2007年10月28日

◆インターフェロンの怪

                   渡部亮次郎

舛添さんの足が地に着いていない。インターフェロンにしか肝炎治療が頼れないとしても、近親者のやっていた事を見たところでは、「インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされている」という話は信じてはいけない。

<肝炎治療「年10万人に」 舛添厚労相、助成に前向き
舛添厚生労働相は27日、治療費の公費負担を柱とするウイルス性肝炎患者の支援策を来年度から始めて、「インターフェロン治療」を受ける人を「年間約10万人に倍増させたい」との考えを明らかにした。

与党は、B型・C型肝炎患者の自己負担額の上限を所得に応じて月1万〜3万円程度とし、残りを公費助成する方向で調整している。来年度当初予算では、少なくとも200億円程度の財源が確保できる見通しだ。

ウイルス性肝炎患者(肝硬変や肝癌を含む)はB型・C型合わせて約60万人。自覚症状のない感染者は300万人程度と推定されている。この中には血液製剤フィブリノゲンによる薬害患者・感染者約1万人が含まれる。

インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされているが、治療費が月7万円程度と高額で、現在は年間約5万人しか治療を受けていない。

自覚症状がなく、感染に気づいていない人も多いことから、政府や自治体はこれまでウイルス検査の呼びかけや検査費の補助を行ってきたが、治療費支援は一部の自治体にとどまっていた。

ただ肝炎は、放置すると一定の確率で肝硬変や肝がんに進行する。インターフェロン治療を早期に受ける人が増えれば将来的にがん患者が減り、医療費抑制にもつながるとの判断で、来年度から治療費助成を始める。>Asahi Com 2007年10月27日12時00分

義兄本間俊二(家人の次姉の夫)は自覚の全くないうちにC型肝炎と診断され、約30年後に肝臓癌のため2007年1月22日、死去した。73歳の誕生日の前日だった。

本間は若い時から洋酒の輸入商をしており、フランス、イギリス、イタリア等との取引で忙しい毎日を送っていたが、その一方でC型肝炎対策にも忙しかった。大阪が本拠地だったから、いろいろと呼び声の高い病院を訪れたといっていた。

その中で出てきた治療法の1つがインターフェロンの注射だった。「高価でもありますが、効かない場合もあります」といわれながら投与を受けた。受けた患者何十人が会を結成して励ましあったが、効いたのは本間はじめほんの一握りだった。大多数の患者には効かなかった。

2006年12月初頭、千葉県浦安市のホテルに招かれた。「私は40台で死ぬと思っていました。それがこうして72まで生きてこられたのは全くインターフェロンのお蔭です。だけど私は成功した数少ない1人なのですよ」と語った。

その半月後、本間と会ったら黄疸が酷くなっていた。それでも宇都宮での孫たちとの年末年始の団欒を楽しみに12月27日、運転して出かけた。

だが健康状態は悪化。2007年1月3日に帰京する時には運転を娘に代わってもらってきて、翌4日にはかかりつけの都内の病院に緊急入院。その18日後に死亡した。
間違い無しの肝臓癌だった。C型肝炎の終着駅であった。

厚生労働省の役人は「インターフェロン治療によりC型は5〜9割、B型は3〜4割が治るとされている」と舛添大臣に説明し、大臣も鵜呑みのまま記者団に語った。記者団も又それを鵜呑みにして記事として流した。

しかし、インターフェロンはそれほど頼りにならない。その実態はウィキペディアにもかかれていない。壮大な無駄を厚労省がやろうとしているように思えてならない。 2007・10・27

2007年10月27日

◆モルヒネの1万倍

                      渡部亮次郎

モルヒネの1万倍の効力、1滴で巨象を麻痺させる麻酔薬をロシア政府が合成している事が明らかになった。2007年10月24日付の産経新聞でモスクワの内藤泰朗特派員が伝えた。

実はロシア・チェチェン共和国の独立派武装勢力がモスクワの劇場を武力で占拠し、人質の観客130人が犠牲になった事件。あれから5年経った。

あの時、ロシア特殊部隊が人質救出作戦で使用し「無力化ガス」と呼ばれた秘密ガスの主成分が、欧米の専門家の調査で漸く明らかになり「カフェンタニル」と分かった。

事件発生から56時間経った2002年10月26日未明、ロシア特殊部隊が「無力化ガス」を劇場の通気孔から噴霧し、人質と武装勢力を気絶させて突入。

先立って武装勢力は10月23日、約900人の観客らを人質に劇場に立てこもり、チェチェン共和国からのロシア軍の撤退を要求。聞き入れられなければ人質もろとも劇場を爆破すると脅迫。

ロシア側はこれを拒否すると共に無力化ガスを噴霧した後の突入を決断したのだった。

しかし「救出」とは言うものの大量の中毒死者が出て「行き過ぎ」が叫ばれながらプーチン政権は同ガスの成分を未だに公表せず、使用の正当性を主張している。

ガスの死者。チェチェン人武装勢力42人、人質の約15%に当る130人。いずれも中毒死だった。うち10人は子供だった。

内藤特派員がロシアの英字日刊紙「モスクワ・タイムズ」の報道として伝えるところによれば秘密のヴェールに包まれていたガスの主成分は、ロシア保安当局が開発したもので、1滴で巨象をも麻痺させることができる。

人工的に合成された「カフェンタニル」。麻酔薬として知られるモルヒネの1万倍の効力を持ち、象など大型動物の麻酔薬に使われるという。人間への効力が予め試されていなかったとすれば、犠牲者は生贄だったのではないか。


<欧米の専門家は事件でのロシア側の作戦が「狡猾な離れ業だった」と評価し、劇場を血の海にしなかったロシア当局の判断が正しかった徒の見解を示している>(内藤特派員)

ところで日本の北方領土近海で暴れまわっているのはロシア人ではなくチェチェン人たちだと聞いた事があるが、独立派武装勢力は弱体化したために、我々の関心も低くなっているが、扮装は終わっていない。

<チェチェン紛争はロシア南部チェチェン共和国の独立要求に対して独立阻止を目指すロシア軍が1994年、同共和国に侵攻して始まった。

96年に一旦休戦したが、99年に再燃。ロシア側の圧倒的な軍事攻勢で、独立派武装勢力は弱体化。だが2002年10月のモスクワ劇場占拠、モスクワの地下鉄や旅客機の爆破(04年)、北オセチア共和国の学校占拠(同)など紛争のテロ化が進む。

紛争による双方の犠牲者は推定で数万人に上ると見られている。>(10月24日産経新聞)。2007・10・26

2007年10月26日

◆「青い山脈」の頃

                   渡部亮次郎

恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」
であり、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町の映画館で観た。

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になって調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。
昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高いのは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなっている。2007年10月24日のラジオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したのである。

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の」名曲。映画を見たことが無い人でも歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀しい」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソードは大いに笑わせた。

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。
私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については「青い山脈」に教えられた。

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、男性1900年1月25日―1986年10月7日)は、小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。戸籍の上では7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校の前身)に学び、慶應義塾大学を卒業。1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ドラマ化作品がある。

