2007年12月13日

◆韓国中興の祖 朴大統領

                   渡部亮次郎

朴正煕パク・チョンヒ 大韓民国第5〜9代大統領(963年10月15日―1979
年10月26日 )盧武鉉現大統領はじめ誰がなんと言おうと近代韓国の基礎
を築いた最大の功労者である。

1963年、大統領に就任するや、国家主導で産業育成を図るべく、経済開
発院を設立した事を手始めに、財閥や国策企業を通じて、重工業にベト
ナム参戦により得たカネ、モノを重点的に投入した。

園田直さんによると、青瓦台(大統領官邸)の地下1階のトイレのドアが
閉まってなかったといって衛兵にビンタを食らわしたそうだ。

国家主導で産業育成によって作られた代表的なものに、日本の八幡製鐵
所をモデルとした浦項製鉄所がある。また「日本経済の急成長の秘密は
石油化学にある」として、石油化学工場建設を急がせた。

この結果、日本との国交が無かった1961(昭和36)年には国民1人あたり
の所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620
ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるとい
う「漢江の奇跡」を成し遂げた。

工業化にある程度成功したころには農業の遅れが目立つようになり、そ
れを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の
近代化を果たした。また、高速道路の建設にも力を入れた。

中央情報部長・金載圭は朴正煕大統領の古い友人だったが、学生運動の
弾圧が生ぬるいとして無能をしばしば叱責され、ライバル関係にある車
智!)警護室長からも攻撃を受けていた。

このため、金載圭は両人の殺害を計画するようになった。1979年10月26
日、ソウル市宮井洞の中央情報部所属の秘密宴会場で大統領らと晩餐を
共にした。

その際、反政府学生らが釜山の米国文化館を占拠した事件について大統
領が責任を追及し、車智!)室長が批判を加えて来ると、金載圭は晩餐会
場から出て直属部下の朴興柱・朴善浩に銃声がすれば控え室の警護員を
射殺するよう指示した。

晩餐会場に戻った金載圭は朴正煕と車智!)にそれぞれ2発撃ち、銃声を聞
いた朴善浩らは大統領府警護員らを射殺した。晩餐会場には大統領府秘
書室長金桂元や女性ホステス(有名歌手と女子大生)もいたが、無事だっ
た。

間もなく金載圭らは現場を脱出したが、緊急国務会議で逮捕令が出され、
27日午前0時40分に大統領殺害犯として逮捕された。

その直後に全国に非常戒厳令が敷かれ、陸軍参謀総長鄭昇和大将が戒厳
司令官に就任した。捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した保安司
令官全斗煥少将によって進められ、金載圭とその部下らに死刑が宣告さ
れた。

ちなみに、次期大統領となる崔圭夏は事件の一報を耳にしたとき、「金
日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという。

この事件により、韓国では第四共和国体制が終了し、第五共和国体制へ
移行していく。

2007年現在の大韓民国においては政治的な事情もあり評価は各人の立場
においてまちまちではあるが、一般論においては、政治面では目的の為
には不当な手段のも厭わないものの、私人としては清廉であると評価さ
れつつある。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開
発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判されつづけていたが、民主
化後その達成感によって運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになっ
たと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」
と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正
煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという
声が高くなっている。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であり、ネポティ
ズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世
を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともい
われる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身
の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕
を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民
主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因とな
った。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済
格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東
アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむし
ろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず
人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配に
おける対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委
員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下
反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍
士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終
的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとな
る)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝國
の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは
歴史家によって意見がまちまちである。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあった
アジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

出生:1917年11月14日 なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があ
るがこれは旧暦での表記であり実際には上記の日にちが正しい。死去
:1979年10月26日

朴 正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)日本語読
みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(-1945年)。ハンナラ党代表
の朴槿恵は長女。

植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡亀尾(グミ)(現在の亀尾市)で生ま
れた。貧しい農村部家庭の5男2女の末子であった。

父親は科挙に合格したが、日本によって韓国が併合された後に没落し墓
守をしていた。小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は
苦しく、酒に酔うたびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」
と語っていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2007年12月09日

◆宮澤ダメ、角栄OK

                  渡部亮次郎

1970年代、日本最大の関心は沖縄の返還であったが、アメリカのそれは日本からの繊維製品の過剰輸出であった。当時は佐藤栄作内閣。先に突然、政権を投げ出した安陪晋三の大叔父に当る。

ことの発端は、1969年1月、アメリカ大統領ニクソンが、自らの選挙期間中に、繊維産業保護を公約したことだ。

これに基づいて、スタンズ商務長官が日本に来て、毛・合繊製品の対米輸出規制の協定締結を要請した。

7月に開かれた日米貿易経済合同委員会では、アメリカ側が公式に繊維製品の対米輸出の自主規制を求め、ここから「日米繊維問題」の政治化が始まった。

ニクソン大統領の大票田である南部の繊維業者の突き上げもあって、強硬なものとなった。しかし日本では、大屋晋三当時「帝人」社長を会長とする日本繊維産業連盟が結成され、貿易自由の観点から譲らなかった。

政府でこの問題の対処に当ったのは宮沢通産大臣。東大出で、外交官試験にも通った俊才。佐藤は彼を官房長官に抜擢しようとして派閥幹部の田中角栄に阻止された事がある。だから難題の日米繊維交渉への期待は大変なものだった。

71年の田中通産大臣の時まで日米の妥協点には至らなかった。

2005年に出版された「宮沢喜一回顧録」(岩波書店)でまず宮沢氏は佐藤首相が繊維問題についてどのように考えているのか、ということに関して次のように回想している。

<おそらく佐藤さんとしては、沖縄(返還)という大きな国益のために、殊に日本の繊維業界がアメリカをそんなに困らせているのなら、それは規制するのが国益に合うと考えられたのだろうと、私は想像します。・・(中略)・・

実際問題としては、法律問題は突っ切るとしても、行政としては、業界が横を向いていれば一切動かない。1つひとつの品物を押さえなければならない。しかしそういう事を佐藤さんは、無理もないけれど、ご存知でなかった。>(p.243)

このような佐藤首相の意を受けて、宮沢氏は通産大臣になったわけだが、通算省・産業界が共に反対していた中で、宮沢では解決できなかった。

<形としては、私は自分なりの哲学でいろいろやってみたけれど、それは結局この問題の妥結には持ち込めず、田中通産大臣が千何百億という金を出すという決心をすることによって、最終的に業界が泣き止むという経緯をとったわけです。>(p.253)

この「千何百億円を出す」(正確には2000億円の補正予算)という政策は田中通産大臣だったからこそできた荒技だが、とにかくこういう荒技をもってしなければ問題を解決しなかったのである。

宮澤に出来なくて田中角栄に出来たわけとは何であったか。国の財布を握っている大蔵(当時)官僚の肝を田中が握っていたからである。2000億円ものカネを一気に出させる人脈を大蔵省の持っていたが、宮澤には何も無かった。

