2007年10月13日

◆疑惑のノーベル平和賞

                       渡部亮次郎

<ゴア前米副大統領とIPCCにノーベル平和賞

【ロンドン=木村正人】ノルウェーのノーベル賞委員会は12日、2007年のノーベル平和賞を、1970年代から地球温暖化問題に取り組んでいるアル・ゴア前米副大統領(59)と国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の両者に授与すると発表した。

環境分野に絡む平和賞受賞は2004年のケニア出身の女性環境保護活動家、ワンガリ・マータイさん(67)に次いで2度目だが、同分野単独での受賞は初めて。

同委員会は181の候補からゴア氏を選んだ理由について「彼はおそらく、個人の力で世界中に最も気候変動への理解を広めた人物だろう」と述べ、IPCCについては「地球温暖化と人類の活動の因果関係を広く知らしめた」と評価した>。産経新聞Web 12日

ノーベル平和賞には日本の前首相佐藤栄作氏も選ばれたのだ。記憶している人は少ないかも知れない。

<1974年に、ショーン・マクブライド(アイルランド)と共にノーベル平和賞受賞。非核3原則の制定が評価されてのものであった。

この受賞には国連大使だった加瀬俊一氏のロビー活動が寄与したといわれている(佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表明している)。しかし、2000年代に入ってからノーベル財団はこの受賞について厳しい評価を表明し>。「ウィキペディア」

<佐藤総理は沖縄の核抜き返還を決めた1969年11月19日の日米首脳会談で「核抜き」に関する共同声明に合意した後、「カリフォルニア州サンクレメンテにある私邸の写真を見ないか」という大統領の案内で別室に消えた。通訳もつれず。したがって首脳会談に関する外交公式記録はここまで。

ところが若泉氏の著書に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した。

だが若泉氏は「あれしか策は無かったのだ」と言って死んだ>。渡部亮次郎「頂門の一針」2007年10月13日 962号

<日本政府が最初にこの原則を提示したのは、1967年12月11日の衆議院予算委員会において日本社会党委員長の成田知巳氏が、アメリカ合衆国から返還の決まった小笠原諸島へ核兵器を再び持ち込むことへの可能性について政府に対して質問した際、佐藤栄作内閣総理大臣が、日本は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という3原則を示したときである。

佐藤栄作は、翌1968年1月の施政方針演説でも、この3原則を示した。
その後、返還後の沖縄においても同原則が適用されるのかという問題に関して三木武夫外務大臣は当然適用されると主張したのに対し、返還交渉がこじれる事を危惧した佐藤栄作が三木発言を非難するなどの紆余曲折もあった。

佐藤栄作は、最終的に沖縄にも適用させるべきという決断を下している。これを受けた沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされた。

法律ではないため、この3原則自体に法的な拘束力はないが「核兵器を持たず、作らず」の日本独自の核保有に関する2項目については、1955年に締結された日米原子力協力協定や、それを受けた国内法の原子力基本法および、国際原子力機関(IAEA)、核拡散防止条約(NPT)等の批准で法的に禁止されている>。「ウィキペディア」

佐藤首相はこの非核3原則を示したことによって1974年12月にノーベル平和賞を受賞した。退任2年後1974年12月に受章し、翌年の6月3日に築地の料亭で死去する。

「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の刊行ガ1994年ではなく平和賞の以前だったら違った結果になったのではなかろうか。2007・10・12
ところで沖縄返還協定の付帯決議として1971年11月24日の国会決議として「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」がなされたわけだが、実際は、
<若泉氏の著書(1994年5月刊)に拠れば、両首脳は大統領執務室脇にある小部屋で、緊急時の核再持込に関して、若泉氏とキッシンジャー補佐官の交渉で出来上がっていた密約文書に署名した。

これで沖縄にはアメリカは殆どいつでも核兵器を持ち込める、というもとの状態に戻った。核抜き返還は形骸化した>
わけだからノーベル平和賞の権威に疑問が呈せられたのは当然だったろう。2007・10・12

2007年10月12日

◆笹川会長の瀬島龍三論

                   渡部亮次郎

ソ連との停戦交渉時、ソ連側との間で、捕虜抑留についての密約が結ばれたとの疑惑については一切否定していた瀬島龍三氏(元大本営参謀で元伊藤忠商事会長)が2007年9月4日午前0時55分、老衰のため都内府中市の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

伊藤忠商事と亜細亜学園合同葬は10月17日午後1時から東京・築地本願寺本堂で。喪主は長女緒方繁代さん。

ところで日本財団会長笹川陽平氏は自らのブログで「瀬島さんはシベリア抑留中、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発した」という旧ソビエト共産党工作員の証言を紹介すると共に勲1等にも「異議」を唱えている。
http://blog.canpan.info/sasakawa

