2008年12月03日

◆脳梗塞治療薬に危険も

渡部亮次郎

罹ってからもたもたしているうちに手遅れから半身不随になる脳梗塞について、「3時間以内に治療薬t―PA(アルテラプラーゼ)を注射すれば万全だから恐れる必要が無い」との説明を信じてきたが、よく調べてみると、危険も結構あって、よく勉強しておいた方が良い。。

<厚生労働省医薬食品局が2007年8月31日に」発表した医薬品・医療機器等安全性情報によると、脳梗塞(こうそく)治療薬t―PA(アルテラプラーゼ)の投与によって男女8人が死亡した。2005年10月から07年5月の間に、胸部大動脈解離の悪化と胸部大動脈瘤(りゅう)破裂の副作用に
よるものである。

そこで厚生労働省は製薬会社2社に対し「胸部大動脈解離あるいは胸部大動脈瘤を合併している可能性のある患者では適応を十分に検討する」などと薬剤の添付文書を改訂するよう指示した。

重い頭蓋(ずがい)内出血を起こす危険性が高いことから、CTやMRIによる撮影が可能で画像診断(読影)に熟知した医師がいることなど厳しい使用条件がある。

t―PA(アルテプラーゼ)は、協和発酵工業(東京都千代田区)が「アクチバシン」注射剤として、三菱ウェルファーマ(大阪市)が「グルトパ」注射剤の商品名で医療機関に販売している。

日本では1991年5月、厚労省が急性心筋梗塞時の冠動脈血栓を溶かす効能・効果で承認、05年10月には虚血性脳血管障害急性期に伴う機能障害改善の効能・効果を追加承認した。脳梗塞発症後3時間以内の使用を条件に使われ、寝た切りにならない特効薬として知られている。

日本脳卒中学会は「アルテプラーゼ静脈注射療法適正治療指針」を作成し、指針の解説を中心にした「脳梗塞アルテプラーゼ適正使用講習会」を全国各地で170回以上開催、講習会の受講者は9000人を超えているという。

安全情報の公表に先立ち、同学会は既に会員と講習会受講者にアルテプラーゼ使用と胸部大動脈解離、胸部大動脈瘤の有無に十分な注意を払うよう求める文章を送付している。

急性期脳梗塞患者への使用解禁後、製薬会社2社は、2007年7月10日までに約7,000人に使われたと推定している。(南里秀之)>(くまにちコム「健康・医療」2007年8月31日付)
http://kumanichi.com/iryou/kiji/brain/79.html


2008年12月01日

◆「君が代」完成記念日

渡部 亮次郎

国歌「君が代」は1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。

この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代になってイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンが薩摩琵琶歌「蓬莱山」から採って作曲を試みたが海軍に不評。

海軍から「天皇を祝うに相応しい楽曲を」と委嘱された宮内省が雅楽課の林廣守の旋律を採用(曲はイギリスの古い賛美歌から採られた)。

これにドイツ人音楽教師エッケルトが和声をつけて編曲。1880(明治13)年10月25日に海軍軍楽稽古場で試演された。だから10月25日が「君が代」完成記念日とされている。

明治2(1869)年に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うフェトンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。

当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。

九州王朝の春の祭礼の歌説というものがあり、説得力はある。九州王朝説を唱えるのは古田武彦氏で、次のように断定している。

<「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。

「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。

この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した>

文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21(1881)年発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。

「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ」

「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる」

後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。

明治36(1903)年にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は1等を受賞した。

後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

敗戦で事情は全く変わった。日本国衰退を目指すアメリカ占領軍は。それまで聖職者とされてきた教職員に労働者に成り下がって権力に抵抗させるべく日教組を結成させた。

占領した沖縄では国旗の掲揚と君が代の斉唱を禁止したことでも明確なように、マッカーサーの本心は日の丸掲揚と君が代斉唱に反対であった。日本国民が一致団結、再度、アメリカに挑戦することを恐れたのである。

それを組合の統一闘争精神に掲げたのが日教組なのである。いつの間にか天皇を尊敬する事とか君が代を歌うことが戦争に繋がると論理を摩り替えて、正論を吐く校長を自殺に追い込んだといわれても反論できないような状況を招いたのである。

君が代支持の世論を背景に平成8年(1996年)頃から、教育現場で、当時の文部省の指導により、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。

日本教職員組合(日教組)などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。先生の癖に論理のすり替えの得意な人が日教組に所属する?

平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。

これを一つのきっかけとして日教組の意図とは反対に『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたものの、反対派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている。

平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄(将棋士)が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われてい
る。

なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは1度もないと言われている。成人前の家庭教師ヴァイニング夫人による何がしかを勘繰る向きがないわけではない。08・10.25

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年11月28日

◆古澤 襄と屋山太郎

渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

私を含めて3人は親しい友人。古澤は1931年、屋山は1932年6月4日生まれ。私が一番年下で36年生まれだが、いずれも老人になった。1970年代の自民党総裁を巡って田中角栄と福田赳夫の争った「角福戦争」当時、3人は福田番だった。

ご承知の通り、福田が敗れた。古澤は地方の支局長をいくつか務めた末に、共同通信社の常務理事、屋山は時事通信社で既にローマ特派員を済ましていたが、首相官邸キャップ、ジュネーヴ特派員、編集委員兼解説委員を歴任し、1987年退社した。

私は大阪のデスクに飛ばされた後、福田内閣で園田直外務大臣,の秘書官。屋山はある日地の人の紹介で伊藤忠商事の瀬島龍三と知り合った事から政治や行政に深く関与し、政治評論家としての研鑽を積むことになる。

即ち、瀬島龍三の関係する1981年第2次臨時行政調査会(土光臨調)に参画、以後第1次?第3次行政改革推進審議会専門委員、選挙制度審議会委員、臨時教育審議会専門委員を務めたのである。

行政と選挙制度と教育問題のエキスパートになりおおせたのだから2001年には第産経・フジTVグループの17回正論大賞を受賞するのはたやすかった。

『ウィキペディア』によれば、屋山は保守主義の理論的支柱とも言えるエドマンド・バークの信奉者であり、日本の親米保守論壇を代表する評論家の1人となった。慶賀に堪えない。しかし小選挙区推進論では古澤、渡部とは意見を異にする。

経済政策は新自由主義の立場を採り、外交問題については日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(=日米同盟)の強化の姿勢を示している。

屋山はローマ特派員の経験から強烈な小選挙区推進論を展開していた。日本の政治を腐敗させた元凶として中選挙区制を問題視している。このことが、派閥政治の温床となり田中派・竹下派支配を可能にしてきたとし、選挙制度審議会では小選挙区制の導入を掲げ、細川護煕政権での実現へと至った。

屋山は前述の竹下派支配は自民党の左傾化の象徴という位置付けをしている。例えば、小泉内閣発足以降問題視されることになった、6兆円にも及ぶ対中ODAを垂れ流し、その事業の窓口になっていること、日朝国交正常化を画策している勢力が同派の金丸信、野中広務であったことを注視、激しい批判を加えている。

野中が2003年に小泉との権力闘争に敗れ失脚した際は、小泉に対し最大限の賛辞を送っている。

屋山は安倍を最も評価する点として公務員制度改革の際、2007年3月27日に小泉内閣でもできなかった事務次官会議を無視し閣議決定を行った点を挙げている。

他方、かつての橋本龍太郎内閣が行った行政改革には手厳しく、公務員削減を伴わなかったことから痛烈に批判している。例えば、橋本改革には「課」で廃止されたものは唯の一つもない。

