2016年10月23日

◆パイナップルも無かった

渡部 亮次郎



朝と昼の食事のあとは果物を必ず食べる。だから秋は楽しい。果物の種類
が豊富だからだ。冬が近付くとみかんに混じってときどき供されるのがパ
イナップルだ。

南国の果物だから生まれ育った北国・秋田では子ども時代はお目にかから
なかった。敗戦後、缶詰を初めて食べて美味しかった。しかし生を食べた
のは大人になって上京後である。

アメリカから返還される前に特派員として渡った沖縄では畑に植わってい
るのを沢山見たが、なぜか食べなかった。今、東京のデパートで売られて
いるのは100%フィリピン産である。

「ウィキペディア」によれば、パイナップルの原産地はブラジル、パラナ
川とパラグアイ川の流域地方。この地でトゥピ語族のグアラニー語を用い
る先住民により、果物として栽培化されたものである。

15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝
播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493
年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の
大陸に伝わった。

1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航
路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。

当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい
果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。

次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して
行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾
に導入された。

日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年に
オランダ船が長崎へもたらした記録もある。

パイナップル(レユニオン)は植付け後15〜18か月で収穫が始まる。自然
下の主収穫期は、たとえば沖縄では7〜9月と11〜翌年2月である。

1年を通した生産面の労働力の分配や缶詰工場の平準化を図り、植物ホル
モンであるエチレンやアセチレン(カーバイドに水を加えて発生させ
る)、エスレル(2-クロロエチルホスホン酸)、を植物成長調整剤として
利用し、計画的に花芽形成を促して収穫調節を施している。

栽培適地は年平均気温摂氏20度以上で年降水量1300mm内外の熱帯の平地か
ら海抜800mくらいまでの排水の良い肥沃な砂質土壌である。

世界生産量の約5割がアジア州で、残りの5割はアフリカ州、北アメリカ
州、南アメリカ州の間でほぼ均等に分かれている。

2002年時点のFAOの統計によると世界生産量は1485万トン。1985年時点に
比べて60%以上拡大している。主要生産国はタイ (13.3%)、フィリピン
(11.0%)、ブラジル (9.9%)、中国 (8.6%)、インド (7.4%)、コスタリカ、
ナイジェリア、ケニア、メキシコ、インドネシアである。

1985年の世界総生産は923万トンで、主産地はタイ、フィリピン、ブラジ
ル、インド、アメリカ、ベトナムなどである。日本では沖縄県が主産地で
2002年時点では1万トンである。

1985年から2002年までのシェアの推移をたどると、米国のシェアが6%から
2%までじりじり下がっていることが特徴である。既に米国は上位10カ国に
含まれていない。

2016年10月22日

◆ハマナスはナシの訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形を
していることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったもの
である。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落
葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花は
お茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお
印でもある。晩夏の季語。


東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南
は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良され
たものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏し
い。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として
市販される。

のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかそ
の場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、
花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培され
る他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれ
る園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立
などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道
市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、
雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町

岩手県 - 野田村
青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町
福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市
新潟県 - 村上市、聖籠町
石川県 - かほく市、内灘町
福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見
ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書
いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」とい
い、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うの
も、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナ
スはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティー
もなかなか美味しいですよ。>(唸声)2011・6・13


             

2016年10月20日

◆アカシアの雨がやむとき

渡部 亮次郎



言わずと知れた西田佐知子のヒット曲である。「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい 夜が明ける日が上る・・・」1960年の判安保の歌とあとで評判になった。

日米安保反対闘争を私は仙台でNHK記者として聞いた。23歳だった。鼻の頭に汗をかきながら冷害の心配をせっせとニュースにし、カメラマンの訓練も受けていて、国会議事堂をとりまく安保騒動には全く関心を寄せる暇が無かった。

1960年、昭和35年は心有る者には「大逆(たいぎゃく)事件の真実をあきらかにする会」が発足し、、残虐非道の判決が下された「大逆事件」について、やっと再審を請求する動きの始まった年として、記憶されるべき年である。

しかも大逆事件の経緯を知れば、安保騒動なんかに付和雷同することは、とうてい出来なかった。

「たいぎゃくじけん。明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件。1910年(明治43)一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者・無政府主義者が検挙され、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含む24名が死刑を宣告され、翌年1月幸徳秋水・宮下太吉ら12名が処刑された。幸徳事件」(岩波広辞苑第5版)。

80歳の私ですら大逆事件のことを学校で習ったことは無い。戦後、アメリカ軍は日本の子供たちが自国の近現代史を習うことを嫌ったからである。そのまま成長してしまい、大逆事件の事を知るのは大人になって自分で本を読んでからである。

時は日本がロシアとの「日露戦争」にやっと勝った直後である。「日本政治裁判史録」(第一法規出版)に依ると、世には一種の挫折感がみなぎり、深刻な生活難が実在した。色あせた明治の栄光の陰から、社会主義運動は次第に形を整え、政治の舞台に登場してきたのである。

甲府生まれにして長野県内にある官営明科(あかしな)製材所職工長宮下太吉(34)が明治43年5月25日、明治天皇を暗殺する目的で作ろうとした爆裂弾の材料とともに逮捕されて事件の幕はあがった。

語らった友人、親族それに思想的指導者としての幸徳秋水や、管野スガらが次々に逮捕されて26人にのぼった。罪名は刑法73条「皇室に対する罪」である。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。どう考えても唆したとされる管野スガ、爆裂弾作りに手を下した4人以外は「口舌の徒」に過ぎない。

しかし、社会主義政党を許可した西園寺内閣を憎んで潰した桂内閣とその陰にいる元老山県有朋は、この事件をいいことに社会主義・無政府主義の根絶を図ろうと企てた。

引っ掛けられた方はたまらない。裁判は大逆罪に限り非公開1審のみ証人無し。検事側の主役を演じた平沼騏一郎でさえ後年「今なら10年ぐらいかかるだろう」と言うのを、証拠調べにわずか20日。なにしろ捜査開始から判決までたった8ヶ月だった。

24人に死刑、うち12人は恩赦で無期懲役となったが、とにかく12人は1週間後に処刑された。恐ろしい時代だったのである。からくも死を逃れた14人のうち3人は獄中病死、2人は自殺、残りはやっと昭和9年までに仮出獄や満期釈放となった。

