2007年07月13日

◆段ボールを喰わすか



         渡部亮次郎

中国人の発想は奇想天外だ。又、何でも食べる。4本足は机以外、2本足は梯子(ハシゴ)以外、飛んでいる物は飛行機以外は何でも食べる、と自称している。しかし21世紀に入ったら遂に段ボールを騙して食わそうとする奴が出てきた。

<ニセ肉まん:段ボールを煮込んで詰め露店で違法販売 北京

11日までの中国中央テレビなどの報道によると、使用済み段ボール紙を煮込んで詰めた偽の肉まんが北京市で違法に販売されていたことが分かった。

報道によると、段ボール紙入りの肉まんを販売していたのは、同市朝陽区の複数の露店。段ボール紙を劇物のカセイソーダ(水酸化ナトリウム)の溶液に浸して黒っぽく変色させ、さらに煮込んで軟らかくしたうえで豚肉と混ぜ合わせ、肉まんの中身にしていた。

市当局者が関係者を取り調べている。販売数、健康被害の有無は不明。

露店関係者は同テレビに「段ボール紙と豚肉の比率は約6対4。住民、出勤途中の勤め人らが買っていた」と説明した。

北京市内には多くの露店が建ち並び、肉まんやギョーザ、肉のくし焼きなどを販売。安価で、市民に親しまれている。(北京・共同)>毎日新聞 2007年7月11日 23時15分

これは違う話だ。何でも工夫してハラを満たすというのではない。客を騙してニセ物を売りつけ、カネを取ったら後は野となれ山となれ、すたこらサッサという話、詐欺のみならず傷害にあたる。

私が秘書官として仕えた外務大臣園田直(そのだ すなお)という人は剣道7段、合気道8段、空手3段という武道の猛者。軍隊に11もいて、最後は特攻隊の生き残り。豪胆の人のように思うが、香港で提供された飲茶(やむちゃ)の中に蛇料理が入っていたといったら、ナベしゃん、そげな話は消化してから言ってくれ、と言われた。

段ボール肉まんは消化するだろうか。山羊は紙を消化するらしいから人間は段ボールを消化するだろうか。冗談言ってる場合じゃないだろう。

蛇がいなくなったから、蠍(さそり)がいなくなったからではない、
豚肉を節約してボロ儲けをしようとしただけ。それで客がハラを壊そうが、どうかなろうが知ったこっちゃ無いのだ。怖い連中だ。

しかし、人民大会堂の貴賓席に痰壷を置いて会談中も痰を吐く連中である。口中に溜まった黄砂は直ちに口外に出さなければ気が済まない。工場もまた操業の結果出たゴミ、汚水は直ちに河に棄てる。

汚染された水で沿岸や川下の人々が病気になろうが死のうが知ったこっちゃ無い。段ボール肉まんを彼らは笑わないだろう。長江(揚子江)も黄河も毒だらけ。東シナ海もすっかり汚染されて、毒物が既に日本海沿岸に漂着している。

人間が唾を吐くように工場が、はては中国という国家そのものが唾を吐くように地球を汚染している。トウ小平の改革開放経済は公害の拡散経済だったわけだ。中国共産党は計画経済を棄てた結果、世界を敵に回そうとしている。気付かないフリをして。

2007年07月10日

◆犀星は啄木から盗作

                       渡部亮次郎

産経新聞の文化欄を開いて愕然とした。「犀星は啄木におんぶした」故郷は遠きにありて思ふもの、は盗作だというのである。(2007・07・09石井英夫「蛙の遠めがね」)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、<室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生照道(てるみち)、男性、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた>となっている(07・7・9現在)が、これも違うという。

石井さんによると、これらを明らかにしたのは金沢在住の犀星研究家の安宅夏夫さん。安宅さんは犀星と同じ金沢の出身で室生家とは家族ぐるみの交際。作品収集や全集出版にも尽力した。

しかし犀星の出自や作品誕生の経緯に封印する事は、日本の文学史を捏造・偽造する事だとの考えから平成19年6月刊行の『人物研究』第19号(近代人物研究会)に発表した。

安宅さんは犀生の本当の父は加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種ではなく、その子で小学校校長の生種、母は21歳の芸者「ちか」だったことを既に突き止めている。

室生犀星の事は詳しく知らなくても「ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 仮令異土のかたえ(こじき)になるとても 帰るところにあるまじや」の冒頭ぐらいは知っている人の多いほど、有名である。