屋山は同時に、政府が国会に提出する法案は、議員立法という形で提出すべきだとも述べている。政府の法案提出は米国とは異なり、議院内閣制で多数派が政府を構成しているため憲法上は問題がないとされているが、政府提出の法案は現実には国家公務員がその多くを作成しているのが現実で、このことが官僚支配と、政治の指導力低下を招いていると指摘している。

一方、古澤は別の観点から小選挙区制度に反対していた。

[1人区で1議席を争う制度は、当選するために選挙民受けする選挙運動にならざるを得ない、というのだ。地域の市町村会議員の選挙なら、それで良いのだが、国政を担う衆議院議員を選ぶ選挙は、選挙民受けだけを狙っていては単なる”迎合選挙”に堕落する危険性がある]と警鐘を鳴らす。

<選挙で当選するために目先の生活向上だけを唱え、相手の党のあら探しをする選挙戦術が横行して、日本の将来のビジョンを示す大きな選挙演説が姿を消すのではないか。

戦後の日本の宰相は吉田、鳩山、岸、池田、佐藤と国家のビジョンを熱っぽく語っている。批判される点も多々あるが、一国のリーダーたるスケールの大きさがあった。最近の日本の宰相には、かつての宰相たちのスケールの大きさがない。

やはり小選挙区になって与野党のリーダーが「国民の生活が第一」しか語らなくなったことが、日本政治を矮小化させているのではないか。私は椎名悦三郎氏という政治家は大物だったと思う。

戦中は岸商工相の下で次官だった椎名氏だったが、椎名大臣・岸次官といわれるくらいスケールが大きかった。岸内閣の官房長官時代と佐藤内閣の外相時代に担当記者として付き合ったが、選挙に弱いことでも有名だった。中選挙区制度だったから衆議院議員になれたが、小選挙区制度だったら間違いなく落選が確実だろう。

小選挙区制度が続くかぎり椎名氏のような政治家は出てこない。それは日本政治の劣化につながると思っている。>「杜父魚文庫ブログ」2008・11・16

毎日新聞中部本社編集局長から故安倍晋太郎秘書に転じた金 巌(こん いわお)は屋山太郎を評して嘗ては単細胞といった。私には屋山の意見は単純でわかりやすいが、単細胞よりは古澤さんに説得力がある。(文中敬称略)2008・11・16

2008年11月27日

◆『頂門の一針』休刊のわけ

            渡部亮次郎(「頂門の一針」主宰)

私の主宰するメールマガジン『頂門の一針』を突然、10日間、休刊して数多の愛読者に迷惑を掛ける不始末を仕出かした。脳梗塞を発し、急遽、入院を余儀なくされたためだが、幸い早期発見、早期治療で、何の後遺症もなく、26日、無事、退院した。

可笑しなことだった。本人が「脳梗塞だ」と訴えているのに専門の脳神経医が否定、頚椎の異常を主張。「あなたの主張を否定する意味でMRIを撮りましょう」。結果は「アラ、右基底部に極小さいながら梗塞がありました。即時入院,約2週間の入院治療となります。

MRI核磁気共鳴画像法magnetic resonance imaging, MRI)とは、核磁気共鳴 (nuclear magnetic resonance, NMR) 現象を利用して生体内の内部の情報を画像化する方法である。

断層画像という点ではX線CTと一見よく似た画像が得られるが、CTとは全く異なる物質の物理的性質に着目した撮影法であるゆえに、CTで得られない情報が多く得られる。

右基底部に極小さいながら梗塞だと左手小指の先がしびれるのだと専門医。私はだから「脳梗塞だ」とさっきから訴えているじゃないですか。

2008年11月17日{月}の朝7時半ごろ、主宰するメールマガジン『頂門の一針』1383号の配信を終えたが、起きぬけから気になっていた左手小指、第1関節の痺れが治らない。糖尿病(持病)に伴う高血糖が続いたので合併症として、脳梗塞が起きたのではないかと疑った。しかし、掛かりつけである都内港区高輪台の「かんぽ高輪台病院」の内科医は否定。

最近、ご自身、心臓手術の体験から体験記を文藝春秋社から刊行するなど心臓・血管問題の権威といえるようになったNHK大阪{JOBK}時代の同僚記者石岡荘十(いしおか そうじゅう)氏に電話。彼は叫ぶように言った「それは間違いなく脳梗塞です。病院に早く行ってMRIを撮ってください」。

発症から既に3時間は過ぎていたが。脳の細い動脈をふさいだ
血栓を溶かす薬を点滴で注入開始。翌朝には痺れは解消、口や手足などのどこにも後遺症らいい物は残らなかった。先輩記者は脳梗塞による失語症を苦にして自殺したが、私は、なるほど、死に至る病の一つに72歳にして至ったが、外見上は全く健常者と変わらない状態で退院する事が出来たのは全く、不幸中の幸いといわなければならない。

脳梗塞(のうこうそく、cerebral infarction、別名:脳軟化症(のうなんかしょう))とは、脳に栄養を運ぶ動脈の閉塞、または狭窄のため、脳虚血を来たし、脳組織が酸素、または栄養の不足のため壊死、または壊死に近い状態になる事をいう。また、それによる諸症状も脳梗塞と呼ばれる事がある。

なかでも、症状が激烈で(片麻痺、意識障害、失語など)突然に発症したものは、他の原因によるものも含め、一般に脳卒中と呼ばれる。それに対して、緩徐に進行して痴呆(脳血管性痴呆)などの形をとるものもある。

日本人の死亡原因の中でも多くを占めている高頻度な疾患である上、後遺症を残して介護が必要となることが多く福祉の面でも大きな課題を伴う疾患である。ちなみに「脳軟化症」の名の由来は、脳細胞は壊死すると溶けてしまうため(「融解壊死」という)こう呼ぶ。

再発を避けるためには塩辛いとか、脂濃い食べ物を避ける、アルコールは自身で止められる程度。日本酒なら1日2合に制限された。一番害のあるタバコは30年前、イギリスのサッチャー首相(当時)のお陰で禁煙しているから問題ない。

脳梗塞といえばミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄、「闇将軍」田中角栄氏を思い出す。長嶋さんは医者に掛かるのが遅れたことが致命傷となって後遺症が残ったし、角さんは血管の詰まった部位が悪くて手術も出来ぬまま娘に邪険にされて死んだ。

それを考え合わせると、私の場合は実にラッキーだったのだ。石岡さんは友達というだけでなく、命の恩人になった。

実は98歳、施設の個室の簡易トイレ上で即死した母親の死因は心筋梗塞か脳梗塞かはっきりしなかったが、DNAから逆に判断すると脳梗塞だったのではないか。2008・11・26
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆冬を告げる鮟鱇鍋

渡部 亮次郎

2007年11月21日の夜、昨冬初めての鮟鱇(あんこう)鍋で麦焼酎をやり、いい機嫌になったところへ郷里の古参代議士野呂田芳成さんから突然、電話があって、ちょっと驚いた。

