2016年05月10日

◆知らなかったさるかに合戦

渡部 亮次郎



自宅で昼食のあと、卓上に柿と梨を並べて食べていたら家人が突然「柿梨
合戦じゃなかった、あれはさるかに合戦か。そういえばどういう筋書き
だっけ」ときかれて私は知らなかった。

父は八郎潟干拓運動で留守勝ち、母は農耕と家事でてんてこ舞いとあって
は猿蟹合戦を子どもたちに聞かせる何処路じゃなかった。或いは猿蟹合戦
そのものを知らなかったかもしれない。

さるかに合戦。江戸時代の『猿蟹合戦絵巻』。古典の絵巻で「さるかに合
戦」としての作品はほかに例がなく、珍しいといわれる。さるかに合戦
(さるかにがっせん)は、日本の民話の一つ。ずる賢い猿が蟹を騙して殺
害し、殺された蟹の子供達に仕返しされるという話。「因果応報」が主題。

あらすじ(地方などにより色々あり)

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種
と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、種を植えれば成長し
て柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので蟹はおにぎりとその
柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切
るぞ」と歌いながらその種を植えるといっきに成長して柿
がたくさんなった。

そこへ猿がやって来て柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと
木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹
が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はその
ショックで子供を産むと死んでしまった。

『猿蟹合戦絵巻』より、子供の蟹たちの敵討ちの場面。本作品では臼、
蛇、蜂、荒布、包丁が集まっている。その子供の蟹達は親の敵を討とうと
栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せた。

栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋
根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると
栗が体当たりをして猿は火傷をおい、急いで水で冷やそうとしたら蜂に刺
され、吃驚して家から逃げようとしたら牛糞に滑り、屋根から臼が落ちて
きて猿は潰れて死に見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

現代では蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作さ
れたものが多く出回る。これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題があ
る」という意見のためである。

しかし、本来の内容を復活させるべきという声も多く上がっている。タイ
トルが「さるかに話」などといったものに変更されている場合もある。ま
た、牛糞は登場しない場合もある。

近代日本を代表する小説家である芥川龍之介は蟹達が親の敵の猿を討った
後、逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いている(題名は
『猿蟹合戦』)。

また、1887年に教科書に掲載された『さるかに合戦』にはク
リではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃している。また、牛糞の
代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしている。

地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違
った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西
地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在する。

なお、近年の派生作品としてはパスティーシュを得意とする作家清水義範
による「猿蟹合戦」をネタに司馬遼太郎の文体を真似たパロディ小説『猿
蟹の賦』及び丸谷才一の文体を真似たパロディ評論『猿蟹合戦とは何か』
や、漫画家吉田戦車による中国の少数民族に伝わる同様の説話「ひよこの
仇討ち」と「猿蟹合戦」をヒントにした作品『武侠 さるかに合戦』など
がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
                    2012・11・22

2016年05月08日

◆トウ小平の刺身以後

渡部 亮次郎



中華人民共和国の人は、肝臓ジストマを恐れて,生の魚は食べないが、ト
ウ小平氏は初来日(1978年)して刺身を食べたかどうか、従(つ)いて来
た外相・黄華さんが1切れ呑み込んだのは現認した。そんなだった中国が
最近は刺身の美味さを知り、マグロの大消費国になった。

元は琵琶湖に次ぐ大湖沼だった秋田県の八郎潟。今はその殆どが干拓され
て水田になっているが、私の少年時代はこの八郎潟が蛋白質の補給源だった。

鯉、鮒、鯰(なまず)、白魚など。またそこに注ぐ堰で獲れる泥鰌や田螺
(たにし)も懐かしい。但し、これら淡水魚には肝臓ジストマがいて危険
だとは都会に出て来るまで知らなかったが、地元では理由もなしにこれら
淡水魚を生では絶対食わさなかった。

そのせいで私は中年を過ぎても刺身が食べられず、アメリカへ行って日本
食好きのアメリカ人たちに「変な日本人」と言われたものだ。

62歳の時、突如食べられるようになったのは、久しぶりで会った福井の漁
師出身の友人・藤田正行が刺身しかない呑み屋に入ったので、止むを得ず
食べたところ、大いに美味しかった。それが大トロというものだった。そ
れまでは、鮨屋に誘われるのは責め苦だった。

ところで、肝臓ジストマ病は「広辞苑」にちゃんと載っている。「肝臓に
ジストマ(肝吸虫)が寄生することによって起こる病。淡水魚を食べるこ
とによって人に感染し,胆管炎・黄疸・下痢・肝腫大などを起こす。肝吸
虫病」と出ている。

そんな記述より、実話を語った方がよい。九州の話である。著名な街医者
が代議士に立候補を決意した直後、左腕の血管から蚯蚓(みみず)のよう
な生き物が突き出てきた。

びっくりしてよく見たら、これが昔、医学部で習った肝臓ジストマの実物
であった。俺は肝臓ジストマ病か、と悟り立候補を突如、断念した。

「俺は、川魚の生など食べたことはないぞ」と原因をつらつら考えても心
当たりは無かったが、遂につきとめた。熊を撃ちに行って、肉を刺身で
食った。

熊は渓流のザリガニを食っていて、そのザリガニに肝臓ジストマがくっつ
いていたとわかった。しかしもはや手遅れ。体内のジストマを退治する薬
はない(現在の医学ではどうなのかは知らない)。夢は消えた。

中国人は福建省など沿岸部のごく一部の人を除いて、魚は長江(揚子江)
をはじめ多くの川や湖の、つまり淡水魚だけに頼っていて、肝臓ジストマ
の恐ろしさを知っているから、生の魚は絶対、食べなかった。

トウ小平と一緒に来た外相・黄華さんが東京・築地の料亭・新喜楽で鮪の
刺身1切れを死ぬ思いで呑み込んだのは、それが日本政府の公式宴席であ
り、そのメイン・デッシュだったからである。b外交儀礼上食べないわけ
にいかなかったのである。

後に黄華さんも海魚にはジストマはおらず、従ってあの刺身は安全だった
と知ったことだろうが、恐怖の宴席をセットした外務省の幹部はジストマ
に対する中国人の恐怖を知っていたのか、どうか。

