2006年09月22日

参院選、小沢役立たず

           渡部亮次郎

「参院選は民主党が敗北します」というメイルが2006年9月22日に届いた。それを友人に伝えたら、折り返しのメイル。

<自民が出す政策に、民主がより良い対案を出して競い、結果として、私たち国民が「民主党政権の方が幸せになれる」と実感した時、民主党は初めて政権が獲れる。

それなのに、自民党にすべて反対という小沢路線の誤りは、何でも反対だった社会党没落の歴史で実証されています。

来年の参院選で「小沢の豪腕」をマスコミが囃したてるほど、小沢民主党は強くないと見ています>。友人は素人ではない、専門家だ。

そもそも発端のメイルをまず見よう。
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2006年09月18日

大蒜(にんにく)揚げ

                渡部亮次郎

焼酎によく合うハンバーグを出してくれるので、東京の隅田川沿いにある小さな洋食屋に毎週1回は通う。そこではスパイスの効いた鶏の唐揚げも頼むが、欠かさないのがきゅうり、茄子、茗荷の「お新香」と大蒜のフライである。

大蒜は「くさい」ので、秋田にいる子供のころは一切、近付いたこともなかった。父親も辛いものはカレーですら食べなかったから、東京に出る18歳まで大蒜を知らなかった。

1973年6月、日本担当相に招かれて韓国を初訪問し、朴政権の5閣僚によるキーセン・パーティーなるものに招待され、右脇に侍る、日本の芸者に似たキーセンに大蒜の醤油付けを盛んに奨められた。

キーセンは左脇にも座るが、その人に声をかけては礼を失することになる。なぜならそのキーセンは更に左に座する客の担当だからである。日本と違って自分担当以外のキーセンに色目を使ったら軽蔑される。格式が高いのである。
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顔色で見通す政局

       渡部亮次郎

昔、NHK政治部で一緒だった大谷英彦さんが、安倍晋三さんの顔色の悪さを指摘して「安倍政権、発足後、意外な展開になるかも知れない」と言ってきたので、なるほど鋭い読みだと敬服した。

<問題は、安倍晋三の顔のくすみです。(2006年9月17日の)フジとテレ朝は3人がスタジオに同席していましたから、多分事前のVTR収録でしょう。想像ですが、収録も昼間だったと思います。

NHKは安倍だけ外からの中継参加でした。朝9時からのナマ番組ですから、多分、安倍さんは早起きしたのでしょう。

途中、3人を顔のドアップがありました。安倍さんの目の下の皮膚の色は他の2人と格段に違っていました。テレビは残酷です。

先にテポドン発射の朝、官邸に駆けつけた安倍官房長官は目の下に隈ができていた、と週刊誌が健康不安を書いていましたが、それを目の当たりにした思いです。

安倍政権発足後、この爆弾がどうなるか。意外な政局の焦点になりそうです。>
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2006年09月16日

満蒙開拓って?

            渡部亮次郎

私の少年の頃(1940年代)、まだアメリカとの戦争が始まってない時代に、大人たちの会話に満蒙開拓(まんもうかいたく)という言葉が盛んに出てきた。行くか、行かないかの論議だった。

それは具体的には満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)のことだった。1930年代に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称である。中国残留孤児出現の原因でもある。

日本の政府は人口増対策として、戦前、北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への移民の入植移民を進めていたが、段階的制限が加えられるようになっていた。

また、昭和恐慌による当時の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめており、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向もあった。
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痛まずに死ねたら

            渡部亮次郎

終末医療のあり方について厚労省が初の指針原案を2006年9月14日纏めた。癌などで回復の見込みがない終末期の患者に対する治療を中止する際のガイドライン(指針)となるもので、いままで無かったのがおかしい。

私は10年前、同居していた義母を胃癌で失ったが、近隣の病院は、治癒見込みがないと断定しているにもかかわらず、延命措置をするばかりで腹が立った。

80歳の母は腹を抱え、エビのように曲がって痛さに堪え唸っている。それなのに医者はバカの一つ覚えのように延命措置だけを講じる。地獄のような患者の苦しみを、只々延長している。患者の苦しみを断ってこそ医療だろうに、これでは傷害犯だ。
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2006年09月15日