昭和9年に仮出獄した坂本清馬本人と別の遺族が昭和36年から再審を請求し続けたが昭和42年7月5日、最高裁でも棄却されて事件は闇に葬られた。

戦後は刑法も改正されて大逆罪や不敬罪は無くなった。しかしそれをなくしたのは、占領軍アメリカだった。確かにアメリカは日本から自主防衛の権力も取り上げたので、岸信介首相はせめて相互協定にしようと日米安保条約改定を図ったのである。岸内閣は倒すべきでは厳として無かった。

それを社会党と共産党、労働組合・総評の逆宣伝に乗って全学連などと言って国会周辺で騒いで女子学生を踏み殺した。

ただそれだけの「はしゃぎ」だったのに「空しい」と「アカシアの雨がやむとき」なんぞ歌ってメソメソするとは、いい気なもんだった。

安保騒動の学生が殺されなかったのには大逆事件の犠牲による刑事訴訟法の改正が大きかった。なお、平沼騏一郎の子孫が平沼赳夫氏という。
                         2004.03.22

2016年10月19日

◆佃煮にするほどある

渡部 亮次郎



佃煮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イカナゴの佃煮。佃煮(つくだに)とは、海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮
付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻
類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたもの
をこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にす
る。ご飯と一緒に食べると美味とされる。

佃煮の由来

ご飯のおかずとして載せられたイカナゴ佃煮江戸時代、徳川家康は名主・
森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を
江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて
住まわせた(東京都中央区佃島。

佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小
魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた[2][5]。雑魚が
たくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわ
れ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代
の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まった
とされる。

なお、以上の説に対しては異説もある。

1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説。

1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説

日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説。

大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では
雑魚を煮詰めたものを供えていた(?油煮説と塩煮説がある)。このこと
から、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来
するという説。

1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の
佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮
製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士
は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり
日常食となっていった。

現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により
販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった。

各地の産地 [編集]今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤
油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一とな
るなど佃煮産業が盛んである。広島市でも佃煮製造が行われており、1904
年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡
となった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31
年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された
[9][10]。焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製
品が製造販売されている。

製法

昆布の佃煮。現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は
以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤
などが加えられていることがある。

本来の江戸前佃煮とは、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない
辛口のものが安心で重宝された。現在も数件だが、職人の技により手造り
の旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。

主な材料 魚類
穴子
シラウオ
イカナゴ
ウナギ
コイ
フナ
ヤツメウナギ(乾物)
貝類
アサリ
ハマグリ
シジミ
カキ
海藻類
昆布
海苔
その他
オキアミ
イナゴ
ざざむし
干し椎茸
カイコ(さなぎ)

余り物利用の保存用食品であったことから、物が有り余ってもて余すさま
を「佃煮にするほど」などと表現したりする。

2016年10月18日

◆田中首相訪中同行記

渡部 亮次郎



将来の近きライバルと予想
   
以下は初の訪中から帰国直後、あるミニコミ紙(発行:昭和47年10月28日)
に執筆したものである。書棚の中から取り出してみて「中国は将来の"近
きライバル“」と既に分析していたのを発見した。

『百聞は一見に如かず』と言うが、『群盲、象を撫でる』ともいう。

「中国見たまま」といったところで滞在期間がわずか6日間。目的が田中
首相の「同行」であってみれば私の「一見」が「百聞」以上のものだと
はいえない。

まして、同行記者80人の一員として、ぞろぞろ田中首相に従って歩いた
だけであってみれば「象を撫でない盲」にも劣る「訪中記」である。

しかも共産国ならどこでもそうであるように、猛烈な取材規制を受けな
がらの取材だったのであるから、お恥しい次第ではある。

端的にいって、田中訪中同行記者について中国側が初め言ってきたのは60
人。このうち首脳に3メートルまで近づける「近距離」の記者、カメラ記
者、 TVカメラマン、政府公式カメラマン、TV中継カメラマンは各2人で
計10人。それ以外(大部分)は会談場の玄関口でシャットアウトされる
「遠距離組」と言うものだった。


時として、いま西山事件にもある如き方法さえ用いて、嘗て大平外相をし
て「人の腹の中に手を突っ込む奴ら」と言わしめたほどの「マ
スコミ・アニマル」である当方としては大いなる不満を表明し、外務省
情報文化局を通じて規制緩和を要求した。


その結果、「推測記事がある程度、書かれるのは仕方がない。同行記者
数は20人増の80人とする」という最終回答があっただけで、“規制“は
緩まなかった。

パズルを解く記者たち

共産国のことだから、さらに「公共建造物の撮影、人民へのインタビュ
ー、家庭訪問、指定区域以外への外出について事前許可なくして行って
はならない」のは当然であった。

帰国後、週刊誌が「林彪事件や台湾問題について人民の反応も取材でき
なくて、何が同行記者か」と叩かれたが、事情も知らずして、80人の怠
け者が北京や上海をブラブラしただけと言う論評にはハラが立った。

正直な話「テメエ、やってみろよ」と言いたい。尤も例によって中国礼
賛が先に立って、規制を受けた取材であることなど、少しも書かなかっ
た方にも罪がある。

このように、田中訪中同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の三重
苦に悩まされての取材だったが、中国の現状を見れば、こうした規制も
止むを得ざる措置だった、と言えなくもない。

テレビは白黒方式!のが全土に10万台(公式)しかない。7,500人に1台
の割合。1人民公社に1台あるかないか、というのが現状である。しかも
放送時間は夜7時から3時間だけ。

今日の事象は翌日の夜でなければ放送されない。中国側も「歴史の新し
い始まり」と高く評価した日中共同声明の調印式という「大ニュース」
でさえ、たしか翌日の夜まで放送されなかったはずだ。

中国人にとって、日本で言えば天皇以上である毛沢東主席と田中首相と
の”世紀の会見“でさえ翌28日の夜7時にならなければ放送されなかった
のだから。

ラジオはかなりある。だが日本のように実況放送されてない。今日のニ
ュースを今日中に伝える事はない。新聞はどうか。まず各戸配達は無い。
昼ごろスタンドに買いに行けば朝刊(人民日報)が手に入る。(だが面
白い記事などどこにも無い)

革命(建国)以来23年経ってこの有様であるから,以前はもっと低水準だ
ったと思われる。その間に人民と言う名の大衆は「ニュースとは翌日に
ならなければ分からぬもの」と思い込むようになった。

