逝っても大丈夫なように、おそらく退職金で家を改築。下宿屋を始めていた。

なるほど、2階に4部屋が並んでいる、そろって賄いをやっていたから独りになっても炊事は大丈夫とのことだが、なんだか理由と経緯を聞くと悲しくなる。

息子は東京にいるが40過ぎて独身との事。「オレ、ウツになったよ」と言うのも無理はなく、なんともやるせない思いになった。

息子に「親父、葬式はなんとかするから家の解体費は残して死んでくれよ」と言われた人生もある。空き家が異常に増えている。

わたしの指は「ヘバデイーン結節」という奇病で第一関節が変形してきて強烈な痛みが走る。治療法がなく、痛み止めの薬を塗って引っ張るだけ。パソコンを叩く力が残っていないので亮次郎にはFaxでもしてやって欲しい。

私の企画した旅行会纏まる。夫婦7組含む25人。5月7日から姫路―赤穂―出石―城崎−天橋立計2泊3日。配偶者の病気で参加できないメンバーもある。

広島から加茂夫妻,、一宮から藤本、東京から山田珠子、姫路の夕食会には豊田武子、伊藤勲が参加と言う賑やかな一団。
09・03・25





2009年03月25日

◆ドレミファは禁句だった

渡部亮次郎

ラジオ深夜便で超ベテランの筈の宇田川清江アンカーが「コトコトコットン」の「森の水車」が戦時中は発売禁止になっていた、だけど何の差障りも無いこの歌詞のどこに文句が付いたのかしら、と疑問符をつけた。

昭和18年、女優の高峰秀子(三枝子にあらず)が唄ったが、間もなく発売禁止になった。戦後、NHK専属の歌手荒井恵子 がよく唄って普及したが、レコードは並木路子のしか残っていない。

そもそも、対外戦争をすると、歌や言論を統制するのは各国当然の措置だが、生まれてときから憲法で言論の自由を謳歌してきた世代には納得が行くまい。

結論を先に言うと「森の水車」の歌詞に「ファミレドシドレミファ」と言う箇所があり、この部分が外国語なので発売禁止になったのである。ドレミファソラシドは「イタリヤ語」である。戦争に伴って外国語=敵性語として使用禁止。ドレミは後ろから唄っても敵性語とされた。

ドイツとイタリアは三国同盟で「味方」のはずではなかったか。それでもドレミは禁止。その詳しい経緯はまだ調べていない。

<日本語では「ハニホヘトイロハ」、英語では「CDEFGABC」となる。戦時中、唱歌の時間で音楽の先生は「ハニホヘトイロハ」で教えてくれた。今のこどもは「ハニホヘトってなんだ?」

ドレミファソラシの音階を使ったものでは、「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」が有名である。(註:この映画の中では「シ」は「tee」と発音されていた)

ドレミの起源となったのは「バプテスマのヨハネ賛歌」である。
「バプテスマのヨハネ賛歌」は、各節が一音ずつ高くなるため、
各節の歌詞の最初の音節を元に、11世紀イタリアの修道僧で音楽教師でもあった「グィード・ダレッツオ」が、「ドレミファソラシ」を作ったとされる。

「バプテスマのヨハネ賛歌」のラテン語歌詞は以下の通りである。
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famili tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Johannes

「Ut」は口調を良くするため「do」に、「Sancte Johannes」は聖ヨハネのフランス名「Saint Ian」から「si」に変えられ、「ドレミファソラシ」ができ、「ドレミファソラシド」となった。>【語源由来辞典】
http://gogen-allguide.com/to/doremifasolasido.html

「新版 日本流行歌史」(中)=社会思想社=によると「森の水車」は作詞:清水みのる、作曲:米山正夫で作られ、昭和16(1941)年8月,唄:高峰秀子によりポリドールから発売された。

一、
みどりの森の 彼方から
陽気な唄が 聞えましょう
あれは水車の まわる音
耳を澄ましてお聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

二、
雨の降る日も 風の日も
森の水車は 休みなく
粉挽き臼の 拍子とり
愉快に唄を つづけます
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

三、
もしも貴方が 怠けたり
遊んでいたく なった時
森の水車の うた声を
ひとり静かに お聞きなさい
コトコトコットン コトコトコットン
ファミレド シドレミ ファ
コトコトコットン コトコトコットン
仕事に励みましょう
コトコトコットン コトコトコットン
いつの日か楽しい春がやってくる

これが発売禁止処分。戦争をするとはこんなものなんだ。
2009・03・21







2009年03月22日

◆植物性乳酸水で花粉症克服

渡部 亮次郎

2009年3月16日の産経新聞に、花粉症克服のため、東京の食堂会社が花粉症対策メニューを提供して好評を得ているとの記事があった。

魚、レンコン、ヨーグルトなどの食材を継続して食べれば、体質が改善され、症状緩和が期待できるという研究成果が浸透したのに応えたものだそうだ。

私はそんな事を全く考えずに植物性乳酸水を飲み続けたが、酷い花粉症が完全に治り、完治3年目の春を悠々と闊歩している。

植物性乳酸菌は動物性乳酸菌の10倍もの種類があるといわれ、漬物や味噌、醤油など、さまざまな食品にその存在を確認することができる。

植物性乳酸菌には、免疫賦活作用が確認され、病気になりにくい体を守る効果が期待できるとされている。

それは植物性乳酸菌の「生きて腸まで届く力」があるからで、腸内環境を改善する力として注目を集めているわけだ。

日本人の食生活と植物性乳酸菌の関係は、はるか昔にさかのぼる。その代表的なものが、醤油や味噌、糠漬、日本酒、ハタハタ、鮒などのなれ鮨といった発酵食品である。

もともと農耕が盛んだった日本や東アジア諸国では、田畑でとれる作物や魚介類が食糧の中心となる食文化が定着している。

これらの食べ物を乳酸菌や微生物、カビ、酵母などで発酵させておいしくしたり、保存できるようにした日本の食生活に、植物性乳酸菌は古くから関係していた。つまり、植物性乳酸菌は日本人のおなかになじんだ乳酸菌であるといえる。

