2007年09月08日

◆父子2代「2年首相」

                         渡部亮次郎

福田康夫を担ぎ上げて安倍を斬ってしまおうという"陰謀“は消滅していない。だが、肝腎の康夫が「迷惑千万!」といったっきり頑として「聞く耳持たない」そうだ。

先輩の古澤襄さん(元共同通信社常務理事)によると、よく分かる。

<与党の関係者と話をすると福田康夫元官房長官の待望論が根強い。その裏には安倍首相では小沢攻勢を凌ぎ切れないという危機感がある。あと2年間は福田政権で繋ぎ、その後は思い切った布陣で総選挙を戦うのだという。

だが安倍首相で凌ぎ切れないものが、福田首相で凌げるものだろうか。仮に凌いだとしても、総選挙は誰を担いで戦うのであろうか。極めてプリミテイブな疑問だが、誰も答えてくれない。

こんなことでは、当の福田氏が「迷惑千万!」と言って一笑に付すのではないか。2年間のリリーフ投手なんて軽く見られたものだと不快感を持つに違いない。もともとが誇高き男である>。

康夫は私と同じ歳。既に71歳。父親赳夫の総理就任と同じ歳になった。あの時康夫は、しばらくしておっとり刀で丸善石油の課長を棄てて総理首席秘書官になった。既にNHK国際局副部長から園田直外務大臣の秘書官になっていた私は初めて彼と顔を合わせた。

おかしな出合だった。赳夫が田中角栄と総裁のポストを争った「角福戦争」の1971−72年ごろ、私は赳夫番記者だったが、1度も康夫の顔は見ていない。政界に入る事は無いと思っていた。

赳夫の面倒を見ていたのは横手家へ養子に出た次男征夫(いくを)であり、彼が親父の後継者だろうと周囲は見ていた。それが、実際、親父が総理大臣になったら、突然、康夫が首席秘書官として割り込んできたからみんな驚いた。

実際のところ、弟の横手征夫は慨嘆したと聞いた。それでは赳夫の跡継ぎは康夫、征夫は参院議員を務めている叔父さんの後継者か、と噂しているうちに征夫は癌で急死してしまった。

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◆共産党万歳の瀬島龍三

                            渡部亮次郎

<日本財団より会長笹川陽平ブログです。
戦前、戦中、戦後を通じて政、財界の「参謀」として隠然とした
影響力を持った伊藤忠商事元会長の瀬島龍三さんが4日死去されました。

本日は、瀬島さんのことについて書いております。題名は「瀬島龍三氏 死去」です。

お忙しいとは存知ますが、お時間のある時にでもブログをちょっと覗いていただければ幸いです。
http://blog.canpan.info/sasakawa >

瀬島龍三氏が逝去された。享年95歳。

以下はウィキペディアからの引用である。

『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀をたまわる。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲一等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第二次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した。』

更に『ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については、保阪正康氏の主張に対して、本人も半藤一利氏も否定している。』とある。

ウィキペディアで興味を引くのは、『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。

このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。

私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連側検事証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後瀬島氏は、その天皇から勲1等瑞宝章を親授された。

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2007年09月07日

◆安倍退陣は無いのか

                         渡部亮次郎

改造後の安倍さんの顔が冴えない。多分、眠れないし、腸の具合も良くないのだろう。下痢が激しいのではないかと推測している。

改造の時は事務の官房副長官と首席秘書官を差し替えないとまたまた次に酷い目に遭いますよ、と「夕刊フジ」で忠告したのに聞いてくれなかった。

案の定、遠藤農林水産大臣の「身体検査」の不徹底がわかり、安倍首相は取り返しのつかない失態を演じる事になった。身体検査は官房副長官と首席秘書官の責任なのである。

官房副長官は旧内務省系官庁を抑えていなければならないが的場氏は旧大蔵小出身でありながら、旧大蔵省の推薦ではなく財務省の反感を買っている。首席秘書官は旧国鉄OBで官界にもマスコミ界にも人脈が皆無。身体検査には手も足も出ない。