中国残留日本人孤児が集団で親探しに初めて来日したのは昭和56年の早春
だった。成田空港に降り立った彼らに厚生省(当時)の人たちは昼食に寿
司を差し出した。懐かしかろうとの誤った感覚である。

中国人の大半が生魚を食べないのは知っているが、この人たちは日本人だ
から、と思ったのかどうか。いずれ「母国でこれほど侮辱されるとは心外
だ」と怒り、とんぼ返りしようと言い出した。

中国の人は冷いご飯も食べない。それなのに母国は冷いメシに生の魚を
乗っけて食えという、何たる虐待か、何たる屈辱かと感じたのである。

最近では、中国からやってきた学生やアルバイトの好きな日本食の一番は
寿司である。ジストマの事情を知ってしまえば、これほど美味しい物はな
いそうだ。催促までする。奢るこちらは勘定で肝を冷やすが。

よく「この世で初めて海鼠(なまこ)を食った奴は偉かった」といわれ
る。それぐらい、何でも初めてそれが毒でないことを確かめた人間は偉
い。だとすれば淡水魚を生で食っちゃいけないと人類が確認するまで、犠
牲者はたくさん出たことだろう。感謝、感謝である。

1972年9月、日中国交正常化のため、田中角栄首相が訪中した時、中国側
が人民大会堂で初めて出してきたメニューは海鼠の醤油煮だった。田中さ
んより前に来たニクソン米大統領にも提供しようとしたのだが、アメリカ
側に事前に断られたと通訳の中国人がこっそり教えてくれた。

以上を書いたのが確か2003年である。あれから中国は驚異的な経済発展を
遂げた。それに応じて食べ物も変化し、都市では今まではメニューに無
かった牛肉が盛んに消費されるようになった。それに伴って過食から来る
糖尿病患者が相当な勢いで増えている。

問題の魚の生食についても2007年3月1日発売(3月8日号)の「週刊文春」に
よると中国のマグロ販売量は、中国農業省の調査によると、2006年上半期
だけで50%から60%も伸びている。

経済発展著しい中国が異常なスピードで鮪の消費量を増加させている事実
は意外に知られていない。日本料理店ばかりでなく、北京や上海の高級
スーパーにはパック入りの刺身や寿司が並ぶ、という。

共産主義政治でありながら経済は資本主義。物流が資本主義になれば食べ
物は資本主義になる。肝臓ジストマが居ないと分れば中国人がマグロだけ
でなく生魚を食べるようになるのは当然だ。とう小平の現代化には5つ目
があったのか。2007.03.06執筆



2016年05月07日

◆「浜辺の歌」であわや

渡部 亮次郎



歌謡歌手の岩崎宏美が1日未明、深夜便で「浜辺の歌」を歌った。この時間
には「琵琶湖周航の歌」を舟木一夫が、「浜千鳥」を森繁久弥が歌ってい
た。「歌謡歌手の歌う叙情歌」だった。

その中の一曲「浜辺の歌」の取材であわや一命を取り落とすところだった
22歳の秋を思い出した。

私は大学を出てNHK秋田放送局に就職。1968年だった。6月からは大館
駐在の記者として、市役所前の下宿を根城に秋田県北部全体のニュースを
カバーしていた。

そうしたある日、米内沢(よないざわ)で作曲家、故成田為三の記念音楽
祭がある、と聞いた。まだテレビが地方まで普及していない時代。音楽祭
というのはどんなのか知らないがラジオにとってはうってつけの素材だろう。

ところが下宿で調べると録音テープが底をついているではないか。早速秋
田の局へ電話して、客車便で送ってもらう手配をした。夜9時ごろの奥羽
線下り急行で大館駅に到着することになった。

大学を出てまだ1年目とはいえ、既にいっぱしの酔客になっていた。
急行が到着するまで時間がある。一杯飲み屋で日本酒を飲み始めた。
銚子で2−3本は確かに飲んだ(酔った)。

時計を見て、自転車に跨った。坂道を下って駅を目指した。間もなくタク
シーにはねられて道端に吹っ飛んだ。新品の自転車はくちゃくちゃ。そこ
は坂下の十字路。確かに即死しても可笑しくなかったが、起き上がってみ
たら、額に小さな瘤ができているだけで亮次郎はちゃんと生きていた。

多分、酔っていたために無抵抗だったのがよかったのだろう。翌日は汽車
で米内沢をめざし、音楽祭の一部始終を録音して事無きを得たのであっ
た。デスクには秘匿した。76歳になって初めて人に語る真実である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、成田 為三
(なりた ためぞう)は1893(明治26)年12月15日―1945(昭和20)年10月
29日)秋田県出身の作曲家。

秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)の役場職員の息子とし
て生まれる。1909(明治42)年、鷹巣准教員準備場を卒業、秋田県師範に
入学。同校を卒業後鹿角郡毛馬内小学校で教鞭を1年間執る。

1914(大正3)年、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入
学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受
けた。1916年(大正5年)頃、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲。

1917(大正6)年に同校を卒業。卒業後は九州の佐賀師範学校の義務教生
をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多
くの作品を発表する。

1922(大正11)年にドイツに留学。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言
われるロベルト・カーンに師事、和声学、対位法、作曲法を学ぶ。

1926(大正15)年に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書
などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普
及を提唱し、輪唱曲集なども発行した。

1928(昭和3)年に川村女学院講師、東洋音楽学校の講師も兼ねた。
1942(昭和17)年に国立(くにたち)音楽学校の教授となる。1944(昭和
19)年に空襲で自宅が罹災、米内沢の実兄宅に疎開する。生家は阿仁川へ
りにあったが1959(昭和34)年に護岸工事で無くなっている。

実家で1年の疎開生活を送った後、1945(昭和20)年10月28日に再び上京
するが、翌日脳溢血で53歳の生涯を閉じる。葬儀は玉川学園の講堂で行わ
れ、国立音楽学校と玉川学園の生徒によって「浜辺の歌」が捧げられた。

遺骨は故郷の竜淵寺に納骨された。故郷の米内沢には顕彰碑が建てられ、
「浜辺の歌音楽館」で為三の業績を紹介している。

「浜辺の歌」や「かなりや」など歌曲・童謡の作曲家、という印象が強い
が、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲している。しかし、ほとんどが
空襲で失われたこともあり、音楽理論に長けた本格的な作曲家であったこ
とはあまり知られていない。

