2016年10月07日

◆尖閣騒擾はアメリカの責任

渡部 亮次郎



ま尖閣諸島返還問題に関して1971年当時の繊維交渉が関わっていたとされる。
尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還されたが、尖閣諸島の日本
への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的
な意見が多かったとされる。

その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするた
めにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国
政府の外交文書ふら明らかになっている。(ウイキいペデイア)

このことについて10日発売の月刊誌「文芸春秋」7月号は<スクープ ホワ
イトハウス極秘テープ発掘>「尖閣領有 アメリカは日本を裏切った」とす
る早稲田大学大学院客員教授 春名幹男さん執筆の記事を掲載した。たし
か元共同通信ワシントン支局長だった方である。

春名氏は冒頭、次のように指摘している。
「尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立、緊張は長期化し,一蝕即発の危
機も想定される事態が続いている。・・・中国が公船を派遣して挑発し続
けているのはなぜか。

その一因はアメリカ政府の態度にある。尖閣諸島が日本の施政権下にある
ことを認める一方で、同時に領有権争いが存在することも認め「当事者間
で解決すべき問題」との立場をとっているからだ。当に中国は、米国が領
有権争いの存在を認定しているからこそ、挑発を続け,尖閣諸島を奪い取
ろうとしちるのだ」。

春名教授は過去5年以上に亘って米国立公文書館などで、機密解除された
米外交文書、「キッシンジャー電話会話記録」など大量の文書を読み解いた
結果,これまで知らされていなかった真相を突き止めた。アメリカの”あ
いまい戦略“の根本は、沖縄返還の裏で展開された米国と台湾との交渉に
あったのである、としている。

当時、「米中接近」で権謀術数をめぐらしていたニクソン=キッシンジャー
外交は日本との沖縄返還協定の調印直前、台湾側の要求を容れ手「沖縄諸
島の施政権を日本に返還しても中華民国(台湾)の領有権の主張を侵すこと
はない」との政策をまとめていたのである。しかし、日本側にはきちんと
説明されないまま、現在に至っているのだそうだ。

当時、アメリカは沖縄返還問題と並んで「繊維交渉」をかかえていた。わ
れわれは日米間だけの問題だったと思ってしまうが、アメリカは実は台湾
とのあいだでも懸案になっていたのである。この問題はニクソン再選への
高いハードルになっていた。

こうした中で台湾はアメリカが沖縄を日本に返還しても尖閣列島を返還か
ら除外するなら「繊維交渉を受諾する、との挙に出た。沖縄返還協定調印
の直前だった。

これにはホワイトハウス内部でももめたが、結局、尖閣の帰属は日本、台
湾の交渉に任せるという形で沖縄返還問題は進んでいったが、台湾と日本
の話し合いは進行しないままで終わった。アメリカは世界を驚愕させた
「ニクソン訪中」を発表した1971年7月15日の6日後、尖閣諸島の主権問題で
日本に対して台湾と話し合うよう「説得」工作を突然、中止した。

だから春名教授は言う。「そもそもアメリカは尖閣諸島の主権返還におい
て「当事国」であったはずだ。それが、日本側に十分な協議も説明もなく、
台湾との妥協を強引に進め、最後には台湾との交渉を日本に押し付けたこ
とになる。その“無責任”な対応がいま深刻なつけとして、東アジアに暗い
影をおとしているのだ。

このころ政治記者としてNHKにいた私は思い出す。「繊維交渉が解決しな
ければ佐藤栄作首相の悲願たる沖縄返還は絶対実現しない」。佐藤はニク
ソンに会うたび「善処」しますと約束しながら頼みの通産大臣大平正芳も
宮沢喜一も解決、

しまいにヤケをこしたように嫌がる田中角栄に通産大臣を振ったところ、
角栄はあっとに片付けた。大平や宮沢はことを外交問題と考えて,かえっ
て問題をこじらせたが、田中は国内問題と理解。補助金2000億円でぴしゃり。