かくして果たせるかな自民、公明両与党内から、農相人事の直後「ひょっとして安倍退陣」という情報が流れた。もはやこの弱体内閣を頼っていたのでは、「我々に明日は無い」と実力者たちが「首相とりかえ」を考えたのである。

だから安倍さんの顔が冴えない。党内のざわめきを感じ取って眠れないのである。

前々から言われていた幻の福田康夫首相で当面を繋ぎ、麻生太郎首相に持っていく動きが出ていた。安倍首相の人事の不手際は限界にきていたからである。

さりとて解散・総選挙をするわけにはいかない。今やれば大惨敗。実力者といえども落選の危機に曝されるからである。そこで、党・内閣人事は安倍改造人事をそのまま受け継ぎ、農相には派閥領袖の1人を当てるという構想も検討された。

東京オリンピックのあった1964年、喉頭癌に倒れた池田内閣から佐藤内閣にバトン・タッチした時に用いられたのと同じ手法である。

思い出せば池田政権の幹事長三木武夫氏も、そのまま佐藤政権の幹事長として留任している。あれから既に43年。当時を知る政治家は残っていないが、危機となれば考える事は同じだ。

「安倍退陣説」には安倍さんも側近も抵抗している。また反安倍勢力が頼みとする福田康夫氏は火中の栗を拾うつもりはないというから、この構想がそのまま実現するとは思わないが、突然表面化する可能性は否定できない。

農相の後任は決まったが、問題は民主党が参院で、安倍首相の任命責任を問い、問責決議案を出す可能性があることである。参院の問責決議そのものは、衆院の内閣不信任案と違って法的な拘束力を持たないが、問責された総理が参院本会議や各委員会に出席すれば審議拒否の根拠を与えてしまう。

戦後政治では想定していなかった事態が起こりそうである。これを凌ぐには安倍首相の退陣しかないという見方が与党内で生まれているのは不可避であろう。安倍首相が、この急場を乗り切ることが
出来るか、耐えられるか見ものである。

(1)貫禄が無いから言説に力が無い。力の無い言説は説得力に欠ける。人生を50年ちょっとしかやっておらず、失敗の経験に欠けるから、政治の先見性に決定的に欠ける。

(2)悪事をなす必要のない人生(御坊ちゃん)だったから政治家の裏を洞察する能力が元々欠けている。この点は森喜朗氏は格別にあるが、森には別のものが全く欠けているが。

 (3)回転が悪い。記者に突っ込まれた事を咄嗟に理解できない。当然。咄嗟の切返しが全く出来ない。これを「ぶら下がり」で毎日2回も見せられるだけで国民の方がイラつく。これだけは森と全く同レベル。

宮澤喜一氏は類稀な切れ者といわれたが、政治家としては只者だったから「自民党の徳川慶徳」と揶揄されたが、ご本人は理解を拒否した。己の賢しいことが政治家としては欠点だったと理解できなかった。

安倍さんは己の学識の無さが与党内のみならず国民から嘲られている事に気付いていない。自分では岸信介のDNAを唯一のアイデンテフィと主張するが、DNAなんて目には誰にも見えないのだ。
文中敬称略  2007・09・05

2007年09月06日

◆志位和夫の謎

                          渡部亮次郎

志位和夫(しい かずお、1954年7月29日―)は、衆議院議員(5期)。日本共産党中央委員会幹部会委員長。血液型O型。千葉県印旛郡四街道町(現・四街道市)生まれ、現在千葉県船橋市在住。

出身校 東京大学工学部物理工学科 前職 政党職員。

衆院での所属委員会 内閣 役職 衆・国家基本政策委員会委員

選出選挙区 比例南関東ブロック
当選回数 5回  所属党派 日本共産党
党役職 中央委員会幹部会委員長
会館部屋番号 衆・第1議員会館735号室

両親とも、教員で日本共産党員であった。父・志位明義(1929年―2005年)は、日本共産党の船橋市議会議員であったこともある。

伯父に終戦時の第3方面軍参謀志位正二(陸軍少佐)がいる。1954年2月5日に「自分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭した。

ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、日本におけるソ連のエージェントとして志位ら36人の存在が明らかになったからである。

志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なものである」。

「日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係を結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。

ソ連から帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりいる。祖父は陸軍中将志位正人。

和夫は千葉大学教育学部附属小学校、千葉大学教育学部附属中学校、千葉県立千葉高等学校卒業。同じ高校出身の神崎武法(公明党前代表)は先輩に当たる。

東京大学工学部物理工学科を卒業。大学の1年生の時から小選挙区制反対運動をきっかけに日本共産党に入党。当時の委員長宮本顕治の家の家庭教師として長男宮本太郎らに勉強を教えていた。

大学卒業後、党東京都委員会に就職、青年学生運動を担当。1982年から党中央委員会勤務。

1985年、事件がおきて一躍出世のカギを握る。

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2007年09月05日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

                       渡部亮次郎

<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。

2007/09/04 02:52 【共同通信】>

瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。
この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(現衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室ではじめて会った。
いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

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2007年09月04日

◆伊藤律の帰国事件

                         渡部亮次郎

伊藤律(りつ)とは日本共産党初期の大物。戦後、マッカーサーに睨まれて地下に潜ったまま行方不明となった。ところが実は中国に密入国で渡り暮していたが1980年9月3日に突然帰国して世間を驚かせた。彼にとって「帰国」は事件だったのである。

ところが頼りにしているフリー百科「ウィキペディア」では伊藤律に関しては何方も手を下していない。三省堂の「コンサイス人名辞典 日本編」第1刷(1976年3月20日発行)により生まれは1913(大正2)年、岐阜県出身とわかったが、今のところ没年月日は不明である。

一高中退とあるのは、在学中、共産党運動に参加し放校処分となったため。1933年検挙され、出獄後、39年、満鉄東京支社調査部に入る。

この間、小林陽之助らの「人民戦線グループ」に参加し、40年には満鉄共産党事件で検挙。41{昭和16)年再び検挙され、ゾルゲ事件発覚のきっかけとなった。

事件の発覚は、日本の特別高等警察(特高)資料などをもとにまとめたアメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件の真相」(1949年に公表)によれば、共産党再建容疑で取り調べ中の伊藤律の自供により、1941年9月、元アメリカ共産党員の北林トモが検挙されたことにはじまる。

伊藤自身は、死後の93年に出版された回想録で、自分は陰謀の被害者で、後の議長野坂参三こそがゾルゲの諜報網を「売った」と主張している。野坂も100歳で死ぬ直前、スパイ容疑で除名された。

ゾルゲ事件 ゾルゲじけん 1941年(昭和16)10月におきたリヒャルト・ゾルゲらの諜報(ちょうほう)活動と尾崎秀実らの反戦活動に対する検挙事件。

41年9月〜42年6月にゾルゲや尾崎ら35名がスパイ容疑で逮捕され、18名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法の各法違反などで起訴された。逮捕者の中には、機密情報提供の容疑者として近衛文麿首相のブレーンだった犬養健(たける)や西園寺公一(きんかず)らもふくまれていた。

検挙は極秘にされ、事件が「国際諜報団事件」として司法省から公表されたのは1942年5月だった。

43年の裁判の結果、ゾルゲと尾崎は死刑判決、2名が無期懲役のほか全員が有罪判決をうけた。

西園寺は執行猶予、犬養は上告審で無罪となった。44年にゾルゲと尾崎は上告が棄却され、同年11月7日(ロシアの革命記念日)に死刑が執行された。ブーケリッチや宮城ら5人は獄死した。

伊藤律は、敗戦後、日本農民組合結成に参加しながら日本共産党再建に従事。徳田球一の下で政治局員、書記局員を歴任、農民部長として極左的な農業綱領を作成した。

1950年、コミンフォルム批判後、徳田と行動を共にし、地下活動に入るが宮本顕治に追われ、55年、スパイ活動を理由に除名された。コンサイス人名辞典はここまでで「その後、消息不明。」で切れている。

