2016年06月09日

◆デコポンありがとう

渡部 亮次郎



食後、必ず果物を食べる。大人になってからの習慣。但し菓子は殆ど食べない。

何度も書いたように、私の手足には霜焼の跡、ケロイド状になった傷跡が痛々しく残っている。雪国秋田に生まれ育つ途中、毎年、11月に入ると手と足に霜焼ができた。

<霜焼け
しもやけ chilblain

医学的には凍瘡(とうそう) pernio という。手足,耳たぶ,鼻の先端,ほおなどが寒気に繰り返しさらされ,末端部の血液循環障害が起こるために発生する。凍傷とは異なり,末端部の血液循環障害を起こしやすい素質の人にだけ発生する。最低気温が4〜5℃で,一日の温度差が10℃以上の冬の初めや終りころに発生しやすい。

幼児から学童期の小児に多いが,女子では成人にもみられる。病変部は紫紅色の紅斑や腫張を生じ,ときにはくずれて潰瘍となる。かゆみがあり,とくに温めるとかゆみが強くなる傾向がある。

予防法としては,早めに手袋や靴下で保温に注意し,マッサージにより血行をよくするよう努める。また,手足のぬれたあとは,よくふいておくことが大切である。治療には,ビタミン E,女性ホルモン剤などを含む軟膏をすりこんでマッサージをし,ビタミン E を内服する。潰瘍には抗生物質軟膏を使う。藤澤 龍  世界大百科事典>

誤解だろうが、柑橘類でビタミンCを摂取すれば、ならなかったと思い込んでおり、冬前に柑橘類を食べておかなければ、と思い込んでいた。秋田にはみかんその他柑橘類は無く、名産の林檎も幼少の戦時中は品薄だった。

冬中は苺をたべたが、最近は妙に外皮がごつごつした果物を家人が買ってきてくれる。聞けば「デコポン」というのだそうだ。子供の頃は無かった柑橘類である。

『ウィキペディア(Wikipedia)』で早速調べてみると、なんとわが師・故園田直の選挙区が主産地と判って少々驚いた。

<デコポンは、日本で交配された柑橘類の果樹であり、果実は果物として食用にする。寒さに弱い為、熊本県産を始めとした九州産が特に多い>。

従ってデコポンの学名 は英名も Dekopon

和名は当然 デコポン(和名および果実商標)不知火(しらぬひ、品種) である。

1972(昭和47)年は日中国交正常化で私が記者として田中角栄首相に同行して北京を初訪問した年だ。長崎県南高来郡口之津町(現・南島原市)にある農林水産省果樹試験場口之津支場(現・独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所カンキツ研究口之津拠点)で、清見(きよみ)タンゴールと中野3号ポンカンを交配して誕生した。

果形は果梗部にデコが現われやすく不揃いになりやすい、果皮は見た目が粗く成熟するとややくすんでしなびるなど、外見上の弱点が目立ち育成試験場では選抜対象とはならず品種登録はされなかった。

その後、熊本県宇土郡不知火町(現・宇城市不知火町)に伝わり、品種名を「不知火」として栽培の取り組みが始まった。古くから甘夏の産地として知られていた不知火町および周辺地域では1975年頃から甘夏に代わる柑橘を模索していたという事情も重なって、不知火海(八代海)沿岸の宇土半島、天草諸島、葦北地方などを中心に広がった。

日本国内で食用果実として生産、販売されている品種名は「不知火(しらぬひ)」。流通果実としての「デコポン」は登録商標であり、不知火のうち一定の基準をクリアしたものだけがその名を使用することができる。

生産量の半分近くを熊本県産が占めており、全国統一糖酸品質基準を持つ日本で唯一の果物である。

1991年より不知火の中で糖度13度以上のものを選択して「デコポン」の名称で商品化・出荷が開始された。歪な外見上の特徴を逆にセールスポイントにしようとして命名されている。

1993年7月には熊本県果実農業協同組合連合会(熊本果実連)が出願していた「デコポン」「DEKOPON」の登録商標が認可された(種苗登録はされていない)。

熊本果実連は初出荷日の3月1日を「デコポンの日」として制定し、日本記念日協会に登録された。

デコポンの箱詰め旬は、およそ初冬から翌春にかけて。熊本県では主に宇城、芦北、天草地域の沿岸部で、温暖な気候を利用して栽培されている。

加温ハウス栽培されたものが、12月―翌1月、雨除け栽培ものが2月―3月、露地栽培されたものが3月中旬 -4月一杯まで出荷される。

その後も、低温貯蔵されたものが6月上旬まで出荷される。実の外見上の凸が特徴であるが、凸のあるなしは味や品質に関係ない。果皮は厚いが剥き易く、じょうのう膜も薄く袋のまま食べられ、種もほとんど無い。

日持ちも良く、糖度が高く、食味にも優れる事から市場や消費者の支持を得て、価格が低迷していた甘夏、ハッサク等に代わる有望な中晩生柑橘として、平成以降急速に栽培面積が増加した。

収穫したての露地物で酸味の強いものは、追熟させて酸味を取ることがある。ケーキ・菓子や、加工してジュース・ジャム・果実酒としても利用される。

嫌いな酸味があまり無い。デコポン、ありがとうである。

2016年06月07日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎



ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材」として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど勢力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田のかいがんでは8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。

2016年06月06日

◆政治は映像で語れない

渡部 亮次郎



TVマンは今知らず知らずのうちに日本の国民を飛んでもない方向に誤って誘導してしまっていて、しかもその誤りに気付いていない。テレビを見れば見るほど政治不信に陥ると言う人の増えていることに気付いてない。

