2008年04月14日

◆金賢姫の動静は不明



        渡部亮次郎

2007年に アメリカに向けて、亡命のために出国したとの情報が流れるも
現在、大韓民国政府並びに韓国のアメリカ大使館はこの情報を否定。し
かしその後の動静は不明である。

大韓航空機爆破事件の金賢姫死刑囚の特別赦免を韓国政府が決定したの
が今から16年前の1990年の昨日4月12日であった。

大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日、イラク・バグダッドから、ア
ラブ首長国連邦アブダビ、タイ・バンコク経由、韓国・ソウル行きの大
韓航空858便・ボーイング707型機が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
の工作員によって飛行中に爆破された航空テロ事件である。乗客・乗員
115人が犠牲となった。

乗客の殆どは中東から帰国する出稼ぎ韓国人男性。事件直後、バグダッ
ドで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した不審な男女2名がいた。

この2名は日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンにガルフ航空
機で移動し、同国のマナマのホテルに宿泊していた。

韓国当局もこの「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っ
ていたため、当地の韓国大使館代理大使が、その日の夜に接触した。

これは事件の直前に日本赤軍の丸岡修が日本の東京で逮捕されたが、丸
岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行き
を計画していたことが明らかになっており、日本赤軍が本拠地とする中
東が舞台であることから、事件の関与が疑われていた。

そのため韓国当局は早い時点で2人をマークしていた。また日本政府当局
は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。

この2名はバーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとして
いた為、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、その場
で旅券を確認したところ、偽造であると判明した。

日本大使館には身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、
警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸
うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服
毒自殺した。同伴の女も自殺を図ったが一命を取りとめた。

バーレーン警察による取り調べが行われた後、女の身柄は12月15日に韓
国へ引き渡された。その時彼女は自殺防止用のマスクを被せられていた。

ソウルの国家安全企画部で尋問が行なわれたが、女は当初日本人になり
すまし、ついで黒龍江省出身の中国人「百華恵」であると供述、容疑を
否認し続けた。

しかし、取調員からの「普段愛用している服のブランドは?」という質
問に、韓国のブランド名を答えてしまった事から日本人でない事がばれ、
この事をきっかけに一連の航空機爆破の犯行を認め、北朝鮮工作員の金
賢姫(??? キム・ヒョンヒ)であることが判明した。

なお金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾
が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2
人の座っていた機体前方の7A,7B近くのラックの中に入れており、爆発物
は彼女がバックの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。

金賢姫(キム・ヒョンヒ、1962年1月27日―)は、現在46歳。

大韓航空機爆破事件を実行する為「李恩恵」と呼ばれる女性から1981年7
月―1983年3月まで東北里2階3号招待所で日本語教育(日本から拉致され
た田口八重子とみられている)を受け、「蜂谷真由美(はちや まゆみ)」
という名の日本人になりすました。

事件の折り現地バーレーンの警察に捕まる直前、「蜂谷 真一(はちや
しんいち)」と言う名の日本人になりすましていた共犯の金勝一(キム
・スンイル)と共に、煙草を吸うふりをして服毒自殺を図る。

が、金賢姫だけは一命を取りとめた(金賢姫は全く毒物を服用していな
いと言う意見もある)。

その後、韓国国家安全企画部(国家情報院)に引き渡され尋問される際
も中国語や日本語で返答していたが、隠し切れずに自白した。自白後、
聖書を通してイエス・キリストを知り、ソウルのヨイドにある中央浸礼
教会で受浸、クリスチャンになった。

日本語が堪能。北朝鮮で李恩恵と一緒に暮らし、日本の文化や習慣、料
理などを習得した。ちなみに、好きな歌手は山口百恵で、日本の民謡だ
けでなく山口百恵の曲も多く歌える。

父 ― 金元錫。
母 ― 林名植。開城出身(朝鮮戦争前は韓国領)のため隠していた。
妹 ― 賢玉。結婚していたが、夫は心臓麻痺で死亡。
弟 ― 賢洙。
弟 ― 範洙。15歳で皮膚癌で死亡している。

1962年1月27日 外交官キューバ駐在の北朝鮮大使館3等書記官の父と教
師の母との長女として生まれ、生後間もなく父の赴任先であるキューバ
へ。4歳の時に北朝鮮の首都平壌に帰国。

1989年、死刑判決が確定したが、翌1990年 韓国政府によって特赦される。
それが4月12日だったのだ。この特赦は政治的配慮からで、北朝鮮当局か
らの強い要請によるものとされているが未確認。

特赦後、外交官であった実父を含む家族が強制収容所に収容されたこと
を知らされる。

1997年、日本テレビのスペシャル番組「あの人は今!?」に出演。その際、
市川森一にコロッケなどをご馳走した。

1997年、」ボディーガードであった元国家安全企画部員の男性と結婚し
た。その後名前を変え、男児を出産し、ソウル市内で普通の主婦として
暮らしていた。

2005年、国家情報院が事件の再捜査を決定。証人として金賢姫が証言す
る事になった。

しかし、2007年、アメリカに向けて、亡命のために出国したとの情報が
流れたが、現在、大韓民国政府並びに韓国のアメリカ大使館はこの情報
を否定。とはいえ その後の動静は不明である。

後になって、そもそも大韓航空機爆破事件が韓国の国家安全企画部(現
・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのかという疑惑が浮上。

これについて2005年2月、国家情報院の「過去事件の真実究明をとおした
発展委員会」が事件の再捜査を決定。だが、現時点では金賢姫本人の証
言の見通しは立っておらず、実現の可能性は皆無と言う見解である。

