2018年06月10日

◆AI兵器開発、ドローン攻撃機

宮崎 正弘


平成30年(2018年)6月8日(金曜日)通巻第5720号 

AI兵器開発、ドローン攻撃機、ステルス戦闘機の開発競争で衝撃
  「中国はアメリカに追いつき、追い越しつつある」(ペンタゴン報告)

将棋の名人達がつぎつぎとAIに負けている。パターン認識において、
AIは疲れを知らず、健忘症もない。だから人間を超えることが出来るのだ。

このAIとビッグデータ技術を重ね合わせ、次世代兵器開発に血道を上げ
るのは、いうまでのないが、中国人民解放軍である。

昨秋11月、広東の「国際見本市」で展示されたCH5偵察機、ならびに無
人攻撃機ドローンは、関係者の度肝を抜くに十分なハイテク兵器の新型
だった。しかも中国製なのである。

5月初頭、習近平は人民解放軍を統括する中央軍事委員会において、兵器
開発の責任者であるエンジニア畑の幹部らを招き、秘密の会合を開催した
(アジアタイムズ、5月30日。ビル・ガーツ記者=ちなみにガーツは安全
保障関係のすっぱ抜きで有名なジャーナリストで前ワシントンタイムズの
辣腕記者)。

習近平と握手を交わしたのはリー・ディイ(音訳不明)中将らで、とくに
リーはAI兵器開発部門の責任者とされる。この軍事委員会での会合は殆ど
注目されなかったが、観察を続けてきたペンタゴンは「異様なスピードで
中国のAI兵器開発は飛躍的進歩を遂げている」と総括した。

AI、ビッグデータ、クラウドの開発に一貫した戦略的な整合性をもたせ、
無人攻撃機や戦車の無人化、ロボット兵士などの開発を急げと習近平は二
年前に軍に発破をかけていた。

この軍事委員会では、劉国治・少将が「AI兵器が近い将来、戦争のかた
ちを大きく変革するだろう」として、軍の科学技術部門を統括する。

楊衛(成都軍事アカデミー)はステルス戦闘機(J20)開発の責任者だった。

楊衛は「AI搭載の戦闘機は空中戦での優位を確保することになるだろ
う」と昨秋の兵器展示会で演説したという。

また深海を遊弋する無人の潜水艦にも攻撃力をもたせる技術の開発に余念
がない。


 ▲アメリカの優位性は崩れ始めている

すでにサイバー戦争においてアメリカの軍ネットワークも中国のハッカー
部隊の攻撃を受けているように、「将来、中国の巡航ミサイルにAIを搭
載した新型は(巡航中も)リアルタイムで地図や速度などを判断し、目的
を瞬時に変更したり出来るスグレモノになる」(中国軍兵器デザイナーの
王長慶)

ペンタゴンの専門家は口を揃えて、「AI技術によるインテリジェンスの
優位が中国側に確保されれば、ほかの如何なる分野で(アメリカが)優位
性を保とうとも忽ちにして軍事的意味を失う」と中国軍の異様な開発加速
の現実を脅威視している。

敵のモラルを分裂させ、士気を喪失させるのは第一撃でインテリジェンス
の優位を破壊することであり、電子戦争の第五世代ではベテラン兵士より
AI兵器が優れた機能を持ち、敵のデータベース破壊、通信網の寸断など
で、敵の指揮系統をずたずたに出来れば、戦争はどちらの勝利となるか、
火を見るよりも明らかだろう。

マティス国防長官は「こうした中国の開発状況を精密に分析し、これから
の米軍は、優先的に、この方面の準備を急がなければ、優位性が脅かされ
る」と2月の演説で警告している。

なぜ、アメリカの優位がいとも簡単に喪失したのかと言えば、シリコンバ
レーの私企業が、開発費用を掛けすぎて、新興のベンチャーキャピタルに
依存し、そのベンチャーキャピタルが、面妖な株主、多くは香港の実業家
を詐って、じつは中国軍の関係者であることによる。

すでに対米外交投資委員会(USFIC)の調査によれば、2013年から
2015「年の外国からの投資物件387件のうちの、74件が中国からだっ
た。全体2割である。


 ▲「ハイテクを無造作に売り渡す行為を、中国はバカかと嘲笑している
に違いない」

典型例はデラウエア州裁判所に会社更生法で訴えたシリコンバレーの
「Atop テクノロジー社」のケースだった。裁判の過程で、同社の買
収に乗り込んできたのは「アバター・インタグレィテッド・システム」と
いうわけの分からないファンド系企業、株主を調べると香港に登録されて
いた。

私企業のベンチャーは、連邦政府との契約関係がないため、裁判所の段階
で明るみにでるケースが多い。連邦政府や軍との契約がないからだ。

 「バラ園に侵入してきたブルドーザーのようだ」と譬喩するのはクリ
ス・ニコルソン(シリコンバレーでAI開発企業を創業した一人)は言
う。(サウスチャイナモーニングポスト、5月22日)