政治は欲望、思惑、懸け引き、寝技などから成立しているが、これらはいずれも舞台裏で展開されるものだから映像にはならない。それなのにテレビは映像だけで伝えようとするから、初めから無理があるのだ。しかも事実のオーバーな部分だけを繋ごうとする。

なるほど記者会見という絵はある。しかし嘗てNHK最高の政治記者島 桂次(のちにNHK会長・故人)が喝破したように「記者会見こそは天下の嘘吐き大会」である。政治家が不特定多数を前に本心を語るわけがない。

本心を語っているように見せてただ大衆を煽っているのは演説であって本心ではない。それなのに記者会見や演説の映像を繋いで、
これが真実と言われて信じる方がどうかしている。

安倍退陣、福田・麻生の戦いになったとき、このことを一番感じた。私はいうなれば日本におけるテレビ政治記者1期生であり、映像だけを繋いで事象を伝えようとすれば、結論は真実とかけ離れたところに落ち着く事をよく知っていたからである。

テレビ政治記者1期生たちはテレビで政局を伝えるべく様々な試みをしたが、さっぱり上手くゆかなかった。特に初期の頃はカメラの光感度が悪かったものだから強烈なライトが不可欠だった。

火傷するぐらいの強烈なライトを当てられて政治家は冷静に対応できるものではない。単独会見に成功したとしてもフィルムはなんだか興奮状態にある政治家の姿を伝えるだけだった。

ライトが弱くなっても政治家がレンズに向かっては嘘を言う事は変わらない。そこで考え出された手法が反対の立場にある政治家による追及である。相手は逃げにくいから嘘は言いにくいだろうと考えたが、簡単には行かなかった。時間の制約である。

そうやって40年近く。テロップでしか語れなかった政治が漸く映像化されたのかと思って覗いてみたら、何の事は無い、冒頭の結論である。


まず、参院選挙に当って各社が抉ってきた「格差社会」「地方と都会の格差」の問題について言えば、映像として掬いやすいのは田舎の人たちのややオーバーな「恨み節」でしかない。

それをこれでもか、これでもかと放送されると、なんだか都会に住んでいることが罪悪のように思わされた。心ある人たちは「マスコミ誘導の民主党勝利だ」と騒いだ。

しかし、マスコミにその意識は全く無い。己のやった事の意味を考えず、ただ映像化に成功しただけと納得しているだけだ。

次の安倍、福田の交代劇。安倍の弱体化に感づいた森喜朗、野中広務、青木幹雄、古賀誠らで福田後継を決定して電光石火の多数派工作。この陰謀めいた工作は映像にならないどころか、記者たちも嗅ぎ付けられなかった。

したがって福田が出馬声明をした時点で勝負は決していた。特にテレビは政局に後れを取ったのである。だから以後は麻生の動きを無視した。勝負のついてしまったレースをいくら追ってもスポンサーはつかないかである。

ところが多くの自民党員はメディアのそうした態度を福田の思い上がりと勘違いして判官贔屓さながらに密かに麻生支持に傾いていったのである。これを裏付ける映像を探す事はできないから開票結果に誰もが驚く始末、というわけだった。

事件、事故は現場の状況を伝えればそれだけで映像は完結する。だが残念ながら政治だけは欲望、思惑、懸け引き、寝技、裏取引で成り立っているものだから映像化はきわめて難しい。隠し撮りという禁じ手が無いわけではないが一般的ではない。

政局は今後、衆院解散に向けて様々な様相を見せるであろう。しかしこれを伝えるテレビ各社の手法は従来と同様、記者会見と演説を繋ぐだけであるはずだ。それが事実とは異なった印象を視聴者に与え、結局、当惑させたり、虚脱感を与えても知らぬ顔の半兵衛。

ミャンマーの動きにしろ、今後は民衆弾圧に対する国際的反対論の高まりからいろいろな動きの展開が期待されるが、映像面では決定的なものが無いだろう。そうするとテレビは事態から遠ざかってゆく可能性がある。

このように考えてくるとテレビとは必ずしも事実とか真実とかを伝える手段としては実に頼り甲斐のないものであることに気付く。テレビは性質上、何でもオーバーに伝える。割り引いてみる習慣が必要なのである。(文中敬称略)2007・09・30

2016年06月05日

◆インド直伝のカレーは

渡部 亮次郎



日本のカレイライス乃至ライスカレーは、初めはインドからではなく、英国海軍から明治時代の日本海軍に伝えられたものだった。それは兵士を苦しめる病気「脚気」(かっけ)対策としてだったから、小麦粉(ビタミンB1)一杯の「粉っぽい」ものだったのは当然である。

しかも除隊した海軍兵士たちが家庭にそのまま伝えたから、日本中のカレーが粉っぽいものとして定着したのは当然である。私の義兄が富士屋ホテルだかどこかのホテルで習ってきたカレーは、いま市販されている固形ルーを使ったものより、黄色でもったりして、明治を思わせる。


「こんなものカレーではない」と文句をつけたインド人が1915(大正4)年暮、日本に亡命して来た。ラス・ビハリ・ボースという。このボースが東京・新宿の「中村屋」に入って「純インド式」のカレーを教えた。

<ボース

Rash Bihari Bose(1886‐1945)

インド民族運動の指導者。日本に長く在住して〈中村屋のボース〉として有名。1908年ごろからベンガル民族運動を指導し,当時の風潮のなかでテロリズム系の運動を行う。

12年,インド総督ハーディング(英国人)に爆弾を投てきして負傷させたが,15年ラホール兵営反乱は失敗に終わった。

15年,訪日し時を同じくして亡命中の孫文と邂逅し,知遇を得た。その年の11月,イギリスの圧力による国外退去令に際して,孫文,頭山満らの助けにより,中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに隠れた。

