2007年01月21日

◆失敗の無い成功は怪しい

渡部亮次郎

政界でも産業界でも人々に貫禄が無くなった、と言われる。なぜか。幸せの中で貫禄のある人間は育たないからである。

少なくとも日本では食うに困らなくなった1970年代以降はどの分野でも貫禄をつけようにも付けられなかった。だからといって失望してはいけない。これからも貫禄は覚悟如何によっては付けられる。

日本は1970(昭和45)年ごろまではどの分野にも貫禄のある人がいた。明治生まれで戦争を体験していた。大正生まれか昭和の初め生まれは、実際に銃で敵を撃った代議士や社長がごろごろいた。

昔の戦争は銃撃戦である。ミサイルを暗闇に撃つのではない。敵の姿を肉眼で捉え、敵意をこめて狙い撃ちしたのである。だから敵からも狙い撃ちされる恐怖に晒された。それを生き延びた人たちが各分野で先頭に立っていた。

何回も死というものを覚悟して戦って来た人たちだったから、ちっとやそっとのことではビクつかなかった。田中角栄などは加えて監獄も体験済みだったから、なお更だった。

私が秘書官として仕えた園田直と言う人なんか、まず陸軍に志願して入る。長男なのに長男は採用しない(事故死の危険大だから)という日本陸軍第一期落下傘部隊に志願、最後は特別攻撃隊(特攻隊)に志願。

しかし出動待ちのまま敗戦となって生き延びた。「以後の人生はお釣り」といって恐怖を感じるものはない風だった。落選を恐れなかったが落選は初めの一回きりだった。食道癌と宣告された帰りも車の中でグーグーだった(すぐ誤診とわかったが)。

銃を持たない人、例えば中曽根康弘、後藤田正晴といった人たちも軍艦に乗り主計将校として命を的に晒した経験がある。竹下も国内ながら戦火を体験した。

軍隊経験の無い総理大臣は宮沢喜一からである。細川、羽田、橋本、小渕、森、小泉、安倍もちろん軍隊経験はない。

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2007年01月19日

◆友と語らん鈴懸の径


                渡部亮次郎<メルマガ(頂門の一針 主宰)>

標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

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2007年01月17日

◆ゼネコンは中東を目指す

                     渡部亮次郎

中東に初めて足を踏み入れたのは1978(昭和53)年の1月だった。前年の11月に福田赳夫内閣の外務大臣秘書官に任命され、園田直外務大臣の初外遊、厳寒モスクワでの日ソ外相定期協議に随行。帰国翌日に今度は灼熱の中東へ飛び立ったのだった。

イラン、クエートのあとアラブ首長国連邦。冬でありながら摂氏40度近い。青空が澄みすぎて目を開けてはいられない。止むを得ず下を向くのだが、砂ですら眩しいのだ。車のボンネットにタマゴを割ったら目玉焼きのできること確実だった。

そういう中、日本から石油を掘りに来ているアブダビ石油の現場を訪問して社員たちの悩みを聞いた。酒の呑めない国だから時々パリに出かけるのが待ち遠しいとのことだった。

とにかく眩しい。移動中、警備兵が護衛してくれるのだが、兵士の全員が近隣国からの傭兵。「連中が謀反を起こしたら、こっちはひとたまりもないな」と大臣が呟いたので、一瞬、身の毛がよだったことを思い出した。

そのアラブ首長国連邦(UAE)へ公共事業から締め出された日本の大手ゼネコンが大挙して押しかけている、というニュースを読売新聞で読んだ(2007.01.15)。アブダビ石油の苦しみを今やゼネコンが被っているのだ。

産業としては石油産出しかなかったアラブ首長国は、最近、観光に力を入れ始め、鉄道、高級住宅、超高層オフィスビルの建設を日本のゼネコンが請け負っている。

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2007年01月16日

◆日本の歌百選 決定

                          渡部亮次郎

文化庁は世代を超えて歌い継ぎたい歌として「日本の歌百選」を募集していたが、その選考結果を1月14日発表した(2007.01.15付け読売新聞)。選ばれたのは101曲。