私は瀬島氏とは政治記者或いは外相秘書官として何どと無く酒を酌み交わした仲。随分際どい事も聞いたが、抑留時代の事については遂に話をかわされて真相を聞き出す事はできなかった。逝去を報ずる新聞雑誌も「墓場に持って行かれた真相」と表現した。

笹川氏は『陸軍大学校を首席で卒業。昭和天皇より恩賜の軍刀を賜る。関東軍参謀。東京裁判でソ連側証人として出廷。シベリア抑留から帰還後、伊藤忠商事に入社。最終職歴は伊藤忠特別顧問。

勲1等瑞宝章・受章。中曽根元首相のブレーンとして、土光臨調(第2次臨時行政調査会)委員などを務め、政治の世界でも活躍した』との「ウィキペディア」の記事を紹介した後、強烈な批判を展開。これほど率直な瀬島論は読んだことも聞いた事もない。

<ウィキペディアで興味を引くのは、(瀬島氏が)『1979年、昭和天皇の孫・優子(東久邇宮盛厚の娘)の結婚の媒酌の役を務めており、ご臨席された昭和天皇より

「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家社会のために尽くすように。

それから、今度世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さい時に母と別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分面倒をみられず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる』と、天皇のお言葉が引用されている。誠に恐縮だが、一瞬、まさかとの思いがわいた。>
と紹介したあと次のように述べている。

<私は確認したわけではないが、瀬島氏は、東京裁判にソ連検察側証人として出廷し『天皇有罪論』を述べたともいわれている。その後、瀬島氏は、その天皇から勲1等瑞宝章を親授された。

日本の勲章制度は与えられるものではない。自分が受章に値すると思えば、自らの履歴書と功績調書を作成し、しかるべき役所を通じ提出する。

賞勲局の審査を経て、最終的には官邸の了解を得て決定されるものである。瀬島氏は、自ら功績調書を作成して、有罪をとなえた天皇より名誉を受けたのだろうか。

かつて、東京ヒルトンホテルの事務所で、旧ソ連での遺骨収集について話し合ったとき、問わず語りに「叙勲は女房のためだった。苦労をかけたからね」と話すのを聞いたことがある。私には、彼の行動に、日本帝国陸軍参謀としての矜恃は感じられないのだが・・・。>

笹川氏のブログはさらに瀬島氏が多分、生き延びるために共産党に一時的にしろ「転んだ」ことを明らかにしている。

これを明らかにしたのはモスクワ(ロシア)で日本人捕虜の責任者を務めたイワン・コワレンコ氏。旧ソ連共産党で、戦後長年にわたり対日責任者を務め、ジベリアに抑留された旧日本兵の親ソ化工作など、日ソ裏面史の生き証人といわれた。

<(モスクワで)自宅に電話を入れると、ホテルまで来てくれた。
日頃はもの暗い感じの男が、上機嫌で2時間近くも話してくれた。
「瀬島はラーゲリ(収容所)では静かで目立たない男であった。

ただある時、ラーゲリの集会で演説を始めた。何を話したかは記憶にないが、演説の終わりに、突然、ソビエト共産党万歳、日本共産党万歳と、両手を挙げて大声を発したのには正直いって驚いた。ひょっとしてこの男は対日工作に使えるかもと考えた」

「ラーゲリで瀬島が3年間近く行方不明になったことが、今も日本では謎とされているようだが、話は簡単。ウラジオストック郊外の1軒家に、女中もつけて、(東京裁判の)ソ連側検事証人として準備をさせていたのだ」と語った。

関係されていた亜細亜大学で、先年、大量の書類、資料などが焼却されたという。研究資料として、是非、残しておいてほしかったと、残念がる歴史家が多い。>

瀬島氏は陸軍大学を首席で卒業した秀才。話は情熱的ではなくいつも箇条書きに整理して話す人だった。だから誰にでも分かりやすかった。金沢連隊の連隊旗手を命ぜられた。

連隊旗手は童貞でなければならなかった。その代わり1年の任期が終わったところで花街で筆下しをされた。「どうにも不潔で、月明かりの犀川で下半身を洗った」堅物振りを聞かせてもらった。だから生き延びるためには共産党万歳と叫ぶ事なんか平気だったろう。

