2007年05月15日

◆林彪事件の朝日新聞


渡部亮次郎

日中間の国交正常化が1972年に成るなど、前の年に予測できた政治記者はいなかった。ガチガチの官僚内閣佐藤栄作政権が既に足掛け8年も続いて国民は飽き飽きしているというのに、後継者は又大蔵省出身の福田赳夫だという。

なるほど、対抗馬として考えられるのは佐藤派の財布・田中角栄が居るが、佐藤によって潰される可能性無きにしもあらず。大平正芳、三木武夫。それに中曽根康弘も出たがっては居るが、半人前だからな。

NHKでは政治部の中に「中国問題研究会」が作られ、米田奎二記者がチーフとなり、どうしたものか私も加えられた。その時、本当は文化大革命のさなか、中国では毛沢東対林彪の大権力闘争が起きていた。国交正常化などまだ考えられなかった。田中の政権獲得を信じていたのは島 桂次(のちにNHK会長・故人)だけだった。

1971年秋のことである。何しろ、1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、1971年10月1日の国慶節パレードが当然中止され、人民日報の紙上にも林彪の名が現れなくなったのだ。

「毛沢東重病説」や、「何か重大な政変があったのではないか」との観測が世界中に広まった。この時、朝日の北京特派員の秋岡家栄記者は、パレードが中止になったのは「新しい祝賀形式に変わったのではないか」(1971年9月27日)と、中国共産党内部における政変がなかったかのように報じた。

10月1日に、「モンゴル領内で国籍不明機が墜落した」というモンゴル国営通信社電を各社が一斉に報じ、林彪失脚の噂が世界的に広まる。日本人記者は文化大革命で全員が国外退去となっており、朝日の秋岡記者しか北京にいなかった。

10月は日本の主要各紙とも、北京のルーマニア高官が乾杯で林彪の名前を省略したこと(10月12日 AFP)を伝えたり、林彪重病説(10月9日 ニューヨークタイムズ)を伝えるかと思えば、『中国画報』という雑誌に林彪の写真が掲載されていること(10月27日 ロイター)を伝えたりとブレがある。

やがて11月頃からは失脚の可能性を伝える報道が主流となる。例えば産経新聞は11月2日付け外報トップで、「ナゾ深める”林彪氏失脚”の原因」という記事を掲載している。

しかし朝日新聞は、「その飛行機には中華人民共和国の要人が搭乗していたのではないかとモスクワでは噂になっている」ことを伝えている(モスクワ特派員電)が、林彪そのものには全く触れていないばかりか、政変の可能性についても全く触れていない。

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2007年05月13日

◆「母あればこそ」

                        渡部亮次郎

おそらく生涯を通して忘れることの無い歌は伊藤久男の歌ったNHKラジオ歌謡「母あればこそ」だろう。昭和29年、雪の降り続く秋田から大学受験のため、東京に向けて列車に乗った。朝だった。蒸気機関車が重く汽笛を鳴らして動き出した。

ふと田圃の向こうの家に目をやると、小さな母が畑のこちらに出てきて手を振っているではないか。汽車は混んでいて窓を開けるもならず、思わずこみ上げる涙を回りに見られるのを隠すのにいっぱいだった。

家は米単作農家で豊かではない。それなのに私を東京の大学へやると言うのは、4年前、県内一の進学校を1番で卒業した兄を大学にやれなかった後悔を繰り返したくないの一心から。

集落中の農家の主婦たちが織る藁筵(わらむしろ)を買い集めて魚粕を入れるかますに仕立てて農協に売ると言う仕事を父ではなく自分でやることで、次男坊は大学にやると言う母。

大胆な決意を抱いて手を振る母。厭でも感傷的になる朝に初めて息子に手を振る母を見て、涙が止まらなかった。

そのまま大学生活が始まった。まだ食糧難の続く東京。あっという間に10キロも痩せた。母の頑張りで月1万円の仕送りは絶えることが無かった。そうやって1年が過ぎようとした冬の夕暮れ、下宿のラジオで伊藤久男が歌った。

「ひとりみやこへ 発つ朝も 泣いて結んだ 靴のひも ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くひそかに 想うもの」