だからニュースに餓えるということも無くなったのではなかろうか。そ
ういうふうにまた指導者たちも思い込んでいるから、日本から80人もの
記者が来ることさえ驚きなら、相手のハラに手を突っ込むほど、手を変
え品をかえて接近取材をするなんて、思いもよらないことなのである。

万里の長城で、この規制を乱し「総理!そこで止まって、こっちを向い
て笑って」とカメラマンたちが田中首相に注文をつけるのを見ていた中
国人たちは「日本のマスコミというのは政治家を"指導“するのか」と驚
く、というよりもあきれていた。

田中、周恩来による首脳会談が4回、大平、姫鵬飛による外相会談が3回。
特別番組として田中の毛沢東"謁見”があった。しかしこれらの内容は誰
1人新聞記者が見ても聞いてもいたわけじゃない。

例外を除いては「発表することは何もありません」という二階堂官房長
官の"発表"をもとに、ああでもないこうでもないと組み立てた"推理小説
“である。

とはいっても前もって相当に勉強はして行ったから、発表の後交わされ
る二階堂氏とのやり取りから、さながらクロスワード・パズルを解くよ
うに会談内容を組み立てて行ったから”小説"とも言えない。

4回に及んだ首脳会談は、その都度、何を議題にしたのかは、もちろんい
まだに明らかにされていない。だから現地にいるときも、しつこく聞き
出すわけだが、首相をして「この人はなんでもしゃべる」と言わせた二
階堂氏も「なんとも申し上げられません」という返事を繰り返すのみ。

二階堂氏の顔色や目つきや、口許を見てのパズル解きであった。東京に
いるときなら、会見の後の夜討ち朝駆けの奇襲取材はお手の物なのだが、
北京では、二階堂氏は会見が終わるや否や雲を霞と迎賓館に閉じこもっ
てしまう。

仮に迎賓館に追いかけようにもタクシーが無い(制度としてない)し、
おっかけたところで門前の衛兵に阻止されてお終い。それでは電話でと
言っても、電話番号は公開されていない。


諦めず、夜の公式宴会で近付こうとしても不可能。テレビでご覧の通り、
丸テーブルに座ったまま誰も動けないからこれまた不可能。仮に立って
行ったって、3メートル以上は近づけない。

日本が得た成果は?

こんな状態であるから、例えば共同声明の調印式が予定より15分も遅れ
た理由が帰国まで分からなかった。日本と現場中継のマイクロ回線が繋
がっているから、東京から、どうしたんだと、やいのやいのと言ってく
るがどこにも聞きようが無い。

やっと、上海から帰国の途についた機中で田中首相から「中国側が3軍へ
の了解連絡に手間取ったため」と説明されてやっと分かった(政府が軍
に了解をとる、共産主義国家ならではだ)。

ついでながらもう富士山が見えるころになって田中首相は「会談は到着
当日、25日午後の1回目がヤマだった」と明かした。つまり過去における
日本軍国主義の残虐行為を水に流して再出発という日本。

対する中国は深い反省を要求して、初めから激しくぶつかりあった(の
ちに明らかになったことだが、過去の反省については、この日の夜に開
かれた招宴での田中挨拶の淡白さに中国側が激怒)結局「反省」の一札
をとられたのだった。

そう言われて共同声明を読めば、日本が得た成果は皆無である。なるほ
ど戦時賠償請求の放棄を得た事は成果だろうか。この事は1954{昭和29)
年7月、園田直、中曽根康弘、西村直己の各氏が強行訪中した際、中国首
脳から既に明かされてれていたものだ。

まさに「加害者の敗戦国」が「被害者たる戦勝国」にこてんぱんにやっ
つけられた正常化だったといえよう。もちろん日中正常化とはこういう
もんだとは予め分かっていた。だから慎重派と言う反対派があったのは
当然だった。

それを「それ急げ、やれ急げ」とマスコミが叫び、「いや、もっと慎重
に考えながら・・・」と言う慎重派がさながら非平和愛好家のように見
られると言う今の風潮は一考を要しよう。

熱しやすく冷めやすい大和民族の気風に乗っかって、戦後27年の懸案を
あっという間に処理して見せた田中内閣ではあるが、後世の史家がこれ
をなんと評価するか、興味深いところである。


日本人よ目を開け

中国について私は本だけで36冊読んで行った。忙しい取材の合間である
から4年ぐらいかけて読んだ。担当した自民党の派閥や領袖も中国問題に
ついては、取材でいわばハト派の河野一郎派から中間的な森、園田派、
タカ派の福田赳夫派(旧)やら賀屋興宣、岸信介、重宗雄三の各氏と言っ
た幅広い体験をして行った。

今(1972年)の日本人の主婦はマイホームととか電子レンジとか別荘を欲
しがっているが、中国の家庭の3種の神器は1に自転車、2にミシン、3
がラジオだと言うことだった。

着ているものも婦人ですら一種の国民服とでも言うのか嘗ての日本陸軍
の上着の色をグレイにしたものに同色のズボン。化粧は誰もしていない。
膨らみの足りない人は男と区別がつかない。

街に首都と言えどもタクシーは無い。バスはどれも満員。飛行機はおろ
か汽車にさえ乗ったことの無い人も多いはずである。まさに何十年前の
日本だろう。北京の中心部から少し行くと人糞を担いだ農民を何人も見
た。

しかしまた泥棒はもちろん犯罪ない(ことになっていたか)。高望みし
なければ明日への心配は無いかもしれない。しかし人間は高望みがいわ
ば本能である。(中略)

それよりもこれからの中国はどうなるか、日本との将来はどうなるかを
考えてみることの方が大事だろう。「資源の輸出国にも、消費物資の輸
入国にもならない」と周恩来首相は言った。

当面は日本の工業技術を輸入して近代工業国の建設に邁進するであろう。
技術知識の吸収は旺盛である。砂に水を吸わせる如くである。それはさ
ながら明治維新の先輩たちが西欧列強から知識を吸収しながら建国した
日本と同様であろう。

だが、知識を吸収した中国は遠からず世界市場で日本の強敵となって立
ちはだかるはずである。その時の用意はいま美酒に酔いしれている日本
国民にあるだろうか。疑問である。(了)

主宰者談:この後すぐ、周恩来、毛沢東の順にこの世を去った。見透か
したようにトウ小平が復活して4つの現代化政策と開放経済体制と、事実
上の資本主義体制に切り替え、異常な経済発展と軍の膨張を進めている。
田中首相の予想を上回った。

