2007年07月31日

◆安倍で大丈夫だろうか


渡部亮次郎

<京都府福知山市大江町の農業河合勇さん(76)は「年金問題が影響したと思う。憲法改正や農業など国の根幹にかかわる議論を期待する。中山間地域は後継者が育たず土地がどんどん荒れていく。まずは現状を知り、対応策を講じてほしい」と話した。

滋賀県大津市の主婦大塚永子さん(68)は「年金や医療・福祉政策への国民の意識が影響したと思う。主婦や高齢者は収入が少なく、その多くが医療費や介護費、生活を維持するための費用に消えてしまう。余裕と生きがいを持って生きられる社会にしてほしい」と願いを込めた>京都新聞 2007・07・30

<河北新報社(仙台市)が公示前に青森県内の農家を対象に行ったアンケートでは、回答者の3割が自民支持から別の政党または「支持政党なし」に移った。

青森県むつ市の自民関係者は「最近の農政への不満に加えて年金問題もあり、農家を昔のようにまとめきれない」と嘆いた>河北新報 2007・07・30

私の身辺にいる無党派層(71歳 女性)は「政権交代には繋がらないかもしれないが、今回だけは自民党に入れない」と断言していた。民主党は自民党と違って正しい事をやれる態勢に無いから今回支持しても無駄です、と言っても効かなかった。

こと程左様に、国民の大半が「自民党と公明党にお灸を据える」心算で投票しただけだったが、お灸は大炎上となり、自民公明は大火傷ということになった。予想通りであり、敗因を今更列挙しても始まらない。

<自民「安倍続投」を確認 内閣改造で責任論封印

自民党は30日午前、参院選惨敗を受けて党本部で役員会を開き、安倍晋三首相(党総裁)の続投を確認した。首相は8月下旬にも内閣改造、党役員人事を断行、人事権を盾に党内の首相責任論を「封印」したい考えだ。「政治とカネ」問題が惨敗に直結したことから、政治資金規正法再改正も視野に透明化策の与野党協議を呼び掛ける。

ただ民意の厳しい審判が下ったことで首相の求心力低下は免れない。党内では「謙虚に反省すれば軽々に続投とは言えないはずだ」(舛添要一参院政審会長)との責任論がくすぶっているほか、人事刷新を急ぐよう求める声も上がっている。

首相は役員会で「改革を続行する。選挙結果を真摯に受け止め何ができるかを考えながら今後も責任を果たしたい」と強調。>
2007/07/30 13:10 【共同通信】

「改革を続行する」とは言うのはそのとおりだろうがが、安倍態勢の欠点の最大のものを排除してからでなければならない。

今回、年金問題が最大の敗因となったというが、この問題の存在は安倍政権の遥か以前であり、それが選挙前になって急浮上し、あたかも安倍政権の失策のように位置づけられたのはなぜか。火消し係は厚生労働相ではなく、情報管理に当るべき官房長官の罪であり、落ち度であった。

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2007年07月29日

◆林彪はなぜ死んだ


                       渡部亮次郎

毛沢東の後継者、と憲法に書かれながらソ連に逃亡途中に撃墜死した林彪に会ったことは無い。何しろ撃墜死が私の初訪中(日中国交回復の田中角栄総理訪中に同行=1972年9月)の1年前、1971年9月13日だったからである。

私はそれまで中国に全く関心が無かったが、どうしたわけかNHK政治部が作った中国研究会のキャップ米田奎次さん(故人)に無理に誘われて参加した。1970年頃である。中国に関係するということは、それだけ出世?の妨げだった。

なぜなら当時の内閣は佐藤栄作総理大臣は中国の国連加盟に絶対反対であった。中国の国連加盟即ち台湾の国連追放を意味する。大東亜戦争の終結に当って中華民国の蒋介石総統は「仇に恩で報いた」恩人。共産党より恩人守れだった。

佐藤の就任は昭和39(1964)年11月9日。政権はそれから足掛け7年も続くわけだが、発足2年後の1966(昭和41)年から中国では毛沢東による「文化大革命」が展開され「紅衛兵」による「造反有理」がはやり言葉として伝えられ、日本人記者の国外退去が開始されていた。