旅立ちのあの朝の心境に通じる歌。決意を胸に抱いて汽車に乗った息子、雪の中から手を振る母。まるでそっくり、いやこれは私たち母子を謳った歌ではないのか。

後に調べると、歌は「母あればこそ」と題してNHKラジオ歌謡として放送されたものだった。寺尾智沙作詞・田村しげる作曲。お2人は夫婦で他に「白い花の咲く頃」など多くの名作を世に送り出したヒット・メーカー。私の心を深く打ったあの歌は昭和30年1月24日から放送されたものだったのだ。

「祭り帰りの 丘のみち 声を合わせた わらべ唄 ああふるさとは ふるさとは 母あればこそ いつも優しく 浮ぶもの」

やがて私も中年になり都会で家庭を営むようになり、農村の母とは永年、別れて暮らすようになった。それでも、いや、それだからこそ「母あればこそ」は郷愁の歌としていつも心に流れていた。何とかしてこのレコードを手に入れたいものと思って探したが見つからなかった。

そこでNHKがラジオ第1放送で毎週日曜日の午前10時からはじまる「歌の日曜散歩」にリクエストしたら、すぐ採用された。

何十年ぶりに聞く「母あればこそ」だったが、その番組を聴いた広島の未知の人がテープを送ってきて下さって二重の感激に浸った。やがてレコードも「ラジオの時代」に組まれて発売され入手した。母は2005年の正月、98歳、忽然と逝った。しかし、この経緯は知らずに。

「山ふところの たそがれは 胸に染み入る 雲のいろ ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くはるかに 想うもの」。母はこの歌と共にいつまでも私の胸に生きている。(了)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

2007年05月11日

◆得意技は捏造?


                            渡部亮次郎

伊藤律 架空会見記事捏造事件【朝日】

1950(昭和25)年9月27日付け朝日新聞夕刊に人々は驚愕した。

東京本社発行の夕刊社会面7段で扱った日本共産党の「伊藤律単独会見
記」が載ったからである。GHQや警察の追及をかわしている日本共産党の
幹部に朝日新聞記者が単独インタビューしたというのである。

伊藤律氏はレッド・パ−ジ(1949-50年に行われた共産党員の公職追放)で
地下に潜行中だったが、その記事の見出しは「姿を現した伊藤律氏 本
社記者宝塚山中で問答」

「徳田氏は知らない 月光の下 やつれた顔」となっていた。この記事
は、3日後の9月30日付け夕刊で「ねつ造記事と判明した」として、
陳謝と全文取り消しの社告で抹消され、縮刷版のこの日の社会面の中央
は白紙になっている。

『朝日新聞社史』昭和戦後編125ページに「伊藤律架空会見記」の項があ
る。

記事を書いた長岡宏記者(30=当時)は「伊藤律氏との会見記事は、私の仕
組んだ全くの狂言でした」 と弁明。戦後生まれ変わった朝日新聞の輝か
しいねつ造の扉を開いた金字塔。

のちに分ることだが伊藤律は共産中国に匿われていた。

サンゴ事件。

平成元年の4月20日に起きた朝日新聞による自作自演事件。朝日新聞記
者が沖縄にある珊瑚礁にK・Yという落書きを発見、夕刊1面で報じた。

ところが、その後の調査の結果、朝日新聞記者が傷をつけて記事として
書いた自作自演報道であることが発覚した。

当初は傷をなぞって深くしただけ釈明していたがのちに全て記者の仕業
と判明。一柳社長が引責辞任した。辞任した一柳元社長も会見で伊藤律
架空会見記事捏造事件引き合いに出して謝罪した。

第2次NHK番組改変問題

2001年1月30日に放送されたNHK「ETV2001『問われる戦時性犯罪』」の番
組改変問題は国会と裁判所において一応の結論が示され収束していたが、
2005年1月12日に朝日新聞が朝刊1面に突然記事を出し「第2次NHK番組改
変問題」が勃発。未解決である。

http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200501251539.html
↑参照。

渡部亮次郎のメイルマガジン『頂門の一針』797号(2007・5・10)で報じら
れた「日本軍が朝鮮人女性をさらって慰安婦にしていた、という話は実
を言うと朝日新聞記者の創作だった」。元産経新聞記者で先ごろまで大
学教授だった高山正之氏が週刊新潮のコラム「変見自在」(2007年5月17
日号)で紹介している。――これがこの通りだとなると明らかな捏造とい
うことになる。

