2016年04月10日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任した。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求めた。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようになり、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒りを示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたようだが、結果は不明だという。(再掲)


2016年04月09日

◆田中首相訪中同行記

渡部 亮次郎 NHK政治部(当時)



将来の近きライバルと予想

以下は初の訪中から帰国直後、あるミニコミ紙(発行:昭和47年10月28日)に執筆したものである。書棚の中から33年ぶりに取り出してみて「中国は将来の"近きライバル“」と既に分析していたのを発見した。今月29日が日中国交正常化への共同声明の調印日である。わたしはNHKを代表して同行した。以下、同行記である。

『百聞は一見に如かず』と言うが、『群盲、象を撫でる』ともいう。「中国見たまま」といったところで滞在期間がわずか6日間。目的が田中首相の「同行」であってみれば私の「一見」が「百聞」以上のものだとはいえない。

まして、同行記者80人の一員として、ぞろぞろ田中首相に従って歩いただけであってみれば「象を撫でない盲」にも劣る「訪中記」である。

しかも共産国ならどこでもそうであるように、猛烈な取材規制を受けながらの取材だったのであるから、お恥しい次第ではある。

端的にいって、田中訪中同行記者について中国側が初め言ってきたのは60人。このうち首脳に3メートルまで近づける「近距離」の記者、カメラ記者、 TVカメラマン、政府公式カメラマン、TV中継カメラマンは各2人で計10人。それ以外(大部分)は会談場の玄関口でシャットアウトされる「遠距離組」と言うものだった。

時として、いま西山事件【注】にもある如き方法さえ用いて、嘗て大平外相をして「人の腹の中に手を突っ込む奴ら」と言わしめたほどの「マスコミ・アニマル」である当方としては大いなる不満を表明し、外務省情報文化局を通じて規制緩和を要求した。

その結果、「推測記事がある程度、書かれるのは仕方がない。同行記者数は20人増の80人とする」という最終回答があっただけで、“規制“は緩まなかった。

パズルを解く記者たち

共産国のことだから、さらに「公共建造物の撮影、人民へのインタビュー、家庭訪問、指定区域以外への外出について事前許可なくして行ってはならない」のは当然であった。

帰国後、週刊誌が「林彪事件や台湾問題について人民の反応も取材できなくて、何が同行記者か」と叩かれたが、事情も知らずして、80人の怠け者が北京や上海をブラブラしただけと言う論評にはハラが立った。

正直な話「テメエ、やってみろよ」と言いたい。尤も例によって中国礼賛が先に立って、規制を受けた取材であることなど、少しも書かなかった方にも罪がある。

このように、田中訪中同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の3重苦に悩まされての取材だったが、中国の現状を見れば、こうした規制も止むを得ざる措置だった、と言えなくもない。

テレビは白黒方式!のが全土に10万台(公式)しかない。7,500人に1台の割合。1人民公社に1台あるかないか、というのが現状である。しかも放送時間は夜7時から3時間だけ。

今日の事象は翌日の夜でなければ放送されない。中国側も「歴史の新しい始まり」と高く評価した日中共同声明の調印式という「大ニュース」でさえ、たしか翌日の夜まで放送されなかったはずだ。

中国人にとって、日本で言えば天皇以上である毛沢東主席と田中首相との”世紀の会見“でさえ翌28日の夜7時にならなければ放送されなかったのだから。

ラジオはかなりある。だが日本のように実況放送されてない。今日のニュースを今日中に伝える事はない。新聞はどうか。まず各戸配達は無い。昼ごろスタンドに買いに行けば朝刊(人民日報)が手に入る。(だが面白い記事などどこにも無い)

革命(建国)以来23年経ってこの有様であるから,以前はもっと低水準だったと思われる。その間に人民と言う名の大衆は「ニュースとは翌日にならなければ分からぬもの」と思い込むようになった。

だからニュースに餓えるということも無くなったのではなかろうか。そういうふうにまた指導者たちも思い込んでいるから、日本から80人もの記者が来ることさえ驚きなら、相手のハラに手を突っ込むほど、手を変え品をかえて接近取材をするなんて、思いもよらないことなのである。

万里の長城で、この規制を乱し「総理!そこで止まって、こっちを向いて笑って」とカメラマンたちが田中首相に注文をつけるのを見ていた中国人たちは「日本のマスコミというのは政治家を"指導“するのか」と驚く、というよりもあきれていた。

田中、周恩来による首脳会談が4回、大平、姫鵬飛による外相会談が3回。特別番組として田中の毛沢東"謁見”があった。しかしこれらの内容は誰1人新聞記者が見ても聞いてもいたわけじゃない。

例外を除いては「発表することは何もありません」という二階堂官房長官の"発表"をもとに、ああでもないこうでもないと組み立てた"推理小説“である。

とはいっても前もって相当に勉強はして行ったから、発表の後交わされる二階堂氏とのやり取りから、さながらクロスワード・パズルを解くように会談内容を組み立てて行ったから”小説"とも言えない。

4回に及んだ首脳会談は、その都度、何を議題にしたのかは、もちろんいまだに明らかにされていない。だから現地にいるときも、しつこく聞き出すわけだが、首相をして「この人はなんでもしゃべる」と言わせた二階堂氏も「なんとも申し上げられません」という返事を繰り返すのみ。

二階堂氏の顔色や目つきや、口許を見てのパズル解きであった。東京にいるときなら、会見の後の夜討ち朝駆けの奇襲取材はお手の物なのだが、北京では、二階堂氏は会見が終わるや否や雲を霞と迎賓館に閉じこもってしまう。

仮に迎賓館に追いかけようにもタクシーが無い(制度としてない)し、おっかけたところで門前の衛兵に阻止されてお終い。それでは電話でと言っても、電話番号は公開されていない。

諦めず、夜の公式宴会で近付こうとしても不可能。テレビでご覧の通り、丸テーブルに座ったまま誰も動けないからこれまた不可能。仮に立って行ったって、3メートル以上は近づけない。

日本が得た成果は?