その後相馬夫妻の長女俊子と結婚。41年太平洋戦争勃発とともに,インド独立連盟総裁としてインド国民軍結成のため日本に協力した。

中略)過労のため体調を崩し,東南アジアより日本に戻り,45年1月インド独立をみることなく没した。 (後略)長崎 暢子>

2006年5月21日の産経新聞によると、もともと中村屋は東京大学のある本郷で明治34(1901)年、パン屋として創業し、後に新宿に移転。昭和2年に喫茶部を開設したときにボース直伝による「純インド式カリー」を出して東京っ子の舌に衝撃を与えた。

<相馬黒光 そうまこっこう 1876‐1955(明治9‐昭和30)

芸術家を後援した商人で,自身文筆もよくした。本名良。仙台に生まれ,押川方義の影響でキリスト教徒となる。

明治女学校を出て長野県の企業家で社会改良運動家相馬愛蔵と結婚するが,婚家の気風になじまず,1901年夫とともに東京に出,本郷にパン屋中村屋を開業した。

はじめは苦労を重ねたが,店を新宿に移してからは東京の西郊への発展も幸いして事業はしだいに軌道に乗り,山手のインテリ層を中心に顧客をひろめた。

彫刻家荻原守衛,肖像画家中村彝(つね),ロシア人の詩人エロシェンコらのパトロンとなり,また15年インド独立運動家 R. B. ボースを中村屋内にかくまい,長女を嫁がせた。自伝《黙移》がある。岡部 牧夫>(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

(相馬黒光のことを調べてみたら、この原稿の途中であることを忘れるぐらい、波乱万丈の人生を送った女性であった。いつか書いてみよう)。

インド人のボース。宗主国として植民地インドを支配するイギリス。そのイギリスの、しかも海軍からの移入と聴いて、独立運動の戦士ボスは耐えられなかっただろう。「東京のカレーうまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸がムカムカする」と昭和7年、日本の新聞に喋っている。

ところでボースのカレー伝授については後で触れるとして、ボースを中村屋に入れた頭山満は友人頭山興助(おきすけ)のお祖父さんだが、失礼ながら、詳しくは知らなかった。

<頭山満 とうやまみつる 1855‐1944(安政2‐昭和19)

明治・大正・昭和期の国家主義者。黒田藩士の家に生まれ,のち母の実家を継ぐ。1876年同藩の不平士族の蜂起計画に加わって逮捕され,1年間入獄。

79年板垣退助の強い影響下に箱田六輔,平岡浩太郎らと向陽社を設立,同じころ別に組織した筑前共愛会とともに国会開設請願運動等を行い,81年箱田や平岡らと玄洋社を設立した。

しだいに民権論を離れ,日本はアジアを制覇してその〈盟主〉となるべきだと主張しはじめ,同社をこの国権論で統一する一方で炭坑を同社の財源とすることに成功して,同社の事実上の最高指導者となった。

87年,国権論宣伝のため《福陵新報》を創刊。条約改正反対運動で玄洋社員に大隈重信外相を襲わせたり,第2回総選挙で政府の選挙干渉に荷担して福岡県内の民党派を襲撃したことなどで,国権派壮士としての地位を築いた。

また,一部の大陸浪人がつくった天佑惟と称する団体に資金を与えたり,対露同志会などに加わり日露開戦を唱えたり,満州義軍を参謀本部の支持の下に派遣するなど,大陸侵略と強硬外交を主張しつづけた。

金玉均やビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援したのも,それを日本の大陸侵略活動の足がかりにする意図による。

この後,アメリカの排日移民法に反対した対米強硬外交の主張,普通選挙に反対する家長選挙論の主張などのほかは表だった活動をしなくなっていったとはいえ,右翼の巨頭として隠然たる勢力と政界への影響力をもちつづけた。桂川 光正>(世界大百科事典(C)株式会社日立システム
アンドサービス)

そこで中村屋の婿になったボースが作った純インド式カリーは海軍と違って小麦粉を全く使わないものだった。だからとろみが無い。その分さらさらしていた。牛を神聖化しているインド人だからビーフも使わない。

蛋白質は最上級の骨付き鶏肉、インドから直輸入したスパイス、当時「日本一美味」といわれていた武州幸手(さって)の白目米(しろめまい)、自社牧場製のヨーグルト、バターなど厳選した高級品。

他のカレー店では10銭前後だったのに中村屋のそれは80銭。コーヒーや果物とセットで1円だった。カリーとご飯は器が別だった。

中村屋は今も新宿本店でインド・カリーを提供している。何千円かは知らない。中村屋を真似たカリーが全国各地に普及しているはずだ。

私の生まれ育ったところは秋田の純農村で、米しかできない。魚は八郎潟の鮒とかなまず、どじょう。肉は飼っている鶏をつぶした時だけ。カレーは戦後になって母が一度だけ作ってくれた。

しかし美味だったという記憶はない。だから脚気にもかかったわけかな。東京へ出てきて大学の食堂では一皿20円だったように思うが、違っているかも知れない。(文中の引用<内>はいずれも世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)。

2016年06月04日

◆七夕の朝に倒れた河野一郎

渡部 亮次郎



半世紀前の話だが、それだけに 先の短い身だから、私が居間ここで証言しておかないと記録に残話になる。昭和40年、自民党の実力者河野一郎は「中曽根クンを河野派から除名する」と 爆弾発言を私にしたまま、翌朝、中目黒の私邸で倒れ、8日に死んでしまった。 