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2007年05月10日

◆朝日新聞記者の創作


                          渡部亮次郎

「日本軍が朝鮮人女性をさらって慰安婦にしていた、という話は実を言うと朝日新聞記者の創作だった」。元産経新聞記者で先ごろまで大学教授だった高山正之氏が週刊新潮のコラム「変見自在」(2007年5月17日号)で紹介している。

「記者の名は植村隆。妻は朝鮮人で、その母は反日団体の幹部だった。彼が書いたのが『金学順』の物語だった。金学順は14歳で妓生(キーセン)の置屋に売られ、17歳の時に養父に中国奥地の慰安所に売り飛ばされた。

それを植村は女子挺身隊の名で戦場に連行され日本軍人相手に売春行為を強いられた、と書いた。女子挺身隊とは何かも知らないお粗末な原稿だが、朝日新聞は疑いもしないでそれを載せた。

さらには嘘を厭わない学者や河野洋平のようなおつむにやや難のある政治家も動員して植村の嘘を飾り立て、遂には『20万人の女を性の奴隷にした20世紀最大の人身売買事件』に仕立てた」。

いまや中国、韓国に留まらず、日本外交の基軸たる日米関係をも危うくしようとしている慰安婦問題の真相がこれなのである。なんとも酷い記者を抱えたものだ。

1958(昭和33)年高知県生まれというからまだ50前。日本で売春が犯罪と決まった年の生まれだから女子挺身隊も女郎も知るわけない。早稲田大学政経学部卒。1982年朝日新聞入社。

千葉支局、韓国特派員を経て、現在朝日新聞中国特派員。韓国語の学習のため朝日新聞社員になってから延世大学に留学もしている。彼の妻は、日本政府に対してアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件を起こした韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の常任理事、粱順任の娘である。

韓国特派員時代の1991年8月11日の朝日新聞に(10日ソウル発)として初めて慰安婦に関する記事を掲載。これが韓国のさまざまな新聞に転載され、慰安婦問題がクローズアップされた。

取材対象であった金学順の証言とされる記事内容と、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件における金学順の陳述に相当異なる点がある。

特に女子挺身隊なる用語と慰安婦を結びつけた『日中戦争や第2次世界大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、』という記述は事実に反するものであるが、これまで記事内容の訂正はされていない。

記事本文-『日中戦争や第2次大戦の際、戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。

同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、やっと開き始めた。

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2007年05月08日

◆悩ましいウィキペディア


渡部亮次郎

昔は平凡社の世界大百科事典があって便利だったが、流石に昔のもので、大半、使い物にならない。そこでアメリカのコンピュータ会社マイクロソフトがネットで捜せる百科事典を売り出した。CD1枚だから場所をとらないが、日本語が怪しくていまひとつ満足がいかない。

そこで、ついついインターネット上で、無料で便利な「フリー百科ウィキペディア」を使うことになるが、とんでもない穴が開いていて危ない。

元特攻隊員の有名人を調べると「2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる」と出ている。

しかし衆院副議長、外務大臣3回、厚生大臣2回、官房長官を務めた園田直はかなりの有名人の筈だが欠落している。

C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\特別攻撃隊 - Wikipedia.htm

そこで、そもそも「フリー百科ウィキペディア」を「フリー百科ウィキペディア」で検索すると「フリー百科ウィキペディア」の欠点が指摘されている。

ウィキペディア (Wikipedia) はインターネット上で作成、公開されているオープンコンテント方式の多言語百科事典。ウィキメディア財団の展開する最初の多言語プロジェクトである。

日本版の利用者数は2005年2月には221万人。2006年3月には700万人に成長している。日本版のユーザーの3%は英語版へ頻繁に訪問している。英語版は1416万人である。

Wikipedia(ウィキペディア)という名前はウィキペディアが使用しているソフトウェアである「Wiki (ウィキ)」と、百科事典を意味する英語「encyclopedia(エンサイクロペディア)」から合成されたものである。

執筆・編集は、主に参加者の共同作業によっておこなわれており、自由参加型である点に特徴がある。

しかし誰もが自由に参加できるため、情報の精度・信憑性は必ずしも保証されるものではない。特に政治や宗教、価値観のように意見対立が起きやすいテーマでは編集合戦がしばしば起きている。

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2007年05月07日

◆ケ(とう)小平に逆った人々


渡部亮次郎

中国経済の改革開放を主張するケ(とう)小平。その彼自身を含む八大
元老こそが彼の敵だったのである。

八大元老(はちだいげんろう)とは八老とも呼ばれ、1980年代から1990
年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団で
ある。

