2007年02月10日

◆タンゴの源流に立つ



         渡部亮次郎

兄がタンゴ狂なものだから、子供の頃から聞かされた。あまり上品じゃないと嫌う人もいる。そんなこととは無関係に、私はあのリズムに息が苦しくなってくる。散歩の時もタンゴは聴かない。

ミロンガなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス近辺で生まれたとされる。

日本では、タンゴがヨーロッパに渡って変化したものをコンチネンタル・タンゴ(コンチネンタル=大陸の=ヨーロッパの)ないし「ヨーロッパ・タンゴ」と呼び、それに対して元来のものをアルゼンチン・タンゴと呼んで区別することがある。

タンゴは、今から約130年前に、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの港町ラ・ボカ地区から始まった。スペインやイタリアからの貧しい移民のフラストレーションのはけ口として酒場で、日頃の不満を歌にし、単身赴任の男性達が酒場で荒々しく男性同士で踊ったのがタンゴの始まりと言われる。その後、娼婦を相手に踊られるようになり、男女で踊る形式が確立されたといわれる。

首都ヴェノスアイレスのボカ地区は、古くから港があった地域で、ヨーロッパから来た移民たちは、こ の地で、新しい第1歩を踏みしめた。19世紀終わりごろのラ・ボカは、イタリア、スペイン系を中心とした、ヨーロッパからの移民や、アフリカ系の人々など様々な人種の人々であふれていた。

タンゴは、そういった環境の中、様々な文化の混合によりブエノスアイレス南部(ラ・ボカ、サンテルモ地区)で生また。

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2007年02月09日

◆オイカサラマサ予算

                   渡部亮次郎

自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」と判断できた。他社の連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていた。

打ち続く野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やして伝家の宝刀宜しく、採決強行(強行採決)を断行するぞと予告をしているのであった。記事やニュースには出なかったが、記者クラブでは以後しばらくガッポウテキが流行語となった。それからしばらくして委員長はなんと入閣した。佐藤首相はそれをガッポウテキと判断したのだろう。

日本のみならずどこの国でも、国民に選ばれたからといって、学識と教養がそれに比例するとは限らないこと当然である。むしろ学識と教養が邪魔して国会議員にならないか、なれない人の方が多い。

どこか大国の大統領ですら、最近、発言中に用語の使い方や文法がおかしいと批判されている人がいるくらいだ。

それにしても合法的をガッポウテキといい、手段をテダンと教えたのはどの学校の誰先生だろうかと考えるに、おそらく小学校卒業後の独学だろうと推測した。

昔の新聞には漢字すべてに仮名を振ってあったのに、覚える時に間違えてしまえば、中年過ぎには注意してくれる人は無いから、出世して恥をかいた。

昔のある代議士は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。お気づきだろうか、追加更正予算のことである。今の世は更正の語を使わないから、オイカサラマサと言われて判る人は少なかろう。

いずれにしろ議場は大爆笑に包まれたか否か。そういえば、演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)やった兵(つわもの)がいたそうだ。

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2007年02月07日

◆高慢ちきの哀れ



                      渡部亮次郎

友人に聞いた話である。

「俺がエリートだ。お前らは定年になって社会貢献が出来なくなったけど、俺を支援すれば社会貢献できる。だから俺を支援するのが筋というものだ」。元大使閣下が高校の同期会に来て高言したのだと言う。

また大手商社で役員になれなかった東大出は同期会に出てきて言ったそうだ。「定年で最早、社会的に何の力も無くなったお前らがこうやって集まって何の意味があるのだ」と。

そんなら来なけりゃいいのに、悪口が気になるのか、毎回、遅れてしかも泥酔して来るのだそうだ。同期会なんて、意味を求めるのが可笑しいだろう。懐かしいといういわばくだらないことの詰め合わせ。無意味に意味があるだろう、と友人は嘆いていた。

同じ東大出でも農学部で役所の長官にまでなった男は、同期会に欠かさず来て、受付を手伝い、威張るところが一つもないそうだ。なんでこんなに違うのだろう、育ちかな、性格かなと友人。私は「勘違いだろう」と断じた。