だから「中曽根氏 河野派から除名」という大特種はならなかったわけだが、もし現実のものとなっていたら、中曽根政権はあった老化、と考えたりする。中曽根さんにこの話をしたことはない。

<「中曽根君を除名する!」

         渡部亮次郎

河野一郎さんの命日がまた巡って来た。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。

黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。

派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。

向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。

「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」

「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。

思えば河野氏は喉頭癌のため退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。

佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。

翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。

そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。

7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」

それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。

当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。

死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。

河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。

以下はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照のこと。

河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。

参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は洋平の長男である。

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。

地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。

競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。

河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。

酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。

1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。

三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。2008・07・05>

2016年06月01日

◆ペンシルロケット

渡部 亮次郎



1958(昭和33)年3月、NHK秋田放送局で取材見習いが始まった。東京で警視庁取材の長かった中山光雄さんが「ナベ、ペンシルロケットの取材に付いて来るか?」というので、局のジープに同乗して、雪道をいそいだ。

ロケット? ペンシル? 道川(みちかわ)海岸?、秋田高校を出たはずなのに、東京で過ごした4年間で、地元のニュースは何も知らなかった。

東大生産技術研究所の工学博士糸川英夫を中心とするAVSA研究班によって研究の始まった『ペンシルロケット』は、1955(昭和30)年4月12日、東京都国分寺の廃工場跡地で水平発射公開実験に成功。

いよいよ上空へ向けての発射実験は海岸から打ち上げて海に落下させるほかないが、当時の海岸は米軍の管理下にあり、発射場として利用可能な場所は日本海側の限られた場所しかなかった。

船舶や航空機の航路を避け漁業への影響が少ない場所として、秋田県岩城町の勝手川河口南側の道川(みちかわ)海岸が選定された。秋田市内から車で1時間ぐらいの寒村の海岸。

上空への打ち上げにあたっては、軌道を光学追跡するために四塩化チタンの発煙剤を搭載、このために全長が300mmに延長された「ペンシル300」が用いられた。全長わずか30Cm。当に鉛筆ロケットだ。

1955(昭和30)年8月6日に行われた道川での最初の発射実験は、カウントダウンゼロの瞬間にロケットが発射台から転げ落ち、そのまま点火されたロケットが砂浜上を這いずり回るという、今となっては笑い話のような失敗であった。

急遽ロケットの固定方法を改良し、同日2回目の発射実験は成功した。到達高度600m、水平距離700m、飛翔時間16.8秒であった。

私が取材初体験したのも、この頃。寒風吹きすさぶ)砂浜にゼンマイを一杯に巻いたデンスケ(録音機)を放置して、退避。ロケットはヒュルンと日本海上空へ飛んで行った、と思ったら嘘。海を睨んでいる取材団の背後に墜落した。それでも、その夜、「録音ニュース」として全国に放送された。まだテレビの無い頃だった。

ペンシルの飛翔実験は1955年(昭和30年)8月8日で終了し、8月23日からは、全長1.2m、直径80mm、2段式の『ベビーロケット』の発射実験を開始した。

標準型であるベビーS型は、ペンシル300と同様の発煙剤による光学追跡であったが、ベビーT型でテレメータを搭載し電磁気的な追跡が可能となった。またベビーR型では、パラシュートによる機器回収の実験を行った。

私は6月には転勤。ロケット発射実験とは縁が切れたが、ベビーロケットは、この年12月までに計13機が打ち上げられた。到達高度は6kmであった。

1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけての国際地球観測年(IGY)に日本が参加を表明したことを受け、文部省(現文部科学省)は、大気圏上層観測のために高度100kmまで到達可能なロケットの開発を糸川に打診。

1956(昭和31)年1月、東大生研へ正式に協力要請が下された。ペンシルおよびベビーで経験を積んだAVSA研究班は、本格的な観測用ロケット『カッパ(K)ロケット』の開発に着手した。

ベビーよりも大型となるカッパを打ち上げるにあたって、発射場は同じ道川の勝手川河口北側500mの海岸へと移された。1956(昭和31)年9月24日、K-1型が初飛翔。到達高度は10kmであった。

カッパの開発は必ずしも順風満帆ではなかったが、1958(昭和33)年9月、K-6型が高度60kmに到達した。当初目標の高度100kmには及ばなかったものの、この観測データをもって日本はIGY参加の責務を果たした。

IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960(昭和35)年にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。

たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300―350kmが限界とされた。

この頃には米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した。

その結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設が着工された。1963(昭和38)年12月9日開所)。

内之浦への新実験場の建設が決まった後も、東京から近く、梅雨の期間が短いために夏季の実験・観測に有利である秋田ロケット実験場では、高度300km未満に限定のうえ継続して飛翔実験を行う予定だった。

しかし1962(昭和37)年5月24日夜、K-8型10号機が打ち上げ直後に爆発、周囲を巻き込んで火災を発生させる事故が起こった(固体推進剤内にクラックが生じていたことによる異常燃焼が原因とされている)。

死傷者は出なかったものの、事故を機に地元の協力が得られなくなり、安全対策にかかる費用の問題もあり、道川での発射実験は全て中止、実験場閉鎖へと追い込まれた。

以後の東大によるロケット飛翔実験は内之浦へ全面的に移行することとなる。1955(昭和30)年から1962(昭和37)年にかけて秋田ロケット実験場から打ち上げられたロケットは、計88機であった。

なお、東大の道川からの撤退に際し1962(昭和37)年10月、秋田県能代市にロケットモーターの地上燃焼実験施設「能代ロケット実験場(現能代多目的実験場)」が開設された。