 「ハイテクを無造作に売り渡す行為を、中国はバカかと嘲笑しているに
違いない」と、議会で最も対中強硬派のシューマー上院議員が言う。
 この言葉でレーニンの譬喩を思い出した。「やつらは自分を吊すロープ
を売り渡している」とレーニンは西側の対ソ武器援助を嗤いながら受け
取った。

 「中国ば米国のハイテク企業買収を『投資の武器化』を目指して行って
いる」との譬喩は上院共和党院内総務のジョン・コ−ミャン(テキサツ
州)である。

 アメリカの対中警戒は本物なのである。

2018年06月07日

◆1億総白痴化は成った 

渡部 亮次郎


<1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一(故人)がテレビの急速な普及を背景に生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。

元々は、1957(昭和32)年2月2日号の「週刊東京」(その後廃刊)における、以下の詞が広まった物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

又、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、作家の松本清張が、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。

このように、当時の識者たちは、テレビを低俗な物だと批判しているが、その背景には、書物を中心とした教養主義的な世界観が厳然としてあったと考えられる。

書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、その為には文字が読めなければならないし、内容を理解する為に自分の頭の中で、様々な想像や思考を凝らさねばならない。

これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させるといった事を指摘しているようである。>『ウィキペディア』

都会でもいわゆる井戸端会議を聞くとも無く聞いていると、テレビが放った言葉や映像はすべて「真実」と受け取られて居る。だから納豆を朝夕食べれば痩せる、といわれれば、ちょっと考えたら嘘と分りそうなものなのに、納豆買占めに走ってしまう。

識者はしばしばマスメディアが司法、立法、行政に次ぐ「第4の権力」というが、実態は、マスメディア特にテレビを妄信する視聴者と称する国民の「妄信」こそが4番目の権力ではないのか。

手許に本がないので確認できないが、若い頃読んだものに「シオンの議定書」と言うのがあり、権力(政府)がヒモのついた四角い箱を各家庭に配置し、政府の都合の良い情報で国民を統一操作するという条項があった。

<シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(しおんけんじゃのぎていしょ、The Protocolsof the Elders of Zion)とは、秘密権力の世界征服計画書という触れ込みで広まった会話形式の文書で、1902年に露語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。

ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ナチスドイツに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから『最悪の偽書』とも呼ばれている。

1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン24人の長老」による決議文であるという体裁で、1902年にロシアで出版された。

1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死(実際は伝染性の病気による病死)した為、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。

ソビエト時代になると発禁本とされた。現在、大英博物館に最古のものとして露語版「シオン賢者の議定書」が残っている。>『ウィキペディア』

議定書は19世紀最大の偽書とはされたが、19世紀末に既にテレビジョンの装置を予測し、しかもテレビを通じた世論操作を描いていたのだから、偽書を作った人物なり組織は天才的というほかは無い。

実際、日本では昭和28年のテレビ本放送開始とともに、大衆は力道山の空手チョップを通じて、電波の魔力にしびれていたが、あれから数十年、いまでは「テレビこそ真実」という妄想を抱くに至った大衆と言う名の「妄想」が権力と化している。

たとえばテレビがそれほど普及していなかった時代、政治を志す人間にとって知名度と言うものが、最大のウィークポイントとされた。名前を有権者にどれだけ知れ渡っているかが、勝敗の分かれ目であった。

しかし、今ではそれはテレビに出演することで大半を解決できる。まして出演を繰り返すことが出来れば「露出度満点」でたちまち知名度は上がる。大衆がとっくに白痴化してしまって「テレビは真実」と妄想しているから万全だ。

かくて政治はテレビ制作者に合わせた政治を展開するようになった。国会の予算委員会がNHKテレビのタイムテーブルどおりに運営されていることを見るだけで明らかであろう。

その実態に気付きながら自身は気付いてないフリをして5年間も政権を維持したのは、誰あろう小泉純一郎氏である。

成果が上がらないまま、大衆の人気が落ちてくると、テレビは「総理の支持率が落ちた」と放送し、大衆は更にテレビを信じて支持率を下げる、という何とか循環に陥りながら気付かない。自分自身で考えることを何故しないの。

なんで支持しないか、テレビがそういっていたから。どこがいけないかなんて、私分らない、テレビに聞いて、が実態じゃないか。

このように、大宅壮一や松本清張の指摘したテレビによる「1億総白痴化」はとうの昔に完成しており、日本と言う国はテレビに振り回される低級国家に成り下がってしまっているのだ。

したがって政治は真実からはなれてテレビを妄信する大衆の白痴状態に合わせた流れを辿ってゆくはずである。また若いも中年も思い描くと言う「痩せればもてる」信仰がある限り、関西テレビがいくら止めても「痩せる偽情報」はどっかのテレビから永遠に流れるはずである。

2018年06月06日

◆大丈夫なのか鮪(まぐろ)