直後。佐藤は福田赳夫外務大臣と田中通産大臣を従えてニクソンにあい、
自分の後継者として福田を紹介するつもりだったがニクソンは会ったら角
栄ばかりを歓迎。そのまま田中政権の誕生につながっ。
佐藤は「糸(繊維)で縄(沖縄)を買ったと揶揄されながらノーベル平和賞を
受賞。角福はともに晩年は不遇だった。2013・6・13前田正晶

2016年10月05日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎



50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれであ
る。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対
し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、
北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づか
ない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」で
ある。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長(当時)
の発言には仰天した。中川昭一政調会長(当時)や麻生太郎外相((当
時)が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になり
かねない」と、安倍晋三首相まで持ち出して“封殺”する構えだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可
能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。この
ギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、
かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船
やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止し
た。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはず
なのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくと
するこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまい
か」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど
「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有
国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特
異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者の
しりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4
原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査に
よれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えて
いる。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成
18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載
「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死
す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」
であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党など
は開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主
張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般につ
いて統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山
氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろう。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私
の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、こ
の時期についての理解は小説のみに依存していた。

阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中
首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれら
のすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見
方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保
7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山
市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座で
あった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座とな
る。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を
求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、
ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神
奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉
永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大
統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商
を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸
大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが
経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかた
ちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間
続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派
の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派で
あった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首
座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は
江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆
らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを
創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改
革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死
する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後ま
で拒んだという。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2006・11・10

2016年10月04日

◆日本のカイロプラクティック

渡部 亮次郎



日本のカイロプラクティックの歴史は1916年にパーマースクールを卒業
した川口三郎が帰国して横浜で開業したことに始まります。1918年には
神奈川県で「カイロプラクティック取り締まり規則」が制定されました。

1930年に東京府警視庁が「療術行為取締規則」を制定し、カイロプラク
ティック手技は「療術」の一部と定義され各県庁への届出によって営業
が許可されました。

1923年には日本初のカイロプラクティック団体「日本カイロプラクティッ
ク協会」が1921年ナショナルスクール卒業の大澤昌壽、1921年ラトレッ
ジカレッジ卒業の小平粂重によって設立されました。

また美座時中など海外のカイロプラクティックを視察し自己で研究して
日本に積極的に紹介しようとした者もいました。

戦前、アメリカで教育を受け日本に帰国したDC(ドクター・オブ・カイ
ロプラクティック)は14人ほどいました。日本人初のDC、森久保繁太郎
はパーマースクール卒業後アメリカに残りました。

川口三郎を初め、田中酉造、芹野伊勢吉、金沢督、大澤昌壽、小平粂重、
千葉忠八、播谷高山、横矢重孝、鈴木泰三、櫻庭豊、鴫原伊直、桜井真
一、桜井静子。戦争により1930年代から留学者が途絶え、1969年にナショ
ナルカレッジを卒業した竹谷内一愿が戦後初のDCとして帰国しました。

戦後、GHQは医師以外の医業類似行為一切を禁止しようとしましたが、幾
つかは難を逃れ制度化されるに至りました。療術に関しては1955年まで
既得権を認められ営業が許可されました。

1947年に全国療術協同組合(現在の全国療術師協会)が結成されて、
1955年の禁止期限中止を求めて活動した為、ようやく1964年に禁止期限
の解除が認められました。

1960年にはHS式無熱高周波療法を行った元炭坑夫が無資格で「按摩師等
方違反」に問われた事件で、最高裁判決は「人の健康に害を及ぼす恐れ
がある医業類似行為にのみ処罰を与える」と言う判決を下しました。

つまりカイロプラクティックを含めた療術治療は有害な場合だけ制限が
あり、無害なら罪にはならないという結果になったのです。この件は
1964年に再度仙台高等裁判所に差し戻され「人の健康に害を及ぼす恐れ
のあるもの」となり有罪で終結しました。

