2007年03月03日

◆ウィルス性肝炎


                     渡部亮次郎

2007年1月22日に義兄をC型肝炎による肝臓癌で失った。彼の73歳の誕生日の前日だった。発症は42歳のとき。医者の説明から俺の人生は50代で終わる、と覚悟したそうだ。

死ぬ前の月、つまり2006年12月8日に浦安のホテルに招待されて懇談した。死ぬ兆候なんか全く無い状態だったが「それが70過ぎまでこれたのは、珍しくインターフェロンが効いたからなんだ」と言っていた。

B型、C型肝炎の場合、徐々に肝臓の繊維化が進み、肝硬変に至り肝癌が発生することがあるとは今や常識だから、義兄は早くから覚悟を決めて肝炎との闘いを続けながら洋酒の輸入商を営んできたのである。

それから20日たった12月27日夕方、都内の彼の本社で会った。明日から孫など一族郎党を連れて北関東のホテルで年末年始の休暇を取るのだ、とうれしそうだったが、顔は真黄色、明らかに肝機能悪化に伴う黄疸が始まっていた。それでも翌日は車を運転して出かけたという。

密かに心配していたら、正月空けの4日に連絡があり、只今港区内の大きな病院に入院との知らせ。黄疸がひどくなったので帰路は運転を代わってもらって来たとのこと。

かかりつけの病院で担当医も決まっていたから、早速、黄疸の手当てにかかったが、腹水が溜まり始めた。それを抜き取ったところ、当然、腎臓の機能が低下。時折、意識混濁。かくて入院18日後 死去してしまった。

急なことで死に目には会えなかった。幸い痛みを訴えることも無く、安らかな死に顔だった。

死亡診断書。死因は腎不全。その原因は肝臓癌、その原因はC型肝炎。20年近く前に友人を59歳で肝炎で亡くしており、これで周りの肝炎犠牲者は2人となった。

昔、長く日本医師会長を務めた故武見太郎氏に話を聞いたことがある。「きみ、21世紀は肝臓の時代ですよ。肝臓が様々なウィルスに攻撃される」と聞かされたが、当に人類は要の肝腎をウィルスに曝されて、まだ医学は殆ど無力の状態、と言わざるを得ない。

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2007年03月02日

◆捕らぬ狸の皮算用

渡部亮次郎

菅直人民主党代表代行の東京都知事候補からの逃げ方を見ていると「捕らぬ狸の皮算用」という諺を思い出す。狸を捕まえるとか、毛皮を剥いで売るとか言うことが無くなったので、死んだような諺だが、菅にはぴったりである。

簡単に「広辞苑」(岩波書店)から。「(まだ捕らえないうちから、狸の皮の売買を考えることから)不確実な事柄に期待をかけて、それを基にした計画をあれこれ考えること」。政権が来たら俺が総理大臣だから都知事になっていてはチャンスを失う。

同じ岩波の「ことわざ辞典」(時田昌瑞著)では。「先行きが不確実なことに期待して、あれやこれやと計画することのたとえ」。算用は計算したり、勘定をすること。猟で、狸を捕らえる前から、皮をいくらで売ってそのあとは・・・と計画やら計算やらをすること。

大正時代以降の言い回しらしい。江戸時代は「穴の狢(むじな)を値段する)「飛ぶ鳥の献立」「儲けぬ前の胸算用」と言ったらしいが今では専ら「捕らぬ狸・・・」だ。

4月に行われる都知事選挙をめぐっては、現職保守系の石原慎太郎の3戦にまともに刃向かえる民主党候補は、東京を地盤としている菅が知名度から言っても歳適任者だと党内外で囃し立てられて来た。

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2007年02月28日

◆集りで殺された記者


渡部亮次郎

集り〔たかり〕と読む。脅したり泣きついたりして金品を巻き上げたり、おごらせる(「広辞苑」)。第2次大戦前の日本でも新聞記者が世間から嫌われたものだと若い頃教えられた。戦後はそうでもなくなった。

産経新聞の北京特派員福島香織記者は、報道統制下ながらいつも特異な記事を読ませてくれる頼もしい記者。その福島さんが2007年2月27日付6面「新せかい百科 アジア発」に報道統制下の悲哀 殺害された記者 と題して「集り記者」の現実を知らせている。