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2007年07月09日

◆トウ(ケ)は賢明で狡猾


                      渡部亮次郎

トウ(ケ)小平は革命成就3年後の1952年毛沢東により政務院常任副総理に任命され、そのほか運輸・財務の大臣級のポストを兼任する。

その後昇進を続け、1956年には中央委員会総書記に選ばれて党内序列第6位になった。

ところがトウ(ケ)小平は、毛沢東が大躍進政策失敗の責任を取って政務の第1線を退いた後、共産党総書記となっていたのでケ国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。

この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

毛沢東夫人江青は思想的にも性格的にも劉少奇とトウ(ケ)小平を嫌い、毛の復権を狙い、2人の蹴落としを狙った。さながら再革命のようにして始まった文化大革命のほんとの目的はそれだったのだ。

だから文化大革命の勃発以降、トウ(ケ)は「劉少奇に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。1968年には全役職を追われ、さらに翌年江西省南昌に追放される。

追放に先立ってトウ(ケ)は自己批判を余儀なくされた。

1966年12月2日、産経新聞北京支局長(当時)の柴田穂氏(故人)は北京の繁華街「王府井」で、トウ(ケ)小平批判の壁新聞を発見した。

新聞紙大の活版刷りで「トウ小平は党内の資本主義の道を歩む実権派である」と題し、「彼の罪悪に徹底的な制裁を加えねばならない」と呼びかけていた。

しばらくすると「トウ小平自己批判書」全文なる壁新聞が出た。トウ小平総書記(肩書は当時、以下同)は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに、8月に批判されて職務を停止され、10月の中央工作会議では、全面的な自己批判を行っていたが、公表されていなかった。

8月18日に始まった毛沢東と紅衛兵との「接見」には、劉、トウ両氏も欠かさず天安門楼上に姿を現した。11月25日の最後(8回目)の接見時も同様で、両氏は批判はされても「健在」と外部ではみられていた。

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2007年07月08日

◆華国鋒は何処に


                       渡部亮次郎

日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。

最近、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。

華国鋒(か こくほう。1921年2月16日―)は、山西省交城県出身で、中国の元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。

条約の調印式には出てきたが、すぐに姿を消し、2度と再び公の席に姿を現さなくなった。死んだという知らせには接していない。

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2007年07月07日

◆七夕に倒れた河野


渡部亮次郎

「明日は平塚で七夕だからね、キミも必ず来なさい」が自民党の実力者河野一郎が私に掛けた最後の声であった。七夕の朝に自宅で倒れ、翌8日には死んでしまったからである。1965年のこと。

私がNHK盛岡(岩手県)放送局から東京本部の政経部(まもなく政治部)に発令されたのが1964年(昭和39年)の7月10日。文京公会堂で池田勇人(はやと)総理が自民党総裁に3選された日だった。特急「はつかり」で上京した。

東京は大学卒業以来6年ぶりだった。秋田県大館市で秋田放送局の通信員。翌年のNHK採用試験に合格して仙台放送局に転じて1年。チリ地震津波の直後に盛岡放送局に転勤して4年。将来がなさそうだからコカコーラに転職しようと画策していたら辞令が来たのだった。

折から日本では初の東京オリンピック。オリンピック担当大臣は河野一郎。キミ、担当したまえ、と部長に言われて追っかけていたが
「河野さん、あなたの目は義眼だそうですが本当ですか」と質問したことでえらく気にいられ、「河野派」も担当することになってしまった。

「キミはいい記者だ。ボクの目は義眼なんかじゃない。それなのに誰も質問もせずに義眼だと書く。キミが初めてだよ。いい質問をしてくれた」。

「若い頃、弟(謙三=後年参院議長)にトラホームを伝染された。そこで小田原の目医者で手術を受けた晩に夜遊びに行ってしまったので拗れた。それで右目は殆ど視力か無くなってしまった。それで眇目で見るから義眼と間違われるのだよ」と嬉しそうだった。

付き合ってみると、これほど優しく、気遣いの至る人はなかった。やることが阿漕だとか新聞記者の服装に五月蝿いとか、マスコミは敬遠していたが、実際はそんな事は全く無かった。

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◆糸で縄を買った


                       渡部亮次郎

第2次世界大戦終結後、世界経済はアメリカのリーダーシップの下で、貿易と為替の自由化を強力に進めていた。敗戦国日本も、アメリカの庇護(ひご)の下で戦後復興と国際社会への復帰をめざしていた。