1961年に日本で初めてカイロプラクティックの7団体が団結し「日本カ
イロプラクティック総連盟」(初期は全日本カイロプラクティック総連
盟)が設立しました。7団体は「日米カイロプラクティック協会」(伊藤
緑光会長)、関西カイロプラクティック協会(長井幸男会長)、日本カ
イロプラクティック協会(松本茂会長)、日本カイロプラクティック医
連盟(岸田菱山会長)、全日本カイロプラクティック協会(保坂岳史会
長)、山形カイロプラクティック協会(斉藤利雄会長)、日本カイロプ
ラクタース協会(吉田盛豊会長)。

その後、東京カイロプラクティック協会(竹谷内米雄会長)、香川カイ
ロプラクティック協会、藤川整形外科カイロプラクティック協会(藤川
淳敏会長)、北陸カイロプラクティック協会(木村順二会長)、関東カ
イロプラクティック協会(中島美翠会長)オリエンタルカイロプラクテ
ィック協会(山田新一会長)、旭川カイロプラクティック協会(安原岩
夫会長)、手技整形カイロプラクティック研究会(塩川満蔵会長)の計
15団体が加盟し、アメリカ発祥のカイロプラクティック普及に貢献した
治療家達、伊藤緑光、松本茂、竹谷内米雄が所属していました。

1961年、最高裁判決を踏まえ、衆議院社会労働委員会での質疑で「無届
療術行為者の看板掲示は、医師法・医療法等の規定に反しない限り、職
業選択の自由により制限されない」と答弁しています。

按摩・マッサージ・指圧とカイロプラクティックの関係について、1970年
宮城県知事の紹介に対して厚生省医務局長は「カイロプラクティック療法
は脊椎の調整を目的とする点において、按摩・マッサージ・指圧に含まれ
ないものと解する」と回答しています。

「整体」や「指圧」は中国から伝わった按摩などの治療法を日本独自に
江戸時代までアレンジを加えて発展させてきたものに、明治後期以降海
外から輸入されたカイロプラクティック(創始者パーマー)、オステオ
パシー(創始者スティル)、スポンディロセラピー(創始者エイブラム
ス 後に衰退)などの脊椎に働きかける手技療法の理論と技法を導入し
誕生したものです。

指圧は1964年、柔道整復師が後に単独法になったため「あんまマッサー
ジ指圧師法」が制定されて、浪越徳治郎の経絡を押す母指圧が主流にな
りました。初期には視覚障害者を保護する目的で制定されましたが現在
では健常者も治療にあたっています。

整体は明治後期から大正にかけて「正体」「整體」など様々な表記がさ
れ昭和初期から「整体」という言葉が主流になりました。この頃、平賀
臨、玉井天碧、高橋迪雄、平田内蔵吉などの治療家が普及にあたり多く
の著書を出しました。

戦後は高橋迪雄の影響を受けた野口晴哉、橋本敬三などが活躍して、業
界では整体を統一する試みがなされましたが成功しませんでした。現在
でも整体の定義は曖昧で様々な治療法が乱立しています。中にはカイロ
プラクティックのテクニックを取り入れて整体と標榜しているところも
多くあります。

1991年、厚生省は「医業類似行為に対する取り扱いについて」の通達を
各都道府県庁に送り、「カイロプラクティック療法の医学的効果につい
ての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要である」と
の見解を示しました。

この通達は三浦幸雄研究グループの「脊椎原性疾患の施術に関する医学
的研究」をもとに禁忌対象疾患の認識、一部の危険な手技の禁止、適切
な医療受療の遅延防止、誇大広告の規制を促しました。

以降、今でもカイロプラクティックは免許制度(国家資格)がない医業
類似行為に分類されています。世界では80カ国以上の団体が加盟するWFC
(世界カイロプラクティック連合)が1988年に設立されたり、WHO(世界
保健機関)がカイロプラクティックを代替医療として認めたり、2005年
に「カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン」
を発行したりしています。