後に明らかになるが伊藤は早くに建国間もない中華人民共和国に密航、中国共産党に幽閉されていたらしい。それなのに1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

これが真っ赤な嘘。記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕組んだ全くの狂言でした」 と弁明。「戦後生まれ変わった朝日新聞の輝かしいねつ造の扉を開いた金字塔」
とは「頂門の一針」798号(07・05・11日)で私が朝日新聞を得意技は捏造?と揶揄した文章である。

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2007年09月03日

◆総理学の勉強時間って

                          渡部亮次郎

2007年8月31日付の産経新聞「単刀直言」と題するインタビューの冒頭で中曽根康弘元総理大臣は、(安倍総理は)「最初の内閣である第1期は総理学を勉強する時代だったと思う」と言っている。

「これからの第2期で一番大事な事は、摩擦を恐れずに自分の政策、信念を断行していく"陣頭指揮力"が大事だ」との助言を与えている。若い安倍さんに孫の悪戯を笑うような愛情がこもっている。

自分を国会から追放した小泉純一郎の子分と見ることなく、自身の初入閣が安倍さんの祖父岸信介内閣の科学技術庁長官であったこと、そこで日本を原子力発電の火をともした事などが後の政権獲得に繋がったことを思い出しているのだろう。

しかし、2006年9月26日の政権発足以来、1年も経たないうちに閣僚が何人も交代し、農林水産大臣は自殺した。その結果だろう、参議院は野党に多数を制せられるという大変なことになった。これが安倍さんの勉強だったとすれば大変な勉強だったものだ。

要するに総理になってからやるべきことの事前の勉強は何もしてなかったのですな、と中曽根さんに喝破されてしまったのである。
中曽根さんは総理になるための努力(風見鶏になる)も大変だったが、なってからやるべきことの勉強は更に大変なもので、大学ノートを何十冊にもなったそうだ。

社長学は社長の側近でいればある程度、盗み見できるかもしれないが、総理の傍に次期総理がついている事はできない相談だ。精々小泉総理の下で官房長官をしたことで小泉流の何かを垣間見ただけだった。

岸信介の孫だから、安倍晋太郎が果たせなかったからといって安倍さんが総理になる必然性は無い。近代日本を作る中心になったのは確かに長州だが、21世紀の今、長州に日本の総理大臣のDNAがあるわけでもない。

前任の小泉総理にしてみれば自分の周囲にほかに適任者が無かったから、後継者に安倍を思い定めたに過ぎない。幸いライバル勢力になるべきだった旧田中派はぶっ壊され、旧池田派は粉々に分裂。安倍さんはすんなり、総裁・総理になれはしたのだった。

「美しい日本」だの「戦後レジュウムの破壊」は側近の誰かに考えさせれば良い。自分が言い出したのは祖父の遺言「自主憲法制定」だけ。

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2007年09月02日

◆明晰過ぎた宮澤喜一


                         渡部亮次郎

2007年6月28日、老衰のため東京の自宅で87歳で永眠した元総理大臣宮澤喜一氏。東大法学部出身以外の記者は、記者と認めてくれないという噂だった。幸い、担当を命じられる事はなかったが、私が浪人になってから1度だけ会った事がある。

八郎潟を干拓して出来た秋田県大潟村の宮田村長がインタビューをしたいというので、親しい人を介して約束を取り付け、番町のマンションの一室にあった事務所に案内した。

宮田村長との話を聞いていただけだが、秋田県の田舎者とか村長如きが、といった態度は毛ぶりも見せず、丁寧に答えていたので、人というのは実際に会って見なければ真実はわからないな、という感を深くした。

たまたま「文藝春秋」の2007年9月号をめくっていたら長女のラフルアー・宮澤啓子さんが「風変わりな父・宮澤喜一」と題して内輪話を寄せておられたので、懐かしく読んだ。啓子さんの夫君はマレーシア駐在のアメリカ大使だそうである。

