2019年12月25日

◆「なめたらいかんぜよ」

   渡部 亮次郎


2010年1月10日の産経新聞「小沢氏に訪米要請」にはのけぞった。小沢氏
が如何に「政府」要人では無いとは言え、米政府が、小澤「幹事長」に是
非とも会って「理解と支援を強く望んでいる」というのなら、お出でにな
るのが筋だろう。

<【ワシントン=時事】オバマ米政権の対日政策を担うキャンベル国務次
官補(東アジア・太平洋担当)は8日、時事通信との会見で、日米安全保
障条約改定50周年を記念して、19日に日米両政府が声明を出す計画である
ことを明らかにした。

また、米政府が交渉するのは日本政府代表だが、民主党の小澤一郎幹事長
は「極めて重要な役割を認識している」と述べ、小澤幹事長の訪米を要請
した。

同次官補は、安保条約改定が行なわれた1960(昭和35)年1月19日は「最も
根幹的勝つ重要な日米安保同盟が樹立された非常に重要な日だ」と指摘。

19日に、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス
2)や両国首脳の声明発表を希望していると述べた。

「我々の交渉相手は日本政府の公式な代表だが、小沢氏の極めて重要な役
割についても認識している。今後、同氏の理解と支援を得られることを強
く望んでいる。是非、同氏に訪米して欲しい。

同氏との充実した対話を模索することに非常に関心を持っている。」>

これに対する小沢氏の反応は明らかでないが、小沢氏は国務次官補(局長
クラス)に舐められたのだから、訪米するわけには行かないだろう。

紳士同士、武士同士の間なら、用事のあるほうが相手を訪問するのが筋だ
ろう。それなのに、日本の命運を左右するもんだいだから
小澤のほうから、訪米したらどうかというのでは、まるで属国の目下のも
のを「呼びつける」のと同じである。

時事通信の記者もどうかしている。何故、この点を質さなかったのか。国
務次官補程度とはいえ、米政府高官に単独インタビューできて舞い上がっ
たのか。

いずれにせよ、この際、小澤氏は訪米すべきではない。北京観光団引率に
次ぐ失態になる。2010・1・10


2019年12月19日

◆35年目の日中友好

渡部 亮次郎


9月29日は1972年のこの日、田中角栄総理と周恩来総理が北京の人民大会
堂で日中共同声明に調印した記念の日。35年目の日中友好を謳歌する人、
貶す人、様々であろう。

斯く言う私はNHKからの同行記者。80人の中から選ばれた10人の中の1人と
して総理機に同乗を許された「近距離記者」だった。

宿舎は市の中心部の民族飯店(ホテル)460号室。ハンガーの位置がやたら
に高く、シャワーが随分ぬるかった。聞けばソ連人たちの設計だから背丈
が違うわけだ。

つまり1949年の建国直後の中国は、ソ連の勝手な振る舞いに文句一つ言え
ない弱い立場だった。やがて毛沢東はフルシチョフと喧嘩。自力更生を唱
えたが、農業も工業も先進国に遥かに立ち遅れてしまった。

これではならじと、周恩来らの助言もあって、隣国日本の力を借りる路線
をとり始めたが、日本はアメリカの鼻息をうかがうだけで中国は焦るばか
り。佐藤首相は周恩来から毎日のように「反動内閣」と貶され続けた。

ところがアメリカ国家安全保障担当大統領補佐官のキッシンジャー氏が
1971(昭和46)年7月9日、秘密裏に中国を訪問して周恩来総理と会談「72
年5月までにニクソン大統領が中国を訪問する」。

既に帰国してから4日経っていた15日に電撃的に発表。反中国姿勢をとっ
てきた佐藤政権は当に2階に上げて梯子を外されてバカをみた。

加えてニクソンは田中内閣になった直後の8月15日には金とドルの交換一
時的停止・10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置(ドル・ショック}を
与えて日本を揺さぶった。

政局は「バスに乗り遅れるな」とばかり日中国交正常化を急げというムー
ドに成り、ムードに乗る田中角栄前通商産業大臣が台湾派の前外務大臣福
田赳夫氏を圧倒的に破った。

三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の各氏が田中支持。対する福田氏は自派
のほかは残りの弱小派閥の支持しか得られなかった。なんと言っても佐藤
氏からの「禅譲」待ちをした福田氏の戦略負けだった。

田中氏は外相に据えた大平氏と官房長官二階堂進氏を伴って9月25日には
全日空特別機で羽田を出発、一路、北京空港を目指したのだった。別の特
別機の記者団を合わせてカメラマン含め総計80人。