世の中、東大を出て官吏や商社マンになることだけがエリートではない。厭な仕事でも買って出て、他人の面倒をよく見ることがエリートなのだ。米国人で、日本文学研究者のサイデン・ステッカー氏は嘗て私に「威張る人は馬鹿なのです」と教えて下さった。

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◆建国記念「の」日

 <サーバーメンテのため、掲載が遅れました。「頂門の一針主宰・筆  者の渡部亮次郎氏に深くお詫びします。−Netmo編集部>


                   渡部亮次郎

建国記念「の」日がやってくる。この「の」こそが復活のキーワードで
あり、園田直(衆院副議長、外相、厚相、官房長官、故人)と私を結びつ
けた「の」である。

この日はかつて紀元節という祝日であったが、戦後になって紀元節の祝
日化は廃止された。1951(昭和26)年頃から自由民主党タカ派を中心に復
活の動きが見られるようになった。

やがて1957(昭和32)年2月13日、自民党の纐纈弥三(こうけつ やぞう)衆院議員らによる議員立法として国会に登場した。廃止以前のように「2月11日」を紀元節は無理としても「建国記念日」として復活させようというものであった。

ところが当時の野党第1党たる日本社会党はまず復活は保守反動の最たるものとして大反対。しかも、この「2月11日」という日付は「神武天皇元年(紀元前660年)1月1日」を、当時の歴史家が誤ってグレゴリウス暦で算出してしまったために弾き出された日付である。

だが「1582年10月4日以前はユリウス暦で算出する」という正しい方法で計算した場合、神武天皇元年1月1日は「2月18日」となる。つまり、正しい計算による建国記念日は「2月18日」ということになる。このため皇族にも2月11日に反対する人がいた。

当然ながら以降9回の議案提出・廃案を繰り返した。もし自民党がシビレを切らして本会議で成立を図れば血の雨が降るだろうといわれていた。

折しも血の雨は日米安保条約改訂をめぐって1960(昭和35)年、降ったば
かりであった。なんとなく紀元節復活くわばらくわばらというムードが
漂っていた。

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2007年02月02日

◆東京ローズの晩年

                       渡部亮次郎

東京ローズと言っても戦後生まれの人は知らない。70を過ぎた私でも、外務省へ行って大臣秘書官として対処するまではボンヤリとしか知らなかった。大臣(園田直)は前身が官房長官(福田内閣)だったので、関係者とは以前から接触していたらしい。

とにかく評論家の上坂冬子さんを先頭にする一団が大臣室を訪れて、東京ローズ問題の善処を迫った。しかし、いま改めて記録を見ると彼女は既に(1977年)にフォード米大統領の恩赦により市民権を回復したとなっているから、上坂さんの訪問目的はなんだったのだろう。

日本外務省の、主としてOB会といえる霞関会の機関誌『霞ヶ関会会報』平成19年2月号に元マイアミ総領事小平 功さんがシカゴ総領事館勤務の際に出合った東京ローズ(厳密にいえば、そのうちの1人だった)アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノさんの思い出を綴り、晩年のことを書いておられるので、図らずも思い出したのである。彼女は2006年9月26日、脳卒中のためシカゴで亡くなった。90歳だった。

ご承知(最近は知らない人がいる)の如く、日本は昭和16(1941)年12月8日(米時間では7日)、アメリカとの戦争を始めたわけだが、戦争は放送の電波を使っても展開された。米国兵の戦意を砕くため、女性アナウンサーを使って語りかけた。今のNHKから。「リリー・マルレーン」日本版。

今の人たちは「断ればよかったじゃないか」というかもしれないが、軍国主義時代のこと、政府や軍部の命令を断ったりしたら国賊とされ生命が無かっただろう。

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2007年02月01日

◆中国残留孤児を救え今!

