2009年01月28日

◆一文無しのヴィヴァルディ

渡部 亮次郎

常にクラシック音楽のヒットチャートの上位にいる名曲「四季」を作曲したのはヴィヴァルディだが、かの大バッハもヴィヴァルディの音楽を研究したという。

ところが、これほど有名な作曲家だったのに、死んだ時には一文無しだった。

生前のヴィヴァルディは名声を欲しいままにしていた。

ヴェネツィアのヴァイオリニスト兼床屋の長男として1678年に生まれたヴィヴァルディは、出世の糸口としてはじめは僧侶になるつもりで教会付属学校に入り、15年後にはめでたくカトリックの司祭になった。

ところがわずか半年で、彼はミサを上げることを辞めてしまった。

酷い喘息持ちであった。神妙にお祈りしている最中に、げほげほ咳き込んでムードを台無しにするような------しかも教会の中は日本のタイル張りの風呂の中のように、わんわんと反響するのであり------、そんな司祭は使い物にならない。

時を同じくしてヴェネツィアのピエタ慈善院付属女子音楽院の先生になったヴィヴァルディは、目を見張る勢いで音楽の才能を伸ばして行った。

作品の最初の出版は早くも1705年に行われ、1711年にはオランダでも出版されたから、その時までには彼の名声はイタリアだけでなく、ヨーロッパ中に鳴り響いていたに違いない。

とくにドイツではあのバッハが協奏曲集「調和の霊感」から何曲かを勉強のためにオルガン独奏用に編曲したし、ヴェルサイユ宮殿ではフランス国王ルイ15世が1730年頃、突然 「わしゃ『四季』(1725)の中の『春』が聴きたいんじゃ!」 と言い出し、取り巻きが大慌てでミュージシャンたちを集めて演奏した、という騒ぎもあった。

ところで、この「赤毛の僧侶」(ヴィヴァルディは当時こう呼ばれていた)は、作曲でどのくらい儲けたのであろうか?
 
相当なものだった。

例えば、1740年3〜4月にヴェネツィアを訪問したザクセン選帝侯フリートリヒ・クリスチャン公爵のための歓迎コンサート用に、協奏曲3曲、シンフォニア1曲の合計4曲を書いた。

その報酬としてヴィヴァルディが受け取ったのは15ドゥカーツ13リラだが、これは当時としては目玉の飛び出る額だったそうだ。

続く5月には20曲の協奏曲集を書き、70ドゥカーツ23リラをもらっている。これらの例から考えると、1曲4ドゥカーツ弱というのがヴィヴァルディに対する新作委嘱の相場だったようだ。

当時のあるヴェネツィア人は「“赤毛の僧侶”ヴィヴァルディは、一時は推定5万ドゥカーツも稼いだ」と記録している。

このように超人気作曲家だったヴィヴァルディは、何とも不思議なことに、今述べた1740年5月の協奏曲集を仕上げたあと、ぷっつりと行方をくらましてしまった。

研究によると、1740年の秋にオーストリア南部のグラーツに行ったらしいのだが、その翌年の1741年7月末、ヴィヴァルディは同じオーストリアの首都ウィーンで死んでいるのだ。 

ウィーンの聖シュテファン教会の記録によると、「僧侶アントニオ・ヴィヴァルディ」の遺体は、7月28日に市民病院の共同墓地に埋葬されている。

死ぬ直前のヴィヴァルディは、なぜかすっからかんになっていたようだ。なぜなら、彼が埋葬された共同墓地というのは貧民用の公共墓地であり、また、ヴィヴァルディの葬式にかけられた費用も、最低に近いランクだったからである。

もっとも、ヴィヴァルディが贅沢三昧、放蕩を尽くした挙句、文無しになって野垂れ死んだかのように考えるのは、正しくない。 埋葬されたのが貧民墓地だったのは、彼がウィーンの地では身寄りのない外人だったからだ。
 
それに、貧民墓地と言うと聞こえが悪いが、そこは実際には市立病院の付属墓地だった。

また、亡くなるその日まで泊まっていた屋敷は、ウィーンの劇場が作曲家たちのために準備した立派な館。異郷で客死した旅人としては、決してぞんざいな扱いを受けたわけではない。

とは言え、ヴィヴァルディが最後には無一文同様になり、付き人もなく、ひっそりと息を引き取ったのは事実である。

あれほど稼いだお金はどこに行ってしまったのか? この「赤毛の僧侶」の、生涯最後の1年間に、一体何が起こったというのだろうか。

ヴィヴァルディは最晩年に、自分の大ファンであるオーストリア皇帝カール6世の住むウィーンで一旗上げようと考え、相当な準備とお金をかけてウィーンにやって来た。

ところがその矢先、カール6世がぽっくり死んでしまった。ヴィヴァルディには大打撃であった。パトロンと目 (もく) していた人物がいなくなっただけでなく、ウィーン中の劇場が喪に服し、1年間も閉鎖されてしまったからだ。
 
オペラの上演が出来ず、収入がないのに経費だけはかさみ、持ち金がどんどん流れ出していく毎日…… 最後には手持ちの楽譜を叩き売るるほどに落ちぶれ、有り金全部使い果たした挙句、健康を害して・…ということのようである。

以上のことはヴィヴァルディ専門サイト「赤毛の司祭」の管理人:カーザヴェーチャさんが、同サイトの「ヴィヴァルディ資料館」中の「Q & A」で明らかにされている。出典『音楽ミステリー探偵事務所』 http://www.tcat.ne.jp/~eden/MM/PoorViv_fr.htm

2009年01月24日

◆オバマに頭を冷やせ

渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

米国大統領に半黒人が初めて就任したと日本でも誰もが感激しなければならないようにマスコミは呷るか、おかしくないか。おかしいよ。

オバマは確かに選挙演説は上手かった。興奮させるのが上手な人である。だからと言って上手な大統領、上手な政治家とは限らない。口舌の徒とは日本では悪口である。昔は三木武夫がそういわれた。

黒人だから、アメリカ国民の12%を占める黒人層に格別の財力や政治力が有るわけが無い。行政能力に優れていると言う証拠もないから期待しても間もなくがっかりさせられるからみているがいい。

私は英語の演説を100%理解できるわけじゃないが、開口一番、いいわけの演説だとわかった。それはそうだろう、行政の事は何も知らされていないんだから、改めて国民や全世界に約束すべき事はあるわけが無い。