渡部 亮次郎


私が鮪(まぐろ)を寿司や刺身で食べられるようになったのは、実は60歳近くになってからである。それまでは中国人のように「淡水魚には肝臓ジストマがいて毒だ」といわれて食べないでいるうちに、すべての魚をナマでは食べられなくなっていたのである。淡水魚の秋田県八郎潟沿岸で生まれ育ったからである。

長じて政治家に新橋、赤坂などで日本料理をご馳走になっても、刺身は残して芸者に不思議がられて恥ずかしかった。

それが或る時、60近くになった時、友人に都内の飲み屋に引っ張られて入ったところ、料理は刺身は刺身しか無いといわれて鮪の赤身をたべてみたら抜群に美味かった。以後、刺身好きになり、誘われれば寿司屋にも喜んでゆくようになっている。

余談だが、毛沢東は生魚は食べなかったが、なぜか晩年は好んで生魚をたべたという。悪妻江青の策謀に乗せられたのではないか、肝臓ジストマにかかる前に死んだからばれなかったという説もあるが、江青も死んだ今となっては永遠の謎だ。

ところが今の中国人は日本人の長命の理由は生魚にあると見たのか、盛んに鮪を生でたべるようになって。われわれ日本人の胃袋を脅かすようになった。

以下「ウィキペディア」を引用する。

中国都市部で日本食ブームが起きている。それもマグロ需要が急増し、日本の漁獲減少の隙を突いて、中国漁船による活動が拡大し、競争が激化している。

また、乱獲防止と資源保護のため漁獲量が2割減が決まりさらに高騰するといわれる。そのために近年では世界中でマグロの代替品が増えている。

過去、米国およびオセアニアでは、脂身であるトロは商品的価値・需要が低かったので、日本の商社はトロを安価で購入することが出来た。ところが、近年の日本食・「sushi」ブームの影響で欧米でもトロに対する需要が起こり、かつてのような値段では購入出来ない状況にある。

また、1990年代後半には台湾で、2000年代に入ってからは中国で、日本食を中心とした海産物の人気が高まり、中国向けの漁獲が急増しているため、競争はますます熾烈になっている。

前述のように相対的な個体数が少ない上に需要増加・価格高騰が拍車をかける形で世界中でマグロが乱獲され、国際的な資源保護が叫ばれている。絶滅が危惧される生物を記載したIUCNレッドリストには、マグロ8種のうち5種が記載されている。

過激な保護運動を行う環境団体には、クジラ並みにマグロ漁禁止を求める強硬派もいる。こういった国際的な動きに対して、日本は2001年から02年にかけて、水産業界を中心に不利な規制が多数決で押し通される恐れがあると「中西部太平洋マグロ類条約」の準備会合をボイコットした。

だが、結局2004年に日本抜きで発効され、翌年に日本が加盟することになった。食糧農業機関(FAO)水産局長の林司宣(早大教授)は日本は世界中の海でマグロを取りまくっていながら、規制強化には後ろ向きだ、という悪いイメージを与えたとしている。

その後、2010年3月、ドーハでのワシントン条約締結国会議において21世紀初頭の個体数が1970年代と比較して90%減少したタイセイヨウクロマグロの附属書Iへの掲載の是非について審議が行われたが、18日の採決では大差で否決された。

マグロ価格高騰と天然物の漁獲量低下の追い風もあり、蓄養による養殖の出荷量は増加している。低コスト化・安全性向上の他、トロの割合を多くし価値を高める研究も行われている。

クロマグロの蓄養は、幼魚が黒潮に乗って回遊してくる西日本各地で行われている。蓄養マグロの出荷量は、1位の鹿児島県が2位の長崎県以下を大きく引き離している。完全養殖による生産は始まったばかりであり、現在流通している養殖のマグロはほぼ蓄養によるものである。

これに対し稚魚の乱獲になるという批判もある。

2002年に近畿大学水産研究所が30年余かけて、商業化に向けて研究を続け世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功、2004年には市場へと出荷が開始された(近大マグロ)。

近畿大学は和歌山県串本町の大島実験場と奄美大島の奄美実験場を拠点に技術開発を進め、稚魚の生産が増えたことと稚魚の輸送技術が確立された事などから、2007年12月から自身の完全養殖稚魚(人工孵化の第三世代)を他の蓄養業者に出荷する事業を開始。

2009年には約4万匹の稚魚を育成、内約3万匹を養殖業者へ出荷している(4万は日本の海で漁獲されている幼魚の10分の1の量)。今後は、2010年現在3から5パーセントの稚魚の生存率を10から20パーセント程度に向上させるのが目標となっている。

また、マルハニチロは2015年に約1万匹出荷を目指して完全養殖に取り組んでいる。東京海洋大学では、移植によってサバにマグロの精子を作らせることより、マグロを量産する方法の研究を進めている。

