2006年09月03日

驚くべき『美しい日本』

       渡部亮次郎

インターネットを逍遥していたら「反戦な家作り」と言うブログに立ち寄ったところ安倍晋三とカルト統一協会の驚くべき「美しい国」つながりと言う奇妙?な記事に出合った。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/

反戦な家作りを、エネルギー、心理、経済などなど様々な角度から考えます。平和ボケした頭脳に喝! 2006/08/15(火) 00:00:45 |

<ネットをパラパラと見ていたら,なにやら興味深いことが書いてある。

美しい国 日本の使命  久保木修巳著

この久保木修巳というのは,元統一協会会長(故人)である。 なるほど,これで「美しい国へ」(文藝春秋刊)という安倍の駄本のタイトルの意味はこの辺にあったのか。

上記の統一協会・久保木のほうの目次をみると

講話・講演編(日本という「美しい国」の使命―世紀末現象を超えて為すべきこと

日本を滅ぼしてはならない―「救国の予言」講演会
勝共こそキリスト者の聖使命なり―11・3アジア基督教反共大会
現代を救うもの ほか)
詩編(海は生きている
ああ救国の聖戦
勝利の基地より
愛は立ち上がった ほか)

安倍の駄本の目次は

第1章 わたしの原点
第2章 自立する国家
第3章 ナショナリズムとはなにか
第4章 日米同盟の構図
第5章 日本とアジアそして中国
第6章 少子国家の未来
第7章 教育の再生

これを合成してみると

第1章 わたしの原点
日本という「美しい国」の使命―世紀末現象を超えて為すべきこと

第2章 自立する国家
日本を滅ぼしてはならない―「救国の予言」

第3章 ナショナリズムとはなにか
勝共こそキリスト者の聖使命なり

第4章 日米同盟の構図
現代を救うもの

第5章 日本とアジアそして中国
ああ救国の聖戦

第6章 少子国家の未来
勝利の基地より

第7章 教育の再生
愛は立ち上がった

ななななんと ピッタリはまってしまった!! これは,やってみた私が一番驚いた。 詩編を除いた以外は,機械的に合成しただけだ。

第6章は産めよ増やせよの思想からすれば理解できる。 まあ,中身までは読んでいないので,冗談の域は出ないが,それにしても,ここまで巧くはまるとは・・・

やはり,安倍晋三ないしそのゴーストライターは,統一協会会長の著書を意識していたのではないだろうか。
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2006年09月01日

下卑たものにするな

       渡部亮次郎

安倍信三官房長官は2006年8月30日の自民党森派在京議員昼食会で、「多くの国民の期待を真正面から受け止め、9月1日に(自民党総裁選出馬の)決意を表明したい。21世紀にふさわしい美しい日本を作っていくために全力を傾けていく」と強調した。

これに対し森派会長である森喜朗前首相は安倍氏の支援態勢について「既に全党的な態勢が出来ているが、実際に一生懸命戦うのはこの(森派ノ)メンバーだ」と述べ、森派主導で支援する考えを示した。

さらに森氏は「党員に対してどういう呼びかけをするかだ。他派の議員に辞を低くして協力を求めることが大事だ」とし、他派閥との協調が必要だと訴えた。(以上、2006年8月31日付読売新聞参照)。

なんという次元の低さだろうか。安倍氏は国民を向いてモノを言っているのに、森氏にかかっては自民党、それも永田町内の規模に矮小化され、理想も信念もない、ただの下卑た喧嘩にされてしまう。
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2006年08月31日

ハンバーグ大好き

          渡部亮次郎

秋田から東京へ出てきて美味しかったものの第1は鯵のフライ、2おでん、3ハンバーグである。少年の頃は私はもちろん,先生も食べた事はなかったろう。学校給食では定番らしいが、昭和20年代、日本には学校給食が無かった。

ハンバーグまたはハンバーグステーキとは、挽肉(豚肉や牛肉、またはその他の畜肉等を含めたあわせ挽肉)にタマネギ等の野菜類のみじん切りと胡椒等の香辛料を加え、卵、パン粉を混ぜ、こね合わせたものを楕円形、円形などに整形して焼いた料理。