友人加瀬英明氏と大森で飲んで、電話しようかとなったらしいが、秋田県2区での自民党の公認問題を尋ねたところ「納まるところに納まる」と当選への自信はたっぷりだった。

ところで、「鍋料理の秋田」でも鮟鱇鍋は無い。茨城県北部の海岸地方の郷土料理というのだから無理も無い。国立(くにたち)時代は食べた事は無かったが、向島生まれの家人と一緒になって初めて食べた。

今年も日本橋高島屋では2人前、1500円前後。1鍋を煮ると3食分ぐらいあるから安い鍋といえる。しかし、何年か前、本場水戸の有名店のはアンモニア臭くて一切れも食べずに出てきた。

アンコウ鍋(鮟鱇鍋) アンコウなべ 。アンコウの身や内臓、皮を野菜や豆腐と煮た鍋料理で、醤油をベースにし、味噌をかくし味につかう。拙宅では味噌を主体に、醤油を隠し味にする。

汁に肝を刷り込んで溶かさないと野趣豊かな味の鍋にはならない。

アンコウは骨以外全部食べられ、俗にアンコウの可食部分を「アンコウの7つ道具」とよぶ。とくに冬は身がしまっておいしい。

身より美味といわれる肝臓は「あん肝(きも)」とよばれて珍重される。

肝を炒ってペースト状にすりつぶし、味噌や酢で調味して身をあえた「ともあえ」は、酒の肴(さかな)に向く。但し尿酸が多くなるので、通風を恐れる人は食べない方がいい。

アンコウは骨が非常に硬く、体が柔らかすぎて、おろしにくいので、鉤(かぎ)につるしながらさばく。これを「アンコウのつるし切り」という。

もともとは、福島県境に近い平潟や大津などの、「どぶ汁」とよばれる漁師料理がもとだといわれる。この料理はアンコウを味噌と醤油で煮てアツアツを浜で食べる。

このどぶ汁を一般向けにやや上品に改造したものが、今日のアンコウ鍋である。アンコウの漁獲量が減って高級料理になってしまったが、昔は庶民の日常の食べ物だった。参考Microsoft(R) Encarta(R)

アンコウの美味が認められたのは,江戸時代に入ってからのことのようである。

《料理物語》は初めて調理法を記載し,《古今料理集》は〈上魚賞専也〉と身分の高い人にも供しうるご馳走だとしている。《本朝食鑑》は,ほとんど捨てるところなく食べられること,肝がとく美味いことなどを述べ,アンコウ独特の〈つるし切り〉についても詳細適切な解説を行っている。

江戸時代でもアンコウの肝は極めて脂が強いので,たっぷり塩をあてて竹などの簀(す)で巻き,1時間ほど蒸してから冷水にさらす。これを薄切りにしてワサビじょうゆで食べる、とある。

酢みそにすりこんで身をあえる〈とも酢あえ〉もよい。ちりなべ風に水煮してポンスしょうゆで食べるのもよい。

アンコウ(鮟鱇)
アンコウ goosefish‖anglerfish

アンコウ目アンコウ科 Lophiidae に属する海水魚の総称。温帯から熱帯にかけて広く分布し,沿岸域のやや深い海底に棲む。

体色は黒褐色で,頭部は円盤状をなし上から押しつぶされたように著しく縦扁している。皮膚はうろこがなく滑らかで,多くの皮質突起を生じている。

貪食(どんしよく)で知られ,〈アンコウの待ち食い〉ということわざもあるが,実際には海底に静止したまま品動物の近づくのを待つだけではなく,しばしば中層ないし表層まで泳ぎ上がって回遊性の魚や海鳥を食う。

産卵期は春から夏にわたる。卵は凝集浮性卵で,カエルの卵のようにゼラチン状の卵帯の中に多数の卵が埋まった状態で産み出され海面下を浮漂する。

アンコウ類は底引網,手繰網で漁獲される。〈アンコウは梅が咲くまで〉といわれ,旬は冬。味はアンコウよりキアンコウの方がすぐれている。

アンコウなべ,あえ物などとして賞味されるが,筋肉よりむしろ〈とも〉(肝臓),〈水袋〉(胃),〈ぬの〉(卵巣)などの内臓や〈かわ〉(皮膚),ひれなどの方が珍味とされる。

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
                              2007・11・21 (再掲)

2008年11月25日

◆おやつの無い子供

渡部 亮次郎(「頂門の一針」主宰)


「おやつ」と言う言葉さえ知らぬ子供時代だった。生まれた翌昭和12(1937)年から対中戦争。その4年後には国土を焦土と化して終わる対米戦争。すべたが「窮乏」の時代。おやつも甘味も覚えないうちに「耐乏生活」を余儀なくされた。

日本から「砂糖」が姿を消したのは1941年12月8日、日本海軍が、アメリカ・ハワイ島の真珠湾を奇襲した時からである。正確には若干の余裕があったかも知れないが、集落にただ1軒あった駄菓子屋のガラス・ケースに菓子類が全くなくなり、間もなく廃業した。

大人たちも清酒(日本酒)を入手できなくなって行った。日本に戦争を仕掛けられたって、ハリュッドでは恋愛映画を製作し、ジャズを唄い、以前と何一つ変わらぬ生活を楽しんでいたアメリカ。

真珠湾攻撃の指揮を執った連合艦隊司令長官山本五十六は、留学でアメリカの実力には到底叶わないことを知りながら体勢には逆らえず、早々と戦死した。

調べてみると、当時まだ日本領だった台湾で砂糖は過剰なほど生産されていた。しかし開戦と共に本土への輸送手段を次第に欠き始め、太平洋の制海権をアメリカに完全に掌握されるや、日本の子供は駄菓子すら失ったのである。

日本で本格的な近代的製糖業が始まったのは,日清戦争の結果,台湾が日本の領土となってからである。1900年には台湾製糖(現,台糖)が設立されている。

この台湾における製糖業は,植民地経営の主軸となり,大規模な奨励策をうけて生産能力は飛躍的に拡大し,40(昭和15)年代には産出量が年間150万t以上になり,国内消費量(120万t)を超え完全な過剰生産になるまでに至った。

しかし前述の通り、本土とは輸送手段が無い。飛行機ならあるじゃないかというが、当時の飛行機に貨物を大量に輸送できるほどの大型機は製造能力が日本に無かった。それよりも小型の戦闘機ゼロ戦生産が先決だった。

大東亜戦争の敗戦とともに,台湾,南洋諸島などの植民地を返還するに及んで,日本の製糖業は外国から原料糖を輸入して精製するだけの「砂糖精糖業」として再出発することになった。

戦後の製糖業は,1947‐48(昭和22―23)年にキューバの粗糖が,主食代替品として配給されたことに始まる。東北地方の農家にコメ供出奨励品として真っ先に配られた砂糖がこれだったのかも知れない。わたしが砂糖と対面したはじめての記憶である。

これを契機として,50年に政府が製糖業復活のため保護育成策に乗り出したため,日本各地に製糖会社がつくられた。

この時期,粗糖の輸入制限のため外貨の割当制が実施され,外貨を割り当てられたメーカーは,安い輸入価格と,国内産糖保護のための高い国内価格によって莫大な超過利潤を得ていた。しかし,このことは同時に不必要な設備拡張をもたらした。

1963(昭和38)年、池田内閣による原料糖の輸入自由化とともに設備能力の過剰が明白となり,市価は製造コストを割るようになり,精糖各社は赤字決算を続けるようになった。