事件直後に東ヨーロッパや中東における、金賢姫と金勝一の足跡を丹念
に追った日本人ジャーナリスト野田峯雄は、バーレーンの病院で担当医
師から証言を得た。

それは「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常も見られな
かった」というものだった。ここから金賢姫は本当に北朝鮮の工作員な
のかと問いかけた『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイた
ちの肖像』(JICC出版局)を1990年に発表している。

さらにこのノンフィクションを参考にして韓国の作家が2003年、事件は
韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略ではないのか
という疑問を呈した小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・04・11



2008年04月11日

◆ラジオ歌謡の頃

渡部亮次郎

最近、メルマガを通じて知り合った前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。

ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラジオ歌謡」だった。

その前から田舎の家の向かいに1級上の友達がおり、兄さんの買ってきたレコードを蓄音機に載せて聞かせてくれた。霧島昇、東海林太郎、藤山一郎、渡辺はま子、二葉あき子らの歌を小学生が繰り返し聴くのだから頭に染み付く。

それから親父がラジオを買ってきた。戦争に負けて2年経っていた。
当時は民放がまだ無い。NHKでは「ラジオ歌謡」を聴くようになり、高校3年(1958年)、NHK秋田放送局の「のど自慢」に出場して「チャペルの鐘」を歌った。

NHKラジオはなぜかジャズを放送しなかった。さりとてプレイヤーが無いから無理にジャズに親しむ機会のいないまま青春は終わった。終わりは「うたごえ酒場」だった。

ラジオ歌謡(らじお かよう)は、1946年から1962年までNHKラジオ第1放送 (JOAK)で放送されていた歌番組である。

戦前、「健全な歌で、国民の音楽文化の啓発を」の目的で始められた「国民歌謡」が、1940(昭和15)年頃を境に戦意高揚、思想統制の道具とされてしまったことを受け、敗戦後、再び国民歌謡の初心に戻って始められた番組が『ラジオ歌謡』だった。

また、戦後間もなくヒットした映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさにうちひしがれていた国民の大いなる慰めになったのも、番組登場のきっかけになった。

第1作は1946年5月の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎(やまごや)の灯(ともしび)」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」など、現在も叙情歌として親しまれている作品が数多く発表された。

1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりもラジオ歌謡に登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。

番組では、ただ歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことに配慮したためである。

続きを読む≫≫

2008年04月10日

◆解散風に福田首相は?

渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」・主宰)


福田首相は辞めないのか、という声が次第に高まる中で小泉元首相や古賀選対委員長が解散、総選挙近しを感じさせる「挨拶」を放った。

<小泉元首相 「大事ななんとかの風」 解散総選挙近し?
小泉純一郎元首相は7日夜、横浜市内のホテルで開かれた自民党神奈川県連のパーティーであいさつし、「そろそろ大事ななんとかという風が吹き出した気がする。

前回の衆院選のときの圧勝というのはそうあるものではない。よほど気を引き締めなければならない」と述べ、衆院の解散総選挙の時期が近づいているとの認識を示した。

その上で、小泉氏は「ねじれ国会というが、大きな時代の変化が到来した。首相のときに『大胆かつ柔軟に』という言葉をよく使ったが、今これが大事だ。強い者が生き残るとはかぎらない。政治家も政党も変化に対応できる者が生き残っていく」と強調した。

一方、古賀誠選対委員長も同じパーティーで「年内の解散はないと言い続けてきたが、私も年内の選挙はないとは言わずに、もう危ないぞと言わせていただかなければならない。全力で逆風のなかで立ち向かっていきたい」と述べた。>産経新聞 2008.4.7 20:30

衆院の解散権を持つのは福田康夫首相だから、端で騒ぎ立ててもどうにもならないように見えるが、首相の支持率が「危険水域」の30%を大きく割った直後、両氏の発言の真意をめぐって党内はざわついている。

特に福田政権樹立に最大の力を尽くした野中廣務氏に近い古賀氏が、選対委員長としての立場でありながら突如、解散を口にしたことの意味は大きい。これで野中氏が福田離れを始めたと受け取った向きもある。

また小泉氏の福田支持は元々消極的なものだったから、解散風を煽る発言は福田支持終了を宣言したと受け止める向きも多いことだろう。

肝腎の福田首相は洞爺湖サミットで念願の「議長」を務めることで政局の主導権を固め、場合に依っては内閣改造を匂わせて難局を乗り切ろうとしている。

こうした動きに対して野党民主党は小澤一郎代表がサミット前の解散を狙っている事を先に明らかにしている。伝えられるところでは衆院本会議への欠席が続くなど健康状態の悪化は否定できない状態らしいし、党内の掌握にも難点があるようだ。

そうした中、日銀人事について財務省出身の渡辺博史・一橋大教授を副総裁とする政府案を小澤氏は認めない、鳩山幹事長は認める、と完全に意見対立が表面化するなど党内に亀裂が走ったかに見えたが、小澤主張が通ったようだ。

<日銀人事、民主が渡辺副総裁案に不同意

民主党は8日夜の役員会で、政府が国会に提示した日銀人事案のうち、副総裁候補である財務省の前財務官、渡辺博史・一橋大教授(58)について、不同意とすることを決めた。> 4月8日20時34分配信 読売新聞

これで福田首相の日銀人事案は3度否定されたわけで益々沽券にかかわる事態となった。世論の支持率はさらに低下する事、必至である。そこへ仕掛ける自民党実力者からの解散風は、めぐりめぐって首相の足を引っ張る事は確実である。つまり小泉、古賀(野中廣務)の福田離れを証明したようなものだ。

新聞もTVも慎重だからこのところの政界の動きを何も報じない。しかし見えないところで解散風と共にポスト福田の動きが激しく渦巻いている事は確実である。文中敬称略。2008・04.08