このような状況下で日本のアメリカ向け輸出は急増し、繊維、雑貨類、金属製洋食器などで最初に対米輸出自主規制をおこなわなければならなかった。

とくに繊維については、1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品により、アメリカ繊維産業が大きな被害をうけたため、日本は1956年(昭和31)1月から輸出自主規制を行った。

62年1月には綿製品の国際貿易に関する短期的取り決め(STA)、ついで63年1月には長期的取り決め(LTA)が結ばれた。しかし、この頃はまだ貿易摩擦という程ではなかった。

その後、1960年代後半には日本の貿易収支の黒字基調が定着し、繊維の対米輸出は次第に最初の日米貿易問題として顕在化してきた。貿易摩擦の対象品目は綿製品から毛製品、化学繊維製品に移り、これら3品目の日米間取り決めの1本化がはかられた。

当時の佐藤栄作内閣には戦後のどの内閣も成しえなかった悲願があった。沖縄返還である。敗戦によりアメリカに占領されたままの沖縄を外交交渉により返還させることは佐藤内閣の公約であった。

一方、アメリカ(ニクソン大統領)にも悲願があった。1ドル・ブラウスに代表される安い日本製綿製品の輸入阻止である。

このため佐藤首相は担当する通産大臣に大平正芳、宮沢喜一と自らは強力と信ずる有力者を配したが一向に解決しなかった。時あたかも自身の後継をめぐって福田赳夫と田中角栄が熾烈な戦いを水面下で展開していた。
佐藤としては田中は派閥を任せてきた側近ではあるが「なにせ小学校卒、教養が無い。そこへ行くと福田は東大での切れ者。後継者は福田」とハラに決めていた。

そこで昭和46(1971)年7月5日の第3次改造内閣では福田には貫禄付けを狙って外相を与えたが、田中には難問中の難問が控えている通産大臣を与えた。私は田中に恥をかかせて後継を一旦は諦めさせようとしたのだと思った。私は勝ち馬(の筈の)福田の担当だった。

ところが福田には運が無かった。党内支持の頼りとした参議院議長重宗雄三が議長4選工作をしている頃、胆石手術のため入院。重宗は手も無く4選断念に追い込まれた。田中は参院自民党の多数派工作を堂々と進めることができた。

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2007年07月06日

◆古関裕而は大天才


                          渡部亮次郎

友人宅でTVニュースを見るとも無く見ていたら(2007・07・04)NHKが早稲田大学の校歌「都の西北」の作曲(日本人)に欧米の既存曲模倣が見られると放送していた。今年100年を迎えた曲だそうだ。

ところで早稲田のもう1つ有名な歌が応援歌「紺碧の空」だが、この作曲者と、ライバル校慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」の作曲者は同一人物「古関裕而・こせきゆうじ」である。

ついでに阪神タイガースの歌「六甲颪・ろっこうおろし」と好ライバル巨人軍の歌「闘魂込めて」の作曲者も同じく古関裕而。中日「ドラゴンズの歌」も古関である。

NHKに至っては今に残るテーマ曲の実に多くが古関の手になる。
1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「スポーツショー行進曲」
970年 NHK「日曜名作座」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「昼のいこい」テーマ曲
1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)
NHK「教育テレビ放送終了」テーマ曲
NHKラジオ「今週の明星」

全国の校歌に関しては「福島商業高等学校(古関の母校)校歌」他、300校以上を作曲。

1964年東京オリンピックの行進曲もそうだし全国高等学校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」も古関の作曲だ。しかも彼は音楽は独学、商業学校しか出ていないとなれば天才以外の何者でもなかったというしかない。否、大天才だったのだ。

1935年(昭和10)、『船頭可愛や』が大ヒット。この歌は音丸のほか世界の舞台でも活躍した三浦環もレコードに吹込んだ。声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。この頃から同郷の伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。

戦時中は戦時歌謡で数々の名作を残す。決して戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律が大衆の心の奥底に響き、支持された。

戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。

1931年「紺碧の空〜早稲田大学応援歌〜」(作詞:住治男)
    「我ぞ覇者〜慶應義塾大学応援歌〜」(作詞:藤浦洸)が出来るのは1970年だが。

1935年「船頭可愛いや」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)
1935年「東京農業大学カレッジソング」(作詞:吉田精一)
1936年「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」(作詞:佐藤惣之助、歌:中野忠晴) 昭和11年である。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中戦争の始まり。歌にも戦時色が濃くなって行く。古関も戦時歌謡と称する軍歌を作らされる。つくれば天才だから名曲が出来た。