(注)西山事件とは毎日新聞政治部記者西山太吉氏による、沖縄返還交渉
にからむ外務省機密漏洩事件。西山記者が、かねて肉体関係を結んでい
た外務省外務審議官付き女性職員から交渉にからむ機密文書のコピーを
入手。

記事にせず、社会党(当時)横路孝弘議員に渡して衆議院予算委員会で
政府を追及させた。蓮見女史と共に西山記者は逮捕、起訴され執行猶予
付きの有罪判決が確定した。

事件をモデルにして『大地の子』『白い巨塔』『盆地』などの著作のあ
る小説家山崎豊子氏(毎日新聞出身)が『運命の人』を平成17年1月号か
ら月刊誌「文藝春秋」に連載した。

他方、西山氏は逮捕から33年経った2005年4月に行動を開始した。

<1972年の沖縄返還交渉に伴う日米間の密約を示す文書を入手して報道
し有罪判決を受けた元毎日新聞記者の西山太吉さん(73)が2005年4月25日
「密約を否定した当時の判決は誤りで不当な起訴で名誉を棄損された」と
し、約 3400万円の国家賠償を求め東京地裁に提訴した。

密約は「沖縄返還に伴う土地の復元補償費400万ドルを、米国に代わって
日本が肩代わりする」というもの。西山さんは71年、当時の外務省職員か
ら文書を入手して一部を報じ、72年に同職員とともに国家公務員法違反で
逮捕・起訴され、最高裁で懲役4月、執行猶予1年の有罪判決が確定した
(1審は無罪)。

しかしその後、2000年に日米間の合意事項を示す文書が米公文書館で見つ
かり、02年には密約が発覚しないよう、沖縄返還協定発効後に日米政府が
口裏合わせをした公文書も見つかっていた。> (毎日新聞のサイト)


 

2016年10月17日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなっ
た日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をは
め込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くよう
な歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさし
の小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出
陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によれ
ばそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停
止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動
員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてら
れた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴
いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、と
されている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植え
られている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前から
すでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に
用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられ
た。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、
その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカス
ズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切
れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈
込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス
(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各
地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬
で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がな
らんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上
経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かけて大小の枝を殆
ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身した
みたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も20年以上になるが、木々の剪定はあまり見
たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前に
ばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良く
なった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と
言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示して
いるのかな、と思ったりする。参照:世界大百科事典 エンカルタ事典 
2007.01.18


          

2016年10月15日

◆「軍事同盟」で退陣した内閣

渡部 亮次郎



若い頃、NHK記者として4年間駐在した岩手県には、後に総理大臣になる
鈴木善幸(ぜんこう)のほか小沢佐重喜(さえき)、椎名悦三郎ら、錚々
たる政治家がいた。言うまでも無く佐重喜は小沢一郎の父、椎名は副総裁
として田中角栄の後継首相に三木武夫を推して大失敗した。

そうした中で目立つようで目立たなかった男が鈴木善幸だった。三陸沿岸
の漁民の出。はじめは日本社会党から代議士になったが、間違いに気付い
て保守党に鞍替え、とうとう自民党総裁、総理大臣になった。

だが日米安保条約の何たるかも知らずに過ごし、自民党内のバランスに
のっていたので総理大臣にまつり上げられたものの、「能力不足」を晒し
て途中退陣した。

日本大百科全書(小学館)にはこう書かれている。

<国内では自民党の絶対多数を背景に、軍事力増強、実質的な靖国(やす
くに)神社公式参拝、参議院の比例代表制導入、人事院勧告凍結を実現し
た>。


鈴木善幸内閣]は1980(昭和55)年7月成立した。前任の大平正芳が総選挙
中、糖尿病の合併症たる心筋梗塞で急死したところ、「闇将軍」といわれ
て評判の悪かった田中角栄が裏で動いて、突如、鈴木善幸を後任として指
名した。私はその現場に居合わせた。

昭和55(1980)年6月12日未明、大平が死んだ。それに先立って、ホテルに
いた私に園田直(当時は無役)から電話。「大平さんが亡くなったらしい、
調べてくれ」で確認。弔問の為、虎ノ門病院で落ち合う。

彼も当時、糖尿病が悪化。減量の為服用していた利尿剤が効き過ぎてゲッ
ソリしていたので、マスコミの目を引いたことを覚えている。
病室から出てきた園田。車に乗ると「ナベしゃん、これからどうした方が
いいかな」。すかさず「目白へ行きましょう」「そうだワシもそう考えて
いた」。

角栄は先に弔問から戻っていたが、客は園田がその朝は初めてだった。約
1時間して出てきた園田。車中「善幸に決まった」と。「それは妥当なと
ころでしょう。大平派の後継者でもあるし」と私。

大平の死で有権者の同情は自民党に集まって総選挙は、大勝。分裂寸前
だった自民党を結束させ、抗争なしで鈴木政権は成立したのだった。

<「増税なき財政再建」を公約とし、1981年3月には臨時行政調査会を設
置し行政改革を最大の課題とした>。(同)

9月になって厚生大臣齋藤邦吉の不正献金がばれて辞職。その後任に園田
が推されたのは、多分に角栄の押しがあったと思われた。

<1981年1月鈴木首相が東南アジア諸国を歴訪、5月には日米首脳会談を開
き日米「同盟関係」を明記し、西側陣営の一員としてアメリカの対ソ戦略
に協力していく姿勢を明らかにした>。

しかし鈴木首相は首脳会談では、そんなことは話題にならなかったと一旦
は否定。共同声明から軍事同盟云々を消そうとした。日米の首脳が会談す
るという事は要するに日米安保体制を確認し、軍事同盟を再確認する事だ
という外交上の初歩的知識に首相は欠けていたのだ。

この混乱で鈴木首相は党内で孤立感を深めた。同一派閥であった外相伊東
正義が辞任した後を埋めるのに、厚生大臣のピンチヒッターだった園田を
またピンチヒッターにした。

しかし、園田は糖尿病が悪化。外遊しても飛行機から車まで歩けない場面
がしばしばとなった。マニラではとうとう日米首脳会談の共同声明なんて
どうでもいい軽い問題でしかない、といった趣旨の問題発言をして政権の
足を引っ張った。