2008年04月09日

◆サミット議長への悪夢

                   渡部亮次郎

福田康夫首相は洞爺湖サミットでの議長に執心しているのは父の赳夫首相(故人)が日本で初めてのサミット(東京)開催を目前にしながら果たせなかった、その夢を果たしたいからだ、とマスコミはかしましい。

しかしそれは赳夫首相が幹事長大平正芳との「密約」を一方的に反故(ほご)にして大平の名誉を傷つけた果てに、大平に総裁選で敗北したからである。私は目撃者だ。NHK]政治記者から赳夫内閣の外務大臣秘書官だったからだ。

田中角栄内閣がその金脈で倒れた後、レフトの三木武夫が金銭のクリーンを名目に後継に指名されたが、田中にその後襲い掛かった
ロッキード事件による逮捕に不満を持つ田中は昵懇の大平正芳やライバルの福田赳夫を語らって三木政権を潰した。

これがいわゆる挙党協による三木潰しである。田中は早くから大蔵官僚(主計局長)上がりの福田をライバル視し、悉く争い、結局は総理総裁レースでは自分が制したものの、福田にその椅子を譲る気は持たなかった。

しかし今は三木潰しが先である。自分が表に出るわけに行かないから
<1976年8月19日、反主流(田中派、大平派、福田派、船田派、水田派、椎名派)6派が中心になって自民党議員277人で挙党体制確立協議会(挙党協)を結成させ、代表世話人に船田中元衆議院議長が就任した。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

挙党協は反三木では一致していたが、三木退陣後の構想については福田赳夫と大平正芳のどちらが次期首相になるかで絞りきれていないもろさが存在していた。

三木首相は1976年9月10日、臨時国会召集を決める閣議で衆議院解散で対抗しようとする。一方、挙党協に参加している15名の閣僚は、解散の文書に署名しないことで対抗する。

三木首相は解散に反対する閣僚15名を罷免してまでして、解散権を行使することも考えていた。結局、三木首相は閣僚を罷免してまで解散権を行使せず、結局、執行部は9月15日に内閣改造で一旦は、決着を付けた。

その後、三木は解散権を行使できないまま、日本国憲法では初の任期満了による総選挙となった。挙党協議員は自民党公認を受けたものの、挙党協は党本部と別に選対本部を設置し、自民党分裂選挙の様相を見せた。

総選挙で自民党は過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、それでも改選前8議席減の惨敗であった)、三木内閣は責任を取って退陣した。

その後、福田赳夫と大平正芳はポスト三木を福田とする大福密約を締結、大角両派と福田派がポスト三木の総理総裁に福田赳夫で一致し、挙党協の総裁推薦候補を福田とする。福田は総理総裁に就任し、福田内閣が発足した。

なお、この抗争中である9月6日にベレンコ中尉亡命事件が勃発したが、政府が三木おろしで忙しくてそれどころではなかったので対処に不都合が生じたという。>(ウィキペディア)

この密約を私は後に確認したが、要するに福田の任期は「2年」でこの間大平は「幹事長」として「協力」するとなっていた。しかし福田の後継者の事は書かれてないものの「大平は福田の総裁就任に協力する」となっている以上、後継が大平であるのは当然だった。

2年経ったところで行われる総裁選挙に福田は立候補せず、大平の筆頭推薦人になってくれるものと大平は思っていた。ところが福田からの電話は「立候補する」だった。大平は「なにッ」と立ち上がった。

マスコミは最後まで福田優勢と言い続けたが、福田惨敗。負けず嫌いの福田の吐いた科白「天の声にもたまには変な声がある」。翌年東京の迎賓館で開かれた東京サミットの議長を首相の大平が勤めたのは当然だった。

首相の首席秘書官だった康夫に父は「密約」のことを知らせていなかった。赳夫は多分三枝夫人にも告げてなかったろう。恥ずかしいことだもの。しかし男と男の約束を反故にするような男にサミット議長をする資格は初めから無かったといっていい。

それなのにいわゆる「40日抗争」や不信任案賛成などを仕掛けて大平を死に追いやった福田父子の罪は永遠に消えない。大平の怨念が洞爺湖サミットに顕れないも限らない。文中敬称略 2008・04・07

2008年04月08日

◆回想の細川内閣

                   渡部亮次郎

新生党代表幹事小澤一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川護熙が受諾して成立した細川政権。それが突然、退陣を表明したのだ4月8日。1994年の事だった。

あの時、辣腕を振るった小澤氏が今度は民主党代表として政局の主導権を握り、間もなく政権を握ると息巻いているが、果たして如何なる事態が展開するのかしないのか、興味津々ではある。

政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、熊本県知事を勤めていた細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。

この選挙で野党第1党の社会党は大敗し、与党で第1党の自由民主党も過半数に達していなかった。その結果、昭和30年(1955年)の党結成後初めて与党の座から降りる事となった(55年体制の崩壊)。

先に自民党竹下派内の対立が原因で自民党を脱党していた小澤一郎の尽力で野党連合政権の樹立に合意した日本社会党・新生党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合(参院会派)の6党派は、自民党との連携を模索していた日本新党・新党さきがけを取り込むため、日本新党代表の細川護煕を首相候補とすることで合意。

日本新党・さきがけも受諾したため、非自民・非共産政権の発足が決定的となった。 細川は近衛文麿(34・38・39代首相)の外孫にあたる。祖父と孫が共に首相となったのは内閣制創設後初めての出来事であった。日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。

細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度とし
て、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年の冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。

しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月8日に電撃的に辞意を表明、25日に総辞職したのだった。