1937年「露営の歌」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章)
1938年「愛國の花」(作詞:福田正夫、歌:渡辺はま子)この歌は、日本放送協会の依頼で作曲したもの。戦後のラジオ歌謡に当たる国民歌謡として放送された美しい長調のワルツ。

清らかなメロディーは多くの人に愛された。兵士を通じて東南アジアの人々に伝わり、特にインドネシアでは現地の歌詞がつけられ現在でも歌われている。故スカルノ大統領の愛唱歌だった事は有名。

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2007年07月05日

◆福田に派内の人気なし


渡部亮次郎

夕刊フジ紙(2007・7・5付)によると9ヶ月前の自民党総裁選で派内の人気不足を理由に立候補を見送った福田康夫氏が安倍後継に顔を出したが、町村派(旧福田赳夫派)では中堅若手から『絶対に認めない』と声が上がった、という。

それなのに「反安倍勢力」の山崎拓元副総裁や加藤紘一元幹事長らが推す動きがある、と夕刊フジは読んでいる。

<公示を約1週間後(12日)に控えた参院選で、安倍自民党の情勢は非常に厳しい。久間暴言の影響もあり、「38議席から36議席もあり得る」(同)という危機的数字がささやかれ始めた。

(そうなれば)かつて宇野内閣は参院選で36議席、橋本内閣は44議席しか獲得できず退陣に追い込まれており、参院選後の安倍退陣も現実味を帯びてきたのだ。

現時点で「ポスト安倍」の有力候補として名前が浮上しているのは、麻生太郎外相、福田康夫元官房長官、谷垣禎一前財務相、中川昭一政調会長の4人。>といつの間にか福田氏が復活している。

<だが、麻生氏は総裁選立候補に必要な推薦人数(20人)に満たない小派閥(15人)の領袖なうえ、小泉、安倍両政権で党・内閣の要職を務めてきた。「安倍退陣」なら、「共同責任」を問われる可能性もある>。

麻生氏は同じ九州出身の立場から派閥は違うものの辞めた久間氏を強力な助っ人として視野に入れてきた。事態が急変し、出直しである。

一方<福田氏は約1年前、「ポスト小泉」の有力候補として去就が注目されたが、同じ派閥(現町村派)の安倍首相が手を挙げたこともあり、総裁選出馬を見送った。

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◆老化は熟成でもある



                     渡部亮次郎

雑誌にアンチエイジングとあった。しばらく考えて分った。老化拒否なのである。それならそう書けばいいものを、わざわざ英悟を片仮名に直し、読者には漢字で考えさせるというややこしい事をさせる。

エイジング。老化。それに抵抗することだから「ジーニアス英和辞典」を引いたら、老化のほかに「熟成」とも出ていた。老化するとは死に近付くことでもあるが酒や味噌のように美味しく熟成して他人の役に立ち、自分を誇りに思えることでもある。

生きるとは死ぬことである。生まれたら成長すると言うが、それが違うのだ。最後に来る死に向かって懸命に走っているに過ぎないのだ。ただゴールが何時かを自身が知らないだけだ。

盛者必衰の理(ことわり)通り身体の各部分は生まれた瞬間から衰えて行く。中年を過ぎれば皺もしみも方々に出来る。これは生物が生きている証拠として止むを得ないものである。

ところが戦前は無かったものに美容整形がある。戦後にアメリカから入ってきた考えで、自然に抵抗する思想そのまま、老化にも抵抗すべきだという医学である。

詳しい事は知らないが、雑誌などによると顔の皺を伸ばすためにあちこち引っ張りあげて縫うのだそうである。しかし、何年かするとまた皺がよるので、手術を何度も続けなければならないそうだ。

昔の日本人はこんなことを考えもしなかった。身体の老化は仕方ないもの、その代わり心の成熟があれば心安らぐべきものと考えた。だからこそ年寄りは尊敬された。

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2007年07月02日

◆ネオコンよいずこ

                      渡部亮次郎

ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補の国際連合大使 辞任に次ぐポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、元国防副長官の世界銀行総裁更迭で、いわゆるネオコンのブッシュ政権からの退却にはカタが付いたのではないか。