それによると2007年1月10日に山西省大同市郊外のヤミ炭坑で取材中の中国貿易報山西省分社所属の蘭成長記者が作業員らにツルハシなどで撲殺されたのは、炭坑主に「集っていたからだった」と言うのである。

事件を詳報した時事週刊誌「中国新聞週刊」2月5日号によると、地元記者たちは取材と称してハイエナのように群がり炭坑主の儲け1日約105万円の半分を分捕っていた。蘭記者もそのうちの1人であった。

炭坑に「ヤミ」と付いているのはなぜか。安全無視で只管生産に邁進する民間小規模炭坑である。安全無視だから落盤などの事故は凄まじく多発する。

<中国:炭鉱事故による死亡者数 世界の79%を占める

【大紀元日本6月30日】日中国国家安全生産監督管理総局(安監総局)の李毅中・局長は24日、中国の炭鉱工業は安全面において深刻な問題を抱えていることを認めた。

中国炭鉱の100万トン生産量あたりの死亡者数は3人、米国は0.03人、ポーランドや南アフリカは0.3人であり、中国の炭鉱労働者の死亡率は南アフリカの30倍、米国の100倍であることが明らかになった。2005年6月25日の「明報」が伝えた。

中国は世界最大の炭鉱工業を有し、中国政府の発表によると2004年の石炭生産量は世界の35%を占める。しかし、炭鉱事故による死亡率は世界の約80%を占めており、これは中国の炭鉱で少なくとも毎日15人の労働者を犠牲にしないと、経済発展を支えるのに十分な石炭生産量に追いつかないことを表している。

李局長はまた、炭鉱事故による死亡者数は、以前政府が発表した数字より若干減少はしているものの、依然として世界炭鉱事故死亡者総数の79%を占めていることを認め、今年の1月から5月までに中国全土で発生した各種の事故をあわせると32万件あまりに達し、その死亡数は49,000人を超えたと漏らした。

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2007年02月27日

◆今年は昭和82年

                      渡部亮次郎

2007年は昭和に仮にすると何年になるか。2007−1925=82即ち「昭和82年」なのである。昭和を西暦に換算するとき昭和に1925を足した数字が西暦になっていたから。昭和20年足す1925イコール1945年とした。

その1945年に我々日本人はアメリカ始め連合軍に敗戦し、占領された。秋田県にもアメリカ軍がやって来た。出迎えた蓮池知事が指揮者に握手を求めたら、拒否され、強く払われた、と旧制県立秋田中学に通っていた兄から聞かされた。

「握手というのはお前、目上の人が先に目下の者に出すものなんだそうだ、蓮池さんは帝国大学を出ても握手の礼儀を知らなかったんだろうな」。

さらに2年後、中学に入り、民主主義と英語の勉強が始まったが、英語を教えられる先生が居ない。昭和16(1941)年のアメリカ侵攻とともに英語を敵国語として使用を禁止してきたのだから当然である。

苦し紛れに「花の3月マーチましょう」「辞典はジヒクショナリー」なんかを連発しても授業にはなりはしない。当然、高校入試に英語は無かったが、すでに県庁所在地では英語スピーチ・コンクールが行われていて、その優勝者の女性が同級生になって顔色を失った。

アメリカ軍は1941年の開戦をきっかけに陸軍、海軍ともに日本語学校を充実させた。ノーベル賞作家川端康成の作品を英語に翻訳して
授賞式にも同席したメリカ人サイデン・ステッカーさんは海軍日本語学校の卒業生である。

<エドワード・サイデンステッカー(Edward G. Seidensticker, 1921年2月11日- )は、日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ人。より正確には「サイデンスティッカー」だが、親しみをこめて「サイデンさん」などと呼ばれる。

第2次世界大戦後、日本に滞在して外交の仕事に携わる傍ら、東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学を勉強した。その時の友人が直木賞作家の高橋治。

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2007年02月25日

◆薄れ行く東京大空襲


                      渡部亮次郎

私が住まいしている隅田川左岸の東京都「江東区」は昭和18年に都制が導入され、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれた。さらに同年、新しい地方自治制度によって、今の23区制となった。特に深川は昭和20年3月10日未明の米軍大空襲の第1弾が投下されたところである。

東京大空襲と言われるこの爆撃では8万人以上(10万人ともいわれる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