角栄になくて宮澤にあったのは哲学である。日米繊維交渉を哲学で考えたのが宮澤。しかし田中は哲学は無関係だった。「要するに解決すればいいんだろう? 日本の繊維業者を納得させるのは哲学なんかじゃない、カネだ」。

糸(繊維)が解決しなければ縄(沖縄)が還ってこない。来なけりゃ親分(佐藤)が倒れる、佐藤が下手な倒れ方をしたら、後釜を狙う俺(田中)が困る、だから糸はオレの問題なのだ。それだから2000億を工面(補正予算編成)してくれ。

ハイ分かりました、という大蔵官僚。そのために何年にも亘って小遣いを配ってきた。池田内閣時代、小学校しか出ていないオレがこともあろうに大蔵大臣になり、それを支えてくれた大蔵官僚がいればこそ、ここまで来られた。その浪花節で糸は解決し、縄は還って来た(1972年5月15日)。

先立つ1月の日米首脳会談に佐藤首相は外務大臣福田赳夫のほかにわざわざ通産大臣田中角栄も帯同。旅行中に「福田を先に総理をやらせろ」と田中を口説く心算だった。

ところが自分の選挙公約を2日前に果たしてくれた田中をニクソンは大歓迎。食事では脇に座らせる気遣いまで下。これでは佐藤のほうが挫けた。これで田中は勢い付き。遂に7月には福田を蹴落とし佐藤の後釜に座った。

よくよく考えてみれば、宮澤が哲学的にコトに当って失敗した事から角栄が政権を獲得できたようなもの。角栄の恩人は宮澤である。だが角栄は口の利けるうちは「宮澤を総理にしてはいけない。あれは秘書官は勤まるが総理大臣は務まらない」といい続けた。

「要するに解決」が哲学の無い田中の哲学だった。そのためにした事は官僚を手馴付ける事だった。今日康夫内閣を苦しめている独立法人改革の足踏みも遠因は角栄に遡る事は確かである。旧田中派のお陰で政権を握った康夫だが、角栄に苦労しているとは、皮肉の限りだ。文中敬称略。2007・12.08

2007年12月07日

◆友と語らん篠懸の径

                  渡部亮次郎

散歩する恩賜公園は落葉樹の殆どが裸になって冬支度を急いでいるが、鈴懸(すずかけ・プラタナス)だけは落葉が遅れて、汚い様を見せている。

スズカケノキ(木) (common) plane‖Platanus orientalis 日本には明治初めに渡来し,小石川植物園に植えられた。秋に多数の小堅果からなる直径3〜4cmの球形の集合果が山伏の着る篠懸の衣に付いている房の形に似ているところから,鈴懸という和名がついた。

しかし恩師公園に植えられた8本の大木には、今年は実が1つも付いていないのに6日気づいた。今まで葉が多すぎて分からなかった。

近くで並木になっている公孫樹(いちょう)の雌樹には隔年性というか、銀杏の成り方が1年置きに多くなるように見えるので、鈴懸にもそんな事が有るのだろうか。

不思議に思って、こうしてPCの百科事典を開けたのだが、この点に触れた記述を捜す事はできなかった。公園を歩くだけでは、どうしてもリンゴの落下から引力を発見したニュートンには近づけないなぁ。

バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し,紀元前からすでにイタリアに入り,16〜17世紀にはフランス,イギリスでも街路樹に用いられたという。

日本で栽植されているものは,スズカケノキのほかに2種ある。

アメリカスズカケノキ P.occidentalis L.(英名 buttonwood)は高さ30m,とくに大きなものでは50mになり,樹皮は乳白色で小さくはがれる。葉は浅く切れ込み,集合果は1個が柄で垂れる。北アメリカ東部に分布し,日本には1900年に入ったが,あまり広められていない。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ(一名カエデバスズカケノキ) (英名 Londonplane)で,スズカケノキとアメリカスズカケノキの雑種といわれ,樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。集合果は1〜2個ずつ垂れる。

スズカケノキの仲間は,やせ地や低湿地でもよく生長し,公害に強く,刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。

日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め,今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。

スズカケノキ科 Platanaceae は1属だけからなり,ヨーロッパ南東部からインドまで,インドシナ半島,北アメリカからメキシコに6〜8種が隔離的に分布する。
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

「友と語らん 鈴懸の径(みち) 通いなれたる 学舎(学びや)の街   

やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」と灰田勝彦が唄ったのは昭和17(1942)年。

兄の灰田晴彦が作曲、それに新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめた。大東亜戦争に命令されて出陣する学生たちは、万感の思いを込めてこの歌を唄ったという。

あの戦争中はまず学徒動員が日中戦争が始まって間もない1938年(昭和13)ころから、食糧、軍需品生産の人手不足を補うために行われた。学生、生徒の勤労動員。学徒勤労動員ともいう。

大東亜争中の44(昭和19)年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全員、軍需工場などに動員され、45年8月の敗戦まで、学校教育は事実上、停止した。

学徒出陣はそれに続く措置。戦争下で、徴兵猶予制度の廃止により理工科系・教員養成系をのぞく大学生・高専生を入営させた措置。それまで大学生、高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。

しかし満州事変につづく日中戦争で兵員の不足に悩のでいた政府は、1941年(昭和16)10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で兵員を補った。

戦局の悪化でさらに兵員の不足が深刻になると、1943年10月に「在学徴集延期臨時特例」を公布して、20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定。「徴兵猶予」とう特典を消して徴兵をかけたわけだ。

10月21日、冷雨のなか明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)で、文部省主催の出陣学徒の壮行会出が挙行された。東京とその近県から集まった出陣学徒は、東条英機首相の閲兵と激励を受け、場内を行進。

スタンドを埋め尽くした6万5000人の家族・級友・女子学生などがこれを見送った。出陣学徒は、13万人とも20万人とも推定されている。

中国大陸や南方戦線、南太平洋へ送られ多くの戦死者を出した。1949年には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」が出版され、大きな反響をよんだ。

参考:マイクロソフト「エンカルタ」2007・12・06

2007年12月06日

◆ケ小平に学ぶ「強かさ」

                   渡部亮次郎

したたかを漢字で書くと「強か」となる。

産経新聞を購読する理由はいろいろあるが、米、韓、中の情報が格別に興味を引く事が大きな理由。特に最近第4部に入った「ケ(とう)小平秘録」は世界的に優れた連載である。

ケ小平に関する文献はいろいろ出版されているが、中国総局長伊藤正氏は北京駐在が長く、共同通信社から産経に移籍してからでも既に7年目である。他の社でこれだけ長い北京駐在歴を持っている人を知らない。

相当な人脈を築いている筈だが、本人に迷惑の掛かることを慮って名前を殆ど伏せている。それだけに記述に逆に信憑性があるというものだ。

それにしても毛沢東「独裁」の共産主義国家を、少なくとも経済は改革・開放という名の資本主義国に転換させた手腕を連載から読み取る時、3度の失脚と復活、さらにその後も陳雲ら保守派との闘い方には我々も学ぶべき「強かさ」があったのだ。

