2016年08月17日

◆私の「身辺雑記」(374)

平井 修一



■8月13日(土)、朝6:00は室温27度、涼しい、快晴、日射しは強いから
今日も猛暑になるのだろう。昨日夕方のお施餓鬼、墓参りはいささか熱中
症気味で、ふらふらした。室温30度ならクーラーをかけるべし、「だって
老人なんだもの」。みつお、キモ!

老人の自覚がない老人は多い、どころか99%はそうだ。老化とはどういう
ことか。

母を観察するに、直近の記憶力がゼロになる、無意識でアザをつくる(感
覚の衰え)、やたらと転倒する、食が極端に細る、季節や年月日にまった
く興味がなくなる、テレビも見ない、ほとんど寝ている、ときどき介護
サービス、時に入院、歩行困難で這いつくばる、トイレが不自由、やがて
寝たきりのおむつ、食は麦茶とスープぐらい、そして昇天。

これが老化の王道で、「元気、長生き、ポックリ」「ピンピンコロリ」は
まずない。母は95歳で大往生したが、最晩年の5年は意味があったのかど
うか。「母の抜け殻だなあ」(今ならゾンビ)と思っていたが、甲斐甲斐
しく、精いっぱい世話をした。夜の11時に体位を変える際、冷たい麦茶を
飲ませたら、「ああ、おいしい」、これが最後の言葉だった。

老人の自覚がない老人はやっかいだ。何回か転倒して初めて老人を自覚す
る。中には車で人を殺める老人もいる(70代が多い)。

このところカミサンの言動が急速に劣化してきた。情況観察力、想像力、
記憶力がかなり怪しい。彼女は来年秋に65歳でリタイアするつもりだが、
人の命を預かる看護師としてちょっと心配だし、車の運転が好きなのでか
なり心配だし、今朝、「今年の秋にリタイアした方がいい」とアドバイス
した。

ここ1週間ほどで、スマホを忘れる、今会話したのに同じことを聞く、小
生にメモで指示したことを忘れる、新聞を1Fに取りにいくついでにゴミを
出すのだが、普通ゴミしか持っていかず、さらに新聞を持ってくるのを忘
れた。

夏彦翁曰く「人はついぞ我が身は見えない」、カミサンは老化、劣化の自
覚がないから事件事故に遭うまでは「私は元気、正常、修一はアル中のバ
カ、分裂病予備軍」と思うだけだろう。

気づきが軽い代償ですめばいいが、孫を保育園に迎えに行くことが多いの
でとても心配だ。彼女は文字を読むのはメガネに頼るが、遠くを見るのは
不自由どころか全く平気で、その分、車のスピードを上げる。

リタイアさせて車の運転も卒業させ、彼女の希望通りに油絵創作と美術館
巡りの日々を送らせ、彼女の希望通りに小生が介護し看取る。そういう方
向へもっていくには娘二人の協力が欠かせないが、娘はカミサンとべった
りだからゴリゴリ野党である。カツヤ、シイ、ミズホの野合共闘、闇鍋の
ようなミックスジュース、多分「丁寧な議論」は無駄に終わりそうだ。

こういう時は一点突破で、革命、クーデター、騒乱、反乱、暴動、戦争の
出番である。プーチン、エルドアン流だ。習近平もそうしたいが、軍部は
言うことを聞かないから、かなり鬱積していそうだ。

小生の得意技は発狂を装うことで、普段から小生は発狂寸前と見られてい
るから、皆、わっと逃げ出す。父の3回忌の時は見事に効いて、十年間ほ
どは親戚は寄り付かなくなったっけ。この禁じ手で「カミサン命」の介護
道に邁進しよう。

【今朝の産経から】1面「慰安婦財団 10億円月内拠出へ 象撤去前提と
せず 『拙速』世論の反発必至」。産経が露骨に煽っている、大いに結構。

1面産経抄「『人(ひと)以(もっ)て恥なかるべからず』。中国・戦国
時代に活躍した孟子は、人は恥を知らなければならないと説いた。

「肝心な時に公船はどこに行った」「日本の実効支配を証明したことにな
る」。中国のインターネット上では、批判の書き込みが相次いだ。中国の
ネット利用者たちも、示威行動はとっても自国民の保護には役立たずだっ
た公船のあり方が恥ずかしかったのか。

孟子は「力を以て仁を仮(か)る者は覇たり」とも言っている。国際法に
のっとらず、力による現状変更を目指す中国のやり方は、王道ではなく覇
道である」。

覇道かつ邪道だな。みっともない。

2面「(月末の)金曜午後3時終業→さあ旅行だ買い物だ 消費喚起へプレ
ミアムフライデー 政府・経済界検討」。飲み屋に行く人が旅行に行くだ
けで、パイは増えないような・・・企業がポチ袋をくれたらいい。

2面「中国、G20『南シナ海隠し』経済のみ討議 各国に要請」。みっとも
ない。

3面、渡部昇一氏「典範改正は危険 摂政が最善」、曰く「ご高齢になら
れた天皇陛下のお体のご負担軽減の問題、皇太子さまへのご公務の継承の
問題は、皇室典範を改正しなくとも、摂政を置けばすべてうまくいく。あ
えて問題を複雑にする必要はないのだ」。正論だ。

6面「英原発建設参加の中国企業 過去に米でスパイ容疑 英紙報道」。
みっともない。

22面「小池知事 五輪組織委にメス 改革本部来月稼働「透明化へ、不正
調査」。大山鳴動してネズミは何匹か・・・

■8月14日(日)、朝6:00は室温27度、涼しい、快晴、昼前には猛暑にな
り、小生はフラフラしながらN母子とカミサンの昼食ために和風焼うどん
を作り、クーラーのPC部屋へ避難した。散歩は無理だ。布団に寝っ転がり
ながら新聞を読む(上から吊るして読めるようにしてある)。

【今朝の産経から】1面「韓国議員団 あす竹島へ 慰安婦10億円拠出の
合意直後」。破談にすべし。

2面「RIO 2016 襲撃・盗難やまず」。ドゥテルテ流でやるしかなさそう
な・・・

5面「クリントン夫妻 昨年の年収11億円『腐敗した秘密主義者』元選挙
参謀モリス氏が批判」、曰く「将来の選挙活動のために資金集めをしてき
たのが、金をもうけるために大統領を目指すようになってしまった。夫婦
は講演会などで2億2000万ドルを稼いだが、夫婦の口利きを期待されてい
る点で賄賂といえる。私が変ったのでなく、彼らが変ったのだ」。キツー
イ一発。

5面、古森記者「尖閣事態 日本の国家危機」、曰く「8月に入っての尖閣
諸島(沖縄県石垣市)海域での中国の威圧行動の急拡大は、日本の安全保
障や日米同盟の今後になにを意味するのか。米国側で中国の海洋戦略を一
貫して研究する官民4人の専門家に尋ねてみた・・・

その(中共の)攻撃方法は人民解放軍指揮下の「漁船」民兵を利用し、ヘ
リコプターや潜水艦を使っての尖閣奇襲上陸の見通しが高い。中国軍が最
近、ウクライナなどから調達した大型ホーバークラフトの使用もありうる
という。