こんな状態であるから、例えば共同声明の調印式が予定より15分も遅れた理由が帰国まで分からなかった。日本と現場中継のマイクロ回線が繋がっているから、東京から、どうしたんだと、やいのやいのと言ってくるがどこにも聞きようが無い。

やっと、上海から帰国の途についた機中で田中首相から「中国側が3軍への了解連絡に手間取ったため」と説明されてやっと分かった(政府が軍に了解をとる、共産主義国家ならではだ)。

ついでながらもう富士山が見えるころになって田中首相は「会談は到着当日、25日午後の1回目がヤマだった」と明かした。つまり過去における日本軍国主義の残虐行為を水に流して再出発という日本。

対する中国は深い反省を要求して、初めから激しくぶつかりあった(のちに明らかになったことだが、過去の反省については、この日の夜に開かれた招宴での田中挨拶の淡白さに中国側が激怒)結局「反省」の一札をとられたのだった。

そう言われて共同声明を読めば、日本が得た成果は皆無である。なるほど戦時賠償請求の放棄を得た事は成果だろうか。この事は1954{昭和29)年7月、園田直、中曽根康弘、西村直己の各氏が強行訪中した際、中国首脳から既に明かされてれていたものだ。

まさに「加害者の敗戦国」が「被害者たる戦勝国」にこてんぱんにやっつけられた正常化だったといえよう。もちろん日中正常化とはこういうもんだとは予め分かっていた。だから慎重派と言う反対派があったのは当然だった。

それを「それ急げ、やれ急げ」とマスコミが叫び、「いや、もっと慎重に考えながら・・・」と言う慎重派がさながら非平和愛好家のように見られると言う今の風潮は一考を要しよう。

熱しやすく冷めやすい大和民族の気風に乗っかって、戦後27年の懸案をあっという間に処理して見せた田中内閣ではあるが、後世の史家がこれをなんと評価するか、興味深いところである。

日本人よ目を開け

中国について私は本だけで36冊読んで行った。忙しい取材の合間であるから4年ぐらいかけて読んだ。担当した自民党の派閥や領袖も中国問題については、取材でいわばハト派の河野一郎派から中間的な森、園田派、タカ派の福田赳夫派(旧)やら賀屋興宣、岸信介、重宗雄三の各氏と言った幅広い体験をして行った。

今(1972年)の日本人の主婦はマイホームととか電子レンジとか別荘を欲しがっているが、中国の家庭の3種の神器は1に自転車、2にミシン、3がラジオだと言うことだった。

着ているものも婦人ですら一種の国民服とでも言うのか嘗ての日本陸軍の上着の色をグレイにしたものに同色のズボン。化粧は誰もしていない。膨らみの足りない人は男と区別がつかない。

街に首都と言えどもタクシーは無い。バスはどれも満員。飛行機はおろか汽車にさえ乗ったことの無い人も多いはずである。まさに何十年前の日本だろう。北京の中心部から少し行くと人糞を担いだ農民を何人も見た。

しかしまた泥棒はもちろん犯罪ない(ことになっていたか)。高望みしなければ明日への心配は無いかもしれない。しかし人間は高望みがいわば本能である。(中略)

それよりもこれからの中国はどうなるか、日本との将来はどうなるかを考えてみることの方が大事だろう。「資源の輸出国にも、消費物資の輸入国にもならない」と周恩来首相は言った。

当面は日本の工業技術を輸入して近代工業国の建設に邁進するであろう。技術知識の吸収は旺盛である。砂に水を吸わせる如くである。それはさながら明治維新の先輩たちが西欧列強から知識を吸収しながら建国した日本と同様であろう。

だが、知識を吸収した中国は遠からず世界市場で日本の強敵となって立ちはだかるはずである。その時の用意はいま美酒に酔いしれている日本国民にあるだろうか。疑問である。(了)

主宰者談:この後すぐ、周恩来、毛沢東の順にこの世を去った。見透かしたようにトウ小平が復活して4つの現代化政策と開放経済体制と、事実上の資本主義体制に切り替え、異常な経済発展と軍の膨張を進めている。田中首相の予想を上回った。

(注)西山事件とは毎日新聞政治部記者西山太吉氏による、沖縄返還交渉にからむ外務省機密漏洩事件。西山記者が、かねて肉体関係を結んでいた外務省外務審議官付き女性職員から交渉にからむ機密文書のコピーを入手。

記事にせず、社会党(当時)横路孝弘議員に渡して衆議院予算委員会で政府を追及させた。蓮見女史と共に西山記者は逮捕、起訴され執行猶予付きの有罪判決が確定した。

事件をモデルにして『大地の子』『白い巨塔』『盆地』などの著作のある小説家山崎豊子氏(毎日新聞出身)が『運命の人』を平成17年1月号から月刊誌「文藝春秋」に連載した。

他方、西山氏は逮捕から33年経った2005年4月に行動を開始した。

<1972年の沖縄返還交渉に伴う日米間の密約を示す文書を入手して報道し有罪判決を受けた元毎日新聞記者の西山太吉さん(73)が2005年4月25日「密約を否定した当時の判決は誤りで不当な起訴で名誉を棄損された」とし、約3400万円の国家賠償を求め東京地裁に提訴した。

密約は「沖縄返還に伴う土地の復元補償費400万ドルを、米国に代わって日本が肩代わりする」というもの。西山さんは71年、当時の外務省職員から文書を入手して一部を報じ、72年に同職員とともに国家公務員法違反で逮捕・起訴され、最高裁で懲役4月、執行猶予1年の有罪判決が確定した(1審は無罪)。