28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。在職期間263日。

続きを読む≫≫

2008年04月07日

◆お気の毒な福田さん

                   渡部亮次郎

福田康夫内閣総理大臣の人気がガタ落ち。共同26%、産経23・8%である。既に「総辞職もの」の数字だ。国会の雛壇でぐったりしている写真を見ると、つくづく同情を禁じ得ない。

<内閣支持率26%に急落 共同通信世論調査

共同通信社が4、5の両日に実施した緊急電話世論調査で、福田内閣の支持率は26・6%で、政権発足後最低だった3月の前回調査から6・8ポイント急落した。

支持率が“危険水域”とされる30%を割り込んだのは、安倍晋三首相の退陣表明直後の昨年9月以来。「不支持」は59・6%で、初めて半数を超えた前回からさらに9ポイント上昇した。

一方、失効している揮発油税などの暫定税率を元に戻すため、税制改正法案を衆院で再議決する与党の方針には反対が64・4%を占め、賛成は26・2%だった。福田康夫首相は国民の反発を覚悟して再議決に踏み切るのか、厳しい判断を強いられることになる。

内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が32・5%と最多。「経済政策に期待が持てない」は24・0%で6・2ポイント増え、日銀総裁人事をめぐる混乱などが影響しているとみられる。>
2008/04/05 18:50 【共同通信】

私の主宰するメイルマガジン『頂門の一針』には様々な投書が寄せられるが、「産経までも福田叩き」を始めたと非難する投書が寄せられた。

<最近、産經新聞までもが「福田叩き」に加担して、本当に新聞を読む気がしません。

別に福田さんが格別いいとも思いませんが、今の異常な政治状況を前提にしなければ、小泉さんと較べて云々しても意味が無いことを知るべきではないのか。誰が出て来ようと(小泉さんだって)、今はきっと困るでしょう。

戦後初の「ねじれ」によって生じた政治的停滞が、今後外交にも国民生活にも、教育にもボディーブローのように効いてくるでしょうが、今は政界の表面的な現象のみの報道。

間違いなく、最大の被害者は、国民となることは明らかでありましょう。私の周辺の友人と話していると、こうした意見の方々が、かなりいるのですが、そうした考え方はマスコミにあまり見られない。非常に不思議な感じがしてなり ません。>

この投書が言っているように自民党が参院選に大敗して「ねじれ国会」という最大の難関が待っている事は、前任者安倍さんの敢え無い惨敗で証明済みだった。

このとき敢然と後継に手を挙げたのは幹事長麻生太郎だったが、数日を待たずに元官房長官福田康夫がおずおずと名乗りを挙げたので私は不思議に思った。人柄は悪くは無いが、およそ政治家として優れたところの何も無い人が、突然何故、と。

産経新聞とFNN(フジニュースネットワーク)が4月2、3日の世論調査で福田内閣支持率がまた下落して23・8%になったことを報じた(5日)が、その理由の悉くが、政治家福田康夫の限界を証明して余りある。

経済政策=支持しない74・5%
外交政策=支持しない55・4%
指導力=評価しない  75・4%
年金問題=評価しない 67・6%

みんな落第点。1つだけ5割を超えたのは人柄を評価するの55・3%。それも評価しない28・3%付きである。

しかも産経新聞は6日の『産経抄』で「人の厭がることはやらない」という「癒し系」を自任しているような福田首相・・・靖国神社参拝など「人の厭がること」もやって来た小泉氏が再び人気を集めている事の意味は大きい。と指摘した。

内政においては人の厭がることを敢えて為すことが「指導力」であり外交においても他国の厭がることも敢えて行う事が「国益」である。年金、日銀、ガソリン、チベット、北京五輪、ガス田への対応のすべてに現れた福田指導力は国民の期待に悉く反するものだった。

こうした福田氏の政治家としての欠陥は唯一務めた閣僚ポスト官房長官在任中にすべて指摘されていた事であり、それ故に小泉後の安倍内閣で入閣を検討もされなかった理由であった。

それにも拘らずポスト安倍に急遽浮上した理由は一に掛かって自民党内に潜んでいた中国、韓国、北朝鮮に媚びる勢力及び反麻生一郎勢力の結集であった。

それらの勢力の頂点は既に現役を退いて久しい野中広務である。安倍の退陣情報を逸早く知った野中は京都から急遽上京し、キング・メーカーを自任する森喜朗と組んで各派閥領袖を福田支持で押さえ込んでしまった。

続きを読む≫≫

2008年04月06日

◆竹島「密約」のあった時代

                   渡部亮次郎

韓国人のビジネスマンが日本語で「竹島密約」という本を書き7月を目途に東京の出版社「草思社」から出版する。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について「共に領有を主張しない」という密約があったことを喝破する本である。

日本政府代表を務めた佐藤内閣国務大臣河野一郎。その河野氏を担当して事情を知る記者は私1人になってしまった。著者ロー・ダニエルさんの突然の来訪を受けて、事実を改めて回想する次第。7日夜、江東区内で一献酌み交わす予定である。

ダニエルさんの書き上げた本の「プロローグ」を基に話を進める。
「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月に「日韓基本条約」が正式に締結される5ヶ月前、河野一郎国務大臣と丁一権韓国国務総理の間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事は無い。

端的に言えば、日韓の国交正常化のために領土紛争を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、宇野宗佑衆院議員(後に総理)、嶋元謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国では丁一権、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)。さらに密約を了承した佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元総理大臣で、2年前の2006年6月のことだったという。ダニエル氏は驚きを以って裏づけ取材に奔走、事実を確認した。

いくら当時の河野番でも、宇野氏と毎晩のように呑んだ仲の私でも知らされなかったこと。おそらく中曽根氏も後に総理になったが故に知った事実であったろう。「河野派を除名する」と河野氏に嫌われていたのに、河野氏の急死に救われた経緯があるから。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三氏が「倭(日本)の奴らの悪い行儀を直す」と公言して「わが領土独島」に新たな接岸施設を作り「密約」を無視して問題は今日に至る。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれていなかった。

これを外交の「敗北」と受け取った当時の李承晩大統領は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから竹島・独島の領有権争いが本格化した。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新」をなすためには両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのためには韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏と朴氏の姪の夫でもある金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

続きを読む≫≫

2008年04月05日

◆健康百話 「変形性関節症」って?