現在の秋田ロケット実験場跡地には、当時の施設類は一切現存していない。岩城町が建立した「日本ロケット発祥記念之碑」のみが、日本の宇宙開発最初期の舞台であった歴史を今に伝えている。

私はその後、大館、仙台、盛岡、東京、大阪と転勤し41歳でNHKを退職した。今日の日本ロケト産業の隆昌を見る時、道川の果たした役割はもっと大きく顕彰されて然るべきものと思う。2010・7・8
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2016年05月30日

◆「お富さん」で大学生

渡部 亮次郎



まだカラオケなどない昭和29(1954)年、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。

その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべえ〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。

このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。

もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかった。

とにもかくにも、作曲者の渡久地(とくち)政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのである。

この年の4月、上京して大学入学。なかなか下宿が見つからず、親戚で不愉快な思いをしたもの。遂に絶縁状態となって今日に至っている。冨さんは苦い歌である。

お富さん

歌 春日 八郎
作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信

昭和29年

1 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)


2 過ぎた昔を 恨むじゃないが
  風も沁みるよ 傷の跡
  久しぶりだな お富さん
  今じゃ呼び名も 切られの与三(よさ)よ
  これで一分じゃ お富さん
  エーサオー すまされめえ


3 かけちゃいけない 他人の花に
  情かけたが 身のさだめ
  愚痴はよそうぜ お富さん
  せめて今夜は さしつさされつ
  飲んで明かそよ お富さん
  エーサオー 茶わん酒


4 逢えばなつかし 語るも夢さ
  誰が弾くやら 明烏(あけがらす)
  ついてくる気か お富さん
  命みじかく 渡る浮世は
  雨もつらいぜ お富さん
  エーサオー 地獄雨

「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。

春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。

急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。

テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。

当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。

この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されぬ恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は3年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。

そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。

尚、歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。

前年の昭和28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。

渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたもの。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ない
だろう。

春日八郎

●本名:渡部 実

●大正13年10月9日生まれ 1991年10月22日没
●福島県・会津出身

旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。

長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。

最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。

「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店(げんやだな)と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町3丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

2016年05月29日

◆山紫水明は貧しい

渡部 亮次郎



秋田県の角館から鷹角(ようかく)線に乗ると約50キロ、渓流と併せて紅葉も美しい。 日本一だと思う。今年は11月初旬までだそうだ。

私は1960年から盛岡に満4年在勤してNHKの県政記者をやったが、岩手県内に渓流の美しさを見るたびに貧困を感じて暗くなった。

山紫水明と言えば、京都の人たちが京都を自慢する言葉のように言う。山紫水明處という観光名所すらある。

江戸後期の儒学者、頼山陽が晩年、自宅の庭に建てた書斎。京都の鴨川沿いにあり、有名な『日本外史』はここで執筆されたといわれている。

草堂風の建物で、小さな床の間のついた4畳半の座敷と2畳の書斎、約1畳の水屋と板の間、廊下。

鴨川と東山の眺望は抜群で、「山紫水明」という言葉は、彼がこの書斎に使って以後、一般に使われるようになったとか。

<山紫水明さんしすいめい=日に映えて、山は紫に、水は澄んではっきりと見えること。山水の清らかで美しい様。自然の風景を愛でる語として、日本では最もなじみの有る表現になっている。

山が紫に見える事は実際に有るが、それよりも、紫は昔から尊い色、目出度い色とされており、「山紫」にもそのような褒め言葉の意味が含まれている。(「岩波四字熟語辞典」)。

確かに東北地方のブナ林は秋には真黄色になったあと落葉すると枝が太陽をあびて紫色に見える。直後に雪を被るが。

京都の貴族や文人墨客は「生産」と無縁だから、川の水の濁らぬことと東山の眺望の抜群であることを楽しむだけで良いわけだが、農林水産業で生きて行くしかない岩手県ではそんなに悠長なことは言っていられない。

山が紫とはブナ林のことだろうし渓流が濁っていないのは山肌が石で出来ており、そこには雑木しか生えないことを示している。このままでは貧乏と縁切りできないと宣言されているようなものだ。ブナは建築用材にも木炭にもならない。林野庁がブナ林を杉に植え替えにかかる所以だ。

京都はともかく、岩手県は岩の県といわれる県だから、雑木は木炭や薪にしかならない。カネになる松、杉,檜(ヒバ)などは生えない。これらの木は地下に根を張れないからだ。山紫水明は貧しい山の代名詞のようにさえ思えた。

県都盛岡郊外、小岩井牧場周辺など岩手山周辺の土地にはせいぜいキャベツなどの野菜しか植わっていない時代が長く続いた。岩手山という火山から降った火山灰による酸性土壌だから作物の種類に限りがあった。カネになる稲を植えようにも田圃の水持ちがいけない。せいぜいソバを植えるしかなかった。

ところが戦後、ビニールというものが出来て革命がおきた。岩手山麓でも水田の底にビニールを敷けば水は漏らないことになったから畑から水田への転換が大いに行われた。滝沢(今も村)では特に盛んだった。岩手はそうやってアワ、ヒエとの縁を切って行った。

その頃の北上川はひどかった。水が真っ赤だったからだ。それは上流にある松尾村の硫黄鉱山から流出する排水をそのまま北上川が受けていたためで、柔らかに柳青める、と啄木が宣伝してくれても、北上夜曲が唄われても、水清き流れが実在しないものだから来た客はがっかりして帰ったものだ。

またリアス式の三陸海岸も肝腎の道路が未開通ではどうにもならなかった。従って観光資源は無に等しかった。松尾の開拓農民が逃散した跡地を県が坪10円でどうだと東京から赴任してきた記者たちに誘いかけても誰も買わなかった。