昭和29(1954)年早春に上京した時、東京大学近くの街には、空襲被害の瓦礫の山がまだ、そこここに残っていた。あちこちに門柱がころがっていた。田舎少年に東京大空襲の記憶は無かった。

ところで深川には三業地があった。堅物ぶる広辞苑で引いても三業地とは三業の営業を許可された一定の地域としか出ていないが要するに料亭、待合、芸者置屋が纏まって営業する「粋な」処である。しかしこの爆撃で深川は消滅した。

深川の歴史を語る上で、花街と芸者は切っても切れない。辰巳(巽)芸者は、「広辞苑」でさえ拒否できなかった由緒ある盛り場だった。「江戸深川の遊里の芸者。きっぷが良く、張りがあるとされていた」と解説しているぐらいだ。

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2007年02月24日

◆監査役は有名歌手

渡部亮次郎

日本の演歌をドイツ唱法やベルカント唱法で歌うのは悪趣味であり、「分類すればゲテモノ」だと2006年11月10日の我がメイルマガジン「頂門の一針」に書き、月刊誌「カレント」にも書いた。

それを、どこかで読んで下った74歳のバリトン歌手山本健二さんから「同感だ」と言うメッセイジを副えて、2006年収録の、ご自身のCDを送ってきて下さった。「落葉松2」と題して「浜辺の歌」「椰子の実」「城ヶ島の雨」「初恋」など日本の唱歌、童謡16曲をピアノ伴奏で謳いあげたものだ。

既に74歳。自身の経験からすれば、声帯はかなり衰えているだろう、大会社の監査役まで上り詰めた男の「物好き」だろうとタカを括って聴いたら、大変!突然、居住まいを正す破目になった。素晴らしいの一語に尽きる。

CDをすでに22枚も出しておられて斯界での活躍も多岐に亘っている。NHKの深夜便にも登場されていると言う。会社に隠れて音楽活動を続け、やっと勤めを終えたので歌手、音楽家として表に出てこられたのである。知らないのは私だけだったろうか。

ご自身のホームページから引用する。http://bariken.com

山本健二 1933年(昭和8年1月) 釜山府(韓国)に生まれる 1945年(昭和20年) 釜山中学1年のとき終戦により福岡に引き揚げ同年旧制の県立福岡中学へ編入、そのまま新制福岡高校へと進学。

昭和26 (1951)年卒業。早稲田大学に進学。在学中はグリークラブ学生指揮者として活躍。早大卒業後日本信販に入社し、フジタ道路監査役で終えるまで44年間のサラリーマン生活を送る。

その間音楽活動を続け、早稲田大学グリークラブ、共立女子大学合唱団、稲門グリークラブ、フレーベル少年合唱団の指揮者を歴任、早大グリークラブのヴォイストレーナーとして2003年まで23年間指導に当る。

自身のコンクール歴は、第35回NHK・毎日音楽コンクール (現・日本音楽コンクール) 声楽部門入選、第3回新波の会日本歌曲コンクール歌唱部門第1位、並びに荻野綾子賞受賞、朝日新聞社主催西日本高校独唱コンクール (現・全日本高等学校声楽コンクール) 第2位、NHK洋楽オーディション合格。ニコラ・ルッチ、ロドルフォ・リッチ、中山悌一の各氏に師事。特に中山悌一氏には16年歌唱の基本を学ぶ。

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2007年02月23日

◆東京から逃げたい民主党

渡部亮次郎

<建築家の黒川紀章氏、都知事選に立候補へ HPで公表

建築家の黒川紀章氏(72)は21日、東京都知事選について、「石原氏が
立候補を辞退しなければ自分が立候補する」との考えを示した。石原知
事はすでに出馬を表明しており、事実上の立候補表明となる。

「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目
に余る」などと理由を語った。

黒川氏は同日、ホームページ上で「15の公約」を公表。無所属で立候補
するが、どの政党でも推薦は受けるとしており、当選しても任期は1期
のみ。無給で務め、公用車などは使わないという。

8年前に石原知事が初当選した時に応援したが、その時から立候補を考
えていたという。「石原知事のリーダーシップはよかったが、ちょっと
独りよがりになり、四男の問題も都民に『傲慢(ごうまん)だ』と指摘
されている。五輪を道具に一極集中を進めようとしている」などと語っ
た。