世界の中で大きく出遅れている日本の問題点は、カイロプラクティック
を標榜していてもWHO基準のカイロプラクティック学校で教授されている
ものとは全く異なる技術や理論を学び実践している「自称カイロプラク
ター」が非常に多いことです。

海外で正規なカイロプラクティックを取得した者の一部が、WHO基準以下
の学校やセミナーで「自称カイロプラクター」を送り出しているという
矛盾点もあります。またそのために他の医師や医業類似行為者の理解が
得られず、結果として厚生労働省もカイロプラクティックの免許制度を
保留したままです。

1995年にはアジアや日本で初めてのCCE(カイロプラクティック教育審議
会)アクレディテーションを取得したRMIT大学カイロプラクティック学
科日本校(現在の東京カレッジオブカイロプラクティック)が開校しま
した。

現在WFC(世界カイロプラクティック連合)日本代表団体である
JAC(一般社団法人日本カイロプラクターズ協会)が1998年に設立され
WHOのガイドラインの基準に沿った形でカイロプラクティックが法制化さ
れるよう活動しています。

2016年10月03日

◆福田赳夫さんの命日

渡部 亮次郎



福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派
担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90
歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草
のせい。

1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による
大阪左遷からNHK東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園
田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かっ
てきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。

およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事
か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横
滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるもの
を始めた。

大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大
臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、
形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。

さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨
拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。

翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると
言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。

夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口
しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談
は2時間に及んだ。

名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、
「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連
絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いし
た。

2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。い
わゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う
事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えた
ように思う。

ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さん
から聞いてメモしてあった。紹介しておこう。

<@首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化
にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。

A退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。

Bところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤は
その頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポン
サー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。

C後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政
権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平
のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くな
る)。

D福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石
大名の背比べで混沌とするだろう。>

福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で
出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに
臨んだが、園田外相は不機嫌だった。

この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出
馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、
密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になる
からである。

園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福
田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態
勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっ
ていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」さ
れたが、私としては如何ともし難かった。

以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による経
歴。

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(第20代金
古町長)の次男として生まれた。福田家は江戸時代には庄屋をつとめた地
元の名門であった。

小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一
高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に1番の成績で入省し
た。

だが、1948年に昭電疑獄が起こると、当時大蔵省主計局長だった福田は収
賄罪容疑で逮捕された。結局、無罪にはなったものの、これを機に大蔵省
を退官した。

大蔵省では官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経
て戦後、主計局長。

1948年9月13日、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。その後、大蔵
省を退官。

1952年10月、無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

1958年6月、党政調会長に就任。

1959年1月、党幹事長に就任。

1959年6月、農林水産大臣に就任。

1960年12月、再び党政調会長に就任。

1965年6月、大蔵大臣に就任。

1967年2月、党幹事長に就任。(2度目)

1968年11月、再び大蔵大臣に就任。

1971年7月、外務大臣に就任。

1972年7月、自民党総裁選挙で田中角栄に敗れる。

1973年11月、3度目となる大蔵大臣に就任。

1974年12月、副総理・経済企画庁長官に就任。

1976年12月、内閣総理大臣に就任。(渡部註:福田・大平正芳密約による。
@福田総裁に任期は2年 A幹事長は大平)

1978年、派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入
し実施されたが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな
集票作戦を展開する。

一方で福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢
から動きが鈍く、当初の下馬評が覆され福田は大平に大差で負けること
になる。

福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」
とかねて発言していたため本選挙出馬断念に追い込まれることになる。

自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「天
の声も変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね」の言を残して辞
任。(1978年12月)

1986年7月、派閥を安倍晋太郎に禅譲し、福田派会長を辞任。

1990年2月、政界を引退。

1995年7月5日、慢性肺気腫のため死去。享年90。

平成7年7月5日:大勲位菊花大綬章 (執筆:06・07.04)

