渡部亮次郎
刺身を60歳まで食べられなかった。汽水の八郎潟(秋田県)沿岸で生ま
れ育ったから「魚は生で食うと腹痛を起こす」といわれていた。
もちろん、日本海の魚は入手出来たろうが、貧しい農家だったから、現
金がない。やむを得ず、八郎潟から只で捕れる鮒、鯰、鯉、白魚、川海
老などを、すべて煮るか焼いて食べた。当然、鮨も食べたことが無かっ
た。
現金があったとしても、戦前の農村には保冷車も冷蔵庫もないから、海
の魚を生で運べる距離は極めて短かった。群馬や長野の山中で育った明
治人は海魚とは塩鮭のことだと思っていたと聞かされたことがあるくら
い。
一般的な日本人は大昔から刺身や鮨を食べて、「食」を楽しんでいた。
しかも世界一の長寿者が日本人と分った時、その理由は生魚にあると決
めたアメリカ人は争って刺身や鮨を食べ始めた。
とはいえ、ロンドンで鮨屋が大流行したのは最近のことらしい。1980年ご
ろは大屋政子さん経営の1軒しかなかった。アナゴ煮が固くて食べられな
かったことを思い出す。
ところで日本の湖沼畔の住人が、おしなべて淡水魚の生食をしないよう
にして来たについては、遠い祖先から受け継いだ貴重な体験があるのだ。
趣味、嗜好の話では実はない。
肝吸虫症(肝臓ジストマ症) カンキュウチュウ(肝吸虫)
カンキュウチュウ Clonorchis sinensisの存在である。
肝臓ジストマともいう。成虫の虫体は柳葉状で、体長10〜25mm、体幅3〜
5mm。第1中間宿主はマメタニシ、第2中間宿主はコイ、フナ、モツゴなど
の淡水魚で、これらに寄生した幼虫のメタセルカリアを経口摂取するこ
とによって感染する。
成虫の寄生により、胆管上皮の影離(はくり)、増殖など胆管に炎症を起
こし、胆管の拡張、腺腫様増殖をきたし、周囲の結合組織増生から肝硬
変へと進むことがある。軽症では食欲不振、倦怠感、下痢などが現れる。
重症では重大な肝機能障害がおきる。現在もアジア地域に分布し、中国、
韓国、台湾、タイ、ベトナムカンボジア、ラオスに多い。フナ、コイ等
の淡水魚が感染源になるので刺身で食べないこと。潜伏期数ヶ月から数
年。
18歳で秋田を離れるまで、専ら淡水魚を焼いたり、煮たりでしか食べな
かった少年が総じて魚のすべてを生では食べられなくなったのは分かっ
てもらえるだろう。
40歳を過ぎてからアメリカへよく通うようになり、丁度その頃のアメリ
カでは鮨ブームなのに、私が鮨好きでないのを知ると「ヘンナニホンジ
ン」とからかわれた。
それでも欧州や中東など良く理解されないところでは「日本では魚など
を生のままで食べている」という理解になっている場合がある。かなり
気持ち悪い、という感覚であった。
他方、生で食べる事は、既に述べたように寄生虫に感染する危険がある。
もちろん、伝統的に食されているものにはそのような危険がない事を確
かめているから食べている。
刺身に慣れた日本人が他国で刺身を求める場合もある。地元の料理人が、
伝統にない材料を刺身として提供した場合には、そのような危険が生じ
る。顎口虫(がっこうちゅう)などはその例である。特にほとんどの中
国人が生魚を食べないようにしているのはそのためだ。
実は私の刺身嫌いは嗜好の問題と思っていたが、1972年9月に田中訪中に
同行した際、人民大会堂で開かれた周恩来総理の歓迎宴会に招待され
「このしろ」という魚のボイルしたものを食べた。
大型の鰊のような骨組みで、味は海の鮭に似ていた。揚子江(長江)に
生息しているが、肝臓ジストマを持っているから、絶対ナマで食べては
いけないものだと教えられた。(現在、水質汚濁により絶滅の危機にある
と伝えられている)。
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