愛弟子だった岡本敏明をはじめ研究者の調査では、作品数はこれまでに
300曲以上が確認されており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再
認識されつつある。2012・5・1再掲


2016年05月06日

◆お邪魔虫中国共産党

渡部 亮次郎



中国では幹部でも汚職がばれれば死刑になる。それでも幹部の
汚職が引きもきらない。いくら共産主義に共鳴しても、私欲とは人間の本 能に等しいものだからである。

こうした目で中国を見ていれば、共産党が政権を掌握している限り
人権尊重や政治の民主化なぞは絶対実現しないと思うのが普通だが、経済 の改革開放が進むのに比例して民主化が進むはずだと考える人々がいる。 特にアメリカの人たちに多い。

中国が何故、共産革命に成功したか。それは国家権力を手中にしようとし た毛沢東の策謀が成功したからである。国家の形態は何でも良かったが、 とりあえず貧民が国民の大多数だったので、「金持ちの財産を分捕り、皆 で平等に分配しよう」と言う呼びかけに合致したのが共産主義だった。

共産主義政府の樹立が毛沢東の望みではなかった。真意は権力の奪取だっ た。日中戦争の終結で、日本軍の放棄して行った近代兵器を手中にして蒋 介石と国内戦争を続けた結果、蒋介石は台湾に逃亡した。毛沢東は昭和 24(1949)年10月1日、中華人民共和国建国を宣言した。

人民も共和も中国語には無い。日本語だ。畏友加瀬英明氏の説明だと、中 国語には人民とか共和と言う概念が無いのだそうだ。北朝鮮はそれに民主 主義が加わって嘘が深化している。

権力は掌握したが、人民への約束を果たす手段が無い。とりあえず人民公 社と大躍進政策が当時のソ連をモデルに実施されたが、農民は生産意欲の 低下とサボタージュで抵抗。

結果として食糧不足に陥って各地で飢饉が発生。餓死者は1500万人から 4000万人と推定されている(「岩波現代中国事典」P696)。

毛沢東の死(1976年)後2年、失脚から3度目の復活を遂げていたトウ小平が 経済の開放改革を断行。開放とは日本など外国資本の流入を認め、改革と は資本主義制度への転換を意味した。

4つの近代化を掲げたのだ。工業、農業、国防、科学技術の近代化であ る。今のところ実現に近付いているのは軍事の近代化である。

トウ小平は政治の近代化だけは断乎として拒否した。肥大化した経済が政 治(共産政府)を圧倒する危険を回避したのである。だから第2天安門事件 には反革命の匂いを嗅ぎ、断乎、弾圧した。

しかし発展する資本主義にとって共産党政府による様々な統制は邪魔以外 の何物でも無い。工場用地の確保一つとってみても、土地すべての国有は 障害でしかないが、自由にならない以上、共産党幹部を「買収」する以外 に方法が無い。

したがって多発する共産党幹部による汚職事件はいわば構造的なことで あって、客観的にみれば「事件」ではなく「日常茶飯事」に過ぎない。

しかも冒頭に述べたように「私欲」は本能のようなものだ。所有を否定す るのが共産主義の思想でも「本能」には勝てっこない。つまり共産主義体 制化で経済だけを改革開放すれば汚職簸自動的に起きるし、共産党幹部に すれば、現状を変更するメリットは全く無いわけだ。

汚職は時たましか発覚しない。摘発で死刑になるのは不運な奴で政府の知 るところではないのだ。かくて中華人民共和国政府は汚職にデンと腰を下 ろした政権。民主化を抑え、人権無視の批判など絶対耳に留めない。耳が 左右に付いているのは右から聞いたら左から逃す為にあるのだ。
2010・12・5


2016年05月03日

◆インスリン注射不要の夢

渡部 亮次郎



2006年8月、京大の山中伸也教授が、人の皮膚から採った細胞に4つの遺伝子を入れて培養したら、万能細胞ができた。iPS細胞=人工多能性幹細胞と言うそうだ。

万能細胞から、神経細胞、心臓細胞、臓器細胞、血液細胞、軟骨などが作られ糖尿病や心臓病に使えるとされている。

自分の皮膚から採った細胞だから、自分の体に入れても拒否反応がない。ノーベル賞だという声が上がって本当に受賞した。細胞や臓器の再生へ、万能細胞の研究競争が激化するだろう。

山中教授は、何年かしたら、人工細胞ができると言う。激しい競争があるからだ。

しかし、4つの遺伝子は、癌細胞から採っているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があると言う。

山中氏は、神戸大→大阪市立大→カリフォルニア大と研究を続けて、世界初の万能細胞を作った。

人工細胞は、糖尿病、心筋梗塞(しんきんこうそく)、脊髄損傷(せきずいそんしょう)などの治療に使える。
http://www2.ocn.ne.jp/~norikazu/Epageh3.htm

このうち糖尿病治療への展望について専門家に聞いて見ると、うまくすればインスリン注射が要らなくなる可能性があるという明るい見通しがあるらしい。

糖尿病は、食べたものを血肉にするホルモン「インスリン」が膵臓から十分に出てこないため、溢れた栄養(ブドウ糖)が血管を内部から攻撃した末に小便に混じって出る病気である。小便が甘くなるから糖尿病。

糖尿病それ自体ではなかなか死なないが、内部から血管を糖分で攻撃されると、脳梗塞、心筋梗塞、盲目、足の切断、癌多発といった「合併症」を招いて、寿命より10年は早く死ぬ。

栃木県にある自治医科大学内分泌代謝科の石橋俊教授によると、駄目になった膵臓や膵頭を何らかの方法で丈夫なものを移植すれば問題は一挙に解決し、インスリン注射も要らなくなる。

しかし日本ではドナーが不足し、膵頭を調整する試薬の供給がストップしたりして、こうした治療を受ける患者は2桁どまりだ。

そこで注目されたのが、インスリン「製造工場」ともいえる膵ベーター細胞の再生治療だったがヒトの受精卵の仕様に付随する倫理的制約や拒否反応が壁になって進んでいなかった。