砂糖の日本国内消費・生産は、10年間平均(1995年10月―2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。

年毎の動向を見ると、総消費量は減少してきたが下げ止まっている状態である。国産量は微増傾向にあるが、それは主にテンサイ糖の増加によるもので、サトウキビ糖は微減傾向にある。

サトウキビは、主に沖縄県や鹿児島県といった地域で、テンサイは北海道で主に生産される。

砂糖を肥満・糖尿病の原因になる食品として問題視することもある。

WHO/FAOはレポート『慢性疾患を予防する食事・栄養素』(Diet,Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases WHO/FAO 2002年)において慢性疾患と高カロリー食の関連を指摘し将来食事中の総熱量(総カロリー)に占める糖類の熱量を10%以下にすることを推奨している。

この摂取量は日本人の食事摂取基準(2005年版)推定エネルギー必要量の10%を糖類すべてを砂糖に換算した場合には成人で約50―70g程度の量(3gスティックシュガーで17―23本分)に相当する。しかし「油断大敵」。

一方、米国の消費者団体CSPI(Center for Science in the PublicInterest)は 、「消費者は、糖分を多く含む食品の摂取を控えなければならない。企業は、食品や飲料に加える糖分を減らす努力をしなければならない」と主張。

FDA(米国)にソフトドリンクの容器に、健康に関する注意書きを表示し加工食品と飲料によりよい栄養表示を義務付けること請求している。

イギリスでは2007年4月1日より砂糖を多く含む子供向け食品のコマーシャルが規制されている。

平凡社「世界大百科事典」及び「ウィキペディア」2008・10・27


2008年11月19日

◆日本が炭坑を捨てた日

渡部 亮次郎

エネルギー革命
!)木から木炭へ=青銅や鉄の鋳造が可能となった。

!)木炭から石炭へ=蒸気機関の発達を促した。 産業革命を引き起こし、先進国の工業化を後押した。

!)石炭から石油へ=内燃機関の発達を促した。 各種産業の高度化を促した。

日本における「エネルギー革命」は、一般的には第2次世界大戦後の1960(昭和35)年代に、それまで燃料の主役であった石炭から石油や天然ガスへ転換された。

中東やアフリカの石油が発見されたのは、日本が敗戦した1950(昭和25)年代だった。相次いで大油田が発見された結果、エネルギーの主役が石炭から石油へと移行したのである。

それまで石炭は日本では唯一のエネルギー源であり、「黒ダイヤ」と尊ばれた。それなのに日本では原油の輸入自由化(1962年)をきっかけとして、石炭は長く続いたエネルギーの王座を石油に譲ることとなった。

大量に安く供給された石油は、さまざまな交通機関、暖房用、火力発電などの燃料として、また石油化学製品の原料として、その消費量は飛躍的に増えた(資源エネルギー庁)。

他にも日本国内産の石炭の生産を中止して低価格で品質の良い輸入石炭に移行した現象や、家庭での暖房器具が燃料主体から電気を主体とした器具に移行した現象も大げさにいえばエネルギー革命だった。

日本のエネルギー革命は他国と同様、蒸気機関よりも熱効率のよい内燃機関の発達を促し、産業の高度化にもつながった。

反面、北海道空知地域・福島県東部・山口県西部・九州北部(筑豊など)の産炭地ではそれまで産業の基盤であった炭坑が次々と閉山に至り、多くの炭坑労働者が失業し、関係自治体の著しい衰退へとつながっていった。

こうした深刻な問題に率先、自ら身を曝していたのが若き日の麻生太郎氏だった。待遇や転職を巡っての労働組合との折衝一つとっても福田康夫、安倍晋三氏らには無いものである。自らを「血筋は良いが育ちは悪い」というのは、そこに却って「自負」があることを示す。

筑豊の地を訪れた事があるが、無職、無収入を補うために、自分の体を自分で傷つけて国に補償を要求するなど、東京では想像もつかないようなことをする人がいた。麻生氏は、そういう人たちと向き合ってきた。度胸が違うというしかない

日本では、最盛期には石狩炭田、釧路炭田、筑豊炭田などの大規模な炭田を中心に800以上の炭鉱があったが、21世紀初頭までに、坑道掘りでは太平洋炭礦を引き継いだ釧路コールマイン以外すべて閉山した。

露天掘りでは、砂子組が砂子炭坑三笠露天掘坑(三笠市奔別鳥居沢町)で採掘し北海道電力へ納入している他、数社が露天掘りをおこなっている。

元々1930(昭和5)年12月に大阪市の朝鮮人人口は80,500余名であったが、失業率は18%に達し、大阪市の失業者の5人に1人は朝鮮人であった。

労働争議もこの頃になるとかなり戦闘的になっていた。1925(大正15)年結成された在日朝鮮人労働総同盟は27年には組合員数、公称3万余名を数えるにいたった。

しかし29年末、この総同盟は日本労働組合全国協議会(全協)に解消されたとき、2,600余名にまで減少した。全協が民族問題を無視したため、朝鮮人労働者の信頼を失ったからである。

労働争議の際、朝・日労働者の乱闘が数多くあったという。30年代の大争議としては大阪府の「岸和田紡績争議」や愛知県の「三信鉄道建設工事争議」、筑豊の「麻生炭坑争議」などがあった。

そうした伝統の末に生まれた麻生太郎をただの「お坊ちゃん」とは決め付けられないだろう。

あの時期、全協の朝鮮人活動家は根こそぎ検挙された。1933年1−11月に全協活動家が1698人逮捕されているが、そのうち朝鮮人活動家は926名を数える。

彼らに加えられた「取り調べ」の拷問は残忍で陰惨を極めた。日本の敗戦直後、監獄から釈放されたこれらの活動家は、ほとんど朝連(総連の前身)などの幹部として活躍したが、日本の治安当局から残忍な拷問を受けた憎しみの感情を抜きにしては、その後の彼らの行動は理解できない部分がある。

<麻生炭鉱=太郎の父麻生太賀吉の経営した麻生炭鉱(麻生商店、のちの麻生産業、現麻生グループ。炭坑従業員は1966年に全員解雇)は戦前、納屋制度などがあり労働環境が劣悪であった。

また筑豊地方において同社は三菱系に次いで朝鮮人炭鉱労働者が多かった。1932年の朝鮮人による労働争議は筑豊全体に広がる大規模なものであった。この争議により納屋制度の一部が改善された。>(『ウィキペディア』)及び(金 賛汀(キム・チャンジョン) 「在日コリアン百年史」 1997年11月刊 !)三五館)2008・10.29


2008年11月18日

◆きりたんぽ鍋怖い

渡部亮次郎

冬になると「鍋料理、鍋料理は秋田、秋田はきりたんぽ鍋」となるらしく、関係ないはずの秋田県南のみやげ物店からの案内状に「きりたんぽ鍋材料一式」が入ってくる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が<きりたんぽ(切蒲英)は、秋田県の郷土料理>と書くからだ。きりたんぽ発祥の地は、戊辰戦争以前は南部藩だった北部の「鹿角(かづの)」である。