事後になって鈴木は日米首脳会談について「オレは踊り(外交)の素人なん
だから、手ぶり身振りの最後まで教えないと踊れないよ。教えない外務省
が悪い」といった。外務省側は「初歩知識をお教えするのは失礼に当る
か、と」。

政治における知識や情報の扱い方はビジネスの世界とまるで異なる。ビジ
ネス界は「儲け」で一丸となっているが、政治の世界では役人と政治家の
間に抗争が隠されていたり、遠慮がはさまれたりして要は単純ではない。

しかし1982年6月2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって「増税なき財政再
建」は破綻し、行政改革も自民党・官僚の抵抗で後退を余儀なくされた。

さらに日米経済摩擦、日韓経済協力、教科書記述に対するアジア各国から
の批判といった難問を適切に処理できず、内外ともに手詰まりの状態のな
か、1982年10月12日突如退陣を表明した。

鈴木政治は難問を先送りにして解決を図るといった消極的姿勢を特徴とし
ていた。また党幹事長に二階堂進を起用するなど田中角栄の影響力を強く
受け「角影内閣」との異名をとった。>

日本大百科全書(小学館) (文中敬称略) 2010・4・4

2016年10月12日

◆患者自己注射物語

渡部 亮次郎



日本で糖尿病患者が治療薬「インスリン」を患者自身で注射して良いと決
断した厚生大臣は園田直(そのだ すなお)である。インスリンの発見か
ら既に60年経っていた。逆に言えば患者たちの悲願を歴代厚生大臣が60年
も拒否するという残虐行為をしてきたのである。

園田自身も実は重篤な糖尿病患者であった。しかしインスリンの注射から
逃れていたために大臣在任中、合併症としての腎臓病に罹り、1週間ほど
緊急入院したくらい。大変な痛がり屋。引きかえに命を落とした。

政治家にとって入院は命取り。大臣秘書官として事実を伏せるために余計
な苦労をしたものである。にも拘らず園田はそれから僅か3年後、人工透
析を途中で拒否したため、腎不全のため70歳で死亡した。昭和59(1984)年
4月2日のことだった。

その直後、私が糖尿病を発症した。全く予期せざる事態に仰天した。糖尿
病は現時点の医学では絶対治らない病気、いうなれば不治の病というから
業病(ごうびょう)ではないか。絶望的になった。

検査などの結果、私の母方の家系に糖尿病のDNA(かかりやすい遺伝子)が
有り、弟は発症しないできたが、上2人の男兄弟は暴飲暴食による肥満が
契機となって発症したものと分かった。

しかし、あれから30年近く、私は毎朝、ペン型をしたインスリン注射を繰
り返すことによって血糖値を維持し、今のところ合併症状も全く無い。普
通の生活をしていて主治医からも「文句の付けようがありません」と褒め
られている。お陰で園田の年を超えた。

これの大きな理由は注射針が極細(0・18mm)になって殆ど痛みを感じなく
なったからである。あの時、園田が自己注射を決断したお陰で医療器具
メーカーが、患者のためと自社の利益をもちろん考え、針を細くし、簡単
に注射できるよう研鑽を積んでくれたからである。

逆に言えば、厚生省が自己注射を許可しないものだから、医療器具メー
カーは、それまで全く研鑽を積まないできてしまったのである。自己注射
で注射器や針がどんどん売れるとなって初めて研鑽を積む価値があるとい
うものだ。

つまり役人や医者の頭が「安全」だけに固まっている限り医療器具は1歩
たりとも前進しないわけだ。患者たちを60年も苦しめてきた厚生省と日本
医師会の罪こそは万死に値するといっても過言ではない。

そこで常日頃、昭和56年までの糖尿病患者たちの苦しみを追ってきたが、
最近、やっとそれらしい記事をインターネット上で発見した。

「インスリン自己注射への長い道のり」(2001/05/28 月曜日)と題するも
ので、とある。
http://www.geocities.jp/y_not_dm/insurin2.html



東京女子医科大学名誉教授 福岡白十字病院顧問 平田 行正氏へのイン
タビュー記事「インスリン自己注射の保険適用から15周年を迎えて…」よ
り抜粋と要約

<インスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)です。欧米では供給
のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められました。しかし、日本で
は60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もありませんで
した。

当時の日本では、医療は医師の占有物だとする古い考え方が根強く、医師
会はもちろん、厚生省の役人の中にも、何もインスリン注射をしなくとも
飲み薬があるではないか、と平気で発言する人もありました。

インスリン注射が必要不可欠な糖尿病患者は、インスリンを自費で購入
し、自ら注射するという違法行為でもって、生命をつないでいました。

インスリン発見50周年にあたる昭和46年、糖尿病協会は全国的な署名運動
を行い、3ヶ月足らずで11万4,000名の署名を集めましたが、厚生省から
は、「国としては、正面きってこれを取り上げるのは難しい」という回答
が繰り返されました。(佐藤内閣で厚生大臣は内田常雄に続いて齋藤昇)。

中央官庁の理解が得られず、困り果てた医療側や自治体はあの手この手で
知恵を絞り、自己注射公認まで持ちこたえました。

昭和56年(厚生大臣 園田)、各種の努力によりインスリンの自己注射が
公認され、その5年後には血糖値の自己測定が公認されました。保険適用。

医療は医師だけのものではなく、患者と共に手を携えて行うべきものだと
いうことが公認された、医療史上最初の出来事です。

インスリン自己注射公認までの悪戦苦闘

長野県・浅間病院と県の衛生課や医師会などが協議して、生み出した苦肉
の策。患者の来院時にインスリンを1本処方し、その一部を注射して、残
りを渡して自己注射する。毎月1〜2回患者から直接電話で報告を受ける
ことで、電話再診料として保険請求した。

新聞が長野方式として報じたため、厚生省から中止命令。

バイアル1本を処方して、注射後捨てたものを患者が拾って使用した、と
いう言い逃れ。来院時に400単位を1度に注射したことにして、1〜2週
間は効いている形にした>。


