2020年10月29日

◆山科だより 「赤穂浪士、龍馬の人気」

渡邊 好造


NHKテレビの大河ドラマ”坂本龍馬”は大好評であった。その時主演した福山雅治は、本職の歌手そっちのけで、その後も大活躍である。

龍馬がなぜこんなに人気があるのか。そこには赤穂浪士の人気と共通するものがあるように思う。大衆芸能で人気を博し、「英雄」となる人物には およそ次の4つの共通の条件が備わっているのではないだろうか。
                                            
1)逆境に陥る。
2)人から侮られる。
3)努力して大成功を収める。
4)悲劇的最後をとげる。

赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城中で吉良上野介に切りかかり、即日切腹させられ、藩は取り潰し。大石内蔵助を初めとする藩士47人が吉良への仇討を果たす物語が”赤穂義士伝”である。

周知のように、製塩で裕福であった藩の家老大石は、主君の不始末で生活はたちまち暗転。仇討をするのかしないのかグズグズと日時が経過し、昼行灯とまで揶揄され侮られたが、その後仇討を無事達成し一躍英雄となった。

しかし全員死罪の悲劇的最後を遂げる。まさにこの4条件にピッタリである。

もし、義挙だから救済するべしとの世評通り47人が赦免になって生きながらえていたら、彼らを称える毎年の赤穂、山科での「義士祭」は行われていないに違いない。

坂本龍馬は、土佐藩の下級武士の出で、脱藩して薩長同盟に尽力、海援隊の隊長として活躍したのち大政奉還に寄与するも、慶応3(1867)年刺客に襲われ明治政府の実現直前で死去。

同じように、この4つの条件に合致する大衆受けのする「英雄」を拾うと、

源義経は平家に預かりの身で苦労を重ねた後、不運な境遇から抜け出し平家壊滅の端緒をつくる大功績をあげた。しかし、兄頼朝の不興をかい奥州平泉で滅ぼされる。

豊臣秀吉は、織田信長の家来としてサルと馬鹿にされながらも人一倍の努力を重ねて這い上がり天下を取るに至るが、わが子秀頼は母淀君とともに徳川家康にしてやられる。

織田信長も英雄の一人にあげることができる。”ウツケモノ”として侮られ、その後天下統一の一歩手前で明智光秀の謀反で挫折し、自害する。ただ織田家を継ぐまでにこれといった逆境に陥ってはいないのでやや条件に欠ける。

新撰組の近藤勇、土方歳三は剣の腕前はすごいものを持っていたがもともとの身分が低く、中心人物になって組織をつくりあげるまでにはかなりの苦労を重ねたらしい。最後はともに若くして打ち首と戦死の運命をたどる。

いずれの人物もNHK大河ドラマに登場する「大英雄」である。

反対に、源頼朝、徳川家康らは天下を取ったものの、頼朝は非情な兄であり、家康は腹に一物のタヌキ親父、桂小五郎(木戸考允)も功績はあるが殺されもせず、3人とも最後は大往生をとげているから英雄の資格に欠ける。その意味では秀吉は病死であり条件にそぐわない面もあるが、次代での悲劇が待っていた。

もちろん、これらの筋立てはいずれも江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃作家が客うけするストーリーにしたり、あるいは明治政府を正当化するために創りあげられたものであったりで、史実とは異なる部分が多いことは言うまでもない。

坂本龍馬に至っては、一説によると梅毒に侵され、斬殺されていなくてもそんなに長くは生きられなかったともいわれている。梅毒で死んだ坂本龍馬だと大衆芸能で人気を得るはずがない。もちろん、NHK大河ドラマに登場することも、銅像が建てられることもなかったに違いない。(完)

◆<本日の原稿は、「山科だより・義士祭」でとりあげたことがあるテーマを膨らませたものです。   
渡邊 好造>

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎


郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳(ペギー葉山の夫=故人)である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。
誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。

◆山田敬蔵が勝った日

渡部 亮次郎


郷里(秋田県)にも凄い奴がいると子供心に奮い立ったのは大館市の青年山田敬蔵がアメリカのボストンマラソンで優勝した1953(昭和28)年4月20日のこと。私はやっと17歳、高校2年になったばかりだった。

敗戦からまだ8年しか経っていなかった。食糧不足は穀倉地帯秋田県といえどもまだ十分とはいえなかった。それが証拠にその2年後、東京の大学に入ったとき、役場に届けて精米60キロを携行したほどだ。

山田はそうした中で黙々と走り、既に前年の1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場。25位ではあったが、敗戦国の汚名をスポーツで雪いでいたのだ。「秋田県人 ここにあり」。

山田敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日―)は、日本のマラソン選手。秋田県大館市出身。

1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している1951年〜1956年は41.360キロ)。

距離の短いのは主催者側のミスであって山田に落ち度は無い。だから山田の優勝は敗戦で打ちひしがれていた日本国民に対し水泳の古橋と共に勇気をあたえた。

だからその活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳(ペギー葉山の夫=故人)である。

山田は秋田県では英雄である。1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者を務めた。さらに2007年の秋田わか杉国体でも80歳を超えていたのに炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。

大館市では、毎年4月29日山田記念ロードレース大会を実施している。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される。1897年に第1回大会を開催し、オリンピックを別にするとマラソン大会ではもっとも古い歴史を持つ。
誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。 このほかの日本人優勝者としては、

田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年 )2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田と浜村の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

2006年の大会では、日本からは土佐礼子、嶋原清子が招待された。

ボストンマラソンは、世界の大きなマラソンで初めて女子の参加を認めた大会であるが、決して簡単に実現したものではなかった。

1960年代まで、女性がマラソンを走ることは生理的に困難であるという見解が陸上競技の関係者の間でもごく当たり前に語られていた。

そうした中、女性の権利拡張運動とも相まって、ボストンマラソンへの参加を求める女性が出現したが、主催者側はこれを拒否した。

1966年、彼女たちの中からレース当日に、女性とわからないように変装して出場を強行するランナーが出たのである。当初、主催者側は出場を認めていないとしてそうしたランナーを排除しようとしたが、それをかわしてゴールにたどり着いた。

やがて年を追って女性の「非公式参加者」が増え、主催者側もこれを黙認するようになり遂に1972年の大会から、正式に女子の参加が認められるようになった。したがって歴代優勝者のリストにおいて、1966年から1971年までは「(非公式)」という但し書きされる。

1980年の大会では女子の先頭を切ってゴールしたのは、ロージー・ルイーズという選手であった。

しかし、レース途中で彼女を見ていないという複数の証言や、ゴールしたときに彼女のウェアにほとんど汗がついていなかったことから、主催者側は彼女が途中で何らかの方法で近道をしたと判断し、優勝を取り消した。

代わってカナダのジャクリーヌ・ガローが優勝者となった。こうしたマラソンの「キセル」は、1904年のセントルイスオリンピックでも起きているが、草創期ならともかく現代のマラソンでこうした事件が起きたことは多くの人を驚かせた。