黒川氏は愛知県出身。東大大学院の故丹下健三研究室で学んだ世界的な
建築家で、米国、英国、フランス、ドイツの建築家協会員などを務める。日本景観学会長で日本芸術院会員。06年に文化功労者に選ばれている。

都知事選にはこのほか、共産党が推薦する元足立区長の吉田万三氏(59)らが立候補を表明している。> (Asahi Com 2007年02月21日21時22分)

<都議会民主、菅氏待望論 石原知事は自民推薦固辞を否定

告示まで1カ月に迫った東京都知事選を巡り、民主党と自民党が揺れて
いる。候補者選びが難航している民主党は21日、都議会民主党議員団が
「勝てる候補の擁立を求める」と決議し、党本部に申し入れた。明記し
ていないものの、菅直人代表代行(60)の擁立を事実上求める内容。

一方、石原慎太郎都知事(74)はこの日、自身が電話で自民党の推薦を
断ったとする経緯を「違う」と否定。同党は知事の真意を測りかねてい
る。

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◆必死で逃げる菅直人

 渡部亮次郎


民主党の菅直人代表代行は先に東京都知事選で浅野史郎・前宮城県知事
が同党の立候補打診を断ったことについて「民主党としていろいろなこ
とは考えないといけない。同時に無党派、市民の方が自発的に動いてい
る」と希望的観測を述べていた。

その上で「政党は政党としての役割はあるが、それを超えた多くの都民
市民の皆さんの動きも始まっている」と述べていた。

浅野氏に立候補を求める市民集会が16日に開かれたことを受け、世論の
動向と浅野氏の対応を十分見極めるべきだとの考えを示したものだ。大
津市内で記者団に語った。Asahi Com 2007年02月17日22時20分。

今のところ、石原慎太郎知事の3選を阻む自信が全くないものだから、逃げまくっているようにしか見えなかった。多分、浅野氏を何とか説き伏せるべく、裏で工作していることが感じられた。そういう言い回しでは無いか。

一方、小沢代表は17日、津市での記者会見で「浅野さんはたぶん出馬の意思はないだろう」と語った。菅氏については「(私と鳩山氏との)3人の役割分担がうまく機能してきたので、今後もそういうことでやっていきたい」と、都知事選には擁立しない考えを重ねて示した。Asahi Com 2007年02月17日22時20分

しかし、このままでは石原慎太郎都知事に戦わずして3選を許す危惧も出てきたため、民主党東京都連は遂に21日、「最強の候補」として菅氏に出馬再考を申し入れた。菅氏は当然、即答を避けた。必死の逃亡である。

民主党は幼稚すぎる。これまで断られた著名人は浅野史郎・前宮城県知
事(慶応大学教授)を筆頭に放送キャスターの筑紫哲也、久米宏、鳥越俊
太郎、安藤優子の各氏ら。その経緯が次々に暴露されてきた。したがっ
て誰だって「あいつが断ったお下がりを私が食えるわけ無いだろう」と
なる。実に稚拙なのである。

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2007年02月22日

◆納豆で総白痴化防止

 <当メルマガの不具合のため、「頂門の一針」716号(2月20日)に掲載された同主宰の渡部亮次郎氏と石岡荘十氏の原稿の転載が遅れました。お詫びします>

                     
                      渡部亮次郎

<発掘!あるある大事典(はっくつ!あるあるだいじてん、通称:あるあ
る)は、関西テレビ東京支社が制作し、FNS(フジテレビ系列)で1996年10月27日から2007年1月14日まで日曜日の21:00〜21:54(JST)に放送されていた生活情報バラエティ番組である。

2007年1月7日の納豆を取り上げた第140回『食べてヤセる!!!食材Xの新事実』において、実際には血液検査を行っていないにもかかわらず虚偽のデータを放映したと、2007年1月20日に制作の関西テレビが発表し、千草宗一郎社長らが謝罪した。

1月7日の放送直後に納豆の売り上げが急増し、小売店では納豆が品切れ
となる状況が続いていた。捏造報道を受けて、一部の納豆メーカーは、
逆に納豆の売り上げが低下するのではないかと悪影響を懸念した。