2016年10月02日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子
だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日
本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂
で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は
皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負
け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権か
ら退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時
50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中
国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた
後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠
実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。
1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席
から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任し
た。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は
無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は
毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に
産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月
曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年
には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人
大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の
腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求め
た。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようにな
り、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。
C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国
鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届
を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今
日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒り
を示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」
のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、
「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉
を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局
の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖
反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたよ
うだが、結果は不明だという。2008・10・23(再掲)




2016年10月01日

◆日本のカイロプラクティック

渡部 亮次郎



日本のカイロプラクティックの歴史は1916年にパーマースクールを卒業
した川口三郎が帰国して横浜で開業したことに始まります。1918年には
神奈川県で「カイロプラクティック取り締まり規則」が制定されました。

1930年に東京府警視庁が「療術行為取締規則」を制定し、カイロプラク
ティック手技は「療術」の一部と定義され各県庁への届出によって営業
が許可されました。

1923年には日本初のカイロプラクティック団体「日本カイロプラクティッ
ク協会」が1921年ナショナルスクール卒業の大澤昌壽、1921年ラトレッ
ジカレッジ卒業の小平粂重によって設立されました。

また美座時中など海外のカイロプラクティックを視察し自己で研究して
日本に積極的に紹介しようとした者もいました。

戦前、アメリカで教育を受け日本に帰国したDC(ドクター・オブ・カイ
ロプラクティック)は14人ほどいました。日本人初のDC、森久保繁太郎
はパーマースクール卒業後アメリカに残りました。

川口三郎を初め、田中酉造、芹野伊勢吉、金沢督、大澤昌壽、小平粂重、
千葉忠八、播谷高山、横矢重孝、鈴木泰三、櫻庭豊、鴫原伊直、桜井真
一、桜井静子。戦争により1930年代から留学者が途絶え、1969年にナショ
ナルカレッジを卒業した竹谷内一愿が戦後初のDCとして帰国しました。

戦後、GHQは医師以外の医業類似行為一切を禁止しようとしましたが、幾
つかは難を逃れ制度化されるに至りました。療術に関しては1955年まで
既得権を認められ営業が許可されました。

1947年に全国療術協同組合(現在の全国療術師協会)が結成されて、
1955年の禁止期限中止を求めて活動した為、ようやく1964年に禁止期限
の解除が認められました。

1960年にはHS式無熱高周波療法を行った元炭坑夫が無資格で「按摩師等
方違反」に問われた事件で、最高裁判決は「人の健康に害を及ぼす恐れ
がある医業類似行為にのみ処罰を与える」と言う判決を下しました。

つまりカイロプラクティックを含めた療術治療は有害な場合だけ制限が
あり、無害なら罪にはならないという結果になったのです。この件は
1964年に再度仙台高等裁判所に差し戻され「人の健康に害を及ぼす恐れ
のあるもの」となり有罪で終結しました。

1961年に日本で初めてカイロプラクティックの7団体が団結し「日本カ
イロプラクティック総連盟」(初期は全日本カイロプラクティック総連
盟)が設立しました。7団体は「日米カイロプラクティック協会」(伊藤
緑光会長)、関西カイロプラクティック協会(長井幸男会長)、日本カ
イロプラクティック協会(松本茂会長)、日本カイロプラクティック医
連盟(岸田菱山会長)、全日本カイロプラクティック協会(保坂岳史会
長)、山形カイロプラクティック協会(斉藤利雄会長)、日本カイロプ
ラクタース協会(吉田盛豊会長)。

その後、東京カイロプラクティック協会(竹谷内米雄会長)、香川カイ
ロプラクティック協会、藤川整形外科カイロプラクティック協会(藤川
淳敏会長)、北陸カイロプラクティック協会(木村順二会長)、関東カ
イロプラクティック協会(中島美翠会長)オリエンタルカイロプラクテ
ィック協会(山田新一会長)、旭川カイロプラクティック協会(安原岩
夫会長)、手技整形カイロプラクティック研究会(塩川満蔵会長)の計
15団体が加盟し、アメリカ発祥のカイロプラクティック普及に貢献した
治療家達、伊藤緑光、松本茂、竹谷内米雄が所属していました。