日本の食文化に古くから根付いた植物性乳酸菌だが、実は世界のさまざまな国の食べ物にも、植物性乳酸菌が含まれていることは日本人はあまり知らない。

近いところでは、韓国のキムチ、中国のザーサイがそれにあたる。ドイツなどヨーロッパのサワークラフト、インドのチャツネ(野菜と果実を煮込んだソース)、タンザニア・ケニアのマサイ族で作られている発酵乳など、植物性乳酸菌は各国で力を発揮している。

ウイルスなどの感染から体を守る「インターフェロン」。その産生能力を高める物質の研究が、ラブレ菌発見のきっかけだ。 京都の人たちが好んで食べる「すぐき漬」から全く新しい乳酸菌の一種であるラブレ菌が発見された。

現在、ラブレ菌でもっとも注目されている働きが、「免疫力アップ」の力だ。ラブレ菌の腸内で生きぬく力の強さを、動物性乳酸菌の代表格である

免疫力は加齢によっても影響を受け、20歳頃をピークにその力が急降下する。そこで普段の食事などから免疫力をアップさせる物質を積極的に取る必要がある。

日本人は古代から米や野菜など食物繊維が多いものを食べてきたので、欧米人にくらべて腸が長いといわれている。その長い腸をくぐりぬけて日本人の健康を長く支えてきたのが味噌・漬け物などの「植物性乳酸菌」由来の発酵食品だった。、「動物性乳酸菌」に比べて、より生きて菌が腸まで届くからだ。

植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」は、腸内の免疫器官に作用し、免疫担当細胞を活性化する「インターフェロン」の産生を助ける大切な役割を担っている菌なわけだ。

食生活の欧米化で植物性乳酸菌を摂る機会が少なくなった今だからこそ、普段の食生活で毎日摂ることを心がけたいものだ。

人生100年といわれる時代、いきいきと健康に歳を重ねて人生を送りたいものだ。

友人の紹介で知り合った長野県安曇野市の会社会長森山憲義さんは独学で植物乳酸水を生産、頒布している。薬事法違反になるからどんな風に効くか、病名を挙げて宣伝する事は絶対に慎んでいる。

だがアトピーが全快したとか慢性の下痢がピタリと止まったという噂を聞いたので取り寄せて飲んでみた。

7年間苦しんだスギ花粉症が完治した。一昨年春からくしゃみも涙も止まった。昨年は花粉が少ないからだろうと思っていたが、格別多いといわれた今年も症状が全くでない。完治していたのだ。

森山さんの植物乳酸水以外に格別飲んだものはないのだから抵抗力がついて花粉症を克服したわけである。友人の中には糖尿病になりかかっている人の血糖値抑制に格別の効果があると喧伝する人もいるが、薬学的な検証はまだなされていないようだ。(執筆 2009・03・16)

資料:カゴメ植物性乳酸菌大学
http://www.kagome.co.jp/style/nyusankin-univ/comprehensive/index.html

2009年03月17日

◆別れの一本松?杉?

渡部亮次郎

ラジオ深夜便を聴いていると、時々吹きだすことがある。

ある日、斉藤季夫アンカーが春日八郎の「別れの一本杉」を紹介する時に「春日さんは郷里の一本松を思い浮かべながら吹き込んだそうです」と言った。

そうしたら次の週、投書があって「斉藤さんは一本松と言ったが、春日さんの郷里は二本松では無いか」と主張。しかし、投書が間違い。春日の郷里は勿論二本松市ではなく、福島県会津西部の中心地 会津坂下町=あいづばんげまち=である。

会津坂下は日本海に注ぐ阿賀川の舟運と、越後街道の宿場として江戸時代から栄えた町。会津若松、喜多方、会津高田、柳津までいずれも3里(12キロ)という地の利が、会津西部の物資の主要な集散地として発展してきた。

大通りに残る老舗の家並みや、裏通りの路地、ひっそりとした寺町のたたずまいに、往時の町の姿を見てとることができる。町内には有名な立木観音や宇内の薬師堂などがあり、町はずれには坂下出身の歌手、春日八郎が歌った「別れの一本松」もある。

越後街道と沼田街道の分かれ道には、かつて心清水八幡宮の門前宿として栄えた気多宮の宿があった。現在も旧郵便局あたりの家並みに、越後と会津を従来した旅人の姿を彷彿とさせる街道の雰囲気が残っている。

若い頃の春日はなぜか出身地を会津若松市と公表していたがが、後に会津坂下町と訂正した。この町からは超有名な作曲家猪俣公章も出た。共に故人。

猪俣未亡人の住んでいた目黒のマンションに私の義姉夫婦が住んでいたが、義兄が2年前に逝去。未亡人となった義姉は近く別のところに引っ越す。

さて「別れの一本杉」は春日の美声で世に出たが、作曲船村徹の出世作であるよりも作詞の高野公男の詞が当時(1955年)の世相にマッチしていたと言われている。高度経済成長で若者が都会に怒涛の如く流入した反面、望郷の歌が望まれたのである。