まだ、東北自動車道や東北新幹線の話は具体化しておらず、知事の演説に「観光」と言う言葉は登場しなかった、と記憶している。

その北上川の清流がもどっている。下流花巻のイギリス海岸も無事だろう。宮沢賢治のことも、疎開していた高村光太郎のことも鮮やかによみがえる。高速道路も新幹線も出来た。岩手と秋田は出来秋の美味と紅葉の秋を迎える。

鷹角(ようかく)線・・・現在の秋田内陸縦貫鉄道(角館−鷹ノ巣)

註:<頼山陽 1780‐1832(安永9‐天保3)らいさんよう

江戸後期の儒学者,詩人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎,
山陽は号。別号三十六峰外史。朱子学者頼春水の長男として大坂に生まれた。

京都文人社会でしだいに地歩を占め,1822年には三本木の水西荘に移居,ここに書斎〈山紫水明処〉を営んで,門弟教育のかたわら多くの文人墨客と交わり,各地を遊歴し,詩文・書画をつくり愛好する自由な境涯を楽しみとした。

1826年《日本外史》を完成,翌年松平定信に献上。続いて《通議》《日本政記》の執筆にとりかかり,前者を完成,後者をほぼ脱稿して病没した。

《日本外史》《日本政記》は簡潔な名文で多くの読者を得,その史観は幕末・維新期の思想界に大きな影響を及ぼしたといわれる。

著述は以上のほか門弟たちがまとめた《山陽先生書後題跋》《山陽遺稿》などがあり,《頼山陽全書》に伝記とともに集大成されている。頼 祺一>
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2006/10/15


2016年05月27日

◆ボルシチの無い理由

渡部 亮次郎



ロシア料理ではボルシチが美味しいといわれているので、その昔モスクワを訪れた際に捜したが、高級レストランには無かった。あれは家庭料理だからである。

ボルシチは赤蕪を主とし、肉、野菜を多くしたロシア風スープ。夏の短いロシアでは野菜は勿論、野菜屑までも有効に食べてしまおうと考えて出来たスープなのである。高級レストランで出すわけが無い。まして訪問時期が真冬とあっては、益々出るわけがない。

このとき泊まったのはモスクワ市内にあるクレムリンの第1号迎賓館。朝からトマトと胡瓜が山のように出た。真冬のロシアでトマトと胡瓜、なぜだ。雪の中で石油を燃やして育てた野菜。歓迎のしるしなのだ。

そうかと思うとフランス人は食用カタツムリつまりエスカルゴが大好きだ。エスカルゴと言う名のレストランがパリにはあった。注文したら一皿に12個も盛ってきた。東京では6個なのに。そういえば北京には北京ダック専門レストランがあった。

潰したニンニク片にまぶしただけのカタツムリ。食通には上等な味とされていて、精力材」として食べる人もいるようだ。

昔、九州のどこかでは、温泉の排水を利用し、南米のアルゼンチンから輸入したエスカルゴを養殖して成功したという話を聞いたことがある。温水が効いた。池にキャベツの葉などを投げてやると猛然と食いつく。その大音たるや、とてもカタツムリの立てる音とは思えなかったそうだ。なるほど勢力材かもしれない。

アジアの精力材はニンニクだが、ニューヨークでは断然牡蠣(かき)だ。今夜、オイスター・バーでどうですか、というのが口説き文句になっているほど。マンハッタンの中央駅の地下に大仕掛けの牡蠣専門レストランがあり、いつでも満席だ。

広いアメリカ。東西南北、年中、どこかの海で牡蠣はとれる。日本のように「R」の付く月以外は食べてはいけないなんてことはない。わが郷里秋田のかいがんでは8月半ばに天然牡蠣をとるが。

ニューヨークのオイスター・バーは不景気を知らない。この駅の鉄道創業者が大の牡蠣好きだったことから、牡蠣専門レストランを地下に開業させたのだという。2011・10・09

2016年05月26日

◆飲めない水道水

渡部 亮次郎



日本に住んでいる限り,飲めない上水というものは無い。しかし中華人民共和国ではホテルでも水道の水を飲んではいけない。田中角栄首相に従いて日中国交正常化交渉の取材に行ったとき(1972年9月)に知った。水には飲めない硬水と飲める軟水のあることを。

硬水(こうすい)は、硬度の高い水。北京の水は石灰分が多く、日本人が飲むと猛烈な下痢を起こす。1度沸かして冷ましたものを飲む。

ヨーロッパ大陸の水ははカルシウムイオンやマグネシウムイオンが多量に含まれている。

逆のものは軟水という。語源については、欧米の hard water がそのまま和訳されたというもの、物を硬くする成分を含んでいるため硬水といわれる。

『豆を煮ると豆が固くなる水』、『絹を精錬するとき絹が固くなる水』というものなのだ。

硬水は含有するイオンによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水などで、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる。煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させるからである。

永久硬水はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は飲用できない水であったが、現在はイオン交換樹脂で容易に軟化できる。

このように硬水は一般に、飲料水に適さないほか、洗濯、染色や工業等にも適さない。

然らば硬水を飲むとなぜ下痢をするのか。それは、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを摂取すると、大腸に長時間留まり、水の吸収を妨害する。

この結果、腸内に水分が溜まり、下痢を起こすこととなる。このような理由で、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなる。

しかし硬水の中でも飲用に適しているものも存在し、水に含まれているミネラルを栄養として利用するために、飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:コントレックスなど)

石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩(えん)であるから、硬水のマグネシウムイオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じるため汚れが落ちにくい。