まず毛沢東に対する姿勢だ。3度も失脚しながら毛沢東に対する恨み節は絶対、吐かなかった。「毛沢東同志はその生涯、実事求是(事実に基づき心理を追究する)と誤りは正す原則を堅持、冤罪などの名誉回復に長期闘争してきた」「毛沢東思想の旗をさらに高く掲げ、偉大な勝利に前進しよう」と書かせている。

これは1980年2月の5中総会のコミニュケの一節。元の国家主席劉少奇氏の名誉回復のためのものだが、3ヵ月後の5月17日の劉氏追悼大会で読んだ弔辞でも、ケ氏は毛沢東の名前さえ出さなかった。

いうなれば毛は劉を殺した人物と言っても過言で無い存在なのだ。元々問題の文化大革命は劉国家主席を引きずり降ろすための毛の私怨から出たことと言っても、これまた過言ではない。

文化大革命の中で劉氏は「毛沢東に対抗してブルジョア司令部を作り、資本主義路線を実行した」として激しい迫害を受け、68(昭和43)年には「裏切り者」の汚名を着せられて党を除名処分。移送先の河南省開封で病死した。

それでもケ氏は弔辞の中で毛沢東の名は一切出さず「文革中、林彪、4人組一味は党の権力を奪取する反革命目的から、わが党の欠点と誤りを利用、劉少奇同志を陥れ、残酷な迫害を行った」と述べて毛沢東を庇った。

これはと惚けたのである。最終的な目的である経済の改革・開放には陳雲ら強烈な反対派がいて、毛路線を堅持しろとケ氏を脅しているから、オレはこの通り、毛主義者だと居直ったのだ。

1978年8月、当時の外務大臣園田直(故人)に秘書官として従いて人民大会堂での会談に臨んだとき華国鋒氏は毛沢東後継の国家主席として君臨。華氏より貫禄のあったケ氏はただの副首相に過ぎなかった。

しかしケ氏は胸の中では華国鋒氏を保守派の代表として追放しない事には済まないと決意していたはずだ。連載を読んでそれが漸く分かった。

そのための策略の詳細は省略するが、じわじわと追い詰められた華国鋒氏は80年9月に開かれた全人代第3回会議で、兼任していた首相を辞任、ケ小平子飼いの趙紫陽氏が後任になった。

しかし党中央で屈指の計画経済主義者であり党中央政治局常務委員たる陳雲氏らが改革・開放政策に猛烈な反論を展開する。これらを如何に手名づけるか、或いは排除するか。

初め両氏は改革・開放路線に対して、華国鋒氏ら「毛沢東路線全面継承」を主張する「すべて派」を共通の敵として手を結んでいた。その後陳氏が批判派に廻るや、陳氏の主張に賛意を表しながら実質的には陳氏を無視して突っ走った。

特に凄いのは「毛の言葉で毛路線に反対」を展開した頭脳の鋭さである。

ケ氏が3度目の復活を遂げた僅か1ヵ月後、中国共産党は77年8月に4年ぶりの第11回党大会を開くが、ここでは華国鋒主席を「英明な領袖」と呼びながら華国鋒報告演説とは違う内容を加えて足を掬うようなタネを仕掛けた。

「大衆の声に耳を傾け、大衆の苦しみに関心を寄せ、大衆から遊離してはならない」「実事求是の伝統を回復、真実を語り、発言に罪は無い」などすべてに「毛主席が築いた」という枕詞をつけていた。
華国鋒もこれではどうしようもなかった。

元新華社記者楊継縄氏はケ氏の毛沢東すべて派(華国鋒氏ら)との闘いは「政治芸術」だと表現しているそうだ。毛沢東の言葉で毛路線に反対し、華国鋒氏と協調しながら華氏を倒していった手法は当に政治芸術とは謂い得て妙では無いか。

先輩古澤襄さん流に解析すればケ小平氏の血液型は何だったろうか。常に希望を棄てなかったということも尊敬に値する。2007・12・05

2007年12月04日

◆平和運動「家」がいる

渡部亮次郎

まさかあるまいと思いながら引いたたら、あった、「平和運動」(広辞苑
=岩波書店)。「戦争に反対し平和を擁護することを目標とした組織的大衆
運動」とある。

子供の頃から、これを不思議に思っていた。戦争になることに反対しな
い人がいるだろうか、擁護すれば平和は守られるのだろうか。

武器や軍需物資を製造・販売しているごく一部の人は別にして、なんとか
戦争にならないように願う事は人類共通だろう。

1954年に大学みたいなものに入って驚いた。教授の中に「平和運動家」
と呼ばれて嬉々としている人物がいた事である。平和は運動すれば求め
られて、しかも「家」とつく職業になるのか。

戦争が無ければ平和、とは限るまい。現在、日中間に戦争は無いが、中
国の日本に対する内政干渉の甚々だしさはとても平和状態とはいえない
だろう。核を所持していればとっくに戦争になっていること間違いない。

核のない自衛隊では、まず軍ではないし、無能力男性に等しいから頭か
ら馬鹿にされていても切歯扼腕するだけ。こういう状態を広辞苑ですら
「舐められる」「みくびられる」状態と教えている。

それでも怒るな、我慢せよ、戦争を考えるなと運動する事が平和運動と
言うなら、それは平和運動ではなく、我慢比べ修養団に過ぎない。

1945年8月15日に「大東亜戦争」が日本の無条件降伏に終わって停電や「灯
火管制」が無くなり、戦争放棄の新しい憲法が制定された。日本のイン
・ポテンツ化が図られた。戦争をしようにもできない国民と国を作ろう
とする米国の陰謀だった。

このことは西 鋭夫著『国破れてマッカーサー』(中公文庫)に詳しい。
本当はアメリカに2度と歯向かわない日本を作っただけだが、その後60年
も経済的に繁栄したので、マッカーサー憲法さえあれば繁栄すると勘違
いしてしまった日本人。

日本共産党や社民党は「憲法を守れば平和が守れる」と倒錯した主張を
するようになった。憲法を守れば平和になるのではなく、平和だから憲
法を守れるのだと言う事に気が付いてない。

日本では核兵器の廃絶を訴える平和運動である反核運動がある。初めは
安井郁(かおる)法政大学教授の指導で統一されていたが、運動を支援し
ていた複数の政党・団体(主体は日本社会党(当時)と日本共産党)の
政治的対立から、運動そのものが分裂してしまって、現在に至っている。

苦い経験だと指摘する向きがあるが、これこそ平和がイデオロギーによ
って目標も手段も異なる事を物語る。とすれば平和追求とは実に多面的
なものであり、或る時は無意味に見えるときがあっても致し方ない。

「ウィキペディア」の「平和運動」についての筆者はそこのところをちゃ
んと書いている。

<平和運動は反共産主義運動の一部でもあり得るし、階級闘争の一環で
もあり得る。ただ、現実には後者であるケースが歴史的に多い。

このように平和運動の概念自体が曖昧である為、完全に公正中立な平和
運動はなかなか存在しにくいものである。

平和運動への批判あるいは懐疑

戦争とはさまざまな政治的、経済的、民族的な要因などが複雑に関係す
るので、軍事力の行使に反対するだけの現状維持的な主張の平和運動で
は本質的な紛争の原因(政治的対立、軍閥の台頭、飢餓、社会的差別、
領土問題、民族的対立など)の解決にはならないという考えもある。