<一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かどうかの真偽は不明)。

『芸備人権新報』(1999年9月10日号)によると 「…(小森)ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

(記者)宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

(小森)宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の 代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと 残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだっ たでしょうね。

彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、 消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

(小森)自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、 リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」>フリー百科「ウィキペディア」

<父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)

末弟の泰さんは外交官だった。私が大臣秘書官として外務省にお世話になった1978年ごろは欧亜局長。園田直大臣の初外遊に同行してもらった。

それは日ソ定期外相協議。ベレンコソ連空軍中尉の函館空港強行着陸事件で極端に冷え込んだ日ソ関係を回復するきっかけとすべきチャンスだった。

しかしグロムイコ外相は北方4島返還交渉に応じようとせず、共同声明も出せないという始末で、予想通りの失敗であった。

迎賓館を退去する時、大臣は記念に備え付けの便箋を貰っていくようにと命じたが、それを聞いた宮澤局長「大臣、ラジオは如何ですか」とからかった。流石に瞬間、しらけ鳥が飛んだ。

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2007年09月01日

◆湖畔の宿の大東亜会議

                         渡部亮次郎

小学校入学の5か月前に「大東亜戦争」(のちにアメリカの命令により
「太平洋戦争」と呼ばされるようになった)が始まったが、実際は、生
後1年目の1937年に日本軍はすでに中国で蒋介石の軍と戦っていた。子供
だから知らなかったのは当然だが。

日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それま
で日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が日本政府の意
向を無視した軍事行動で満州全土を占領。既成事実を突きつけられた政
府(若槻礼次郎内閣)は事後承認の形をとった。

それが翌昭和7年の満州国建国につながる。同じ年(1月)には上海の日
本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領する
が、停戦協定によりすぐに撤退している。

昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中
国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の
時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介
石側が徹底抗戦策を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えな
い戦争になし崩しに突入する。

日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条
溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っ
ていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7
/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期
間となる。

このところ、インターネットで、歌謡曲の昔を探し歩いているが、知って
いると思い込んでいたことでも、知らないことが多すぎる。

日本が戦争に初めて敗ける昭和20 (1945) 年を挟んで少年時代を送った
者だから、当時の歴史を系統だって自分の中で整理しないままだからで
ある。

東京・渋谷の古賀政男邸跡地に建った古賀政男音楽記念博物館で何年か前、
2年間に亘って昭和の流行歌を振り返る会が毎週開かれて出席を続けた
ことがある。

その頃、物資も窮屈になった昭和15、6年ごろ、すこぶる付きの美人女優
で歌手の「高峰三枝子さんのお宅に新人歌手の伊藤久男さんから、大量
の洋服地が送られてきて、高峰さんを驚かせた」、という話題があった。

それは高峰さんの「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一)が大
ヒットしかけたため、B面の伊藤久男さんの「高原の旅愁」の印税ががっ
ぽり入りかけたことのお礼だった、という話だった。

いまのCDやMDと違って、昔のレコードにはAとBの両面があり、ヒット確
実がA面、それほどでもないのがB面にプレスされた。とはいってもB面が
なければA面は発売されないわけだが。

「湖畔の宿」

作詞:佐藤惣之助
作曲:服部良一
唄:高峰三枝子

1 山の淋しい 湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり

2 水にたそがれ せまる頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる

(台詞)

 「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
 静かに静かに黄昏れて行く……。
 この静けさ、この寂しさを抱きしめて
 私は一人旅を行く。

 誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
 幼な児のような清らかな心を持ちたい。
 そして、そして、
 静かにこの美しい自然を眺めていると、
 ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せ ふるさとへ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(MIDI制作:二木紘三)

「湖」は群馬県の榛名湖と、佐々木惣之助は書き残している。

日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭
和15年(1940)に発表され、大ヒットした。ところが感傷的で淋しい詩
とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にした。