彼らネオコンは自ら「ウルカヌス」と称するブッシュ側近を自らの思想でいわば染めようと試みたが、結果は悉く失敗し、ブッシュはいまや典型的なレームダックの老醜を曝している。

但しネオコンそのものは消えるわけではない。厳然として存在し続けるはずである。専門家である学習院女子大学教授の畠山圭一氏は
指摘する。

「フセイン政権崩壊の段階で、ラムズフェルド国防長官やネオコン派の役割は事実上終わっていたと見てよい。ネオコンの位置づけははっきりと変わっている。2年前から。

まだ副大統領チェイニー辞任の可能性も残ってはいるが、政権内ではほぼカタが付いたといえる。だがネオコンの消滅と考えるのは早計。ネオコンの立場からは、あくまでも路線変更ということではないか。フランシス・フクヤマの新著が何よりもそのことを示唆している」。

ネオコンとはアメリカ合衆国における新保守主義(しんほしゅしゅぎ、英:neoconservatism:ネオコンサバティズム、略称:ネオコン)は、保守ムーブメントのひとつ。米国において、ブッシュのタカ派外交政策姿勢に非常に影響を与えて来た。

ネオコンとされている有名な思想家・政治家。

エリオット・アダムス (w:Elliott Abrams)
リンダ・チャヴェズ w:Linda Chavez
リチャード・チェイニー (w:Richard Cheney)、米国副大統領、前国防長官、前ハリバートン会長 リン・チェイニー (w:Lynne Cheney)、チェイニー副大統領夫人、反ネオコン学者の評論家 ジョン・コーニン (w:John Cornyn)、共和党上院議員、元テキサス州司法長官 ダグラス・ファイス (w:Douglas Feith)、前国防次官 デーヴィド・フルーム (w:David Frum) カナダ出身の記者、「悪の枢軸」のことばを発言 フランシス・フクヤマ (w:Francis Fukuyama)、

『歴史の終わり』の筆者、大統領の生物倫理委員会の会員 後にイラク戦争の誤りを認め転向 クリストファー・ヒチェンズ (w:Christopher Hitchens), イギリス出身の解説者 サミュエル・ハンチントン (w:Samuel Huntington)、『文明の衝突』の筆者 アーヴィング・クリストル (w:Irving Kristol)
マイケル・レディーン (w:Michael Ledeen)
ルイス・リビ (w:I. Lewis Libby)
フィリップ・メリル (w:Philip Merrill)、輸出入銀行会長
リチャード・パール (w:Richard Perle)、国家防衛政策委員長

ノーマン・ポドレツ (w:Norman Podhoretz)
ロナルド・ロトゥンダ (w:Ronald D. Rotunda)、ジョージ・メーソン大学法学教授 ポール・ウォルフォウィッツ (w:Paul Wolfowitz)、世界銀行総裁 元国防副長官 ジョン・ボルトン (w:John R. Bolton)、国務次官補、元国際連合大使 マイケル・ノヴァック(Michael Novak)、研究者
ピーター・バーガー(Peter Berger)、研究者

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2007年07月01日

◆さくらんぼで焼酎


       渡部亮次郎

秋田の旧友田中昭一さんから、秋田産のサクランボを戴いたので昨夜、焼酎の水割りを片手に戴いた。新発見、焼酎のさくらんぼカクテルであった。

実はさくらんぼは家人が食べるものと決めて、手を出さなかったのに、なんと、あっという間に尽きてしまった。さくらんぼの本場は山形県といわれる。だが、秋田県南部でも盛んに栽培されていることを知ったのは50歳近くなって、田中さんと知り合ってからだった。

そういえば、リンゴも秋田県内にはかなり栽培されている。敗戦直後、うちひしがれる日本人を慰めたといわれる「リンゴの歌」。同名の映画のロケ現場は青森県でも長野県でもない。秋田県南部の増田町(ますだまち)のリンゴ園なのである。

ところで今やさくらんぼは北海道でも栽培されているのをご存知か。<北海道増毛町産さくらんぼ。日本最北果樹生産地「増毛町産」さくらんぼ佐藤錦、水門、南陽の先行予約受付を開始しました!>とインターネットに出ている。数年前友人の手配で落手したが、相当、酸っぱかった。当然、山形モノより遅くなる。

リンゴに対する中国での人気はきわめて高く1個1000ぐらいするのに、あっという間に品切れになる。それを知って日本の主産地は気をよくしているが、真似の大好きな中国人。旧満洲(東北部)で最近、何百ヘクタールも植栽された。そのうちさくらんぼも植えるかも知れない。