また戦争はその目的、内容は極めて多様であるので、その全てを単純に
非難することは政治的な戦略や安全保障という面から考えても一方的で
あると言える。

また後述のように政治的に利用される可能性も心理戦という側面におい
て多大にあり、軍事戦略の一環としても行われうることがあるため、平
和運動には博愛主義的な精神論だけではなく、その運動の本質的な効果
を考えた社会学的な見地が求められる。

平和運動に対する典型的な批判として、「平和運動の従事者は、軍事・
戦争に疎い者が多い」という指摘がある。

これに対する典型的な反論として、「軍事(軍隊)とは我々平和主義者
の敵であり、従って我々が軍事に精通する必要はない。従って、われわ
れ平和運動家には軍事知識など不要であり、平和運動に従事するものは
軍事に疎くて構わない。」との主張がみられる。

この主張は一見もっとものように聞こえるが、これはすなわち、中途半
端な知識に基づいた批判しか行わないということであり、そのような批
判は説得力が無いのは明らかである。

譬えて言うならば受験において、自分の受験校の過去問演習や問題傾向
の分析などをせずに入試本番に挑むようなものである。

平和運動の従事者、特に左翼過激派には理論的な話が通じない(平和主義
はもちろん大事な考え方だが、平和運動従事者たちは盲目的に平和を主
張していることが多いため)・主張に矛盾があることが多い。

自衛隊が起こす行動に過敏に反応し、すぐに「戦争につながる」とデモ
行進・運動を起こす。

批判の槍玉に上がるのは大抵、自衛隊とアメリカ軍、空対空ミサイルな
どを製造する三菱重工で、中国軍や韓国軍、およびそれらによる日本の
領土の侵犯はほとんど批判しない。

平和という思想は前述のように非常に幅広い考えを包括する表現なので、
さまざまな宣伝スローガンや商業活動にも利用されているが、戦後以降
の反戦運動は特定団体・政党の勢力拡大のための隠れ蓑に成り下がって
いるという批判がある。

けだし市民を対象にした反戦の拡大が国の正当な外交手段としての安全
保障活動を制約するために、ともすれば政権を窮地に追い込み利敵行為
をもたらす口実に利用されているという懸念である。

とりわけ冷戦崩壊後の旧ソビエト共産党公文書公開で国際的なベトナム
反戦運動にソ連の資金援助及び人的援助が投入されていた内実が判明し
たため、かつての共産主義思想の人脈を受け継いだ反米・反日的な政党
・団体の反戦活動を注視すべきだとしている。

1950〜60年代のアメリカ中央情報局も同様に世界各地で日本の自由民主
党をはじめとする親米政権や反共組織の活動を支援してはいるが、平和
運動という概念上いわゆる「工作」と同列に論じるべきものではない。

また、「平和運動」を統率する団体の多くは左翼過激派に関っている場
合が少なくない。また沖縄県において米軍基地の使用阻止のために呼び
かけられた反戦一坪地主に本土から参加した活動家が多くいることも指
摘されたことがある。>2007・11・29


2007年12月02日

◆終わる対中借款

                  渡部亮次郎

<日中外相会談で対中円借款終了を確認 交流促進で一致 「第1回日中ハイレベル経済対話」出席のため訪中している高村外相は1日午前、北京の中国外務省で楊外相と会談した。

年末にも予定されている福田首相の訪中や、胡錦濤(フー・チン・タオ)国家主席の来日など首脳間交流をさらに進めることで一致する。主席は来春、来日する方向だ。

両外相は中国に対する07年度の円借款供与について書簡を交換。対中円借款の新規の供与はこれで打ち切られることが正式に決まった。

07年度の供与は総額約463億円。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた。> Asahi Com2007年12月01日13時12分

対中円借款は中国の改革・開放政策を支援するとして、1979年に訪中した大平正芳首相(当時)が供与を約束。

ただ中国の急速な経済発展や、他の途上国へ中国が支援している状況などを踏まえ、01年の「対中国経済協力計画」で対象を環境保全や人材育成、内陸部の貧困克服などに絞り込む方針を決定。

04年度の供与額は859億円で、前年度より約11%減少している。
(東奥日報「ニュース百科2006年6月3日)

国交正常化のため初めて訪中した田中首相らは初めは中国が戦争倍賞を3兆円ぐらい要求するものと思っていらが、予め周恩来総理は要求しないと言ってきたため正常化に乗ったのだった。

その6年後、国交正常化に伴う細々とした約束を重ねるための基礎となる日中平和友好条約が締結されたが、その時は借款とかODAの話は出なかった。

おそらく78年10月に日本を初めて見たトウ小平が言い出したのが借款だったと思われる。79年から四半世紀余り続き、3兆円以上が社会基盤整備に使われた対中借款が漸く終わる。感慨一入だ。

この問題について、基になった日中平和友好条約の締結の前後、北京の日本大使館で行使を務めていた伴 正一さんが条約締結10周年の記念講演デウラの事情を紹介している。

講演はちょうど10年目の昭和63年8月13日、会場は高知阪急ホテル。伴氏は外交官を退官後、この年の5月に(財)日中友好会館の理事長に就任、祝賀会代わりに条約締結とその後の裏話を公表したもの。条約締結には私も参加したが、伴さんの話は初めてだ
http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

<この条約というのは、田中角栄、周恩来両首脳が実現させた六年前の共同声明、日本と中国の運命を決するもの、また台湾の運命を決するものでもあった歴史的な共同声明に比べますと、ただそれを整理しただけといえばいえなくもないものがございます。

しかし妙なもので、それから日中両国の政府間の往来や交渉ごとはそれまでの数倍の頻度で盛んになってまいりました。

条約ができたとたんにまるで堰を切ったようにいろんな交流、というより橋の構築が始まるわけです。

その中で一番印象に残るのは留学生問題でした。私が行った当初の留学生というのは日本が8人で中国が7人とか、あるいは10人にしょうかとか11人とか、こんなケタの話で向こうの教育部と交渉していた。

それがある日教育部から呼ばれ、一挙に500人引き受けてくれんかという。500人というと、今ならなんだそのくらいと思われるかもしれませんけど、その当時、中国留学生500人というのは腰を抜かすような数だったんです。

その上、条件がふるっている。学部留学生も実は送りたいという。「大丈夫ですか」と余程出かかった。もう1つは下宿は1人でもよろしい。集団でなくてもよろしいという。

これも今考えれば何でもないことですが、その時点までの中国はどんな
だったかといいますと、留学生は街へ出るのも1人ではいかん、2人で歩け、です。相互監視です。

日本へ来ている中国留学生が訪ねていい家庭というのはリストがあって10人か20人しかない。それ以外の日本人のところへ訪問してはまかりならんというきついお達しがあった。それくらい1人ひとりに資本主義のバイ菌がつかんように厳重な監視体制を敷いていたわけです。

