渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」主宰)
日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。その彼の危篤が報じられている。
昨年、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。
華国鋒(か こくほう。1921年2月16日―)は、山西省交城県出身で、中国の元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。
<華国鋒元国務院総理、元軍事委員会主席が危篤 「共産党は腐りきっている」と批判し続けた骨の髄までの共産主義者
華国鋒は毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った。
革命成立後、華国鋒は湖南省書記に抜擢され、その後、同省公安部長を歴任後、中央政界へ。副首相、軍事委員会主席とトントン拍子に出世してゆく。周恩来病没直後には首相代行をつとめた。毛沢東の子供ゆえに、である。
歴史的役割は、毛沢東がいまわの際に華を呼んで「君がやってくれるのなら安心だ」と遺言した(と言われるが、これは伝説になった)。
華国鋒は直ちに軍をおさえていた葉剣英、党をおさえていた李先念と謀り、四人組を逮捕。1976年、華政権が成立した。
だが華国鋒政権には「これ」という特色がなかった。ヴィジョン欠落、戦略性が希薄な人物だからであろう。
真面目な性格らしく謀略に疎く、やがて!)小平に巧妙に利用されて「使い捨て」られた。
華は舌鋒鋭く共産党幹部を批判することで有名で、「中国共産党の正当な担い手は農民と労働者ではないか」と言い続けた。
こうも言った。
「権力を掌握した後、いったい中国共産党は何をしたのか。腐敗、利権、人民への圧政、司法の独断運用、人権無視、権力の乱用ぶりを目撃していると、嘗ての国民党を同じであり、現在の国民党の方はもっと進歩しているではないか」。
重病説が14日から飛び交い、華国鋒は北京医院に入院。危篤という。
(註 桃は女偏。「蘇祷」の祷は「金」編です)>(「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月曜日)
通巻第2293号)
条約の調印式には出てきたが、すぐに姿を消し、2度と再び公の席に姿を現さなくなった。死んだという知らせには接していない。(2007・06・24)
2001年に華国鋒は中国共産党を脱党したと伝えられたが、2007年の第十七回党大会に人民服で出席し、白髪が注目された。ヒナ壇中央最後列の右端に座ったのが印象的だった。(宮崎正弘)
文化大革命では湖南省の第1書記となり、毛沢東の忠実な部下として昇進した。公安部長から、1975年には国務院第1副総理(副首相)に就任、党内序列も第6位となる。毛沢東の人事バランスの結果とされる。
<毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った。(註桃は女偏。「蘇祷」の祷は「金」編)>この事は宮崎さんに言われるまで知らなかった。
1976年1月には周恩来の死を承けて総理代理、党第1副主席。(総理代理に王洪文が有力視されていたが、それを抑えての就任だった)となった。さらに同年9月に毛沢東が亡くなると、党主席、中央軍事委員会主席に就任する。
1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ」という委託を受けたとされている。しかし、中国共産党中央文献研究室の『毛沢東伝』では否定されている。
これは当時毛沢東の私設秘書であった張玉鳳の手記を引用したもので、国際上の問題について尋ねた華国鋒に「既定の方針にしたがってやれ」「あなたがやれば私は安心だ」と言ったに過ぎず、事実に合わないとの見解を党は示している。
しかしながら様々な文献の中では一貫して、以上の毛沢東の言葉は華国鋒が四人組の攻撃に耐え切れずに毛沢東に辞意を示したときに、声の出なくなった毛沢東が紙に書いたとされている。その後の政治局会議でその紙を政治局員らに見せ、攻撃を乗り切ったとされる。
同年10月6日に、文化大革命の主導者であった江青や張春橋などの四人組を逮捕した。これは毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させるものとなった。
1977年には「両個凡是」(2つの全て)の方針を示し、文化大革命には是々非々の立場を表明したが、かつては実権派として失脚・迫害されたトウ(ケ)小平などからの強い批判を浴びた。
1978年8月8日、我々が北京を訪れた時、華国鋒はケ小平から強い批判を浴びている時期だったらしい。なんとなく影が薄かった。外交官ではないが永らく政治記者だった私の勘はまだ正常だった。園田はそれを尊重してくれた。
我々と日中平和友好条約を締結した後、1980年に首相を、翌1981年には党主席を辞任した。四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、ケ小平らに激しい権力闘争を挑み、最終的には追い落とされたわけだ。
ただし、その後も2002年11月に引退するまで中国共産党の中央委員を務めた。しかし外国メディアとの接触は断ち、中国国内でその動静を伝えられることは極めて希であったが、ある程度の政治的活動は認められていたと考えられている。
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