渡部亮次郎
敗戦直後にされた事は敵による「軍事的占領」であった。2600年の栄えある歴史を誇ってきた大日本帝国が史上初めて舐める屈辱であった。
1945年8月15日に日本は連合軍に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。
占領軍は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)といった。連合軍とはいえ、実質的には殆どがアメリカ軍だった。進駐軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。
マッカーサー元帥は8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場にコーンパイプを咥えながら到着、以後1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。
日本に到着して1ヶ月も経たない9月27日には新聞にに掲載させるため昭和天皇と会見写真を撮影させた。この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーが腰に手を当てて突っ立っているのに対し、緊張して直立不動の小柄な昭和天皇が写されていた。当時の国民にとっては屈辱的でショックであった。
日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。
「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。
連合軍とはいっても、ほとんどの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。
参謀部
1. 第1部(G1 人事担当)
2. 第2部(G2 情報担当)プレスコードの実施を担当
3. 第3部(G3 作戦担当)
4. 第4部(G4 後方担当)
特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。
幕僚部
1. 民政局(GS:Government Section 政治行政)
2 .経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
3. 民間情報教育局(CIES:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
4. 天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。
上記は中枢部分で、1946年1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。また、GSとG2が日本の運営を巡って対立。GSが片山・芦田両内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や贈収賄の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。
総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。
彼はまた後に、当初は日本を工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったと述べている。
連合軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により処罰され、東條以下7名を処刑、多数を禁固刑などに処した。
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