だが純情なところも見えた。香港攻略に先立ってスパイの真似事をさせられた。偽の妻を娶り民間人を装ってイギリス軍を偵察した。

シベリヤから帰還後、彼女の郷里・津軽に尋ねた。しかし「既に石の下だった」。後に「津軽海峡・雪景色」を歌手石川さゆりさんから直に指導を受けた。

「瀬島評価」が分かれるのは、大本営参謀とソ連抑留の瀬島氏を知る者と、伊藤忠商事以降の瀬島氏しか知らない者の違いだろう。関東軍参謀に出されたのでしょう。

切れ者だが事務屋の域を出ないということだという批評が私のメルマガには多く寄せられた。しかし「ソ連による北海道占領と引き換えの抑留。生涯口に出せずに残念だったはずだ」という理解の投書も1通だけあった。『自由』2007年11月号「政界馬耳東風」再掲。2007・09・09

2007年10月11日

◆江東ゼロメートル地帯

渡部亮次郎

東京・江東区は隅田川と荒川に挟まれた地域だから地盤は軟弱に決っている。毛利という町内で再開発された旧同潤会アパート(20階
2棟}の一隅に住んでいるが、古老の話では岩盤まで打った杭は地下60メートルに達したそうだ。

ここから100メートルぐらいのところにあった繊維工場が操業を止めて跡地をマンション業者に売った。一昨年秋のことである。敷地は70坪、そこに予定されたマンションは13階建て。

・・・の筈だった。板囲いの掲示では完工予定平成19年7月15日となっているが、工事そのものが一向に始まる気配が無い。実は昨年の夏ごろ、地盤調査みたいな事が行われたが、それっきりなのだ。

公園への散歩の行きかえり、囲いの隙間から見ると、土地に隣接して建っている4階建ての古いビルが左に大きく傾いているではないか。地盤調査で掘り返したら、隣のビルが傾いた。中止、中止!

多分、これが真相である。マンション業者、隣で傾いたビル、元の繊維工場、関係者、団子になってもめている事だろう。

江戸の歴史を読むと、江東地帯は、徳川家康が着任した当時は水浸しの湿地帯だった。

田中角栄氏の先祖みたいに土建の才能豊かだった家康は、この湿地帯を一目見てひらめいた。ここを立派な住宅地に「開発する」。

早速縦横に運河を掘った。掘ればそこへ土中の水が排水されて湿地は乾く。乾いた土地に土盛りをすれば立派な宅地に変貌するではないか。竪川(たてかわ)、横川の地名が残っている。竪川は今は立川と書いて「たてかわ」と読ませている。落語の一派がここから出たのではないか。

私の住まいする地名「毛利」を三省堂の「コンサイス地名辞典」1975年1月30日初版で調べると「区内最古の埋立地。竪川の上に都心と千葉を結ぶ首都高速道路7号線がある。紀州の毛利藤左衛門{伊勢屋藤左衛門}が埋め立てたと伝えられる、とある。

但し「総武本線錦糸町駅南500Kmは酷い誤植。ただの500m。又ここには江戸時代には幕府の材木蔵があったとあるが、今は都立猿江恩賜公園になって、私の散歩場所になっている。

そういうわけで江東区も墨田区も江戸川区も地盤が悪い。総称して「江東ゼロメートル地帯」といわれていたが、最近はあまり騒がれなくなった。

江東区環境清掃部 環境対策課 が最終更新日:2005年09月16日に出した資料によると、ゼロメートル地帯は湿地帯だったからゼロになったのではなく地下水汲み上げ過ぎによるものだった。

地下水を大量に汲み上げることによって、地下水位(水圧)が下がり、それが地層の収縮をもたらし、地表面が徐々に沈んでいく現象。一度沈んだ地表が再び隆起することはなく、しかも広範囲にわたるなどの特徴がる。

地盤沈下により建物や地下埋設物に被害を及す。江東区南砂では、大正7年以来、実に4・5メートルも沈下している。染色工場は厖大な水を使うが、汲揚げを止められ、操業を止めた例もある。

地盤が著しく沈下した地域では、台風による高潮や地震が起きた時に堤防決壊による洪水等の危険がある。ひとたび被災した場合には、人の生命や財産の被害は極めて大きなものになる。

もともと江東地区では大正時代の初期、大阪市西部では昭和に入ってから地盤沈下がみられるようになった。その後、急速に沈下が進み、建物の崩壊あるいは高潮による被害が生じ、地盤沈下が大きな社会問題になった。

昭和20年3月10日の米軍大空襲でこれらの地域にあった工場が壊滅してからは、地下水の採取量が減少したので地盤沈下は一時的に停止したが、昭和25年の朝鮮戦争を契機に産業活動も復興し、地下水の採取量も増え、そのため再び地盤沈下が激しくなった。