味噌で命拾い

           渡部亮次郎

お袋は98まで生きて、私は顔はお袋似と人に言われる。顎の短いところなどそっくりだなと、最近、鏡を見ながら思う。2年前の1月半ば、老人ホームの自室でトイレに座ったまま、多分、心筋梗塞で一瞬のうちに死んだ。

死ぬまでボケなかった。東京の私の電話番号は暗誦していた。実家にいる時は同居する妹が諳んじていないのを非難するものだから、実の親子ながら不仲だった。

そのおふくろは私が生きたのは味噌のお陰と信じて、私の料理のすべてが味噌仕立てだった。すべてが鍋料理で、味噌仕立てだったのである。八郎潟(干拓前)から掬ってくる鮒やなまずを長ネギ、豆腐と一緒に味噌で煮てくれるのが定番だった。兄のは醤油煮。
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2006年09月14日

洋深層水話題の海

           渡部亮次郎

「海洋深層水」とは、その名前の通り、深海を循環している水だ。

験しに現物を取り寄せてみたが、数年前は塩味が少し残っていた。2005年ごろからは真水と変わらなくなった。必須微量元素や、さまざまなミネラル成分がバランス良く約60種類含まれているとのことだが、舌でわかるものではない。

ところで「深海」とは、大陸棚外縁より沖合で、植物が光合成することもほとんどできない、ごくわずかな太陽光線しか届かないところを指す。

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2006年09月13日

遠ざかる毛沢東

         渡部亮次郎

2006年9月9日は中華人民共和国を建国した毛沢東が死去して丁度30年目の日だったが、共産党の『方針』により毛崇敬行事は抑制された。

当日の読売北京の杉山記者によると、毛個人の功罪、明暗を本格的に議論する機運も見られない、という。

しかし本当は「共産党は国民党(蒋介石)より酷い。いま毛沢東がいたら革命は成功する」と北京市民が語るという。それは格差が広がり続け、権力の腐敗(汚職)が蔓延する中国社会では、弱者層を中心に毛時代の革命、階級闘争、平等への共感がじわりと広がっているのだという。

<毛 沢東(もう たくとう、Mao Zed?ng マオ・ツォートン。1893年12月26日(光緒19年11月19日) - 1976年9月9日)は、中国の政治家・思想家。中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国建国の父であり、死に至るまで最高実力者の地位を保った。>(ウィキペディア)
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2006年09月09日

転失気総理森喜朗

           渡部亮次郎

「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことだそうだ。ある有名ブログの2006年9月5日版に「知らないのに知ったかぶりをする政治家を嗤う」小道具として使われていた。

高名な政治家のところに呼ばれた医者が最後に尋ねる「先生、処で、てんしきはありますか」。政治家はてんしきなんて知らないが、知らないと応えるのには面子が許さないから、あいまいに答える。

その後、話は落語みたいに展開する。てんしきを借りに行ったり、買いに行ったり、売り切れたり。てんしきとは「転失気」。おならとは知らぬまま、知ったかぶりを重ねる今時の政治家を嗤う材料としては恰好だ。

そういって嗤っていたら政党機関紙政治部の記者から知らされた情報で森喜朗元総理の「てんしき」ぶりを知った。「論座」という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。

知らない事は応えなければいいのに、仮にも元総理大臣。「知らない」とは言えないからつい「てんしき」ぶりを発揮している。
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2006年09月08日

杉本さん、頑張ったね

         渡部亮次郎 (園田外務大臣秘書官)
  (外務省・霞関会機関誌「霞関会報」平成18年9月号掲載)

杉本信行さんは、まだ57歳と若かったのに末期の肺癌には勝てなかった。2006年8月3日早朝、東京・築地のがんセンターで息を引き取った。

杉本信行さん、と言っても知る人は一般には無かった。2004年5月、在上海日本総領事館の館員が自殺した事件。このときの上海総領事が杉本さんだった。事件直後に東京へ帰っていたから引責したのかと誤解したが、帰還は末期癌と闘うためだった。
苦しい治療に耐えながらもいながら中国について、誰も書かなかった真実を著した「大地の咆哮」(PHP研究所)。死を賭しての著述をして悠然と去って行った。

杉本さんには永らくご無沙汰していたが、何しろ1978年8月、日中平和友好条約締結交渉に当たって、園田直外相に同行して、一緒に北京の人民大会堂へ出かけた「戦友」だった。京都大学在学中の1972年に外務公務員上級試験に合格した。