「学部留学生なんて、高校出てまだ頭の柔らかい。4年もおったら日本人になってしまいますよ。大丈夫ですか。1人で下宿なんかしよったら何が起こるかしれませんよ、大丈夫ですか」。こちらが心配になってそういう言葉が出かかったわけでございます。

驚天動地の留学生大量派遣というのがこれから始まるわけです。今、6,000人ですか。

もう1つは条約が結ばれて1年経ってから出てくることですけれども、「金を貸してくれ」といい出した。これもこっちは「あっと驚く為五郎」。

ということは、その1、2年前まで、中国の要人はいろんな宴会の挨拶などで、我が中国はよその国の政府から金を借るようなことは絶対にしない。これは中国の国是であるといって威張ってたんです。

中国が日本政府の金を貸せなんていってくるなど誰一人思っていなかった。驚きでしたね。

その時言ってきた額は、円に直しますと7,000億円ぐらい。7,000億円貸したら、インドネシアもタイもフィリピンもどこへも1銭も貸せなくなる。財布全部はたいても中国の要望に応えられん。当時はですよ。

ところが向こうから見れば、「何言ってやがるんだ、日本はもうお金持ちになってるじゃないか、賠償いくら負けてあげたと思ってるか、7,000億円なんてそれからしたらはした金じゃないか。15兆円になるか20兆円になるかわからん」と口にこそ出さないけれど、向こうから見りゃ7,000億円なんてはした金に見えるわけでしょう。

中国との交渉はいつもよくあるんですけど、高知学芸高校の場合もそうですが、こちらと主張が開き過ぎて、難しいことが随分あるんです。

(主宰者註:和63年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故である。一行193人を乗せた列車は別の列車と衝突、引率の教諭と生徒27人が死亡した)。

話を借款に戻して、結局第1回、話を収めたのが500億円でした。それから何回かで合計では7,000億円の円借款が出ることになるわけです

が、私は最初のその500億円の賠償交渉を北京で担当した訳であります。今度竹下さんが持っていく第3次借款の額は8,000億円。1990年から95年の6年間に8,000億円貸しましょうということで、最初の500億円からの分を全部足してその上に今度の8,000億円を加えますと、1兆6,000億円になる。感慨一入です>。


2007年12月01日

◆民主が断念、これは事件だ

                  渡部亮次郎

猪突猛進の民主党・突貫小僧、額賀氏の証人喚問をやはり断念。「言わないこっちゃない」になってしまった。民主党としては大変なイメージ・ダウンだが、おそらく党内での責任追及はなし。うやむやにするだろう。

<自民、民主、公明3党の参院議員会長は30日午後、江田五月参院議長立ち会いの下で国会内で会談、参院財政金融委員会で野党が単独議決した額賀福志郎財務相らの証人喚問について、来月3日の実施を見送ることで合意した。

これに先立ち江田議長は、自民党などの中止要請を受けてあっせんに乗り出し、与党と民主党の双方に再協議を指示。民主党内でも「わが党出身の議長だから再考しないわけにはいかない」(参院幹部)と消極論が広がり、執行部も喚問見送りを受け入れた。

自民党の山崎正昭、公明党の木庭健太郎両参院幹事長らは30日午前、江田氏と国会内で会談し「(証人喚問の議決は)全会一致という歴史を破る暴挙で認められない。議長として何らかの対応をしてほしい」と喚問を中止するようあっせんを要請。江田氏は「民主党からも話を聞きたい」と述べた。

一方、共産党の小池晃参院幹事長も江田氏と会い「証人喚問は全会一致で行うべきだ。議長として指導力を発揮してほしい」と求めた。>2007/11/30 14:39【共同通信】

ほぼ2年前、2006年2月16日の衆議院予算委員会では民主党の永田寿康議員が、証券取引法違反で起訴されたライブドア元社長の堀江貴文被告が、2005年8月26日付の社内電子メールで、自らの衆院選出馬に関して、「武部勤自民党幹事長の次男に対し、コンサルタント費用として3000万円の振込みを指示した」などと指摘。

しかし結局は、このメールが嘘と分かったため永田議員ばかりか3月31日、前原誠司が民主党代表を辞任を表明。辞任理由は「永田寿康を議員辞職させられなかったから」と説明した。先立って野田佳彦民主党国対委員長も責任を取り国対委員長を辞任している。

これを受け、議員辞職を否定した永田もライブドア送金指示メール騒動の責任を取り、議員辞職した(その結果を受けてNHK出身の池田元久が繰り上げ当選となった)。これを受けて、懲罰動議審議が途中で打ち切りとなり、仲介者の証人喚問も中止となった。

民主党はこの騒動により支持率を低下させる結果となり、与党を追及するはずだった多数の問題を後回しせざるを得ない状況になってしまった。

また前原辞任に伴い、同じく民主党の小沢一郎と菅直人が4月7日に党所属国会議員の投票を行い、小沢が菅を破り新代表として挙党態勢を固めた。(この項「ウィキペヂア」参照)。

嘗て自民党の実力者(と自分で命名)河野一郎は競馬の馬主らしく、出来のよくない記者を捕まえて「馬でいえば調教不足」とからかったものだが、民主党も参院で権力を逆転したとはいえ、馬で言えば中央競馬にはまだ達してない、との馬脚を顕した。

ブログで鋭く政局を斬っている大先輩の記者は「民主党の中にある小沢自由党系の問答無用の強権的体質、片や社会主義者の権力主義的傾向に読者が危険なものを感じているのではないか」とむしろ民主党の体質を憂いている。

「そこには安倍政権が内包していた右翼的体質に対する嫌悪感と同質なものがある。

それなのに朝日新聞だけは、参院民主党に対する批判が甘い。安倍政権に厳しくて、参院民主党の暴走に甘い朝日という新聞は、民主主義の本質が理解できていないのかもしれない」と大記者は断罪している。

そういえば共同通信の常務理事だった古澤襄(のぼる)さんによればあさひが大特ダネの如く1面で大々的に報じた然防衛事務次官守屋武昌の日記は何ヶ月も前に「焼却」したと本人が言っていたそうだ。

出ていない者を出ていたと突っ張った民主党、無い日記を「あって、地検が押収」と匂わせた朝日新聞。中国と食品業界で大流行の「偽装」を自分たちもやっているのだ。反省しなさい。守屋夫妻も拘置所で「反省している」ではないか。

肝腎の小沢代表は「幹事長一任」と責任を鳩山幹事長に押し付けて知らん振り。これでは「事件」の責任追及は成されまい。したがって民主党の「いい加減」体質は変わらず「事件」は3度、4度と怒るであろう。文中敬称略。2007・11・30

2007年11月28日

◆馬鹿につける薬

                   渡部亮次郎

よく「馬鹿につける薬は無い」と言う。馬鹿を治す方法は無いという意味だ。口の悪い政治記者は今の馬鹿は民主党国会対策委員長山岡賢次だという。

旧姓藤野。慶応を出て、大作家山岡荘八の入り婿になった。それでも既に64歳。近々政権を取って大臣に成らない事には、何のために政治家を20年もやってきたか意味を見出せずに老人になるところだ。