また、沈下地域も東京や大阪の下町地域だけでなく、内陸部や隣接する埼玉県や千葉県にも拡大し、新潟平野、濃尾平野、筑紫平野といった全国各地でみられるようになった。

東京地域では、昭和36年以降の地下水採取の規制によって昭和40年と41年には一時沈下が鈍化したものの、昭和42年頃から再び沈下が急速に進んだ。経済の高度成長期だったからだ。

しかし、昭和47年以降、地下水採取規制の強化や水溶性天然ガスの採取を停止するなどの対策によって、地盤沈下はようやく鎮静化しつつある。バブル崩壊後は工場が閉鎖されてマンションに生まれ変わっているので地盤沈下に歯止めがかかっているはずだ。

それでもゼロメートル地帯は荒川下流地域や城北地域に出現し、その面積は、満潮時で区部の21・7%にあたる124・3平方キロメートルにも及んでいる。

大正7年以来、実に4・5メートルも沈下した江東区南砂では昭和40年代の末頃からは、沈下が鎮静化しマンションが盛んに建っている。

江東区内の地下水採取は、「工業用水法」および「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」、「東京都環境確保条例」により行われており、井戸の深さや口径等について規制されている。この基準に適合しない井戸は廃止しなくてはならず、また新設することもできない。2007・09・02

2007年10月09日

◆拘りは投票日の大安

渡部亮次郎

衆議院の解散は2年以内に行われるが、急に産経新聞が「年内解散」を取り上げた。

<ならば、善は急げとばかりに、12月16日が縁起のいい「大安」にあたることから、「12月4日告示、16日投開票」のシナリオが浮かんできた>と今堀守通記者が書いている(2007・10・08付)。

しかし昔から保守の政治家がこだわったのは「開票日・大安」であって解散の大安ではなかった。世の移り変わりをつくづく感じる昨今である。

あれは昭和44(1969)年。沖縄返還交渉を審議するための第62臨時国会のさなか、佐藤栄作総理が衆議院をいつ解散し、投票日をいつとするかが注目される中、NHKは投票日は12月の何日とかと放送したが、これは私の反対を押さえ込んでの結論だった。

この時の自民党役員は幹事長田中角栄、園田直国会対策委員長と言う布陣。ポスト佐藤をめざして党内多数派工作に腐心している「角さん」に対して、園田は福田赳夫推進の立場。マスコミは角福代理戦争と揶揄した。

角栄は佐藤派大幹部。しかし園田の観るところ、佐藤に対しては相当、距離のある関係、とのことだった。

<たとえば佐藤の前で角栄は椅子に深く腰を下ろせない。浅く半分しか座れない、全くの主従関係だ、というのだ。そこで解散日はともかく、投票日はいつになるか。角栄の主張など佐藤が聞くわけない。

佐藤が決める大安のいつかが投票日となり、そこから逆算して解散日が決まる。佐藤さんはなんたって大安が好きだ。大学立法の採決強行を焦る総理に角さんが何度言っても納得しない。

そこで私が行って言ったんだ。「総理!今日は仏滅、明日が大安」
そしたら「そうか」で納得したことがあったもの>(園田談)。

角栄幹事長を取材した方は政局運営上、幹事長の都合を優先して日にちを言う。ところが園田の言うのは、もっぱら佐藤総理の「大安」への拘りだけ。「あの人は角さんと違って大安に拘る。だから投票日は大安の12月27日。そこから逆算して解散は11月29日に間違いないッ」

しかし党運営の最高責任者たる幹事長、佐藤派大幹部の角栄に対して園田は国会対策委員長に過ぎない。その発言は軽んじられて没となった。

実際は園田の読みどおりになった。政治部長にこっそり呼ばれて
訂正記事を書かされた。それが報道局長賞となった。貰った晩、誰も付き合ってくれなかった。自棄酒を呷り、目黒駅から雪道を歩いて帰宅途中、涙が出てきた事を思い出す。

さて福田総理は何に拘るだろうか。或いは拘らないだろうか。大安ではなさそうに思う。2007・10・08

2007年10月08日

◆ミャンマーの「真相」

                     渡部亮次郎

1995年から3年間、日本のミャンマー大使を務めた、知り合いの山口洋一氏が2007年10月11日号の「週刊新潮」に特別手記を寄せている。「スーチー女史が希望の星というミャンマー報道は間違っている」というもの。