日本語に直せば「頑張りますから、宜しくお願いします」といっているだけだった。団結だの責任だのと通訳は訳していたが、いうなれば「宜しくお願いします、皆さんも頑張って下さい」と言ったに過ぎない。

しかし、英語には「宜しく」も「お願いします」も無いから、抑揚をつけて、それらしいことを「演説」にすれば、あんなもんでしかない。

笑ったのは他所で見た夜のNHKニュースだった。聞いたことも無い大学教授を出して「挨拶」を「演説」として「分析」させたではないか。教授は今後もテレビに出て有名人になりたいから、編集者の喜ぶような事ばかりを言う。それを見せられている視聴者はバカということになる。

未曾有の経済不況を招いたアメリカだが、その責任の大半は産業界の指導者にある。政界はけしからぬ経営人に「自由」しか与えなかったから、政治家にも罪はある。

クリントン民主党が駄目だったからブッシュ共和党に代ったのであった。だが、ブッシュは阿呆な側近に騙されて戦争ばかり起こし、何も解決できないまま牧場に帰った(だけども民主に責任がまったく無いとはいえない)。

「駄目だこりゃ」と後継者たちは後釜戦争(大統領選挙)を実質、2年間も展開してマスコミを大いに儲けさせた。マスコミはもめればもめるほど儲かるから、世界がどうなろうと構うこっちゃない。

益々揉めさせて有権者の手に汗を握らせる。汗が出れば出るほど儲かる。だが、その金は庶民がインターネットで献金したものだった。だとすれば、これは荘厳な権力の争奪戦なんかでは無い。村祭りとおんなじだったのだ。

櫓の上での踊り手は苦い真実を語る奴は引っ込め!、空虚を爽やかにオブラートに包んだ奴こそ人気者になるの決っている。それがオバマだった。ヒラリーはファースト・レディーからの登場だったから初めから二番煎じの茶殻。最後はただの焦るお婆さんだった。

かくて就任式は「祭りの後の寂しさよ」なのに興奮した黒人は200万人も集まった。便所に困ったそうだ。だが、オバマは最早踊る必要も囃す必要も無い。口を開けば、今後は、その一語一語が「国際公約」になる。せめて「頑張りますから、応援宜しくお願いします」と言う日本の最近のアマスポーツ選手(最近はプロもそうか)の言う科白を言うしかなかったのだ。

カネもなし力もなし。あるのは口先だけ。その口も滅多に開いちゃいけないオバマはあれしか演説のし様がなかったのだ。オバマで我々日本人の先は全く明るくない。いい加減頭をひやそうぜ。
2009・01・22

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2009年01月22日

◆哄笑!日中共同歴史研究

渡部 亮次郎

日中歴史共同研究、両国の溝埋まらず 中国「天安門」削除をと産経新聞が1月16日付け誌面のトップで報じたから笑ってしまった。歴史的事実をどうやれば削除できると言うのか。

どのように否定したところで天安門事件は存在した。テレビを通して全世界が見た。死傷者の数こそ"確定"していないが、全世界は歴史的事実と認識している。

その「歴史的事実」をこのタイミングに発表すれば人民を刺激するというが、歴史を政治でゆがめようとするもので、中国の学者たちは科学者とはいえない。日本なら御用学者とか似非学者と非難されるところ。

庶民は、このことを知らないから黙っているだろうが、産経新聞の記事を一瞥すればおそらく仰天する事だろう。「学者とは科学を肯定する人たちのことじゃなかったのか!」

何度も呆れるが,中国共産党とは、まったくもってご都合主義を科学とする集団ではある。

<【北京=野口東秀、矢板明夫】日中両国の有識者による歴史共同研究で、民主化運動を武力鎮圧した天安門事件(1989年)に関する日本側の記述を中国側が「極めて敏感」な問題として削除するよう求めていることが関係者の証言で明らかになった。

天安門事件から20年の今年は「政治的に敏感な年」(中国当局者)で、世論引き締めを強化する中、中国政府は国民を刺激しかねない記述には神経をとがらせており、研究報告書の公表が大幅に遅れる原因にもなっている。

戦後の日中関係史の部分で、双方の意見の相違が露呈。天安門事件(6月4日)については、現代中国に対する関心を高める大きな出来事。日本側は「避けて通れない史実」として報告書に盛り込んだ。

ところが中国側は「今年は事件20周年」で敏感な問題と懸念を示した。天安門事件の死者数は数百人とも千人以上ともいわれるが、真相は公表されていない。再評価を求める声もあるが、中国政府は「反革命暴乱」とした公式評価を変えようとしていない。

また、日本側は戦後の日中関係に関し論文で、「中国政府の青少年に対する愛国主義教育が日中戦争の歴史を過度に強調、戦後の日本を客観的に評価していないことが両国関係に悪影響を与えた」との主旨の記述をしているが、中国側はこれにも猛反発し削除を求めてきた。

中国側の学者は報告書に対する国民感情を考慮していることを示唆しており、中国側が日本側に要請するたかちで、報告公表の時期を遅らせているとの指摘もある。

日中両国政府主導で2006年末にスタートした双方の有識者による歴史共同研究。日中からそれぞれ10人が参加し、日本側は北岡伸一東大法学部教授、中国側は社会科学院近代史研究所の歩平所長が座長。

「古代・中近世史」とアヘン戦争以降の「近現代史」の分科会があり、会ごとに意見交換し論文を作成する。論文に関する討議は非公開とされる。報告書の発表は当初、昨年7月だったが、その後、昨年末への変更後、現在は「今年の春」と遅れている。

研究をめぐっては昨年末にまとめの報告書が発表される予定だった。当初は南京事件(1937年)などに関する記述が注目されていたが、関係筋によると、日中戦争史の部分について双方が「両論併記」の形で簡単に触れることで合意したという。

中国側が「愛国主義教育」と称して“反日教育”を行っているとの日本側の見解にも、中国側は強く反発しているという。>
(産経新聞 2009.1.15 22:01) 09・01・20

2009年01月18日

◆公明党の法制局長官恫喝

渡部亮次郎

週刊新潮3月22日号(東京での発売は15日)によれば、公明党の太田代表と北側幹事長が「政教分離」を巡って内閣法制局長官を呼び出し、「恫喝」していた事を、民主党の菅直人代表代行が国会で暴露したのに、新聞もテレビも全く報道しなかった事が明らかになった。

