2008年01月23日

◆秋山氏が朝日を提訴

                 渡部亮次郎

防衛省事務次官不祥事に関連して、「山田洋行から1億円を受け取った」などと報じられた社団法人日米平和・文化交流協会の専務理事秋山直紀氏は1月17日付で、先ずこのことを最初に報道した朝日新聞社を相手取り、名誉毀損で社団法人と共に東京地裁に提訴した。

訴状によると朝日新聞社が平成19年11月30日から12月1日にかけて報じた秋山氏と社団法人日米平和・文化交流協会に関する記事はすべて事実無根であるため、著しく名誉を毀損されたので、団体(会長瓦力氏)と秋山氏に各5500万円を払い、朝日新聞とそのホームページに謝罪訂正記事の掲載を求めている。

これにより公判は2月中にも開始されるものと見られているが、司法関係者は「朝日のみならず読売や毎日の報道どおりなら秋山氏はとっくに逮捕、起訴されてなければ辻褄が合わない。マスコミは山田洋行側に踊らされたのではないか」と指摘している。

また別の事情通は「秋山氏は単なる民間人であって、仮に受領していてもなんら犯罪を構成しない。新聞もTVも山田洋行側だけの指摘で、秋山氏の立場になんら配慮しないで一方的に報道した。秋山氏の訴えは当然だ」と指摘している。

問題の記事は、
(1) 平成19年11月30日付朝刊。「山田洋行/防衛族団体側に1億円か/毒ガス弾処理受注/協力費支出の文書」

(2) 同日付夕刊
  山田洋行/協力費1億円裏金から/米の子会社が支出

(3) 12月1日付朝刊
  山田洋行1億円 防衛職員を参考人聴取 東京地検 ガス弾処理めぐり

これらの記事に就いて訴状は次のように訴えている。

(1)の記事こそ疑問形になっているが、朝刊1面トップでセンセーショナルに取り上げている。(2)と(3)に就いては断定的で誤解と名誉毀損となる。

とくに山田洋行から国防族議員に対し、国発注事業の受注のために多額の利益提供を行った事、しかも秋山氏がこれに関与している事を示唆し、読者にその旨印象付けるものとなっている。

しかし安全保障研究所の米国の関連団体などというものはそもそも存在しておらず、したがって90万ドル(約1億円)を受け取りようが無い上、安全保障研究所も原告らも、この金を受け取った事実は無い。この記事は事実無根である。

特に原告秋山が授受に事実を強く否定しているにも拘わらず、支払いを受けた関連団体の特定すら出来ないままの報道。極めて杜撰な取材に基づく「中傷」記事である。

これについて日米平和・文化交流協会は朝日新聞社に対し、平成19年12月4日付で、名誉毀損を指摘した上で、謝罪と謝罪訂正記事の掲載を求めたが、適切な対応は無かった。

そこで原告らはそれぞれ5500万円の損害賠償を求めると共に謝罪訂正記事の掲載を要求する、としている。

秋山氏はまたテレビ朝日が12月9日に放送した「サンデープロジェクトでの司会者田原総一朗氏の発言は、秋山氏がさも山田洋行から1億円を受け取ったかのように取れるもので事実に反する、訂正を申し入れた(1月17日付)。                 2008・01・22


2008年01月22日

◆牛の刺身は命がけ

                  渡部亮次郎

死亡率70%という超強力菌「ボツリヌス」が日本の飼育牛にも集団発生していることが分かった。場合に依ってはステーキのレアは勿論、牛の刺身を食べることは命懸けということになりかねない。

<牛350頭が「ボツリヌス症」に、04年以降8県で

牛のボツリヌス症の集団発生が国内で2004年以降相次ぎ、8県で350頭を超す牛が死亡または廃用となったことが小崎俊司・大阪府立大教授(獣医感染症学)の調査でわかった。

1994年に北海道で52頭が初めて報告され、99年に神奈川県で28頭が報告されて以後、途絶えていた。

しかし04年、神奈川県で17頭の発症を確認。05年は兵庫県で127頭のほか秋田、愛知、三重、鳥取の4県でも発生し、06年は鹿児島、岩手県、07年も愛知県で感染が確認された。突然倒れたりした後、1日から1週間で死ぬ例が多く、致死率は極めて高い。

豪州やブラジルでは肉や牛乳の汚染を懸念し、牛へのワクチン接種などの対策が進んでいるが、日本では検査薬やワクチンも市販されていない。

ボツリヌス毒素は、いくつかの型があり、今回の牛の集団発生の型と人の食中毒の型は異なるが、動物実験では同様の毒性を持つことが確認されている。>(2008年1月19日09時06分 読売新聞)

ボツリヌス菌。典型的な毒素型食中毒の代表原因菌。もともと芽胞(細菌胞子)の形で存在する土壌細菌で、自然界に広く分布する。

ボツリヌスとはラテン語でソーセージの意味で、この菌に汚染されたハムやソーセージ、缶詰、飯ずし(ハタハタ鮓など)などを摂取すると、菌の混入によって食品中に排出されていたタンパク質性の毒素が、腸管から吸収されて食中毒がおこる。

<飯寿司(いずし)とは、ご飯と魚・野菜・麹を混ぜて桶に入れ、重石をのせて漬け込み、乳酸発酵させて作る「なれずし」の一種。飯鮨とも書く。

飯寿司は、主に北海道から東北地方で、冬季に作られる郷土料理である。一般に漬け込まれる魚には、ハタハタ、鮭、ニシンなどが、野菜には、キャベツ、大根、ニンジン、ショウガなどが使われる。サンマ、ホッケ、カレイや、きゅうり、タマネギ、サンショウが使われることもある。他のなれずしに比べると漬ける期間は短く、匂いは穏やか。米の甘さと乳酸の酸っぱさのバランスが良い。

すしの分類として、「イズシ」または「イズシ系」と分類名に使うこともある。この場合は、「飯+魚+野菜+塩+麹」で構成されるなれずし全般を示し、石川県のかぶらずしなどもこの系統とされる。

北陸以北の日本海側と北海道の寒い地域に集中した明確な分布圏がみられる。>この項出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ボツリヌス菌の作る毒素は、免疫学上の違いから、A〜Gの7型に分けられる。このうちヒトに中毒をおこすのは、A、B、E、Fの4つ。