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

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2007年10月25日

◆公式謝罪以外の解決策

渡部亮次郎

韓国の盧政権は34年前に朴正煕政権時代に起きた金大中拉致事件を金大中事件を当時の韓国中央情報部(KCIA)の組織的関与を初めて認めて、どうする気だったのだろう。

毎日新聞ソウル堀山明子記者によれば韓国国家情報院の真相調査委員会が24日発表した金大中(キムデジュン)拉致事件の報告書は、確かに朴正煕(パクチョンヒ)政権が隠ぺいしてきた真相を暴いた。

問題はその先である。当時の韓国中央情報部(KCIA)の組織的関与だとなったからには日本に対する主権侵害なのだから日本に公式謝罪しなければ名分が立たないことになった。

しかし謝罪すれば世論の反発を受けて苦境に立たされかねない。12月の大統領選を控えて政治争点化することを避けなければならない。そのため、公式謝罪以外の実務的な早期解決を模索しているようだ。何があるのだろう。謝罪は不要と福田首相が言うわけにもいかず。

盧武鉉(ノムヒョン)政権は軍事政権の不正追及が看板事業とはいえパンドラの函を開けて始末に困っている偽手品師のようで噴飯を禁じえない。

金大中事件の報告書は国家情報院のホームページに掲載される形で発表されたという。KCIAの関与確認という重大な内容にもかかわらず、調査委が委託を受けた7事件の最終的な一括報告の一部分という地味な扱いにした。

他の6事件では記者会見を開いて真相究明の意義を強調したのとは対照的だ。6事件のうち1987年の大韓航空機爆破事件は北朝鮮のテロだったと再確認した。

金大中事件だけは記者会見を避けた理由について韓国政府当局筋は「公式謝罪の可能性も含めて調整するが、韓国国内で政治争点化しないよう目立たない形で進めたい」ともらした。

取り敢えず韓国の柳明桓駐日大使は同日午前、木村仁外務副大臣に報告書の内容を説明。副大臣は「公権力の行使」だとして遺憾の意を表明した。

今後、仮に謝罪となれば過去の保守政権の外交問題とはいえ「韓国の国家的責任」を全面的に認めることになるわけだから、韓国内世論の反発を最小限に抑えなければならなかった。

毎日新聞の堀山明子特派員によれば、報告書をめぐっては、政治決着で事件を隠ぺいした責任は日韓両政府にあるとして真相を明らかにすべきだと主張する調査委側。外交問題化を懸念して公表に慎重な外交当局との間で意見が分かれ、調整に1年以上かかった。

日本政府も表向きは(1)主権侵害の謝罪(2)関係者の聴取−−が必要だといった原則論を繰り返してきたが、水面下では日韓政治決着で解決済みの問題を蒸し返すことに難色を示してきた。

しかも当時の田中首相は当時の韓国政府の日本担当相から多額の現金を受け取って事件は「蓋」をする事で「処理」した経緯も明らかになっている。

堀山特派員は、調査委関係筋によると、報告書発表を巡る攻防は3回あった、としている。

<最初は、調査委が報告書をほぼ完成させた昨年夏ごろで、日韓外交当局と国家情報院が圧力をかけ、発表が見送られた。

2回目は調査委の任期(2年)切れ直前の昨年10月ごろで、安倍政権発足直後の訪韓計画が進められていたため断念。

今年3月ごろの3回目は、金大中氏本人が朴大統領の指示が不明確として不満を表明し、再検討を迫られた。

調査委の任期延長(1年)は法的に1度しか認められず、今回のみだ。しかし、現在は与野党ともに大統領選挙への政治的影響をけん制する動きが生まれており、「発表のタイミングを逃しているうちに、報告書の重みがなくなった」(調査委関係者)と自縄自縛の状況に陥っている。>毎日新聞 2007年10月24日 15時00分

いうなれば気が抜けて間が抜けてしまったようだ。昨年夏ごろトカ10月ごろなら大統領選挙1年前、野党の大統領候補者の1人だった朴氏の娘のイメージダウンを図るとか、様々な意味があったろう。
しかし、今となっては「藪蛇」以外の何物でもない。北朝鮮の助言が裏目に出たのではなかろうか。 2007・10・24

◆カネで事件を葬った

                       渡部亮次郎

金大中事件の直後、田中角栄首相と大平正芳外相宛に朴政権の日本担当相から厖大な現金が届けられた。そのために事件は真相究明が見送られ、朴政権が倒れないで済んだ、と月刊誌『文藝春秋』がすっぱ抜いて久しい。バックナンバーを捜せば出ているはず。

<金大中事件
1973年8月8日、韓国の朴正煕政権を批判し、民主化運動を展開していた野党指導者、金大中氏が滞在中の都内のホテルで拉致され、5日後にソウルで解放された事件。

拉致現場からは韓国中央情報部(KCIA)要員で在日韓国大使館の金東雲1等書記官(当時)の指紋が見つかるなど、KCIAの関与が疑われていたが、政治決着が図られた。過去史真相究明委員会は2005年にこの事件の調査に着手した。>産経新聞 2007.10.23 19:38

<韓国政府が謝罪へ? 金大中事件調査結果

産経ソウルの黒田勝弘氏局長によると韓国政府の「過去史真相究明委員会」は24日、金大中拉致事件(1973年、日本で発生)の再調査結果を発表したが、関係筋によると、事件は当時、韓国政府の中央情報部(KCIA)が組織的に行った“犯行”だったことを明らかにした。

こうなると事件は韓国の公的機関による日本に対する「国家主権侵害」ということになり、韓国政府として日本に“謝罪”しなければならないため、盧武鉉政権の対応が注目されている。

日本側の捜査で在日韓国大使館1等書記官だったKCIA出身者らが関与したことが明らかになったが、韓国政府は情報機関による「組織的犯行」とは認めず、書記官の免職や金鍾泌首相(当時)を“謝罪特使”として派遣することなどで外交決着が図られた。

このため日本では野党や世論の間で「真相解明をおろそかにした政治決着」として批判の声が強く、金大中氏の政治的活動の保証など「原状回復」や、韓国政府の公的機関による「国家主権侵害」の有無などが未解決の課題として残った。

金大中氏はその後、政治的自由を得て大統領にまでなったため「原状回復」問題はすでに解決している。

今回、調査結果は事件が李厚洛KCIA部長ら情報機関の組織的な計画・承認の下で進められたという内容だから、その結果、韓国政府としては「国家主権侵害」問題で日本に対し何らかの外交的措置を迫られることになる。

盧武鉉政権は当時の朴正煕政権を“軍事政権”として批判、否定の立場で「真相究明」にあたってきた。しかし「真相」が明らかになった場合、国家として責任を取らざるを得ず、対応に苦心しているといわれる。>産経新聞 2007.10.23 19:38