この料理は、下ごしらえに少々手間が掛かるものの、非常に食べ易い状態になっているため、児童や老人等の、咀嚼力が弱い人でも食べる事が出来、また消化も良い。東京・水戸街道沿い、向島の極小さなレストランにいけば必ず注文する。

大抵は付け合せに温野菜やサラダが用いられ、様々なソース類で味付けが成されている。主に挽肉とみじん切りにした野菜にパン粉を混ぜ、卵を繋ぎとして焼き固めたものであるが、味の濃いスープで煮込んだ「煮込みハンバーグ」というメニューもある。

特に児童に好まれる事もあってファミリーレストランの主力商品であるが、ナイフやフォークといった食器を使わなくても簡単に噛み千切れるので、パンに挟んでハンバーガーにする事もできる。

しかしその反面、ソースの味付け如何では、肉の素材自体の品質によってさほど味が左右されないため、長らくは屑肉と呼ばれる商品価値の低い材料を、食べられるようにする調理法とされる等の(やや不遇な)扱いを受けていた。

このため、ハンバーグはしばしば「質や程度の低い料理」と見なされる事がある。様々な工夫を凝らす余地が随所にあるため、非常に多くのバリエーションが存在する。
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大阪京都で市長減給

             渡部亮次郎

<同和対策不祥事 大阪市109人処分 元局長を諭旨免職

旧芦原病院問題や飛鳥会事件など同和行政をめぐる一連の不祥事を受け、大阪市は2006年8月29日、元健康福祉局長の中山芳樹・ゆとりとみどり振興局理事(58)を諭旨免職、局長級2人を停職処分とするなど、外郭団体も含む職員ら計109人の処分を発表した。関淳一市長ら3役も給与の一部を減額・自主返納する。

不祥事は制度的欠陥や組織の構造的問題が誘引したとして、コンプライアンス(法令順守)を徹底する具体的措置を盛り込んだ再発防止策もまとめ、不適切な補助金計6件について職員や交付先に損害賠償請求する方針も明らかにした。

3役を除く市職員の処分者は計99人。中山理事のほか、当時の健康福祉局理事の寺本良平・中央卸売市場長ら局長級2人を停職(1カ月)、局長級8人と部長級4人ら計22人を減給10%(1〜3カ月)とした。地方公務員法上の懲戒処分は44人にのぼった。

3役では、関市長の給与減額50%(6カ月)のほか、柏木孝、井越将之両助役と小西寿昭収入役が給与の10%(3〜1カ月)を自主返納する。

外郭団体でも飛鳥会事件にかかわった市開発公社が社長ら幹部4人を減給処分などとすることを決め、芦原病院への不正な迂回融資に関与した市社会福祉協議会も幹部2人を戒告処分などにした。
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2006年08月30日

水が飲めない21世紀

      渡部亮次郎

「中国到着後、生水は絶対に飲まないで下さい。湯冷まししか呑んではいけません」。日中国交回復の田中角栄総理に同行取材(1972年)したとき、外務省の係官に厳しく申し渡された。

「中国全土、硬水のためです。パリでも水道水は硬水のため、植木に水道水をやると枯れてしまう」といわれた。「水の代りにワインを飲むから、アル中が多い」(未確認情報)。

確かに水道水を飲めないところは多い。田中同行の時は絶対飲まなかった。ところが25年後の2002年3月、上海を訪れて高層ビル街に幻惑された。水道も発展しただろう。

腹下しは直ちに始まった。猛烈。トイレにつぐトイレ。寝るヒマなし。生水はさすがに飲まなかったが、水割りの氷が生水から作られていたのだ。3泊4日の旅行中回復せず。

栄養のたまらない体に血糖値降下剤を飲み続けたものだから低血糖昏睡に陥ること3度。死の寸前まで行って来た。正に水はことと次第によっては命取りとなる。
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2006年08月28日

圭子の「夢は夜開く」

         渡部亮次郎

NHKの深夜放送「ラジオ深夜便」は今や大変な人気番組になったとマスコミでも話題になっている。眠れない時や早すぎる明け方にスイッチを入れるとクラシック音楽や昔の流行歌、民謡、落語などが、年季の入ったアンカー(ベテランのアナウンサー)の司会で静かに流れてくる。始まって既に十数年になる。