そこへ登場したのが山中教授の万能細胞。ヒトES細胞から膵ベーター細胞を作る研究は壁に突き当たったが、山中教授のiPS細胞なら、自分の皮膚から出来た物だから拒否反応も倫理的な問題も起きない。

問題は今回できた4つの遺伝子が、がん細胞からとっているので、人に応用すると思わぬ事故になる可能性があることだ。石橋教授は「この問題が解消されれば、実用化は意外に早いかも知れない」と言っている。

資料:(社)日本糖尿病協会関東甲信越地方連絡協議会機関紙「糖友
ニュース」91号(2008・7・1)  執筆 08・06・28


2016年05月01日

◆変節漢小澤の証拠

渡部 亮次郎



私のメイルマガジン「頂門の一針」530号(2006年8月10日)で「小澤一郎の狂乱」を掲載したところ、知り合いのジャーナリストから「こんな”証拠“が残ってましたよ」と言う投書があった。変節漢小澤の動かぬ証拠だ。

530号では

<「祀られる人ではない 小澤氏、靖国合祀のA級戦犯」という記事が2006年8月7日の産経新聞に出ている。この人は大学院まで学んだ人だが、政治家でありながら日本史を全く勉強していない人なのだと改めて認識した。ダメダコリャ。>と冒頭に掲げて論じた。

これに共感し、更に送ってきてくださった投書は以下の通りである。

<「頂門の一針」530号、「小沢一郎の狂乱」に寄せて。

民主党の小沢一郎代表が中曽根内閣の自治大臣だった昭和61年の国会答弁が、唸声(ハンドルネーム)氏主宰の「現代レポート」に掲載されていました。

◇唸声より
EDO様、ありがとうございます。国会会議録から抜粋いたします。

昭和61年04月02日−地方行政委員会より抜粋

○佐藤三吾君 それでは、公式参拝ということについてはいかがですか、認識は。

○国務大臣(小沢一郎君) 公式参拝というのは、いわゆる国務大臣の任にある者が参拝するというケースを言うのであろうと思います。ですから、私の考えは国務大臣であろうがなかろうが、現在はなっておりますが、今申し上げたような気持ちで今後も行いたいと思っております。

○佐藤三吾君 あそこにはA級戦犯も合祀されていますね。これについてはあなたはどういう認識ですか。

○国務大臣(小沢一郎君) 基本的に、お国のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。

したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝国よって戦犯という形でなされた人もいる。

あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております。

○佐藤三吾君 まあいいでしょう、あなたの率直な考えだからね。 千鳥ヶ淵には参りますか。

○国務大臣(小沢一郎君) 千鳥ヶ淵に今まで行ったこともありますが、靖国神社の方が今までも多かったと思います。何といいますか、自然な感じで靖国神社の方により多く足が向いたのであろうと思っております。
 
小沢一郎君がABC級は戦争責任の軽重によるランク付けと認識していたとは噴飯ものですが、かかる変節政治家が政権をとったらと想像することすら恐ろしい。(田川市)>

昭和21年4月29日の天皇誕生日に合わせて、28人の「A級戦犯」が選ばれた。ABCとは、ドイツを裁いたニュールンベルグ裁判をそのまま適用したもので、

「A」は平和に対する罪、
「B」は通常の戦争犯罪、
「C」は人道に対する罪だが、ACは事後法。

戦争を始めた国の、指導者個人の責任を問うものだった。

戦争は、国と国の間の問題で国家の行為だが、個人の責任を問うという法律をアメリカが作ったのだ。実際、マッカーサーが「極東国際軍事裁判所条例」という法律を作り、それによって戦犯が定められた。

ヒットラーは1933年から1945年まで独裁体制で、軍事行動を行っていた。日本は1928年から1945年まで、A級戦犯とされた28人が一貫して満洲、中国、東南アジア、太平洋、インド洋と侵略したことにされたが、1931年の満州事変の時と、1937年のシナ事変、1941年の大東亜戦争の内閣は全部違う。日本の内閣は18回も交代している。

アメリカは、大東亜戦争のずっと前まで遡って、1938年の張鼓峰事件や、1939年のノモンハン事件まで日本の侵略戦争と位置づけ、A級と名付けて殺すための日本人を28人も選んだのだ。

ソ連は、天皇誕生日に合わせて起訴するためのアメリカの起訴状ができた後で駐ソ日本大使と関東軍司令官をA級戦犯に加えろとアメリカに要求してきた。それで急遽、2人が加えられた。

東京裁判は、国際法に則ることなく、マッカーサーの命令で進められた。国際法は無視されている。マッカーサーの「極東国際軍事裁判所条例」に基づいて裁判官が決められ、ポツダム宣言も無視された。

小澤氏は靖国神社のA級戦犯の合祀問題について問われ「俗に戦犯と言われる方々は戦争を指導した人たち。それをきちんと問わなければいけない。靖国神社は戦争で死んだ人を祀るもの。指導者は戦死しておらず、そこに祀られるべき人でない」と応えている。人を騙すにも程がある。戦犯のABCの意味も知らない代表を抱えた民主党のあばら骨が見えた。

戦犯とはわれわれ日本人がきめた者ではない。戦勝国とくにアメリカのマッカーサーが恣意的に指定し、恣意的に判決と称するものを下し、皇太子殿下(当時)誕生日にあわせて処刑したものであり、いわばリンチによる死であるから、立派な戦死ではないか。

「それをきちんと問わなければいけない」と小澤氏も言っているように、我々日本人が戦犯を問うたことがない。「きちんと」問えば小澤氏がいかに変節漢であるかが明白になってしまうわけだが、それでもいいかな。

マッカーサーが行った日本占領政策の実態をアメリカに長く滞在して研究したのは麗澤大学教授の西 鋭夫氏である。氏はその実態を著書にした。現在は中央公論文庫になっている。書名は『国破れてマッカーサー』。【文中敬称略】


    

2016年04月30日

◆廃娼運動の歴史

渡部 亮次郎



日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していたが、明治5年に、明治政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと試みた。しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年に至り公娼制度を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。1908年には非公認の売淫を取り締まることにした。

大東亜戦争後の占領下、当時のGHQ司令官から公娼制度廃止が要求されたことに伴い、1946年に娼妓取締規則が廃止され、1947年に、いわゆるポツダム命令として、婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令(昭和22年勅令第9号)が出された。