これに先立ち東亜日報が98年に報じたKCIAの内部文書によれば、金書記官らKCIA要員25人が周到に役割分担し、朴大統領も報告を受けていた。

3カ月後に金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が訪日、田中角栄首相との会談で政治決着に至ったが、会談録では、紛糾の長期化を恐れた日本側が「金大中氏には来日して欲しくない」「これで終わった」と言質を与えるなど、首脳間の生々しいやりとりが明らかになった。

公文書によると、73年11月2日の日韓首相会談(東京)では冒頭、田中首相が「捜査の進展状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば改めて問題提起せざるを得ない」と迫った。

金首相が「それは必ずそうすることか、建前として一応、話をしておくことか」と聞くと、田中首相は「建前としてだ」と応じた。

また田中首相は「金氏が日本に来るような政治的センスのない人ならば将来性もない。来ないで欲しい」と捜査当局と逆の立場を述べ、金氏が真相を明らかにすれば後の政治活動に支障が出ることを示唆した。

さらに日本側で捜査が続いていることに話が及ぶと、田中首相は「建前はそうだが実際、日本の捜査は終結する」。「これでパー(終わり)にしよう」と言った。金首相は「この前、ホールインワンしたから自信を得たのか」とゴルフ談議に。

田中首相は「ホールインワンは偶然だが、こっちは本物だ」と応じた。公開されたのは事件直後から翌74年までの約2500ページ分>(asahi com2006年02月05日21時29分)

田中内閣は事件の1年前に成立。9月には特別機で中国を訪問、毛沢東主席、周恩来首相らと会談して共同声明に調印、日中国交正常化を達成した。これに私は同行取材した。マオタイ酒を一緒に飲んだ。

翌年になると老人(70歳以上)の医療費を無料化するなど意気が上がっていたが、持論の日本列島改造論に刺戟されて卸売物価が8・5%も上昇、野党から内閣の責任を追及されていた。角さんとすれば「いやぁ、チトいきすぎたわな」と頭をかいているところだった。

とはいえ月刊誌「文藝春秋」でペンネームながらしつこく田中批判をする渡部亮次郎というNHKの記者。無断で韓国訪問をしたことを口実に大阪への左遷をNHKにやらせてホットしているところへ持ち上がったのが金大中拉致事件だった。

政治記者が、商売の街大阪に行ってもやることがない。毎日、記者たちが書き損じてポイと捨てる紙くず拾いと辞書読みで過ごした。辞書は「漢字書き順辞典」。読破した。

ところで事件の顛末と結末は新聞の通りなのだが、問題は2つある。政府も知らなかった情報が1つ、多くの国民が話題にしなかった田中首相、大平正芳外相への韓国政府?からの謝礼金。

NHKが問題にした私の韓国行きは、まさにKCIAの招きによるもので毎日、読売、東京、時事に私を加えた5人が6月に出かけたもの。朝日の記者は直前になって取りやめた。当時の朝日は朴政権を認めずの立場だったから当然だろう。

出発に先立って東京で韓国大使館との打ち合わせがあり、金在権という名刺を差し出してきた公使と会った。しばらくして打ち解けたところで私が、東京で盛んに反朴政権活動をしている金大中について「このまま放置しておくのですか」と尋ねた。

金公使は中肉中背、外見も目つきも誠に温厚な感じの50近い男。おとなしい声で「そのうちに、何とかなりますよウフフ」とうめくように答えた。

不気味ともなんともない感じだったが「何とかする」事がどういう意味かは聞かないでも分かる。暗殺だと受け止めた。

大阪で新聞を読んでいると、金在権という公使は事件とともに姿を消し
た。そのご「アメリカへ逃亡した」という噂が流れたが、そのままである。流暢な日本語。と言っても、あの時代は韓国人は成人の殆どは日本語を話せたが。

もうひとつは何年か前、文藝春秋に元新潟県議が署名入りで書いたもので、事件の直後、朴政権の日本担当相(当時はそういうポストがあったのだ)李さんを目白の田中邸に案内したところ、李さんは持ってきた紙袋2つを角さんに示し「1つは奥さんに」といった。

すると角さんは「そうだ1つは大平君にだな」と答えた。(領収証代わりに)「色紙を書こうか」と聞くと李さんは「結構です」と断った。となっていた。雑誌の発売当時、このことをどこかに執筆したように思うが、思い出せない。文藝春秋のバックナンバーを探せば出てくるはずだ。

ソウルでは李さんと随分ウイスキーを飲んだ。「ワッタリ ガッタリ」。朴大統領の軍人時代以来の側近であったから、日本担当と言うウラの必要な仕事を任されたのだろう。

色紙を断ったところがそれを証明している。 一体いくら入っていたのだろうか、「謝礼金」。

重さは新札だと100万円で 100g,1000万円で1kg,1億だと10kg。両手で2つの紙袋は計2億円が限度か。ちょっと無理だな。いずれにしろ調達は都内の韓国企業だったはずだ。いずれ登場人物はみなあの世だ。
2006.02.06 再録 2006・07・26

2007年10月24日

◆太子党(Prince)の未来

                         渡部亮次郎

2007年10月22日の中国共産党第17期中央委員会第1回総会(1中総会)で発足した政治局で共産主義青年団と上海閥と拮抗して進出する結果となったものに「太子党=たいしとう)がある。

太子党とは中国共産党の高級幹部の子弟等で特権的地位にいる者たちのこと。太子は英語のPrinceの意味。

党組織だけでなく、コネを生かして企業経営等に関わる場合がある。なお大抵は親の方が地位・知名度共に上だが、曽慶紅のように子の方が出世した例もある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』が挙げる代表例として以下の人物がいる。頭に出てくるのが親。

劉少奇―劉源(子:軍事科学院政治委員、中将)
林彪―林立果(子:元空軍作戦部副部長)
ケ小平―ケ樸方(子:中国障害者協進会主席)・ケ榕(子:中露友好協会会長)・ケ楠(子:中国科学技術協会党書記)

葉剣英―葉選平(子:政治協商会議副主席)
李先念―劉亜洲(娘婿:空軍副政治委員、中将)
陳雲―陳元(子:中国国家開発銀行頭取)

江沢民―江沢慧(妹:中国林業科学院院長)・江綿恆(子:中国科学院副院長)・江綿康(子:人民解放軍総政治部組織部部長,少将)
李鵬―李小鵬(子:中国華能集団公司会長)・李小琳(子:中国電力投資集団公司副会長兼中電国際社長)

朱鎔基―朱雲来(子:中国中金公司CEO)
胡錦濤―胡海清(子:新浪CEO夫人)
温家宝―温雲松(子:北京Unihub公司総裁)
薄一波―薄煕来(子:商務部長-政治局員)
習仲勲―習近平(子:浙江省党委書記→上海党書紀―政治局常務委員)

最後に出てきた習近平は父親の仲勲は元副首相だったが、思惑通りに進めば胡錦濤の後を襲って総書記になる。妻は著名な歌手、彭麗媛だ(産経新聞23日付)。

常務委員ではない政治局員の太子党は16人中5人いる。前からいた兪正声に加えて新人4人。李源潮、瀏延東、王岐山、薄煕来である。

李源潮(56)は江蘇省党委書記、瀏延東(61)は党中央統一戦線工作部長、王岐山(59)は北京市長、薄煕来(58)は商務相。前からいる兪正声(62)湖北省党委書記を含めると政治局全体での勢力は4分の1程度となる。