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2007年08月31日

◆「余命3ヶ月」の意味

              渡部亮次郎・メルマガ「頂門の一針」主宰

「安倍総理は内閣改造で再浮上を図ろうとして、一応、成功したように見えるが、すっかり水に浸かったドロ舟、もって3ヶ月」、という見方がどこからとも無く流れている。

記者の先輩に教えを乞うたら、これを流したのは、今回も入閣者0だった谷垣派で、反安倍の派閥横断勉強会を立ち上げた園田博之氏も谷垣派所属で、この動きの先頭に立ったらしい。

博之氏は、筆者が若い頃、大臣秘書官として仕えた故園田直の息子さんだ。2人目の妻の長男。3人目の妻天光光(てんこうこう)の長男は政界に無関係。

それはひとまず置いて、谷垣派は加藤紘一の抜けた後の派閥。昔は「宏池会(こうちかい)」といい池田勇人が作って総理大臣になった。名門派閥といわれた。

2代目の前尾繁三郎を飛ばして大平正芳、鈴木善幸と総理を出したが最後に宮沢喜一を総理にして力尽きたか、派閥は4分裂。そこに宏池会の悲劇がある。加藤紘一が森総理降ろしに動いた時が悲劇の始まりだった。

元々は田中派(現津島派)と組んで、吉田茂の流れを汲む「保守本流」を自負したものだが、今やいけません。「どうせ今回も安倍は我々を入閣させないよ」と悪たれ、組閣当日はゴルフコンペをやるんだと強がる向きもあったと、週刊誌のタネになっている。

その彼らの流したのが「余命3ヶ月」だが、どうも別に根拠は無いらしい。「長くはない」の先に滑った舌が3ヶ月とつけたようだ。
いわゆる身体検査もした上での組閣。舛添社会労働相など、頭脳の通りの政治力なら結構面白い事をやりそうだし、何ぼなんでも越年は間違いないようだ。

つまり臨時国会の後の通常国会で来年度予算が年度内に成立するかどうか。民主党との死闘が展開する。その間、閣僚のスキャンダルでも暴露されれば論外だが、どうもその危険性は野党も抱えている。

体力を使い尽くした4月に危機が来るとプロは予測する。予算関連法案は参院で民主党に悉く否決されるから、3分の2を擁する衆院で再可決して成立させる必要があるから関係部署にいる議員はくたくただ。

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2007年08月30日

◆福田政権の蜃気楼


                          渡部亮次郎

私は一度も思ったことは無いが、後輩の記者連中は森喜朗元首相のことを揶揄気味に「蜃気楼」という。名前を音読みすれば読めないことは無い、か。

蜃気楼とは富山湾で春に見られるのが最も有名だが、熱や冷気のために大気中で光が異常に屈折し、海上や地上に何か物があるように見える現象(新明解国語辞典 第4版)。

つまり存在しないものが在るように見える事。能力が無いのに有るように見せかける人物もこう呼ばれるようだ。

体力を買われて大学の運動選手として入学したが、半年で退部したり、総理大臣にまつり上げられたが、能力が無いとわかって退陣に追い込まれ他りすれば、こう言う名前が綽名となる。

その森氏、事情通によれば、憤懣やるかたないものがあるそうだ。
今度の改造人事で長老森氏の推薦は、安倍首相によって、ことごとく退けられたからである。

森氏は官房長官に町村信孝氏、総務会長には古賀誠氏らを推薦していたが、安倍総理は森氏の要望のすべてを無視した。安倍総理にしてみたら、森氏のごり押しに負けたから参医院選挙に負けたのだから当然であろう。

たとえば麻生幹事長というのは安倍内閣発足当初からの構想だったが、森氏は青木参院議員会長(当時)と二人で中川秀直氏を強引に押し込んだ。その結果、中川氏は参院選挙戦を取り仕切れず、大惨敗となった。

参院選の惨敗で森氏の無能は証明されたのに、それでも懲りずに今回また安倍首相の後見人気取りで、改造人事で横車を押そうとしたのだから、安倍首相が言うことを聞かなくなったのは、当然の成り行きだ。