NHKの中国研究会は連夜、会を開いたがまず文化と大革命の関係で行き詰まった。あとでわかってみれば、これは国家主席を追われた毛沢東の権力奪還運動を大衆運動に包んで誤魔化したもので、全く、文化でも革命でもなかった。

そうした中で毛沢東が自分の後継者を決めて憲法に書いたという。民主主義国家では考えられない事だが、共産主義のソ連でもありえなかった事。一体、中国という国は何を考えている国なんだ。次第に興味を掻き立てられて行った。

ところが間もなく「外電」は後継者の林彪が死んだらしいと報じ始める。しかし、北京にただ1社残っている朝日新聞の特派員は「林彪は生きている」という証拠抜きの記事を送り続けた。中国共産党のご機嫌を損なうな徒の社長命令だった。

林彪事件は朝日新聞の偏向報道の批判として、よく引き合いに出されるのはこのためである。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を外国通信社の報道や特派員からの情報により知っていた。

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2007年07月28日

◆忘れられた建国の日



                    渡部亮次郎

私の主宰するメイルマガジン「頂門の一針」2007年7月26日号(878号)に以下のような大先輩の投書が寄せられた。

<昭和41年4月6日の祝日法改正により、国民の祝日に、「2月11日」が「建国記念の日」として加えられました。以来、40年に亘って祝い続けてきておりますが、その間、政府も、学校も、マスコミも、この「2月11日」がどんな日であるかと言う歴史的な説明を行ったのを見聞きしていないのは、私の不勉強のせいでしょうか。>

このことについて私は「目撃者」なので、改めて記録する必要を感じる。

「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える神武天皇が即位した日に基づき、紀元の始まりを祝う祝日として、1872年(明治5年)に制定された。だが紀元節は、敗戦に伴い1948年(昭和23年)廃止された。

紀元節復活の動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自民党の衆院議員らによる議員立法として、「建国記念日」制定に関する法案が提出された。

しかし、当時野党第一党の日本社会党が、この「建国記念日」の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対したため成立しなかった。その後、9回の法案提出と廃案を経る。

その頃、私はNHK政治部記者として衆議院記者クラブに配属された。ここは法案の審議状況を「監視」するポストだ。当然、各委員会の審議状況を毎日監視するほか、衆院議長、副議長、議院運営委員会(議運)の動きを絶えず見守る。

昭和40年暮のある日、副議長に就任したばかりの園田直と雑談していたら「何とか菅原通済に勲1等を取ってやる方法がないものだろうか」といった。

戦前の実業家で戦後は映画俳優と言っていいぐらいに数々の映画に出演。傍ら売春、麻薬など「三悪追放運動」に挺身。しかし「通人」として聞えていた。その人に勲1等とは・・・

園田は当選9回、特攻生き残りの猛者ながら未入閣。副議長で何か1発手柄を立てての入閣を狙っているはず。ア、あれでは無いか、建国記念日法案、社会党が「戦前回帰、保守反動の最たるもの」と非難・反対しているあれを「解決」すれば目だった手柄にはなる。佐藤栄作総理はこの法案に拘っている。

翌日、2人っきりになった時「あれじゃないですか、建国法案。あれを粋人菅原がらみで処理すれば勲1等にはなるでしょう」。園田がキッとなった。図星だったのだ。

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2007年07月27日

◆田中角栄逮捕の日


                        渡部亮次郎

今日7月27日は元総理大臣田中角栄が逮捕された日である。1976(昭和51)年、今から31年前。私は彼に飛ばされて、まだ大阪NHKにいた。

田中は政権を三木武夫に渡していたが、在任中、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みにからむ収賄事件である「ロッキード事件」で東京地検に逮捕されたのである。直ちに自民党を離党した。

総理大臣という最高位にあった者を官憲に逮捕させるとは、三木総理の恣意的な意図によるとの見解から、党内反主流を結集させ、結果的に三木は引きずり降ろされる。

その陰に田中がいた事は当然。三木の次は嘗てのライバル福田赳夫とするという大平正芳の「密約」を容認する。その福田内閣に大阪から帰っていた私が外務大臣園田直の秘書官として加わったことは皮肉だった。