太子党は現役を引退した長老たちと深いつながりを持ち、経済界とのパイプも太く、影響力が強い。中国筋は1中総会の結果、長老勢力が一定の発言力を有する、と指摘している。

ところで、住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト北村豊(きたむら ゆたか)氏の世界鑑測(観測にあらず)北村豊の「中国・キタムタリポート」(2006年11月17日 金曜日)によると、彼らの獲得するご利益(ごりやく)にはものすごいものがある。

<上海市党委員会書記の陳良宇が更迭される直前の2006年9月20日。香港誌「動向」の記者である羅冰が、上海市官界の腐敗について書いた文章に、「上海市の高級幹部230名余の子女は、その95%が金融、不動産、建設請負等の分野で要職にあり、97%が欧米風の庭付き高級住宅に住んでいる」という記述がある。

進学、就職、昇進高級幹部の子女が特権を享受

高級幹部の子女がその特権を享受していることは、決して上海市に限ったものではなく、程度の差はあれ、共産党中央・中央政府をはじめとして、中国全土の省・自治区・直轄市に及んでいる。

ある人物が、実力、目端、上司の引き、コネ、ゴマスリ、前任者の失脚などの巡り合わせによって、幸運にも高級幹部という権力の座に就いたとすれば、まず手がけるのは妻子に対する昇進、優良企業への就職要請、有名大学・高校への裏口入学、次に親族に対する昇進支援、就職斡旋、口利きによる利益誘導などの各種配慮である。

中国人は伝統的に大家族主義であり、一族の団結により外部からの干渉、侵害、侵略を防ぎ、子々孫々までの一族の繁栄を図ってきた。一族の中に優秀な人材がいれば、一族で資金を出し合って学問を身につけさせる。

この結果が吉と出て、その人物が官途に就いて出世すれば、当然の権利として一族全員でこれにぶら下がる。何の能力の無い者でも出世した人物の一族というだけで、あれよあれよという間に然るべき地位を得るから不思議だが、そんなものだと社会が納得して諦めているので、誰も文句は言わない。「泣く子と地頭には勝てない」ので、ひたすら「驕る平家」の凋落を待つことになる。

この大家族主義の伝統は、現在も脈々と続いており、中央政府の高級幹部はもとより、地方政府も高位の幹部から末端の郷・鎮・村の上級幹部までが、その権力に物を言わせて、妻子、兄弟、甥、姪といった一族を少しでも権力に近づけさせ、信頼できる自己の支持層をより厚いものとすることで保身を図っている。

高・中級公務員の収入は既に欧米先進国を上回っている

以前、国務院研究室、中央党校研究室、共産党中央宣伝部、中国社会科学院などの関係部門が共同で作成した調査報告書は、中国の高・中級公務員の収入は既に欧米の先進国の公務員や中産階級の収入を上回っていると述べている。

同報告書によれば、2006年3月末時点で、中国国内で私有財産(海外や香港・マカオにある財産を除く)が、5000万元(約7億5000万円)以上の人数は2万7310人であり、1億元(約15億円)以上の人数が3220人であるという。

驚くべきは、この1億元以上の金持ちには、何と90%以上の2932人もの高級幹部の子女が含まれていて、彼らが所有する資産の合計額は、2兆450億元(約30兆6750億円)以上であるというのである。

さらに、報告書は、中国の金融、外国貿易、国土開発、大型建設工事、証券という5大分野で要職に就いている人の80%から90%が、高級幹部の子女によって占められていると述べている。

それは何故か。言わずもがなの話だが、その理由は、高級幹部特権による子女の有名大学への裏口入学から始まって、有名企業への裏口入社、果ては本人の能力とは関係のない、その親である高級幹部への配慮という形でなされる早い昇進である。>
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061115/113768/

北村豊 1949年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。住友商事入社後、アブダビ、ドバイ、北京、広州の駐在を経て、2004年より現職。中央大学政策文化総合研究所客員研究員。中国環境保護産業協会員、中国消防協会員。

これでも共産主義国家といえるだろうか。封建主義にこそ似ているではないか。中国が時代を遡っているのだとすると、封建主義の次に来るのは再革命が自明のこととなるが。「驕る平家」の凋落を待つものが多数になって江戸幕府はつぶれた。2007・10・23

2007年10月22日

◆百花斉放・百家争鳴

                       渡部亮次郎

毛沢東は生涯、しばしば嘘をついて大衆を油断させ、気を許して近寄ってきたところをふんじばって処刑した。ソ連に見捨てられた時の「自力更生」、文化大革命の「造反有理」もそうだが「百花斉放百家争鳴」は最も悪どい。

「百花斉放」広辞苑にも出てくる。種々の花が一斉に咲きそろう意。科学・文化・芸術活動が自由・活発に行われること。「百家争鳴」は「多くの学者が自由に自説を発表し論争すること」とした上で「1956年に中国政府が百花斉放と併せて提唱したが、その結果、共産党批判が起こったため、反右派闘争に転じた」と解説している。

「ウィキペディア」によれば、1956(昭和31)年、毛沢東は百花斉放・百家争鳴を打ち出し、党批判を奨励した。 「我々は批判を恐れない。なぜなら我々はマルクス主義者であり、真理は我々の側にあるからである」と胸を張った。

しかしいったん批判を許したら、党に対して建設的な意見を具申するのではなく、党を裁判にかける行為が目に付くようになった。

このため、毛沢東は翌年百花斉放・百家争鳴を撤回。党に対して対等な批判を行った者(その多くは知識人)に、党の公式見解に沿った自己批判をさせた。また少なくとも全国で50万人以上を失脚、下放させ、投獄した。

この闘争で国民個々の思想まで国が監督しはじめ、後の大躍進、文化大革命へと突き進んでいく。逆に言えば、反右派闘争までは公務員、資本家を除き社会には比較的自由な空気が存在した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

友人は自らのブログのタイトルを「百家争鳴」としているが、私はこれを見るたびに百花斉放百家争鳴といって不満分子に自由に発言させ、その途端に「反右派闘争」と称して50万人以上を失脚や投獄した毛沢東の「いんちき」を連想して憂鬱になる。

広辞苑と同じ岩波書店の「現代中国事典」(1999年5月20日)によると、毛沢東が唱えた(撒いた餌)「百花斉放百家争鳴」のことは「双百」というそうだ。

それはともかく毛に近い学者の解説によれば、毛は1956年の時点つまり建国僅か6年にして商工業の社会主義的改造が基本的に完成して経済建設が中共の基本中心となった。そこで、この先は知識人の協力が必要となった。

そこで毛はそれまでの知識人の思想改造政策を転換すると明らかにし「民主諸党派との長期共存、相互監督」と「百花斉放・百家争鳴」を党の基本方針とすると発表(1956年4月の政治局拡大会議)。