1961年、最高裁判決を踏まえ、衆議院社会労働委員会での質疑で「無届
療術行為者の看板掲示は、医師法・医療法等の規定に反しない限り、職
業選択の自由により制限されない」と答弁しています。

按摩・マッサージ・指圧とカイロプラクティックの関係について、1970年
宮城県知事の紹介に対して厚生省医務局長は「カイロプラクティック療法
は脊椎の調整を目的とする点において、按摩・マッサージ・指圧に含まれ
ないものと解する」と回答しています。

「整体」や「指圧」は中国から伝わった按摩などの治療法を日本独自に
江戸時代までアレンジを加えて発展させてきたものに、明治後期以降海
外から輸入されたカイロプラクティック(創始者パーマー)、オステオ
パシー(創始者スティル)、スポンディロセラピー(創始者エイブラム
ス 後に衰退)などの脊椎に働きかける手技療法の理論と技法を導入し
誕生したものです。

指圧は1964年、柔道整復師が後に単独法になったため「あんまマッサー
ジ指圧師法」が制定されて、浪越徳治郎の経絡を押す母指圧が主流にな
りました。初期には視覚障害者を保護する目的で制定されましたが現在
では健常者も治療にあたっています。

整体は明治後期から大正にかけて「正体」「整體」など様々な表記がさ
れ昭和初期から「整体」という言葉が主流になりました。この頃、平賀
臨、玉井天碧、高橋迪雄、平田内蔵吉などの治療家が普及にあたり多く
の著書を出しました。

戦後は高橋迪雄の影響を受けた野口晴哉、橋本敬三などが活躍して、業
界では整体を統一する試みがなされましたが成功しませんでした。現在
でも整体の定義は曖昧で様々な治療法が乱立しています。中にはカイロ
プラクティックのテクニックを取り入れて整体と標榜しているところも
多くあります。

1991年、厚生省は「医業類似行為に対する取り扱いについて」の通達を
各都道府県庁に送り、「カイロプラクティック療法の医学的効果につい
ての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要である」と
の見解を示しました。

この通達は三浦幸雄研究グループの「脊椎原性疾患の施術に関する医学
的研究」をもとに禁忌対象疾患の認識、一部の危険な手技の禁止、適切
な医療受療の遅延防止、誇大広告の規制を促しました。

以降、今でもカイロプラクティックは免許制度(国家資格)がない医業
類似行為に分類されています。世界では80カ国以上の団体が加盟するWFC
(世界カイロプラクティック連合)が1988年に設立されたり、WHO(世界
保健機関)がカイロプラクティックを代替医療として認めたり、2005年
に「カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン」
を発行したりしています。

世界の中で大きく出遅れている日本の問題点は、カイロプラクティック
を標榜していてもWHO基準のカイロプラクティック学校で教授されている
ものとは全く異なる技術や理論を学び実践している「自称カイロプラク
ター」が非常に多いことです。

海外で正規なカイロプラクティックを取得した者の一部が、WHO基準以下
の学校やセミナーで「自称カイロプラクター」を送り出しているという
矛盾点もあります。またそのために他の医師や医業類似行為者の理解が
得られず、結果として厚生労働省もカイロプラクティックの免許制度を
保留したままです。

1995年にはアジアや日本で初めてのCCE(カイロプラクティック教育審議
会)アクレディテーションを取得したRMIT大学カイロプラクティック学
科日本校(現在の東京カレッジオブカイロプラクティック)が開校しま
した。

現在WFC(世界カイロプラクティック連合)日本代表団体である
JAC(一般社団法人日本カイロプラクターズ協会)が1998年に設立され
WHOのガイドラインの基準に沿った形でカイロプラクティックが法制化さ
れるよう活動しています。


2016年09月30日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。急行
が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。銚子で
2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。76歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1