国会を賑わしている山田洋行問題。民主党は、賄賂性のある日本橋人形町の料亭「濱田屋」の宴会に財務大臣額賀福志郎氏が同席したかどうかで対立しているが、この問題は適当なところで手を引かないと、火の粉が小沢民主党代表に飛ぶ。

<民主党は15日の証人喚問で、守屋氏が額賀氏の宴席同席を証言して以降、額賀氏が同席を否定し続けたため、2人の証人喚問を要求。27日の役員会で改めて喚問を求める方針を確認した。

夕方には山岡賢次・国対委員長らが国会内で会見し、党が守屋氏から直接電話で聴取した話として、額賀氏が同席した際のより具体的な模様を紹介した。山岡氏は「守屋氏と額賀氏のどちらが偽証なのか、国民にはっきり示す段取りを整えるのが国会の責任だ」と述べた。

これに対し、額賀財務相は22日の参院財政金融委員会で、民主党が宴席があったと指摘した06年12月4日夜は、家族らと会食した後、都内で開かれた防衛関係の「勉強会」に出席したと、具体的な日程を示して、同席を改めて強く否定した。

27日午前の閣議後の記者会見では「『勉強会』は会議録もあるし、テープもとっている」と述べた。午後には、自民党の大島理森国対委員長が記者会見、家族らとの会食写真や当日の詳細な日程、勉強会でのやりとりとされるものの一部を公表。自民、民主両党が「証拠」を提示しあう異例の展開となっている。>Asahi Com 2007年11月27日21時29分

防衛専門商社「山田洋行」をめぐる事件で、防衛省の守屋武昌前事務次官(63)が、接待以外の個人的な飲食費も、元同社専務宮崎元伸容疑者(69)側に負担させていたことが27日、関係者の話で分かった。

世間はこればっかり知らされているが、真実は違う。元山田洋行専務宮崎元伸容疑者(69)が守屋次官以前に狙ったのが空将田村秀昭であり、そのための小沢一郎であり、金丸信だったのだ。深入りすると山岡は墓穴を掘るというのはそういうことなのだ。

宮崎は田村を参院議員にしようとしたが、自民党首脳にコネは全く無かった。そこである人物を介して小沢自民党幹事長に接近、さらに副総裁金丸に面談。結果、全国区の当選順位が飛躍的に格上げ。詳しい人は格上げは「10位」と言う。

そのためにスポンサー宮崎が使った金は2億円と言われている。山岡はこのことを全く知らない。東京地検は時効の関係で今回はこのことには触らないで捜査を進めるが、山岡が余り調子に乗りすぎると自民党はマスコミにはこのことを流して民主党の足を掬おうとするはずである。

それに気付かないで追究を煽っているのが山岡委員長。だから「馬鹿につける薬が無い」との声が内外からあがるのだ。

田村追及の声が自民党から出ないのは、次の総選挙を睨んで国民新党との提携を睨んだ配慮があるという。さらに本音をいえば小沢も追い詰めたくない。今度は自民党に何が刎ねかえってくるかか分かったものじゃないからだ。

それを知らない山岡は1人で粋がっている。他の野党や民主党内でも「大丈夫か」と懸念する声があがっている。バカにつける薬はないというわけだ。

報道各社の記者は事件の主役を防衛庁長官経験者や防衛大臣経験者だと思っているが、東京地検は守屋前事務次官と宮崎の贈収賄に絞っているのでは無いか。今話題にされている額賀財務大臣も久間初代防衛大臣も防衛利権には神経質になっていたから事件には出来まい。

まして民主党にまで飛び火すると成れば日本国はひっくり返ってしまう。東京地検は角を矯めて牛を殺す権限は無いはずではないか。
(文中:敬称略)2007・11.27

2007年11月26日

◆金大中講演は1000万円

渡部亮次郎

1954年国会議員に初挑戦するも落選。張勉に引き立てられ、民主党スポ
ークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿
勢で活動したが、1959年、1960年と立て続けに落選を経験した。

1961年に国会議員へ初当選しているが朴正煕による軍事クーデターによ
り無効となっている。これで朴正煕大統領への怨嗟の念を深くした。朴正煕による10月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り
組んだ。

1972年から73年にかけて、主として日本で反朴正煕政権反対の言論活動
を展開、朝日新聞が後押ししていた。

その頃私は在日韓国大使館の公使を名乗る金在権と接触する機会があっ
た。「金大中の反政府活動をこのまま放置するのですか」と聞いたのに
対して、彼は薄笑いを浮かべながら呟くように答えた。

「そのうち、なんとかなりますよ」1973年8月8日、東京に滞在中、ホテ
ルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部によって拉致され、
ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。

相手が誰であれ、日本から滞在者を外国勢力が拉致するというのは完全
な日本の主権侵害事件である。ところが当時、首相だった田中角栄氏に
は残念ながら主権侵害などという小難しい事はわからなかった。

日本担当大臣が目白の私邸に両手に下げてきた現金を受け取って事件を
「解決」してしまった。李秉嬉というのが日本担当大臣。

私は何度も会い酒を呑んだ事もある。晩年は癌を患いさびしく死んだ。

金は1976年3月には尹ふ善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲
役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権
を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。

これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流
血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判
決を受ける。

このことに対して、当時の鈴木善幸首相は、11月21日に崔慶禄駐日大使
と会談し「日韓親善からみて,金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を
抱かざるを得ない」と発言し、その旨を全斗煥大統領に伝達するよう要
請した。

この事を受け、朝鮮日報は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉
である」と批判した。しかし、次第に死刑判決に対する国際的な批判が
強まり、1982年1月23日に閣議検定により無期懲役に減刑される事が決定
し、12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。

1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、
1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で盧泰愚に挑むものの、金泳
三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。

1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これ
をもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を
書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まって
いた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。

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2007年11月25日

◆北京の「ちょろぎ」

                   渡部亮次郎

秋田の田舎もの。「ちょろぎ」を知らなかった。1972年の国交正常化のと
き、粥の添え物として提供されて初めて見た。連日の脂っこい中国料理
に辟易、つい、こうなりゃ「かゆ」が食べたいなと壁に向かって呟いた
ら、翌朝、粥が出た。

壁に耳あり、障子に目あり。盗聴器もあるのだ。共産国には新聞記者や
カメラマンの中に暗殺者が紛れ込んでいるはず、というのが常識だと言
うから、国交の無い国からの連中は監視、盗聴は当然なのだろう。

未だに国交が無い上に無辜の民を拉致して行く国がある。政治家に同行
して記者団が訪問。日本への送稿電話の盗聴を予想して隣の部屋をガラ
リと開けたら、数人が耳にレシーバーを当てて盗聴中。「あなたが聴い
ている声の主は私だよ」と言う意味で自分の胸を指で指したら、目を白
黒させていたそうだ。

北京では石家荘出身というおばさん通訳がついたが、珍しくひらがなを
書けた。つい、日本人じゃないかと疑ったりした。ある日ホテルの中の
会議室みたいな部屋を間違って開けたら通訳たちが我々の動向を上司に
報告しているところであった。