「中国は今回の拡大作戦で尖閣奪取の軍事能力を高め、日本の防衛の能力
や意思を探っている。日本の抑止が弱いとなれば、必ず攻撃をかけてく
る」フィッシャー氏はその上で中国の攻撃を抑止するための日本側の先島
諸島のミサイル強化や沖縄などのオスプレイの増強を訴えるのだった。

これら4人に共通するのは現在の尖閣の事態を日本の国家危機だとみる認
識だともいえた。当の日本の反応はなんと異なることかと痛感した」。

平和呆けはまだしも中共の狗が多すぎる。

8−9面鼎談「ソ連崩壊25年 世界はどう変わったか」。米国は絶対的な
スーパーパワーではなくなった、タガが緩んで、中共、ロシア、ISなどの
秩序破壊者が増えている、云々。冷戦という秩序が壊れ、ますます世界は
揺れていくだろう。油断大敵、備えよ、警戒せよ。

22面読書ヒトラー「彼の演説と交渉の才にドイツ国民は魅入られ、チェン
バレンはだまされた」。騙す奴、騙される奴、世界は腹黒い。

夕方には体調が回復して、8人で賑やかにお盆の晩餐会。小生はお澄まし
と豚ヒレのシャリアピンソース。カミサンはカボチャなどの煮物、鶏むね
肉とズッキーニの味噌マヨ炒め、ナス煮の冷やし、サラダ、浅漬けなど。
それと「銀の皿」の握り。大好評。

たまたま心技体が整ったので一気に後片付けをして、「米研ぎ棒」を作っ
た。水仕事で右手の親指と人差し指が傷んで、あれこれ治療したが、全然
ダメ。それなら米を研ぎながら右手も研ぐことになる米研ぎから解放され
なくてはならない、という情況分析によるオペレーションだ。(大袈裟!)

完成品は中華料理でフライパンを洗う「竹ささら」の大型版のよう。翌朝
の米2合を研いでみたが、すこぶるGOODだった。カミサンも大いに面白
がった(敬服したのではなくて、単に「オモシロイ奴、ま銅メダル」と。
1週間前にクーラー部屋LDK20畳のドア(孫が開けっ放しにする)が自然に
閉まる工作をしたときは、「なんと器用な奴、金メダル」と大いに敬服し
ていたが)。

家族を楽しませるのは男の義務だ。旨いものを作り、ときどき「オモシロ
イ奴」、ごくたまに発狂・・・発狂はまずいが、噴火しないと身がもたな
いこともあるので、堪忍してくれと心では謝っているのだ、男の鬱屈、鬱
懐、積年の忸怩たる思い、思うように動かなくなった体の哀しさ・・・
まったく「男はつらいよ」。

■8月15日(月)、終戦記念日、近年は「終戦の日」と言うようになった。
皇居、靖国遥拝、弥栄を願い、英霊に謝意を伝えた。朝6:00は室温27
度、涼しい、晴/曇。

今朝の体調はまあいい。PET、缶、ビンのゴミ出し、さらに自転車で段
ボール回収所へ。粗大ごみのルールを知らないか、無視しているのは支那
人か半島人だろう。異民族との共生は難しい・・・

米国はWASPがやがてはマイノリティになる。白黒の殺し合い、英語が分か
らないヒスパニック、クスリ、自殺、肥満、一国平和主義の引きこも
り・・・米国はどこへ行くのか。モラル、ルール、伝統が消えていけば、
天国ではなく地獄、カオス、ソドム&ゴモラへの道だろう。50年後には老
大国になっているかもしれない。

日本は・・・悠仁(ひさひと)様が天子になられている、これはまず確か
だろう。「国体は確かだろう」と、先が読めるのはいいことである。

4年前に亡くなった母宛に「角川全国俳句大賞作品募集」の案内が届い
た。応募には2000〜3000円かかる。角川文化振興財団の大事な米櫃なのだ
ろう。

【今朝の産経から】1面「歴史戦 1937年、河北省で司教殺害『正定事
件』『慰安婦拒否したため』(との)史料なし 戦後『日本軍が200人要
求』など報道」。プロパガンダは「証拠より論」、声の大きい方が勝ち
だ。害務省では勝てやしない。

1面産経抄は硫黄島からの手紙の件。硫黄島の戦い(いおうとうのたたか
い、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima)、日本はいおうとう、
米国はいおうじまと呼んだ。

<硫黄島の呼称は、戦前は島民と主に陸軍の間では「いおうとう」、海軍
の一部の間と明治時代作成の海図では「いおうじま」としていた。米国で
はこの海図の表記に従い「Iwo Jima(イオージマ)」とし、終戦後、同島
は米軍の統治下にあったことから「Iwo Jima」と呼称されていた。

国土地理院では、2007年9月発行の地形図から、ついで海上保安庁の発行
する海図でも「いおうとう」が正式な表記となっている>(ウィキ)

現在は海上自衛隊が管理する硫黄島航空基地(いおうとうこうくうきち)
があるが、米軍との訓練もあるためか、基地ではいおうとう、いおうじま
の二つが使われている。敵意と憎悪の象徴だった大激戦地が、今では友好
と同盟の象徴になっている。

米国は日本を叩く必要はなかったのに・・・叩かなかったらアジアは日本
が覇権を握ると危惧したのだろうか。

<「ルーズベルトは狂気の男」フーバー元大統領が批判

【産経2011.12.7ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米
大統領(1874〜1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾
を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、
1882〜1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争
に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメ
モなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らか
にした>

アカのキ○ガイのために世界中がひどい目に遭った。硫黄島の遺骨収容は
遅々として進まず、戦後71年となった今も約1万1000人分が見つかってい
ないという。情ないことだ。

2面主張「終戦の日 先人への礼欠かぬ和解を『譲れぬ価値』再確認する
時だ」、小見出しは「胸張り御霊に語れるか」「歴史戦の攻撃はやまぬ」。

5面「テロ容疑者は『匿名』? 欧州メディアで議論広がる」、曰く
「(フランスでは)昨秋のパリ同時多発テロなど過去1年半に大規模テロ
が3件発生。7月には教会襲撃も起きた。実名や写真入りで容疑者を報じる
ことで「広く知られたい」(専門家)との容疑者の欲求が満たされ、模倣
を促すとの見方は根強い」。

研究課題だ。

6面、千野境子氏「父の功罪重くケイコ氏の挑戦は続く」。応援団だな。

7面正論、曽野綾子氏「日本人の美徳の崩れが恐ろしい」、曰く「(企業
の相次ぐ不祥事などの当事者は)日本という国を詐欺の容疑で売った新し
い『売国奴』にひとしいのである」。このところみっともない不祥事が多
すぎる。

23面「熊本地震 遺体は不明大学生 両親ら独自に捜査続け 母『温かく
迎えてあげたい』」。まったくご両親の執念が実った。大学生の魂が安か
らんことを。父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深し。感動する。
(2016/8/15)

◆14歳までの訛は抜けない

渡部 亮次郎



記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は、私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は説明不足を説明するのに東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れするが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。ここでは東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。 「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。