公娼制度は名目的には廃止されたが、赤線地帯は取り締まりの対象から除外されたため、事実上の公娼制度は以降も存続した。なお、一部の自治体は同時期に売春それ自体を処罰する条例を制定している。

昭和23(1948)年の第2回国会に、売春等処罰法案が提出された。しかし、処罰の範囲等に関する合意の形成が不十分であったため、厳格すぎるとして審議未了、廃案となった。

しばらく間を置いた後の1953年から1955年にかけて、第15回、第19回、第21回、第22回国会において、神近市子ら女性議員によって、議員立法として同旨の法案が繰り返し提出された。しかしこれらは反対多数に遭い、いずれも廃案となった。

第22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。

1956年、第4回参議院議員通常選挙を控える中で、第24回国会が召集された。自由民主党は選挙に向けて女性票を維持および獲得しようとの狙いから、売春対策審議会の答申を容れて、一転して売春防止法の成立に賛同した。

法案は5月2日に国会へ提出され、同月21日に可決された。売春防止法は翌年1957年4月1日から施行されることになったが、刑事処分については1年間の猶予期間が設けられ、1958(昭和33)年4月1日から適用するものとされた。

法律が成立して以降も赤線業者は自由民主党の国会議員に接近し、同法を撤回すべしとの説得を試みた。これに応える形で、自由民主党は1957年5月に風紀衛生対策特別委員会(略称:風対委)を設置し、審議の場とした。

赤線業者は、転廃業のための満足な猶予期間および国家補償が必要であるとして、猶予期間の延長を求め、即時の施行に反対する姿勢を示した。また、自由民主党に対しては、全国で63の市町村長、1の県議会議長、37の市町村議会議長、25の自由民主党支部長、151の商工会議所から、法の完全な実施を延期すべきであるとの陳情書が提出された。

1958年4月1日、売春防止法は施行における猶予期間を経過し、以降も売春の業を営む者に対しては刑事処分が課せられることになった。摘発事例は少ない。

だから、現在公認の娼婦街は無いが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の下に、1958年以前と変わらない営業を継続している地域がいくつもある。

また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所がある。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2009・11・24


2016年04月29日

◆友と語らん鈴懸の径

渡部 亮次郎



標題は戦時中の昭和17年、ハワイ生まれで一時帰国したまま帰れなくなった日本人灰田晴彦が作曲した曲に新聞記者出身の作詞家佐伯孝夫が詞をはめ込んだ。『鈴懸の径(すずかけのみち)』として晴彦の弟勝彦が囁くような歌い方で歌った。

「友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎(まなびや)の街。やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径」

「新版 日本流行歌史 (中)」によると「間もなく学徒動員令が下り、出陣の学徒は万感の思いを込めてこの歌を歌った」とあるが、広辞苑によればそれは「学徒出陣」である。

「太平洋戦争下の1943年、学生・生徒(主として法文科系)の徴兵猶予を停止し、陸海軍に入隊・出征させたこと」とある。学徒「動員」なら勤労動員といい国内の軍需工場などに中学生(旧制)以上のほぼ全員がかりたてられた。私は小学校(国民学校)だから行かなかった。

戦後になって灰田の母校立教大学構内に鈴懸の並木路が出来たらしいと聴いたがまだ見ていない。大変なこじつけもあったものである。

ところで鈴懸の木はプラタナスが元々の名前である。種類が10種ある、とされている。

スズカケノキ科で、落葉高木である。街路樹または庭園樹として広く植えられている。バルカン半島からヒマラヤまでの温帯に分布し、紀元前からすでにイタリアに入り、16〜17世紀にはフランス、イギリスでも街路樹に用いられたという。

日本には明治初め(たしか明治2年)に渡来し,小石川植物園に植えられた。その果が、山伏の着る篠懸の衣に付く房の形に似ているところから、その和名がついたという。

日本で最も多く植栽されるのはモミジバスズカケノキ。本種とアメリカスズカケノキの雑種といわれ、樹皮は灰緑色で鹿の子まだらにはげ,葉の切れ込みは両種の中間で全形がカエデの葉に似る。

スズカケノキの仲間は、やせ地や低湿地でもよく生長し、公害に強く、刈込みにも耐えるので,世界の温帯で広く植栽される。日本でもプラタナス(英名plane tree)と総称して明治40年ごろから挿木で広がり始め、今日各地で街路樹としてはイチョウと並んで最も多く用いられている。材は強硬で、原産地では家具や器具材にも利用される。

私が毎日の散歩コースとしている恩賜公園の北部広場には鈴懸の大木がならんで12本植わっている。公園の完成が昭和50年代だから既に30年以上経っているが、今度おそらく初めて剪定の手が入った。

埼玉県ナンバーの車に乗った造園業の作業員3人が3日かかって大小の枝を殆ど切り落とした。なんだか髭もじゃのルンペンが子供の裸ん坊に変身したみたいにすっきりした。

そういえばこの公園での散歩も10年以上になるが、木々の剪定はあまり見たことがなかった。それが昨年5月に何百株の皐(さつき)を開花寸前にばっさり剪定。

秋にはあちこちの垣根をすべて剪定。おかげで公園は見通しがとても良くなった。東京都がこうした非生産的なことに予算を割く事は随分、文化と言うものに配慮したことであって、或いは知事どのの文化レベルを示しているのかな、と思ったりする。
参照:世界大百科事典 エンカルタ事典
 

2016年04月20日

◆戊辰戦争を知らずに老いる

渡部 亮次郎



私は大学まで出る事が出来たが、戊辰戦争のことは中学・高校はもちろん、大学でも近現代の日本史を教わる事は無かった。政府の方針だったのだろう。

そこで、ある日、自分で学ぶことを決意した。NHK記者になってから秋田、大館、仙台、盛岡に合計6年間駐在したが、生まれ在所の秋田とは、なんとなしの違和感が、いつも感じられた。