赤とんぼ、しゃぼん玉、荒城の月、春の小川などの童謡、唱歌などのほか美空ひばりの「川の流れのように」、山口百恵の「秋桜(コスモス)」、SMAPの「世界に一つだけの花」、夏川リみらの歌う「涙(なだ)そうそう」など最近の曲も選ばれた。

日本の歌百選の発案者は河合隼雄文化庁長官(休職中)。少年犯罪の報道を見るたびに、世代間の断絶や人間関係の希薄化などを心配してのことという。

文化庁は楽譜付の冊子に纏め、学校現場などに配るらしい。以下に101曲を並べる(五十音順)。

仰げば尊し 赤い靴 赤とんぼ 朝はどこから あの町この町 あめふり 雨降りお月さん あめふりくまのこ

いい日旅立ち いつでも夢を 犬のおまわりさん 

上を向いて歩こう 海 うれしいひなまつり

江戸子守り歌

おうま 大きな栗の木の下で 大きな古時計 おかあさん お正月 おはなしゆびさん 朧(おぼろ)月夜 思い出のアルバム おもゃのチャチャチャ

かあさんの歌 風 肩たたき かもめの水兵さん からたちの花 川の流れのように 

汽車 汽車ポッポ 今日の日はさようなら

靴が鳴る 

こいのぼり 高校三年生 荒城の月 秋桜(コスモス) この道 こんにちは赤ちゃん 

さくら貝の歌 さくらさくら サッちゃん 里の秋

幸せなら手をたたこう 叱られて 四季の歌 時代 しゃぼん玉

ずいずいずっころばし スキー 

背くらべ 世界に一つだけの花

ぞうさん 早春賦

たきび

ちいさい秋みつけた 茶摘み チューリップ

月の沙漠(さばく) 翼をください 

手のひらを太陽に

通りゃんせ どこかで春が ドレミの歌 どんぐりころころ とんぼのめがね

ないしょ話 涙(なだ)そうそう 夏の思い出 夏は来ぬ 七つの子 

花(滝廉太郎作曲) 花(喜納昌吉作曲) 花の街 埴生(はにゅう)の宿 浜千鳥 浜辺の歌 春が来た 春の小川

ふじの山 冬景色 冬の星座 故郷(ふるさと) 

蛍の光

牧場の朝

見上げてごらん夜の星を みかんの花咲く丘 

虫のこえ むすんでひらいて 村祭 

めだかの学校 

もみじ

椰子(やし)の実 

夕日 夕やけこやけ 雪 揺篭(ゆりかご)の歌

旅愁 りんごの唄

われは海の子(以上)2007.01.15

2007年01月15日

◆ホスピスとモルヒネ

                          渡部亮次郎

必要があって、急にホスピスとモルヒネが、残念ながら急に身近な課題となった。麻酔薬モルヒネについては平成8年の夏に義母が癌で死亡する際、使ってもらったので実感があるが、今回はホスピスを予め調べる必要が出てきた

ホスピス (hospice) とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。日本ではまだ設置数が少ないが、近年、QOL(Quality of Life,生活の質)の意識の高まりなどから、徐々に増加している。

日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫の功績によるものである。この病院での実質的なホスピスケアは、1973年から始められた。

その約10年後の1982年、長谷川保による聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を日本で最初とする説もある。

僅か30年余の歴史しかないのに珍しくない言葉になったという事は、それだけ癌患者が多くなったということかも知れない。

従来、ホスピスの開設は主に民間の医療機関等が行ってきたが、公的な機関も開設に乗り出すようになっている。

日本で最初の国立のホスピスが、1987年千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がんセンター東病院、1992年千葉県柏市へ移転)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっている。

ホスピス病棟のある病院の一覧は以下。

http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/hosp_info/hospital03/index.html

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2007年01月14日

◆故郷風味の継承者

                   渡部亮次郎

幼い頃の故郷の味がどんどん無くなって行く。秋田弁がテレビの普及でなくなっていっているように秋田で無ければ食べられなかった鉈漬(なたづけ)も砂糖漬けのようになってしまった。