しかしその後、00年に日米間の合意事項を示す文書が米公文書館で見つかり、02年には密約が発覚しないよう、沖縄返還協定発効後に日米政府が口裏合わせをした公文書も見つかっていた。> (毎日新聞のサイト)

2016年04月03日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だが、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていました。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですから、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっておりますが、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについてはあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していたとは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像することすら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれた。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用したもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求してきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言われる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけない。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そこに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカのマッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによる死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいかに変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。
【文中敬称略】2006・08・10

2016年04月02日

◆本質を見抜けぬ人々

渡部 亮次郎



50・8対43・2。「右」と言われる産経・フジの世論調査でさえこれである。「日本の政治家は核保有について議論すべきですか」と言う問いに対し「はい」が50・8%、「いいえ」が43・2%にも達したのである。

朝日新聞や読売新聞がしたらどうなるだろう。

日本が核を持つことが良いか悪いかを論議するだけで中国が震え上がり、北朝鮮も動揺したと言うのに、読者は43.2%もの人がその仕掛けに気づかない。なんと言うことだろうか。

「はい50・8%で安心」という意見もある。2006年11月7日付の「産経抄」である。

< 日曜日のNHK討論番組での、自民党の二階俊博国対委員長の発言には仰天した。中川昭一政調会長や麻生太郎外相が提起した核論議に対して、「任命権者の責任を問われる事態になりかねない」と、安倍晋三首相まで持ち出して“封殺”するかまえだ。

 ▼北朝鮮の核の脅威が現実のものとなり、海外では、日本の核武装の可能性が取りざたされているのに、国内では論議さえ許されない。このギャップはどこからくるのか。比較文化論が専門だった鯖田豊之さんは、かねて欧米諸国と日本の「平和観、戦争観のくいちがい」を指摘していた。

 ▼鯖田さんは、鎖国を例にとって説明する。徳川幕府は、イスパニア船やポルトガル船の来航を禁止すると同時に、国内で大船の建造を禁止した。本来なら海軍力を増強して、これらの船に備えなければならないはずなのに。

 ▼「相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくとするこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまいか」(『日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか』主婦の友社)。なるほど「非核三原則」は、その最たるものだ。

 ▼日本の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の政策を、核保有国が見習ってくれる。こんな幻想を持つ国は、確かに国際社会では、「特異」に違いない。夕刊フジの4コマ漫画「ヘナチョコおやじ」で、作者のしりあがり寿さんは先週、「核を論議しない」を加えて、もはや「非核4原則」だと風刺していた。

 ▼笑い事ではないが、幸いにも、きのうの小紙に載っていた世論調査によれば、「政治家は議論すべきか」の問いに50・8%が「はい」答えている。国民の多くは、現実的な安全保障論議を求めているのだ。平成18(2006)年11月7日[火]>

時を同じくして『週刊新潮』の11月9日号で文芸評論家野口武彦氏は連載「幕末バトル・ロワイヤル」の59回目で「安政内憂録14 ストレスに死す」と題して老中阿部正弘 39歳の癌死を取り上げている。

これらを併せて読むと、現在の日本が遭遇している状態はまさに「国難」であり、事態の真髄を理解しているものは政治家にも少なく、民主党などは開国を装った攘夷派という複雑怪奇な存在と理解できる。

尤も、核問題に関して民主党(当時)では西村真悟氏のような「所有」を主張するものから旧社会党の残滓まで様々であって、安全保障政策全般について統一した見解を出せないままだ。そうした状況から幹事長(当時)鳩山氏の支離滅裂な発言で党を売り込もうとする売国行動が出るのだろう。

それにしても開国に至る過程での阿部正弘の苦悩は大変なものだった。私の日本史履修はここまで来ないうちに高校卒業となってしまったため、この時期についての理解は小説のみに依存していた。

阿部 正弘(あべ まさひろ)は江戸時代末期の大名、江戸幕府閣僚で老中首座(総理大臣)を務めた。備後福山藩(現在の広島県福山市)7代藩主。

幕末の動乱期にあって『安政の改革』を断行した。阿部にとってはこれらのすべてが今で言うストレスとなり、消化器系癌の進行を早めたという見方である。

文政2(1819)年に5代藩主阿部正精の6男として江戸に生まれた。天保7(1836)年に7代藩主に就任。翌年(1837年)に正弘は福山(広島県福山市)へのお国入りを行った(正弘が国許へ帰ったのはこの1度のみである)。

正弘は天保14(1843)年に25歳で老中(閣僚)となり、同年、老中首座であった水野忠邦が天保の改革の挫折により失脚したため、老中首座となる。第12代将軍徳川家慶、第13代徳川家定の時代に幕政を統括する。

また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震、ら大胆な人事登用を行った。

嘉永元(1848)年、アメリカ合衆国の東インド艦隊が相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めると、正弘は鎖国を理由に拒絶したが、嘉永6(1853)年に再びマシュー・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。

同年7月には長崎にロシアのエフィム・プチャーチン艦隊も来航して通商を求めた。 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募ったが結局有効な対策を打ち出せず時間だけが経過していった。

こうして正弘は積極的な展望を見出せないまま、事態を穏便に纏めるかたちで安政元(1854)年日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。

ところが、安政2(1855)年、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の老中松平乗全、松平忠優の2名を8月4日に罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買う。

孤立を恐れた正弘は同年10月、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。こうした中、正弘は江川英龍(江川太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や洋楽所、長崎海軍伝習所などを創設した。

また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。しかし、安政4(1857)年正弘は老中在任のまま急死する。享年39。

ちなみに、正弘は蘭学の導入に積極的であったが、自らは蘭方医を最後まで拒んだという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                      2006年執筆