山口氏は本籍佐賀県70歳。私が外務大臣秘書官の頃は本省の海外広報課長から昭和天皇の御用係に出向していた。その後、インドネシア大使館の参事官などを経てミャンマー大使を務めた。

週刊新潮の手記は4ページに及んでいるが、「勲章ジャラジャラの軍服を着た為政者と、民主化を目指す軟禁中の女性・・・。誰が見ても悪役は前者である。デモの取材中、日本人ジャーナリストが射殺された事件は、ますますミャンマー政府の悪逆非道を印象付けた。

が、元ミャンマー大使の山口洋一氏は、新聞、テレビの偏向した報道を指摘する。もはや、スーチー女史は希望の星ではないのだと」

以下<  >で括って内容を紹介する。

<欧米の殆どすべてのメディアと日本の新聞、テレビはミャンマーで起きた僧侶中心のデモを、軍事政権の圧政に対し民主化を求める民衆が蜂起したという構図で報じてきた。あまりに単純すぎる>

<今回のデモの規模10万とは誇大な数字だ。メディアは反政府運動の規模を5~6倍、酷い時には10倍にする。在任中アウンサンスーチー女史の自宅前の集会が連日3―4000人と報道されていたが、部下に数えさせたら5―600人しかいなかった>

<今回のデモでもスーチー女史の率いる政党NLDが市民にカネを払って参加させている事実、デモ隊が投石し、武器を奪おうとしたので治安部隊が止む無く発砲した事実を殆ど伝えていない>

<ある地方では治安部隊を僧侶が僧院に押し込め、その車に火を放つといったおよそ「平和的な抗議活動」とは思えない振る舞いを見せたそうだが、日本では報道されていない>

<かつて日本人記者は「本社が期待しているのは、ミャンマーの首都が、反政府運動の闘士たちの血の海になっているような記事です」言っていた>

<日本のマスコミは、「軍政は政治犯を釈放すべきだ」と主張するがミャンマーに純粋な意味での政治犯は1人もいない。「道路や公園など公共の場所で5人以上の政治目的の集まりは禁止」「屋内における50名を超える政治集会は許可制」といった古くからの法律に違反したものばかり。法治国家として当然のことを怪しからんというのは(どうか)>

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2007年10月07日

◆政治は映像で語れない

渡部亮次郎

TVマンは今知らず知らずのうちに日本の国民を飛んでもない方向に誤って誘導してしまっていて、しかもその誤りに気付いていない。
テレビを見れば見るほど政治不信に陥ると言う人の増えていることに気付いてない。

政治は欲望、思惑、懸け引き、寝技などから成立しているが、これらはいずれも舞台裏で展開されるものだから映像にはならない。それなのにテレビは映像だけで伝えようとするから、初めから無理があるのだ。しかも事実のオーバーな部分だけを繋ごうとする。

なるほど記者会見という絵はある。しかし嘗てNHK最高の政治記者島 桂次(のちにNHK会長・故人)が喝破したように「記者会見こそは天下の嘘吐き大会」である。政治家が不特定多数を前に本心を語るわけがない。

本心を語っているように見せてただ大衆を煽っているのは演説であって本心ではない。それなのに記者会見や演説の映像を繋いで、
これが真実と言われて信じる方がどうかしている。

安倍退陣、福田・麻生の戦いになったとき、このことを一番感じた。私はいうなれば日本におけるテレビ政治記者1期生であり、映像だけを繋いで事象を伝えようとすれば、結論は真実とかけ離れたところに落ち着く事をよく知っていたからである。

テレビ政治記者1期生たちはテレビで政局を伝えるべく様々な試みをしたが、さっぱり上手くゆかなかった。特に初期の頃はカメラの光感度が悪かったものだから強烈なライトが不可欠だった。

火傷するぐらいの強烈なライトを当てられて政治家は冷静に対応できるものではない。単独会見に成功したとしてもフィルムはなんだか興奮状態にある政治家の姿を伝えるだけだった。

ライトが弱くなっても政治家がレンズに向かっては嘘を言う事は変わらない。そこで考え出された手法が反対の立場にある政治家による追及である。相手は逃げにくいから嘘は言いにくいだろうと考えたが、簡単には行かなかった。時間の制約である。

そうやって40年近く。テロップでしか語れなかった政治が漸く映像化されたのかと思って覗いてみたら、何の事は無い、冒頭の結論である。

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2007年10月06日

◆インスリンに思う

                        渡部亮次郎

日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オ
ラが大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間
を縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をも
たらした。欧米ではすぐに患者自身の自己注射が始まった。だが日本で
は「危険」を理由に医者の反対で厚生省が許可しなかった。患者の中に
は日に3度も医者通いを余儀なくされた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略
化や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たち
は日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢
然として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も
世界一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不
全に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖
尿病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日
本で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と
詠んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4
日(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10
年は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべき
だろう。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓
がどのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長
く続いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889年、
ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあと、
高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切っても
切れない関係があることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。

膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全くでないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

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2007年10月05日

◆軍艦マーチの針路

                           渡部亮次郎

1.守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

2.石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかづち)の
声かとばかりどよむなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ

1番と2番の間奏時に海行かばの歌詞が歌われる場合もある。

軍艦行進曲(ぐんかんこうしんきょく)は瀬戸口藤吉作曲の行進曲。一
般に『軍艦マーチ』として広く知られる。

明治30年(1897年)鳥山啓作詞の「此の城(のち、軍艦)」に曲を付け
て軍歌とし、後日これを編曲して行進曲として発表された。日本を代表
する行進曲である。旧日本海軍及び現在の海上自衛隊の公式行進曲で、
進水式などで演奏される。

戦後はミッション系幼稚園の運動会ですら用いられるほど一般にも広く
浸透し、運動会や祭、商店、殊にパチンコ屋の景気付けの音楽として多
用されたため、そのメロディーは非常に多くの日本人に親しまれている。

現在では海上自衛隊の儀礼曲に指定され、通達によって以下の場合に演
奏することが定められている。

1.観閲式における観閲行進の場合
2.自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
3.自衛艦命名式における進水の場合
4.その他必要と認められる場合

当初は変ロ長調であったが、音が高すぎて歌うのが難しかったためト長
調に編曲され、さらに大正時代末期にはヘ長調へと改訂され、現在の曲
となった。

海軍では改訂されるごとに演奏を変えていたというが、陸軍では海軍か
ら供与された古い楽譜を長い間使用していたため、同時期であっても海
軍と陸軍とではやや違った演奏で録音されている。

また、昭和初期の電気録音開始以後の民間軍楽団などによる録音などで
も、依然古い楽譜で演奏しているものも多い。

著作権はポリドール、海軍省と変遷したが、海軍省の廃止によりすでに
消滅している。

最近はあまり使われないが、戦後は長らくパチンコ店の定番BGMであった。
これは、昭和26年(1951年)春に有楽町駅前の「パチンコ・メトロ」で、
海軍の航空機搭乗員だった店主が気晴らしのために掛けたのが始まりと
いう。

2007年09月30日

◆再植民地化の阻止

                       渡部亮次郎

アウンサンスーチー(1945年6月19日―)はミャンマー(ビルマ)の旧首都ヤンゴン(ラングーン)に生まれたミャンマーの非暴力民主化運動指導者である。1991年ノーベル平和賞受賞。

イギリスからの独立を主導したアウンサン将軍の娘。1948年のビルマ独立を目前とした1947年7月に暗殺された同将軍は、「ビルマ建国の父」として今も敬愛を集めているとされる。

ところがウィキペディアによる「経歴」に「1988年4月、ビルマをイギリスの植民地にするために戻る」とある。するとアウンサンスーチーはビルマと言う独立国をイギリスの植民地に戻すと言うとんでもない事をするために国内の混乱を狙う運動の指導者なのだ。

それなのに2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声を「ニュースステーション」(テレビ朝日)で放送した。このとき久米宏はミャンマーの軍事政権を嫌い国名をビルマと伝えていたともある、とウィキペディアは書いている。

久米宏は軍事政権が嫌いだからと言うが、アウンサンスーチーの自宅軟禁などに同情するあまり、ビルマであえて軍事政権が成立した原因を作ったのが彼女である事を隠してしまった。

報道によればビルマをミャンマーと呼びかえた軍事政権の独裁者たる国家発展評議会(SPDC)のタン・シュエ議長の独裁振りは物凄いらしい。2007年9月29日の産経新聞によれば、地元紙の記者は「ミャンマーでは法律は重要ではない。何でも議長の考え次第だ」という。

最近2~3年で、議長の逆鱗に触れ、汚職などの罪を着せられて収監された軍人や政府職員は1,000人を下らない。それでもタンシュエ議長の支配体制は磐石だとヤンゴンの外交筋は見ている。

軍政内部で比較的穏健派と目されていた当時のキン・ニュン首相は2004年10月、議長の怒りを買い汚職罪などで懲役44年の刑を受けた。キン・ニュンにつながる穏健派は徹底的に潰され、軍政指導部は強硬派で固められている。