私の生まれ育った旧八郎潟周辺(県中央部)では、「だまこもち」だ。きりたんぽは、つぶした粳米のご飯を杉の棒に竹輪のように巻き付けて焼き、棒から外して、食べやすく切った物をいう。鶏がらのだし汁に入れて煮込んだり、味噌を付けて焼いて食べたりする。秋田県内では、冬場に学校給食のメニューとなる。

これに対して「だまこもち」は同じく潰したご飯(新米)をピンポン玉ぐらいの大きさに丸め、きりたんぽと同じく鶏だしの鍋で煮込んで食べる。左党はもちを食べるより、鍋の具を肴に酒を呑む方が主だから、もちは翌朝に、味がよくしみた奴を串刺しにして囲炉裏で焼いたのが却って美味いといったものだ。

最近では全国で食べられているきりたんぽときりたんぽ鍋。たんぽを切る前の段階でのきりたんぽのことを指し、ほとんどの人がこれを「きりたんぽ」と思い込むが、切っていないのは只の「たんぽ」。

「たんぽ」とは本来、稽古用の槍につける綿を丸めて布で包んだものを指し、杉(秋田杉)の棒に、半殺し(半分潰すという意味)のご飯を巻き付けたところがたんぽをつけた槍(たんぽ槍)に似ていることからその名が付いた。

秋田県北部(現在の鹿角市周辺)に住むマタギ(猟師)の料理が起源とされる。マタギが山から帰った際、残した飯を潰して棒につけ焼き、獲物のヤマドリや山菜、キノコとともに煮たり、味噌をつけて食べたりしたとされている。

家庭料理であることから、鍋に入れる鶏肉に決まりはなかったが、比内地鶏が有名になったことをきっかけに、比内地鶏の産地である、大館市でセットで売り出すことに成功し本場の地位を確立し、その後秋田県の郷土料理として広く親しまれるようになった。

この時大館市が発祥の地として売り出そうとしたため、発祥の地を自負する鹿角市と発祥争いとなったが、現在では鹿角市が発祥、大館市が本場を呼称することで落ち着いた。

22歳から23歳にかけて大館市に記者として駐在した。年末の忘年会はどこも会場は北秋クラブ、料理はきりたんぽ鍋。飽きた。爾来、きりたんぽ怖い、鶏怖い、だ。「だまこもち」も食べたくない。

一方で県北部が起源であるため、由利本荘市、大仙市、横手市、湯沢市周辺の県南部では「きりたんぽ」は北部ほどのなじみはない。

きりたんぽ鍋の作り方。
鶏(比内地鶏)のガラでとっただし汁をベースに、こいくち醤油、酒と砂糖(または味醂)で醤油ベースのスープを作る。煮え難い順に、ゴボウ、(しらたき)、(サトイモ)、(卵巣を含む鷄モツ)、マイタケ(金茸、銀茸)、比内地鶏、(つみれ)を並べ中火で煮立てる。きりたんぽとネギを入れ、味が染みる直前でセリを投入する。セリに火が通ったら完成。(カッコ内はオプションとして好まれるもの)

比内地鶏が品種開発される以前は比内鶏のものを用いていた。比内地鶏が手に入らない場合はブロイラーのトリガラ、もも肉、鳥皮、ネクタイ(首の肉)で代用すると良い味が出る。

基本的に鷄ベースのキリっとした醤油スープ。具材については邪道とされるものがいくつかあり、甘味と水分が多く出る白菜、風味が変わってしまう魚肉(竹輪などの練りもの)、匂いが変わるニンジン、風味が変わるシイタケは入れない。基本はゴボウ、鷄肉、マイタケ、ネギ、たんぽ、セリの6種である。

みそつけたんぽ
焼いたたんぽに味噌を塗って食べるもの。みそたんぽとも呼ばれる。
出典:『ウィキペディア』2008・11・11

2008年11月17日

◆任期満了までの政権か

渡部亮次郎

麻生首相は1度は衆議院解散を決意したが、秘密世論調査で「惨敗」と出たので、公明党への前言をあっさり翻して解散を断念した。その断念、謝罪金がバラマキ金2兆円だ。景気対策の一環とされているが、違う。無駄な事は9年前、すでに証明済みだが、公明党の面子を糊塗するにはゼニしかない。

政府、自民党としては定額給付金を含む2008年度第2次補正予算案などを早期に成立させる必要があるものの、その時期を来年1月召集の通常国会冒頭にするという線が濃厚になってきたとあっては、少なくとも衆議院の「年度内」解散は遠のいたと見るべきだろう。

<衆院解散、年度内は困難に

政府・与党は13日、今月30日に会期末を迎える今国会の会期を延長しない方針を固めた。

定額給付金を盛り込んだ2008年度第2次補正予算案と関連する特別会計法改正案は、来年1月召集の通常国会冒頭で処理したい考えだ。

給付金の支給開始は来年3月かそれ以降となる可能性もあるため、与党内では、それ以前の衆院解散は難しくなり、解散・総選挙は当面、遠のいたとの見方が広がっている。

自民党の古賀選挙対策委員長は13日の古賀派総会で「一時期、解散風は暴風ったが、穏やかな風になっている。12月は選挙区も大事だが、東京での(税制改正や予算編成などの)活動に力を入れてほしい」と語った。

政府・与党が今国会を延長せず第2次補正予算案を通常国会で処理する方針を固めたのは、民主党など野党が定額給付金への反対姿勢を強めていることから、12月は国会を閉じて予算編成や外交課題に専念した方が得策だと判断したためだ。

与党は、補正予算などの早期成立を図るため、通常国会を1月上旬に召集することを検討している。1月下旬召集が通例で、前倒しとなる。

与党は、今国会の重要法案と位置付けた新テロ対策特別措置法改正案と
金融機能強化法改正案が月内に成立するメドが立ったと見ており、延長
必要なしの判断につながった。仮に、民主党が金融法案の審議を引き延
ばした場合、会期の小幅延長も視野に入れている。>
11月14日3時7分配信 読売新聞

一方「ディプスロート」の情報によると、麻生首相周辺では、2009年度予算が成立した後の4月以降も選挙での勝算が確保できない公算が強い以上、来年9月の衆院議員の任期満了を待つのが得策、との進言が次第に幅を効かすようになっている。

勿論、政治は生き物である。いつ、如何なる不慮の事態が起きないとも限らない。同じ事は優勢を伝えられている民主党にも同様だ。したがて今は断定した物言いはできないが、少なくとも「解散」について麻生首相が極めて消極的になっているのは事実だ。

政治記者に仕立てられ始めた頃、時の池田勇人首相は、ライバル佐藤栄作を抑えて自民党総裁に3選。内閣改造を終えて、高度経済成長の新時代を展開すると、エンジンを全開にした。昭和39(1964)年7月だった。それを祝うかのように、東洋で初めての東京オリンピックの開会を10月に控え、東海道新幹線、東名高速自動車道の開通が花を添えていた。

だが、池田首相のガラガラ声は末期の喉頭癌と判明してショック。10月24日オリンピック閉会を見届けて25日辞意表明。3ヶ月前、敗戦に泣いた佐藤栄作が11月9日には後継首相に選出された。

このとき、嘗ての河野一郎だけが依然、ライバルとして閣内に残留していたが、翌年の七夕の突然倒れ、翌8日夜、解離性大動脈瘤破裂のため逝去。佐藤は以後、ライバルなき道を坦々と歩み、1 974年12月 ノーベル平和賞受賞。