中国語がきっぱり分かるわけではなかったが、周恩来総理が我々の動向
をあまりにもよく知っている事を知って、そう勘繰った次第。その上の
粥事件である。

粥の添え物として巻貝を真っ赤に染めたような漬物が出たのである。私
が「ちょろぎ」と対面したのはそれが初めて。他の連中は「なんだこの
田舎もん、ちょろぎを知らないとは、あきれたな」と思っただろう。

シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀
用に使うとあるのだが、秋田の農村では普及していなかったのだ。

チョロギ
Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下に出来る塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地
を好み,日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に
最初の記載がある。和名は朝鮮を経て入ってきたため,朝鮮語のジロイ(
ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに,20世紀になってアメリカに入ったといわ
れる。

他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。中国から
ヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリ
ーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、
なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。稀に、ちょろぎは魚との
食いあわせが悪いと言われることがある(ウィキペディア)。

草丈は30〜60cm程度で,茎は直立し断面は四角い。葉は対生で長円形で
厚く,周縁には鋸歯があり,茎葉には毛がある。花は淡紫色で茎の頂端
部に穂状につき,7〜9月に咲く。

夏から秋に地下茎が伸び,その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐
質の細長い塊茎をつける。塊茎には数個の輪状のくびれがあり,デンプ
ンを含まないがスタキオース stachyose を含有する。

塊茎を食用にするが,シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ,黒豆に混ぜて
正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

また広辞苑によると「ちょろぎ」は草石蚕とあり「しほらしき物づくし
ちょろぎ貝割菜」(芭蕉文集)とある。

北京から還ってから1度、どこかで食べたような気がするが草丈は30〜
60cmと言う実物はいまだ見たことが無い。北京で初めて出合った「ちょ
ろぎ」。今年は日中国交正常化35周年だ。2007・11・20



2007年11月23日

◆冬を告げる鮟鱇鍋

                   渡部亮次郎

2007年11月21日の夜、今冬初めての鮟鱇(あんこう)鍋で麦焼酎をやり、いい機嫌になったところへ郷里の古参代議士野呂田芳成さんから突然、電話があって、ちょっと驚いた。

友人加瀬英明氏と大森で飲んで、電話しようかとなったらしいが、秋田県2区での自民党の後任問題を尋ねたところ「納まるところに納まる」と当選への自信はたっぷりだった。

ところで、「鍋料理の秋田」でも鮟鱇鍋は無い。茨城県北部の海岸地方の郷土料理というのだから無理も無い。国立(くにたち)時代は食べた事は無かったが、向島生まれの家人と一緒になって初めて食べた。

今年も日本橋高島屋では2人前、1500円前後。1鍋を煮ると3日分ぐらいあるから安い鍋といえる。しかし、何年か前、本場水戸の有名店のはアンモニア臭くて一切れも食べずに出てきた。

アンコウ鍋(鮟鱇鍋) アンコウなべ 。アンコウの身や内臓、皮を野菜や豆腐と煮た鍋料理で、醤油をベースにし、味噌をかくし味につかう。拙宅では味噌を主体に、醤油を隠し味にする。

汁に肝を刷り込んで溶かさないと野趣豊かな味の鍋にはならない。

アンコウは骨以外全部食べられ、俗にアンコウの可食部分を「アンコウの7つ道具」とよぶ。とくに冬は身がしまっておいしい。

身より美味といわれる肝臓は「あん肝(きも)」とよばれて珍重される。

肝を炒ってペースト状にすりつぶし、味噌や酢で調味して身をあえた「ともあえ」は、酒の肴(さかな)に向く。但し尿酸が多くなるので、通風を恐れる人は食べない方がいい。

アンコウは骨が非常に硬く、体が柔らかすぎて、おろしにくいので、鉤(かぎ)につるしながらさばく。これを「アンコウのつるし切り」という。

もともとは、福島県境に近い平潟や大津などの、「どぶ汁」とよばれる漁師料理がもとだといわれる。この料理はアンコウを味噌と醤油で煮てアツアツを浜で食べる。

このどぶ汁を一般向けにやや上品に改造したものが、今日のアンコウ鍋である。アンコウの漁獲量が減って高級料理になってしまったが、昔は庶民の日常の食べ物だった。

参考Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation.All rights reserved.。

アンコウの美味が認められたのは,江戸時代に入ってからのことのようである。

《料理物語》は初めて調理法を記載し,《古今料理集》は〈上魚賞専也〉と身分の高い人にも供しうるご馳走だとしている。《本朝食鑑》は,ほとんど捨てるところなく食べられること,肝がとく美味いことなどを述べ,アンコウ独特の〈つるし切り〉についても詳細適切な解説を行っている。

江戸時代でもアンコウの肝は極めて脂が強いので,たっぷり塩をあてて竹などの簀(す)で巻き,1時間ほど蒸してから冷水にさらす。これを薄切りにしてワサビじょうゆで食べる、とある。

酢みそにすりこんで身をあえる〈とも酢あえ〉もよい。ちりなべ風に水煮してポンスしょうゆで食べるのもよい。

アンコウ(鮟鱇)

アンコウ goosefish‖anglerfish

アンコウ目アンコウ科 Lophiidae に属する海水魚の総称。温帯から熱帯にかけて広く分布し,沿岸域のやや深い海底に棲む。

体色は黒褐色で,頭部は円盤状をなし上から押しつぶされたように著しく縦扁している。皮膚はうろこがなく滑らかで,多くの皮質突起を生じている。

貪食(どんしよく)で知られ,〈アンコウの待ち食い〉ということわざもあるが,実際には海底に静止したまま品動物の近づくのを待つだけではなく,しばしば中層ないし表層まで泳ぎ上がって回遊性の魚や海鳥を食う。

産卵期は春から夏にわたる。卵は凝集浮性卵で,カエルの卵のようにゼラチン状の卵帯の中に多数の卵が埋まった状態で産み出され海面下を浮漂する。


アンコウ類は底引網,手繰網で漁獲される。〈アンコウは梅が咲くまで〉といわれ,旬は冬。味はアンコウよりキアンコウの方がすぐれている。

アンコウなべ,あえ物などとして賞味されるが,筋肉よりむしろ〈とも〉(肝臓),〈水袋〉(胃),〈ぬの〉(卵巣)などの内臓や〈かわ〉(皮膚),ひれなどの方が珍味とされる。

参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
2007・11・21

2007年11月22日

◆小沢氏、未練たらたら

                  渡部亮次郎

<小沢氏、改めて「大連立」に言及…民主党内に疑念の声>と。
小沢氏が、1度は党内で否定された自民党との大連立構想に未練を持っていることを示した。以下< >内はいずれも2007年11月20日23時10分 読売新聞。

<民主党の小沢代表は20日、党本部で記者会見し、自民党との連立政権構想について、「(自民党との連立で)国民との約束が実行できるなら、国民に対する責任を果たすことになる。今もそう思っている」と述べ、「大連立」が望ましいとの考えを改めて強調した。