                 渡部亮次郎(メルマガ頂門の一針・主宰)

若い方々のために中国残留日本人孤児問題とは何かを解説する。
中国残留日本人孤児の悲劇は今から半世紀以上前の昭和20年(1945年)8月に起こった。

もともとは昭和10年ごろ、中国東北部(元満州)には政府の方策のもと約30万人の日本人が開拓団として入植し、日本人社会が形成された。

昭和20年8月9日、旧ソ連の対日参戦により、日本人社会から男性の多くが召集され、残された女性や子供、高齢者は避難を選択。厳しい戦況に加え飢餓や伝染病のため、子供たちは親兄弟と死別したり中国人に引き取られるケースが多かった。

この子供たちは中国人養父母のもとで育てられ、日本に帰国する機会を失ったまま成人。これが中国残留日本人孤児だ。旧厚生省(現厚生労働省)が中心になって作成した中国大陸からの未帰還者の名簿や聞き取り調査から推定し、残留孤児の総数は約2500人と推定されてきた。

ところが、日中国交回復(1972年)後、残留孤児調査で孤児の数は、はるかに上回っていたことが判明。現在、厚生労働省が把握している残留孤児は2,773人。さらに170人程度の残留孤児の可能性のある人がいるらしい。

これまでに身元判明したのは1,274人。このうち1981年から行われている訪日調査で身元が判明したのは675人だ。訪日調査が始まったころは高い確率で判明したが、ここ数年は数人程度。

厚生労働省は孤児や関係者の高齢化が進み、証言が得られなくなってきたとしているが、少なくてもまだ1,500人近くの人の肉親が不明なままだ。以上が産経の解説。

田中角栄首相の特別機に同乗して、日中国交正常化の推移を見つめていた時、私も多くの国民も、この事実は知らなかった。小泉首相の北朝鮮訪問をきっかけに残留孤児は北朝鮮にもかなりいるはずだという投書を新聞で見たが、田中訪中の時に孤児問題に触れたメディアは一つも無かった。

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2007年01月31日

◆色をつける生き方


        渡部亮次郎

アメリカ人は知らない人に挨拶するが、われわれ日本人がそうしたら変人といわれる。知っている人にしか挨拶しない。だが同じアパートでエレベーターに乗り合わせたのは隣人だから挨拶する。だが若い人で挨拶を返す人は殆どいない。びっくりしているのだ。

中国の公衆トイレの汚さ。この世のものとは思えない。折角の水洗なのに使用者は流していかない。次に入ったひとは「なんで私が流さなけりゃいけないのよ」と流さない。次つぎにそうだからどうにもならなくなる。自己主張ばかりで、他人を思い遣るということの無い社会である。

そのくせ中国人の挨拶は「朝ごはん、食べましたか」である。食べていなければ食べさしてくれるのかといえば、そうではない。京都の「ぶぶ」と同じ。恰好付けの思いやり。何のことはない。

「色を付ける」に意味は広辞苑に出ている。「物事の扱いに情を加える。売値を安くする、祝儀を出す、景品をそろえるなどという」。昔は日常のすべてに「色を付けて」いた。中国人にはこれが元から無い。

経済の規制緩和とは「色を付ける」ことを止めることである。すべて自由に運営するが、その代わり余裕を削る。タクシーの規制緩和をやれば、台数は無限の如くに増えるが、客の奪い合いによる経営悪化に政府は責任を持たない。

色を付ける時代はストライキにも色が着いていた。職場放棄をするとき、復帰の時に困らないよう、周囲に気配りをしてから放棄したものだ。今の時代はそんなことはない。権利、権利でボウフラが沸く。

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2007年01月28日

◆ハンケチはどこへ行った

                         渡部亮次郎

昭和29(1954)年の流行歌に岡本敦郎(あつお)の歌う「高原列車は行く」
というのがあるが、ここで歌はいきなり「汽車の窓からハンケチ振れば
・・・」と歌っているもんだから、いまどきの人から「なんでハンカチ
をハンケチと歌うんだ」という疑問が呈せられている。

私は、これは日本人にいかに英語が影響しているかの社会現象だと思う。
戦前生まれの日本人はハンカチなんか知らないし、仮に知っている人で
も、これがハンカチーフという英語の略だとは知らなかった。

ただ高原列車の歌より4年も前の昭和24年に二葉あき子が歌ったのは
「水色のハンカチ」となっている。藤浦は長崎県平戸、丘は福島県の生
まれ。「ケ」か「カ」か、出身地の違いからではなさそうだ。

なるほど、なんでも取り上げて解説してみせるフリー百科事典『ウイキ
ペディア』は「ハンカチ」を取り上げ、ハンカチ王子も取り上げている。

<ハンカチとは、ハンカチーフの省略形。ハンケチと称されることもあ
る。手を拭く、汗を拭う等に使う、通常は四辺を一にする正方形の布。
欧米では鼻をかむことに使われている>。