正午過ぎに到着。眩しいほどの晴天下、初めて中国国歌を聞いた。

しかし釣魚台の迎賓館に案内された田中総理らに接触する事は中国側の意
向で厳禁。時折、会見場にやってくる二階堂長官に聞いても「何も申し上
げられません」。それ以外の科白はなかった。

到着初日、人民大会堂での周恩来総理主催田中総理歓迎宴における田中総
理の日中戦争に関する謝罪の文言が軽すぎたとして問題になったとか、青
菜に塩の如き大平外相や外務省幹部を笑って、田中総理が「だから大学出
は駄目なんだ」と言った類の話はすべて帰国後に明らかになった話。周恩
来氏が田中さんに「天皇陛下によろしく」と言った話も。

かくて交渉は決着。毛沢東との会談はいつかと固唾を呑んで待ったがナ
シ。朝になって未明に会談(表敬訪問)があったこと、随員の随行は認め
られなかった事が明らかにされる始末。

発表された共同声明は内政不干渉が謳われたのに、あれから35年の日中関
係は中国による日本への徹底的な内政干渉の歴史であった、と言って過言
ではない。

また我々は食糧の面でも中国に絶対的に支配されている。産経新聞の北京
特派員福島香織さんが9月27の「北京春秋」で「安全な日本食は中製?」
と嘆くほど日本食は中国に支配されている。

<北京の高級百貨店の新光天地に日本食品・農産品店舗が先ごろオープン
した。農林水産省の委託を受けて双日が手がけたもので来年の3月までの
期間限定。日中国交正常化35周年キャンペーンの一環。

食の安全に揺れる中国・北京で富裕層を対象に「安全で美味しい日本食」
を浸透させようと言うのが狙いだ。

冷凍ケースに並ぶ「サケ切り身冷凍パック」を手にとって裏を見ると原材
料は煙台。有名日本ブランドのサラダオイルは上海の製造。日本ブランド
の味噌は米国産大豆を中国の工場で加工とある。日本食と言いながらほと
んどが中国製?

店舗関係者に「原材料・製造100%日本と言う食品が殆どない」と文句を言
うと「原材料、調味料、製造のいずれかに日本がかかわっていれば日本食
品です」ときた。

店舗に並ぶ約180食品のうち、100%日本産はミネラルウオーターと米とレ
トルト食品ぐらいしか見当たらなかった。それに日本の輸入レトルト食品
の具だって中国産は含まれているのではと気になりだしたが「日本の食品
自給率は40%ですから」と関係者は涼しい顔だった。

何だ、農水省推奨の安全で美味しい日本食は中国が作っているのか。それ
が現実なのだろうが、どうもすっきりしない。・・・>

要するに日本の援助で近代化を急ぐ中国は既に日本の胃袋を制圧したと言
う事である。その代わり日本から進出している工場が全部引き揚げれば中
国は窒息するが、それは残念ながら杞憂に過ぎない。2007・09・28

2019年12月18日

◆「食育」の魁石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選
択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、
知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられ
ている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化
についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思
想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸
軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学
的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育と
いう言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理
念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山
東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺る
がす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除く
ことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り
上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではない
かと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』とい
う著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃
の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民
が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的とし
ている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医
師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵
助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症
の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がま
だ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食
同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民
に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための
寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究
所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ
語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。
1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医
薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担
架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食
物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国
から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政
治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の
病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血
液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は
穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るよ
うな自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯
8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であると
いう天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をと
る。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にす
ることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム
(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバラ
ンスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウム
の多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物
や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によっ
て陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は
末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少な
い食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランス
に注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍
耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会
人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養
成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短く
なってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つよう
に食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2019年12月17日

◆「食育」の魁石塚左玄

渡部 亮次郎


食育(しょくいく)とは、食に関する知識を習得し、自らの食を自分で選
択する判断力を身に付けるための取組みのことである。

2005年に成立した食育基本法では、「生きるための基本的な知識であり、
知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの」と位置づけられ
ている。

単なる料理教育のみならず、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化
についての総合的な教育も含んでいる。石塚左玄(いしづかさげん)の思
想が生かされている。

一般的ではなかったが、「食育」という言葉は明治時代から使われた。陸
軍の薬剤監(最高責任者)だった石塚左玄は1896(明治29) 年出版の『化学
的食養長寿論』の中で「体育智育才育は即ち食育なり」とはじめて食育と
いう言葉を使った。

現代の食育はこれらの著作をルーツにしながらも、法的根拠を持つ基本理
念が新たに定められている。

2002(平成14)年11月21日、自民党の政務調査会に食育調査会(会長:山
東昭子)が設置された。その目的はBSE問題や産地偽装など食の安全を揺る
がす事件によって生じた消費者の不安や不信感を、食育を通じて取り除く
ことだった。