ところで気になるのはアンカーの皆さんの歌謡曲についての知識の無さである。藤圭子が1970年(昭和45年)大阪万博の年、三島由紀夫自決の年に歌った「圭子の夢は夜開く」という歌がある。
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2006年08月26日

トウモロコシの話

             渡部亮次郎

玉蜀黍(とうもろこし)はある種、夏の風物詩である。子供の頃は家の前が広い畑だったので、先っちょから出た毛が茶色になりだしたら、もいできて蒸かしてもらった。時々は焼いた方が美味しかった。

東京ではデパートで買ってくるが、もいでから2-3日経っているので、正直、美味しく無い。もいですぐ料理しないと美味くない。夏、北海道旅行で、畑の脇で焼いている玉蜀黍が極上の美味なのはそのせいだと体験的に思っている。

しかし、戦争に負けた昭和20(1945)年以後しばらく喰わされた玉蜀黍粉は決していい思い出ではない。農家の癖にコメを食えなかった唯一の思い出である。

団子状にして食べたが美味しくなかった。砂糖があれば別だったろうが。戦中、敗戦直後の日本からは砂糖が姿を消していた。醤油も無くなった時代だもの。しかし、世界には、これさえも十分には食べられない人が厖大な数に上る。

トウモロコシ(玉蜀黍:唐諸越) Corn 食糧や家畜の飼料としてひろく栽培されるイネ科の1年草。トウキビともいう。小麦、米とともに世界の3大穀物のひとつ。

カロリーは中型1本で160キロカロリー(鶏卵2個分)である。(日本糖尿病学会編「食品交換表」第4版)
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2006年02月08日

◆危ない!?マーガリン

          石岡 荘十(ジャーナリスト)

この時期、年末年始の休暇をハワイで過ごした知り合いからチョコレートをお土産に貰った人もいるだろう。私も友達のお嬢さんのハワイでの結婚式のお土産に貰った。

マカデミアン・ナッツ入りの、ハワイ土産の定番のあれだが、私の関心はそのラベルだ。食品の栄養表示成分の表示に、「トランス酸」含有量の表示があるか、それを確認したかった。アメリカでは、今年1月1日からその表示が義務付けられたからだ。

「トランス酸」とは何か。

普通のバターに較べマーガリンに多く含まれている自然界には存在しない成分で、それが狭心症や心筋梗塞のリスクを高めるというアメリカでの研究成果が2003年発表されている。
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2006年01月18日

◆「個人情報」と混乱の医療現場

     大阪厚生年金病院 ソーシャルワーカー M.M.

個人情報保護法の施行に伴い、医療機関も個人を特定する多数の情報をもつ事業所として法の適用をうけることになりました。

個人情報保護法は、本来の目的以外に情報を使用しないこと、他人に渡さないことになっています。金融機関の顧客情報が漏洩し、住所や氏名・残高・借り入れ情報などが外部に出てしまった時、顧客1人当たり500円のプリペイドカードを「ごめんなさい」の意味を込めて渡されると聞きました。

医療機関がそんな場合を想定して、予算を組んでいるところもあると聞いています。医療機関で取り扱う情報は「センシティブ情報」と呼ばれるもので、感度の高い敏感に反応する情報であり、外部に漏れてはとりかえしのつかない情報にあたります。それは、病気や障害が社会の中ではその人のスティグマ(負の烙印)になるからです。

例えば、「精神疾患で通院をしていること」や「障害者であること」、「遺伝性疾患をかかえていること」などが、本人の知らないところで他者に情報が渡ってしまっているとしたら大変なことです。500円のプリペイドカードを渡されて「ごめんなさい」ではすみません。住所や電話番号などは変えることができますが、医療機関の扱う「センシティブ情報」は一旦漏洩してしまうと消し去りようのない情報なのです。
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2017年08月19日

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎


郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳(ペギー葉山の夫=故人)である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。
誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎


郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳(ペギー葉山の夫=故人)である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。
誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。