だが1975年5月 築地の料亭「新喜楽」で倒れそこで昏睡状態となる。6月3日意識不明のまま死去 享年74 従一位・大勲位菊花章頸飾追贈の後、国民葬。1977年5月遺骨は山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬

政治家の運命はことほど左様に一寸先が解らない。同様に、斯様に政局が政治家の体力によって変遷する以上、政治記者はすぐれて医学知識の通じていなければならないと決意した事だった。総理官邸番も野党担当記者も同様である。
2008・11・15

2008年11月15日

◆閣議決定は覆せるか

渡部亮次郎

結論から先に言えば、可能である。「村山談話」も覆せるが簡単ではない。中,韓両国の「反応」の厳しさを考えれば,当分、不可能と言ったほうが早いだろう。

村山首相談話とは、1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、第81代内閣総理大臣村山富市が「閣議決定に基づき」発表した「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する声明。一般に『村山談話』として知られる。

日本が戦中・戦前に行った「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した談話であり、以後の政権にも引き継がれ、日本国政府の公式の歴史的見解としてしばしば引かれる。

ところで、閣議(かくぎ)とは、内閣の職権行使に際して、内閣総理大臣が主宰し、その意思を決定するため開く国務大臣の会議のことである。

閣議は内閣法4条で規定されたものだが、会議の手続きについては定めがなく、慣行によっている。閣議には毎週火曜日と金曜日の午前中に開かれる定例閣議と、必要に応じて開く臨時閣議があり、原則として全閣僚が総理大臣官邸閣議室(国会期間中は国会内の閣議室)に集まって行われる。

閣議の意思決定には閣議決定、閣議了解の2つがある。内閣としての意思決定を閣議決定。本来は主務大臣の管轄事項だが、その重要性から閣議に付された案件に対する同意としての意思決定を閣議了解。


いずれにしろ行政府の長たる内閣が決定した「内閣の方針」であるから、国家公務員は「閣議決定」を遵守(じゅんしゅ)する義務を負う。自衛隊員も国家公務員だから当然である。

その閣議決定が、明らかな誤謬であっても遵守しなければならない。国家公務員は政府の雇われ人だから当然である。反対の意思表示をして実行行為の及べば、それはクーデターであり、処罰される。

したがって国家公務員は国会や内閣の方針に不満ならば、然るべき意見具申の方法は用意されるも、最終的には雇用関係を解消する以外に方法は無い。辞めるしかない。

今回、田母神空幕長の意見発表は「意見具申」と解釈する向きもあるが、違う。雑誌の懸賞論文への応募は、雑誌の読者たる「不特定多数」者に対する意見の「開陳」に過ぎずどう斟酌しても、内閣に対する意見具申ではない。

また田母神氏は閣僚ではなかったのだから閣議への意見具申の有資格者でもなかった。甘えさせる意見は控えるべきだろう。

<自衛隊は、高度な部隊行動能力を身につけて初めて任務を遂行できる組織体である。隊員は規律厳守の義務〔法令(憲法、法律、政令、各種規則、極秘のマニュアルなどを含む)を順守し、命令に服従する〕を負わされている。

日本国憲法は、特別裁判所の設置を認めていない(第76条第2項)。このため、防衛省・自衛隊は、隊員(文官を含む)に任命するとき、「宣誓書」に署名する契約を結ぶことによって規律を保持することにしている。規律違反に対する罰則は、他の公務員等より重いものとなっているが、旧軍刑法や諸外国の例には及ばない。処遇は一般公務員に準じている。

緊急事態において、一致団結、規律を厳守し、任務を遂行できるように指揮・指導・訓練するのが、各段階における部隊の指揮官・部隊長、これを補佐する幕僚の責務である。>(元防衛施設庁長官宝珠山 昇氏。「頂門の一針」1379号)

しかし、閣議決定は最終的なものではない。その後国民の理解を得て世論が変われば、閣議決定といえども絶対的なものとはいえなくなる。

先輩に聞かされた話だと、いまNHKが建っている場所は、元々は代々木練兵場、敗戦後は米軍家族のアパート群が置かれた「ワシントン・ハイツ」だったが、わが国の独立に伴う返還後は「閣議決定」により「如何なる建造物をおかず、公園とする」とされた。

ところが、それまで新橋駅近くの内幸町のあったNHKがTV放送開始に伴う狭隘化のための都内移転を計画、代々木公園内を候補地とし、内閣に打診を始めた。

池田勇人総理大臣への打診を任されたのは当時、自民党池田派担当記者だった島 桂次(のちにNHK会長)。池田の返事は(閣内でNo.2だった)「河野一郎大臣さえ決定変更に同意するならOKだ」った。

そこで当時、河野派担当記者だった飯島博(故人)が河野を打診の結果、OK。かくてNHK放送センターは現在地にある。この間、NHK以外の新聞、放送各社は知ってか知らずか「沈黙」を決め込んだ。だからと言うわけでもなかろうが、新聞各社の国有地払い下げに各社は「沈黙」する。

したがって「閣議決定」と言う「重し」の付いた「村山談話」でも、世論の変化を盾として「決定変更」を図る事は可能である。だが、これに対する韓国と中国の「反応」を考慮すると、安倍内閣でも唯々諾々と「踏襲」、麻生内閣も踏襲したように、政治的には相当大きな決断を要する問題である。

今回、田母神空幕長論文問題で、村山談話に立ち返ることなく、さっさと同氏更迭で問題を処理した理由はここにある。しかも、これに踏み切る強力な内閣の出現をいまは予想できない。国民は自分たち以上レベルの政府を持つことができないのだとすれば、内閣と国民は同罪である。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・14


2008年11月14日

◆●●党への慰労金2兆円

渡部 亮次郎

<判断丸投げに反発=給付金の所得制限−市町村

「無責任」「誤った政策だ」「いいかげんな制度」「言語道断」−。定額給付金に所得制限を設けるかどうかを個々の市町村に委ねると政府・与党が12日決定したことに対し、判断を丸投げされた格好の市町村は一斉に反発した。

佐賀県多久市の横尾俊彦市長は「国は発案者としての責任ある主体性を発揮すべきだ」、浜松市の鈴木康友市長も「再考していただきたい」と憤慨。高知県安芸市の松本憲治市長は「地方の市町村でそんなに所得がある人はそういない」と、所得制限を設けない意向を示した。札幌市の上田文雄市長も「混乱や市民間の感情的な対立を引き起こす可能性がある」と、同様の考えだ。

人口が多い大都市は給付事務の混乱を懸念し、東京都杉並区の山田宏区長は「自治体として当惑している」とコメント。別の区の課長も「きちんと所得制限をするのは事務的に極めて難しい。本人の自己申告に頼ることになるだろう」と、実際には機能しないことを逆説的に説明した。> 11月12日16時49分配信 時事通信

末端の役場職員は不満たらたらだ。
<定額給付金の所得制限を市町村の判断に任せる、という報道がありました。

「地域振興券」のときには給付条件を確認するために「地域振興券」の印刷や受付、問い合わせ対応で役場職員総出で準備をし、窓口がかなり混乱したことを思い出しました。

一律1万円給付、という発想はそういう混乱を避けようとしたのだ、ということでは「定額給付金」そのものの是非とは別に現場は前よりやりやすい、ということでは評価していました。