茨城県ではスーパーから大量に発注された納豆が突然キャンセルされ、
廃棄処分がでかねない状況となった。

また、捏造問題の広がりを受けて、過去の放送内容を書籍化したもの
(扶桑社から出版、全6巻)の出荷が取りやめられ、多くの書店で店頭からも撤去されている。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』

この事実を知ると、1936年生まれの私は、「テレビは国民全部(1億)を
白痴にする」と喝破した評論家大宅壮一(故人)の予言が見事に的中したと納得せざるを得ない。

1億総白痴化(いちおくそうはくちか)とは、社会評論家の大宅壮一が
生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物で
あり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてし
まう」という意味合いが強い。

元々は、1957年2月2日号の「週刊東京」における、以下の詞が広まった
物である。

「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ず
らりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関に
よって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。」

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2007年02月21日

◆必死で逃げる菅直人



            渡部亮次郎

民主党の菅直人代表代行は先に東京都知事選で浅野史郎・前宮城県知事が同党の立候補打診を断ったことについて「民主党としていろいろなことは考えないといけない。同時に無党派、市民の方が自発的に動いている」と希望的観測を述べていた。

その上で「政党は政党としての役割はあるが、それを超えた多くの都民、市民の皆さんの動きも始まっている」と述べていた。

浅野氏に立候補を求める市民集会が16日に開かれたことを受け、世論の動向と浅野氏の対応を十分見極めるべきだとの考えを示したものだ。大津市内で記者団に語った。Asahi Com 2007年02月17日22時20分。

今のところ、石原慎太郎知事の3選を阻む自信が全くないものだから、逃げまくっているようにしか見えなかった。多分、浅野氏を何とか説き伏せるべく、裏で工作していることが感じられた。そういう言い回しでは無いか。

一方、小沢代表は17日、津市での記者会見で「浅野さんはたぶん出馬の意思はないだろう」と語った。菅氏については「(私と鳩山氏との)3人の役割分担がうまく機能してきたので、今後もそういうことでやっていきたい」と、都知事選には擁立しない考えを重ねて示した。Asahi Com 2007年02月17日22時20分

しかし、このままでは石原慎太郎都知事に戦わずして3選を許す危惧も出てきたため、民主党東京都連は遂に21日、「最強の候補」として菅氏に出馬再考を申し入れた。菅氏は当然、即答を避けた。必死の逃亡である。

民主党は幼稚すぎる。これまで断られた著名人は浅野史郎・前宮城県知事(慶応大学教授)を筆頭に放送キャスターの筑紫哲也、久米宏、鳥越俊太郎、安藤優子の各氏ら。その経緯が次々に暴露されてきた。したがって誰だって「あいつが断ったお下がりを私が食えるわけ無いだろう」となる。実に稚拙なのである。

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◆茶・ちぃ・しゃ



             渡部亮次郎

先輩古澤襄さん(元共同通信社常務理事)から「茶」の話を教えられたので、ロシアでも「ちぃ」、アラビア語でも「しゃ」みたいだった事を思い出していた。

外交交渉でお茶の出ることはない。ビンに詰まった水が普通である。毒入りと気を廻されるのを避けるためだろう。よほど親しくならないとお茶もコーヒーも出ない。

今はともかく、昔は見ず知らずが出合うわけだから、毒を盛られない保証はない。それだから女房を人質に連れて行った。いまはそれを物見遊山代わりに連れて行ったと誤解する人が多い。
 
百科事典によると「ちゃ」も「ティ」も中国語。「ちゃ」が広東語、
「ティ」が福建語だそうで、「ちゃ」は日本語、ポルトガル語、ヒン
ディー語、ペルシャ語、アラビア語、トルコ語に流れた。

「ティ」はロシア語、オランダ語、ドイツ語,英語、フランス語に反映したが、17世紀の中ごろ以前にはなかったそうであるから中国から茶が入ってからの言葉だと推測される。
 
モスクワの郊外に迎賓館が5棟建っている。その1号迎賓館は2階建てで、中にステンレスのだるまストーブみたいなのが鎮座してたが煙突はなかった。

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2007年02月20日

◆民主党が取り逃がす人


                渡部亮次郎
<民主党の小沢一郎代表、鳩山由紀夫幹事長、菅直人代表代行は16日、党本部で会談し、東京都知事選の候補者として菅氏を推さないことを確認した。28日の党都連のパーティーまでに候補者を確定することを目指すとし、菅氏は「浅野史郎・前宮城県知事を中心にできるだけ努力したい」と述べたという。