日本人は古くからマグロを食用とし、縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されているが、江戸の世相を記した随筆「慶長見聞集」ではこれを「シビと呼ぷ声の死日と聞えて不吉なり」とするなど、その扱いはいいものとはいえず、腐敗しやすいことも相まってむしろ下魚とするのが普通であった。「大魚(お
ふを)よし」は、「鮪」の枕詞。

江戸時代の豊漁の際、腐敗を遅らせるためにマグロの身を醤油づけにした「ヅケ」が握り寿司のネタとして使われ出したのが普及のはしりとい
う説がある。

近代以降も戦前までは大衆魚で、主として赤身の部分が生食されていた。北大路魯山人は「マグロそのものが下手物であって、一流の食通を満足させるものではない」と評していた。

脂身の部分である「トロ」は特に腐敗しやすいことから猫もまたいで通る「猫またぎ」とも揶揄されるほどの不人気で、もっぱら加工用だったが、冷凍保存技術の進歩と生活の洋風化に伴う味覚の濃厚化で、1960年代以降は生食用に珍重される部位となった。

なお、マグロの品質が低下しない冷凍温度帯は-30℃以下であり、実際の流通上では-50℃の超低温冷蔵庫に保管する。なお、一度解凍したマグロを再凍結すると組織が破壊され、非常に質が劣化する。

1995年の統計では、世界のマグロ漁獲量191万tに対し、日本の消費量は71万t。そのうち60万tを刺身・寿司等の生食で消費している。加工品では「ツナ」もしくは「シーチキン」(商標名)と呼ばれるサラダオイル漬けの缶詰が多い。

日本の各県庁所在地での家計調査によると、一世帯当たりのマグロの購入量は年々減少している。消費率はマグロ水揚げ日本一の静岡県および隣接する山梨県、関東地方が上位を占める。

一方で西日本の数値は軒並み低く、食文化の相違がみられる。 2012年1月6日、築地市場で青森県大間産のクロマグロ(269キロ)が5649千万円の史上最高値で落札された 。

近年の史上最高値更新は、2001年に青森県大間産2020万円(202キロ)、2011年に北海道戸井産に3249万円(342キロ)となっていた。

2018年06月05日

◆ある筈ない民主化中国

渡部 亮次郎


中国の「漁民」が尖閣諸島に攻めてきて以来「経済の改革があったのだから政治も改革、民主化になぜなら無いのか」と良く質問される。

それに対する私の答えは「カネが溜まっただけ人民に対する統制はきつくなり、比例して民主化は遠くなります」。

経済の開放(外資導入)と改革はトウ小平の若い時からの夢だった。しかし経済の改革開放をやれば政治の改革開放が不可避であり、それは共産党独裁の否定に繋がるから古い指導者たちはこぞってトウを避けようとした。

トウの3度に及ぶ失脚は、それぞれに理由は別だがそのそこで共通しているのは改革開放思想。「黒猫でも白猫でも鼠を良く捕る猫がいい猫」思想である。

3度目の失脚のときは既に老齢でもあったが、毛沢東がやがて死ねば自分が天下を取り、改革開放路線を実現する事は夢では無いことを信じて自らを鼓舞していた。幸い周恩来の変わらざる支援により命永らえ奇跡の復活を遂げた時、毛沢東は既にこの世になかった。

田中角栄内閣で締結を公約しながら、田中内閣は勿論、三木内閣でも実現しなかった日中平和友好条約の締結について中国の動きが俄然、積極的になってきたのは、この頃である。

福田内閣で官房長官から外務大臣に横滑りした園田直(すなお)はNHK記者だった私を秘書官に起用する一方、剣道の弟子で中国で育った民間人を「使者」として北京にしばしば派遣、旧知の廖承志周辺の動きを探った。

その結果、復活したトウ小平が党の主導権をとり経済の改革開放に舵を切り替えつつあることを確認できた。日中平和友好条約締結への積極姿勢も、ここに鍵のあることを確認できた。

以後、中国は日本の外資導入を梃子とし、経済の改革開放政策により、今や日本を抜いて世界第二位の経済大国になありつつある。だからアメリカを初めとする西側の政治、経済学者は今度は政治面での民主化を予想したいところだが、これは絶対望みは無い。

民主化すれば経済原則上、不要な共産党は否定される。彼らは排除され抹殺されること必定である。彼らが人民にしてきたことを今度はそのまま適用される。だから中国共産党は政治の民主化は絶対行なわない。

経済の改革開放にとって共産党は邪魔以外の何物でもないから政治に対して賄賂で打開する以外に無い。したがって共産党は損じする限り賄賂が自動的に転がり込む。構造的賄賂の舞い込む天国を捨てる共産党「皇帝」などいない。民主化は反革命の成就後だ。

2018年06月03日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎


中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。
2011・10・08

2018年06月02日

◆4人目の金日成

渡部 亮次郎


金日成が偽者だったこと、金正日の生地が実は白頭山なんかで無い事は、はたして定説化しているといえるか。いや、初耳だと言う人のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。嘘は何時までも繰り返すと真実になってしまうのだから。