大館駐在の際は、隣の鹿角郡をも担当したが、大館に対する敵意みたいなものすら感じた。あの郡は元は盛岡藩だったが、戊辰戦争で割譲されたのだった、と後で知った。

高校を出るとき、仙台にある東北大学にだけは進みたくなかった。これも戊辰戦争以来、秋田人は仙台を敵視する風習が子供にまで浸みていた
からだろう。

そういう戊辰戦争なのだが、今となっては「ウィキペディア」を丸呑みする以外に簡単な手段はない。

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 -1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められる
こととなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家であったが、戊辰戦争を経て権力を確立した明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な国民国家の建設が進んだ。

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別所有権の連合方式と、その否定及び天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

 1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)

 2.「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権“奥羽越列藩同盟”との戦争」(東北戦争)

 3.「封禄から外れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。

また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。いずれの陣営とも外国の軍隊の直接派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。

つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以降京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。

12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開くことを欲し、各地で騒擾工作を行った。江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などが繰り返され、江戸の町は混乱に陥った。

12月23日には江戸城西ノ丸が焼失するが、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生。

これも薩摩藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・老中格大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸
臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。

翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦となった。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩なども新政府軍に参加した。

逆に旧幕府軍は賊軍とされることにより、佐幕派諸藩の動揺を招いた。1月5日、淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。

1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。これは敵味方を問わず慶喜の敵前逃亡として認識された。

慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督西園寺公望及び東海道鎮撫総督橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。

9日、長州軍が大阪城を接収、大阪は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。

11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行った。20日、北陸道鎮撫総督高倉が発遣された。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。

また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西日本及び東海地方では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じ、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩へ進軍させた。

ところが彦根藩はすでに尊王に藩論が転換しており9日東海道軍は大津にて桑名藩の征討に移った。22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。

藩主の座を追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の命により粛清が行われ、藩論は勤皇に一本化された。大垣藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に属していたが、東山道軍の先鋒となった。

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。

そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。

27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府支持に統一された。

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老三浦義建及び御用係関藤藤陰に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政山田方谷は城を無血開城した。

姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏した。

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。

日田代官所にあった西国郡代の窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。

天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩・府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志のないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。

その一方で松平容保は、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。 しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣退助が率いる別働隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗した。近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること

江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること

江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。

この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大量に江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。

一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。

近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介は伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発。

途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、江戸無血開城によって江戸の治安を統括する組織として認定されていた旧幕府勢力・彰義隊があった。この存在は幕府主戦派から“裏切り者”呼ばわりをされていた勝にとって、一定の成果ではあった。

しかし実際は彼らは新政府への対抗姿勢を示し、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返した。江戸城会談での当事者となった西郷隆盛は、勝海舟との関係から彰義隊等への対応が手ぬるいとの批判を受けた。

大総督府は西郷隆盛を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。5月1日、大村は旧幕府による江戸府中取締の任を解いた。

仙台藩藩主・伊達慶邦らにより奥羽列藩同盟が樹立された2週間後の5月15日(同7月4日)、新政府軍は彰義隊を攻撃し上野戦争が始まった。兵砲学者出身の大村益次郎は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を活用し、彰義隊を狙い撃ちにした。彰義隊はなす術もなく崩壊し、上野戦争はたった1日で新政府軍の圧勝となった。

文久の改革後、京都守護職及び京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保及び桑名藩主松平定敬は、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・後の新政府の怨嗟を買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいてこの両藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

両藩はそれぞれ蝦夷地に領地を有し、密かにこれをプロイセンに割譲するかわりに援軍を要請しようとしたが、普仏戦争直前で余裕のなかったビスマルクにより断られている。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。

会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。しかし新政府へ対してはこの行為は“武装・敵対”でしかなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督九条道孝・副総督沢為量・参謀醍醐忠敬・下参謀世良修蔵・大山綱良を数えることができる。

3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。

会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。4月23日、沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍は庄内藩を攻撃した。しかし庄内藩が勝っており閏4月4日、庄内藩が天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。

閏4月4日、仙台藩主席家老但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。

会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定し、藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月20日、仙台藩で藩家老の命令によって世良修蔵が殺害され、続いて新政府軍部隊も殺害された。九条総督・醍醐参謀らは仙台城下に軟禁された。

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。

赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。 閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。

さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。

奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟が誕生したが、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。

6月に上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。

仙台藩と会津藩には輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があったが、輪王寺宮の即位の有無は議論がある。なお、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定であった。

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。

その後列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。

新政府は仙台藩によって軟禁状態にある九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を仙台藩に派遣した。

閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この両藩は薩長両藩ではなかったために仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。

5月18日、前山と救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主南部利剛は1万両を献金したが態度は曖昧なままだった。

続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は平田篤胤の出身地という影響もあって攘夷派が勢力を保っていた。総督府一行は庄内藩討伐のために仙台に居らず生存していた沢為量及び大山綱良ら総督府残存部隊と合流した。

次に沢為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖された。そのため奥州鎮撫総督府及びその部隊は久保田藩にとどまることになった。

久保田藩の新政府への接近を察知した仙台藩は久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に同僚らを殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。

こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。新庄藩の新政府軍への恭順に対して庄内藩は7月14日、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。

庄内藩の軍勢は久保田城の目前にまで迫ったが、列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため一斉に領内へ撤退した。

9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、庄内藩は降伏した。盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することが決定した。

8月9日、盛岡藩兵は久保田藩に攻め込んだが一進一退のまま奥羽越列藩同盟の敗北に伴い降伏した。

白河は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点でこの地は新政府の管理下となっていた。

仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同日の閏4月20日、会津軍と仙台藩は呼応して白河城を新政府から奪い取った。

しかし5月1日、伊地知正治率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに亘って攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかったが、会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍4500人弱は7次にわたって白河城の奪取を試み失敗に終わった。この戦いで両軍併せ約1000人の死者が出た。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。

5月2日、新政府軍の岩村精一郎は長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に行わせていた各種支援を拒否し、武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府への権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。

これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。長岡藩は河井継之助により兵制改革が進められ武装も更新されていた。

同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に長岡城が落城した。7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた河井継之助が負傷(のち死亡)した。

新政府軍は長岡城を再奪取し、7月29日長岡藩兵及び会津藩兵は城下全域に放火し撤退した。

一方、新政府軍が軍艦で上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩であった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時榎本武揚の旧幕府艦隊は健在であったが新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1500人となった。