5月26日には陸定一中央宣伝部長に講演を行わせ「文学芸術活動と科学研究活動において独立思考の自由を持ち言論の自由を持つべきこと」を提唱した。知識人の弱いところを突いたもので、客観的に考えて「罠」である。

文学芸術活動と科学研究活動において独立思考の自由を持ち、というところまでは分かるが、言論の自由を持つべきことを許すというのは行き過ぎである。これでは共産党は生きられない。独裁でなければ生存不可能である。

流石に党副主席の劉少奇は戒めたが毛は調子づいたように翌57年2月「整風運動についての指示」まで出し、党外人士が共産党の官僚主義を批判するよう要請した。

そこまで言うならと知識人は発言しだした。章伯釣民主同盟副主席が「民主諸党派の政治参加を要求して政治設計院」の設置を提唱。儲安平「光明日報」総編集長は共産党の「党の天下」思想を攻撃した。

毛は途端に危機感を募らせ6月には共産党の指導権を攻撃する勢力をブルジョア「右派」と名づけ、徹底的な弾圧を指令。留まらず
「反右派闘争」が開始された。

先の章伯釣なぞは羅隆基と共に章羅同盟の名の下に糾弾され、すべての職務を失った(1年後に一部の職務を回復、64年には第4期全国政務委員)。

毛の百花斉放百家争鳴が反右派闘争に転換した結果、毛の人民内部矛盾論に基づく民主化政策の限界と人民内部矛盾論が持つ欠陥を明らかにした。早い話、人民は手を緩めれば付け上がり、共産党がやっていけなくなる、ことを身にしみて感じたということだ。

だから中国では1960年代から70年代に掛けての文化大革命以降も、民主化・自由化の声が表面化するたびに「双百」が発出される。
トウ小平による1989年6月4日の天安門事件はそれを象徴している。

トウ小平としては自ら下した経済の改革開放路線の結果起きた政治の改革開放要求に応えれば共産党独裁という政治体制そのものが崩壊すると判断したから、平然として人民に銃を向けたのである。

そうした見地からすると今回の17回党大会で政治局のメンバーに多少の異動はあるにせよ政治的民主化の気配は微塵も無いはずである。あれば何かの間違いに過ぎない。2007・10・21

2007年10月20日

◆キャリア廃止は「没」

                       渡部亮次郎

<福田首相がキャリア制度廃止に後ろ向き答弁連発

福田康夫首相と町村信孝官房長官は17日の参院予算委員会で、国家公務員のキャリア制度廃止を柱とした公務員制度改革の流れに後ろ向きの発言を連発した。

「ねじれ国会」という厳しい状況の中で首相は野党への低姿勢に徹しているが、行政改革に抵抗する霞が関(官庁)に対しても配慮をにじませた格好だ。>産経ニュース 2007.10.17 19:32

先代・福田赳夫内閣で共に大臣秘書官として働いた経験からすると康夫総理大臣はキャリア官僚大好き人間。しかも自身、官僚上がりだった父親が呆れるくらい官僚的な性格だ。

康夫氏は男兄弟3人。3人とも早稲田卒業。女の姉妹は2人ともキャリア官僚に嫁いだ。そんな事から判断すると康夫総理大臣はキャリア官僚を無くすことには反対が本心だ。

産経新聞によれば、公務員制度改革をめぐっては政府の懇談会ではキャリア制度は、これまで中央省庁の弊害とされてきたから、これを廃止し、能力重視の採用、人事管理にする方向で一致している。

しかし、17日の参院予算委で福田首相は、キャリア制度の存廃について「決めていません。決めかねる問題だ。民間の場合は業績評価をしやすいが、公務員はできないという根本的な違いがある」と述べ、キャリア制度廃止に慎重な立場をみせた、というのだ。

引退を噂されていた康夫氏を引き戻した最も強力な力は、差別主義者麻生太郎政権誕生をなんとしても阻止したかった元幹事長野中広務氏である。彼が陰に陽に派閥の領袖や森喜朗元首相らを纏めて福田氏を引き戻した。そのキーワードは「元の自民党」であり「反小泉・安倍路線」である。

だとすれば渡辺喜美大臣の作り上げた「キャリア制度の廃止」は小泉・安倍のやった「改革路線」の最たるものであり、「廃止の廃止」こそは新福田政権の嚆矢(はじまり)なのである。

産経新聞によれば、福田首相はまた、内閣府に来年設置される国家公務員の天下り斡旋を一元的に行う「官民人材交流センター」(人材バンク)のあり方に関しても「公務員制度全体を検討している中でどう位置づけるか、しっかりみていく必要がある」と述べ、今後見直しもありうるとの考えを改めて示して私の分析を裏付けた。

<さらに首相は、キャリア官僚の独立行政法人への天下り者数がここ数年で減少している“実績”を強調し「丁寧に(退職官僚の)人生設計をしてあげる必要があるのではないか」とも語った。

一方、町村長官は、政府の公務員制度改革に関する懇談会の最終報告書のとりまとめ時期が、当初の11月から年明けまで2カ月先送りされたことについて「判断の難しい問題。1カ月か2カ月ずれ込んでも大きな問題ではない」「公務員バッシング的な発想でなく、バランスのいい議論をすべきだ」と官僚寄りとも受け取れる答弁をした。

公務員制度見直しなど一連の行革は小泉、安倍内閣で進められてきたが、「福田内閣は摩擦を避けようと霞が関にも低姿勢路線に転換したのではないか」(閣僚経験者)との声も漏れる。>産経ニュース 2007.10.17 19:32

すでに公務員制度見直しなど一連の行革は「没」になったと見るべきだろう。福田内閣が続けば続くほど政治改革は遠くなって行く。小泉氏が理想を本当に持っているなら、やがて「福田打倒」を掲げて再登場しなければならないが、無理だろう。2007・10・18


2007年10月19日

◆忍び寄る耐性菌

                       渡部亮次郎

<耐性菌で死者1万8千人超 05年に、米保健当局推計

代表的な抗生物質が効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に全米で2005年に感染したのは約9万4000人で、そのうち約1万8600人が死亡したとの推計を米疾病対策センター(CDC)がまとめ、米医師会雑誌(電子版)に16日発表した。

日本を含め先進国で感染拡大が問題になっている薬剤耐性菌での推計は全米で初めて。医療関係者は「05年の米国内のエイズ感染による死者数約1万7000人を上回る」と警戒を強めている。>(ワシントン=共同)2007.10.17

感染は人口10万人当たり31・8人、死者は同6・3人となった。院内感染を含め、医療施設での感染が約85%を占め、病院外で広がる「市中型」も約15%あった、という発表である。街を歩いていて感染する事もあるということだ。

85%が院内感染とは当然だろう。なぜなら病院こそは病気のデパート。様々な病気、知らないうちに知らない黴菌に感染している人々が集まっている場所なのだから。

CDCの担当者は「MRSAの蔓延(まんえん)は予想以上であり、病院など医療施設は感染防止をより重視すべきだ」と指摘している。

他人事(人事)ではない。このため永年の親友を亡くしたのである。
山崎康正君。2007年6月1日に死去。NHK記者を都合で途中退職。何の伝手も無いのにニューヨークへ渡ったにも拘らず、フリーのジャーナリストとして成功。