しかし、今回の「定額給付金を市町村の判断に任せる」という報道にはびっくりしました。

このままでは、国の為政者は地方分権の名の下に、地方の行政に対して段々と無責任になっていくのではないか?とさえ思えます。

むしろ、「定額給付金の所得制限を市町村の判断に任せる」くらいなら、「人口割りで地方交付税に加算」したほうがましです。

人口1万人程度の町で、ここ数年(小泉改革のお陰)で地方交付税は6億円くらい減収になっています。

50億円程度の予算規模で約6億円の減収は通常の改革努力を超えています。

1億円交付税が増えれば一息つけます。

いずれにしろ「地域信仰券」は筋が悪い発想です。>(青森県内役場職員)

ある読者は怒り心頭だ。
<今度の定額給付金騒ぎ、最終結論は地方へ丸投げとなった。

テレビに出てくる顔ぶれの面々、公明党の代表たちは「してやったり」と余裕の戦勝ぶりを誇っている。自民党の政府関係者たちは、右往左往で、まるで彼らのシモベとも見える迷走振りである。

過去にも公明党の言いなりになってやった地域振興券が何の効果もないバラマキであったにも拘わらず、またもや言いなりになって同じ愚を犯す迷走振り、懲りない面々とはこうした人たちを言うのだろう。

ある人たちが言っていたが、そんなカネがあるんだったら介護の現場、救急医療の現場に回して、キチンと対応できる体制にした方が余程まともな政治になるとのこと。

自分たちの評価を下げる愚作に血道を上げるより、さすがは「麻生内閣」だと言われる政策に頑張ることだ。邪魔なものは排除しても、それを実行すれば選挙も大勝利です。最初から人に頼ろうとするから、碌な事がないのです。>(なみお)

「なみお」氏も気づいたように、これは公●党から創●学会へのお歳暮であり、●明党へは自民党からの「謝罪金」。いうなれば自民党から●価学会への「慰労金」でなくて何であろう。

●価学会は、2009年夏の都議会選挙に全精力を注ぐよう「上部」から圧力がかかっているため、組織内の「体力回復」を考慮して、衆院の解散・総選挙を年内に済ますことが大命題だった。●明党が早期解散を執拗に迫ったのは、そのためである。

これに対して自民党は「11月30日投票」を一旦は約束しながら「反故」にしてしまった。秘密調査で「敗戦)間違いなしとでたことが理由だが、いつの間にか世界的金融危機を理由に摩り替えた。

そこを●明党から厳しく追究されたものだから、景気対策に名を借りた●価学会員のための「撒き餌」たるバラマキ給付金に唯々諾々と応じざるを得なかった。低所得層たる「●会員」への支給額を厚くしようと、●党側が高額所得者への制限にしつこく拘ったことを見れば真相は歴然である。

これは定額給付金でもなんでもない。●たちに対する自民党の「みかじめ料」である。みんな懐にしまってしまうから肝腎、景気対策にならぬ事、前回と同様である。役場職員(自治労)の恨みを町長(自公)が買うだけ自公は損する。

私は某社の初代●党担当記者にして初代●学会担当記者だった。いまは各社とも●ガ怖いから真相を記事にできない。この記事を読まない人は永遠に解らない。
2008・11・13

2008年11月13日

◆宝珠山元長官の正論

渡部亮次郎

田母神空幕長が投じた論文が麻生政権の方針に反するとして更迭された問題について私は異論がなかったので発言しないできたが、自衛隊に言論の自由があるべきだという論が出てきたので黙っていられなくなった。

自衛隊は日本国憲法に保証されていない。昔流に揶揄すれば「妾の子」である。また憲法は第9条で武力行使を禁じているから、自衛隊は戦意なき軍隊。戦うことの無い軍隊。インポテンツである。

戦意、戦場なき軍隊は戦死することもないはず。そのように遊びの集団だったら言論の自由が許されてもいいだろう。田母神氏も、そんな雰囲気の中で、つい、政府に対して行なった入隊時の「宣誓」を忘れてしまったらしい。

この点について防衛省で官房長、防衛施設庁長官などを歴任した宝珠山昇(ほうしゅやま・のぼる)氏の所信(花岡信昭メールマガジン 08・1112号)は田母神氏を厳しく批判している。宝珠山氏自身、「談話」を出した「総理が阿呆だから」が失言となり退職に追い込まれた人である。その人が今度の処分を支持しているのだ。

防衛省、自衛隊の幹部としての基本的姿勢のあり方を説いたものだ。「田母神問題」をめぐる主宰者の立場と同様、その真摯なお考えは傾聴に値する。

<「法令順守」は自衛隊の生命

【要旨】法令順守即ち規律の順守と命令に対する服従は自衛隊の生命である。田母神氏は自衛隊の最高指導者群に列しながらこれに違う行為をした。これを慫慂するが如き論議は国益を著しく損なう。

自衛隊は、高度な部隊行動能力を身につけて初めて任務を遂行できる組織体である。隊員は規律厳守の義務〔法令(憲法、法律、政令、各種規則、極秘のマニュアルなどを含む)を順守し、命令に服従する〕を負わされている。旧日本軍は、重い刑罰を科すことができる軍事特別裁判所を運用し、厳しい教育訓練、厚い処遇などによって、高い規律を確保していた。

日本国憲法は、特別裁判所の設置を認めていない(第76条第2項)。このため、防衛省・自衛隊は、隊員(文官を含む)に任命するとき、「宣誓書」(後記参照)に署名する契約を結ぶことによって規律を保持することにしている。規律違反に対する罰則は、他の公務員等より重いものとなっているが、旧軍刑法や諸外国の例には及ばない。処遇は一般公務員に準じている。

緊急事態において、一致団結、規律を厳守し、任務を遂行できるように指揮・指導・訓練するのが、各段階における部隊の指揮官・部隊長、これを補佐する幕僚の責務である。

自衛隊員の宣誓「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」(根拠法令:自衛隊法第52条及び53条及び自衛隊法施行規則第39条)

田母神氏は、これを率先垂範すべき最高指導者群に列しながら、自衛官に任官するとき署名した「宣誓」、即ち、国との契約に反した行動を取るという大きな誤りを犯したのである。

その1つは、自衛隊員が職務に関連する意見などを公表するときには文書をもって承認を得ることとされている内部規律を、周辺の諫言をも無視して、守らなかったことである。

これは、それがいかに軽度なものであれ、最高指導者としては「脇が甘かった」、「手続きミス」等では済ませられない、重大な失態、自覚不足といわざるを得ない。仮にこれが下部組織に蔓延すれば、自衛隊は任務を達成できなくなるのみならず、旧帝国軍と同じ道に進む危険性をも孕むものである。

2つ目の反則は、反政府言動とも解される恐れのある主張を公表したことである。これは悪意に解すれば反体制行動を扇動するものともなるもの。

その影響は、意図するにしろしないにしろ、階級社会であればあるほど、発言者の地位が上がれば上がるほど、閉鎖社会であればあるほど、大きくなるものである。彼は国の武力集団の指導者としての自覚・自制を欠いていたことになる。