2016年08月16日

◆ゴールデンウィークへの誤解

渡部 亮次郎 


町医者の看板なんかに、休診日は「祝祭日」と書いてあるのが目立つのだ
が、「祭日」とは戦前の話であり、今は国民と祭日は無関係になったの
だ。「国民の祝日」しかない。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、祝祭日(しゅくさいじつ)
とは、第2次世界大戦(大東亜戦争)以前の日本において行われていた祝
日と大祭日の総称で、正式には祝日大祭日と言った。

明治時代には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344
号)によって、大正時代には「休日ニ關スル件」(大正元年勅令第19号)
によって、昭和時代には「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)に
よって定められていた。

1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)によって祭日は
全て廃止され、国民の祝日がそれに代わった。現行の国民の祝日のことを
「祝祭日」と呼ぶのは誤用である。つまり「国民の祝日」はあるが「祭
日」は存在しない。

むかしの祝祭日一覧。
1948年の祝日法制定時点までの祝祭日を以下に示す。
「祝日」
四方拝(新年) - 1月1日
紀元節 - 2月11日
天長節 - 4月29日
明治節(明治時代には天長節) - 11月3日
新年宴会 - 1月5日
このうち、新年宴会を除く4つを四大節(しだいせつ)という。
「大祭日」にはどんなものがあったのか。
元始祭 -   1月3日
春季皇霊祭 - 春分日(3月21日ごろ)
神武天皇祭 - 4月3日
秋季皇霊祭 - 秋分日(9月23日ごろ)
神嘗祭 -   10月17日
新嘗祭 -   11月23日
大正天皇祭 - 12月25日
今の法律では春分の日と秋分の日しか残っていない。昭和11年1月生まれ
の私には春季皇霊祭と秋季皇霊祭の言葉が耳に残っている。こうした記憶
を基に考えると、祝日をずいぶん増やしたものだなぁと思う。
NHKのアナウンサーは、いわゆる団塊の世代がぼちぼち定年退職して
「ラジオ深夜便」に移行しているが、彼らとて「ゴールデンウィーク」が
昔からあったようなことをのたまうからやりきれない。

調べてみると憲法記念日(5月3日)もこどもの日(5日)も昭和24年(1949
年}から始まった。当時の天皇誕生日(4月29)にメーデー(5月1日)を
休日扱いに無理にしてみてもゴールデンにはならなかった。まだ土曜日は
「半ドン」で休日では無かったからだ。

その後、5月4日を無理無理、「国民の休日」なんて、休みたいための国民
の祝日にしたり、昭和天皇誕生日を昭和の日としてのこしたりしてとうと
うゴールデンウィークに仕立て上げたのは平成に入ってからだ。

その後の経過と現状。

祝日法改正「ハッピーマンデー」〜平成12年から3連休増加〜

成人の日(1月15日)と体育の日(10月10日)をそれぞれ各月の第2月曜
日にする国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(通称・ハッピー
マンデー法)が、平成10年10月21日に公布され、平成12年(2,000年)1
月1日から施行されました。

改正祝日法(祝日3連休化法)と改正老人福祉法〜平成15年から3連休増加〜

海の日(7月20日)と敬老の日(9月15日)をそれぞれ各月の第3月曜日に
する国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律が、平成13年6月15日
に可決成立、同6月22日官報で発表されました。

4月29日の「みどりの日」を「昭和の日」に、5月4日の「国民の休日」
を「みどりの日」の祝日に変更。平成17年5月13日に可決成立。同5月20日
官報で発表されました。平成19(2007)年から施行。

祝日
 1月 1日 元日  
 1月 第2月曜日 成人の日 満20才になった青年男女を励まし祝福する日
 2月11日 建国記念の日 国を記念する日 紀元節(1966年制定)
 3月232日頃 春分の日 注)暦により変動する。
 4月29日 みどりの日
  ↓
昭和の日(2007年から。昭和天皇の誕生日)
 5月3日 憲法記念日 日本国憲法が施行記念日(1947年)
 5月 4日  みどりの日2007年から。 この日は祝日でなく休日で、日
曜日の場合振替はされませんでしたが。2007年から。祝日
 となりました。
 5月 5日 こどもの日  
 7月 第3月曜日 海の日 海や自然に感謝する日(1996年制定)
平成15年より第3月曜日になりました
 9月 第3月曜日 敬老の日 老人を敬う祝日(1966年制定)
  平成15年より第3月曜日になりました
 9月23日頃 秋分の日 注)暦により変動する。
 10月 第2月曜日 体育の日 東京オリンピック(1964)開会の記念日
(1966年制定)
 11月 3日 文化の日 新憲法公布を記念し、日本の平和と文化の  
          発展を祝う日
  11月23日 勤労感謝の日 勤労を尊び、生産を祝い、国民が互に感謝
しあう日
12月23日 天皇誕生日 現在の天皇、今上天皇(きんじょうてんのう) の誕
生日 (了)2006.04.01

2016年08月15日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の
狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠
“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が
2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だ
が、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認
識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁
が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていま
した。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、
認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任
にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですか
ら、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっております
が、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについて
はあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非
は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう
戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりに
それを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう
問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって
戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんであ
りましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれ
は別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。
 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、
靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感
じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していた
とは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像すること
すら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれ
た。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用し
たもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法
律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所
条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。
日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中
国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の
満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違
う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、
1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて
殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた
後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求し
てきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。
国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に
基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言わ
れる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけな
い。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そ
こに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯
のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカの
マッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太
子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによ
る死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、
我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいか
に変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究
したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。
現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10

2016年08月14日

◆小畑実 (歌手)は北朝鮮出身

渡部 亮次郎



NHKがラヂオ深夜便で戦中・戦後の人気歌手だった小畑実を特集したえい
た。そこで以下、ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
をのぞいてみた。

<小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮
平壌出身の歌手である。本名は、康永普i강영철 / カン・ヨンチョル)
1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎(戦後北に帰国後、消
息不明)に憧れて日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を
学び卒業後、作曲家江口夜詩の門下となる。

このころ、秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と
秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子小畑達夫はいわゆる共
産党リンチ事件で殺されている。

デビューは1941(昭和16)年2月、ポリドールレコードからで『成吉思
汗』であった。ただし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。

のちにビクターに移籍。1942(昭和17)年の『湯島の白梅』が出世作とな
る。翌年に『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴
びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク・キング・コロムビア・古巣のビクターと所属会社を転々としな
がらも、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』・『薔薇を召しませ』・
『アメリカ通いの白い船』・『長崎のザボン売り』・『ロンドンの街角
で』・『高原の駅よさようなら』などのヒット曲を飛ばした。

特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチック
な旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、
彼の歌唱の特徴が生かされた傑作である。

NHK紅白歌合戦に3回出場している。

1957(昭和32)年、第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期実
業界に移り、歌謡界から遠ざかっていたが、1969(昭和44)年頃、折から
の懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰。韓国にもしばしば渡
り、本名で活躍する。