民衆の暴動が起き、取材中の日本人カメラマンが軍に射殺されたと言っても27日夜、町村官房長官は「官房長官が出てゆくほどのことではない」と官邸に出邸しなかった。

肝腎の福田総理大臣も翌28日「いきなり(欧米主張に同調して)制裁すればいいということではない」と冷静すぎる発言をした。日本政府はミャンマーの軍事政権に一定の評価を下し、対話を継続、主要な経済援助国であり続けているのだ。

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2007年09月29日

◆35年目の日中友好

                       渡部亮次郎

9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人として総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたらに高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言えない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばかり。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとってきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムードに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。
しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上げられません」。それ以外の科白はなかった。

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2007年09月27日

◆納豆は70過ぎから


渡部亮次郎

納豆菌は通常、極めて耐熱性の高い芽胞となって藁に付着しているから、
昔は藁苞(わらづと)に入っているだけだった。ところが科学が進んで、
発泡スチロール容器の普及は納豆の消費拡大に大きく貢献した。

ただし、藁に比べると通気性が悪く、また納豆の臭い成分を吸着しにく
いために、納豆独特の臭いがこもって強くなる傾向がある。

こうした風味の違いや、「自然食品」的なイメージから、一部の高級品
や自然志向の商品、土産物では現在でも藁や経木を使う場合がある。そ
こで現在の納豆には、カラシと納豆用のタレが付属することが多い。藁
苞だと漏れるから無かった。

私が東京で学生生活を始めた昭和29(1954)年春にはまだ早朝の納豆売り
がいた。流行歌手曽根史郎の歌でヒットした井田誠一作詞、利根一郎作
曲の「若いお巡りさん」の3番は「もしもし景気はどうだい納豆屋さん」
という出だし。

「卒業するまでへばらずやんな」と励ましているところを見るとアルバ
イト学生が早朝、納豆を売り歩いていたことが分る。歌は昭和31(1956)
年に大流行した。その苦学生は4年後には卒業していたが、納豆を売らな
くてもいい学生が安保闘争をやり、国会に突入、犠牲者を出した。

「納豆売り」の苦学生は「なっと〜〜、なっと〜〜ィ(語尾をあげる)」
と路地を徒歩で回った。

現在では主にスーパーマーケットの食料品売り場などで販売されている。
また、茨城県や埼玉県川越市などでは土産物として販売している場合も
ある。

納豆の本場は水戸という人が多いが、秋田県仙北郡美郷町には「納豆発
祥の地」の碑がある。ヤマダフーズの本社工場があり、東北随一の出荷
量を誇る。

茨城県水戸市では明治以降、産地としてもっとも知られている。毎年3月
10日に「納豆早食い大会」が開催されている。

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2007年09月25日

◆マロニエの餅

                           渡部亮次郎

9月半ばを過ぎて、東京湾岸の都立猿江恩賜公園の栃の実はすべて落ちてしまった。しかし1つも存在しない。誰かが、何人かが持ち去ったのである。食べる方法を知っているのかな。

親友一家が一昨年の秋、パリに遊んだ。通りのあちこちに大きな栗に似た実が落ちていた。聞くとこれが歌に歌われるマロニエの実だが食べる事はできないといわれて棄ててきた。

マロニエこそは栃(とち)なのである。栃木県の県花。栃をフランス語ではマロニエというのである。英語ではhorse chestnut
馬栗という。歌手松島詩子さん(故人)がよく歌っていた。「わたしにとっては"恩"のある歌」と生前語っておられた。

松島詩子(1905-1996)
<山口の柳井出身。地元の音楽教師から歌手に転身。作曲家の佐々木すぐるの勧めで昭和7年、レコードデビュー。柳井はるみの芸名も持つが、松島詩子は山田耕筰が命名。

多くの芸名を持っていたが、東北の巡業先で、以前と別の名前で公演を行ったところ「偽者」と騒ぎになり、それ以降は松島詩子で通す。

10年に「夕べ仄かに」がヒット。12年には自らのピアノの弾き語りによる「マロニエの木陰」が大ヒット。13年に歌劇団パヴォーを創設し、「ボッカチオ」の公演なども行った。小学校歌唱指導の旅で「月の砂漠」を全国に広める。

21年には強盗に遭遇。27年1月には第2回紅白歌合戦に向かう途中、タクシーが事故に遭いドタキャン。30年には「喫茶店の片隅で」がヒット。53年、勲四等瑞宝章受章。59年に傘寿記念の新曲「今は忘れて」を出すが、晩年は声が出なくなるとテレビ出演を断り、公の場で歌う事はなくなった。