翌2003(平成15)年に総理大臣(当時)の小泉純一郎が施政方針演説に取り
上げて食育という言葉が一般化した。

小泉総理は1988(昭和63)年に厚生省としては食が一番大事なのではない
かと述べていた。1993年には厚生省監修で『食育時代の食を考える』とい
う著書が出版されている。

著者服部幸應は自分の書いた『食育のすすめ』(1998年)を厚生大臣の頃
の小泉純一郎が読んだからと説明している。

2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。食育によって国民
が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的とし
ている。

石塚左玄(1851年3月6日―明治42年=1909年10月17日)は日本の軍医・医
師・薬剤師。玄米・食養の元祖。

福井県出身。福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。大石内蔵
助の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病(アトピー)と重症
の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。

12歳で医者としての評価があったという。

陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がま
だ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食
同源としての食養を提唱した事は驚異に値する。

「体育智育才育は即ち食育なり」と食育を提唱した。「食育食養」を国民
に普及することに努めた。

栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための
寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇が「そういう研究
所があってもいいのでは」と述べ、その言葉で寄付が集まったという。

左玄。1868(明治元)、18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ
語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んだ。

1872(明治5)年東京大学南校科学局で御雇になる。
1873(明治6)年、その半年後、医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医
薬局の助手を努める。

1874(明治7)年陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担
架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
1881(明治14)年陸軍の薬剤監に任ぜられる。

退官後の1894(明治27)年薬学会誌に、「人類は穀食動物なり」、「飲食
物化学塩類論」、「飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり」を発表する。

1898(明治31)年頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国
から患者が殺到するようになっていた。

1907(明治40)年「食養会」を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政
治家や財閥なども多くいた。

1909年(明治42年)10月17日、幼少期からの闘病の末、没する。享年58。

食本主義 「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」と、心身の
病気の原因は食にあるとした。人の心を清浄にするには血液を清浄に、血
液を清浄にするには食物を清浄にすることである。

人類穀食動物論 食養理論の大著である『化学的食養長寿論』は「人類は
穀食(粒食)動物なり」とはじまる。臼歯を噛み合わせると、粒が入るよ
うな自然の形状でへこんでいるため、粒食動物とも言った。

または穀食主義。人間の歯は、穀物を噛む臼歯16本、菜類を噛みきる門歯
8本、肉を噛む犬歯4本なので、人類は穀食動物である。穀食動物であると
いう天性をつくす。

身土不二 「郷に入れば郷に従え」、その土地の環境にあった食事をと
る。居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、副産物を副食にす
ることで心身もまた環境に調和する。

陰陽調和 当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム
(塩分)とカリウムに注目した。陽性のナトリウム、陰性のカリウムのバラ
ンスが崩れすぎれば病気になるとした。

ナトリウムの多いものは塩のほかには肉・卵・魚と動物性食品、カリウム
の多いものは野菜・果物と植物性食品となる。しかし、塩漬けした漬け物
や海藻は、塩気が多いためにナトリウムが多いものに近い。

精白した米というカリウムの少ない主食と、ナトリウムの多い副食によっ
て陰陽のバランスが崩れ、病気になる。

一物全体 一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食として奨めた。

智と才は食養に関係する。智と才は表裏の関係だが、「智は本にして才は
末なり」と智を軽視しないようにして、カリウムが多くナトリウムが少な
い食事によって智と才の中庸を得て、穀食動物の資質を発揮するとした。

軟化と発展力のあるカリウム、硬化・収縮力のあるナトリウムのバランス
に注目する。またカリウムは静性に属し、ナトリウム動性に属する。

幼い頃はカリウムの多い食事をとることで、智と体を養成する。思慮や忍
耐力や根気を養う。

また道徳心や思慮を必要とする場合もカリウムの多い食事にする。 社会
人に近づくにつれ、ナトリウムの多い食事にしていくことで、才と力を養
成する。ただし、ナトリウムが多すぎれば、命ばかりか身も智恵も短く
なってしまう。バランスが崩れすぎれば病気にもなるので中庸を保つよう
に食養する。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


2019年12月15日

◆「きりたんぽ」怖い

渡部 亮次郎


今やご存知のように秋田料理「きりたんぽ」は殆ど「全国区」になった
が、味は全く落ちてしまった。地元秋田では、空港や主要駅で「土産」と
して通年販売する都合上、潰した飯の中に「防腐剤」を入れ始めたので、
「コメの秋田」の美味しさは全く無くなった。