一、
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘(こ)と別れた 哀しさに
山のかけすも 鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ


二、
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へ ついたなら
便りおくれと 云った娘(ひと)
りんごのような 赤いほっぺたのよ
あの泪(なみだ)


三、
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもゆかずに この俺の
帰りひたすら 待っている
あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はよ
過ぎたろに

高野公男(たかのきみお)

昭和5年茨城県笠間市生まれ。本名・高野吉郎(きちろう)。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を中退して歌謡界に入り、ともに学んだ船村徹と「流し」や「新聞配達」など苦労しながら活動。

当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って船村と共に売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして一躍名の知られる作詞家となった。

その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。

「あの娘が泣いてる波止場」(三橋美智也)、「早く帰ってコ」「男の友情」(青木光一)など船村徹とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。

しかし1955年、『別れの-』のヒットから間もなく公男は肺結核に侵され翌年9月8日、26歳の若さで帰らぬ人となった。

後に彼の生涯は松竹から『別れの一本杉』という題名で映画化された。
船村は未だに高野との友情を語る。2009・03・16

2009年03月15日

◆マシュマロ君、元気かね

渡部亮次郎

見出しにしたマシュマロとは丸いしふにゃふにゃした菓子である。精力の衰えた男性をからかう科白(せりふ)に使われる。話題にこれを持って来たのは、総理大臣が党内大物の権勢をやんわりと、しかし強く牽制するために、前夜の房事で君がマシュマロ状態だったのをオレは知ってるんだぜ、との意味を、肩を叩いて口に出した故事を持ち出して、情報収集の今昔を話そうというのである。

男性の精力。個人差は大きいというが、最も強いのは17歳ごろで、あとは次第に衰えるとの説がある。以後、若人は中年、壮年、老年と進んで死ぬわけだが、伴って生じる地位や権勢、所得がどこまで高く多くなっても、肉体の持つ精力が衰えてはなんとも味気ない、と嘆くのは大体、成功の人生を送った男である。それらと無縁の小生はとうに人畜無害である。

精神的な勢力の権化(ごんげ)こそは政治家だとは良く言われることだが、体験からするに政治家こそは肉体的にも精力の強い者でなければ勤まらない。

田中真紀子の父親の角栄氏が1970年前後、自民党幹事長を勤めた頃、国会で野党を抑えて採決を強行しようとする寸前、泣くような表情で「ちょっと、ちょっとにわとり、鶏」といいながら姿を消した。

記者たちはそれならばと現場指揮の国対委員長を探すと、こちらも秘書にも言わずに姿を消していた。野党も殺気だって来る。田中幹事長はにわとり,にわとりといって姿を消したがなんの意味か。考えて、なるほど、オレは鶏のようにあっという間に(房事を)終わって来るから行かしてくれ、目をつぶってくれと言う意味だったのだ。

敵を攻めに行くとなると戦国武将は俄然、性欲が昂然ときざしたものだと何かで読んだ事がある。幹事長と国対委員長は現代の戦(いくさ)を目前にして戦国武将になったのだ。第2次大戦の最後のところしか体験していない当方に戦国武将は理解できない。しかし幹事長らは間もなく戻って、国会は採決強行で大混乱。しかし幹事長らは既に涼しい顔だった。

政治家のそうした性(さが)を知ってそのウラをかき続けたのが佐藤栄作である。後に総理大臣となりさらにノーベル平和賞も受賞する佐藤だが、「人事の佐藤」と言われる前から「早耳の佐藤」と言われていた。

運輸省(今の国土交通省)事務次官からいきなり内閣官房長官に抜擢されて政界入りした佐藤は外交官上がりの宰相吉田茂に重用され続け、若くして自由党幹事長に達した。その時に危機が訪れる。

大汚職事件・造船疑獄の容疑者の一人に数えられ東京地検に逮捕寸前に追い込まれる。そこで吉田首相が伝家の宝刀を抜くが如く法相に指揮権を発動させて捜査をやめさせるよう命じ、佐藤を逃がした。佐藤はこれが無ければ後世、首相に昇ることは叶わなかっただろうと言われた。

佐藤はこの頃から政界の弱点こそはヘソの下に有りと感得。赤坂、新橋、柳橋といった花柳界における政治家の隠れた動静の掌握(つかむこと)に励むようになる。後年アメリカではニクソン大統領が上下両院議員の弱点掌握に努め、法案の通過に利用したと言われた。有名なウォーターゲート事件はその一環だったと言われたものだ。

ところで佐藤が目をつけたのは料亭の玄関に立っている下足番の男たちである。料亭では客は必ず靴を脱いで上がるが、その靴を下駄箱に座敷ごとに整理して置かないと帰りの時に混乱するから、予め女将から今夜のお客はどこの座敷はどなたとどなたと聞かされている。

どの座敷では如何なるメンバーが会っているかを手に取るように知っているわけだ。何時に来て何時ごろ帰ったか、上機嫌だったのは誰で、誰はどのように不機嫌だったとか。

佐藤はその手を何軒の料亭にも使っていた。秘書がメモを回収し、酒を飲めない佐藤は夜のうちに情報のいわば分析を済ませていた。マシュマロ君、どうかねの科白はこうして簡単に出てきたのである。

君は男としての能力は低下しているらしいね、困ったね、僕はそれを知っているよと言われれば、男は昨夜の秘密をこの男は何で知っているんだとの疑問を持つより先に恐れを抱くだろう。昔から朝何とかの立たない奴にカネは貸すなの喩えがある。マシュマロの旦夕(たんせき=政治生命)は長くないよ。