賄賂として5億円。事件は関係者が多岐に亘り、複雑に見えたが、実際は簡単。ロッキード社が右翼児玉誉士夫の指導で政界のみならず各方面に隈なく賄賂を渡して工作していた、というだけ。

1983年10月 - ロッキード事件の一審判決。 東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。

1985年2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。 言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。

1987年7月ロッキード事件の二審判決。 東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。

1992年8月 - 中国訪問。 中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、長女眞紀子らが同行。

1993年7月 第40回総選挙。 眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。

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2007年07月26日

◆取材力の低下が示すもの


                        渡部亮次郎

職業紹介事情に詳しい先輩の話によると、最近の若者が最も厭がる仕事は、相手を説得する仕事だそうである。新聞の勧誘、NHK聴取料の集金などは特に嫌われるという。それでいて大学生のジャーナリスト志望は何時でもトップクラスというのだから矛盾している。

敗戦で国家のアイデンテティーを失った悲しみが60年を経て現実のものとなったのである。日教組教育の結果、自己の利益追求には急だが、相手の関心事や本心や悲しみを知ろうとする人間が出来なくなったのである。

最も酷いのが「モンスターペアレント」。先生を脅す両親。恐れた先生たちは脅された時の用意のために急いで保険を掛け始めているという。だがモンスターを育てたのが誰あろう、先生たちなのであって、天にした唾が今落ちてきたのである。

その先生の育てたもう一つの作品が主体的な取材が出来ず、自己主張の出来ない論説を書く記者たちである。モンスター記者といわれて怒ることも出来ない記者を育てたのは日教組以外に誰かいるか。

最近(2007年7月)、昔、大新聞で政治記者をしながら若くして途中退社した人と懇談する機会があった。彼が嘆くのである。「取材が苦手なものだから、スクラップ・ブック(切り抜き)を丹念に作り、それを適当に組み合わせて、それらしき記事に仕立てる記者ばかりだ」。

記者というのは沢山の人と面会するのが仕事のはずだが、最近の記者は記者を志望したくせに人に会って話を聞く事が苦手と来ては、切抜きを組み合わせて自分の意見のように見せかけるしかないわけだ。

よく論説委員が他紙の論説を丸ごと盗む事件が一再ならずあるのはこのせいだ。なるほど、昔は無かったインターネット。便利な器械で「検索」すればどの社の記事も論説も瞬時にして目前に現れる。国内の全部の新聞の社説やら論説を読もうと思えば、数時間で可能だ。

その中から気に入ったところだけを寄せ集めて「プリント」すれば、似非(えせ)論説はたちどころに完成する。中央紙同士ならすぐ露見するが、地方紙から拾う限り、露見はなかなかしないから、盗作はしばらく続く事になる。

私をNHK記者に仕立ててくれたのは秋田魁新報で社会部記者をしていた実兄だが「記者というのは、人からモノを教わる商売だ。一日に初対面の人を最低限3人作れ。出来ないだろうがな」といわれた。難行苦行だった。

また、後に会った自民党の実力者河野一郎氏は「政治記者は人生の大学院だ。名刺1枚でどんな偉い人にも会える。その人の誰にも無い貴重な体験を只で教えて貰う、人生の大学院だ」といった。

尤も、後にNHKで会長に上り詰める政治記者島 桂次は教えてくれた。「政治家は嘘を吐く。不特定多数の者を相手にする記者会見では誰がどこで何をバラすか知れないのだから真相は絶対語らない。従って単独会見以外の記事は嘘に決っている」と。彼は総理池田勇人の蚊帳の中まで行って本心を聞いてきた。

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2007年07月24日

◆負けるが勝ち



         渡部亮次郎(メルマガ「頂門の一針」・主宰)

伊藤正の畢生の力作「トウ小平秘録」の第3部「文化大革命」が2007年7月22日、遂に終わった。第4部はどのようなタイトルで何時始まるのだろうか。

伊藤正は言うまでも無く産経新聞中国総局長として北京に滞在中。中国の専門家であり、はじめは共同通信社の駐在記者だったが、2000年産経に転じて12月に総局長となった。経歴からしても中国ウォッチャーの第一人者である。