腸管内で吸収されると24〜72時間で症状が顕れ、末梢神経(まっしょうしんけい)の筋肉への神経接合部がおかされて筋肉麻痺を起こし、呼吸困難から死亡することが多い。毒素が神経に結合した後の治療はむずかしく、70%の死亡率を示す食中毒もおこる。

続きを読む≫≫

2008年01月20日

◆空しい日本政治の評論

                 渡部亮次郎

国会のみならず日本全体、政治がつまらない。いくら論評しても姿勢を正す能力の無い連中と分かったから興味がすっかり薄れてしまった。

第一に福田康夫である。引退寸前だった彼を総理にしたのは小泉純一郎によって引退に追い込まれた野中広務である。安倍辞任を先駆けて聞きつけ、京都の奥から駆けつけ、森喜朗や青木幹雄を説得して福田の萎えていた野心を呼び戻すのに成功した。

しかし目的に前向きなものは何一つ無い。小泉への怨念だけである。また福田本人にも抱負・経綸があるわけじゃない。用意された座布団に座ってみたもののタネ一つ持たない噺家のようなもの。民心は日々離れて行くのが自明の理である。

19日の施政方針演説にしたところで高い理想はどこにも無い。世論の反発、野党の反撃を食らわない事ばかりを並べ挙げて見せただけ。これだけ下手に出られれば、世間とは、却って馬鹿にして反発するものである。支持率が上がる訳は無かろう。

他方の民主党小沢一郎。自民党を脱党してから既に15年の歳月が流れた。途中、細川内閣を成立せしめた事もあったが、概ね野党生活を続けている。弟子と言いながらやって来た事は反角栄ばかりだ。

2007年夏の参院選挙で参院第1党となり、勢いに乗って衆院でも第1党になれば晴れて政権交代を実現できるわけだから、衆院の早期解散を目的にした国会運営を展開している。少なくとも幹部たちの路線に乗った振りをしている。

これは至極当然のように思えるが、私は裏目に出ると思う。山岡国対委員長の戦術の低劣さから、政府与党に対する「反対」がすべて「妨害」と映り、戦う「勇者」ではなく、正義に抵抗する「悪者」になりかかっている。

先の参院選の結果を民主党は「民主党の勝利」と言うが、これは違う。安倍チョンボ内閣による「自民党・公明党の敗北」に過ぎない。安倍に少しの精神力と大いなる体力があれば負けなかった選挙だった。

このことを一番気に病んでいるのが小沢であり、気付いていない風を装っているのが鳩山、全く気付いていないのが菅直人。先日会って驚いたが参院議長江田五月は恐るべき現実主義者。小沢に似ている。

小沢にしてみれば、参院が本当の勝利でなかったからこそ「大連立」で自民党に「トロイの木馬」として乗り込み、庇から母屋を盗ろうとしたのに、幹部を名乗る素人、ガキども。この亀裂、何時顕在化するか。

国民が、先に支持した小泉路線。これを継続して行くには自民党にとって安陪内閣ではあまりにも弱すぎた。地方への配慮を忘れて戦後レジュームの解消ばかりを訴えると言う単純性脳膜炎が敗北しただけで、民主党の勝利では絶対、無い。

野中広務の企図した福田康夫内閣は参院をめぐる野党対策に苦慮しながらも「3分の2」の壁に守られて、しかし思い切った事は何もできないまま、のんべんだらりと任期満了まで待つだろう。

その時、自民党がすっかり国民の支持を失っている可能性のほうが大きいが、憲政の「妨害者・民主党」の印象をもたれている危険性も大いにあるのだ。

日本の政治にとって最も恐しい事は「判官贔屓」。弱いものの味方。自民党と民主党。判官贔屓を受けられる方はいずれなのか、何時なのか。嵩にかかると民主党は衆院総選挙で惨敗する。

いずれにしろ小泉改革の継続者と見た安陪晋三が隠花植物に似て智恵不足は勿論だが力の全く無い、ただの優男だった事のショック
から立ち直れないまま越年だけした。文中敬称略。2008・01・19




2008年01月19日

◆深川で草食う真鴨

                渡部亮次郎

シベリアからの渡り鳥「マガモ(真鴨)」は干拓前の八郎潟(秋田県)には大群が秋の終わりごろから飛来し、これを狙い撃つ散弾銃の銃声が冬の間中響いていたものだ。

当時の農村に肉屋やスーパーは存在しないから、馳走といえば飼っている鶏を潰すぐらい。滅多に無かったが、近所の鉄砲撃ちが獲った八郎潟の鴨を呉れて、鶏とは比べものにならない美味に驚いたものだ。

干拓八郎潟の残存湖の沿岸で鴨肉を1羽1万円で販売しているところがあると言うので取り寄せて見たが大失敗。雑穀の匂いがきつくて、幼い頃食べた美味しさはまるでなくて、1度で懲りた。渡って来たマガモをそのまま大きなカゴに囲い、雑穀で飼育した奴だったのだ。

そのマガモが東京湾に極く近いとはいえ、林野庁貯木池跡地の猿江恩賜公園に数十羽、飛来し、草を食っているのを見て奇異な感覚に襲われた。湖や沼で小魚を食っているのじゃなかったのか、と。

そうじゃなかった。世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスによれば、ここ深川のマガモたちは公園の片隅に貯木池の記念として作られた池(1600平方M)に飛来したものらしい。

それにしてもこの人工池には虫はもちろん小魚1匹居るわけでは無い。何を目的に飛来したのであろう。群の脇では東京湾の鴎の群も居る。これらも何を目的に真水の池に来ているのだろうか。観察不足、いまだ不明である。