佐藤はそうやって党の内外を掌握して行った。ヒマさえあれば国会議員の経歴簿を見ている佐藤だった。

大なり小なり国会議員は自分が生きるも死ぬも情報を早く得る事にあるとは知っているから、どんな情報も知りたがる。しかし佐藤のように花柳界にまで特別な方法を尽くしてまで情報を集めた人物はほかに知らない。

翻ってマスコミの情報収集は、少なくとも永田町に関する限りは記者会見に限られるのが今日この頃である。いや、朝駆け夜回りもしているよといってもそれらもまたすべて群れてやるから、本当の情報は掌握していない。

政治家は情報を得たいからマスコミに会う。その時は一度に多数が良い。しかし情報を漏らすのは一対一でなければならない。漏らした情報がどこの誰によってどのように漏れて行ったかが判らなくては困るからである。

従って記者の取る情報は政治家と一対一の時に得たものでない限り信憑性に欠けるといわざるを得ないことになる。小泉首相が毎日マイクの前に来て喋る一言などは真実からは程遠い。自分の都合の良いことを短く切って言っているだけである。短い方がテレビ局のデスクには好都合だと知っているからである。

そうやって世の中を見直して見ると今更ながら気のつくことは幾らでもある。テレビは見ない方が自分を守ることである。また例えば授業で先生がしつこく喋る箇所は試験に必ず出る。

先生は得意のところだから、生徒、学生に覚えてほしいからである。このエッセイは例えばこの4行に眼目がある。これまではここまで解説するのは失礼かと慮って書かなかった。(文中敬称略)2003.10.05


2009年03月12日

◆小沢に代るべき人物なし

前田正晶+渡部亮次郎

西松建設問題が発生して以来の民主党と、麻生首相の迷走が顕著になって以降の自民党の様子を比較すると、非常に対照的で興味深いものがある。

アメリカの企業社会は権力者であり実力者である事業本部長、(屡々副社長)である、は全権を保有しその権力は絶大なものがある。すなわち、その人物に逆らうとか批判することなどは、いわば職を賭して行うものとなる。

イヤ、そのような暴挙は慎むべきことである。嘗てアメリカのW社日本法人の社長を最長期間務め、我々が成し遂げた実績の上に絶大な権力を誇ったアメリカ本社からの駐在員のやり方を私は「恐怖政治」と批判して憎まれた経験がある。

彼に抵抗することはかなり勇気が必要であったにも拘わらず、愚かにも敢えて反抗したからだ。

現在の民主党は11日の産経で「一致結束箱弁当」を想起させると皮肉られていた。同感である。真っ向から小澤退任せよとの声が上がらず表面上は一致団結であるようだ。

鳩山幹事長の談話などは涙ぐましいものがある。あれが「民主」を標榜する政党かと言いたくなる。

一方の自民党はどうだろう。党の有力幹部は言うに及ばず、閣僚までも普通に麻生批判を打ち上げているではないか。こちらでは「自由」と「民主」ともに健在であるようだ、良い悪いは別にして。

私は民主党があの有様では、往年の我が日本法人の恐怖政治を想起せずにはいられない。いい歳をした政治家(だろうが)が集まって表面的には何も言えないようでは、仮令語る足る次期首相候補の姿が見えなくとも、自民党の方が大いにマシかなと思わざるを得ないのだ。それでも小澤代表は政権奪取のために辞任はしないとの声明を出した。矛盾している。(前田正晶)

渡部亮次郎より:前田様誤解しています。即戦力のある政治家がこの民主党にいないだけです。恐怖政治ではなく、発言できる人物がいないだけです。貫禄が無くて。

渡部亮次郎様 有り難う御座いました。そう伺えば、係長や課長級かと思わせる綺麗に纏まった人物はいますが、部長や辺りを睥睨する取締役級がいないようです。(前田正晶)


前田様 誤解を恐れずに言えば、日本の政界から戦争体験者の消えた事が日本の政治を漂流させている原因だと思う。あの大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争と呼ぶよう命令したが)の勃発と敗戦の中で、国体護持に切歯扼腕した日本人。

銃弾にさらされ、砲弾、爆弾を逃れるために削った生命の恐怖。そのなかで思いを致した国家、国民の防護。こうした中で日本人は喜怒哀楽を味わい、何時の間にか胆力を養った。それが貫禄となり、その中の優れたものが政治家となって国を支えてきた。

戦争の惨禍と悲哀を知る総理大臣の最後は竹下登に指名された宇野宗佑であった。神戸高商出身の宇野は小指騒動であえなく舞台を去ったが、元を正せば、シベリア抑留の体験を持ち、胆力のある立派な政治家だった。

それ以後この国を治めようとした総理大臣は戦争とか戦場を体験していない。学力は有しても政治家として最も必要な次代の見通す識見や胆力に欠ける。

安倍、福田、麻生にいたっては3代目が顔を出し、酷いもので、日本語の読み書き不十分という凄い輩さえ出てきた。戦後政治が極まった訳である。

翻って民主党。政界はぐれ鴉の集団。党内に睨みの効く親分資格のある者は小沢一人しかいない。秘蔵ツ子だったかどうかは別として、自民党暗史を彩った角栄門下であり、筋も信念も無かった金丸の門弟である。

しかも秘蔵してもらったという角栄を裏切って竹下に走り、次には金丸をも守れなくなって自民党を裏切って飛び出していった。そんな男でしかないが、その男の下に集まってみたらやっと政権獲得の目が出てきたというのだから、民主党とは初めから情けない政党に過ぎない。