ある日本の外務大臣経験者が、生前、口癖のように言っていた。北朝鮮の今の金日成というのは別人じゃないのかね、本物はとっくの昔に死んでいるはずだよ、と。

この人は、日華事変から大東亜戦争に掛けて11年間もアジア各地で戦っていたという猛者で特に満洲(今の中国東北部)での戦歴が長かった。

彼によると、金日成は昭和10年代に既に50代であったはず。激しい抗日戦を仕掛けてきていたが、1945年8月15日までには死んだとされていた。

ところが1948年9月9日に成立した朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の初代首相として登場したのが死んだはずの金日成だったので偽者だとピンときたというのである。

日本外務省外交資料館などの編集による「日本外交史辞典」の金日成の項では「この人の経歴については、不明な部分がおおく、いわゆる4人目の金日成といわれるが・・・」と逃げを打ちながら「普通に言われる経歴に従って」として「まとめて」いる。

ところが、ここに大変なことを経験してきたライター萩原遼(ペンネーム)が登場する。昭和12年、高知県生まれの日本共産党員。長じて朝鮮語に通じ、日本共産党の機関紙「赤旗」の平壌特派員となるが、国外追放処分に遭った後、退職。

その後米国ワシントンに滞在、国立公文書館に秘蔵されている北朝鮮の文書160万ページを3年がかりで読破した。その結果を「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」(文芸春秋)として刊行。

この中では朝鮮動乱はやはり北が仕掛けたものだったこと、マッカーサーはそれを事前に知っていたが、韓国には知らせなかったことを明らかにした。

更に改題した「朝鮮戦争と私 旅のノート」(文芸春秋文庫)で偽者金日成の経緯を明らかにしているのである。

ソ連(当時)軍幹部らによると、金日成の本名は金成柱。名乗っていた仮名が金一星(キムイルソン)と発音が金日成将軍と一緒なだけ。日本軍に追われてソ連のハバロフスクに逃げ、息子金正日もそこで生まれた。

多くの生き証人がいる。特に金正日に母乳を与えていた女性は北京に健在である(200年4月10日現在)という。

それなのに金星一を金日成将軍だと偽って北朝鮮建国の日に平壌に連れて行ったのはソ連である。

だが50歳以上のはずが壇上の首相は僅か33歳の若造だったので「偽者だ!」と人々は叫んで帰りかけたものだという。また息子をわざわざ生地をハバロフスクではなく白頭山としたのは、そこが聖地であり、将来の後継者として権威付けるためだったという。

2018年05月08日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎


肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳
で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説
明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞を
招いたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをし
た事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時
は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭
(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血
糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白
してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平
正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで
政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあって
はいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはな
かったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がす
ることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が
連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政
務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから
80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれて
いる。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書
いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎ
た。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をや
られ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣
園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣が
おしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期
の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。
禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注
射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、
いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の
小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころ
からの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をした
のだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない
人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もな
い病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の
若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げて
いたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。(2013・7・13)

2018年05月03日

◆お邪魔虫共産党

渡部 亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済
の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。
特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施したが、農民は生産意欲の低
下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5

2018年04月25日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎

中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。

2018年04月23日

◆3度目は意識的失脚

渡部 亮次郎


トウ(!))小平は1973年周恩来の協力を得て中央委員に復帰するが、1976年には清明節の周恩来追悼デモの責任者とされ、この第1次天安門事件によって3度目の失脚をした。

しかし【トウ小平秘録】第3部「文化大革命」 失脚選択 (産経新聞2007年7月19日 筆者伊藤正中国総局長、当時)によると、トウは1975年11月の時点で自ら失脚の道に踏み込んだようだ。意識的失脚である。「時代は我にあり。老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり」、と確信して。(伊藤正)

1975年9月24日、同月中旬の「農業は大寨(だいさい)に学ぶ」会議で、毛の妻の江青(こうせい)が「水滸伝批判は2つの路線(文革か、修正主義か)の闘争だ」と話したとトウ小平から聞くと、毛沢東は怒りを表した。

梁山泊(りょうざんぱく)の英雄豪傑を描いた古典小説「水滸伝」について、首領の宋江(そうこう)を「投降主義」とした毛沢東の批評を、江青ら文革派「四人組」は強引にトウ氏批判の材料に利用したからである。

「でたらめだ! 意味が違う。農業を学ぶ会議なのに、水滸(すいこ)批判をやるとは。分からんやつだ」と怒ってみても、頼みの毛沢東は老衰激しく、時折は江青支持にさえ廻る。

「大寨会議」で、あらゆる分野での整頓(反対者の追放)の必要を強調したトウに対し、江青は痛烈な反対演説をした。

「水滸伝の要は、宋江が(前の首領の)晁盖(ちょうがい)を排除、棚上げし、土豪劣紳(地主や地方ボス)らを招き入れて主要なポストを占拠し、投降したことにある。わが党内にも毛主席を棚上げにする投降派がいる」