1977(昭和52)年には『湯の町しぐれ』をヒットさせ気を吐いた。その
後、ステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にあたるなど精力的に活動
していた矢先、千葉県野田市のゴルフ場でプレイ中に倒れ、急性心不全の
ため55歳で亡くなる。


2016年08月13日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を
殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身し
たみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 
2007.01.18

2016年08月11日

◆将来の近きライバルと予想

渡部 亮次郎



以下は初の訪中から帰国直後、あるミニコミ紙(発行:昭和47年10月28日)
に執筆したものである。書棚の中から30余年ぶりに取り出してみて「中国
は将来の"近きライバル“」と既に分析していたのを発見した。今月29日が
日中国交正常化への共同声明の調印日である。わたしは当時NHKを代表し
て同行した。以下、同行記である。

『百聞は一見に如かず』と言うが、『群盲、象を撫でる』ともいう。
「中国見たまま」といったところで滞在期間がわずか6日間。目的が田中
首相の「同行」であってみれば私の「一見」が「百聞」以上のものだとは
いえない。

まして、同行記者80人の一員として、ぞろぞろ田中首相に従って歩いただ
けであってみれば「象を撫でない盲」にも劣る「訪中記」である。

しかも共産国ならどこでもそうであるように、猛烈な取材規制を受けなが
らの取材だったのであるから、お恥しい次第ではある。

端的にいって、田中訪中同行記者について中国側が初め言ってきたのは60
人。このうち首脳に3メートルまで近づける「近距離」の記者、カメラ記
者、 TVカメラマン、政府公式カメラマン、TV中継カメラマンは各2人で
計10人。それ以外(大部分)は会談場の玄関口でシャットアウトされる
「遠距離組」と言うものだった。

時として、いま西山事件【注】にもある如き方法さえ用いて、嘗て大平外
相をして「人の腹の中に手を突っ込む奴ら」と言わしめたほどの「マスコ
ミ・アニマル」である当方としては大いなる不満を表明し、外務省情報文
化局を通じて規制緩和を要求した。

その結果、「推測記事がある程度、書かれるのは仕方がない。同行記者数
は20人増の80人とする」という最終回答があっただけで、“規制“は緩ま
なかった。

パズルを解く記者たち

共産国のことだから、さらに「公共建造物の撮影、人民へのインタ
ビュー、家庭訪問、指定区域以外への外出について事前許可なくして行っ
てはならない」のは当然であった。

帰国後、週刊誌が「林彪事件や台湾問題について人民の反応も取材でき
なくて、何が同行記者か」と叩かれたが、事情も知らずして、80人の怠け
者が北京や上海をブラブラしただけと言う論評にはハラが立った。

正直な話「テメエ、やってみろよ」と言いたい。尤も例によって中国礼賛
が先に立って、規制を受けた取材であることなど、少しも書かなかった方
にも罪がある。

このように、田中訪中同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の3重苦
に悩まされての取材だったが、中国の現状を見れば、こうした規制も止む
を得ざる措置だった、と言えなくもない。

テレビは白黒方式!のが全土に10万台(公式)しかない。7,500人に1台の
割合。1人民公社に1台あるかないか、というのが現状である。しかも放
送時間は夜7時から3時間だけ。

今日の事象は翌日の夜でなければ放送されない。中国側も「歴史の新しい
始まり」と高く評価した日中共同声明の調印式という「大ニュース」でさ
え、たしか翌日の夜まで放送されなかったはずだ。

中国人にとって、日本で言えば天皇以上である毛沢東主席と田中首相との
”世紀の会見“でさえ翌28日の夜7時にならなければ放送されなかったの
だから。

ラジオはかなりある。だが日本のように実況放送されてない。今日のニュ
ースを今日中に伝える事はない。新聞はどうか。まず各戸配達は無い。昼
ごろスタンドに買いに行けば朝刊(人民日報)が手に入る。(だが面白い
記事などどこにも無い)

革命(建国)以来23年経ってこの有様であるから,以前はもっと低水準だっ
たと思われる。その間に人民と言う名の大衆は「ニュースとは翌日になら
なければ分からぬもの」と思い込むようになった。

だからニュースに餓えるということも無くなったのではなかろうか。そう
いうふうにまた指導者たちも思い込んでいるから、日本から80人もの記者
が来ることさえ驚きなら、相手のハラに手を突っ込むほど、手を変え品を
かえて接近取材をするなんて、思いもよらないことなのである。

万里の長城で、この規制を乱し「総理!そこで止まって、こっちを向いて
笑って」とカメラマンたちが田中首相に注文をつけるのを見ていた中国人
たちは「日本のマスコミというのは政治家を"指導“するのか」と驚く、
というよりもあきれていた。

田中、周恩来による首脳会談が4回、大平、姫鵬飛による外相会談が3回。
特別番組として田中の毛沢東"謁見”があった。しかしこれらの内容は誰
1人新聞記者が見ても聞いてもいたわけじゃない。

例外を除いては「発表することは何もありません」という二階堂官房長官
の"発表"をもとに、ああでもないこうでもないと組み立てた"推理小説“
である。

とはいっても前もって相当に勉強はして行ったから、発表の後交わされる
二階堂氏とのやり取りから、さながらクロスワード・パズルを解くように
会談内容を組み立てて行ったから”小説"とも言えない。

4回に及んだ首脳会談は、その都度、何を議題にしたのかは、もちろんい
まだに明らかにされていない。だから現地にいるときも、しつこく聞き出
すわけだが、首相をして「この人はなんでもしゃべる」と言わせた二階堂
氏も「なんとも申し上げられません」という返事を繰り返すのみ。

二階堂氏の顔色や目つきや、口許を見てのパズル解きであった。東京にい
るときなら、会見の後の夜討ち朝駆けの奇襲取材はお手の物なのだが、北
京では、二階堂氏は会見が終わるや否や雲を霞と迎賓館に閉じこもってし
まう。

仮に迎賓館に追いかけようにもタクシーが無い(制度としてない)し、お
っかけたところで門前の衛兵に阻止されてお終い。それでは電話でと言っ
ても、電話番号は公開されていない。

諦めず、夜の公式宴会で近付こうとしても不可能。テレビでご覧の通り、
丸テーブルに座ったまま誰も動けないからこれまた不可能。仮に立って行
ったって、3メートル以上は近づけない。

日本が得た成果は?