産経にはやはり共同通信社から迎えた黒田勝弘ソウル支局長と毎日新聞社から迎えたワシントン駐在の古森義久記者がそれぞれ居て、他紙では読めない、そこの深い分析記事で、それこそ紙価を高からしめている。

その中で北京の伊藤は早くから「トウ小平秘録」の準備に取り掛かっていたらしく、少なくとも公刊された書物のすべてを読み込んでいるようだ。

流石に面と向かってのインタビューに応じた人がいたか、いなかったか。相手の安全を考えれば、今の中国特派員としては、それすら明らかにはできない。当局の逆鱗に触れたら直ちに国外退去となり、2度と再び中国の地は踏めないのが現状だからである。

事情を知らぬ人は「日本の中国報道は生ぬるい」と批判するが、あそこは民主主義国家ではない。言論の自由はもちろん無く、三権も分立していない共産党楽園国家。取材の自由なんか絶対無い。

そうした中で伊藤は「トウ小平秘録」の連載を2007年2月14日から、
開始。私は朝になるのが待ち遠しかった。誰も書かない、否書きえなかった中国最大の実力者の実像を知りたかったからである。

トウは生涯に失脚3度、復活3度を経験した、世界の政治家としても稀有な存在だった。しかし、失脚されても帝王毛沢東に徹底的に怒られてはいなかった。周恩来は「不倒翁」だったが、毛への不満は抱えたまま死んだ。

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2007年07月23日

◆野坂参三の不思議



                        渡部亮次郎

2007年7月18日、98歳で死んだ宮本顕治が書記長となった1958年。議長として君臨した人の名は野坂参三(のさか さんぞう)。ところがスパイだったことがわかって100歳のときに除名された。元々何のための入党と悲惨な半生を過ごしたのか。不思議な人だった。

とにかく、1992年100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が基となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895―1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったのである。

除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らからも野坂をスパイと疑う声があったほか、ソ連と米国との二重スパイ説もある。しかし真相は永久に不明のままとなった。

山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弐と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。

帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。

この釈放から1931年に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。外国人向け政治学校クートヴェで秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。

また、1940年、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行い、日本帝国主義打倒を目指す。

2007年07月21日

◆小雪舞うクレムリン


                         渡部亮次郎

「ロシアのプーチン大統領がイーゴリ・イワノフ安全保障会議書記(61)を解任したのは、気になるニュース」という先輩・古澤 襄さんの論を読みながら、嘗て訪問したモスクワのクレムリンに頭が行った。

アメリカとの戦争に敗けた後、しばらく同じ夢を見て汗をかいた。秋田の実家のゴボウ畑の陰からロシア兵が鉄砲を向けて走って来る夢だった。兵隊は時々、ナチに変わった。

これは本人なりに分析すれば、敗戦の結果、北海道と東北はロシア(当時はソ連)に分割占領されるらしい、恐ろしい事になる、と大人たちが囁きあっているのを耳に挟んだ事による。

私の祖父は日露戦争でラッパ手だった。戦争の辛かった事は遂に一言も語らずに死んだもののロシアの怖さをなんとなく語っていた。或いはスパイ小説でロシア人の剛直さを知った。

長じて記者になっても外国特派員になる心配はなかったが、ひょんなことから41歳の時、外務大臣の秘書官に発令されて、最初に訪問したところがソ連の首都モスクワのクレムリンだったので、内心、動転したものである。

それは1978(昭和53)年1月11日[(水)午前10時(現地時間)のことだった。モスクワ郊外レーニンが丘の第1号迎賓館から何台かの車で出発したのだが、途中、車道の雪かきをしているのが、皆、女性なので驚いた。

物凄く広い通りがあった。日本大使館員の解説では、ブレジネフ議長が通る専用道路。大変なスピード気違いとのこと。それにしてもエレベーターなら聞いた事があるが、独裁者は道路まで専用とは。

クレムリンの門をくぐった。スパイ小説の読みすぎ。「おれは果たしてこの後、無事に帰れるだろうか」。小雪が舞っている。その向こうに男女の長い列。靴はボロボロ、オーバーは擦り切れている。

ははぁ、これはトルストイ描くところの「農奴」だ。とんでもない事を仰らないで下さい、これが模範的なモスクワ市民です。一世一代、クレムリンを見学に来たのです。日本人は皇居に行くときはおしゃれをして行くがなぁ。