2016年04月01日

◆缶詰発明はナポレオン命令

渡部 亮次郎



1795年フランス革命の最中に,ナポレオンはヨーロッパ戦線を東奔西走していた。当時のヨーロッパは新鮮な食物が不足し,一般市民に栄養不良による病気が流行していた。

その時代の食品の保存法は昔ながらの乾燥,塩蔵および薫製によってなされていたが,長い航海をする船員は塩蔵肉や乾パンで我慢しなければならなかったため,海軍部内には壊血病が蔓延していた。

ナポレオンは軍隊の士気を高め戦闘力を維持するためには,栄養豊富で新鮮美味な食糧を大量に供給する必要性を痛感し,従来の方法によらない食品貯蔵法を懸賞金つきで募集することを政府に命じた。

懸賞にこたえ、1804年にフランスのニコラ・アペールにより長期保存可能な瓶詰めが発明され賞金1万2000フランを与えられた。

たが、ガラス瓶は重くて破損しやすいという欠点があった事から、1810年にイギリスのピーター・デュランド(Peter Durand)が、金属製容器に食品を入れる缶詰を発明した。これにより、食品を長期間保存・携行することが容易になった。

ただし、初期のものは殺菌の方法に問題があり、たびたび中身が発酵して缶が破裂するという事故を起こした。これはのちに改良された。

また、1833年にはフランスのアンシルベールによって、缶のふたの回りをはんだ付けし、熱で溶かして缶を開ける方式が考案された。その後、1860年代にブリキが発明されてからは、缶切りが登場するようになった。

当初、缶切りは発明されず、開封は金鎚と鑿を用いる非常に手間のかかるものだった。戦場では缶を銃で撃って開けることもあったが、撃たれた衝撃で中身が飛び散ってしまい使い物にならなくなることも多々あったという。

このため内容物が固形物に限られ、液状のドリンク類は入れられなかった。缶切りが発明されると液体なども入れられるようになり、内容物のバリエーションが広がった。さらに缶切りが無くても開けられる様にプルトップ(イージーオープン缶)が発明された。

缶詰は、初期には主に軍用食として活用された。特に、アメリカ合衆国の南北戦争で多く利用された。のちに一般向けにも製造されるようになり、現在では、災害対策用の備蓄用食品(非常食)としても利用されている。

現在作られている缶詰は日本で約800種類,世界では約1200種類といわれている。原料の種類別では魚介類,果実類,野菜類,畜肉類に大別される。

加工調理方法の別では魚介類は水煮・塩水漬・油漬・味付け・みそ煮・蒲焼き・薫製油漬・トマト漬・香辛料漬・その他の調味料漬が,果実類はシロップ漬・水煮(固形詰)・ジャム・ゼリーなどがある。

果実類として大きな地位を占めるのは果汁である。野菜類としては料理の原材料となる水煮が主体であるが,味付け,漬物などもある。畜肉類は水煮,味付け,ハム,ベーコン,ソーセージや各種の調理食品がある。

特殊に入るものとしては,各種の調理食品,米飯類,ソース,めん類のかけ汁,しるこ,甘酒などの飲物などがある。食品缶詰の規定には当てはまらないが,コーヒー,紅茶,緑茶の真空パックや不活性ガス(おもに窒素ガス)を充てんし,香りや味を保持させるための缶詰もある。

ペット用のペットフード缶詰の生産も多い。そのほか食品ではないが培養土に種子を入れ,開缶後水をやれば花の咲く缶詰,おもちゃの缶詰,下着類の缶詰も作られている。

1812年にイギリスのドンキンにより缶詰製造は企業化されたが,その後イギリス,アメリカなどで企業化が進んだ。1890年には自動製缶機械に一大進歩をみたことにより,1901年に容器のみを作るアメリカン・キャン社が設立され,缶詰製造業界に一紀元を画した。

製造量は南北戦争後の1870年で約4000万函といわれているが,第1次・第2次世界大戦の軍用食としての需要の増大により,缶詰産業も各種の技術革新とともに発展をとげた。

国別の生産量では,1970年ころまではアメリカが全世界の70〜75%を占めていたが,80年には世界の総生産量(約20億函)の40%を占めるだけとなった。

またイギリスが主要生産国から脱落し,発展途上国の進出が目だってきている。この主な理由としては,作業員の人件費の高騰,原料確保の困難(漁業の200カイリ問題など)などがあげられる。なお,アメリカに次ぐ生産国はドイツ,フランス,イタリア,日本などの先進諸国である。

資料:世界大百科事典及び『ウィキペディア』 再掲


◆介護保険の申請方法は・・・

大阪厚生年金病院 
                

介護保険の申請方法についてお話します。

1;まず申請の仕方です
住所地の市区町村の保健福祉センター介護保険課の窓口で申請します。

40歳〜64歳の方は今もっている健康保険証と印鑑を持参ください。65歳以上の方は介護保険被保険者証も持参ください。料金はかかりません。

居宅介護支援事業所・介護保険施設に申請を代行してもらうことも可能です。担当医を自己申請するため普段みてもらっている医師の名前を言えるようにしておきましょう。

2;意見書の作成依頼
申請が終われば、市区町村から担当医に意見書が送られてきます。担当医が病気に関しての意見書を作成し市区町村に送ります。

3;認定調査
委託を受けた調査員が本人の心身の状態を調査するため入院先や自宅を訪問します。

4;介護認定審査会
専門家が認定調査の結果と担当医の意見書をもとに審査します。

5;認定結果の通知 
要介護認定を本人に通知します。申請から認定まで1ヶ月〜1ヶ月半かかるため早めの申請が必要となります。

要介護認定は現在、心身の状態に応じて要支援・要介護1〜5に分類されています。要支援が一番軽く、要介護5が一番重い状態です。

6;サービスの計画
認定を受けた方は必要なサービスを居宅介護支援事業所(一覧表については介護保険課でもらえます)に依頼し、居宅サービス計画(ケアプラン)を作成します。このお手伝いをするのがケアーマネージャーといわれる人です。作成のための自己負担金は不要です。

居宅介護支援事業所はお住まいの地域にいくつかありますので、長い付き合いになりますのでよく考えて選びましょう。

7;サービスの利用
 ケアプランに基づきサービスを利用できます。

流れはおわかりいただけたでしょうか?