文革が終わって復活幹部を重用、経済建設に努める周恩来(しゅうおんらい)首相やトウ小平への露骨なあてこすりだった。共産党内の主導権をとられると危機感を募らせたのだ。

その3日後、毛沢東の実弟毛沢民の遺児、毛遠新(もうえんしん)が訪ねてきてトウ批判を毛の耳に入れた。実子同様に育てた甥の言う事だ。

毛遠新は文革前に東北のハルビン軍事工程学院に入学、造反派としてならし、いまは遼寧省党委書記、瀋陽軍区政治委員の要職にある。毛沢東は甥の成長を喜び、その話に耳を傾けた。

「社会には、文革に対して、肯定、否定の2つの風が吹いています。トウ小平同志は文革の成果を語ることも、劉少奇(りゅうしょうき)(元国家主席として失脚)修正主義路線を批判することも極めて少ないのです」

露骨なトウ小平批判だ。現実社会から遊離している毛沢東に大きな影響を与えた。毛沢東は遠新を非公式の連絡員にする。遠新が「ママ」と呼ぶ江青は、強力な援軍を得た。

毛遠新と再会した後の毛沢東は別人になっていた。11月2日、毛沢東は毛遠新に話す。

「2つの態度がある。文革への不満と文革の恨みを晴らそうとするものだ。トウ小平にだまされないよう言え」。

この意見は政治局に伝えられ、「水滸伝」批判は「右からの巻き返しの風に反撃する」というトウ小平批判運動に発展した。それでも毛沢東はトウの反省に期待し、何度も会議を開かせた。

ポイントは文革の評価だった。11月13日、毛沢東は復活幹部について「(古代中国の)魏(ぎ)や晋(しん)はおろか漢(かん)があったことも知らない桃源郷(とうげんきょう)にいる人物がいる」と話す。

それを聞いたトウ小平氏は「自分は文革期、(初期に打倒され)桃源郷にいた人物であり、魏や晋も漢も知らない」と言った。トウ氏の失脚が事実上決まった瞬間だった。しかし、これが明らかになったのは今回が初めてである。

当時の北京市党委第1書記の呉徳(ごとく)は、トウと李先念副首相の3人で当時語った話を後に証言している。

「トウ小平は毛主席の決心が下された以上、辞めるほかないと言った。その後、彼は(副首相の)紀登奎(きとうけい)、李先念、華国鋒(かこくほう)らに、自分を批判し地位を保持するよう話した」(呉徳口述「十年風雨紀事」当代中国出版社)。

その時、トウ小平は、妥協を重ねた周恩来の道ではなく、失脚の道を選択した。「トウ小平は毛沢東と同じく、言い出したら引かない性格だった」(トウ榕著「我的父親トウ小平『文革』歳月」)。

<それだけでなく、老衰著しい毛沢東以後に再起をかけたに違いない。時代は我にあり、と確信して。>(伊藤正)

確かに1976年1月8日に周恩来が腎臓癌で死去し、それを追悼する4月の清明節が混乱した責任を取らされる恰好でトウは生涯3度目の失脚をした。しかし5ヶ月後の9月9日には、確かに毛沢東も死んだ。

トウは広州の軍閥許世友に庇護され生き延びた。毛沢東が死去すると後継者の華国鋒支持を表明して職務復帰を希望し、江青ら四人組の逮捕後1977年7月に再々復権を果たす。そこはもはや独り舞台に等しかった。

1978年10月、日中平和友好条約締結を記念して中国首脳として初めて訪日し、日本政府首脳や昭和天皇と会談したほか、京都・奈良を歴訪した。

1978年の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の三中全会決議に通じるものであった。

また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。新幹線に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」という感想を漏らしている。

その2ヵ月後の同年12月に開催されたいわゆる「三中全会」(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)において、文革路線から改革開放路線への歴史的な政策転換を図る。またこの会議において事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。

この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

経済面での改革に続き、華国鋒の掲げた「2つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線に反対して華国鋒を失脚へと追い込み、党の実権を完全に握った。

毛沢東の死後、約20年を生きて経済の改革開放により工業、農業、国防、科学技術という4つの分野の現代化(近代化)を目指す路線を定着させて死んだ。

とはいえ、4つの現代化が果たして中国の如何なる将来を約束するかは誰にもわからない。だからトウといえども周恩来といえども、墓を暴かれるという屈辱を受けない保証は無い。2人とも墓は無い。

参考:産経新聞「?(トウ)小平秘録」83回及び「ウィキペディア」

2018年04月18日

◆1万人の死んだ大気汚染

渡部 亮次郎

霧のロンドンは日本の歌謡曲にもなっているほど有名だが、実際の霧はそんなのんびりしたものではない。秋だった。ロンドン郊外で貸切バスが霧に包まれて動きが取れなくなった。