1986年、研究のスタートから10年目、
血糖自己測定が健保適用に  (2003年9月)
 血糖自己測定を導入した糖尿病の自己管理がスタートした頃(1976
年〜)、今では誰もがあたりまえと思っているインスリン自己注射は、医
師法に違反するという非合法のもとで行なわれていた。日本医事新報
(1971年)の読者質問欄ではインスリン自己注射の正当性について、当時
の厚生省担当官は「自己注射は全く不可であり、代わりに経口血糖降下剤
の使用があるではないか」と回答している。これが1970年代の実態だった
のである。このような状況に対して、当時の「日本糖尿病協会」は、イン
スリン発見50年を迎えて、なおインスリン自己注射が認められない現状を
打破すべく10万人の署名を集めた。そして厚生大臣をはじめ関係各方面
に、インスリン自己注射の公認と健保給付を陳情したが全く受け入れられ
なかった。

正当化されたインスリンの自己注射(1981年)
 このような状況だったため、インスリンの自己注射容認と、インスリン
自己注射に関わる諸費用の健保適用までには、なお多くの人の尽力と歳月
を要した。そして結果が出たのは1981年(昭和56年)。この年ようやくイ
ンスリン自己注射の正当性の認知とこれの健保適用が得られた。その内容
は当時行なわれていた慢性疾患指導料200点に、もう200点加算するという
ものであった。これはその後の医療のあり方に大きな影響をもたらし、血
糖自己測定も含め、患者を中心にした医療の実践の必要性と有用性の実証
へと繋げられていった。


<血糖自己測定の健保適用(1986年)(園田死して2年後)

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\血糖自己測定25年.htm

インスリン自己注射の健保適用から5年後、私たちが血糖自己測定研究を
スタートさせてから10年目、大方の予想を上回る速さで血糖自己測定の健
保適用がなされた。これはインスリン自己注射指導料に加算する形で設定
された。

以後、何度かの改定を経て、保険点数には血糖自己測定に必要な簡易血糖
測定機器、試験紙(センサー)、穿刺用器具、穿刺針、消毒用アルコール
綿など必要な機器や備品の全ても含まれるようになっている>。

1人の政治家の柔軟な頭脳による1秒の決断が日本の歴史を変えたといって
もいい決断だった。この事実を厚生省は大げさに発表しなかったが、元秘
書官として責任をもって報告する。(文中敬称略)2007・05・24

2016年10月11日

◆いもち病(稲熱病)の怖さ

渡部 亮次郎



「蓑(みの)着て笠(かさ)着て鍬(くわ)持って お百姓さんご苦労さ
ん」という童謡がNHK第1放送から流れていた時代がある。明治でも大正で
もない、昭和も敗戦直後、1947、8年ごろだった。食糧難の時代、国民みん
なして百姓にゴマをすったのである。

蓑や笠を着る百姓は今やどこにも存在しない。すべて機械化して田圃から
は女性が姿を消した。田植えも稲刈りも機械がやるし、除草は農薬が解決
してくれた。結果、農村からは猫背、蟹股、腰曲がりが居なくなって久しい。

しかし、その代わり、田圃から女性と共に居なくなったのが泥鰌(どじょ
う)とトンボである。稲作の大敵「いもち病」を防除すべく禁じ手「水銀
系農薬」を使ったからである。「いもち」はそれほど恐ろしい。今でも恐
ろしい。

「いもち」とはイネに対する最も普通の病気で,穂,葉,茎などに発生し
て大害を与える。とくに山間,北部地域では,いもち病との闘いが稲作の
大きな課題であった。この事情を反映して,日本植物病理学の分野では最
も多く,また深く研究されてきた病害である。

穂に発生すると発病部位から先の方は実らないので、「穂首いもち」は被
害が深刻である。「葉いもち」、穂いもちとも同じ菌によって起こるが、
発生の様相としては、比較的葉いもちが多くて穂いもちの少ない南日本型
と、逆に葉いもちよりも穂いもちの多い北日本型がある。

若いイネに激発すると株全体が萎縮して枯れてしまう。この病状を「ずり
込みいもち」という。防除に失敗すれば収穫ゼロ。

防除薬剤としては,戦前はボルドー液万能であったが,戦後一時期有機水
銀剤が脚光を浴び目覚ましい効果を挙げた。これが禁じ手と気付いて止め
たものの遅かりし。泥鰌は死滅した。

現在では抗生物質剤(ブラストサイジンS、カスガマイシンなど)や有機リ
ン粒剤などが使われている。

いもちは一般に,日照不足,多雨,低温のときに病気が多く,またイネの
体内に遊離の窒素成分が多く,ケイ酸が少ないときに発生が多い。

いもち病の発生程度は年次によっても異なり,ほぼ10年周期で大発生が記
録されている。昭和年代に入ってからは,1934(昭和9)年の稲作冷害が
有名で,東北地方では娘の身売など深刻な社会問題が発生した。

陸軍のクーデター「2・26事件(1936年)」の背景であるが、この不作には純
冷害のほかにいもち病による被害が大きかった。

戦後では,53(昭和28)年,63(38)年,74(49)年に大発生をみている。

的確な防除を行うには発生を予察することが肝要である。以前から気象条
件,イネの体質,胞子の飛散などを知って穂いもち病の発生を予測してい
たが,近年コンピューター導入で,大量のデータからの予察も試みられて
いる。

日本ではじめてこの病気が記録されたのは,1679年(延宝7)の《永禄以来当
院記録年鑑》(広積院祐栄書)とされるが,その後の《耕稼春秋》(1707ごろ)
の記載が人口に膾炙(かいしや)している。

イネ品種によってかなり抵抗性に違いがみられる。外国イネには強度の抵
抗性のものがあるが,日本在来の品種は概してかかりやすい。

従って日本にいける稲の品種改良は、収穫量、食味の追及とともにいもち
など稲の病害虫に対する抵抗力の研究に重点が置かれてきた。

最近は外国イネの強い抵抗性因子を導入した品種も育成されている。しか
しせっかく抵抗性品種ができても突然ひどく罹病してしまうことがある。
これはレース新生のためであることが多い。

レースrace とは形態が同じでありながら病原性の異なる菌で,日本には
今16以上のイネいもち病菌レースが知られている。

ここ数年 Pyricularia属菌の菌学的な研究が進み,イネいもち病菌とシコ
クビエいもち病菌の交配によって有性胞子が形成され,またイネいもち病
菌がタケに寄生性のあることが知られるなどして,菌の所属について検討
される時機にある。資料 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアン
ドサービス 2008・07・07


2016年10月09日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎



1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07


2016年10月07日

◆尖閣騒擾はアメリカの責任

渡部 亮次郎



ま尖閣諸島返還問題に関して1971年当時の繊維交渉が関わっていたとされる。
尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還されたが、尖閣諸島の日本
への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的
な意見が多かったとされる。