マガモ(真鴨)はカモ目カモ科の鳥。北半球の中緯度地方以北で繁殖し、寒冷地のものが冬季に日本など南へ渡る。分布が広く、個体数の多いカモの一つ。

日本では冬鳥として多数渡来し、波静かな海、河口、湖沼、河川などに生息する。また北海道や本州で繁殖するものがある。

繁殖期以外は植物食で、草の葉、根、実や穀類などを食べる。全長約59cm。雄は頭部が金属光沢のある緑色で、このため俗にアオクビと呼ばれる

分布が広く、飼育も容易であったことから古くから家禽(かきん)化され,アヒルがつくり出されたそうだ。

古来、カモの肉は美味なので、日本人は古くからこれを愛好した。貝塚から出た鳥骨もカモ類のものが多い。

《播磨国風土記》にはカモを羹(あつもの=熱い吸い物)にした記事が見え、偶然ではあるが、これが文献に記載された日本最古の料理ということになる。

しかし、それ以後貴族や武家の支配階級はキジ(雉)を最高の美饌(びせん)として尊び、カモはやや軽視されていた。

近世に入ると、武家は鶴を珍重したが、カモは庶民層によってこよない美味とされるようになり、カモやカモの味の語は、無上のご馳走や快楽、あるいは獲物、幸運などを意味するようにもなった。
野卑なたとえで「○○は鴨の味」とよく聞いたものだ。

井原西鶴の作品にはカモ料理の名が多く見られ、とくに《日本永代蔵》には「鴨鱠(かもなます)、杉焼のいたり料理」という語があって注目される。

「いたり料理」とは手のこんだ贅沢な料理の意味である。脂皮を除いて細切りにした鴨肉を温めた酒で洗ってワサビ酢をかける鴨鱠、杉箱の底に塩をぬりつけて火にかけ、その中でみそを溶かしてカモ、タイ、豆腐、ネギ、クワイ、ヤマノイモなどを煮て食べる杉焼といったものが代表的な贅沢料理だったというわけである。

なお、「アイガモ」はマガモとアヒルの雑種である。

四つ足を食べなかった時代の日本人にとって鴨肉はそれほど珍重されたのだ。1970年代後半の福田赳夫内閣時代、宮内庁の鴨場で各国大使や閣僚らを招いて催される伝統の「鴨猟」が残酷だと批判されたことがあった。

その後、どうなったか知らないが、少なくともそれまで「伝統行事」だったという事は「鴨の味」が伝統として伝わっていたと言う事でもあろう。2008・01・18

2008年01月18日

◆泥鰌あれこれ

                 渡部亮次郎

「江戸浅草寺の南方、駒形堂付近の地区名。今、駒形1〜2丁目(東京都台東区)・駒形橋などの名称が残る。こまがた」と広辞苑が説明する駒形名物は「どぜう」と旧仮名?の看板を掲げる泥鰌(どじょう)料理店である。

観光バスも停まるらしいから東京都民ならずとも客が全国から来るわけだが、関西出身の友人によると昔から食糧の豊富だった関西では泥鰌を食べる習慣が無かったそうだ。そういえば大阪に泥鰌料理店は無かった。今は知らないが。

東京では多くの泥鰌料理店などでは「どぜう」と看板に書いているが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しいとされている。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

しかし、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。

ウイキペディアによると泥鰌は東京近辺で好まれるため、産地も
利根川水系で取れたものが大部分を占めていたが、韓国や中国などからの輸入が増えつつあるそうだ。

泥鰌は農民の動物性食品として重要なものであった。泥鰌を捕るには、夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いてとった。

郷里の秋田では水田の泥鰌を竹を細く割って編んだ筌(うけ)(田舎では「どう」といった)を小流に据えて捕る漁法が普通で、夕方、据えて早朝引き揚げるのだったが、上手な兄を真似ても私のには1匹も入らなかった。止めた。

泥鰌は以前は「田螺(たにし)と共に各地の水田などから多量に生産、漁獲されたが、第2次大戦後に農薬の使用が盛んになるにつれ、1957(昭和32)年から63(昭和38)年ごろまで天然産泥鰌の産額が著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねて泥鰌の養殖が試みられた。一方、稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって、天然泥鰌の生産はやや回復した。しかし、現在では生産が消費に追いつかず活魚で輸入している。

大ぶりのものは開いて(さき)頭と内臓を取り、小さいものはそのまま(まる)で、ネギ、ゴボウとともに割下で煮て卵で閉じた柳川鍋とされることが多い。卵で閉じないものはどぜう鍋と呼ばれる。

続きを読む≫≫

2008年01月17日

◆矢次一夫知らない

                  渡部亮次郎

以下は2008年1月15日の共同電だが、明らかな誤りがある。35年も前のこと。韓国政府の担当者がボケたか、共同通信デスクが若すぎるのか、珍しい事実誤認か誤植である。角栄氏と福田赳夫氏を取り違えている。

<金大中氏の保釈を韓国に打診 岸氏側近、世論沈静図る

【ソウル15日共同】韓国政府は15日、1973年の金大中氏拉致事件など に関する外交文書を公開した。日本と韓国が事件の捜査を棚上げした「政治決着」に批判が高まった77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった。

当時、韓国中央情報部(KCIA)の金炯旭元部長が「事件はKCIAの犯行」と米議会で証言。矢次氏は、証言が裏付けられる事態になれば、韓国政府機関が 無関係であることを前提とした政治決着が破たんし、「福田(赳夫)内閣の命取りになりかねない」と述べる一方、金氏の保釈で事態は落ち着くと強調。日本の 政局安定を目的に金氏の自由の回復を模索していた。

金元部長は77年6月に米議会で証言したのに続き、7月には共同通信などの取材に対し、岸、矢次両氏が日本商社の依頼を受け、ソウルの地下鉄車両納入を> めぐり朴正熙大統領に働き掛けていたと発言した。>

金大中事件の起きたのは田中角栄内閣であって福田赳夫・康夫内閣は全く無関係。韓国政府の発表が間違い、共同通信のデスクがチェックできなかった。

矢次一夫やつぎかずお 1899‐1983(明治32‐昭和58)
浪人政治家。佐賀県に生まれる。16歳で家を出て,人夫・沖仲仕など放浪生活を経験したのち20歳で上京,一時は北一輝の食客となる。

1921年(大正10)協調会に入り,25年労働事情調査所を創立して〈《労働週報》〉を発刊,野田捺油争議,共同印刷争議,日本楽器争議などの大争議の調停にあたる。しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手。

官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談。

日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。

<77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった>と共同電にはあるが、77年とは昭和52年。田中角栄内閣発足直後である。福田赳夫さんは逼塞していただけだ。