TVの悪口をついでに言えば、TVの普及が真正「秋田音頭」をこの世から追放してしまった。時折、TVに登場する秋田音頭は替え歌に過ぎない。放送コードとやらが性を大らかに歌った真正秋田音頭を追放したのだ。いまや歌える人は殆ど居なくなった。

秋田といえば昔は美人の国。「山本富士子が田植えをしている」のが角館(かくのだて)だ」といわれて、なんだか照れくさくなったが、少子高齢化の先頭を走る秋田県には希望というものが感じられない。

固有の文化に気付かず、先祖から伝えられたものを守ろうとしない。そんなこととはつゆ知らず、秋田空港で鰰鮓(はたはたすし)を買って食べたところで仰天した。ほんのりとした飯鮓の甘味でなく、砂糖そのものの味になっているのである。

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2007年01月11日

◆出てきた三島対談録


                 渡部亮次郎

資料を整理していたら昔、珍しいことをしていたことを今更ながら発見した。園田直元外務大臣(故人)が自民党国対委員長当時、文豪三島由紀夫さん(故人)と対談していた。三島さんが自決する年の正月のことだった。

記事は園田さんの後援会の機関紙『インテルサット』(月刊)の昭和45(1970)年2月15日号に見開き2ページで載っている。これを企画したのはNHK政治記者当時の私。社会部の先輩記者伊達宗克(だてむねかつ)さんを通じて三島さんに依頼した。

伊達さんは既に三島さんとは面識はあったが、仲介してくれた新潮社出版部長の新田敞(にったひろし)さんの面子を考え、新田さんに改めて依頼した。

三島さんからは早速快諾を戴いたが、急に衆議院解散・総選挙となったため、園田氏が「文豪を選挙に利用したようなことになるから悪いが、延期してくれナベしゃん」となり、実現したのは昭和45年の正月明け早々。赤坂の料亭「岡田」の一室。岡田も今はない。

大東亜戦争で例の特攻隊生き残りの園田さんと、楯の会を結成し盛んに天皇を中心とする文化防衛論を展開している三島さんを会わせたらどんな話になるだろうかとの興味から発したことだったが、狙いは当ったのだった。

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2007年01月09日

◆書かないということ

                          渡部亮次郎

私が原稿を書くのは自身のメイルマガジン『頂門の一針』といくつかの月刊誌だけである。だから別に苦痛を感じることはないが、ネタが無くなったらどうしようと考えることはある。

ネタが無くなったら書くのを止めればいいだけの話、悩むことは無い。しかし幸いにもネタの涸れたことは1度も無い。涸れたかなと思えるときでも、何かが浮かんでくる。

しかし、先輩の一人が「筆が荒れるよ」と忠告してくれた。既に荒れているからだろう。そこで2007年に入ると同時にメルマガの配信を隔日にして見た。納得。

なるほど、せかされているわけじゃないから、物事をじっくり考える余裕が出てくる。ならば「荒れ」が治るまでメルマガの配信は不定期にしよう、気の向いたときに出すようにしよう、と考えている。

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2007年01月07日

◆楽聖ベートーヴェン

                   渡部亮次郎

日本で一番好まれているクラシック音楽の作曲家は誰か。モーツアルト
かと思ったらベートーヴェンだそうだ。西ドイツ時代の首都ボンにある
彼の生家を訪ねたことがあるが、折悪しく休館日だった。

2006年の歳末近く、NHKの大先輩が87歳で逝去された。東大を出て徴兵さ
れ、敗戦時には南方でアメリカ軍の捕虜となった。復員後NHKに事務員と
して入り、間もなく記者第1期生としてニュースの自主取材を開始した。

定年後、夫人に先立たれ、再婚。北軽井沢に隠棲するように暮されてい
たが一昨年、脳梗塞を発症。リハビリの途中、昨年(2006年)再発、とう
とう11月に新宿の病院で逝去となった。

亡くなる1か月ぐらい前、自宅に電話を戴いた。昭和33〜34年ごろ、NHK
仙台放送局報道課長当時の部下が懐かしがって集まる会に、今年も来れ
ないという電話だったようだが、残念ながら口の縺れは聞き取れなかっ
た。