興味から、外に出て驚いた。まるで牛乳瓶に飛び込んだみたい。上も下も右も左も見えない。急に殴られても相手を確認する事は不可能だ。歌謡曲でロンドン霧を称えた作詞家はロンドンへ行ったことが無かったに違いない。

このように濃い霧だから、ヨーロッパには悪魔がやってくるのも霧に乗って、凶悪犯も霧に紛れてやってくると考えられている。そんな話をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で捜していたら「ロンドンスモッグ事件(Great Smog of 1952、London Smog Disasters)」が出てきて驚いた。

1952年にロンドンで発生し1万人以上が死亡した、史上最悪級の大気汚染による公害事件だという。現代の公害運動や環境運動に大きな影響を与えた。日本で言えば昭和27年。高校生のころだったから知らずに育った。

ロンドンは冬に濃い霧が発生する事で知られている(実はこの霧も大気汚染の一つ)が、19世紀以降の産業革命と石炭燃料の利用により、石炭を燃やした後の煙や煤が霧に混じって地表に滞留する。

それがスモッグと呼ばれる現象を起こして呼吸器疾患など多くの健康被害を出していた。1950年代までの100年間にも10回ほどの大きなスモッグがあったが、その中でもっとも健康被害が大きくなったのが1952年である。

1952年12月5日から10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果冷たい霧がロンドンを覆った。

あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使った。同じ頃、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりだった。

こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留し濃縮されてpH2ともいわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成した。

この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものだった。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さだった。

建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止された。同様に多くの家にもスモッグは侵入していた。

人々は目が痛み、のどや鼻を傷め咳が止まらなくなった。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、普段の冬より4,000人も多くの人が死んだことが明らかになった。

その多くは老人や子供、慢性の患者であった。その後の数週間でさらに8,000人が死亡し、合計死者数は12,000人を超える大惨事となった。

この衝撃的な結末は大気汚染を真剣に考え直す契機になり、スモッグがすぐそこにある深刻な問題であることを全世界に知らしめた。

イギリスでは多くのすす(煤)を出す燃料の使用を規制し、工場などが煤を含んだ排煙を出すことを禁じる新しい基準が打ち出され、1956年と1968年の「大気浄化法(Clean Air Act)」と、1954年のロンドン市法(Cityof London (Various Powers) Act 1954)の制定につながった。

2018年04月15日

◆インスリンに思う 

渡部亮次郎


日本の政界に糖尿病が登場するのは確かに1945年の敗戦後である。「オラ
が大将」の子息で山口県知事もした田中龍夫元文部大臣は公務の合間を
縫って日に何度も注射のため医者に通っていた。

田中角栄、大平正芳、伊東正義、園田直、田中六助。皆糖尿病が元で死ん
だ。脳梗塞、心筋梗塞、腎不全、網膜症、癌を併発するのが 糖尿病患者
の末路だからである。

1921年7月30日にインスリンが発見され、人類に測り知れない恩恵をもた
らした。欧米ではすぐに患者自身が自己注射が始まった。だが日本では
「危険」を理由に医者の反対で厚生省(当時)が許可しなかった。患者の
中には日に3度も医者通いを余儀なくされる人がいた。

仮に自己注射が許可されていれば、医療器具業者は競って注射器の簡略化
や注射針の改良に取り組んだ筈である。だが厚生省(当時)の役人たちは
日本医師会に立ち向かおうとはしなかった。

わたしが秘書官となって厚生大臣として乗り込んだ園田直は1981年、敢然
として自己注射を許可した。その結果、注射器はペン型となり、針も世界
一細い0・2ミリになって殆ど無痛になった。

だがとき既に遅し。園田本人は自分の決断の恩恵に浴することなく腎不全
に陥り、僅か70歳で死んだ。1984年4月2日の朝だった。

糖尿病は多尿が特徴なので、長い間、腎臓が原因と考えられていた。糖尿
病最古の文献はB.C1500年のエジプトのパピルスに見られる記述だ。日本
で記録のある最も古い患者は藤原道長である。

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠
んだ、平安時代中期の公卿である。康保3年(966年)―万寿4年12月4日
(1028年1月3日))62歳薨去した。

当時としては意外な長生きである。糖尿病を放置した場合、実際より10年
は短命になるとされているから、当時としては大変な長命というべきだろ
う。それにしても満月のような権勢も病には勝てなかった。

昔から糖尿病の尿は甘く糖分を含んでいる事は良く知られていたが膵臓が
どのような働きをしているか、どれほど重要な臓器か不明の時代が長く続
いた。

突如、1869年にLanngerhans島が発見された。それから20年たった1889
年、ドイツ人のMeringとMinkowskiは史上初めて、犬の膵臓を摘出したあ
と、高血糖と尿糖が出現することを発見し、やっと膵臓と糖尿病が切って
も切れない関係にあることを証明した。

その後ジョンズホプキンズ大学のOpie博士が、このランゲルハンス島は
内分泌器官であり、糖尿病が関係することを明らかにした。
膵臓のランゲルハンス島から出ているのがインスリン。それが少ないと
か、全く出ないのが糖尿病と判りだしたのだ。