私はそのころは田中総理の側に居て、福田さんの動きを知らない。親分岸さんの側近というのだから矢次さんの事はよく知っていたのだろうが、少なくとも官房長官園田直氏の口から矢次という言葉が出た事はない。世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
2008・01・15

◆金大中事件から35年

                  渡部亮次郎

以下は2008年1月15日の共同電だが、明らかな誤りがある。35年も前のこと。韓国政府の担当者がボケたか、共同通信デスクが若すぎるのか、珍しい事実誤認か誤植である。角栄氏と福田赳夫氏を取り違えている。

<金大中氏の保釈を韓国に打診 岸氏側近、世論沈静図る

【ソウル15日共同】韓国政府は15日、1973年の金大中氏拉致事件など に関する外交文書を公開した。日本と韓国が事件の捜査を棚上げした「政治決着」に批判が高まった77年、岸信介元首相(故人)の側近、矢次一夫氏(同)が、 世論を沈静化させるため拘束中の金氏の保釈を駐日韓国大使に打診、大使が拒否 していたことが分かった。

当時、韓国中央情報部(KCIA)の金炯旭元部長が「事件はKCIAの犯行」と米議会で証言。矢次氏は、証言が裏付けられる事態になれば、韓国政府機関が 無関係であることを前提とした政治決着が破たんし、「福田(赳夫)内閣の命取りになりかねない」と述べる一方、金氏の保釈で事態は落ち着くと強調。日本の 政局安定を目的に金氏の自由の回復を模索していた。

金元部長は77年6月に米議会で証言したのに続き、7月には共同通信などの取材に対し、岸、矢次両氏が日本商社の依頼を受け、ソウルの地下鉄車両納入を> めぐり朴正熙大統領に働き掛けていたと発言した。>

重大な事実誤認か誤植。当時の内閣は田中角栄内閣。矢次氏が当時田中内閣のために奔走していたとは驚きだが、岸氏が奔走していたのは頷ける。利権で繋がっていたからだ。

事件に先立ち私は金在権と称する在日韓国大使館公使と懇談し、日本に来て反朴運動を展開する金大中氏を放置するのかと質した。これに対して金公使は「ウフフ、そのうちなんとかなりますよ」と答えた。背筋が寒くなった。

直後、私は大阪に転勤。NHK政治部を離れた。それから間もなく事件は起きた。あれから35年。40をとうに過ぎたわが息子でも事件の経緯を知らない。事件を詳しく振り返ろう。以下「ウイキペディア」を引用。

<1973年8月8日午前11時頃、金大中は東京のホテル・グランドパレス2212号室に病気療養のため宿泊していた梁一東[ヤン・イルトン]韓国民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は九段下の交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連に至近の場所に位置している。

午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識を朦朧となった。

後、4人により、エレベータで地下の車に乗せられた。ホテルから車で関西方面(神戸)の韓国総領事館宿舎に連れて行き、翌9日朝、偽装貨物船(コードネームは龍金【ヨングム】号)で大阪埠頭から出国したと見られる。

朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。金大中はさらに「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海に投げ込まれそうになった」と後日語っている。

しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる)アメリカの通報を受けた自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行し、ソウルで解放したとされている。

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。

拉致から5日後の13日、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。

9月5日、警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。捜査員はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(金東雲[キム・ドンウォン]は変名、本名は金炳賛)の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めた。(渡部註:名刺の金公使が金東雲だったのだ)。

しかし金は外交特権を盾に拒否。金東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、警視庁は逃走に使われた車が横浜の韓国領事館の副領事のものであったことも調べ上げていた。

しかし金書記官はすでに8月19日に出国しており「警視庁は最初から本気で捜査する気がなかったのではないか」との声が多く上がった。

続きを読む≫≫

2008年01月15日

◆原稿の書き方と生き方

                  渡部亮次郎

原稿と言うものを書き始めて50年以上が過ぎた。秋田県立秋田高校の文
芸誌「琢磨」、NHK19年間のニュース原稿、月刊誌「文藝春秋」政界夜話
「赤坂太郎」と書き続けた。今でも月刊『自由』と賀屋興宣氏創刊の月刊
『カレント』に書いている。

結論は「今」から書かなければいけない。回顧録でも「今」から書かな
ければ、読者はついてきてくれない、ということだ。いくら気張って書
いても、読まれなかったら書かなかったのと同じことになるからだ。

昔語りは老人の常。つい「そもそも」と昔の起こりから語るが、読む方
は、今に生きているから、「そもそも」には関心が無い。今、昔を語る
なら、今、こうなっているのは、昨日がこうだったから、と書かなけれ
ばならない。

昨日がああだったのは去年がこうだったからと溯って行ったほうが読者
を引っ張っていける。

老人は形式張ろうとしやすい。「本日ここに○○にあたり祝辞を述べる
ことが出来ますのは、本職の光栄至極の存じるところでありまして」。
私は子供ながらに噴き出したものだ。もっと心の籠もった言葉は用意し
て来なかったのかい。

私が最初に入ったのはラジオ時代のNHKだった。しかし入り方が変則だっ
たから初年兵としての研修は受けていない。初めから自己流で書いてき
た。

最初に対面したのは交通事故のニュース。新聞では見出しが立ち、本文
は何時、どこで、誰と誰が正面衝突。結果誰が死んだ。原因は何々だと
警察の話、で結ぶ。

日本で初のラジオ・ニュースを出したNHKは新聞の写しを作り、それを単
に「です」 「ます」と話し言葉にしただけ。幸い私はこういう悪文に
染まらずに済んだ(研修を受けていない)。ひとりで工夫せざるを得な
かった。

どこで交通事故があり、誰が死んだ。死んだのは誰それ、相手は誰。原
因は、で結んだり、原因が珍しければ、最初に原因を書いたりした。

何しろ新聞の文章を耳だけから聞いたのでは「どこそこの誰と誰が正面
衝突して誰が死んだ」ではみみは既に死者の住所を忘れている。

そこで耳だけですっきりわかるように5W1Hの配置さえ変えて分かる工夫
が必要なのである。

やがてテレビの時代になった。テレビのフィルムにラジオの文章を被せ
ただけでテレビニュースでござい、という事態が何年も続いた。何しろ
先輩記者がテレビ現場を独占して離さない。