小沢は角栄であり、金丸なのである。民主党は角栄、金丸の下に集まってやっと一人前になりかけた。その途端、角栄バブルははじけた。たった一つの小沢風船がはじけた。代るべき風船は元々ありはしないのだから、「小沢やめろ」という声の出るわけが無い。

残った菅はただの野次り屋、鳩山ただの金持ち、喧嘩できない。松下政経塾も政治学は教えたかもしれないが、政治とは学問ではない。経験に過ぎない。衆議院議員当選3回ぐらいは何の足しにもならないただの経歴。

アメリカといわず日本といわず、会社と政党は訳が違うから比較するのは無理だが、日本の政党にはアメリカの会社の副社クラスもいないことが暴露された。麻生不人気政権と小沢バブルの実態である。
(文中敬称略)2009・03・11



2009年03月11日

◆医学は科学ではない

渡部亮次郎

「医学は科学ではない」と喝破しているのは元医者の作家渡辺淳一氏である。『週刊新潮』に連載中のコラム「あとの祭り」239回(2009・3・12)でそう主張している。

「だが、最近は医学を科学だと思いこんでいる医師が増えてきたようである。患者の固体差を無視して検査データだけを見て。Aの病気だとわかると、その病気に当てはまる注射や薬を機械的に投与して、こと足れりとする」

<渡辺淳一(出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)わたなべ じゅんいち、1933年10月24日-)は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し本格的に作家活動を開始した。

直木賞、吉川英治文学賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。

主題は、伝記(『花埋み』『女優』『遠き落日』など)、医療(『白い宴』『麻酔』など)、性的描写の濃い男女関係(『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など)の3つに大別される。

概ね初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多かったが、後期以降は中年男女の性愛を大胆に描いた作品で話題を呼んでいる。伝記は時期を問わず手掛けているが、これらのジャンルを融合したものも少なくない。

この他、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセーも多く手がけている。>

渡辺氏に依れば「科学とは体系的で、経験的に実証可能な知識」と辞書には説明されている。

「例えば化学の場合、同じ材料を同じ状態で反応させれば、同じ製品を幾つも作ることができる。さらに同じ製品を分析すれば、みな同じ材料で津kられて居る事が判ってくる。要するに体系的、経験的に実証可能なのである。

しかし、医学で扱う人体が、かなりのバラツキというか固体差があるから医学は科学ではないのだ。

同じものを食べても、下痢をする人も居るし、軽い腹痛だけで済む人もいるし、まったく異常の無い人も居る。

また似たような症状の人に同じ注射や薬を施しても、良く効く人も居るし、少し効く人もいるし、全然効かない人も居る。要するに人によって違う。固体差があるからである。。

この人は他の人と同じ状態にいたのに、何故強く反応したのか、何故別の人は効かないのか。そうした個体差をよく見極めながら治療に当るのが名医なのである。

この辺りは画一性の高い自動車やテレビの修理などとは違うところで、だからこそ医師のしごとは難しいと思われているのである」。

渡辺氏は以上のようにのべたあと、「ところが最近の医者は医学を科学と勘違いしている医者が増えてきた」と断ずるのである。

「実際、この頃は、患者が目の前に居るのに、患者を見ず、机の上のパソコンしか見ない医者が居る。そこに出ているデータだけを見て治療法を決めていく。

これではいくら頭が良くても医学を科学と信じている“単純な人間修理工”としかいえない。

医者たるもの、もっと人間を見て、その体と心を探って、治療して欲しいものである」と渡辺氏。

お説の通りの医者ばかりだ。しかも顔を大きなマスクでいつも覆っているから何回通っても顔を見たことの無い女性医師もいる。患者よりパソコンを見る医師は大学の教授に特に多い。

私にいわせれば、確かに勘違いしている医者は増えてきたのは事実だが、これは患者の立場から見ると「健康保険の欠点」によるものだと思う。医者は忙しすぎる。

いちいち患者の身体や心を診ても診療報酬の点数は1点にもならない。歯医者が患者の痛みを止めても1円にもならないと同様、患者の心配や悩み、副作用への疑いに配慮しても1円にもならないから、医者もつい「科学的」にならざるを得ないのではないか。2009・3・8





2009年03月09日

◆毛沢東は板に寝た

渡部亮次郎

「中国がひた隠す毛沢東の真実」は何度読んでも面白い。初版2005年10月7日、著者 北海閑人 訳者 廖健龍 刊行「草思社」
著者の身元は完全に遮蔽されている。ばれたら当然粛清されるからである。毛沢東の化けの皮を剥げるだけ剥いだ。

訳者あとがきに依れば香港の雑誌「争鳴」に1996年ごろから北海閑人の名で発表されるようになった毛批判文集で、筆者は「江戸っ子にも似た、気風のいい生粋の北京っ子のようだ。北方語、北京語や古来の熟語を好んで使うところから。年配の知識人である。

この書の最終章は「毛夫妻の私生活―飢饉のさなかに、数多の別荘」である。中でも夜中に起きて、昼間寝る生活だったため、周囲がいかに苦しんだかを読むと他人事ながら笑いたくても笑えない。

1972年9月政権に就いて間もない田中角栄首相は、中国との国交正常化をなすため、われわれ80人の同行記者団を引き連れて北京空港に降り立った。

しかし、肝腎の田中・毛沢東会談が行われるのか行なわれないのか一切の説明がなかった。それがある朝起きたら「今日未明に行なわれた」との発表。既に終わったのだからTVの取材は不能。NHK記者の私としては面子丸つぶれ。