また、衣類にその塩(えん)が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸になり異臭を発したりする。染色ではカルシウムイオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色ムラが生じる。

硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって自動車の洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと白い斑点が生じる。

硬水を自動車のエンジンの冷却水として使用するとオーバヒート・水漏れなどの問題が生じる場合がある。また工業用ボイラーにおいては、加熱によってスケール(缶石、水垢)が生じるため、熱効率を著しく低下させる。

蒸気機関車が鉄道の主力であった時代、ヨーロッパ大陸では軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。

生じる炭酸水素ナトリウムをボイラー中で炭酸ナトリウムに変え、て定期的に排水されて低濃度に保たれるようにしていた。

このように日本は飲み水の美味しい国として昔から有名だった。特に海外から立ち寄る船は日本での水補給に期待した。特に神戸の水は「神戸ウオーター」として有名だった。

私は北京での「教育」を後年、上海で忘れたので死の寸前まで行った。ホテルの部屋でウィスキーを呑んだ。連れの友人に聞くと「ボクは平気です」というから水割りにした。

そうしたら大変な下痢。以後何を食べても下痢。そこへ血糖値降下剤を飲んでいたから堪らない。栄養が体内に蓄積されないのに血糖値が下がる。

下がりすぎて低血糖症。3度も意識不明に陥った。幸い友人が側に居て糖分を補給してくれたから今生きている。

30年前、東南アジアの某国に出張した。アセアン外相会議。随行した若い外交官。猛烈な下痢のため,現地残留止む無しとなった。

夜、自室で水割りウィスキーを飲んだ。水は日本から携帯したものを使ったのに、氷はホテルの冷蔵庫のものを使ったのだ。あれは硬水ではなく汚水だったらしい。幸い助かって後年、大使になった。(再掲)

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2016年05月25日

◆失踪したアイ・ジョージ

渡部 亮次郎


演歌、ムード歌謡、ラテン、ポピュラー、民謡等幅広いジャンルの歌を類稀なる歌唱力で歌い上げるその姿は圧巻であった。さらに、この時代の人には珍しく、外国語の発音が完璧である。これは香港、上海、大連など外地で育ったことも関係するだろうが、現在でもここまで完璧な発音で歌う日本人歌手はまずいない。

「硝子のジョニー」「赤いグラス」などを引っさげてNHKの「紅白」にも12回連続出場したアイ・ジョージ。見なくなったな、とおもったら、借金で失踪してから16年経つという、


1972年、長年所属していたテイチクからコロムビアへ移籍(〜78年?)。この頃から実業家としての活動がさかんになり、沖縄国際海洋博覧会を見込んで作ったレストラン、八丈島のホテル、六本木のメキシコ料理店などを経営するものすべて失敗に終り、十数億の借金を抱えることになった。

1987年、借金をようやく返し終えたこともあり、NECアベニューへ移籍し、本格的に歌手活動を再開するも、同年末に金銭トラブルを起こす。

そのこともありメディア出演はさらに減っていき、1996年暮れテレビ東京の懐メロ番組に出演したのが現時点で最後のテレビ出演となっている。

あまりにも多い金銭トラブルのために日本での芸能活動が困難になったからではないかと一部では言われている。

1998年頃、永六輔がジョージを探すが、見つけ出すことは出来なかった。友人である坂本スミ子のもとには今も時折電話がかかってくることはあるが、連絡先を聞くと口ごもるという。

現在はアメリカ合衆国ロサンゼルス市在住でロスと日本を往復して生活を送っているという噂があるものの真偽は不明。

アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。芸名の由来は本名の石松譲治から苗字のイニシャル(「I」)から取ってアイ・ジョージとしている。

1933(昭和8)年、香港(当時の英国領)生まれ。父は石油会社の役員、母はスペイン系フィリピン人。

3歳の頃に母を亡くす。父の仕事の都合で、香港、大連、上海、マニラを転々としながらも不自由ない裕福な幼少時代を過ごす。

1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。。

NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。

1961年にはドドンパ・ブームを起こす。フィリピン起源のオフ・ビート・チャチャチャを、比人バンドが持ち込み、それにジョージの仲間であるクラブアローのバンドマンが目を付け、計画的に流行させたものである。ただ、三拍目を三連音符に換え、ドドンパと命名したのはジョージである。このことを考慮すると、アイ・ジョージはドドンパの生みの親
といっても過言ではない。

1963年、民音公演で「戦友」を反戦の意味合いで歌唱。これによって当時の学生が反戦の象徴曲として歌い始め、やがて当時軍人だった世代も巻き込み、軍歌ブームが起きる。

外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として長年親しまれている。

1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。

当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったが興行的には失敗に終わった。

他にも1967年にはソ連公演を果たすなど、「世界の流し」として活躍した。またこの年には富豪令嬢と結婚、一女を儲けるも1976年離婚した。原因はジョージの乱れた女性関係にあるとされる。

かくて借金に追われて失踪となる  (再掲)

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◆望郷の念に浸っていた与謝蕪村

毛馬 一三



江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。

ところが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。

京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれて蕪村を産んだものの、母親が若くして死去したため、蕪村が庄屋の跡継ぎにも成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を決して毛馬村を飛び出したに違いない。

蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。

蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。

京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回っている。

また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所を巡回している   

特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)

ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあまり知られていない。

船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかかからない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。

やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。

とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。

自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。

蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。

筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」では、大阪市立大学と共同し2016年から「蕪村生誕300年祭諸行事」開催を進める。
淀川神社、地元淀川連合町会や蕪村通り商店街、地元俳句愛好家とも、共同事業に参加して頂く。

「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行っている。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。

大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)

2016年05月24日

◆松茸がスカンク?