非公式の集団ではあるが、中共中央政治局常務委員会(1987年11月は趙
紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林の5人)をしのぐ権威を持っており、重要な決定は彼らにゆだねられる事もあった。

第2次天安門事件の武力行使【6・4事件】、趙紫陽の総書記解任(解任理由の1つに、訪中したゴルバチョフに「最終決定はケ(とう)小平にある」と明かしたためとされる)や、後任を江沢民に据える決定は彼らの意思で行われたとされる。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。

メンバーのうち7人は以下の通り。

(1)ケ(とう)小平 中央軍事委員会主席(1980年-1989年)、中央顧問委員会主任(1982年-1987年)

(2)陳雲 中央顧問委員会主任(1987年-1992年) 。彼がとうの最大の敵
だった。つまり毛沢東路線の継承第一人者だった。

(3)彭真 全国人民代表大会主席(1983年-1988年)

(4)楊尚昆 中華人民共和国主席(1988年-1993年) 。彼はとう支持者。

(5)薄一波 中央顧問委員会副主任

(6)李先念 中華人民共和国主席(1983年-1988年)、その後全国政協会議主席

(7)王震 中央顧問委員会副主任

人目が誰になるかについては諸説あるが、一般的にはケ頴超(中国人民
政治協商会議議長(1983年-1988年)、周恩来未亡人)とされる。

後に李先念より下の3人と入れ替わる形で、宋任窮 中央顧問委員会副議
長、全国人民代表大会主席(1988年-1993年)を勤めた万里、習仲勲が入った。

この中で2007年現在存命しているのは万里だけである。

とう反対派の実行部隊はケ(とう)力群元中央宣伝部長、宋平政治局常務委員、李錫銘北京市党委書記らで、とう氏はいたるところで彼らを名指しで批判した。

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2007年05月06日

◆口舌の徒、旧聞

                           渡部亮次郎

新聞のことを江戸時代は「読売」と言った。
<よみ‐うり【読売り・読み売り】
江戸時代、世間の出来事を速報した瓦版1枚または数枚刷りの印刷物を、内容を読み聞かせながら売り歩いたこと。また、その人>(YAHOO辞書)

噂話の真相に近付いて「ニュース」として書き、刊行して売るのが読売。読売新聞の深淵がここにあった。新しく聴いた話。新しい知らせ。新しい見聞というのが広辞苑の説く「新聞」の一義的な定義である。

それなのに朝日新聞は一日に論説21本を纏めて掲載したと聞いて「口舌の徒」と思わず呟いてしまった。内容はともかく、自己主張を読者に纏めて押し付けるとは穏やかではない。広辞苑が誤りでなければ、この新聞社はおかしくなること請け合いだ。

口舌の徒。こうぜつのと。弁舌に優れて、実行力の無い者。新聞:社会の出来事の報道、解説、論評を、すばやく、且つ広く伝えるための定期刊行物。(以上いずれも広辞苑)。

取材が下手な記者が多くなって、特種が取れなくなった。それでもページを作って広告を載せなければ収入にならないから、こねくり回した屁理屈を『論説』ヅラして印刷するか。

これについて元朝日新聞記者の友人が、当「頂門の一針」790号(5月
4日付)で嘆いて次のように書いた。

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2007年05月03日

◆篭脱け詐欺に怒れ

                       渡部亮次郎

金品を預かった上、表口に人を待たせて建物の中に入り、裏口から抜け
出して跡をくらます詐欺のことを「篭脱け詐欺」と言う(広辞苑)。温
家宝中国首相の国会演説の手口はこの籠抜け詐欺の手口そのものなのに
国会議員は口をあんぐりさせたまま、外務省は抗議したとの報道もない。

あまつさえ温首相は天皇への表敬の席で予定に無かった北京五輪への招
待を突如持ち出して「後ろ足で砂をかけた」というか最後っ屁を放って
去った。あまりにも我々を愚弄している。

両国全土にテレビ中継された国会演説で温首相は演説原稿にはあった
「戦後、日本の平和発展の道を中国人民が支持する」と言う部分を読み
飛ばした。これはハプニングなんかではなく意図的に飛ばしたのである。