その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするた
めにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国
政府の外交文書ふら明らかになっている。(ウイキいペデイア)

このことについて10日発売の月刊誌「文芸春秋」7月号は<スクープ ホワ
イトハウス極秘テープ発掘>「尖閣領有 アメリカは日本を裏切った」とす
る早稲田大学大学院客員教授 春名幹男さん執筆の記事を掲載した。たし
か元共同通信ワシントン支局長だった方である。

春名氏は冒頭、次のように指摘している。
「尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立、緊張は長期化し,一蝕即発の危
機も想定される事態が続いている。・・・中国が公船を派遣して挑発し続
けているのはなぜか。

その一因はアメリカ政府の態度にある。尖閣諸島が日本の施政権下にある
ことを認める一方で、同時に領有権争いが存在することも認め「当事者間
で解決すべき問題」との立場をとっているからだ。当に中国は、米国が領
有権争いの存在を認定しているからこそ、挑発を続け,尖閣諸島を奪い取
ろうとしちるのだ」。

春名教授は過去5年以上に亘って米国立公文書館などで、機密解除された
米外交文書、「キッシンジャー電話会話記録」など大量の文書を読み解いた
結果,これまで知らされていなかった真相を突き止めた。アメリカの”あ
いまい戦略“の根本は、沖縄返還の裏で展開された米国と台湾との交渉に
あったのである、としている。

当時、「米中接近」で権謀術数をめぐらしていたニクソン=キッシンジャー
外交は日本との沖縄返還協定の調印直前、台湾側の要求を容れ手「沖縄諸
島の施政権を日本に返還しても中華民国(台湾)の領有権の主張を侵すこと
はない」との政策をまとめていたのである。しかし、日本側にはきちんと
説明されないまま、現在に至っているのだそうだ。

当時、アメリカは沖縄返還問題と並んで「繊維交渉」をかかえていた。わ
れわれは日米間だけの問題だったと思ってしまうが、アメリカは実は台湾
とのあいだでも懸案になっていたのである。この問題はニクソン再選への
高いハードルになっていた。

こうした中で台湾はアメリカが沖縄を日本に返還しても尖閣列島を返還か
ら除外するなら「繊維交渉を受諾する、との挙に出た。沖縄返還協定調印
の直前だった。

これにはホワイトハウス内部でももめたが、結局、尖閣の帰属は日本、台
湾の交渉に任せるという形で沖縄返還問題は進んでいったが、台湾と日本
の話し合いは進行しないままで終わった。アメリカは世界を驚愕させた
「ニクソン訪中」を発表した1971年7月15日の6日後、尖閣諸島の主権問題で
日本に対して台湾と話し合うよう「説得」工作を突然、中止した。

だから春名教授は言う。「そもそもアメリカは尖閣諸島の主権返還におい
て「当事国」であったはずだ。それが、日本側に十分な協議も説明もなく、
台湾との妥協を強引に進め、最後には台湾との交渉を日本に押し付けたこ
とになる。その“無責任”な対応がいま深刻なつけとして、東アジアに暗い
影をおとしているのだ。

このころ政治記者としてNHKにいた私は思い出す。「繊維交渉が解決しな
ければ佐藤栄作首相の悲願たる沖縄返還は絶対実現しない」。佐藤はニク
ソンに会うたび「善処」しますと約束しながら頼みの通産大臣大平正芳も
宮沢喜一も解決、

しまいにヤケをこしたように嫌がる田中角栄に通産大臣を振ったところ、
角栄はあっとに片付けた。大平や宮沢はことを外交問題と考えて,かえっ
て問題をこじらせたが、田中は国内問題と理解。補助金2000億円でぴしゃり。

直後。佐藤は福田赳夫外務大臣と田中通産大臣を従えてニクソンにあい、
自分の後継者として福田を紹介するつもりだったがニクソンは会ったら角
栄ばかりを歓迎。そのまま田中政権の誕生につながっ。
佐藤は「糸(繊維)で縄(沖縄)を買ったと揶揄されながらノーベル平和賞を
受賞。角福はともに晩年は不遇だった。2013・6・13前田正晶

2016年10月05日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎



50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれであ
る。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対
し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、
北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づか
ない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」で
ある。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長(当時)
の発言には仰天した。中川昭一政調会長(当時)や麻生太郎外相((当
時)が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になり
かねない」と、安倍晋三首相まで持ち出して“封殺”する構えだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可
能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。この
ギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、
かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船
やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止し
た。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはず
なのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくと
するこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまい
か」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど
「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有
国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特
異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者の
しりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4
原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査に
よれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えて
いる。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成
18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載
「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死
す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」
であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党など
は開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主
張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般につ
いて統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山
氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろう。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私
の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、こ
の時期についての理解は小説のみに依存していた。

阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中
首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれら
のすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見
方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保
7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山
市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座で
あった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座とな
る。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を
求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、
ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神
奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉
永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大
統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商
を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸
大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが
経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかた
ちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間
続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派
の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派で
あった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首
座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は
江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆
らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを
創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改
革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死
する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後ま
で拒んだという。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2006・11・10

2016年10月04日

◆日本のカイロプラクティック

渡部 亮次郎



日本のカイロプラクティックの歴史は1916年にパーマースクールを卒業
した川口三郎が帰国して横浜で開業したことに始まります。1918年には
神奈川県で「カイロプラクティック取り締まり規則」が制定されました。

1930年に東京府警視庁が「療術行為取締規則」を制定し、カイロプラク
ティック手技は「療術」の一部と定義され各県庁への届出によって営業
が許可されました。

1923年には日本初のカイロプラクティック団体「日本カイロプラクティッ
ク協会」が1921年ナショナルスクール卒業の大澤昌壽、1921年ラトレッ
ジカレッジ卒業の小平粂重によって設立されました。

また美座時中など海外のカイロプラクティックを視察し自己で研究して
日本に積極的に紹介しようとした者もいました。

戦前、アメリカで教育を受け日本に帰国したDC(ドクター・オブ・カイ
ロプラクティック)は14人ほどいました。日本人初のDC、森久保繁太郎
はパーマースクール卒業後アメリカに残りました。