言うまでもなく、「自虐史観」、「東京裁判史観」、「村山談話」等への批判を展開し、日本の独立度の向上を図ることは自由であり、小生も歓迎している者の一人である。

しかし、これが武力集団の構成員である自衛官を宣誓や規律違反も恐れない行動に誘導・扇動することとなれば、著しく国益を害する。論者がこの点に関しても配慮されることを希望・期待する。(2008.11.11:宝珠山 昇 記)>

麻生太郎首相は2008年10月2日の衆院本会議で、日本の過去に対する反省と謝罪を明確にした平成7年の村山富市首相談話への認識を問われ、「いわゆる村山談話と平成17年8月15日の小泉純一郎首相の談話は、先の大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでいく」と述べた。

社民党の重野安正幹事長が「『村山談話』を受け継ぐか」と質問したのに答えた。
政府が3年前に閣議決定し、小泉首相(当時)が戦後60年を迎えるに当たり出した「小泉談話」は、村山談話の内容を踏襲しつつ、「国策を誤り」「国民を存亡の危機に陥れ」との表現を避け、アジアとの「未来志向の協力関係」に力点を置いていた。

村山談話は、「村山」と個人名を冠して呼称されることが多いが、閣議決定を経た談話であり、村山個人の私的な見解ではなく、当時の政府公式見解である。

政権の主が日本社会党党首であったにしろ、自民党とのれっきとした連立であったのだから、自民党も責任を負うべき談話である。当時、日本を取り巻くアジア情勢が如何なる状況であったにしろ、綸言汗の如し。総理が一度口にした言葉は取り消しが利かないのである。

したがって田母神発言を支持する人たちが非難すべきは村山談話ではあっても防衛省の問題処理方法であってはならない。これら大方の論は感情に流れ「法令遵守」「宣誓」「契約遵守」と言った問題の「ハード」部分を無視した誤謬である。

1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、村山首相(当時)は「閣議決定」に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。この『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話(「村山談話」)は日本国政府の公式歴史見解として扱われており、歴代政権に引き継がれている。

小泉内閣においては、2005年8月15日に小泉純一郎が村山談話を踏襲した「小泉談話」を発表した。安倍内閣においても、2006年10月5日に安倍晋三が「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」「国として示した通りであると、私は考えている」と語り、政府として個人として村山談話を受け継いで行く姿勢を見せている。

これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。

「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある一方、逆に「この談話は結局のところ『戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。

なお、村山談話の中では、日本は「国策を誤り、戦争への道を歩んだ」とされている。この表現に対し、村山は「戦争が終わった時点で国内的にも国際的にも(昭和)天皇の責任は問われていない。

談話の『国策を誤った』ということをもって(先帝)陛下の責任を云々するつもりはない」と述べており、村山談話は昭和天皇の戦争責任を追及するものではないと明確に示している。

さらに、具体的にどの内閣の誰が「国策を誤」ったのかについては、「どの時期かについて断言的に言うのは適当ではない」と述べており、どの内閣に責任があるのかについても明示はされていない。参考『ウィキペディア』2008・11・12


2008年11月12日

◆風邪とインフルエンザ

     
渡部 亮次郎

2008年10月、東京ではインフルエンザの流行が始まり、学校の学級閉鎖のニュースが聞かれるようになった。

日本などの温帯では冬期に毎年のように流行する。通常、11月下旬から12月上旬頃に最初の発生、12月下旬に小ピーク。学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1―3月頃にその数が増加しピークを迎えて4―5月には流行は収まるパターンである。

区役所の奨めで2008年も10月中旬に近所の医院でインフルエンザの予防接種を受けた。ここ20年で、風邪は1度しか引いたことはないが、インフルエンザは風邪とは別物らしいから奨めに応じた。

インフルエンザは風邪(普通感冒)とは異なる。インフルエンザ(Influenza)はイン「フルエンザウイルス」による急性感染症の一種で流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)、略称・流感(りゅうかん)ともいう。

発病すると、高熱、筋肉痛などを伴う風邪の様な症状があらわれる。症状は似ているが黴菌の種類が違う。いずれ、合併症としての肺炎とインフルエンザ脳症があり、ごく稀に急性脳症や2次感染により死亡することもあるというから老人にとっては只事ではない。最近は略して「イン
フル」と言うらしい。

インフルエンザウイルスにはA・B・Cの3型があり、このうちA型とB型がヒトのインフルエンザの原因になる。

予防の一般的な方法として最も効果が高いのはワクチンを使用した予防接種である。A型インフルエンザはとりわけ感染力が強く、症状も重篤になる傾向がある。 稀にA型、B型の両方を併発する場合もある。

現行の皮下接種(注射)ワクチンは感染予防より重症化の防止に重点が置かれた予防法であり、健康な成人でも感染防御レベルの免疫を獲得できる割合は70%弱(同時期に2度接種した場合は90%程度までUP)である。

感染経路は咳・くしゃみなどによる飛沫感染が主であり、口・鼻から呼吸器系に感染する。ただし、飛沫核感染(空気感染)や接触感染など違った形式によるものもある。

予防にはマスクが大変有用であり飛沫感染に対しては特に効果的であるが、形状や機能性などによっては完全に防げない場合もある。マスクだけでは接触感染を防ぐことができないため、手洗いなどの対策も必要である。

潜伏期間は1―2日が通常であるが、最大7日までである。 感染者が他人へウイルスを伝播させる時期は発症の前日から症状が軽快してのちおよそ2日後までである。症状が軽快してから2日ほど経つまでは通勤や通学は控えた方がよい。

インフルエンザと人類との関わりは古く、古代エジプトにはすでにインフルエンザと見られる病気の記録が残っている。最も重大な転機は1918(大正7)年から翌」1919年にかけて発生したスペインインフルエンザの世界的な大流行(パンデミック)である。

古老はこれを「スペイン風邪」というからインフルエンザでは無いと思っていたが、正確には「スペインインフルエンザ」だったのである。感染者数6億人、死亡者数4000―5000万人(さらに多いという説もある)にのぼり、第1次世界大戦終結の遠因ともいわれる。

このスペインインフルエンザ以降も、インフルエンザは毎年継続して感染流行を起こしている。また、さらに数年から数十年ごとに新型のヒトインフルエンザの出現とその新型ウイルスのパンデミックが起こっており、毒性の強い場合は多数の死者が出る。

近年は新型ヒトインフルエンザのパンデミックが数十年起こっていないこと、死亡率の減少などから「インフルエンザは風邪の一種、恐れる病気にあらず」と捉える人が多くなったが、これは誤解である。

インフルエンザの症状はいわゆる風邪と呼ばれる症状の中でも別格と言えるほど重く、区別して扱う事も多い。また、パンデミック化したインフルエンザは人類にとって危険なウイルスである。

日本では江戸時代に長崎から持ち込まれたインフルエンザウイルスが幾度か全国的に流行し、「お七かぜ」「谷風」「琉球風」「お駒風」など当時の世相を反映した名称で呼ばれた。

古くから風邪、風疫とされるとおり、悪い風が吹いて人々を病気にするという認識があった。幕末にはインフルエンザの名称が蘭学者より持ち込まれ、流行性感冒と訳された。

「インフルエンザ」の語は16世紀のイタリアで名付けられた、「影響」を意味するラテン語:influentia(英語でいうinfluence)にちなんでこの流行性の感冒をインフルエンザと名付けた。この語が18世紀にイギリスで流行した際に英語に持ち込まれ、世界的に使用されるようになった。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・11・08

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