要するに貧しいのだね。何のための共産主義なのか。これが欲しくて日本でも共産党や社会党をやっているのか。この一事を見ただけでやめると言い出すのではないか。

彼らは男女とも何故か目の縁が赤く爛れている。この理由は聞けないまま首相(コスイギン)の執務室のある宮殿へ。どうしたわけか裏口から急ごしらえの木造の階段を登って2階へ。

クレムリン(露:Кремль、Kreml正しくはクレムリ)とは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。

ソ連時代には、ソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。

ロシア語では「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。

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2007年07月20日

◆光化学スモッグ移入


                       渡部亮次郎

日本では戦後も西暦を使わなかったが、私の感覚からすると、1970年を境に使い出したような気がする。昭和35年の安保騒動を回顧して「60年安保闘争」といったり「来年は70年だ」と言ったりした。佐藤栄作内閣の頃だ。

昭和44年。自民党の幹事長は田中角栄、国会対策委員長は園田直(すなお)。マスコミは「直角強行ライン」と名づけた。「来年は70年安保闘争が展開されるっていうじゃないか」というわけで2人は衆参両院で法案の採決強行を連発した。

翌1970年に予想される学生らの日米安保反対闘争に対し、政府、自民党は「身軽になっておこう」との思惑から、折から起こっていた大学紛争に対しては大学運営臨時措置法を採決強行を衆参両院で断行するなど、彼らは「体制」「反体制」などと使った事もない言葉を交わしながら突き進んでいた。

かくてこの年の暮に行われた衆院選挙では自民党が無所属当選者を含めると300の大台に乗せるという大躍進。対して抵抗した社会党は90に激減「大敗」となった。「反体制」は70年安保の出鼻をくじかれたのだった。

国際収支黒字化の定着が示すように、当に経済の右肩あがりが定着、老人医療費の無料化が実現していて、来年は大阪で万国博、これをEXPO70と呼んで、「70年代と到来」が掛け声となっていた。

しかし牛乳に残留農薬が問題化したり、国際反戦デー、新左翼統一行動、荒れる高校卒業式が話題になるなど、新時代の到来は、経済高度成長の歪みと同居していた。フーテンの寅の「男はつらいよ」の封切りもこの年であった。

かくて実際の1970年がきて大阪万博は華やかに開幕したが、よど号乗っ取り事件に続いてガソリンの鉛公害、田子ノ浦のヘドロと並んで光化学スモッグなる新語を告げられて国民は初めて公害なるものを認識させられていった。

光化学スモッグは、日照時間が2・5時間以上で、最高気温が25°Cをこえる夏日の、風が弱い日に発生しやすい。光化学スモッグが発生すると、多くの場合、子供たちに健康被害が発生する。

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2007年07月19日

◆歌手小畑実と宮本顕治


                       渡部亮次郎

宮本顕治氏が死んだが、政治記者時代も含めて、1度も面会したことの無い政治家だった。

<日本共産党元名誉議長の宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。7月18日15時46分配信 毎日新聞>

1958(昭和33)年には慶応出の野坂参三が日本共産党の議長となり、東大出の宮本顕治が書記長となったが、2人とも山口県出身と知り、山口県というところは総理(保守系)を何人も輩出するところだが、共産党首魁も出すのかと、妙に感心したことを覚えている。NHK通信員として秋田県大館市に駐在している頃だ。

それに先立って在学した大学では昭和30年ごろ「ロクゼンキョウ」という言葉が盛んに学内に飛び、左翼の学生たちが「女子学生たちが口紅をつけやがった」と騒ぎながら「ミヤケン」を連発していた。

このあたりを宮本の履歴で辿ると
<1950(昭和25)年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。

数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅につながる。1955[(昭和30)年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命>とあり、彼女らの口紅には共産党の消長がかかっていた事を知る。

歌手の小畑実(1923-1979)の経歴を読んでいると「小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である」と出てきて小畑と宮本顕治との意外なつながりにびっくりする。

<小畑は朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。

14歳で来日し、苦学して昭和16年に日本高等音楽学院を卒業、江口夜詩の門下となる。下宿先の大家の姓である小畑を貰い、出身地は東海林太郎と同じ秋田という事にして、同年にデビューした。