2016年09月28日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊
重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革
開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にア
メリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2016年09月27日

◆北前船で裏日本が表だった

渡部 亮次郎



私の郷里(秋田県)には姓に越後谷、越中谷、越前谷、加賀谷、能登谷といった北陸を名乗るのが多い。播磨谷というのは瀬戸内海が先祖か。

若いとき地元の古老に尋ねたら「北前船の男衆(乗組員)が途中の寄港地・秋田の女にいかれて下船し、住み着いたのが子孫だ」とのことだった。

北前船(きたまえぶね)とは耳にした事はあるが、明治以降、全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、北前船は消滅していった、というもの。実感は無い。「ウィキ」に頼る。

<北前船は江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。

買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自身が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。

(太平洋側だと西風に吹かれてアメリカ大陸まで流される「難破」の危険があったが、日本海にはその危険は殆ど存在しなかった。西風はつねに陸側に吹く)。

西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。

この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。

この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。

これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。

また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。

さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。

前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船。

はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した。

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。

日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる。

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。

スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見方もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに鉄道の普及で水上輸送の意味がなくなって消滅した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鉄道が普及するまでは、東西文化の交流は北前船が担っていた。秋田の女にほだされて下船した男たちは学問の大切さも上方から持ってきた。

東北の名門校として知られる福島県立安積(あさか)高校だが、創立は明治17(1884)年。対する県立秋田高校の創立はそれより11年も前の1873(明治6)年。当に「北前船」のお陰で。いま「裏日本」とやや蔑視されている日本海側は昔は「表」だったのである。

それにしても近畿や北陸の男たちを魅了した昔の秋田女性のどんなところに魅力があったのか、失礼ながら今では確かめようがない。

とはいえ大阪と秋田の縁は未だに深く私の友人の一人も大阪の親戚を頼って就職したが、昔とは逆に自分が婿入りして生涯を全うした。       

2016年09月26日

◆月の沙漠は静岡の海岸?

渡部 亮次郎



月の沙漠(つきのさばく)は、日本の画家、詩人である加藤まさをの作品
の一つ。作曲家の佐々木すぐるによって曲を付けられ、童謡として有名に
なった。

大正から昭和初期に叙情的な挿絵画家として人気を博した加藤まさをが、
講談社発行の雑誌『少女倶楽部』1923年(大正12年)3月号に発表した、
詩と挿画からなる作品である。

これに、当時まだ若手の作曲家であった佐々木すぐるが曲を付けたこと
で、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。童謡の普及活動もしていた
佐々木すぐるは、自ら主催する普及のための講習会で同曲を用いた。

また佐々木は教育現場での音楽指導用の教本として「青い鳥楽譜」と呼ば
れる楽譜集を出版しており、童謡としての「月の沙漠」もその中に収めら
れている。

このような経緯から、当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927
年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で
録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。

その後も童謡として長く歌い継がれ、世代を超えて支持される歌の一つと
なっている。

「沙」の字について

この詩は「ラクダ」に乗った「王子様」と「お姫様」が月下の沙漠を往く
情景を描いており、異国を連想させる内容からか、また現在では「沙漠」
という表記が一般的ではないことからか、しばしば「砂漠」と誤記される
が[2]、題名、詩文中ともに一貫して「沙」の字が用いられている。この
字が用いられる理由として

「沙」には「すなはま」の意味がある。

学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた御宿海岸(千葉県)
の風景から発想した。

海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、
「砂漠」ではなく「沙漠」としている。

というものが良く知られている(生前の加藤の述懐による)。
また、モチーフとなった海岸は御宿ではなく、加藤の生地である静岡県志
太郡西益津村(現・藤枝市)近隣の海岸であると「加藤が公言した」とす
る資料もあるが、定かではない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月24日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんな中国が最近は
刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。おれは肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「おれは、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても
心当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だから、
と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外だ」と
怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」57
ページによると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006
年上半期だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06