小池達也(医師)


コモンディジーズ、つまり「ありきたりの病気」と呼ばれる疾患群があります。誰がかかっても不思議ではない、めずらしくない病気という意味です。

整形外科の分野では、腰痛・骨粗鬆症・変形性関節症などが含まれますが、そういう病気ほど原因がはっきりしていなくて、治療法も確立していません。そこで、今回はその代表である変形性関節症を取り上げてみましょう。

変形性関節症とは、炎症がひどくないのに関節を構成する軟骨が次第に減少し、疼痛が生じ関節の動きが悪くなる病気です。さらに進行すると、骨棘と言われる骨の出っ張りが周辺部に出現し、さらに関節の動きが悪くなります。世間でお年寄りが、「膝に水が溜まってね、大変よ」と言ってる病気です。

治療法には、運動療法・薬物療法・装具療法・手術療法がありますが、膝の変形性関節症を例にとって説明してみましょう。

運動療法として、最も有名で効果も証明されているのが、大腿四頭筋訓練です。

まず、実際の方法を示しますと、仰向けに寝て片足を膝を伸ばしたままで45度くらい持ち上げます。このとき足首も頭の方へそらせた状態で5つ数えて降ろします。

これが1回で、30回繰り返して1セット、一日に片足3セットずつ繰り返してください。これまで行われた研究で、この運動を繰り返していると、関節に溜まる水が減少し、痛みも軽減し、さらに関節内の水の粘度が上昇して正常に近づくことが報告されています。
 
お金もかかりませんし、副作用もありません。是非やってみてください。ただし、根気は必要です。

次ぎに装具療法です。変形性膝関節症の方は、O脚の方が多いことが分かっています。まっすぐに立って足をそろえて、それでも両膝の間が空いてしまう人です。力学的に考えて、O脚の方は膝の内側ばかりに体重がかかることになり、軟骨の「片減り」が起こってしまいます。

そこで、足の裏に外側が少し高くなった敷物を入れて、体重が内側に集中してかからないようにする方法がよく使われます。実際にこの装具を入れることにより、痛みがかなり軽減される方もおられます。ところが、考えてみてください、足の裏から膝まではかなりの距離があります。

足の裏に薄い敷物を入れただけで本当に効果があるのでしょうか?実際に、これを研究された先生がおられました。すると、足の裏と膝の間には足首の関節があります。せっかく足の裏に敷物を入れたのに、その効果が足首で吸収されてしまうという現象が観察されました。

どうすればよいか?

その先生の結論は、足首まで覆うような装具を作ればより効果が出るというものでした。実際に、そういう装具を作ってくれる装具会社もあります。足の裏に敷くだけでは効果の無かった方は試されても良いかもしれません。

大阪市立大学大学院医学研究科リウマチ外科学 
(NPOおおさかシニアネット 転載許諾)

2008年04月04日

◆脱北者が狙う日本人学校

                  渡部亮次郎

世界各国にある日本人学校は、治安、政情が諸外国に比べ安定している
日本国内の学校に比べて危機管理レベルは高く、多くの日本人学校の校
門は自動ロックで常に施錠され、高い塀や有刺鉄線で囲まれ、警備員が
24時間または授業時間中に常駐している。

学生証、保護者証、来校者証を発行し、IDチップ認識システムを導入し
ている学校もある。

ほとんどの日本人学校においては、登下校時の安全
を確保するためにスクールバスや保護者の送迎による登下校のみを許可
している。

また、政治情勢が不安定な国では現地の日本大使館や現地警察との協力
体制を構築している他、日本国内に緊急連絡室を持つ学校もある。

それでもまだ多くの日本人学校では災害、テロ、反日デモ、感染症に対
する緊急時対策は不十分だといわれている。

使えるマニュアルの作成、備品購入と貯蔵、また災害だけでなく爆弾テ
ロ、暴動、クーデター、ゲリラ乱入、不審者侵入、スクールバスへの投
石などを想定した効果的な対策や避難訓練の充実が必要とされる。

文部科学省は所管の海外子女教育振興財団などを通して日本人学校を始
めとする在外教育施設の安全対策の費用を一部負担している。

防護フェンス、外壁嵩上げ 、有刺鉄線、門の補強、自動開閉ゲート、イ
ンターホン、非常口、遮断機 、防犯カメラ、感知式ライト 、緊急サイ
レン、携帯無線機、携帯誘導灯、校内放送設備。

防煙マスク、校舎の防弾ガラス 通学バスの防爆シート・飛散防止フィル
ム・銃弾貫通防止フィルム 、緊急避難用はしご、緊急時用水のための地
下水ポンプといった物品の設置・購入を援助費で補っている。

中国にある日本人学校が頭を悩ませているのは、難民認定と亡命を求め
る北朝鮮からの脱出者の駆け込み事件である。北京日本人学校は大使館
と異なり治外法権を持っていないにもかかわらず、2003年から2005年の
間に計5回、合計56人の脱北者が侵入した。