小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である>。(誰か昭和を思わざる)筆者名不明。

<小畑実(おばたみのる、1923年4月30日-1979年4月24日)は朝鮮平壌出身の歌手である。本名康永普iカン・ヨン・チョル)
 1937(昭和12)年、同胞のテノール歌手永田絃次郎に憧れて日本に渡り、東京で日本音楽学校に入学。

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◆明の十三陵にて

                       渡部亮次郎

明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)は、中国の北京昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。

このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。ここを日本人として初めて見学したのは田中角栄総理である。中国との国交再開に出かけた昭和47(1972)年9月末のことである。同行記者だった私も後を追っかけて見学した。

流石のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも殆ど、情報がない。

文化大革命(1966年―1977)中に発見された。北京郊外の小高い山を散策していた男性が道で石にけ躓いた。何の石か見たら、何か字が彫られている。

「俺は明日、殺される。このたび皇帝が逝去され、明日、ここに葬られる。同時に陵墓造営に一生携わった我々は皆殺しされる。陵墓の構造を知っていて、盗掘の方法を知っているからである」

「だが、悔しい。なんで墓作りに一生を奉げた末に、殺されなければいけないのか。悔しい。だからここに陵墓への入り方を刻んでおく」と刻んであり、正確に入り方と距離を指示してあったそうだ。

共産党政府は指示に基づいて発掘した。地下4階ぐらいの深さに墓があった。入り口の扉は半開きになっていたが、盗掘はされてなかった。副葬品は地上の会館に展示されていたが、私の目をひいたのは2点。

それは玉の飾り物と金むくの金盥だった。これは厚さ2センチはあった。皇帝はこれに湯を注いで顔を洗い、庶民は一生、皇帝の陵墓建造に携わった末、皇帝薨去と共に殺される。こんな国があってよいものか。毛沢東の共産革命の動機が分ったような気がした。

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2007年07月18日

◆胃癌死は医者のせい


渡部亮次郎

こういう時代になったんですね。少々古い話で恐縮だが、時代が変わって来た。医者が訴えられて当然、しかも敗訴もあるという「先生」にとっては恐怖の時代に突入した。

<胃癌発見遅れ患者死亡、4130万賠償命令…名古屋地裁

胃癌で2002年に死亡した名古屋市内の男性(当時51歳)の娘2人が、医師の診断ミスでがんの発見が遅れたとして、「サクラクリニック」(名古屋市天白区)の医師(45)に対し、計約8990万円の賠償を求めた訴訟の判決が2007年7月4日、名古屋地裁であった。

永野圧彦裁判長は、「胃がんの疑いがあったのに、精密検査を受けさせなかった過失がある」と述べ、計約4130万円の賠償を命じた。

判決によると、男性は01年1月、胃の不快感を訴え、同クリニックで診察を受けた。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導せず、胃潰瘍と診断。同年9月、別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した>。 2007年7月4日14時48分配信 読売新聞

こういう時代が来たのである。似たようなことがどしどし出てくる。医者は大変なことになった。

医者は「先生」と尊敬され、そのご託宣は神聖にして犯すべからざるものであった。レントゲン写真には、胃がんが疑われる異常があったが、医師は精密検査を受けるよう指導しなかった。胃潰瘍と診断して放置。

しかし患者はまごうかたなき癌だったため悪化。別の病院で胃がんと判明したが、病状が進行しており、男性は翌年4月に死亡した。遺族としては1年3ヶ月前のあの時、あの先生が「癌」を発見してくれていたらお父さんは早期発見、早期治療で、死ななくても良かったと考えるのは当然である。

しかし、医者とすれば判断がつかなかった。精密検査を受けさせても胃癌でなかったら必要以上のことをさせた、と怒られるかもしれないでは無いか、と考えたとしても可笑しくは無い。

我が義母は平成8年8月26日、胃癌のため80歳の生涯を閉じたが、その1年前の胃穿孔は癌によるものであったことをあとで知った。だからあの時、救急治療医が、癌摘出をしたうえで縫合してくれていたらもっと長生きできただろうと考える。だが訴えなかった。