同誌によるとーーー

「創価学会が公明党を使って閣議決定に圧力をかけたとすれば、そのこと自体が憲法20条の政教分離に反する行動になる」

1月8日、衆議院予算委員会。「定期給付金」に焦点が絞られる中、民主党の菅直人代表代行の質問によって、公明党による内閣法制局長官への「恫喝」が暴露されたが、殆ど(新聞もテレビも)報じなかった。

事の発端は、昨年10月7日の同委員会。菅氏の「(麻原彰晃党首の)『真理党』が、多数を占めて政治権力を使ってオウムの教えを広めようとした場合、憲法20条の政教分離の原則に反するのか」という質問に対し宮崎礼壱長官は「違憲になるとい思う」と答弁した。

これを「画期的」と論じるのは、日大の百地章教授(憲法学)である。「政府はこれまで、宗教団体が国から正式に裁判権や課税権を授けられて行使した場合を『政教分離違反』としてきた。

しかし、それでは極めて限定的で非現実的。今回の一歩踏み込んで、宗教団体が『統治権』以外の政治上の権力を行使した場合でも『政教分離』に反するとした。憲法の解釈として極めて妥当だと思います」

質問には「公明党」や「創価学会」と言う単語は一度も出てこない。ところが、彼らの狼狽ぶりたるや尋常ではなかった。

まず、翌8日、同委員会で富田茂之代議士が長官に食って掛かり、次に15日には参議院の予算委員会で山口那津男政調会長が撤回を要求。さらに山口氏は質問主意書まで提出し、12月24日、会期末のドサクサに紛れてなんと「撤回」の答弁書が閣議決定されていたのだーー。

「1月8日の質問では、当の(昨年10月7日の)質問直後、太田代表と北側幹事長が法制局幹部を呼び出していた事も明らかにされた。長官答弁によって、公明党が如何に"身の危険"を感じたのか良くわかります」(さる政治評論家)。

公明党は"呼び出し"を否定するが、菅氏は「予算委員会での答弁を閣議決定で"撤回"すると言う異常なことが行なわれた。放置できません」と語り、集中審議を求める構え。

しかし、「長官恫喝」だけに鑑みても、「政教分離」の当否は自ら明らかであろう。

以上が、週刊新潮の指摘。新聞、テレビはこれにも沈黙。もともと法務委員会は各社政治部の担当。記事が出てくる事は稀なのだが、
「政教分離」は公明党に関しては古くて常に新しい問題。公明党のマスコミに対する「努力」を痛感する。以下『ウィキペディア』の「解説」である。

<創価学会>

<機関紙である「聖教新聞」は会員による全国的な宅配網が整備されており、一般紙と同じく日刊で全国に配達されている。

自前の印刷所は持たず、全国紙の系列の印刷会社や複数の地方紙に「聖教新聞」の印刷を委託している。

地方紙としては輪転機を遊ばせておく時間を減らし且つ印刷代金を確保できる貴重な収入源。聖教新聞社(=学会)としては自社で全国に高速輪転印刷機の設備を維持せずに全国津々浦々に日刊で新聞を届ける事ができるという風に、両者の利害が一致している。

全国紙でも、毎日新聞社や読売新聞社は聖教新聞の印刷を傘下の印刷会社で受託している。以上のことは新聞社に往々にして創価学会批判を手控えさせると共に半ば宣伝に近い記事を掲載させる狙いがあるという見方があり、経営を優先し、批判を控えるマスメディアに対する批判がある。>

新聞社は新聞社なるが故に創価学会と公明党に主導権を売り渡した部分があると言う事。創価学会に「技ありツ」『木鐸』は買われた!2009・1・16

2009年01月15日

◆鎧ちらりの中国共産党

渡部亮次郎

「08憲章」の発表など「自由要求」傾向に対する中国共産党の反応が注目されるが、産経新聞が11日、北京からの報道として伝えたところによると、共産党は1月4、5日、全国宣伝部長会議を開催。思想部門を統括する李長春・党政治局常務委員が「統一された宣伝・思想・文化工作」を展開し、社会の安定を維持する方針を打ち出した。

国内の報道機関は08年8月の北京五輪期間中、社会の不安定化につながる報道を規制されていたが、今後、統制は一層強化されそうだ、という。

中国共産党政府にとって09年は政治的に「敏感な年」(当局者)と認識しているからで、党中央組織部長の李源潮政治局員は「党と国家にとり、試練の年になる」と表明した。

<中国、世論統制を強化 記念日続々「敏感な1年」に警戒感 
【北京=野口東秀】中国共産党は、報道や学術・文化界を含めた世論・思想の引き締めを強化する方針をこのほど打ち出した>。

中国の今年の主な記念日

3月10日 チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の海外亡命(同月17日)につながったチベット動乱から50年

4月25日 非合法の気功集団「法輪功」メンバーが権力の中枢、北京の中南海を包囲し、党中央に衝撃を与えた事件から10年

5月4日 反日愛国運動(五四運動)90年周年

同12日 約8万7000人の死者・行方不明者を出した中国・四川大地震から1年

6月4日 民主化運動を武力弾圧した天安門事件から20年

10月1日 建国60周年(国慶節)

<経済の悪化で失業者が増大し、民衆の暴動が各地で吹き荒れる中、政治的に敏感な記念日がめじろ押し。公安当局は、民主化の動きを警戒、徹底してその芽を摘む構えで、宣伝工作と治安対策を格段に強化する見通しだ。指導部は、社会の安定を最大の政治原則として建国60周年を乗り切る構えをみせている。

香港誌「開放」「争鳴」の最新号は、中国共産党が2008年12月、「世論宣伝の管理を強化する」内容の「24号文書」を党内に伝達したと報じた。

胡錦濤国家主席(党総書記)が「西洋化と(体制内の)分裂に反対する旗を高く掲げる」よう指示したという。文書の通達は「金融危機で経済が衰退する時期には、特に世論を厳しくコントロールし、(党に歯向かう)異分子に打撃を与え、『社会の安定』を維持する必要がある」(争鳴)からだ。