そのうちに左遷されて東京から大阪へ。しばらくおとなしくしていたが、
部長の許可を得て、改革に乗り出した。火事を時間からではなく、見出
しを受けた文章の冒頭は「現場は・・・」で始めることにした。

都会の火事は交通渋滞のため、炎上している現場にカメラが間に合う事
は滅多に無い。みんな、既に消えた現場を映して「今日何時何分ごろ、
大阪何区何丁目の何さん方から出火し・・・」といったら視聴者は耳と
目が分裂し、理解できなくなる、というNHK内部の研究が出回っていたか
らである。
消えかかった火事を流しているのだから「現場はどこそこ」と言い、そ
のあとで経緯の説明をするようにした。現場の映像に「現場」の説明を
被せた方が視聴者は落ち着くはず。

やがて雑誌に原稿を依頼されるようになって事情は一変。起承転結で文
章を展開する事に成ったが、冒頭の3行を読めば結論の分かる文章に仕上
げるようにしている。すべてがそうは行かないこともあるが。

或いは「おでん」を題材に書く時は「おでん」の始まりから論ずるので
はなく、外国の「おでん事情」から入ったりする。驚かして興味を後に
引くためである。(未完)2008・01・13



2008年01月13日

◆共産党員と社会党員

                  渡部亮次郎

私の育ったところは秋田県の元八郎潟沿岸で、見渡す限り水田の中に1本道の両側に60軒ぐらいがひっそりと暮らす水田単作農家の集落だった。庭にはタモの木と公孫樹しかなかった。木の名を知らないのは田圃育ちだからだ。

農家は殆どが自由党支持。だが1軒だけ共産党支持、もう1軒が社会党支持。その社会党支持者がうちの父母だった。しかし、そのお陰で私たち子供は社会党支持にならず、社会党倒壊後に支持政党無し族にならずに済んだ。

貧しかった。全くの小作農家だったから貧しかった。だから父母は兄が戦争中、県立秋田中学校に合格した時、随分困った。小学校の先生の薦めるまま受験させたものの授業料の捻出に困った。

学校は戦争中であらゆる日常物資が欠乏している事を知ってか知らずか、生徒が携行する雨傘は「洋傘」つまり「蝙蝠傘」。貧乏小作農家にそんな上等な品物のあろう筈が無い。母親はその悔しさを98で死ぬまで語った。

後年私も秋田中学の後身たる秋田高校に入るのだが、愛校心の極めて薄いOBになったのには、このときの恨みがあるからのようである。

敗戦後の学制改革で秋田高校の生徒になった兄は終始、学業成績1番で通した。傍ら長距離走の練習で夕方まで練習にも余念が無く、駅伝競走では新記録を樹立した。頼もしい兄であった。

周囲は当然東京大学に進むものと考え、本人もその気になったが、両親は最後、肯んじなかった。兄が荒れたのは当然である。

やがて気を取り直して隣町五城目町の中学校の代用教員になった。評判のいい先生だったらしい。間も無く秋田魁新報という地元紙の記者試験。

試験は出来たが落とされた。調べたら秋田中学時代、流行のストライキの首謀者だったというためにする中傷が原因と分かり、それを言い出した主筆に抗議、結果合格した。父親が社会党の県支部連合会の役員に名を連ねていたのが原因だったのではなかろうか。

そこから先がわが兄の優れたところで、落とした主筆のところへ押しかけて誤解を解くよう要求。誤解が解けて入社が決ったもののラジオ部という、子会社民放用に新聞原稿をラジオ用にリライトする部門に置かれた。取材には出して貰えない日々が続いた。それでも腐りはしなかった。

お前は大学を出えてくるのだろうが、東京弁をマスターして来い。アナウンアサーになれると言っていた。それが満足にできなかったからではないが、昭和33年2月、卒業式を待たずに、NHK秋田放送局の通信員に世話してくれた。

その後の兄は、やがて社会部長を経て論説委員長から常務取締役になった。次に専務にといわれたそうだが、常務のままで定年前に退社した。交通事故で片目を失明したのがきっかけだった。

さてNHKの通信員。態のいい臨時採用記者。6月まで秋田県警察本部担当の補助。6月から青森県に接する大館市に駐在。毎朝4時に起きて大館警察署を訪問。管内の事件事故、火事の報告書を見せてもらうだけでなく、他のところで起きた事件事故の概要や指名手配なども知り得た。

問題は秋田放送局への送稿である。当時は戦争中の名残で秋田放送局には警察電話が繋がっていた。大館警察署から県警本部を呼んでもらい、県警本部からNHKへ繋いでもらい、泊り明けのアナウンサーに書き取ってもらった。まるで直通電話を持っているような贅沢。

しかも、私は多分東北管内のNHK記者で最も早起きの記者。ニュースは最も新しい。アナウンサーは気を利かせて仙台中央放送局のニュースデスクへ送稿してくれた。午前5時の東北各県向けのニュースに「大館発」が毎日のように流れた。それを聞いてまた寝た。

やがてNHKの翌年度の採用試験を受けるように、となって正式採用され昭和34年7月1日から仙台放送局報道課所属の記者になった。ここまで面倒を見てくださったのは秋田放送局の先輩記者早澤良雄さんである。いつも感謝してここまで来た。

1年後、岩手県の盛岡放送局、ここで4年。後東京の政治部へ。9年居て専ら『文藝春秋』の「政局夜話」を「赤坂太郎」名で書いた。それがもとで田中角栄首相の逆鱗に触れて大阪に左遷。

3年後に東京・国際局に帰還したが官房長官園田直さんに誘われるまま秘書官就任を受諾。NHK在職19年だった。国立(くにたち)の自宅から電車で総理官邸に駆けつけたが、内閣改造で園田さんは外相に横滑り。自動的に行ったこともない外務省で秘書官暮らしを計延べ4年、途中、厚生大臣秘書官も経験した。

退任後、いろいろ考えているうちに栗原祐幸元防衛庁長官の世話で、学生援護会の支援する社団法人日米文化振興会の理事長に就任。1984(昭和59)年8月のことだった。4ヶ月前の4月2日、園田さんが糖尿病による腎不全のため70歳で死んだ。