2016年03月25日

◆14歳までの訛は抜けない

渡部 亮次郎



記者の先輩古澤襄さん{共同通信}は、私のことを秋田訛でまくし立てるという。ご本人もお父上は岩手県、母上は長野県上田のご出身であるが、東京でお生まれだから東京人で、訛は無い。

小沢一郎氏は説明不足を説明する時に東北地方を犠牲にして自分が「東北人気質」だからと言い逃れするが、東北人だから説明不足と言うのは嘘だ。

私が訛っているかいないかは私には分からないが、だからと言って説明はちゃんとやる。東北出身で口下手だから、つい、説明不足になると言う言い方は東北人を馬鹿にしている。

ある学説によると、人間は14歳までに話した言葉は死ぬまで忘れない。14歳過ぎてから東京弁やアメリカ弁を習っても秋田弁は忘れないと言う事なのである。

秋田には戦前、物凄い政治家がいた。小学校を出て間もない息子をパリに連れて行き、そのままパリに置いてきた。何年かして大東亜戦争が始まったため、息子は植民地のヴェトナムに移り、終戦後、東京に引揚げてきて大学のフランス語教授になった。

私は偶然、その人にフランス語を習った。フランス語と秋田弁しか喋れず、東京弁は学生に通じなかった。しかもそれを感じないまま先生を続けて死んだから先生は幸せだった。小牧近江といった。

昔、北海道の下層は東北人であった。上層は江戸弁を喋った。開拓使は江戸弁。江戸弁と東北弁の混じった独特の北海道言葉が出来上がった。

ちなみに昔の東北人は商売に失敗したら北海道に「流れた」から東北弁のままである。北海道に渡ることを東北人は「落ちて行く」と言った。

私は秋田市の在で生まれ育ったが、20歳前後を東京で送り、その後は秋田、仙台、盛岡、東京、大阪を経て40過ぎからは再び東京で暮している。

ところが、それまでは「山の手」に住んでいたのに、50を過ぎてから隅田川左岸の「川向こう」に住む破目になって驚いた。ここでは東京人なのに物凄い「訛」があるのだ。

自転車を「じでんしゃ」と言うし「坂」のアクセントが「さ」にある。「湿っぽい」を「すもっぽい」とも言う。川向こうの先祖は大体、千葉、茨城らしく、家人の先祖も茨城県潮来(いたこ)市隣の鹿嶋市である。

敗戦(1945年)頃までの東京下町といえば、川向こうは含まれず、隅田川右岸に沿った浅草、谷中、神田、日本橋、京橋を指し、ここに住まいする下町っ子は左岸の地域を「川向こう」と蔑視していた。

しかし、戦後は下町がほぼビジネス街に衣替えして下町と言えなくなり、代わって工場や倉庫だらけだった「川向こう」の湿地がマンション街に衣替えして人口急増の住宅地になり、川向こうが「下町」に昇格した。

結果、江東区などは若夫婦の町に変わり、変な訛は中高年にしか聞かれない。だから「じでんしゃ」は何年もせぬうちに消えることだろう。

澄ましたような山の手東京弁だけが残るはずだが、今の若者言葉を聴いていると、見通しは立たない。

東北生まれで、ほぼ東日本で暮した人間。40近くなって大阪で3年暮して戸惑った。鼻濁音の事である。ガ、ギ、グ、ゲ、ゴのそれぞれに「ン」が追加されたような発音。フランス語には欠かせない。 「子供」を意味する「ランファン」を発音すると自然、鼻濁音になっている。

ところが大阪の人は殆ど出せない。東京でも東北でも生まれたときから鼻濁音で話しているが、京都生まれの演歌歌手都はるみとか大阪生まれのフォーク歌手谷村新司氏は全く出せない。

NHKのアナウンサーにして東京育ちの人間でも最近は鼻濁音を出せない人がいる、それでも採用するらしいから、鼻濁音は訛でないと言う取り扱いなのだろうか。

日本人が英語を喋ると、RとLの区別がついてなくて聞きづらいと言われる。NYなんかで聞いているとバイスクールはバイサカ、マクドナルドはミャクダノスと聞える。Lを殆ど飲み込んだ発音。

日本人はRはともかくLはエルと発音しすぎるから誤解を与えるのかもしれない。「エオ」ぐらいでいい。これは子供の頃に身につけたローマ字発音が災いしている、という説があるそうだ。

日本語だって鼻濁音を抜かすと、歌はみんなロザンナ(昔「ヒデとロザンナ」で日本語の歌を歌っていたイタリア女性)の日本語になってしまう。

戦前、ある国から来た人たちはビールをピール、壜(びん)をピン、サイダーをサイター、馬鹿をパカとしか発音できなかった。

そんな事だから間違ってNHKに入社した時、アクセント辞典を片手にデンスケ(携帯録音機)を抱え、押入れにこもって東京弁の練習に励んだものだが、実際、未だに自信の無いまま喋っている。古澤さんには聞きづらいのだろう。

2016年03月20日

◆領収書の見分け方

渡部 亮次郎 

     
北朝鮮の首領様がいろいろいい加減なことを言っていて、信用ならんと怒っている人が日本には居るが、あれは何か言っているようで、実は何も言ってないのだと指摘する人が居ないから、あえて指摘する。

中国と北朝鮮。親密なようでいて実は全く親密ではない。何を言っているのだ、食糧の大部分、燃料の半分以上を援助している国を北朝鮮が親密と思っていないわけが無い、というのは日本外務省の見解であって、まったく的外れだ。