さくらんぼは秋田では「おうとう(桜桃)」という。北隣津軽(青森県日本海岸側)旧金木町の旦那太宰治の忌日は「桜桃忌」と称される。

<森鴎外の墓の斜め前に、太宰治の墓がある。太宰の死後、美知子夫人が夫の気持を酌んでここに葬ったのである。

第1回の桜桃忌が東京・三鷹市の禅林寺で開かれたのは、太宰の死の翌年、昭和24年6月19日だった。6月19日に(愛人と玉川上水で入水心中した)太宰の死体が発見され、奇しくもその日が太宰の39歳の誕生日にあたったことにちなむ。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられた。

「桜桃」は死の直前の名作の題名であり、6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が、鮮烈な太宰の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして、友人たちの圧倒的支持を得た。

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2007年06月30日

◆宮沢喜一元首相が死去



          渡部亮次郎


<「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派と
して知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、
老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。

通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から東京都港区南青山2
の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻の庸子(ようこ)さん。自宅は東京
都渋谷区神宮前6の34の1。Asahi Com >2007年 06月28日19時31分

この夜、東京・内幸町の日本記者クラブのレストランでご逝去を知らされ
たが、失礼ながら、何の感慨も浮かばなかった。政治家に転進すること
なく、行政官に徹した方が幸せだったのではなかろうか、と思った。

特に田中角栄元総理が、早くから宮沢のこととなると、火が付いたよう
に「宮沢だけは総理大臣にしてはいかん」と叫んだことを思い出す。そ
れは子分の竹下登を総理にしたくない感情とは全く別で、心底、思って
いるのがよく分かった。

私は宮沢に1度、インタビューしたことがある。面白くも可笑しくも無か
ったが、質問には実に正確に答え、破目の外れる事は1度もなかった。し
かし、それ故にハプニングは1度も無く,面白味の全く無いインタビュー
だった。

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2007年06月28日

◆連結器外された安倍外交


                 渡部亮次郎

言わないこっちゃない。米国通の共同通信OB松尾文夫産後指摘の通り、北朝鮮の核問題デ、アメリカは苦しさのあまり、安倍政権とは連結器を繋がないまま独走しようとしている。置いてけ堀。

6月27日14時24分配信 読売新聞によれば、
<安倍首相が米中韓朝会合に強い不快感を表明した。これは安倍首相が27日昼、都内のニッポン放送で行われたラジオ番組の収録で、演出家のテリー伊藤さんと対談した際に述べたもの。

北朝鮮の核問題について、「日本が外れた6か国協議はありえない。(北朝鮮は)いろいろな策謀をめぐらして、日米、日中の分断を図ってくるが、彼らの策謀にはまってはいけない」と厳しく指摘した。

6か国協議参加国のうち米国、中国、韓国、北朝鮮の4か国が、朝鮮戦争の休戦協定に代わる朝鮮半島の恒久的和平体制を協議する会合を開こうとしていることに強い不快感を表明したものだ。

会合開催の検討は、6か国協議の米首席代表クリストファー・ヒル国務次官補が表明した>。

この点について渡部亮次郎のメイルマガジン「頂門の一針」848号
(07・06・26)は元共同通信社常務理事古澤襄(のぼる)氏の「米国の『敵前逃亡』?」を掲げて厳しく警告した。その結果がこれである。

古澤氏によれば、松尾氏は次のように指摘して、ブッシュ政権の変わり身を早くから指摘していた。それなのに日本外務省は何の疑問も抱かずに唯々諾々とアメリカを盲信してきた。もはや遅いかも知れない。

「アメリカは、はっきりと対北朝鮮政策を転換したのである。イラク戦争の泥沼化による2006年の中間選挙での敗北後、ブッシュ政権内でネオコン勢力が力を失った。

ライス国務長官の主導権の下で、核実検やミサイル発射は不問にして、とにかく北朝鮮の核開発に歯止めをかけることを優先する現実主義路線が実行に移されたというわけである。ヒル次官補がその立役者であった・・・と松尾氏は言いきった。

1月の時点で、米外交の転換をここまではっきり指摘した分析は出ていない。しかも拉致問題についても安倍首相は、アメリカの「敵前逃亡」を覚悟しておくことが必要かもしれない、と松尾氏は厳しい指摘をした。(古澤氏)

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