関心が北京に行っている間に、大連の日本人学校でも同様の駆け込みが
計画されたが未遂に終わっている。

北京日本人学校はまず在北京日本大使館に連絡を取り、脱北者は大使館
に引き取られて、その大部分が韓国への亡命を果たしている。中国は脱
北者を「不法入国者」として北朝鮮に返す協定を北朝鮮政府と結んでい
るため、この様な日本人学校の対応に非常に不満を持っている。

2003年に日本人学校が増設許可を申請したところ、その見返りに外交関
連施設として優遇措置を受けていた立場から、中国政府が直接介入でき
る一般校へ1年以内に登記変更するように要求されたり、「校長が脱北者
の身柄を日本大使館でなく現地の警察に即時に引き渡さなければ、警察
は日本人学校の安全を保証できない」と脅迫に近い通告をしている。

日本国内の世論は、「危険を冒して逃げてきた者なのだから門前払いを
せず校内で匿うべきだ」という意見と、「大使館ならまだしも治外法権
のない日本人学校に駆け込む者は法律に従って中国側に引き渡すべき」
だという意見に分かれる。

実際に日本人学校に通う子ども、その保護者、また子ども達を預かる側
の日本人学校にとっては、切羽詰った脱北者や中国の公安当局が校内で
武力行使することも考えられ、何事も安全を第一に行動しなければなら
ない。

学校はセキュリティーを強化し、警備員を増員し、脱北者侵入を想定し
た避難訓練も行い、不審者侵入に非常に神経をすり減らしている。

実際に判断をし責任を取るべきである日本国の特命全権大使ではなく、
その様な責任を与えられているわけではない一学校の校長に、日中関係
を左右するような判断と責任がつきつけられているのは理不尽であると
いう意見が多い。2008・03・02
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2008年04月02日

◆天風門下だった園田直

                  渡部亮次郎

4月2日は私が大臣秘書官として仕えた元外務大臣園田直(そのだ すなお)の祥月命日である。昭和59(1984)年のこの日の朝、糖尿病による腎不全のため慶応病院で死去した。僅か70だった。インスリン治療をしていれば後20年は生きられたのに。惜しい人だった。

ところで園田氏は生涯に結婚を3度している。政界では松谷天光光(てんこうこう)との「白亜の恋」で2度目の結婚と思っている人が多かったが、実は、その時の先妻が2度目。日中戦争に志願する以前、京都で山口県出身の女性を入籍、男の子をもうけている。直明(故人)といった。

母子をを天草の両親に預けて何をしたかというと、中国出奔。「狭い日本に住み飽きた。支那にゃ4億の民がある」と青年たちが「中国浪人」に憧れた時代。妻は郷里に出奔。

戦後、代議士になったと聞いた元妻が議員会館に訪ねてきたが面会を拒否。それっきり消息は途絶えた。このため直明氏は死ぬまで母を恋しがり、アルコール依存症になった、といわれた。父より早く死んだ。

園田氏が天風会に入門したのは衆院議員当選9回ながら未入閣だった昭和39年ごろ。衆議院副議長だった。当時、総理大臣佐藤栄作氏は、自民党永年の懸案だった紀元節の復活に腐心、策を探っていた。

それを知った園田氏は野党第1党(2党は民社党で公明党は衆院に未進出)の国対委員長石橋政嗣(後に委員長)と組み、「建国記念日」に「の」を入れて「建国記念の日」とし、いわば換骨奪胎を図る形で解決。政界に「異能政治家」と注目されるきっかけとなった。

中身は聞き出したことは無いが、この間、しばしば中村天風氏に教えを乞うていた事は知っている。園田副議長担当記者だった私も「合宿」に誘われた事もあるが、断った。精神修養とか宗教などには興味が湧かない。

断ったといえば「合気道」への入門も断った。私の中学、高校時代は進駐軍の占領時代で、剣道も柔道も禁止されていた時期。だから武道には一切近付かなかった。汗を流して同性と取っ組み合いをするとは、考えただけで身震いがした。

建国記念の日法案の成立を「手土産」に第2次佐藤内閣に厚生大臣としてやっと初入閣。選挙区でもある熊本県内での水俣病を国として初めて公害病に認定するなど佐藤内閣の「好一点」といわれたりしたが、財界の猛反発のため、次の入閣まで10年間「冷や飯」を食う。

そもそも中村天風とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する。

<中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 ―1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。本名は中村三郎。

1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。父は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。

福岡市の親戚の家に預けられ、福岡の名門校、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。家伝の随変流の剣術と居合も修行した。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。

柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。

1904年(明治37年)3月21日コサック兵に捕われた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。

イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行
く答えを得ることができなかった。

1911年日本への帰国の途上、カイロでインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガの麓で2年半修行する。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得た。東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。

1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。戦後の1962年、国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。

「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している。

中村天風に指導を受けた者のうちの著名人。

東郷平八郎 後藤新平 原敬 西竹一 双葉山 定次 山本五十六 浅野総一郎 杉浦重剛 石川素童 山本英輔 尾崎行雄 三島徳七 重宗雄三 左藤義詮 倉田主税 駒形作次 飯田清三 村田省蔵  丹羽喬四郎 松本幸四郎 北村西望 三遊亭円生 大佛次郎 園田直 堀越二郎

松田権六 内海倫 佐々木義武 越後正一 植芝吉祥丸 宇野千代 広岡達朗 安武貞雄 岩松三郎 杉山彦一 島中俊次 素野福次郎 松下幸之助 稲盛和夫 ロックフェラー3世>