これではなぜ「ケ」ができたかがわからない。広辞苑は「ハンカチに同
じのそっけない。ただ、1936年生まれの私は少年時代はハンカチを持と
うにも戦争中の物資不足のため生産されておらず、言葉すら知らないで
育った。

野球をやるときはベンチのタオルで拭いたし、高校に入ってからは日本
手拭を小さく畳んで腰にぶら下げているのが普通だった。その昔、旧制
の高等学校の生徒は、その手拭が常に汚く「醤油で煮染めたような」と
表現された、とものの本で読んだ。

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2007年01月26日

◆中国でテロ未遂事件

                           渡部亮次郎

航空自衛隊OBの軍事評論家佐藤守さんのブログによると、昨年5月、中国海軍が過った振りを装って胡錦濤国家主席の乗ったミサイル駆逐艦に砲弾を撃ち込んだ、という。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070124

砲弾は胡主席二命中せず、調査の結果は過ちとして処理されたというが、佐藤氏は「過ちに、見せかけた明らかなテロ未遂事件だった」と談じている。

佐藤さんのプロフィール。防衛大航空工学科卒(第7期)。航空自衛隊に入隊。戦闘機パイロット(総飛行時間3800時間)。外務省国連局軍縮室に出向。三沢・松島基地司令、南西航空混成団司令(沖縄)。平成9年退官。軍事評論家。

「軍事評論家佐藤守のブログ」の2007-01-24号は 中国の「テロ未遂事件」として次のように紹介している。

<昨日、私は胡錦濤主席と江沢民前主席間の闘争が激化していて、ついに昨年5月に「暗殺行為」があり失敗したとこのブログに書いたが、夜帰宅すると、FAXが入っていてその根拠になる文が送られてきていた。

さらに不思議なことに、送られてきた「月刊日本」誌にも詳細な記事が出ていた。「謎の死を遂げた海軍司令」と言うタイトルの「月刊中国主幹・鳴霞」氏の文で、ほぼ私と同一の内容だったが、FAXの方は「ニューリーダー」誌の記事で「テロ未遂事件を逆用した胡錦濤主席」と言うタイトルであった。双方の内容は若干異なっていたが、5月1日に「事件」があったことは事実だったと思われる。

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2007年01月22日

◆平沼ショックに考える



                  渡部亮次郎 (2007.01.20)

毎日新聞の岩見隆夫さんが1月20日のコラム「近聞遠見」で「平沼ショックを考える」と題して書いている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/
及び毎日新聞 2007年1月20日 東京朝刊

<終戦の日の早朝、養父、平沼騏一郎元首相の邸が、終戦に不満を抱く一部将校に襲撃され、6歳の平沼は胸元に拳銃を突きつけられた。

「兵士が指にちょっと力を込めていれば、いま私はこの世に存在していない。政治家になっても、あの朝の情景をふと思い出すことがある」と「新国家論」にも書いている。そんな戦争体験を持つリーダーは貴重だ。早々の復帰を願っている。>と結んでいる。

この中で岩見さんはまた、

<とにかく、平沼ショックである。現職議員で病に倒れるのはつらい。引退後ならまだしも、バッジをつけたままの入院だ。戦後、首相在職中に倒れたのは、石橋湛山、池田勇人、大平正芳、小渕恵三の4人、いずれも総辞職せざるをえなかった。

中でも痛々しかったのは大平で、激しい政争のすえ、選挙演説中に不調を訴え、心筋梗塞で入院から2週間後、70歳で死去した(80年6月12日)。解剖の結果、医師団は「動脈は50代か60代前半の若さだった。

想像を超える精神的ストレスがかかったのだろう」と所見を発表した。政治家のストレスが並でないことを思わせる。>とも書いているが、これはちょっと注釈が要る。

大平さんのストレスは政敵で前任者の福田赳夫氏が加えたものではあるが、大平さん自身、実は若い頃から糖尿病を患っていながら、医者の指示を一切守らなかったため、心筋梗塞を自ら招き寄せたようなものだったのだ。たしか小渕さんも同病だったように聞いている。死因は脳梗塞。コレステロールの破片が脳を塞げば脳梗塞、心臓を塞げば心筋梗塞。