NHKのラジオ深夜便にも時折、現地から電話出演。その功績でNHKから会長賞を受けて笑っていた。真面目に働いていた時は何の沙汰も無かったのに、辞めて何年も経ってから出演者として表彰を受けるとは、と笑っていた。

ニューヨーク滞在20年。JALの旅客乗務員だった夫人とは2人の子供をもうけながら離婚。その後にNYに渡ったのだった。マンハッタンの中心の高級アパートで自炊生活。私は何回も泊めて貰った。

突然、2007年1月、急性白血病で倒れてNYの病院に入院。長くなるからという病院の奨めで急遽、帰国。母方の祖父が教授だったという縁で東京・信濃町の慶応大学病院に移ったのは4月。

抗癌剤の投与で容貌が変わり、誰にも見られたくないと私にさえ知らせなかった。実はNYの病院で耐性菌に院内感染していたのがわかった。しかし耐性菌とあっては施す術なし。死を待つだけとなり、
遂に6月1日、多臓器不全となって死去した。まだ67歳だった。

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2007年10月18日

◆初の行政主席選挙

                      渡部亮次郎

沖縄がアメリカに占領されていた末期の1968年11月10日に第1回行政主席通常選挙が行われNHK政治部から田辺昌雄先輩記者と共に取材に派遣された。

アメリカの領土だったからパスポートとビザの発給を受けた。円は通用せず、1日あたり38ドル(1ドル=360円)を支給され、もちろん日航機で赴任した。

岩手県の盛岡放送局から政治部に着任して未だ4年目の若造がなぜ指名されたかの説明は聞かなかったが、地方時代に様々な票読みで実績があったからかもしれない。

琉球政府の行政主席。アメリカ占領中の沖縄を統括するアメリカ側の役所は「高等弁務官」。その下に沖縄人による役所として「行政府」が置かれ、そのトップが行政首席であった。

また管轄するする日本政府の役所は総理府(当時)。政治記者の初期の頃、同和事業などと一緒に担当させられたので、沖縄情勢をズブの素人よりは知っていた。

その頃の内閣は佐藤栄作氏で「沖縄の返還」を最大の「公約」に掲げており、まず「教育権」の返還を掲げ、その次に行政主席の選挙による選出をアメリカに要求していた。

その結果、住民の直接選挙による選出が許可されたわけである。39年も前の出来事。作った資料はとっくに廃棄したし、写真もどっかへ行ってしまった。いつも利用している「ウィキペディア」には記録があるかも知れない。

案の定あった。それによると、公示日1968年10月21日、投票日1968年11月10日とある。有権者数515,246人 (男性:235,299人、女性:279,947人)

琉球空港に降り立ってみると猛烈に眩しい。タラップの先に立っている女学生にスネ毛が長く生えていて、風になびいているではないか。まずサングラスを買った。

沖縄支局にいる駐在員の世話で下宿探し。ついては本土に引き揚げていったナントカ製薬駐在員の世話を焼いていた女性の世話になったらどうかという色っぽい話もあったが、遠慮。1日2食ドル5ドルの6畳間に落ち着いた。

毎朝、味噌汁が出るが、大豆の味ではない。蘇鉄の実だという。変った味だった。魚が殆ど食卓に上らなかった。鶏か豚ばかり。

高等弁務官事務所を訪れて米軍基地へのパスを申請。身長、体重、髪の色に加えて「瞳の色」は黒と申請したらミスター・ワラナベ、ユーアー ナット ブラック。ブラックは沖縄人。日本人はブラウンとの御託宣。知らなかった。沖縄人は大和民族では無いとは。

折からベトナム戦争。嘉手納基地から爆撃機が大量の爆弾を抱えて北ベトナム爆撃にひっきりなしに飛び立つ。そのたびに国道が交通止め。タクシーの頭上すれすれに離陸して行く。爆音が腹に響くのを知った。

立候補者は届け出順

(1)西銘順治にしめ じゅんじ 沖縄自由民主党総裁
琉球 島尻郡知念村(現・南城市)出身。

(2)屋良朝苗(やら ちょうびょう)無所属 沖縄教職員会会長
琉球 中頭郡読谷村出身

ほかに公認会計士が立ったが「本土復帰反対、独立」を主張し泡沫扱い。事実は西銘・屋良の一騎打ちであった。

主な争点

行政主席の直接選挙制が導入されて初の選挙であり、本土の政治家も多く駆けつけて選挙戦が展開された。そして、近い将来に実現されるであろう本土復帰が最大の争点になった。

西銘順治候補は「本土との一体化」を掲げて日米協調路線の下での復帰を訴えた。一方、屋良朝苗候補は「即時無条件全面返還」を掲げた。野底武彦候補は復帰そのものに反対し、琉球の独立を訴えた。

タクシー雇い上げが1日10ドル。本島をぐるぐる廻ろうにも目当てが無い。立会演説会に顔を出すと途端に地元弁で喋りだすから全くわからない。

選挙管理員会に顔を出したら離島での繰り上げ投票や開票はやらない、という。記者さん、投票が済めば、いつ開票しようが結果は決っているのだから急ぐ必要はありません。

本土ではTVやラジオを通じて一刻も早く結果を知りたがっていると説得してやっと了解してもらったものだ。どっちが役所かわからない。

飲み屋の主人やなんかを相手に話を聞くと西銘は問題にならないという。「日の丸掲揚運動を主張する屋良先生の勝利間違いなし」の話ばかり。遂に田辺さんには「4万差で屋良勝利」と申告。

翌朝、高等弁務官事務所に顔を出したら「NHKは4万差で屋良勝利と放送したが根拠は何か」と聴かれた。予測をNHKが放送するわけが無い。本社への電話を盗聴したのだ。

そういえば毎朝、タクシーの後をナショナル電気洗濯機と書いたワゴンが尾行してくる。沖縄人ダ。アメリカ軍に雇われて尾行しているのだという。

弁務官事務所に抗議したら「新聞の反米記事は空港で新聞の全部を没収して済むがNHKの電波は阻止できない。だから発信元を警戒するしかないのだ」とあっけらかんなものだ。

選挙結果
屋良朝苗 237,643票(当選)
西銘順治 206,209票
野底武彦 279票
(投票率 - 89.11%)

その差 31,434.予想の4万よりは少なかったが「合格」と部長に言われて琉球を後にした。11月10日、まだ半袖のポロシャツだった。

屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年12月13日 - 1997年2月14日)

明治35年(1902年)12月13日生まれ。昭和5年(1930年)に広島高等師範学校(現在の広島大学)を卒業する。

その後沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第1高等女学校、台南州立台南第2中学校、台北第1師範学校などで教職をつとめた。

沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。

主席在任中は、復帰を円滑に進めるために日米両政府の折衝などを進めていったが、その道のりは険しく、苦渋に満ちた表情をすることが多くなり、いつしか「縦じわの屋良」と呼ばれるようになった。