植芝吉祥丸とは「合気道」の創始者。園田氏を天風氏に引き合わせたのは植芝氏と思われる。園田氏は直弟子で合気道8段だった。
2008・04・01

2008年03月31日

◆大連立は「小沢提案」と首相

                  渡部亮次郎

<福田首相は30日のNHK番組で、昨年秋に民主党の小沢代表との党首会談で協議した自民、民主両党による大連立の構想について、小沢氏からの提案だったと述べた。

首相は、参院で与野党が逆転した「ねじれ国会」で政策遂行が難航していることに触れ、「小沢代表も、こういう事態はよく察知され、『連立を考えよう』という提案をされたと私は思う。小沢代表と同じ気持ちだ」と述べた。> 3月30日20時58分配信 読売新聞

この点について産経新聞客員編集委員(元政治部長)花岡信昭氏は
ご自身のメールマガジン550号[2008・3・30]で依然、大連立の可能性あり、と以下のように指摘している。

<小沢氏は福田首相からの電話にも出ないそうだから、なんともはやである。

とはいえ、まだ希望はある。福田、小沢両氏は昨年の大連立構想でいったんは歩み寄った仲だ。10、11月に党首会談が2回開かれたことは伝えられているが、実はこれ以外にもひそかに3回程度は会っている。

それまでは疎遠な関係だったが、互いに、よけいなことは口にしない、シャイでぶっきらぼう、といった性格が似通っていることを発見して、「気脈が通じる関係になった」(政界通)ともいわれる。

となれば、大連立構想は完全には消えていないとみるべきだろう。参院で与党は過半数に17議席不足しているから、この隙間(すきま)を埋めるだけの「中連立」という手もある。

日銀総裁人事で福田首相が武藤敏郎(としろう)氏(64)と田波耕治(たなみ・こうじ)氏(68)を相次いで提示したのは、小沢氏の了解があったためという解説もある。

大体が、そういうことでもなければ、民主党が同意しないことが分かりきっている旧大蔵事務次官出身者を提示したりはしない。>

そうであるなら福田発言は、小沢氏の手の内を暴いたに等しくはないか。大連立反対でいきり立っている民主党内の反小沢勢力をさらに刺激し、小沢氏の動きを封じる以外の何物でもないと思えるからだ。

<事態打開に向け、首相は民主党の小沢一郎代表に党首会談を求めているが、小沢氏は「会ってもよいが、かみ合わない」とにべもない。首相は30日のNHK番組で「粘り強くというが粘り気にも限度がある。玄関どころか門前払いという現状ですかね…」とぼやいた。>産経News 31日

福田首相とは昔、福田赳夫内閣で、福田氏が総理秘書官、私が外務大臣秘書官で働いた仲で、性格やクセも多少は知っているが、いわゆる奇策縦横の人では絶対にない。泥縄といわれようと、縄が必要である限り綯う人である。

したがってNHK番組で「暴露」したのは何らかの「波紋」を期待したものでは無いだろう。これによって小沢氏の足を引っ張る事を計算したものでもないはずだ。小沢氏を窮地に追い込めば小沢氏が「反省」でもすると単純に考えたのかもしれない。

明日からボン(ドイツ)でのサミットだという1978(昭和53)年7月14日のパリ祭のコンコルド広場。大統領も到着して行事が賑やかに始まっているというのに、広場を見下ろすホテル・クリヨンで赳夫総理は記者懇談を中断しようとはしない。

記者団は外の騒ぎに気を取られて総理懇談どころではない。それなのにサミットとは、と「勉強」を続ける総理。「彼らはサミットの何たるかをわかっていないから教えてやるべきだと進言したんだ」と康夫秘書官。

ここまで来て分かっていない者にここで教えたって分かるはずが無いという私。意見は一致しなかった。随行した3閣僚はそれを他所に「ポスト福田」をめぐって密談に余念がなかった。

泥棒が既に逃げた後でも縄を綯うというのが康夫総理の性格である。奇策をと願う大方の期待は水泡に帰する事、間違いない。2008・03.31

2008年03月29日

◆民主党の先も明るくない

渡部亮次郎

日本人は、成功して陽の当たる道を歩いた頼朝より結局報われない悲劇のヒーロー義経を好む。民主党は昨年夏の参院選挙では判官だったが、経済界が混乱した今となっては判官は自民党になった。次期総選挙で民主党は負ける。

様々な調査を分析すると、国会を混乱させる事によって福田政権の打倒を実現し、民主党政権を樹立するという民主党の戦略は国民の支持を失っている。小沢代表は戦略を間違えた。

産経新聞の元政治部長花岡信昭さんは2008年3月中旬、モスクワに出張された。それを26日の産経新聞で触れたが、次の1節が気になった。

<先週の数日間、粉雪の舞うモスクワで過ごした。「日露専門家対話」というシンポジウムに招かれて、日本政治の現状を報告した。

「衆参ねじれ」を背景にした混乱は、向こうの日本研究者にも理解不能のようで、説明に難儀した。(中略)モスクワ訪問は学者、政治家ら十数人のメンバーだったが、その中に、民主党の前原誠司副代表(元代表)もいた。

この重大な時期に国会を離れていたのは、不毛の攻防戦から距離を起きたかったためではないか。>

また一流商社マンの泉幸男氏は自らのメールマガジンで自らがしばしば仕事で滞在する台湾について、その政治状況に触れた後、

<さしずめ小沢一郎氏などは、馬英九当選者のひそみにならい、衆院選に勝って民主党の首相を成立させ、「ねじれ国会」解消でとんとん拍子の田中角栄式政治を……と夢見ているかもしれない。