胡主席は12月中旬、「西側の政治制度をモデルにすることは絶対にない」と言明した。当局は、一党独裁体制を批判し、政治体制の改革を求めた「08憲章」の起草者で、著名な作家の劉暁波氏を拘束した。関係者によると、当局は、同憲章に署名した者のうち70人以上を尋問し、署名撤回を要求している。同憲章に関する取材や報道を禁止する通達も出された。

「社会の安定」重視は、尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権を主張する反日団体が1月10日に湖南省で開く予定だった会議が当局の意向で突然中止となったことにも表れている。

中国は、10月1日の国慶節(建国記念日)に大規模な軍事パレードを10年ぶりに実施し、大々的に国威発揚を図りたい考えだ。関係者によると、パレードには治安維持を担う武装警察部隊が初めて参加する方向で調整中だ。胡主席は1月4日、武装警察部隊幹部と会見し、「職責と使命は極めて重大だ」と激励した>。(産経ニュース 2009.1.11 01:00)

これでも毛沢東の時代よりは良いかもしれない。彼は百花斉放 百家争鳴といって文化人知識層を油断させておいてある日突然掌を返し「ブルジョア右派」として一網打尽にした。

それと比べれば今回は警報を鳴らすところは少しは良いかもしれない。だが、いずれにしろ08憲章に展望は無い。2009・02・11

2009年01月14日

◆創価政権阻止のため自民と決別

                 渡部亮次郎

若い頃、東京で政治記者仲間だった友人が正月だからと実に久しぶりに訪ねてきて、いきなり「もう自民党支持をやめる」と宣言。例によって日常会話も結論からはじめる御仁である。

政治記者とは言えど決してエリートコースを歩かされず、共産党や創価学会、公明党を担当させれた時期もあったが、腐らなかった。
共産党も創価学会も記者会見は開くが決して奥底を見せない。

だから時間ばかり食うが原稿は1行にもならない。普通なら腐るところを、彼は空いた時間に言われもしない右翼の取材を始めて成果を挙げた。自民党の政治家は右翼に弱いから右翼で拾う自民党情報は後に大変役立ったといっていた。

そんな彼だが親は労組の幹部だったとかで、「オレの反面教師。おれは自民党以外の政党は支持しない」と高言していた。それが突然『自民党支持をやめる』というのだからいささか驚く。

「安倍、福田と連続して政権を分投げたからじゃない。実は今の自民党は全く公明党、創価学会の言いなりの政党に堕落してしまった。
敗戦後の日本再建に責任を以って当って来たという矜持を捨ててしまった。これはもはや自民党では無い。支持に値しない。乞食みたいな創価学会にアゴで使われている自民党はさらばだ」。お神酒が回るとメートルは一段と上がる。

創価学会は公明党を完全に掌握しており、完全な政教一致であると断じ「今や麻生内閣の政策はすべて創価学会の言いなりだ」という。2009年1月12日付け読売新聞によると、麻生内閣の支持率は20・4%、不支持率は72・3%。嘗ての森喜朗内閣以来の不人気内閣に落ちた。

「それよりも問題は内閣が景気対策の目玉としている総額2兆円の定額給付金についての反対が78%に達している事だ。定額給付金なんていう発想は政治家や財務官僚のもんじゃない。創価学会が自民党に要求した『総選挙ご苦労賃』だよ。ことの経緯を振り返れば明確だよ」。

発足早々だった麻生内閣はすぐにも衆院解散を断行する。創価学会は主要行事たる東京都議会選挙を夏に控えたこの時期に総選挙を自民党に手伝うのは大反対だ、と公明党は言明。

だがその口の下から「魚心あれば水心」とばかり「2党円」を要求。
麻生は一も二も無く了承。タイミングよく世界不況が始まったから、
この給付金が不況対策の目玉だと言う。「おふざけじゃないよ」友人は怒る。

「牧口や戸田のころから創価学会は資本主義体制の落ちこぼれを会員にしてきたから、彼らははじめっから社会のダニ。タカリの乞食なんだよ。選挙のためには乞食に2兆円も渡して愧じないというのだから麻生が景気対策だといえば言うほど国民は嘘を言い張っていると判っているから2兆円反対、麻生はんたいとなるわけさ。

おれは麻生より小沢が嫌い。小沢より品に無い菅がもっと嫌い。容共主義者だしな。鳩山は頭が悪いからハナから相手にしない。加えて民主党には日米安保条約破棄を求める旧社会党が残存して小沢の脚を引っ張っている。そこで小沢はあろうことか世界平和は国連で守るなどというバカなことを言っている。

だから政権を担当させるのは森喜朗を再登場させるよりも厭なんだ。だけど。このまま自民党にやらせておくと間もなく乞食にたかられる事100%の政府になってしまう」。

創価学会は2代目会長戸田時代から会員を地方議会や参議院に送り込こんで来たが、池田時代に入って政党、「公明政治連盟」(後の公明党)を創設し、「王仏冥合」を唱えてきた。これこそは政教一致の思想である。仏法民主主義など態のいいことをいっているが結論は創価学会による日本支配なのだ。

これに警鐘を鳴らすべき大手新聞社やテレビ会社はすでに創価学会の配下に成り下がってしまった、という。


学会の機関紙である聖教新聞は会員による全国的な宅配網が整備されており、一般紙と同じく日刊で全国に配達されている。

しかし学会は自前の印刷所は持たず、全国紙の系列の印刷会社や複数の地方紙に聖教新聞の印刷を委託している。

委託された地方紙としては輪転機を遊ばせておく時間を減らし且つ印刷代金を確保できる貴重な収入源、聖教新聞社(=学会)としては自社で全国に高速輪転印刷機の設備を維持せずに全国津々浦々に日刊で新聞を届ける事ができるという風に、両者の利害が一致しているそうだ。

全国紙でも、毎日新聞社や読売新聞社は聖教新聞の印刷を傘下の印刷会社で受託している。このことは新聞社に往々にして創価学会批判を手控えさせると共に半ば宣伝に近い記事を掲載させる狙いがある。経営を優先し、批判を控えるマスメディアは堕落した。

「とにかくおれは自民党は創価学会政権樹立のイヌになることを恐れる。だから断腸の思いでこの際、自民党支持をやめる。決別」

友人はもう1杯呷って去った。私は全く酔えなかった。正月と言うのに霙が降ってきた。
(一部『ウィキペディア』を参照 2009・01・12)