川口三郎を初め、田中酉造、芹野伊勢吉、金沢督、大澤昌壽、小平粂重、
千葉忠八、播谷高山、横矢重孝、鈴木泰三、櫻庭豊、鴫原伊直、桜井真
一、桜井静子。戦争により1930年代から留学者が途絶え、1969年にナショ
ナルカレッジを卒業した竹谷内一愿が戦後初のDCとして帰国しました。

戦後、GHQは医師以外の医業類似行為一切を禁止しようとしましたが、幾
つかは難を逃れ制度化されるに至りました。療術に関しては1955年まで
既得権を認められ営業が許可されました。

1947年に全国療術協同組合(現在の全国療術師協会)が結成されて、
1955年の禁止期限中止を求めて活動した為、ようやく1964年に禁止期限
の解除が認められました。

1960年にはHS式無熱高周波療法を行った元炭坑夫が無資格で「按摩師等
方違反」に問われた事件で、最高裁判決は「人の健康に害を及ぼす恐れ
がある医業類似行為にのみ処罰を与える」と言う判決を下しました。

つまりカイロプラクティックを含めた療術治療は有害な場合だけ制限が
あり、無害なら罪にはならないという結果になったのです。この件は
1964年に再度仙台高等裁判所に差し戻され「人の健康に害を及ぼす恐れ
のあるもの」となり有罪で終結しました。

1961年に日本で初めてカイロプラクティックの7団体が団結し「日本カ
イロプラクティック総連盟」(初期は全日本カイロプラクティック総連
盟)が設立しました。7団体は「日米カイロプラクティック協会」(伊藤
緑光会長)、関西カイロプラクティック協会(長井幸男会長)、日本カ
イロプラクティック協会(松本茂会長)、日本カイロプラクティック医
連盟(岸田菱山会長)、全日本カイロプラクティック協会(保坂岳史会
長)、山形カイロプラクティック協会(斉藤利雄会長)、日本カイロプ
ラクタース協会(吉田盛豊会長)。

その後、東京カイロプラクティック協会(竹谷内米雄会長)、香川カイ
ロプラクティック協会、藤川整形外科カイロプラクティック協会(藤川
淳敏会長)、北陸カイロプラクティック協会(木村順二会長)、関東カ
イロプラクティック協会(中島美翠会長)オリエンタルカイロプラクテ
ィック協会(山田新一会長)、旭川カイロプラクティック協会(安原岩
夫会長)、手技整形カイロプラクティック研究会(塩川満蔵会長)の計
15団体が加盟し、アメリカ発祥のカイロプラクティック普及に貢献した
治療家達、伊藤緑光、松本茂、竹谷内米雄が所属していました。

1961年、最高裁判決を踏まえ、衆議院社会労働委員会での質疑で「無届
療術行為者の看板掲示は、医師法・医療法等の規定に反しない限り、職
業選択の自由により制限されない」と答弁しています。

按摩・マッサージ・指圧とカイロプラクティックの関係について、1970年
宮城県知事の紹介に対して厚生省医務局長は「カイロプラクティック療法
は脊椎の調整を目的とする点において、按摩・マッサージ・指圧に含まれ
ないものと解する」と回答しています。

「整体」や「指圧」は中国から伝わった按摩などの治療法を日本独自に
江戸時代までアレンジを加えて発展させてきたものに、明治後期以降海
外から輸入されたカイロプラクティック(創始者パーマー)、オステオ
パシー(創始者スティル)、スポンディロセラピー(創始者エイブラム
ス 後に衰退)などの脊椎に働きかける手技療法の理論と技法を導入し
誕生したものです。

指圧は1964年、柔道整復師が後に単独法になったため「あんまマッサー
ジ指圧師法」が制定されて、浪越徳治郎の経絡を押す母指圧が主流にな
りました。初期には視覚障害者を保護する目的で制定されましたが現在
では健常者も治療にあたっています。

整体は明治後期から大正にかけて「正体」「整體」など様々な表記がさ
れ昭和初期から「整体」という言葉が主流になりました。この頃、平賀
臨、玉井天碧、高橋迪雄、平田内蔵吉などの治療家が普及にあたり多く
の著書を出しました。

戦後は高橋迪雄の影響を受けた野口晴哉、橋本敬三などが活躍して、業
界では整体を統一する試みがなされましたが成功しませんでした。現在
でも整体の定義は曖昧で様々な治療法が乱立しています。中にはカイロ
プラクティックのテクニックを取り入れて整体と標榜しているところも
多くあります。

1991年、厚生省は「医業類似行為に対する取り扱いについて」の通達を
各都道府県庁に送り、「カイロプラクティック療法の医学的効果につい
ての科学的評価は未だ定まっておらず、今後とも検討が必要である」と
の見解を示しました。

この通達は三浦幸雄研究グループの「脊椎原性疾患の施術に関する医学
的研究」をもとに禁忌対象疾患の認識、一部の危険な手技の禁止、適切
な医療受療の遅延防止、誇大広告の規制を促しました。

以降、今でもカイロプラクティックは免許制度(国家資格)がない医業
類似行為に分類されています。世界では80カ国以上の団体が加盟するWFC
(世界カイロプラクティック連合)が1988年に設立されたり、WHO(世界
保健機関)がカイロプラクティックを代替医療として認めたり、2005年
に「カイロプラクティックの基礎教育と安全性に関するガイドライン」
を発行したりしています。

世界の中で大きく出遅れている日本の問題点は、カイロプラクティック
を標榜していてもWHO基準のカイロプラクティック学校で教授されている
ものとは全く異なる技術や理論を学び実践している「自称カイロプラク
ター」が非常に多いことです。

海外で正規なカイロプラクティックを取得した者の一部が、WHO基準以下
の学校やセミナーで「自称カイロプラクター」を送り出しているという
矛盾点もあります。またそのために他の医師や医業類似行為者の理解が
得られず、結果として厚生労働省もカイロプラクティックの免許制度を
保留したままです。

1995年にはアジアや日本で初めてのCCE(カイロプラクティック教育審議
会)アクレディテーションを取得したRMIT大学カイロプラクティック学
科日本校(現在の東京カレッジオブカイロプラクティック)が開校しま
した。

現在WFC(世界カイロプラクティック連合)日本代表団体である
JAC(一般社団法人日本カイロプラクターズ協会)が1998年に設立され
WHOのガイドラインの基準に沿った形でカイロプラクティックが法制化さ
れるよう活動しています。