同じ秋田県でも、山形や宮城県に隣接する県南では、きりたんぽは食べな
い。あれは県北のもの。昔は南部藩だった鹿角郡が発祥の地。

あの辺に暮らした熊の狩猟師「またぎ」が作り出したもの、といわれてい
る。だが、私は秋田県人の癖に、県北に住むようになるまで全く知らな
かった。

昭和33(1958)年6月、NHK秋田放送局大館市駐在通信員になって、大館
市内に下宿し、いろいろな取材を始めた。

大館警察署の取材は早朝4時に起きて行く。勿論、他社は誰も来ていな
い。管内の火事、交通事故の一報が沢山入っている。そのなかから適当な
ものを、それなりの文章にして、秋田放送局へ電話で送稿。

受けるのは、当直のアナウンサー。大体新人だ。だが、ローカル放送は午
前6時。その前の5時は仙台から東北地方全域向けの放送。そこでアナウン
サー殿に頼んで仙台に吹き込んでもらう。

仙台の報道課には記者が泊まっている。デスクが前夜仕組んでいった
ニュースはすべて昨日までのもの。大館発の交通事故や火事は唯一の
「ニュース」だ。かくてNHK仙台発の午前5時の「管内ニュース」は、
毎朝「大館発」だらけ。面白かった。

そのうちに忘年会のシーズンになった。各社の記者は老人ばかり。出世は
止まっているから、官庁や商工会議所にたかって酒を呑むことばかり考え
ている。

こちらは「明日」に望みを賭けている身だから、「たかり」は避けたい。
だが、まだ民放記者の駐在の無い時代。宴席からNHKが欠けると目立つ
とかで、「そこは付き合い」と引っ張られる。

のだから、終いには「きりたんぽ怖い」になってしまった。あれから50年
以上過ぎたが「きりたんぽ怖い」は治らない。2020・1・5


2019年12月14日

◆「浜辺の歌」の取材であわや

渡部 亮次郎


歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。
急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。老齢になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1

2019年12月10日

◆「あきたこまち」の誕生

       渡部 亮次郎


郷里の秋田県産の米「あきたこまち」が届けられ、コメの美味しさを堪能
した。新米が早く食べたいと、南国の早稲を買っていたが、比べるのもお
かしいぐらい秋田産が美味い。

「あきたこまち」の食味について公的食味試験機関「日本穀物検定協会」
1984年11月の総合評価は「0・944」。これは新潟県産「コシヒカリ」「0・
7〜0・8」、同「ササニシキ」は「0・5〜0・6」を大きく上回るものだった。

穀物検査官は「『あきたこまち』の高い数値はこれまで出たことがなかっ
た」と評した。これを契機にマスコミや流通業界の関心が高まり、とくに
県外における知名度向上に弾みがつき29年の歴史が流れた。

29年前の1984年9月7日に秋田県品種対策協議会を開催し、県農業試験場
が作り出した「秋田31号」を奨励品種に採用することを決定した。

同日、知事が県農協中央会長、県農業試験場長同席のもと記者会見を行
い、品種名を「あきたこまち」と命名し奨励品種に採用したことを発表した。

命名の由来は、秋田県雄勝町に生まれとされる美人の誉れ高い平安時代の
歌人「小野小町」にちなみ、秋田で育成した美味しい米として、末永く愛
されるように願いを込めた。

「あきたこまち」は、母親の「コシヒカリ」から良食味性を、父親の「奥
羽292号」から早熟性を受け継いでいる。このことから、寒冷地北部でも
新潟の「コシヒカリ」並の良食味米栽培が可能となり、倒伏や「いもち」
病に対する抵抗性も「コシヒカリ」以上の特性を持っている。

さらに、炊飯すると米粒に美しい光沢と粘りがあり、食味に関する特性は
申し分がなかった。

米どころ秋田県とは言いながら10a(1反歩=300坪)当たり平均収量は、
戦前(1945年以前)の200!)台から1950年頃には350!)台に急増。

その後、1955(昭和30)年は450!)、1965(昭和40)年には550!)と大幅な伸び
を示した。この要因は、戦後の食糧難時代に、農地解放に伴う生産者の増
産意欲の高揚とともに、保温折衷苗代、三早栽培(早播き、早植え、早刈
り)などの普及及び県の増産運動「健康な稲作り運動」と相まって、全県
民的な普及によって助長された。

こうした技術開発と多収品種の導入により1976年、1977年、
1980年には「単収日本一」となり全国で最も安定多収県として位置づけら
れた。また、全国の多収穫競作会では秋田県から「米作日本一」が続出す
るなど、多収技術が開花した時代であった。

しかし1970年代に入ると、全国的に米の生産過剰となり生産調整が始まっ
た。秋田県も政府米の在庫を抱えながら、多収栽培から脱却できない産地
であった。つまり、多収栽培を行うのではなく量より質、消費者に喜ばれ
る、売れる米づくりへと転換せざるを得なかった。