聞けば毛が昼間眠って真夜中に仕事をするという習慣は革命当時に身につけたもの。1949年3月23日、党の中央機関を率いて北京に入城したとき56歳。劉少奇、朱徳、周恩来らは生活を昼型に戻したが、毛だけはそうしなかった。

そうだから中南海にある機関の人員は誰もが昼夜転倒した毛の執務習慣に従うしかなかった。田中角栄も若い頃から早起きでは有名だったが、寝るのは夜だった。毛に引見できたのは確か午前1時ごろだった。

毛はしばしば突発的に何かを思いついた。それが夜の11時、12時だろうが、早朝3時、4時だろうが相手を呼び出した。劉少奇、朱徳、周恩来、陳雲、トウ小平を含めて、呼び出された者は、たった今、睡眠薬を飲んで横になったところであっても、秘書に寝台から揺り起こされ、直ちに毛主席に会いに行かされるのだった。

劉少奇は1959年、廬山会議の間、真夜中の2時に毛に呼ばれたことがあった。彼は睡眠薬で熟睡中だったので、2人の衛士に担がれ、車に押し込まれて、毛のところに運ばれると、濃いお茶を飲み、煙草を吸ってやっと目を覚ました。

毛は北京入城後、最高指導者になると、嘗て無い政治権力を持つようになって常に「全党推戴」「全民熱愛」の類の称揚と栄誉に囲まれ、それが身体に染込んで精神のバランスを失った結果、感情の起伏が激しく、些細な得失に拘泥する疑心暗鬼の精神病患者になった。

毛は両性愛者だったと言う人も居る。若い衛士や看護婦は1度は彼のセックスの相手をさせられた。

毛に十分に睡眠をとってもらうため中南海で雀退治が行なわれた。幹部職員には1日何羽というノルマが課せられた。それでも北京市内の雀が入ってくるので市内全部の小中学校の児童・生徒に雀捕りの号令が掛けられた。或る幹部は孟浩然の詩を読み替えて詠んだ。

「春眠暁を覚えず いたるところ 雀啼く 日夜パチンコの声
死雀幾羽か知らん」

毛は板のベッドでしか眠れなかった。北京入城後の仮住まいのベッッドはシモンズだった。「おれは木の板になれているのだ」彼のベッドは遠い河北省に置いてきてしまった。仕方なし深夜にも拘らず大工を集めて木の板のベッドが作られた。

1949年12月下旬、毛沢東は初めて当時のソ連を訪問し、モスクワの迎賓館に泊まった彼は専用列車に料理人から厨房道具、野菜、果物、調味料を持ち込んだが、モスクワの冬は寒く、ソ連側は魚は冷凍魚しか提供できなかった。それを知った毛は怒った。「死んだ魚など捨てろ」。江青の影響で活魚料理が好きになっていた。

別の説では、以前、密かに隠れ家を訪ねてきたソ連のミコヤンが食事の時、通訳に「この魚は新鮮か」と尋ねたことを覚えていて、そのお返しをしたのだと言う。

毛は木や竹の箸しか使わなかった、或る席を設けたとき、中央弁公庁主任の楊尚昆が高価な食器に合わせて象牙の箸を用意したところ怒鳴って立ち去ってしまった。

専用列車側近が木の箸ヲ積む野を忘れた時も象牙の箸は使わず、ボイラー室で見つけた不ぞろいの竹ハシを洗って使った。2009・3・7

◆本稿掲載の全国版メルマガ「頂門の一針」1467号 平成21年3月8日
(本号目次)
・<小沢代表>「辞めるべきだ」57%:毎日新聞
・乗っ取り型リーダー小沢:岩見隆夫
・小沢一郎が壊すもの:平井修一
・大詰めの西松建設献金事件:古澤 襄
・「落日の小沢王国」?:古澤 襄
・日本から吸いとれ:山堂コラム 256
・毛沢東は板に寝た:渡部亮次郎

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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2009年03月08日

◆朴正煕政治の再評価

渡部 亮次郎

朴正煕(パク・チョンヒ)大韓民国第5〜9代大統領 任期:1963年10月15日―1979年10月26日。会ったことは無いが、韓国を今日有らしめた最高の貢献者と評価している。

後に私が秘書官として仕えた園田直氏は公害病初認定後の不遇時代、河野一郎派時代から親しかった右翼の児玉誉士夫氏に誘われて朴大統領と会談したことがある。帰国して語っていた。「オレの目前で衛兵に自らビンタを食らわすんだよ、驚いたね」とやゝ軽蔑して明かした。

青瓦台の地下を案内した時、トイレの戸が開け放しになっていた。怪しからんとばかり大統領がいきなり衛兵を殴ったと言うのだ。

「軍隊時代、ワシは部下にビンタを食らわした事が無かったので驚いた。ありゃ、心底、日本軍人だね」。

2009年現在の大韓民国では政治的な事情もあり評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論としては、政治面では目的の為には不当な手段も厭わないものの、私人としては清廉であると評価されつつある。

朴正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)は、大韓民国の軍人・政治家。クーデターで政権を奪取して第5〜9代大統領を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。号は「中樹」(チュンス)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお)(-1945年)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになり、漢字表記のままで「パク・チョンヒ」と韓国語読みされるのが一般的である。ハンナラ党前代表の朴槿恵は長女。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていた。

その後、民主化の達成感によって朴批判運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

特に政敵であった金大中が、大統領選の際、保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であった。ネポティズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるといわれる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは歴史家によって意見がまちまちである。