こんな状態であるから、例えば共同声明の調印式が予定より15分も遅れた
理由が帰国まで分からなかった。日本と現場中継のマイクロ回線が繋がっ
ているから、東京から、どうしたんだと、やいのやいのと言ってくるがど
こにも聞きようが無い。

やっと、上海から帰国の途についた機中で田中首相から「中国側が3軍へ
の了解連絡に手間取ったため」と説明されてやっと分かった(政府が軍に
了解をとる、共産主義国家ならではだ)。(再掲)



2016年08月10日

◆知られざる朝鮮半島における日本人の運命

渡部 亮次郎



平成27年6月25日(木)

先日、西村に伝えておきたいことがあると、青森に先祖代々住んでおられ
る方が来られた。

その伝えておきたいこととは、昭和20年8月15日前後に朝鮮半島にいた日
本人の運命である。

この青森の方の奥さんのお母さん(故人)は、

我が国の敗戦後に朝鮮半島から引き上げてきた方で、その状況を次のよう
に語っていた。

敗戦後、満州から歩いて朝鮮に入ると、朝鮮人の兵隊(武器を持った人)
に、婦女子だけ集められて収容所に入れられた。

その収容所には240人がいた。
 
その240人のうち、日本に帰れたのは80人だけで、残りの160人は帰ってい
ない。

朝鮮人1000円を渡せば日本に行く船に乗れると言われて、1000円を渡して
収容所を出ていった人は、1人も帰っていない。

彼女らは、もんぺの中に現金を縫い込んで満州から逃れてきていた。

アメリカ在住のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんは、11歳の時、朝鮮半
島の最北部にある羅南から日本に引き揚げた。
 
その体験を赤裸々に
「日本人少女ヨーコの戦争体験記 竹林はるか遠く」(ハート出版)
という本に著してアメリカで出版した。
 
それは、「大戦末期のある夜、小学生擁子(11歳)は、『ソ連兵がやって
くる』とたたき起こされ、母と姉・好(16歳)との決死の朝鮮半島逃避行
が始まる。

欠乏する食料、同胞が倒れゆく中、抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦の
ない襲撃、民間人の心ない暴行をかいくぐり、祖国日本をめざす。日本人
引き揚げ者が味わった壮絶な体験記である。

この青森の方の話とヨーコ・カワシマさんの著書に接して、私(西村)
は、平成26年5月、ストックフォルムに於ける日朝局長級会談での合意文
書の中に、朝鮮半島からの日本人引き上げ者が体験した知られざる運命に
符合する文言が入っているのに気付いた。
 
それは、「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、
残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む総
ての日本人に関する調査」という文言中の
 
「1945年前後に、北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本
人」である。

日本側が、日本人引き揚げ者の実体解明に関する明確な意欲を以て、この
文言を使ったのかは不明ながら、北朝鮮側が、この文言を受け入れた動機
は明確である。
 
それは「遺骨ビジネス」だ。
 
即ち、北朝鮮は、
日本人の遺骨一体に対して金○○円を受け取るならば、膨大な額の外貨を日
本から獲得できると判断したのである。

即ち、膨大な人数の日本人が、終戦後の引き上げ途上で殺されて北朝鮮内
に埋められているということだ。
 
北朝鮮は、この事実を日本から金を引くために、ストックフォルムで先行
自白(語るに落ちる)したのだ。

また韓国域内のことであるが、

私の友人のお父さんは、戦前、韓国域内で教員をしており、戦後引き上げ
てきた。

後年、韓国の教え子達が同窓会を開いてくれた。

このような良好な環境のなかにあっても韓国域内から引き上げるときは、
 愛読書の森信三著「修身教授録」しか持参できなかった。

他の総ての財産を放棄して引き上げてきたのである。

また、私は、北朝鮮域内のように抗日パルチザンからの攻撃はなかったと
はいえ、
韓国域内から日本に引き揚げる前に、目の前で父親が金槌で殴り殺される
経験をした人を知っている。

以上のように、朝鮮半島からの日本人引き揚げ者には、苛酷な運命が待ち
受けていた。

しかし、その全容が明らかにされているシベリア抑留者と比べて、何故、
朝鮮半島からの引き揚げ者の運命は蓋をされたように知られていないのだ
ろうか。

この疑問を解明する鍵は、
 
我が国を軍事占領した連合軍総司令部(GHQ)が、戦後直ちに実施した
言論の検閲である。
GHQの検閲事項の第8項は、「朝鮮人への批判」を禁じているのだ。
これが、現在に至るも、朝鮮半島の日本人が如何なる境遇におかれ、

一体何万人が殺されたのか一切蓋をされて伝わらない理由である。

現在の韓国の大統領は、就任以来、朝から晩まで日本を非難してきた。そ
して、「加害者と被害者の関係は、千年経っても変わらない」と化け猫の
怨みのようなことを言っている。

従って、日本は、こういう日本非難を聞き流さず、朝鮮半島に於ける知ら
れざる日本人同胞の悲惨な運命についての関心を喚起し、今こそ、その歴
史の実相を解明しなければならない。


◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 510」

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タウンゼントの指摘から、現在の“親中派”と言われる人々からの情報が如
何に偏っているかが判ろうというものである。とりわけ支那大陸に駐在し
ているわが国のメディア情報は、相当偏向していると見て間違いあるまい。

以前、日経新聞記者が中国当局に拘束され、その後反中的?な産経新聞社
が追放されたことがあったが、同様なことが韓国でも先日起きた。セウォ
ル号沈没事故の際に朴大統領の対応を非難した韓国紙情報を引用した加藤
産経支局長拘留事件である。

この時は産経が韓国政府に抗議したのは当然だとしても、わが国のメディ
アが一致団結してこの不法行為に猛抗議したとは寡聞にして聞かない。

タウンゼントが指摘したように、商売優先の新聞社などは、それぞれの利
益を最優先しているのであって、「言論の自由」などと言う大義などはど
こかに吹き飛び、己の利益追求に目がくらんだのだろう。

尤もこれらの“誤情報”というより『捏造記事』で一儲けしたのは朝日新聞
だった。原稿をそろえて提供されて、如何にも自分が取材したかのように
装い、自国?の軍人らを誹謗中傷して恥じなかったが、その後も懲りずに
“妄言老人”の言を信じて?国民をだまし続けた。

このでたらめ記事は、今頃になって真相が暴かれたが、お蔭で我が国の国
際的信用は修復不可能な程大きく傷ついた。その上裏取りもせずに日本国
の文部省が自国の教科書に採用したのだから決定的だともいえた。

情報活動における恐ろしい落とし穴がそこに在る。しかしながらその真実
は、一般人が個別に確認することは不可能に近いから一様に騙される。

その昔「大本営発表」がその典型だとしてメディアによく取り上げられた
ことがあったが、今や“そのメディア”が恥じることなく「大本営発表」を
垂れ流しているのである。

混乱している沖縄問題等はその典型であろう。タウンゼントの指摘に戻ろう。

≪(承前)彼らの情報源は怪しいものがあり、関連情報が故意に削除され
ているから、短期間の滞在では情報の信憑性を確かめる手立てはない。例
えば、誰でもいいが外国のジャーナリストが来ると、すかさず中国政府の
高官と会見の場を設けられる。こういう待遇を受けて舞い上がらない人は
いない。そこですっかり手玉に取られ、高官の言うとおりに、盗賊は根絶
やしにしただの、共産主義は鎮圧しただの、公立学校制度が新しく導入さ
れただの、あと少しで中国の統一が成し遂げられるなど、と手帳に書き込
むのであるが、前から中国にいる人なら、こんな話は「法螺話」としか見
ていない。真顔でこういう法螺を吹いて相手を納得させてしまうのが典型
的な中国人役人である。大都会に多いので注意されたい≫

この手の煽てに乗って「中国にはハエ一匹いない」などとほらを吹いた
“有識者”もいた。タウンゼントのこれらの指摘に従えば、ストレイトの対
日情報が果たして全面的に信用出来るものだったのかどうか?と言う疑問
がわく。タウンゼントは続ける。