東京・杉並区で営まれた葬儀は無宗教。沢山の花に飾られた祭壇にカラー
の遺影が置かれた以外、何もなし。30分ぐらい故人の好きだったベートー
ヴェンの曲で故人をしのんでください、とのことだったが、私にははじ
めての曲で、曲名の説明まではなかった。

私は老人になるまでベートーヴェンは聴かなかったが、昔の青年たちは
競って聴いたものらしい。右の大先輩は1分間78回転のSP(無ステレオ)で、
せわしなく交換しながらベートーヴェンを聴いたことだろう。

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2007年01月06日

◆秋田名物の恐怖

                        渡部亮次郎

『秋田名物 八森鰰 男鹿(おが)で男鹿ぶりこ 能代春慶 檜山納豆
 大館曲(まげ)わっぱ』というのが「秋田音頭」の出だしである。

その秋田名物に恐怖とは穏やかではないが、他郷の人にも美味と賞賛さ
れる名物「鰰鮓(はたはたずし)」に昔は「ボツリヌス菌食中毒」事件が
つき物だった時代があった。

昭和30(1955)年代 にまだあった。5月に田植えをしていた一団が野良で
昼食を済ませた夜、それぞれの家で倒れ、目を剥きながら戸板で次々に
担がれて行くが、病院までの途中で悶絶。確実に死んだ。

前の年の師走に捕れた秋田名物の鰰を飯鮓にして保存。約半年後の田植
えの時のご馳走に駆けつけた近所の老若男女に昼食に副えてふるまった
わけだが、飯鮓は目に見えないボツリヌス菌で全面的に汚染されていた
のだ。

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2007年01月04日

◆カネを喰うのは有権者


渡部亮次郎

<実体のない事務所の経費を政治資金収支報告書に記載する虚偽報告を
していた佐田玄一郎行政改革担当相が辞任を表明した。

国の無駄遣いをチェックする行革担当相の政治団体がその会計処理で巨
額の架空支出を計上していたのである。言語道断であり、辞任するのは
当然だ。

安倍政権にとっては、本間正明氏が政府税調会長を辞任したばかりであ
り、政権発足後、3カ月で閣僚が辞任表明したことは手痛い打撃である。
>産経新聞{主張}(2006/12/28 05:10)

産経の主張は最後に

<安倍首相は自民党幹事長時代、人事評価委員会の設置などの党改革案
をまとめた。だが、一部を除き、実現されていない。ここは自民党的体
質にメスを入れる党改革を断行する好機だ。>

と結んでいるが、こんな他人事(ひとごと)でいいのだろうか。

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2007年01月02日

◆痛くない注射の出現



        渡部亮次郎

日本で記録上初の糖尿病患者は藤原道長とされている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

<藤原道長(ふじわらの みちなが、康保3年(966年)―万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代の貴族、廷臣。

道長の邸宅で開かれた宴会の席上、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだということでも有名だ(『小右記』、原文漢文)。

晩年は壮大な法成寺を建立してそこに居住していたが、多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。

病名ははっきりとは分かっていないが、記録から癌又は糖尿病ではないかといわれている。また一説にはハンセン病であったという説もある。>

この点について日本の糖尿病学界では記録上、日本における患者第1号が道長だとしている。享年62となっているから、当時としては大変な長寿者であった。しかもインスリンの未発見の時代に、よくも、とぞ思う。

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2007年01月01日

◆謹賀新年 



●「頂門の一針・主宰」渡部亮次郎氏 寄稿
                  「結婚行進曲」

     
私が結婚式を挙げたのは1959年3月26日。敗戦から日本経済がようやく立ち直り、経済白書が「最早、戦後ではない」と謳いあげた時期だった。

だから結婚行進曲の演奏など無い地味婚だった。メンデルスゾーンの結婚行進曲を聴くのはそれから何年も後のことである。それ以前に「イタリア」を聴いた。

メンデルスゾーン「交響曲第4番・イタリア」 ドイツの初期ロマン派の作曲家メンデルスゾーンは、天才ピアニスト、指揮者でもあり、すぐれた音風景を創造したことで知られる。作品は叙情的で、色彩的な和声進行はヨーロッパの田園風景をえがいた幻想絵画のようである。

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