日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。

また、ベトナム戦争への参戦については、派遣された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて大量虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の野獣のような蛮行を起こしたことなどベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であると指摘されている。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。

陸英修夫人とは、仲の睦まじさを演出したが、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった為、時々「陸‐朴戦」(韓国語では「肉薄戦」と発音が同じ)、つまり夫婦喧嘩があったという。

終生、夫人に対してはただの妻以上に尊敬し続け、もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないとよく言われる。

無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新を「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していた。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬していた。

西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた事から、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。

日本の英文学家・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は朴の暗殺を聞き追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。その中で福田は、朴と昼食を共にした時を回想し、以下のように書いている。

「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。

もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」

他の大統領と同様に、よく教会に通っていた。 自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・08・31



2009年03月06日

◆襲来!糖尿病との闘い

渡部 亮次郎

世界保健機関(WHO)によると、2006年の時点で世界には少なくとも1億7100万人の糖尿病患者がいたという。患者数は急増し続けており、2030年までにこの数は倍増すると推定されている(「ウィキペディア」)。

患者は先進国ほど(2型=中年発症型)の)患者数が多い。もっとも増加率の高い地域はアジアとアフリカになるとみられており、2030年までに患者数が最多になると考えられている。

発展途上国の糖尿病は、都市化とライフスタイルの変化にともなって増加する傾向があり、食生活の「西欧化」と関連している可能性がある。

このことから糖尿病には(食事など)環境の変化が大きくかかわってくると考えられているが、詳しいメカニズムはまだわかっていない。

先進国において、糖尿病は 十大(あるいは五大)疾病となっており、他の国でもその影響は増加しつつある。2005年には、米国だけでおよそ2080万人の糖尿病患者がいた。全米糖尿病協会(American DiabetesAssociation)によると、その上に620万人の人々がまだ診断を受けておらず、糖尿病予備軍は4100万人に達する。

日本国内の患者数は、この40年間で約3万人から700万人程度にまで膨れ上がってきており、境界型糖尿病(糖尿病予備軍)を含めると2000万人に及ぶとも言われる。

クルマ社会になって歩かなくなった。せめて1日1万歩というが、成人男性平均7575歩、女性6821歩である。食べ物はいつでもどこの国からでも手に入るような「飽食の時代」になって、男性の24・3%、女性の25・2%が「肥満」だ。戦中、戦後の生活苦の時代には患者「0」だった。名前すら聞いたことが無かった。

健康診断で糖尿病の「け」があるといわれて、それではと本格的に対策に取り組む人は男性で74・2%,女性75・0%。残りはある日突然、発症して「後の祭り」となる。

知り合いの50代の主婦は、「恥かしい」と隠したまま、何の手も打たなかったため、腎臓がすっかり駄目になり、突然、1日置きの人工透析通いになって間もなく死んでしまった。早くに医者に診せ、インスリン注射をしていれば、普通の人と全く同じにすごせるのに。

田中角栄は扇子を冬でもバタバタやる暑がりだった。「これはバセドーでね、心身機能亢進症でね」といい、世間もそう思っていたが、実は退陣後、脳梗塞になってみればそれは糖尿病が主たる原因だった、とばれた。

大平正芳は首相在任中、福田赳夫の仕掛けた造反で強烈なストレスに見舞われ、結果、心筋梗塞で急死した。大変な甘党で糖尿病だった。御巫(みかなぎ)という主治医の兄弟が外交官で「大平さんは患者としては最低だとこぼしている」と聞いていた。

診療に来ない、食事制限を守らない。糖尿病を放置すると、クルマのガソリンに砂糖を混ぜたのと同じ現象が体内に起こり、血管という血管が内部から腐るように弱くなる。

内部で崩れたゴミ(血栓)が頭に行けば脳梗塞、心臓に行けば心筋梗塞となる。先ほどの女性の腎臓は死んだようになり、機能しなくなったのだ。尿を造れないから血液を人工的に濾過するしかないわけだ。半日がかりを1日置き。

昔、日本経済新聞の政治部長から代議士になり幹事長にもなった傑物に田中六助という人が居た。ある日、衆議院本会議場での代表質問に登壇したのはいいが、原稿の文字が10センチ角の大きさだったので、満場静まりかえった。

彼は糖尿病を放置したために目の奥の眼底に出血を起こし、視力を失いかけていたのである。出血すれば、カメラで言えばフィルムに相当する網膜が血に遮られるから良く見えなくなる。外見上は他人には分からない。田中六助は間もなくして死んだ。

伊東正義。大平内閣の官房長官だった。大平が急死したとき総理大臣臨時代理を務めた。当然後継総理に指名されると思ったろうが、政局の主導権を握る角栄が指名したのは鈴木善幸。外人記者たちが「ゼンコウ Who?」といった話は有名だ。

鈴木は同じ大平派ながらいけ好かない宮沢喜一を官房長官、伊東を外務大臣にしてスタートしたが、翌年5月の訪米でミソをつけた。共同声明に朝日新聞が「軍事同盟を約束して来た」と噛み付いた。

ところが総理は「レーガン大統領とはそんな話はしていない」と外務省事務方を非難。「ゼンコウ如きに総理が勤まってたまるかい」とかねて鈴木をバカにしていた伊東はさっさと辞職。

それから何年かして竹下登総理がリクルート事件への関与が明らかになって辞任したとき、伊東に今度こそお鉢が回った。ところが「健康に自信がない」と断わった。何を隠そう、伊東は若いときから大糖尿病であり、心臓に合併症を患っていたのを隠しとおしてきたのだった。