理事長としては約17年在籍。学生援護会の経営状況の悪化など諸般の事情を勘案して平成13年末で退任。日米文化振興会とは無縁になった。

同会はその後、いろいろな事情を経て秋山直紀氏の管理するところとなり、2006年に日米平和・文化交流協会に変身。秋山氏が参院外交防衛委員会の参考人に呼ばれる事件に繋がる。

思い起こすと父母は子供7人(1人は夭折)を育てるのに懸命だった。父は自作農になるために、早くから八郎潟干拓運動に奔走。父の居ない分を母と姉が背負った。干拓は実現、田圃も増えたが、それ以前に敗戦に伴う占領軍による農地解放で自作農になっていた。

男兄弟3人とも家を出たので妹が婿を迎えて家を継いだ。義弟は渡部家を大きくしたが、数年前、土建業の経営に失敗、家はもちろん田地田畑のすべてを失った。私には帰るべき故郷の家が無くなった。

父はとっくに死んでいたが、せめて遺された母が長く老人施設で暮らすことなく亡くなった事は、むしろ幸福だったのではないかと思っている。
今日1月13日が私の誕生日である。2008・01・13




2008年01月09日

◆舐めたらあかんぜよ

                  渡部亮次郎

Change。この言葉がアメリカの民主党支持者を熱狂させた。いな無党派の若者を熱狂させた。Changeとは「変化」と習ったが実は「変革」というやや強い意味を持った言葉だったらしい。変革。どこの国でも人々は変革を求めている。ヒラリーはこれにやられている。

美女で、既にファーストレディーを経験済み。彼女はそれを「経験」「実績」と訴えたがこれが裏目に出た。「変革」の前には「古い」或いは「古色蒼然」。選挙参謀の誤算だろう。それにエロ爺の夫が出てくれば負けないのが可笑しい。完全に戦略を間違えた。

勝負。まだ分からないが、カネと「実績」を誇るだけでは世の中、甘くない。「舐めたら あかんぜよ」。

<クリントン氏涙ぐむ 初めて弱さ見せた?

【マンチェスター(米ニューハンプシャー州)大治朋子】米大統領選のニューハンプシャー州予備選を翌日に控えた7日、民主党候補のヒラリー・クリントン上院議員(60)が涙ぐむひと幕があった。

各種世論調査でバラク・オバマ上院議員(46)に10ポイント前後引き離されているクリントン氏。「実績と強さ」をアピールしてきただけに、米メディアは「ヒラリーが初めて弱さを見せた」と驚きをもって伝えた。

東部ポーツマスで開いた集会。支持者に「(精神的にも肉体的にも)厳しい選挙運動をどう乗り切っているのか」と聞かれたクリントン氏は「簡単ではありません。正しいことをやっていると信じていなければできない」と答えた。

ひと呼吸置いて「私はこの国からたくさんのチャンスをもらった」と涙ぐんだ。さらに「私は(ブッシュ政権下で)何が起きているのかを見ている。それを覆さなければならない」と語り、思いがこみ上げたように声を震わせた。

次第に普段の口調に戻ったが、米国の民主主義が後退していくとの危機感を指摘しようとしたとみられる。

クリントン氏はアイオワ州の民主党員集会でオバマ氏に惨敗。米メディアは逆転を狙う「戦略」か「疲れているのか」と分析した。>
1月8日10時32分配信 毎日新聞

8日正午のニュースでクリントン氏はオバマ氏のいう「変革」について「変革を私はずっとやって来た」とつい「実績」を誇示しようとした。しかしこれは、いうなればオバマ氏の土俵に上ってしまったわけであり、実績を強調すればするほど引きずりこまれる。

つまりオバマ氏の変革が無党派層に受けているのは共和党のやり方もクリントン氏ら民主党のやって来たことも否定するものである。したがってクリントン氏が「実績」を強調ればするほど厭がれれるという構造になっている。

なんだか小泉純一郎氏と橋本龍太郎氏が総裁選挙を争った時に似ている。「風」に乗った小泉氏に対して橋本氏が「組織」を誇れば誇るほど小泉氏を取り巻く風がさらに強まり、最後はつむじ風になって小泉大勝利。

アメリカの大統領選挙は期間が長い。まだまだ勝負は先だ。これから何が起きるか全く予断を許さない。しかし経験と実績を誇示しようとしてエロ爺を出してきたクリントン氏の作戦は完全に裏目に出ている。2008・01・08

2008年01月08日

◆錦糸町の45階住宅

                渡部亮次郎

机を壁向きから北の窓向きに変えたから、パソコンから目を逸らすと錦糸町の高層ビル街と対面する事になる。中でも右端、昔の精工舎跡地に建ったマンションは45階だからひと際目立つ。霞ヶ関ビルより9階も高い。

錦糸町に45階?誰が想像しただろうか。ましてその奥が押上(おしあげ)という地名が証明しているように明らかに弥生時代は海だったところ。地盤の脆さは深川、江東区と似たり寄ったりのはずだ。

昭和29(1954)年から東京での学生生活を始めたが、当時住んだ文京区という都心でも、まだ戦災の跡として焼け焦げた門柱があちこちに転がっていた。

僅かに皇居に隣接する丸の内地区にマッカーサーに接収された明治生命などのビルが残って並んでいたが、どれも8階建てであった。しかし、これがそれまでの建築基準法による規制の結果とは知る由も無し、関心も無かった。

当然、マイカー時代はまだ到来せず、繁華街でも交通信号はあまり無かったように思う。したがって赤でストップ、青でゴーなんていう意識も無かった。走っているのはバスかトラック。主な道路の真ん中を都電が走っていた。

地方勤務を経て昭和39(1964)年夏、戻ってみたら東京は初のオリムピックを目指しての建築ラッシュ。思い起こせば青山通りが拡幅され掘り返されていた。羽田空港から都心まで初の高速自動車道が建設中だった。

そのオリンピック担当する大臣河野一郎氏を担当させられたから目を瞑る間も無いくらいの忙しさ。折から少雨渇水の夏対策も担当。加えて総理大臣池田勇人氏が喉頭「前」癌症状だという。残業時間が月200時間に達して、歯がぼろぼろになった。

港区の山手に新しく出現したホテルがなんと17階、頂上に回転ラウンジがあるという。しかし驚いてはいけなかった。間もなく官庁街霞ヶ関に東京霞ヶ関ビルが出現し、貿易センターが出現したからである。