安倍総理がよく使うフレーズだから人民には聞かせたくなかったのであ
る。しかも靖国参拝を念頭において「実際の行動で示せ」とは実に又失
礼である。それなのに満堂大拍手なのだから日本の国会議員はどうかし
ている。一部にはさすが渋面をした議員もいたが。

だいたい温首相如き軽輩を天皇に合わせた外務省がどうかしている。こ
ちらが先に総理大臣訪中をして敬意を最大級に表したのに総書記でなく
首相を訪日させるとは失礼この上ないのに、あまつさえ天皇表敬を許す
とは舐められすぎている。

産経新聞の山本秀也記者がワシントンから暴いたところ(4月22日付紙面)によると、中国共産党は温首相の訪日に先立って1月に北京で出版・報道管制に関する党・政府連絡会議を開き、対日報道について「中日関係の大局を妨げてはならない」と情報操作を指示していたことが明らかになった。

これは対日関係の改善を決断した外交路線に国内外のメディアを従わせ
る一方、報道関係者が当局のガイドラインを超えて独自に安倍政権など
を論評することを規制したものだと山本記者は言っている。

これを証明するように中国国内では温訪日に向けて公式メディアの対日
論調が極めて軟化していた。つまり中国共産党は対日世論を自らの都合
の良いように操作しているわけで、演説を聴いた加藤紘一氏が「練りに
練った演説」と言ったように、日本は練りに練って翻弄されているのだ。

それなのに沈黙している。!)(とう)小平が隠し通したように日中友好が必要なのは日本ではなく中国なのだ。確りしろ。

(4月28日付け「夕刊フジ」掲載を再掲)


2007年05月02日

◆鳩を寄せる悲しみ

                          渡部亮次郎

鳩に餌を与えるなとある、中にはエサを上げるなと、敬語を使った役所の看板が立っている。鳩に敬語を使ってどうするんだか、無関係な話だが、どうも見ていると、鳩への餌やりは老人の生きがいないしは福祉問題なのだ。

私が住まいしているところは、江戸・隅田川を挟んだ「川向こう」の江東区。昔はびしょびしょの下町。戦後もしょっちゅう水害に見舞われたし「江東ゼロ・メートル地帯」とも悪口をいわれた。

そういう自分も仕事で回るのは山の手だったから、学生時代も含めて老境に入るまではこちらには全く縁がなかった。ところが人生に都合が出来て1989年から川向こう住まい。

最近、バブルがはじけてこのかた、江東区のマンション街の発達は凄いの一言。地下鉄が横に東西線に加えて縦に2003年3月19日から半蔵門線が都心から延長乗り入れてきて、JR総武快速線も加えてこんなに便利なところはなくなった。

何せ錦糸町からJRの地下にもぐれば東京駅までたったの8分という便利さ。山の手で東京駅に8分と言うのは皇居ぐらいだ。だから人口が1年に1万人ちかくの勢いで増えていくのは当然だ。

もう水害はない。30階、40階のマンションが素晴らしい数で林立している。東京都知事を引退した後の故青島幸男さんの住んでいたのも江東区大島の39階建てマンションだった。

ところが、その先がいけない。木場の貯木場をつぶして出来た都立猿江(さるえ)恩賜公園(北部)。最近、鳩の天下であるが、公園管理所がいくら鳩にエサをやるなと言ってもおじいさん、おばあさんのエサやりが増えるばかりでなのである。

エサをやると当然、栄養がよくなる。よくなると繁殖欲が人間とどう違うのか、産卵が年2回のものが、3回に増えて、東京で増えるのは老人と烏(からす)と鳩ばかり。公園から300メートルしか離れていないマンション9階の我が家のベランダにも番(つがい)が産卵しに来る始末。

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2007年05月01日

◆ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ

                         渡部亮次郎

生まれ在所の秋田弁と東京弁にたった1つ、共通点がある。それが鼻濁音とくにガギグゲゴである。関西地方出身の演歌歌手はこれが殆どできない。

都はるみ(京都)、谷村新司(大阪)、渡哲也(兵庫県)らに鼻濁音は出ないし、或いは気をつけて出さないようにしているかもしれない。

ガギグゲゴに発音の仕方が2通りあると知ったのは小学校(国民学校)3年か4年の時だった。時はアメリカ空軍B29による都市への空襲が険しくなったころ。

大阪から秋田の片田舎に疎開してきた女子児童が教科書を読まされたところ、ガギグゲゴが全く鼻にカカラナイガギグゲゴだったのだ。

鼻濁音(びだくおん)とは、日本語にあって、濁音の子音(有声子音)を発音するとき鼻に音を抜くものを言う。濁音同様濁点を以って示されるのが普通である。

濁音と表記上の違いはないが、専門分野では鼻濁音であることを強調するため、「か゜」、「き゜」、「く゜」、「け゜」、「こ゜」のように半濁点で書く場合もある。濁音との間に意味上の差異は無い。