田中内閣により日中国交正常化が図られた年である。いわゆるチャイナスクールで養成されての園田大臣の一行への参加だった。当時の記録を取り出してみたら、中国側が用意した一行13人の名簿中になぜか「杉本信真」と誤植。中国課事務員、迎賓館107号室に東郷和彦条約局首席事務官と共に泊まった。

<病床にあり、直接御礼申し上げられませんが、渡部様には、拙書をとり上げていただき恐縮しております。 当時を懐かしく思い出しました。 とくれぐれも宜しくお伝え下さいますようお願いいたします。 杉本信行 >

というメイルを外務省(霞関会)事務局を通じて7月31日に戴いたばかりだった。それが3日後には、あっという間にこんなことになってしまった。癌の恐ろしさを改めて知らされた。もっともっと仕事をしたかったろうにと無念を思いやるばかりだ。
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寂れ行く本所・向島

               渡部亮次郎

同じ「川向こう」でも江東区と墨田区では大いに違うものがある。区画整理が殆ど完成している江東区、全くされてなくて消防車が入れない墨田区。人口が爆発している江東区、減って且つ老齢化している墨田区。

向島の16人しか入れない,夫婦でやっているレストランに通い続けているうちにこの差を考え続けている。おそらく、政治が主導権を発揮しないから墨田区は将来を無くしたのではないか。たとえば区画整理。

江東区も墨田区も関東大震災と東京大爆撃で、2度も壊滅した。推測でしかないが江東区長は被災者を相手に大決断を下して、区画整理を進めた。おそらくそこには強引な決定もあったろう。しかし墨田区は・・・。それでも今後も墨田区に住み続けたいという方は、8割近くを占めている。義姉夫婦もそうだ。

墨田区は、昭和22(1947)年3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が合併して誕生した。そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けた。それは、昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称“墨堤”の呼び名の「墨」からと、“隅田川”の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものだった。

地理的には、東京都の東部、江東デルタ地帯の一部を占めている。西は隅田川を鋏み中央区・台東区・荒川区に、北から東は綾瀬川・荒川・中川を境として足立区・葛飾区・江戸川区に、さらに東から南は北十間川・横十間川・竪川を境として、一部は地続きで江東区に接している。

区の形は南北にやや長く、東西約5キロメートル、南北約6キロメートルで、面積は13.75平方キロメートルあり、東京都23区中17番目の広さである。

地形は、海面からの高さ最高4メートル、最低マイナス1.2メートルの平たんな低地で、地質はすべて砂と粘土まじりの沖積層。
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2006年09月06日

生殖補助医療の進歩

           渡部亮次郎

知り合いの弁護士が昨年、最高裁判所の判事に任命されて、2006年9月4日に凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子といえるかどうかが争われた裁判に判決を出した。

判決は妊娠前に既に父親が生存していない子の出生を、法律上も認めることについては、「本来、子は両親が存在して生まれてくる」「親の意思と自己決定を過大視したもの」と述べている。

凍結保存した夫の精子で夫の死後に妊娠、出産しても法律上の父子とはいえない、つまり現行の法体系では実子とは認められないとの判断を示した。原告の母親(西日本)は敗訴した。

しかし同時に判決は、「立法によって解決されるべき問題だ」と指摘した。。問題は司法にあるのではなく、国会が新事態に対処する法律を早く作るべきだと言っているのである。
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2006年09月04日

魂を失った政治家

            渡部亮次郎

<淵源(えんげん)をたどると、約半世紀前、警職法改正など岸信介首相の強硬路線に反発して池田勇人、三木武夫、灘尾弘吉が内閣を去った3閣僚辞任事件(1958年12月)あたりにぶつかる。

岸・池田の対立が、安倍・谷垣の違いと重なり合う。池田以後の宏池会人脈、前尾繁三郎、大平正芳、鈴木善幸、宮沢喜一、加藤、谷垣は保守の本流意識だけでなく、似通った体臭でつながってきた。

動より静、硬より軟、闘争心が薄く、喧嘩(けんか)べた、リベラルな知性派ぞろいである。読書家が多い。前尾、大平は郷里に蔵書を贈り、<文庫>を残している。 谷垣の読書遍歴も並でない。>(岩見隆夫「近聞遠見」(2006年9月2日毎日新聞)
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