2009年01月13日

◆離党・脱党の利害得失

                 渡部亮次郎

斯界再編成は焦眉の急になっているが、それよりも先に自民党をみずから離党しようとパフォーマンスを繰り返しているのが、渡辺喜美代議士である。

河野洋平は総理大臣になれなかった唯一の自民党総裁の経歴を残して引退するが、この原因は離党の傷である。田中角栄内閣に砂を掛けて新自由クラブを結成。田中を窮地に追い込みはしたが、政界浄化も何も達成できないまま恥ずかしいことに復党した。

脱党された時の田中の恨みは田中の子分全員に残った。河野はその恨みを纏った為、以後、能力の無さもあったが、どんな地位を与えられても政治史に残るべき実績は何も挙げられなかった。

ましたその仲間たち。どこに消えたかよほど大きな天眼鏡でも捜せない

私が大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)も若い頃、日米安全保障条約の批准案に反対票を投ずるため敢えて国民民主党(当時)を離党したことが、後々まで跡を曳き、苦労した。喜美も「後がたいへんだろうな」と心配してしまう。

性格の激しさで似ていた父親美智雄(ミッチー)ですら、生前、総理大臣の椅子を餌に小沢一郎から誘われても踏み切れなかったのが「脱党」だった。離党や脱党とはそれくらい政治家の信用を左右する一大事なのである

ミッチーが加わる前の河野一郎(洋平の父)も派閥ごと岸信介首相反対の新党結成を企図したことがあったが、派閥要員たちがその後の政界孤立を恐れて震え上がり成就できなかった。

後に自民党内閣(福田赳、大平、鈴木)の外務大臣を務め「日米安保条約こそは日本外交の基軸」との答弁を繰り返さざるを得なかった園田だが、時折は昔の傷をマスコミにえぐられた。

しかも安保条約反対の理由は「再軍備の不可能」だったにもかかわらず、日米軍事同盟への反対者と決め付けられたこともあった。反対票投入に先立って理由鮮明の記者会見などパフォーマンスをしなかったため「証拠」が残らず反対理由を勝手に解釈されることとなったのだ。

手許に『実録 政界二十五年』宮崎吉政著(読売新聞社刊)という1冊がある。読売新聞政治記者だった宮崎氏がまとめたものだが、当時、毒舌評論で名を馳せた大宅壮一が序文をよせているという「お墨つき」だ。

これによると日米安保条約に対して国民民主党(野党)の中には反対者が17人いると言われた。「青年将校」中曽根康弘は総務会でぶちあげた
「このような屈辱的条約に、われわれは責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で、日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれはアメリカに賠償をようきゅうすべきだ」

園田によるとその中曽根に従いて行ったのだが気がついたら先頭がいなくなっていた。中曽根を説得するのに三木武夫幹事長は「将来、きみが総理大臣になるときにキズになる」と口説いたそうだ。

このとき離党したのは園田のほか石田一松、小林信一。小林は社会党入り。石田、園田の2人は翌年結成された改進党に参加して復党した形とはなった。

しかし、園田にとって、それは苦難の始まりに過ぎなかった。なぜならその後結成された自由民主党は、日米軍事同盟の牙城の如き存在だったから、園田は日米安保に「反対した」分子と札が貼られ入閣が酷く遅れた。厚生大臣として初入閣した時は当選「9年生」だった。

しかも自民党政権の恥部であった水俣や新潟の水銀病をはじめて公害病と認定し、財界の総反発を招いた。これは離党や脱党の不利益ではなかったが、以後十年は再入閣がなかった。

園田に能力があったか無かったかはわからないが、日米安保条約批准に際して早くも「風見鶏」を発揮した中曽根は総理大臣にのぼりつめ大勲位に叙されて未だ健在である。

こうして振り返ってみても離党、脱党による政治家のプラスとは殆ど考えられない。むしろ中曽根をみれば脱党しなかったことが政権獲得のカギであったといえる。園田の息子は新党魁に走ったから未だに入閣できていない。ヘンなDNAである。文中敬称略。
2009・01・11


2009年01月08日

◆遺体展示の毛沢東

渡部亮次郎

モスクワのレーニン廟にはソビエト社会主義革命の主導者レーニンの遺体が防腐保存されているが、中国革命の指導者毛沢東の遺体も北京天安門広場に作られた毛主席紀念堂の瞻仰庁という部屋で、ホルマリン漬けではガ無いが、防腐処理をした遺体として一般公開されてる。

私が毛の遺体に初めて対面したのは展示されて約2年後の1978年8月11日午前9時(北京時間),折から日中平和友好条約締結交渉のため北京を訪問中だった外務大臣園田直と共に中国側の案内で対面した。

そのあと周恩来元総理の記念展にも案内されたが、周総理の場合は遺骨は散骨され、遺言により、墓地は建造されていないことを知った。

帰国後、園田氏は「周恩来は将来、墓が暴かれる事を恐れたのではないか、だから敢えて散骨を遺言したのだろう」と語った。そういえば、その後、経済の改革、開放路線を敷き、中国近代化促進を実現したケ(トウ)小平も遺言で散骨を命じ、胡錦濤が散骨したとされている。

毛の遺体は兵士に守られた水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれて安置されている。観光客には立止まって見ることは許されていないので、見られる時間はせいぜい1分程度だそうだ。
http://bloggers.ja.bz/ykon/archives/000290.php

その部屋に入ると、正面の壁に大きく、「我々の偉大な指導者は永遠に朽ちずここに眠る」のような言葉が書かれ、その下に2名の兵士。その空間と観客とはガラスの壁で仕切られている。

観客は、緊張感のあるそのガラスの中を横目で眺めつつ、さっーーーと歩きぬけないといけない。がんばってゆっくり歩いても、実際に毛沢東の顔を眺められるのは、1分もないぐらい。

さて、問題の毛沢東。ガラスの壁の向こうで、しかもさらには水晶のケースの中に入っていて、距離は、5メートル以上、細部は全然分からない。ただ確かに毛沢東の顔をしているということは分かるものの、思ったよりとてもこじんまりとしている。

田中角栄首相が我々80人の記者団を率いて日中国交回復に訪中したとき、毛沢東は記者団の前には姿を曝さなかった。そればかりか田中首相の表敬訪問にさえ通訳は勿論政府随行者すらシャットアウトして真夜中に会ったぐらいだった。