中国の首脳は絶対、答えない。中国は北朝鮮を属領乃至は領土化したいのである。やがて食べる豚をそれまで痩せさせたのでは詰まらない、太らすだけ太らすというのが本心なのである。太らすために日本が経済援助を与えるために日本の機嫌をとるのも親の役目と思っている。

6カ国協議問題がうるさい。親分・中国よ、何とか説得してくれと米、日が五月蝿い。ここでアメリカの要請を無碍に断れば何かと面倒だ。そこでは当りさわりの無い人物を派遣して、説得を一応、したことで恰好をつけよう。

対する首領様も海千山千ではこの世に適うものはいない。若い人のために注釈すると、海千山千とは「海に千年、山に千年棲んだ蛇は龍になるという言い伝えから、世知辛い世の中の裏も表も知っていて、老獪(ろうかい)な人」のことである(広辞苑)。

わが大臣園田直がアメリカにそう発言したら、通訳役のキャリア氏は知らないものだから「海が千、山が千」と訳して日米外相会談はめちゃめちゃになったことがある。

お茶の水女子大学前教授の藤原正彦さんがベストセラー「国家の品格」(新潮新書)で指摘した如く、日本人の行動基準は「武士」のものだ。以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなど。

北朝鮮を訪問したのは中国政府の要人ではなく中国共産党の要人だった。共産主義国では共産党は政府の上部構造だから、首領様も満足しただろう。これで食糧や石油、ガスのプレゼントは100%保障された。

そんなら、少しは彼の訪朝に意義があったと恰好をつけてやらなければまずかろう。だから言い放った。「条件が整えば6カ国協議に復帰する用意がある」。

騙されてはいけない。日本もアメリカも6カ国協議への復帰は「無条件」だと言っているのだ。条件付では回答になっていないのだ。だから首領様は何も回答していないのに等しいのだ。

外交というものはある種、言葉の掛け合い、遊びだ。例えば1972年9月に日本と国交を再開するまでの中国の日本政府批判を検証して見るがいい。保守反動だの売国奴だのと面も見たくないとの非難の毎日だった。

それが田中角栄が首相になった途端、百年の知己の如き招きよう。わが角さんはまんまと招き寄せられてODAという蜜の穴に落ちた。三木内閣、福田内閣、大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣、竹下内閣それ以後いろいろな政権が続いて来たが、中国に対して主権国家としてそれらしく振舞った内閣があったか。

中国からはすっかり舐められた。では北朝鮮からはどうなのか。小泉首相が2度も首都を訪問するなど、これもすっかり舐められた。東南アジアの各国もいまやすっかり舐めている。

他人に舐められるとはどういうことか。我々は昭和30年ごろから金儲けが人生の目的と思うようになってからというもの、人間の生きて行く力とは実はプライドであることを忘却したのである。

だから外交に於いても、相手の発言の真意を察するに、功利的な観点のみに立ち、相手の立場を測り見ることをいつの間にか忘れたのである。首領様の発言は中国を相手にした時の発言である。

それは日本や米国に対するものではない。それなのに日本人はそれが自分たちに向けられたものだと解釈して、さらに過剰な反応をする。日本人のいけないところである。実に勝手な民族ではないか。

街宣車というのがある。私が外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉をしている頃、外務省には連日、何十台という街宣車が押しかけてきて反対を叫んだ。

そのとき大臣がポツリと言った。彼らも領収書で叫んでいるんだよ。こうした活動費を企業かどこかから貰ってきているのだから、その領収書として叫ばざるをえないのだと。別にあなたに反対を叫んでいるわけじゃないよ、と。

そのことを思い出すと、親分の中国がからそれなりの使いが来た以上、北としてはそれなりの反応をしないことには申し訳が立たない。だから存分のリッピサーヴィスをしてみた。

しかしそれは米国に対しても日本に対しても何の回答でもなかった。「条件を満たせば」とは言ったが条件が満たされることは絶対に無いのだから、私は何も言ってない、日本の聞いたのは空耳なのだよ。

このところ、福田康夫氏や二階経済産業大臣の言動がおかしい。特に康夫氏はわざわざノムヒョンのところへ拝謁に出かけた。何のためだ。韓国が日本を嫌いだというならそうしておいて日本に何が損なのか。

コキントウが小泉首相に代表される日本を嫌いだと言って日本にどれほどの損害があるのか。ありはしない。困るのは機械に刺す油の如き日本の技術を失う中国なのだ。

以心伝心、惻隠の情、阿吽の呼吸、腹芸、長幼の序、義理、貸し借りなどが日本人の価値観だが、がさつな中国人や僻み根性の北朝鮮人に通じるわけがない。

いくらやっても無駄なことを続けることをにほんでは「阿呆」と関西でいい、東京では「馬鹿」と嗤う。(了) 2005.02.23 

2016年03月19日

◆角さんは糖尿病だった

渡部 亮次郎



肩書きを言うより「角さん」で通っていた田中角栄氏。脳梗塞により75歳で逝去した。若いころからの汗っかきは「バセドウ病」のためと周囲に説明していたが、実は糖尿病持ちだったことは隠していた。だから脳梗塞をまねいたのだ。

彼が自民党幹事長だったころ私も彼を担当したが、糖尿病で医者通いをした事実はなかった。ところが、彼が首相を辞めた後会ったところ「あん時は血糖値が400にもなった」としゃべりだした。

「文春で立花隆に書かれたことには堪えなかったが児玉に書かれた佐藤昭(あき)とのとを連日真紀子(娘)にわーわーいわれて参っちゃった。血糖値も400まで上がるしな」と糖尿病を発症していたことをうっかり告白してしまった。