そこからインスリン発見の物語は更に後である。

人類に測り知れない恩恵をもたらしたインスリンの発見物語の主人公は
Banting &Bestの2人のカナダ人である。苦しい実験を重ねてインスリン
を発見したのだがこの2人は当時全くの無名だった。

Frederick Bantingは1891年、カナダの農家に生まれ、1916年トロント大
学医学部を卒業し医者になった。

ある日彼は「膵臓結石で膵管が完全に閉ざされた症例」ー膵臓の腺細胞は
萎縮しているのにランゲルハンス島だけは健全であったーという論文を読
んだ。

それなら結石の代わりに手術で膵管を縛ってしまえばよいと彼は考えた。

膵管を縛るという考えは天才的な閃きだった。彼は自分のアイディアを実
行すべく、トロント大学の生理学者 Macleod教授を訪ねた。
このとき、助手として学生のC.H.Bestを推薦された。

早速実験が始められた。膵管結縛の手術は難しく、内分泌を抽出するのは
さらに難しい。

彼らは1921年7月30日に初めて抽出エキスを犬に静脈注射してみた。効果
は覿面だった。そこで彼らはこの物質をインスリンと命名した。

しかしこのBantingとBestの苦心の作も、まだまだ不純物が多く、実用に
は耐えなかった。その後安全に血糖を下げることが可能になったのは生化
学者 Collips博士が、粗雑な抽出物を人間の使用に耐えるように精製した
結果だった。

1923年のノーベル生理、医学賞はBantingと教授Macleodに決定した。

2005年の国際糖尿病連合の発表によると、アメリカ人のなんと20%が糖尿
病の疑いありで、60歳以上の老人に限れば20%強が糖尿病に罹患している。

アメリカに住む白人種に限っても糖尿病患者は確実に8%を越え増加の一
途を辿っている。

21世紀が進行し始めるとヨーロッパとアメリカという、今までは罹患率が
極めて少ないと言われていたコーカソイド人種全体に糖尿病が一気に蔓延
しはじめた。

これはアメリカの高脂肪、高蔗糖、高エネルギー食がグローバル化し、
ヨーロッパもその例外でない事を示している。

19世紀末までコーカソイドである白人種たちは国によって糖尿病発症率が
低かった。しかしこれから20年以内にはヨーロッパもアメリカも糖尿病激
増で悲鳴をあげるだろうといわれている。

1000年はおろか数百年前にDNA の中に眠っていた遺伝子が社会環境の激変
で目覚めたのである。さらに遺伝子とは関係なく運動不足も大いに影響し
ている。

2004年、アメリカでゲノム研究者が2型糖尿病(中年に発症)の遺伝子を
発見したことが報じられた。これは飢餓遺伝子とは関係ないと考えられて
いる。

日本人の場合、江戸も中期以降になると、庶民の間でも1日3食の食習慣
が成立したが、明治維新までウシも豚も常食として食べる習慣が全くな
かった。つまり高血糖の原因となる高カロリー、高タンパク、高脂肪食と
は無縁な栄養学的にはかなり貧困な食生活が300年以上続いたのである。

一方、1850年ごろからヨ−ローパ人は大量生産方式の牧畜蚕業勃興と発展
により肉食が一般市民階級に広く普及した。日本人が反射的に頭に思い描
くヨーロッパ風の肉中心の食事スタイルの成立だ。

それでも当時ですら日本人に比べるとヨーロッパ人の体格は立派であった
のだから、その後の食生活の100年が生み出した肉体的格差は想像以上の
結果を生んだのだ。

日本では第2次大戦後、それも戦後20年たって、やっと高エネルギーと高
脂肪食をとりいれた結果、糖尿病が急上昇で増加した。わずか30年から40
年の食生活の変化だ。

日本人の中に眠っていた飢餓遺伝子が飽和脂肪の刺激を受けて目覚めた結
果である。世界中の人類に共通の現象で別段、驚くべきことではない。経
済の高度成長と糖尿病患者の趨勢は同一だ。

だから中国では物凄い勢いで糖尿病患者が増えている。精々鶏を食べてい
たものが、1切れでその何倍ものカロリーのある牛肉を食えば、報いは当
然、肥満と糖尿病など生活習慣病である。毛沢東語録にはない。

出典:さいたま市大島内科クリニック「インスリン発見物語」
http://members.jcom.home.ne.jp/3220398001/discovary/index.html 

2018年04月10日

◆お邪魔虫共産党

  渡部亮次郎


中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の汚職が引き
もきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本能に等しい
ものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り人権尊
重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済の改革
開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。特にア
メリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし
た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、
とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆
で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ
た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋
介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和
24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中
国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主
主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公
社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の
低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から
4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が
経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と
は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ
る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政
治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件
には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外
の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は
障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外
に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで
あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す
るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体
制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に
すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知
るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下
ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が
左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。2010・12・5