国民党の立法院がこの8年間、陳水扁大統領の足を引っ張りつづけたよ
うに、民主党の参議院も自民党政権の足を引っ張りつづける。きっと国民は「ねじれ解消」を何よりも切望して、衆院選でも自民党を負けさせるだろう……というわけにはいくまい。

それなりの新鮮感を武器に闘った台湾の馬英九陣営と異なり、日本の民主党執行部はあまりに古顔揃いだ。

参院選のときに、日本の一部をおおった漠然とした期待感は、「何でも反対」戦術を見せつけられて、萎えきった。>(26日)

大學出、中堅サラリーマンが、支持しかかった民主党について、硬直した国会対策を見て「萎えきった」とは尋常ではない。民主党はこうした批判に全く気付いていないのだ。

確かに福田首相や伊吹幹事長の国会対策は上等とはいえないにしろ、民主党の「何でも反対」と映る国会戦術は、それ故に潰えた嘗ての日本社会党を彷彿とさせ、国民に決して好い印象は与えていない。

ガソリンが1リットル当たり25円も安くなれば消費者が一時的に民主党を評価するだろうが、その代わり空く地方への道路財源の穴はどうするのか。そんな事は知らぬことでは、地方から猛反撃を食うことは必定だ。

百戦錬磨の小沢代表。まさかこれだけで福田倒閣が実現し、自らが直ちにそれにとって替われると思っているはずは無い。いわゆる「大連立」に応じた際、その理由として自ら説明したように、民主党に政権担当能力に無い事を挙げたではないか。

本来の小沢であれば一般財源化プラス何かしらを引き出して引き下がるというのが角栄直伝の戦術だった。それが益々過激化する硬直戦術にも口を出して止めよういるそぶりは見えない。

おそらく「行け行けどんどん」といきり立つ過激勢力を抑える「統治能力」を失い、戦術論への立ち入りを阻止されているのでは無いか。或いは党内が分裂寸前なので、過激論でしか党内を纏めることが不可能になっているのか。

なんだか悶える自民党の将来も暗くなっているが、取って替わるべき民主党にも、明るい日差しは全く見えない。文中敬称略。2008・03・27

2008年03月28日

◆今に続く西山事件

                  渡部亮次郎

1972(昭和47)年3月27日に「西山事件」が始まった。西山太吉は毎日新聞東京本社政治部の外務省担当キャップ。その前の総理官邸クラブでは衝立を挟んで向かい合わせという身近な存在だった。

その後、西山は外務省担当となり、私は衆議院記者クラブを経て自民党福田赳夫担当となり、いよいよ近付いた「角福戦争」の取材に忙殺されていた。

沖縄返還を確実にした佐藤栄作首相は、それ故に求心力を失いつつあったが、外相福田赳夫に政権を譲るハラに変化は無いと自民党内は考えていた。しかし、ライバル田中角栄は「禅譲」を阻止すべく虎視眈々としていた。

そうした中、3月27日午前、衆院3階の第1委員会室での予算委員会で社会党の若手議員横路孝弘が右手に1通の外務省公電のコピーを翳し、「沖縄返還をめぐって日米間に密約あり」と暴露した。「西山事件」の始まりだった。

暴露されたのは1971年5月28日付けで愛知揆一外相が牛場信彦駐米大使に宛てた、愛知外務大臣とアーミン・マイヤー駐日大使会談の内容及び、同年6月9日付けで福田赳夫外相臨時代理と中山駐仏大使の間で交わされた井川外務省条約局長とスナイダー駐日公使との交渉内容の合計3通だった。

この電信内容は、返還に伴う軍用地の復元補償で、米国が自発的に払う事となっている400万ドルを実際には日本が肩代わりする旨の密約の存在が露呈させるものだった。

これらは西山が横路に手渡したものであり、当然ながら野党は大きく問題にしたが、政府の側は「政争の具にした」と認識し、誰が・なぜ・いかなる目的を持って機密文書を漏洩したのか、その背後関係を調べようとした。

西山は、電信内容から個人情報の手がかりを消すことなく横路に手渡したため、決済欄の印影から、文書の出どころが安川壮政治担当外務審議官と分かってしまった。私はこのことにとても立腹したものだ。

この間、毎日を初め朝日などマスコミ各社は「報道の自由」を掲げて居丈高に政府を非難した。しかし、佐藤首相は薄ら笑いを浮かべながら余裕綽々だった。

3月30日 外務省の内部調査で、外務審議官付女性事務官蓮見喜久子が「私は騙された」と泣き崩れ、渋谷のホテルで西山に機密電信を手渡したことを自白した。

事件暴露から8日後の4月4日、外務省職員に伴われて蓮見が出頭、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で逮捕。同日、同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で西山も逮捕された。逮捕された西山は情報源が女性の蓮見事務官であることを特に秘匿せず供述している。

4月5日、毎日新聞は朝刊紙上に「国民の『知る権利』どうなる」との見出しで、取材活動の正当性を主張。政府批判のキャンペーンを展開した。

4月6日、毎日新聞側は西山が女性事務官との情交関係によって機密を入手したことを知る。しかしこの事実が世間に公になることは無いと考えて、「言論の自由」を掲げてキャンペーンを継続。

しかいし4月15日、起訴状の「女性事務官をホテルに誘ってひそかに情を通じ、これを利用して」というくだりで、被告人両名の情交関係を世間が広く知るところとなる。

ちなみに、この起訴状を書いたのは当時東京地検検事の佐藤道夫(のちに第二院クラブ、民主党参議院議員)であった。

こうして、世論は問題の中心をスキャンダルと認識し、密約の有無から国民の目はそれていった。また、政府は国家機密法の制定を主張した。

続きを読む≫≫

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。