伊東が外相を辞めたとき、後任に指名されたのは厚生大臣をしていた園田直(すなお)で、秘書官が私だった。実は園田も糖尿病を30代から患っておりながら秘匿していた。既にインスリン注射をし続けなければならないのに注射が大の苦手だったのだ。

わが国最古の糖尿病患者で記録に残っている人物は平安時代の貴族藤原道長(966〜1028である。「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることの無しと思へば」と詠んだあの人で、喉の渇きが酷く多量の水を飲んだと記録されていることから記録上第1号にされた。それでも当時としては驚異的長命、62歳まで生きた。食事を制限したのかも知れない。

インスリンが発見されるまで洋の東西を問わず糖尿病で死ぬ人は絶えなかった。喉が渇き、痩せて死んだ。それを阻んだのがインスリンだが、カナダで発見されてまだ85年しか経っていない。

29歳の田舎外科医バンティングと22歳の優秀な学生ベストによって発見された。これで人類は救われた。しかも純度は高くなり、今では即効性に優れたもの、長く効き目が長く持続するものなど開発された。

問題は糖尿病は痛くも痒くも無いものだから、気付かない。気付いても治療を怠り、結果、急に死を招く人が多いということだ。

我々が食べて有用なものは全てが糖になる。それに膵臓のランゲルハンス島という部位から分泌するインスリンという酵素が加わって血となり肉となる。だが遺伝や不摂生で、インスリンが十分に出なくなる人が居る。すると消費されない糖分は尿に混じって排出される。糖尿病といわれる所以だ。

子供の時からなるのは1型でインスリンが全く分泌しないから、インスリンを子供の時から注射する以外にない。中年になってかかるのは2型。遺伝、肥満、運動不足、暴飲暴食から発症する。

発症してしまうと今の医学では絶対治らない。初めのうちは薬を飲んで膵臓を激励する。やがて膵臓もギブアップして注射と言うことになる。

前後するが、インスリンは胃酸で無効になるから服用(丸薬など)では駄目で、今のところは注射が一番。アメリカで最近、鼻から吸入する研究が完成したとのニュースがあったが、まだ日本には普及してない。

インスリンが発見されてからと言うもの、人類は糖尿病そのものでは殆ど死ななくなった。しかし甘すぎる血のまま(治療を怠る)でいると腎臓が機能を失ったり(腎不全)、心臓の筋肉が腐ったり(心筋梗塞)、脳への血管を塞がれたり(脳梗塞)、失明したりという「合併症」で死ぬことが猛烈増えてきているわけだ。

足の先へ血が通わなくなれば壊疽を起こし足を切断しなければならなくなる。歌手の村田英雄だそうだった。あらゆる癌にも普通の人の何倍もかかりやすい。

ただ、何度も言うように糖尿病そのものは痛くも痒くも無いために、分かったときは既に手遅れと言う例が増えているわけだ。なんとも厄介な病気なのだ。知らないで居ると平均寿命よりは10年早く死ぬ、とされている。

私が秘書官として仕えた園田直外務大臣は、そのあと2度目の厚生大臣をやったとき、患者団体の永年の念願だったインスリンの「自己注射」をたちどころに許可して患者たちを喜ばせた。

役人や医者たちは「器具が無いから危険」として許可して来なかったのだ。だけど園田大臣は「許可すればメーカーはすぐ便利な器具を作るよ」と許可した。1985年ごろから、予想通りペン型注入器がすぐ出来、使い捨ての針は今や0・20mmが登場した。殆ど痛くなくなった。日本が世界一を造った。

しかし園田直はどうしても注射が嫌いと医者から逃げ回り、3度目の外務大臣を辞めてすぐ人工透析。それも厭がったものだから失明の上、腎不全で、「わずか」70で死んでしまった。4月2日が命日である。1984年のことだった。
(文中敬称略)


参考:普通の人がインスリン注射をすると、量が多ければ死ぬ。途中で救助されても植物人間になる。それを実証する事件が千葉県で起きた。夕刊フジ2006年3月14日付から

<鬼嫁 夫「殺されるかも」「妻が家の金を使う」とも インスリン事件1カ月前に周囲に漏らす

千葉県光町の農業、鈴木茂さん(54)が鬼嫁に糖尿病治療用のインスリンを大量に投与されて意識不明に陥った事件で、鈴木さんが「殺されるかも」「もし自分が死ぬようなことがあれば解剖してほしい」などと周囲に話していたことが13日、分かった。

千葉県警捜査1課では、鈴木さんが殺人未遂容疑で再逮捕された中国出身の妻、詩織容疑者(33)の計画的な犯行を裏付ける証言とみている。

これまでの調べによると、詩織容疑者は平成16年4月、共犯として再逮捕された女(41)=別の詐欺罪で起訴=からもらったインスリンを、糖尿病ではない鈴木さんに自宅で大量に注射し、殺害しようとした疑い。

鈴木さんは低血糖による脳障害で現在も意識不明の重体が続いている。 鈴木さんは15年10月、自宅で鍋に入れた熱湯を背中などにかけられ、一時重体に陥った。

関係者によると、鈴木さんはこのころから何者かに狙われていると知人に訴えており、インスリン事件の約1カ月前の16年3月ごろに開かれた地元の会合では、「殺されるかも」と周囲に話していたという。また、「妻が家の金を使ってしまう」などとも漏らしていた。

鈴木さんには詩織容疑者を受取人とする千数百万円の生命保険がかけられているが、不審な点が多いことから保険金は支払われていない。> ZAKZAK 2006/03/13  2009・02・27

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