このような背景から、1974年に秋田県農協中央会が水稲育種事業の実施を
県に要請し、翌年に県が水稲育種事業の開始(再開)を決定した。

つまり秋田県では1913年から1941年までの25年間、交雑育種を手掛けて育
成したが、その後中断していたのだ。1977年の福井県農業試験場へ調査・
享受の折、同場で75年に交配した「コシヒカリ」(母)×奥羽292号(父)の
「福交60−6」のF2種子1株を譲り受けた。

譲受けた「福交60−6」は、1981年に系統選抜4年目(F6)を迎え、系統
名(地方番号)を「秋田31号」と命名した。1983年には系統選抜6年目
(F8)を迎え、1群8系統の栽植し2系統20株を選抜し育成段階を終了した。

当時「コシヒカリ」は育成して約30年になっていたが、それまで「コシヒ
カリ」を親に交配した品種を奨励品種に採用した事例がなく、「秋田31
号」が最初の品種であった。

しかも、「コシヒカリ」の欠点である耐病性、耐倒伏性、収量性を改善し
た早生品種で、食味は「コシヒカリ」を上回った。

県農協中央会と農協経済連が「美人を育てる秋田米」のキャッチフレーズ
を発表し、秋田県初の水稲新品種誕生に花を添えた。

県外出荷が開始された「あきたこまち」は、新品種?類の中で破格の仮渡
し金60Kg20,133円の高値で取引された。また、キャンペンガール「こまち
娘」が誕生し、市女傘を身につけた平安朝の姿と、秋田で育成した美味し
い米「あきたこまち」として大いに印象づけた。

秋田県農林水産技術センター農業試験場次長 児玉 徹氏作成の資料。

2019年12月09日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2019年12月05日

◆「支那」は次官通達で禁止

渡部 亮次郎


私のメルマガ「頂門の一針」に読者から投書があった。

<渡辺はま子のヒットソングを挙げると、まず昭和15年の東宝映画「蘇州
夜曲」の主題歌「支那の夜」でしょうが、「ウィキペディア」でも「支
那」という言葉は使いたくないのでしょうか。

「渡辺はま子」の検索では出てきませんね。「支那の夜」で検索すると出
てきますが。

私は、子供の頃、父がこの歌が好きでよくレコードを聞いておりましたの
で、しっかりと記憶しております。

戦後「支那」という言葉がタブーになりましたので、「支那の夜」を聞く
機会がなくなってしまい残念に思っておりました。

渡辺はま子が亡くなった夜かそのあくる夜か、NHKで渡辺はま子の追悼番
組がありましたが「支那の夜」は最後まで放送してくれませんでした。
(剛)>

NHKは「ラジオ深夜便」で09・7・6にも「日本の歌・こころの歌」で渡辺は
ま子を特集したが、「支那の夜」には一言も触れなかった。
支那(しな)と言いたくないのである。

支那事変の始まったのは小生の生後1年の1937年。事変など知らずに育
ち、対米戦争では田圃の中で艦載機に狙われて草むらに隠れた。

長じて特派員として北京に飛んだが、すでに「支那」でなく中華人民共和
国になっており、爾来「支那」に無関心で来た。大方もそうであろう。

「ウィキペディア」は
<支那(しな)は、中国または「中国の一部」を指して用いられる、王朝
や政権の変遷を越えた、国号としても使用可能な、固有名詞の通時的な呼
称。本来、差別用語ではないが、何らかの圧力などにより、差別語とみな
される場合が殆どである>と説明している。

詳しく調べてみると「何らかの圧力」とは、敗戦と共に加えられた「中華
民国」からの「圧力」だった。

大東亜戦争で日本の敗戦後は戦勝国陣営である中華民国政府からの呼称を
めぐり「支那」を使うなという圧力がかかった。これを承けて日本外務省
は1946(昭和21)年に事務次官通達により日本の公務員、公的な出版物に
「支那」呼称は禁止され、その代わりに「中国」の呼称が一般化されるよ
うになった。マスコミもこれに準じた。

現代の日本で「中華人民共和国」を指しての「支那」、「支那人」という
言葉は半ば死語と化しており、一般的には中国、中国人という呼称に取っ
て代わられている。

学術用語や「支那そば」は「中華そば」という言い換え語がすでに一般化
している。また、「沖縄そば」を支那そばと呼称していた時期もあるが、
これも今日ではほとんど使われない。

「東シナ海」等の、国家のことではなく地域のことを指す場合や「支那事
変」などの歴史用語として用いられている場合はある。

中国では、世界の中に中国を客観的に位置づける場合に「支那」の呼称が
学者の間で広く永く使われていた。早くから異文化に学んだ仏教徒の間で
は特にその傾向が顕著である。