≪また、ジャーナリストは中国に来ると、まずアメリカのミッションス
クールなどの慈善団体を巡回訪問し学長インタヴューを行う。こういう施
設は有名だし、喜んでいろいろ話してくれるからである。ところが、こう
いうところで仕入れた情報は、真実ではないとまでは言わないが、誤解を
招く元になりがちである。いずれの団体にもその長たるものはそれなりの
職務というものがある。慈善団体ならばその慈善事業が遅々として進まな
いと取られるようなことは公表できない。地域住民の協力なくしては慈善
事業どころではないから、彼らとのいざこざを暴露するわけにはいかな
い。長とはそうしたものだ。話が弾んだとしても、話すことより隠してい
ることのほうが多いのである≫

この指摘は現在にも適用できる、と言うよりも当時から全く変わっていな
いというべきだろう。いや大戦後、国民党を排除して共産国家になり、専
制独裁主義が徹底している現在の方が、より悪質になっていると考えた方
がいい。更にこう続く。

≪正しい中国情報が伝わらない理由をいくつか述べたが、これだけではま
だまだ危ないと思っている連中が山ほどいる。作家、新聞社、出版社であ
る、こういう連中は寄ってたかって「与太記事」をでっち上げ、いい加減
な本を出し、さも「建設的」であるかのような顔をしている。

つまり、何か都合の悪い事件なり事故なりが起こると「一時的な出来事で
ある」と言い募ったり、「正義の味方が現れ事態を解決する」と抗弁した
りするのであるが、そのようなことは中国に関する限りまずもってありえ
ぬことである。

 新聞や雑誌が経済、政治、道徳などさまざまな話題を提供するのは結構
なことだが、その中で何が有害かといって「進歩的」と称するものほど不
愉快で有害なものはない。

断言するが、本書は決して「進歩的」ではない。本書は真実を知りたい人
のために書いたのであって、面白おかしく生きようとしている人向きに書
いたのではない。ある特定の主義主張のためでもなく、何かを論争するつ
もりもないが、結論めいたことをいえば、「不干渉も悪いものではない」
ということになる。もし、本書に書いてあるさまざまな真実を読まれて、
それでも中国に甘い幻想を抱かれても、それはそれで結構である。

逆に、もしそうならなかったら、それもまた結構なことである。別に本書
は中国の窮状を救うための本ではないのである。

ありのままの中国を紹介するのが本書の主眼である。外国人の多く住む洋
式化した繁華街からはるか離れた僻地の話がほとんどである。こういう話
だからこそ、本当の中国人の様子が浮かび上がってくるのである。

もちろん、上海や天津などの西洋化した港町に中国人は住んではいるか、
彼らは中国人としては例外中の例外である。また外国人が警備する租界が
沿岸にあるが、そういう地区に住んだことのない人の苦労話やら受難の
数々も収めてある≫

タウンゼントに全く同感である。我が国はじめ、欧米諸国が伝える現在の
中国情報も、その殆どが共産党政府による「提供情報」で、登場人物も諸
悪の根源たる“大物”であり、13億人民は政府から情報を拒絶されているか
ら、せいぜいインターネットで知るだけである。その点から見てもタウン
ゼントの指摘は実に鋭いと思う。(元空将)


2016年08月09日

◆佃煮にするほどある

渡部 亮次郎



佃煮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イカナゴの佃煮。佃煮(つくだに)とは、海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮
付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻
類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたもの
をこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にす
る。ご飯と一緒に食べると美味とされる。


歴史 [編集] 佃煮の由来 [編集]
ご飯のおかずとして載せられたイカナゴ佃煮江戸時代、徳川家康は名主・
森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を
江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて
住まわせた(東京都中央区佃島[1])[2][3][4]。佃島の漁民は悪天候時の
食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮
詰めて常備菜・保存食としていた[2][5]。雑魚がたくさん獲れると、佃煮
を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の
安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産
物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる[6][5][4]。

なお、以上の説に対しては異説もある。

1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説[7]。
1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説[7]。
日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説[7]。
大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では
雑魚を煮詰めたものを供えていた(?油煮説と塩煮説がある)[2]。このこ
とから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由
来するという説[7]。
1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の
佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮
製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士
は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり
日常食となっていった。

現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により
販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった[8]。

各地の産地 [編集]今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油
の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となる
など佃煮産業が盛んである。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年
(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡と
なった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31
年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された
[9][10]。焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製
品が製造販売されている。

製法 [編集]
昆布の佃煮。現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は
以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤
などが加えられていることがある。

本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない
辛口のものが安心で重宝された。現在も数件だが、職人の技により手造り
の旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。

主な材料 [編集]魚類
穴子
シラウオ
イカナゴ
ウナギ
コイ
フナ
ヤツメウナギ(乾物)
貝類
アサリ
ハマグリ
シジミ
カキ
海藻類
昆布
海苔
その他
オキアミ
イナゴ
ざざむし
干し椎茸
カイコ(さなぎ)

余り物利用の保存用食品であったことから、物が有り余ってもて余すさま
を「佃煮にするほど」などと表現したりする

2016年08月07日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎



経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだ
から起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総
書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、
習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話
を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」
と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と
危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げて
いる。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾
で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量
の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して
緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与
えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政
治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴
露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」
に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部
の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているか
ら起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は
決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならな
い。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化す
ると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、
共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。

2016年08月06日

◆戊辰戦争を知らずに老いる

渡部 亮次郎



私は大学まで出る事が出来たが、戊辰戦争のことは中学・高校はもちろん、大学でも近現代の日本史を教わる事は無かった。政府の方針だったのだろう。

そこで、ある日、自分で学ぶことを決意した。NHK記者になってから秋田、大館、仙台、盛岡に合計6年間駐在したが、生まれ在所の秋田とは、なんとなしの違和感が、いつも感じられた。

大館駐在の際は、隣の鹿角郡をも担当したが、大館に対する敵意みたいなものすら感じた。あの郡は元は盛岡藩だったが、戊辰戦争で割譲されたのだった、と後で知った。

高校を出るとき、仙台にある東北大学にだけは進みたくなかった。これも戊辰戦争以来、秋田人は仙台を敵視する風習が子供にまで浸みていた
からだろう。

そういう戊辰戦争なのだが、今となっては「ウィキペディア」を丸呑みする以外に簡単な手段はない。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 -1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められる
こととなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

 1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)

 2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)

 3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。いずれの陣営とも外国の軍隊の直接派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。

つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。

12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。

12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生。

これも薩摩藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・老中格大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸
臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。

翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩なども新政府軍に参加した。

逆に旧幕府軍は賊軍とされることにより、佐幕派諸藩の動揺を招いた。1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。

1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。

慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。

9日、長州軍が大阪城を接収、大阪は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。

11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督高倉が発遣された。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。

また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じ、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩へ進軍させた。

ところが彦根藩はすでに尊王に藩論が転換しており9日東海道軍は大津にて桑名藩の征討に移った。22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。

藩主の座を追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の命により粛清が行われ、藩論は勤皇に一本化された。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に属していたが、東山道軍の先鋒となった。