それから4年後に毛は老衰状態で82歳で死去。当時、文化大革命の実行者たる毛夫人の江青らいわゆる4人組が死せる毛の威光を笠に着て政治の主導権を掌握して行こうとしていたから、遺体の防腐保存は一も二もなく決定された。

それを見守る国家主席は華国鋒。革命中に毛が農村の女に産ませた子供。彼も当時は毛の威光を頼りにしていたが、片や復活間もないケ(トウ)小平は既に4人組はおろか華国鋒の打倒すら企図していた。園田訪中団のわれわれはそれを肌で感じ取っていた。

1996年は周恩来がまず癌で死去、それを追うように毛が9月9日に死んだ。途端にトウらに迫られた華国鋒は江ら4人組の逮捕を断行。やがて自らも引きづり降ろされトウ正平による改革開放路線の展開となる。

それにしてもトウが墓を残さなかったとは自らの未来を見通していたのだろうか。改革開放政策の行きつく先は毛が敵視した資本主義そのものであり、そうなった場合、中国「国民」は自らを一時的にしろ国家建造の妨害者として断罪する事が不可避である事を。

だとすれば毛沢東は共産主義革命の推進にあたって右腕とも腹心とも頼っていた周恩来とケ小平の2人に最終的に裏切られる運命だった事になる。毛の遺体の展示は長くは無いだろう。2009・01・06

2009年01月07日

◆林彪はなぜ死んだ

渡部 亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪(りんぴょう)に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味するからだ。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。「共産党より恩人守れ」だった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は、連夜会を開いたが、まず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を林彪と決めて憲法に書いた。民主主義国家では考えられない事だし、同じ共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうなとの社長命令だった。

林彪事件が朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。実は当時の朝日新聞は林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

それにもかかわらず(当時西側の多くの報道機関は林彪の失脚の可能性を大きく報じていた)、親密な関係にある中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために、あえて失脚に懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいたことによるものである。

1969年の九全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、国家主席劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、毛に野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に却って批判されることになる。

さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。 1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。

1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国のヘンティー県イデルメグ村付近で墜落死した。

燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否しミサイルで撃墜したとの説がある。

逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。

当初、林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。

とにかく林彪が死んだのに中国は内外に発表する事を躊躇し、発表したのは10ヶ月後の1972年7月28日だった。その2ヵ月後、日中国交回復がなった。

一説には林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きたソ連との領土紛争「珍宝島(ソ連はダマンスキー島)事件」を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになった。

そこで毛沢東は二正面作戦を採るのは上策ではないとして、それまで「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。ニクソン訪中がその証拠。しかし、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張して対立したという。いずれにせよ、林彪事件には
今なお謎が多い。

林彪を消した毛沢東は、後釜をトウ小平と定め、生涯2度目の失脚で「下放」していたのを呼び返し、副首相に据えた。トウはまた失脚を繰り返すが、華国鋒を騙して実現した3度目の復権で中国最大の実力者として君臨20年をモノにする。

それもこれも林彪の死がきっかけだった。参考「ウィキペディア」
2007・07・27

2009年01月05日

◆議会制民主主義の乞食

渡部 亮次郎

こじき=食物や生活に必要な金品を他人に乞うて暮しをたてている者の総称。

日本では乞食は地方によりコジキ,モライ,カタイ,ホイト,カンジン,ヘンドなどをはじめ実にさまざまの呼び名がある。

ただしコジキの呼び名がもともとは仏教僧の托鉢(たくはつ)を意味する乞食(こつじき)からきているように,その多くは本来の意味からの転用である。したがって,こじきの範囲は今日一般に考えられているよりもはるかに広く,そのさかいめもあいまいであった。

たとえば近世以前の社会では,乞食とはどのような人々と考えられていたのだろうか。江戸時代の随筆類や風俗調査などにあらわれたところを大きく分類すれば,この時代の乞食に,(1)純然たる物もらいのためのこじき,(2)托鉢勧進する宗教者,(3)門付(かどづけ)芸人,(4)旅をする行商人,などをあげることができる。

このうち第1のタイプのものはおそらくどの時代にも普遍的に存在した。それは冷厳な経済の構造が多くの人々を社会の外へと切り捨てていった結果にほかならないが、風あたりはことに病人に対してきびしかった。

カタイというこじきの呼び名が,近年まで業病とおそれられた癩の異名であるとした土地が少なくないことにも,それはよくあらわれている。彼ら病人たちはこじきとなって故郷を捨て,しばしば治外法権的な性格をもった神社仏閣の庭にたむろして余命をつないだのである。

2番めのタイプの乞食には勧進僧,六十六部,巡礼など,いずれも旅をむねとする宗教者が含まれる。仏典によれば比丘(びく)の生活には十二頭陀(ずだ)行と呼ばれる12の戒律があり,乞食(こつじき)行はその一つとされる。

托鉢というのもこれと同じで,修行僧が煩悩のあかをおとし衣食住にむさぼりの心をおこさないため,門ごとに食物を乞い歩くことをいう。したがって午前中に行うこと,生命をささえるにたるだけにとどめることなど,いくつもの厳格な制約があった。

しかし一方では働かずに食物を手に入れられるところから旅僧まがいの世間師や故郷で食いつめた巡礼など,ほとんど乞食としかいいようのないものも少なくなかったのである。

第3の門付芸人には,節季候(せきぞろ),万歳(まんざい),春駒のように一年中の定まった季節にやって来るものと,説経,祭文,歌比丘尼などのように時を定めぬ者とがいた。

いずれも第2の場合と同じく,もともと乞食だったわけではない。むしろ季節を定めて祝福に訪れてくる神々への信仰に源流をもち,神の姿をした祝福芸人〈ほかい人〉の末裔にほかならなかった。

だから,《万葉集》巻十六に〈ほかひびと〉の歌がおさめられていることからもわかるように,その起源はきわめて古いといってよい。しかしこれら祝福芸がたとえば能や狂言などのように社会の上層に上昇転化するきっかけを失い,また近世に入ってからは,これらの芸をになった人々のほとんどが,差別視された身分におとしめられるにつれ,かつての巡遊芸人たちも乞食と同様にみなされるに至ったのである。