また清の末期(19世紀末―1911年)の中で、漢人共和主義革命家たちが、
自分たちの樹立する共和国の国号や、自分たちの国家に対する王朝や政権
の変遷をこえた通時的な呼称を模索した際に、自称のひとつとして用いら
れた一時期がある。

日本では、伝統的に漢人の国家に対し「唐」や「漢」の文字を用いて「か
ら、とう、もろこし」等と読んできた。明治政府が清朝と国交を結んでか
らは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。

支那という言葉は、インドの仏教が中国に伝来するときに、経典の中にあ
る中国を表す梵語「チーナ・スターナ」を当時の中国人の訳経僧が「支
那」と漢字で音写したことによる。「支那」のほか、「震旦」「真丹」
「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

日本においては、江戸時代初期より、世界の中に中国を位置づける場合に
「支那」の呼称が学者の間で広く使われていた。これは中国における古来
の「支那」用法と全く差がない。江戸後期には「支那」と同じく梵語から
取ったChinaなどの訳語としても定着した。

日本人が中国人の事を支那人と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降、
それまで「唐人」などと呼んでいた清国人を「支那人」と呼ぶべきとする
主張が起こり、清国人自身も自らのことを「支那人」と称した事に因む。

戦前・戦中は中国人を日本人に敵対する存在として、「鬼畜米英」などと
同様に、「支那」が差別的ニュアンスと共に使用される場合もあったが、
「支那」自体が差別語であったわけではない。

しかし、戦後、中国人・台湾人が差別的ニュアンスとともに使われること
もあったことへの反撥を表明するようになってからは、差別語であるとい
う感覚が生じた。2009・07・16

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2019年12月04日

◆「三猿」中国特派員 

    渡部亮次郎


中国にいる日本の特派員は「真実」を取材する自由がない。知ったことを
自由に送信する自由も無い。常に言動を中国官憲に監視され、牽制され、
二六時中、本国送還に怯えている。「見ざる 言わざる 聞かざる」。特
派員だけれども記者ではない?

実は容共国会議員たちが日中国交回復以前に結んでしまった日中記者交換
協定に縛られていて、実際、国外退去処分を体験しているからである。殆
どの評論家はこのことを知らず「日本のマスコミは中国にだらしない」と
非難する。

中国からの国外退去処分の具体的な事件としては、産経新聞の北京支局
長・柴田穂氏が、中国の壁新聞(街頭に貼ってある貼り紙)を翻訳し日本
へ紹介したところ1967年追放処分を受けた 。この時期、他の新聞社も、
朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

80年代に共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の
機密文書をスクープし、その後、処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘
密を違法に報道した」などとして、当局から国外退去処分を通告された例
がある。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確
信している、としている。

艱難辛苦。中国語を覚えてなぜマスコミに就職したか、と言えば、中国に
出かけて報道に携わりたいからである。しかし、行ってみたら報道の自由
が全く無い。

さりとて協定をかいくぐって「特種」を1度取ったところで、国外退去と
なれば2度と中国へは行けなくなる。国内で翻訳係で一生を終わる事にな
りかねない。では冒険を止めるしかない。いくら批判、非難されてもメシ
の食い上げは避けようとなるのは自然である。

日中記者交換協定は、日中国交再開に先立つ1964(昭和39)年4月19日、日
本と中国の間で取り交わされた。国交正常化に向けて取材競争を焦った日
本側マスコミ各社が、松村謙三氏ら自民党親中派をせっついて結んでし
まった。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」。

(1)日本政府は中国を敵視してはならない
(2)米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない
(3)中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない
すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない

日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定し
ないことが取り決められている。違反すると、記者が中国国内から追放さ
れる。これらの協定により、中国に対する正しい報道がなされていないわ
けだ。

新聞・TV各社がお互いに他社に先んじて中国(北京、上海など)に自社記
者、カメラマンを常駐させ他社のハナを明かせたいとの競争を展開した結
果、中国側に足許を見られ、屈辱的な協定にゴーサインを出してしまった
のである。しかも政府は関与していない。国交が無かったから。

1964(昭和39)年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖
承志(早大出身)事務所は、その会談において、日中双方の新聞記者交換
と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員と廖承志・中日友好協会会長。こ
の会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴
が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

1968(昭和43)年3月6日、「日中覚書貿易会談コミュニケ」(日本日中覚書
貿易事務所代表・中国中日備忘録貿易弁事処代表の会談コミュニケ)が発
表され、LT貿易に替わり覚書貿易が制度化された。

滞中記者の活動については、例の3点の遵守が取り決められただけだった。

当時日本新聞協会と中国新聞工作者協会との間で交渉が進められているに
も拘わらず、対中関係を改善しようとする自民党一部親中派によって頭越
しに決められたという側面があるように見える。しかし実際は承認していた。