大別すれば、日常的に鼻濁音を使うのは共通語の基盤となった東京方言が話される地域を中心として東日本から以北に拡がっており、一方で近畿、四国や中国地方以西の地域ではほとんど使われない。
でも八代亜紀や大川栄作はでるがなぁ。

ただし、もちろん両親、特に母親の出身地の違いや周囲の環境など様々な原因による個人差は存在する。

昨今では東京周辺でも、中年より下の世代では多くが鼻濁音を使わなく(あるいは「使えなく」)なってきており、若者に於いてはそれが特に甚だしい。これは全国的な傾向で、鼻濁音は現在、日本語から失われてゆく方向にあるようである。

最近はNHKのアナウンサーでも鼻濁音の出ない人が男にも女にも居る。大学に入ったときフランス語の教授から鼻濁音が素晴らしいと褒められてフランス語に熱中したことのある身としてはやや寂しいことである。

地方、それも訛の酷い秋田県出身でありながらNHK記者としてラジオやテレビへの出演を余儀なくされたため、押入れに録音機を持ち込んだり、アクセント事典をヒマさえあれば読むなど苦労した。芸者に訛を指摘されて掻いた恥もある。先輩古澤襄さんによると未だに秋田弁丸出しだそうである。

園田直さん(故人)に頼まれた原稿を手渡したら、一読のあと秘書さんを呼んで「これ、なおしておけ」といったのでムッとしたが「直す」
は天草(熊本)弁ではあるものの、然るべき場所にものや人を置くという古語でもあった。

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2007年04月28日

◆アフリカを蚕食する中国


                         渡部亮次郎

蚕食とは蚕(かいこ)が桑の葉を食うように片端から次第に他国または他人の領域を侵略すること(広辞苑)。

中国人労働者9人とエチオピア人65人がエチオピア東部で殺害されたのは2007年4月24日早朝。中国人が何しに東アフリカまで? その認識の甘いところが日本人。中国資本がここでも石油開発を行っており、これに反発する武装グループ200人が開発中の油田を襲ったものだった。

ケ(とう)小平が決めていった経済の改革・開放政策。特に開放とは外国資本に中国を開放すること。1989年6月4日の天安門広場虐殺事件で下火になった時期はあったが、既に中国経済は外国資本無しではやっていけなくなっている。

その外国資本も大量に食うのが石油、天然ガスからなる電気等のエネルギーである。これに不足をきたせば4つの現代化はストップする。共産党幹部の懐に転がり込むワイロもまたストップする。とあっては中国が石油、天然ガス等の資源獲得に狂奔するのは当然である。

尖閣列島はじめアジアにツバをつける事は終了。近隣諸国とくにモンゴルは継続中。旧ソ連も目途が付きつつある、となれば残るはアフリカ大陸の各国しかないでは無いか。

わが日本は大使館も置いてないところがあるアフリカだが中国は早くから資源獲得のために外交的な手立ては十分してきたのである。経済は資本主義だが政治は独裁の専制政治だから計画政治とでも言おうか、早くて着実だ。

26日の産経新聞矢板明夫記者によると中国政府が石油、天然ガスと市場を求めてアフリカに雪崩を打つように進出していることにアフリカ各国民が強く反発している。

アフリカでの中国の主な進出状況(4月26日付産経新聞紙面から)

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2007年04月27日

◆内務省の時代


渡部亮次郎

日本にも内務省があった。明治時代から大東亜戦争の敗戦直後まで設置されていた省。GHQ(は戦後に来た占領軍)に解体された。
内務官僚出身の著名人(五十音順)。日本史に重大な功績を残した人々だ。

相川勝六 安倍源基 有松英義 粟屋仙吉 生悦住求馬 石破二朗 大麻唯男 奥野誠亮 海原治 萱場軍蔵 唐沢俊樹 北村隆 菅太郎(第二次池田内閣経済企画政務次官) 後藤田正晴 後藤文夫 小林與三次
鈴木俊一 竹内藤男館林三喜男 床次竹二郎 中曽根康弘 灘尾弘吉(内務次官) 秦野章 原文兵衛(特高警察課長、警視総監、参議院議長) 平岡定太郎(福島県知事、樺太庁長官 三島由紀夫の祖父)