6月24日、新政府軍は板垣退助が白河から小隊を率い、平潟との中間にあった棚倉城を占領した。7月14日、新政府軍は海岸に近い平城を占領した(平城の戦い)。7月16日、三春藩が新政府軍に進んで降伏した。7月29日、二本松城を新政府軍が占領した(二本松の戦い)( 二本松少年隊)。8月7日、相馬藩が新政府軍に降伏した。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。

また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。新政府軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

8月22日二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。

当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。

またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。

この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。9月4日米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり9月10日仙台藩は新政府に降伏した。

9月22日会津藩が新政府に降伏した。明治天皇の新政府は会津藩に対し、戦死者の調査終了後に命を落とした会津藩士や農民・町人らの遺体を埋葬することを許した。

それまでの間は会津城下に無残な姿の遺体が山のように放置され異臭を放った。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、9月24日新政府に降伏した。

新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。出航が遅れたのは、徳川喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。

8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容し、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。

北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。

10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。

その後新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる

戦功賞典

永世禄 10万石-島津久光父子(薩摩)・毛利敬親父子(長州) 4万石-山内豊信父子(土佐) 3万石-池田慶徳(鳥取)・戸田氏共(大垣)・大村順煕(大村)・島津忠寛(佐土原)・真田幸民(松代) 2万石-佐竹義尭(久保田)・

藤堂高猷(津)・井伊直憲(彦根)・池田章政(岡山)・鍋島直大(佐賀)・毛利元敏(長府)・松前兼弘(松前) 1万5千石-前田慶寧(金沢)・戸沢正実(新庄)・徳川慶勝父子(尾張)・浅野長勲(広島)・大関増勤(黒羽) 1万石-松平慶永父子(福井)・六郷政鑑(本荘)・榊原政敬(高田)・津軽承昭(弘前)・戸田忠恕父子(宇都宮)・黒田長知(福岡)・有馬頼咸(久留米)・秋元礼朝(館林)など

処分された藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)


長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)。家老1名が処刑された。すでに死亡していた処刑が相当の家老1名は家名断絶とされた。

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老但木成行・仙台藩江戸詰め家老坂英力・会津藩家老萱野権兵衛・盛岡藩家老楢山佐渡が東京で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老玉虫左太夫・若生文十郎が切腹させられた。しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については対照的な結果となった。会津藩に対する処分は「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩は議論の末に斗南を選択した。

斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。猪苗代地域では明治新政府によって開拓が行われ現在の郡山市都市圏が誕生した。

庄内藩に対する処分は西郷隆盛らによって寛大に行われた。これに感激した庄内の人々は西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟から新政府に恭順した久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側からは同格とは見なされず望むほどの恩恵を得られなかった。

この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

戊辰戦争以降、明治新政府は明治維新として総称される一連の改革を行うが、これについては主に敗北者側からは「この程度の内容の改革なら大戦争をしなくても実行可能であった」とする意見がある。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名をそそいでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」とする「仙台首都説」がある。

遺恨戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩は立場が転じて官軍になると旧幕府側を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋のような人物が見られ、俗説ほど多くないにせよ鹿児島で起きた西南戦争においては旧幕府側出身の抜刀隊員のなかには、賊軍の汚名をそそぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者もいた。(2012/4/5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年04月18日

◆今井絵理子は

常見 陽平


翁長氏の「刺客」になれるか…オピニオンサイト「iRONNA」が沖縄を取り巻く政治情勢に迫る

今夏の参院選で自民党の目玉候補の一人として、ダンスボーカルユニット「SPEED」のメンバー、今井絵理子氏の擁立が決まりました。抜群の知名度で選挙に関心が薄い若年層への浸透を狙いますが、彼女にはもう一つ、大きな役割も期待されています。

それは、翁長雄志・沖縄知事の「刺客」というミッション。オピニオンサイト「iRONNA(いろんな)」の編集部が、テーマ「沖縄独立」の特集「今井絵理子は翁長氏の『刺客』になれるか」として、沖縄を取り巻く政治情勢に迫ります。

※テーマ「沖縄独立」に関する主な記事は以下の通り。
 
★世代が違う「ニュー沖縄」 翁長知事を脅かす今井絵理子の存在感 
仲新城誠(八重山日報編集長)

 ★今井絵理子を擁立した自民の「誤算」とオール沖縄への打撃 篠原章
(評論家・批評.COM主宰)

 ★今井絵理子の参院選出馬が「オール沖縄」にとどめを刺す 仲村覚
(ジャーナリスト、沖縄対策本部)

 ★SPEED今井の立候補とは「BODY&SOUL」である 常見陽
平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師)
産経ニュース【iRONNA発】2016.4.14


◆尖閣騒擾はアメリカの責任

渡部 亮次郎



ま尖閣諸島返還問題に関して1971年当時の繊維交渉が関わっていたとされる。尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還されたが、尖閣諸島の日本への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的な意見が多かったとされる。

その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするためにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国政府の外交文書ふら明らかになっている。(ウイキいペデイア)

このことについて10日発売の月刊誌「文芸春秋」7月号は<スクープ ホワイトハウス極秘テープ発掘>「尖閣領有 アメリカは日本を裏切った」とする早稲田大学大学院客員教授 春名幹男さん執筆の記事を掲載した。たしか元共同通信ワシントン支局長だった方である。

春名氏は冒頭、次のように指摘している。

「尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立、緊張は長期化し,一蝕即発の危機も想定される事態が続いている。・・・中国が公船を派遣して挑発し続けているのはなぜか。

その一因はアメリカ政府の態度にある。尖閣諸島が日本の施政権下にあることを認める一方で、同時に領有権争いが存在することも認め「当事者間で解決すべき問題」との立場をとっているからだ。当に中国は、米国が領有権争いの存在を認定しているからこそ、挑発を続け,尖閣諸島を奪い取ろうとしちるのだ」。

春名教授は過去5年以上に亘って米国立公文書館などで、機密解除された米外交文書、「キッシンジャー電話会話記録」など大量の文書を読み解いた結果,これまで知らされていなかった真相を突き止めた。アメリカの”あいまい戦略“の根本は、沖縄返還の裏で展開された米国と台湾との交渉にあったのである、としている。