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。

そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。

27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府支持に統一された。

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老三浦義建及び御用係関藤藤陰に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政山田方谷は城を無血開城した。

姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏した。

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。

日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。

天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩・府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志のないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。

その一方で松平容保は、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。 しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣退助が率いる別働隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること

江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること

江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。

この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。

一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。

近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。

途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。

しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝海舟との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。

大総督府は西郷隆盛を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。

会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督九条道孝・副総督沢為量・参謀醍醐忠敬・下参謀世良修蔵・大山綱良を数えることができる。

3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。

会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。

閏4月4日、仙台藩主席家老但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。

会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定し、藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。

赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。 閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。

さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったが、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。なお、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であった。

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。

その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。

閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。

続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。

次に沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖された。そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。

こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。

庄内藩の軍勢は久保田城の目前にまで迫ったが、列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため一斉に領内へ撤退した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、庄内藩は降伏した。盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することが決定した。

8月9日、盛岡藩兵は久保田藩に攻め込んだが一進一退のまま奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。

仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに亘って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1000人の死者が出た。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。

5月2日、新政府軍の岩村精一郎は長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に行わせていた各種支援を拒否し、武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。

これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。

同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。

新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵及び会津藩兵は城下全域に放火し撤退した。

一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1500人となった。

6月24日、新政府軍は板垣退助が白河から小隊を率い、平潟との中間にあった棚倉城を占領した。7月14日、新政府軍は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、三春藩が新政府軍に進んで降伏した。7月29日、二本松城を新政府軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が新政府軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。

また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。新政府軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。

当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。

またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。

この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。

9月22日会津藩が新政府に降伏した。明治天皇の新政府は会津藩に対し、戦死者の調査終了後に命を落とした会津藩士や農民・町人らの遺体を埋葬することを許した。

それまでの間は会津城下に無残な姿の遺体が山のように放置され異臭を放った。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。

8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。

北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。

10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。

その後新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典

永世禄 10万石-島津久光父子(薩摩)・毛利敬親父子(長州) 4万石-山内豊信父子(土佐) 3万石-池田慶徳(鳥取)・戸田氏共(大垣)・大村順煕(大村)・島津忠寛(佐土原)・真田幸民(松代) 2万石-佐竹義尭(久保田)・

藤堂高猷(津)・井伊直憲(彦根)・池田章政(岡山)・鍋島直大(佐賀)・毛利元敏(長府)・松前兼弘(松前) 1万5千石-前田慶寧(金沢)・戸沢正実(新庄)・徳川慶勝父子(尾張)・浅野長勲(広島)・大関増勤(黒羽) 1万石-松平慶永父子(福井)・六郷政鑑(本荘)・榊原政敬(高田)・津軽承昭(弘前)・戸田忠恕父子(宇都宮)・黒田長知(福岡)・有馬頼咸(久留米)・秋元礼朝(館林)など

処分された藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)


長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた。

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老但木成行・仙台藩江戸詰め家老坂英力・会津藩家老萱野権兵衛・盛岡藩家老楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老玉虫左太夫・若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩は議論の末に斗南を選択した。

斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。猪苗代地域では明治新政府によって開拓が行われ現在の郡山市都市圏が誕生した。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。これに感激した庄内の人々は西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。

この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

戊辰戦争以降、明治新政府は明治維新として総称される一連の改革を行うが、これについては主に敗北者側からは「この程度の内容の改革なら大戦争をしなくても実行可能であった」とする意見がある。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名をそそいでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」とする「仙台首都説」がある。

遺恨戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。(2012/4/5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年08月05日

◆染井吉野韓国伝来説の怪

渡部 亮次郎



若い頃、記者をしていたNHKのアパートが東京・豊島区駒込の染井銀座
の真ん中にあって1年だけ住んだ。

商店街の真ん中だから便利だったが、家主が風呂屋だからアパートに、内
風呂のないのには閉口した。夜討ち、朝駆けのある政治記者。夜回りから
帰宅しても、銭湯はもう閉まっているのだ。

こんなとこ、何が銀座だいと毒づいたら「この地が日本を代表する櫻「ソ
メイヨシノ」の発祥地だと威張られたので、驚いた。

ところが1939年に、小泉源一が韓国の済州島に自生する王桜とソメイヨシ
ノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたが、米国農務
省の DNA検査によるとソメイヨシノと王桜が全くの別種で、王桜がソメイ
ヨシノの片親といったDNA的相関もないと確認されている。このため、現
在ではこの説は否定されている。

それでも、韓国では現在もこの2種を混同し、これら2種が完全に別種とい
う概念が存在しないため、以前の研究結果を元に「日本の桜の起源は韓
国」といった主張を広報するのが春の風物詩となっており、
NationalCherry Blossom Festival等と絡めて「ソメイヨシノの起源は韓
国だと世界に正しく知らせよう」との海外への対外広報の動きもある。

また王桜の自生地にソメイヨシノを植える活動が進められ、逆に王桜の絶
滅が心配されているそうだ。こういうのを日本語では自縄自縛という。

江戸末期から明治初期に、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)に集
落を作っていた造園師や植木職人達によって育成され「吉野桜(ヤマザク
ラの意)」として売り出していた。

名称は初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠
まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」とさ
れたが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは
異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多い
ヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で
染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。

樹高はおおよそ10-15m。若い木から花を咲かすために非常に良く植えられ
ている。実は小さく、わずかに甘みもあるが、苦みと酸味が強いため食用
には向かない。

但しソメイヨシノは種子では増えない。各地にある樹はすべて人の手で接
木(つぎき)などで増やしたものである。

オオシマザクラとエドヒガンの自生地においては交配雑種としてのソメイ
ヨシノの自生する可能性がわずかながらあるが、一般には自ら増えること
のないソメイヨシノは接ぎ木など人間の手によって広まったものである。

ソメイヨシノは、一般的に、他の台木に接木をしたものや、挿し木、植え
替えによって増える。このため、人間と切っても切れない関係にある。

すべてのソメイヨシノは元をたどればかなり限られた数の原木につなが
り、すべてのソメイヨシノがそれらのソメイヨシノのクローンともいえ
る。国立遺伝学研究所の研究によれば、全国のソメイヨシノはDNAが一致
することが確認されている。これはすべてのソメイヨシノが一斉に咲き一
斉に花を散らす理由になっている。特定の病気に掛かりやすく環境変化に
弱い理由ともなっている。

街路樹、河川敷、公園の植え込みなどに広く用いられている。また、全国
の学校の校門近くにも植えられていることが多い。ソメイヨシノは花を咲
かす時期や、散らすまでの時間が早いために、学校などでは本種と本種よ
り1週間程度花の咲いている期間の長いヤエザクラの両方を植えて、入学
式にいずれかの桜を咲かせることができるようにしていることが多
い。

広く用いられている種であることから、花見に一番利用される木となって
おり、人気種である。葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木
から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。

さらに、敗戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは荒廃した国土に爆
発的な勢いで植樹され、日本でもっとも一般的な桜となった。