渡部 亮次郎



幸いにして私は松茸が好物ではないから、1本何万円もする物を買おうとは思わない。田圃の真ん中に育ったお陰である。しかし周囲の人たち、特に江戸っ子は食べたがる。北朝鮮産でも中国産でもいいのだそうだ。

日本にはそのほか韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという。

ところでマツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているそうだ。2006年10月13日の毎日新聞のコラム「余禄」に出ていた。スカンク=イタチ科の哺乳類お一群。敵に襲われると猛烈な悪臭を放つ(広辞苑)。

▲話題のネット百科「ウィキペディア」を見ていて、マツタケが英語圏では「スカンクマッシュルーム」と呼ばれているという記述に出合った。

ずい分ひどい命名と思うのは日本人だからで、その香りを嫌う人々には音楽どころの話ではないらしい

▲だから世界でも珍しくマツタケの香りを愛する日本人のもとには、地球の裏側からもマツタケが集まる。近年輸入が急増した中国をはじめ、北朝鮮や韓国、カナダ、米国からの輸入品は今やおなじみだが、トルコやメキシコ、モロッコ、ブータン、ウクライナからの輸入もあるという

▲このうち05年の輸入量の27%を占めた北朝鮮産マツタケも、核実験に対する政府の追加制裁によって輸入禁止となる。もっとも7月のミサイル発射の影響で、すでに北朝鮮産の輸入は昨年の1割以下に激減しており、今後の消費者への影響は小さいようだ

▲ただ今までにも北朝鮮産マツタケが中国を経由し、中国産として日本に入っているという疑惑が報じられた。今シーズンも1度はマツタケの奏でる調べを聞きたいという人には、何とも無粋な不協和音が気になる秋になってしまった。毎日新聞「余録」 )

マツタケ(松茸)は日本の秋の味覚を代表するハラタケ目シメジ科の独特の強い香気をもつ食用キノコ。日本、朝鮮、沿海州に分布するほか、サハリン、千島列島でも生息が確認されている。

マツタケは、アカマツなどの根を菌根化して共生する菌根菌である。ほかのキノコや土壌微生物との競争に弱く、有機物の少ない鉱質土壌で、空気量も小さく乾燥ぎみのやせた土地、つまり競合する生物が少ない場所に生育する。

古くから日本人にこのまれたと思われ、「万葉集」にもマツタケのこととされる記述がわずかにあるが、文献にはほとんどあらわれない。

これは、形からの連想で、いわば禁句だったためという説がある。また、クロマツやトウヒ類のアカエゾマツ、エゾマツ、ツガ類のツガ、コメツガの林にでることがあるが、ほとんどアカマツ林にしか生息しないことにもかかわりがあると思われる。

アカマツは日当たりのよい場所を好むので、生態遷移(→ 生態学)のなかでは先駆樹木としてはげ山に最初に生えてくるが、やがて落葉あるいは常緑の広葉樹、針葉樹のトウヒ類、ツガ類にとってかわられていく。

平安時代にはアカマツ林はそれほど多くなくマツタケも希少だったが、平安末期には京都近辺では木材、燃料不足を生じるほどだったから、広葉樹やトウヒなどが生長する間がなく、アカマツ林が多くなっていたと考えられる。

兼好法師の「徒然草」にも、コイなどとならんでマツタケが高級食品であるという記述があらわれてくる。

明治期になって近代化がはじまるとともに、薪炭の利用、木材の伐採が急激にすすみ、アカマツ林もふえてマツタケの産出量も急増した。しかも、このころは落葉や下生えを肥料や燃料としてつかっていたため、林地の条件もマツタケにとって好都合であった。

しかし高度経済成長がはじまりプロパンガスが普及すると、木炭の生産は減少し山の手入れもされなくなってアカマツ林は雑木林にかわり、マツタケの生産も急減した。現在、人工栽培はできず高級食品となっているが、実現にむけて研究がすすんでいる。

焼きマツタケ、吸い物、鍋物(なべもの)、すき焼き、土瓶むし、マツタケごはんとして調理される。最近は韓国産のほか、中国産、カナダ産のものもくわわり、国内産の量をしのいでいる。香りはやや弱いが、味や歯ざわりはかわらない。

先の「余禄」によると「私の食物誌」を著わすほどの食通だった英文学者の吉田健一さんは「フライパンでバタで炒めること」「バタは松茸の香りと味を高めるだけのようで、これ以上の食べ方を知らない」と書いているそうだ。本は昔読んだが記憶がないのは、松茸への拘りが無いせいだろう。

マツタケの香りの主成分は、1930年代に岩出亥之助によって抽出され、合成してマツダケオールと名づけられた。マツダケオールは食品添加物として、インスタントの吸物などに、ひろくもちいられている。

<この香りは欧米人にはあまりこのまれず、中国人もマツタケよりはシイタケをこのむ。>
とは色々な辞書に出てくるが、「スカンク」と言うのは、余程嫌われたものだ。

中国人は香りよりも食感重視なのか。味「シメジ」と日本人が好むシメジはどうだろう。そんなことが話し合える日中関係が来るだろうか。

マツタケと近縁なキノコに、オウシュウマツタケがある。この中にはマツタケと形もにおいもそっくりなものがあるといい、同種の可能性もある。アメリカにはアメリカマツタケがある。

日本にもミズナラ、コナラの林に形もにおいも似たバカマツタケがあり、香りをもたないものではシイ、コナラの林にニセマツタケ、ツガやアカマツの林にはマツタケモドキが生息する。(再掲)