復帰後も昭和51年(1976年)まで、沖縄県知事として在任した。同年の選挙にも出馬を要請されたが、固辞し退任した。

知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。実直な人柄であった。

沖縄教職員会はその後教職員組合と名称を変えたが、内実は屋良氏の頃とは様変わりし13,307人を110,000の集会と偽って発表して恥じない団体になった。参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
2007・10・17

2007年10月17日

◆胡錦濤と江沢民の握手

                          渡部亮次郎

<【北京=伊藤正】胡錦濤総書記が2時間半に及ぶ演説(政治報告)を終え、ひな壇最前列の中央の席に戻ると、左隣の江沢民前総書記が立ち上がり、握手を求めた。>産経ニュース2007.10.16 00:43

15日、北京の人民大会堂で開幕した第17回中国共産党大会。伊藤総局長は「その握手で、江氏は胡氏の報告に賛意を示したように見えたが、真意は分からない」としながらも「胡報告は経済は自由、政治は保守というケ(トウ)小平、江沢民氏の路線と基本的に変わらない。江氏が胡氏に握手を求めた理由かもしれない」と結んでいる。

5年前、江沢民氏の後を継ぎ総書記になった胡錦濤氏。彼にとって、今回が初の自前の党大会だが、この5年間、中国が年平均10%超の成長を遂げ経済大国化、国際的地位も大きく向上したのは江氏の決めた路線と指導体制によるものだった。

胡総書記の初めての報告は、改革・開放を切り開いたケ(トウ)小平理論と、それを発展させた江沢民氏の「3つの代表」思想を高く評価し、その継承を強調しながら、科学的発展観という胡氏自身の理念を打ち出した。

所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだひずみを正し、持続的な均衡成長と調和の取れた社会実現が主眼だ。しかし過去5年間、7〜8%の目標値に対し2けた成長が続いたことが示すように、成長主義の構造を打破するのは難しいはずだ。

とめどなく成長しようとし、如何なる政治的規制も排除しようとするのが資本主義の本質である。これに対し共産党は政治の独裁を継続しなければ存在意義を失うのであるから、経済に対する規制を止めるわけにはいかない。そこに汚職が必然的に発生する。

したがって伊藤記者も指摘するように

<例えば、成長率を押し上げる地方政府による不動産開発は、財政資金確保と同時に党官僚たちの闇収入にも欠かせない。胡錦濤政権の土地売買の規制策や汚職への厳罰主義も効果は薄く、地方には、腐敗に寛大だった江沢民時代を懐かしむ声さえあるという。>

つまり所得格差の拡大、環境汚染、資源の浪費、官僚の腐敗など高成長の生んだ「ひずみ」こそは江体制の遺物であり、中国式共産主義体制の本質そのものなのである。

伊藤記者は「ある学者によると、胡錦濤路線は、ケ(トウ)小平理論から1歩も出ていないという」としているが胡錦濤は仮に手品師だとしても種と仕掛けが変わらない以上、変った事は何もできるはずが無い。

報告で胡氏が「1987年の第13回党大会で打ち出した社会主義初級段階論を踏襲、1つの中心(経済建設)2つの基本点(社会主義堅持の4原則と改革・開放)を堅持する」と述べているのは当然だ。

<経済が資本主義化した今日、一党独裁を廃止し、民主制度に移行すべきとの議論が近年、高まっている>と伊藤記者は指摘するが、先に述べたとおり一党独裁を止めれば共産党は失業するどころか、これまで我慢してきた農民に殺されてしまうだろう。

だから遅れた経済を発展させる手段が改革・開放であり、市場原理など資本主義の手法も是とする半面、一党独裁を中心にした4原則堅持は変えないのは当然というものだ。

<胡錦濤氏は報告で「社会主義だけが中国を救い、民主社会ができる」と主張している。胡氏のいう「民主」とは共産党が与える社会主義民主にすぎない。直接選挙制の拡大など政治改革はなく、党の執政能力の強化、効率化にとどまった。

先の学者よると、共産党が当面している最大の問題は、国民の党不信であり、その要因は腐敗という。党権力が強まるほど、腐敗が巨大化、蔓延(まんえん)していくのが現状だ。その有効な対策は、胡報告には見えない。

89年の天安門事件前、腐敗は今日ほど深刻ではなかったが、当時の趙紫陽総書記は、党と政治、企業との分離を打ち出したほか、司法の党からの独立や報道の自由のための新聞法制定の構想を進めていた>(伊藤記者)。

中国の未来は決して夢でも明るくも無い。趙紫陽総書記がやろうとした事は共産党からすれば反革命に等しかった。だから失脚したのだ。今回、胡と江が握手した事を見れば22日に明らかになる人事も驚くような事は無さそうでは無いか。2007・10・16

2007年10月16日

◆イチョウは鴨脚樹(ヤチャオ)

渡部亮次郎

近くの都立猿江恩賜公園の銀杏は殆ど落ちた(落とされた?)が10月半ばの15日にも、雌の木の下の植え込みを分けてまで探している老人を何人も見かけた。

周囲を水田に囲まれて育った身には、大の大人が何故こんなに都会の人たちが銀杏に夢中になって、さらおうとするのか判らない。確かに葉っぱにはボケを防ぐ何かがあると読んだことがある。

そこからすると、実にはもっと効き目のある薬が含まれていると信じるのも自然である。だがつり竿を持って来てたたいたり、はては猿のように登っていって枝を揺する様は、イチョウの薬は既に効かないとの感を深くする。

イチョウ(銀杏) Ginkgo 中国原産の落葉高木。裸子植物である。中国では銀杏のほか、公孫樹とも書く。

また葉の形がカモの脚に似ていることから鴨脚樹ともいったが、この中国語を日本人がヤーチャオと聞いたことから、やがてイチョウとよぶようになったと、大槻文彦が「大言海」でのべている(後述)。

イチョウの仲間は古生代末に出現し、主として中生代ジュラ紀に世界各地で繁茂した。東京都や東京大学のマークに使われている。

現存する唯一の種であるイチョウは、メタセコイアとともに「生きている化石」として知られている。明治時代、イギリスの植物学者が日本にも繁茂しているのを発見して驚いたという記事を読んだことがある。

中国では古代から聖なる木とされ、寺院の庭で保護されてきた。そのため絶滅しなかったというのが植物学者の定説だったが、近年、中国西部の峡谷で野生のイチョウが発見されている。

日本でもイチョウは信仰と深くむすびついた木として大切にされ、各地の神社や寺に巨樹がみられる。国指定の天然記念物にも20本を超えるイチョウの名木がある。

高さは10〜40mになる。葉は扇形で、葉脈は付け根から先まで二またに分岐をくりかえし広がっている。大きな枝から、短枝というひじょうに生長のおそい小さな枝を出し、そこに毎年、葉をつける。雌雄異株で、雌花と雄花は別の木につく。

日本での花期は4月。雄株のつける花粉は風にはこばれ、雌株は秋に異臭のする肉質の外種皮におおわれた種子をつける。このため、雌株は観賞用にはこのまれない。中華料理や日本料理では、銀杏(ぎんなん)とよばれる種子が珍重される。