その上で、民主党内の反対を理由に、与党との政策協議や、次期衆院選後の連立に否定的な考えを示した。小沢氏の発言に対し、「党内の理解が得られれば、大連立を再び目指す意向を示したものだ」(党幹部)とする声が民主党内から出ている。

小沢氏の発言について、同氏周辺は「連立の意義を説明し続ければ、徐々に浸透する。次の衆院選で野党で過半数を獲得できなければ、党内から連立構想が持ち上がってくる可能性がある」として、大連立に向けた環境整備を図る狙いがあると解説する。>

党と党の合同ではない。次の総選挙まで、自民党政府の庇(ひさし)を借りて政権運営のウォーミングアップをしながら民主党の政権担当能力を国民に示す。

その結果、民主党に対する信頼感は増幅するはずだし、これならば次の政権を民主党に任せても良いとする期待感が出るに違いない、したがって次期衆院選挙での民主党勝利を担保するのが大連立だと小沢氏は考えている。

20日の記者会見で小沢氏は具体的に説明している。この具体的説明を第1幕ですべきだったが、しなかった。「これぐらいのこと、説明しなくたって代議士なら分かっているだろう」と敢えてしなかった。

ところが、岡田はもちろん鳩山、菅も理解できなかった。理解できたとしても旧社会党系議員のあまりに強い反発に驚き、沈黙したか。

<22日に福田首相と野党各党党首が会談することから、民主党内には「小沢氏と福田首相は、連立政権構想についても話し合うのではないか」と見る向きもある。

大連立構想や小沢氏の辞意騒動で民主党は混乱しただけに、党内は「落ち着いてきたのだから、大連立の話を蒸し返さない方がいい」(党幹部)との見方が大勢を占めている。

これに対し、民主党幹部からは警戒の声が上がっている。

岡田克也副代表は19日の講演で「(連立で)政府に入った後、民主党は手を突っ込まれ、ガタガタになるだろう。大連立すれば自民党にとって都合のいい形で最終的な落ち着きどころが出来てしまう」とけん制。

鳩山幹事長も「小沢氏の主張は党全体の考え方とは明確に異なる。党として異なる選択をした以上、小沢氏もそれに従うという約束をした」と強調した。>

小沢氏の「説明」はこうだ。

<我々が(自民党との連立で)政権の一端を担う事によって国民との約束が実行できるなら、国民に対する責任を果たすことになる。
結果として、より多くの国民がわが党に支持を与えてくれるだろう。

例えば農業の問題でも、私どもの(主張する)戸別所得補償制度を導入できるなら、農家は怒るだろうか、喜ぶだろうか、と言う単純な判断だ。

年金でもそうだ。子育てもそうだ。高速道路の無料化を実行で切るなら、国民は連立がけしからんと言うだろうか。自民党政権では絶対にできないことが実現できるなら、国民は喜ぶのでは無いか。

さらに、我々自身の政権になれば、もっと国民のためにいいことをします、と言う事なら、私は支援が寄り集まると思っていたし、今もそう思っている。

しかし、(民主党の)皆が駄目だと言うから、今後はない。ないのだから(党内で)議論する必要は無い。皆さんが議論したいと言えば結構だが。

私は政策協議ぐらいはやった方がいいと思ったが、皆が駄目だと言うから、やらない。

(次期衆院選挙後に改めて大連立構想を話し合う事は)無い。皆が駄目だというのだから駄目だ>

ホント、ハラの中では棄て科白があったことだろう。「今頃分かっても遅いんだよ、馬鹿。つける薬は無いね」。

当に選挙までの間、大連立という庇を借りて母屋を取る大仕掛けの手品。分かってしまった自民はもう乗ってこないだろう。2007・11・21

2007年11月21日

◆玉砕とは将兵全滅のこと

                    渡部亮次郎

<「拉孟(ラモウ)に散った花 平井修一」(「頂門の一針」998 2007・11・16)をぜひ読んで頂きたい。平井氏はこの物語を聞いて涙腺が弛んだと
書いているが、私も同じ思いだ。

この話とは別だが、満州の新京でソ連軍の捕虜となった従軍看護婦の壮烈な最期を読んだことがある。ソ連軍は赤十字のマークがついた野戦病院にやってきて、ソ連軍の負傷兵の傷の手当てのために看護婦の応援を欲しいと言ってきた。

婦長が何人か選抜して応援隊を出したのだが、1ヶ月たっても帰らない。
そこでソ連側の野戦病院に行ったら、日本人看護婦はソ連の慰安婦にさ
れていた。

その人たちに会って帰るように説得したら「私たちは全員が性病をうつ
されている。ここにとどまって、1人でも多くのソ連兵に性病をうつす
のが最期のご奉公」と悲壮な覚悟を示したという。結局、全員が帰国せ
ず、中には自決した看護婦もいた。

説得に当たった婦長は泣く泣く最後の帰国船で舞鶴に上陸したが、死ぬ
まで殉国看護婦のことを講演で語って回り、慰霊碑を建てたという悲話
がある。

シベリアに抑留された関東軍にまつわる悲話は数多くある。だが新京の
野戦病院の悲話ほど心を打った話はない。

樺太(サハリン)でも電話交換手たちの悲壮な最期が伝えられている。
こういう話はGHQによる占領下では、好戦的軍国主義としてMPによ
る検閲で報道することが許されなかった。

沖縄戦では内地から防衛に赴いた日本軍が数多く玉砕している。この遺
族たちの悲しみは、沖縄県民の犠牲の蔭に隠れてほとんど伝えられてい
ない。むしろ攻撃した側の米軍は救世主の扱いを受けた時期がある。

沖縄占領の間に刷り込まれた反内地感情が為せる技といえよう。戦争を
憎む気持は同じだが、沖縄戦で戦死した内地人の気持ちも思いやる県民
の心が育つのは永遠にこない気がする。 古沢 襄>(「頂門の一針」
999号 2007.11.17)

玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争(大東亜戦争、第2次世界大戦)に
おいて、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用
いられた語である。近代戦において、外国軍に玉砕は無い。

大東亜戦争の中で最初に使われたのは、1943(昭和18)5月29日、アリュー
シャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。

「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに
清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された、い
わゆる言い換えである。誤魔化しである。

「大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に
寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部
隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて
壮烈なる攻撃を敢行せり。

爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参
加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。」

主な玉砕戦 1943年5月29日アッツ島守備隊玉砕 日本軍 戦死者 2638
名、生還者27名。米軍 上陸11,00名中 戦死者 600名、戦傷者 1,200


1943年11月22日 ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 1944年2
月5日 マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕 1944年2月23日 マー
シャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕 1944年7月3日 ビアク島守備隊玉砕


1944年7月7日 サイパン島守備隊玉砕 7月6日、第43師団長・斉藤義
次陸軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一海軍中将、海軍第
五特別根拠地隊・辻村海軍少将ほかの司令部は「自決」。

翌7日、約3,000名の日本軍は、最後の「万歳突撃」を敢行して玉砕して
果てた。9日、北部のマッピ岬に避難してきた多数の民間人は、断崖か
ら身を躍らせ自決した。

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