ソメイヨシノは街中では他種より目にする機会が圧倒的に多いことから、
以前からその起源についてとともに、可否好悪についても愛桜家の間で論
争の絶えなかった品種である。

ソメイヨシノは多くの人に人気があり、多くの公園などで花見のための木
になっている一方で、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられている現状やソ
メイヨシノばかりが桜として取り上げられる状態を憂慮する声もある。

欧米には1902年にカンザンと共にわたっている。欧州やアメリカに多くの
ソメイヨシノが寄贈されており、春のワシントンのポトマック河畔のソメ
イヨシノが有名である。今年は開花がとても早く、3月末には散っていた
そうだ。

現在もほぼ日本全域に分布する最もポピュラーな桜であり、さらにすべて
の個体が同一の特徴を持ち、その数が非常に多いため「さくらの開花予
想」(桜前線)も本種の開花状況を基準として決められている。

ソメイヨシノには大きな欠点がある。数百年の古木になることもあるヤマ
ザクラやエドヒガンに比べて高齢の木が少ないことである。「60年寿命
説」なる俗説があるほどである。ただし正確な寿命に関しては統計数値が
ないため不明であり、また、大径になる木は理論上は寿命がないと考えら
れている。

老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは成長が早
いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガス
などで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているとい
うことも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もある。

接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木とされたヤマザクラが腐っ
て心材腐朽を起こし、寿命を縮めているという説もある。

また、すべてのソメイヨシノが同一の特性を持つために、すべてのソメイ
ヨシノが病気や環境の変化に弱く、それらに負け一斉に枯れるという点も
ある。

排ガスなどの大気汚染ももちろん、近年の地球温暖化やヒートアイランド
現象でソメイヨシノが急激な環境の変化についていけていないことが病気
の遠因になっている説がある[4]。根の近くが舗装されることも樹勢を削ぐ。

また、花見に一番使われる木であることも病気の遠因といえる。根に近い
土壌を過剰に踏みしめられることは木によいとはいえない。

花見客のマナーの悪さは木に悪影響を及ぼす。焼肉やバーベキューなどは
煙で木に悪影響を与える。ごみの放置は雑菌の繁殖をもたらす。

これらは桜を弱らせるに十分な行為である。あまつさえ、花見客が枝を
折ったり切り取ったりすることなどは問題外である。

枝を折られるとそこから腐りやすいため、知識もなく枝を折ることや切る
ことは慎むべきである。

しかし、こうしたイメージの一方、ソメイヨシノの老木も存在している。
例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以
上が経過しているし、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹
齢110年を超える2本の老木が存在する。

また、青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応
用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を
回復することに成功している。

ただし、紅葉・落葉直後にすぐ剪定することでC/N比(炭素/窒素比)を変
えたり根回しや土壌交換による細根の発生をもたらすなど、管理に留意を
要する。

弘前城跡公園には樹齢120年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の
現存する最も古い株であろうといわれている。

引用:「ウィキペディア」

2016年08月04日

◆ものは言い様(よう)

渡部 亮次郎



「奴は仕事はよく出来るが大酒呑みだ」と「奴は大酒呑みだが仕事はよくできる」、あんたが人事課長だったら、どっちを採用するかね、と問われたら、どうしますか。

○仕事はよく出来る
○大酒呑みである

要素はこの2つ。どちらを最初に言うかだけである。当然、後者、つまり、大酒呑みだけど仕事はよくする、といわれた方を採用するに決まっている。そう、ものは言いようなのだ。

秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)さん(故人)が出張先のホテルで諭してくれた話である。彼は特攻隊「天雷特別攻撃隊」の隊長(パイロット)として死ぬはずが、突然、敗戦になって「死に損なった」という人。

それまで陸軍落下傘部隊第1期生、パイロットなどとして、1935年から野戦に11年いた猛者である。しかし士官学校を出ているわけじゃないから、戦争の最先端では相当、苦労したようだ。

それだけに、人間研究が進み、世間を渡る智恵が集積された。冒頭の話も、戦場での体験に基づくものだった。問題にする要素は2つしかないが、どれを先にいうか、後にするかで運命は暗転するというのだ。

別のところでも書いたのだが、戦場では士官学校を出た若者が隊長として着任する。いきなり戦闘に巻き込まれ、若者は興奮する。飛んでくる敵弾に身を曝そうとする。士官学校ではそう教えられて来たからだ。

しかし、弾の撃ち方ぐらいは習っただろうが、撃たれ方は習ってない、当然だ。それが着任早々、撃たれかかって舞い上がる。古参兵たちにしてみると、隊長戦死とは不名誉なことだから「隊長殿、其処では危のう御座います」と叫ぶ。隊長、名誉に拘わると思うものだから、逆に更に危険な地点に出ようとする。困った。

そこで園田さんが出て行って言った。「隊長殿、其処では敵情がよく見えません、どうぞこちらへ」と叫んで岩陰に案内したら、隊長殿、ふっと息を吐いた。

記者時代から12年の付き合いを経て秘書官になった。記者時代は政治家といえども対等な付き合いをした。私は生意気な記者ではなかったが、実力者の河野一郎さんが、毎日曜の昼ごろ、リンカーンでアパートに来て、下から「亮次郎、競馬行こう」と叫んだものだ。

園田さんはその河野派の一員だから、私のほうが威張っていたかも知れない。だが秘書官となれば従者だから、立場は逆転。ところが外国へ出張すると、夜は大臣は孤独になって私が勝つ。

外務省の役人は皆、夜の巷に出かけるから、残りは私と2人だけ。私は酒呑みだが、大臣は下戸。そこで夜は立場が逆転し、大臣が私の水割りを作り、昔話を聞かせる、という場面になるわけだ。

ドアの外には警視庁から附いてきてくれた警護官が立っているが、大臣は気を利かせて、彼をも招き入れて、警察用語で言うところの「教養」の時間となる、という風だった。

園田さんは実は痛がりで小心な少年時代だったそうだ。そこで剣道に励み7段という高段者だった。加えて代議士になってから合気道もやり8段だった。これに居合道8段、空手(名誉)も加えると二十数段という武道家だった。

しかも武道の呼吸を政治に生かしていた。自民党では国会対策委員長を2度も務めて名を高めた。その功績の理由は合気道にあった。野党がいきり立っている時は説得しても無駄。相手が落ち着いた頃を見計らって説得して初めて効き目がある、これは合気道だ、というのだ。

上がる手を無理に抑えようとすれば相手は抵抗するが、手は何時までも挙げたままで居られるわけがない。やがて下がってきた時にこちらの手を添えて下げてやれば相手はつんのめって転ぶよ。タイミングを間違えたら転ぶ相手が転ばずに、こちらも怪我をする。

こんな話を色々と山ほど聞いた。どれだけ実になっているか全く自信はないが。

「若者並み頑張るのだから立派だわね、おじいちゃんなのに」と後輩の女性に言われて立腹した。生まれて初めておじいちゃんと言われたからだ。

「よく頑張るわね、現役がかなわないわね」と言って欲しかった。それを思って冒頭の話を思い出したのだ。ものは言いよう。間違うと命がかかる。