当時、「米中接近」で権謀術数をめぐらしていたニクソン=キッシンジャー外交は日本との沖縄返還協定の調印直前、台湾側の要求を容れ手「沖縄諸島の施政権を日本に返還しても中華民国(台湾)の領有権の主張を侵すことはない」との政策をまとめていたのである。しかし、日本側にはきちんと説明されないまま、現在に至っているのだそうだ。

当時、アメリカは沖縄返還問題と並んで「繊維交渉」をかかえていた。われわれは日米間だけの問題だったと思ってしまうが、アメリカは実は台湾とのあいだでも懸案になっていたのである。この問題はニクソン再選への高いハードルになっていた。

こうした中で台湾はアメリカが沖縄を日本に返還しても尖閣列島を返還から除外するなら「繊維交渉を受諾する、との挙に出た。沖縄返還協定調印の直前だった。

これにはホワイトハウス内部でももめたが、結局、尖閣の帰属は日本、台湾の交渉に任せるという形で沖縄返還問題は進んでいったが、台湾と日本の話し合いは進行しないままで終わった。アメリカは世界を驚愕させた「ニクソン訪中」を発表した1971年7月15日の6日後、尖閣諸島の主権問題で日本に対して台湾と話し合うよう「説得」工作を突然、中止した。

だから春名教授は言う。「そもそもアメリカは尖閣諸島の主権返還において「当事国」であったはずだ。それが、日本側に十分な協議も説明もなく、台湾との妥協を強引に進め、最後には台湾との交渉を日本に押し付けたことになる。その“無責任”な対応がいま深刻なつけとして、東アジアに暗い影をおとしているのだ。

このころ政治記者としてNHKにいた私は思い出す。「繊維交渉が解決しなければ佐藤栄作首相の悲願たる沖縄返還は絶対実現しない」。佐藤はニクソンに会うたび「善処」しますと約束しながら頼みの通産大臣大平正芳も宮沢喜一も解決、

しまいにヤケをこしたように嫌がる田中角栄に通産大臣を振ったところ、角栄はあっとに片付けた。大平や宮沢はことを外交問題と考えて,かえって問題をこじらせたが、田中は国内問題と理解。補助金2000億円でぴしゃり。

直後。佐藤は福田赳夫外務大臣と田中通産大臣を従えてニクソンにあい、自分の後継者として福田を紹介するつもりだったがニクソンは会ったら角栄ばかりを歓迎。そのまま田中政権の誕生につながっ。佐藤は「糸(繊維)で縄(沖縄)を買ったと揶揄されながらノーベル平和賞を受賞。角福はともに晩年は不遇だった。
2013・6・13


2016年04月17日

◆のど自慢に出場したのだ

渡部 亮次郎


1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定した。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関だった。今でも12倍を超える人気長寿番組とか。1946(昭和21)年のこの日、NHKラジオで東京)「のど自慢素人音楽会」が開始され、それを記念してNHKが制定しました。

第1回の応募者は900人で予選通過者は30人、実に競争率30倍の超難関でした。

今でも12倍を超える人気長寿番組とか。

私も高校生のころ、秋田市での大会に出場、合格した。受験ムードに反発したもの。歌ったのは「チャペルの鐘」
   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。でもあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、教会の所有ではない礼拝堂を指している。」

とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場がチャペルだ。

でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな〜。(オジサンには縁が無いが・・・)

白いチャペルか・・・

フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。

中でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあった。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌とはあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を聞くもの一興か?

大学を出てNHKで記者になった。

政治部所属に成ってある夜、新宿のスナックで唄っていたら、見知らぬ男に声をかけられてびっくりした。「うちへ入りませんか」という。名刺には「ダニー飯田とパラダイスキング」とあった。「政治記者から歌手へ転身」というのがおもしろいというのだ。

記者の仕事が面白くてたまらない時期だったこともあって断った。

あれから50年。まったく歌う機会が無いままにすごしたから今では歌は聴くものと心得ている。
2013・10・29」


2016年04月15日

◆矛盾体制が招く「構造汚職」

渡部 亮次郎


経済は完全に「資本主義」なのに政治は自由の無い「共産主義」のままだから起きる「構造汚職」である。それを判ってか分かたないでか中国は総書記がいくら「汚職殲滅」を叫んでも汚職はなくならず国がいずれ滅ぶ。

<習総書記「腐れば虫が湧く」=腐敗で国滅ぶと危機感―中国

【北京時事】2012・11・19日付の中国共産党機関紙・人民日報によると、習近平総書記は17日、15日の就任後初めて政治局集団学習会に臨み、講話を行った。深刻化する幹部の腐敗に触れて「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにした。

習総書記は就任後、幹部の腐敗撲滅を強調し、最重要課題の一つに挙げている。17日の講話では続けて「近年来、ある国では長期的に累積した矛盾で民衆の怒りが世間に満ちあふれ、社会が混乱し政権は崩壊した」と指摘。

長期独裁政権が倒れたチュニジアやエジプト、リビアなどを念頭に「大量の事実がわれわれに教えてくれている」と語り、国を滅ぼす腐敗に対して緊張感を高めるよう求めた。>時事通信2012・ 11月19日(月)16時19分配信

なぜ汚職が起きるか。経済を統制している「政治」が「経済」に自由を与えないからである。資本主義は際限の無い「自由」を欲しているのに「政治」はそれを絶対に与えない。

与えれば資本主義経済にとって共産党が邪魔以外の何者でもないことを暴露することになり共産党が潰れることがはっきりしているからである。

それでも資本主義経済は前進しなければならないから「政治」の「懐柔」に取り掛かる。これが経済界からの「贈賄」であり受け取った共産党幹部の「汚職」なのである。つまり汚職は経済と政治の体制が矛盾しているから起きる「構造的産物」なのである。

資本主義(改革・解放)を独裁の「共産主義」が支配する限り「矛盾」は決して無くならないから、産物としての腐敗・汚職も絶対になくならない。むしろ経済の発展に伴って増大するはずである。

習近平は「物が腐れば、後に虫が湧く」と述べ、腐敗問題がより深刻化すると「最終的には必ず党と国が滅ぶ」と危機感をあらわにしたそうだが、共産党が居座るかぎり中国の腐敗は続き、世の物笑いは続くだろう。 再掲