おなじく糖尿病から「合併症」としての心筋梗塞で死亡した政治家に大平正芳がいる。同じく首相を務めて死んだが年下の角栄を「兄貴」と呼んで政治的にすがっていた。大平は甘党だったが、糖尿病と真剣にむきあってはいなかった。

ちゃんとインスリン注射をしていれば総理在任中70の若さで死ぬことはなかったはずだ。もっとも当時は今と違ってインスリン注射を患者自身がすることは厚生省(当時)の「省令」で禁止されていたから多忙な政治家が連日医者通いをすることは無理だった。

この大平の無二の親友だった伊東正義も糖尿病だった。外務大臣当時は政務秘書官も糖尿病だった。伊東はしかし医者通いをちゃんとしていたから80まで生きたき。インスリン注射を怠ると寿命を10年は縮めるといわれている。

糖尿病にともなう網膜症のため国会の代表演説の原稿を大きすぎる字で書いてきて有名になった田中六助は心筋梗塞で死んだが、まだ62歳と若すぎた。医者通いをしていなかったのではないか。まず眼底出血して網膜をやられ、最後に若くして死んだことがそういう推測を招く。

日本で糖尿病患者のインスリン自己注射を許可したのは昭和56年厚生大臣園田直がはじめてである。それまでは日本医師会の反対を歴代厚生大臣がおしきれなかったためである。

このときの園田氏はすでに1回目の厚生大臣の後、官房長官、外務大臣2期の末という実力者に成長していたためか日本医師会も抵抗はしなかった。禁止の「省令」は廃止された。

結果、「テルモ」など医療器具メーカーの競争が活発になり、たとえば注射器が小型化してボールペン型になった。針も極細になり、いまでは0・18mmと世界一の細さになった。また血糖値の事故測定器の小型のものが発明されて便利になっている。

これらはすべて園田さんの決断の賜物だが、その園田さん自身は若いころからの患者であり、患者の苦しみを知るが故に自己注射許可の決断をしたのだった。わたしは秘書官として側にいたからよく見ている。

患者によっては医者に一日3回も注射のため医者に通わなければならない人もいた。1日に医者に3回!!仕事ができない。自覚症状としては何もない病気とあれば医者通いをやめて早死にをずる不幸をまねく例もおおかった。

そうなのだ。大決断をした園田さん自身はその恩恵に浴することなく70の若さで死んだ。そう武道の達人も注射の痛さを嫌いインスリンから逃げていたのだ。腎臓が機能しなくなり「腎不全」で死んだ。        (2013・7・13)
                              再掲

2016年03月02日

◆ハマナスはナシの訛り

渡部 亮次郎



「ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。ナス(茄子)に由来するものではない。

ハマナス(浜茄子、浜梨、、学名:Rosa rugosa)は、バラ科バラ属の落葉低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子妃雅子のお印でもある。晩夏の季語。


東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。

1-1.5mに成長する低木。5-8月に開花し、8-10月に結実する。

現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。

果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。

のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む?瑰茶もある。


バラの一種であり、多くの品種が存在する。北米では観賞用に栽培される他、ニューイングランド地方沿岸に帰化している。イザヨイと呼ばれる園芸品種は八重化(雄蕊、雌蕊ともに花弁化)したものである。

日本においては、ハマナスは北海道襟裳岬や東北地方の海岸部、天橋立などが名所として知られる。

都道府県の花に指定 北海道
市町村の花に指定北海道 - 石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、
雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町

岩手県 - 野田村
青森県 - 青森市、鰺ヶ沢町、大間町、風間浦村、野辺地町
福島県 - 相馬市

茨城県 - 鹿嶋市
新潟県 - 村上市、聖籠町
石川県 - かほく市、内灘町
福井県 - 高浜町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<ハマナス(浜梨)、ナシが訛ってナスとなったとのことですが、よく見ると実はトマトのようです。

トマトはナス科のナス属です。食べたら梨のようだから、「浜梨」と書いてあるものが多いのですが、中国語ではトマトのことを「番茄」といい、意味は「外国のナス」、ですので「浜茄」で「ハマナス」と言うのも、「ハマナシ」よりも洒落ているかもしれません。ちなみに、ハマナスはバラ科バラ属です。ハマナスの実を乾燥させたローズヒップティーもなかなか美味しいですよ。>(唸声)2011・6・13

2016年02月29日

◆生魚を食い尽くすか中国

渡部 亮次郎



中国人は肝臓ジストマ(肝吸虫)を恐れて生魚を絶対食べなかったが、最近は海の魚には、それがいないと知り、太平洋のマグロを日本と競り合っている。

肝臓ジストマ病は淡水魚に寄生している肝吸虫によって起こされる症状で、胆管炎、黄疸、下痢、肝腫大などを起こし、重症となれば生命にかかわるから、淡水魚を生で食べてはいけない。

それなのに晩年の毛沢東は好んで淡水魚を生で食べたそうだ。四人組に連なった悪妻江青が早死にを企んでそう仕向けたのかどうかまでは知らない。

九州で有名だった医者が肝臓ジストマにやられ、国会進出を断念した事件があった。川魚の生なんて食べたことが無いのに、というのだが、調べたら、熊の肉を生で食べたことがあった。熊が山の水溜りで沢ガ二を食った。沢ガニにジストマが寄生していたのである。

肝吸虫は人間に入ると、血管の中を泳ぎ回って成長し、やがて心臓を襲うのだ。だから中国人は揚子江(長江)や黄河で捕れる魚を生では食べなかった。

ところが、国交正常化後、日本にやってくる中国幹部。政府がもてなす料亭で、メイン・デッシュたる刺身を拒否するわけにはいかない。外相黄華氏が中トロ1切れを必死の形相で呑みこむのを見たことがある。1970年代、中国人はまだ刺身を恐れていたのだ。