また最後のタイプの乞食にはたとえば,おもに箕(み)なおし,羅(おさ)作りなどにたずさわったといわれる山窩(さんか),オゲと呼ばれる漂泊漁民,野鍛冶などがあたる。

彼らの場合も,中世から近世にかけて都市が発達してゆく過程で,そこに定着することに失敗した職種の商人たちが,のちのちまで乞食として残されてしまったのであろう。

いずれの型のこじきにしろ彼らに共通する特徴として,経済的にも身分的にも社会の最下層に位置していること,社会の一般的な経済システムから排除されていること,そしてきわめて放浪性の高いことがあげられる。

逆に土地に根づく農民を主体に作られてきた日本の文化にあっては,一ヵ所に定住しないことはみずから食物を作り出さないことであったから,旅の境涯にある人々の生活様式は必然的に物乞いであるほかはなかったであろう。

その意味では旅を基盤にした文化あるいは都市でつちかわれてきた文化とは,こじきとそれにまつわるさまざまな習俗を生み出してきた文化であるともいえる。

一方,農民はじめ一般庶民の間にも習俗化された物乞いの行為が入りこんでいることが少なくない。たとえばまぶたに生ずるはれものをモノモライとかメボイト,メコジキなどこじきを意味することばで呼ぶのは,近所の家々をまわって障子の穴から手をさし出し,すこしずつ食物をもらい歩いて食べるとよいなどという民間療法からきている。

そのほか、八月十五夜の月見のだんごを盗んで食うと健康になるというのはよく知られた風であるし,小正月のころ若者や子どもたちがわざと乞食のなりをして家々から金品や食物をもらい歩く,カセドリとかコトコトなどと呼ばれる習俗もかつては全国に分布していた。

これは食物をともにすることにより,多くの人々と力をあわせ,より健康な生活をおくることができると信じた心意にもとづく慣行だと考えられている。

これに対して,一般庶民が,門ごとに訪れるこじきたちに対していだく期待も少なくはなかった。江戸時代の四国諸藩がたびたび乞食遍路の取締りを行いながらも,彼らを弘法大師の化身とみなす庶民信仰にはばまれてついに成功しなかったのは,乞食行脚(こつじきあんぎや)の宗教者に対する民衆の期待や信仰がいかに強かったかを物語っている。

施される金品とひきかえにこじきたちは宗教的な霊威や門付芸による祝福,あるいは生活上必要な物資さえもたらした。つまり都市や農村に住む民衆にとってこじきとは,生活圏の外から訪れてくる,なかばの期待となかばの恐れとをもって迎えるべき神聖な旅人でもあったのである。
(真野俊和)世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスより。

議会制民主主主義の下では乞食は背広を着て団体や政党らしきものを組む。やっていることには触れたくない。魂が穢れる       2009・01・04

2009年01月02日

◆嘘吐きは読売か山崎か

渡部亮次郎

<衆院選前、「新党考えず」 山崎拓氏、自民中心の再編強調>
(産経ニュース2008.12.30 21:05)

肝腎の「読売」は「否定」の山崎談話を大きくは取り上げていない。つまり「頬かむり」の状態。山崎氏を巻き込んだ加藤紘一氏の新党構想は固まったものでもないのに、あたかも彼らを中心に嵐が自民党内に起きかかっており「麻生大変」と客観ぶりながら脚をひっぱった読売。

政治家が嘘を言うのはいわば常だがツネ王国の読売が嘘を言ってまで麻生の倒閣を狙うというのは穏やかではない。狼が「来るぞ」「来るぞ」と過剰な警戒を呼びかけて結局、人々を怯えさせながら何かの主導権をとろうとする奴のことを昔は「狼少年」と言ったがいまは読売新聞と呼ぶのだろうか。

<山崎拓元自民党副総裁 自民党の山崎拓元副総裁は30日、次期衆院選前の新党結成を視野に入れた新たな勉強会を加藤紘一元幹事長と1月にも発足させるとの一部報道(読売新聞30日)に関し、新党目的との見方を否定した。

山崎氏は福岡市内で記者団の質問に答え「現在は(新党を)考えていない。自民党を選挙で勝たせ、政界再編の軸となる政党とするよう最善を尽くす考えだ」と述べた。

関係者によると、加藤氏が山崎氏に自民党内の新勉強会を提案し検討に入ったが、メンバーも決まっていない状況という。加藤氏は民主党の仙谷由人元政調会長らと「ラーの会」と呼ぶ超党派会合を開いているが、次期通常国会では与野党激突で開催困難になる懸念があることから与党だけの勉強会が浮上した。

山崎、加藤両氏は「衆院選後に政界再編」との認識で一致しており、山崎氏はこの日の福岡市内での街頭演説でも、「ねじれ解消の必要から総選挙後は政界再編が避けられない」と強調した。>

山崎氏もここまで明確に否定するのなら、読売への売り込みも程々にすべきだった。世間は変態性老化現象までは山崎氏を認知していたが、その後は「騒がせ屋」に落ちぶれていたとは知らなかった。

日本の政界が落ち込んだ閉塞感はなにに原因があるわけじゃない。いつにかかって世襲議員だらけになった「無気力」に発している。
しかして議員の世襲は息子、娘たちの望みよりは後援会の勢力維持のための現象だから最早直らない。

新党という新しい器を作って無気力世襲議員を蹴落とす以外にない。とはいっても加藤、山崎といった不使用済み不核燃料が新党の核になることなんかあり得ない。読売の「飛ばし」もいい加減にしてもらいたい。

戦後の読売は政治、経済面を充実させて発行部数日本一の新聞にのし上がったが、得意の政治面を使って倒閣運動をやるようでは、程なく昔の3面記事の読売に戻らざるを得なくなるだろう。のぼせ上がるな。新聞が休刊の元日。僭越ながら新聞に代って本心を言う。2008・1231

2009年01月01日

◆マスコミの麻生降ろし

      渡部亮次郎(全国版メルマガ「頂門の一針」主宰)

<加藤・山崎氏が新党視野、来月にも新たに勉強会
激震・麻生政権>(2008年12月30日03時04分 読売新聞)

新聞は今回から元日が休刊なので、この記事が読売の麻生政権に贈る「お年玉」である。このところ露骨なぐらいに麻生政権の脚引張りを続けてきた読売新聞が遂に公然と麻生降ろしに化けの皮を脱いだのである。