鳩山氏によると、小沢氏は「菅さんは国政の政権取りに欠かすことので
きない人材だ。どういう状況でも国政のど真ん中で政権取りにがんばっ
てほしい」と述べた。ただ、浅野氏の擁立については「菅氏の話を黙っ
て聞いていた」(鳩山氏)という。> (Sankei Web 2007/02/16 19:31)

これに先立って
<民主党の菅直人代表代行は15日の記者会見で、4月の東京都知事選で
同党が立候補を打診した浅野史郎・前宮城県知事について「(宮城県知
事時代に)情報公開、特に警察の報償費問題で、多くの知事の中で浅野
さんが最もしっかりした勇気ある行動をとられた。私は浅野さんを個人
として評価している」と述べ、浅野氏の立候補に期待をにじませた。>
(Asahi Com 2007年02月15日18時54分)

「個人として云々」と言ったのは、浅野氏が無所属で立候補しても民主
党は支持するとのサインだった。しかし浅野氏は16日、横浜市で記者団
に「(民主党からの立候補要請に)今日(16日)受けないと言うことを伝
えた」と明らかにした。

テレビのキャスターやタレントに次々に断られた民主党にとって浅野氏
は最後に縋った綱だった。しかし断られた。とうとう、東京を地盤とす
る菅代表代行を差し出すしかないか、と党内に声が出たので、小沢氏は
冒頭の決断を下したものだ。

民主党としては28日の東京都連パーティーまでに候補者を確定させたい
としているが、これから手を上げる奴は相当の際物だろう。何しろ石原
慎太郎の鼻を明かす大事業だから、小沢代表自身が立っても不可能であ
る。

有名人は選挙情勢を考慮してか、収入を考慮してか、先の苦労を考慮し
てか、いずれにせよ民主党の要請を拒否した、民主党から逃げたのであ
る。或いは民主党の思惑に反して民主党を見限って捨てた。

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2007年02月19日

◆薩摩揚に思い出す



         渡部亮次郎

先輩から恒例の薩摩揚げが薩摩から届けられた。令夫人のご郷里が薩摩・鹿児島だからである。戦前、戦中に貧しい家庭に育った私に、少年時代、薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんを食した記憶はない。

ごく幼い頃、鮭の缶詰とかバナナを食べた記憶はあり、大東亜戦争の敗戦後、何年もしてから食べたが、魚肉のすり身を成型して作ると言う薩摩揚げ、蒲鉾、はんぺんの類は敗戦後9年の春、上京して初めて食べた。

それよりも薩摩揚げが沖縄で異常に高値で、それは琉球王朝が隣の薩摩藩の無法な支配を受けたことの遺恨からであると説明され、改めて驚いたものだ。

このときの用事は琉球における主席(知事にかわる)をアメリカ政府の認知により初めて住民の選挙(公選)によって行われので、それを取材、報道するためだった。

アメリカ軍に占領された沖縄は当時まだアメリカの施政権下にあり、高等弁務官が島のすべてを握っていた。折からベトナム戦争が激化し、嘉手納空港はB52爆撃機の発着が慌しかった。

言葉も良く通じないまま島中を駈けずり周り「4万の差で屋良朝苗(やらちょうびょう)氏が当選するはず、と東京に連絡した。

翌日、軍政部の係官が「NHKがそのように放送していた」という。NHKが選挙の予測を放送するわけがないから,私の電話を盗聴していたと告白したようなものだった。

何しろ朝から晩まで、いや、飲み屋でもバーでも尾行されていた。なんで筑紫哲也(朝日新聞)でなく俺を尾行するのだ、と追及したら、朝日新聞は配達前に空港で没収できるが、ミスターワラナベの電波は没収できないから、都合悪い取材を妨害しなければならない」との返答。震えが来た。

尾行されながらの昼食。1ドル360円時代に「おでん茶飯」が4ドルぐらいで法外に高かった。高い理由が福岡からの薩摩揚げの空輸。その理由が嘗ての薩摩による琉球支配への反発だった。450年以上前の怨恨が脈々と受け継がれているのである。

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