船田中  町村金五 松本学(内務省警保局長 / いわゆる「革新官僚」) 村田五郎(内閣情報局、大政翼賛会、群馬県知事) 安井英二(勅選議員、文部大臣、厚生大臣、近畿地方総監) 横溝光暉 吉國一郎 吉田茂 (内務省出身、総理とは別人) 加々美武夫

内務省は.多くの国家に設置されている、警察・土木・衛生・地方自治など国内の行政を担当する中央官庁である。一般的に、内務大臣もしくは内務長官によって指揮監督される。

日本では、1873(明治6)年の設置から1947(昭和22)年12月31日にGHQの指令によって解体されるまで設置されていた内政・民政の中心省であり、内務大臣は内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った役職とみなされていた。

戦後、GHQは特別高等警察や検閲、国家神道の廃止を指示、更に内務省のもとでの中央集権的な警察制度の全面的な変革を求めた。また、警察関係を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。

アメリカには内務官僚と呼べる制度が存在しないことから、日本の封建体制打破に、内務省解体は不可欠とアメリカ占領軍のトップたちは結論付け、執拗な抵抗を排除して解体を実現した。

1947年に公布された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選となるなど、地方行政の大きな転換がなされた(ただし、公職追放との絡みもあり、1945(昭和20)年の段階から内務官僚以外からの知事の政治任命が進んでいた)。

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2007年04月26日

◆デュポンの始めは爆弾屋


渡部亮次郎

1990年代はビジネスその他で盛んにアメリカを訪れた。ワシントンとニ
ューヨークが多かったが、或る時、ニューヨークからワシントンへ列車
で向かう途中、フィラデルフェアで下車した。アメリカ人の友人一家を
訪ねるためである。

NYから山中の一軒家に越してきた友人の仕事は経済評論家だが、コンピ
ューターを駆使すればNYになんか居なくても平気だというので仰天した
が、今となってみれば至極真っ当な話だった。窓の外を狐がヒョコヒョ
コ駆け下りていった。

翌朝、デュポンの邸だったところを案内すると言う。デュポンってライ
ターの会社かと聞いたらいや爆弾屋だという。まぁ後学の為だ、行って
みよう。

ニューヨークとワシントンDCのちょうど中間あたりにあるデラウエア州
のBrandywine Valleyと呼ばれる地域だった。広大な庭園に囲まれた邸宅・ウィンタートゥア(Winterthur)があった。園内は日本の皇居ぐらいの広さだ。案内のバスが定期的に走っている。

ここは、デュポン(Du Pont)社の創業一族が3世代にわたって住んだ邸宅で、その名称は一族に関係するスイスの地名からとられたという。

現在では、美術館として公開(有料)されており、建物自体ももちろんだ
が、その中に展示されている米国家具や陶磁器・銀器などの装飾美術品
で知られている。

邸宅本体には、何と175もの部屋があり、ガイド付きツアーで見て回る仕組みになっている。ダイニング・ルームのテーブルの上、食器棚の中、暖炉の上、展示用のガラスケースなどに、多くの陶磁器が展示されているのを見ることができる。しかしこっちは興味ないからあまり中は見なかった。

ギフト・ショップもあった。ビジターセンター内にある店は書籍中心だった。柱時計が売っていた。1時間ごとに鳥が啼く仕掛けで、庭園内にすみついている鳥とか。少なくとも12種類はいると言うことだ。

[「邸宅、ギャラリー、庭園、(さらには図書館も)と回っていると、1日がかりになってしまう。何かのついでに、というわけにはいかない」。
http://www2.gol.com/users/emakigu/MuseumWinterthur.htm

私が訪問したのはGW中で、あの時は躑躅がいたるところで満開だった。

説明によれば、デュポン家の別荘には競馬場が2つあるとか。そんな金持ちなのに、当主については不名誉な事件が起きていたらしいが確認できないから書かない。いずれカネの下敷きになったと言うところだ。

一体、デュポンとは何者なのか。デュポン(Du Pont、NYSE:DD)は、世界第2の化学会社である(世界最大はダウケミカル)。

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