日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わ
ないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新
聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどと今後北京に常駐を希望する報道各社
にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを
禁じられた。

田中角栄首相による1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府
の共同声明」(日中共同声明)が発表され、日中両国間の国交は正常化した。

1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常
駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。しか
し日中記者交換協定は全く改善されていない。

対中政策は、以前と異なって中国の大学で中国語を学んだ「チャイナス
クール」によって独占されているから、協定を変えようと提案する動きな
ど出るわけが無い。

かくて現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道
は自粛されている。2008・02・28

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



◆「葱」知らずで不合格

渡部亮次郎


葱知らずで不合格は石原慎太郎の息子良純。家人の見ている民放のクイズ
番組で勝ち抜き、最終、「ネギ」を漢字で書けと言われて書けなくて海外
旅行をのがした。

そういいえば、まだ子供のころ笠置シヅ子の歌う「買い物ブギ」(作詞、
作曲服部良一)で「東京ねぎ」というフレーズがあって、ねぎに品種がい
ろいろあることを知らないものだから不思議に思っていた。

長じて大阪に左遷されたら関西では葱の白いところじゃ無しに青いところ
しか食べない。だから白い部分の長い葱は東京葱、と知った。

ネギ(葱)の英名はScallion。植物分類体系ではネギ科ネギ属。原産地は
中国西部・中央アジアとする植物。日本では食用などに栽培される。

ネギは「シボル」とも呼ばれ、古名は「き」という。別名の「ひともじぐ
さ」は「き」の一文字で表されるからとも、枝分れした形が「人」の字に
似ているからとも言う。

ネギの花は坊主頭を連想させるため「葱坊主」(ねぎぼうず)と呼ばれ
る。萌葱色(もえぎいろ)は葱の若芽のような黄色を帯びた緑色のことで
ある。

日本では古くから味噌汁、冷奴、蕎麦、うどんなどの薬味として用いられ
る他、鍋料理に欠かせない食材のひとつ。硫化アリルを成分とする特有の
辛味と匂いを持つ。

料理の脇役として扱われる事が一般的だが、青ネギはねぎ焼きなど、白ネ
ギはスープなどで主食材としても扱われる。ネギの茎は下にある根から上
1cmまでで、そこから上全部は葉である。だから食材に用いられる白い部
分も青い部分も全て葉である。

関西では陽に当てて作った若く細い青ネギ(葉葱)が好まれる。一方、関
東以北では成長とともに土を盛上げ陽に当てないようにして作った、風味
が強く太い白ネギ(長葱・根深葱)が好まれる。また秋田など東北地方で
は「曲がりねぎ」という栽培法もある。

関東と同様に土を盛上げながらある程度育てたら、一度抜いて横向きに植
え直し、植物の光に向かって伸びる性質を利用して曲げる。これは、地下
水位が高い土地で効率よく白葱をつくる方法だと言われる。ただし、栽培
に手間がかかるため、作付面積は減少している。

欧米ではチャイブ、リーキなどが栽培されている。

古くから薬効成分が含まれている植物と知られていた。痰や鼻水を押さえ
る作用があるようで、風邪をひいた時に、ネギをくるんだ手拭やガーゼな
どを首に巻くというものは有名な民間療法である。 お尻に刺しても効果
があると言われるが効果の程は不明である。

病虫害の予防効果を狙って、しばしばユウガオ、トマト、ナス、ホウレン
ソウなどの畑に混植される(→ コンパニオンプランツ)。

ネギの種類
<青葱>
九条葱(京野菜)
万能葱
谷田部ネギ
観音ネギ
ワケネギ(わけねぎ) 株分れ(分けつ)しながら成長する葉ねぎ

<白葱>
深谷ねぎ(埼玉県)
下仁田ネギ(太く短い)
ポロねぎ 地中海料理などで普通に使われるネギ。
曲がりねぎ(白葱)
一関曲がりねぎ(岩手県一関市)
仙台曲がりねぎ(宮城県仙台市)
横沢曲がりねぎ(秋田県大仙市)
阿久津曲りねぎ(福島県郡山市)
その他
越津ネギ 愛知県発祥。日本の東西の中間だけあり、根の部分も葉の部分
も丁度同じぐらいの長さで、白葱と青葱の中間にあたる。
徳田ねぎ 岐阜県特産。白葱と青葱の両方の特徴を持つ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・05・29

2019年12月03日

◆「チョロ」の国家機密

渡部亮次郎


日本の元総理大臣が外国に招待されて打ったゴルフの第1打が、あろうこ
とか「チョロ」だった。本人すかさず側近に「これは国家機密だッ」と緘
口令を敷いた、という笑い話。