イチョウは公園や庭園によく植えられる。大気汚染、日照不足などの都会の悪条件にも強いため、大都会の街路樹としても植えられる。

このような多角的な利用のため、さまざまな園芸品種がつくりだされてきた。トウガタイチョウ、シダレイチョウ、オハツキイチョウ、チチイチョウ、キレハイチョウ、フイリイチョウなどである。

分類:イチョウ科イチョウ属。イチョウの学名はGinkgo biloba。

『大言海』序文がかたる銀杏の語源探求

国語辞書『大言海』5冊は、著者文彦の死後、兄の大槻如電のほか、関根正直、新村出らの指導協力により、1932〜37年(昭和7〜12)に刊行された。この辞書の特色は、出典を示し、独特の語源解釈を試みていることで、ここに紹介した銀杏(いちょう)の語源についての探索にもその本領がよく出ている。

[出典]大槻文彦『大言海』、冨山房、1932年
大槻文彦「大言海の編纂に当たりて」

<銀杏(ぎんなん)の成る「いちよう」といふ樹あり。この語の語原、並(ならび)に仮名遣は、難解のものとして、語学家の脳を悩ましむるものにて、種種の語原説あり。

この語の最も古く物に見えたるは、一条禅閤(ぜんこう:兼良公、文明13年80歳にて薨(こう)ず)の尺素往来に、「銀杏(イチヤウ)」とある、是れなるべし。

文安の下学集にも、「銀杏異名鴨脚(アフキヤク)、葉形、鴨脚(カモノアシ)の如し」とあり。字音の語の如く思はるれど、如何(いか)なる文字か知られず。

黒川春村大人の硯鼠漫筆(けんそまんぴつ)に「唐音、銀杏の転ならむ」などあれど、心服せられず。

降りて、元禄の合類節用集に至りて、「銀杏、鴨脚子、」と見えたれど、是れも如何なる字音なるか解せられず、正徳の和漢三才図会(わかんさんさいずえ)に至りて、「銀杏(ギンナン)、鴨脚子(イチエフ)、俗云、一葉(イチエフ)」とあり。

始めて、一葉の字音なること見えたり。然(しか)れども、一葉の何の義なるか、不審深かりき。加茂真淵(かものまぶち)大人の冠辞考、「ちちのみの」の条にも、「いてふ」と見ゆ。

仮名遣は合類節用集か、三才図会かに拠られたるものならむか。語原は説かれてあらず。さて和訓栞(わくんのしおり)の後編の出でたるを見れば(明治後に出版せらる)、「いてふ、一葉の義なり、「ちえ」反「て」なり、各一葉づつ別れて叢生(そうせい)せり、因(よっ)て名とす」と、始めて解釈あるを見たり。

十分に了解せられざれど、外に拠るべき説もなければ、余が曩(さき)に作れる辞書「言海」には、姑(しば)らくこれに従ひて「いてふ」としておきたり。

然れども、一葉づつ別るといふこと、衆木皆然り、別に語原あるべしと考へ居たりしこと、三十年来なりき。  

然るに二、三年前、支那(しな)に行きて帰りし人の、偶然の談に『己れ支那の内地を旅行せし時、銀杏の樹の下に立寄り、路案内する支那人に樹名を問ひしに「やちやお」と答へたり。

我が邦の「いちよう」と声似たらずや』と語れるを聞きて、手を拍(う)ちて調べたるに、鴨脚の字の今の支那音は「やちやお」なり。

(支那にては、この樹を公孫樹と云ひ、又、鴨脚とも云ふ)是(ここ)に於て、案ずるに、この樹、我が邦に野生なし、巨大なるものもあれど、樹齢700年程なるを限りとす。

されば鎌倉時代、禅宗始めて支那より伝はりし頃、彼我の禅僧、相往来せり。その頃、実の銀杏を持ち渡りたる者ありて、植ゑたるにて、その時の鴨脚の宋音「いちやう」(今の支那音「やちやお」はその変なり)なりしものと知り得たり。

その傍証は、実の銀杏を「ぎんあん」(音便にて、ぎんなん)と云ふも、宋音なり。実の名、宋音なれば、樹の名の宋音なるべきは、思ひ半(なかば)に過ぐ。

畢竟(ひっきょう)するに、尺素往来の「いちやう」の訓、正しきなり。是れにて、30年来の疑ひ釈然たり。因りて、この樹名の語原は、鴨脚の宋音にて、仮名遣は「いちやう」なりと定むることを得たり。>

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2007・10・15

2007年10月14日

◆政界を動かす「怨念」

                    渡部亮次郎

マスコミがとうに気付いていながら書けないことを書く。

福田政権を作ったのは森喜朗氏とか青木幹雄氏なんかではなく野中広務氏である。それを新聞記者もTV記者も知らなかったようだが、私は知っていた。京都から野中氏が動き出した時、安倍晋三総理が辞意を固めた時だった。

野中氏。既に衆院議員を引退したが、手下古賀誠氏を擁して政界を自由に遊弋している。それなのに野中を全くマークしない日本のマスコミはバカだ。

野中氏は1925(大正14)年10月20日生まれだから2007年の誕生日には82歳になる。京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。父・北郎、母のぶの長男である。

野中家は4反前後とはいえ田んぼをもつ自作農であり、広務氏が生まれたとき、父・北郎氏は25歳の若さで村の副区長をつめていた。

広務氏は旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、大阪鉄道局の職員として採用され大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。大阪鉄道局長だった佐藤榮作(のち首相)と知り合った、という。

著書によればこの大阪鉄道局で差別に曝され自覚を固めた。園部町(現南丹市園部町)の町会議員に当選、さらに町長、京都府府議会議員と飛び、遂には参議院議員を府知事に担ぎ上げ、驚いた事に自分がその副知事となって京都府政を牛耳ったのである。

その頃、私は厚生大臣秘書官だった。京都市の医師がアサヒ・ビールの株を買占め始めて筆頭株主になりかけていた。そこで予て知り合いの住友銀行(当時)頭取が、大臣に「何とか止めさせてくれないか」と陳情してきた。

大臣園田直の命令により幹部を京都に派遣した。ところが厚生省の内情がそっくり医師側に漏れている。驚いて調べると肝腎の副知事が医師側についていた。厚生省の幹部は副知事こそは行政側と勝手に思い込んで内情をすべてバラしていたのである。

1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において、2議席を自民党の谷垣禎一候補、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリストになる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。

開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に伸びが鈍りはじめ、谷垣、有田候補にリードを許し始める。まず、谷垣候補が当確し、残り1議席となる。

一旦は、有田候補が勝利宣言、野中氏は敗北宣言の準備を始めた。しかし、地元である園部町で未開票の投票箱の存在が発覚して、有田候補を逆転するという劇的な初当選を果たす。

永年に及ぶ「被差別」。それに耐えてきた野中氏のド根性は半端じゃない。定めた敵は必ず「仕留める」

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