中国残留孤児の親探し。1回目の一団が訪れたとき、”事件”が起きた。厚生省(当時)の担当者たちが気を利かしたつもりで、昼食に寿司をだしたところ、一行は顔を真っ赤に染めて中国へ直ちに帰ると騒ぎだした。

中国人は冷たい飯と生魚は絶対に食べないことを知らなかったのだ。日本人なのだから寿司は懐かしいだろうと軽く考えたのだ。知らないとは恐ろしいことなのだ。

余談。彼らは飯を電気で炊くことを知らなかった。それを知らない日本側が電気釜を銘々にプレゼントしたところ、宿舎で火事騒ぎをおこした。ガス台に電気釜を載せて点火してしまったのである。私は当時、大臣園田直の秘書官だったから、これがマスコミに漏れないように務めた。
2011・10・08


2016年02月28日

◆日中国交正常化備忘

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」うまれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙にかいていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言っ。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だっのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。怪しげなフランス語で交渉したら共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査した。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継者の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。

文中敬称略  2011・9・19 (再掲)

2016年02月26日

◆脳卒中予防のために

渡部 亮次郎



脳梗塞や心筋梗塞は血栓(血の塊)が動脈に詰まって、血液が必要な場所に行けなくなることから起きる。しかし、現在の医学はかなり進歩して、新薬もできている。

それなのに街や公園では卒中による半身不随患者を沢山見かける。先日電車で見かけた20歳代の男性は「若いオレが脳梗塞になるとは思えないから病院に掛かるのが遅れちゃった」と残念がっていた。

脳卒中は、昭和26(1951)年から昭和55年までの30年間、日本人の死亡原因の1位を占めていた。現在でも富山県では死因の第2位であり、全国的にも昭和40年代後半から死亡率は減少しているが、その内訳をみると、この40年間で脳卒中の主流は脳内出血から脳梗塞へと変化してきている。

死亡率が減少している反面、患者数はむしろ増加していることから、今後、発症予防や発症した後のリハビリテーションの推進がますます重要になる。

脳卒中の種類(この場合の「脳卒中」は、国際疾病傷害死因分類における「脳血管疾患」にあたる。)

脳内出血
脳の血管が破れて出血をおこすもので、多くの場合深い昏睡とともに半身のマヒが起こる。誘因として疲労、精神不安、寒冷刺激などが多く、また活動中にも起こることが多い。鳩山一郎、石橋湛山氏ら。

くも膜下出血
脳は、くも膜という膜でおおわれているが、くも膜と脳の表面との間にある小さな動脈にこぶ(動脈瘤)があると、血圧が上がった時などに破れて出血(脳動脈瘤破裂)し、くも膜下出血になる。

頭痛がひどく悪心、嘔吐があり意識が混濁するが、四肢のマヒは通 常おこらない 。

脳梗塞
動脈硬化などのために動脈が狭くなったり、あるいは動脈や心臓内に出来た血の固まりが脳の動脈に流れ込み、詰まってしまうために起こるもの。長嶋茂雄氏など。私も軽い症状を体験した。

その血管によって栄養を受けている部分の脳組織に、血液がいかなくなり破壊されて、脳の軟化を起す。田中角栄氏など

突然、発症するもの、段階的に増悪するものなど、病型により様々だが、多くの場合、前駆症状としてめまい、頭痛、舌のもつれ、手足のしびれ、半身マヒや昏睡などになる。

一過性虚血
脳の血液循環が一時的に悪くなり、めまい、失神、発作などをひき起こします。少し横になっていれば治りますが、脳梗塞の前駆症状と考えられており、高齢者では十分な注意が必要。数年前に私が体験、入院・加療した。

73歳の朝、起きて暫くしても、左手小指の先の痺れが治らない。心臓手術がきっかけで医療に詳しくなったNHKの同僚 石岡荘十さんに電話で相談。「脳梗塞かもしれないよ」という。

そこでかかりつけの病院に行って申し出たら「脳梗塞患者が歩いてこれるわけが無い」と取り合ってくれなかったが、「念の為」と言って撮ったCTで右の頚動脈の詰まっているのが判って即入院。1週間加療した。

後に石岡さんの助言に従ってかかった東京女子医大神経内科の内山真一郎教授によると、このときに念を入れて加療してもらったのが大変よかったそうだ。

なぜならこれを脳梗塞の前兆と見ないで放っておくと、直後に本格的に脳梗塞を起こしてしまうからとのことだった。爾来、内山教授の患者になっている。

高血圧性脳症
高血圧がかなりひどくなると、脳の内部にむくみが起こる。このため、頭痛、嘔吐、手足のけいれんなどが見られ、目が見えなくなることもある。

これらに共通するものは、コレステロールに拠る動脈硬化。理屈からすれば、血管内にこびりついたコレステをそぎ落とせばいいようなものだが、今のところ医学界にそういう薬は存在しない。

いまのところ世界が束になって取り組んでいるのが、血液をさらさらにして詰まりにくくする方法であり、そのための薬が「ワーファリン」である。

2011年になって新薬「プラザキサ」が許可になった。2012年4月から処方期間が延びたのでこれに替えた。納豆を食えるようになった。

それでも卒中になったらどうするか。私の場合はプラザキサを服用中のため使用禁止だが、そうでない患者が発症3時間以内に担ぎこまれたら助かる薬がある。「tPA」だ。

血管を塞いだ血栓を溶かす薬だ。長嶋さんは、発見された時、すでに3時間を過ぎていたからtPAを注射しても無駄だった。右手と言葉に後遺症が残ってしまった。

とにかく脳卒中の症状が出たらどこの病院に担ぎこんでもらうかを予め決めておけば、死ぬことは勿論、後遺症すら残らない時代に既になっている。私の場合は石岡荘十さんの助言に従って決めた。

私の場合はかかりつけの東京女子医大病院か近くの都立墨東病院に決めている。
2012・7・19執筆