<霞が関ビルディング霞が関ビルディング(略称:霞が関ビル)は、東京都千代田区霞が関3丁目にある地上36階、地下3階、地上高147mの超高層ビル(オフィス・商業複合施設)。所有者は三井不動産。

定義にもよるが、一般的に日本最初の超高層ビルとして知られている。設計は山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設によるJV(共同企業体)、事業主体は三井不動産である。

東京倶楽部が経営していた旧・東京倶楽部ビル跡と霞会館(旧・華族会館)の敷地に建設され、1965年(昭和40年)3月18日に起工、1967年(昭和42年)4月18日に上棟し、1968年(昭和43年)4月18日にオープンした。耐震設計として鋼材を組み上げた柔構造を採用している。

関東大震災の教訓から東京では31mという高さ制限(いわゆる百尺規制)があったため、当初は9階建てのビルの計画であったが、1962年(昭和37年)8月に建築基準法が改定され、高さ31m制限が撤廃されることとなったために高層ビルへ計画変更された経緯がある。

日本においてはじめての高層ビルの建設のため苦労も多く、そのエピソードはNHKのテレビ番組『プロジェクトX 挑戦者たち』でも取り上げられた。

竣工当時、最上階36階に展望台があり賑わいをみせていたが、その後オフィスに改装された。33階に東海大学校友会館が入居しているが、卒業生などに限らず、普段から自由に(会議や一般で言うところの「飲み会」)などに利用されている。

ビルの総容積は約50万立方メートル(総重量約10万トン)あり、東京ドームが竣工する前は莫大な体積を表現する際に「霞が関ビル何杯分」という表現がよく使われていた。

かくて竣工から40年が経過し、隣接する霞が関コモンゲート西館(175.78m)と東館(156.67m)は、霞が関ビルの高さを上回っている。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武藤という東大教授が「撓(しな)う竹は折れないことにヒントを得て構想。地震のエネルギーをしなう事で吸収することで解決。31メートル制限は一気に「無制限」になった。

新宿の淀橋浄水場跡地の超高層ビル街は正午のNHKニュースのバックになっているぐらい有名だが、いまや隅田川の河口の先にある佃島も超高層ビルが乱立。東京湾「夢の島」埋立地周辺の「マンション」の高さも相当なものだ。

今や東京のみならず、超高層ビルは全国いたるところに出現。日本のオフィス、住宅事情に革命をもたらした。そういう筆者の住まいも「川向こう」の湿地帯にありながら20階ビルである。

「こんなに高層ビルばかり建てちゃって大震災の時はどうするんだろうと心配する人は多いが、人間は必ず死ぬと分かっていながら、それは自分ではない、と思うのが、これまた人間の常である。
2008・01・07

2008年01月07日

◆福田・大平品格の差

                 渡部亮次郎

毎日新聞のコラムニスト岩見隆夫さんが2008年1月5日のコラm「近聞遠見」で書いている。

<・・・餅、すしはもとよりだが、食べ物は時間が勝負、早く食べるに越したことはない。政治も似たようなところがある。スピード感だ。拙速はまずいが、逡巡(しゅんじゅん)はもっとまずい。政界では、いまも、

「大国を治むるは、小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)し」

などという格言が使われるからややこしい。老子の言葉、大国を治めるのは、はらわたも骨もそのままの小魚(小鮮)をじっくり煮るようなもの、という意味だ。時間をかけ作為を弄(ろう)さずに、という賢人の教えである。

それも一面の道理だが、いまはテレビとインターネットの超高速伝達社会だ。じっくり、だけではすまない。

手っとり早く安直に、では困るが、餅にカビが生えないうちに、マグロの色があせないうちに、今年は鮮度のいいハンドルさばきをお願いしたい。>

これを読んで内閣改造を見送った総理大臣福田康夫氏のパリでの言動を35年ぶりに思い出した。

この年1978(昭和53)年は当時の総理大臣福田赳夫氏が大平正芳幹事長に「2」年と約束した「自民党総裁任期」の満了年である。11月が来たら退陣すると紙に書いて交わした「密約」を果たさなければならない。

それに先立って福田首相は西ドイツの首都(当時)ボンでのサミットに出席すべく東京を発ち、7月14日午前2時15分(現地時間)パリに途中立ち寄った。

なぜなら「7月14日」こそはフランスの革命記念日であり、首都パリではさまざまな華やかな行事が展開される。人気を盛り上げて密約の反故(ほご)を策する福田父子にとって「パリ祭」は記者サービスの大事な材料であるはずだ。現に首相は私に「亮ちゃん、パリじゃ美味いものをご馳走するぜ」と軽口を聞いてくれたぐらい。

現地時間の午後4時10分からコンコルド広場を囲む有名ホテル「クリヨン」で同行記者諸君と「記者懇談」だという。日本時間ではまだ午前9時過ぎ。みな、些か時差ボケ。折から広場ではファンファーレが鳴り、上空を航空機やヘリが舞ってお祭りは最高潮。それでも福田さんは懇談を止めない。

記者団は総裁再選問題ばかりに食いつくが、総理はサミットの意義ばかりを強調する。堪らず私は総理大臣首席秘書官たる康夫さんに囁いた。外は大賑わい、記者団も心ここにあらずじゃないですか。

「いや、連中はサミットの意味を全く分かっちゃいないんだから、ここはもっと教えなければ駄目です!」。終わった時、祭りは最高潮を過ぎていた。「餅」の食い時は過ぎていた。

ここへ来る2日前の7月12日午前6時30分、私は目白の田中角栄邸玄関前の車中に待機していた。角栄首相(当時)に大阪へ飛ばされたのがきっかけでNHKを途中退職した私。42歳にして園田直外務大臣の秘書官に就任した私。

あろうことか、付いた外相が領袖の福田氏ではなく角栄氏を頼りにすべく極秘に訪ねて来て私もそれに従ってきた。なんという歴史の皮肉であろうか。しかし政治が権力闘争そのものである以上、生き残りのためには『昨日の敵は今日の友』当然なのである。

「福田は2年で終わり、年末には大平政権」で一致してきた園田は意気軒昂。そのままオテル・デュ・クリヨンの部屋に「福田再選への梃入れ要請」に来た森喜朗官房副長官にも「君ら、オレの言う事を聞くなら再選ありうるが、そうでなきゃ無いぜ」と高飛車に言った。