2016年09月23日

◆缶詰はナポレオン命令

渡部 亮次郎



1795年フランス革命の最中に,ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走し
ていた。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し,一般市民に栄養不良に
よる病気が流行していた。

その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥,塩蔵および薫製によってなさ
れていたが,長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンで我慢しなければなら
なかったため,海軍部内には壊血病が蔓延していた。

ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには,栄養豊富で新
鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し,従来の方法によらない食
品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じた。

懸賞にこたえ、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能
な瓶詰めが発明され賞金1万2000フランを与えられた。

たが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった事から、1810年
にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器に食品
を入れる缶詰を発明した。これにより、食品を長期間保存・携行すること
が容易になった。

ただし、初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して
缶が破裂するという事故を起こした。これはのちに改良された。

また、1833年にはフランスのアンシルベールによって、缶のふたの回りを
はんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案された。その後、1860
年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場するようになった。

当初、缶切りは発明されず、開封は金鎚と鑿を用いる非常に手間のかかる
ものだった。戦場では缶を銃で撃って開けることもあったが、撃たれた衝
撃で中身が飛び散ってしまい使い物にならなくなることも多々あったという。

このため内容物が固形物に限られ、液状のドリンク類は入れられなかっ
た。缶切りが発明されると液体なども入れられるようになり、内容物のバ
リエーションが広がった。さらに缶切りが無くても開けられる様にプル
トップ(イージーオープン缶)が発明された。

缶詰は、初期には主に軍用食として活用された。特に、アメリカ合衆国の
南北戦争で多く利用された。のちに一般向けにも製造されるようになり、
現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されている。

現在作られている缶詰は日本で約800種類,世界では約1200種類といわれ
ている。原料の種類別では魚介類,果実類,野菜類,畜肉類に大別される。

加工調理方法の別では魚介類は水煮・塩水漬・油漬・味付け・みそ煮・蒲焼き・
薫製油漬・トマト漬・香辛料漬・その他の調味料漬が,果実類はシロップ漬・
水煮(固形詰)・ジャム・ゼリーなどがある。

果実類として大きな地位を占めるのは果汁である。野菜類としては料理の
原材料となる水煮が主体であるが,味付け,漬物などもある。畜肉類は水
煮,味付け,ハム,ベーコン,ソーセージや各種の調理食品がある。

特殊に入るものとしては,各種の調理食品,米飯類,ソース,めん類のか
け汁,しるこ,甘酒などの飲物などがある。食品缶詰の規定には当てはま
らないが,コーヒー,紅茶,緑茶の真空パックや不活性ガス(おもに窒素
ガス)を充てんし,香りや味を保持させるための缶詰もある。

ペット用のペットフード缶詰の生産も多い。そのほか食品ではないが培養
土に種子を入れ,開缶後水をやれば花の咲く缶詰,おもちゃの缶詰,下着
類の缶詰も作られている。

1812年にイギリスのドンキンにより缶詰製造は企業化されたが,その後イ
ギリス,アメリカなどで企業化が進んだ。1890年には自動製缶機械に一大
進歩をみたことにより,1901年に容器のみを作るアメリカン・キャン社が
設立され,缶詰製造業界に一紀元を画した。

製造量は南北戦争後の1870年で約4000万函といわれているが,第1次・第2
次世界大戦の軍用食としての需要の増大により,缶詰産業も各種の技術革
新とともに発展をとげた。

国別の生産量では,1970年ころまではアメリカが全世界の70〜75%を占め
ていたが,80年には世界の総生産量(約20億函)の40%を占めるだけとなった。

またイギリスが主要生産国から脱落し,発展途上国の進出が目だってきて
いる。この主な理由としては,作業員の人件費の高騰,原料確保の困難
(漁業の200カイリ問題など)などがあげられる。なお,アメリカに次ぐ生
産国はドイツ,フランス,イタリア,日本などの先進諸国である。

資料:世界大百科事典及び『ウィキペディア』 

2016年09月22日

◆変節漢小澤一郎の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10