朴正煕パク・チョンヒ 大韓民国第5〜9代大統領(963年10月15日―1979
年10月26日 )盧武鉉現大統領はじめ誰がなんと言おうと近代韓国の基礎
を築いた最大の功労者である。
1963年、大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開
発院を設立した事を手始めに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベト
ナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。
園田直さんによると、青瓦台(大統領官邸)の地下1階のトイレのドアが
閉まってなかったといって衛兵にビンタを食らわしたそうだ。
国家主導で産業育成によって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵
所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は
石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。
この結果、日本との国交が無かった1961(昭和36)年には国民1人あたり
の所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620
ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるとい
う「漢江の奇跡」を成し遂げた。
工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、そ
れを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の
近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。
中央情報部長・金載圭は朴正煕大統領の古い友人だったが、学生運動の
弾圧が生ぬるいとして無能をしばしば叱責され、ライバル関係にある車
智!)警護室長からも攻撃を受けていた。
このため、金載圭は両人の殺害を計画するようになった。1979年10月26
日、ソウル市宮井洞の中央情報部所属の秘密宴会場で大統領らと晩餐を
共にした。
その際、反政府学生らが釜山の米国文化館を占拠した事件について大統
領が責任を追及し、車智!)室長が批判を加えて来ると、金載圭は晩餐会
場から出て直属部下の朴興柱・朴善浩に銃声がすれば控え室の警護員を
射殺するよう指示した。
晩餐会場に戻った金載圭は朴正煕と車智!)にそれぞれ2発撃ち、銃声を聞
いた朴善浩らは大統領府警護員らを射殺した。晩餐会場には大統領府秘
書室長金桂元や女性ホステス(有名歌手と女子大生)もいたが、無事だっ
た。
間もなく金載圭らは現場を脱出したが、緊急国務会議で逮捕令が出され、
27日午前0時40分に大統領殺害犯として逮捕された。
その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、陸軍参謀総長鄭昇和大将が戒厳
司令官に就任した。捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した保安司
令官全斗煥少将によって進められ、金載圭とその部下らに死刑が宣告さ
れた。
ちなみに、次期大統領となる崔圭夏は事件の一報を耳にしたとき、「金
日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという。
この事件により、韓国では第四共和国体制が終了し、第五共和国体制へ
移行していく。
2007年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり評価は各人の立場
においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為
には不当な手段のも厭わないものの、私人としては清廉であると評価さ
れつつある。
朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開
発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判されつづけていたが、民主
化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになっ
たと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」
と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。
政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正
煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという
声が高くなっている。
独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であり、ネポティ
ズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世
を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともい
われる。
しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身
の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕
を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民
主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因とな
った。
終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済
格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東
アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。
経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむし
ろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず
人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。
批判的な見地からは独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配に
おける対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委
員会の名簿に記載された。
2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下
反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍
士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終
的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとな
る)という一幕もあった。
朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝國
の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは
歴史家によって意見がまちまちである。
1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあった
アジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。
出生:1917年11月14日 なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があ
るがこれは旧暦での表記であり実際には上記の日にちが正しい。死去
:1979年10月26日
朴 正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)日本語読
みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(-1945年)。ハンナラ党代表
の朴槿恵は長女。
植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ)(現在の亀尾市)で生ま
れた。貧しい農村部家庭の5男2女の末子であった。
父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓
守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は
苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」
と語っていたという。
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