隅田川に上がる豪快、華麗な花火(2007・07・25)を見ながら聞かされた話
だ。福田赳夫が総理を辞めてから、朴正煕韓国大統領が殺害される3ヶ月
前の話だというから、時は1979年7月。ソウル市郊外の有名ゴルフ場である。

歴史書を紐解けば、福田は自民党総裁選には初めは田中角栄との「角福戦
争」(1972年)に敗れて雌伏。やっと1976年に大平正芳との密約成立により
総理総裁に就任、70をとうに過ぎていた。

密約の在任期間は「2年」。ところがもっとやりたい福田は密約を一方的に
破って大平に対抗出馬。やはり、あえなく敗退。「天の声にも時には変な
声がある」との迷科白を吐いて恥かしさを誤魔化した。

私はこの頃すでに外相園田直(すなお)の秘書官だった。それ以前は
NHKで福田派担当記者だったから、福田を比較的、良く知っていた。誘
われてゴルフも何回となくしたが、ロンドン仕込みとはいえ腕前は上等と
はとても言えなかった。

その福田が朴大統領に招かれるについては、親分岸信介と朴との関係に
遡って親密な関係にあった。朴は先にライバル金大中拉致事件では当時の
総理田中角栄に現ナマを贈って政治解決を図るなどしたが、岸・福田ライ
ンとの親密さは不変だった。福田を慰労し、発展する韓国を見せたかった
のだ。

花火を見上げながらの話だと、朴は福田を招待するについて、随分気を
遣った。特にゴルフについては福田が老齢ゆえ、きつい坂は堪えるだろう
と春ごろに坂を削るなど改造させて待った。

当日は側近の安倍晋太郎、石原慎太郎、森喜朗らが同行。迎える朴大統領
は一行の靴下やパンツからクラブなど道具一式を選り取りみどりをデパー
トを現地に出張させて用意するという念の入れ方。図体の特に大きい森の
身体に合うサイズ取り揃えてあったのには一同感服。

大統領が日本の前総理とゴルフをするというのだから、警備は大変。警察
官がティーグラウンドからフェアウェーに沿って10mおき、後ろ向きに並
ぶ。北朝鮮が攻めてきたら大変、それに備える態勢だから緊張が走る。
ボールが当る危険性、十分。

かくて朴が第1打。あっ、なんと30mぐらいの「チョロ」。上空から警備
のヘリの騒音に緊張したのか。

朴正煕は植民地統治下の朝鮮慶尚北道善山郡(現在の亀尾市)で生まれ
た。貧しい農村部家庭の末子であった。

小学生の頃は、学校に弁当を持っていけないほど生活は苦しく、酒に酔う
たびに友人や側近に「俺は本当の貧しさを知っている」と語っていたという。

1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領の尹を破り、自らが
大統領の座に就く。1965年6月22日には、日本との国交を回復(日韓基本
条約)。この条約の締結により得た資金を不足していたインフラの整備に
充てた。福田がその頃、大蔵大臣だった。

ついで打ったのは福田。はっ、これはもっと酷い「チョロ」10mも行って
いない。ところが福田は平然「三尺下がって師の影を踏まず!」一同、大
拍手で緊張が解けた。直後、傍にいた顔見知りの日本大使館員に「これは
国家機密!」と緘口令を敷いたのだ。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭
KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行わ
れ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。朴大統領は1985年には自ら下
野すると側近に話していたという。

葬儀に日本は本来、総理大臣大平正芳が参列すべきだったが、日韓議連会
長岸信介を派遣した。手間取って岸は葬儀に間に合わなかった。

埋葬の儀は外国人はオフリミット。それでも岸はOK。大使館の韓国側と
りなしなど苦労は大変だった。

やはり埋葬にしか間に合わなかったフィリピンのマルコス大統領夫人イメ
ルダが大泣きして娘さんを抱きしめるのに、岸は沈黙。対照的だったそう
だ。(文中敬称略)2007・07・31 


2019年12月01日

◆「中曽根君を除名する!」

渡部亮次郎


河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。
死ぬ2日前(6日)の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソ
ファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭い
た。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、そ
の隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては
殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで
建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら
「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。
奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、
川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行き
たいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところ
へは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名する
とは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と
目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に
党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していた
が,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を
拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天
王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と
滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてな
かったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし
記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の
七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするか
らね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起き
られなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、
今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年
67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人
(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法
蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野
一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の
言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫
だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだ
という。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年
後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を
歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由
民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選
出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので
神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自
由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議
員、防衛大臣河野太郎は孫である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元
よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都でる・・・
との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成し
た建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例
であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬
で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍
団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川
崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起
こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際
に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日
は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っ
ていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんの
か! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当っ
た」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言ってい
た、終生。2008・07・05

追記:中曽根さんは11月29日逝去された。享年101.