実は田中角栄氏は脳梗塞が原因で死亡したが、有名なバセドウ病(心身機能亢進症)のほかに重篤な糖尿病を抱えていた。スキャンダルのため退陣した後、直接聴いたところでは、退陣直前の血糖値は200以上もあった。それにも拘わらず、以後もオールドパーを煽り続けたのだから、医学的には脳梗塞にならない方がおかしかったのだ。

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2007年01月21日

◆失敗の無い成功は怪しい

渡部亮次郎

政界でも産業界でも人々に貫禄が無くなった、と言われる。なぜか。幸せの中で貫禄のある人間は育たないからである。

少なくとも日本では食うに困らなくなった1970年代以降はどの分野でも貫禄をつけようにも付けられなかった。だからといって失望してはいけない。これからも貫禄は覚悟如何によっては付けられる。

日本は1970(昭和45)年ごろまではどの分野にも貫禄のある人がいた。明治生まれで戦争を体験していた。大正生まれか昭和の初め生まれは、実際に銃で敵を撃った代議士や社長がごろごろいた。

昔の戦争は銃撃戦である。ミサイルを暗闇に撃つのではない。敵の姿を肉眼で捉え、敵意をこめて狙い撃ちしたのである。だから敵からも狙い撃ちされる恐怖に晒された。それを生き延びた人たちが各分野で先頭に立っていた。

何回も死というものを覚悟して戦って来た人たちだったから、ちっとやそっとのことではビクつかなかった。田中角栄などは加えて監獄も体験済みだったから、なお更だった。

私が秘書官として仕えた園田直と言う人なんか、まず陸軍に志願して入る。長男なのに長男は採用しない(事故死の危険大だから)という日本陸軍第一期落下傘部隊に志願、最後は特別攻撃隊(特攻隊)に志願。

しかし出動待ちのまま敗戦となって生き延びた。「以後の人生はお釣り」といって恐怖を感じるものはない風だった。落選を恐れなかったが落選は初めの一回きりだった。食道癌と宣告された帰りも車の中でグーグーだった(すぐ誤診とわかったが)。

銃を持たない人、例えば中曽根康弘、後藤田正晴といった人たちも軍艦に乗り主計将校として命を的に晒した経験がある。竹下も国内ながら戦火を体験した。

軍隊経験の無い総理大臣は宮沢喜一からである。細川、羽田、橋本、小渕、森、小泉、安倍もちろん軍隊経験はない。

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2007年01月19日

◆友と語らん鈴懸の径


                渡部亮次郎<メルマガ(頂門の一針 主宰)>

標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

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2007年01月17日

◆ゼネコンは中東を目指す

                     渡部亮次郎

中東に初めて足を踏み入れたのは1978(昭和53)年の1月だった。前年の11月に福田赳夫内閣の外務大臣秘書官に任命され、園田直外務大臣の初外遊、厳寒モスクワでの日ソ外相定期協議に随行。帰国翌日に今度は灼熱の中東へ飛び立ったのだった。

イラン、クエートのあとアラブ首長国連邦。冬でありながら摂氏40度近い。青空が澄みすぎて目を開けてはいられない。止むを得ず下を向くのだが、砂ですら眩しいのだ。車のボンネットにタマゴを割ったら目玉焼きのできること確実だった。

そういう中、日本から石油を掘りに来ているアブダビ石油の現場を訪問して社員たちの悩みを聞いた。酒の呑めない国だから時々パリに出かけるのが待ち遠しいとのことだった。

とにかく眩しい。移動中、警備兵が護衛してくれるのだが、兵士の全員が近隣国からの傭兵。「連中が謀反を起こしたら、こっちはひとたまりもないな」と大臣が呟いたので、一瞬、身の毛がよだったことを思い出した。

そのアラブ首長国連邦(UAE)へ公共事業から締め出された日本の大手ゼネコンが大挙して押しかけている、というニュースを読売新聞で読んだ(2007.01.15)。アブダビ石油の苦しみを今やゼネコンが被っているのだ。

産業としては石油産出しかなかったアラブ首長国は、最近、観光に力を入れ始め、鉄道、高級住宅、超高層オフィスビルの建設を日本のゼネコンが請け負っている。

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