流石に麻生氏の幹事長起用に今回は、異を唱えていない。しかし森氏はこの布陣は安倍内閣が早晩、行き詰まると見て、後継首相に福田康夫氏を持ってくる伏線が隠されている。

なぜなら古賀氏を総務会長に登用させようとしたことはは他派を福田支持でまとめるために必要な人事だからである。

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◆破廉恥警官と憤慨議員の差


                         渡部亮次郎

長いこと取材や関与を通じて内閣改造を見てきたが、安倍内閣改造に当って前代未聞の事態が出来した。自分を売り込んだが断られてピストルで無理心中を遂げたバカ警察官と寸分違わぬ国会議員のいることがわかった。

<矢野氏が安倍首相に抗議=内閣改造

「なぜ駄目なのか」。参院自民党の矢野哲朗前国対委員長が27日夜、安倍晋三首相に電話し、今回の内閣改造で自らの入閣が見送られたことについて抗議する一幕があった。矢野氏によると、首相は理由を説明した上で理解を求めたが、矢野氏自身は納得できなかったという。(時事通信)27日>

総理・総裁の組閣方針について、自らが選ばれなかった事は、自らの恥じるところであって、総理総裁の恥じるところではない。それなのに自分の恥を棚に上げて総理・総裁を詰るとは、当に語るに落ちたものだ。同じ大和民族として恥かしい。

<Yahoo!みんなの政治>から引用。

矢野 哲朗

参議院議員 自民党 矢野 哲朗(ヤノ テツロウ)

国会議員として皆様に支えられて14年。今後も日本の発展、栃木県民の幸せを目指し政治活動を完全燃焼させていきます!

生年月日など 1946年11月6日 60歳 さそり座 A型
選挙区 栃木県 政党 自民党
初当選年 1992年
当選回数 3回(参議院3回)

現在の役職

党内 参院自民党国会対策委員会委員長

参議院日本・アンゴラ友好議員連盟会長。
参議院日本・南アフリカ友好議員連盟事務局長。
日本アフリカ連合(AU)友好議員連盟副会長。


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2007年08月29日

◆中国航空母艦隊の編成

                       渡部亮次郎

岡部文雄氏(元海上幕僚長・海将)は10年前に国際経済政策調査会で「う
みのバイブル」第2巻(中国海軍・南シナ海・尖閣、韓国海軍・北東ア
ジアの諸問題に関するに関する基礎的な論文)を発表し、

「歴史的事実は、中国が近隣諸国との問題解決を、平和的な交渉よりも、
軍事的解決に委ねていることを物語っている」と警告していた。

あれから10年、我々が油断している隙に「空母保有を目指す中国軍が、
空母艦載機を海外に発注したことが23日までに分かった」という事態に
発展した。

あの時岡部文雄氏が指摘した点は次のようなことだった。

<記憶に新しい最近の事実は、南シナ海の南沙群島をめぐる紛争(88年)
において、ベトナム及び、フィリッピンが領有を主張する小島を、武力
を用いて支配下においたことである。

また台湾をめぐり中国が実施した軍事演習(96年)である。明らかに「李
登輝の総統選出の阻止」を目的としたものであり、ひいては「台湾の独
立は仮令軍事力を行使しても許さない」と言う中国の強い意志を示した
ものである。

今後、中国が強力な海軍力を保有した場合、「政治的な影響力の行使や
紛争解決の手段に躊躇なく使用する恐れがある」ことを念頭に置いて、
近隣に位置するわが国は、それを顕在化させない対策を立てる必要があ
る。

そのため外交努力及び軍事政策・情報の公開や軍事交流を推進し、相互
の信頼を醸成することが大切であり、同時に日米安保体制の強化を図る
とともに、自ら相応の海上防衛力を保有し、常に練成しておくことであ
る。(平成9.7.31記)>
 
あれから10年が過ぎて現状はどうなり、日本人は如何に油断しているか。
2007年8月24日付の産経新聞によると、「中国、空母保有へ1歩 テスト
用艦載機を発注 」と題して次のように報じている。

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