わが兄は6月に99・9%大腸癌だといわれて秋田市の大きな病院で開腹手術を受けたが、生体検査の結果、癌ではなかったと判明。冒頭の裁判とは逆の例となった。

その兄は二十数年前、肝内結石で開腹。ビー玉大の結石を摘出。それでも入院1ヶ月。よし明日の退院を前に念のため検査。アレ石がもう1つ残っている、で再開腹。腹には×印の傷跡が残った。それでも訴えなかった。

結局、医者を対等なものと考えられない旧世代だからであろう。あるいは勝てる見込みが確実ではないものに莫大な裁判費用をかけても、という考えもある。

しかし、名古屋の例を見れば、確かに時代と考えは変わってきている。先生は神聖でも不可侵でもなくなっている。訴訟社会といわれるアメリカでの医療訴訟の話はよく聞いていたが、日本でも、このように患者側勝訴の判決が出るとあっては、医療訴訟は増えるだろう。

先生はそれ用の「保険」を高くしなければならない時代の到来である。昔のように患者を見下し、威張っていられた時代はとうの昔に去っていた。2007・07・17

2007年07月17日

◆健康にいいもの


渡部亮次郎

作家の渡辺淳一さんが最近の週刊誌に健康法は「睡眠力」と書いておら
れる。何処でもいつでも居眠りできるように訓練し、実施してきたこと
が73歳にして「お元気そうですね」と声をかけられる秘訣だというので
ある。

「寝つきの悪い人はベッドに入ってから2時間は眠れない。そういう人と
私では有効な時間が1日3時間違う。1年で1080時間、30年で32,400時間。
それだけ得をしていることになる」。

渡辺さんは、すぐ眠れてすぐ起きられる能力を医師になりたての学位論
文作成のための動物実験中に訓練して覚えたそうだ。私も記者時代は似
たような訓練をして何時でも何処でも眠れるようにしたが、時間に追わ
れなくなった最近は却って眠れなくなってしまった。

酒を呑んでは体に障る持病があるから導眠剤を処方してもらっているが、
どうも寝覚めが良くない。頭痛がかすかにするのである。1時間もすれば
すっきりするが、やはり飲みたくない。ついつい焼酎に手が出て顰蹙を
周りから買う結果になっている。

私は1936年、2・26事件の起きる直前に生まれた。第2子として生まれた兄
の後、続いて男児が生まれたそうだが、役場に届けてのち間もなく死亡。
その後私が生まれたから父親は私を3男でありながら次郎と付けて「3男
亮次郎」の出現となった。

どうしてそうなったかは知らないが生まれつき腎臓が弱かったらしい。
4〜5歳の頃、ひまし油を飲まされ、自室の枕許で町医者が「学校に上が
るまで保(も)つかどうか」と両親に言っているのを記憶している。味
噌汁を厳禁されていた。

とにかく虚弱児童。大東亜戦争中は国民学校(小学校)の集団写真でも弱
々しく写っている。それが急に丈夫になったのは、禁を破って味噌汁を
飲んだ頃からである。折から進駐軍推奨の野球に興ずるようにもなり、
急速に丈夫になって行った。

小学生の頃は縦に並ぶと前から3番目ぐらいだったが中学になると野球部
で投手、4番、主将。おまけに生徒会長だったから、最早、虚弱返上だっ
た。

親は特に丈夫でも虚弱でもなかった。同居していた父方の祖父母のうち
祖母は女の双子を産んだ時に脳溢血を患い、死去。そのことがあって母
は未成年で嫁に来たらしい。それでも98まで生きた。父も祖父も80歳で
死んだ。

日露戦争にラッパ手として従軍した祖父が80とは長生きだったといえる
が、全く酒を呑まなかった父の80は長生きとは言えない。風邪を引いて3
日目に長女に抱かれ砂糖水を吸い差しで飲ませてもらいながら息を引き
取った。

この吸差しは祖父が死ぬ時、日本酒を飲んで死んだ器だった。祖父は私
が大学在学中の夏、脳溢血に倒れ、1週間鼾をかいて眠り続けた。その朝、
嫁たる母が吸差しに日本酒を入れて口に差し込んだところ俄然口に咥え
て飲んだ。直後、死んだ。

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