園田氏はあのまま官房長官をしていられたら大平氏を説得して任期1年延長を取り付ける心算で、かなりの自信を持っていた。だが「とにかく官邸から園田を追放して後任にワシの女婿安倍晋太郎を」という親分の注文をもだいしがたく、園田を外相に追いやった。

後で聞けば、片方の大平氏は福田氏が再選に立候補するなどとは信じがたく「まさか」と思っていた。それが挑戦してきて敗れ、かつ「40日抗争」を仕掛けてくるなんて想像もしていなかった。2人の品格の差というしかない。康夫氏は「密約」を最後まで知らされずに父を見送った。2008・01・06

2008年01月05日

◆農場の集団化は失敗する

                 渡部亮次郎

コルホーズとソフホーズ Kolkhoz:Sovkhoz 旧ソ連の社会主義的農場
の2つの形態。コルホーズは「集団的経営」、ソフホーズは「ソビエト的
経営」のロシア語の略称。

ロシア革命(1917年)によって古くからの地主的土地所有制度は解体され、
土地の国有が宣言された。スターリン時代の1920年代末期(1928年1月4日)
に農業の全面的集団化が強制的に実行された。

屋敷付属地、耕作に必要な生産用具、若干の家畜の私的所有は認めるも
のの耕地、家畜、農具の主要部分を共同化した協同組合的集団農場がつ
くられ、これが一般にコルホーズと呼ばれた。

コルホーズに参加した農民への分配は、個々人の労働の量と質に応じた
作業日単位で行われていたが、ブレジネフ時代に入ると、職種ごとのノ
ルマと賃金表に基づく貨幣支給に変わって行った。

これに対して、ソフホーズは「国営農場」と訳されることからもわかる
ように、原則的に生産手段のすべてが国有化されており、ここで働くの
は賃金の支払いをうける農業労働者であった。

ソフホーズはコルホーズと比較すると、数は少ないが、社会主義的農業
の模範とされたこともあって、大農場が多く、国家の保護を受けて機械
設備なども整っていた。

フルシチョフ時代以降、経営力の弱いコルホーズを強化し、さらにソフ
ホーズに転じる政策がとられたが、ソフホーズ自体の生産の集約化は後
れ生産性の向上もなく、やがてソ連の解体により市場経済が導入される
と両者ともに解体の道をたどった。(マイクロソフト「エンカルタ」参
照)。

この急速な集団化は多くの犠牲者を出したが、反抗者の排除によるソビ
エト体制の安定化につながり、開拓地などに設立されたソフホーズ(国
営農場)とともにソビエト農業の基本構造となった。

第2次世界大戦でソ連軍に占領され、ソ連型社会主義体制へ移行した東
ヨーロッパ諸国でも、ポーランド以外はこのコルホーズと同形態の集団
農場による農業の集団化を実行した。

一方、ソ連国内では徐々にコルホーズ生産の非効率性が認識され、自留
地における農作物の自由生産と市場での販売が承認されていった。

それでも2億人を超えるソ連国民の食糧は自給できず、コルホーズの生産
性向上は歴代の政権にとって難問であり続けた。人々は働いてもサボっ
ても同じならみんながサボるようになる。

園田直外相時代(1978年―1981年)、アメリカが映したウクライナの衛星
写真を見せられてことがある。それは前日に播種した広大な麦畑の写真
だった。

種麦をコルホーズの人たちが撒いた夜、強い風が吹き、タネは殆ど飛ば
されてしまった。だが人々は「ノルマは果たした」といわんばかりに、
再度の播種には応じない実態を示していた。

やがて収穫の秋が来る。麦の収穫量が極端に少ない。責任はどこにある
か。ノルマの監視を怠った農相が解雇されてお終い。集団農場では働い
ても働かなくても収入は変わらないというのでは、やがて共産主義はつ
ぶれると思ったものだが、間もなく現実になった。

1991年にソビエト連邦が解体され、農業集団化が否定されると、コルホ
ーズの存在意義が問われるようになった。

ソ連型社会主義からの脱却を指向するウクライナなどの各国ではコルホ
ーズが解体され、自営農民の復活に向けた動きが進んだ。

似たようなものに人民中国の人民公社がある。しかし1982年、憲法改正
により廃止された。それでも毛沢東が死んで6年間は形式上存在した。ト
ウの好きな合理性に1番反するのが人民公社だったと思われるが。

1972年9月、時の総理田中角栄氏が国交正常化交渉を目的に初訪中した際、
中国側は北京郊外の人民公社を一行に見学させた。出てきたものは彼ら
が作ったコンクリート製の手漕ぎ船だった。

ソヴィエトに見捨てられて「自力更生」を自らに言い聞かせるしかない
毛沢東。畑で木屑を燃やして製鉄しようとしたり、こうして鉄の足りな
さをコンクリートで補おうとしたり。やがて行き詰まる事必定と見た。

だから毛に苛められたトウ小平が完全復活して経済の開放改革を打ち出
さなければ中国は大変な窮乏に陥っていた事は確かである。

余談だが、経済の改革開放にとって共産党は邪魔である。資本主義経済
は必然的に「統制」を嫌うからである。それでも共産党は資本に立ちは
だかるから資本は袖の下を贈ることで「統制」を逃れようとする。「汚
職」が必然化する。

国家経済を「統制」しなければ、政治的に共産主義政権は成立しない。
従ってトウ小平が経済だけの改革開放に踏み切った時、人民が天安門広
場で政治的な「自由」を求めたのは「必然」であった。

当然、トウは気付いたが後の祭り。如何ともしがたい矛盾を封じるため
には砲火でねじ伏せるしかなかった。当面は抑えたが自分の死後、共産
主義は崩壊する。さすれば自らの墓は暴かれるという屈辱が待ち受けて
いる。だから遺骨の撒布を命じ、墓は作らせなかった。

墓を作らせなかった点では周恩来もそうだが、2人とも中華人民共和国
がいずれ崩壊し、自分の墓を暴かれるという認識では一致していた。だ
から毛沢東は2人にいつも嫉妬心を持っていた。2008・01・01


広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。