平成8年11/19午後10時21分、心不全で死去。本名は内海シマ。住まいは小平市小平学園西町だった。故郷の柳井には松島詩子記念館があり、松島詩子を記念した音楽コンクールも行われている。夫も歌手の内海一郎。>(「誰か昭和を想わざる」)

広辞苑でマロニエを引くと、地中海沿岸の原産。イタリア、フランスなどで街路樹として栽培。セイヨウトチノキとあるから、西洋のは日本産と品種が若干違って、どうやっても食べられないのかも知れない。

いずれ日本には昔から「栃餅」というのがあった。広辞苑にも「光沢ある褐色の種子からアク抜きして澱粉や栃餅・栃粥などを作る」と出ている。

そこはインターネットの便利さ。アク抜きは大変面倒なものである。石川県白山市白山名物「栃餅」の志んさ が出てきた。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C6%CA%CC%DF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=27&y=6


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2007年09月24日

◆福田康夫全人像

渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」主宰)

次期v総理大臣福田康夫は71歳(古稀)を迎えた(2007年7月16日)。誕生
年は昭和11(1936)年。当時は大蔵省のキャリア官僚だった、群馬県群馬
郡金古町足門(現在の高崎市足門町)出身福田赳夫の長男として生まれた。
姉は元代議士越智通雄夫人。

福田家は江戸時代には庄屋(村長)をつとめた地元の名門であった。赳
夫は小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、
第一高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省に一番の成績で入
省した。その第2子として生まれたのが康夫である。
 
父赳夫が大蔵省で官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)
を経ている頃である。康夫はその公式サイトによれば、昭和24年3月 
学芸大学附属小学校卒となっているが、この前年の昭和23(1948)年9月
13日、主計局長の父は、昭電疑獄との関連を疑われて逮捕されている。
小学校5年生だったろう。

康夫の公式サイトでは「戦争中の疎開のため群馬県群馬町金古小学校、
大宮市南小学校、高等師範附属小学校、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ 」
となっているが、既に学芸大学附属小学校に移っていたはずだ。父親の
逮捕がトラウマになっているかどうかは分からない。

昭和27年3月 麻布学園中学校卒。昭和30年3月、麻布学園高等学校卒と、
中学、高校を通じての有名校狙いのコースだったが、入学したのは早稲
田。弟2人も早稲田卒。昭和34年3月 早稲田大学政治経済学部経済学
科を卒業石油会社(丸善石油)入社。

昭和37年3月から米国駐在(2年間)という経験もあり、英会話はかな
り堪能だ。あるいはこの経験が外交好きの素地になっているかもしれな
い。帰国後は課長になっていた。

昭和47(1972)年の「角福戦争」で父が総理・総裁の椅子を賭けて田中角栄
と死闘を展開しても、表には絶対、出てこなかった。「うちの康夫はな
なんだって、あんなに官僚的(無愛想)なのかなぁ」と父がこのとき嘆
いた。

それから4年。田中政権は金権と女性のスキャンダルですぐ倒れ、続く
三木政権は、田中・大平正芳・福田聯合による「三木降し」によって倒れ、
「大福密約」により、昭和51年11月、父が待ちに待った第67代の総理大
臣に就任した。それを機会に石油会社を退社し、衆議院議員福田赳夫秘
書となった。

この点に関してフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は

<1976年 - 1978年 父親の首相就任に伴い、議員秘書、首相秘書官をつ
とめる。しかし父である福田赳夫は「康夫は政治に向かない。」として、
福田康夫に秘書を勤めさせる前は次男を秘書にしており、いずれは次男
に自分の跡を継がせようと考えていた。

ところが次男が若くして急死した為に苦肉の策として、長男の康夫に会
社を辞めてもらい、自分の後継者として一から育てて行く事を決めた>
と書いているが、違う。

次男征夫(いくお)はこのころはピンピンしていた。伊香保温泉旅館に
養子に行って「横手」姓になってなお東京で父の秘書をしていたが、福
田政権1年目は2人で秘書を続け、首席秘書官は運転手だった市村とい
う人が勤めた。2年目からは総理大臣首席秘書官のポストをあっさり兄
に譲ったのだった。

征夫が癌で逝去するのは福田政権も終わってかなりあとからである。ウィ
キペディアの記述は若い人が誤解に基づいて書いたもののようである。

康夫は昭和52年12月、内閣総理大臣秘書官。しかし僅か1年で失職。何し
ろ、福田総理の任期は大平幹事長との密約で「任期2年」のはずだった。
それを押して敢えて大平と争った父親だったが、あえなく敗戦、下野と
なったのだ。

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