渡部亮次郎
昭和60年(1985年) 12月18日 自治大臣兼国家公安委員長(第2次中曽根内閣第 2次改造内閣)就任(初入閣。しかし、以後入閣なし)。
田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らとともに派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立する。
昭和61年(1986年) 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧岩手2区・自民党公認)7期目当選。
竹下内閣では内閣官房副長官に就任(非閣僚)。官房長官に指名されたのは小渕恵三だった。
平成元年(1989年)海部政権で自民党幹事長就任。自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、第39回衆院選に勝利するなどの実績から「豪腕」と称された。竹下、金丸が後ろに控えていたから出来たこと。
小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の1人に数えられルようになった。(皮肉なことだが一時的に担いだはずの竹下登はやがて闇の領袖となり田中支配が竹下支配に衣替えしただけのことになってしまう)。
湾岸戦争に関連し国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連が推す現職に代わりNHKキャスター磯村尚徳を擁立したが敗北したため責任をとり党幹事長を辞任。
しかし直後に経世会会長代行に就任。名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。
だが次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めていった。
平成2年(1990年) 1月24日 第39回衆議院議員総選挙(旧岩手2区・自民党公認)8期目当選。
海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、金丸から後継首相になるよう説得される。金丸の意を受けた渡部恒三なども必死に説得し、また渡辺美智雄や宮沢喜一などには俺たちは降りるからおまえがやれと言われたそうだが、当時49歳であり若すぎる事を理由に、これを固辞する。
また6月に心臓病(狭心症)で倒れ健康不安説が一時期出た。当時の自民党の力学から言って、小沢が受諾さえしていれば総理になれたといわれる。小沢の政治家人生でもっとも総理に近づいた時であった。
本人は数年後に「あの時はまだ若すぎたし、健康面での不安もあった」と回顧している。
平成3年(1991年)10月10日、自由民主党総裁選挙において派閥として支持する候補者を決定するために、出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した。
しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は年齢こそ小沢より上だが、当選回数は小沢よりも1少ない)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。
このことは後々まで「経世会支配」「豪腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明し、宮沢は後に私の履歴書の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから出向くのが筋であった」と回顧している)。宮沢内閣成立。
平成4年(1992年)、東京佐川急便事件を巡り金丸が世論から激しい批判を受けて派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は竹下派七奉行のうち金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らとともに羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。
当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕に内定した。政争に敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、竹下派は分裂した。
野党から宮沢内閣不信任案が上程され、平成5年(1993年)6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した。
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