<自民党で年明けから、離党や新党結成などの分裂含みの動きが強まる情勢となった。加藤紘一・元幹事長と山崎拓・前副総裁らは次期衆院選前の新党結成を視野に、1月にも新たな勉強会を発足させる>。そうは言っても勉強会の主だったメンバーが明らかになっていない。

仮に近くあきらかになるとしても、既に旬の過ぎた老骨に敢えて群がる酔狂者がいかに落ち目の自民党とは言え、そんなに驚くほど数がいるとは思えない。それなのに「若手にも動き」と報じて脅しをかける。

<また、道路特定財源の一般財源化を巡る政府の対応に反発する中堅・若手議員の一部が関連法案の採決で造反を模索している。民主党側も、自民党内の造反・離党を誘う動きを強める構えで、1月5日召集の通常国会は政界再編につながる緊迫した展開が予想される>。名簿を明らかにしていないところを見ると読売政治部の「希望的観測」ととるべきだろ

<加藤、山崎両氏らの勉強会は「日本の国のかたち、あり方を考える」を主題に、自民党議員と、学者や文化人も交えて5〜10人規模となる見通し。構造改革路線を批判する立場から、「行き過ぎた市場原理主義の是正」を旗印とした勢力の結集を目指すとしている。民主党議員の一部を連携相手に想定しているとされるほか、公明党との協力を探る可能性があると見られている。

一方、道路特定財源の一般財源化では、新たな「地域活力基盤創造交付金」の使途の8割が道路にあてられる予定で、「道路特定財源の一般財源化を抜本的に進める会」の河野太郎、水野賢一、柴山昌彦の各衆院議員ら自民党の中堅・若手が「骨抜き」と反発。政府が1月下旬をめどに作る関連法案に関しても、「新交付金に縛りをかけるなら賛成し難い」と態度を硬化させている議員もいる。

定額給付金事業では、先の衆院解散要求決議案の採決で造反した渡辺喜美・元行政改革相が、同事業を盛り込んだ2008年度第2次補正予算案に反対する可能性を示唆。自民党内で同調者が出る可能性がある。

一連の動きには、麻生内閣の支持率急落などが作用している。参院で主導権を握る民主党は同党会派単独では参院の過半数がなく、自民党の一部との連携を模索する動きが出ている>。

それ見たことか。新党グループの規模は学者や文化人という「膨らし粉」を入れても最大10人規模。そんなものに血道をあげるほどの暇人は居るまい。もともと何もできない2世、3世議員ばかりの自民党。ボンボン議員ばかりだから政党に不可欠の躍動力を失ったのだ。

それだから自民党に決別するといったのでは自己矛盾。自らの尻尾を追いかけてから回りする犬に似ていないか。確かに新党の必要性こそは現下の日本政界に迫られた必然性のある宿題である。しかし加藤、山崎といった売れ残りの半端者が中心になったのでは、纏まるものも纏まらない。

読売は麻生への歓迎されざる「お年玉」を纏めるため誰かをけしかける必要があったのだが、乗ってきたのがこの2人ではのっけから竜頭蛇尾と貶しておこう。

2008年12月31日

◆今じゃ毎日が正月だよ

渡部亮次郎

正月が来る。来れば晩酌が午後2時に繰り上がり、滅多に会わない親戚、家人の姉、弟、甥らがやってきて料理を食べる。料理の値が少し張るだけで昨日と同じ。考えるまでもなく、今は毎日が正月みたいなものだから感激は一つもない

生活が楽になったのだ。雪国秋田での少年時代。隙間風だらけで寒かった。居間では囲炉裏で焚き火。正月だけ座敷で炭火。煙たくないだけ良かったが、良かったのはそれだけ。あ、田圃へ出なくてもいいのも良かったか。

餅と膾(なます)が出たが、餅は今に至るも好きでは無いから喜ばない、膾は酸っぱい上に甘いから嫌い。こんな正月のどこが良くて大人は盆踊りで「盆の十三日、正月から待っていた」なんて唄うのだろうか。とにかく私はこの集落を出てゆこうと早くからハラを決めていた。

当時の米単作地帯では雨が降らない限り田圃に毎日出なければならなかった。田圃では畦道の草刈はじめ何かかにか仕事があった。だから夜中に降る雨を百姓泣かせの雨と嘆いた。雨だ仕事は休みだと喜んだのもつかの間、朝飯が終わった頃には止んでいる。結局、田圃に出ざるを得ないのだから百姓泣かせの雨なわけだ。

当時はすべての農作業は手仕事。米という字が八十八と書くように米作りには88の手間がかかる。苗作りのための籾撒きに始まって代掻き、田植え、草取り、稲刈り,乾燥、運搬、脱穀。指の爪先に泥が詰まり腰が曲がってゆくのがよくわかった。

今では田植えですら機械化されたし、草取りも除草剤のおかげでなくなった。稲刈りも機械だから女たちが田圃に動員されることは殆ど皆無になった。その代わり田圃からは秋田音頭も聞えないしちょっとなまめかしい風景もなくなり用水路からは泥鰌もタニシも姿を消した。

私も秋田の田圃から逃走して55年になった。農作業の手順はすっかり忘れた。学校へ穿いてゆくために独りで編んだ藁沓の編み方も草鞋の編み方も思い出せなくなって久しい。

正月近くなると霜焼が痛いと泣く子供たちの声が近所のあちこちにこだまするように泣いた。あれはビタミンC不足だったという話だ。雪国でみかは無し。津軽から行商にくる林檎売りも大東亜戦争中は皆無。Cを補う食べ物はなかった。だから手の甲と両足の甲に霜焼の跡が歴然と残っている貧しさの象徴というべきか。

正月がくる。来れば間もなく誕生日。何歳になる?脳梗塞をやり損なって以来70歳以上は考えない事にした。高層マンションとやらで隙間風もない暖かさ。田圃の事も考えなくていい暮らし。毎日が正月みたいなものだから既に正月の感激も緊張もない。

秋田でも正月の感激はなかったから同じことか。それにしても私は今年、入院だけで済んだが周囲で多くの友人を失った。忘年の晩酌のグラスに逝った友人、ひとり一人の面影を浮かべながら2008年を送ろうとしている。2008・12・30

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